*星空文庫

永遠の陽光

nanamame 作

永遠の陽光
  1. 1 秘密の井戸
  2. 2 調査の行方
  3. 2.5
  4. 3 王国の伝承
  5. 4 空色の存在
  6. 4.5
  7. 5 未知の来訪
  8. 5.5
  9. 6 変革の予兆
  10. 6.5
  11. 7 過去の代償
  12. 8 曳航の未来
  13. 8.5
  14. 9 再会の約束

FC2小説で連載中のものです。こちらで続き、最後までUPします。

只今、モンエクにはまっております。GOT7と仲が良いので、名前は存在は知ってはいたけれど。"All in"と"Beautiful"は名曲。お話のタイトルは、彼らの新曲、"SHINE FOREVER"から取りました。意外とマッチしたので。

1 秘密の井戸

男が王宮の牢屋番になってから、まだ日は浅かった。
元々は王宮の庭師をしていたが、毎日のように剪定が悪いとか、仕事が遅いとか、先輩にいじめのようなことを受けて、ある日ついに爆発した。剪定バサミを持っていたことは、相手にとっても自分にとっても運が悪いことだったかもしれない。相手は腕に大怪我を負い、庭師として勤めることができなくなった。自分は、そのことで、王宮の牢屋に10年も入ることになった。せっかく王宮での仕事を手に入れ、両親も安心させることができたのに、その10年の間に、両親は死んでしまった。30代で入り、40代になって牢屋から出されても、50に近い年齢で、どこにも勤められない。牢屋番として雇ってもらえることになったのは、ただ行き場のない老人を哀れに思ってもらえたからだろう。
掃除をしたり、伸びすぎた枝や蔦の剪定をしたり、あとは囚人に、1日に2度の食事を配る。王宮の使用人用の厨房で作られた粗末な食事は、半地下の牢屋に届くまでに冷めてしまう。自分もその冷めた粗末な食事を10年も食べたのだと思えば、なるべく温かい内に早く届けたいのだが、その前にすることがあった。
王宮から少し離れた牢屋。入口からの廊下の先に、半地下へ降りる階段がある。その手前に、重厚な分厚い扉がある。まずはそこに食事を持っていく。そこは牢ではない。少し長い廊下の先には、広い深い井戸がある。井戸と呼んでいるが、本当に井戸か怪しい。食事はその井戸の下に届けるのだ。本来は水を汲むための大きめの丸い桶に、丁寧に食事の入った蓋をされた膳を置く。それをゆっくりと下ろす。
誰かが井戸の下にいる。深さに怖じ気付きつつ覗き込んでも、しっかり見る勇気もない。明かりもない暗さの底に、誰がいるのか、何があるのか、よく分からない。
だけど、誰かがいる。その証拠に、上がってきた桶には、前回届けた食事の空になった膳が載っている。たまに、茶葉や石鹸や、必要なものが書かれた紙が入っているが、それはとても稀なことだ。それを回収して、その後に、囚人に食事を配るのだ。それは、冷めるはずだ。
共に仕事をする同僚も、なぜ井戸に食事を下ろすのか、その下に誰がいるのか、何の説明もしてもらえず、ただそうするのだ、とだけ教えられた。きっと同僚も理由など知らないに違いない。料理を作る人も、誰が食べるのかは知らないだろう。
男は恐ろしかった。深い地下に、誰かがいる。そこで暮らしている。そこにいるのは、果たして囚人なのか、罪人なのか。それとも、魔物の類だろうか。
10年暮らした牢屋のその下に、そんな人間がいたことを知って、今更ながら、とんでもないところで暮らしていたのだと感じた。そしてこれからも、それは続く。どれほど不思議でも、恐ろしくても、牢屋番の仕事を辞して、乞食に身をやつすよりは、数万倍も良い。
秘密には口を閉じて、不思議には疑問を挟まず、何も詮索することもなく、ただ黙々と命じられたことをする。
男が出来るのは、ただそれだけだった。

 ***

「冷えるな」

キヒョンがそう言うと、側近が、黙ってすぐさま羽織るものを持ってきた。
窓辺で午後のお茶を飲んでいたが、場所が悪かったかもしれない。季節は春に向かう途中だが、北の方に位置する我が国では、暖かくなり始めるのも遅い。最新技術である鉄筋コンクリート造の西洋式の新しい王子のための宮殿は、伝統的な木造の建物よりも寒さはましかもしれないが、キヒョンは靴を脱いで、温かい床に寝転べる、伝統建築の方が好きだった。だけど自分は西洋式宮殿に住まないといけないらしい。新時代の王族として、西洋諸国に未開国と見られないよう、食事も服装も振る舞いも、西洋式の生活様式にしなければならないという。父母は伝統服を纏い、自国の文化をこそ、似たような文化圏の隣国よりもさらに優れた、世界一洗練された文化だと思っているくせに。

「殿下、宰相閣下がお見えです」

側近のヨンミンがキヒョンに告げた。「わかった」と短く返事をすると、若い、いかにも貴族然とした美しいと形容するに値する男が部屋に入ってきた。もっともキヒョン自身、そんなことを彼に言ったことはない。自分の顔立ちも、彼に劣ることはないと思っているからだ。

「キヒョンさま、なぜお1人で午後のお茶を飲まれているのです? 婚約者殿が心配されていますよ。わたしは、殿下に嫌われているのかしら? と、それはもう、お可哀そうに、さめざめと泣いておられるのですよ」

「本当にお前は口数が多いな。1人で飲もうと、俺の勝手だ」

宰相の位にあるミニョクは、キヒョンと同じ年である。23歳。2人は誕生日も近く、幼馴染と言ってもいい。王子であるキヒョンと、代々宰相を輩出している公爵家の長男であるミニョクは、親友として気の置けない仲であるのは違いない。遠慮のない物言いになるのは仕方がないと、キヒョンの方が諦めている。
前宰相のミニョクの父はまだ健在であるが、早々に隠居してしまった。ミニョク同様、陽気な男で、ミニョク曰く、今は仕事を息子に押し付けて遊びまくっているらしい。補佐する人間が多いので、まだ若いミニョクも、宰相の地位を務めることができている。彼も勉強はできるし、頭の回転も早い。若いということで、早すぎる代替わりに異論があったのは事実だが、今はその声も表立っては聞こえない。
ミニョクが言う通り、婚約者の女性から、午後のお茶を一緒に、という申し出があったのだが、適当な理由を付けて断っていた。最近、そういうことが多い。
嫌ってはいないつもりだが、つまらない女だとは思っていて、苦手なのは確かだ。

「何が不満です? 侯爵家の次女ですが、血筋としては、又従姉妹にあたります。1歳年下で、それなりに見た目もよく、背も低い」

身長のことに言及した時、キヒョンはいらっとして、ミニョクを睨み付ける。だが、彼はそれを分かっても、にやっと笑っただけで、言葉を続ける。

「趣味は裁縫、レース編みが得意で、最近は西洋式の活花、フラワーアレンジメントを勉強中だそうです。万事控え目な性格で、大人しくて、婚約者として言うこと無いじゃないですか。そのように扱ってあげることくらい、造作ないでしょう?」

これだけ滔々と述べられると、自分の方が悪いように感じるが、やはりキヒョンは、婚約者と共に楽しくおしゃべりをして、仲を深める気にはなれないのだった。遊び好きな年上の夫人たちや、口の固い身分をわきまえた侍女たちとも違って、気軽にベッドに誘うこともできない。
それに、控え目で大人しいような女の方が、その面の皮の裏で、何を考えているのか読めない。貴族の女たちを昔から間近で見ていて、裏の顔があることをよく分かっている。表では貞淑な妻の顔をして、裏では王子を誘惑する女たちをよく知っているからかもしれない。

「仲良くしようが、どうしようが、結局結婚はするんだから、別にいいだろ。そんな無駄話に来たのか?」

「いや、これはついで。本題があるんだ」

急に口調が砕ける。婚約者の味方みたいな言い方をしていたのに、それをついでと言い切った幼馴染のことを、キヒョンは呆れつつ、苦笑する。
人払いをミニョクが願うので、そのようにする。側にいるのは、双子の側近、ヨンミンとグァンミン、護衛のヒョヌ。彼らがキヒョンの側を離れることはほとんどない。あと部屋にいるのはミニョクの側近のジュホンだけだ。
キヒョンの向かいにミニョクが座ると、グァンミンが新しい紅茶を持ってきて、2人にお茶を入れた。

「こないだ、お祖父さまがいらっしゃって、王宮の秘密っていうのを教えてもらったんだよ。キヒョンは聞いたことがある? 牢屋の中の、井戸の話」

2人きりの時(正確には2人だけではないが)、ミニョクは王子のキヒョンを呼び捨てにする。昔、キヒョン自身がそれを許した。彼を、一番の親友だと認めて、気安い仲になりたかったからだ。今は気安くなりすぎて、たまに叩かれることすらある。まあ、それもミニョクの良い面であると見ている。

「牢屋の中の井戸? それくらい、あるんじゃないか? 秘密って、何だよ」

「あそこの牢屋ってすごく古いだろ? けど、けっこう広い。その建物の中に、広くて深い井戸があって、井戸って言っても水はなくて、毎日そこに食事を下ろすのだって。1日2回。食事を下ろすと、逆に下から空になった膳が上がってくる」

「えぇ~、何だ、それ? 井戸の下に誰かが住んでいるっていうのか? …まさか」

「まさか、だろ?! お祖父さまも、昔、聞いた訳じゃなくて、たまたま、変な場所に嫌に重厚な扉があるな、ってことを知って、ちょっと調べてみたんだって。でも、そういう習慣があるくらいしか分からなかった。でも、いつ頃からかは分からないけど、今も確実にその習慣は続いている。それを知っているのは、実際にその作業をしているほんの一部の人間だけ。宰相でも入れない扉、知らない扉が牢屋にあるなんて、どれだけすごい秘密だろう! なぁ、なんかわくわくしないか?!」

楽しそうにケーキを食べながら、ミニョクは笑顔で話をする。キヒョンはそういう内容を今はじめて知った。確かに、王宮のことで、王子の自分が知らない秘密だなんて、気にはなる。だが、王子という立場だからこそ、知らされないこともあることを分かっている身としては、ミニョクほどわくわくしない。
反応がそれほどよくないキヒョンに、ミニョクは少しがっかりした。

「何だよう、気にならないのか? お祖父さまも入れなかったのだから、キヒョンだって入れないかもしれないぞ」

「宰相が入れないなら、王子だって入れないよ」

立場としては王子の方が大切だが、実務的には宰相の方が重要である。
宰相が万が一、牢屋に用事があったとしても、王子が牢屋に用があることは万が一にもない。だったら、キヒョンが牢屋に行くことはないから、入れもしない。それくらい分かるだろうに。

「でも、確実に誰かがいるんだ。ちゃんと、日に2度食事をする人間が。囚人なら、なぜそんな深い所なのか。囚人でないなら、なぜそんなところにいるのか。ああ、気になるなー。何か、理由付けができないかな? 牢屋から以外に、入る場所はないのだろうか…。あ、夜にこっそり行くとか―――」

「駄目です!」

部屋に残っている側近と護衛の4人が、一斉に声を揃えて反対した。

「ミニョクはその話をいつ聞いた? 父上には聞いてみたのか?」

「2ヶ月か3ヶ月前かな? 父上って、陛下のことか? なんで、陛下にそんなこと聞くんだよ。あの方は、そういうのに興味がないだろう。僕のお父さまには聞いてみたけど、お父さまは知らなかったよ」

単純に国王ならば知っている可能性もあるかな、と思っただけだが、わざわざ聞いたのには、他の訳というか、皮肉めいたものもあった。宰相として国王の実務を補佐するミニョクには、噂があった。国王と寝室を共にするというものである。国王と若い美貌の宰相。王宮内外で実しやかに流れる噂が事実であることを、キヒョンは知っている。
息子の親友に手を出す父のことも理解できないが、もっと理解できないのはミニョクの趣味である。身分に強いられてではなく、単純に年上の男が好きらしい。女の相手はありきたりで、つまらないらしい。若い時に遊びすぎたせいで、飽きたのだろう。最近は、キヒョンの護衛のヒョヌを誘惑しているが、堅物の彼は全くなびかない。触れたり明らかな色目を使ったりすると、照れたり嫌がったりといちいち反応するので、それが面白いと言って、何度もしている。本気で嫌われても知らないぞ、とキヒョンは心の中でだけ忠告する。

「それでさ、考えてみたんだ」

「…何を?」

少し違うことを考えていたキヒョンは、反応が遅れた。

「だから、井戸の下に誰がいるのか」

考えて分かることだろうか。たった今聞いたばかりの話なので、キヒョンには考えてみても、それが誰かなど、何の可能性も候補も浮かんでこない。

「僕はさ、魔術師がいるんじゃないか、と思うんだ」

「…はあ?」

あまりの突飛さに、またしても反応が遅れる。

「キヒョンは知っているだろう? 我が国が、600年前の戦争に勝ったのは、魔術師のおかげだと。魔術師を味方に付けた国は勝つ。そういう言い伝えを、先祖が我が物にして、勝利を手に入れた。我が国の基礎はその時に築かれて、以来、侵略を受けないのは、その時の言い伝えが残っているからだ。この国には魔術師がいる。今となっては、誰も信じている人間なんていないし、伝説の類だけど、でも、そうだったら…めちゃくちゃすごいじゃないか!」

「すごいったって…。600年前の話だぞ。あの牢屋は古いと言っても、せいぜい100年くらいだろ。その頃、王宮の建物のほとんどが新しく建て替えられたんだ。いくら魔術師だって、600年も生きるか? 毎日ちゃんと2食、食べながら?」

キヒョンは呆れて笑った。我が国では仙人とも呼ばれる魔術師がどんな存在かなどは知らないが、キヒョンは、それは明らかに伝説や物語の中の存在だと考えていた。先史時代、地上に神がいたとか、世界のどこかに魔界への入口があるとか、龍に乗った人の話とか、そういうものと同じ類だと思っていた。
600年前の戦争で、我が国が勝ち、半島の統一を果たしたことは事実である。北の騎馬兵軍、南の海軍、半島の中程にあった我が国は国土も狭く、兵力も少なく、当初は劣勢であった。それが、天候の影響や、敵方の寝返り行為などもあって、11年の戦争を最終的には勝利で飾ることができた。いくつもの国が林立していた半島全体を、統一したのである。少ないと思っていた兵力は、他国よりも強靭で、天候が有利に働いたこともあり、勝利することが出来たと言われている。それと同じように言われていることは、魔術師が王家の祖先に味方したからだということだ。
仮に、600年前に魔術師がいたとして、それが事実だったとしても、牢屋の地下にいるのが、その魔術師だなんて、それは飛躍しすぎというものだ。
全くミニョクの思考は理解できない。

「魔術師なんて、伝説だよ。600年前にいたとしても、今、牢屋の地下にいるのがその魔術師だなんて、あり得ないだろ。よっぽど、大罪を犯した人間か、それか、どこかから亡命してきた要人とか…。ありそうなのは、そこら辺じゃないか?」

「でも、食事の習慣はお祖父さまの代よりも前から続いている可能性がある。これは調べたんだけど、あの牢屋が建てられたのは、今から200年前で、思ったより古かった。100年前は、地上部分の補修だけだ。公的な建物の記録はあるはずなのに、設計図とか計画書とか文書館に全然残っていないんだ。ただ、その頃の貴族の日記があって、それを読んだら、王宮の一角が何十年も封鎖されていて、それが解除されたと思って見に行ったら牢屋が出来ていたって。よほど重要な建物だと思ったのに、と、その時の貴族も戸惑っていた記述が残っている。長い工事だったんだよ。200年前だって、あんな粗末な牢屋を建てるのに長くかかるか? よほど地下にすごい部屋があるに違いないよ。そこにただの罪人とか要人とか、そんなの…、そんなのつまらないじゃないか!」

結局のところ、ミニョクという男は面白いかどうか、そこが重要なのである。
ただの罪人でも要人でも、それじゃつまらないと言っても、だからと言って魔術師がいてくれたら、とそんな面白いことがそうそうあるはずがない。

「それに、キヒョンは信じていないかもしれないけれど、魔術師が存在することは事実だよ。新大陸での出来事は知っている? 侵略者が原住民の住処を焼き払ったんだ。雨が降ったのに、その炎は消えなくて、原住民が信仰対象にしていた森もほとんど焼けてしまったんだって。その炎は魔術師の仕業だと言われている。西洋でも、魔術師を見つけようと“地図の空白”へ捜索隊を出すそうだよ」

「その記事は見たけど、でも俺はまだ信じられないな。人には太刀打ちできない力を持つ者を戦争に利用するなんて、卑怯だよ」

先祖が、その卑怯をしたかもしれない。そう思うだけで、キヒョンは気分が悪くなる。戦争自体、嫌だし、自分が国王になれば、今の平和を守り抜きたい。そのために戦うのならばいいが、原住民を追い出すのに、その住処や森を焼くなんて、魔術師というのは、そんな酷いことも平気でしてしまうのだろうか。
航海技術や工業が発達してきた今も、海の上、大陸の上において世界地図の中の“空白地帯”はまだ多い。そこに文明的に未開の住人や魔術師が住んでいると言われている。技術的に先進を走る西洋諸国は、積極的に未開の地を開拓し、原住民を追い出したり、取り込んだり、そうして植民地を増やしている。我が国がそれをしないのは、半島の先を領土に持ち、大陸には強大国があって領土を増やしようがない。海軍はあるが、あくまでも近海を守ることに専念している。漁場を守り、侵略を許さない。そのための軍であり、兵力であって、外へ進出するためではない。海を挟んだ隣国も島国で似たようなものだ。大陸側の大国とも、先の戦争以来、争いごとはなく、世界地図の大陸の東側にある国々は、概ね平和であった。
そんな状態であるから、戦争と結びついてしまう魔術師という存在が、不穏であまり気分のよいものではないのだろう。そのような人物が、この王宮の地下にいるかもしれない、だなんて、そんなことは考えたいことではない。

「キヒョンも何か調べられない? 地下に誰がいるのか、それを知りたいとは思わないの?」

「牢屋を管理する兵長に聞けばいいじゃないか」

「わざわざ尋ねて行ったのに、勘違いだろう、あれは枯れた井戸である、だってさ」

「なら、そうなのだろう」

時計を見れば、長いお茶の時間になってしまった。とっくに教師が来ているはずだ。執務室という名前の勉強部屋で、待っているだろう。もう23歳であるが、仕事というより、勉強時間の方が長い。

「何だよう! お前もつまらないなぁ」

「いい加減、うるさいぞ」

キヒョンは立ち上がり、通りすがりにミニョクの肩をべしっと強めに叩いた。お前呼ばわりされたことに対してではなく、面白いかどうかで、秘密を調べているミニョクに呆れたからだ。
王子に対してお前呼ばわりに反応したのは、むしろ側近たちである。ヨンミン、グァンミンは双子らしく同時に眉を顰めて、ジュホンは驚いておろおろしている。宰相の態度は昔から把握しているが、注意したい気分になる。ヒョヌはキヒョンが立ち上がるのと同時に動き出し、いつもの通り、隙なく身辺を守るために立ち振る舞う。
キヒョンがあまり話に乗らなかったのが、ミニョクには不満だったらしい。一緒に部屋を出ていく途中も、ぶつぶつ文句を言っている。彼のこういう子供っぽいところを見ることが出来るのも、今やキヒョンくらいしかいない。
部屋を出ると、2人はそれぞれの役割を果たすために、別々の方へ歩いていった。

 ***

石造りの部屋は、何の音もない。だからこそ、食事が下りてくる合図の音と、からからと井戸の桶が動く音がよく聞こえる。大半の時間を過ごすこの部屋の中で、時間の感覚が分かるものはあまりない。食事や必要なものが運ばれてくる、というだけでなく、それは、チャンギュンにとって重要な感覚だった。
部屋から通路を通って、食事が下りてくる場所に立つ。暗いが、明かりは持たない。上から見られてはいけないからだ。
ここは井戸で、もう少し桶を下ろせばちゃんと水を汲むことが出来る。洗い物や洗濯はこの井戸の水を使っている。井戸には通路と直線上に伸びる穴もあり、そこは水路になっている。突き当りがこの井戸なのだ。どこからどう続いているのかは、もう覚えていない。その長い水路を通って、この深い地下へ来たのは、ずっと昔の子供の時だった。
朝の食事を受け取り、昨夜の膳を桶に入れて返す。
毎日、同じ繰り返し。食事の量や質のことはよく分からないが、ほんのり温かいし、まずいことはないし、あまり動くこともないので充分である。何より、毎日、ちゃんと届けてもらっている。
その食事を持って、明かりがある部屋の方へ戻る。
ここは広い部屋だ。しきりもない、がらんとした長方形の空間。天井も高く、何ヶ所か丸く煙突のような穴があるのは空気孔である。空間の奥は、薄布のカーテンで仕切られ、その先も部屋はまだ続いている。食卓、椅子、ソファがそれぞれぽつんぽつんとある。壁には棚があり、本が並んでいる。それ以外には特に何があるという訳でもないから、この部屋に入るたびに、広いと感じている気がする。もう10年以上もここで暮らしているというのに。光源の数ヶ所で、オイルが少なくなっているのか、明かりが弱い。食事が終われば、オイルを確認しよう。
食卓に食事を置いて、今日も食べられることに感謝する。
食べ終わる頃、薄布がひらりとわずかに動いた。風が吹くことはない。そのカーテンの奥にいる人物が動いたのだろう。
チャンギュンは食事をそのままに、カーテンの奥へ向かう。
一番に見えるのは大きな天蓋付きの寝台。まるで国王が寝るようなベッドだと、子供の時は思った。
思った通り寝台の横に、1人立っていた。目元まで伸びた深い青い髪が、瞬きで揺れる。襟足も長い。そろそろ切ってあげないといけないかとも思うが、きれいな髪を切るのはもったいない。

「お目覚めですね。お食事をなさいますか」

返事はない代わりに、赤い唇をわずかに開けて、また閉じる。それだけで、必要としているものがチャンギュンには分かる。
その人の白い冷たい手を握る。手を引いて、寝台の奥の部屋に導く。その人はチャンギュンよりも背が高く、とても細い。滑らかな白い柔らかい肌。大きな青い瞳。赤い唇。丸い子供のような鼻。桃色の爪。喋らない、あまり動かない、ほとんどすべての時間を寝て過ごす、この青い美しい人のために、チャンギュンはここに暮らしている。今日起き上がったのは、多分7日ぶりくらいである。だがそれでも、早いな、と感じた。1ヶ月程、寝続けることも少なくない。
寝台を過ぎて扉で仕切られた一番奥の部屋は、清らかな水が湧く泉であり、この深い地下で唯一、陽の光が届く場所である。高いずっと上の方に、ガラスの嵌った窓がある。決して開かない窓ではあるが、光が届くだけで充分だ。
今日は曇っているのか、光は弱い。
その部屋には花がある。青い花が、水に浮かんで咲いている。チャンギュンは水辺から手の届く場所にある花を、両手で掬うようにして、水とともに一輪を摘む。
水が腕を伝うのを感じながら、花をその人の口元へ運ぶ。ちゃんと漆器の椀もあるが、チャンギュンはこの人の唇や手、息遣いが感じられる手渡しが好きだ。どちらでも、この人は嫌な顔をしない。
花を食べ、水を飲む。
その人が起きて、することは、ただそれだけだ。
満足したのか、ほんの少しだけ微笑んだ。その姿が、何にも替え難く愛おしいと感じて、チャンギュンも微笑んだ。光を見上げる。青い髪、青い瞳が、光に透けるように、繊細に光る。
先代はこの人を「ハヌルさま」と呼んでいた。空など、ここには縁がないというのに。ただ、この青い美しい人が、空にも等しく遠大な、自分と同じ人間ではないことは分かっている。チャンギュンは何とも呼ばない。ただ、その人、その方、というように考える。話し相手などいないし、その人とも話をする訳ではないので、名前など呼ばなくても、支障はない。
ただ、ちゃんと名前はある。その人自身がずっと昔に名乗ったのか、その名前で呼ばれたのを誰かが聞いたのか、もう分からない。だけど、ずっと伝わっている、この美しい人の名前を、チャンギュンはいつか呼んでみたいな、と思っている。恐れ多くて、まだ一度も口にしたことがない。
もしも、この方と会話が成立するのなら、それは夢のように、幸せな時間になるだろう。自分はきっと、この人に恋をしているようなものなのだ。
いつかそんな時が来るのだろうか。だけど、この人は、ずっと、ここで眠り、時折起きて、花を食べ、水を飲み、また眠る。それを支える人間1人だけを側に置いて、何年、この人はここにいるのだろう。チャンギュンがここへ連れられて来た時、先代は歩くことも辛そうな老女だった。何十年と数えることもできなくなるくらいの時間を、神に仕える修道女のように、ただ「ハヌルさま」の側にいた。チャンギュンもきっとそうした人生を送るのだろう。この地下で、誰に知られることもなく、生きて、死んでいく。だが地上で、孤児として貧しい暮らしを送るはずだったのと比べれば、この方に仕えることができるのは、それはとても幸せなことだ。
青く美しい人は、ふいに顔を下げて、無表情になってしまった。そのまま、ゆっくりと動いて、寝台に戻る。今度は促さなくとも、自分の足で動いている。寝台に腰掛ける。ここが居場所だと分かってはいるようだ。

「また、お眠りになりますか? その伸びた御髪、整えましょうか?」

問いかけても、返事はないし、明確な意思表示もない。それは分かっているが、つい問いかけるような話し方になる。
その人はやはり何も答えることもなく、ただ眼を閉じた。眠りたいのだろう。細い身体を支えて、大きな寝台に仰向けに横たえる。すぐに横向けになって、チャンギュンに背を向けてしまった。寝息がする。静かな呼吸音が、その人が生きていることを示している。

「おやすみなさいませ」

チャンギュンの寝台はこの部屋の隅にある。小さい、1人用のもので、今その人が寝ている寝台に比べれば、3分の1もあるかどうかだろうが、文句を覚えたこともないし、同じ寝台に寝ようなどと思ったこともない。
側にいられるだけでいい。その人が起きた時、自分だけを頼りにするだけでいい。
いつか、話ができたら、というのは、叶わない夢だろう。先代も、先々代も、この人の声を聞いたことが無いという。だから、自分の世代にその奇跡のようなことが起きることなどないのだろう。
夢を見るのは勝手だ。ただ1人しかいないのだから。

(もしも夢をご覧になるのなら、良い夢を。ヒョンウォンさま)

心の中で、話しかける。口には出せない名前を、心の中で呟く。
寝ている背中をしばし立ったまま眺める。あと少しだけ食事が残っていることを思い出して、チャンギュンは寝室を後にした。食事を残さず食べて、洗い物用の水で洗う。生活用水は井戸の水で、飲食用の水は、寝室の奥の湧き水である。単にその水の方がきれいだからだが、あの人と同じ水を飲むということが重要なのだ。少し、地上の人間よりも浄化される気がする。
照明用のオイルの残量を確認し、少ない所は足す。カーテンで仕切られた寝室の照明は、常に1ヶ所を灯すようにしている。その人は眠っているが、いつ目覚めても、真っ暗ではないように。
食事を終え、オイルの確認や、掃除、洗濯も終える。そして、ソファに座り本を読む。チャンギュンにしても、毎日することと言えば、ただそれだけだった。

2 調査の行方

分厚い資料を閉じて、ジュホンは大きなため息をついた。夜遅い時間、文書館には誰もいないから、ため息をついても、悪態をついても、咎める人はいない。
主人であるミニョクは、それなりにいい人だが、自分をいじめているんじゃないかと思う時がある。面白いし優しいし、身分も収入も高くて、ケチなことはないから、料理や贈り物を何でもくれる所はいいのだが。
ジュホンの本来の仕事は、宰相という仕事の補佐であるのだが、最近は、ミニョクの遊び相手、話し相手、世話係という性格の方が強くなっている。それでも時折、調べ物や、こうした資料集め、資料探しなど、恐らくは本人が面倒と思う仕事を言いつけられる。
今回、牢屋が出来た頃の資料を見つけろと命じられた。
王宮内の文書館には、この国が始まった1500年前からの資料がまとまって保管されている。1500年前の資料の数はさすがに少ない。600年前の戦争の時に、それ以前の資料の大半が焼けたり紛失したりしてしまったのだ。その戦争の後の歴史的な資料の数は、格段に多くなる。200年前などまだ新しい方で、従ってその時代の、王宮内の建築物の資料数は計り知れない程あるのだ。その中から、牢屋に関するものだけを集めろと言われても、それだけを見つけ出すのは難しい。探しても探しても、100年前の補修に関する資料ならばあるのだが、建築当初のものは見つけられない。それを報告したら、「もっと探せ」とあっさりと言われた。こちらの苦労も聞こうとしないで。
真面目に仕事をするジュホンは、手に持っていた資料を元に戻して、また次の資料を手に取る。王宮の建築資料なので、その中に牢屋の資料などあるとは思えないが、牢屋に関係しそうな資料はほぼ見たので、方向を変えてみたのだ。あと見るとしたら、何だろうな、と考えながら、資料をめくる。
その時、ジュホンはあることに気づく。
主人のミニョクが知りたいのは、牢屋の地下の造りではなく、本質はその地下に誰がいるのか、ということである。ミニョクは戯れに600年前の魔術師と言っていたが、よもやそんなことはあるまい。だが、誰かがいるのは確かなのである。見るべきなのは、罪人に関する資料か、もしくは600年前の戦争に関するものかもしれない。今まで王宮の建築物に関するものばかりみていたが、そこら辺も大幅に方向性を変えてみようかと考えた。なんでもっと早く気付かなかったのだろう。
だがもう時間が遅い。ジュホンはあくびして、手に取ったばかりの資料をもとに戻して、今日の仕事を終えることにした。
また明日にしよう。うん、それでいい。僕は今日、1日中文書館の中で、真面目にちゃんと仕事をした。

部屋に戻る途中、ヒョヌを見かけて、ジュホンは嬉しくて駆け寄った。

「ヒョヌヒョン~」

「おう、ジュホン。まだ仕事していたのか?」

キヒョン王子の護衛であるヒョヌは、王国一の戦士の称号を持っている。この国で一番強い剣士であり、闘士である。優しくて、甘えても受け止めてくれるので、ジュホンはヒョヌが大好きだ。彼が仕事中は、王子が第一なので、自分が甘えるばかりはできないが、廊下を1人で歩いているということは、彼の仕事も終わったということだ。
ヒョヌの部屋は王子の部屋の近くにある。王子の親友で、宰相という重要な地位にあるミニョクの部屋も近くにあって、従って、ミニョクの側近であるジュホンの部屋もその近くなのである。方向は同じだ。

「ねぇ、ヒョヌヒョン、お腹空かない? 僕、夜食もらおうかと思ってるんだけど、僕の部屋で一緒に食べない?」

ジュホンはヒョヌの腕に抱きつく勢いで、一緒に過ごせる方法を提案した。お腹が空いているのは事実で、何か食べたい。
夜に食べるのがばれたら、「だから太るのだ」とミニョクに何か言われそうだが、もう仕事は終わったのだ。

「ああ、いいな。俺も何か食べようと思っていたんだ」

「本当? じゃあ、厨房行く? 何があるかな。何食べる? 王子さまの夕飯は何だったの?」

「殿下はステーキが好きだからな。今日も召し上がっていた。だが、そろそろ鍛錬をしていただかないと」

「あはは」

雑談をしながら、厨房へ降りていき、残っていた使用人に何か食べるものをねだる。夜遅くまで仕事をする使用人や側近たちは多いので、厨房にはいつでも食べるものがある。わざわざ自分で行かなくても、近くにいる女中や使用人に命じればいいのだが、ジュホンもヒョヌも自分で行動することを厭わない。王子の護衛で、王国一の闘士ヒョヌと、若い宰相の側近ジュホンのことは、王宮内の誰もが知っている。好意で牛肉を焼いてもらい、おかずを皿に山ほど盛って、ヒョヌの部屋に行く。彼の部屋の方が王子の部屋に近いので、何かあればすぐに駆けつけることができる。

