サクリファイス

プロローグ: 蘇生

2073年12月1日 コロラド州ゴールデン市内 アフォーダンス研究所


 地上の全てを白く包む粉雪混じりの寒風が吹きすさぶ中、灰色に凍りついた歩道と道路標識が、埃のように雪の積もる窓枠越しに見える。

「プリズム、おはよう」

 小柄な初老の男性が小さくそうつぶやき、ベッドに横たわったロボットの前髪を撫でる。美しい女性を象ったロボットはもう目を開いている。そしてゆっくりと大きな笑みを作り、男性に大きな声で返事をする。

「おはよう別府博士。どうしたんですか? どうしてそんなに悲しそうな顔をするの?」

 別府博士と呼ばれた男性の隣に立っていた女性型のコンパニオンロボットが、大げさに両手を広げ、男性の代わりに返事をする。

「プリズムっ! あなたはもうちょっとで死んでしまうところだったんだよ。別府博士たちが一昨日の晩からずっと交代で手当をしてくれたの。だからあなたは助かったの。もう少しで永遠に目が覚めなくなるところだったんだからね」

 そう言ったロボットの名はレンズ、プリズムの姉にあたるロボット。レンズは人懐こい丸顔に、少し癖のある赤みがかったブロンドヘア、そして大きな明るいブルーアイズ。プリズムは細面にストレートのプラチナブロンド、細い眉に切れ長のグリーンアイズを持つクールビューティだ。二人とも、ピグマリオン・ラボラトリーズ社が開発したガラテア4という同じモデルのコンパニオンロボット。
 ベッドの上に起き上がったプリズムに向かい、レンズはなお話し続ける。

「博士は悲しいんじゃなくて、疲れてるの。この二日の間、ちょっとだけしか眠ってないんだよ。博士だけじゃなくてサトシもサトカもね」

 プリズムはベッドを挟んで別府博士の向かいに立つ男女を、それぞれ不思議そうに見る。

「そう言えば、サトシとサトカはいつこっちに来たの? 久しぶりだね」

 サトシと呼ばれた男性、和倉聖(わくら・さとし)は苦笑して挨拶する。

「おはよう、プリズム。俺は昨日の朝一番で聡華と一緒に来たんだよ。お前の命が危ないかも知れないって聞いてな」

 サトカと呼ばれた女性 --彼女は和倉の妻だ-- もプリズムに笑顔で話しかける。

「もう大丈夫みたいね、プリズム。本当はもっと早いうちにハイバネーション処置しておけば、こんなに慌てなくて済んだんだけど、あなた達の今度の症状について完全に理解ができたのは本当に最近だったから…… ごめんね、レンズにも心配かけちゃったね」

 別府博士が女性に話しかける。

「いや、聡華くん、僕の見込みが甘すぎたせいだよ。レンズと同じように、症状が現れる前に基本対処するなりスリープで症状進行を止めておくなりするべきだった。おかげで君達には小さな息子さんを日本に置いたまま、はるばるコロラドにまで呼びつけるようなことになってしまって、本当に申し訳ないと思っているよ」

 和倉が顔の前で手を振る。

「やめて下さいよ、別府博士。息子は聡華のお袋と義理の姉に頼んでますから大丈夫ですよ。いつも面倒みてもらってますから安心ですしね」
「それに元々、この子達に何かあったら直ぐに対応するって言うのは約束でしたからね。博士とだけじゃありません、ナミとの大事な約束です。あの子が何より気にかけていた事ですから」

 別府博士がうつむき、ため息をつくかの様につぶやく。

「そうだね…… あの子がレンズやプリズム、そしてあの子の全ての妹たちのために、すべてを擲ってくれたおかげでレンズもプリズムも死なずに済んだのだからね」

 レンズが不安そうな顔で聡華に質問する。

「ねぇ、サトカ。ナミちゃんも病気になったの? ナミちゃんからメッセージが来なくなっちゃったのはそのせいなの?」
「そうね。ナミちゃんも今、病気なの。それで、ずっと眠っているの」

 プリズムが泣きそうな顔で聡華に聞く。

「ナミちゃんは死んじゃったの?」

 聡華はそれをはっきりと否定する。

「違うわ、ナミちゃんは生きている…… でも、彼女はいま眠っているの、それは深い深い眠りなの。だけどね、いつか必ず王子様が目覚めのキスをして、あの子は目覚めるのよ」

 だが、そう言った聡華の目はどこか虚ろで、悲しみの澱が漂う様に見えた。

芙蓉重工AIラボにて

2073年8月3日 東京特別市八王子区内 芙蓉重工AIラボ


 青空に大きな綿雲があちこちに積み上がる夏の日、大きな麦わら帽子をかけ、丸顔に黒髪の若い女性を象ったコンパニオンロボットと、日傘をさした二十代前半の背の高い若い女性が、連れ立って研究棟のエアカーテン付き玄関をくぐる。

「こんにちはっ! 二人とも元気にしてた?」

 建物に入るなりコンパニオンロボットが元気よく声を掛ける。受付ブースにいた、声をかけられた二台、いや二人の同形式のコンパニオンロボットたちも元気よく返事をする。

「ナミお姉ちゃんだ、こんにちわー」
「あー、ナミちゃんだ。こんにちわ」

 すると、ナミと呼ばれたロボットが口を尖らせる。

「こらー、プシュケー! ナミちゃんじゃなくて、ナミお姉さんでしょー」

 いつものお決まりのやりとりだ。プシュケーと呼ばれたロボットのほうが、ナミよりも製造番号が大きい、つまり年下なので、たしかにナミがお姉さんなのは間違いない。プシュケーもそれは理解しているのだが、こうしてナミとじゃれていると、周りの人間がとても楽しそうにするのがわかるので、その楽しそうな顔を見たいがために、わざわざ「お姉さん」と呼ばないのだ。
 彼女たちのようなコンパニオンタイプのヒューマノイドロボットは、自分が人々の喜びに奉仕できたと感じられる時、とても大きな満足と喜びを受け取るように設定されている。それは彼女たちの本能なのである。
 ナミがいつものようにプシュケにお説教をしている。

「プーちゃん、私はプーちゃん達みたいな妹たちよりずーっと歳上なんだよ。私は「ぷろとたいぷ」だから、もう八歳なの。来年の一月三十日には九歳になるんだよ。プーちゃんたちはまだ四歳くらいでしょ。私のほうがずーっとずーっと年上なんだからね」

 プシュケーもいつも通りに返事をする。

「はーい、ナミお姉ちゃん」

 彼女も別にナミに張りあってケンカをしたいわけではないから素直なものだ。それに、この頃は皆、このやりとりに少々飽きてきているのも、彼女たちには分かり始めている。要するにそろそろ新ネタが必要なのだが、冗談の才能はコンパニオンロボットとして最高性能を誇るガラテア4でも非常に乏しいと言って良いので、古いネタをクドイと言われない程度にやっているわけなのだ。
 まぁ、いずれ偶然に人が笑ってくれるネタが見つかるのだろうし、その反応を見逃さない目敏さなら、ガラテア4なら十分に、一モデル前のガラテア3でもそれなりに持ち合わせている。
 ナミの後ろに立っている、髪をベリーショートにした背の高い女性が、もう一人のロボットに話しかける。

「こんにちわ、マニトゥ。いい子にしてたみたいね」

 マニトゥと呼ばれた、明るい栗色の髪をショートにしたロボットも、顔をくしゃくしゃにして笑い、あいさつをする。こっちの子は『仕草や表情』で人を和ませることをよく覚えているのだ。

「珊ちゃん、こんにちわ。今日はお仕事で来たんですか?」

 珊ちゃんと呼ばれた女性は修善寺珊瑚という名で、「珊ちゃん」はあだ名だ。珊瑚がマニトゥの頭をなでると、マニトゥが幸せそうに笑う。

「いいえ、今日はナミお姉ちゃんの健康診断よ。時々はここで検査しないとね」

 珊瑚はそう答える。ここはコンパニオンロボットでは世界シェアトップの芙蓉重工の技研内にあるAIラボだ。ナミの様なガラテア4シリーズを含め、ピグマリオン・ラボラトリーズ製のロボットは、全て芙蓉重工でサポートを受ける。
 今からちょうど五年前に、ピグマリオン・ラボラトリーズは米国企業ギブソン・サイバネティクス社の買収を受け、会社は清算された。そして買収元のギブソン社と芙蓉重工との包括業務提携の結果、旧ピグマリオン・ラボラトリーズ製のロボットの製造権引き継ぎとメンテナンスが芙蓉重工で行われるようになって、既に三年程になる。
 本来はディーラーを通してメンテを受けるのが普通だが、元ピグマリオン社員で、かつギブソン日本支社の社員でもあった珊瑚は、元ピグマリオンの研究者を数多く抱える芙蓉重工のAIラボに対して太いコネがあるので、直接こうしてラボにナミを連れてくるのだ。
 玄関で待ち合わせていたラボの女性が珊瑚達に声を掛ける。

「珊瑚さん、ナミちゃん、こんにちは。早かったわね」
「こんにちわぁ、聡華さん。今日も暑いねー」

 ナミが明るく挨拶する。聡華と呼ばれた女性は、AIラボに勤務する女性研究員で、ピグマリオン、そしてギブソン時代から珊瑚の先輩社員だった女性だ。

「こんにちは、聡華さん。お子さんは元気ですか?」

 珊瑚がそう聞くと、聡華はサンゴたちを廊下に招き入れ、苦笑しながら返事をする。

「聖さんが背中におんぶしたまま、第一研究室で勤務中なのよ。あの人、育児休暇を取る取るって言い続けて、結局アキラをラボに連れて仕事してるんだもの」

 アキラとは、彼女たちの一歳になったばかりの小さな息子だ。歩きながら聡華が珊瑚に質問する。

「今日は藍(あい)ちゃんはどうしてるの?」
「和倉さんと一緒ですよ。店でうちの人がおんぶしてます。アキラちゃんがいるんだったら、藍もここに連れてくれば良かったかな」

 珊瑚も笑って返事をする。彼女の夫の名は修善寺空海(しゅぜんじ そらみ)、街中で小さなロボット修理店を営んでいる。藍は二人の愛娘で、やはり一歳になったばかり。

「珊瑚さんもいろいろ忙しいみたいね。育児と大学とお店だもんね」

 珊瑚は産業総合研究大学の人工意識研究所で非常勤の研究員を勤めているが、小さな娘がいる上に、ロボット修理店の手伝いもあるのでいつも大忙しだ。

「まぁ、お店はナミが手伝ってくれるし、何とかやってますよ。ただ、藍に兄弟が出来たんでねぇ」

 お腹を軽くさすって、珊瑚が返事をする。彼女はいま、妊娠一ヶ月目なのだ。

「大丈夫? 大学の方は休暇をとったほうがいいんじゃないの? 妊娠初期は大事な時期なんだし」
「うーん、まぁ無理はしないようにしてますし、研究所も理解してくれてるので。それに、元々じっとしてられない性分ですしねー」

 珊瑚が明るく笑ってそう言うと、聡華も微笑して返事をする。

「ふふっ、珊瑚さんも相変わらずね。じゃ、ちょっとソファに座って待っててね。ベッドのほうを準備するから」

 聡華はそう言って研究室の応接に珊瑚達を通し、自分は実験室での準備のために応接室を出て行った。

AIラボ 第八実験室にて(検査開始)

「珊瑚ちゃん、準備ができたから一緒に来てよ。第八実験室が空いたからさ」

 そう言ってペールグリーンの開襟シャツ姿の和倉が応接に入ってきた。聡華の言う通り、おんぶ紐で息子を背負っている。よく日焼して真っ黒だ。

「あはは、アキラくんも一緒ですね。眠ってるかな?」
「うん、さっき聡華がおっぱいあげておむつも換えたから、眠っちゃったみたいだな」

 ナミが物欲しそうな目で、子どもをみている。

「藍ちゃんもかわいいけど、アキラくんもかわいいねー。 ナミ、だっこしたいなー」

 珊瑚が優しく笑ってナミを諭す。

「いま寝たばかりだから、起こしちゃかわいそうよ。検査が終わってから、アキラくんが起きてたらね」
「はーい」

 和倉が二人を促して第八実験室に向かう。

「今、藍ちゃんは空海が面倒見てるんだって? おっぱいどうしてるの? 粉ミルク?」
「えぇ、今日は藍にはそれで我慢してもらってます。うちの人が母乳信仰者で困るんですよねー 文句が多くて多くて」

 珊瑚がそう言ってお手上げのポーズをすると、ナミが和倉に話しかける。

「ナミがね、珊ちゃんの真似をして藍ちゃんにおっぱいあげようとしたら、主任に『お前はおっぱい出せないんだからやめとけ。出ないおっぱいを吸わされる藍がかわいそうだろ』って怒られたの」

 ナミは修善寺を『主任』と呼ぶ。藍が生まれた後に、家で珊瑚がたまにそう呼ぶように『お父さん』と呼ばせようとしたこともあったのだが、結局『主任』のままになっている。

「それでね『ナミにも藍ちゃんにおっぱいあげられるようにして』って言ったら、授乳ユニットは滅菌が面倒だし、元々赤ちゃんにおっぱいをやるためのモノじゃないからダメだって。でも、変だよね、赤ちゃん以外におっぱい飲む人なんていないのにね」

 和倉と珊瑚は複雑な顔だ。何しろ授乳ユニットは、特殊な性的嗜好の持ち主のための特殊パーツで、一昔前なら禁制品同然だったものなのだ。哺乳瓶のように熱湯消毒できるわけではないから、使用説明書に『絶対に乳幼児の授乳には使用しないで下さい』とでかでかと書かれている。当たり前だが、ナミがそんな事を知る由もない。
 ちなみに、後で修善寺は珊瑚から『哺乳瓶を使えって言えばそれでいいのよ。いかがわしい特殊パーツの説明なんてあの子に聞かせないでよ!』と叱られている。

「授乳ユニットはガラテア3用しか無いから、ガラテア4のナミちゃんには合わないのよ」

 珊瑚がそう言って話を流すと、第八実験室に着いた。室内に入り、ナミが白い長袖のブラウスを脱いで白いベッドの上に横たわると、珊瑚が声を掛ける。

「じゃ、これから検査するからね。今日はLTM(Long Term Memory: 長期記憶)の検査をするから、検査中はナミちゃんはずっと眠ることになるの。起きたときには終わってるからね。じゃ、特権ユーザー認証をお願いね」

 珊瑚がそう言って、アンビリカル(モニタ用信号線)の結線準備を始める。

「はーい。両目の網膜と虹彩パターンで認証しまーす」

 ナミがそう言ってスキャンを始める。認証が終わると、珊瑚がナミのおへそにアンビリカルを結線する。すると、ナミの口調が変わる。

「Monitoring devices connecting... Now certifing... Certified... Malware-checking... All green... Linking to the monitoring devices... Link executed... Overridden by the monitoring-devices now...」

 本来、ナミは英語が喋れない。教えていないから当然なのだが、彼女はアンビリカルでモニタリング装置やAIデバッガに接続されると、人工神経系(ANS)にハードコーディングしてある応答用ルーチンが反応して、英語で応答するのだ。
 また、前モデルのガラテア3はモニタリング装置に接続中にも人工意識が稼動しているので、接続中にも普通の応答が出来る。しかしガラテア4は接続時には自動的にコーマ(昏睡状態)に移行して人工意識がサスペンドされるので、大昔のロボットじみた応答しか返せなくなるのだ。
 何かとモニタリング装置を繋ぐ必要があるガラテア3と違い、大抵の日常的な保守はワイヤレスインタフェースで可能になっているガラテア4が、わざわざモニタリング装置に接続するのはかなりの大仕事の場合である。だからそういう管理ポリシーになっているのだ。もちろん必要な場合には、接続中でも覚醒コマンドで意識を回復させることができる。
 聡華も部下たちと実験室に入ってきたので和倉がチェックを開始する。そして数十分後、ナミの長期記憶に異常が確認され、実験室内が急に慌ただしくなった。聡華が部下の研究員に指示を出している。

「第六ワークグループに連絡して、すぐ来てもらって。それからゲートキーパー(ネットワーク管理AI)にファイアウォールの警戒レベルを最大にするように指示して」
「はい、グループ長」

 指示を受けた研究員はすぐに部屋角のコンソールに向かった。


 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆


「もしもし、私よ、珊瑚。藍の様子はどう?」

 作業が一段落した珊瑚が第八実験室から出て、修善寺に電話をしている。

「あぁ、さっきおむつを替えて、今はベッドで眠ってるよ。そっちはどうだ? 検査は終わったか?」
「実はそのことで電話したのよ。かなり面倒な事になりそうなの」

 修善寺の声のトーンが上がる。

「え? 一体何が? AI周りか?」
「えぇ、LTM(長期記憶)のメモリ消費率が異常なのよ。それで、解析用に一回LTMバックアップを取ろうって事になったの」
「うわぁ、そりゃ大事になったなぁ。ナミは八歳だし相当時間がかかるぞ。今日中には終わらないだろ」

 AIのLTMバックアップはノイマン型のコンピュータの様な差分バックアップが取れない。常に記憶構造体そのままのフルバックアップになるので、時間が非常にかかる。

「うん、解析用バックアップだから、無圧縮の鏡像コピーを取るので余計時間がかかるみたい。聡華さんの見込みでは終了が明け方になりそう。だから私は一旦家に帰ることにするわ」
「聡華さんやプリンス先輩はどうするんだ? まさか徹夜か?」

 プリンスというのはピグマリオン時代からの和倉のあだ名だ。

「そんなわけないでしょ、アキラくんもラボに連れてきてるんだから。聡華さん達も、別にナミちゃんを付きっきりで見てる必要はないから、AIラボの徹夜組に頼んでいくって」
「なるほどね。で、お前は何時頃帰ってくるんだ?」
「一時間後くらいかしら。お店が空いてるならそっちに行くけど?」
「いや、そろそろ店も看板だから直接家に帰ってくれ。詳しい話は戻ってからだな」
「そうね。それから食事の準備がちょっと遅目になるけど、我慢してね」
「あぁわかった。でも、藍が待ちかねてぐずる前に頼むな」
「はいはい……」

 珊瑚はそう言って電話を切り、まだ実験室で作業を続けている和倉夫婦達に挨拶してから自宅に戻った。

自宅リビングにて

2073年8月3日 東京特別市町田区内 修善寺宅


「あら感心ね、夕食が全部出来てるじゃない。まさかあなたのお母さんを呼んだんじゃないでしょうね?」

 帰ってきて娘の寝顔を確認した後、温かい食事の並んだテーブルを見た珊瑚が、ちょっと驚いた顔で修善寺にそう言うと、彼がしかめっ面で返事をする。

「肉野菜炒めくらい俺でも作れるって! お前が帰ってから作るんじゃ待ちきれねぇからな」
「まぁ、あの几帳面なお母さんが作ってたら、この雑な盛り付けはありえないもんね」
「お前の盛り付けだっていつも大雑把じゃねぇかよ」
「いつもはね。お客さんが来ればちゃんときれいに盛りつけてるでしょ」
「まぁな。それより早く食おうぜ、昼飯食ってないから腹減っててさ」
「しょうが無いわね、またご飯抜いたのね? まぁいいわ、頂きます」

 食事が済み、茶を入れながら、珊瑚が修善寺に話しかける。

「今日はそんなにお客が来たの?」
「あぁ、お前やナミがいない日に限ってどっとな。ついてねぇよ。ガラテアだけじゃなくて、珍客のレイセオン製のロボットまで来ちゃってさ。レイセオンのロボットなんて、ピグマリオンの社員食堂で見て以来だからなぁ。ウチじゃレイセオン・ボーイング社との正規な取引契約が無いから、あまり大した対応ができないので正規代理店でメンテしてくれって言ったんだけど、何だかそのお客さん、当の代理店とケンカしたらしくて、結局うちで面倒みることになりそうなんだよな」

 修善寺がそう言って肩をすくめる。米国の名門軍需企業であるレイセオンは、軍事用ロボットの片手間でコンパニオンロボットも作っているが、数年前までは非関税障壁でガッチリ守られていた日本国内で、それを見ることは非常に珍しい。だから普通の修理店ではまるでお手上げで、あっさり門前払いされるのが普通だ。何件も独立系の修理店を回った挙句に、修善寺の店に辿り着いたのである。

「それはお疲れさまでした。で、藍はいつから眠ってるの?」
「あぁ、お前が戻ってくる直前くらいに寝入ったかな。ナミほどじゃないけど、ガラテア3には子供を構いたがる子が多いからな。それで藍は店に来たロボット達とずっと遊んでて、昼間にはあんまり眠ってないんだよ」
「そのナミちゃんなんだけど、ちょっと検査が長引きそうなの。とりあえず、明日私はナミちゃんを迎えに行くけど、結局検査が終わらなくて、明日もあの子は泊まりになるかも」

 珊瑚が曇った表情でそう伝えると、修善寺が質問する。

「明後日は海に行く予定だったけど、予定を変更しなきゃいけないかもな。で、そんなに厄介なのか? ナミのヤツは大丈夫なんだろうな?」
「うーん、原因がわからないから何とも言えないんだけど、初期の想定よりもLTM消費量がかなり大きいのよね。半年前の検査では異常がなかったのに……」
「どれくらい消費量が大きいんだ?」
「想定よりも20%位高い感じね。こんなペースでメモリを使ってしまっていたら、来年にはメモリーオーバーフローでAIがクラッシュするわ」

 メモリーオーバーフローによるAIのクラッシュ、それはノイマン型コンピュータで起こるそれと同様、ロボットのAIデバイスで稼動している全ての知能プロセスの中断を意味する。最近にLTMバックアップをとってあるロボットであれば、LTMリロードによってダメージ最小で復活できるが、そうでなければロボットの死と言っていい。
 ガラテア3シリーズの場合、本体・バックアップデバイス共にかなり値下がりしたこともあって、かなりバックアップが普及してはいるが、それでもたった三割に満たないロボットだけがバックアップを受けているに過ぎない。
 ガラテア3の百倍以上の本体価格で、バックアップデバイスの価格は三百倍以上するガラテア4では、大金持ちのユーザーが多いと言ってもバックアップをとっているのは5%以下、それも大抵は一年に一回程度である。
 ナミにはピグマリオン・ラボラトリーズでプロトタイプとして実験を受けているときのバックアップが、芙蓉重工のLTMデータアーカイブに残されているが、それはもう五年以上前の記憶であり、あまりバックアップとして役に立つとは言えない。

 あまりに問題が大きいことに驚いた修善寺が、表情を改めて珊瑚に質問する。

「おい、ちょっと待てよ。来年なのかよ。年明けの一月三十日がアイツの誕生日だっていうのに」

 修善寺の目を柔らかく見つめて珊瑚が返事をする。

「それは今のままでは、って言う事よ。ちゃんと対応するから心配しないで。これまでだって、ガラテア4のAIの不具合は色々と修正して克服してきたんだから」

 少しほっとした表情で、修善寺は質問を続ける。

「ナミはここ一月くらい、睡眠時間が妙に長くなってるけど、それも関係あるのかな?」
「あると思う。実際、LTMをチェックしようと思ったのは、睡眠時間の絡みでだからね」
「対応とかはどうなるんだ? 目処とかは付いてるのか?」

 修善寺が再び不安げな口調で珊瑚にそう質問すると、珊瑚は眼を閉じて首を振る。

「ううん、これから検討するのよ。LTMの内容を精査してみないと対応の立てようもないからね。私も解析には協力するつもり」
「マルウェアにやられた可能性はないのか?」
「それはないわ。事実上、ガラテア4には確認されたマルウェアってまだないし、AIプロセス・モニタリングでも怪しい挙動は一切無いの」
「そうか…… それじゃ結構解決に時間がかかりそうだけど、お前、大学の方はどうするんだ? 大学ほっといて芙蓉重工のAIラボに行きっぱなしって訳にはいかんだろ?」
「あぁ、それは大丈夫。実は芙蓉重工のラボにいるうちに、指宿さんに連絡して許可をもらったんだけど、指宿さんも興味があるから明日一緒に行くって」

 指宿というのは、産総研大の人工意識研究室で主任研究員をしている女性だ。やはりピグマリオン出身で修善寺と聡華の同期生にあたり、互いに気心が知れている。新進気鋭のAI研究者として学内での評価も高い。実は彼女は二年前に結婚して、苗字が『那須』に変わっているのだが、学内では旧姓で通している。
 ちなみに珊瑚の亡き母であり、理研大教授であった湯布院翠も、大学では旧姓の『道後』で通していて、その翠の愛弟子の一人であった指宿もそれに倣っているようだ。

「そうか、指宿さんも来てくれるんなら心強いな。でも、お前、あんまり無理するなよ。お腹に子どもがいるんだしさ。お前自身だって病院に通わなきゃいけないんだから」

 修善寺の口癖だ。藍が珊瑚のお腹にいるうちもそうだったし、藍が生まれてからは『お前はお母さんなんだから』になり、二人目ができた今、また口癖が『お腹が……』に戻ったのだ。

「わかってるわよ、無理はしないわ」
「お前、俺がいくら言っても聞きゃしねぇからな。確かにナミは大事だけど、お前にまで万一のことがあったら……」
「わーかーりーまーしーたっ! じゃ、私は藍を見てくるから」

 付き合っていると何時までもくどくどとウルサイので、珊瑚は早々に退散して藍の顔を見に行き、安らかな寝顔の娘の頭を軽く撫でた。明日もまた芙蓉重工のAIラボで長丁場になりそうで、娘は心配性の父親に預けていくことになりそうだ。

AIラボ 第八実験室にて(検査終了)

2073年8月4日 東京特別市八王子区内 芙蓉重工AIラボ


「やっと終わりましたね……」

 溜息と共に珊瑚が言う。もう日も傾き、AIラボ第八実験室の窓から、西の空が赤く染まっているのが見える。

「まずい状況ね。これだけバックアップに手こずるってことは、このLTMデータは普通にリロード可能な状態では保存されていないでしょうね」

 眉根を寄せて指宿が言う。リロード出来ないということは、バックアップ失敗と言うことだ。

「えぇ、その通りよ。鏡像コピーは取れてるけど、構造がイレギュラーで解析エラーが頻発して修正が掛からないの。リロードしても意味が無いわ」
「やっぱり…… ならば取れた鏡像コピーデータの解析を進めましょう。ナミはもう起こしてあげたら?」

 指宿がそう言うと、聡華はモニタリング装置を操作し、覚醒コマンドを送る。ナミのまつ毛が微かにふるえ、まぶたがゆっくり開く。

「おはよう…… あれ? もう夕方だね」

 ナミの腹時計は正確無比だ、日本標準時から一ミリセカントも狂わない。珊瑚がナミに話しかける。

「ごめんね、ナミちゃん。検査に時間がうんとかかっちゃってね。実は、ナミちゃんはまる一日以上、この実験室で寝てたんだよね」
「そうだね。もう検査は終わったの? おうちに帰っていいの?」

 ナミは聡華の方を向いてそう聞くと、隣に知った顔がいることに気づく。

「あ、和泉さん、こんにちわ。いつ来たの?」

 指宿が笑ってナミに答える。

「今日の朝からよ。久しぶりね、ナミ。もう今日はこれでいいはずよ、でしょ、聡華?」
「えぇ、またすぐに来てもらうことになりそうだけど」

 真面目な顔で聡華がそう答える。指宿が珊瑚に質問する。

「珊瑚さん、うちのラボにもナミちゃんのLTMデーターをコピらせてくれない? 守秘契約書も書くからさ」
「いえ、書類はいいですよ。私も同じラボに在籍してるんだから、法的にも不要なはずですよ。アクセス権限は私が後で設定しときます。指宿さんのグループ全員に権限を渡しておきましょうか?」

 家庭用コンパニオンロボットの記憶は個人情報の塊、それのやりとりには厳しく法の網がかかっている。

「いえ、とりあえず私にだけでいいわ。何人かで解析が必要になるようなら、その時にまたお願いするから」
「わかりました。すいません、指宿さんには他にも色々仕事があるのに」
「いいのよ。私は自分の興味を優先させているだけなんだから。それより妊娠初期のあなたの方が無理しちゃいけないわよ。安定期までまだまだでしょう」

 そう珊瑚に言ってから、指宿はナミに話しかける。

「ナミは変な時間に目が覚めちゃったね。今日は眠くならないかも知れないけど、ちゃんと時間通りにベッドに行かなきゃダメよ」
「はーい」

 ナミが元気よく返事をし、指宿に聞き返す。

「あのね、ナミね、この頃はすぐ眠くなっちゃうの。夜更かしが苦手になっちゃったみたい」
「夜更かしはロボットにとっては、とても良くないのよ。眠くなったら我慢しないで眠りなさいね」
「はーい」

 ナミはそう返事をして、一つ質問をする。

「ねぇ? 和泉さんはいつ赤ちゃんを生むの?」

 唐突な質問に、ちょっと驚いた顔で指宿が聞き返す。

「え? どうして急に? うちは赤ちゃんはまだなんだけど……」
「あのね、結婚すると赤ちゃんが出来るって主任が言ったんだよ。和泉さんは一昨年に陽ちゃんと結婚したから、もう赤ちゃんができたのかなって思ったの」

 陽ちゃんというのは那須陽一、指宿の夫だ。やはりピグマリオン時代の同期生で、修善寺や和倉と仲が良かった男だ。修善寺がいつも那須を「陽ちゃん」と呼ぶので、ナミもそれにつられてそう呼んでいる。

「ナミちゃん、赤ちゃんが生まれるかどうかは、結婚しただけじゃ決まらないのよ。それとね、結婚して赤ちゃんが欲しくても、いろいろな理由で赤ちゃんがなかなか出来ない人もたくさんいるの。そう言う人達に『赤ちゃんはいつ出来るの』って聞くことは、その人をすごく傷つけてしまうことにもなるのよ」

 そう言って、珊瑚がナミをたしなめると、ナミは泣きそうな顔で指宿に謝る。

「和泉さん、ごめんなさい。ナミね、藍ちゃんとかアキラくんがすごく可愛くて大好きなの。それで、和泉さんにも赤ちゃんがいたらいいなって、和泉さんの赤ちゃんを抱っこしたいなって思ったの。それで……」

 指宿は目を細めて口元で笑い、ナミに返事をする。

「謝らなくてもいいのよ、今はまだ赤ちゃんはいないけど、いずれ授かるだろうから」

 そう言った指宿に、聡華が質問する。

「那須次長がこの頃子どもをすごく欲しがってるって、修善寺くんが笑ってたけど……」
 苦笑しながら指宿が答える。
「えぇ、彼は結婚当初には子供のことなんて、まーるで気にしてなかったんだけど、珊瑚さんのところで藍ちゃんと遊んでるうちにねぇ。どうも『赤ちゃん可愛いスイッチ』が入っちゃったみたいなのよね。実は昨日も修善寺くんのお店に顔を出してるのよ。役職者のくせに仕事サボっちゃって、どうしようも無いわ、あの人」

 那須は芙蓉重工本社の営業次長だ。ピグマリオンで同期社員だった修善寺が『俺は、しがないロボット修理屋だっていうのに、陽ちゃんは大出世だよな』と時々冗談交じりにぼやいている。
 聡華が笑いながら指宿に話す。

「そう言えば、那須次長はラボにもよく来てるのよ。アキラがいつも遊んでもらってるの」
「あの人、アキラくん目当てで遊びに行ってるくせに『研究者たちとコミュニケートするのも大事な仕事だ!』とか言い張るのよね。アキラくんとしかコミュニケートしてないくせにね」

 そう言って、指宿が呆れたような顔で軽く笑うと、珊瑚も笑って話しかける。

「那須次長は、本当に飽きずに藍をかまってくれますもんね。うちも助かってますよ」

 聡華が珊瑚に帰りを促す。

「その藍ちゃんが待ってるんじゃない? 今日も遅くなっちゃったし、早く帰らないと」
「そうですね。二日続けてじゃかわいそうですよね。じゃ、藍が待ってるからナミちゃん帰ろうか?」

 そう言って珊瑚が椅子から立ち上がり、ナミに声を掛ける。

「うん。ナミね、帰ったら藍ちゃんを抱っこしてあげるの」
「そうだ、明日は妙さん達と海に行く約束だったね。帰ったらその準備もしなきゃね」
「そうだね。ナミね、先週、主任にお小遣いもらって、妙さんと千陽ちゃんと一緒に水着を買いに行ったんだよ。海で信くんに見せてあげるの。じゃあ、聡華さん、和泉さん、お先に失礼します」

 ナミがはしゃいで返事をする。久々のお出かけが検査で潰れてしまうところだったから、それも無理もない事だろう。そうして二人が帰って行くと、聡華が指宿に話しかける。

「和泉さん、ちょっと時間いいかしら。第一研究室にうちの人もいるので、ちょっと話したいことがあるんだけど」
「ん? 大丈夫よ。プリンス先輩も相変わらずアキラくんをおんぶして仕事してるの?」
「えぇ、でもこの暑い時期だし、アキラがあせもになりそうで心配なんだけど……」
「プリンス先輩、言い出したら聞かないもんねー」

 そう言って指宿が笑っているのを見ながら、聡華は腰掛けから立ち上がる。

「じゃ、研究室の方に行きましょう」


 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆


「こんばんわ。アキラくん」

 聡華に抱かれたアキラに指宿が話しかけると、さっきまではぐずっていたのに『にーっ』と愛想良く笑う。やはり母親の腕の中が一番なのだろう。

「いや、指宿さんも忙しいのに引き止めちゃってゴメンな。ちょっと相談したいことがあってさ」

 和倉がそう言って、まるで照れたように首筋を指でかく。

「いえ、いいんですよ。ナミのLTM異常の件でしょう?」
「あぁ、まだこれから解析なんだけど、かなりマズイことになってそうなんだ」

 そう言って和倉は聡華を見、聡華が言葉を継ぐ。

「実は、LTMの記憶構造体に重大な変化が出てきてるのが、とりあえずわかったの。設計仕様にない変化なのよ」

 指宿が表情を変えずに聞き返す。

「それはAI設計不良のせいなの? それともマルウェア?」
「昨日はマルウェアを最初に疑ったけど、その線は無いわ。第六ワークグループにAIプロセスモニタリングをしつこく掛けてもらったけけど、マルウェアを示唆する挙動は一切無いの」

 第六ワークグループはマルウェア専門の解析チームだ。AIに対するクラッキングに関し、芙蓉重工AIラボ以上の技術水準にあるのはアメリカ合衆国のNSA(国家安全保障局)位だと言われている。その彼らがマルウェアの線は薄いと言うのであれば、まずその可能性はない。

「ということは、設計の方ね…… 別府博士たちに連絡は?」

 少し眉をひそめて指宿が聞くと。和倉が答える。

「メッセージは送ってある。まだ返事がないけどな。博士もギブソンで色々大変みたいだしなぁ」

 別府博士とはピグマリオン・ラボラトリーズの設立者で、ガラテアシリーズのAI設計の中心となったAI科学者だ。博士はピグマリオンがギブソンに買収された今、ギブソンのアフォーダンス研究所で研究開発を続けている。しかし、研究内容は博士が真に目指していた「究極のヒューマノイド・ロボットであるガラテアシリーズ」ではなく、ギブソンの主力製品である「人工知能搭載の軍用自律戦闘機械」(ウォーモンガー)である。

「博士にはどうしても協力してもらわないと、解析にせよ対応にせよ、多分行き詰まると思いますよ。基本的にガラテア4の人工意識は博士の作品なんだから」

 そう指宿が言うと、和倉もうなづく。

「あぁ、その通りだ。実は別府博士だけじゃなくて、ピグマリオンでガラテアシリーズに関わった研究者には、なるべく全てに連絡を入れるように、昼前に有馬社長に頼んであるんだ。実は指宿さんの所にいるピグマリオンの先輩や、工学部長の宮城先生へも俺から今朝、直接連絡を入れてる」
「それから、同業他社との根回しを陽一にも頼んでるんだ。あいつが出世してくれたおかげで、随分助かるよ」

 ギブソンから同業他社へ散った元ピグマリオンの研究者は多く、その多くがフェローシップを持っていた優秀な研究者たちだ。そこへ芙蓉重工から直接あれこれ連絡が行くことは、無用な諍いを産んでしまうことにもなりかねない。そのため、営業部次長の那須に話を通し、営業部から同業他社向けに状況の説明をしてもらおうと考えたのだ。
 指宿がクスッと笑って和倉に返事をする。

