ばらの棘

ハイボール日和

 ごちょん。間抜けな音を立てて鍵が開いた。案外重い玄関の扉は片手では開かず、ノブを両手で掴み、体重をかけて引っ張る。扉が周りの空気を吸い込むのと入れ替えにむわっと吐き出した熱気が顔にかかって、暑い。朝から一度も入れ替えていない空気からは、部屋中の物をぎゅっと濃く煮詰めた生活のにおいがして、あ、うちに帰ってきた、とほっとする。紙のにおいと、水回りのちょっとかび臭いにおい、昨日食べたカップラーメンのにおいも混ざっているような。お世辞にも「いい匂い」とは言えないけれど、少し前まで知らない部屋のそれだったものが、自分のものになっていくのは心地よく、やっと自分の部屋になったように思った。
 
 可愛げのない真黒なゴム製のドアストッパーで扉を止めると、スニーカーを蹴とばすように脱いで、こもった空気を両手で掻き分けながら、泳ぐような動きでベランダの窓へと向かう。鍵を外して開け放つと、玄関と窓、両端の開いた部屋の空気が動き出し、すうっと通った風が薄いレースのカーテンを揺らした。もう7時を回ろうとしているのにまだ明るく、辺りは夕日に照らされて、部屋はオレンジ色に染まっている。じっとりした暑さが体にまとわりつき、肌にはうっすら汗が滲んだ。オレンジに染まった部屋に、窓辺に立つ自分の影が大きく伸びる。
「りんこ先生、影だったら大きく見えるね!」
150㎝に満たない小さな私を見下ろすようにしてじゃれつくように話しかける、懐かしい声が聞こえてくるような気がした。手を振ると一人分の影が揺れる。油断した。考えないように過ごしていたのに、それでもふとした瞬間に隙をついて浮かんでくる中学校での記憶。あの子たちは今どうしているだろうか。生徒たちが私のすべてだった、あの3年間。それでいい、私を信頼して見つめる生徒の目を思えば何だって出来る。それでこそ先生だ。そう、思っていた。見つめてくれる人のいなくなった今、私は一体なんのために生きていくのだろうか。

 窓の前で座り込み、しばらく動かない自分の影をただ見つめていた。ふと、昨日買い物に出たことを思い出した。冷蔵庫の中には一本だけ、ハイボールが冷やしてある。週末の楽しみにしようと、買っておいたもの。週半ばにもなっていない今開けるのはさすがに早すぎる…と理性が制したが、青草の香りのする風が顔を撫でて抜けていくのを感じて、考えるのを止めた。よし、こういう日を、ハイボール日和と呼ぶことにしよう。こんな絶好のハイボール日和は後にも先にも現れないかもしれない。言い含めるように呟いて、たまらず冷蔵庫へと駆け寄った。昨日から野菜庫の奥底で大事に隠されていた350ml缶を取り出す。金色の缶を頬に押し当てながら、窓際のよく風の当たる場所を確保し、体育座りをする。プルタブをゆっくり引き上げて、一口、喉へと流しこんだ。炭酸が弾ける。アルコールはとろりと濃く、普段だったら半分も飲めないのに冷たいハイボールが喉を通る気持ちよさに負けて、弱いのにどんどん飲んだ。もういいや、全部飲んでしまえ、と思った。空きっ腹に、強いお酒を入れたことであっという間に酔いが回り、顔や体が熱くなる。夏でもひんやりと冷たいフローリングに寝転がり、出来る限り体を床に張り付けられる姿勢を探す。最終的に太ももの内側を床に当てるようにうつ伏せになる奇妙な姿勢に落ち着いて、酒と夏の暑さとで火照った体を冷やした。なんて幸せなんだろう。夕日を見ながら酒を飲んで、服も着替えずヘンテコな格好で床に転がっているだなんて。毎日の生活を、自分のためだけに送れるだなんて。これ以上ない幸せだ。幸せ。そう、幸せなはずなのに。
ああ、だめだ、私、今の自分がひどく嫌いだ。視界が歪んで、缶がぐにゃりと崩れるように見えた。寝ころぶ私の頬を滴が伝って、フローリングの床が濡れる。殺風景な部屋に1枚だけ飾られたかつての教え子との写真が、本棚の上から、床に伏して泣く私を静かに見下ろしていた。

ばらの棘

ばらの棘

中学校の先生を辞めた若い教師が主人公。自分の生活を取り戻したことに幸せを感じる一方で、喪失感に苛まれる。 少しずつ書き足していきます。

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-07-04

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