ヒョヌは寡黙な方だが、話をしたり、遊んだりするのが嫌いな訳ではない。ジュホンのことも弟のように思ってくれているので、ジュホンも兄のような、時には父のような、ヒョヌに心置きなく甘えることができるのだ。
話は自然と、最近、ミニョクとキヒョンが気にしている牢屋の地下の住人が誰かということになる。どこまで調べがついたのか、話を側で聞いていて、ヒョヌもそれとなく気になっているらしい。

「牢屋の建設当初の資料は、不思議なほどないんだよ。ここまで残ってないと故意に破棄された可能性もあるけど、牢屋なんか、重要な建物ではないのに、どうしてそんなことになるのかよくわからない。でもとにかく、ミニョクさまが知りたいのは、地下に誰がいるか、ということなんだから、明日からは、あそこに収監されている囚人の資料を見てみようと思うんだ」

王宮の一角にある牢屋には、王宮内で起きた事件や、王族貴族が関する事件の関係者が収監されている。王宮内で起きたことは、審議も裁判も王宮内で処理され、王宮内に留め置かれる。市井で起きた事件とは別に、表沙汰になることはほとんどなく、秘密裏に扱われる仕組になっている。
王宮内の牢屋に収監されている囚人の資料は、王宮内にしかない。閲覧には審議官などの許可が必要な文書だが、ジュホンは今、宰相の指示で動いている。何を見ようと、妨げられることはないはずだ。

「建設時の資料がない、っていうのは気になるな。やはり、秘密が隠されているんだろうか」

「そうかも。囚人用とは別の食事が作られて、それが牢屋に運ばれているのは事実なんだよ。枯れた井戸があってそこに食事が日に2度降ろされている」

「確かなのか?」

「うん。食事を運ぶ係が誰かを探って、その牢屋番の人に聞いてみたんだ」

お金を渡せば、口を割るのに時間はかからなかった。牢屋とは別の場所に食事を運ぶ習慣のことを、ジュホンは自ら確かめてみたのだ。そしてそれは事実だった。
牢屋番の話では、確かに、牢屋に行く階段の手前に重厚な扉があって、その先に井戸がある。その井戸に食事を下ろして、上がってきた空の膳を回収する。それも食事を配膳する仕事の一部なのだと教えてくれた。
その牢屋番は自分が話をしたことは、誰にも言わないでほしいと何度も念を押した。牢屋番の仕事を失えば、自分は乞食になるしかないのだと、仕事を失うことを恐れて、初めは何も言おうとしなかった。だが、ジュホンは宰相の命で動いているのである。彼が仕事を失うことはないと、それは保証できる。料理人からも、囚人用とは別の食事が一緒に作られている証言を得て、習慣も牢屋番の証言も事実であることが確認できた。
やはり地下に誰かが住んでいる。それが事実だと知った時、その男と同じように、ジュホンは恐怖を感じた。牢屋に行くだけでも、少し怖いのに、その地下に住むだなんて、きっととても暗いだろうに、信じられないほど怖いことだ。
資料を調べれば、収監されるには不思議な囚人などが見つかるかもしれない。もしかしたら、そういう人が地下に住んでいるかもしれない。そう思うと、調べることもちょっと怖くなってくる。それを調べれば、地下の住人のことが分かるだろうと思ったが、考えてみれば、人を傷付けたり、ものを盗んだりした人の資料を読まなければならないのだ。それはきっと、痛い怖い話に違いない。

ジュホンの欠点は極度な怖がりなことだ。それは彼を知る誰もが認識していた。
調べるのさえ怖くなってくるという話を聞いて、ヒョヌはまだはっきりしないことに対してすら怖がるジュホンを、子供のようでかわいいな、と感じて笑った。身体は大きい、しっかりとした大人の男なのに、いつまでも子供のようなジュホンの相手をするのは、ヒョヌの癒やしのようなものだ。キヒョン王子にもかわいいところがあって、甘えてくれる時もあるが、ジュホンは立場が気楽なこともあって、さらに子供のようだ。

「本当に地下に人が住んでいるなんて…。大罪人なのだろうか。そういう人を、ずっと置いておくのも、不思議だな」

ヒョヌはもぐもぐと食事しながら、素直な感想を口にした。しかもミニョクはそれを祖父から聞いたというのだから、そうとう古い時期からの秘密なのだろう。
王宮は600年前の戦争の後、現在の場所に建てられた。その後幾度か建て替えられているが、基本的な配置はそれほど大きく変わっていないはずだ。

「本当に、魔術師がいたら…すごいことだな。だけど、1回会ってみたいものだ。魔術師という存在にも」

ヒョヌは純粋な好奇心から、会ってみたいと思った。魔の力を使うという魔術師。人よりも長寿で、人にはない能力を持っているらしい。ジュホンは、あまり会いたいとは思わない。幽霊よりは怖くないと思うが、人とは違うのだということで、得体が知れないことは変わらない。

「怖くないかな? きっと、恐ろしい存在だよ。ああ、犯罪の資料なんて、僕、見たくないなぁ。これも怖い話だよ」

「ははは。読むだけだ、大丈夫だよ」

頭をぽんぽんと撫でてあげると、ジュホンはえくぼを見せて笑った。

 ***

翌日、ジュホンは予定通り、王宮内の牢屋に収監されている囚人の記録を見るために、それらの資料がある文書館の中の、とある部屋にいた。その部屋に入るには、通常、裁判官や審議官など何人かの許可が必要になるが、ジュホンは王子と宰相の許可を持っていたので、すんなりと入ることができた。
とりあえず最近の記録を読んでみる。やはり傷害や窃盗などが多い。使用人同士の争いが多いが、中には貴族が切りつけられた事例などがあった。王宮の中は安全なものだと感じていたが、資料を読んでいくと案外、王宮内で起きた事件が多いことを知る。キヒョンにもミニョクにも、護衛は常に複数付いている。それはやはり絶対必要なのだ、とジュホンは改めて思った。
ところで、近々の資料を見ていても意味がない。何年前のものを見ようか、と腕を組んで考える。
牢屋が建設されたのは200年前、改修されたのが100年前。さすがにそれだけ生きている人間はいない。ミニョクさまのお祖父さまが王宮で宰相となられたのは50年程前のことだ。ミニョクさまのお父さまが宰相になられたのが17年前。ミニョクさまが宰相になられたのが2年前。国王さまが即位されたのが18年前。キヒョンさまが立太子されたのが8年前。紙に様々な年代を書き出していく。地下に囚人がいるとしたら、それらの年代は関係ないのかもしれないが、魔術師のような重要な、特別な存在がいるとしたら、これら重席の交代の時期はひとつの転機だろう。
ジュホンは魔術師が地下にいるとは考えていない。というか、怖くて考えられない。だが、それに匹敵するような重要な存在がいる、もしくは秘密があることはあり得る。
50年前、それ以上前から、必ず届けられる食事。牢屋のような粗末でも構わない建物の長い工期と、消えた資料。
秘密とは、秘匿されるに値するものでなければならない。囚人はそうではない。公にされていないというだけで、秘密ではない。だが魔術師ならば、普通の人間ではないような、そんな存在ならば。
誰が、それを秘密と決めるのか。それは、やはり国王である。ここは、王国であり、王宮なのである。
よし、とジュホンは決めた。18年前だ。念のため切りの良い所で20年前から5年分の囚人に関する資料をまとめて棚から取り出して、机の上にぼんと置く。分厚さから考えて、これくらいなら、1日足らずで見られるだろう。
国王さまに聞けば、案外すぐに分かりそうな気がするな、と思った。だが、聞くにしても何と聞けばよいのだろう。ミニョクがキヒョンへ話を持って行ったように、牢屋の中の井戸の話、と切り出せば良いのだろうか。宰相でも知らないのなら、王族にしか伝わらない秘密なのか。それならば、キヒョンさまが聞かなければいけない。
まあ、いいや。とりあえず読もう。
ジュホンは古い記録から、ぱらぱらと資料を流し読みしていった。



正午を知らせる鐘が鳴るのを聞いて、ジュホンはうーんと両腕を上げて伸びをした。4年分くらいは読めた。案外早く済みそうだ。囚人の年齢や収監時期、刑期などしか見ないので、分厚い資料でも早く読み進めることができる。特にめぼしい発見はない。何がめぼしいものかは分かっていないが、気になるような、不審なものはなかった。
ノックの音がして、部屋に女性の司書が扉を開けた。ジュホンにミニョクから伝言があるという。

「宰相さまがお昼をご一緒に、ということです。お部屋でお待ちしている、と伝言を承っております。側近の方と一緒にお食事をされるなんて、ご身分が高い方ですのに、本当にお優しい方ですのね、宰相さまって」

「そうですね。分かりました。ありがとうございます」

見た目だけならば、若く麗しく賢い宰相閣下ではあるが、その実態は、いたずら好きで、いじめっ子で、口を大きく開けて笑う陽気な人である。
だがそんなことをわざわざ言う必要もないし、側近にでもならなければ、その実態を見る機会もないのだから、主人思いのジュホンとしては、ここは司書の夢を壊さないように、笑ってごまかすに限る。ありのままを話した所で容易に信じる人はいないだろうし、そんなことを話したと主人にばれたら、それこそ、どんないじられ方をするかわかったものではない。
一緒に食事が出来るということは、美味しいものが食べられるということでもある。ジュホンは特に成果がなかったことを報告しに、主人の部屋へ急いだ。



案の定、ミニョクは午前の成果がなかったことにがっかりして、贈り物で貰ったらしい飾り鞠をジュホンに向けてぽんぽん投げつけてきた。繊細な飾りの施された高価な鞠であろうに、宰相にとっては側近をいじめるための道具でしかないのだ。当たったところで全く痛くはないが、ジュホンは部屋の中を逃げ回った。その様子が面白くて、かわいくて、さらにいじめられるのだと言うことを本人も薄々分かっているが、これも自分の役割だと心得ている。
食卓に座り、共に食事をする。それを許される側近の数は少ない。

「18年前の囚人の資料? 陛下の即位の年代なんて関係ないのではないか? 新しい方から見た方がいいだろう」

「ですが、世代交代というものは往々にして重なるものです。先代の宰相さまが就任されたのは、陛下が御即位された翌年です。ミニョクさまが宰相位に就任されたのは確かに早かったですが、お父上さまはまだお若いのですし、本来ならば、キヒョンさまの御即位と同時期になるのが普通だったと思いますよ。
人間の寿命はだいたい、60年から80年程でしょうか。赤ん坊はあそこでは暮らせませんから、現役であの地下で暮らすなら、長くても60年か70年が限度です。200年前に何かがあの牢屋の地下に入れられたとして、人間もあそこで暮らしているとして、世代交代のことを考えると、20年前からここ10年くらいで新しい世代が入っている可能性は大いにあります。そう考えて、陛下の御即位された18年前、念のため、20年前からの資料を読んでいるのです」

ジュホンは自分の考えを滔々と述べた。口数の多いミニョクにしては珍しく、口を挟まず静かに聞いていた。

「ほお~、お前もちゃんと考えて仕事をしているんだな」

感心してくれたのか、どうなのか、ミニョクの言葉にジュホンはがっくりと肩を落とした。

「当たり前です! 僕だって、宰相さまの側近ですよ。補佐ですよ。大学も卒業しているし、もう少し認めてくださってもいいじゃないですか~」

「そう怒るな。分かっているよ。認める、認める。頼りにしているよ」

朗らかな笑顔で、ミニョクがジュホンに言った。そのような率直な褒め言葉や信頼の言葉を言ってもらうことは珍しく、ジュホンはちょっと驚いて、途端に気分が舞い上がる。先程の「ちゃんと考えて」のくだりは早くも忘れかけている。
この国で、大学を卒業するということは、即ちエリートであり、身分に関係なく将来が保証されることである。入ることも難しければ、卒業することも難しい。そこを卒業したジュホンは確かに、宰相の側近、補佐に相応しい人物なのだが、彼の性質というか純粋な性格が、そうは見せない。
嬉しそうにご飯を頬張るジュホンをミニョクは微笑ましく見ていた。おだてればすぐに気分が良くなる、単純な子供のような男だ。実際にちゃんと深く考えているし、命じた仕事は卒なく、時には期待以上にこなしてくれるから、頼りにしているのは確かだ。
それ以上に、ミニョクはジュホンがかわいくて仕方ないのだ。ミニョクは時に、宰相などという重責を放り出して遊びたい衝動にかられるのだが、そんな時、ジュホンとじゃれ合うだけで、気分がほぐれる。キヒョンと話をしていても、気持ちが和らぐが、親友と雖も彼は王子なので、あまり無礼はできない。だがジュホンは側近なので、そこら辺は心置きなくからかうことができる。本人は嫌だろうが、これも運命と思って、我慢してもらおう。

「ほら、これもお食べ」

自分の分の料理もジュホンに分けてあげる。美味しそうに食べるのを見るのは気分がいいものだ。それに午後も頑張ってもらわないといけない。自分は宰相として、仕事が詰まっているので、自分の気になることを優先できないのだ。

「そうだ、ミニョクさま。牢屋の秘密のこと、陛下に聞いてみてはいけないのですか?」

「陛下に? うん、そうだなぁ…」

ミニョクは祖父を尊敬し、宰相として、父よりも祖父を手本にして、仕事をしていた。祖父は何でも知っている。国政のこと、法律のこと、祭祀のこと、それこそ、どんな疑問を投じても、祖父は答えてくれる。陛下が即位した翌年、祖父は宰相を辞するが、それを陛下に引き止められたという話もある。祖父よりも国王を下に見ている訳では決してないのだが、祖父が知らないことを、国王が知っているとは思えない。だが、ことは、法律などの問題ではなく、王宮の中の秘密だ。

「そうだな、やはり聞いてみようか。答えて下さるかは、分からないけれど。キヒョンにも相談した方がいいかな? 国王だけが知る秘密なんてものも、あるのかもしれないのだし、それならば、王子が聞いた方がいい、ということもあるな」

うんうん、と頷きながら、ミニョクはまずはキヒョンに相談しようと思った。それから、機会を見つけて、陛下に聞いてみよう。こういうものは、閨で聞くべきかな、などと考えて、ミニョクはにやっと笑う。その笑みの意味をジュホンはどう捉えたのか、同じようににやっと笑う。完全に意味を勘違いしているジュホンがかわいくて、ミニョクは大きく笑った。



午後から読み始めたのは今から15年前の資料である。ジュホンは当時6歳。それは関係ない。ぱらぱらとページをめくる。年齢や収監時期など、数字を中心に拾い読んでいく。ページをめくっていた手がふと止まる。ジュホンの眼に入ってきたのは、収監された人間の年齢であった。それは、これまで見てきた5年分の中で一番若かった。幼いと言っても良い。
詳細を読む。
収監されたのは8歳、7歳、7歳、5歳の子供4人。全員浮浪児で、王宮内に不法に侵入した罪で捉えられ、牢屋に入れられた。年齢は確かなものではなく、それくらい、という注釈が付いている。名前は書いていない。王宮の中には、外よりも多くの残飯があるだろう、という拙い考えから塀を乗り越えたが、彼らは厨房の場所など分からず、塀を乗り越える途中に見つかり捕まった。それならばすぐに、王宮の外へ放出すれば済むだろうに、彼らは牢屋に入れられた。年長の3人は3日間、5歳の子は8日間収監されている。
ここでジュホンはまた疑問に思った。なぜ一番幼い子だけ、収監が長いのか。
外へ放出された後のことは当然分かることはない。彼らは浮浪児であり、浮浪児の記録など、王宮の内はもちろん、外にもどこにもないからだ。
ジュホンはその記述を何度か読み返す。とりあえず最初に見つけた記録の違和感であり、不審な点である。紙に詳細を書き写して、また次のページをめくりはじめた。だがその資料の中の不審点はその1点だけだった。次の5年分をまたぼんとまとめて机の上に置く。このペースなら、1日で10年分は読めそうだ。自分の優秀さを、ジュホンはじーんと感じ入った。
しばらくなにもない。不審な点も、眼を留める違和感もない。それが再びあったのは、今から11年前の資料の中であった。
79歳の老婆が牢屋の中で死亡した、という短い記述だ。彼女がなぜ収監されていたのかを示す事例番号は載っていない。牢屋の中で死亡する囚人は多い。そのほとんどは、将来を悲観したことによる自殺である。あるいは病死。老婆の場合は老衰とあった。死亡者は直ちに王宮の外へ運び出され、遺族に引き渡される。身寄りがない場合は火葬され、近くの寺に遺骨が収められる。死亡者の記述には、必ず囚人番号と事例番号(または事件番号)が併記されているのだが、その老婆にはどちらもなかった。使用人か掃除婦か、何かだろうか。牢屋の中で死亡したのならば、囚人であり、何らかの事件に関わっているはずなのに。ジュホンは今日読んだ9年分の記録の中で、この老婆の記録に該当するものがあるかどうか、思い出してみた。だが特に引っかかるものはない。9年、あるいはそれ以上長い刑期が下されるならば、余程の罪であろうか。
実はその老婆の記述を見つける少し前に、ジュホンが話を聞いた牢屋番が起こした事件の記録を見つけた。彼は庭師の同僚を剪定バサミで重傷を負わせて、裁判を経て10年の刑期を食らっていた。その男は元囚人で、牢屋番になって1年程なのであった。だから、余計に仕事を失うことを恐れていたのだろう。重傷で10年。傷害や窃盗、小さな争い事が多く、刑期は長くても3年を超えることはほとんどない。望めば再び掃除夫などで雇われるし、若い者ならば自ら王宮外へ出る。老婆は殺人でも犯したのだろうか。そう考えて、ジュホンはぞっとした。だがそれほどの罪ならば、番号がないのは変だ。
ジュホンはこの不審点も紙に記す。
20年前から10年分の資料を読み終えた時、夕方6時を示す鐘が鳴った。大抵の使用人はこの鐘がなれば、仕事が終わりだ。ジュホンと同じように、1日の疲れを大きなため息に乗せる者も多いだろう。だがジュホンの仕事に、明確な始まりと終わりの時間はない。側近とはそういうものだ。決めるのは主人の意向のみである。
今日見つけた不審点は、牢屋に収監されるには不思議な人物のそれであった。やはり自分の年代の読みは当たっていた。そのことに満足して、ジュホンは再び自分で自分を褒めてあげた。
明日は最近の10年の記録を読んでみようか。それとも20年より前のものにしようか。見るべき点は分かったし、もっと量を読めるかもしれない。
地下には誰がいるのか。仮に老婆がいたとしても、彼女はもう死んでしまった。今いるのは誰なのだろう。浮浪児? 子供を収監するなど、いくらい浮浪児とは言え普通はありえない。だが子供たちは何も関係がないかもしれない。ただ街を彷徨うと分かっている5歳の幼子を、放出するのに躊躇いがあっただけかもしれない。
ジュホンは立ち上がり、伸びをして、文書館を後にした。ミニョクに報告することができたから、足取りも軽かった。

 ***

キヒョンは午後のお茶を例によって、婚約者とではなく、ミニョクと一緒にしていた。今日のお茶は、茉莉花茶である。ガラスの大きめのカップに丸く固められた茶葉を入れ、湯を注ぐ。しばらくすると、丸いものが解けて、花が咲くように見える。茉莉花の芳香が辺りを包み、キヒョンは眼を閉じて、その香りを楽しんだ。
餅菓子などの伝統菓子とともに、お茶を飲む。今日、一緒にお茶をと申し出たのはミニョクの方である。
昨日、ジュホンが囚人の記録の中から気になるものを発見したという。
収監されるには不釣り合いな8歳から5歳の子供。しかも、他の子は3日で出されたところを、5歳の子だけ8日間と長かったこと。そして、何の罪で収監されていたのか何も記録がないにも関わらず、牢屋の中で、老衰で死んだ女。
不審と言えば不審であるが、それが牢屋の地下の秘密とどう関わるのか分からない。

「考えようならば、いくらでもあるけどな」

キヒョンは呟いて、お茶を飲んだ。
ミニョクも報告には喜んだが、考えには詰まってしまっている。だから、やはり、国王に聞くのが良いのかもしれない、ということをキヒョンに伝えた。

「もちろん、僕からも機会を見つけて聞いてみるつもりだけど、キヒョンからも聞いてみてもらえないか? だが、どちらが先が良いだろう」

「…お前が先が良いだろう。最初に話を持ってきたのはミニョクだ。お祖父さまから聞いて、とても気になっているのだけど…、と聞いてみては?」

「聞いたら、答えて下さると思う? お祖父さまも知らない話だぞ?」

「それは、何とも言えないな」

秘密を明かす時とは、どういう時だろう。暴かれた時、秘密でなくなった時、思わず明るみになった時。自分たちは、資料を調べて暴こうとしている。だがそれを咎められてしまえば、秘密が明かされる可能性は、閉ざされてしまうかもしれない。

「僕は時々、本家に戻って、先祖の日記を読んでいるんだ。最初に話しただろう? 王宮の一角が封鎖されていて、それが解除された時に見に行けば、牢屋だったので、がっかりした、と言う200年前の日記」

「ああ、あれは、お前の家の記録か」

「うん、そうだよ。人によって、書き方が全然違うし、全く日記を書いていない人もいるけれどね」

ミニョクの家は公爵位である。王国に3家のみ、王家を除いて、最高位の位を持つ。昔は違う階位名があったが、今は西洋に倣い、公侯伯子男である。歴史は王国の始まりと同じ1500年前まで遡る。そこまで遡ることができるほど古い歴史を持つのが、王家と3つの公爵家なのである。俗称、紅侯爵家と呼ばれる彼の家は、代々宰相を輩出する。他に白公爵家は代々祭司を、黒公爵家は代々大将軍を輩出する。各家で役割を分けることで、相争うことなく、王家を支えているのである。
600年前の戦争時、紅公爵家は、宝物よりも日記や記録類を第一に保管し、安全な場所に疎開させていた。半島の殆ど全土が戦乱にさらされて、それ以前の建物や記録、宝物類は軒並み失われてしまったが、紅公爵家の記録だけは奇跡的に残された。一番古い記録は1200年前のもので、国宝である。
宰相を輩出する家柄であるだけに、代々記録類をよく残す。公的なものから、私的な日記まで。ミニョクも宰相になってから日記をつけている。それは後世に残すためのもので、仕事の一部だ。宰相の日記は王宮内の文書館に保管される。私的なもの、公爵家の記録はその家に残される。
ミニョクが読み、キヒョンに聞かせた内容の日記の主は宰相ではない。当時の宰相の3男坊が書いた、私的な日記である。その日、どんな遊びをしたか、何を買ったか、何を作らせたか、どんな女の元へ通ったか…、と、まあ、ほとんど放蕩の日記である。遊び好きの放蕩息子のくせに、この男は筆まめで、ほぼ毎日書いているし、彼の書いた、貰った恋文も多く残っている。ミニョクはこの読み物が好きだった。単純に面白い。
腹を下したのは、魔術師と称する者から買った精力の薬のせいだとか、昨日の女は遠目には美しかったのに、近くで見るとあばたがひどくがっかりしたとか、下らないことが延々と書いてある。
よくもまあ、こんなこと書くなと、笑いながら読む。そんなものでも200年経てば、貴重な資料になるのだから、不思議なものだ。
それを読んでいたので、お祖父さまの話を聞いた時に思い出したのである。牢屋に関する記述があったな、と。もう一度読んでみたら、大したものではなかったが、やはり意味があるとは思う。その一角が、どのくらい封鎖されていたのか、遡って読んでみたが、その男の日記の中にはとうとう見つけられず、それよりも以前のものを読んでみた。

「今から230年前の公爵家当主の私的な日記だ。王宮の一角に新しい井戸を掘る。祭祀に使うための、清らかな水の出る井戸を、新しく掘るのだと言う」

「祭祀に使う水は、祭祀殿の側の井戸から汲むんじゃないか? 今もそうだろう」

祭祀殿は王宮のほぼ中央に位置する、国王が住まう宮殿と同じくらい大切な建物だ。600年前の建物がそのまま、今も使われている。国王はこの神殿で毎日天に祈りを捧げる。即位の時もその神殿で天に誓いを立てる。キヒョンも新年や秋夕などの節目に、国王と共に祈りを捧げる。神殿の中の神域と呼ばれる場所に入れるのは、国王と祭司のみである。

「でも、そう書いてあったんだ」

公的な日記には歪曲が加えられることがある。不都合なことは書かない、など、よくあることだ。公的な記録としての信頼性は高いものだが、それを書く立場になり、ミニョクは残すべき記録と残す必要のない記録と、残してはいけない記録とを区別する。
だが読んだものは私的な日記だ。そう言えばこんな話を聞いた、という、雑談のようなもので、それも信憑性は疑おうと思えば疑えるが、その人は当時宰相であった。無闇に疑う必要はない。

「今牢屋がある一角は30年も封鎖されていたんだ。だけど、井戸を掘るだけなら封鎖する必要はないし、井戸だと言っていたのに、開けてみたら牢屋だったなんて、変じゃないか?」

「井戸の記録を残した人は、完成した時、何と書いているんだ?」

「いや、その人は、それが完成する前に亡くなっている」

ミニョクが好んで読む日記を残した放蕩息子は、その人の孫に当たる。放蕩息子はそれらしく、祖父の記録など読まずに、長く封鎖されていた一角の解除に、単純に興味を示しただけで終わった。

「いろいろ集まってきた、のかな?」

キヒョンは新しく注がれたお茶の花が咲くのを見ながら言った。

「そうだろうね。これだけ証言や記録があれば、勘違いだとか、気のせいだとか、ごまかされることはないよね。陛下も答えて下さるだろうか?」

「それは、聞いてみないとね」

「よし。それは任せて! ああ、もうすぐ、秘密が明かされるんだ。楽しみだなー!」

本当に楽しそうなミニョクにつられて、キヒョンも笑った。どんな秘密だろうか、まだ分からない。キヒョンも楽しみではあるが、少しだけ怖いかもしれない。得体の知れないものが、王宮の下にある。王家の秘密は即ち、自分に流れる血が持つ歴史に等しい。それが明かされる時、自分はどうなるのだろう。そんなとりとめのないことを、キヒョンは思った。

2.5

夢を見ていた。ウォノはそれが夢だと分かっていた。それが、ただの夢ではなくて、過去に実際に起こったことであること。さらには、自分自身が犯した罪であることを分かっていた。そのことを分かっていて、何度も夢を見る。それは、贖罪を許さない、断罪のようなものだった。

『止めるんだ! もうやめて!』

叫んでいる。その人の存在も、言葉の内容も、ちゃんと分かっているのに、止めることはできないでいる。大切な人だ。自分にとって、分身と言える。そんな人が自分に向かって叫んでいるというのに、自分はと言えば、破壊行為をやめようとはしない。
汚れた水を巻き起こし、川という川を反乱させて、街という街を根こそぎなぎ払う。津波に押し流されていく人々の悲鳴も、泣き叫ぶ声も、聞こえない。
自分にとって大切な人の声さえ聞こえないのだから、そんな自分には関係のない羽虫のような存在の悲鳴など、意味を持たない。その羽虫のような、本来なら取るに足らないような存在たちが、自分の大切な人を傷付けたのだ。
怒りに満ちていた。その怒りは街をなぎ払うくらいでは収まらない。すべてを無に帰してしまいたい。そんな欲求にかられて、自分はただ破壊の限りを尽くしていた。
どうしてあの時、彼の声が聞こえなかったのだろう。どうしてあの時、聞こえても、自分はやめようとしなかったのだろう。あの時、その大切な人の声に従って、破壊を止めていれば、未だにこんな断罪の夢に苦しむことはなかっただろう。彼と離れ離れで、悲しむこともなかっただろう。

(やめよう。やめるんだ。気を収めるんだ。怒りを収めるんだ)

悔やむには遅すぎる。過去の自分に、何度、そうやって慰めを呟いただろう。夢の中で、無意味に嘆いただろう。すべて過去だと言うのに。自分の分身と言える大切な人は、今はどこにいるのか、はっきりと分からない。
自分と同じように寝ているのだろう。同じように、過去の破壊の夢を見ていなければいいと、いつも思う。それは自分の罪の記憶であって、彼の罪ではないのだから。



ふいに目覚めが訪れる。この眠りは自分ではコントロールできない。
目覚めた場所、寝ていた場所がどこか分からなくて、ウォノは瞬きを繰り返して、寝る前の記憶を呼び覚まそうとするが、上手く頭が働かない。さっきまで見ていた夢のことで頭が一杯でそれ以外のことを考えられない。

「やあ、起きたね」

直ぐ側で声がした。マークだった。何だかすごく久しぶりな気がする。

「今回は1週間くらいかな。早い方じゃない?」

「そっか…」

マークは優しく微笑んで、手に持っていたパンを食べた。食べている途中だったらしい。目覚める時、いつも自分がどのくらい寝ていたかを尋ねるから、今回も聞く前に教えてくれた。毎回側にいる訳ではないが、誰かは呼べば近くにいる。そんな環境で、ウォノは睡眠と覚醒を繰り返す。覚醒の時間の方が断然短いのは、あの時の夢の、夢ではない現実の過去のせいだ。言わば自業自得とも言えるのだが、それだけならば、自分はただ目覚めることもなく眠り続けるだろう。
目覚めたいのは、眠りを気にするのは、ただ彼のためだ。自分にとって大切な分身が、自分と同じように今もどこかで眠りについている。自分が今目覚めたということは、彼もまた目覚めているはずだった。何をしているだろう。ちゃんと毒ではない水を飲んでいるだろうか。食べる必要はなかった。自分も彼も。ただ、澄んだ水があればいい。毒の水はいけない。汚れてしまうから。この地上で、汚れのないものなどないが、澄んだ水ならばどこかにはあるから、ただそれがあればいいのだが、彼の側にもちゃんとそれがあるのか心配だ。自分に異常がないから、彼も無事だということは分かるのだが、それでも心配は持ってしまう。遠く、離れているからだろう。
心配なんて、自分がする資格はないかもしれない。
大切な分身である彼を眠りに追いやり、結果的にどこか分からない場所に放り出してしまったのはウォノ自身だった。
過去の怒りに満ちていた自分を反省しても、しきれない。贖罪を許さない夢を見せているのは、彼なのかもしれない。

「そうだ。新鮮な水を汲んでくるよ。まだ寝ないでね」

マークはそう言って部屋を出た。
寝るしかできない自分を、支えてくれる人がいる。心が苦しい。彼にも、そんな人がいればいいのだが。罪深い自分の方が、周囲に守られ、眠りを貪っているようで、目覚める時もいつも苦しい。寝ていても、苦しい。
ああ、そうだ。ここは魔術師たちの住処の塔。その中にある、自分に与えられた部屋だ。ここ以外、自分はどこにも行かない。ここにはきれいな水がある。魔術師たちが、住処として守る場所。だから、自分は眠っていられるのだ、とようやく思い出す。なぜすぐに忘れてしまうのだろう。
マークが汲んでくれた水を飲む。少し甘い気がする。彼はまた花を食べたのだろうか。彼はそれが好きなのだ。
あくびが出る。ああ、またすぐに眠ってしまうかもしれない。

「最後にウォノがいた国に、また行ってみたけど、あの人は見つからなかったよ。何度行っても、やっぱり僕たちじゃ駄目みたいだ。実際に会ったことがないからね。どんな気配なのか、分からない。あの国にいるのは、間違いないと思うから、ウォノが行けるといいんだけど」