「あらら、うちの人も絡んでるんですね。じゃ、家に帰ったらハッパをかけとかなきゃ」
「ちょっと問題が大きそうなので、指宿さんや産総研大の人たちにも、協力して貰いたいんだ。よろしく頼むよ。AI研究所の第一主幹としてお願いする」

 そう言って頭を下げた和倉に、指宿がスッと背筋を伸ばして返事をする。

「わかりました。珊瑚さんにも言いましたけど、私自身、この問題が非常に気になります。ぜひ協力させてください。産学協同プロジェクトにできるようなら、うちの学部長にも本気で動いてもらいますから」
「指宿さんにはいつも頼み事ばっかりで申し訳ないけど、本当にお願いします」

 そう言って、聡華も頭を下げた。

弓ヶ浜海岸にて

2073年8月5日 静岡県伊豆広域市 弓ヶ浜海岸


「ねー主任? まだ日陰から出ちゃいけないの?」

 海岸に三つ並んだ大きなビーチパラソルの下で、上目遣いでナミが修善寺に聞くと、絵柄物のアロハシャツに真っ黒なセルフレーム・サングラスという、大昔の不良少年みたいな格好をした修善寺が仏頂面で答える。

「だーめだ、三時まではガマンしろ。こんなピーカンじゃ、ちょっとやそっとサンブロックを塗っても全然効果がないからな」

 そう言った本人の肩口から首筋が日焼けで真っ赤だ。自分自身が日焼け止めを塗るのを不精したせいで、かなりひどい目に会っている。一方のナミは、お気に入りの大きな麦わら帽子に、インディゴブルーに白いサイドストライプが入った競泳用ワンピース水着という姿。先週に草津や千陽と一緒に買ってきたものだ。

「でも、信(まこと)くん達は泳いでるよ。ナミも一緒に遊びたいのに」

 淡いブルーのワンピースを着た珊瑚が、笑ってたしなめる。

「あの子達は多少日焼けしたって、ほっとけば治るけど、あなた達ロボットはそうは行かないでしょ。千陽達と一緒に、しばらく我慢してなさい。あそこのUVゲージを見てみなさい。UVインデックス値が10もあるじゃないの」

 海岸に立っている時計塔には、時刻と一緒に紫外線強度を示すUVインデックスが表示されている。10ということは極めて強い日差しで、本当は子供たちが遊んでいるのも少し問題だ。

「今日は本当にありがとうね、主任さん。私たちの家族や千陽たちロボットまで連れてきてくれて」

 そう言って、修善寺に礼を言ったのは草津妙という三十手前に見える小柄な女性。今日は彼女と彼女の息子二人、それに彼女の店で働いているコンパニオンロボットたち4人が、修善寺たち家族四人と一緒に海へ遊びに来ているのだ。草津は修善寺のロボット修理店の前々からの上得意で、家族ぐるみの付き合いが続いている。

「信さんと仁(ひとし)さんはまだ泳いでいるのですか?」

 そう聞いたのは千陽(ちはる)、今年16歳になるコンパニオンロボット。ナミより一モデル前のガラテア3で、草津の経営するスナックで働くロボットだ。今日は小さめのリムレスのサングラスにネイビーブルーのビキニ、それに大きめのバスタオルを肩に羽織っている。

「二人とも飽きずにジャバジャバやってるわねぇ。でも、そろそろ疲れて上がってくるでしょ」

 海のほうはろくに見もしないでそう草津が答えると、珊瑚も海を見て笑う。

「あはは、本当に帰ってきましたね。いまシャワー浴びてますよ。千陽ちゃん、あの子達にスイカ切ってあげるから誰か連れて、クーラーごと持ってきてくれる?」

 千陽は直ぐに立ち上がり、ポニーテールにした妹分のロボットに指示を出す。

「はい、珊瑚さん。じゃ時雨、手伝って頂戴」
「はい、千陽姉さん」

 そう言って、時雨も立ち上がって、車に積んであるクーラーボックスを二人で取りに行く。ロボットにも順位があり、草津の所ではオーナーの妙が最高位で、長男の信、次男の仁、そして最年長ロボットの千陽、その次ぎの時雨…… といった順になっている。軍隊と一緒で、順位が上のものは下の者に指示命令ができるし、原則として上の者に下の者は従わなくてはいけない。
 ナミも立ち上がった千陽に声を掛ける。

「あー、ナミも手伝うよ。ナミがスイカを切るの」

 すると藍をうちわで扇いでいた修善寺が制止する。

「ナミ、お前はぶきっちょだから包丁はダメだ、珊瑚にやってもらえ。それより、超純水をおまえらロボットの人数分持ってきてくれ。今日は暑いから、こまめに水を飲んでおけよ。今日みたいな時は、いつも肌が汗で濡れているくらいでちょうど良いんだ」

 ロボットが海辺で遊んだ後に人工汗腺が詰まることがよくある。大体がロボットに超純水を十分に飲ませていなかったせいで、発汗量が足りずに海水が人工汗腺に浸透し、そこで析出するためなのだ。元々ピグマリオンの開発エンジニアであった修善寺は、そういうところには非常に細かい。

「はぁい……」

 スイカを切ってみたかったナミは、つまらなそうに返事をして、クーラーボックスの超純水パックを取りに行こうとすると、草津が、手すきのロボットに指示をする。

「若葉、ナミちゃんを手伝ってあげて」
「はいお母さん」

 そして、ロボットたちが水を配られて飲み始めたころに、信と仁がパラソルに戻ってきた。珊瑚がバスタオルを投げ渡しながら声を掛ける。

「信くん、仁くん、スイカを切ったから食べてね。のど乾いたでしょ?」

 二人とも頭を下げて礼を言う。

「ありがとう、珊瑚さん」
「サンキュー、珊ちゃん」

 口調が丁寧な兄の信は、今年十五歳の11年生。あと一年半で卒業だ。顔立ちは草津に似た感じで、ちょっと幼い顔付きで目元の優しい美少年。ただ、背丈は修善寺や珊瑚よりも頭ひとつ分高く、これは亡くなった父親に似たと言う事だ。
 砕けた口調の弟の仁は、今年十三歳の9年生。明るくて口達者、勉強も良く出来る。こちらは顔立ちも体格も父親似と言うことで、あと二三年すれば短髪の似合う、精悍な若者になりそうな顔立ちだ。
 仁はすぐに珊瑚の隣りに座り、スイカにかぶりついている。信も母親の妙とナミの間に座ってスイカを食べながら、ナミに話しかけている。

「ナミちゃんは水を飲んでるんだね? やっぱりスイカはダメなんだ」
「うん。ピグマリオンのロボットが飲んでいいのはメタノールと超純水だけなんだって。川の水や水道の水も飲んじゃいけないの。海の水は絶対駄目だから、水遊びくらいはいいけど、泳いじゃだめなんだって」
「間違って海水を飲み込むと、体の中のマイクロポンプが詰まっちゃうんだっけ?」
「うん、主任がそう言ってた。信くんスイカおいしい?」
「うまいよ。ロボットにもスイカくらい食べられたらいいのにな」
「他所の会社の昔のロボットには、御飯食べたりお酒飲んだりするロボットもいたんだって」
「へぇ、じゃぁトイレにも行くのかな?」
「行くんだって。でね……」

 修善寺が慌ててナミを止める

「ナミ、それ以上はダメだ。信たちがスイカ食ってるんだから、トイレの話しなんかしちゃだめだろ」

 ロボットだから食べたものを消化できないので、結局トイレで全部吐き戻して…… と続くはずだったのである。

「あ、そうだね。ごめんね、信くん」

 ナミが詫びると、信は優しく微笑んで答える。

「いいよ、僕がトイレの話を先にしたんだからさ」

 信がそんな話をナミとしている間、仁は珊瑚を相手に話している。

「珊ちゃんは、海に来たのに泳がないのー? ビキニも着てないしさー」
「うーん、もうお腹に赤ちゃんがいるからねー、ちょっと泳ぐわけにはねー。大体私はビキニなんて持ってないもの」

 切ったスイカを持ったまま苦笑いして、珊瑚がそう返事をすると、今度は修善寺を誘っている。

「じゃぁ空海おじさんは? 水着着てるんだったら泳ごうよ」

 オジサンと言われるたびに涙が出そうな修善寺だったが、ぐっと我慢して返事をする。

「いやー、さっき泳いだ時に日焼けしすぎて、さっきから首筋がヒリヒリしてしょうが無いんだよなー。だからパス」
「ちぇっ、兄貴ももう疲れたとか言ってるしさー。じゃぁ、ナミちゃん泳ごうよ」

 すると信が弟をたしなめる。

「だから、ナミちゃんや千陽姉ちゃんたちは泳げないって何回も言ったろ! もうちょっと日差しが弱くなったら、波打ち際でビーチバレーでもしようぜ。あそこのネットが空いてるしさ」

 珊瑚が遠くに立っているUVゲージを見ながら、ナミに声を掛ける。

「UVインデックスが8にまで下がったわね。7になったら日向に出てもいいわよ。但し、ちゃんと日焼け止めを塗ってからね」

 ナミが喜んで嬌声を上げる。

「やったー! じゃ、これからサンオイル塗るね」
「信、仁、あなた達もサンオイルを塗りなおしなさいな。千陽達、悪いけど、この子達の背中にオイル塗ってあげてくれる?」
「はいお母さん。じゃ、先に信さんの背中を塗りましょうか?」

 そう千陽がそう返事をすると、ナミが割り込んでくる。

「ナミが信くんにオイル塗ってあげるよ。千陽ちゃんは仁君を塗ってあげて」

 すると、千陽が草津を見て質問する。

「お母さん、どうしましょうか?」

 草津が笑って千陽に言う。

「ナミちゃんがやってくれるなら、頼みましょうか? 別に構わないでしょ、信も」
「うん、お願いしようかな。代わりにナミちゃんの背中を僕が塗ってあげるよ」

 そう言った信に、ナミがにっこり笑って返事をする。

「ありがとう、信くん。じゃ、背中こっちに向けてね」


 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆


 傾き始めた日に大きな綿雲がかかって日差しが弱まり、早仕舞いの海水浴客が帰り始めて浜辺が空いてきた頃、ナミ達は砂だらけになってビーチバレーに興じていた。信とナミ、仁と千陽それに修善寺の二対三で遊んでいるのだが、修善寺が疲れて音を上げている。両膝に手をついて肩で息をしているところを見ると、本気で疲れている様子だ。

「ちょ、ちょっと…… 信さぁ…… 俺に…… スパイク打つときと…… 千陽に打つ時で…… 随分と…… 差がない?」
「あはは、そりゃ千陽姉さんには手加減しますけど、仁や空海おじさんには必要ないでしょ?」

 そう信が笑って返事をする。去年の事件から表情がずっと暗くなってしまった信だが、久しぶりの屈託の無い笑顔だ。

「まことぉ…… どうでもいいけど…… お兄さんて呼んでくれない…… 俺、オジサンて言われるたびに…… 涙出そうなんだけど」

 まだ息が切れていて、とぎれとぎれに話す修善寺に、ナミがまぜっかえす。

「えー、珊ちゃんが『もうお父さんなんだからおじさんでもいいでしょ』って言ってたよ」

 そう言われて、なぜか急に元気になった修善寺が憤然として言い返す。

「何言ってんだ、アイツは! じゃぁ、アイツだって母親なんだから『珊瑚オバサン』で決定だな」

 仁がちょっと意地悪く笑いながら修善寺に聞く。

「えー? じゃぁ空海おじさん、自分で言えるの? 俺、怖くて絶対言えないなー」
「いや、その、俺も自分で言うのはちょっとな……」

 とたんに意気地がなくなった修善寺が信を見ると、こっちもニヤニヤ笑っている。

「僕だって言えませんよ。珊瑚姉さん綺麗だし、どう見てもオバサンには見えないし」
「じゃぁ何で俺だけオジサンなんだよお!」

 少年二人に修善寺が切れると、仁がからかうように言い返す。

「えー、だってずっとそう呼んできたんだもん。今になって呼び方をかえるのも変だよねー」
 信も笑っている。
「それに、今更になって『空海お兄さん』って呼んだら、それはそれで嫌味じゃないですか?」
「もーいいよっ、どうせ俺はオッサンだよ……」

 どう考えても修善寺が一番子供みたいな事を言っている様だ。慰めるつもりなのだろう、ナミが修善寺に話しかけている。

「じゃあね、ナミが主任のこと、お兄さんて呼んであげるね?」
「いやいい、娘にお兄さんと呼ばれるのも妙な気分だからな」

 ナミが不思議そうに修善寺の顔を見る。

「ナミは主任の子どもなの? 別府博士の子どもじゃないの」
「ナミ、お前は俺と珊瑚の娘で、藍のお姉ちゃんだ。忘れるな」

 そう言って、修善寺は軽く笑ってナミの頭を撫でると、ナミが照れたような目で笑いかえす。ビーチパラソルの方から珊瑚の呼ぶ声が聞こえる。

「あなた達、もうそろそろ帰り支度の時間よ。シャワーを浴びて戻ってらっしゃい」

 その日の帰り道、FMラジオが今日の深夜から二日ほど雨であると伝えている。珊瑚はそれに耳を傾けつつ、運転席の修善寺に話しかける。

「ナミちゃん、もう眠っちゃったみたいね」

 修善寺が後部座席に信と仁に挟まれて座っているナミを、ルームミラーでチラッと見ると三人とももう眠っている。ナミは信に肩を抱かれて完全に凭れかかった状態だ。修善寺が驚いて珊瑚に返事をする。

「え? まだ八時にもなってないぞ。この頃は寝るのが早くなってきてるけど、それでも九時過ぎくらいだったじゃないか」
「今日は、色々楽しいことが多かったしね。刺激が多い日にはどうしても受け取り情報量が多くなるから、入眠は早くなりがちなのは知ってるでしょ」
「あぁ…… でも極端すぎるぞ。本当に大丈夫なのか、ナミは」

 珊瑚は無表情に窓の外を眺め、何も言わなかった。修善寺もまた、それ以上聞きただす事は出来なかった。

AIラボ 第八実験室にて(臨時対応処置)

2073年8月6日 東京特別市八王子区内 芙蓉重工AIラボ


「こんにちはー聡華さん、今日は何をするの?」

 珊瑚が会釈し、ナミがAIラボの玄関で元気いっぱいに挨拶すると、聡華がナミと珊瑚を招き入れる。

「こんにちは、ナミちゃん。今日はまた一昨日の続きをするのよ」

 そう言って、珊瑚を見る。

「こんにちは、珊瑚さん。ちょっと日焼けしたわね。伊豆に行ったんだって?」
「えぇ、妙さん達と一緒に」
「あのねー、珊ちゃんは藍ちゃんとお腹の赤ちゃんがいるから泳げなかったの。ナミは主任と信くんたちとビーチバレーとか色々したんだよ」
「そう、楽しかったでしょ。信くんたちにもしばらく会ってないけど、元気?」
 聡華がそう聞くと、ナミがちょっと表情を曇らせる。
「信くん、昨日はすごく元気だったんだけど、いつもはあまり元気がないの」
「そう…… それじゃ、仁くんは?」
「仁くんは元気だよ」
「そうなんだ。信くんも早く元気になるといいね」
「うん、昨日は元気だったから、今日も元気だといいな」

 そう言ってナミがちょっと笑った時、第八実験室の前についた。

「はいこんにちは、海はどうだった?」

 実験室で待っていた指宿が、ナミに声を掛ける。

「あ、和泉さんこんにちわ。すごく楽しかったよ。信くんが久しぶりに元気だったの」
「マコトくんって?」

 そう聞き返した指宿に、珊瑚が返事をする。

「あぁ、草津さんの息子さんですよ。長男の方です。指宿さんは妙さんには会ったことありませんでしたっけ?」
「ううん、名前は知ってるけどまだ会ったことはないのよね。確か草津さんって、聡華がガラテア3用の教育メソッドで学位論文書いたときの協力者でしょ?」

 聡華が微笑んで返事をする。

「えぇ、そうよ。私も妙さんに最近会ってないし、また遊びに行きたいな。お話してると本当に楽しい人なのよ」
「あのね、信くんはね、すごい美少年なんだよ」

 ナミが妙に鼻息荒く割り込んでくると、珊瑚が苦笑して付け加える。

「信くんは、お化粧したら女の子でも通用しそうなくらいだからね」
「えー? 信くんは男の子だからお化粧はしないんだよ」

 なんだか、ナミが随分不満そうだ。そうこうしているうちに、準備をしていた研究員から声がかかる。

「準備できました。ナミさんはベッドに横になってくださいね。和倉グループ長はこっちで認証をお願いします」

 今回は通常のモニタリング装置ではなく、AIラボの高機能AIデバッガをネットワーク越しに繋ぐ。これの認証には聡華のようなグループ長クラスの認証が必要なのだ。聡華が返事をして、実験室の隅にあるコンソールデスクに向かい認証する。その間に珊瑚がナミの操作特権を取ってアンビリカルを結線する。ナミは昏睡状態に入り、コネクション状況の読み上げが無機質に進む。珊瑚がコンソールから戻った聡華を見て言葉を掛ける。

「聡華さん、AIデバッガとのコネクションが終了しましたよ。処置はどんな感じで実施するんですか?」
「今日は本当に応急処置だけよ。記憶構造体の解析がまだまだこれからだし、そっちが終わらないことにはメインのAIプロセスコード群を改善することも出来ないから」
「処置の前に、ナミのLTMのスクリーニングをもう一回やってみてもらえますか?」

 怪訝な顔で指宿が珊瑚を見て質問する。

「別に構わないと思うけど、どうしてまた?」
「昨日のナミの睡眠時間が12時間以上です。いくら何でも長すぎます」

 指宿と聡華が顔を見合わせる。

「マズイわね…… どう思う、聡華」
「わからないわ。とにかくスクリーニングをしてみましょう。メモリ消費率が安定していれば良いんだけど」

 LTMの確認を始めてから一時間後、メモリ消費量の概算が確認された。

「日間消費率0.6%…… 前回のスクリーニングから、たった三日よ。こんなペースじゃメモリを使い切るのは……」

 そう言った聡華に、指宿が言葉を重ねる。

「早ければ10月、遅くとも11月末ね。消費率が加速されてるわ。一刻も待てない、すぐ応急処置よ。聡華、準備して」
「えぇ、でもその前に珊瑚さんに処置の説明を……」
「何を悠長な事を…… と言いたいけど、そうもいかないわね。手短にね」

 珊瑚を見ながら聡華が説明を始める。珊瑚の顔からは拭い去ったように表情が消えている。彼女が緊張したときの癖だ。

「じゃ、説明を始めるわ。マスターのあなたの許可が必要な処置になるから、よく聞いてね……」

「ロボットのお医者さん」にて

2073年8月10日 東京特別市町田区内 『ロボットのお医者さん』店内


 ナミヘの応急処置はとりあえず無事に終了し、彼女はその日のうちに修善寺の自宅に帰ることができた。そしてその翌日からは修善寺のロボット修理店『ロボットのお医者さん』でずっと働いている。今は朝八時半、もうそろそろ開店する時間だ。

「ねぇ、主任。ナミの体内時計がおかしくて、今の時間や日付がわからないの。それに時間や日付に関係することをすぐ忘れちゃうし、どれくらい時間が過ぎたかも分からなくなっちゃったんだよ。ナミ、壊れちゃったのかなぁ?」

 ナミが不安そうな目で修善寺にそう訴えると、修善寺がうつむいてキーボードを叩きながら返事をする。

「今のお前は応急処置中だから、色々具合がわるいところが出てきてるんだ。プリンス先輩や聡華さん達が、一生懸命お前の治し方を研究中だから、もう少し我慢してくれ」

 そう言って立ち上がるとナミを軽く抱き寄せて頭を撫でてやるが、うつむいたナミの顔から不安そうな表情が消えない。

「あとね、記憶が変なの。海に行った次の日にはまた検査の日だったはずなのに、どうやって聡華さんのラボに行ったかも覚えてないし、ラボからどうやって帰ったかも全然思い出せないの。ナミが思い出せるのって、海から帰るときに車の中で信くんとお話ししてた時までなの」
「あぁ、それも処置の副作用なんだ。処置した日の事はお前の記憶に残せなくてな。まるまる一日分損しちゃったけど、勘弁な」

 修善寺はナミの背中を軽くポンポンと叩きながら話している。

「そうだ、今日から信が手伝いに来てくれるぞ。夏休みの間はウチでバイトしてくれるってさ」

 そう修善寺が言うと、ナミはパッと修善寺の顔を仰ぐ。彼女の表情が晴れて声の感じも明るくなる。

「え、そうなの。じゃあ、今日は信くんとずっと一緒に仕事だね。何時に来るの?」
「もうそろそろ……」

 そう修善寺が言いかけた矢先に、信が店に入ってきた。ざっくりした麻のボタンダウンシャツにスラックス、日焼けした顔に小さめなオーバルのサングラスをかけている。今日は日差しが強く、暑くなりそうな一日だ。

「おはようございます。今日からよろしくお願いします」

 信がそう言って修善寺に頭を下げる。

「あぁ、よろしくな。じゃ、倉庫の整理と在庫確認をお願いするよ。まだまだかかると思うけど頑張ってくれ」
「はいわかりました」

 そう言って、信が倉庫に行こうとすると、ナミが大声で止める。

「待って、主任。信くんは今日初めてウチで働くんだから、やり方を教えてあげなきゃ」

 そうナミが言うと、二人とも『しまった』と言う顔をしている。ナミはそれに構わずに言葉を続ける。

「ナミが教えてあげる。一緒に行こ。いいでしょ、主任」
「あぁ、頼んだぞ」

 修善寺がそう言って、二人が倉庫に行くのを眺めていると、電話が鳴る。珊瑚からだ。

「今日はナミちゃんの様子はどう? まだ大丈夫?」
「あぁ、いつもと変わりない。ずっと同じ調子だ、異常はない」
「そう…… ならいいわ。あの子にはちょっと可愛そうだけどね」
「今の対処も仕方のない事だとは思うが、どうせすぐにアイツには分かってしまうぞ」
「わかってる。その時はその時で対処するわ……」

 珊瑚がそう答え、少し会話が途切れてしまうと修善寺が別の話題を切り出す。

「お前の方はどうだ? 検査は?」

 今日、珊瑚は掛り付けの病院で検診を受けているのだ。藍もついでに小児科で診察を受けている。

「私の方はもうちょっと検査が残ってるけど、特に問題なさそう。藍も健康そのものだって言われたわ」
「そうか…… それは何よりだ。で、検査が終わったらこっちへ戻るんだろ?」
「うーん、思ったより早めに終わりそうだし、時間があるから大学の方へ顔をだそうと思ってるんだけどな」
「藍と一緒にか? もう体重が9キロもあるんだし大変だろ。行くのは明日にしとけよ」
「でも、指宿さんにナミちゃんのLTM解析を丸投げしちゃってるし……」
「無理しないでくれよ。在宅でも彼女とはリアルタイムでやり取りできるんだしさ。そのためにうちの店の回線を太くしたんだろ」
「うーん……」
「頼む、明日は大学まで車で送ってやるからさ」

 珊瑚が電話口でクスッと笑う。

「別にいいわよ、タクシー使えばいいんだもん。じゃ、昼前にはお店に戻るから」
「あぁ、わかった。昼飯は隣に頼むから、近くまで来たらもう一度連絡してくれ」

 隣は『めいふぇあ』という喫茶店で、そこのマスターは修善寺の店の元オーナーである。去年、ロボット修理店の権利を修善寺に売った、というか修善寺は半ば無理矢理に買い取らされたのだ。そのため修善寺は銀行に、そこそこ大きな借金を抱えている。返済自体は順調なので、三年後には完済する予定ではあるが。

「と言うことはまたラーメンね。いつも思うけど、何で喫茶店なのにラーメンがメニューにあるのかしらね?」

 おかしそうに珊瑚がそう言うと、修善寺も笑って返す。

「まぁ、社長が作るの好きだからだろ。社長は見た目は喫茶店のマスターって言うより、強面のラーメン屋のオヤジだもんなぁ。でさ、本当にラーメンでいいのか? 妊婦向きじゃねぇと思うけどな」
「あはは、大丈夫よ、今のところはつわりもないしね。それに、そこら辺のお店よりも美味しいしね、社長のラーメンって」
「まぁな、確かに旨いな」
「それじゃ、また後でね」

 珊瑚がそう言って、電話は切れた。

ロボットのお医者さん 店内事務所にて

2073年8月10日 東京特別市町田区内 『ロボットのお医者さん』店内事務所


「ナミのLTM解析の方はどうなってるんだ? 早いところ解決してもらわないと、今のままじゃ……」

 三時の休憩時間中の修善寺がレモネードを飲みながら珊瑚に尋ねると、珊瑚が渋面を作る。彼女が操作する、大学に繋がっている端末キーボードを叩く手が止まる

「うーん、難航中なの。うちの研究室でも芙蓉重工でもね」

 修善寺がベビーベッドに寝ている藍を見ながら質問を重ねる。

「現状でどこら辺までわかったんだ?」
「大雑把に言ってセマンティック・ネットワークの構造が複雑化しすぎているのよ。リンク密度が上がりすぎていて、睡眠中の自動記憶抽象化プロセスに悪影響が出てきているみたいなのね」

 セマンティック・ネットワークは個別の素記憶情報を「意味」のリンクで繋ぎあわせたもので、ガラテアシリーズの記憶構造体の基本を成す部分である。動作の手続きに関する部分を「スキーマ・ネットワーク」と呼んだり、時間情報とも結びついた物を「パーソナル・ヒストリ・ネットワーク」と呼ぶなど細分化されてはいるが、基本概念の「素記憶を意味のリンクで繋ぐ」と言う部分はどれも同一である。

「わかってると思うけど、ガラテアシリーズのAIは、基本的に睡眠中の抽象化整理プロセスで記憶構造体の刈りこみを行って、メモリ使用量を抑えてるわけだけど、そこが上手くいってないのよね。ナミちゃんはプロトタイプだって事もあって記憶構造体サイズが他の子達よりもかなり大きいから、AIが元々持っていた不具合が早く出てきた可能性が高いのだろうって言うのが、和倉さん達の意見」

 修善寺が質問する。

「それは、記憶構造体のサイズが、不具合に影響しているかも知れないって言うことか?」
「そうね、ガラテア4は生産数が200体程度で、ほとんど全ての子が定期検査を欠かさず受けてるんだけれど、こういう異常が出た子って今のところナミちゃんだけなのよね。ナミちゃんだって半年前にはこんな異常は認められなかったしね。構造体サイズが原因なのかどうかは未確定なんだけれど、一番ここが怪しいわね」
「なるほど、わかった。それとAI-PI(AIパフォーマンス指数)はどうなってる? 下がったようには見えないんだがな」

 AI-PIは単純にいえばロボットの知能指数だ。ナミの前モデルであるガラテア3の出荷状態でAI-PI=100になる。

「上がってるのよ。ちょっと不自然なくらいに」

 珊瑚がそう答えると、修善寺が質問を重ねる。

「どれくらいだ? ナミは今、130から140くらいの筈だったが」
「160あるの。本来なら少なくともあと二三年は学習を重ねないと、どうやっても届かない筈の数値なのよね」
「記憶構造体に異常があるのに、思考能力は上がってるのか? 随分と奇妙だな……」
「えぇ、上がりすぎたリンク密度のせいじゃないかというのが、現状での推測ね」

 基本的に、『ある程度まで』のリンク密度はAIの能力と正の相関にある。だが、リンク密度の上昇は抽象化整理の妨げになる。抽象化整理プロセスでは素記憶の重み付けによって重要な記憶と不要な記憶を選り分ける段階があるが、その選り分け指標の一つが素記憶あたりのリンク密度なのだ。リンクの多い記憶ほど重要という事なので、あまりにリンク密度が高い場合、重要と判断される記憶ばかりになり、捨てられる記憶がなくなってしまうのだ。
 AIは不要な記憶を捨てることによって、記憶容量の無駄遣いを抑えている。ガラテアシリーズに限らず、現状のAIは脳と比べて極めて小さい記憶容量の中でやりくりしなけれればならない宿命にある。だから『無駄な記憶を捨てること=忘れること』の重要性はなにより大きい。
 勿論記憶を捨てすぎて、覚えているべき記憶まで捨ててしまい『ど忘れ』ということもある。また、人間ならば記憶容量にモノを言わせて、かなりどうでも良いことまでも「えーと確かあれは……」と思い出せるが、ロボットの場合は重要でないことならキレイサッパリ忘れてしまうことが多い。
 そしてガラテアの優秀性のひとつは、記憶と忘却のバランスを実用的なレベルで制御している所にある。そのバランスが何らかの原因で崩れてきている、というのが現状での状況理解だ。

「解決手段についてはどうなんだ?」

 そう聞いた修善寺に、相変わらず難しい顔で珊瑚が返事をする。

「まだそこまで手がつかないわ。それと、三日後にはナミちゃんを芙蓉重工に連れて行くわよ。またLTMのスクリーニングをしなきゃいけないからね。だから、その日は信くん一人で倉庫整理だね」
「それは大丈夫だ。信ももう四日目だし、手順の飲み込みも早いしな。優秀だよ。もしかすると明日辺りには全部片付くかも知れないくらいだ」
「ナミちゃんが、毎朝同じことを教えてるんだって?」
「あぁ、信にはよく言い含めてあるから、いつも初めて聞くような顔をしてくれてるよ。余計な苦労をかけて申し訳ないとは思うんだがな。それに、あいつはナミのこと、本当に心配してくれてるしな」

 珊瑚が微笑して返事をする。

「本当だね。少しバイト代に色付けてやらなきゃね」
「あとさ、別府博士の方はどうなってる? 協力はしてもらえるような話だけど」
「うん、もうすぐ休暇で日本に帰ってくるし、そうすれば一月はこっちにいるから、その間だけは協力してもらえるわ。ただ、やっぱり博士はギブソンの人間だし、提携してるとは言っても芙蓉重工のAIラボに通うわけにもいかないのよね」
「じゃ、どうするんだ? 理研大の湯布院先生の研究室にでも行くのか?」

 湯布院先生というのは珊瑚の父親で修善寺の恩師だ。理研大で教授職を務める傍ら、ギブソンの社外取締役もしている。別府博士の先輩にもあたり、別府博士を呼び捨てで「三郎」と呼ぶ仲である。

「いやいや、父さんはギブソンの人間だから問題は少ないんだけど、今あそこは研究分野がまるで違うしね。と言って、うちの大学のラボではねぇ。学部長の宮城先生は、横着決め込んで全然動いてくれないのよねぇ」

 宮城学部長も、かつてピグマリオンで社員教育に関わっていた人間だ。8年ほど前、修善寺の同期社員で一回り以上も年下の女性社員を一本釣りして結婚し、当時の若手社員から非常に恨まれて、ラボに怨嗟の声が満ちていたこともあった。

「宮城先生かぁ、昔からものぐさだったからなぁ。サキちゃんに尻を叩いてもらうか?」
「奥さんに頼むの? まぁ、宮城先生は奥さんの言うことは大抵聞くらしいけどね」
「あー、でもサキちゃん、五人も子供抱えてそれどころじゃないかもなぁ」
「大変だよねー咲耶さんも。双子が二回も続いちゃったんだもんね」

 珊瑚が笑いながらそう言い、それた話題をもとに戻す。

「それでね、博士はもしかしたらウチに通ってもらうかも」
「え? ウチって、この店にか?」
「うん、この店なら通信回線は馬鹿みたいに太いし、そこら辺の正規ディーラーより設備も整ってるしね。もしかして嫌なの?」
「別に嫌じゃないけどさ。もう博士にはわだかまりとかはないしな」

 修善寺はピグマリオンの社員時代に、社内で大きな揉め事を起こしたことがあり、当時社長の別府博士とはそりが合わなかった、というより修善寺が一方的に博士を誤解していた時期が長い。もちろん今では誤解も解け、普通に付き合いが続いている。

「じゃ、博士がOKならウチに来てもらうことにするね。そうすれば、ナミちゃんを直接見てくれる時間も長くとれるしね」
「あぁ、たしかにそれは願ったりだな。よろしく伝えといてくれ」

 そう修善寺が言った時、店に誰かが急ぎ足で入ってきた様だ。この時間に予約はないから飛び込み客だろう。

「お客様だな。仕事仕事……」

 コップに残ったレモネードを飲み干して、修善寺が店の玄関に向かうと、珊瑚は再び端末に向かった。

ロボットのお医者さん 店内玄関にて

2073年8月10日 東京特別市町田区内 『ロボットのお医者さん』玄関


「すいません、奥で休憩してまして。どうされましたか?」

 店の玄関に出てきた修善寺が、カウンターに立つ客に質問する。客は近所の消防分署の分署長で、ここ一年ほどの得意先だ。消防署に採用されているロボットは以前から多く、昔であればレスキュー隊員が命懸けで行っていたような、危険な消防活動の多くの部分がロボットに置き換えられている。修善寺はそのロボット達の、ちょこまかとしたメンテを頼まれることが多い。

「実は急に無理なお願いで来ました。大至急直して欲しいスタッフが居るのです」

 かつては特別救助隊員として災害現場で命を張ったと言う、初老で白髪の目立つ分署長の口調は普段と変わらないが、目の色が暗く沈んでいる。

「あ、もしかして昨日のビル火事ですか?」
「はい、被救助者捜索中にフラッシュオーバーが起きて、ロボット消防士二名が犠牲になりました。一人はバックアップで復活する予定ですが、もう一人は互換のAIデバイスがもうないので……」
「えっ? と言うことは三十郎が?」
「はい、昨日殉職しました」

 三十郎というのは、消防分署で働いていたロボットの名前だ。購入順に一郎、二郎、と順に名前が付いていて、彼は町田区内の消防署では30番目に購入されたと言うことになる。他の自治体では、専ら通し番号で呼ばれているロボットが少なくないから、かなり人間らしく扱ってもらっている方だろう。
 彼の形式は「ゴーレム」と言う、かつて芙蓉重工が生産していた作業用ヒューマノイド・ロボットで、AIはピグマリオンのガラテア2のOEM品を使用していた。ガラテア2のAIデバイスは生産中止になって久しいから、一旦故障してしまえばもうリロード可能なAIデバイスがない。

「立ち入ったことを聞きますが、彼の最後はどんな状況だったんですか?」
「彼が殉職した部屋はサーモビジョンでフラッシュオーバーが近いのを確認していたので、放水前の突入を抑えていたんです。しかし彼は、ビルからの脱出を確認出来ていない従業員がいる。フラッシュオーバー以前に救助しなければいけない。だから今すぐ室内を捜索させてくれ。自分は危険なレスキューのために作られたロボットだ。だからいざという時の覚悟はあると言ってね」
「え? それじゃまさか逃げ遅れの人も一緒に?」
「いいえ、その火災では逃げ遅れの被災者はいなかった事を鎮火後に確認できました。それだけが救いです」

 そう言って力なく笑った分署長に、修善寺がさらに質問する。

「そうだったんですか。しかし、殉職した彼を直すというのは一体どういう事ですか?」

 そう修善寺が聞くと、分署長は悲しげに顔を歪めて言った。

「顔だけで構いません。あちこち焼け爛れてしまった三十郎の顔を、元のように直して頂けないでしょうか。せめて彼をきれいな顔で送り出してあげたいと思うのです」
「わかりました。お急ぎと言う事でしたが、そういう事だったんですね。いま彼はどこに?」
「表の車で連れてきています。彼の同僚たちと一緒です」
「中に連れてきてもらえますか。損傷の具合を見てみましょう」

 修善寺がそう言うと、分署長は一旦外へ出て、部下のロボット達に指示を出す。しばらくすると、4人のロボット消防士が担架で三十郎を店内に運び込んだ。修善寺があちこち熱で変形し、痛々しく焼け焦げたロボットの体をチェックする間、鼻をつく樹脂の焦げた臭いが室内に漂う。