「…怖いよ…。俺は、罪人だから」

「もう充分、時間は過ぎたよ。ウォノは会いたいんでしょう?」

「会いたい…、ヒョンウォン…」

「何度でも言うけど、あの時から、もうずっとずっと、時間は過ぎたんだよ。きっとあの人だって、もう―――」

そこまで言って、マークはウォノがまた寝てしまったことに気付いた。
彼が眠るのは、過去、力を使いすぎたからだと言う。その力の暴走を止めるために、分身とも言える人、ウォノが会いたいというヒョンウォンが、もともと重なり合っていた2人の精神を1つにして、自分諸共、無理やり眠りに落とすことで、ウォノの破壊活動を止めたのだ。ウォノがなぜそこまで怒っていたのか、マークは知らない。
彼らの力がどんなものなのか、魔術師であるマークにはよく分からない。この世界の力、この世界の裏側の力、どちらでもない。彼らは魔術師ではないからだ。我ら魔術師たちの長老ならば、すべてを知っているだろうが、すべては、自分が生まれる前のことだ。
青い色は天の色。神の色だ。それを身に纏う彼らは、神の御子。長老が「神の落とし子」と呼んだことを、ただ1度だけ聞いたことがある。マークは、ウォノしか知らない。ヒョンウォンには会ったことがない。
2人が会うことができれば、2人の眠りは覚めるだろうか。それは分からない。本人たちだって、分からないだろう。それでもいつかは、会わなければならないのだ。
ウォノの頬に残る涙を拭いてあげる。彼のきれいな青い瞳が、いつでも見られないのは残念だ。とてもきれいなのに。彼が笑えば、それはとてもかわいいのに。自分よりもずっとずっと長く生きている人に対して、かわいいというのは変かな、と思いつつも、マークはそう思う。
いつも笑っていられる日が来るようになればいい。その日が来ることを、マークも、同じ魔術師の仲間たちも願っているのだ。その眠りを見守りながら。

3 王国の伝承

ミニョクは国王の寝台に横たわり、自ら着物を脱いで、白い肌を晒した。どんな表情をすれば相手の欲情を誘えるか、自分はもう知っている。思惑通り、激しい口付けと大きな手が身体を弄ってくる。くすぐったくて、くすくす笑う。
女遊びに飽きて、戯れに、誘われるまま、男に抱かれてみれば、思った以上に心地よいことを知った。遊びはついに国王にまで知れて、思わぬ誘いを受けた。勝ち負けなどはないが、ミニョクは国王に初めて抱かれた時、国を手に入れたような高揚感を持った。王は国そのものだ。国を体現するのが王である。そんな人も、触れあえばただの男同士だ。
だがやはり国王と言うべきか、彼の愛撫は心地よく、他の男よりもミニョクを満足させてくれた。国王には正妃が産んだキヒョンの他に、娘が3人(キヒョンの姉、妹2人)、息子(キヒョンの弟)が2人いる。正妃の他に第二妃と愛妾も数人いる。相手の喜ばせ方をよく知っている人なのだ。
王はミニョクのことを愛妾とは呼ばない。子犬と言う。それは聞く人が変わればとんだ蔑称かもしれないが、ミニョクには、王が自分と遊びたい時に使う暗号だった。

最近、仕事の他に調べ物などもあったので、寝台での戯れは久しぶりだった。ミニョクは満足して、上がった息を整える。すぐ横には、今も鍛錬を続ける太い腕と厚い胸板があった。男臭い匂いをくんくんと嗅ぐ。腕の筋肉が柔らかそうで、ミニョクは甘噛した。

「かわいい子犬には噛み癖があるな」

「直した方がいいですか?」

「ふふ、いいや」

王の手が髪をくしゃっと乱す。ついばむような口付けを繰り返し、最後に彼の唇を優しく噛む。望みどおりの甘噛だ。
あっと、そうだった。ミニョクは思い出す。寝物語にぴったりの話があるのだった。気持ちよさで危うく忘れる所だった。

「ねぇ、陛下。僕、最近、すごく気になっていることがあるんです」

「うん、何だ?」

「牢屋の地下の秘密」

「牢屋の地下?」

王は仰向けに寝転がったまま、顎に拳を当てて、考えていた。実際に考えているのか、答えを迷っているのかは分からない。
王はおもむろに起き上がり、寝台を降りた。ミニョクも起きて、王にガウンを着せる。最近はまっているらしい葉巻を手に取る。ミニョクは自分も素早くガウンを着てから、葉巻に火を付けて差し上げた。
幾重にもクッションの重なった床に、どっしりと胡座をかいて座る。その横に、ミニョクはちょこんと座って、王にしなだれかかる。これは答えて下さるかもしれない。そういう期待があった。

「誰から聞いた?」

「お祖父さまです。宰相を務めていた頃に、牢屋の地下に住人があるらしいと知り、今まで気になっていたそうです。その話を、僕に話してくださいました」

「そうか。…あの人も、わたしに聞いてみればよかったものを」

「では、陛下はご存知なのですか? その、地下の住人のことを」

ふうーと長く、煙を吐く。薄暗い部屋の中に、葉巻の香りと麝香が混じり合い、不思議な香りに包まれる。

「あそこにいるのは、人ではない。人は、そうだな、側近のようなものだ。わたしが知ったのは、即位する少し前のこと。いずれ、キヒョンが即位する時が来れば、それを伝えるはずだった。これは、王と白公爵のみが知ることだ」

白公爵とは祭司のことである。同じ公爵家でも、紅と黒は知ることがないらしい。ミニョクは鼻持ちならない白公爵家が嫌いだ。だから、少し拗ねてしまうが、顔には出さないよう気をつける。

「人ではない、とは…。人がただの側近ならば、その主人は何者なのですか?」

かわいい表情を作って、王を見上げる。ミニョクの表情を見て、王は微笑んだ。

「気になるか?」

「はい。それは、もう。キヒョンさまも気にされています」

「キヒョンも?」

「僕が最初に相談したのは、キヒョンさまです。殿下ならばご存知かと。ですが、初耳だとのことでした」

「そうだろう」

ミニョクはさらに王に甘える。くどくならないよう、気をつけて、表情を作る。だが、王は中々答えを口にしない。葉巻を吸い、自分の表情を微笑んで見ているだけだ。教えて下さると思ったのに、やはりキヒョンが聞いた方が良いのだろうか。
拗ねた表情を見せる。

「宰相では駄目ですか? キヒョンさまにしか、伝えられないことですか? でも先程は、お祖父さまに、聞いてみればよかったのに、とおっしゃったのに」

「子犬はやはり好奇心が旺盛だ。そうだな…。キヒョンはもう23だったな。いずれは伝えるべきことだ。少し早くても、構うまい。知って、何かが変わる秘密ではない。それが、そこに存在することを、確認するだけで良いのだ」

ミニョクはその言葉の意味が上手く受け取れなかったが、キヒョンに少し早く、その秘密を明かすつもりになったことは分かった。
王が立ち上がり、葉巻の火を消す。寝台に横たわり、寝る体勢に入る。ミニョクは話している間にすっかり眼が覚めてしまった。ガウンを脱ぎ、辺りに散らかっていた服を、再び身につける。手櫛で髪を整えると、さっきまで情事に耽っていたことなど、誰にも分からない。
王の寝台の側に跪き、蒲団をかける。

「お話くださって、ありがとうございます。キヒョンさまへお話をなさる時は、わたしも側にいてよろしいでしょうか?」

「許そう」

「ありがとうございます。それでは、おやすみなさいませ」

ミニョクは服を着た後は、宰相として振る舞い、そして部屋を後にした。

 ***

宰相は仕事や春の宴に、王子よりも忙しく、王からの言質を直接伝える時間がなかなか持てなかった。だが誰かに伝言を頼むつもりは元より無い。少し待たせてしまうことになって、キヒョンには申し訳ないことだが、直接伝えたかった。ようやく一緒にお茶が出来たのは、あの日から2日が経っていた。

「やはり、陛下は知っておられた。国王と白公爵のみが知ることだそうだ」

「白公爵? 祭司長が?」

キヒョンにすれば、少し意外な感じもした。宰相が知らないなら、地位的に同列の祭司や大将軍なども知らないことだと、勝手に思い込んでいたようだ。
ミニョクが聞いてみると言ってから、数日。国王と宰相はセットと言っても良いほど、ほとんどの時間をともに過ごす。国政を与る中心にいるのだから、当然だが、一緒にいるからと言って、個人的な話などできるはずがない。
いつ聞いたのだろうと思ったが、そうか、夜だな、とキヒョンは思い当たり、その疑問を呈することは止めておいた。それなのに、その方面にめっぽう疎いジュホンが、お茶を注ぐついでに、軽い調子で「いつの間に聞いたんですか?」などと、直接ミニョクに尋ねるので、キヒョンは、深いため息をついた。

「ふん。お前のいない時だよ」

ミニョクは笑いながら、ジュホンの腹をつんつん突いて、その場から遠ざけた。

「それで?」

いつの間にされた話なのかは、どうでも良い。どんな内容なのかを知りたい。

「うん。それで、その秘密を陛下が知ったのは即位される時だそうだ。だから、いずれキヒョンが即位する時に、それを伝えるつもりだったらしい。きっとそのようにして、歴代の王に伝承されてきたのだろう。知って、どうなる秘密でもない、ともおっしゃった。だから、即位の時でなくても、少し早くても構わないだろう、とも」

「では、間もなく、俺に教えて下さる、ということか」

「そうだよ。その場に、僕も一緒にいていいと許してくださった。陛下はお忙しいから、いつになるかは、まだ分からないけれど、昼食などご一緒にと申し出ていれば、それが叶うのも早いのではないか?」

キヒョンは急に興奮してきた。秘密が明かされる時が、間もなく訪れる。
15歳の時に立太子の式を執り行い、王太子という立場になったが、父王は鍛錬も行う頑強な健康体の持ち主なので、キヒョンが国王となるのは、平穏無事であれば、少なくとも10年以上は先になるはずだった。
知ってどうなるものでもない秘密、というのは、どういうものなのだろう。知れば、何かが変わると思っていたのでもないが、知っても知らなくても変わらないと言うのは何なのだろう。

「変なものだな。知って、どうなるものでもない、なんて…。あの地下に、何があると言うのだろう」

「そこにいるのは人ではない。人は住んでいるが、それは側近のようなものだそうだ。それが、そこに存在することを、確認するだけで良い、と言っておられた」

「はあ?」

話を聞いても、ますます分からない。ミニョクだって未だよく分かっていないのだ。確認するだけで良い秘密、など。
キヒョンは腕を組んで唸る。
だが、今更悩む必要も、考える必要もない。それは間もなく父が教えてくれるのだ。自分が王太子であるが故に。

「まあ、いい。教えてもらえるのだ。ミンミン、陛下に宛てて、近くお食事を共にして、お話を伺いたい、と申し入れておいてくれ」

キヒョンは側近の双子、グァンミンとヨンミンを合わせて呼ぶ時に、2人に共通する文字からミンミンと呼ぶ。申し入れなど、どちらに命じても同じことだ。どちらでも良いような、いい加減な呼び方を頻繁にしていると拗ねるので、たまにしか使わない。

「畏まりました」

2人は声を揃えて答え、早速ヨンミンが部屋を出ていった。

 ***

国王から王子へ、親子として昼食を共にという話が来たのは、申し入れから早くも1ヶ月が過ぎていた。宰相の都合も考えて決められた日であることは、聞いていた通りである。正午の鐘が鳴る前、ミニョクがキヒョンを迎えに来たので、2人で一緒に国王が住まう宮殿に向かう。キヒョンは今日、いつも着る洋服ではなく韓服を着ている。ミニョクも同じだ。最も、彼は洋服よりも韓服を着ている時の方が多い。本人は洋服の方が楽で好きだそうだ。父の宮殿は伝統建築で、床に直接座るので、体型にぴったり沿う洋服では少し窮屈なのである。
キヒョンが住まう洋館を出て、本殿を過ぎ、父のための私的な生活の場へ向かう。少し遠いその場所へ行くのは、久しぶりだった。会うのは仕事の場、本殿が多い。
今日の昼食は、親子として、とわざわざ返答にあったように、私的なものであり、仕事ではないため、用意された場所には、食事を取り分ける古参の女官しかいない。ヒョヌを始め側近たちは、隣室で自分たちも昼飯を食べながら待つだろう。
キヒョンとミニョクは正午の鐘を聞き、王が来るのを待つ。部屋は宮殿の中では狭い方だが、それでも大きな円卓があっても、女官たちが動くのに支障のない広さが確保されている。

「陛下の御成でございます」

王の側近の言葉を聞き、2人は入口に向かって深く頭を下げた。

「待たせたか」

「いいえ。お気になさらず」

キヒョンは顔を上げて父を見た。相変わらず、元気そうで、何よりである。父も息子の顔を見て、そう思っていた。
関係は概ね良好である。王は良識と見識を持ち、鍛錬も行う。王太子時代は剣士でもあった。王太子はそれとしっかり自覚を持って行動し、勤勉で、いずれ国を任せるのに不足のない若者である。父王から見れば、王子と婚約者と決めた女の関係が、今から冷めてしまっているのが気になることだが、そんなものはどうとでもなる。

「このような席は久しぶりだな。気楽で、穏やかで、心が落ち着く」

取り分けられた料理を少しずつ口に運びながら、父が言う。そう、今の時間は「陛下」ではなく、「父上」と呼べる、キヒョンにとっても、貴重で、気楽な時間だった。

「そうですね。父上とご一緒できて、わたしも嬉しいです」

「わたしまで混ぜていただいて、恐悦至極でございます。本日は、誠にありがとうございます」

「ミニョク、この場ではそう畏まらずとも良い。いつものお前で良いよ」

「えへへ、そうですか?」

ミニョクがそれは嬉しそうに笑った。キヒョンもつられて笑う。

「父上はきっと、本当のミニョクの素顔をご存知ではないと思いますよ。この者がどれだけ、わたしに対していたずらを―――」

「ああ、ああ! 陛下の前で余計なことを言わないでください」

息子たちの戯れを、王は声を出して笑った。
時間は和やかに流れて、食事の時間は楽しく過ぎていった。3人では食べきれないほど品数の多い料理は、それでも大半がなくなった。
王は先程から、料理に手を付けるより、酒の器を手にする方が多かった。キヒョンとミニョクはお互いそれとなく目配せをして、どちらが切り出すかタイミングを図っていた。それはやはりキヒョンが話し出すべきだった。この食事の席を申し入れたのもキヒョンであるし、「お話を伺いたい」いう一文を入れることで、その話が何かを、父はすでに把握しているはずだ。

「父上」

皿と箸を置いて、キヒョンは姿勢を正した。
王はその時を待っていたようだった。穏やかな眼で、キヒョンを見返す。

「ミニョクから伺いました、牢屋の地下の秘密というものを、聞かせていただけますでしょうか。最初、その話を聞いた時は、とても信じられませんでしたが、本当に、そこに何かがあるそうですね」

女官たちが音を立てずに、部屋から出ていく。外に護衛や側近はいるが、部屋には本当に3人だけになった。

「お前が即位する時、伝えることだった。わたしがそうだったように。だが、噂を知り、それを調べて、知りたいと望んでいるのなら、今の時点で教えても、支障はない。お前はもう大人で、立派な王太子である。お前はわたしの誇りだ」

父から思わぬ言葉を受けて、キヒョンは胸が熱くなるほどの喜びを覚えた。秘密を教えてもらえることよりも嬉しいことだった。

「あ、ありがとうございます!」

丁寧に頭を下げる。涙が溢れそうになるのを我慢するために、少しの間、下を向いたままでいる必要があった。
熱い目頭を抑え、話を聞く体勢を作る。ミニョクも今や神妙な顔つきでいる。

「そうだな。教える、と言うよりも、実際に行ってみるのがいいだろう。その地下へ。そこに何があるのか、その眼で確かめるが良い。どれほど言葉で説明しても、その存在は自分の眼で見てみなければ、何も理解はできないだろう」

牢屋の地下へ行ってみろ、と言うのか。父も実際に行ったことがあるのか。

「その存在とは、何なのですか?」

「伝わっていることは、600年前の戦争の後に、我が国の王に託された神の御子であること、その眠りを妨げてはならないということ、常に清らかな水の側に置くべきであるということ、その3点だ」

「神の御子?」

キヒョンもミニョクも初めて聞く言葉だった。

「神代の昔、地上に神がいた頃の時代、その神々に愛された人間の子供たちのことだ。子供たちは神より神聖な青の色を賜り、ひと目でそれと分かる特別な御子たちであった。だがいずれ神は地上から天へ帰り、神の御子は地上に残された。神の残した御子たちは、神の代わりに崇められたが、それもやがて死に絶えた。そしてこの世に、神を知らぬ人間の文明が栄えた」

地上に神がいた時代、神代の頃は、おとぎ話、伝説として各地に残っている。昔は数多の神を崇拝する国ばかりであったのに、いつの頃からか、預言者や唯一神を信奉する教えが広まり、それとともに神が地上にいたなどという話は余計に伝説の様相を呈していった。だがそれが真実であったことを、神の御子を与る、この国の歴代の王は知っていた。
即位式を控えて、前国王からその話を聞かされた時、王は今のキヒョンと同じように、よく分からない、という顔をしていたことだろうと思う。

式を終えたその夜、王は祭司とともに水路を通って、その地下へ行き、神の御子とやらを眼にした。眠りを妨げてはならない、という話通り、その人は眠っていた。夜だから、ということではなく、その時はもう10日も眠っているところだと、世話を任されていた老婆は言った。老婆は、「もう歩くことも辛い、早く代わりが欲しい」と、祭司に直接願い出て、それはすぐに了承された。王も祭司も、そこですることは何もなく、その存在を確かめた後、間もなく地下を後にした。祭司も、その地位に就く時、同じように前任者に連れられてそこを訪れるらしい。
後任の者を地下へやった、という話を祭司から聞いたのは、その3年後のことだった。選定に時間がかかったようだ。あの地下で暮らすのは並大抵のことではない。1人で、人ではない者と、ほとんど陽の差さない場所で一生を過ごすのだ。王は考えただけで、頭が痛くなる。王は後任者のことを知らない。会ったことはないし、恐らくもう二度と、自分はあそこへ行くことはない。
一度で充分だった。その存在がそこにあり、ただ変わらずに守られていることを知り、それをそのままにしておけば良い。ただ清らかな水のあるその場所を守り、眠りを妨げることなく、側近を絶やさないこと。それだけなのだ。秘密を知っても、何も変わらないというのは、そういうことだ。王として出来ることは、何もない。伝承を次の王へ伝えることだけだ。

「近く、そこへ行きたいのなら、手配しよう。祭司は反対するかもしれないな。慣例よりも早いことだから。だが、知り、確認するだけだ。することは何もない」

「…600年前から、この王宮の中に、いたのですか? その、神の御子とやらは」

「ああ。昔は祭祀殿の中の神域で、眠っていた。あそこも、王と祭司のみしか入れない場所だ。ただ、いつの頃か、あそこの井戸の水を飲ませたら…」

王の言葉が一瞬止まり、含み笑いをした。キヒョンは首を傾げる。言葉の先を早く聞きたかった。

「水を飲ませたら、とても不味そうな顔をしたそうだ」

「はあ…」

それは代々祭司に伝わっている話だった。昔は祭司と祭司が定めた1名が、御子の世話をしていたのだ。このような細かい話は、他にもあるのかもしれない。
王は、昔見た、その御子の顔をよく覚えていた。美しい顔だった。それが不味そうな表情をするところを想像すると、笑いが出てしまう。寝ている顔しか知らないので、表情があることが上手く想像できないのかもしれない。

「眠り続けてはいるが、たまに起きて、水を飲み、また眠る。それまで、何もなく飲んでいたのに、ある時ふいに、不味そうな顔をしたので、水が変質したのかと当時の祭司は思い、新しい清らかな水の在処を探した。そして、あの牢屋の中の井戸を掘ることになったのだ。それを掘り進めていくと、鍾乳洞のような空洞が見つかり、その奥から豊富な湧き水があった。それを飲ませてみると、とても美味しそうに飲んだそうだよ。その鍾乳洞を広げる形で部屋を造り、そこにあの人を移した。たが、井戸を普通に使わせることはできない。だから井戸を塞ぐように、建物を築き、人が近づかない牢屋を併設した訳だ。牢屋番ならば、御しやすいからな」

自分たちで調べた結果と、王から聞いた話で、ほとんどすべてのパーツが繋がった気がした。
神の御子という存在を初めて知った。魔術師ではないか、とミニョクが予想したのは、あながち間違いではなかったようだ。それは同じように、人でありながら、人でない存在である。

「行きます。行かせてください」

キヒョンは迷いなく、王へ告げた。行くべきだと思った。今すぐにでも、それを確かめるべきだと感じていた。

「ミニョクはどうする?」

王に聞かれて、ミニョクは迷った。歴代の王と祭司にのみ伝えられていた秘密の存在。宰相である自分が、その存在を見ても良いのだろうか。ここまで話を聞いたのだし、そもそも話を聞くことを許してくれたのだから、行っても良いのだろうが、ミニョクは少し迷っていた。だが、知りたい、気になると、王に言ったのは自分だ。

「許されるのならば、わたしも参りたく存じます」

「では、そうしなさい」

キヒョンとミニョクは、決意をして、王に対して感謝とともに頭を下げた。

「もう一度言う。神の御子は、600年前の戦争の後に、我が国の王を信頼し、託された。その眠りを妨げてはならない。常に清らかな水が側になければならない。あの場所は、あの者を守るための場所。その場所を守り、伝えることは、我が王家が担う役目の1つであることを忘れるな」

「御意にございます」

頭を下げたまま、その言葉を聞き、2人は一層気を引き締めた。



食事も話も終わり、3人はお茶を飲みながら、午後からの仕事に向けて、英気を養っているところだった。窓の外には桜が散っているのが見える。春には、花を愛でる宴が各家で催され、主賓になることが多い3人は、もう見飽きるほどであったが、桜は散り際が美しいものなのだと言うことを、それを見ながら感じていた。
その時、キヒョンの胸にちょっとした問いが生まれた。聞いてもいいかな、と少し躊躇ったが、このような気安い場で父王と対面する機会も少ないことなので、その気安さで聞いてみた。

「父上、聞いてもよろしいですか?」

「何だ?」

「その、神の御子という、600年も眠り続ける人を見た時、どのように思いましたか?」

その存在を確かめることを、決意したばかりではあるが、今一実感が湧かないのは、その存在自体、想像することができないからだろう。実際に見たことがある父はどのように感じたのか、それを知れば、もう少し具体的に心構えができるのではないかと感じた。

「うん…。実のところ、今もって、あの人がどのような存在なのかは、わたしには分からない。だが、見た時にどう思ったか、と言うと―――」

王の言葉を、2人は息を飲むほど集中して聞いた。

「美しいと思ったよ。深い青い色が、美しかった。その時、世話をしていた老婆はその人のことを“空”と呼んでいたが、わたしが呼ぶのなら、そうだな、“眠り姫”と言うところだろう」

「…そうですか」

分かったような、分からないような、そんな感じだ。話を聞き始めた時から、その感じは続いている。

「その眼で見ることだ。そうすれば、もう少し分かるよ」

「はい」

結局は、そうでしかないようだ。
キヒョンはその時が楽しみでもあり、怖い気もした。それは、あの地下に魔術師がいるのではないか、という話をした最初に感じた気持ちと同じだった。不可思議な存在、自分の想像を超える存在を、まだ見ぬ内に、理解しようとしてもそれは所詮、不可能なことなのである。

4 空色の存在

まだ暑くはない季節のその日。
キヒョンは祭祀殿の近くに、そんな小屋があることを初めて知った。粗末なように見えて、分厚い木で出来た頑丈な、一見倉庫のような小屋は、入口を何重にも鎖が巻き付き、厳重に閉じられていた。それを開けたのは、どこかからやって来た風采の上がらない年寄りの男だった。彼は終始無言で、ただ王子たちを見て一礼し、鍵を開けて、その小屋の中にあった明かりに火を付けた。
ヨンミンとグァンミンは地下への階段を降りることを怖がったので、外に置いておくことにした。案内役の男とミニョクとヒョヌが明かりを持ち、地下への階段を降りていく。小屋の入口は、余計な者が入り込まないように、再び閉じられている。
階段は途中で何度か折り返す。キヒョンは方角を失わないよう、慎重に頭の中で方角を確かめながら、階段を降りていく。
どこまで降りるのか、と不安になり始めた時、階段が終わった。石造りの、船着き場のようだ。そう思ったのは、単純に水路と船があったからだ。
男は船を縛っていた縄を解き、そこに乗るよう、王子たちを促す。だが、ヒョヌが乗ろうとするのは拒んだ。戦士は行けないという。

「ヒョヌはここで待っていてくれ。地上へ戻っていてもいいから」

キヒョンは、王子と離れることを躊躇うヒョヌに、敢えて残るように言った。案内役の男が行けないと言うのなら、その通りにするべきだ。ここには、危険なものはなにもないはずだ。

「ここで、待っております。お気をつけて、キヒョン殿下。ミニョク閣下も」

「ああ、大丈夫だ」

案内役は船頭であり、2人は慣れない船に乗り、水路を進む。流れに逆らうように進むので、進む速度は遅く、船頭は辛そうだ。だが、底が浅いようで、流れもきつくはない。ゆっくりと進んでいく途中、船頭は何度か鈴のようなものを鳴らす。
チリンチリンという澄んだ音色が、暗い洞窟のような水路に響く。その音が、あの地下に住む者に届いていくのだろうか。
まっすぐな水路。方角を失わないよう注意していたはずなのに、どちらの方へ進んでいくのか、もう分からない。だが結局は、あの牢屋の方へ行くのだと思った。
しばらくして、前方にこれまでよりも大きなアーチ状の石壁が現れた。船の先頭に付いている明かりが先方を照らす。そこに1人、立っているのが見えた。
アーチを超えると、急に天井が高くなる。天井というよりも、ここが井戸の底なのだと、上を見上げて分かった。
牢屋の井戸の上部には、ジュホンが明かりを持って下を照らしている。その心配そうな顔が辛うじて見えた。
岸と呼んでもいいのか、そこに船を横付けする。キヒョンは自らの力でその岸へ上がる。そこには1人の若者が待ち受けていた。思っていたより若い。だが、ジュホンが調べた資料の通りならば、年齢は合っている。
秘密にされていた、牢屋の地下へ、自分たちは、とうとう、やってきたのである。

 ***

チャンギュンはいつものように本を読んでいた。壁にずらりと並んだ本は、辞書や物語、日記なども多様にあり、端から順番に読んでいっても、生涯読み切れるかどうか分からない程の数がある。
元々読み書きはできなかったが、ここに来てから、先代の老婆に教えてもらえた。辞書の数も多様にあるので、今はもう知らない言葉のほうが少ない。比較対象がいないので、よく分からないが。
本を読んでいると、どこかから、チリンチリンという鈴のような音が聞こえてきた。
チャンギュンはびくりと身体を固くする。それはここに来てから、初めて聞く音だった。食事が来る時の合図は、木を打つような乾いた音で、こんな澄んだ音ではないし、食事はもう食べ終わっている。次はもっと日が傾いた後のはずだ。
本を閉じて、この音は何か、考えを、記憶を辿る。
またチリンチリンと鳴る。今度はもう少し近いような気がする。
そうだ。老婆が以前、言っていたことを思い出す。澄んだ鈴の音が鳴る時、それは祭司など、誰かがここを訪れる時だ。祭司はずっと昔にあの人を世話する係だった。その祭司がここを訪れる時は、国王が変わった時か、よほどの変事が起こった時だと言われた。自分も聞いたことがあるじゃないか。ここへ来る時、豪勢な服装の男(多分祭司だろう)と船頭に連れられて、船に乗ってここへ来た時、確かにあのように鈴の音が鳴っていた。
国王が変わったのは、チャンギュンがここへ来る数年前のことだ。まだ、代替わりするには早いのではないだろうか。それとも、地上で変事があったのか。それならば、大変だ。
ともかくも、誰かが来るのだ。
チャンギュンは初めての出来事に、多少の恐れを感じながら、井戸までの通路を進んだ。
井戸には誰の姿もない。だが、またチリンチリンとさっきまでよりも大きく響いて聞こえて、水路の奥の方で、ほのかな明かりが見えた。
立ったまま、待っていると、小さな船がやってきた。乗っているのは、船頭と、身なりのよい若者が2人。祭司のような姿の人物はいない。そのことを、チャンギュンは不思議に思う。2人の内、どちらかが祭司のはずがない。
船頭は船に残ったまま、若者2人が通路へ立つ。手前に立つ、童顔の若者と、その少し後ろに控える、整った顔立ちの若者。後ろに立つ者が手に明かりを持っている。
チャンギュンはとりあえず、会釈をした。地上における身分というものに、自分は関係がないが、彼らは身分が高い人のように見えたから、一応だ。
手前に立つ人が言った。

「お前が、この地下に住む者か」

チャンギュンはどのように答えたものか、しばし悩む。祭司ではない、国王のようでもない。それならば、ここを訪れる資格のない者である。だが、ちゃんと水路を辿ってやってきたのなら、少なくとも、不法侵入者ではないのだ。
何も答えないチャンギュンに、若者は少し不快感を示した。眉を顰め、睨んでくる。だが、そんなもので怯むことはない。

「わたしは王太子、キヒョンである。後ろにいるのは、宰相、ミニョク。わたしは今日、ここに誰がいるのかを、確認しにきた。案内せよ」

人間と話をするのは、とても久しぶりなことだ。老婆が死んで以来、チャンギュンは人間と言葉を交わしたことがなかった。独り言とあの人に話しかける以外、声を発しない期間の方が長い。

「ああ、その…」

だが、大丈夫そうだ。声はちゃんと出る。

「それは、できません。あなたは、国王でも祭司でもありません。ここには、王太子にご案内できるものは、何もありません」

ここは神聖な場所。この場所とあの人を守るのは自分の役目。国王はこの神聖な場所を造り上げた最高権力者、祭司は、もっとも清らかな精神を身に備えた聖職者。王子はどちらでもない。
拒否されることを想定していなかったのか、王子のキヒョンは驚いたようだった。宰相というには若すぎる感じのミニョクも、驚いて戸惑っている。

「ここに眠る者の存在を、わたしは国王から知らされたのだ。わたしは時期国王である。言わば、国王に準ずる立場だ」

実際に即位をするのは10年以上先のことであることは、黙っている。

「王宮の中に、時期国王のわたしが知らないことなどあってはならない。ここにいる者の眠りを妨げに来たのではない。ただ、現国王と同じく、ここに眠る者の存在を確かめに来ただけだ」

そのように言われて、チャンギュンは迷う。現在の国王も、即位をした時に、ただここにいるその人のことを見に来て、眠りを妨げることはなく、すぐに帰ったと聞いた。こういう存在が、この国の中心にいることを確かめる。それが、即位の時の、1つの儀式のようになっているらしい。ただ確かめるだけならば、それが国王になってからであろうが、王子の時代であろうが、どちらでもいいのかもしれない。儀式が早まったということなのだろうか。祭司が一緒でなく、宰相と一緒と言う所が、気になるが。
キヒョンはいつになく、下手に出ていた。相手がジュホンの調べた通りならば、本来はただの浮浪児で、無位無官よりもさらに最下層である。だがこの特殊な場所では、話が通じるのは、目の前の若い男しかいない。