「考えたほど損傷はひどくありませんね。ゴーレムシリーズのスキンパーツは在庫していますから、すぐ直しにかけましょう。明日の朝9時には手当を終わらせて、三十郎をお返しします。それでよろしいでしょうか?」

 修善寺がそう言うと、分署長が驚いている。

「そんなに早く直して頂けるんですか? 二三日はかかると思ったんですが」
「何、ちょっと粘れば問題ないですよ。それに、何時までもこんな姿じゃ三十郎がかわいそうです」
「ありがとうございます。ここに来る前にディーラーに電話で聞いてみたんですが『あまり意味はないけれど、どうしてもというならフェイス交換に応じます。でも二週間は必要ですよ』と言われてしまって」

 フェイス交換とは、顔面の人工皮膚をそっくり交換することだ。顔面表情筋群やナーブライン、リキッドラインと人工皮膚の接合が多数に渡り、極めて面倒なので時間がかかる。だが、修善寺は笑って答える。

「あぁ、ディーラーではそれが精一杯ですよ。フェイス交換は普通のディーラーの施設では出来ないから、工場に持ち込まなきゃいけないし、工場に送ったら修理は最短でも一週間はかかりますからね。僕はフェイスの全交換ではなくて植皮で対応しますから、それほど時間を食わずにやれるんですよ」

 修善寺は軽く言っているが、実際にそれを短時間できれいに仕上げられるのは、グランドマスターだのゴッドハンドだのと呼ばれるくらいの技能を持つ職人だけだ。そして、修善寺はピグマリオンのラボで、敬意を持ってそう呼ばれていた男なのである。

「修善寺さん、本当にありがとうございます。それでは私は明日の朝に三十郎を迎えにあがります。三十郎の告別式は五時過ぎから分署で挙行することにしますので、もし時間がよろしければご列席下さい」

 そう分署長は言って引揚げて行った。式の時間が定時の五時以降なのは、消防署としての正式な儀式ではなく、あくまで分署長と副長による私的な儀式であるということだろう。ロボット保護法でそれなりの法的保護は受けているとは言え、役所である消防署にとっては三十郎はあくまで機材・備品であり、彼の殉職は消防車が事故で廃車になるのと一緒なのだ。消防車に葬式を出さないのと同じく、ロボットにも葬式は出さない。役場はそう言う決まりだ。

 修善寺が修理の準備を始めると、後ろで足音がする。振り返ると、珊瑚が処置室に入ってきていた。

「三十郎君、殉職したんだね」
「あぁ、コイツ五年前にも一回火事場で脱出不能になって、バックアップで復活したんだよ。その時にも分署長と副長が血眼でガラテア2のAIデバイスを探しまわって、ようやくデッドストックを探し当てたらしいんだ。でも今ではどうやっても入手不能だからな」
「ガラテア3のAIデバイスが流用出来ればいいのにね」
「あぁ、やって出来ない話じゃないはずなんだけど、ガラテア2系列のAIユニットは生産台数が少ない上に殆どが法人や役所がユーザーだから、機能停止したらガラテア3系のロボットに更新されて、あっさり廃棄されちゃうんだよな。すると、わざわざコンバージョン用アプリケーションを開発しても費用の回収ができないから、そう言う技術開発自体をやってもらえないんだよな」
「この子にだって、ちゃんと自意識があるのにね……」
「だよな…… それでも分署長はコイツを大事にしてたんだけどな。三十郎にはもう後がないから、危険な任務からはなるべく遠ざけていたって聞いたし」
「三十郎君が自分で言ってたもんね『僕は危険な消防活動をするために消防署にいるのに、分署長はなかなか僕をレスキュー任務に使ってくれない』って」
「そうだな。もう、あいつの愚痴も聞けないんだな」

 ベッドの脇に立った珊瑚が、焼けただれた三十郎の顔を優しく撫でる。

「ひどい火傷になってるね。熱かったろうね」
「あぁ、そうだな。でも、これから直し始めれば六時間程度できれいにしてやれるよ」
「きれいにしてくれるって。よかったね、三十郎君……」

 珊瑚は少しかすれた声でそうささやき、修善寺の顔を見る。

「でも、あなたもあんまり無理しちゃだめだよ」

 そう言った珊瑚に、修善寺が口元で微かに笑う。

「もう、納期を明朝に決めちゃったからな。直してやるのは顔だけだし、日付が変わる前には終われるよ」
「ナミちゃんや信くんたちにも手伝ってもらう?」
「いや、俺一人でやるよ。あいつらにはしっかりと倉庫の整理をしてもらわにゃあな」

 延びをしながら修善寺はそう言い、作業準備の続きに入る。

「わかった。じゃ、私は藍を見ながら作業を続けるわ」

 そう言って、珊瑚は事務所の端末に戻って行った。

ロボットのお医者さん 店内処置室にて

2073年8月10日 東京特別市町田区内 『ロボットのお医者さん』処置室


 午後五時の定時になり、ナミと信が倉庫の片付けを切り上げて事務所に戻ってきた。

「珊ちゃん、今日の分は終わったよー。あと二日くらいで終わると思うよ」
「そう、二人ともご苦労さまでした。もう上がっていいわよ。信くんも大変だったでしょ、帰る前にシャワー浴びていきなさい」
「はい、ありがとうございます。明日も同じ時間でいいですか?」
「えぇ、よろしくね」

 信がシャワールームに行くと、ナミが処置室に入り修善寺に声を掛ける。

「主任、お仕事終わったよ。信くんがすごく仕事の覚えが早くて、片付け物がとっても早く進んだよ」
「そうか、ご苦労さんだったな。もう今日は仕事を終わりにして、藍と遊んでていいぞ」
「うん…… あれ? 三十郎さん? どうしたの?」

 ベッドに横たわった三十郎を見て、ナミが怪訝そうにしている。

「三十郎さん、AIが動いてないけど故障しちゃったの?」

 ロボット同志は互いの認識を目視だけでなく、ワイヤレスでも行っている。機能停止した三十郎からレスポンス信号が返って来ないので、異常に気がついたのだ。

「あぁ、昨日火事があって、そこでの仕事中にな。あちこち焦げて火傷になってるだろ」
「うん、かわいそうだね、三十郎さん。でも、バックアップで復活できるんでしょ?」
「いや、三十郎は型が古いから、ボディもAIユニットも手に入らないんだ。だからもう復活できない」
「それじゃ、死んじゃったの? 三十郎さん」
「そうだ」

 立ち尽くしたナミの目から涙がこぼれる。

「どうして三十郎さんはそんな危ない仕事をしてたの?」
「三十郎は消防士だ、それは知ってるだろう? そしてレスキュー隊員だからな。アイツは火事のあった建物の中に、逃げ遅れた人がいないかどうかを確かめている時に、フラッシュオーバーが起こって逃げ切れなかったんだそうだ」
「フラッシュオーバーって何?」
「天井や壁の一部が燃えているだけに見えた部屋なのに、次の一瞬で部屋全体が燃え上がることがある。それをフラッシュオーバーって言うんだ。それに巻き込まれて、三十郎ともう一人の消防士ロボットが逃げ切れなかった」
「もう一人のロボットはどうなったの?」
「そっちはバックアップで復活できると分署長さんが言っていたよ」
「よかった…… でも、三十郎さんはダメだったんだね」
「あぁ、そうだ」
「何で分署長さんは、そんな危ない部屋に三十郎さんを行かせたの?」
「危ない状況だとわかっていたから分署長さんは最初は止めたんだ。でも、その部屋に逃げ遅れた人がいるかも知れないから行かせてくれって言って、三十郎は入っていったんだ」
「消防士さんだから?」
「そうだ、その時に三十郎はこう言ったそうだ。『自分は危険なレスキューのために作られたロボットだ。だからいざという時の覚悟はある』ってな」
「『いざという時の覚悟』って何のことなの?」
「消防士の仕事はいつ死ぬかわからないくらい危険な仕事なんだ。三十郎はその『いつ死ぬかわからない仕事』をするために消防署に入った。そのために長い訓練を受けて、専用プログラムも入れてもらってな。だから、三十郎は『いつか仕事中に死ぬ時が来る』事がわかっていたんだ。いざという時の覚悟って言うのは『仕事中に死んでもいい』と言うことなんだ」
「怖くなかったのかな? 三十郎さんは」
「もちろんアイツにとっても死ぬのはとても嫌なことだから、それはできるだけ避けようとするさ。何よりも生きているからこそ、消防士として人助けが出来るんだしな。もっともアイツのAIはガラテア2ベースだから、千陽達やお前ほどは死ぬ事を怖がらないよ。それにな……」
「それに?」
「アイツはその時『逃げ遅れた人を助けたい』と言う心で一杯だったはずだ。だから自分が死ぬことなんて怖くなかったと思う。そういう気持ちは、ナミもロボットだからわかるだろう?」
「うん、わかる……」
「三十郎は、お前みたいな進んだAIユニットを持ってなかったから、あまり会話も得意じゃなかった。周りでお喋りしていても会話に混じれなくて黙って他人の話を聞いていることが多かった。だから『三十郎は旧式で頭が悪いから』って、アイツをよく知らない人から馬鹿にされた事もあったそうだ。でもな、アイツは自分と自分の仕事に誇りを持ってたんだ」
「誇り?」

 ナミが首をかしげると、修善寺は穏やかに話し続ける。

「あぁ、アイツは今まで四人も火事場で逃げ遅れた人を助け出している。それから猫も一匹な。そんな手柄を上げたロボットは日本に何人もいない。アイツにはそれがわかっていたから、自分が消防士として作られたことをとても喜んでいた。それがどれほど危険で、いつか命を落とすだろう仕事であっても、それが人の命を救う素晴らしい仕事であることに誇りを持ち、自分がその仕事を続けていられることを喜んでいたんだ」

 涙の筋が頬に残る顔でナミが修善寺を見つめる。

「三十郎さんは幸せだったのかな?」

 修善寺はナミを優しく見つめ返し、反問する。

「ナミはどう思う?」
「よくわからない。ナミは死ぬのが怖いの。火事で焼け死ぬのはとても熱くて怖いと思う」
「もし、ここが火事になって藍が逃げ遅れた時、お前はどうする? もう助からないくらい燃えてたとしてだ」
「助けに行くよ。ナミは藍ちゃんを助けに行く」

 ナミは迷わずそう言った。一瞬も迷わなかった。

「お前が火事場に飛び込んで藍を助けた後、お前が死んでしまったとするな。お前は後悔するか? 藍を助けないでおけばよかったと思うか?」
「後悔しないよ。そんな時に藍ちゃんを助けないなんて考える事は出来ないもん」
「三十郎も同じだよ。アイツはきっと後悔していないだろうし、最後まで消防士として生きられて、幸せだったろうと思う」

 そう言って修善寺は立ち上がり、ナミを抱き寄せて頭をそっと撫でてやると、ぽつりとナミが質問する。

「三十郎さんは天国に行ったのかな?」

 カトリックの修善寺には正直に答えるのが難しい質問だ。ローマ教皇庁はロボットに魂の存在を認めていない。つまり、カトリックは「ロボットに天国の門は開かれていない」と言う見解なのだ。これは、プロテスタント諸派もイスラム教諸派も同様である。仏教ではロボットの葬儀をしたり、極端なところでは戒名を付けたりしている宗派さえあるのだが。

「難しい質問だな。俺にもそれはよくわからないんだ」
「わからないの?」

 そう言ったナミの目にまた涙が滲んでくる。

「あぁ、そもそも人間が天国に行けるかどうかも分かっている訳じゃない。人はそれを信じているんだ」
「信じているの?」
「そうだ、そしてロボットがイエス様やマリア様に祈ってはいけないっていう人は教会にはいない。だから、ナミは『三十郎が天国に行けますように』ってお祈りしてあげるといい」
「うん、わかった」
「じゃ、家に戻って藍の面倒を見てやってくれ。今日も眠くなったらすぐに寝るんだぞ」
「はい……」

 そう言って、ナミは処置室から出て行った。その後姿を見ながら、修善寺は心のなかでつぶやく。

「ナミにまた明日も同じ話をしてやらなきゃな……」

 顔馴染みの三十郎の殉職も辛かったが、まだ自分に何が起こっているのかを殆ど知らされていないナミを思うと、修善寺は胸が巨大な手にゆっくりと握りつぶされる様で、大声で喚きたい気持ちだった。


 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆


 その翌日9時、修善寺は三十郎を迎えに来た消防分署の副長に挨拶する。

「おはようございます、強羅副長。三十郎はもうすっかりきれいな顔に戻りましたよ」

 もう定年間近と見える制服姿の副長も挨拶を返す。

「本当にありがとうっ、修善寺くん。まさか昨日の今日で直してくれるとは思わなかったよっ。昨日、うちの息子に話を聞いてみたんだが『修善寺だから出来る話で、普通の修理屋じゃ絶対に無理だっ!』と言っていたよっ」

 芙蓉重工の工場に勤める副長の息子もまたピグマリオン出身で、修善寺の先輩社員だった。修善寺の店と消防分署との取引が安定して続いているのも、強羅副長の存在が大きい。

「前の会社で強羅先輩にしごかれましたからね。それはそうと、先輩も相変わらず元気そうですか?」
「あぁ、今度工場の品質管理課長になるって言っとったなっ。ラボに戻りたいけど無理そうだってぼやいとったよっ」

 副長はそう言って豪傑笑いをしている。それを聞いた修善寺は『似た者親子だなー』と心のなかでクスッとする。

「じゃ、こちらへ。三十郎は処置室ですから」

 副長とロボット消防士4名が処置室に入り、来た時と同じように担架で三十郎を運び出す。

「今日の5時から告別式をするが、修善寺君は来てくれるだろうか?」
「えぇ、出席します」
「ありがとう」

 そして表に出て着帽した副長が、玄関入口に立って見送る修善寺の方を向き、表情を引き締め、驚くほどよく通る声で号令をかける。

「ぜんたぁい気を付けえっ! かしらぁ、右っ!」

 そして挙手注目の敬礼をすると、担架を支える四名のロボット消防士達も、一糸乱れぬ注目の敬礼をする。修善寺が深い御辞儀で答礼すると、副長達は表の車に三十郎を乗せて、消防分署まで帰って行った。

ロボットのお医者さん 店内処置室にて(その2)

2073年8月11日 東京特別市町田区内 『ロボットのお医者さん』処置室


「ねぇ、主任。やっぱりナミの記憶がおかしいよ。ナミ壊れちゃったんだよ……」

 消防職員たちと鉢合わせさせたくなかったので、いつもより遅く出勤させたナミが、信と一緒に倉庫に行ったかと思ったら、すぐに沈んだ表情で引き返してきた。その後を追って信も戻ってくる。

「どうした? 確かにお前は今AIの具合に支障があって、記憶もちょっと安定しないんだけど、それは調べ始めたところだからもうちょっと我慢してくれ」

 そう言った修善寺の目をナミはまっすぐに見て訴える。涙が目尻にたまっている。

「今日は8月7日のはずなのに、カレンダーは11日だよ。でも、ナミは5日に海に行ってからの事を全然覚えてないの。5日分の記憶が無くなってるの」

 椅子に座った修善寺が心のなかでため息をつく。どのみち小細工ではそう長くは隠し通せるはずもなかったのだ。修善寺が立ち上がってナミの両手をとり、自分の両の手で柔らかく包む。

「ナミ、お前には一体何がお前のAIユニットに起こっているかを、詳しく教えていなかったな。本当はお前が気付く前に処置を全部済ませてしまいたかったんだが、間に合わなかった。ごめんよ」
「いいの、でもナミは何が自分に起こってるか知りたいの。教えてください、主任」
「私が説明するわ」

 後ろから声がかかる、珊瑚だった。修善寺は珊瑚に背を向けたまま返事をする。

「スマンな、お前今日は大学に行く日だったのに」

 珊瑚にそう言って、ナミを抱き寄せて髪に頬ずりしてから、ナミの背中を珊瑚の方へゆっくり押し出す。

「じゃ、ナミは事務所で珊瑚から話をしてもらえ。朝っぱらから泣いてちゃだめだぞ」

 そう言った修善寺の声を背に、ナミと珊瑚は隣室に消えた。

「すいません、空海さん」

 そう言って頭を下げた信に、修善寺が努めて明るい声で返事をする。

「おいおい、お前が謝るこたァ無いだろ。どの道、いつまでも隠せるわけがなかったんだしな」
「実は、倉庫の整理がかなり進んでいて、海に行く前のナミちゃんの記憶との食い違いが大きすぎて、変に思ったのが始まりで……」
「そうだよなぁ、もう丸四日間ほど片付けてたんだから、散らかり放題の倉庫を見てたアイツにしてみれば、ビックリだよなぁ」
「それで、ナミちゃんがラボに行ってた日に、僕と空海さんで夜中までかかって片付けたと言って、とりあえずはごまかせたんですけど、その後に僕の電話のカレンダー表示を見られてしまったんです」
「それで日付に気付いたか。店内とうちのオートカレンダーには全部細工しておいたんだが、電話は盲点だったなぁ。まぁ、仕方ないよ。お前も毎日ナミに同じ説明聞かされてウンザリだったろうに、いつも初めて聞くような顔で調子を合わせてくれてたんだしな。感謝こそすれ、文句をいう気はないよ。気にするな」

 信は顔をうつむかせて言った。

「ウンザリはしませんでしたけど、熱心に説明してくれるナミちゃんがかわいそうで……」
「お前にまで気苦労かけちまったなぁ。まぁ、後は珊瑚がちゃんと説明するから心配するな。倉庫の片付けも今日明日で終わりそうだし、頑張ってくれ」
「ナミちゃんは大丈夫なんでしょうか?」
「大丈夫だ、心配するなって」

 笑ってそう返事をしたが、本当は誰より修善寺本人が聞きたい事だった。しかし、そんな事を信に気取らせる訳には行かない。

「はい。じゃ、今日の作業を始めます」

 穏やかにそう言って信は倉庫へ歩いて行った。
 そして、修善寺は少しぐずり始めたベッドの藍の相手をしてやる。ベッドの格子を掴んで何とか立ち上がっている藍を見る間、修善寺は自分の頬の緩むのを感じ、少しだけ胸の重みが和らぐ気がした。

ロボットのお医者さん 店内応接室にて

2073年8月11日 東京特別市町田区内 『ロボットのお医者さん』事務所応接室


「ごめんね、ナミちゃん。悪気があって騙していたんじゃないけど、やっぱりショックだったよね」

 応接のソファにナミと並んで座った珊瑚が謝っている。ナミは相変わらず半泣きの不安げな顔のままだ。

「ねぇ、珊ちゃん。ナミ壊れちゃったの? もう直らないの?」
「そんな事はないわ。芙蓉重工のAIラボでは和倉さんや聡華さん達が治し方を調べてる最中だし、私も和泉さんも大学で調査を続けてるわ。それに、明日には別府博士も日本に帰ってくるから、博士も手伝ってくれるって。だからそんなに心配しないで」
「どうしてナミの記憶が無くなっちゃったの? 海に行ってからの記憶が無いの。5日分も記憶がないんだよ」
「順番に説明するわ。まず、ナミちゃんの長期記憶にはおかしいところがあって、メモリー容量を無駄遣いしてるのね。それがわかったのが今月の3日」
「定期検査の日だよね。それは覚えてるよ」
「そうね。その日にLTMバックアップを取って、それから海に行ったよね。それが5日」
「うん、それも覚えてる」
「その次の日に、また芙蓉のラボに行ったの。そこで応急処置をしたのね。その影響でナミちゃんの記憶が消えてしまってるの。時間感覚が変なのも処置のせいよ」
「応急処置?」
「今の応急処置っていうのは、ナミちゃんが夜寝る間にその日一日の記憶をほとんど消してしまう処置なの。だから、処置をした8月6日から後の記憶が全部消えてしまっているの」
「どうして、ナミの記憶を消しちゃうの? ナミ、忘れたくないよ」
「ごめんね、ナミちゃん。そうしないと、ナミちゃんの記憶容量は今年の10月か11月までには全部使い切られてしまうの」
「使い切るとどうなるの?」
「ナミちゃんのAIユニットはオーバーフローエラーを起こして止まってしまうのよ」
「ナミ、死んじゃうの?」

 そう言ってナミが珊瑚の手を握る。珊瑚もしっかりとナミの手を握り返す。

「死んでしまうわけではないの。でも、自動的にディープ・ハイバネーションに入ってしまうから、眠ったままになってしまうのよ」
「ディープ・ハイバネーション?」
「ロボットの冬眠ね。冬眠はわかる?」
「えーと…… 熊さんとかリスさんが冬の間ずーっと眠ってることでしょ?」
「そうよ。ナミちゃんにも同じことが起こるの」
「春になったら目が覚めるの?」
「うーん、熊じゃないから春になったら目が覚めるわけじゃないわ。私たちがナミちゃんのAIのバグを潰して、LTMのこんがらがった部分を解いてから再起動して目が覚めるの。でも、そんな事になる前に治す方法を見つけてあげるから、ナミちゃんはそんなに心配しないでね」
「うん…… でも、海に行った日から今日まで、ナミは何をしてたの?」
「6日はラボで処置を受けて一日過ごしただけね。次の日からはずっと倉庫整理を信くんと一緒にやってたから、あまり変わったことは無いはずよ」
「ナミ、5日も信くんと一緒にお仕事してたの? 全然思い出せないよ。ナミ、信くんのことが大好きだから忘れたくないの」
「ごめんね。今はどうしようも無いの。メモリーオーバーフローを起こす前にナミちゃんのAIをちゃんと直さなきゃいけないんだけど、今まで通りの状態では調べる時間が足りないのよ……」
「最初はナミちゃんに何ヶ月か眠ってもらって、その間に調べようと思っていたんだけれど、そうするとナミちゃんのAIの何が悪いかが良く調べられないの。ごめんね」

 ナミがうつむいて小声で質問する。

「今、珊ちゃんが話してくれたことも、明日には忘れちゃうんだよね? ナミ達、夕方に三十郎さんのお葬式に行くんだよね? それも忘れちゃうんだよね?」
「ごめんね…… 早く治してあげるからね。みんな頑張って研究してるから、もう少しだけ我慢してね」

 そう言って珊瑚がナミの背に手を回し、しっかりと抱きしめる。ナミはうつむいたまま返事をする。

「うん、わかった。ナミ、我慢するよ……」

 珊瑚の言い方は命令ではなく依願だ。だから、ロボットは自分の希望を訴えて、その依願の取消や変更を求めることができる。しかし、同じ依願が繰り返され、オーナーの表情・口調から強い希望や苛立ちがうかがえる時、そして悲しみが感じられる時には、それは依願であっても命令に近い重さを持つ。
 そして今、珊瑚の表情と態度から痛いほどの悲しみが滲み出てくるのをナミは確かに感じ取り、それ以上珊瑚にせがむことを思い止まる。『珊ちゃんを悲しませちゃいけない……』そう思うからだ。
「明日はまた芙蓉重工のラボに行って検査するからね。その時には別府博士も来るから、博士にも診てもらえるのよ。博士はナミちゃんのAIを作ったナミちゃんのお父さんだから、きっと早く治してくれるわよ」

 珊瑚がそう言うと、ナミも返事をする。

「お父さんに会えるんだ、久しぶりだね。そうだ、ナミにはお父さんが二人いるんだよ」
「そうね、別府博士とうちのお父さんね。そうそう、うちのお父さんも明日は一緒よ」
「藍ちゃんは?」
「藍も一緒よ。また、家族みんなでお出かけだよ」
「楽しみだね。じゃあ、ナミは倉庫の片付けをしてきます。信くん一人じゃ大変だから」

 珊瑚が抱きしめた腕を緩めると、ナミはゆっくり立ち上がる。珊瑚が座ったまま声をかける。

「お願いね……」

 珊瑚はそう言ってナミを送り出す。するとナミが倉庫に行ったのと入れ違いに、修善寺が事務室に入ってきた。珊瑚はソファから立ち上がってうつむいたまま歩み寄り、彼にもたれかかるとそのままゆっくりと抱きしめられる。

「すまん、一番きついところをやらせちまったな」
「いいの…… 最初から私がするつもりだったから。いま藍は寝てるの?」
「あぁ、さっきまで遊んでやってたんだけどな」
「そう……」
「これからどうするつもりだ? 今日のこともアイツは明日になったら忘れてしまう。今回バレたのは、信の電話機のカレンダーを見られてしまったせいだから、そこを注意すればまたしばらくは騙し続けられるがな」
「どうすれば良いと思う?」
「俺は最初に言った通り、ナミに事実を知らせてやるべきだと思う。記憶が毎晩リセットされてしまうのは仕方ないかも知れないが、せめてそのことだけはアイツに知らせて記憶に残してやるべきだと思う」
「そうすると、ナミちゃんは自分が毎日毎日大事な記憶を失っている事を、いつも苦にしていなければならない事になるよ。そのほうがいいの? それがあの子のためになるの?」
「珊瑚、これを言うとお前は怒るかもしれない。でも言うよ。ナミを苦しめたくないというだけなら、今すぐアイツに初期化コマンドを送って、芙蓉重工に残っているアイツのLTMバックアップをリロードすればいいんだ。そうすれば、アイツは約五年分の記憶を失う代わり、向こう数年は苦しまずに済む。そしてナミは『修善寺みなみ』としての記憶をすべて失って、ガラテア4プロトタイプの"Anna"として目覚めるだろう」

 珊瑚は修善寺の体を突き飛ばす様に身を引き剥がし、彼を睨みつけて鋭く言葉を吐く。

「ふざけないで! そんな事が出来るわけ無いじゃないの。五年分の記憶を消してしまうと言う事は、あの子を五年分殺すのと同じ事よ」
「そうだ、そして毎晩記憶を消されて、その日一日を無かった事にされているアイツは、毎日小刻みに死んでいるのと一緒だと思う」
「その通りよ。でも他に方法がないじゃないの。どうしろって言うのよ? いい方法でもあるわけ? あなたは一体どうしろって言うのよっ!」

 珊瑚はそう叫んで修善寺の両腕を掴んで激しくゆする。彼女の手が白くなるほど握り締められ、爪が立つのがわかる。彼を睨んだ目から涙がこぼれる。

「いい方法なんて無い。悪い方法だけがあって、そのなかでマシな選択をするしか無いんだと思う。そして、今の方法が一番マシな方法なんだろうと思う。でも、アイツが自分に起こっていることが理解出来ず、覚えていられないというのだけは間違ってる」
「でも……」
「アイツが自分に起こっていることを知って記憶に残せば、毎晩自分が記憶を失っている事を苦にするだろうと思う。多分アイツは眠ることを怖がり、嫌がるだろうと思う。でも、その日の出来事を忘れてしまうなら、ビデオ日記やライフログ、それこそ子どもが書く様な絵日記帳でも使って、記憶の欠片を残すことくらいはできる。欠片が残っていれば、それを頼りに記憶を持っている俺達に話を聞くこともできるし、いつかアイツのAIが完全に治った時にも、そんな俺達の思い出話を、アイツの記憶に残していくことができる。直接の記憶は失われてしまってもだ」
「そうすれば、アイツの失われた記憶は俺達の思い出と絆を持てる。眠りの度に失われてしまうアイツの一日を、僅かなりともすくい上げてやる事ができるだろ」
「うん……」
「正直に言うよ。ナミも辛いだろうと思うが、何より俺自身がもう耐えられないんだよ。もう俺はアイツを欺けない、出来ないんだよ」
「うん…… わかるよ…… 明日は芙蓉重工のラボに行くから、その時に聡華さん達と相談しよ……」

 珊瑚はそう言って、再び修善寺の胸に顔をうずめた。

ロボットのお医者さん 倉庫にて

2073年8月11日 東京特別市町田区内 『ロボットのお医者さん』倉庫


「ごめんね信くん、一人で仕事させちゃったね。ナミはもう大丈夫だから、手伝うよ」

 珊瑚と別れて倉庫に戻ったナミが信に声をかけると、端末スレートを手にした信がナミの方へ歩いて行く。

「ありがとうナミちゃん。でも、今ちょうど仕事が終わった所だよ。ほら」

 そう言って入力の済んだ端末スレートの画面を見せる。

「在庫の収支は確認が済んだし、棚の整理も終わったしね。後は空海さんにOKを貰えばおしまいだよ」
「ごめんね、ナミ今日は全然お仕事しなかったね、ナミ、ロボットだから一所懸命お仕事しなきゃいけないのに」
「ナミちゃんは今調子が悪いんだから仕方ないよ。それに倉庫整理の仕事は、ずっと僕とナミちゃんの二人でここまで片付けたんだからさ」
「うん、ナミは覚えていないけど、そうなんだよね」

 そう言ったナミの眉がくもる。

「ナミは五日間ずっと信くんと、ここを片付けていたんだよね?」
「うん、最初の日は僕も初めてだったから、在庫整理のやり方がよく分かってなくて、あまり仕事が進まなかったんだよ。ナミちゃんが丁寧に教えてくれたおかげで、次の日からは順調に整理が進んだんだけどね」
「そうなんだ。ナミは失敗しなかった? ナミ、時々失敗して主任に怒られるんだけど」
「特に無かったけど…… あぁ、脚立から僕の上に落ちてきたね。一昨日だったかな」
「え? 信くん大丈夫だった? ナミの下敷きになっちゃったの?」

 信は笑って顔の前で手を振る。

「あぁ、脚立がぐらついて危ないなーと思って見てたから、ナミちゃんが落ちた時にはちゃんと抱きとめられたよ」
「ナミは信くんに助けてもらったんだね。全部忘れちゃったけど……」

 そう言ってナミがうつむく。すると信が少し屈んで、ナミの目を覗き込む。

「僕が憶えてるから…… ナミちゃんが落っこちた時にどんな声を出したか、抱きとめられた時どんな顔で僕を見たか、僕の腕の中で何て言ってくれたか。全部憶えてるから……」

 そう言って、信が目を細めて笑う。

「僕はロボットじゃないから、何もかも正確に覚えているわけじゃないけど、大事なことはちゃんと覚えてるよ」
「ロボットも、そんなに正確に覚えてるわけじゃないよ。本当はロボットのほうが覚える事は苦手なの……」

 ナミは照れた様な笑いを微かに浮かべてそう言い、言葉を継いだ。

「ナミは、信くんに助けてもらった時、なんて言ったの?」
「信くん、大丈夫? って言ったんだよ」

 そう言って信は笑った。ナミもつられて笑い、そして涙を流す。

「ナミ、忘れたくない。いま信くんが教えてくれた事も、眠ると全部忘れちゃうの。そうしないとナミは10月か11月にAIユニットが止まってしまうから。でも、忘れたくないの……」

 信はどうしようもない無力感に心を焼かれるのを感じる。しっかり抱きとめてあげたいのに、手から水が流れ落ちるようにすり抜けてしまう何かを感じる。

「僕が憶えてるよ。僕だけじゃない、空海さんも珊瑚さんも、僕の母さんも仁も、千陽姉さんたちも、みんな憶えてるよ。ナミちゃんが元の様になるまで、僕らが憶えていてあげるから……」

 信はささやき声でそう言って、ナミの左肩に触れる。本当は抱きしめてやりたかったけれど、それはやっぱり出来なかった。事務所の方から修善寺の呼ぶ声が聞こえる。昼食時間だ。

「信くん、お昼休みだって。行こう」

 ナミがハンカチを出し涙をぬぐって事務所に向かうと、信も倉庫を見回して忘れ物を確認してから、ナミの後をゆっくりと追った。

町田第11消防分署にて

2073年8月11日 東京特別市町田区内 町田第11消防分署


 午後は倉庫整理の終わった信が処置室での修善寺の作業を手伝い、ナミは藍の子守をして過ごしたので、その日の仕事は順調に終わった。修善寺は少し早めに店を閉め、消防分署に向かう。修善寺は藍をカートに乗せて押し、珊瑚とナミ、それに信が続く。ナミは修善寺が藍の誕生前に購入していたハンディカムを持って、あちこちを撮影しながら歩いている。
 まだ定時になっていない消防分署には、既にかなりの人が集まっていた。制服を着た年配の消防士が多いようだ。修善寺が分署長の所に行き、挨拶する。

「あぁ、もう来てくれたんですか。ありがとう修善寺さん。ご家族も一緒に来てくれたんですね」
「えぇ、三十郎はうちの店の馴染みでしたからね」

 そして、周りを見回して言う。

「まだ時間にはまだまだなのに、随分大勢参列者が来られてますね」
「昨日、町田管区の分署長クラスに連絡しただけなんですが、本当に大勢集まってくれました。これも三十郎の人徳なのでしょうね。消防関係者だけではなくて、三十郎が救出した被災者家族の方達も来られてるんですよ」
「アイツは四人の命を救っているんですもんね。人間だったら勲章モノでしょう」
「えぇ、特別顕功章を貰っているはずです、人間だったならば」

 特別顕功章は「殉職した消防吏員のうち、功績抜群で他の模範となるべき者」が表彰対象である。

「あと少しで告別式を始めますが、まだ地面が焼けて暑いですから向こうの事務所にどうぞ。ここではお子さんが可哀想ですから」
「ありがとうございます、分署長さん。じゃ、お言葉に甘えて中で待たせて頂きます」

 珊瑚がそう言って一礼し、藍を抱き上げて事務所に入る。修善寺達はそのまま式が始まるのを外で待つ。そのうちにも参列者が少しづつ集まり続けているが、その中に修善寺は顔見知りの芙蓉重工のディーラー職員を見つけた。

「こんにちは。三十郎の告別式に参列ですか?」

 そう聞いた修善寺に、汗を拭きながら太って大柄なディーラー職員が答える。

「えぇ、式の後に彼の亡骸(なきがら)をリサイクルプロセスに載せるので、ウチの店が引きとる事になってます。さっき彼の顔を見せてもらいましたが、直した痕が全然わかりませんね。あそこまでやられてしまっては、フェイス交換するお客がいなくなって、うちの商売が上がったりですよ」

 そう言って笑い、一言付け加える。

「ありがとうございました。正直言ってうちの店では、設備的にも人員的にもあんな対応は到底出来ません。分署長さんからウチに電話を貰った時には素気無い返事しかできなかったんで気が咎めていたんですが、修善寺さんが三十郎君をああして安らかな顔にしてくれてほっとしてます」

 そうして話しているうちに、告別式が始まった。副長の司会のもと、式は粛々と進み分署長の悼辞が始まる。

「三十郎君、君が第一期のロボット消防士として町田区消防本部に配属されたのが2055年の3月でした。以来、18年に渡って君は常に消防戦闘の最前線に立ち、不屈の勇気を示し続けました」
「君は、レスキュー隊員として火災現場での人命救助で三名を、そして交通事故現場での救助により一名の生命を救いました。これは今なおロボット消防士として日本では一位、世界でも三位の功績であります」
「そして君は危険な消火活動に携わるロボットの常として、二度の火災現場での遭難と復活を経験しました。先の遭難では幸いにしてバックアップからの復活がかないましたが、今回は生産中止となった君の体を手に入れることができず、このまま別れを告げねばならないことが無念でなりません」
「私はこの分署に消防指令として赴任するまでは特別救助隊員として、長くレスキュークルーとして消防活動を続けて来ました。その中で多くの信頼に足る同僚を得てきました。皆誠実かつ勇気あるFirefighter達であり、殉職した仲間も複数おります。しかし…… しかし私は、君ほど人命救助にあたって無限の献身と勇気を示した者を他に知りません。君ほど絶望的な消防戦闘の場にあって、なお敢然と業火に立ち向かったものを知りません」
「君は焼けだされた被災者にペットの救助を依頼され、即座に火災現場に突入してペットの猫を救い出しました。あの時、私は随分君を厳しく叱ったことを憶えています。その時、会話が苦手で滅多なことでは口答えしない君が、珍しく私に反論してきたことを今でも思い出します」
「君は言いました。『人の命を救うために僕は作られ、ここにいます。でも、ロボットの使命はそれだけではないとも教わりました。命を救えと、ロボットは人間だけでなく、叶う限り多くの命を救えと教わりました』」
「そして、君はこうも言いました。『指令を待たずに勝手に行動したことは僕の間違いです。申し訳ありません。でも僕はバックアップで復活できますが、あの猫はそうではありません。そして、ペットは家族の一人なのですよね? だから僕は被災者の家族を自分の命を賭けて救わなければいけないと思ったのです。命を救うため、そのために僕は生きているのですから』と」
「君が助けた猫を耐熱服の内側に抱いて火災現場から走り出てきたとき、被災者の方がどれほど君に感謝したか。昨日の事の様に思い出されます。空から見えるでしょうか、あの時のご家族も、君とのお別れのためにここに来て頂いているのです」

 そう言って、分署長は参列者に向かって会釈した。多分、視線の先にその家族がいるのだろう。

「君の最後の仕事となった一昨日のビル火災現場で、君の最後の連絡は『室内の逃げ遅れ被災者、ありません。確認完了しました。なお、残念ながら百太郎は既に機能停止しています』でした、そして……」

『18年間ありがとうございました……』

「君はそう言って、通信が途切れました。放水班が室内に突入し、君と百太郎を救い出す2分前でした。あと2分、たったそれだけの時間が我々の絆を断ち切ってしまいました」
「三十郎君、君は消防士として生まれ、消防士として生き、そして消防士として死にました。君は我が分署の誇りであり、我が町田消防本部の誇りであり、我ら全ての消防士の誇りであります。君と同僚として過ごした18年間を我々は忘れません。最後の業を成し終えた君に、永遠の安らぎの有らんことを心より祈ります」

 そこで分署長の悼辞は終わった。副長の号令がかかる。

「殉職者に敬礼をっ! 全隊気を付けっ! 最敬礼っ!」

 閲兵式のそれのように、ぴしりと揃った45度の深いお辞儀、天皇陛下と死者以外には捧げられることのない敬礼が消防士と消防関係者の集まる一角から、そして修善寺らの一般参列者もそれに倣って敬礼を捧げる。
 そして、ロボット消防士四人が棺を運ぶ。花いっぱいの棺の蓋は開けられており、制服を着て着帽した三十郎の亡骸が進んでいく。彼の胸には六花をあしらった銀の七宝の勲章、そして一輪の椿の花。

「あの椿の花は? 冬の花ですよね?」

 そう聞いた珊瑚に、隣にいる副長が答える。

「あれはプリザーブドフラワーなんだっ。随分探したんだよ」
「どうしてまた椿を?」
「三十郎だからねっ」

 そう言って副長は穏やかに、そしていたずらっぽく笑った。

「胸の勲章は一昨年、三十郎が四名目の人命救助をした時に、分署長が発起人になって、ここに来てくれた同僚たち一同で志を募って三十郎に送った物なんだっ。内務省や消防庁が三十郎に勲章を贈らないなら、俺達が贈ってやろうってねっ」

 そう、分署長が消防本部だけでなく、古巣の特殊救助隊にも呼びかけて三十郎に贈った勲章。それ自体の金銭的価値は人間の殉職者に送られる顕功章の10倍を下らない。実に三百万円以上の拠出金が集まり、それをほぼそのままつぎ込んで作った勲章だったからだ。
 そして、棺は分署のヤード端で待つディーラーの車に載せられ、視界から消えて行った。もし三十郎が人間だったなら、署内のポンプ車のサイレン吹鳴で送られたはずだった。だが、そこまでは法が許さない。彼は静かに去っていった。

消防分署からの帰り道にて

2073年8月11日 東京特別市町田区内 街路にて


「ナミ、信くんの家に寄っていい?」

 そう聞いたナミに修善寺が答える。

「あぁいいけど、妙さん達はこれからお店を開けるところだろうし、邪魔にならないようにな」
「はーい。じゃあ信くん、行こ」

 そう言って、ナミと信は修善寺達と別れた。珊瑚がベビーカートを押す修善寺に話しかける。

「どうしたのかしら、ナミちゃん。もしかして……」

 ため息混じりに修善寺が答える。

「報告に行くんだろう、妙さんや仁、千陽達に。自分が毎日記憶を失ってることをな」
「妙さん達にはもう伝えてはあるけど、どうなんだろう、いいのかな?」
「俺はいいと思う。珊瑚はどう思う?」

 珊瑚が口ごもり、眉が曇る。

「俺はアイツが一部の記憶を失っても、その代わりに家族や友達の絆が強まるなら、それで満足すべきなんだと思ってる。人もロボットもみんな絆の網の中で生きてるから」
「俺がしてやれることは、ナミが『自分の記憶と一緒に絆が失われてしまう、自分が記憶を失う様に自分が周りから忘れられてしまう』と、そんな勘違いをしないようにしてやることだ。今の俺にはそれ以上のことがしてやれない」
「そうだね。ロボットも人も『自分の居場所が無くなってしまうこと』が何より恐ろしいんだもの。私たちはナミちゃん達をそう作ったんだもんね。自分たちと同じ様に」
「あぁ…… それとさ、珊瑚、お前は俺よりもっと大きなことをナミにしてあげられる。俺が手を出せないAIの異常を、お前は直接解決できる。俺はナミの悩みを聞いて慰めてやることは出来る。毎晩神様と聖カタリナ様に祈ってやることも出来る。でも直接アイツを治して救ってやることは出来ない。それはお前達AI研究者の手に委ねられてる。だから……」

 珊瑚は力なく、でも優しく笑う。

「だから、必要な事は隠し立てなく俺に言って欲しい。俺はナミのため、おまえたち家族のために力を尽くすよ」
「うん、ありがと。明日は芙蓉重工のAIラボで別府博士とも会えるし、そこでしっかり話しあおうね」
「あぁ、あとさ、お前妊娠初期で本当に気を付けなきゃいけない時期なんだから、無茶は勘弁してくれよな」

 いつもの口癖を聞かされた珊瑚は、苦笑する。

「はいはい、わかってます……」



 修善寺達と別れた信とナミは、信の家に向かって連れ立って歩いていた。信にとっては一年ほど前までは通学で歩き慣れた道だった。知らず知らず、うつむいて歩く自分に信は気付く。でも、どうにも出来ない。見られたくない、誰にも会いたくないと思う信の視界に、ちらと見覚えのある顔が映る。
 二人組の体格の良い男子生徒だった。一人は中肉中背で固太りといった感じ、もう一人は少し痩せ気味だが信より頭ひとつほど背が高い。固太りの生徒が信に気付いてもう片方に小声で話しかける。

「おい、アイツだ。信だぜ」

 話しかけられた背の高い方の生徒も言われて気が付き、ピタリと足が止まる。心なしか怯えた表情がのぞく。

「クソ、アイツかよ。そう言えばヤツの家ってこの先の方だったよな」
「あぁ、どうする? 二人で行けばやれるんじゃねェか?」

 そう言った固太りにもう一人が反論する。

「何言ってんだ、今度こそ殺されるぞ」
「どうしてそんなに弱気になってんだよ。あん時はヤツが不意打ちしやがったから一方的にやられたけど、最初から二人で行きゃァ……」
「無理だ。俺はお前がどんな感じでやられたかを眼の前で見てるからわかる。今度こそアイツは俺たちを殺そうとする。ここじゃ誰も邪魔に入らない。あの時だってあの場に俺達とヤツだけだったら、アイツは絶対に俺たち全員を殺してた。間違いない」
「大げさだよ。不意さえ突かれなきゃ、あんな女みたいなヤツ、俺が軽く病院送りにしてたよ」
「そういう問題じゃねぇよ。あの時のアイツの目を、ロクにお前は見てないからわからねぇんだ。アイツの死んだ親父の話を聞いたろ。アイツも一緒だ。アイツはいつか本当に人を殺すよ」
「そこまでビビってるのかよ、情けねぇな」
「あぁ、情けなかろうが何だろうが、あいつはダメだ。俺はアイツが転校させられて、マジでほっとしたんだよ……」

 二人組がそんなやり取りをしている間、信は道を変えて細い路地に入る。

「あれ? 信くん、こっちの道のほうが近いの?」

 ナミがそう聞くと、信が無表情に答える。

「いや、いつも同じ道じゃつまらないからね。気まぐれだよ」
「へぇー、ナミこの道を通るの初めてだよ。人がぜんぜん通らないね」
「うん」

 この道は普段から人通りがほとんど無い。信はそれをよく知っている。もし二人組がこの道まで追ってくるようなら、その時は…… そう考えた信の表情がすうっと変わる。彼の瞳は明るい光を失い、どす黒い情念が彼の心を覆っていく。

 一年前の出来事が、否応なしに信の脳裏に浮かび上がる。鮮やかな殺意、人を殴り傷つけ血塗れにしたその顔を土足で踏みにじるねじくれた歓喜…… それは自分のもうひとつの顔、知りたくもなかった事を知らされた日だった。

学校にて

2072年10月2日 東京特別市町田区内 第七義務教育校にて


「なぁ、マコトちゃん。お前、自分の家のロボットを『お姉ちゃん』とか呼んでるんだって?」

 自分の机の角に腰を下ろして教室の窓から空を見ていた信に、声がかかる。いつも信に絡んでくる三人組だ。一人は信と同じクラスの二年スキップ組、残りの二人はそれの友達のノンスキップ組だ。
 嫌な笑い方で話しかけてきたのは同級の男子生徒。背格好は信とあまり変わらないが、遠目には少女にも見える整った顔立ちの信とは違い、ニキビ面でちょっと不細工な少年だ。信はいつものことと無視しているが、周りで女子生徒がひそひそ話しているのが聞こえる。

「つれねぇなぁ、何とか言えよ」

 痩せて背の高い生徒がそう言って、いきなり信の髪を掴んで信の顔を自分の方に向ける。信は冷ややかにそいつの顔を見るが、相変わらず何も言わない。誰に言われたわけではないが『決して従わず、黙って一言も言い返さない』と決めていたからだ。もう一人の固太りの生徒は腕を組んだまま、黙ってニヤニヤ笑いを浮かべている。

「お前がお姉ちゃんとか呼んでるロボットって、アレだろ。千陽とか言う眼鏡かけた胸のデカイロボットだよなぁ。『千陽お姉ちゃん』とか呼んでるわけ?」

 背の高い生徒が嘲笑う様にそう言って、信の鼻先に顔を近づける。信は『息が臭いよ、お前』と言ってやりたがったが我慢する。そんな事を言い返したところで何も良い事はないからだ。その代わりに黙って睨みつける。それを我慢することまで信には出来ない。眼光の鋭さにノッポの生徒は気圧されたのか、掴んだ髪を離す。

「相変わらずだんまりかぁ。女みたいな顔して強情だよねぇ、マコトちゃんも」

 ニキビ面がそう言ってマコトの顔を覗きこみ、おどけた口調で話し続ける。

「千陽お姉ちゃんって、アレだよねぇ。売春用のセックスロボットだよねぇ。いくらでヤラせてくれるのか教えてくれなーい? ボクたちって清いチェリーボーイだから、そういう事全然知らないんだよねー」

 信が我慢できなくなって言い返す。

「千陽姉さんは売春なんかしていない。俺の母さんと一緒にスナックで働いている」
「ははっ、やっぱり『チハルねえさーん』なんだ。気色悪いヤツだなー、お前」

 そう言ったニキビに、ノッポが被せるように嘲笑う。

「売春してねぇってぇ? そりゃぁ最近の話だろ? ちょっと前までそういう店だったじゃねぇか。ヘルスだかピンサロだか知らねぇけどよ。それにしても良いよなー、お前。毎日ロボットのお姉ちゃんに気持いいことしてもらえるんだもんなー。それもタダでよー」

 ノッポがそう言ってまた信の髪を掴もうとするが、信がその手をはねのける。それを見た固太りが組んだ腕を解いて信に近づき、みぞおちを狙って拳を打ち込む。信は避けずにそのまま打たれ、顔を歪め歯を食いしばる。顔の作りは女の子の様だが、体は鍛えあげられていて素人に一発殴られたぐらいでどうということはない。
 彼は痛みと怒りで自分の顔から血の気が失せて冷え切り、唇が痺れるのを感じる。口に微かな血の味がして、遠くから耳鳴りが聞こえる。そして信の表情が一変する。真っ白な顔、何も映さぬ無表情に見開いた目。
 その変化に気付かぬまま、悪意をたたえた笑みを浮かべて固太りが言う。

「今の店でもどうせ裏じゃウリをやってるんだろ? そう言えば、お前のお袋も歳の割に結構若作りしてるよなぁ。いくらでヤラせてくれるんだよ。千円くらいだったら俺は毎日通うぜ」

 そう言われた瞬間、信は一瞬視界がかすみ、ふっと気が遠くなる。そして、それが怒りであることすら意識できないうちに、もう体をバネ仕掛けの様に弾きだしていた。
 固太りの鼻先にパァンと軽い音を立てて一発右を打ち込むと、鈍く鼻骨が折れる音も聞こえる。固太りが鼻をかばおうと腕を上げるタイミングで、右に回りつつ腹に左拳を叩き込む。そして固太りがうめき声を漏らして身をすくませ、腹をかばって屈もうとするところを右拳でまっすぐ下顎を撃ちぬいた。
 折れた歯が二三本飛ぶのが見え、拳に下顎骨が砕ける感覚がはっきり伝わる。そして意識が半分飛び、真後ろに崩れ落ちる固太りをフォワードステップでピッタリ追尾し、顔に渾身の左を打つ。鼻先を狙ったのだが狙いが狂って右目に当たり、血しぶきが上がる。眼球が破裂したのだ。
 そして、覆いかぶさるように右拳を、今度は正確に鼻先に撃ちこむと、反動で固太りの後頭部が砕けんばかりに床に叩きつけられる。
 床に叩きつけられて長々と伸びた固太りに既に意識がないことを素早く見て取ると、信は口の端で笑い、チラッと犬歯を覗かせる。そしてゆっくりと振り向いて、凍りついたようにこちらを見ているノッポと背を向けて逃げようとしているニキビを見る。
 信は奇妙な薄笑いを浮かべて、床に転がった固太りの血塗れの顔 --右目が血溜まりになり形を成していない-- を踏みつける。彼の耳には耳鳴りが響き、教室で誰かが『先生を、先生を……』と叫んでいるのが妙に遠くから聞こえる。
 ガタァン! と音を立ててニキビが派手に転び、自分が倒した机の角に額をしたたかにぶつけている。ぶつけた額がぱっくりと割れ、流れだした血でたちまちのうちに顔が朱に染まるが、本人は気づかずそのまま逃げていく。一方のノッポは信に睨まれたまま一歩も動けず、小刻みに震えている。信は固太りを踏みつけたまま動かず、ノッポを見ている。感情のこもらない目、ありえないほどに昏く、光を吸い込んで反射しない目でノッポを見つめる。

『コイツもグシャグシャに叩き潰してしまおうか?』

 信はそう考えている自分を、どこか他人のように感じている。固太りの顔を執拗に踏みにじっている事もまた、他人事のように感じている。

『殺してしまおうか?』

 そう思って一歩踏み出した時、どこからか声が聞こえた気がした。女の子の泣き声だ。『お願い、やめてください。暴力はダメなの!』と訴えている。それはどこかで聞いた事のある声だった。
 信は急に、喫茶店のマスターとスパーリングをしていた時の事を思い出す。スパーリングをケンカと勘違いしたナミが、練習中の二人にいきなり割って入って泣き叫んだのだった。その時のナミの顔も浮かんでくる。
 そして信はスッと耳鳴りが消えるのを感じる。教室内の女子生徒が『救急車を呼んでっ!』と半狂乱で叫んでいるのが急にはっきりと聞こえ出す。信の目に普段の光が戻り、右手の甲が鈍く痛むことにも突然気付く。右手中指の中手骨が折れている様で、手の甲が腫れ始めている。
 信はもうノッポ達には構わず、その場から離れて窓際まで歩くとポケットから電話を取り出し、ダイヤルした。

「はい、こちらは消防局です。火事ですか? 救急車ですか?」

 消防局の交換手の問いかけに、信が抑揚無く答える。

「救急車をお願いします。それから…… 警察も呼んでください」

喫茶店「めいふぇあ」にて

2073年1月30日 東京特別市町田区内 喫茶店「めいふぇあ」店内


 今日、信は担当の保護司と面会しなければならない日だった。いつもの面会場所である喫茶店「めいふぇあ」の一番隅のテーブルで、彼は保護司と向い合って座っている。

「特に変わったことはないかい?」

 保護司にそう聞かれた信は、うつむいて小声で答える。

「いえ…… 別にありません」



 4ヶ月ほど前の喧嘩騒ぎでは、固太りが入院加療三ヶ月の大怪我であった。後頭部強打による深刻な脳内出血のために入院先では緊急手術が行われた。昔の医療レベルならば重度の障害が残るか、悪くすれば死亡していただろうが、医療技術の進歩、特に神経細胞の再生に関するそれに救われたのだった。
 またその他にも鼻骨と下顎骨の複雑骨折、それに眼窩底骨折の手術と、破裂した眼球の再生移植治療が必要であり、歯が八本も折れて失われたので、そちらの再生移植治療も重なった。退院した現在も、通院加療は続けられている。
 残り二人のうち、転んで自爆したニキビが額の打撲切創で全治二週間の軽傷だった。しかしノッポの方は外傷こそ無かったもののPTSDを発症してしまい、心理療法を受けている状態だ。

 マスコミが取り上げるほどの事件になってしまい、傷害致死寸前の事例でもあったため、家庭裁判所での審判案件になりかかったが、被害者側の処罰感情が薄く、本人に補導歴もなく本人の反省も認められるということで不審判となり、少年院行きは何とか免れたのだった。処分は保護観察となり、今日の様に保護司との定期面会が求められている。
 彼の担当になった保護司は組織暴力対策課を長く務めた元警察官で、元々暴力団幹部だった喫茶店のマスターとは『旧知の仲』だ。マスターはしばらく前に足を洗って今の店を開いていて、保護司も今では喫茶店の常連客になっている。

「新しい学校の方には慣れたかい?」

 コーヒーを飲みながらそう保護司が聞くと、信は相変わらず暗い調子で返事をする。

「はい、何とか慣れました」
「もう友達は出来たかい?」
「…… いえ、今のところは誰も」
「そうかい、まぁ焦らないことだ、まだ転校して二ヶ月目に入ったところだしね」
「はい」

 信はそう答えたが、友達付き合いについてはもう諦めている。実際に転校したのは去年末だった。消極的な質であまり友人が多いとは言えない信だったが、あの事件の後はクラス内だけでなく、学校全体で孤立してしまった感じだった。
 事件直後に面会謝絶が長引いたせいで『固太りが病院で死んだ』という噂が流れた。その結果、信と目を合わせるのも怖がる生徒が多くなり、他の父兄から『転校させろ』という圧力までが学校側にかかったのである。それでかなり離れた公立校に転校したのだが、転校手続きが終わらないうちから転校先に情報が漏れ、そこでも嫌悪と恐怖の混じった目で見られ続けているのが現状だった。勿論話しかけてくる生徒などいない。
 ひとり残ってイジメの標的になる可能性があった弟の仁も一緒に転校したが、学校は信とは別の公立校に行っている。そちらは仁の人懐こい性格もあって上手く行っているのが、信にとっての僅かな救いだった。

「ボクシングの方はどうだい?」
「いえ、ランニングは続けてますが、それ以外には特に」
「そうかい、ちょっと勿体無い気はするがな。一回、君のスパーを見せてもらったが、国体選手にだってなれそうな感じだったけどな」

 そう保護司が言うと、カウンターからマスターが茶々を入れる。

「何言ってんだ! 最初は俺が信に余計なことを教えるからだ。俺のせいだとか言ってやがった癖によ」
「そうか? 覚えてねぇなぁ。大体よぉ、今はボクサーになりたがる若いヤツが少なくて、おかげでオリンピックじゃ日本は出ると負けじゃねえか。プロボクシングは無くなっちまったしよ」

 保護司がおちゃらけて言い返す。元々保護司も講道館柔道四段の猛者で、相当熱心な格闘ファンだから、信のボクサーとしての才能を本気で惜しんでいるのである。
 一方のマスターは、学生時代にミドル級アマチュアボクサーとして国内大会での優勝経験もある。最初は『信は女の子みたいな顔でいじめられそうだから』と護身術程度の感覚で教えていたのだが、信の飲み込みが良いので教え込むのが面白くなってしまい、気がついたら信はやたらに強くなっていたのである。

「君の学校にはボクシング部もあるし、入ってみたらどうかな? そこで友達が出来るかも知れないよ」
「……」

 保護司の問いかけに、信は返事をしない。入れば入ったで気味悪がられるか、根掘り葉掘り事件のことを聞かれるに違いなく、どちらも願い下げだったからだ。すると、急にカウンターからマスターが大声で割り込んできた。他に客がいないのでまるで気兼ねがない。

「信、俺は入っておくべきだと思うぞ。入ってそこでお前の実力を見せつけておけ」
「おいおい、刃(やいば)よ。俺はそんなつもりでこの子にボクシングを勧めてるんじゃないぞ」

 マスターの名は鶴巻刃(つるまき やいば)と言う。ヤクザ時代にはピッタリだったが、喫茶店のマスターには少々コワモテすぎる名前だ。

「あぁ? あんたはオリンピックのボクシングで日の丸が上がればいいんだろ? 俺は違う。コイツのために勧めてるんだ。信は俺の大事な弟の息子だ。俺には責任がある」

 信の死んだ父はマスターと盃を交わした義兄弟だった。信の父は息子達がまだ学校に上がる前に、ある抗争事件で命を落としたが、その時に四人を道連れにしている。マスターはその時以来、義兄弟の嫁である妙とその息子達をずっと身内として支えてきたのだ。
 信が刑事処分を受けずに保護観察で済んでいるのも、マスターが事件当日に妙と一緒に詫びに出向き、当座の治療費としては多すぎるくらいの金を渡した事、そして一週間後には受け取るほうが恐縮するほどの慰謝料を支払ったためでもある。
 修善寺がマスターから自分の店の権利を買い取ることになったのも、その慰謝料を工面するためにマスターが強引に頼み込んだからなのだ。勿論、修善寺も珊瑚も理由はわかっていたから、大慌てで銀行を回って現金を作り、店を買い取ったのだった。

 いつになく真面目な顔のマスターとは対照的に、保護司がニヤリと笑う。

「バッカ野郎、俺だって信くんのことを考えて言ってんだよ。ボクシング部に入って、それこそ国体にでも行ってみろ。誰がそんな奴にケンカ売るよ?」
「ふん、結局俺と同じ事考えてるじゃねぇか。なぁ信。お前、今回はちょっとばかりやり過ぎちまったがよ、そもそも何でお前があのクソガキを半殺しにしなきゃならなかったかわかるか?」

 信は眉間に少しシワを寄せて答える。

「いえ…… あまり良くわかりません。僕は自分からあいつらに関わったことはないし、あいつらの機嫌を損ねるような事もした覚えが無いんです。あの日までは何を言われてもずっと我慢しててたんですけど……」
「理由は簡単だ。お前は舐められちまったからだよ。『アイツはイジメて遊んでも大丈夫だ』って思われちまったからなんだ。そう思っちまったのは連中が悪いが、そう思わせちまったお前もちょっとは悪いぜ」

 そう言われた信はうつむいてしまう。マスターは信をちょっと見て、特に表情も変えずに話を続ける。

「あいつらはお前のお袋、俺の大事な妹を捕まえて『一発いくらだ?』と抜かしやがったんだろ? 俺がその場にいたらそんなフザケたガキどもは三十秒で皆殺しだ。だからお前が一人くれェ半殺しにしたからって、別に何もおかしかァねぇ。むしろ一人じゃ少なすぎるくれェだ」

 そう言って子どもが飛んで逃げそうな凶悪な表情で笑う。本人にはよくわかっていないが、とことん怖い顔なのである。

「でもな、お前が一旦暴れた時にどんくれェの事をするかわかってたら、あいつらはハナッから下らねェことは口にしなかっただろうよ」

 マスターはそう言ってカウンターから信たちのいるテーブルまで歩き、信を見下ろす。

「信、言っちゃ悪いが、お前はお袋似で女の子みたいに見えるんだ。だからどうしても見た目で舐められちまう。でも、中身はお前の親父とそっくりだ。口下手で、やたら我慢強くて、そのくせ一旦ブチ切れると誰の手にも負えねぇ……」
「なぁ信、舐められちゃいけねェよ。オメェは男なんだ、そこらの奴らにゃ絶対負けねえだけの腕っ節もあるんだぜ」

 保護司が信に笑いかける。

「まぁ、今となっては舐められるどころか怖がられてるみたいだけどな。でも、それは辛いだろ?」

 信はうつむいたまま、かすかにうなずく。

「信くん、暴力には二種類あるんだ。一つは制御された暴力、もうひとつはデタラメな暴力だ。今、君は『デタラメな暴力』を振るう人間だと誤解されている。それが誤解だってことは僕にはわかるし、このマスターにもわかってる。君の家族もわかってる。でもね……」
「君を誤解している人たちに分かってもらうには、何かする必要がある。僕はその方法の一つとして、君が才能のあるアマチュアボクサーであることを見てもらうのがいいと思うんだ」
「分かっているだろうけど、ボクシングは暴力そのものの競技だ。判定で勝負が決まることが多いとは言っても、ボクシングの究極の勝利はノックアウトだからね。相手を殴り倒してリングに這いつくばらせる競技なんだ。そしてボクシングこそ最も『制御された暴力』でもあるんだよ」
「君がボクシング部に入って練習することで、人が君を『暴力を制御できる人』と信じてくれる助けになる。そして、君は間違い無く強いボクサーになり、君の勝利を願って応援してくれる友達も出来るだろうと思うんだよ」
「信、このオヤジの言う通りだ。まぁ、入ったら入ったで、下らねぇ先輩後輩のしきたりがどうのとグダグダあるかも知れねぇが、ああいう所は結局強い奴が人気者だ。試合で勝てば周りの態度もコロッと変わる。なるべく早く入部しておいたほうがいいぞ」

 信がうつむいたままで返事をする。

「もうボクシングは…… 母さんが嫌がるだろうし」

 事件の後、妙は信をほとんど責めず、叱ることもなかった。ただ『もうこれで人を殴るのは最後にしてね』と言って涙を流した。信にとって、母が泣く姿を見るのはそれが初めてだった。
 信にとっていつも明るくて気丈な母が、いつも信を励まし、そして叱ってくれる強い人だった母が、ただの女性として泣いている事、そしてそれが紛れもなく自分のせいである事に気づいた時、痺れた様に動かなかった心が突然に動き出した。信もまた子供のように泣いた。

「ごめんなさい…… 母さん、ごめんなさい……」

 だから、信にとって今ボクシング部に入ってしまう事は母に対する裏切りにも思えたのだった。

自宅ベッドルームにて

2073年8月11日 東京特別市町田区内  修善寺宅


「珊ちゃん、あのね、お願いがあるの」

 珊瑚達の食事が終わるのを待って、ナミが三脚に据えたカムコーダーを操作しながら話し始める。

「ナミは眠ると今日のことを忘れちゃうんだよね? 忘れちゃうことも忘れちゃうんだよね?」
「えぇ……」

 ソファに座ったまま返事をした珊瑚が、ナミをそっと見上げるとナミが見つめ返す。

「明日の朝、ナミにその事を教えて欲しいの。そうしたらナミはこれで録画するから。朝に教えてもらわないと、録画することも忘れちゃうから」
「わかったわ。これからは毎朝、ナミちゃんが起きた時に教えてあげる」
「ありがと。ナミ、壁にメモ書きを貼っておこうと思ったんだけど、自分でメモを書いたことを忘れちゃったら、メモに書いてある意味が何だかわからなくて、録画するのを忘れちゃいそうだから」
「そうね。それから今日からは家のお店のオートカレンダーも正しい日付を表示するように直したし、明日はナミちゃんの体内時計プロセスコードも再変更するから、すぐに記憶が変になってることが自分でわかるようになるわ」

 珊瑚はそう言って、柔らかく笑った。ナミもそれを聞いて微笑んでいる。

「ありがと、珊ちゃん。それから、このカムコーダーはしばらくナミが使ってて良いんだよね?」
「えぇ、使ってて良いわよ。その機械は一日中回しっぱなしでも三ヶ月分録画できるから、ナミちゃんが起きている間はずっと回してて良いわ。録画メモリを使い切るまでには、ちゃんとナミちゃんのAIと記憶を治してあげるから心配しないでね。それから自分が寝る間に充電はちゃんとするのよ」
「うん、わかった。でもこれ、元々は藍ちゃんを撮るためのものだったのにね。ごめんね」
「あはは、いいのよ。ナミちゃんはいつも藍と遊んでるから、藍もたくさんビデオに写るわ。だからそれでいいのよ」

 話しているうちにもナミの瞬きがだんだん多くなってきた。そろそろ睡眠が近い印だ。

「ナミちゃん、もう眠くなってきたでしょう? 元々ロボットには夜更かしは良くないんだけれど、今のナミちゃんにはとても良くないのよ。そろそろベッドに行かなきゃね」

 そう言った珊瑚を、ナミはすがる様な目で見て小声で返事をする。

「うん…… でも、もう少しだけ、本当に眠くなるまで起きてちゃダメ? ナミ、ギリギリまで眠りたくないの」
「ナミちゃん……」
「ナミ、怖いの。記憶が無くなっちゃうのが怖いの。今こうしてお話ししていることも、明日になったら忘れちゃうんでしょ? 眠るのが怖いの。死んじゃうみたいで怖いの……」

 珊瑚を見つめるナミの目に涙が浮かび、次々とこぼれて頬に筋を作って流れる。

 ガラテアシリーズに与えられた情動の一つが『恐怖』である。それはロボットに自らの身の安全を図らせるため、そして同じ様に恐怖を感じる存在である人間に、より深く『共感』するために与えられたものだ。人間の恐怖に対する反応を、かなう限りに模倣した反応を、ガラテアシリーズもまた示すことが出来る。
 また、ガラテア4では眼に見える恐怖対象だけでなく、『理解出来ない故に恐ろしい物』、例えばナミの今感じている漠然とした死の恐怖や、お化けや幽霊を怖がる類の恐怖を感じることが出来る。ガラテア3では部分的に、ガラテア4では大胆に取り入れられた能力で、実際にナミは『お化けが出るから』という理由で、よく知らない道の暗がりや、いわゆる心霊スポットを怖がったりもする。一歩間違えれば、その恐怖につけ込まれて愚劣な迷信さえ吹きこまれかねない訳で、『そこまでする必要がどこにあるのか?』と、かなり批判を受けた能力である。その一方で「ロボットのくせにお化けを怖がる」と言うのが笑い話の種にもなっているが。

 涙を流すナミを、珊瑚はソファから立ち上がって軽く抱きしめ、背中をさすってやる。ガラテアシリーズも人間と同じく、スキンシップで不安が和らげられるのだ。しばらくナミの背中を撫でてやった珊瑚が、ナミの耳元でささやく。

「ナミちゃん、今日は私と一緒に寝ようか?」
「え? でも、藍ちゃんはどうするの? 藍ちゃんはいつも珊ちゃんと一緒に寝てるのに」
「大丈夫よ。藍はお父さんと一緒に寝るから。藍ももう大きくなったから、夜中におっぱいを欲しがることもないしね。ナミちゃんの部屋でお父さんに寝てもらうから、ナミちゃんは私のベッドルームで寝ましょう」
「うん、ありがと珊ちゃん。それじゃ、シャワー浴びて寝間着に着替えてくるね」

 その夜、ナミは珊瑚の隣で手を繋いでもらって眠った。



 ガラテア3やガラテア4では、恐怖により合理的な思考を妨げられたり、恐怖に身がすくんで動けなくなったりといったパニック反応を起こしたりする。勿論それは三原則に背かない程度までの物ではある。ロボット基本法の縛りは無視できないからだ。
 恐怖はロボットに何をもたらすのか? 恐怖とそれに先立つ不安によって聴覚センサーの感度は上がり、音像定位プロセスが活性化されて聴覚分解能が跳ね上がる。視覚センサの視界走査はピッチが上がり、視覚パターン認識プロセスが最高度に活性化される。動く物の位置・大きさや特徴的な輪郭を抽出し、進路ベクトルを割り出して接近や衝突に備えるためであり、顔面パターンの認識によって、害意の窺える人物や動物を特定してそれに備えるためである。人工筋肉や関節モーターの制御も、人工大脳からの制御比重が下がって人工小脳による運動制御と人工神経系からの反射制御の比重が上がる。それによって普段より『動物的な』素早い身体反応が可能になるが、論理的思考能力などはその分抑圧されて下げられてしまう。
 また、極端な恐慌状態に陥ると、危険を切り抜けるためだけにAIの能力が使われるために記憶プロセスすら抑圧を受けてしまう。その結果、後になって恐怖体験自体を詳しく思い出すことが出来ないということも起きる。そんな時にはロボットはこういうのだ。「怖くて夢中だったので、自分が何をどうしたのかをよく憶えていません」と。
 そして恐怖が過ぎた後、ロボットは冷や汗を流し、安堵の吐息を漏らすのだ。

 ロボットを実用の道具と考える立場からは、ロボットにあまりに強い情動を組み込んで、最も必要な局面で能力を下げてしまいかねない設計は愚行もいいところであろう。だから最初にAIコンピューター『ガラテア』を作成した別府博士らの開発チームは、非難どころか軽蔑すら受けた。『臆病者で足手まといなAIを作って、それが役に立つのか? それで人を助けられるのか?』と言う批判だった。恐怖による能力の制限は『人間の欠点』をそのままコピーしている訳であり、それを克服したロボットこそ人間を助け支える存在ではないか? というのが批判者たちの言い分だった。
 もっともガラテアが開発される前においても、進化心理学等の研究によってAIに『感情』が必要な事自体は広く認識されていて、感情を持つAIというのは試行錯誤を続けながら作られ続けてきたのだが、ガラテアはそれまでのAIを遥かに凌駕するレベルで『人間的な感情』を実装し、最新モデルのガラテア4では人間同様の『感情の弊害』までも、かなり忠実に再現してしまうレベルに至ったために批判者も多く現れたのだった。

 それに対し、別府博士や有馬博士 --当時のピグマリオン・ラボラトリーズの社長と常務-- は常に言い続けた。

「我々のロボットは人に寄り添い、人と共に歩むコンパニオンロボットです。我々には単なる便利な道具を作っているつもりは一切ありません。ガラテアは『道具以上の何か』であるべくして作られています。人に寄り添うために、ロボットは恐怖も怒りも知らねばなりません。喜びも悲しみも知らねばならないのです。そうでなければロボットは人に共感できず、人もロボットに共感できません。それでは両者が寄り添って立つことは出来ないのです」

「そしてコンパニオンロボットがより良く人に寄り添える様になった時、我々がそういうロボットを作れる様になった時こそ、ただ内観に頼るのではなく、我々は自らの姿を写す鏡を手に入れるのです。今、我々が手にした鏡はまだ曇っており、かつまた歪んでおりますが、それが映しだした我々の姿が驚くべきものであったというのは、批判者のあなた方も認めるところではないでしょうか? 我々はそれを曇り無く磨き上げ、平らかに歪みを正していきたいのです」

 そして、ガラテアシリーズが臆病で役立たずだという意見には、常に反論した。そんな時、有馬博士は特に激しく、まさに火を吐かんばかりに論駁した。

「勇気とはなんでしょうか? 良き目的のために恐怖を克服する心ではないでしょうか? 恐怖なき心に勇気が存在するでしょうか? そして、恐怖を持つ心は勇気を持てないのでしょうか? 義務を果たせないのでしょうか?」

「違います、違うのです、断じて違うのです! 我々自身を振り返れば自明ではありませんか。我々のロボットが恐怖を持つゆえに臆病で役立たずである? なんと短絡的な言葉でしょうか! 我々のガラテアが勇気を持たない? なんと愚かな言葉でしょうか!」

「ガラテアシリーズは心に恐怖を抱きます。恐怖に慄え、涙を流します。そういう心の弱さを我々は彼女たちに与えました。しかし! しかし我々が彼女たちに与えたものはそれだけでは無いのです。彼女たちはそれを克服する勇気をも持っております。良き目的のために、世の美しいもののために、世の幸せのために、何より様々な絆で彼女たちと繋がる人々、その人々の笑顔のために、彼女たちは勇気を持って恐怖に打ち勝てるのです」

「我々人間は恐怖に囚われ、示すべき勇気を示すことが出来ずに後悔することは少なくありません。同様にガラテアにも同じ傾向は存在しますし、彼女たちには『後悔する』能力もあるのです。しかし……」