「ただ、確かめるだけ、ですね…?」

不安げに揺れる瞳が、彼の迷いを表していた。キヒョンは真っ直ぐにその眼を見つめて、しっかりと頷いた。嘘はつかない。

「武器を、船に置いてください。すべての武器を。危ないもの、怪しいものの持ち込みは禁じております。ここは、神殿なのです」

2人は素直に従う。武器と言っても、腰に差した護身用の短い剣だけだ。チャンギュンは自ら2人の身辺を調べ、武器らしいものがないことをその眼で確かめてから、案内することにした。案内と言っても、迷うほど道はない。

「お前の名前は?」

彼は、名前を聞かれて、驚いたようだった。キヒョンは、呼び名がなければ不便だから聞いただけだが、チャンギュンが名前を聞かれたのは、先代の老婆以来2人目だった。

「チャンギュン、です」

 ***

船頭と船をそのままに置いて、通路を進む。
広い部屋に出た時、ミニョクは思わず「うわぁ」という声が出た。見渡す程に広い、奥に細長い部屋だ。家具はとても少なく、必要なもの以外ない、という感じだ。
部屋の奥には、薄布のカーテンが高い天井から床まで、垂れ下がっている。よく見れば、2枚あり、中央で一部重なり、床まで垂れている。その布もとても大きいものだ。
チャンギュンはゆっくりと部屋を進み、そのカーテンの一部を躊躇いがちにめくる。後に続いて、2人もカーテンで仕切られた寝室のような部屋に入る。天蓋付きの大きく豪華な寝台が、地下の無骨な石壁には不似合いに見えた。
部屋には誰もいない。チャンギュンは左右を見回したり、蒲団をめくったり、人を探している。きっと、父が「眠り姫」と称した人は、普通この寝台に眠っているのだろう。
なぜいないのか。起きることもあると言っていた。その時2人は、特段、何の予感も予想も持っていなかった。

チャンギュンが寝台の奥の扉に進む。微かに扉が開いて、光が漏れている。
その部屋に入ってキヒョンは驚いた。陽の光が差し込んでいる。それ以上に、青い髪の細い人が、水辺に腰掛け、足を水に付けてチャプチャプと音を立てて遊んでいるように見えた。
その存在を見た時、キヒョンもミニョクも、自分の眼が信じられなくなった。見ているのに、見えているのに、眼の前に存在している、その存在が、信じられなかった。

「起きていらしたんですね。お水は飲まれましたか?」

チャンギュンは、キヒョンとミニョクの存在など忘れたように、その人の横に座り、話しかける。その口調は、王子に対するものよりも、余程丁寧で、尊敬の念が入っていた。
青い髪の人は何も答えない。不思議な髪色だが、違和感はない。横顔しか見えないが、瞳も青い。長い睫毛が、髪の毛の間から垣間見える。
いつもは水辺の近くにある花は、その人が足で蹴ってしまったからか、手を伸ばしても届かない所に泳いでいた。少し長い柄のついた桶で、水ごと花を掬う。それを、漆塗りの椀に移し、その人の口元へ運ぶ。
その人が水を飲む。唇に花弁が触れて、その人は口を少し大きく開けた。花を食べる。少し噛んで、飲み込む。それら一連の行為を、キヒョンもミニョクも、息を呑んで見守っていた。
青は神の色。神が愛した御子。魔術師よりも稀な、地上に残った神代の御世の落とし物。
父王がその話をした時、キヒョンは内心笑っていた。そもそも、神代の頃など、あるはずがないと思っていた。
花を食べる不思議よりも、飲み、息をしていること自体が、不思議だ。同じ空間にいることが、信じられない。
ここがどれほど神聖な場所であるか、チャンギュンが地上からふいに訪れた自分たちを案内するのを拒み、躊躇った理由も、よく理解できる。
眠りを妨げてはならない。その存在を、損なってはならない。1人の人間の人生を犠牲にしてでも、守るべき場所、存在。
それが、目の前にいる神の色の青い髪と瞳を持つ、その人なのだ。
信頼され託されたと言う、我が祖に当たる王はどんな人だったのだろうと、キヒョンは思う。このような神の御子を託され、守るように預かるなど、どんな経緯があってのことなのだろう。誰から、そんな話を受けたのか。なぜ受けたのか。だが、その人を見れば、守れと言われれば、そうせざるを得ないことだろう。光栄とすら、思うことだろう。

その人が、片足を上げて、水を跳ね上げる。そんな風に遊ぶのを、チャンギュンはとても久しぶりに見た。微笑む姿が、とてもきれいで、見惚れていた。
天井から降り注ぐ光を見上げる。光を眩しがることもない。瞳の青が透けて、いつもより薄く、澄んだ青空のような色になる。チャンギュンはそんな空の色を実際に見たことはないが、この人の瞳の色が空そのものだと信じていた。
その人はゆっくりと振り向き、壁際に立つ王子を見た。目線を合わせた。
眼が合った時、キヒョンの背筋に悪寒が走り、全身に鳥肌が立った。恐ろしくて、だけど視線が外せない。足がすくみ、壁に寄りかかることで、辛うじて立っていた。すべてを見透かされているようだ。見定められているようだ。お前は誰だ。存在に値する者か。本質を、見つめられている。とても長い長い時間に感じられた。
その人が視線を外して、その緊張感は薄れた。キヒョンの息は乱れ、心臓はばくばくと激しく鼓動していた。落ち着こうと深呼吸するも、唇が震えている。

「あ!」

チャンギュンが声を上げた。一瞬、何が起こったのか分からなかった。音は無かった気がするが、水飛沫が上がったのが見えた。あの人がいない。水に落ちたのだ。もしくは、入った。そのことを認識するよりも前に、チャンギュンも上着をさっと脱ぎ捨て、水に入っていた。
2人も心配で、水辺に近寄る。
澄んだ清らかな水の中は、暗いためにあまりよく見えないが、2人が水の中にいるのは分かった。チャンギュンは泳いで、その実あえぎながらその人に近寄り、引き上げようとする。その人は、なされるがままだ。
水面上に顔を出す。荒い息をするチャンギュンと違って、その人は息も乱さず、わずかに微笑んでいる。力を抜いて、水面に浮かんでいる。慌てておろおろしているのが、馬鹿のようだ。
チャンギュンが先に水辺に上がり、その人を引き上げる。
結局、何だったのか、よく分からない。2人はずぶ濡れのまま、寝室に戻る。キヒョンとミニョクも付いて行き、チャンギュンがその人をタオルで拭くのを見ているしかない。
その人の濡れた服を、上下とも脱がす。身体を拭き、下着も取り払う。それで、その人が一応男なのだと知れる。だからと言って、自分と同じ人間のようには感じられない。チャンギュンは丁寧にその身体を拭き清める。新しい服を着せ付ける。服はすべて真っ白で、庶民が着るような、簡単な仕立てのものだが、絹で出来ているようだった。
チャンギュンが上着を着せようとした時、その人は自分の右手をじっと見つめていた。そのまま動かないので、服が着せられない。だが、特に急かすでもなく、促すでもなく、自然に体勢が変わるのを待っている。
じっと右手を見ていた。それが、ゆっくりと口に近づき、人差し指を噛んだ。強く、歯を立てて。口元から離した時、その指には血が滲んでいた。鮮やかな赤い色が、ぷっくりと膨らむ。
チャンギュンは、初めての出来事に、戸惑っていた。自分で自分を傷付けるなど、これまで見たことがない。手当するべきだと思うが、その人が自分でしたことだから、意味があることなのだ。

血の滲んだ細い指が、ゆっくりと動いて、キヒョンの方へ差し出される。キヒョンは驚いたが、それも一瞬のことで、先程眼が合った時とは違って、なぜだかすぐに心が落ち着いた。
引き寄せられるように、その人へ近づく。伸びた指へ近づく。赤い血。人間のものよりも鮮やかで、きれいなもののように思えた。自分の方へ伸びたその手に、手を添えると、とても冷たくて、だが、柔らかい。
血の滲んだ指を、口に含む。血を舐める。そうしなければならなかった。それを、その人が望んでいる。

驚いたのは、ミニョクであり、そしてチャンギュンだった。眼を見張って、キヒョンの行動を追う。
キヒョンが口を離すと、その人の指の傷は消えていた。最初から、なかったように、きれいな指だった。だらんと両腕が下がる。もう、服を着せられる体勢になっているが、チャンギュンは今見た光景に驚きすぎて、すぐに行動できない。自分のするべきことを思い出して、その人に上着を着せ付ける。震える指で、紐を結ぶ。着付けが終わるのを待っていたように、その人は寝台に腰掛け、中央へ自分で移動する。そして横になり、眠りに就いた。
その人が眠ったことを認識して、チャンギュンはその場にへたり込んだ。まだ全身は濡れたままだ。身体が震えるのは、単に寒いからだけではない。今見た光景が、未だに信じられないのだ。水で遊んでいたことは見たことがあるが、水の中へ自ら落ちたことが初めてなら、自分を傷付けたことも、それを今日初めてここへ来た王子に舐めさせたことも初めての出来事だった。

「チャンギュン、君も着替えた方がいい。冷えて、病気になってしまうよ」

ミニョクが心配して、話しかけてくる。その人が眠り、ようやく声が出せるくらい落ち着いたのだ。だがその声も、耳を通り過ぎる。
チャンギュンはキヒョンを見る。王子はぼうっとした表情で、寝台で眠るその人を見つめていた。あの口が、あの人の指を舐めた。そのような触れ方を、チャンギュンはしたことがなかった。許されないことだと思ったし、そもそも考えたこともなかった。手で触れるだけでも、恐れ多く、光栄なことであると感じていた。
それなのに。王子は、ただその人がいることを確認しに来ただけだと言ったのに、それだけのはずだったのに、あの人は、王子に指を舐めることを許した。そう、あの人自身が、それを望み、許したのだ。ずっと世話をしてきた自分ではなく、今日初めてきた王子に対して。
それは、激しすぎるほどの嫉妬だった。チャンギュンは、そのような感情を、生まれて初めて感じていた。怒りにも似ていた。
どうして。何の、どんな意味があるのか。自分には何も分からない。王子だって分からないだろうが、そのことに対する衝撃は、きっと自分の方が大きい。

「…帰って、ください。そして、もう二度と、ここへは来ないでください」

濡れたまま、俯いたままのチャンギュンの言葉を、キヒョンは複雑な思いを抱きながら見ていた。何に対して、それほどショックを受けているのかは分からないのだが、きっと自分の行動のせいかもしれないとも感じていた。寝ている姿を見ることができれば、その人の存在を確かめることができればよかっただけなのだが、思いもかけず、動いている姿を目の当たりにしてしまった。触れてしまった。
その姿はきっと、彼だけの特別な姿だったのだろう。キヒョンとミニョクが、チャンギュンにとって、歓迎できない客であったことは確かだった。

「望みは、なにかあるか?」

せめて、何か与えたいと思った。詫びではない。いや、突然訪れ、彼の気持ちを乱したことを詫びよう。この地下で、彼はただ1人、その人の世話を預かり、それを一心に果たしているのだ。それは、賞賛されて値する。

「…何も。ただ、何も、変わらないように…」

「分かった。約束しよう」

チャンギュンは動かない。もう言うこともなく、2人は彼の隣を通り過ぎて、広い部屋を後にした。
通路の先の井戸で、船頭は遅い2人を、身を縮めて待っていた。2人の姿を確認した時、船頭は明らかにほっとした表情をした。
船に乗り、また長い水路を進む。今度は流れに沿うように進むので、行きよりも早く最初の船着き場へ着いた。

チャンギュンは寒さを感じて震えた。濡れたまま、時間が経っていた。自分も、着替えなければ。のろのろと動いて、服を脱ぎ、身体を拭いて、着替える。床の水分も拭く。
水を飲もうと、水辺の部屋へ行く。寝台を通り過ぎる時、その人が穏やかな表情で眠っていることを確認する。胸がちくりと痛む。自分も唇でその人に触れたい衝動が、ふいに湧き上がってきて、チャンギュンは無理やり押さえ込んだ。
水辺には、その人のための漆の椀が片付けられないままあった。椀の中には、あの人が飲み残した水がある。チャンギュンは新たに水を汲むのではなく、その残っていた水を飲んだ。
なぜだか涙が溢れてきた。チャンギュンは椀を胸に抱いて、声を殺して泣いた。
自分はあの人に恋をしている。恋をしているようだ、と思っていたのは違って、本当にあの人を愛しているのだ。あの人のために生涯を費やすことが、一番の幸せだと感じるほどに。
本来、ただの孤児だ。たまたま、都合が良いという理由で、ここへ連れてこられた。初めは暗い地下の生活が嫌だったが、地上にいるよりもちゃんと食べることができて、読み書きも教えてもらえて、何よりも、あの青い美しさを知った。そんな自分に比べれば、王子の血筋は、国の歴史そのものだ。生まれつき備わっている、血なのか、品位なのか、自分には無かった何かのために、あの人は王子にその指を、血を舐めることを許した。自分ではなく王子に。
名前を呼びたいと思った。名前を呼んで欲しいと思った。王子や宰相などではなく、あの人の声で、「チャンギュン」と呼んで欲しい。あの人が起きている時に、「ヒョンウォンさま」と呼びかけたい。そうすれば、あの人は、自分を見つめてくれるだろうか。その手への口付けを許してくれるだろうか。
チャンギュンは抑えきれない気持ちを落ち着かせるために、しばらく立ったまま、眼を閉じて、じっとしていた。

 ***

王子と宰相の姿がこの眼で確認できるまで、ヒョヌは落ち着かなかった。守るべき王子が自分を置いて、深い洞窟の奥へ行ってしまった。祭祀殿に近い出入口の小屋は、厳重に鍵が掛けてあった。ここも王宮の敷地の中なので、誰か不審者がこの中に潜んでいることはないだろうし、食事を下ろすという井戸の方には、ジュホンの他に信頼の置ける近衛兵がいる。大丈夫だ。この洞窟の奥、牢屋の下にいるのは、1人の孤児と、その子が世話をする「神の御子」がいるのだ。それはもう分かっている。だから、王子に危害が及ぶことはない。
そう思いながらも、じっと彼らが戻ってくるのをまんじりともせずヒョヌは待っていた。ヨンミンとグァンミンは、外でのんびりとお茶を飲みながらおしゃべりしているはずだ。
暗い水路の奥から、ほのかな明かりが近づいてきた。船が戻ってきたのだ。案の定、王子も宰相も無事である。何も変わった所はない。ヒョヌはほっと息をついた。

「ご無事で何よりです、殿下。…殿下? 大丈夫ですか?」

船から降りるため、ヒョヌが手を差し伸べても、キヒョンはぼうっとしたまま、反応しない。再度呼びかけて、キヒョンはようやくヒョヌに気付いたように、手を取り、岸に上がった。ミニョクは船頭に手を借りて上がる。
船頭はしっかりと船をくくりつけ、彼らを地上へ出るよう促した。外へ出ると、再び出入口を何重にも鎖を巻きつけ、鍵をかける。王子たちに深く一礼し、去っていく。来た時と同じだ。一言も無駄なことを喋らない。

「会えましたか? その、神の御子という者には」

「ああ、そうだな…。会ったよ。生きていた。うん、確かに、あの人は、あそこで生きていた」

キヒョンはまだ夢を見ているような心地だった。先程までいた地下での出来事が、現実のようには感じられない。過ぎてしまえば、地上へ出てしまえば、余計に現実感が薄れていってしまう。

「キヒョン、キヒョン。さっきのは、何だったんだ? どうして、あの人の血を舐めたりした?」

ミニョクが心配そうな顔でキヒョンに尋ねる。血と聞いてヒョヌは穏やかではないが、キヒョンが怪我をしたということではないようだ。
キヒョンは聞かれても、明確な答えを持っていなかった。あの時はただそうするべき、そうすることが当然だと思って、自然と身体が動いていた。だが、改めて考えてみると、随分と不思議な行動だ。人の血を舐めるなんて。なぜそんなことをしたんだろう?
眉を顰めて、首を傾げる。
血と言っても、自分のそれよりも赤くて、変な独特の味もなかったと思う。だから、思い返しても、不思議ではあっても、不快感はない。

「自分でも分からない。うーん、ただ、自然に身体が動いていたんだ」

キヒョンにだって分からないのだから、ミニョクにはもっと分からないだろう。

「まあ、とにかく、キヒョンの部屋に戻ろう。僕たちがまた船に乗ったのを、ジュホンも確認しただろう」

井戸の上、食事を下ろす場所で下を見ていたジュホンは、キヒョンたちが再び船に乗ったことを見届けた後、キヒョンの部屋に来る手筈になっている。深いと言っても、船にも、ミニョクの手元にも、そしてジュホンの方にも明かりがあった。ミニョクも一度見上げたから分かる。明かりさえあれば、ほのかには見えるのだ。あれは、随分と深い井戸だった。すごいものを地下に造ったものだと感心するが、すべてあの人のためだと思えば、その苦労や手間も工費も納得できる気がする。
日はすでに傾き始めている。
彼らは、それぞれ不思議な気持ちを抱えたまま、キヒョンの部屋に戻った。

4.5

ざばんと池に飛び込む。自分でそうしようとした訳でも、誰かに背中を押された訳でもない。ただ言うなれば、身体の内側から、何かが動いたのだ。ウォノはそういう時はいつも、ヒョンウォンが自分にさせているのだと思っていた。
池の水は澄んでいて、浅い場所と深い場所、底の小石や小さな魚など、眼で見ることができる。ウォノはいつもここの水を飲んでいる。だから池に落ちても、不快ではなかった。深い場所に引き寄せられて、沈んでいっても、ヒョンウォンも同じだと思えば、怖いとも何とも思わない。冷たい水が、身体を冷やす。清らかな水は自分を苦しめるものでも、殺すものでもない。恐ろしくはない。遠くにいる、自分の分身を思う。
ああ、君はそこにいるのか…。
水の中で、身体の中に、彼を感じる。自分のために、傷つき、眠り続ける自分の分身。

誰かの手で、ウォノの身体が浅瀬に引き上げられた。その途端に、身体の中に感じていた分身の存在が薄れていく。懐かしい感覚だったのに、また失われてしまった。
ウォノは自分を引き上げた人物を恨めしく思い、睨みつけた。それはマークだった。髪も服も濡れている。睨まれる理由が分からないのか、戸惑っている。それが分かって、ウォノも、彼に怒る理由はないのだと自制した。

「久しぶりに長く起きて、珍しく外へ出たと思ったら…。本当に、眼が離せないんだから…。ああ、びっくりしたよ」

「俺じゃない。俺は、彼だ。あいつが、水の中を望んだ」

マークはウォノの言葉の半分も理解が出来なかった。彼というのはヒョンウォンだろう。水の中で、何を望むというのだろう。彼らが可能なことを、マークはほとんど知らない。彼を引き上げるために、全身びしょ濡れだ。池から上がる。風を身体の周囲に纏わせて、髪を振る。それだけで、彼の身体はすっかり乾いた。

「…会えたの?」

ウォノは答えず、少し長めに息を吐いた。ウォノはまだ、池の浅瀬に座ったまま、腰まで水に浸かっている。上がった方がいい、と言おうと思った。彼は顔を水面に浸して、水を飲んだ。勢い良く顔を上げて、水飛沫をあげる。そうしてようやく立ち上がり、池から上がってきた。マークは風を吹かして、彼の身体も乾かしてあげる。ウォノは自分の周りにだけ吹く風を不思議そうに眺めながら、小さく微笑んだ。

「魔術って便利だな」

「こういう時はね。でも、側に服があれば、ただ着替えれば済むことだ」

風を吹かせて服と髪を乾かす力を10とすれば、住処の塔まで歩く力が2、階段を上がる力が2、タオルで身体を拭く力が2、着替える力が1と、まあ、そのくらいだろう。濡れたままの不快感を我慢すれば、より少ない力で済む。
魔術は道具ではない。智であり、術である。
歩いたり、馬に乗ったりすれば済むところを、飛んでいく必要はない。タオルで拭けば済むところを、今乾かしてあげるのは、ほとんどの時間を寝て過ごすウォノの体力がないことを知っているからだ。
魔術師という存在を、ウォノはよく不思議がるのだが、マークからすれば、ウォノの存在の方が不思議である。きれいな水しか必要としていないし、寝ているだけなのに、ウォノは痩せてはいるが、マークより筋肉がついている。体型が変化しないのだ。青いきれいな髪もあまり伸びない。1回切ってあげたのは、もう何年前になるだろう。

「戻ろう」

マークが言う。外で寝られても困る。

「ああ」

そう答えたウォノが、何かに驚いたように眼を見開いて、上空をきょろきょろと見回しはじめる。「どうしたの?」と聞いても、すぐには答えない。数歩進み、また池の方に戻り、空を見上げる。その行動を見守るしかない。

ウォノは突然、水の中で感じたような、分身の存在を感じた。自分自身の中にではなく、空気の中に。今まで、そんなことはなかった。彼の存在は、水の中や、自分の中にしか感じることはなかったから、彼はどこか見えない場所で眠っているのだと思っていた。今は見える場所に移ったのだろうか。だけど、その存在感は微弱で、儚い。遠いから、という理由ではないはずだった。それならば、何の感覚も受けないはずだ。
会いたい。会いたい。会いたい!
強烈な想いが心を占める。彼は分身だ。思うだけで、罪悪感で身を引き裂かれそうになるが、彼は自分自身なのだ。同じように眠り、起きて、水を飲む。時折、水が甘く感じるのは、彼が好む花のせいだろう。それを感じることができるほど、自分たちは今、別々の身体で同じ感覚を共有している。
会いたいと思うのは、彼もそう思っているからだ。きっとそうなのだ。罪悪感も、きっと優しい彼が抱いている感情なのだ。
あの日から、どれほどの時間が経ったのだろう。長い時間が経ったよ、とマークもみんなも教えてくれる。

「マーク」

ウォノは決意を込めて、親しい魔術師の名前を呼んだ。

「また俺が寝てしまっても、あの国へ連れて行ってくれ。次は、あの国で目覚めたい」

空を見上げたまま、ウォノが言った。その顔は、悲しみではなく、希望と少しの戸惑いを含んでいるように見えた。

「わかった」

マークは笑顔で請け負った。
2人で塔へ戻る。部屋に行くまでの階段の途中で、ウォノが寝てしまいそうになったけれど、何とか部屋まで連れて行って、ベッドに寝かすことができた。

5 未知の来訪

井戸の底で食事を受け取り、それを食べて、きれいに洗う。部屋の掃除をし、洗濯し、チャンギュンがするべきことは終わってしまう。いつもなら、本を読んだり、お茶を飲んだり、ゆったりと過ごすのだが、ここ最近は、そのような余裕が持てなかった。
王子が訪れ、自分ではなく、王子に指を舐めることを許したことを見た日以来、チャンギュンは毎日のように、その人の寝顔を眺めていた。それ以外、したいことがなかった。本を読む気にも、複数ある茶葉を楽しむ気にもなれない。ただ、その人を眺めていたかった。自分だけが見られるものだと思っていたかった。
それまで、寝顔など毎日見ていたはずだったが、ほとんどすべての時間をそうして過ごすことはなかった。一日中、寝顔を眺めていると、その人は、案外、寝返りしたり、体勢を変化させたり、さまざまな表情を見せていた。あるいは夢を見ているのか、時折、苦しそうにしたり、悲しそうにしたり、楽しそうに笑ったり。寝ているだけなのに、それほどまでに表情が豊かであったことを、チャンギュンはこれまで知らなかったことを後悔するほどだった。
日がな一日、その人の寝顔を見ていた。あの日以来、まだ目覚めない。眼を開けることすらない。心配になって、時折、水を含ませた布を唇に触れさせる。そうすると、少し口を開けてくれるので、水滴を垂らす。それは必要ないことなのかもしれない。1ヶ月も寝続けたこともあるというのに、それを知っていても尚、早く次の目覚めを待っていた。自分だけが知るその人の姿を、見ていたかった。
嫉妬であり、愛であった。そんな俗世的な感情は、その人には相応しくなくて、そんな感情を持っている自分の方が間違っていると理性で考えても、感情は消えない。
唇で触れたい。手でも、指でもいいから、王子と同じように、自分にもそれを許して欲しい。そのように、意志を示して欲しい。
チャンギュンは自分が、とても矮小な存在のように思えて、膝を抱えて顔を伏せた。
自分の寝台の上で、ただ日がな一日、膝を抱えて、その人の寝顔を見続けていることも、自分の卑小さを晒しているようで、すべての瞬間がいたたまれない。そのようにさせたのは誰でもないのだが、責めることができるのは王子しかいないから、ただ王子に対して、非難の言葉を心の中で吐く。
なぜ来たのだ。王太子でしかないのに。まだ国王ではないのに、祭司さえ伴わずに。確かめるだけといいながら、あのような間抜けな顔を晒して、あの口付けの意味すら捉えられないくせに。

あれから何日が経ったのだろう。義務のように食事をして、祈りと同じように、その人の寝顔を見て、眠れない夜を過ごす。本を読んで気を紛らわせようと思っても、文字に集中できずに、あの人が起きていないか、動いていないかを、数分ずつに確かめる。その人のために自分が生きているのだと思っても、チャンギュンは苦しかった。そんな苦しみは今まで感じたことがないものだった。平穏なはずだった。地下での生活は、慣れていて、あの人のために自分が存在することが、幸せのはずだったのに。それなのに。なぜ自分は今こんなにも苦しみに満ちているのだろう。分からない。何も、分からない。

ある時、その人が目覚めた。王子が来て以来、何日経ったか、チャンギュンは数えられていない。ただ眼を開けただけで、起き上がったり、動いたりもしない。チャンギュンは器に水を満たし、花を二輪ほど入れて、その人の元へ運ぶ。水は飲んだが、花は食べなかった。なぜ食べないのか分からない。食べるはずだと思っていたのに、違ったので、焦りが生まれる。本当は水だけでよく、花は単なる好みであることをチャンギュンはきちんと把握できていなかった。花を口元へ付ける。だが、その人は嫌だと言うように、顔を背けた。チャンギュンはまるで自分の存在が拒まれたような、悲観的な気持ちになった。そうではないのだが、地下で1人きり、話し相手がいない。気持ちをぶつける相手もいない。
涙が迫り上がってくる。誰が見ていることもないのに、チャンギュンは泣きたくなくて、必死に我慢した。
その人は、またもうすでに寝ている。飲み残しの水を飲む。そして、その人が食べなかった花を、チャンギュンは食べた。初めてすることだった。花は味がなかった。だが、飲み込む時、ほんの少し、蜜の甘みを感じた。

 ***

王子はその日、王都の近くの山に狩りに出かけた。一緒にいるのは、宰相ミニョクを筆頭に、同い年の貴族の子息たちである。彼らは全員、王子キヒョンの友人と言える立場の若者たちであった。一番親しいのはミニョクだが、王子として育ち人見知りをあまりしないキヒョンは、だいたい気の合う相手ならば友人になることができた。友人が多いのはミニョクの方である。彼はお喋りで陽気な性格なので、楽しい雰囲気を作り上げるのに長けている。彼がいたおかげで、仲良くなれた者もいる。ミニョクがキヒョンに対して気安く接して、それを大らかに受け止めるキヒョンの姿に、貴族たちもいくらか安心して、近づいてきてくれた。
そんな気の置けない友人たち含め6人の貴人たちは、馬を駆り、獲物を追い、身体を動かすことを楽しんだ。
その日、この山には庶民の立ち入りが禁じられており、住み着いていた浮浪者などもすべて追い払われている。動物も少し放たれており、獲物が何もないということもない。狩りが得意ではないキヒョンは、ミニョクの助けを借りて、ようやく鹿一頭を仕留めることに成功した。別の友人も鹿を仕留め、案外狩りの上手なミニョクは、うさぎなどの、すばしっこく小さな動物を2匹捕らえていた。
だが、成果としては上々である。負けず嫌いな王子の面目も保たれる結果となり、昼に食べる分も持ち帰る分も充分に確保できた。護衛たち武人が、仕留めた獲物をすばやく血抜きして、捌いていく。昼食に、持ち込んだおかずとともに早速その肉を食べ、酒も飲み、楽しく友人たちとの時間を過ごす。
昼食後は林の中や緩やかな山道を散策する。腹ごなしもあるし、歩いていると話をすることもできる。だがそれらも飽きてきて、一行は再び昼食を食べた場所に戻る。少し早い気もするが、充分楽しんだことだし、「そろそろ帰る準備を」と命じる。
キヒョンが水を所望し、手渡されたそれを飲む。汲んでから時間が経っているのか、生温い。

「帰る前に、新しい水を汲んでまいりましょう」

王子の些細な不快感を認めたヒョヌが言い、別の護衛に水を汲んでくるように命じる。ヒョヌは王子の側を離れる訳にはいかないので、自分で行けないのだ。

「直ぐ側に水場があるのか?」

「あちらの林の中、少し下った所に小川が流れております。水源にも近いようで、良い水です」

「行ってみよう」

キヒョンは気紛れに、自分でその小川まで行ってみることにした。誰か付いて来るかと思ったが、ミニョクを中心に話が盛り上がっている。まあ、1人で良いか、と考えて、キヒョンはヒョヌと双子の側近のみを連れて、その小川まで歩いた。キヒョン以外の3人は、他の人の分の水筒も持って、水を汲む役だ。

昼食を食べていた広場のような場所からすぐに林に入り、なだらかに下っていく場所がある。そこをゆっくりと歩く。遠目に川が見える。
小川に近づくにつれて、だが、キヒョンの気分は段々と不穏になっていった。不安とそして恐怖が、心に生まれる。なぜかは分からない。分からないのに、その小川に近づくのが怖くなってくる。心臓の鼓動が早くなる。重くなり始めたキヒョンの足取りはついに止まった。

「殿下? どうされましたか?」

ヒョヌが心配そうに聞いてくる。だが、聞かれても、キヒョンにも分からない。強い、いつも自分を守ってくれるヒョヌに、キヒョンは寄り掛かった。自分を頼ってくる王子を、ヒョヌはしっかりと抱き留めた。

「分からない…けど…、何か…ある。何かが、いるんだ」

予感というものでもなく、ただ、何かがあることが分かった。それに近づいて行くことが恐ろしい。それが何かも、分かっていないのに。なぜ急に、こんな風に感じるのかも分からないのに。
ヨンミンが小走りに小川まで先に行く。周囲を見渡して、何があるか、誰かいないかを探している。それがキヒョンにも見える。ヨンミンが戻ってきて言った。

「何も、誰も、ありませんでした」

そのように報告しても、キヒョンの不安気な表情は変わらない。今は辛うじて自分で立っているが、その手はヒョヌの腕に添えられている。

「水ならば、我々が汲んで参ります。殿下はしばし、ここでお待ちください」

グァンミンが言った。近づくのが怖いならば、近づかなければ良い。水を汲むのは自分たちの役目で、王子は水が飲めればそれでいいのだから、小川にまで下りる必要はない。
だが、キヒョンは首を横に振った。