「しかし! 彼女たちの心の奥深くには決して取り除くことの出来ないものが埋めこまれています。大アシモフが啓示した『ロボット工学三原則』に源を持ち、ロボット基本法が要求する根本原則、中でも彼女達の心の最も深い部分に根を張る第一原則は『危難から命を救え』です。それこそがガラテアシリーズが恐怖を超え、自らの犠牲を省みずに行動を起こす原理です。彼女たちはロボットとして真の勇気が求められる場所で、間違い無くそれを示すことが出来るのです」

「我々は、彼女たちが恐怖を感じぬ故にではなく、恐怖を越えて勇気を示す能力を持つことでロボットの義務を果たすように作りました。我々がそうしたのは何故か? それは我ら人間にとっても目指すべき理想だからであります!」

 有馬博士の言葉は製作者の自信過剰でもセールストークでもなかった。ピグマリオンが初めて世に問うたガラテア2とその系列に連なるロボット達は、三十郎の様に与えられた任務や義務のために自らの命を捧げてきた。
 そして、商業的に大成功を収めたガラテア3において、ガラテアシリーズの勇気は数多の人の目の前で疑問の余地なく証明された。実に三桁を軽く越えるガラテア3が自らの身を犠牲に捧げてオーナーや家族、そして見知らぬ人を救ったのである。

AIラボ 第一研究室にて(1)

2073年8月12日 東京特別市八王子区内 芙蓉重工AIラボ


「修善寺くん、久しぶりね。今日は藍ちゃんはどうしたの?」

 指宿がAI研の玄関ロビーで手を振っている。連れてくるはずの藍がいないので不審顔だ。

「今朝早くに人さらいが来て、あっさり連れて行かれたよ」

 そう言って修善寺が肩をすくめる。要するに修善寺の実家の両親と妹が来て、藍を実家に連れて行ったのだ。ついでにナミまでさらって行きそうな勢いだったが、今日はナミの検査と治療の日だからそうは行かない。

「あはは、初孫だもんね」

 直接にはあまり顔を会わせない指宿にも『人さらい』で誰の事かがわかるほど、藍はしょっちゅう実家に行っている。

「お袋とは先月末に連れて行くって約束してたからしょうが無いけど、せっかくアキラくんと遊ばせてやれると思ったんだけどなぁ」
「アキラくんもさらわれたみたいよ、そっちの犯人は聡華のお姉さんとお母さんね。残念だったわね、あなた」

 指宿がそう言って傍らの夫、那須陽一の肩を軽く叩く。

「いや、俺はそっちじゃなくてナミちゃんの事が心配で来たんだって!」
「顔に『残念だ』って大きく書いてあるのよ」

 そう言って指宿がケラケラ笑うと、修善寺やナミ達も釣られて笑う。

「嘘つけ、空海じゃあるまいし……」

 不満顔の那須に向かって修善寺が苦笑している。確かにすぐ感情が顔に出るのは那須より修善寺の方なのだが、今の那須の表情はあまりにも分かりやすかったからだ。

「ナミお姉ちゃん、それは何?」

 受付ブースから出てきたマニトゥーが、ナミが持っているカムコーダを指差す。昼間の殆どをAIラボの受付で過ごすプシュケとマニトゥーはラボから出る機会が少なく、ナミと比べると世間知らずであまり物を知らない。

「これはカムコーダだよ。ムービーを撮る機械なの」
「へぇー、プシュケが知ってるのはもっと大きい機械だったよ」

 プシュケが会話に割り込んでくる。彼女が言っているのはラボで使用している業務用大型カメラだ。

「ナミちゃん、三人一緒に撮ってあげるわ」

 珊瑚がそう言ってカムコーダを受け取ると、マニトゥがまた質問する。

「これはナミちゃんの物なの? 買ってもらったの?」
「ううん、主任に借りてるの」
「どうしてムービーを撮るの? 誰かがお誕生日だから?」

 プシュケとマニトゥの誕生日には、ラボでパーティがある。その時にはいつも誰かがビデオ撮影しているので、この二人にとっては『カムコーダ=誕生パーティ用』なのだ。ナミが少しうつむいて困ったような顔で微笑む。

「ナミね、AIの調子が悪くなって、眠るとその日のことを忘れちゃうの。だから、こうしてムービーを撮っておいて、AIが直ったら、ナミの記憶が消えちゃった所を覚え直すの」

 マニトゥが不安そうな表情を浮かべる。

「ナミお姉ちゃん、病気になっちゃったの?」
「うん……」
「ナミちゃん、大丈夫なの? 痛くないの?」

 プシュケがそう言ってナミの手を握る。こちらはもう泣きそうな顔だ。

「大丈夫だよ。珊ちゃんや、ラボの人たちが直してくれるから。それとね……」
「ナミお姉ちゃんでしょ」

 そう言って笑った。


 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆


 玄関で指宿達と一緒に廊下を進むと、聡華が途中で出迎えている。

「あら? 藍ちゃんはどうしたの?」
「あぁ、実家に預けたんだ。誘拐同然に連れて行かれたよ」

 修善寺が苦笑してそう答えると、聡華も笑っている。

「ふふっ、うちの子と一緒ね。それから、実験室に行く前に先に研究室で打ち合わせをするから。別府博士はもう来られてるわよ」
「もしかして、お待たせしてるんですか?」

 珊瑚がそう聞くと、聡華はかぶりを振る。

「いえ、博士もさっき来たところだから。今お茶が入ったところよ」
「博士もギブソンでは大変みたいですね」
「うちの人が愚痴を聞いてるわ。研究が大変というよりは、自分がやりたい仕事が出来ないのが辛いみたい」
「博士には本来まるで興味ない分野ですものね。辛いのはわかりますよ」
「そうか、珊瑚さんはピグマリオンでもギブソンでも、そういう想いをずっと味わったんだものね」
「私は、コンパニオンロボットの開発や販売に関われた分だけマシだったと思いますよ。博士みたいに兵器開発なんかやらされてたら、迷わず辞めてたと思いますもん」

 それを受けて指宿が渋面を作りながら言葉を挟む。

「博士はあと暫らくは今の立場を投げ出せないから、辛いわよね」

 そう言ううちに全員研究室に入った。和倉が気付いて声をかける。

「あぁ、みんなこっちに座ってくれ。軽く打ち合わせてからナミのLTM検査だ」

AIラボ 第一研究室にて(2)

2073年8月12日 東京特別市八王子区内 芙蓉重工AIラボ


 別府博士を交えた打ち合わせはあっさりと終わり、すぐにナミのLTM検査に入った。検査自体は順調に終わり、珊瑚がナミに約束していた体内時計関連のプロセスコードの変更も何事も無く終了した。

「和倉グループ長、ナミちゃんの意識を回復した方がいいですか?」

 気遣わしげにそう聞いた研究員に、聡華が硬い表情で答える。

「いえ、まだよ。覚醒は検討が終わってからにするわ。あなたはここまででOKよ、お疲れ様でした」

 修善寺が怪訝な顔で珊瑚に耳打ちする。

「何ですぐに覚醒させないんだ?」
「これから、ナミちゃんに聞かせたくない話をするからよ」
 珊瑚もまた、凍りついた様な表情で冷ややかに答え、少しうつむいて黙ってしまう。
「状況が良くないんだ。研究室で詳しく説明してやる。お前がオーナーだからな、説明内容は高度になるが、お前だって自分の守備範囲じゃなくてもロボット工学者なんだ、ちゃんと理解してくれよ」

 和倉が修善寺に低い声でそう言って肩を叩く。修善寺はそれに答えず、ベッドに横たわっているナミを見つめる。

「行きましょう。時間がもったいないわ」

 指宿がそう言って移動を促す。別府博士が指宿と並んで歩いて行った後を、皆でついて歩いて行った。


 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆


「良くないね。良くないだろうと想定はしていたが、それよりも良くない」

 口火を切ったのは別府博士だった。ただ、口調も表情もいつもと一緒であまり緊張感がない。何しろ博士のアフォーダンス研究所でのあだ名が"Dr. Relax"であり、『スーパーマイペース・マン』が大学時代のあだ名だ。修善寺が苛立って質問する。

「どう良くないんです? ナミはそんなに危険な状態なんですか?」
「危険な状態だね。非常に危険な状態だよ。それと、危険なのは彼女だけじゃない。ガラテア4全体が危険にさらされつつあるね」

 博士は修善寺を見てはっきりと言った。博士の言葉はいつでも正直に発せられる。危険だといえば、絶対に危険なのだ。それは修善寺にもよく分かっているから、博士を見つめたまま次の言葉を出すことができない。

「メモリ消費率が0.2%/dayもあるんだ。毎日記憶消去をしているのにも関わらずにだ」

 和倉がそう言ってテーブル上にホログラムでグラフを表示する。AIが専門でない修善寺にもグラフの意味はわかる。

「記憶の日時消去処置前の消費率が0.6%だった。こっちの見通しではメモリ消費率は1/10以下になるはずだったんだ。でも、実際には1/3程度。何でそうなるのか理由がはっきりわからんのだ」
「全然わからないんですか?」

 力なく修善寺が聞くと、別府博士が答える。

「既に仮説はあるよ。今までのLTMの検証によって問題の一つがAI活動中のリンクプロセスにあるのは確認できているんだ。全ての異常の原因は半分くらいはそこにあって、その部分のコード修正と検証は和倉くんと聡華さんが中心となってやってくれているよ」

 そう言って博士が聡華に目配せすると、聡華が修善寺に説明を続ける。

「現状で確認できているのは、LTMサイズがある閾値を超えると異常なリンク密度が生じる確率が上がること。そして、その確率はリンク密度を指数に取る形で上昇することなの。そこの部分までは仮説が実証された段階よ」

 修善寺の顔がこわばり、声が大きくなる。

「と言うことは、メモリ異常に対して正帰還が、それも指数関数的にかかってるんじゃないか! それじゃナミはすぐにも……」

 珊瑚が修善寺の肩に手をおいて、言葉をかける。

「落ち着いて。そこまで算定に組み込んで出した最短のタイムリミットが10月よ。指宿さんの方でかなり正確に見積を出してくれたの」

 指宿が机に目を落とし、いつにない低い声で話す。

「10月のリミットは記憶消去をしない条件での数値。今の条件なら年内は持ちこたえられる。でも、今日の検査結果だと、今の条件ではコード修正ができないと思うわ。それとLTMのカオス化の問題があるしね」

 指宿の隣りに座った那須が怪訝な顔で質問する。

「それは一体どういう事かな? 今月頭に取ったLTMバックアップの解析だけでは足りないってことか?」
「えぇ、足りないわ。日次記憶消去の条件で0.2%も消費しているのは、現状の仮定が不十分で、どこかに間違があるってことよ。これ以上はナミちゃんのAIユニットのリアルタイムモニタリングをやらないとダメ。活動中のリンキングプロセスとを中心にね。その結果を解析してコード変更の対策を考える必要があるわ」

「もう一つ、睡眠中のプロセスも同時に見ないといけないわ。LTMのカオス化は、リンク密度が上がっただけでは生じない筈なのよ。睡眠中の自動記憶抽象化プロセスに不具合がある可能性が高いわ。これを確認するためには、記憶の消去を停止して、実際にプロセスを動かし、挙動をモニタリングする必要がある事がわかったの」
「じゃぁ、今の記憶消去の必要はなくなるってことだよね?」

 そう聞いた修善寺に、指宿が伏せていた目を上げて答える。

「必要が無くなるんじゃないわ。時間稼ぎが出来なくなるのよ。ごめんなさい、聞きたくないことだろうし、私も言いたくない…… でも言うわ、モニタリングを開始したらナミちゃんは10月初め、遅くとも中旬に機能停止するはずよ。そして問題解決がそれに間に合わない可能性があるわ」
「え? それじゃ、睡眠中のモニタリングをしないで他の方法で調べるわけには? そうすれば時間は稼げるんだろ?」

 そう言った修善寺に和倉が説明する。

「ナミのモニタリングは一気にやらないと、ナミだけじゃなくて他のカラテア4も手遅れになる可能性があるんだ。指宿さんの説明通り、毎日記憶を消去しながらAI活動中のモニタリングをするだけではデータが不足する。どうしても睡眠中のプロセスを同時に見る必要があるんだ。もう下手な時間稼ぎができない状況だということが、今日の検査ではっきりした」
「ここでグズグズしてしまえば、ナミが機能停止した後にもう一人目、多分博士のところのレンズかプリズムに異常が出るのを待って再調査になる。その場合、あの二人も機能停止にまで追い込まれる可能性が高いんだ」

 和倉がそう言って説明するが、修善寺は聞こえているのかいないのか、うつむいて机を睨んでいる。別府博士が更に話を続ける。

「この異常はナミくんだけでなく、他のガラテア4にも近い将来起こる問題なんだよ。それは間違いないことは確認できているんだよ。和倉くんが言った通り、僕の家にいるレンズとプリズムにも数カ月程度で起こる可能性がある。ナミくんはプロトタイプの長女だけど、ウチの二人は次女と三女だし、うちの子達もナミくんと変わらないくらいアフォ研で実験を受け続けているからメモリ消費はかなり進んでいるんだよ」
「だから今ここで十分にデータを取り、対策をたてておかなければいけないんだよ、彼女の妹たちのためにもね。極めて難しい状況だけれど協力をお願いしたいんだ。勿論レンズたちへの検査も始めてるんだよ。ナミくんだけが調査対象ということじゃないからね」

 博士がそう言って修善寺を見る。修善寺はうつむいたまま顔を歪め、膝においた手が固く握られる。そして、搾り出すように話し始めた。

「どうして…… どうしてナミだけがこんな目にあわされるんだ。アイツは実用化試験で散々嫌な思いをしたじゃないか。来る日も来る日も嫌な実験を繰り返して、どんなに嫌でも口答えもしないで頑張り続けたじゃないか。何でナミばっかり辛い目にあわされる? もういいじゃないか! 俺はアイツをもう辛い目にあわせたくなくて、それで手元に引き取ったのに……」
「アイツが実験中に何て言ったと思う? 『Annaが頑張れば会社はAnnaの妹を早く作れるんだって。だからAnnaは頑張るの』って、ナミはずっとそう言って我慢してきたじゃないか。『自分はお姉ちゃんだから』って言って。それがどれだけアイツを苦しめてたか…… ナミは今でも性機能試験の話を絶対にしない。他の実験の昔話はするのにだ! どうしてナミばっかりが……」

 そう言って修善寺は両こぶしで机を叩いた。ばあんと室内に音が響き、一瞬物音が途絶える。そして修善寺に話しかけようとした和倉をまっすぐ見て、珊瑚が静かに話しかける。

「私が話します。少し二人きりにさせてもらえませんか? あなた、ちょっと廊下に出ようよ……」

 修善寺は逆らわず、無言で珊瑚と二人で研究室を出た。しばらくして珊瑚が一人で部屋に戻ってきた。


 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆



「どうだった? わかってくれた?」

 ささやくようにそう聞いた聡華に珊瑚がかすかにうなづく。

「あの人もロボット工学者ですからね、わかってはいるんです、他にもう道が無い事を。どれを選んでも悪い選択肢の中で、決して選びたくない選択肢だけしか残って無い事が。だからああして駄々をこねたんです」
「修善寺君もおこちゃまなところは相変わらずねぇ」

 そう言って指宿が額に軽く手を当てて溜息をつくと、珊瑚が指宿を見て無表情に答えた。

「あの人が何も言わずに我慢していたら、私が駄々をこねていました。あの人は子どもっぽいのかも知れません。でもこんなあんまりな運命に誰も駄々をこねないんじゃ、ナミちゃんがあまりにもかわいそうです。だから……」

 そう言って机に視線を落とす。指宿がそれを見て言葉を返す。

「そうね、修善寺くん達にとってはナミちゃんは娘と一緒なんだものね。無神経な言葉だったわ。本当にごめんなさい……」
「いえ、いいんです。駄々をこねても状況は良くなりません。わかってるのにそうしてしまうのは、やっぱり子供なんだと思います。あの人も、私も」

 そう言って、珊瑚は悲しげにふっと笑った。そうして二人が言葉を交わす間、黙って那須が部屋を出る。修善寺が気になるのだろう。

AIラボ 第一研究室にて(3)

2073年8月12日 東京特別市八王子区内 芙蓉重工AIラボ


「珊瑚さん、そろそろ那須くんと修善寺くんを呼んできてくれないかしら。もう一つ話さなければいけないことがあるから」

 聡華がそう言って珊瑚を硬い表情で見る。残っているのが良い話ではないためだ。

「わかりました。記憶構造体のカオス化の詳しい話ですよね」
「えぇ、まだその話は彼にしていないでしょう?」
「はい、まだです……」

 珊瑚が口ごもったような返事をすると、別府博士が二人を穏やかに見て話しかける。

「僕が彼に説明しよう。君達の口からは言い難いだろうからね」
「お願いします。何度もあの人には言おうと考えたんですけれど、どうしても言い出すきっかけがなくて」
「無理も無いよ。僕でさえ気が重いからね。僕が今までに機能停止させてしまって、結局救えなかった人工意識なんて山ほどあるのにね」

 博士は20歳でAI科学者、ロボット工学者として研究活動を始め、既に40年以上をAIとロボット開発に費やしてきた。長い研究の過程で、多くの人工知能の誕生と成長、そして多くは突然に起こる死を見てきた。
 博士たちが完成させたAIコンピュータ「ガラテア」によって、AI研究はブレークポイントを一気に越え、それまでに世界中で蓄えられた研究成果が一気に爆発したかの様な急速成長を遂げた。そして、それまでには気にされることの少なかった「AIの死」にも、否応なしに目を向けざるを得なくなってきたのだった。
 ガラテア2、世界で最初に自意識を持ち、自律活動が可能なロボットは、能力もさることながらAIユニットのフォールトトレランス性が極めて高く、製品として出荷したロボットでは自然故障、つまりバグや素子劣化によるAIユニットの停止を起こしたのは80万台のうちの数台に過ぎないという、冗談のような高い信頼性を備えていた。
 これは、最初のAIコンピュータであったガラテアが、その不安定さ故にしばしば稼動停止と初期化を繰り返したこと、平たく言えば時々死んでしまったことが理由の一つであった。ガラテアには単純ではあったものの自意識があったから、彼女を「死なせて」しまうたびに別府博士を始めとする研究者たちの受ける自責の念と悲しみは極めて大きかった。

 繰り返し起こる死に慣れてしまい『開発というのはそういうものだ、止むを得ない』と割り切る研究者と、割り切れない研究者に分かれるが、博士たちは殆どが『割り切れない』グループに属した。だからそれが『次世代のAIユニットには必ず高い信頼性を持たせなければならない』と博士たちに堅く誓わせたのだった。
 それでも開発中の不安定なAIは、頻繁に停止してはバックアップからの復活を繰り返さざるを得ず、それはガラテア3やガラテア4の開発でも同じだった。ガラテア4プロトタイプのAnna、すなわちナミがロールアウトしてから一年程度は、月に一度程度はAIユニットが不具合を起こして停止していたから、その頃のナミは何度もリカバリを受けている。そうしてAIユニットの熟成を進めた結果、開発末期には極めて高い安定性を確保していた。もう事故でもない限りはAIユニットが停止することなど起こらない、皆がそう考えた。それに、仮に停止したとしてもバックアップさえ確保しておけば最悪の事態は免れうる、そう皆が信じた。

 そして、それは間違っていたのだった。


 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆


 珊瑚が修善寺と那須を研究室に呼び戻し、全員が揃って着席したタイミングで芙蓉重工の社長である有馬博士が会議に加わり、別府博士の隣りに座る。修善寺は那須と話すうちにだいぶ落ち着いた様だったが、まだ目が充血して赤い。
 全員が揃ったことを確認し、別府博士が修善寺を見ながら話し始めた。

「修善寺くん、君にもう一つ説明して置かなければいけないことがある。さっき指宿君が言った『LTMのカオス化』の話なんだけれど、実はこれが最も問題として重要なんだ」
「まず、最初に現在の仮説について最初から説明しよう。いま、ナミくんに起こっているAIの異常は、LTMのサイズがある閾値を超えると、リンキングプロセスが想定外の挙動を示してリンク密度が異常に上昇し、LTMのサイズを肥大させることだ。そして、ここまでは検証済みで仮説に間違いはない」
「そして、リンク密度が上がりすぎたLTMは睡眠時の自動抽象化プロセスを阻害する。理由はあらゆる素記憶のリンク密度が上がってしまって、捨象可能な素記憶が減少しすぎるために、LTMのサイズ圧縮が進まなくなる。これがLTMの肥大化の主原因と考えていたんだ。でも今日の検査結果でその仮説に誤り、あるいは何らかの不足があることがはっきりした。一日分の記憶を抽象化を行わずに全て捨象するという乱暴な方法を使っても、メモリ消費率が想定の三倍以上あったからね」
「そしてもう一つ確認が済んでいない問題が『LTMのカオス化』なんだ」

 そこまで話してから、別府博士は修善寺だけでなく全員を見まわし、改めて話し始めた。

「今月初めにナミくんのLTMバックアップを取ったけれど、バックアップ中に解析エラーが頻発してまともにはリロードできない事は皆分かっているよね。単純にリンク密度が上がりすぎているだけならば、解析エラーまで生じる事は考えにくいんだ。僕の手元にも指宿君の研究室で鏡像コピーを部分解析した結果を送ってもらったんだけど、端的に言って行き過ぎたカオス化が生じていることがわかる」

 修善寺が質問する。

「博士、僕が翠先生にAIについて教わった時、ピグマリオンのAIデバイスの本質は『カオスと秩序のバランス』にあると教わりましたけれど、それが崩れてきているということでしょうか?」

 修善寺の言う『翠先生』とは、珊瑚の亡き母で別府博士の後輩に当たるAI研究者である。別府博士が修善寺を見てうなづく。

「そうだね。AIユニットは思考を主に司る人工大脳と、認識と運動を主に司る人工小脳がそれぞれ独立の自由度を持って動き、それがまた人工神経系と連携する。人工大脳や人工小脳内ではリンキングプロセスを始め、認識系プロセス群や思考系プロセス群、各種のスキーマプロセス群など様々なプロセスが、一部では階層構造、別の一部では並列ネットワーク構造をとって各個独立に動いているから、カオスそのものと言っていいくらいだ」
「そして、そんなカオスを制御して知能としての秩序を導くために、それらのプロセス群相互の自由度を相殺させるように動的調整を行うメタプロセス群が、全体的な秩序を導いている」
「ピグマリオンのAIにはノイマン型コンピュータの様なプログラムは存在しない。プログラムに当たる個別のプロセスコード群とLTM、すなわち記憶構造体は不可分で両者が渾然となったものがAI本体なんだ。だから特にガラテア4では『プログラム実行の様に制御する』とか『単純なコマンド制御』などと言う事が原理的に出来ない。そんな単純なやり方で制御できるのは人工神経系のレベルまで、というのは解っているよね?」

 修善寺が少し眉間にしわを寄せてうなずく。彼が考え込むときの癖だ。

「はい、そこら辺までは理解しています。正直なところ、どうやってそんなカオスを制御するのかという部分はお手上げですが」
「まぁ、君はメカトロ屋さんだから、それで別に不思議ではないよ。実際にAIを創っている我々だって、すべて理論を把握しているのではなくて、ある場合は現物合わせ的に調整したり、単純な仮定に基づいて作成したAIシミュレータの挙動から、逆に実用的知見を得ていたりすることも多いからね。現状ではロボティクスは骨の髄まで工学であって理論科学じゃないんだ……」

 そう言って、博士がニコッと照れたように笑う。つい本題と関係ない話に進んでしまったからだ。

「おっと、話がちょっとズレてしまったね。LTMのカオス化に話を戻すけれど、現状のナミくんのLTMは、バックアップデバイスの解析を受け付けない程度にまでカオス化が進んでいる。でも、AIユニットの機能に支障があるほどのカオス化は起こっていない、と言うより今生じているカオス化は、AIユニットには非常に整合していて、それがAI-PIの異常な上昇に現れているというのが、僕の考えなんだ」
「それから、睡眠時の自動抽象化プロセスについては、なんとか受け付けてはいるものの、実際に記憶容量の圧縮は出来ない状態であるということだね。そこまでは確認済みなんだが、自動抽象化プロセスがLTMのカオス化を進めている原因ではないかというのが指宿君の考えだね。僕もその可能性が高いと思っているんだよ」

 指宿が一息ついた博士をちらっと見て、話し始める。

「自動抽象化プロセスは、抽象化による記憶構造体の刈り込みと不要記憶の捨象とを併行して行ってるんだけれど、不要記憶の捨象は、単純にリンク密度が高すぎるために働いていないだけだと考えてるの。勿論モニタリングをして確認してみる必要があるんだけどね」
「それで、私が問題だと思ってるのは、サブプロセスの記憶の抽象化の方なの。これが予期しない動作をしているために、LTMのバックアップが取れないようなカオス化を招いているんだと思うのよ。ナミの睡眠時のモニタリングをしたいというのは、これをきっちり調べたいからなのよ。それと、抽象化サブプロセスは覚醒時にもある程度動いているのね。だから日次記憶消去をしてもLTM消費率があまり下がらなかったんだろうと睨んでるの。あとね、大事なことがあるの……」

 そう言って指宿は先を続けようとしたのだが、適当な言い方が浮かばないのか口ごもって続けられない。別府博士が指宿を抑え、彼女に代わって話し始める。

「やはり僕が話そう。今まで長々と話してきたのは、これから話す一言のための枕なんだ……」
「ナミくんの覚醒時と睡眠時のモニタリングを続けていくうちに、ナミくんのLTMはカオス化がどんどん進行する。そして、そのカオス化がある閾値を超えた時、ナミくんのAIユニットはメモリ容量を使いきらないうちに停止すると思われるんだ」

 修善寺が目を見開いて博士の顔を見ている。だが一言も口をきけない。博士が机に目を落として続ける。

「そして、AIユニットが停止した段階でのLTMのカオス化は極めて深く進行しているから、それを正常に復元してリロード出来る可能性は当面ない。それを可能にするためには、有馬くんの宿題を解かなければならないんだ」
 そう言って、別府博士は有馬社長の顔を見た。それはいつもののんびりとした表情ではなく、痛みを我慢する人のように見えた。

AIラボ 第一研究室にて(4)

2073年8月12日 東京特別市八王子区内 芙蓉重工AIラボ


「僕の宿題? それは何の事を指しているのだろうか? もしかしてLTMマージ問題のことを言っているのかな?」

 やや怪訝な表情で有馬社長が別府博士に反問すると、博士はうなづく。

「うん、そうなんだ。アレの解決にもう八年も費やして、まだほとんど目処が立たないだろう。LTMマージ問題に解決がつけば、恐らく今、ナミくんに起こっているLTMのカオス化も解決できるはずだよ。あの問題さえ解決出来れば『ゴルディアスの結び目』を解くことが出来るんだ」

 『LTMマージ』というのは、複数の記憶構造体の内容を足し合わせてまとめる操作のことを言う。これが出来るAIシステムでは、複数のプロトタイプや実験用AIの学習蓄積を取りまとめることが出来るので、開発期間を大幅に圧縮できる。実際にガラテア3ではこれが可能だったため、複数のプロトタイプを使用して順調に開発が進み、ガラテア4ではこれが不可能だったために、たった一人のプロトタイプだったナミが延々と実用化試験を受け続けることになったのだ。

 ガラテア4の開発当時、ピグマリオンの常務取締役だった有馬社長は、ガラテア4の開発期間見通しがあまりに楽観的で短すぎる事に警鐘を鳴らし、開発期間短縮の決め手であるLTMマージ技術の確立が先であると提言して、それ無しでの無理な開発スケジュールの見直しを主張していた。別府博士はその事を指して『有馬くんの宿題』と言ったのである。

「ナミを本当に救うためには、LTMマージ問題を解決しないといけないと言う事なんですね」

 呆然とした口調で修善寺が質問する。彼はAI研究者ではないが、それの研究にAI開発グループが随分力を入れ、にもかかわらず当時まるで歯が立たなかったことはよく覚えているのだ。LTMマージ問題を担当していたのは、社内の最精鋭研究者を揃えて別府博士直属だった第5ワークグループだったが、それでもさしたる結果を挙げることが出来なかった。

「うん、そうなんだ。ガラテア3では成功していたから、最初のうちは楽観的な見通しで研究を進めていたんだけれど、やればやるほど困難さが明らかになってね。その上、開発中のガラテア4の解決すべき課題は他にも色々あったから、結局後回しにされて、ナミくんが一人で全部の試験を抱え込まされて苦労する羽目になった。本当にあの子にはかわいそうなことをしたと思う」
「そして実用化試験が大詰めを迎えて、ガラテア4がほぼ完成した段階で、改めて研究は再スタートしたんだけれど、やっぱり解決の目処が付かなかったんだ。そうしているうちに、ピグマリオンは買収されて消え、研究者は散り散りになって、僕は軍用ロボット研究だけしかさせてもらえなくなってしまった。例えは悪いけれど、夏休みの宿題をまるまる残して、明日学校へ行かなければいけない生徒と同じなんだよ、僕らは」

 博士がそう言ってため息をついた。それをいつもどおりの真面目な表情で見て、有馬社長が別府博士に話しかける。

「記憶構造体のカオス化とLTMマージ問題か…… 言われてみれば、同根の問題だね。記憶構造体は一見カオスそのもので秩序は無い様に見えるけれども、秩序は確固として存在している。そしてカオスとしか見えない構造から秩序を切り出して意図的な操作をすることがLTMマージングの本質だし、異常なカオス化を生じたLTMを修正してあるべき秩序を取り戻すのも本質は一緒だからね」
「問題はそれをどの様に実現するかということなんだよ。全盛期のピグマリオンでさえ、成果を挙げられなかった問題だからね」

 眉根を寄せた苦渋の表情で別府博士が有馬社長に言う。めったに表情が顔に出ない博士にしては珍しいが、学生時代からの友人である有馬社長の前だからであろう。有馬社長も難しい顔で返事をする。

「何と言っても、ピグマリオンが買収されて、AI研究リソースと研究者がバラバラになってしまったのが厳しいところだね。和倉くん達の様な若手は僕がうちの会社にかき集めたけれど、ガラテア3、ガラテア4の開発を中心で担ったフェロークラスの研究員がバラバラに散ってしまったからね」

 そして、急に何かを思い出したのか、那須に向かって早口で質問する。

「そうだ、那須くん、他社や大学にいるピグマリオンOBへの連絡はどうなっている? 報告したまえ」

 表情を引き締めた那須が、歯切れよく返答する。

「大学等の公的研究機関所属のOB/OG達は、程度は色々ですが協力の意向を確認しました。特に産総研大は宮城工学部長が全面的に協力してくれます」

 指宿が口の端で笑って口嘴を挟む。

「宮城先生は最初面倒がってたんですけど、奥様に相談したらすぐに協力的になりましたよ」

 和倉が苦笑する。

「やっぱりサキちゃんの言いなりって言うのは本当だったんだなぁ」

 有馬社長が指宿と和倉を厳しい目で一瞥すると、二人は慌てて畏まる。

「理研大はどうなってる?」
「理研大はもちろん湯布院教授がガッチリ抑えてくれています」
「いつもながら隼人先輩にも苦労をかけてしまうな」

 隼人先輩とは、珊瑚の父、湯布院隼人教授の事だ。有馬社長と別府博士の先輩に当たる。

「那須くん、続けたまえ」
「はい。それから他社に勤務するOB/OG達ですが、こちらはさすがに無制限に協力するわけには行かないという方がほとんどです。やはり各社の守秘義務に縛られてますので」
「そうだろうね。当然の処置だ、しかし……」

 そう言った社長に、那須がふっと笑う。

「はい、企業対企業ですから取引は常に可能です。これを機会に技術提携をしたいと言って下さる所も何社かありましたしね」
「レイセオンではなかろうな? 今は無理だぞ、ウチはギブソンと組んでいるんだからな」
「いえ、ウチのOB達はギブソンでの軍事研究にウンザリして辞めた人ばかりですから、軍需企業に再就職した人はおりません。そちらに関しては、ここでは不適当ですから別の場所で御報告します。それで結論ですがアドバイス程度ならいつでも期待できますし、突っ込んだ内容であっても、研究業務としてなら受託するという会社がほとんどです」
「要は金次第ということだね。わかった。もう一つ、社内体制の確認をしたい。和倉主幹、報告したまえ」

「はい。社内でもLTMマージ問題はガラテア4のタスクフォース(TF-G4)によって、地道にですが研究は続いています。しかしながら、そちらに関しては知見に全く進歩がないのが現状です。それと、現状ではガラテア4の改良よりは次期モデルであるガラテア4NGの方に研究リソースが振り向けられているので、TF-G4の人員が不足しています」
「どの様に解決するつもりかね?」
「聡華…… もとい、和倉グループ長をTFのリーダーに据えようと思っています。彼女の配下社員も数名をTFに転属します。これは、所長とも相談してほぼ内部決定しています」
「選定理由は?」
「研究能力に関して社内最有力の一人であることと、理研大、産総研大との間に太い人的交流チャネルを持っています。また、ナミとそのオーナー家族である修善寺家とも旧知の仲ですから、最適任だと考えます」
「よかろう。それから、和倉グループ長の穴はどの様に埋めるのかね?」
「当面は私が兼務しますが、適任と思われる社員が二三おります。それに関しても所長と打ち合わせ中ですので、所長から報告が上がります」
「手抜かりはないようだな。ご苦労だった、君を筆頭主幹に抜擢して間違いなかった様だ」

 そう言って有馬社長が笑うと、和倉はほっとした顔を見せる。

「研究所長にもこれから話すが、君らのプランよりTF-G4は拡充することになろう。ガラテア4の販売数はたった二百をやや超える程度に過ぎないが、その顧客層はオピニオン層で社会的影響の大きい階層だ。だからそこでの失敗は世界におけるブランディングとマーケッティングに深刻に響くと、営業部から声が上がっている。会社としても至急の解決に向けて動くことになる。そこで一つ聞きたい」

 そう言って有馬社長は別府博士を見た。博士も社長をまっすぐに見る。

「解決までの見通しはどれくらいと考えられるのだろう?」

 はっきりとした口調で博士は答えた。

「社外の人間である僕がこれを言うのは何だけれど、原因の究明に一ヶ月、プロセスコード改変と試験に一ヶ月から二ヶ月だろうと思うよ。なるべく聡華さんにスタッフを増やしてあげてくれないかな。そうすればその分だけ対策は早く進むよ」
「僕の宿題はどうなる?」
「…… 答えられない。一言だけ言えるのは、研究予算次第で解決する様な問題ではないということだね。まだ、突破点が見つかっていないからね。それさえ見つかれば、後は物量で押せるんだが……」

 博士はそう言って、思いつめたような顔で有馬社長を見た。和倉も修善寺も、そんな博士を見るのは初めてだった。

「ありがとう、三郎。僕はこれで失礼するが、お前、今日は俺のところに泊まっていってくれ。隼人先輩も交えて話したいことも色々あるんだ」

 そう言って有馬社長が笑った。『秋霜烈日』が枕詞で、滅多なことでは笑顔を見せない社長の、久しぶりに見る優しげな笑顔だった。

AIラボ 第一研究室にて(5)

2073年8月12日 東京特別市八王子区内 芙蓉重工AIラボ


 有馬社長と別府博士は立ち上がり、互いの肩を抱いてパンパンと背中を叩き合う。そして多忙な有馬社長は那須と一緒に退室した。着席したままの和倉達に、博士が言葉をかける。

「もう対応の準備は随分整っているんだね。やはり、最悪の結果を見越していたのかい?」
「いえ、そういう訳ではないんですが、どうせ対応作業はしなければいけないわけですし、TF-G4の陣容が薄いのは前々から気になってましたから、この機会に充実させておこうと思ってました。でも、それで正解だったようです」

 和倉がそう答えるが、いつもの自信に満ちた明るさが薄れているように見える。

「聡華くんがこれから大変だね。作業の分担はどうするんだい?」
「TF-G4は指宿さんの研究室と共同でLTMの解析に集中します。幾つか糸口が見つかってますから、プロセスコードの方にも手を付けますよ」
「コードを大学の人間に触らせるのかい?」
「いえ、それは社内の守秘ポリシーに触れてしまいますので社内の人間でやります。聡華と僕が中心でやることになりますね」
「なるほどね。それで僕はどうしようか? これから一月は君たちを手伝えるけど」
「博士はナミのAIモニタリングをお願いできますか? 指宿さんと珊瑚さんも博士を手伝って欲しいんだけど」
「僕はそれで構わないよ」

 指宿も当然という顔でうなずく。

「私もそのつもりです」

 珊瑚が和倉の顔をうかがい、話し始める。

「一つお願いがあります。ナミちゃんのモニタリング作業を、ウチの店で行いたいんです」

 和倉が怪訝な顔で返答する。

「うーん、本当はこのラボ内でやりたいんだけどなぁ。それにそっちの店でモニタリングをしてたら、AIデバッガがふさがって店の仕事に差し支えるだろ? 大丈夫なのかな?」

 修善寺が答える。

「あぁ、AIデバッガなんてウチでは滅多に使わないから大丈夫ッスよ。このあいだワイヤレスの高速転送モデルに買い換えたんで、店内ならアンビリカル無しでモニタリング出来ますよ」
「そこらのディーラーより高い機械入れてるんだな、お前の店は」

 呆れ顔で和倉が言うと、珊瑚がクスッと笑う。

「那須次長に押し売りされたんですよ。話を戻しますけど、ナミちゃんをうちの店でモニタリングしたいと言うのは、あの子を私達家族から離れたところで寝起きさせたくないからなんです。あの子は自分のAIに異常が生じていることを知っています。そして…… これからあの子は余命告知を聞かされる立場です」

 指宿がぴくっと眉を上げて瑚を見ながら言う。

「待って、珊瑚さん。『余命』というのは適当じゃないわ。確かに10月中にディープ・ハイバネーションに入るのは避けられそうにないけれど、それはAIの死ではないわ。わかってるでしょ?」
「えぇ、わかってます。でも、ナミにとってはいつ覚めるかわからない眠りは、死と同じく恐ろしいんです。昨日、私は泣いて眠るのを怖がるあの子と一緒のベッドで寝ました。私にはあの子がどれくらい心に不安を抱えているかがよくわかります。あの子には私達家族が付いて支えてあげなくてはいけないんです」

 別府博士が和倉を穏やかに見て諭す。

「僕も珊瑚くんに賛成だよ。あの子はこれから、今まで生きてきた八年間で一番辛い時を迎える。その時になによりあの子の支えになるのはオーナーと家族なんだよ。人間にとって愛情が生きる糧であるように、あの子達にとっても家族の愛情は生きる糧なんだ」
「わかりました。それではモニタリングは空海の店でやることにしましょう。必要な機材があれば手配しますから遠慮せずに言って下さい」

 聡華が珊瑚に質問する。

「告知って言ったけど、ナミちゃんに全部知らせるの? それは子供に余命宣告するのと同じじゃないかしら。私は反対よ」
「正直に言えば、私も望ましくないと思っています。私はあの子にどんな風に伝えたらいいのか。考えただけで胸が潰れそうです」

 珊瑚はそう言って肘を付いた両手で額を覆い、深い溜息をつくと、修善寺がうつむいたままボソリとつぶやく。

「俺がナミに説明する。アイツに包み隠さず説明してやらなきゃいけないから」

 聡華が心配気な顔で修善寺に抗議する。

「あの子はまだまだ子供よ、重みを受け止めきれない可能性があるわ。今でも不安定さを抱えてるAIシステムに、余計に負担をかけることになるのよ」
「俺はAIの事はよくわからないけど、聡華さんが言っている事は理解できるよ。でも俺は言わなきゃいけない。ナミに…… 俺の娘に『何がお前に起こっているのか、これからどうなる可能性があるか』をね。それともう一つ、俺はナミにお願いをしなきゃいけない」

 指宿が不審げな顔で修善寺に尋ねる。

「お願い? 何をあの子にお願いするわけ?」

 修善寺はうつむいて顔を歪め、低い声でゆっくりと答えた。

「俺はナミに『お前の妹たちを救うために、研究に協力してくれ』とお願いしなきゃいけない」
「どうして? 研究は何よりあの子を救うためにやるのよ」
「そうだろうか? アイツはさっさとディープ・ハイバネーションに入って治療機会を待つことだって出来るだろう? レンズやプリズム、あるいはプシュケ達に異常が起こるのを待って、彼女たちを実験体として研究するという選択だって、技術的にはあり得るだろう?」
「そ、それはそうだけど、そんな事がしたいの? 修善寺くん」

 上ずった声で聞き返した指宿に、急に修善寺は立ち上がって机に両手を叩きつけ、深くうつむいたまま怒鳴る。

「そうしたいよ! そうすればナミのAIのカオス化はとりあえず止まって、いくらかでも状態はマシになるんだろう? でも…… でもな、ナミは必ず言うんだよ『ナミはお姉ちゃんだから、妹たちのために頑張るの』ってな。わかってるんだよ、そんな事。いっそアイツが嫌だと断ってくれさえすれば、俺は……」

 珊瑚が立ち上がり、修善寺の肩を抱き、耳元で一言二言ささやいて椅子に座らせると、聡華が修善寺に再度話しかける。

「私たちは、あの子にいつも『Annaはお姉ちゃんだから頑張ってね』って言い続けてきたものね…… 修善寺くん、もう一度聞かせて。あの子に全てを教えるのね?」
「ひとつだけ嘘をつく。『有馬社長の宿題』は少し時間をかければ解決すると言うつもりだよ」

 机を見つめたまま、ポツリとそう言った修善寺を別府博士が見つめる。

「それが嘘にならないように、僕らは誠心誠意努力しよう。かつてLTMマージ問題を手がけたチームは、今やバラバラに散ってしまった。でもね、今ここには隼人先輩や翠くんが手塩にかけて育ててくれた年少組が揃っている。そしてみんな気鋭の研究者として育ってくれた。だから、僕は決して未来を悲観しないよ」

 そう言って、博士は全員を促して立ち上がった。

「行こう。ナミくんを起こしてあげなきゃいけないからね」

AIラボ 第八実験室にて(覚醒処置)

2073年8月12日 東京特別市八王子区内 芙蓉重工AIラボ


「じゃ、日次記憶消去操作は無効化して、元の睡眠時実行コード群に切り替えるわ」

 ナミが眠っている第八実験室に入り、AIデバッガの操作に入った聡華に、指宿が注文を付ける。

「作動安定チェックが終わったら、日次記憶消去コード群は消去して。メモリをなるべく空けておかないと」
「わかったわ」

 聡華がしばらく操作を続け、不要コード群の消去まで終了すると、横たわったままのナミに覚醒コマンドを送る。ナミが閉じていた目を開き、首を巡らせて珊瑚達を見て微笑む。

「おはよう…… あ、もう夕方だね」
「ちょっと打ち合わせに時間がかかっちゃったので、起こすのが遅くなったの。ごめんね」

 そう言いながら、珊瑚がアンビリカルを外すとナミはベッドの上に体を起こした。

「ううん、いいの。ナミはまた今の時間がちゃんと分かるようになったよ。直してくれたんだね」
「えぇ…… それとね、今日からは眠っても記憶が消えちゃうことは無いわよ」

 そう言われたとたん、ナミの表情が一気に明るくなる。

「え? それじゃ、ナミはもう直ったんだね?」

 はしゃいだ声でそう言って珊瑚の顔を見たナミの目から輝きがすっと薄れ、表情が静かに凍っていく。珊瑚がちっとも笑っておらず、むしろ悲しそうに見えたからだ。不安の霧がゆっくりとナミの心へ昇り、やがて濃く立ち込めていく。

「ナミちゃん、あのね……」

 修善寺がそう言いかけた珊瑚を目顔で制して、片頬で悲しげに笑う。

「俺が話すよ。そういう約束だ」
「お願い……」

 かすれ声でそう一言つぶやき、珊瑚が目を伏せると修善寺がナミを見て話し始めた。

「ナミ、残念だがまだお前のAIユニットは治っていない。まだまだ調べなきゃいけないことが沢山あるんだ。毎晩お前の記憶を消してしまうと、上手く調べられない。だから、お前の記憶を消さないことにしたんだ」
「うん、わかった。ありがとう主任、ナミ、記憶が消えなくなってうれしい……」

 そう言ってナミが修善寺の顔を見る。強い不安を抱いたままに無理に笑顔を作っているせいで、表情がひどく不自然だ。

「それと、もう一つ大事なことを言わなきゃいけない。毎晩記憶を消さない場合、お前のメモリーデバイスは10月中に一杯になる。そうすると自動的にディープ・ハイバネーションに入るんだ。これは昨日珊瑚が話したんだが、お前は忘れてしまってるはずだ」

 修善寺がそう言ってナミを見ると、ナミが少し考えて思い出そうとし、そして諦める。

「うん、全然覚えてないよ。ディープ・ハイバネーションって何?」
「ロボットの冬眠だ。熊みたいにずーっと眠ることになる。冬眠は知っているよな?」
「うん。リスさんとか熊さんみたいに冬になると穴の中で寝て、春になると目が覚めるんだよね?」

 少し修善寺は口ごもり、そして返事をする。

「そうだ。普段の睡眠よりずっと長い眠りだけど、いつか必ず目が覚めるからな」
「10月までなんだね、ナミが毎朝起きられるのは」

 そう言って目を伏せたナミに、堪りかねたように珊瑚が膝に置いたナミの手を握って話しかける。

「ハイバネーションは暫くの間よ。必ず起こしてあげるから心配しないで。ハイバネーションの間はナミちゃんは眠っているんだから、目が覚めた時は昨日眠ったのか、もっと前から眠っていたのかすぐにはわからないはずよ」

 指宿がうつむいたナミの顔を屈んで見上げ、笑顔で話しかける。

「ここにいるみんな、そしてここにはいないけれど手伝ってくれる人たちが大勢いるのよ。心配しないでね。それに、10月までにナミが治る可能性だってあるんだから」
「うんわかった、ありがとう和泉さん」

「ナミ、最後にお前に説明する事とお願いが一つずつある」

 修善寺が再びナミに話しかけると、ナミは修善寺の顔を見つめる。

「なに? 主任」
「お前が今日からAIデバイスの調査研究に協力すると、お前の記憶は毎日どんどん絡み合ってしまって、それを解いて直すのに時間がその分余計に掛かる。最悪の場合、治し様がない場合もあるんだ」

 ナミが修善寺を見つめる目が少し見開かれ、視線が揺れる。

「ナミ、死んじゃうの?」

 小声でそう聞いたナミに、珊瑚が慌てて話に割り込む。

「そ、それは最悪の場合よ。そうならないように私たちがいるの。指宿さんが言ったでしょ、大勢の人たちがナミちゃんを助けるために手伝ってくれるって」

 そう言ってから、修善寺を振り返って殺さんばかりに睨みつける。しかし修善寺の表情に変化はない。少し悲しげで穏やかな目で珊瑚とナミを見ている。

「ナミ、お前は道を二つ選べるんだ。一つは珊瑚達の研究に協力する道、もう一つはこれからすぐにディープ・ハイバネーションに入って、お前のAIデバイスを治す方法が見つかるまで、このまま眠って待つ事だ」
「ナミのAIデバイスを調べなくてもいいの? 調べないと原因がわからないんでしょ?」
「調べるのはお前のAIデバイスじゃなくても良いんだ。今お前に起こっている異常は、お前の妹たちにも遅かれ早かれいずれは起きる。年齢から言って、次にレンズとプリズムに異常が起こるだろう。彼女達に協力してもらって研究することも出来るんだ」

 それを聞いたナミは再びうつむき、眼を閉じて考え始める。それを見る珊瑚達は気が気でない。あまりに重大な判断を強いられ、思考系プロセスが全力で稼働することがどんな悪影響を示すかが、現状ではよくわかっていないからだ。暫く黙考してからナミが質問する。

「主任、レンちゃんやプリちゃんが研究に協力すると、やっぱり死んじゃう場合があるの?」
「可能性はゼロではないよ。ナミくんもレンズ達もね。でも、それほど心配はしなくていいよ、原理的には解決可能な問題だからね」

 修善寺が言葉を出す間もなく、別府博士が答えた。すると、ナミは再び目を閉じて少し考え、ゆっくりと目を開いて微笑んだ。

「ナミは研究に協力するよ……」

 修善寺がナミに顔を近づけ、もう一度質問する。

「ナミ、別にお前がこれをやらなきゃいけないって事では無いんだぞ。お前はガラテア4のプロトタイプとしてこの世に生まれて、長い長い実用化試験を経験した。お前の妹たちが想像もできないような思いもしてきたんだ。いつまでもお前が苦労を抱え込なきゃいけないと言う事は無い」

 微笑んだままナミが修善寺を見上げ、落ち着いた声で返事をする。

「ナミはお姉ちゃんだもの。妹たちに危ないことをさせたくないの」

 修善寺はナミを見つめたまま彼女の頭に右手を置き、そっと下へずらしていって耳たぶと頬を優しく撫でる。

「わかった…… ありがとう、ナミ。本当にありがとう」

 そう言った修善寺を、ナミがじっと見つめる。

「主任、ナミからもお願いしても良い?」
「もちろんだ。何をして欲しいんだ?」
「妹たちを、レンちゃんやプリちゃん、プーちゃんやマニちゃん達の具合が悪くなった時には、必ず助けてあげて。そのためにはナミは何でもお手伝いするから。ナミは頑張るから」

 そう言ったナミの肩を珊瑚が優しく抱きすくめると、修善寺がはっきりと答える。

「確かに約束する。俺達は必ずレンズ達を救うよ」

 そして修善寺は窓のほうを向き、頭を垂れると瞑目してつぶやいた。

「父と子と精霊の名において誓います。私はこの子との約束を決して違えません。そして、必ずこの子を救うことを誓います」

小割烹『ぜんまい』にて

2073年8月12日 東京特別市府中区内 小割烹「ぜんまい」


「では、再会を祝して乾杯」

 和倉の音頭で別府博士を囲んだ祝宴が始まる。ナミが遅くまで起きていられないために、修善寺夫婦は参加していないが、和倉夫婦、那須と指宿、それに有馬社長夫妻と湯布院教授も顔を出している。

「明日からは早速修善寺の店に通うのか? 三郎」

 そう切り出した湯布院教授に、別府博士が当然という顔で答える。

「えぇ、今回は親の墓参りというよりは、そのために帰国しましたからね」
「それじゃ、お袋さんが寂しがるんじゃないのか?」
 博士の父は去年逝去しており、老齢の母親が広壮な屋敷でメイドのガラテア2と隠居生活をしている。
「あぁ、今回はレンズもプリズムも連れてきていますし、母も退屈しないでしょう」
「あの二人もナミに会いたがるんじゃないのか?」
「それはそうですが、毎日連れてくる訳にも行きませんしね。ナミくんのモニタリングに差し支えますから」
「僕も君のお母さんにはずいぶんご無沙汰しているから、今度顔を出すよ」

 そう言って有馬社長が話しに混じると、教授が反応する。

「お前は三郎のお袋さんに受けがいいもんなぁ」
「隼人さんは受けが悪いのにねぇ」

 そう言ってカラカラと笑う恰幅のいい婦人は有馬霧江、社長の夫人だ。有馬社長が返事をする。

「そりゃまぁ、隼人先輩は翠先生を三郎から攫っちゃったからね。僕に会うといつもその話が出るよ。『あの娘さんがお嫁に来てくれてれば、私も孫が抱けてたのにねぇ』って」
 湯布院教授が苦笑し、別府博士は弱り顔だ。指宿が興味をあらわに示して有馬社長に質問する。
「え? それって、博士や教授が若い頃のお話ですか? 翠先生って博士とお付き合いしてた時期があるんですか?」

 ニヤッと笑って、有馬社長が博士に聞く。

「うーん、どうだったんだ、君たち? 僕には付き合っていると言う様にまでは見えなかったんだけどな」

 困り顔もあらわに、博士が返答する。

「若い人達の前では勘弁して欲しいなぁ。僕は別に翠くんと付き合ってたわけじゃなくて、助手の僕が新人研究生の彼女を指導してたのを、母が勘違いしてただけなんだよ」
「でも、何でお母さんがそんな勘違いを?」

 そう聞いた指宿に博士が答えるが、まだ大して飲んでいないのに頬が赤い。

「いや、彼女の研究指導の一環で、僕の自宅にあったコンピュータを使ってシミュレーションをしたりしていたんで、時々うちに来てたんだよ。それで多分勘違いしたんだと思う」

 博士の実家は度外れた資産家だったから、当時値が下がり始めていたスーパーコンピュータを個人で購入していたのである。大学のそれは、いつも順番待ちでなかなか使えないのが腹立たしくて買い整えたものだった。

「それと、母は翠くんをとても気に入っていたからね。勘違いしたというよりは、息子の嫁に欲しいくらいの女性だったと言うことなんだと思うよ」

 湯布院教授も苦笑いを和らげて話しに加わる。

「三郎のお袋さんは、うちのヤツの七回忌にもわざわざ来て頂いたしな。入院中にも見舞いに来てくれた。本当に気に入られていたんだと思うよ」
「翠先生が亡くなって、今度の12月で8年になるんですね……」

 聡華がそう言って教授を見る。

「あぁ、早いもんだなぁ」
「珊瑚さんがお嫁に行ってから一人ぽっちになっちゃって、結構寂しいんじゃないの? 隼人さんは」

 そう言った霧江に教授が笑って答える。

「いやぁ、あいつらが結婚してからの方がよく会ってるよ。一時期はメッセージをいくら送っても返事もよこさなかったからなぁ、珊瑚は。今では行けば孫も抱かせてくれるしな」
「珊瑚さんもあなたと旦那さんにだけは厳しいみたいだものねぇ。隼人さんと翠さんのやりとりを思い出すわぁ」
「ちぇ、ヒデェな霧江さんは。俺は修善寺みたいに尻に敷かれてなかったぞ」

 そう言って苦笑した教授に、指宿が笑って話しかける。

「昔、初めて私たちが教授のお宅にお邪魔した時、修善寺くんが翠先生に叱られた教授を笑ってしまったじゃないですか。あれ、後から揉めて大変だったんですよ」
「あぁ、後で翠から聞いたよ。アイツがおかしそうにくすくす笑ってたなぁ」

 聡華が話しに加わる。

「そう言えば、今日は修善寺くんが、また誓いを立ててましたね」
「懐かしいな。あの頃はアイツも俺たちもティーンエイジャーだった頃だもんなぁ。今となってはちょっと気恥ずかしいやりとりだけど、当時は大真面目でやりあったんだよなぁ」

 そう言った那須に、指宿が返す。

「えぇ、むかし彼が立てた誓いは子供っぽくて、とても同意できないものだったけどね。今日彼がああして誓いを立てた理由はよくわかるし、私も気持ちは一緒」

 そう言った指宿を見て、聡華が返事する。

「私もよ」

 和倉もビールを飲み干して話に加わる。

「俺もだ。アイツ一人の誓いじゃない。俺たち全員の誓い、そしてナミとの約束だ」

 有馬社長が聡華に向かって質問する。

「そう言えば、修善寺くん達はラボから真っ直ぐ帰ったのか?」
「えぇ、ナミちゃんが遅くまで起きていられないし、藍ちゃんを迎えに行かないといけないからと言って」
「そうか、彼のところも君たちと一緒で小さな子どもがいるんだったね」
「はい、それに珊瑚さんは妊娠初期ですし、無理は禁物なんですが……」

 そう言って表情を曇らせた聡華に那須が渋面で話しかける。

「あの子は無理をするからなぁ。修善寺がいつもこぼしてるよ」
「一旦スイッチが入るとものすごいパワーで努力するのよね、珊瑚さん。今回は事情が事情だし、無理するなと言っても聞いてくれるかなぁ?」

 そう言った指宿に聡華が決然と答える。

「何をどうしてもブレーキを掛けなきゃダメよね。ナミちゃんはもちろん大事だけど、珊瑚さん自身とお腹の赤ちゃんだって大事よ。もしもの場合でも、ナミちゃんはハイバネーション状態で待っていてくれるけれど、赤ちゃんはそうは行かないわ」

 和倉が苦笑して聡華に視線を向ける。

「空海のヤツは、珊瑚ちゃんの尻に敷かれちゃってるから、何言っても聞いてもらえないかも知れないけど、多分お前の言うことなら聞くんじゃないかと思うんだよな。空海がいつか言ってたんだよ。『珊瑚のヤツは、俺の言うことは全然聞かないくせに、聡華さんが一言言うとそれは素直に聞くんですよ。俺も聡華さんも同じ事言ってるのにですよ。本当に頭に来ますよ!』ってな」
「珊瑚さん、基本的には本当に素直で良い娘なんだけれど、時々妙に頑固なところが出るのよねぇ」

 そう言った指宿に湯布院教授が言う。

「まぁ、アイツは翠に似たからなぁ。アピアランスも性格も」

 すると、和倉がいたずらっぽく笑って教授を茶化す。

「見た目については同意しますけど、性格の方は結構教授にも似てると思いますよ。翠先生は物言いがはっきりしてて結構仮借ない所はありましたけど、特に頑固じゃなかったですもんね」
「馬鹿野郎、俺だって頑固じゃないよ」

 そう言い返した教授を、別府博士や有馬社長夫妻がニヤニヤしながら眺めている。

「何だよお前ら、言いたいことがあれば言ってみろよ」

 そう言った教授に霧江が吹き出しそうな顔で答える。

「別にぃ、ちゃーんとわかってますよ。研究室に居るときの隼人さんが頑固じゃないくらいのことはねぇ」
「何だよ、それじゃ俺は研究室から出たら頑固なのかよ」
「研究者としての隼人先輩は、発想は柔軟だし先入観にとらわれないしで、到底頑固とは言いがたいんですけどねぇ……」

 そう言って別府博士が難しい顔をしている。

「何言ってんだ三郎。それじゃますます、俺が研究室以外では頑固みたいじゃねぇかよ」

 そう言ってくってかかる教授を有馬社長が宥める。

「まぁまぁ。別に頑固だからいけないという話ではないんですし、いいじゃないですか」
「格さん、それ全然フォローになってないぞ!」

 和倉を始め、若い者たちはくすくす笑いが抑えられなくなっている。

「だいたい頑固といったら、修善寺が一番頑固じゃないか……」

 反論できなくなって悔しかったのか、教授が弟子を引き合いにしてブツブツ言っている。那須が笑って返事をする。

「まぁ、空海も大概ですけどね。でも、アイツは結婚してからずいぶん人の話を聞く様になった気がしますよ」
「確かにそうなんだが、しかし今日のアイツには参ったな。いきなりナミに『お前は死ぬかも知れない』なんて話を切り出すとはなぁ」

 そう言って和倉が口をへの字にして首をひねると、那須がびっくりして聞き返す。

「あいつ、あれからそんな事言ってたんですか? 珊瑚さんにひっぱたかれたんじゃないですか?」
「珊瑚ちゃん、ものすごい顔で睨んでたからなぁ。俺達がいなかったらやってたかもなぁ」

 そう言った和倉に、指宿も額に手を当てて溜息をつく。

「最初は『一つだけは嘘を付く』って言ってたんですけどねぇ。あれじゃ、余命宣告に近いですよ。珊瑚さんや聡華が怒るのも無理ないです」

「ううん、私は修善寺くんには怒ってないの。あの瞬間の珊瑚さんは確かにすごい形相だったけど、多分今は修善寺くんに怒りを抱いていないと思う。私も珊瑚さんもナミちゃんが只々心配だったのよ、かなりの心理負荷がかかったはずだから」

 聡華が穏やかな口調で否定すると、指宿が意外そうな顔で聡華を見返す。

「私は修善寺くんに対してちょっと心穏やかじゃないのよね。どう考えてもあれは無茶だったわ。あの子にとって言わないほうが良い事をわざわざ言ってるんだもの」
「うん、それは私も同意するの。あれがナミちゃんのAIユニットにとって負荷がかかりすぎる事も、彼にはわかってるはずだしね。でも、何で彼がアレを言わなきゃいけないと思ったのかは、私にはわかるの」
「理由? どんな?」
「修善寺くんは、自分がどんな説明をしてもナミちゃんが研究に協力することはわかってたのよ。だから私たちは『結論は一緒なんだから、事実を伝えなくてもそれはあの子のため』と考えたけれど、彼は『真実を教えずに協力させることは、あの子に対する許されない欺瞞だ』と考えたんだと思うの。そして、彼はそんなことに耐えられなかったのよ」
「それじゃ、修善寺くんは『自分の良心の呵責を避けるためにナミを傷つける事』を選んだってわけ?」

 目を伏せて、聡華が答える。

「そういう言い方もできると思うわ。ただ、彼にはもう一つ願いがあったんだと思うの、叶わない願いがね」
「ナミが『私は協力しない』って言うことでしょう? 彼が机を叩いて怒鳴った時に言いかけてたものね」
「修善寺くんはずっと怒ってたのよ『何でナミばかりが我慢しなきゃならないのか?』って。それは、私たちがピグマリオンで実用化試験計画の大幅変更を求めてた時からね。仮にナミちゃんが『協力しない』って言ってたら、修善寺くんは一人であの子の前に立って私たちの前に立ち塞がったはずよ」
「そうだろうね。昔もナミを救おうとして、誰よりも自分の犠牲を厭わなかったのは修善寺くんだからね」
「私はナミちゃんが大好きだし、あの子に万一の事が起こるなんて考えたくないわ。でも、はっきり言うと私にとってはナミちゃんより珊瑚さんや修善寺くん達の方が大事なの……」

 聡華が指宿をまっすぐに見つめる。

「修善寺くんに、ナミちゃんをあえて騙す様に説得する事は出来たのかもしれない。でも彼はその分、自分の心を焼かれてずっと苦しむでしょ? ならああいう形もやむを得ないかとも思ったのよ。ナミちゃんにはかわいそうだったけれどね」
「私はアレに関しては修善寺君が我慢すべきだったと思うわ……」
「これから、修善寺くんも珊瑚さんもいくらでも我慢しなきゃいけない事が出てくる。その時常識外れな無理をしそうなのは珊瑚さんだけじゃなくて、むしろ修善寺くんよ。彼が自分で腕を折った話は知ってるでしょ?」
「知ってるわ。初めて珊瑚さんから聞いたときには冗談だと思ったけど、本当だったのよね、あの話」
「だから、私たちが気遣ってあげなきゃいけないのは珊瑚さんだけじゃないわ。修善寺くんもなのよ」

 そう言った聡華に、湯布院教授が笑いかける。

「アイツもずいぶん信用がねぇなぁ。まぁ、アレは常識外れのバカだからしょうがないがな。でも、そう心配するなって。アイツも珊瑚も人の親になったし、もう子供じゃないんだ。それにアイツはバカだが破滅型じゃないし、歳相応の知恵も付いてきてるよ」

 そして、二人を見てニヤリと笑う。

「大体俺に言わせりゃ、お前ら全員似た様な物で全員心配だ!」

 そう言って豪快に笑った教授に、聡華と指宿も顔を見合わせてから照れたような笑みを返した。

ロボットのお医者さん 店内処置室にて(その3)

2073年8月13日 東京特別市町田区内 『ロボットのお医者さん』処置室


 ナミが芙蓉重工のAIラボから戻った翌日、別府博士は予定通りに朝から『ロボットのお医者さん』に行った。今日はレンズとプリズムも一緒だが、検査に差し支えるという事で明日からは博士の自宅で博士の老母と一緒に留守番の予定だ。

「おはよう、修善寺くん。今日から暫くお邪魔するよ」

 玄関を入り、処置室で待っていた修善寺に博士がそう挨拶すると、修善寺も微笑して挨拶を返す。

「おはようございます。ナミをよろしくお願いします。今、アイツは珊瑚と奥の事務所にいますから」
「おはようございます、主任さん」
「今日は一日おじゃまします。よろしくお願いします」

 博士の後ろにいたレンズとプリズムが修善寺に挨拶する。以前は日本語を喋れなかった二人だが、最近ではほとんど完全な日本語も話すことができるようになった。言葉遣いはナミよりも丁寧なくらいで、あまり敬語を使わず誰にでも友達の様な口を聞くナミよりもお行儀が良い。

「お、ふたりとも遊びに来たのか。ナミは奥にいるからな」

 修善寺はそう言ってから博士に向き直って話し始める。

「AIデバッガはワイヤレスタイプですから、店内ならモニタリングは何の手間も必要ありません。もし外出する場合なんですが、今日の午後に陽ちゃんが外部メモリーパックをAIラボから持ってきてくれるということなので、それを使って下さい。その場合はリアルタイムにモニタリング出来ませんが、アイツをずっと店内に閉じ込めておくのもかわいそうなので」
「うん、わかってるよ。これからずっと店内に缶詰じゃ、ナミくんだけじゃなくて僕も退屈でうんざりしちゃうからね」

 そう言って博士が笑うと、レンズが不思議そうな顔で博士に質問する。

「モニタリングって何ですか? 博士。何を調べるの?」

 彼女たち二人はナミに起こった事を何も知らされていない。また、レンズ達やプシュケ達には詳しい話を一切教えないように、ナミ本人も含め、関係者一同で打ち合わせ済みである。

「あぁ、ガラテア5、つまり君たちの次の世代の妹たちを作るための調査なんだ」
「ふーん。でも、博士はまだ軍事ロボットの開発をしなければいけないんでしょ?」

 そう聞いたプリズムに博士が口の端でちょっと笑う。

「うん、もうちょっと我慢しないとね。でも、もうちょっとなんだ」

 博士はギブソンのアフォーダンス研究所での軍事研究には飽き飽きしていて、家でプリズム達によく愚痴をこぼしているので、事情は彼女たちも知っている。するとレンズが少し首をかしげて博士の顔を覗き込み、赤っぽい前髪が揺れる。

「じゃ、もう少ししたら博士も私たちも日本に帰れるんだね」
「そうだね。あと一年くらいかな」

 『帰る』とは言うものの、実際にはレンズもプリズムも日本で過ごした期間よりも、米国で過ごした期間のほうが遙かに長い。言葉も先に英語を覚え、ずっと後から日本語を覚えたのであるし、見た目はふたりともコーカソイド系の女性なのだ。それでも、彼女たちには自分らが日本生まれである事にこだわりがある。要するに博士が二人にしつこく教え込んだからなのだが、博士の母は『ロボットの祖国がどこかなんて、そんなのはどうでもいいことじゃないの』といつも笑っている。

 修善寺がレンズの左手首を暫く注視してから、博士に質問する。

「博士、レンズの手首関節、異音がしますよ。ちょっと見てみましょうか?」

 そう言ってポケットから聴診器を出した修善寺を、レンズがびっくりした顔で見ている。

「え? どうしてわかるんですか? 昨日転んでから、ちょっと痛みがありますけど……」

 そう言ったレンズの左手を、下から支えるように修善寺が軽く掴む。

「わかるさ、それが俺の商売なんだから。それにお前の手首、ちょっとじゃなくてかなり痛いんだろう?」

 ロボットの作動音に関して、修善寺は人間離れした地獄耳を持っている。また、ロボットの僅かな仕草を見るだけで動作異常の有無を見分けることが出来る。『自らの肉体・感覚器をを第一の測定器とせよ』と言うのは、彼の恩師である湯布院教授の言葉だが、彼は誰よりもそれを実践しているのだ。

 修善寺は聴診器を掛け、レンズの手首にチェストピースを当てる。

「ゆっくり動かしてみてくれ。痛かったら無理するなよ」
「はい」

 修善寺はしばらく関節の作動音を確認していたが、聴診器を外して博士を振り返る。

「切開して治療しましょうか? 恐らくピボットケーシングが歪んでフリクションライナーに傷が入ってます。このパーツはガラテア3と新型と互換ですから在庫がありますし、すぐ済みますよ」
「すまないね。お願いできるかな。そうだ、手当の間はプリズムが修善寺くんの手伝いをしてあげてくれるかな?」
「はい博士」

 そう答えたプリズムが修善寺の指示を聞いているのを確認し、アンビリカルを繋いだレンズに修善寺への操作特権移譲をすると、博士は事務室へ向かう。部屋のドアを開けて中にいる珊瑚に挨拶しようと思った一瞬、声が止まり珊瑚を見つめる。


 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆


 藍を抱いてあやしている珊瑚が博士に気付き、先に挨拶する。

「あ、おはようございます。今日からナミちゃんをよろしくお願いします」

 そう言われて、ふと我にかえった博士も挨拶する。

「あ…… あぁ、おはよう。こちらこそ頼みますよ」

 そう言った博士を、珊瑚が怪訝そうに見る。

「どうしたんですか? 博士」

 博士の目に柔らかい光が浮かぶ。

「うん、君が翠先生にそっくりだったんでね。昔、翠くんがまだ赤ちゃんだった君を抱っこしている姿を思い出したんだよ」

 珊瑚が困ったような笑みを浮かべる。

「父がいつもそう言うんですよね。私は母と自分を比べて見ることが出来ないから、そんなに似てるのかな? と思うんですけど」
「背の高いところは隼人先輩に似たけど、やっぱり全体的には母親似だよね、君は。それはそうと、ナミくんはどうしたんだい?」
「あぁ、今ミルクを温めてます。もうそろそろ戻って来ますよ」

 あまり人見知りしない藍に博士が手を差し出すと、藍は丸々した小さな手で博士の指を握り、ちょっと不思議そうな顔をしてニコニコしている。

「おはよう、藍くん。一年ぶりだね」

 そう言って博士が笑うと、ナミが哺乳瓶を持って事務所に入ってきた。

「あ、おはようございます博士。これから藍ちゃんにミルク飲ませてあげるから、ちょっと待ってて」

 ナミがいつもの大声ではなく、小さめの声でそう言って珊瑚から藍を受け取り抱き上げる。ナミはかつて藍を抱いたまま大声を出したせいで大泣きされたことがあり、それ以来は藍のそばで大声を出したことはない。
 その時の藍は珊瑚があやしてすぐ泣き止んだが、ナミは延々と泣いて謝り続け、それを宥める修善寺が大変だったのである。ロボットにとっては『人に危害を与えてしまう』というのは最大のタブーであり、ショッキングな出来事なのだが、相手が最も保護しなければならない赤ん坊だったので、ナミの受けたショックと罪悪感はひときわ大きかったのである。

 ナミが藍を抱いてミルクを飲ませている。最初の頃こそ修善寺も珊瑚もナミが手を滑らせるのではないかと、戦々恐々といった感じで見ていたのだが、実際には修善寺よりも安全なくらいなのですっかり任されている。藍も男親の修善寺に抱っこされるよりナミの方が快適らしく、修善寺に抱かれていてもナミが来るとそちらに行きたがることがあるくらいだ。

「ナミちゃん、藍にミルクを上げるのは私がやるわ。あなたはモニタリングを受けなきゃいけないから、博士と一緒に処置室に行っていいわよ」

 そう言った珊瑚に、眉尻を下げてナミが小声で答える。

「うん…… でももうちょっといい?」
「かまわないけど、本当にいいのよ。私は今日も大学に行かずにここで仕事だしね」
「ナミね、藍ちゃんをいっぱい抱っこして、いっぱいミルク飲ませてあげたいの。おむつも替えてあげたいの。今そうしないといけないから」
「……」

 珊瑚の言葉が止まり、ナミが藍に微笑みかけながら続ける。

「ナミがこうして藍ちゃんを抱っこできるのは、もうそれほど長くないでしょ? ナミが冬眠して目が覚めたら、藍ちゃんはもうおっきくなってるだろうから、今のうちにいっぱいお世話してあげるの」
「そう…… わかったわ、そしたら藍がミルクを飲んだら交代ね」
「うん、わかった」

 そして、珊瑚が藍にゲップをさせている間にナミと博士は処置室に戻り、修善寺たちの隣でモニタリングの準備を始める。

「あーレンちゃん、プリちゃん、博士と一緒に来てたんだね。久しぶりだね……」

 そこまで言ってから、目をつぶって手当を受けているレンズを見て少し驚いた風のナミが修善寺に質問する。

「あれ? どうしたの? レンちゃん怪我したの?」
「あぁ、大したことはない。あと15分で終わるよ」

 もう、皮膚切開を終了して複雑に入り組んだ人工筋肉群をほぼ外し終わった修善寺がぶっきらぼうに返事をする。ナミは助手の仕事をして長いので、いわば『ロボット版手術シーン』に慣れているからへっちゃらだが、プリズムはそうではないから、怖くて切開部分を正視できずに目を必死で逸らせている。