「いや、行く。小川まで、俺も行く」

なぜかは分からないが恐ろしい。だが、行かなければならないと思った。
一歩ずつ、足を進める。ゆっくりとした歩みは、ついに小川の縁に辿り着く。左右を見ても、ヨンミンが確認した通り、何もない。誰もいない。だけど、何かがある。キヒョンは心の中でそう感じていた。
何なのだろう、これは。恐ろしいのに、怖くて仕方ないのに、なぜだか、その正体に、会いたいと思っている。得体の知れない感情に、キヒョンの心臓は早鐘を打つ。
どくん、と大きく心臓が跳ねた。
川の対岸の正面に、その人が立っていた。青い髪、青い瞳。白い肌と赤い唇。真っ直ぐにキヒョンを見つめている。眼が離せない。それは、あの地下で、あの人に見つめられた時と同じだ。全身に鳥肌が立つ。足が震えて、立っていられなくて、キヒョンはその場に尻もちをついて座り込んだ。
双子のグァンミンとヨンミンも、突然の出現に驚いて、恐怖し、その場にへたり込んで手を握りあっている。ヒョヌは動けない。気配も何もなく、ただ突然、対岸に現れた、不思議な色を纏うその人。王子が恐怖している。武器を抜き、王子とその者の間に自分が立ちはだかるべきであるのに、身体が固まっていて、武器に手をかけることもできない。
青い人が動く。思考だけが働くヒョヌは思った。あれが、話に聞いた「神の御子」という存在であろうか。だが、なぜここにいる? 地下にいるはずの者なのだろうか。
キヒョンたちは硬直し、時間が止まったようでいる。その人だけが、ゆっくりと歩いてキヒョンの方へ近づいて来る。間には小川がある。だがその人は、何気なく川の流れの上を歩いて、川を渡った。
そんな不思議にも驚く余裕はない。その人が、そこにいること自体に驚いているのだから。地下で会った、青く美しい神の御子。似ていると思ったが、違う人だ。あのような存在が、他にもいるだなんて、何ということだろう。当たり前のように川の上を歩いて近づいて来るその人も、同じように美しかった。青い髪は絹糸のように繊細で、青い瞳は、あの地下にあった水のように清らかに澄んでいる。
キヒョンの眼の前に立ち、座り込んでいる彼を見下ろす。その人も座り込む。目線はずっと合っている。外れない。外せない。
その人の両手がそっと上がり、キヒョンの頬を包む。冷たい手だが、不快ではない。柔らかく、優しい。その人が微笑んだ。その笑みを見て、キヒョンはなぜだか泣きそうになった。
誰もが動けない中、その青い人だけが動く。その人は、微笑み、キヒョンへ顔を近づけて、唇に口付けた。

 ***

話が楽しかったせいで、キヒョンが戻ってくるのが遅いなと気付くのに時間がかかった。水場はすぐ近くなのだから、水を飲んで汲んでくるくらい、心配になるほど時間がかかるはずがない。
自分たちも水場に行ってみるべきではないか、という話が決まりかけた時、水場の方からキヒョンの側近の双子がやってきた。そしてミニョクたちに告げる。

「殿下は体調を崩されて、もう少し小川の側で休んでから帰ります。皆さまは先にお帰りくださいませ。ですが、ミニョクさまには残っていただきたいとのことでございます。これは新たに汲んできた水でございます。どうぞ、お持ちくださいませ」

「申し訳ないが、ミニョク以外は先に帰ってくれ、と殿下のお言葉でございます」

王子の側近にそのように言われれば、反論や異論などしようもない。王子は「申し訳ない」と言った。それは「納得できないだろうが、従え」ということである。ミニョクと側近のジュホンのみがその場に残り、他の者は帰ることになった。帰り支度は済んでいたので、行動はすぐだった。
双子の案内でキヒョンの元へ行く。ミニョクの馬の手綱をジュホンが握り、キヒョンの馬の手綱をヨンミンが握っている。
体調が悪くなったのなら、こんな外で休まずに、早く宮殿に帰った方がいい。ミニョクだけをこの場に残したのも、一番親しいから、という以上に、何かがありそうだった。

川まで下り始めてすぐ、木々の隙間にキヒョンの姿が見えた。体調を崩したと聞いていたので、ミニョクの気持ちは少し焦って、早足になる。ヒョヌも側に立っている。そしてそこには予想外に、見知らぬ人間がいた。1人は立ち、1人はキヒョンの直ぐ側で横たわっている。寝ているようだ。だがその姿勢以上に、ミニョクを驚かせたのは、その人の髪色だった。深い青い色。ジュホンも驚いている。話に聞いていただけの、神の御子と同じ条件を持つ人が、眼の前で眠っているのだ。
ヨンミンが引いていたキヒョンの愛馬が、その青い人に恐れもなく近づく。馬は警戒心が強い動物で、人との信頼関係を築くには触れ合いが重要だ。キヒョンの愛馬は優しい性格の馬だが、人見知りがある。なのに、その人には何の躊躇いもなく、近づいて、鼻先を近づけ、その青い髪を少し喰む。
立っていた見知らぬ男が、それを見て「ははっ」と笑う。洋服よりも楽そうな、異国のゆったりとした服の上に、長いフードのついた長衣を着ている。
髪を引っ張られたことで目覚めたのだろうか。その人が眼を開けた。その眼はやはり青かった。頭上の馬にびっくりしている。「うわっ」と叫んだ声に、キヒョンの愛馬も驚いて、その場から離れて行った。
ミニョクはその人から眼を離せない。彼にしても、地下にいた人と同じような存在が2人といたことに、信じられない気持ちだった。その人は馬に驚いて、上半身を起こしたが、眠いのか、眼を擦って、また今にも寝てしまいそうだ。うつらうつら、首が座らない。長衣を着た男が、眠そうに揺らぐ頭を優しく支えて、自分に寄りかからせる。体勢が安定したからか、青い人はまた眠りに就いた。

「キ、キヒョン…。これは、どういう状況なんだ? 説明してくれ」

ミニョクが少し声を震わせて聞いてくる。だが、キヒョンもまだその答えを持っていなかった。ただ、ミニョクだけを残したのは、新たに眼の前に現れた青い人の存在を唯一知っているからだ。そして、この出会いをどうするべきなのかを決めるには、まだ何も情報を持っていない。

「あなた方は、誰だ?」

キヒョンが長衣の男に聞く。答えをくれそうなのは、その男だけだ。彼は微笑み、じっとキヒョンを見つめる。整った顔立ちに、細い身体。明るい茶色の髪。青い人に気を取られている間に、その人物も、いつの間にか側にいた。

「神の御子の存在を、あなたは知っていますね?」

それはこの国の王と祭司にのみ伝わる秘密の存在である。ミニョクが知ったのは偶然であり、本来ならば、いくら口が堅いとは言え、側近ですら知ることのなかった存在だ。この場にいる全員、その存在を耳にはして、そしてキヒョンとミニョクは実際に会った。相手が誰なのか分からないが、御子とともにいて、その存在も知っている人物なのだ。

「ああ、知っている。その人も、神の御子、だな?」

「そうです。この人の名前はウォノ。僕はマーク。僕たちは、この国にいる御子に会いに来たのです」

「何…?」

キヒョンは眼を見開いて、驚きを示す。
最初に感じたのは、なぜこの国に御子がいることを知っているのか、ということだ。そして、どのようにして、王子である自分の元へ来たのか。この出会いは、彼らが仕組んだことだったのか。

「提案なんですが、もう少し落ち着ける場所でお話しませんか? もうすぐ、日も暮れることですし」

驚いている自分たちを他所に、マークは至って平静に話をする。提案通り、外でする話でもないし、眠っている人には、相応しい寝台が必要だろう。キヒョンは、自分の住む宮殿に彼らを招くことにした。まだ事情が何も分からないので、彼らの存在も秘密にするために、ミニョクにも協力してもらうことにした。
長衣の男は、御子にも自分が着ているものと同じものを着せる。フードを頭に被せてしまえば、口元しか見えない。青い髪や目元が隠れるだけで、特有の不可思議な雰囲気が薄らぐ。ヒョヌがその人を背負い、キヒョンとミニョクは馬に乗り、残りは歩く。山を降りれば、馬車が待っている。キヒョンは少なくとも御者には見知らぬ客人のことを固く口止めしておかなければと考えていた。

狩りの途中、王子の具合が悪くなったという話は、先に帰った貴族たちによって、すでに王宮内に広まっていた。無事に帰ってきたキヒョンとミニョクを、洋館の執事や女中たちが心配そうに周囲に集まり、歩みに合わせて、いろいろと聞いてくる。それらに答えて、指示を出したのはすべてミニョクであった。2人がそうして洋館の使用人たちを自分たちの元へ集めている隙に、普段あまり使うことのない出入口から、静かに王子の居室に入る人影があった。御子を背負ったジュホンと、マークと、王子の洋館を知り尽くしている側近の1人グァンミンである。
警備の都合から、王子の私室がある一角には扉が1ヶ所しかない。その先には、リビング、ダイニング、給湯室、執務室、寝室とバスルームが2つずつある。普段使っていない寝室は、婚約者が来た時に泊まる部屋として整えられているが、彼女がここへ来たことは一度もない。その使われていない寝室に、ジュホンは何とか無事に入ることができてほっとした。寝台に寝かせて、さらにほっと息をつく。最初は見た目ほど重くないと思ったが、階段を上がるのはちょっと大変だった。女性らしい部屋に、その青い人は少し似合わなかったが、仕方がない。マークは、ウォノの髪を隠すために着せていた長衣を脱がせている。ジュホンが手伝うと、笑顔で「ありがとう」と言ってくれた。その礼の言葉の中には、ここまで運んでくれたことも含まれていた。
間もなく、王子たちが部屋にやって来た。周囲にもう人はいない。具合が悪いということを口実に、夜の晩餐会と明日1日の予定はすべてキャンセルされた。ミニョクはそういう訳にはいかないが、少なくとも、今日の晩餐会には彼も欠席することに成功した。

「これで、ゆっくりと話ができるだろう。さあ、教えてくれ。お前たちは何者なのか。どうして、どのようにして、あの場で俺に会うことができたのだ。この国に神の御子がいることを、なぜ知っている」

部屋にいるのはキヒョンとミニョク、護衛のヒョヌに、調べ物をしたジュホン。それからマークと寝台で眠るウォノである。寝台を挟んで、キヒョンたち4人とマークが向かい合う。

「どこから、話をしましょうか。まず、先程も言いましたが、この人はウォノという名前で、古くから生きる神の御子と呼ばれる存在です。僕の名前はマーク。僕は、そうですね…、まあ隠しても仕方がないので、言いますが、僕は魔術師と呼ばれる者です」

「魔術師?!」

マークが自ら魔術師と名乗ることを躊躇った理由は、相手が王族だからである。魔術師に関する、戦争に勝てるという噂は、魔術師たち当人にとっては決して快いものではない。中には好んで戦争に参加するものもいるが、それは本当にごく一部の、言わばならず者であり、道を踏み外した者であった。キヒョンのことをマークは何も知らない。少なくとも嫌な奴という印象はないし、この国に戦争の兆しなど何もないが、いつかそれが起こった時に自分を思い出されても困る、というか嫌だ。
無理やり事を進めるつもりは毛頭ないので、ウォノが会いたい人に会えるかどうかは、キヒョン次第なのである。ここは、正直に話をするべきだった。

「あの場所で出会ったのは、ある意味必然です。僕たちはある人にあの場所に連れ出されました。そこに、王子がやって来た。ウォノが言うには、あなたは、ウォノが会いたい人の気配を纏っていました。だから、あなたに対して、言ったのです。この国にいる御子に会いに来たのだと。その人が、具体的にどこにいるのかを僕たちは知りませんが、この国にいることは分かっていました。ウォノとその人が眠りに落ちる前、最後にいた場所がこの国です。僕たちをあの場所へ連れ出したある人は、その昔、眠りに落ちた2人の内、ウォノだけを連れて、この国から去りました。僕はそこら辺の事情をよく知りませんが、別々にする必要があったそうです。もう1人は置き去りにしたのではなく、安全な場所に託したと、あの人は言っていました」

マークの話の内容を理解できたのは、王から伝承を聞いていたキヒョンとミニョクだけだった。ヒョヌとジュホンはほとんど理解できないまま、話を聞いていた。調べ物をして、地下へも同行したので、聞きたいと願ったのは自分たちだったが、それを後悔するほど、話は抽象的なようなものに感じられた。
キヒョンはマークの話をそれよりも正しく把握できていた。特に最後の言葉で、話が繋がったと思った。

「600年前、当時の国王に、神の御子が託されたと言う。眠りを妨げてはならない、常に清らかな水が側になくてはならない。この国の王が代々守ってきました」

「そう、600年前です。この国の王が、ずっと守り続けてきたのですね?」

「そうだ。今も、その人はある場所で眠っている。守られている」

マークはにっこりと笑った。眠っているウォノを見る。寝癖がつかないよう、乱れていた髪を整えてあげる。今まで眠っていた場所よりも、会いたい人にずっと近づいた。眠っていても感じているだろうか。分身と呼ぶ、大切な人の存在を。

「会わせてあげてください。どうか、ウォノとその人を。彼は罪の意識から、これまで会うことを拒んでいた。けれどようやく、会いたいと願ったのです。600年もずっと、自分を罪人と呼び、分身とも呼ぶその人と会うことさえ出来ずに、彼は苦しんできたのです。600年も。それがどんな罪であろうとも、それはもう許されても良いはずです」

キヒョンもウォノを見る。穏やかな表情で眠っている、青い色を纏う美しい御子。地下で見たあの人も同じような青い色を纏っていた、とても美しい人だった。2人は、分身とも呼ぶ間柄なのか。あの人が眠り続けていたように、ウォノも眠り続けていた。600年も、自分を罪人と思い続けながら。あの人も、そんな苦しみを抱えていたのだろうか。
それほどの長い時間、罪の意識を持ち、苦しんできたのなら、さすがにもう許されて然るべきだろう。600年は長すぎる。
600年前の戦争と関係があることなのだろうか。あの戦争では、魔術師が我が国の王に味方をして、勝利を収めたと言う伝説がある。御子と魔術師が混同してしまっていたのだろうか。だが、罪とは何か。仮に戦争に加担したことが罪であったなら、ウォノの方が国を出たことや、戦争の勝利国に1人が託されることが分からない。
会わせてあげて欲しい、と頼まれれば、そうしてあげたい気持ちが、キヒョンの中にすでに芽生えていた。だが、そうなると、国王に相談しなければならない。あの場所に入るには、未だ王子である自分1人ではできない。
キヒョンは背凭れに深く凭れて、顎に手を当てて考えた。国王に話をするべきだ。マークとウォノを引き合わせるべきだろうか。だが、彼らとの出会いが必然だったなら、どうして国王ではなく、王子である自分との出会いを仕組んだのか。考えは様々に巡るが、結論として出て来るのは、やはり国王に相談すべきだということだ。
今度は額に手を当てて、ふうとため息をついた。悩んでいるキヒョンの姿を、ミニョクたちは心配そうに見ているが、彼らは自分たちが口出しできることはないと分かっていた。会わせてあげたい気持ちはミニョクにもある。だが、提案は何もできない。
ミニョクの心配そうな視線に気付いて、キヒョンは彼を見た。眼が合えば、お互いに「どうしたらいいか」と悩んでいるのが見て取れる。

「ミニョク…」

「うん。何?」

身を乗り出して、ミニョクはキヒョンの言葉を聞く。この場で話しかけられたのが、頼られているようで、少し嬉しかった。

「陛下に相談するべきだと思うのだが…、俺がまず先に、彼らと接触したこと、陛下はどう思われるだろう…」

神の御子に関することは、王と祭司の管轄である。王子と宰相もすでに知っているし、確認済だ。それでも、あの場所を守る役目は国王のものであって、王子ではない。本来ならば、まだ知らないはずだったのに、彼らは王子の元に来た。

「そうだな…。ああ、でも、キヒョンが何か先走って彼らと接触した訳ではない。彼らがキヒョンの元に来てくれたのだ。そうでしょう?
どうして、あなた方お2人は、国王ではなく王子の元へ来たのですか? 600年前、国王に御子が託されたことを知っていたのなら、国王の元へ行くべきではないのですか?」

前半はキヒョンの慰めを、後半は2人に、というかマークへの疑問を、ミニョクは口にした。

「どうして、と言われても…僕は知らない。あの場所を選んだのは、僕らじゃない」

マークは実にあっさりとした答えを言う。キヒョンもミニョクも少しがっかりしたが、自分で選んだ場所でなければ、知らないのは当然とも言うべきか。

「ただウォノは、王子を気に入ったようだよ」

「へ?」

キヒョンは驚いた。笑顔で、嘘をついているようには見えないマークを顔と、眠っているウォノの顔を見る。

「あなたから、あの人の気配がすると言って、あなたの前に現れたのだけど、でもそれだけで、人間に口付けるなんて、ウォノはしないよ。ウォノは人間が好きじゃないからね。あれは、僕も驚いたな」

「口付け?! 誰に? ウォノから?」

ミニョクは驚いて大きな声を出した。だが、神の御子という、あの地下で守られている人と同じ存在をつい呼び捨てにしてしまい、思わず口元を覆う。マークがずっと呼び捨てにしているので、つられてしまったのだ。
キヒョンは少し照れる。あれには、自分だって驚いた。キヒョンが一番驚いたはずだ。
あの人の気配がする、なんて、どういう意味だろうと考えて、キヒョンはある可能性に思い当たる。それは忘れもしない。キヒョンがあの人の指を口に含み、血を舐めた。自分でも不思議な行動だ。
その話をマークにすると、彼は納得したようだ。

「ああ、じゃあ、それですね。あなたの中に感じた気配というのは。その地下に眠っているその人も、あなたを気に入っているようですね。王子には何か、御子に愛される要素があるのかもしれません」

キヒョンは訝しげに首を傾げた。国民や配下に次期国王として信任を受けている自信はあるが、あのような特殊な、人と呼んでもいいのかよく分からない存在に、愛される要素など何があるというのか。

「国王に会う必要があれば、会いましょう。2人を会わせてくれるなら。僕は眠っているウォノの代わりに話をするために、今ここにいるのです」

魔術師というのも、やはり人と呼ぶには似合わない存在なのかもしれない。国王という存在には、身分が伴わなければ、普通、会おうと願っても会えるものではない。それを、会う必要があれば会おうなどと言ってのけるのは、不敬であり傲慢である。だが、マークにはそのような感覚はない。それが分かるから、キヒョンも言葉には少し引っかかるものがあっても、何も言えなかった。何にしても、まずはキヒョンが国王に話をする必要があった。

「陛下は忙しい。だが、ことは特殊だ。できるだけ早く、あの場所へ行けるよう努力すると、わたしは約束しよう」

「ウォノのために、よろしくお願いします」

ウォノとマークは、しばらくその部屋に滞在することになった。ここは王子のための宮殿の、さらに私的な空間なので、人の出入りは限られている。
ウォノは清らかな水しか必要としないし、ほとんど眠っている。マークは、「自分のことは気にしてくれなくても良い」と言ったが、そういう訳にもいかない。どのような言い訳を使って、料理を1人分増やそうか、とキヒョンは気を揉んだ。

5.5

ウォノは眠っていた。夢を見ていたが、いつものような過去の罪業を突きつけるものではなかった。懐かしい人がいた。夢を通して、自分に会いに来たのだろう。直接来れば良いものを、と思ったが、来た所で自分は寝ていることの方が多いのだから、夢の方がちゃんと会える。

『会いたいかい?』

イヴが聞いた。誰に、なんて、聞かなくても分かる。ウォノは頷いた。

『会わせてくれるの?』

『まだ、迷っているよ』

ウォノは少し笑う。魔術師たちに長老と呼ばれて、自分と同じほど、長い時間を生きていると言うのに、それでも迷うことがあるのかと不思議だった。
だが、生きている時間は、何も関係がないのかもしれない。もしかしたら、生きている時間が長い方が、悩みや迷いも増えるのではないかと感じた。時間の長さは、経験の豊かさとそれに対応する能力とは、イコールではない。
自分も迷う。自分の存在自体を迷う。なぜ存在しているのかを迷う。それは、時間に関係がなく、自分自身にいつも襲いかかる問いかけだ。
なぜ自分は、ここにいるのか。
大切な人を傷付け、眠りに追いやり、自由を奪った自分が、周囲に守られながら眠る権利などありはしない。それでも自分は守られながら、眠りを貪っている。それはとんでもない裏切りのようだ。

『彼は安全な所で眠っている。君が心配するには及ばない』

それは以前にも聞いた気がする。同じように夢の中で、イヴから。だけど、この眼で見なければ、それが安全かどうかは分からない。彼を信じていない訳ではない。むしろ、この世界の中で一番信頼する人物だ。だが、過去の自らの行いを省みて、そこが、いくら安全と言われても、信じることはできない。自分がすべてを破壊したのだ。そこには、何もなかったのだ。

『連れて行ってくれる?』

マークに言ったように、決意を持って、ウォノは言った。イヴがそうしてくれると、信じていた。

『…君が望むなら、そうしよう』

『ありがとう』

ウォノは心からの礼を言った。夢の中なのに、涙がとめどなく流れる。呆れているようなイヴの感情が読み取れる。泣き虫だとでも思っているのだろう。だけど、仕方ないじゃないか。自分が身に余るほどの愛と慈しみを受けていることを知って、涙を流さない人がいるだろうか。自分は人とは違う。だが、人より優れているとも思わない。人間など取るに足らないちっぽけな存在だと思っていたのは、いつの頃だったろう。今はむしろ、未熟であるかもしれない、と感じている。何も知らないままに育ち、何もできないのに、汚れた世界に放り出された。怒り、暴れる以外に、感情を現す術を知らなかった。少しずつ、少しずつ、世界の理を、この先の道を教えてくれたのはイヴであり、そして、そんな自分の側にいてくれた大切の分身。
会いたい。君に会いたい。また、自分の側にいて欲しい。
離れ離れでいるのは、間違っていると思うんだ。昔の怒りと憎しみに満ちた自分ではもうないから、会いに行けば、また微笑んでくれる?
答えのない問いを、分身へ問いかける。遠い君に、この声は聞こえない。

『あれから、600年だ。これは、君にとっても、長い時間だろう』

『うん、そうだね…』

自分が生まれたのがいつだったかは覚えていない。ただずっと昔だ。生まれた時から、大いなる存在に守られ、愛され、何も不自由を感じずに育った。自分はただ愛されていればよかった。一番美しいと言われた時で、成長は止まり、以降姿は変わらない。そのことを嫌だとは思わない。大いなる存在が言った通り、自分はこの姿のままで、美しいままでいればいいのだ。分身と呼ぶ、ヒョンウォンも同じだ。自分と同じく、愛される存在として生まれ、育った。
大いなる存在は去り、自分たちは置いていけぼりにされ、今はもう、すべてが過去だ。自分自身の罪さえも、過去になった。それだけの時間が過ぎても尚、自分は、迷うというのだろうか。大切に人に会うことさえ、その人に、心から謝ることさえも。
そうではない。
君に会いたい。君に謝りたい。ありがとうと言いたい。愛していると言いたい。俺たちには言葉さえ必要ないけれど、声に出して言えば、耳に届いて、身体に響いて、心に見えるだけよりも、より伝わると思うんだ。

『伝わるよ。恐れることはない』

イヴの言葉に、ウォノはいつも癒される。彼は本当に優しい男だ。

『君にも、ありがとう』

涙を止めて、ウォノは笑顔を見せた。

6 変革の予兆

王子から「2人きりで、すぐにお会いしたい」という申し入れを受け取った時、王は訝った。この前の親子としての昼食以来、2人きりの親子の時間を持てていない。仕事としては様々な場で会うし、会えば話をする。それでは出来ない話など、何があるだろう。王は話を持ってきた側近に聞いた。

「用件は聞いているか?」

「伝承について、と一言だけ承っております」

仕事の手を一瞬止めて、王は考えた。地下への道を用意してやった後、王子は「会えました」とだけ言った。起きている所に出くわしたらしい。「それは僥倖である」と王は返答した。本当にそう感じた。再びあの場所へ行く気はないが、あの人が起きている所は、少し見てみたい気もした。
伝承についてとは、つまり、あの人に関することだ。そうと分かっても、今更何があるだろう、と思う。だが、すぐに聞くべき話だと感じた。

「夜でも構わぬ。一両日中に時間を作ってやれ」

「畏まりました」

 ***

外国からの賓客を招いた晩餐会の後、王と王子は2人で会う約束をしていた。共に晩餐会に出席して、近い席に座っているのだが、賓客を交えての当たり障りのない会話しかできない。長いだけで、特に楽しくもない時間がようやく終わる。気を使う仕事の後で、疲れていたが、大事な話だった。ミニョクとともに王の私室へ向かう。
以前の昼食時と同じ、3人きりの場所だった。ミニョクがそれぞれの杯に酒を注ぐ。王はそれを飲み、なくなればミニョクが注ぐ。だが、ミニョクもキヒョンも自分たちでは飲まなかった。

「お時間を作っていただき、ありがとうございます」

「伝承について、だったな」

「はい」

キヒョンは話し出すのに、緊張していた。王がどのように感じるか、捉えるか、分からないからだ。緊張を言葉に出さないよう、感情を自制して、キヒョンはなるべく丁寧に説明しようとしたが、どこから話し出しても、王にとっては唐突な印象を受けるだろうことは明らかだった。

「先日、友人らと狩りに出かけた折、わたしはある人物と出会いました」

王はキヒョンを見た。人と会ったなど、知らない。あの時、キヒョンは突然体調を崩したということで、翌日も仕事を休んでいたことは聞いている。

「体調を崩したというのは嘘です。言わば、その時、出会った人物と話をするための時間を持つための口実でした。わたしはその時―――魔術師と出会いました。そして、あの地下にいる人と同じ色を持つ、人とも、出会いました。2人は共におり、ほぼ同時にわたしの前に現れました」

王子の突然の体調不良を聞き、王は深く心配した。それが嘘、口実と知って、一瞬怒りが湧いたが、その後に続いた言葉に、耳を疑う。魔術師とあの地下にいる人と同じ色を持つ者、神の御子。その2人と同時に、あの山で会ったという。そんなことを聞いても、どうしてすぐに信じられるだろう。

「わたしはどうすれば良いのか分からず、悩み、止む無く、嘘を付いて、ミニョク以外の友人たちを先に帰しました。そして、翌日も仕事を休み、2人の話をしっかりと聞くことにしたのです。まずは、話を聞かなければなりませんでした。わたし自身、2人の存在を俄には信じられなかったのです」

王は黙っている。キヒョンは話を始めても、緊張は変わらなかった。

「魔術師の名はマーク。新たに現れた御子の名はウォノです。ウォノさまも、やはり眠っています。眠っていて話が出来ないウォノさまの代わりに、マークさまが側について、一緒にこの国へ来たということです。ウォノさまはあの地下にいる御子に会いたがっています。マークさまも2人が会うことを望んでいます。そして、わたしも…、会わせてあげるべきではないかと思っております」

「恐れながら、陛下。わたしも、殿下と同感です。600年、別れ別れだったお2人を、会わせて差し上げることは、必要なことと思います」

王は額に手を当てて、息を吐き、悩んでいた。キヒョンの言葉を疑う訳ではないが、俄には信じられない話だ。現在、地下で眠るあの人の存在は、長く秘匿されていた。宰相に話をしたのは、彼が話を持ってきたからであり、信頼できる者だからだ。いつ知っても変わらない秘密だから、即位するより前に知らせた。それはやはりいけないことだったかもしれない。魔術師と御子という特殊な存在が、あちらから会いに来たというのも変な話だ。王子が何も知らないままだったなら、どうしたのだろう。何を話したところで、理解できないだろうに。会いに来るのならば、なぜ王である自分ではないのか。

「今、どこにいる?」

長い沈黙の後、王が呟いた。キヒョンは何のことか分からずに、答えに少し戸惑ったが、あの2人のことだと思って、慌てて答えた。

「わたしの部屋です」

突然、王が立ち上がる。すたすたと歩いて部屋を出ようとするので、キヒョンとミニョクも慌てて後を追う。

「あ、あの…?」

どこへ行くのか。キヒョンは躊躇いがちに聞いた。

「その者の元へ案内せよ。わたしも会おう」

「え! …あ、はい。はい、そうですね。会ってくださるのなら、ありがたく存じます」

王の突然の行動に、護衛たちは慌てた。王が君臨する場所に合わせて、警備の配置も変わる。王の御座が一番の要である。王の行動の予定は警備兵、近衛兵たちに共有され、守りに隙がないよう、綿密な計画の元に兵が配置されている。それが、突然、王子の宮殿へ向かうという。そこで王子と酒を飲みなおすという。予定にはなかったことだ。王子の宮殿も、守りは固いが、それとこれは別の話だ。警備を担当する者たちは戸惑ったが、異論を唱えるなどできず、我らが王らしくない、とは思いながらも、次々と出される司令に従い移動を開始した。
王の後に続くようにして、キヒョンとミニョクは王子の宮殿に向かう。王がマークたちに会おうと言うのなら、秘密裏に、マークたちを王の元へ連れて行こうと思っていたが、思わず王の方がお出ましいただくと言う。しかも、突然。
キヒョンはやはり王はお怒りになったのかと感じて、申し訳なさを感じていた。警備兵たちは大変だろう、とミニョクは思ったが、自分が言うべきことは何もない。警備の指揮管轄は、黒公爵家に連なる者たちである。

王は怒っているのではなかった。疑問はある。地下の者に会いたいのなら、なぜ王ではなく王子の元へ現れたのか。自分の元へ一番に現れていたら、このようなまどろっこしいこともないものを。だがその疑問を王子にぶつけても、王子が戸惑うだけだ。王子も、なぜ自分の元へ来たのかなど、分かっていないに違いない。時間を開けるつもりはなかった。すぐに行動し、すぐに真意を問いただしたかった。魔術師に。そして、もう1人「神の御子」がそこにいるのなら、会いたいと思った。

ヨンミンが慌てた様子で、ウォノが眠る部屋に飛び込んで来た。ウォノは相変わらず眠っていて、マークはジュホンが持ってきてくれたこの国の歴史に関する本を読んでいた。

「あ、あの、申し上げます。国王陛下が、間もなくこちらへ御成でございます」

「僕たちに会いに?」

「そうであると思われます。殿下と宰相閣下もご一緒です」

「わかった。ありがとう」

ヨンミンもグァンミンも、未だ魔術師と御子という存在に、多少の恐れを感じていて、その部屋に入ることすら躊躇いを覚えていた。だが、王が来る。その理由は、ただ1つ、彼らに会うためとしか考えられない。グァンミンは、今は王子の側にいる。ヨンミンは宮殿に残り、彼らの世話を言付かっていた。することなど殆どない。お茶を入れたり、食事を出したり、それくらいだ。ウォノが目覚めた時のために清らかな水を、毎朝、毎夕、祭祀殿の側の井戸から汲むのだが、それでいいのかな、と王子は疑問に思っている。だが、あの地下から水を汲む方法などないし、とりあえずウォノさまはまだ眠っていて起きないので、特に問題は起きていない。この水が受け入れられなければ、また考えれば良いとキヒョン以外の皆は考えていた。

グァンミンが先行して、王子の私室へ入ってきた。

「陛下の御成でございます」

ヨンミンは床に膝をついて、頭を下げる。ウォノが眠る部屋への案内は王子がした。その寝室には、王、王子、宰相、そして魔術師と御子、その5人のみがいて、そのような高貴なる者たちだけに伝わる話をする。
ヨンミンもグァンミンも、扉が閉まってから、ほっと息をついた。ヒョヌはその部屋の扉を守るように、立っている。
女中が酒とつまみ、おかずを用意して持ってきた。王子の側近2人はそれを受け取り、私室への侵入を許さない。とりあえず、用意して待っているが、すぐに済むような話でもないだろう。お茶を飲んで待つしかない。ジュホンを交え双子はお茶を飲む。ヒョヌも誘ったが、自分の役割に忠実な戦士は断った。

部屋に入って、王は驚いて、一瞬足が止まる。本当に、寝台に、青い髪の、あの地下にいる人と同じような雰囲気の青年が寝ている。寝台の側の椅子に座っている若者は、一見普通の人間に見えるが、キヒョンの話の通りなら、彼が魔術師なのだろう。
キヒョンが勧める椅子に王は座る。その隣にキヒョンも腰を下ろし、ミニョクは立ったまま部屋の隅に立つ。魔術師は王を見ても、立つこともなく、礼をすることもなく、座ったまま、ただ静かに微笑んでいる。不遜な奴だとは思ったが、魔術師には、人間社会の身分など、取るに足らないものなのかもしれない。