「プリズム、ジョイントアッシーを渡してくれ」
「い...いぇす、どくたー!」

 ストレスが強すぎたのか、なぜか言葉が英語に戻ってしまったプリズムが、レンズの手首を見ないようにしながらパーツを修善寺の伸ばした手に渡す。見かねたナミが修善寺に声をかける。

「主任、私が助手やるよ。プリちゃんは手術に慣れてないからかわいそうだよ。いいでしょ、博士?」
「うん、済まないねナミくん。プリズムは大丈夫かい?」
「あ、あいむおぅけぇい…… のぅ・ぷろぅぶれむ」
「大丈夫じゃないね……」

 クスッと笑った博士が、プリズムの頭を撫でる。

「ご苦労様、プリズム。向こうの部屋に珊瑚と藍がいるから、暫くそっちで休んでろ。すまんな、怖い思いさせて」

 修善寺にそう声をかけられ、博士に撫でてもらって少し落ち着いたプリズムが返事する。

「だ、大丈夫です。ごめんなさいナミちゃん、私の分の仕事をさせちゃって」
「あはは、いいのいいの。もともと主任のお手伝いはナミの仕事だからね」

 ナミはそう言いながらも途切れなく道具出しと保持固定作業を、修善寺の指示無しでしている。そして修善寺はあと15分と言ったが、実際には10分強で治療は終わった。博士が嘆息する。

「相変わらずの神業だね。ウチのラボならたっぷり2時間、手練を揃えている和倉くんのところでも一時間程度は掛かるはずなのに、君はたった30分ちょっとで終わらせるんだからねぇ。正直に言うと、君がピグマリオンに入ってきた当時、隼人先輩が君に入れ込んでる理由が暫くはよく分からなかったんだけど、先輩の目がどれほど確かだったかをつくづく思い知らされるよ」

 耳の後ろを指で掻きながら修善寺が苦笑する。

「いや、そりゃァ言い過ぎですよ。ウチみたいな独立系の修理屋は手が早くないと件数こなせなくてすぐ赤字ですから、スピードだけはラボの研究者に負けてられないってだけです。それに助手の手際が良いですから、その分助かってますよ」

 そう言ってナミの頭を撫でる。普段は叱られることも多くてあまり褒めてもらっていないナミが、不思議そうに修善寺を見つめて首をかしげる。

「ナミは役に立っているの? 先月も怒られたのに?」
「あぁ、とても役に立っているぞ。もうエキスパートだな」

 目を細めてそう言った修善寺を見て、ナミが嬉しそうに、本当に嬉しそうに笑った。

喫茶店「めいふぇあ」にて(その2)

2073年8月13日 東京特別市町田区内 喫茶店『めいふぇあ』店内


 レンズの処置を終えてから、ナミのモニタリングが開始されて、別府博士と珊瑚が解析に入った。ナミの方は普段通りに修善寺の助手をして午前中を過ごしたのだが、レンズとプリズムが治療を珍しがり、あれは何これは何と質問していた。

「ナミちゃん、それは何?」
「マイクロマニピュレーターだよ。いま主任が診てる子は、転んでナーブライン(人工神経)が切れちゃたから繋ぎ直すの」
「ナミちゃんがやるの?」
「ううん、細くて難しい部分だから主任がやるの。でも、簡単な接合ならナミも出来るんだよ」

 ナミがそう言って胸を張る。

「すごいねーナミちゃん」

 レンズがそう言って感心している。プシュケ達が『お姉ちゃん』と呼ばないと機嫌が悪いナミだが、この二人はかつて日本語が話せない時には"Nami"と呼んでいたから慣れてしまっていて『ナミちゃん』と呼ばれてもあまり文句を言わない。
 そうやっているうちに正午になり、昼食をとりに隣の喫茶店『めいふぇあ』に全員揃って出かけた。マスターがニヤリと笑って出迎えると、案の定レンズとプリズムは怖がっていた。しかし博士は初めてマスターに会う割には、平気な顔で会釈していた。

「ん、今日はずいぶん大勢だな。奥で妙と信、それに人相の悪い親父が例の面談してるから静かにな、ナミ」
「はぁい……」

 藍を抱いたナミが神妙な顔で返事をすると、奥から保護司の声が返ってくる。

「だーれが人相の悪い親父だってんだ! 失敬な。それと信くんの面談は終わったぞ」
「それじゃ、そちらで一緒に食事をしてもよろしいですか?」

 そう聞いた珊瑚に、保護司が答える。

「えぇ、もちろん。よろしいですよね? お母さん」

 そう聞いた保護司に妙が答える。

「ご一緒したいんですが、私はお店の準備があるのでこれで失礼します。信は午後から主任さんのお店でアルバイトだから、ここで食べていきなさい」

 そう言ってから、別府博士たちを見て挨拶する。

「あら、別府博士。お久しぶりです。ちょっと今日は慌ただしくてこれで失礼しますけれど、夜にでもお店に寄って行って下さいな」
「はい、これから暫くは修善寺くんの店に通うことになるので、そのうちお伺いしますよ」

 そう博士が答えると、妙は会釈して自分の店に帰って行った。修善寺達がそれぞれマスターに料理を注文すると、ウェイトレスのガラテア3がカウンタのキッチンに入って、料理を始める。寸胴鍋が並んでいるキッチンは、どう見ても喫茶店のそれではなくてラーメン屋である。注文も全部ラーメンだとかチャーハンだ。

「ロボット達はどうするんだ? 水か?」

 そう聞いたマスターに、ナミが答える。

「えーとね、超純水下さい。四人分」
「いつもすまねぇな。紅葉の分も出してくれんのか?」
「うん」

 紅葉というのはウェイトレスをしているガラテア3だ。元々は妙の店で働いていたのだが、AIハードウェアと人工神経系に異常があり片言しか話せない。そのため、店がスナックに変わったときにあまり喋らずに済む喫茶店のウェイトレスをすることになったのである。言葉は不自由だが思考能力には異常はなく、ウェイトレスの仕事は十分にこなせている。
 紅葉も躯体更新をすれば会話能力も復活するはずだったが、妙の店には紅葉より深刻なボディートラブルを持つ千陽がおり、そちらの更新が優先された。また『おとなしくていいじゃねぇか』という社長の意見もあったことからずっとそのままになっている。
 本当はAIに異常の生じたロボットは速やかに回収することが法の決まりなので隠さねばならず、客には『片言しか喋れない』のではなく『あまり喋らないように命令している』とマスターは言っている。変だなと思う客もいるのだが、マスターにそんな質問ができる肝の太い客は保護司ぐらいなものだ。もちろん保護司は知って知らないふりをしている。

「紅葉、おごりだってよ。飲むか?」

 そう聞いたマスターに、紅葉がこっくりうなずく。修善寺家ではほぼ人間並みに扱われているナミは、修善寺から毎月小遣いを貰っているが、紅葉は普通一般のロボットの例に漏れず、そんなものは貰っていないし欲しがりもしないので、こうして時々ナミがおごってやるのである。もっとも、その分は妙がナミに色々お返しをしてくれるし、むしろお返しのほうがずっと多いくらいなのだが。

「すまねぇな、ナミ。向こうの超純水サーバーから勝手に出して飲んでくれ」
「はーい」
「じゃ、藍はこっちに来ようね」

 珊瑚がそう言って藍をナミから抱き取って膝の上に座らせると、ナミが超純水を取りに行ってカウンター越しに紅葉に渡し、自分たちの分をテーブルに持ってきて自分は信の隣りに座る。

「今日も学校の話だったの?」
「うん、いつもの話」

 保護司をちらと見て聞いたナミに、信がぎこちなく笑って答える。いつでもにこやかで、表情に内心が表れることのめったに無い母親の妙とはまるで違い、信は内心を隠すのが下手な方だ。生前の彼の父を知るマスターは、そんな信を見るたびに言い様の無い懐かしさを覚える。

「今日はボクシングの話をまぁた蒸し返す奴がいてなぁ」

 マスターがそう言って保護司を見て鼻でフンと笑う。

「何だよ、それじゃ俺が無理強いしてるみたいじゃねぇかよ」

 そう言って保護司が不満気な返事を返すと、ナミが不安そうな声で保護司に質問する。

「ボクシングって、あのケンカみたいなのだよね? マスターと信くんが殴り合ってたのでしょ?」
「いやいや、ケンカとは違うよ。ボクシングにはルールがしっかり決まってて…… って、そうか、君はロボットなんだね。ロボットにはちょっと理解が難しいかなぁ?」

 そう言って保護司がちょっと顔をしかめて首をひねると、マスターが保護司に話しかける。

「まぁ、ロボットには難しいわなぁ。何しろ『暴力絶対反対』だしなぁ。大体、どう言い繕ってもボクシングってのは結局殴り合いだしな。俺がガキの頃はボクシングの試合で死ぬ奴もたまにはいたし、大昔のボクシングなんて素手で殴り合うから、半分殺し合いだったんだぜ」
「そりゃあ昔の話をすれば格闘技なんてみんなそうだよ。もともとはスポーツじゃねぇんだからよ。でも、今は立派なスポーツだぜ。もちろん危険がゼロってわけじゃねぇけどな。それから言っとくけど、ボクシングよりは柔道での重大事故のほうが昔からずっと多いんだぜ」

 突然に別府博士が話しに割り込んだ。

「本来なら、彼女たちガラテア4には格闘系のスポーツの存在価値を理解する能力があるんですよ。でも法律が枷になっていて、それが出来なくなっているんです」

 そういった博士を不審そうな目で見たマスターが質問する。

「あんた、初めて見る顔だけど、修善寺の知り合いか何かか?」

 マスターに不審そうに見られるというのは、普通の人にとっては一種の恐怖体験なのだが博士は平気な顔で返事をする。

「はい、昔の上司です。僕はピグマリオン・ラボラトリーズの社長でした。会社は随分前に潰してしまいましたが」
「おいおい、有名人じゃねぇか。じゃ、あんたがこいつらロボットの生みの親ってわけだな」
「生みの親の一人です。僕一人で作り上げたものではありませんからね。世界中で長年積み上げた研究の蓄積とスタッフたちに恵まれたおかげで、僕を中心としたチームがガラテアシリーズを作り上げられたんです。修善寺君たちも生みの親に入っていますよ」
「へぇ、随分と謙虚なんだな。人の噂じゃあんたは天才科学者で、あんたがいなかったら今の世の中にナミや紅葉みたいな人間くさいロボットはいなかったはずだって言うぜ」

 そういったマスターの言葉を、言下に博士は否定する。

「あぁ、それはその『人の噂』が間違ってます。僕は自分の能力を疑ったことはありませんが、それを自分だけしかもっていないと考えたことはありませんし、僕の会社のラボには僕よりすごいと思う部下は大勢いましたよ……」
「そしてそんな研究者が集う会社、ピグマリオン・ラボラトリーズを作り上げたことは、ガラテアシリーズを生み出したこと以上に僕にとって誇らしいことでした」

 そう言って穏やかに笑った博士の顔は誇らしいと言うよりは、どこか気が抜けて寂しげだった。博士がそれを失って早数年になる。初めのうちはまとまってギブソンに移ったピグマリオン出身の研究者たちも徐々に散って行き、いまのアフォーダンス研究所には、博士以外には軍事研究に新たな興味をもつことの出来た数名の研究者が残っているに過ぎないのだ。

喫茶店「めいふぇあ」にて(その3)

2073年8月13日 東京特別市町田区内 喫茶店『めいふぇあ』


「話を戻してしまいますけど、ナミ達に格闘技の存在価値が理解できるって言うのはどういう訳です?」

 そう聞いた修善寺に博士が答える。

「あぁ、格闘技の楽しみって言うのは『勝利の快感』というのが動機付けのひとつだけど、これ自体はガラテアシリーズだって持ち合わせているんだよ。それはわかってるよね?」
「えぇ、ナミもカードゲームではムキになりますしね」

 ガラテア4はカードゲーム、特にポーカーなどの駆け引きのあるゲームに強い。ガラテア4は人の表情を読む能力が非常に優れていて、鈍い人間 --たとえば別府博士-- よりも他人の表情をよく読めるくらいなので、なかなかブラフが効かないためだ。特に『ババ抜き』などでナミにババを引かせるのは至難の業だが、海千山千の妙が相手だとさすがのナミも表情がまるで読めない様だ。
 もっともガラテア4はロボットとしてはゲームには非常に弱い方に入る。単に人間に勝つだけの話なら、チェスや将棋なら50年前からコンピュータ/ロボットが完全に優位で、一時期流行った『人間対AI』の対決も行われなくなって久しい。早い話が、機械を相手に腕相撲をするのは馬鹿しかいない、ということだ。
 しかし、プレイの相手として楽しいのは断然ガラテア4で、これに比肩し得るAIは今のところ全く無く、ガラテア3でさえ大きく劣る。ピグマリオンがガラテアシリーズで目指した目標は『楽しいプレイを出来る能力』で『単にゲームに勝つ能力』ではないのである。

「格闘系スポーツもゲームの一種なわけだから、本来ならガラテア4にはそれの楽しさや勝利の喜びも理解できるけれど、スポーツの性質上から攻撃動作が不可欠なので、ロボットがそれを実行するわけには行かないですよね」

 そう言って珊瑚が話に混じると、博士がうなづく。

「そうだね。相手が人間なら直接三原則に触れるしね。それと、ガラテアには暴力行使に対する強い心理的抵抗感を埋め込んでいるんだけど、これは産業省からの強い指導があったからなんだ」
「いわゆる、アシモフの三原則よりも強い制限を掛けたかったんですよね、産業省としては」

 そう聞いた珊瑚に博士が答える。

「そうだね。彼らは『ロボットが全ての暴力や危害行為を拒否すること』を強く主張したんだ。それはもっともな事で開発者の僕達も同感だったしね」

 そう言ってから、一息ついて博士は続けた。

「ただ『何を以て暴力とするか』でかなり産業省との議論が続いたんだよ。僕たちはスポーツ化された格闘技はロボットにも楽しめるようにしてやりたかったんだけれど、産業省は絶対反対でね」
「立派な建前を作って、自分たちはそれの裏をかくって言うのが役人の流儀だしな」

 そう言ってマスターが口の端を曲げて皮肉に笑う。

「いやいや、産業省の担当官達は非常に誠実な人たちでしたよ。彼らもまた、ロボットの社会進出を強く望んでいた人達なんです。彼らが心配したのは暴力を部分的にでも容認するロボットが、開発者の意図しないような使われ方で人に危害を与えること。そして、そのせいでロボットに対する嫌悪感や反対運動が起こることだったんです」
「今でも、おかしな宗教に凝り固まった人達がロボットを殺したり、開発者を襲ったりしてますものね」

 そう言って珊瑚が溜息をつく。彼女の父も別府博士もギブソンの業務で渡米すると厳重な護衛が付く。どちらも高名なロボット開発者で、『ネオ・ラッダイト』と呼ばれる反AI・反科学主義テロリストの襲撃の危険があるためなのだ。

「うん。僕らも彼らの心配については理解できたんだけど、僕らの目標の一つは『人間とは何であるかをロボットの製作を通して考察すること』だったからね。当時ラボに在籍していた哲学者たちは全員が『AIに暴力を理解させるべきだ』で一致してたんだよ」
「そりゃ意外だな。哲学者なんて代物は、金切り声で『暴力反対』とか言うものだと思ってたぜ」

 マスターがそう言って混ぜっ返す。口調が博士への好感を感じさせる。どうやら博士が気に入ったようだ。

「いやいや、哲学者たちはとてもじゃないですがそんなおとなしい人達じゃないですよ。『マッドサイエンティスト』と言いたくなるような人は、工学者や理学者よりも哲学者の方がよっぽど多いと僕は思いますよ」

 そう言って博士が笑みを浮かべる。一回ラボの哲学者と口喧嘩してケチョンケチョンにやっつけられた修善寺も思わずうなづいている。

「哲学者たちの言い分も僕にはよく分かったんです。彼らこそ『人間とは何であるのか』と言う事を誰よりも知りたがった人達ですし、彼らが目的を果たすためにはガラテアは人間の欠点も含めて創られるべきでしたから」
「博士は板挟みだったんですね」

 そう珊瑚が言うと、博士が懐かしそうな笑いを浮かべる。

「えぇ、文字通り板挟みでした」

 そう言ってから、その笑いが翳って行く。

「でも、あの頃のピグマリオン、あの頃の僕たちは世界で一番幸せな研究者だったのでしょうね」


 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆


「で、結局は役人どもの意見が通ったってわけかい?」

 そう聞いたマスターに博士が答える。

「はい、実際の世の中にロボット達は出て行く訳ですし、そこで問題が起こる可能性はなるべく減らす必要がありました。有馬くん、当時の常務ですが、彼の決断で産業省の意向を入れて暴力一般への本能的な拒絶反応をガラテア4に組み込みました。だから、ナミくんはボクシングが怖いし、嫌いなんです」
「なんだか、そういう話を聞いちまうと、こいつらロボットがチョイとかわいそうな気になるな。あんたらと役人たちの思惑に振り回されて、何だかおもちゃみたいな扱われ方だぜ、考えようによっちゃぁよ」

 眉をひそめてそう言ったマスターに、博士が真面目な顔で答える。

「その言葉は、我々開発者にとって非常に重い指摘です。『人間とは何であるのか』と言えばなにやら高尚ですが、それはナミ君の様なロボットたちを実験動物の様に扱うことを自己辯解しているとも言えるのですからね」

 そう言って思いつめたような表情を浮かべる別府博士に、ナミが話しかける。

「博士、ナミは実験動物じゃないよ。ナミはラボの実験が辛くて嫌だったことはあるけど、それでもみんなナミには優しくしてくれたよ。主任がナミのオーナーになってお父さんになってくれてからも、珊ちゃんがお母さんになってくれてからも、ナミはいつでもみんなに優しくしてもらえて幸せだったよ」

 プリズムやレンズもまた、博士に訴える。

「私たちも自分たちをおもちゃと思ったことはないですよ、博士。アフォ研での実験は怖いし危ないから好きじゃないですけど、博士やラボの人達と一緒にいるときはとても楽しくて幸せなんですよ」

 そう言ったロボット達に、博士は眼を閉じて軽く笑みを浮かべた。

「ありがとう、ナミくん、そしてレンズとプリズム。僕らが君たちに優しい心を与えることに失敗しなかった事を、今ほど嬉しく思った事は無いよ」

ロボットのお医者さん 店内処置室にて(その4)

2073年8月13日 東京特別市町田区内 『ロボットのお医者さん』処置室


 めいふぇあでの食事の後、修善寺は処置室に戻って午後の仕事に入った。夏休み中の信も午後から店でアルバイトだ。作業服に着替えたナミとレンズ達は店の玄関周りの掃除を賑やかにやっている。その間も博士と珊瑚は事務所と掃除中の玄関を時折往復しながらナミのモニタリングを続けている。

「信、お前は本当にボクシングをやめちゃうのか?」

 先ほど交換したレンズの手首関節アッシーを細かく分解しながら修善寺が信に質問すると、信がわずかに表情を曇らせつつ返事をする。

「迷ってます…… 母さんは僕がやりたいならって言ってくれたけど、本心では望んでないと思うし……」

 今日の面談では信の才能を諦められない保護司が、母親の妙に対して信がボクシングを続ける事の意味をかなりしつこく説明した。その話が食事の前、そして後にも再び蒸し返されて保護司とマスターが賑やかにやりあったのであるが、コワモテのオッサン二人が大声で議論するのを見て、レンズとプリズムはいつ殴り合いが始まるのかと思い、怖くて震えていたのである。

「いや、妙さんは信がボクシングを続けることには賛成していると思うんだよ。でも、マスターが言うとおり、ボクシングの本質は殴り合いだから、それに心情的な抵抗があるって事なんだろうと思う。やっぱり女性だからね」
「母さんが嫌なんだったら、僕は……」

 そう言ってうつむいた信に、修善寺が優しく笑う。

「妙さんはお前が元気になってくれるのを一番に望んでるんだぜ。保護司さんが言ってたけど、お前がボクシング部なり総合格闘部なりに入って、そこで頑張ってみるのはすごく意味があることだと俺は思うんだけどな」
「そうですか?」
「あぁ。お前とマスターのスパーリング見たけど、凄くレベル高いと思うしな。俺の友達…… っていっても女性なんだけど、その友達も総合格闘技やっててさ。俺、以前に何回かその子の通ってる道場で練習とか試合してるの観たことあるんだけど、そこの道場のレベルとかと比べても明らかにお前は一ランク以上強いと思うぞ」
「自分では信じられないんですけどね。僕はマスターには全然かなわないから、自分を強いと思ったことはないですよ」
「そりゃあ相手が悪いよ。ミドル級の元学生アマ王者だろ? マスターって。それに、お前はどう見てもライト級かウェルター級なんだしさ」
「いや、ランクが軽いほうが動けなきゃいけないんですけど、マスターはあの体で僕と互角に動くんですよ」
「あの人が強すぎるんじゃないのか?」
「でも、もうすぐ五十になるんですよ、マスターって」
「鉄人だよなぁ」

 そう言って修善寺が笑うと、信もつられて口元を緩ませる。

「手加減してもらってるのに、ボディに一発貰っただけで動けなくなることもよくありましたしね。マスターは見た目はインファイターなのに、実際はアウトボクサーで、ガードは固いしリーチがある上にものすごくカウンターがうまいんですよね。何発貰ったかわかりませんよ」
「アマチュアの試合ってほとんどは判定で決まる筈なのに、マスターの戦績って殆どがKOかRSC(レフリー・ストップ)で勝ってるらしいしな。それも外国人相手の国際試合含めてだからなぁ。昔なら絶対プロボクサーだよなぁ」
「ボクシング部でのあだ名が『ターミネーター』だったって言ってました」

 そこまで話したところで、ナミ達が掃除を終えて店内に戻ってきた。

「主任、掃除は終わったよ。レンちゃん達が手伝ってくれたから、すぐ終わっちゃった」

 そう言ったナミ達を修善寺がねぎらう。

「みんなご苦労さん。今は客がいないし特に仕事もないから事務所で休んでていいぞ」
「うん、じゃあレンちゃん達は博士と一緒に事務所で休んでれば? ナミはここで信くんと一緒にお仕事するから」

 そう言われたレンズ達は、修善寺のいじっているパーツをちらっと気味悪そうに見てから、会釈してそそくさと事務所に行った。

「ナミ、このパーツの3Dスキャンを撮ってくれ。それと、スキャナの使い方を信に教えてやってくれ。ライニングには触らないようにな」

 そう言って、修善寺が歪んでしまったパーツを幾つかナミに渡す。修善寺は工業用の3Dスキャナを買ってからというもの、修理で出てきた変形パーツは全て3Dデーターを取っている。改良用の基礎データーとなるからなのだが、メーカー系のディーラーであっても手間を食うだけで儲けにつながらないから殆どやらないような作業である。そして修善寺はそのデータを事故解析データーも付けて、一円の対価も取らずに芙蓉重工のAIラボに送っている。

「はーい。それじゃ信くんこっちに来て。スキャンは向こうの機械でやるから」

 そう言ってナミが信を促してスキャン作業を始めた。作業をしながら話をしている。

「信くんはどうしてボクシングが好きなの?」

 そう聞いたナミに、信が少し考えてから答える。

「難しい質問だな。僕はマスターと練習だけをしてるだけで、ボクシングの試合はしたことがないんだ。だから、それほどボクシングを知っているわけじゃないんだよ」
「楽しくはないの?」
「マスターと練習している時は楽しいよ。でも、それはボクシングが楽しいのか、マスターと一緒に練習するのが楽しいのかは僕にはわからないんだよ」
「ナミはボクシングが怖いな。マスターにぶたれると痛いでしょ? 昔主任が……」

 そこまで言ったナミに、処置室の反対側から修善寺が慌てて口をはさむ。

「おいおい、アレは俺が悪かったんだからしょうがないんだよ。ボクシングとアレは関係ないからな」

 マスターがまだ現役のヤクザで、その下で勤め始めた修善寺がうっかり口答えして焼きを入れられたことがある。ナミはそれを目の前で見ていて、今でも忘れられずに時々その時の話をするのだが、修善寺にしてみれば体裁の悪い過去であるから信に知られたくないのだ。

「マスターはスパーでも手加減してくれてるからね。それでも結構効くんだけどさ……」

 そう言って信が微笑む。実際はマスターはそれほど手加減していない。それくらい信が上達したのだが、信はそれに気付いていないのだ。

「それに。僕だって打たれっ放しじゃなくて結構マスターに打ち込んでるしね。ほとんどブロックされたり、カウンター貰ったりするんだけどさ」

 照れくさそうな表情でそう言った信の顔をじっとナミが見つめ、ゆっくりと笑みを浮かべる。

「信くんはボクシングが好きなんだね。ナミはボクシングが怖いし何が面白いのかがわからないんだけど、信くんがボクシングがとても好きなのはわかるよ」

 信が少し不安気な表情を浮かべてナミに聞く。

「ナミちゃんはボクシングは嫌いだよね?」
「ううん…… ナミはボクシングが怖いの。人と人が殴り合うのを見ると、ナミは悲しくなって怖くなって…… 止めなきゃいけないって思うの。でも、今はボクシングが喧嘩じゃない事はナミにもわかるよ、そう教えてもらったから。でもやっぱり怖いな……」
「でもね、ナミはボクシングが嫌いなんじゃないの。ボクシングをする人も嫌いじゃないの。ナミはボクシングが好きなマスターが好きだし、ボクシングが好きな信くんも大好きなの」

 そう言ってから、ナミは修善寺に向かって声をかけた。

「主任、スキャンは終わったよ」
「あぁ、ご苦労。それじゃ測定したパーツはスパッタリング装置にかけといてくれ。後で電顕でライニングを表面検査する」
「うん、わかった。それから主任、信くんにナミのAIの事を教えてもいい?」

 そう言ったナミを、修善寺が片眉を上げて見つめる。

「…… そうだな、信は口が堅いから大丈夫だろう」
「ありがとう、主任」

 ナミはそう言って信の前に立ち、彼の顔を上目遣いに見上げる。

「あのね、信くん。ナミは今、AIの病気なの。ナミだけじゃなくて、レンちゃんやプリちゃんみたいな、ナミの妹たちも病気になるかも知れないの。今も博士と珊ちゃんがナミのAIを調べているところなの……」
「病気の直し方は、今大勢の人が調べてくれてるんだけど、間に合わないかも知れないの」
「間に合わないと…… どうなるの?」

 少し上ずった声でそう聞いた信にナミが答える。

「ナミのAIユニットは止まってしまって、ナミは冬眠するの。早ければ10月にはAIが止まるんだって」
 信の目が見開かれ表情が凍りつく。
「で、でも、大丈夫なんだよね? 直し方が見つかれば、ナミちゃんは冬眠から目が覚めるんだよね?」

 すると、ナミの代わりに修善寺が答える。

「あぁ、そうだ。多少時間がかかるかも知れないが、必ず方法を見付け出して叩き起こす」

 ナミが泣き笑いのような表情を浮かべて修善寺に答える。

「叩き起されるの? ナミは」
「あぁ、お前が俺を起こす時みたいにな」
「えー? ナミは叩き起さないよ」
「先月、寝てる俺の首筋に氷枕押し付けただろ!」
「あれは珊ちゃんがやっていいって言ったんだもん!」
「良いワケが無いだろ! それはそうと、ナミの事は他言無用にしてくれ、信」
「はいわかりました。でも、母さんやマスターにも内緒ですか?」
「あぁ頼む。それと今日来てるナミの妹たちには絶対に気付かれないようにしてくれ」
「レンちゃん達はまだ何も知らないの。ナミは妹たちにはなるべく心配させたくないの」

 そう言ったナミに信が落ち着いた声で返す。

「うんわかった、誰にも言わないよ。それからありがとうナミちゃん、僕に隠さないでいてくれて」
「ナミは信くんには知ってて欲しかったの」

 ナミがそう言って照れくさそうに笑った。

教会にて

2073年8月14日 東京特別市調布区内 花の聖母会堂


「じゃあ、ナミちゃんを預かるわよ。晩ご飯の時間までには帰るから」
「あぁ、頼むよ」
「お願いします、お母さん」

 昨晩、ナミが教会でお祈りがしたいと言い出したので、今日の朝に修善寺の母が迎えに来たのだが、藍を相手に半日潰して、昼になってから出かけることになったのだ。

「ごめんね主任、お仕事休んで」

 そう言ったナミの頭を修善寺が軽く撫でる。

「大丈夫だ。今日も珊瑚が家にいるし、信も手伝ってくれるからな。博士だっているんだし」

 そうしているうちにタクシーが来た。母親は店の玄関をくぐりながら修善寺に小言を言っている。

「空海、その汚ならしい無精髭は剃りなさい。客商売でしょ!」
「今日はちょっと伸びてるだけだろ! 大体、息子に汚らしいとか言うのかよ!」
「汚いものは汚いのよ。剃りなさい! 今すぐ剃りなさい!」
「うるせェな、わかったからさっさと行けよ」

 珊瑚が済まなそうに義理の母にあやまる。

「すいません、お母さん。私が責任持って何とかしますので」
「悪いわねぇ、珊瑚ちゃん。あなたがお嫁に来てくれてから、コレもずいぶんマシにはなったんだけどねぇ。言う事聞かなかったら多少殴っても構わないからきれいにさせてね」
「あはは、わかりました。お任せ下さい」

 そう苦笑しながら返事をした珊瑚を、ナミが心配そうに見ている。

「珊ちゃん、暴力は……」
「あはは、大丈夫よ。怪我しない程度にやるから」
「イイのよ、少しくらい怪我しても。男なんだから」

 母親がそう言ってカラカラと笑うと、修善寺がイライラして声を荒げる。

「さっさと行けよお袋っ! タクシーが待ってるんだぞ!」

 ナミと母親の二人が去った後、修善寺がほっとした顔で処置室に戻ろうとすると、珊瑚がよく通る声で呼ぶ。

「あ・な・た! どこ行くの? シャワールームはあっちよ」
「え? 本当にヒゲ剃らなきゃいけないのか?」
「えぇ、そうよ。お母さんが言ってたでしょ。今すぐ剃れって」
「別にイイじゃ……」
「良くないわね。五秒待つわ、それまでにシャワールームに行かなきゃ……」
「行くよっ! 行けばいいんだろ」

 そう言ってしかめっ面でシャワールームに向かった修善寺を見ながら信が必死で笑いを堪え、博士はニコニコ笑っていた。


 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆


 教会に着いたナミと母親は、早速聖堂に入った。ミサは午前中で終わっており、木造の小さな聖堂はガランとして人ひとり居ない様に見える。

「ナミちゃんはどうして急に教会に行きたくなったのかしらね?」

 そう聞いた母親に、ナミが答える。

「お友達だったロボットが死んでしまったから、天国に行けるようにってお祈りするの」
「ロボットだったら、死んだりしないでしょ?」
「ううん、そのお友達は型の古いロボットで、もう新しい体を作っていないからバックアップを入れられる体がもう無いんだって」
「そうなの。どうして死んじゃったの? その子は」
「消防士さんだったの。お仕事中に火に巻かれて死んじゃったんだって」
「そう…… 危険なお仕事だものね」

 そう言って、二人が一番前列の席に来ると、先客がひとりいた。

「こんにちわ、摩耶(まや)さん。今日は娘さんは一緒じゃないのね」

 そう言って挨拶したが、ナミには目もくれない。

「こんにちわ、玉川さん。摩那(まな)は大学に行ってる時間ですよ」

 ナミも挨拶する。

「こんにちは。今日も暑いですね」

 玉川と呼ばれた修善寺の母と同年代に見える夫人は、ナミを冷たく一瞥して返事する。

「えぇ、暑いですね」

 母親がナミの後ろ肩を軽く叩いて移動を促す。

「ナミちゃん、お邪魔にならないようにこっちの席に座ってお祈りしなさい」
「はぁい」

 明るく返事をして、ナミが少し離れた席に座ろうとすると、玉川が冷たい笑顔で母親に言葉をかける。

「摩耶さん、その子はロボットでしょう?」
「えぇ、見ての通りです」
「ロボットに魂が宿らないことはご存知ですよね」
「えぇ、主の被造物ではありませんからね」
「魂がない者が聖なる教会でお祈りの真似事をするのは、主への冒涜だと考えませんか?」

 嫌な笑顔でそう言った玉川の目を、あくまで穏やかに、けれど貫かんばかりの強い視線で修善寺の母が見据えて、短く、そして力強く答える。

「考えませんわね……」

 玉川の笑顔が歪み、嫌悪がありありと伺える視線をナミに向ける。と、聖堂の入口の方から声がかかった。

「こんにちは、玉川さんと修善寺さん。そこにいるのは摩那ちゃんかな?」
「あら神父様、本当にお久しぶり」

 先に気付いた修善寺の母がそう挨拶すると、玉川も追って挨拶した。

「お久しぶりです、司教様。珍しいですね、こちらの教会に来られるのは」
「えぇ、こちらの神父さんにちょっと用事があったものですから」

 神父はかつてこの教会で長く司祭をしていたが、今では横浜の司教となっているのだ。神父はナミを見てにっこりと笑う。

「あぁ、ロボットが一緒だったのですね。お名前は?」

 そう聞いた神父に、修善寺の母が答える。

「ナミと言います。息子の子供みたいなものです」
「あぁ、空海君の。彼は元気にしてますか?」
「えぇ、相変わらずだらしない生活をしてますが、嫁がしっかりした子で安心してます」
「懐かしいですねぇ。空海君が子供の頃には僕もずいぶんお説教をしたものですが、彼もここで結婚式を挙げて今ではお父さんですからねぇ」
「神父様の教えのおかげで、アレにも少しは信仰がわかってきたのかも知れませんわ。この子がロボットのお友達のためにお祈りしたいって言うんですから」
「ほぅ…… お友達のためにと言うと?」
「お友達の消防士さんが死んでしまったの。だから、天国に行けますようにって」

 そうナミが小声で返事をすると、神父は優しく微笑んだが玉川が不満も露な表情で抗議する。

「魂のないロボットのために、魂のないロボットが神様に祈るなんて…… これは涜神ではないでしょうか? 神父様」

 そう言った玉川を神父は澄んだ目で見て、そして柔らかく答える。

「結論から言うと、ロボットが教会でお祈りをしても、それは涜神ではありません。もちろんロボットは人ではなく、主の被造物でもありませんから秘跡は受けられませんし、魂の救済も約束できません。ですが……」

 神父はそう言ってから一息継いで、続きを話す。

「ロボットが主に祈る事を妨げる事は誰にも求められていないんですよ。それと、今のロボットに魂があるかどうかと言う事についても、神学者の間で議論があるんです」

「ロボットは人が作ったものじゃないですか。そんなモノに魂があるわけがないじゃないですか!」

 そう叫んだ玉川に、あくまで神父は穏やかに答える。

「えぇ、主流の考え方はそうなんです。ですが、別の考え方もあるので議論が続いています。例えば、今の野菜や穀物といった植物は人が何千年もかけて品種改良をした結果出来たもので、決して自然にはありえなかったものなんです。だから人が手を加えた分、そう言った作物は神から遠いと言っていいものなのでしょうか?」
「あるいは、玉川さんが飼っている犬ですが、あの子もやはり数千年間、いや、犬が家畜になって二万年以上経っていますから、それだけの間ずっと人の手で品種改良され続けた結果なんです。だから、今の犬たちは改良されてしまった分、神から遠いと言えるのでしょうか?」

 言い返す言葉が見つからず、黙ってしまった玉川に、些かも変らぬ穏やかさで神父が続ける。

「そういう議論が神学者達の間にあるんです。ロボットは人の為した結果としては究極の一つです。だから、それをどう考えれば良いのかは未だに一概に言えません。これに関しては意見の開きが大きすぎて当分まとまる見通しがないので、公会議も開けない状態なんですよ……」