「国王陛下でいらっしゃいますね? お許しが出れば、こちらから伺おうと思っていましたが、わざわざ来てくださってありがとうございます」

「この国へ、わざわざ王子に会いに来たのは、そちらであろう」

王の言葉に少し棘を感じたのは、王子だけではないだろう。

「王子はただの中間に過ぎません。ああ、いえ、王子という身分は関係ありません。この国へ来たのは、ここにもう1人の神の御子がいるからです。その人に会いに来たのです。ここに眠っているウォノが、その人に会いたがっています。僕は、僕だけではなく、ウォノを守ってきた我々魔術師は、2人を会わせるべきだと考えています」

「魔術師の総意であると? こちらの都合も、関係ないということか?」

マークは、王が放つ威圧感も、何も感じていないようだった。淡々と、あるいは飄々と、ここへきた理由を、2人を会わせるべき理由を述べる。

「何か不都合がありますか? あの人は、600年前、この国の王に託された預かり人でしょう? 大切に守ってきてくださり、ウォノに代わり感謝いたします。返して貰おう、と言うのではありません。ただ、2人を会わせてあげてください。長い時を経てようやく、ウォノがあの人に会いたいと言ったのです。僕は、嬉しかった。かつての王にあの人を託した者も、きっとこの国で眠り続けてきたその人も、嬉しく思っていることでしょう。2人を会わせてあげてください。それを許してください」

いくら600年守ってきてくれた王国とその国の王であっても、本来ならば、許しを乞う必要などなかった。拒む権利など、王にはないと、マークは考えている。だが、争ったり、無理強いしたり、強硬に対応するつもりはない。穏やかにことが進むなら、何の妨げも設けられることなく、2人が会えるのならば、それで良い。
王は黙っている。悩むというよりも、迷っていた。戸惑いが、結論をぼやけさせる。拒む理由はないように思える。マークの言う通り、あの人は600年前に託された「預かり人」に違いない。託したのが魔術師だったのならば、むしろ拒む権利はこちらにはない。だが、600年続いた伝承であり、伝統を、たった今知ったばかりの事実を元に、すぐに結論を出すことができない。祭司の意向も、伺う必要があるのではないか。

「拒めば、どうなる?」

「拒む理由など、あるはずはない。何を迷います。あの人の眠る場所に、案内してくれるだけで良いのです。あとはウォノとその人の問題です」

王は眉を顰め、不快感と苦悩を示した。国王として感情を露わにすることは、めったにない。マークは寡黙な方であるが、ここは言葉を費やした。

「突然の申し出で、戸惑っておられるのですね。それについては、お詫びしましょう。ですが、もっと早くても、遅くても、いずれ我々がこのように話をする時は来ました。それが今だっただけです。あなたは聡明な王であると聞いています。迷うことはありません。2人を会わせることは、間違いではなく、そうあるべきことだからです」

マークはもう少し言葉を続けようかと思ったが、そこまでで口を噤んだ。続けるつもりだった「本来なら、王の許しは必要ない」という言葉は、王の自尊心を傷付ける言葉だと考えたからだ。王子同様、この王も話が通じる人だと感じていた。
沈黙が続く。王とマーク以外、言葉を発する人はない。
ウォノはまだ眠ったまま、目覚める気配がない。分身の側にいるのに、なぜだろう、とマークは思っていたが、覚醒と入眠のタイミングは、本人にだって分からないものだから、仕方がないことだ。

「…いつが、良いか」

「今すぐでも」

キヒョンもミニョクも、ほっと小さく息をつく。2人が会える。それが分かって、ほっとして、なぜだかとても嬉しかった。

「明日でもよいか。あの場所に入るには、祭司に伝えねばならない」

「構いません。ありがとうございます」

「いや…」

マークが言う通り、拒む理由も必要もない。恐らくは、権利すらない。王は眠る御子を見る。地下にいる人よりも、男らしい体格と顔立ちだが、それでも美しいことに変わりはない。最初は似ているようにも思えたが、よく見ていると、顔立ちは全然違う。髪色などから、雰囲気が似て感じるのだろう。
その時、その人の瞼が震えた。小さな瞬きの後、ゆっくりと眼が開く。目覚めたのだ。
神の御子の青い瞳を、王はその時初めて見た。惹きつけられて、眼を離せない。ウォノという名前だと聞いた。そう言えば、あの地下にいる人の名前は何と言うのだろう。王は聞いたことがなかった。
ウォノは眠気でぼうっとした表情で、見たことのない中年の男の方を見る。その隣に王子がいる。彼の中には、ほんの少しだけ、分身が感じられて、彼自身からも魅惑的な音色がするから、気に入っている。一緒にいるはずのマークは、反対側を見るとちゃんとそこにいて、いつもの笑顔を見せてくれた。

「ちょうどいい時に起きてくれたね。水、飲む? 気に入るかどうか、ちょっと分からないけど」

ウォノは頷いた。
夕方に汲んでもらった水を、マークは彼の首を支えて、ウォノに飲ませる。一口飲むと、ウォノは口をへの字に曲げた。

「まずい」

キヒョンは心配が当たって、さらに心配になった。やはり、王が言っていた通り、祭祀殿の側の井戸にある水は、もうそれほど清らかなものではないのだ。やはりあの地下から、水を汲んでくるべきだ。だが、できるだろうか。
その時、王が声を出して笑った。そう言えば、牢屋の井戸を掘ることになった逸話を話してくれた時も、王は笑っていた。神の御子という、神秘そのものの存在が、あからさまに不味そうな顔をしたのが、神秘には不釣り合いで面白いのだろう。
笑われて、ウォノは唇を突き出すようにして、子供が拗ねているような顔をした。それを見て、キヒョンも笑ってしまう。

「なんで、笑う? まずいよ、その水。きれいじゃない」

「うん、そうかな、と思っていた。ごめん。みんなが笑ったのは、ウォノの表情がかわいいからだよ」

「俺はかわいいんじゃなくて、かっこいいんだ」

「はいはい、そうだね」

軽くあしらわれて、ウォノはまだ拗ねている。なんだか不思議だ。マークがあまりにも普通の友人のように接しているからだろうか。地下にいるあの人は、とにかく神聖な存在だと感じられた。それと同じ存在なら、ウォノだってそういう神聖さを感じても良いし、寝ているところを見ていれば、確かにそのようにも感じたが、起きて、話をして、表情を見せてくれたら、何だか親近感が湧いてくる。

「あ、あの、まだお水、我慢できますか? もう夜遅いので、明日の朝、清らかな水を持ってこられるようにします」

キヒョンが思い切って、ウォノに話しかけた。井戸を通して、食事を遣り取りしているのだから、その井戸を通して、チャンギュンに願い、水を上げてもらおうと思っていた。

「うん、わかった…。我慢する」

「ありがとうございます」

別に礼はいい。汚れた水を飲むくらいなら、我慢する方がいい。

「ウォノ、明日、あの人のいる場所に連れて行ってくれるそうだよ。ようやく、会えるね。ちゃんと会って、ちゃんと話をして」

「会えるの? やっぱり、すぐ側にいるんだ?」

「そうだよ」

ウォノが笑った。本当に嬉しそうに。その気持ちが伝わってきて、王も王子も微笑んだ。この人がそうやって笑うなら、会うことを望んでいるのなら、叶えてあげたい。王でさえそう感じた。

 ***

チャンギュンはその夜、一睡もできなかった。見守るその人が、寝ようとした頃に起き出して、一晩中起きていたからである。
起きる日も時間も、人間の都合には関係ない。その人が起きていれば、チャンギュンもまた起きている。そうするものだと教えられていたし、言い付けを守るというよりも、そうするべきだと思っていた。
だが、王子が来て、愛を自覚した今、その人の姿を見続けることは、苦痛さえ感じる程になっていた。
水を飲む、花を食べる、水辺で遊ぶ。光を見つめる。本を弄んだり、器を転がしたりするのも、遊びの1つだろうか。それらも一段落して、その人は寝台に横たわり、手元に置いたままの本をぺらぺらとめくっていた。落ち着いているようなので、チャンギュンは話しかけてみた。

「あの、御髪を整えましょうか? 長くて、邪魔なことはありませんか?」

だがその人は、チャンギュンの方を見ない。寝返りをうって、背を向けてしまう。言葉に答えがないことは、今までと同じだ。なのに、感じ方は全く違った。自分には、意思を示してくれない。自分を、見てくれない。悲観的な思いが心を占める。眠たいが、眼を瞑ると、以前、花を食べてもらおうとした時に、顔を背けたその人の表情が脳裏に浮かぶ。背を向けられた時と同じ悲しみに、涙が零れそうになるが我慢する。すぐ側にその人が、まだ起きているから。
衣擦れの音がした。反射的に眼を開けて、起き上がる。
その人は自分で歩いて、水辺に行く。チャンギュンも静かに後をついていく。両手で水を掬う。掬った殆どを零しながら、少し残った水を飲む。長袖が濡れる。上手く手で掬えないことが可笑しいのか、笑っている。声が聞こえてもよさそうだが、聞こえない。
声を聞いてみたい。
いけない。こういうことを考えてしまえば、止まらなくなって、さらに苦しくなる。
チャンギュンは眠ることにした。その人を置いて、自分の寝台に横になる。壁を向いて、音がしても、眼を瞑る。自分から、その人に背を向けるのは初めてのことだった。王子が来て以来、初めてのことばかりだ。
けれど、チャンギュンは眠れない。眼を瞑っているだけだ。だから、気付かなかった。青い瞳が、自分の背を微笑みながら見つめていたことを。

 ***

囚人用の朝の食事を運んでいる途中、王子の側近と名乗る若者が近付いてきた。同僚はその名乗りを怪しんだが、男はそれが事実だと分かっていた。以前、話を聞かれたことがあるからだ。その時は宰相の側近と名乗っていたはずだが、牢屋番の男にすれば、王子でも宰相でも、雲の上の高貴な存在には変わりない。
あの地下のことは、王子さまもご承知のことなのだろうか。そんな高貴な方々も関係することだったのかと、食事を運ぶ牢屋番たちは恐ろしくなった。少年っぽさも残るその側近の若者は、初対面であるように振る舞いながら、言った。

「仕事の邪魔は致しません。ただ、井戸の底に食事を下ろしていますね。王子もすでにご承知のことで隠す必要はありません。わたしはキヒョン王子の命令で、あの井戸へ行かなければならないのです」

側近の若者ジュホンに、王子の御印も見せられ、牢屋番たちに否やはなかった。井戸のことはずっと秘匿されていたことだが、周囲に人はいないし、彼がついて来ることは可能だ。
牢屋に入り廊下を進む。半地下へ下りる階段の手前に、扉がある。1人が鍵を開け、1人が食事を持ち、後ろにジュホンが続く。誰かに細工されないよう囚人の食事も扉の内へ入れて、鍵を閉める。
ジュホンがここに入るのは2度目だった。以前ここに入った時は夜で、牢屋番ではなく牢屋を管理する兵長の案内で入った。今回は地下の住人とコンタクトする必要がある。だから、食事の時間に合わせて来たのだ。
水を汲むための桶に食事が置かれる。ジュホンはそこに王子の書いたメモを入れた。

「下ろしてください。いつも通りに」

桶を下ろしながら、男はついそのメモを盗み見る。無造作に置かれているので、全文ではないが、一部、読むことができた。「泉の水をください」とある。どんな内容かと思えば、読んでもさっぱり意味が分からない。
下ろして、いつものように食事を受けとる感覚が縄を通じて伝わる。いつもはすぐに、上げてもよいという合図があるのだが、今日はいつまで経ってもない。メモを読んだのだろうか。それで、どうするつもりなのだろう。水など、どこにでもあるのに。
ただ何もせずに待つ時間というのは、実際以上に長く感じる。10分にも20分にも感じた時間は、だが実際のところ、5分程しか経っていなかった。
上げてもよいという合図とともに、桶を引き上げる。いつもより重い。不安定な感じがして、注意して引き上げなければならなかった。
いつも蓋つきで食事を下ろすので、返って来るときも蓋が被せてある。メモはもうない。ジュホンがその蓋を取る。すると、膳の上には水の入った大きめの椀が乗っていた。
男は驚いたが、ジュホンは喜び、蓋を閉め、膳ごと持った。

「協力、感謝します。王子のご要望も果たすことができました。では、僕はこれで失礼。どうぞ、仕事の続きに励んでください」

ジュホンの背を見送る。井戸でいつもより時間がかかったので、囚人たちへの配膳も少し遅れて、それに文句を言われつつ、男の気分は落ち着いていた。地下には、毎日2食必要とする人間が住んでいる。ちゃんと意思疎通の図れる人間が。恐ろしいばかりだと思っていたが、男のその恐れは、晴れたとまでは言わないが、少し薄れていた。

 ***

一睡もできないまま、うとうととしていた時、食事が下りて来る合図が聞こえた。慌てて身を起こして、井戸に向かう。食事が下りて来る。
また初めてのことが起きた。膳の蓋の上にメモがあった。こちらから上へメモを送ることはあっても、上から下りて来たことはない。食事と共に手に持つ。明かりを持っていないので、文字が見えない。部屋に入ってから読むと、それは思いもかけない内容だった。

〈寝室の奥の、泉の水をください〉

誰がこれを書いたのか名はないが、そこに泉があることを知っている人間は少ない。瞬間的に、王子だと思った。裏にも文字があるようで、裏返す。

〈今日、再び、行きます。新たな御子が地下の御子に会いたがっています〉

その衝撃を、誰が知るだろう。立っていられない程のそれを、チャンギュンは誰とも共有できないまま、従うべきか否か、1人で決めるしかない。
新たな御子。ここにいるその人と同じ御子と呼ばれる存在が、他にもいるというのか。そんなこと、考えたことがない。唯一無二の存在だと聞かされていた。
どのくらい、じっとしていただろう。水を用意しなければ、と思った。上げなければ。そう考えると、身体が自然と動いた。
寝室を通る時、寝台の上のその人を見ることは、チャンギュンの習慣、あるいは癖だ。通りすがりに、ふと、寝転んでいるその人を見る。
すると、眼が合った。
心臓が跳ねる。足が止まる。眼が合うのは初めてだ。この人の眼は、こんなにきれいで澄んでいたのか。泉の水のようだ。
水を上げないと、と思い出す。そうしなければ、と強く思った。眼が合った驚きはすぐに薄れる。水辺に行き、大きめの陶器の椀を選んで、たっぷりと水を湛える。当然のように、花を2輪程摘んで、水に浮かべた。
それを持って、再び寝台を通り過ぎる時、その人のことは見なかった。水を溢さないようにだけ、留意していた。だから、またしても気付かない。自分の行動を、その人が眼で追っていたことを。

食事の膳は食べ終わった時に、いつもきれいに洗う。膳の上の中心に椀を置いて、埃などが入らないように、また蓋をする。水が溢れないか、心配だった。上がっていく桶を見上げたら、人影が見えた。桶を引き上げる人影。チャンギュンはびっくりして、すぐに部屋に戻った。そこに人がいるのだから、見えるに決まっている。見上げたのは初めてだ。関心を持ったこともない。
落ち着いてくると、いつもの静けさがあると気付く。空腹と眠気を同時に感じた。ちゃんと朝食を平らげ、膳を洗い、眠ることにする。掃除は毎日しているので、1回サボったくらいどうということはない。
寝室に入ると、その人も寝ていた。チャンギュンも自分のベッドに横になる。
今日来るって、いつ来るんだろう。
そんなことを考えながら、だがすぐに眠りに就いた。

6.5

懐かしい気配がした。嫌なことを思い出すのと同時に、そんなものを引き合いに出すには不釣り合いな高潔なものだった。
ああ、とても懐かしい。もうそんな風に感じる程に時が過ぎたということだろうか。
その気配と共に、いつも見る夢を思い出す。あの人とあの夢はいつも一緒だ。それは夢ではなくて現実で、あの人がいてそれが起こり、今眠っていることに繋がるのだ。
ヒョンウォンは眼を開けた。来てくれたんだ、と思って微笑む。
とても嬉しいけれど、自分の罪や過ちをさらけ出すことだから、少しではなく、大分、苦しい。でも会いたかったから。ずっとずっと、会いたかったから。ようやく会えるのだと思えば、その苦しみだって、平気だ。だってそれは自分の罪なのだから。
君はいつも自分を責めるけれど、君は何も悪くはない。悪いのは、いつも君以外の存在。高潔で、清廉な君は、いつも自分以外の存在のために泣いて、怒り、悲しむのだ。傷付きやすい君に、耐えられないほど大きな傷を与えてしまったのはヒョンウォンの過ちであり罪だった。
側にいる君を感じる。
同じ水を飲もう。きれいな花を食べよう。罪の記憶ではない、同じ夢を見よう。幸せだった頃の、何の愁いもなかった頃の、夢を見よう。
その足で、歩いてきてよ、ここまで。
歩いて近付いて行くのは、自分の方かな。ヒョンウォンは身体を起こして、そう思った。

壁に1ヶ所、明かりがあるだけの薄暗い部屋の中、今が朝か夜かは分からないが、気にはならない。いつも側にいる子供の戸惑う心が強く感じられて、ヒョンウォンは立ち上がって、少し遠ざかる。扉を隔てただけの隣に行くだけだから、本当に少しだけだ。あの子はいつも何か恐れを抱いている。それは自分に対する畏敬であると分かっていても、執着もあり、もどかしさを感じる。嫌いな訳じゃない。むしろ、好きだ。いい子だし、微笑むとかわいい。ある意味、とても純粋だ。
水でも飲もう。手で掬うが、上手く掬えずに、大半は零してしまう。あの子は上手く掬うのに、不思議だ。
水辺に腰掛けて、水に足を浸ける。冷たくて、美味しい水。時折、光が差すこの場所が、ヒョンウォンは気に入っている。
さっきまでここにいた人間のことを思い出す。その人間は、感じたことのない潔さと鮮やかな音色を持っていた。何よりも、側にいても不快感を感じない人間というものに、興味を持った。そして、音色を持つその人間には、昔、出会ったことがある気がした。
いつも側にいて世話を焼いてくれる子供が、自分に向かって、何か言葉を言った。だけど上手く聞こえない。それだけなのに、どうしてそんなに悲しむのだろう。膝を抱えて、手を伸ばせば届く所に転がっていたお椀をころころと弄ぶ。水を掬い、ひっくり返す。花を掬い、水に沈める。手を離すと、また浮かぶ。それを見て微笑む。いつも僕が食べちゃうけれど、花はちゃんと浮かんでくれるものだ。

清らかな水の中は、どこにでも繋がっている。君の元にも。清らかな水は自分を傷付けるものではない。癒やすもの、潤すもの、優しく包んでくれるもの。そう、君はそこにいるね。
分かっているよ。穏やかに眠っていたことを。時折、僕と同じように、過去の罪の夢を見ていたことも。それは君の罪じゃない。僕の罪だ。
もうすぐ、側にいる君にちゃんと出会えたら、ちゃんと伝えよう。離れることを選んだのは自分だけど、君が側に来てくれたから、早く会いたい。

また寝台に横になる。この暗い夜は、起きていられる。君が側にいるからかな。君に水を送ろう。君のために、ここの水を、誰かが望んでいる。
世話をしてくれる子供が、すぐ側を通る時、その眼を見つめた。恐れないで。その通りにして。水の椀を抱えた子供の背中を見つめる。それでいい。
いつも側にいてくれる子供。そんな風にいつも思っているけれど、背中を見つめていて、ふと思う。もう子供じゃないね。君の名前は何と言うのだろう。

7 過去の代償

ジュホンが蓋付きの膳を持ってやって来る。王子はミニョクとマークと一緒に朝食を食べていた。膳の上にはちゃんと水が乗っていた。花まで浮かんでいる。メモには「水が欲しい」ということと「再び行く」という以外、あまり多くは書いていない。無駄に言葉を費やしても、伝わる情報は少ないからだ。
マークが水の椀を持ち、部屋に入る。何となく、3人ともついていくが、ジュホンは部屋に入るのをヒョヌに止められた。
ウォノは寝ているように見えたが、声をかけると眼を開けた。起き上がり、水を飲む。今度は美味しそうだ。ウォノは浮かんでいた花を手で掴み、しげしげと眺めた後、ぽいっと口に入れた。

「おいしいの?」

花など食べるのか、とマークは不思議に思った。

「地下にいる御子さまも、花を召し上がります。ウォノさまは違うのですか?」

ミニョクが聞く。「ウォノさま」という呼び方が慣れなくて、少し照れ臭い。あはっと笑って、ウォノは答える。

「きれいな水さえあればいい。食べるものは必要ないんだけど、あいつは花を食べるのが好きだ。きれいな水に咲く花が。これは、あいつが食べている花なのか? そんな味がする」

ウォノのきれいな、だがどこか無邪気な感じもする笑顔に、キヒョンもミニョクも照れてしまう。水だけでいいのか、と感心する。それに、あの人が食べている花の味、とは、不思議な表現だ。そもそも、地下にいる人は一言も発しなかったが、ウォノとは普通に話している。では、あの人も話ができるのだろうか。あの人と、いつも言っているが、名前は何と言うのだろう。聞けば、教えてくれるのだろうか。

「もう行く? いつ会える?」

「正午の鐘が鳴る時、地下への入口が開けられます。水路を通り向かいます。もう少し、お待ちください」

「正午っていつ? もうすぐ?」

ウォノには時間という感覚がなかった。それを意識する必要が、生まれてから一度もなかったためだ。神とともに育ち、その後は魔術師たちに守られて過ごして、人間としての暮らしというものを知らない。夜明けと日暮れ、時間の流れというよりも、光の移り変わりを強く感じる。

「まだです。また、お声をかけますから」

「寝ていても、連れていってよ。きっとね」

「はい、わかりました」

キヒョンもミニョクも、何だかウォノがかわいく思えてきた。何度か言葉を交わしただけだが、親近感が持てる。子供っぽいというか、拙い口調のためだろうか。
実際に地下へ行った時、あの人に会った時は、神聖な神の御子と呼ばれるのに相応しいような印象しか受けなかった。血を舐めたことも、今から思えばあの人がそのように望んでいたと思える。もしかしたら、この出会いを分かっていたのだろうか。
何れにしても、人知を超えた存在であることは変わらない。
キヒョンもミニョクも、そろそろ仕事に行かなくてはならなかった。朝食は結局途中だったが、腹はすでに満たされている。マークは残っているものを、また食べると言う。
部屋を出るとき、キヒョンは寝台に横たわったウォノに、思いきって聞いてみた。

「あの、ウォノさま」

ウォノは寝台でごろごろしていた。ふかふかで気持ちいい。寝心地の良い寝台を、ウォノは気に入っていた。
昨日起きてから、眠気はそれほどなかったが、今またやって来た。もう少しで会えると言うのに。眠りたくはなかったが、仕方ない。会えば、起きるだろうか。

「あなたが会いに来たその人は、名前を何と言うのですか?」

「彼はヒョンウォン。俺の大切な分身」

「ヒョンウォン、さま」

「早く会いたい」

笑顔の中に、少し切なさが垣間見える。キヒョンは何か言おうとしたが、言えなかった。
600年の時を離れ離れで、会いたくても会えなくて、罪の意識を感じながら、寝て過ごしていたという。時間の長さ、複雑な感情に、軽い言葉は使いたくない。

「ちゃんと連れていってあげるから、心配しないで」

マークが言う。そんな風なものでいいのか、と思う。付き合いの長さ、深さが違うから、キヒョンには言えない言葉を、彼なら適切に言える。
ウォノは笑顔のまま、再び眠りに就いた。

 ***

ミニョクは王が決定したことでも、白公爵は何某かの文句を言うのではないかと思っていた。最初に王子が地下へ行った時、宰相も一緒だったことを知り、白公爵は直接、ミニョクに嫌味を言ってきたからだ。今度は何もなかった。後からあるかな、と思ったが、気にせずに、無理やり時間を作って、自分のしたいようにすると決める。見届ける必要があると思っていた。見届けなければ後悔するような、そんな気持ちがある。王も王子も魔術師も御子も、皆、宰相の同行を許してくれた。だから、大丈夫だ。僕は宰相なのだ、と少し怖い気持ちは抑えつける。

鐘が鳴る少し前、一行は地下への入口の前に立った。ウォノは寝ていて、ヒョヌが抱えている。すでに鍵を持つ男はその場にいた。鍵を開けてもらい、中には入り、階段を下りていく途中、正午の鐘がぼんやりと聞こえた。
ヒョヌは男を1人抱えて重くないのだろうか。足取りはいつもと変わらない。キヒョンは関係のないことを考える。2人が出会えばどうなるのか、考えても分からないし、気が塞ぐだけなので、考えないようにしていた。
以前と同じように階段を下りて、船に乗る。今度はウォノを抱えたヒョヌも乗る。人数が多いので、船の底が水底に付かないか、船頭は何度も確認した。ヒョヌは水深も浅いため歩こうとしたが、何とか乗ることができた。
船が進む。鈴が鳴る。井戸に近付いて行くのが分かる。そこに、明かりを持ったチャンギュンがいた。

以前ここを訪れたことのあるキヒョンとミニョク以外に、戦士のような格好の男がいた。武器は持っていないようだが、戦士ということが気になった。だが今回は、前回王子が来た時以上に、特異な状況だった。
男を1人抱えている。腕の中の人は、大きなフードを被っていて、顔の半分以上が見えない。眠っているのか、身動ぎもない。ウォノは眠っていた。「行こう」と声をかけて、揺さぶってもみたが起きなかった。仕方なくフード付きの長衣を着せて、ヒョヌが抱えて行くことにしたのだ。
全員が船から上がった時、井戸の上から1人の男が舞い降りた。落ちてきたでもない、飛んできたでもない、まさに、優雅にゆったりと余裕をもって、舞い降りたのだ。
その姿を見た誰もが驚いた。彼が魔術師だと知っていたキヒョンたちも、以前と同じく、井戸の上に待機することになっていたジュホンも驚いたのだから、知らなかった船頭とチャンギュンは度肝を抜かれた。だがチャンギュンは、船頭のように腰を抜かすよう失態は堪えた。

「船には6人も乗れない、って言われたからね」

5人でも過剰気味だった。なので、マークは井戸から降りることにした。ただそれだけだが、魔術師の技を初めて見た者は驚いたようだ。まあ、そういうものだろう。
王子たちと向かい合う、白い服を着ている若者だけ雰囲気が違う。清浄な気に包まれているから、彼が御子の側に仕える者だろう。その若者が聞いた。

「あの、今朝のメモは、一体…」

「わたしが書いた。水をありがとう。ウォノさまも、喜んで飲んでくれた」

王子が答える。チャンギュンは「ウォノ」という名前に反応した。それはもしかして、御子の名前か。

「…ウォノ、さま?」

「この、今まだ眠っている御子さまの名前だ。眠っていても、連れていってね、と言われていたので、ヒョヌが抱えている。武器は何も持っていないから、安心してくれ」

チャンギュンはすでに頭が痛くなってきた。その人は気軽に名を呼ばせて、話もする。知っている御子とは大違いだ。

「君、案内してくれるかい?」

上から舞い降りた人が言った。この人も何者なのだ。逆らえない。チャンギュンの知識、それ以上に人知を超えた存在だと思った。魔術師という存在を、彼は知らない。
マークは、ウォノを抱えたヒョヌを先頭にして、チャンギュンに案内を乞うた。ウォノのためにここへ来たのだ。この際、キヒョンとミニョクはおまけと言ってもいい。
その通りの順番で廊下を進み、広い部屋に入る。
部屋の半分も進まない内に、ウォノが身動ぎした。最初に反応したのはヒョヌだ。急に動いたので、落としてしまわないよう、気をつけて抱え直す。

「起きた?」

マークが聞く。ウォノは答えないが、力無く垂れていた腕がヒョヌに巻き付く。抱えられている状態が、少し怖いのかもしれない。

「歩けるなら、自分で歩いて。きっと、あのカーテンの向こうに、ウォノの会いたい人がいる」

その通りだが、なぜ分かるのだろう、とチャンギュンは思った。いや、最初から分かっていたのだろう。

「ある、ける」

ウォノが言った。そっと降ろされて、自分の足で立つ。ウォノは鬱陶しいフードを取り去り、長衣も脱ぎ捨てた。ヒョヌはそれを律儀に拾って畳み、手に持つ。自分の役目は終わったようなものだ。
チャンギュンは驚いた。本当に、あの人と同じ、髪色、瞳。〈新たな御子〉とメモにそう書いてあったことは本当だった。そんな風に思うなんて、心のどこかで疑っていたのかもしれない。〈新たな御子が、地下の御子に会いたがっています〉という内容。それは、今、眼の前にいるその人が、チャンギュンがずっと仕えてきた、ずっと仕え続けると思っていた人に会いに来たということなのだ。
ウォノは「歩ける」と言ったが、ほんの数歩進むだけでも、たどたどしく、ゆっくりだった。進むこと、近付くことが怖いみたいだ。表情が段々と泣きそうになっていく。
マークはすぐ隣で、同じ速度で歩く。600年ぶりだ。以前は、会うことを恐れていたのだから、泣きそうなのも何となく分かる。実際、もう数歩の所に、その人がいる。

「…大丈夫?」

ウォノの歩みは、とうとう止まってしまった。そして、涙が流れる。

「うう…俺…、どうしよう…。近付けないよ…」

マークは、泣いているウォノの背を撫でる。チャンギュンは少し離れた場所で、後の3人はもう少し離れた場所で、その姿をただ見守る。

「会いに来たんだよ。会いたいと言ったでしょう? 会わないといけない。自分の分身だと言っていたじゃない。それは、相手も同じでしょう?」

ウォノは泣きながらも、うんうんと何度か頷く。

「ほら、あそこにいるよ。あのカーテンの向こうに…」

ほんの少し、カーテンが揺らぐ。薄暗い部屋の中でも、分かった。薄布のその向こうに、人影が見えた。
ウォノは膝をついて、声を上げて泣いた。
マークはもう、促す言葉がない。誰も声を発しない。600年の悲しみが籠もったウォノの泣き声だけが、部屋に切なく響く。

「ああ、ああ…、ああ! ごめん。俺が、悪かった…。俺が、お前の大切なものを奪ってしまった…。守りたかったんだ! 失いたくなかったんだ! ああ、ヒョンウォン…。ヒョンウォン!」

悲しみの懺悔を聞いて、ミニョクは涙しながら、キヒョンに抱きついた。とても、1人で立っていられなかった。
マークは、もう後はいいだろうと、ウォノの側から静かに離れた。2人のことは、2人にしか分からない。魔術師であろうとも、神の御子という存在を理解できない。それはまさしく神の領域であり、本来ならば、魔術師とは正反対と言ってもいい程に遠いのだ。

カーテンの薄布の隙間から、人が現れる。
ヒョンウォンは滑るようにゆっくりと歩いてくる。その姿を見て、ウォノはさらに泣き声を上げた。彼は微笑んでいた。幼子を見守るような優しい眼差しで、あるいは愛おしい分身を見つめるように、ウォノを見ていた。
2人の距離が近付く。ヒョンウォンの細い指が、ウォノの頬に触れた。

 ***

ウォノはヒョンウォンの心を強く感じて、眼を開けた。起きようとして、起きることができた。ヒョンウォンも起き上がる。カーテンを挟んで、向かい合う。少しずつ、近付いて行くのだが、ウォノは途中でもう進めなくなってしまった。跪いて、一歩も動けない。あと少し行けば、分身と呼ぶ人の元へ行けるのに。
大きな後悔。深い罪の意識。自分が犯してしまったことだけではなく、彼に犯させてしまったことも、すべては自分の過ちのせいだった。

「ああ、ああ…、ああ!」

嗚咽が溢れる。泣きたいんじゃない。会いに来たんだ。謝りに来たんだ。眠りが繋がっているように、心も繋がっている。ウォノの心は、そのままヒョンウォンに伝わっているのだけど、ウォノは喉を鳴らして、声を絞り出す。

「ごめん。俺が、悪かった…。俺が、お前の大切なものを奪ってしまった…。守りたかったんだ! 失いたくなかったんだ! ああ、ヒョンウォン!」

名前を呼べば、ずっとずっと彼の心が分かる。そんなものは、ずっとずっと分かっていたけれど、ウォノは自分の罪を感じずにはいられなかった。
ヒョンウォンは、一度だって、ウォノを責めたことはないというのに。全て、最初から、ヒョンウォンは誰かを責めることはなかった。ウォノの方が感情の起伏が激しく、いつも周囲を困らせていた。特に、置いていけぼりにされた後から。だけど彼は、すぐ側でいつも穏やかに笑ってくれた。
カーテンの隙間から、ヒョンウォンが歩いてくる。彼の方から、一歩も動けないウォノの代わりに、近付いて来てくれる。
離れ離れだったけれど、忘れたことのない、いつでも脳裏に浮かぶままの微笑みが、眼の前にあった。

(ホソクは泣き虫だね)

懐かしい響きを心に感じる。直接、語りかけてくる言葉。自分をその名前で呼ぶのは、もう彼しかいない。

「ヒョンウォン…」

と彼の口が、ウォノ、と動く。声がなくても、ウォノには聴こえる。自分の名前を呼んでくれるヒョンウォンの声が聴こえる。
細い指が頬に触れる。彼もゆっくりと跪く。膝を突き合わせて、2人で向かい合う。ウォノもゆっくりと腕を持ち上げて、同じ形に、手を彼の頬に添える。額を合わせて、眉間を合わせて、そして口付けた。

1つだったものが、2つになる。最初の形に戻っていく。ウォノはウォノに、ヒョンウォンはヒョンウォンに、2人は1つではなく、別の存在だ。そこに戻っていく。もう一度、2人は2人になった。
もう眠りが重なることはない。心はまだ重ねることができるけれど、もう完全に繋がることはない。
寂しいと感じた。繋がっている時が、長すぎたせいだろうか。彼は分身とも呼べるほど、生まれた時から側にいて、一緒に過ごしていたから。肉体と心以外、全部同じだった。だから、全部1つになれた。だけど、もう、終わりにしないといけないのだ。眠り続ける時は、もう終わりだ。

「…やっと、会えたね」

ヒョンウォンが呟いた。

 ***

ヒョンウォンは神に愛された子供だった。ホソクもそうだ。ホソクと言う名は、彼の母親が付けた名前、ウォノは神が付けた名前。ヒョンウォンと言う名は、神が付けた名前。母が何と名付けたのか、ヒョンウォンは知らない。だから、それを知っているウォノが少しだけ羨ましいと思ったことがある。
2人は仲が良かった。神は2人を同じように愛してくれた。ある時、1人の神が去り、また1人去り、そしてどちらも置き去りにされた。
突然の喪失は、虚無をもたらした。死んでしまう御子も多かった。自ら死を選んだ者もいる。生き残った者たちは、途方に暮れて、人間たちに捕らえられ、崇められる者もいる一方で、汚される者、殺される者、様々だった。仲間たちの悲鳴を心で感じながら、2人は一緒に逃げた。もう1人一緒だったけれど、いつの間にか離れ離れになってしまって、ある時、ぱったりと気配を感じなくなってしまった。死んだのか、と絶望した。
虚無と絶望は、どちらがより行動力を奪うのだろう。2人は澄んだ水もない場所で、倒れたまま動けずにいた。どこか遠い場所で、1人1人消えていく仲間の気配を感じながら、死を選ぼうとしていた。
そこを、魔術師イヴに助けられた。
イヴは無力な御子たちをできるだけ助けようとしていたが、彼が助けられたのは、ウォノとヒョンウォンと、あと2人の、たった4人だけだった。

魔術師の塔で暮らしながら、少しずつ心に受けた傷は癒やされて行ったが、ウォノは反対で、人間への憎しみを募らせて行った。死んだ者たち、汚された者たち、傷付けられた痛みは、同じように感じていた。それを忘れることは、到底できなかったのだ。ヒョンウォンは何とか彼の怒りを鎮めようと言葉を費やしたり、楽しませようと踊ったり歌ったりもしたが、ウォノは言葉を失った。言葉を口にすれば、呪詛を吐き出しそうだったから、自ら禁じたのだ。それで余計に、憎しみの捌け口を失ってしまったのではないかと思っている。
同じくイヴに助けられた別の2人の内、1人は間もなく死んでしまう。その人を恋人と呼んでいた、生き残った1人は、心を閉ざし、姿を見せなくなった。それでも、ヒョンウォンは1人、言葉を閉ざしたウォノの側にいた。離れることは怖くてできなかったけれど、本当は、彼の中の憎しみを感じることも、怖かった。
何百年、何千年、そうしていたことだろう。時間は2人にとって、止まっていたようなものだ。
だから、ある時、陽が昇るのを感じて、ヒョンウォンは決意した。ウォノの側を離れることを。
君を置き去りにするんじゃない。少しだけ、出かけるだけだから。そう言っても、ウォノは信じていなかった。どこにも行くはずがないと考えていた。出かけるだけと言っても、離れてしまえば、悲しむだろうと思ったけれど、ヒョンウォンは魔術師の塔を離れた。

かつて暮らしていた神のいた楽園は、当然ながら、全く姿を変えていて、すっかり人間の国になっていた。それでも構わなかった。人里から離れた場所に澄んだ水を見つけて、そこで過ごした。全くの1人と言うのは、初めてで、寂しくもあり、少し楽でもあった。何をするでもないが、動物たちと過ごし、森を歩き、遠くから人間の営みを眺め、自然の中にいた。
その夜、住処で眠ろうとしていた時、泣き声を聞いた。その場所まで行ってみると、痩せこけた人間の子供だった。人減らしに森に捨てられた子供だった。ヒョンウォンは迷ったが、住処の穴ぐらに連れ帰った。そこは温かいからマシだろうと思った。
人間が何を食べるのか、ヒョンウォンは知らない。水は飲ませて、あとはどうしよう、と思っていたが、子供は案外自分で食べられるものを見つけてきた。言葉は通じるし、子供はヒョンウォンの青い髪と瞳を気に入ったようで、恐れもしない。むしろ懐いてくれた。ヒョンウォンも子供がかわいいと思った。人間には感じたことがない、純粋な瞳を持っていた。
山の中、食べるものは何かはあった。食べるため殺された動物の死の匂いは、いつまで経っても慣れることはなかったが、ヒョンウォンがそれで気分が悪くなってしまうと知った子供は、動物を食べる時は近付かなくなった。すぐに大きくなった子供は、自分の住処を作って、森の中で暮らした。交流は続いたが、子供はいつの間にか皺と白髪が増えて、年寄りになっていた。そして、新しい子供が増えていた。1人、2人、と増えていき、森の中には、貧しい集落で暮らせない子供や、はみ出し者が集まるようになった。
彼らはヒョンウォンを、神を崇めるように扱ってくれたが、ヒョンウォンにすれば、少し居心地が悪くなってしまったなぁ、という感じだ。1人でいることを求めて来たのに。だが、かつて子供だった老人が死んだ時は悲しかったし、子供たちとはその後も交流が続いていた。

それは、ヒョンウォンの油断だったのかもしれない。人間というものに対する油断。かつて彼らに迫害され、追われた記憶はもちろん残っていたが、新しく出会った子供たちが、その記憶を薄れさせてくれた。ウォノが側にいないこともあったし、人間とは恐ろしいだけの存在ではないのだと、ヒョンウォンは信じたかったのだ。だが、それも、油断だったのだろう。
子供たちと森の中で遊んでいる時、突然大勢の人間がやって来て、ヒョンウォンと子供たちを街へ連れ去った。大きな屋敷の中で、魔術師と呼ばれた。違うと言ったが、何十年と姿が変わらないことを証拠にして、そうと決めつけられて、ヒョンウォンは迫られた。

「魔術師よ。子供の命が惜しければ、敵国を滅ぼせ。我が国を勝利に導け」

よくも平気で、酷いことを要求できるものだと感じた。自由を奪われ、子供の命を盾にして、意のままに操ろうとする。
敵とは何だろう。勝利とは何だろう。命とは何だろう。奪わなくとも、消えてしまうものなのに。すべては移ろうものなのに、人間は、奪おうとする。短い生の内に、自分のものにしようとする。何もかもを。
決断を渋っている間に、実際に子供が1人、殺されてしまった。血の匂いに、気分が悪くなる。汚れていく。何をしても、自分は汚れていくのだ。その子供たちを殺さないで欲しい、と願った。だが、その代わりに敵国を滅ぼさなければならない。
結局、誰かは死ぬ。誰かの手で。
ヒョンウォンは引きずり出されて、丘の上から眼下に、敵国だという街を見せられる。滅ぼせ、と言われた所で、人間たちはヒョンウォンに何が出来るかを知らない。何かは出来るはずだと、勝手に決めつけて、無理を要求する。
汚れていく身体、精神。ウォノへ許しを乞う。離れたのは間違いだった。君の側にいればよかった。それなら、誰も殺さずに済んだのに。どうせ殺すなら、ヒョンウォンは誰を殺せばよかっただろう。自分を捕らえた者たちか、自分を魔術師として売った者たちか、枷となってしまった子供たちか、あるいは、自分自身か。だが、ヒョンウォンはその時、要求通り、敵国の街を滅ぼした。川があったから、川を氾濫させた。そうすることが、ヒョンウォンには可能だったから。
突然、理由もなく氾濫する川に、街の人間は慌てふためき、逃げ回る。だが、逃げる場所はない。すべて、大水で覆われる。街はほとんど一瞬で失われた。

涙が溢れる。その後、とめどなく溢れる涙のように、空から雨が降った。その激しさは、ヒョンウォンの心中を荒れ狂う苦しみに似ていた。
どうして僕は、ここにいる? どうして僕は、1人なのだろう? どうして僕は、人間を殺す? どうして僕は、泣いている? どうして僕は、いつ僕は、間違ってしまったのだろう?
ウォノに会いたい。君に会いたい。僕の間違いを叱ってくれないか。君の憎しみを否定した僕を、嗤ってくれないか。
いや、違う。僕はもう汚れてしまっている。血の匂いが消えない僕は、もう君に会ってはいけない。
殺すなら、敵ではない。僕自身だった。僕だったのに。

ヒョンウォンに敵国を滅ぼすことを要求した人間たちは、雨の中でも、歓声を上げていたが、それが悲鳴に変わったことに気付く。そして、自分のすぐ側に、ウォノの気配があることにも気付いた。
彼は激しく怒っていた。美しい顔を憎しみに歪めて、昔と同じように、また新たに、人間を憎んでいた。汚された、傷付けられた、ヒョンウォンのために。
海がすでに滅んだ街に迫る。波が、別の街も巻き込み、人間が決めた国境をものともせずにすべてを押し流していく。ヒョンウォンを捕らえていた人間たちも、枷になってしまった、一緒に遊んでいた子供たちも、もう誰もいなかった。それだと言うのに、ウォノの怒りは収まらない。半島の先だったその場所は、今や海に沈むもうとしていた。川という川が氾濫し、街という街が破壊された。波と雨の水によって。ウォノの怒りによって。ヒョンウォンの間違いのために。
ヒョンウォンは水の上を歩いて、ウォノに近付こうとしていた。魔術師たちも側にいることが分かったが、彼らは誰1人として、ウォノに近付けなかった。誰も、ウォノを止めることができなかった。

「止めるんだ! もうやめて!」

激しい雨に顔を打たれながら、ヒョンウォンは喉の限りに叫んだ。
僕が悪かった。僕はもう大丈夫だから。もう怒りを収めて。もう、これ以上、破壊しないで。この半島を沈めてしまえば、それこそ、今までの比でない程の人間が死んで、その分だけ、ウォノに汚れが移ってしまう。汚れを負うのは自分だ。自分だけでいい。
低い位置の雲に乗って、幾重も津波を起こすウォノに近付いて行く。荒れ狂う水の上は歩きにくい。流れて行く物に足を取られながら、雨の上を歩いて、その雲へ辿り着く。

「ウォノ、もうやめて。もう、いいから。もう、これ以上、やめて。君が汚れてしまうから」

ウォノは何も言わない。彼は今も、言葉を閉ざしたままだ。だが、収まり様のない怒りが伝わってくる。口を一文字に結んで、涙を流して、怒っていた。その心の中には、ひたすらヒョンウォンを想う気持ちしかなかった。

「ごめんね。僕が…、僕が…」

離れてしまったことが、始まりだったのだろう。ごめんね。人間への憎しみを抑えてあげようと思っていたのに、増幅させてしまっただけだ。
ウォノを抱き締める。強く抱き締めて、心を繋げる。身体が溶け合う感覚に、ヒョンウォンは申し訳なくて仕方なかった。自分の痛みや汚れを、彼に移してしまう気がした。それでも、1つにならなくてはならなかった。ヒョンウォンがコントロールできるようにならなければ、ウォノの破壊は収まらない。
何もかもを引き連れて、波が引いていく。大水だけを残して、雨が小降りになっていく。感情が収まるまで、辺りが静かになるまで、眠っていようと思った。

2人で、共に眠りに就こう。いいや、別々の方がいい。眠りに落とすのが僕だとしても、僕は今とても、君の隣では眠れない。疲れたでしょう。きっと、いっぱい、力を使ってしまったね。やればできると分かっていても、したことのない破壊だ。疲れたでしょう。今は、眠ろう。ああでも、その前に、君の記憶を少しだけ、僕に預けて。純粋な君には、破壊の記憶は辛いんじゃないかな。

「イヴ、聴こえる? ウォノを守っていてね」

(君は?)

「僕はいい。ここに置いて行って」

(そういう訳にはいかない)

抱き合う2人が、雲の上で眠りに就いた。雲に乗っていられなくなって、地面に落ちていく。イヴは2人を受け止めた。2人ともを塔へ連れ帰ろうと思った。だが、同じ場所にいることをヒョンウォンは拒んでいた。罪の意識を、2人ともが同じように感じていることが分かって、イヴは辛かった。
地上では戦争が続いていたが、ヒョンウォンを捕らえた南の国は、津波と川の氾濫で大きな被害を受けて、ほとんど戦う力は残っていなかった。そして程なく、ヒョンウォンを使って滅ぼすはずだった中の国に併合された。
ヒョンウォンをこの場所に残すことを、イヴは悩んだが、結局はヒョンウォンが望んだ通りに、置いていくことにした。最終的に戦争に勝った国の王に託すことにした。人間に託すことは賭けのようでもあったが、信頼はできる人間だと感じていた。そこに賭けた。

眠ろう。今は眠ろう。眼が覚めるまで。力が戻るまで。傷が癒えるまで。また会いたいと、思えるまで。眠ろう。それが、一番良い。

8 曳航の未来

抱き合う2人の神の御子の姿を、チャンギュンは瞬きも忘れて、見つめていた。初めて、その人の声を聞いた瞬間、涙が溢れ出た。立っていられなくて、座り込んでしまう。声を出してはいけないと思って、口を両手で抑えて、必死で声を出すまいと唇を噛む。
静かだった。誰も声を出さない。抱き合う青い2人の存在がまさしく、ここを神殿であると知らしめていた。
チャンギュンは、なぜ泣いているのか、自分でもよく理解できていなかった。声が聞けて嬉しい、微笑んでいて嬉しい、会いたい人と会えたようで嬉しい。でも、どこか悲しい気分もある。よくは分かっていないものの、自分の役目が終わってしまったということは分かっていた。あの人は目覚めたのだ。長い眠りから覚めたのだ。自分はあの人が、ただ静かに眠るために地下で暮らしていたのだ。目覚めたのなら、もう自分は必要ないと感じていた。
キヒョンは必死で泣くまいとしていた。なのに、隣でミニョクが泣いている。よかったよかったと言うように、頻りに頷きながら泣くから、それが移ってきてしまったように、涙が零れそうになる。それを我慢していたら、一言も発することができない。

動いたのは、ヒョンウォンだった。立ち上がり、ウォノを促して、2人で並んで立つ。そうしたら、ヒョンウォンの方が背が高い。随分と細長い人だったのだな、とキヒョンは変なことを思った。2人は手を繋いで、無言のまま、カーテンの向こうに消える。

姿が見えなくなった途端、場の空気も変わったと感じた。ようやく息がつけるくらい、空気が緩んだ気がした。キヒョンはへなへなとその場に座り込む。ミニョクが慌てて支えてくれようとするのだが、彼も一緒にへたり込んでしまう。ヒョヌが側にやって来て、言葉はないままでも、大丈夫かと気遣ってくれる。彼を安心させるために、片手を上げて微笑む。何もしていないのに、随分と疲れてしまっていた。
マークは、やはり平気そうに、御子たちが消えたカーテンの向こうに行く。2人に話しかけているらしい声が聞こえた。

「また眠るの? …そう、わかった。ゆっくり眠って。僕は側にいるから」

そして再びカーテンの奥から出て来る。座り込んだキヒョンの方へやってきて、しゃがんで、目線を合わせて話をしてくれた。

「2人はまた眠るみたいです。“疲れた”って。せっかく600年の眠りから覚めたって言うのにね。僕は彼らが目覚めるまで、ここにいるつもりだけど、いいですよね?」

「ああ、分かりました。構いませんよ。マークさまは―――」

「“さま”はいりません。あと、敬語も。あなたは王子でしょう」

マークはにっこりと笑って言う。キヒョンは意表を突かれて、ほけっとしてしまった。言葉を遮られたことは、全く気にならない。にっこりという表現がぴったりな笑顔が、何だか毒気が抜かれてしまうのだ。それに、その言葉の通りだ。何となく、敬称と敬語を使っていたが、思えばなぜだろう。魔術師という存在に、敬意を払っていたというか、畏敬を感じていたのだと思った。

「そう、だな。マークがここにいてくれるなら、助かる、と思う。王にはわたしから伝えておこう。2人をよろしく頼む」

「ありがとうございます」

キヒョンはヒョヌの手を借りて立ち上がる。そして、座り込んで、まだ泣いているチャンギュンに近付いて、その側に座った。

「チャンギュン、大丈夫か?」

暗い顔で、ずっと泣いている。幼い頃から、ずっと地下で、たった1人、ヒョンウォンの世話をして、ヒョンウォンのための人生を歩んできた彼には、ここ数ヶ月の内に起こった大きな変化は、対応するのには困難なことかもしれない。呆然としているようにも見える泣き顔が、キヒョンには少し辛かった。
言葉に返事はなかったが、キヒョンは言葉を続けた。

「君も、もう少しここに残ってくれる? 2人の世話をお願いしたい。御子さまの世話を一番よくできるのは、君だと思うから。それとも、地上に出たい?」

意外なことを言われたというように、チャンギュンがキヒョンの方を向く。

「僕も、残っていて、いいのですか?」

キヒョンには、その疑問こそ意外だ。

「もちろん。ずっとヒョンウォンさまの世話をしてくれたのは、君じゃないか。お2人がこの後、再び目覚められた後、どうされるかは分からないけれど、それまでは、これまでと同じように、ヒョンウォンさまの側にいる方が、御子さまも安心されるのではないか、と思うよ」

「分かりました。…ありがとう、ございます」

あの人が、自分の存在などで安心するかは自信がない。チャンギュンは、キヒョンがあの人の名前を口にしても、自分ではまだできなかった。こんな所で、王子相手にその名前を出したくないということもある。この口で、声で、その名前を呼ぶのなら、直接呼びかけたい。
それは、許されることなのだろうか。僕の名前も、呼んで下さるだろうか。目覚められたなら、それはそれで、また新しい恐れが生まれた。
だけど、まだ側にいられる。まだお役御免にはなっていない。チャンギュンはそのことに安心して、王子に礼を言ったのだ。

「マークは、ウォノさまのことをよく知っているようだから、2人で話をするのもいいんじゃないかな。ずっと話し相手がいなくて、寂しくあっただろう」

「寂しいと思ったことはありません。ずっと、あの方が側にいてくださいましたから。僕はむしろ、幸福でした」

表情を落ち着けて、涙や目元を袖で拭うチャンギュンを見て、キヒョンが感じたことは、感謝だった。
600年前、ヒョンウォンを託されたのは、確かに国王だったとしても、実際に眠りを守ってきたのは、国王ではない。先の400年間も、実際には祭司ではなく、祭司に選ばれたたった1人が務めていたと聞いている。さらにこの200年間は、彼のような、名前さえ記されない、残っていない者たちだった。自分で選んだことではないだろうに、このような地下で、たった1人、眠り続ける人を守る役目に就いて、それをチャンギュンは「幸福だった」と言ってくれた。彼がどれほど一心に、熱心に、御子を守ってきてくれたかが、その一言で充分過ぎるほど、キヒョンは感じることができた。

「…なぜ、王子が泣くのです?」

「え? あ…、あれ?」

言われて初めて、キヒョンは自分が泣いていることに気付いた。慌てて涙を拭う。瞬きを繰り返して、上を向いて、込み上げる思いを抑える。全くの不覚だった。チャンギュンが泣き止んでから、自分が泣くなんて。御子たち2人が再会を果たした瞬間だって、隣でミニョクが泣いていたって、涙を我慢したのに。
落ち着いた、という確認のため息を長くついて、キヒョンはチャンギュンに向き合う。

「いや、その…。君に、感謝している。信頼を以って託された御子さまを、王に代わり、守ってくれて、本当にありがとう」

キヒョンは軽く頭を下げて、感謝の意を示した。チャンギュンは慌てることなく、最敬礼をもってその感謝を受け止めた。

「尊いお役目を任せていただきましたこと、こちらこそ、感謝申し上げます」

お互いに頭を上げ、目線を合わせる。少し照れくさくて、笑い合った。

 ***

地上に戻った、キヒョンは空を見上げた。ミニョクとヒョヌもつられて一緒に見上げる。不思議な時間だったが、必要な時間だった。自分たちはただのおまけで、ただ見守っていただけだが、見守れたことを、本当に良かったと思った。この感謝を王に伝えなければならない。託された御子さまは、無事に眠りから覚めて、我が国は、その役目を充分に果たしたのだと、王に、父に、早く伝えたいと思った。父はなんと思うだろう。安堵するだろうか。寂しく思うだろうか。去ってしまうかもしれないと、憂うだろうか。

「御子さまは、この国から去ってしまわれるのだろうか…」

キヒョンの憂いを、ミニョクが口にした。同じように考えているのだと分かる。

「まだ、分からないけれど…。目覚められたなら、ここにいる必要もないのだしなぁ」

そう考えると寂しいことだ。だけどそれを決めるのは、人間ではなく、御子さまたち自身なのだろう。どうされるのだろう。話をしたいと思った。そして出来るのならば、ここに留まっていただきたい。

「目覚められたなら、マークが知らせてくれるだろう。その時に、話し合おう」

「そうだね」

ミニョクと眼を合わせる。キヒョンは彼のことを、分身とまでは呼ばないが、一番の親友だと思っていた。王子の自分に遠慮もなく、時には無礼なほど、あっけらかんと付き合ってくれる親友だ。自分の犯した罪のせいで、彼と600年離れてしまうことを思う。そんな辛いことはない。この世に、自分のせいで、大切な人が傷付いてしまうことほど、辛いことはないと思った。

「ミニョク。いろいろ、ありがとう。お前が噂好きで、良かったよ」

「なんだ、それ? 褒めているのか? はぁ~、照れているんだね。全く。素直じゃないんだから、キヒョンは」

「何だよ。ありがとう、って言っただろ!」

「そうだな。僕のおかげだね! 最初に牢屋の地下の秘密を話したのは僕だからね。お祖父さまにも感謝しないと。キヒョンは、我が紅公爵家に何か贈り物をしてもいいんじゃないか?」

「なんでそうなるんだ! 全く、お前こそ、図々しいぞ!」

慣れ親しんだ地上にいるからだろう。雲もなく、空が晴れているからだろう。親友が、いつも通りふざけてきて、頼もしい護衛がそれを笑顔で見守っていて、遠くから、からかい甲斐のあるかわいい弟たちが駆け寄ってくる。さっきまでの涙が嘘のように、けれど心に秘めたまま、彼らは彼らの日常に戻った。

 ***

国王から三公爵宛に、特別合議を開くという知らせが届いたのは、神の御子の目覚めから1週間が過ぎた頃だった。
合議は毎年1回、正月に行われている。会議というよりも、王と王太子、三公爵家の当主たちが集まり、今年の課題や前年の成果などを報告し合う、いわば一種の儀式のようなものである。だが、特別に、特例的に開かれる合議は、国の中に何か変事が起こった時、または王や王太子に異変があった時など、王国にとって一大事が起こった時にのみあるものであった。
600年の長きに渡って秘匿されながら守られてきた御子の目覚めは、まさに国の一大事と言える出来事であるが、その事実を知らないのは、黒公爵のみであり、彼だけはなぜ合議が開かれるのか理解できないまま、合議の会場、王の執務室に現れた。白公爵にしても、憮然としながら執務室に入ってくる。御子の目覚めは後から知らされたことであった。彼はまだ魔術師の来訪を知らない。紅公爵だけは、いつものように不遜な面をして(と白黒の公爵たちには見える)、悠然と席に座った。
王子は、見知らぬ者を連れて、執務室に入ってきた。部外者は入れない合議であるのに、公爵たちも知らぬ者を連れていることに、白公爵は弁明を求めたが、王子は平然と「王がお出ましになれば説明する」としか言わない。普通、王国の最高位に位置する者たちに囲まれれば萎縮しそうなものだが、王子とともに入ってきた若者は、興味深そうに辺りを見回し、言外に「何者だ」と睨めつける厳しい顔つきの公爵たちにも、平然と笑いかけてくる。紅公爵だけは顔見知りなのか、その若者とも挨拶を交わしている。王子と言い、宰相と言い、いくら身分が高いとは言え、彼らは目上の者に対する礼儀が備わっていないと、白黒の公爵たちは面白くなかった。

「陛下の御成でございます」

王の側近の言葉に、彼らは表情を改めて、頭を下げた。王子と一緒に部屋に入ってきたマークだけは、よく分からないまま、見よう見まねで頭を下げてみる。王が玉座に座り、その一段下に王子の席がある。彼らの正面に、白紅黒の公爵家当主たちが横並びに座っている。マークはその間、右に王家、左に公爵たちを見る位置に座っている。

「特例合議を始めよう」

王の言葉で、合議は始まった。

「恐れ入りますが、陛下。この度の合議の議題は何でしょう? 何か、大事でも起こりましたか? 大事が起こったのならば、なぜ将軍であるわたしが何も分からないままなのでしょうか? 紅白の公爵殿は、何やらご存知の様子ですが?」

黒公爵家当主は、即ち王国において全軍の最高責任者でもある大将軍の地位にある。そうであるのに、他の二家に遅れを取って何も知らないことが、全くもって憤りも甚だしいのである。王に対しての言葉にも、棘が鋭く尖ったものになるのは仕方ないことだった。王もその辺りの感情を汲み取って、丁寧に返事をしてあげた。
通常の会議のように、書記官はいない。その代わり、王の側近がメモを取る。より大勢の執務官による会議で話し合う必要があれば、後にまとめられ、会議に提出される。そしてもうこれ以上必要のないことであれば、合議の後に破棄される。

「将軍の言うことはよく分かる。議題を前もって言わなかったことは、悪かった。だが今回のことは、半島が統一された先の戦争から600年間、我が国において秘匿されてきたことであり、王と祭司のみに伝わっていることだった。だが、秘密とはいつか必ず漏れるものだ。それが、他の誰でもない、王子と宰相が知るところとなった。そして、時を同じくして、その秘密であったことに、変化が訪れた。それに伴い、王と祭司のみが知る秘密というものも変質した。であるから、今回、合議を開いて、王家と三公爵家で共有し、よりよい道を探ることにしたのだ」

「…抽象的ですな。その、肝心の秘密とは何です?」

「それはわたくしが説明を致しましょう」

白公爵家当主、即ち祭司長が重々しく口を開いた。そして説明をする。
600年前に預けられた、眠り続ける「神の御子」の存在と、それを600年間、白公爵家が中心となり、王の代理として守り続けてきたこと。そしてこの度、その眠りが終わったことを大仰な言葉で説明する。その上、王子と宰相が知る必要もないのに、首を突っ込んできた、というニュアンスの説明も付け加えた。王とマークは苦笑し、王子と宰相は眉根を寄せた。
祭司の説明は多少偏りがあったが、概ね事実であり、将軍は遅ればせながら、「神の御子」の存在を知ったのである。すでに目覚め、ひたすら隠し通して、赤子を包むように守るだけの存在ではなくなったためだ。

「マーク。御子さまは、今後について、何と言っておられた?」

王がマークに聞く。白黒の公爵は、まだ彼が何者なのか分かっていない。その説明も、言葉鋭く、同時に求められた。

「僕は、マークです。御子の代弁者として、この国に来ました。あなた方がご存知の言葉で言うならば、僕は、魔術師という存在です」

「何と!」

将軍が大きく驚く。祭司はもちろん驚いていたが、疑いの方が強い。だが、王も王子もすでに、魔術師マークの存在を知っていて、この場に招いたようであった。マークは驚きを無視して言葉を続けた。

「彼らが何と言っていたかと言うと…、正直に言えば確たるものはありません。残るか、と聞いても、別の場所に行くか、と聞いても、返事は曖昧です。彼らは、清らかな水さえあれば、場所はどこでも構わないようです。ですが、その点で言えば、あの地下は気に入っているようです」

「あの場所を気に入っている、というのは、確かなのか」

王子が確認する。

「ええ、そうです。地下深くなので、地上の喧騒が届かず、静かだし、水も、そこに咲いている花も、好きだと言っていました」

それは良いことだと、王も王子も思った。王家としても、正直に言えば、御子さまたちにこの国にこのまま留まっていて欲しいのである。

「ただ、あそこは、出入りが不便ですね。僕たちは別に構いませんが、普通の人間が容易には行けない造りになっています。これまでは、それで良かったですが、彼らがここに留まるとすれば、少し困りますね」

さらに、地上部分は牢屋である。人間とは異なる能力を持つ魔術師たちが井戸を通って出入りできたとしても、地上にそのような施設があれば、地上に出た所で、好きなように行動できない。御子たちは、地下の部屋と泉の水を気に入っているが、陽の光や外が嫌いな訳ではない。今まではほとんどの時間を眠っていて、外に行くことも滅多にないことだったが、これからは、ふらっと外に出たい時もあるだろう。

「そうか…。そうだな。うん、そうであろう」

王はうんうん頷きながら、何やら思案している様子だ。
しばしの沈黙を破ったのは、紅公爵家当主、宰相の重責を務める若いミニョクであった。

「1つ提案なのですが、牢屋を取り壊し、井戸を利用する形で、地上への出入口を造ってはいかがでしょうか。そして、地上部分には、王族方や、我らなど、一部の人間しか利用できない、休憩所のような、保養所のようなものを建てるのです」

「牢屋を無くしてしまえば、罪人はどうするのだ」

「王宮内で起きた事例は、これまで通り、王宮内で審議と裁判を行い、収監は郊外にある一般の牢屋に入れればよいでしょう」

「しかし、貴族が収監されることもあるのだぞ。庶民と同じ場所など―――」

将軍の意見を、王が遮った。

「いや、宰相の言うことに、わたしは賛成である。常々、王宮内に牢屋のような施設があるのは、気に食わなかった。御子さまたちが、地下の部屋を気に入ってくださっているのなら、気軽に地上にも出られるよう、牢屋は取り壊し、許されたものだけが使用できる宮殿を造るのが良い。この先もここに留まっていただけるよう、あの場所をより快適な区域にしよう。罪を犯した貴族のことなど、忖度するには値しない」

気に食わない、とは随分と直接的な言葉だな、とキヒョンは王の言葉を聞きながら、内心で面白いと感じた。そして、キヒョンにも王宮内で気に食わないことがあった。この際、それを提案してみようと思い、声を上げる。

「陛下、わたしもいいでしょうか」

「何でも言ってみなさい」

「今、牢屋のある場所と主要な宮殿の間には、使用人棟があります。牢屋の跡地に、新たに宮殿を建てるのでしたら、現在の使用人棟も取り壊し、そこにわたしのための宮殿を建てていただけないでしょうか。そして、今わたしが住まう西洋式宮殿を取り壊し、そこに新しい使用人棟を建てるのです。立太子した折に建てていただいた建物で、まだ新しい西洋式宮殿ですが、わたしは、伝統的な建物の方が好きです。陛下や母上のように、伝統建築の宮殿に住みたいと思っております」

「ほう…。そうか。そうだったか」

王は少しだけ表情を動かして、意外さを示した。王子の立太子を記念して、新時代の訪れを示すためにも、王子のために、西洋から技師と設計士を招いて建てた宮殿であった。何の文句もなく暮らしていたと思っていたし、気に入っているのかと思っていたが、そうではないという意見を初めて聞いたのだ。今の若い者たちには洋服が流行っていて、西洋への憧れも強いと聞いているから、王子もそうかと考えていた。
だが、中々に嬉しい意見である。王子が望むのであれば、完成8年の宮殿を取り壊すことくらい躊躇いはない。国の体現者、国王が住まう王宮の中に、西洋式の建物があるというのも、思えば不要なものかもしれない。その宮殿の代わりに使用人棟を建てるのならば、今あるものよりも大きなものを造れるかもしれない。それも良いことだろう。

この日の合議で決まったことは、牢屋、使用人棟、そして西洋式宮殿を取り壊すこと。牢屋の跡地に文化と技術の粋を極めた宮殿を建てること。使用人棟の跡地に王子のための伝統建築の宮殿を建てること。王都の北と東にある庶民も入る牢屋を拡充すること。神の御子の存在は伏せたまま、王家と三公爵家がこのまま秘匿し続けること。公にする必要はないし、そうすることを、御子も魔術師も誰も望んでいない。
さらには、王子の結婚の準備も始めることも決められた。婚約者がいて、新しく宮殿も建てるのだから、そこには夫婦で住めば良い、という白黒の公爵の意見が採用されたのである。年寄りが余計なことを、とキヒョンは思ったが、反論は何もできなかった。
そしてもう1つ、外国人の賓客を招くために、王宮の外の近くに西洋租界を造ることも決まった。王子の西洋式宮殿は迎賓館の役割も担っていた。その代わりを、王宮の外に、だが近くに新たに設けるのである。そのための敷地には、並び立つ紅白の公爵家の別邸が供出されることになった。昔は婚姻関係などがあり、仲も悪くはない両家であったはずが、今は、別邸とは雖も屋敷が並び立つことさえ受け付けない程だ。どうせ別邸であるから、どこかゆっくりできる郊外にでも新しいものを建てれば良い、と合議に出席した両家当主は敷地を供出することに躊躇いもなく、むしろ自ら願い出た。
王宮内、そして租界の普請は、今後、会議を経て正式に決定されて、実際に建設に入る。まずは牢屋と使用人棟を取り壊し、王家のための宮殿を建てる。
それが完成するまでは御子さまたちには王子の宮殿に移っていただこうと言うことになった。水を汲む方法は、まあ、何かはあるだろう、と今は深く考えない。
使用人たちは、しばらくは簡易施設で不便をかけるだろうが、新しく建てるものは、より広く大きく造る予定なので、少しだけ我慢してもらう。

「よい合議であった。大儀である」

王は宰相の結婚のことも気になってはいたが、また今度でもいいだろうと議題には出さないままにした。
珍しく、多くのことが決定した合議は、始まりとは真逆に、平穏に終了した。

 ***

マークは井戸を通って、地下の部屋に降り立った。身体を浮かべるくらいは、大きな力は必要ない。
薄暗い廊下と部屋を進んで、御子たちがいる寝室に入る。彼らは寝台の上で寝転び、本を読んでいた。この国の言葉を、辞書を読んで学んでいるらしい。それほど勉強好きとは知らなかった。マークが知っている通り、ウォノはそれほど熱心ではなく、ヒョンウォンの方がぺらぺらと本をめくり、いろいろな言葉を読んでいるようだ。チャンギュンは、床の上に座って、彼も本を読んでいる。
マークは寝台の足元にある背凭れのないソファのようなものに腰掛ける。

「王さまが言っていたけど、2人にはこれからも、ここに留まっていて欲しいようだよ。そのための宮殿も、上にある牢屋を壊して新しく造るって。まあ、そうは言っても、選択する権利は2人にそれぞれにあるから、人間のことはあまり気にせず、好きな場所にいればいいと思うよ」

マークは敢えてそう言った。
王子やチャンギュンのことも気に入っているようだから、彼ら人間のためにここに留まるという結論を急いで欲しくなかったのだ。
人間のことは気にせずに、とマークが言ったことが、チャンギュンは少し気になった。それなら、マークも人間ではないのかな、と思う。チャンギュンにしても、もちろんこれまでと同じように、ここにいて欲しい。というか、単に離れたくないだけだ。どこか別の場所に行くのなら、自分も連れて行って欲しいと思っていた。

「ヒョンウォンはどうする?」

ウォノが聞いた。出来るだけ、彼の思うようにしてあげたい。

「ウォノは?」

その思いは、ヒョンウォンも同じだった。これでは結論が出ないな、と思って、2人でくすくす笑い合う。別の存在に戻ったと言っても、2人の心はそれなりに通じ合っていて、言葉がなくても意思疎通ができるらしい。

「ねえ、君は?」

ヒョンウォンが、寝台の横の床に大人しく座っているチャンギュンに声をかけた。話しかけられたのは初めてで、チャンギュンはびっくりして、目を丸くした。その様子が面白いのか、ヒョンウォンは口を開けて笑った。

「そんなに驚かなくても。ねえ、君、名前は? 何と呼べばいい?」

「あ、僕は…、チャンギュン、と言います。…ヒョンウォンさま」

「チャンギュン。子供だと思っていたけど、もう大きくなっているね」

初めて話しかけてもらえた。名前を呼びかけたいと願っていた。名前を呼んで欲しいと願っていた。マークのように、普通に話をしてみたくて、王子のように、触れることを許して欲しくて、それでも、ずっと寝ている姿、話をしない姿しか知らずにいたから、その人が動いて、話をして、笑っていても、自分から何かを投げかけることができなかった。
それでも、話しかけてもらえた。子供の時にここへ来た。その頃のことを、ヒョンウォンは、ちゃんと認識していた。
嬉しくて嬉しくて、チャンギュンは涙が出てきて、せっかく問いかけてもらえたのに、それに答えることができなかった。
子供のように声を上げて泣き出してしまったチャンギュンに、ヒョンウォンもウォノも慌ててしまう。2人とも、素直で穏やかな気を持つチャンギュンのことを気に入っているのだ。だから、どこへ行こうと、彼も側にいればいいな、と思って問いかけたのだが、思いもかけずに泣かれてしまった。
2人の神の御子は、嬉しくて泣いてしまったかわいい子供のために、寝台から降りて床に座り、髪を撫でたり、頬を拭いてあげたり、あやし始めた。

8.5

ヒョンウォンは夢を見ていた。幸せという言葉も知らないまま、それでも幸せだった頃のこと。愛という言葉も知らないまま、ただ愛されるだけでよかったあの頃。
緑の芝生を駆け回る、青い髪の子供たち。暖かい眼差しを送る、青い髪の大人たち。青い空に、光り輝く存在がある。笑顔を向けたら、笑顔を返してくれる大いなる存在は、まだ幼いヒョンウォンを優しく抱き寄せて、額に口付ける。
ただそれだけで満たされていたあの頃。遠い昔。二度とない奇跡。
とてもとても、久しく見ていない夢だった。思い出せば、涙が流れる。神が地上にいること自体が気紛れで、例外的なことで、神が天へ帰ってしまうことは必然だった。いくら愛されていていも、自分たちは人間で、いくら同じような能力や寿命を与えられていても、自分たちは天へは行けない人間だった。
僕たちを愛してくれた神は、今も天におられて、僕たちを覚えていて下さっているだろうか。時折は、僕が夢を見るように、思い出して下さるのだろうか。
問いかけることは、止めておこう。
僕たちは長い時を生きていても、間違いを犯す、穢れることしかできない人間なのだ。

ウォノは夢を見ていた。いつもと同じ、自分の犯した罪の記憶。いつもと違うのは、そこにヒョンウォンがいて、イヴがいて、自分が何に怒って、どうして怒りを収めることができないまま、破壊を続けてしまったのか、それがはっきりとわかっていること。
ただ守りたかっただけだった。大切なヒョンウォンを傷付けられたことで、容易には抑えられない程の怒りが湧いた。
「止めて」とその言葉を聞いた時に、止めておけばよかった。「もういいよ」と言ってくれた時に、ちゃんと怒りの気持ちに整理をつけておけばよかった。
神の御子として、かつて与えられた命と力は、人間を傷付けるためのものでも、殺すためのものでもない。ちっぽけな人間の子供に過ぎない自分を、神が愛してくれたのは、繊細で優しく、涙の多いところを、美点として捉えてくれたからだ。
何度、後悔しても、遅いことだけれど、せめて後悔くらいはしていよう。何度、泣いてしまうとしても、間違いは間違いとして、覚えていよう。

目覚めると、見慣れない天井が見えた。天蓋に覆われた大きな寝台、部屋の壁は石を積み上げたもので、窓はなく、薄暗い。だけど、隣にヒョンウォンが掛布に包まって寝ていた。別れる前から、ずっと昔から変わらない寝姿に、ウォノの顔は自然にほころぶ。彼の隣に戻ってきた。隣に、戻ってくれた。長い時間がかかってしまったけれど、過ぎてしまえば、全部過去だ。
ヒョンウォンの目元が震えて、涙が一筋流れた。額をくっつけて、ウォノは目を閉じる。彼が何の夢を見ているのか、感じてみる。

青い空、緑の芝生、輝く陽光。愛と、平和と安穏。ただひたすら幸福だった、遥か遠い昔の夢に、ウォノの眼からも涙が流れる。

2人は同時に眼を開けた。眼の前に、大切な愛しい人がいるから、2人とも、同時に微笑む。お互いの涙を拭い、唇を重ねて、遥か昔の愛されていた記憶を思い出す。
今いる場所は、人間の王国の名もない地下。大きすぎる隔たりはあるけれど、愛しい分身が側にいることは、昔も今も変わらない。

「…ごめんね、ウォノ。1人にして。離れてしまって、余計に君を傷付けてしまった。僕が間違っていた」

ヒョンウォンの言葉、涙に、ウォノの心が痛む。彼を引き寄せて、強く抱き締める。

「謝るな。お前は悪くない。俺が、悪かった。憎むことしかできなかった俺が、お前を1人にしたんだ。ごめんな。ヒョンウォンが大切にしていたものを、俺が全部、壊してしまった…」

もう一度、口付ける。お互いに、「もういいんだよ」という言葉を言う代わりに、唇を重ねて、愛しているという気持ちを伝える。

「ヒョンウォンは何も間違ってなんかいない。間違ったことをしたのは、俺の方だ」

「ううん。僕が、ウォノの側を離れたりしなければ、昔の楽園に来たりしなければ、こんなことにはならなかったんだ」

自分の方が悪いのだと、お互いがそれぞれに思っていた。自分が間違ったせいで、大切な分身が傷付いたのだと思っていた。
だけど、謝りあっていても、どうにもならない。そう感じて、2人はこれ以上、謝ることを止めておいた。そう言いたい気持ちはまだ残っているけれど、やっと出会えたのだ。600年の時を隔てて会えたのだから、これからは、「ごめんね」よりも「愛している」と伝えたい。言葉にするならば、そんな良い言葉の方がいい。
愛する人が眼の前にいて、眼が合えば微笑みあって、頬に、髪に、触れ合える。
当たり前のように側にいた昔よりも、600年の別れを経た今の方が、側にいる喜びや、愛する人を愛することができる喜びを、より強く感じることができる。
間違えてはいけない。悲しみや痛み、傷は、無い方がいいに決まっている。だけど、やむを得ず、そんなつもりもないままに、間違え、傷付き、悲しい結果が訪れてしまったら。その時は、もう二度と、そんなことがないよう、気をつけていけばいい。何度でも、やり直すことはできる。たとえ、命が潰えても。やり直すことは、できるのだ。

2人はそのことを心に刻むように、何度も口付けを交わした。

9 再会の約束

男は王宮内での仕事を辞めることになった。牢屋が取り壊され、宮殿が建つことになったためだ。その話を聞いた時、一瞬絶望した。乞食になるしかないか、と。だが、続きがあった。代わりに王都の北と東にある牢屋の拡充されるため、現在、王宮内の牢屋で働く牢屋番たちは、退職を希望する者以外全員、どちらかに振り分けられることになるという説明を受けた。男は心底ほっとした。まだ働くことができる。王宮という華やかな場所にいながら、陰気な牢屋で過ごすという、劣等感も感じずに済む。それに、井戸の下に食事を下ろすなどと言う変な習慣も、新しい場所にはないだろう。この話は、男にとって、いい事づくしだった。
明日には取り壊しが決まった牢屋の囚人に、最後の食事を配る。朝食を食べた後、残りの刑期が短い者は恩赦を受けて出獄し、残りの囚人たちは、北と東の牢屋へ移されるのである。牢屋番もともに。あの不気味な井戸に行くのも、これで最後だ。そう思うと、気持ちも晴れる。
桶に食事を入れる時、何か違和感があった。何だか明るい。井戸の下の方が明るいのである。桶を下ろす時、下を覗き込んでみた。井戸の下には、岸のようにせり出した場所があり、両端に明かりが2つ灯っている。だから、はっきりと見えた。若い男が、食事が入った桶が下りてくるの見上げていた。心なしか、微笑んでいるように見える。食事を受け取り、昨夜の膳を戻すところも見える。だから、合図は必要なかった。上げていく途中、下にいる若者が、明らかに自分に向かって一礼をした。食事を持って、見えない場所に消える。
からからと釣瓶の音が石壁に響く中、男の気分はいつになく晴れ晴れとしていた。
恐れる必要などなかった。むしろ、申し訳ないほどだった。毎日、彼に食事を届けていたのだ。自分の年齢の半分以下にも見えた若者が、あの地下に暮らし、自分の下ろす食事を糧に生きていたのだ。
彼ともお別れか、と思う。そして彼も、ここを出て、別の場所に行くのだろう。
牢屋が取り壊されるという話は、本当に、いい事づくしだと思った。

 ***

マークは王に請われて、3ヶ月もの長い期間、王宮に留まった。話をしたい、聞かせて欲しいということで、マークはわざわざ長老にもお伺いを立てて、その要求に応じることにした。話せない秘密も、もちろんあるが、マークは出来得る限り話をしてあげた。
ウォノとヒョンウォンは王子の宮殿に移った。人が多くて騒がしいらしいので、結婚の準備で王子が敏感になっているという、キヒョンにすればちょっともどかしい理由付けがされて、宮殿には最低限の信頼の置ける使用人しかいない。建物自体、寝台自体は問題ないようで、毎日よく眠っている。
すでに牢屋も使用人棟も取り壊されて、新しい建物の建設が始まっている。牢屋の跡地の普請は、まずは井戸を利用した階段造りであった。地下に施設があることは隠して、通路には簡易的に扉が設けられた。毎朝、工事が始まる前の朝と、工事が終わった後の夜に、チャンギュンが水路を通って、簡易の扉を開けて、泉の水と花を運ぶ。
王子も宰相も、そして将軍や祭司さえ、マークが普通の客ではなく、魔術師であることを知っている者は皆、マークと話をしたいと希望していた。時間がある時に、食事をともにして、魔術師とは何かや、彼が普段どのように過ごしているのか、600年前の細かい事情など、いろいろなことを聞いてくる。マークは600年前のことは聞いた話しか知らないので、細かく説明できないが、普段何をしているかなどは話をしても問題ない。
それは、旅であり、研究である。
マークは自分のことを、「魔術師」であると紹介することが嫌いだ。変な先入観を持たれるし、まず疑われるのは必定だ。マークは、自分自身を何者かと答えるならば「旅人」と言いたかった。
様々な国々を旅して、その土地々々にある魔力の集まるスポットを探して、地図に記す。
王や将軍は魔術師とはどのような存在であるかに興味を示して、王子や宰相は旅の話に興味を持った。
だが、いつまでもいられない。3ヶ月が過ぎて、そろそろ魔術師の塔へ帰ろうと思った。それとなく「そろそろ帰る」という話を王子たちにしながら、マークはウォノとヒョンウォンにも、塔へ帰るという話をした。
彼らも長く塔で暮らしていた。だから2人に対して、「一緒に帰る?」と聞いてみた。
2人はしばらく見つめ合い、余人には分からない話を交わす。答えが出るまで、ゆったりと待つ。出てきた答えは、マークには、少し意外なものだった。

「俺、マークと一緒に帰る。俺、塔が好き」

「僕は残る。あの泉の花、ここにしかないから。僕はあれが好き」

マークはちょっと驚いた。チャンギュンも意外な感じがした。600年も離れていて、ようやく再会できたのに、3ヶ月でまた別々の場所で過ごすことを選ぶなんて。てっきり、場所は変わったとしても、2人は一緒に過ごすことを選ぶのではないかと考えていた。

「また離れちゃうけど、いいの?」

「うん。だって、離れていても分かるもの。ヒョンウォンの機嫌がいいかどうかは、ちゃんと分かるもん」

「僕、普段から機嫌の悪い時はそんなにないよ。ウォノの方が、調子とか機嫌とか、悪い時が多いくらいじゃないか」

「うん。だから、塔に帰るんだ。慣れているから」

「なるほどね」

見つめ合うだけで話が通じるように、身体が離れていても、彼らは分かり合えるのだ。彼らにとって距離は、場所の問題じゃない。心の問題、傷や痛みの深さだった。かつて受けた苦しみが完全に消えた訳ではないだろう。それは、簡単に消え去るものではない。だけど、それを抱えながらでも、笑い合える日が、2人にやってきた。600年と、それよりも長い時を経て。
別々の選択をした2人のことを、マークは笑顔で見つめた。そして、帰る日を決めた。
チャンギュンは当然のように、ヒョンウォンの側を選んだ。彼のための人生を生きることは、これからも続く。その道をチャンギュンは、今度は自分で選んだのだ。幼い頃、他人に強制されたことが始まりではあっても、それは、彼の人生にとって、かけがえのない優しさと温もりをもたらした。その幸福はこれからも続く。

マークとウォノがどうやって帰るかと言えば、来た時と同様、魔術を使うのである。別れを言うために、ヒョンウォンの過ごす部屋に、キヒョンとミニョクがやって来た。ヒョヌとジュホン、王子の双子の側近も当然いる。彼らは別れを言うのも当然あるが、魔術が使われる場面に興味津々だった。
キヒョンは当然、彼らにまた会いたかった。結婚式に招待するとか、そんな俗なことをするつもりはないが、会いたいと思った時に、会えるようにしたい。

「また、来てくれるかい? どうやって、呼べば良いんだろう」

「そうですね。“マーク”と、僕のことを思いながら名前を何度か呼んでくだされば、気付くと思います。そうしたら、また来ますよ」

「それだけ?」

「名前は命と同じです。呼んでくだされば、分かります」

そういうものなのか、と思う。名は体を現すとも言うから、きっと、そうなのだろう。とても簡単だ。それなら、きっとまた会える。必ず、また会える。

「また会おう、マーク。来てくれて、ありがとう。ウォノさま、どうかお元気でお過ごしください」

手を繋いだマークとウォノが、黒い靄のようなものに包まれる。それは黒いのに光っているように見えて、とても不思議な光景だった。
ウォノが笑顔で手を振るのが見えて、キヒョンとミニョクは、手を振り返した。

そして、気付いた時、彼らはすでにいなくなっていた。

「うわぁ~。すごいな! 僕、魔術を見ちゃったよ。不思議だ~」

ミニョクは無邪気なくらいはしゃいでいる。実はヒョヌも魔術を目の当たりにして、内心いつになく興奮していたが、そのことに気付いたのは、普段から側にいるキヒョンや、彼をよく知っているジュホンくらいしかいなかった。普段から、極力感情を表に出さないように努めているので、感情の起伏が気付かれにくいのである。
また会える。名前を呼んで、会いたいと思えば、また来てくれると約束してくれた。今のところ用事はないし、宮殿の普請や、結婚の準備で、王宮も王族・貴族たちも皆慌ただしい日々が続く。それが落ち着いた頃には、話したいことは山ほど出来上がっていることだろう。
また会える日がとても楽しみだ。

 ***

最近、キヒョンもミニョクも来てくれないな、と呟いたら、チャンギュンが答えた。

「今日はキヒョン殿下の結婚式ですよ。しかもお誕生日です。まだしばらくは、お忙しくて、こちらにはいらっしゃらないでしょうね」

キヒョンの結婚の日を、彼の25歳の誕生日に合わせたのは、偶然といえば偶然だが、キヒョンが正妃のことを忘れないための、王の配慮のようなところもある。婚約時代からあまり性格の合わない2人であったので、王が第二妃や愛妾を持つように、キヒョンもそうなると考えたのだ。それは法的に許されていることであり、問題はないが、やはり正妃という立場には格別の配慮を必要とする。それをキヒョンに忘れさせないためである。

結婚式って何だろうな、と思ったが、聞くほど気になるほどのこともない。もう少し会えないということが残念だ。だが、会えないのなら、彼が今何をしているのか、見てみようと思った。
ヒョンウォンは寝台から起き上がり、泉の方へ歩いた。チャンギュンも付いて行く。さっき水を飲んだばかりだが、また飲むのかな、と思った。
ヒョンウォンはゆっくりと歩いて、水辺に立つ。そしてもう一歩、水の上に足を出した。その足は水に沈むことなく、まるでそこが地面であるかのように、何の問題もなく立っている。水の上に立って、そして泉の中央まで歩いたのだ。
チャンギュンは驚いた。そんなことが出来るとは、知らなかった。
ヒョンウォンは水面の上でしゃがみこんで、何やら水の下を覗き込んでいる。チャンギュンも同じ場所を覗き込んで見るが、ただ澄んだ水と、水中に伸びる花の根と葉が見えるだけである。
水辺に座り、手のひらを水面に乗せてみる。弾力があって、自分の手のひらも乗るかと思ったが、当然のように沈んでいく。

「キヒョン、いつもより豪華な服を着ている。隣に女の子もいるよ」

チャンギュンには、その水面に何が見えているのか分からない。だが、今日はキヒョン殿下の結婚式なので、衣装は当然、普段よりも豪華だろうし、隣に正妃となる女性がいるのは当然だった。
水面にそんな場面が見えているのだろうか。神の御子と呼ばれるヒョンウォンと、自分は10年以上も一緒に過ごしていて、不思議な存在だとはずっと思っていたものの、そう思っている以上に不思議な存在のようだ。
できることも多いらしい。川を氾濫させて、洪水を起こして、津波や雨さえ操ると言う。水面上を歩き、水面にここにはいない人の姿を見る。御子には他に、どんなことが可能なのだろう。知りたいような、知るのが恐ろしいような、そんな気持ちだ。

「お隣にいる女性は、お妃さまとなる方でしょう。新しく出来た宮殿で、その方と一緒に過ごされるのです。新しいお子さまも期待できますね」

「子供? キヒョンの子供? うわぁ、かわいいなぁ」

まだ生まれてもいない、出来てすらいない子供のことを、「かわいいだろうな」ではなく、「かわいいな」と言ったヒョンウォンの言葉に、チャンギュンはまたしても引っかかる。未来さえも見えるとか、あるのだろうか。まさかな、と思いながら、キヒョン殿下のお子さまなら、きっとかわいいには違いないので、聞き流すことにした。
分からないことを考えすぎるのは、精神衛生上、良いことではない。
ヒョンウォンは何だか満足そうな顔をして、すたすたと歩いていく。チャンギュンもその後をついていく。
井戸を利用する形で造られた階段は、二重螺旋になっている。井戸の底にある岸のような場所の左右から、階段が上へと螺旋を描きながら伸びている。
ヒョンウォンはいつも、チャンギュンに、自分とは違う道を選ばせる。ヒョンウォンが右から上がるなら、チャンギュンは左から。その逆もある。重なり、近づきながらも、決して交わらない二重螺旋の構造が、ヒョンウォンの今のお気に入りだ。彼が飽きるまでは、階段を昇り降りは、地上へ行くというよりも、遊びの要素の方が多い。チャンギュンとしても、ちょっと楽しんでいる。今までずっと寝てばかりで、そんな人に付きっきりで、好きな場所に移動することもできなかったのだから、2人にとって新しい環境は、何もかもが新鮮で楽しいことなのだ。

新しい宮殿は、見る度にため息をつく程、豪華絢爛を誇る。螺鈿の部屋、木象嵌の部屋、截金の部屋、刺繍の部屋など様々な部屋がある。そのどれもが、技術的にも特級の、見た目にも華やかな装飾技術が多用された宮殿で、ヒョンウォンは毎回違う部屋で昼寝をしたり、本を読んだり、キヒョンやミニョクなどと会って話をしたりする。
王のことはちょっと苦手だ。それを聞いたキヒョンは不思議そうな顔をしたが、ミニョクは妙に納得していた。だから話をしてくれたらしく、その後は王に会うことはほとんどない。「寂しがっていましたよ」とミニョクから聞いて、かわいそうに感じたが、騒がしいのだって嫌なのに、人間の欲に直接さらされるのは大いに苦手なのだ。
地上部分の宮殿は、とてもきれいで、涼やかで、眼にも鮮やかだし、キヒョンたちも気軽に会える場所だけど、人間に比べたら感覚が敏感すぎるヒョンウォンには、地上は騒がしすぎる。人も多くて、落ち着かない。
牢屋が取り壊されて、その後に王のための――その実はヒョンウォンのための宮殿と、王太子と王太子妃のための新しい宮殿もできて、今は、工事は使用人棟に移っている。その工事の音なのか、甲高い音がいつもしていて、耳が痛いのだ。
だから一番落ち着くのは、人の気配の感じない地下の、600年間過ごした部屋だ。
井戸の壁に沿って新しく造られた螺旋階段を通って、気軽に地上に出られるようになっても、ヒョンウォンは地下の部屋で過ごすことが多い。水が近くにあるし、静かだし、慣れた場所だ。

泉の水を飲む。花を食べる。静かに眠る。

眠っていれば、夢の中で、ウォノやイヴにも会える。起きていれば、チャンギュンがいつも側で世話をしてくれて、キヒョンもミニョクも地下まで会いに来てくれる。

時々、どうしてまだここにいるんだろう、と考える時がある。どこでもいいのなら、ウォノやイヴの側にいるのがいいのではないか、と考える時もある。
600年前、太陽が昇るのを見ながら、ウォノの側を離れてみようと思ったことを、間違った選択だったと後悔しながら、今もまだ、同じ場所にいるのは、どうしてなのだろう。
思い返すだけで、泣きそうになる。自分が犯してしまったこと、ウォノが犯してしまったことは、誰にとっても、当事者たちにとっても、悲劇でしかなかった。
それを、自分は反省できているのだろうか。
永遠に近い時を生きていながら、まだ間違いを犯して、まだ迷っている。
人間たちが600年の時を隔てて、忘れてしまっているように、ヒョンウォンだって、忘れてもいい頃なのかしれない。
だけど、ヒョンウォンは忘れたくはなかった。
間違ったことを、罪の記憶を、亡くなってしまった命のことを。そして、間違いではないのだと思っていることを、自分たちもまた傷付いたこと、傷付けられたことを、忘れたくはなかった。忘れてはいけないと思っていた。
だから、ここにいようと思うのかな。
森の中で一緒に過ごして、遊んだ子供たちのことを、ヒョンウォンはよく覚えている。自分のせいで死んでしまった子供たち。純粋な眼差しで、青い髪を触って、はしゃいで、木々の間で走り回っていた。遠い、古い記憶の中と同じように。親に捨てられた悲しみを抱えて、夜に怯えながら、陽の光に喜びながら、子供たちは小さな身体で、日々をただまっすぐに生きていた。
もしも彼らが大人になれていたら、チャンギュンのように優しい、キヒョンのように毅然とした、ミニョクのように明るい、ヒョヌのように勇敢な、ジュホンのように賢い大人になっていただろうか。
それは誰にも分からないことだ。だけど、そんな想像くらい、いいだろう。せめて、一緒に過ごした自分だけは、忘れてはいけないのだ。
迷っても、悲しくても、ヒョンウォンはこの場所で、生きていこうと感じた。自分がここにいることで、この国の王になる人間が、あの時の戦争のことを忘れずにいるのなら、ここに居続ける意味は必ずある。

地下の寝台の慣れた感触に、ヒョンウォンは微笑む。ゆっくりと横になって、さらさらとした感触の掛布を身体に巻きつける。

夢を見よう。幸せな頃の夢を見よう。忘れてはいけない人たちの夢を見よう。
目覚めたなら、話をしよう。覚えていたい人たちとお喋りをしよう。

ヒョンウォンはそう思って、静かに眼を閉じた。



End.

『永遠の陽光』

最後まで読んでくださってありがとうございました。End.を付けることができました^^
長いことは分かっていたので、FC2の1ページ2000文字制限がすごくものどかしく感じてしまって、このお話を書きながら、引っ越しを考えるようになりました。こちらで無事、完結できたことはよかったと思います。

このお話に出てくる「神の御子」と「魔術師」という存在の設定は、実はわたしが11年前から考えていたものです。もちろんFFとか二次創作ではなく、一次創作のお話として書いたもので、読み返してみると、途中で止まってるし、内容も少なく未熟なものです。いろいろなものに影響も受けていることがわかるものです。それは変わっていないかもしれませんが、まさか自分でも、このような形で、1つのお話を完成させるとは思っても見ませんでした。

モンエクのお話は、"All in"のMVに触発されたことがきっかけで、1つ途中ですが書いているところです。魔術師マークが出て来るお話はガッセメンバーが中心のお話として書き始めたはずですが、いつの間にか、モンエク中心のところに、マークがぴょこっと飛び込んできて、このようなお話になりました。
我ながら気に入っています(←)。
11年前に作った青い髪の子供たちのお話が、現実のキャラクターを借りて、こんな長い話になるなんて! それもこれも、ヒョンウォンがMVの中で青い花を食べたりするから。ウォノが髪に青いメッシュとか入れたりするから。なんだかんだで繋がったんですね。

そのうち、いつかは未定ですが、ガッセ中心の魔術師マークのお話もUPしたいし、魔術師たちの一次創作のお話も書いてみたいと思っています。あるのはあるのですが、完成度が低いので、どっちみち素人ではありますが、もう少しちゃんとしたものを読んでいただければと思っています。

それではまた。こちらでもよろしくお願いします^^

『永遠の陽光』 nanamame 作

Monsta Xのメンバーが中心のお話。K-Pop、BL、FF。

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2017-07-03
Copyrighted

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