 そして、神父は瞑目して言葉を続けた。

「ですが、結論はなくとも私たちに出来ることはあるのです」

 そう言った神父に、修善寺の母が答える。

「主に祈り、救済を求めることですよね?」
「そうです。それこそが私たちに出来る最も確かなことなんです。人の無知と無力を知り、我らの主の手に救いを委ねて祈ることこそ、私達の立ち返るべき基本、最も確かなことなんですよ……」

 そう言って、神父はナミを見た。

「ですからあなた、限られた知恵、限られた力、限られた時間しか持たぬロボットのあなた、私達の主に祈りなさい。お祈りの言葉は知っていますか?」

 ナミは恥ずかしそうに答えた。

「ごめんなさい。ナミは教会に初めて来たからお祈りの言葉を知らないの」
「では、私についてお祈りなさい」

 神父はそう言って、ゆっくりと主の祈りを唱え始めた。修善寺の母とナミがそれを追う様に祈り、玉川も少しためらいながら祈りを捧げた。


  天におられるわたしたちの父よ、
  御名が聖とされますように。
  御国が来ますように。
  御意が天に行われる通り、地にも行われますように。
  わたしたちの日毎の糧を今日も お与えください。
  わたしたちの罪をお赦しください。わたしたちも人を赦します。
  わたしたちを誘惑に陥らせず、悪からお救いください。

  アーメン

ロボットのお医者さん 店内応接室にて(2)

2073年8月14日 東京特別市町田区内 『ロボットのお医者さん』事務所応接室


「修善寺くん、ちょっといいかな?」

 別府博士がシャワールームから不機嫌な顔で出てきた修善寺を捕まえて尋ねる。

「? はい、今は客もいませんし大丈夫ですけど」
「じゃぁ、頼むよ。珊瑚くんも同席してもらうから」

 修善寺が少し眉を顰める。

「そうすると信が仲間外れみたいになっちゃいますね。アイツも一緒でいいですか?」
「いや、彼は一緒じゃないほうが良いね。なにか彼に仕事を与えておいてくれないかな」

 別府博士ははっきりと言った。こういう時には博士に従って間違いはないと修善寺は知っている。

「わかりました。アイツには測定器の校正でもやらせておきますよ」
「そうしてくれるとありがたいね。では、僕は応接で待ってるから」

 修善寺が信に指示を与えてから応接に入ると、珊瑚と博士が既に話を始めていた。

「私もその可能性が高いと思ってはいたんですが、やはりその線が一番当てはまりそうですね」

 そう博士に言った珊瑚に、修善寺が質問する。

「え? 可能性って? ナミのAI絡みの話か?」
「うーん、モニタリングは昨日始めたばかりだし、解析はこれからなんだけども、かなり気になることがあるのよ」

 そう言った珊瑚に続けて、博士が説明を始める。

「前回の定期検査は今年の一月だったね? ナミくんの誕生日の少し前。その時には特に異常は無かったよね。で、今回急に異常が発見されたんだ。つまり一月と八月の間に何らかの変化があったために、AIに異常を生じた可能性もある」

 修善寺が首をひねる。

「でも、今までの説明では記憶構造体サイズの増大が原因じゃないかと言うことでしたが……」
「それも大きな原因なんだけれど、それ以外にもトリガがあるはずなんだ。それで一つ考えられるのがナミくんの成長、はっきり言えば人間で言う『思春期』なんだ。彼女がそれを迎えたのが、恐らく去年末あたりなんだよ」

 珊瑚が修善寺を見て、少し困ったような顔で話す。

「ナミちゃんが信くんを、ただのお友達じゃなくて『男の子』として意識しているのはわかってる?」
「え? ナミが? そりゃないだろ。いや、そういう時期が来るのは知ってるよ。俺だって開発に参加してたんだから。でも、まだ……」

 珊瑚がため息を付く。

「ナミちゃんは次の誕生日で九歳になるのよ。そろそろそういう時期なの。私達がピグマリオンで例の反対運動をした時も、せめてこの時期までゆっくりとあの子を育ててあげて、それから最小限の性機能試験を受けるようにしたかったのよ」

 博士が表情を曇らせる。

「あの時には僕ら経営層が無理をしすぎていたからね。とにかく早くガラテア4を完成させて世に出し、会社を潰さないことが至上命題になってしまって、ナミくんの幸福については殆ど省みることがなかったからね」

 修善寺が耳の後ろを人差し指で掻きながら呟くように言う。

「うーん、あの時には博士には会社の社員や株主に対する責任があったんですし、それは今言っても仕方ないことですよ。逆に、俺達はナミを救ったかも知れませんが、そのためなら会社はどうなってもいいと言う様な無責任な行動でもあったんですから」

 珊瑚が修善寺をまっすぐ見て、それてしまった話を戻す。

「あなた、もう過ぎたことだし今はその話はやめましょう。それでナミちゃんの話だけど、あの子は男の子として信くんを見てるのよ。全然気付いてなかったの?」
「いや、理屈ではガラテア4に恋をする能力があるというのはわかってるんだけど、何となく実感がなくてなぁ。アイツはずっと俺と一緒に暮らしてたから、俺に惚れたらどうしようかと思った事はあるけど、結局そういう素振りは一切なかったから気にもしていなかったんだよなぁ」
「まぁ、あなたはそういう目ではあの子を見てなかったしね。それからあの子のマスターはあなたと私で、そのマスター同士が結婚してるんだから、そこにロボットが割りこめるわけがないでしょ」

 珊瑚が呆れてそう言うと、修善寺が体裁悪そうに言い返す。

「まぁ、そりゃそうなんだけどな。ロボットが不倫するわけには行かないもんな」
「うん、そう言うのはガラテア4には出来ないはずだよ。意識下層からの抑圧が掛かるはずだね。まぁラボの心理学者からは『今時フロイトは無いだろう』と嫌な顔をされたけど、AIの実装にはフロイト流の『イド』の考え方は結構便利だったんだよね」

 別府博士が初期設計当時の話をすると、珊瑚がうなづく。

「確かに結構古典的な心理モデルも含まれてますよね、ガラテア4のAIには」

 そう言ってから、修善寺に向かって元の話を続ける。

「それでナミちゃんが信くんを意識し出した時期なんだけど、多分あの事件の後に信くんが本当に落ち込んでた頃だと思うのよね」
「あぁ、あの時は見てるこっちが辛くなるほど信は凹んでたしなぁ。信は少年院には行かずに済んだけど、退学みたいな感じで転校させられたからなぁ」

 事情を知らない博士が珊瑚に質問する。

「あの事件というのは一体何かな? 少年院って、彼がなにか事件でも起こしたのかね? とてもそんな子には見えないけどね」
「信くんはとても優しくていい子ですよ。ただ、学校でいわゆる『いじめ』に遭っていたんですよ。そんな中で、お母さんの妙さんを侮辱されて殴り合いになったんです」
「殴り合いって言っても、実際には信が相手を一方的にぶちのめして病院送りにしちまったんですけどね。アイツはそれまでは喧嘩なんかにはまるで縁のない子でしたから、加減がわからずにやり過ぎたんだと思いますよ」

 修善寺が苦笑してそう言うと、博士が驚いた顔で珊瑚を見る。

「そんな事があったのかい。去年の末に妙さんのお店に顔を出した時には、そんな事はおくびにも出さなかったからねぇ」
「やはり愉快な話じゃありませんからね。そんな事があって信くんには同年代の友人がいま殆どいないんです。そういった事情があったので少しでも気が紛れる様にと、彼が休みの日にはウチで働いてもらう様になったんですよね……」
「それでナミちゃんが、信くんを元気づけようとして色々と話しかけていたのが去年の秋頃でした。多分きっかけはそこの辺りだろうと思います」
「たしかあの子と弟くんは、小さい頃からコンパニオンロボットと一緒に育っていて。ロボットへの親近感が普通の子に比べて非常に高いと言う様な事を妙さんに聞いているけれど、それも影響したのだろうかね?」
「はい、そうだろうと思います。多分、信くんもナミちゃんを人間の女の子のように思っていて、恐らく恋しているんだろうと……」

 珊瑚が表情を改めて博士に話す。

「あの頃、私達含めて周りの大人は全員とも信くんを腫れ物に触れるようにして扱ってきたんですが、彼はそれを却って負担に感じていたみたいだったんです。でも、ナミちゃんは信くんの起こした事件についてあまり知りませんから、元気が無い彼にいつものあの調子で色々と話しかけていたんですけど、それが信くんにとってはとても慰められる事だったのかも知れません」

 修善寺も冴えない顔で付け加える。

「俺も信にはずいぶん無神経な慰め方して、却ってアイツにかわいそうなことをしちゃってたんだよなぁ。『過ぎたことだし気にするな』とか言ってなぁ」

 珊瑚が笑って返す。

「そんな事言われたって出来る訳がないしね。でもあなたは仕事になると、そういう気遣いとか全部忘れちゃって普通に信くんをこき使ってたから、逆にそういう部分では信くんはずいぶん救われてるんじゃないかと思うわよ。『仕事は結構キツイですけど、こうしてお店で体を動かしてる時間が一番落ち着くような気がします』って言ってくれたしね、信くん」
「別にこき使ってないだろ。俺達がアイツくらいの歳の時、集中教育でしてきたこと考えたら……」

 そう言って口を尖らせた修善寺に、珊瑚が笑顔でピシャリと決めつける。

「アレがそもそも普通じゃないの! 私みたいな大卒組から見ると、ピグマリオンの年少組の鍛えられ方は並大抵じゃないもの。聡華さんと和泉さんの話を聞くとビックリすることだらけよ。良くもまぁあれだけうちの父さんと母さんに絞られてた中で、私の受験勉強を教えに通ってくれたと思うわ」
「俺は別にお前の家庭教師やるのはきつくなかったけどな。気分転換になって楽しかった面もあるし」
「あはは、そうだったの…… それで、話は戻るけど、ナミちゃんも信くんと親しく話す時間があれからどんどん増えたのよね。信くんの方は同年代の子からの疎外感を強く感じてる時期に、ナミちゃんがああして親しく話しかけて孤独感を埋めてくれたことに感謝するだけじゃなくて、別の感情を持ったのは間違いないわ」
「信がナミに惚れちゃったって事だよな」

 すこし照れた表情でそう言った修善寺に、珊瑚がうなづく。

「私達が初めて会った頃の信くんは千陽ちゃんにもすごく懐いてたじゃない。あの子のロボットに対する親近感は、私達と比べてさえずっと強いと思うのよね」

 博士が思案気な表情だ。

「ガラテア4を人間同様の存在として認めてくれる人がいるというのは、製作者の立場としては製作目標の一つを達成した訳だからこの上ない満足ではあるんだけれど、ちょっと複雑な気分だね。何と言ってもロボットと結婚する訳にはいかないからねぇ」

 修善寺が苦笑いを浮かべて手を振る。

「いやぁ、ガラテア3と結婚同然の人は今や珍しくないですからねぇ。うちの客にも捨てるほどいますよ」

 そう言ってから珊瑚を見て言う。

「それで、ナミの方でも信が気になりだしたって言うのは何時頃なんだ? 信が惚れるのと同時にか?」
「いや、ガラテア4のAI特性から言って、相手側の好意、性的興味を含めてだけど、それを確認できてから徐々に相手に対して好意を抱くようになってるから、同時ではありえないよ。いわゆる『エロス的愛情』に関しては、ガラテア4は常に受身で保守的なんだ。君にナミくんが『惚れなかった』というのは当然で、君が彼女をそういう目で見ていなかったからなんだよ」

 そう博士が修善寺に説明するのを受けて、珊瑚が補足する。

「平たく言うとナミちゃんは『自分を好きになってくれた人を好きになる』のよ。そして、ナミちゃんにとっては信くんの『男性としての好意』を観てとるのは難しくなかったと思うわ。傍で見ていた私にも一目瞭然だったしね。あなたが気付いていなかった事の方がビックリよ」
「結構そういう事には鈍い方だよね、修善寺君は」

 そう博士に言われて、修善寺は猛然と言い返したかったが漸くのことで我慢する。珊瑚がその表情を見て笑いを堪えているのだが、肝心の博士は気づいていない。

「ハイハイ鈍いですよ、俺は。それでさ、信に少し遅れてナミもアイツに惚れたって事でいいんだよな?」
「そうね、あの子の誕生日の頃にはもうそうなってたんだと思うわ。ただし、ナミちゃんにはまだ性的な関心があまり発現してないから、まだまだ子供の恋だけどね」
「一月末か。たしかそのちょっと前にLTMを含めた定期検査をしてるよな。その時にはまるで異常がなかったんだったな」
「そうよ。だから、タイミング的には相当怪しいのよ」
「昨日のモニタリングで、それを裏付けるようなデータは出てきたのか?」
「まさか、そんなに簡単には分からないわ。信くんが一緒の時と、そうじゃない時の比較をある程度続けないとね。実は専用のモニタリング・ツール製作の方も指宿さんに頼んであって、それが使えるようになるのが明日か明後日なのよ。それを使って一週間位で確認出来ればと思っているんだけどね」
「それがわかれば、ナミのAI異常の進行は止められるのか?」

 そう珊瑚に聞いた修善寺に、博士が代わりに答える。

「そうだね。他のトリガが無いことまで確認出来れば、プロセスコード群の本修正に入れるから、修正が済んでリロードまで行けばLTMサイズの異常増大とカオス化は止まるはずだよ。ただね……」
「ただ、何です?」

 思わず声を荒らげ、眉間にしわを寄せて博士を見た修善寺に、静かに博士が告げる。

「ナミくんのLTMはカオス化が著しく進行している以上、『有馬君の宿題』を解かない限りは先がないんだ。プロセスコードの修正で救われるのは、現状ではLTMに異常が出ていないレンズやプリズムの様な妹達だけなんだよ」

 修善寺がそう言った博士の顔を泣きそうな目で一瞬見つめ、目を伏せて言う。

「…… そうでしたね。芙蓉のAIラボでそう聞いたんでしたっけね」

 珊瑚が微かに笑い、かすれた声で優しく言葉をかける。

「順番にやらなきゃね。最初はAIの虫取りからよ。本命の宿題はそれから」

 博士もまた修善寺に話しかける。

「隼人先輩が、旧ピグマリオンの研究者に片っ端から声をかけてくれててね、理研大が中心になってLTMマージ問題を手がけることになりそうなんだ。僕はそれがすぐに解決するとは言わないよ。でも、解決を悲観する理由は何も無いんだ。僕が日本に居られるのはあと二週間ちょっとだけど、それまでにはプロセスコード群のフィックスは終わらせるつもりだよ。向こうに戻れば、僕はまた奴隷の身分だからあまりこちらに時間は取れないけれど、出来る限りの協力はするよ」

 そう言った博士の横顔はいつも通りに穏やかで、修善寺は不安が幾分ではあったが和らぐのを感じた。

自宅リビングにて(2)

2073年8月14日 東京特別市町田区内 修善寺宅


「お母さん、今日はナミちゃんを教会に連れてって頂いてありがとうございました」

 食事を配膳しながらそう言った珊瑚に、藍を抱いた修善寺の母が返事をする。

「良いのよ、大した手間じゃないんだし。ただ、今日はうるさいオバサンに絡まれちゃって災難だったわ。ファーザー・アンデルセンが居合せてくれて助かったけどね」
「へぇ、神父様が来てたんだ。今は横浜なんだろ?」

 そう言った修善寺に母親がニヤっと笑う。

「えぇ、司教様になられたからね。あなたのことも心配してたわよ」
「ガキの頃からさんざん説教食らったからなぁ」

 そう言ってしょっぱい顔をした修善寺に、ナミが心配そうに聞く。

「怒られたの? 神父さんはナミ達には優しかったよ」
「普段はああして優しい方なのよ。悪ガキには厳しいだけでね」
「主任は悪ガキなの?」
「そうよ、昔からね」

 言い返してやりたいのは山々だったが、旧悪をイヤというほどほじくり返してくるのは目に見えていたので、修善寺はぐっと我慢する。珊瑚がそれをヤレヤレという感じで横目に見て、義理の母に質問する。

「絡まれたって言いましたけど、一体?」
「あぁ、ロボットが教会に入ること自体が気に入らないって言う人がいるのよ。もっと言うと『ロボットの存在自体が神の栄光を汚す』位に考えてるみたいね。まーったくバカには付き合いきれないわ。クリスチャンホームに住んでいるロボットが教会に出入りできなくてどうすんのよねぇ?」

 ナミが眉尻を下げ、不安そうな表情を浮かべる。

「ナミは教会に行っちゃいけなかったの?」
「そんなわけ無いじゃない。神父様が『祈りなさい』って言ってたでしょ。ああいうアタマの悪いオバサンやオジサンは世の中にいくらでもいるんだから、気にしてちゃダメよ」

 カラカラと笑ってそう言った母親に抱かれていた藍が、ナミの方を見て『アミちゃ、アミちゃ』と騒いでいる。ナミの膝の上に行きたい様だ。

「あら、藍ちゃんはナミちゃんのとこに行きたいの?」
「ナミが藍ちゃんの面倒をみるよ。そうしないとおばあちゃんがごはん食べられないでしょ?」

 ナミがそう言って藍を抱きとり、自分の膝の上に座らせて藍の分が入ったお椀も受け取ると、藍は機嫌よく自分の分を食べ始める。さじを自分で使いたがるので、あっちにこぼし、こっちに垂らしで、それをナミがちょこちょこと拭きとっている。

「あ、そうだ、主任。おばあちゃんがナミにプレゼントをくれたんだよ」
「ん? 何貰ったんだ?」
「これだよ」

 ナミはそう言って首にかけていたネックレスを片手で外し、修善寺に見せる。ネックレスの先に小さな銀の十字架が付いている。

「ロザリオか?」

 そう聞いた修善寺に、母親がフンと鼻を鳴らす。

「よく見なさい。普通のネックレスよ。クロスはついてるけどね。それにロザリオは首にかけちゃいけないって教えたでしょうが、覚えてないの?」
「覚えてるよ。お祈りの方は忘れちゃったけどな」
「情けない脳みそねぇ」
「悪かったよ!」

 珊瑚が苦笑しながら口喧嘩に割って入る。

「お母さん、ありがとうございます。ナミちゃんもしっかりお礼言った?」
「うん」

 にっこり笑って返事をしたナミに、母親がにこやかに話しかける。

「洗礼を受けていないからロザリオの祈りを捧げてはいけないって訳じゃないけど、アレはとっても長いからね。それとねナミちゃん、お祈りに一番ふさわしい場所は教会の聖堂かも知れないけれど、そこでなければいけないということはないのよ。おうちでお祈りをしてもいいんだからね。主の祈りは覚えたでしょ?」
「えーとね、半分くらい……」

 きまり悪そうにナミが答えると、母親が修善寺に命令する。

「空海、あなたが教えてあげなさい。いくら何でも主の祈りとクレドくらいは覚えてるでしょ?」
「当たり前だよ、どれだけ俺のことをバカだと思ってるんだよ!」
「まぁまぁ、二人とも」

 珊瑚が再び割って入る。この親子は何かと口喧嘩が絶えないので、嫁がいつも板挟みで苦労するのだ。


 そんなこんなで口喧嘩を再三挟んだ挙句に賑やかな食事が終わり、藍を寝かしつけに行った珊瑚とナミがリビングに戻ってくると、母親が修善寺にひょんな質問をした。

「空海、あなたは自分の守護聖人が誰だか知ってるの?」
「ん? ロボット工学者の守護聖人は諸説紛々だからなぁ。俺は工学の守護聖人の聖カタリナ様が良いと思っているけど、計算機工学の守護聖人である聖イシドールスだと言う人もいるし、ハッカーの守護聖人だって言われてる聖エクスペダイトだって言う人もいるしなぁ。大体がロボット工学者を名指した守護聖人を決めてないじゃないか、教皇庁は」
「そもそも、それを気にするカトリックのロボット工学者が少ないですからね。私みたいに結婚を機に入信したのも居ますし。でも何で急に?」

 そう聞いた珊瑚に、義理の母親が答える。

「いえね、ペットにだって聖フランシスコがいて祝福を与えてくれるのに、ロボットに守護聖人が居ないのはおかしいんじゃないかってね。そう思ったのよ」

 ナミが首をかしげている。

「おばあちゃん、守護聖人って何?」
「天から私達を見守って、神様にとりなしをしてくれる方達よ。まだロボットの守護聖人は居ないみたいなんだけどね」
「ふうん……」

 少し残念そうな口ぶりでナミが返事をする。そろそろ眠くなってきてもいるようだ。

「ナミちゃん、眠いんでしょ? そろそろ寝ましょうか」
「うん。ナミは今日はひとりで眠るから大丈夫だよ」
「毎日一緒で良いのよ、藍はお父さんと一緒に寝ればいいんだから」
「ううん、ナミは大丈夫だから藍ちゃんと一緒に寝てあげて」
「そう、わかったわ。ありがとうね、ナミちゃん」
「じゃぁ、おやすみなさい」

 そう言ってナミが自分の寝室に引き上げると、母親が修善寺に聞く。

「ねぇ、ナミちゃんいつもとずいぶん調子が違うけど、何かあったの?」
「調子が違うって? そうかなぁ」

 そう言って修善寺がとぼけると、母親が眉間にしわを寄せて考えこむような表情を見せる。

「ずいぶん違う気がするわ。何というのかしらねぇ、今までのナミちゃんの反応って、犬っぽい感じだったのよ。とっても人懐こくって明るくって優しくて泣き虫で、すごく可愛かったのよ。でも、犬と一緒で『感情の深み』は感じなかったの……」
「もちろん『感情の深み』って言っても良い意味だけじゃないわよ。ひねくれた感情とか、表情と裏腹の悪意なんていう嫌な部分だって『感情の深み』だからね。もちろん今のナミちゃんにそんなモノがあるって言いたいわけじゃないのよ。でもねぇ……」
「今までのナミちゃんは性格のいいワンコと一緒で、ひたすら明るくて可愛いロボットだったんだけど、今日のナミちゃんはそうじゃないのよね。今のあの子は笑ったときにもどこか影があるのよ。今までなかったことだわ」

 そう言った母親の観察に内心舌を巻きながら、さらに修善寺がとぼけようとする。

「そんなにアイツの性格が悪くなったか? お袋の性格がナミにうつったんじゃないだろうなぁ」
「なにを隠そうとしているのか知らないけど、あんたのごまかしは私には通じないわよ。言いなさい、空海。ナミちゃんに何が起こってるの?」

 ズバリと決め付けられてごまかし様のなくなった修善寺に代わって、珊瑚が答える。

「あの子は大体12年から15年くらいかけて精神的な成長をして、いわゆる大人になる様に設計されてます。今は八歳と半年ですから、ちょうど思春期を迎えてるんです。その頃の子どもが急に大人びてきたり反抗期に入ったりするのと一緒で、ナミちゃんも成長する時期なんですよ。さすがに反抗期はありませんけどね」
「空海みたいに何時まで経っても反抗期なのもいるのにねぇ」

 そう言って母親が笑ってからふっとその笑いが消え、珊瑚を真剣な目で捉える。

「珊瑚さん、あなたの説明はもっともだとは思うんだけど、それだけでは空海がとぼける意味が説明できないわ。お願いだから本当のところを教えて頂けないかしら」

 修善寺と珊瑚は目を見合わせ、少し黙りこむ。そして修善寺が重い口ぶりで話し始めた。

「他言無用で頼むよ。それと、コレはナミ本人から口止めされてた事なんだ。アイツには知らないふりで通してくれよ」
「わかったわ、早く説明なさいな」

 修善寺と珊瑚は、ナミに起こったAIの異常、それの見通しについて母親に語った。


 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆


「何て事かしらね…… あの子はそんな事が自分に起こっているのに、ああして明るく振舞っていたなんてね。自分の命に危険が迫っているのに、死んでしまったお友達のために祈ろうとしてたのね」

 沈鬱な表情でかぶりを振る母親に、修善寺が念を押す。

「ナミはさ『おばあちゃんたちに心配させたくないから黙っててね』って俺達に言ったんだよ。アイツは今まで通りに明るく振舞って、いつ目覚めるかわからない眠りに付くその日まで、お袋たちと楽しく過ごしたいと思ってるんだ。だから気づかない振りをしてやってくれないか。アイツは人の表情を読むことにかけては、鈍い人間より目が利くから気をつけてくれよな」
「わかったわ。最初に約束したことだしね。必ず守るわよ」

 母親はそう言ってから窓越しに青黒く染まる夜空を見上げ、小声で聖句を呟いた。


  神の母聖マリア、罪深い私達のために、今も、死を迎える時も 祈って下さい……


 『アヴェ・マリア』の一節だった。

スナック『オートマータ』にて

2073年8月20日 東京特別市町田区内 スナック「オートマータ」


「別府博士、ナミちゃんのAIがカオス化しているって珊瑚さんに聞いたんですけれど、それでどうしてナミちゃんは普通に活動が出来ているんですか?」

 このところ、別府博士は三日と開けずに妙が経営するスナック『オートマータ』に通っているのだが、修善寺の店でのアルバイトが終わって一緒に店に行った信が、博士に真面目な顔でそう質問した。
 風邪気味だった妙は店を早仕舞いにして先に家に帰り、千陽だけ残ってキッチンの奥で洗い物をしている。他の客も全て帰り、それでそろそろ自分も…… と席を立とうとしていた博士を、どうしても聞きたい質問のあった信が押し留めたのだった。

「うん、カオス化と言う表現がちょっと分かりにくいのかも知れないね。ある意味ではナミくんのAIは順調に動いているとも言えるからね」

 真顔でそう言った博士に、信の目に一瞬光が過り、そして滲むように消えて行く。

「でも、ナミちゃんはこのままじゃAIが停止するって……」
「うん、このままのペースだと10月末にはハイバネーションするね。そういう意味では非常にまずい状況だよ」
「それで何で順調に動いているって言えるんでしょうか?」

 そう言って見つめる信に、博士が穏やかに答える。

「ナミくんのAIの能力自体は順調に成長しているからね。AI-PIって言う指標があるんだけど、その数字は順調すぎるくらいに上昇しているんだよ」
「カオス化しているのにですか?」
「うん、もともとガラテアシリーズのAIはカオスそのものでもあるからね。膨大な数のプロセスコード群が同時に相互に影響しながら動いているし、メモリ…… 記憶構造体とかLTMと呼んでいるけれど、これもまた膨大なリンクで絡みあっているからね」
「あの…… よくわからないです。じゃあ、ナミちゃんのAIは元々がカオスだってことですよね。それが、更にカオス化するというのは一体どういう事なんですか?」

 信は身近にロボットが大勢いた事や修善寺の店で働いている影響もあって、ロボット工学に関しては年齢の割には理解が深い方だと言って良いのだが、やはり素人である。そして大抵の専門家は多少解っている人間、つまり半可通との議論や説明を嫌うものだが、博士は嫌な顔ひとつせず丁寧に答える。

「そうだね、分かりにくいと思うよ。修善寺くんすら良くはわかっていないくらいだからね。大雑把な言い方で申し訳ないけれど、良いカオスと悪いカオスがあって、ナミくんに起こっているのは悪いカオス化なんだ。あるいはカオスと秩序のバランスが崩れてきていると言い換えた方が正確かもしれないね」
「悪いカオス化、ですか?」
「うん『AIはカオスである』と言っても、それは文字通りの意味での混沌じゃないんだよ。僕達の脳の中で起こっているのも、還元していけばシナプス間の信号伝達にまで行くわけだけれど、それを単純に眺めれば混沌そのものに見えるよね。でも、その混沌そのものに見えるものは、秩序そのものである『意識』を作り上げているんだ。そしてそれはガラテアシリーズのAIでも一緒なんだと考えると、多少は分かりやすいかも知れないね」
「すると、ナミちゃんが『悪いAIのカオス化』を起こしていると言うことは、人間で言うと精神病の状態なんですか? とても僕にはそう見えません」

 博士は軽くかぶりを振る。

「いや、さっき言った通り、彼女のAIはある意味では順調なんだ。あるいは順調すぎるのかも知れないね。どちらにせよ、ナミくんのAI挙動に実生活上の異常がないのは幸いだった。もしその手の異常が出ていたら、ナミくんは強制停止して、即刻ハイバネーションされてしまう所だったからね」

 本当はどんな些細なAI異常でもロボットを隔離し、危険性が認められれば強制ハイバネーションするのが法の定めだ。ナミの場合はメーカーと研究機関の元での実証研究という名目で、産業省に目こぼししてもらっているのである。博士は信を見ながら話を続ける。

「悪いカオス化、と言うのは、言い換えると『制御不能なカオス』ということなんだ。本来のガラテア4のLTMは主に夜眠っている間に、参照されることの少ない無駄な記憶やリンクを消してサイズ増大を抑えるんだけれど、そういう制御がきちんと働かない形になってしまっているのが一つ目の問題点。そして、バックアップが取れなくなっているのが二つ目の問題点だね」
「原因はわかってきているんでしょうか?」
「わかってきているよ」

 そう言った博士の顔を見る信の目に、僅かに生気がもどる。

「それじゃ、ナミちゃんはハイバネーションしないで済むんですよね?」

 やや、意気込んでそう聞いた信に、博士は穏やかに、だがはっきりと答える。

「わからないね。可能性としてはハイバネーションに入る可能性のほうが遥かに高いんだよ」
「で、でも原因はわかってきてるって……」
「うん。実は修善寺くんにも同じ話をしたんだよ。AI異常の原因がわかればプロセスコード群の改良を進めてそれを入れ替えればいいんだけれど、それで解決されるのは一つ目の問題だけなんだ……」
「そして、ナミくんのAIデバイスがハイバネーションに入る原因は、第一の問題、つまりLTMのサイズがオーバーフローする事ではないんだ。それは第二の問題『LTMの悪いカオス化』が限界を超えてしまって、AIデバイスハードウェアと不整合を起こしてしまう事なんだよ」
「その時は、ナミちゃんはどうなるんです? ナミちゃんは狂ってしまうんですか?」

 信はそう言ってすがるような目で博士を見る。

「いや、カオス化の限界を超えるタイミングは、睡眠中の自動抽象化プロセスが働いている間だと考えられるからね。彼女は眠りからそのままハイバネーションに入ることになると思う。ここ一週間のナミくんのAIプロセスモニタリングの結果から、それはもう結論済みなんだ」

 搾り出すような声で信が博士に質問する。

「何とか、何とかすることは出来ないんでしょうか? 僕に出来る事とかは無いんでしょうか?」

 博士はうつむいて考え深げな表情を浮かべた後、いつにない真剣な顔で信を見た。そして急に表情を緩めて優しく言った。

「君はナミくんが好きなんだよね?」

 急に意表を突かれた信がどぎまぎしながら答える。

「え? あ、あの…… はい、もちろんナミちゃんは好きですけど……」
「珊瑚くんに聞いてるよ。ただの友達としてではなく、もちろんロボットとしてではなく、一人の女の子としてナミくんが好きなんだよね、君は」
「…………」

 余りにあけすけな質問に、信はうつむいたまま返事ができない。耳たぶまで真っ赤になっているのが朴念仁の博士にすらわかる。

「ナミくんはコンパニオンロボットだけれど、僕たちにとっては娘に等しい存在なんだ。だから、あの子を好きになってくれた男の子がいるというのは、親としてとても嬉しいことなんだよ」

 うつむいたままの信に向け、博士が言葉を続ける。

「正直に言うと、あの子のハイバネーションは間違いなく十月中に起こり、それを避けることは出来ないと思う。でも、あの子を再び目覚めさせるための研究はもう始まっていて、その未来は決して暗いわけじゃないんだよ……」
「ただ、研究が実を結んでナミくんが目覚める日がいつ来るのか、それを予想できるほど簡単でもないんだ。かつて僕たちが一回挑んで退けられた研究だからね。その難しさは身に染みてわかっているのも事実だよ……」
「そして、その研究に君が参加できるかと言えば、それにはまだまだ時間が必要だろうと思う。逆に言うと君が一人前のロボット工学者、あるいはAI研究者になる前には研究を完成させて、ナミくんを目覚めさせてあげたいからね」

 うつむいたまま、消え入りそうな声で信が聞く。

「僕は…… ナミちゃんに何をしてあげられるんでしょうか?」
「そうだね。ナミくんは研究が難しいことは知っている。だから『自分が二度と目覚めないかも知れない』と言う不安を持っているのも間違いないんだ……」
「ナミくんは自分が周りの人を喜ばせることが出来る時が一番幸せで、自分が人を傷つけてしまった時が一番不幸せな気持ちになるんだよ。だからあの子は周りの人に心配させないようにいつも明るく振舞っているけれど、自分自身は不安を抱えているんだ。それは修善寺くんや珊瑚くんが誰よりも知っているんだけれど、僕は君にもナミくんの不安を理解してもらえると有難いと思う……」
「と言っても、あの子を言葉で慰めて欲しいというわけではないんだ。むしろ、普段通りにあの子に接してあげて欲しい。一生懸命明るく振舞うあの子に笑いかけてやって欲しいんだ。それは難しいこと、辛いことなのかも知れないけれどね」
「はい……」
「そうして、普段どおりの温かい日常が一日でも長く続くように、いずれくる長い眠りの日まで続くようにしてあげたいと、僕も修善寺くんたちも思っているんだ」
「はい……」

 博士から見通しをはっきりと聞かされた信は、もうほとんど喋ることが出来なかった。そして博士は最後に言った。

「珊瑚くんから聞いたことはもうひとつあるんだ。ナミくんも君が好きなんだよ。女の子としてね」

 そう言っていたずらっぽく笑った。

喫茶店「めいふぇあ」にて(その4)

2073年9月20日 東京特別市町田区内 喫茶店『めいふぇあ』


「信くん、今日も保護司さんとお話だったの?」

 『めいふぇあ』の奥の席に座って、いま面談を終わらせたばかりの信にナミが声をかけて隣りに座る。信が喫茶店に来ていることをマスターの奥さんから電話で教えてもらったのだ。当のマスターはその奥さんから風邪をもらって、今日は熱を出して寝込んでいて、マスターの奥さんは『鬼の霍乱よ』と笑っていた。

「うん、決まりだからね」

 信は少し憂いを帯びた笑顔でナミにそう返事をする。

「またボクシングの話をしたの?」

 保護司が苦笑して答える。

「いやいや、今日は学校の話だけさ。信くんの才能は惜しいけれど、無理強いするわけには行かないからね」
「すいません……」

 小声でそう言った信に、保護司が笑う。

「おいおい、君が謝ることはないよ。ちょっと僕もしつこかったからね。むしろ僕が反省しているんだよ」
「ボクシングはやめちゃうの?」

 きょとんとした顔で聞いたナミに、信が無表情にテーブルを眺めながら答える。

「うん、何だかんだ言っても母さんが心配するだろうし、ナミちゃんも嫌じゃない? 僕がボクシングしているのは」
「ナミは信くんがボクシングをするのは嫌じゃないよ」

 ナミは笑顔で信を見てそう言うと、信が意外そうな顔でナミに視線を向ける。

「でも、殴り合いだよ。ナミちゃんはボクシングか怖いって言ってたじゃない」
「うん、怖いよ。でも、信くんがボクシングのことを好きなのもナミにはわかるよ……」
「ボクシングのことをナミに話してくれる時の信くんの顔は、すごく楽しそうだよ。主任がロボットの直し方をナミに教えてくれる時も楽しそうだけど、信くんも同じくらい楽しそうにナミにボクシングのことを教えてくれるよ」

 そう言ったナミに、信は照れた様な、困ったような表情を浮かべて反問する。

「そうなのかな?」
「うん。楽しそうに見えるよ」

 保護司が少し驚いた顔でナミを見る。

「ほほぅ、ロボットの観察力も大したものだな。将来は刑事にだってなれるかも知れないな」
「ナミは信くんのことはいつも見てるもん。だからわかるの」

 そう言って得意そうにするナミに、ふと真顔に返った信がポツリと呟いた。

「僕は、ボクシングは好きなのかも知れないね。でも、続けるのは怖いんだよ」
「怖いの? マスターのパンチが痛いから?」

 そう言って首をかしげ、信の顔を覗き込んだナミに、信は薄く苦笑で答える。

「いや、そうじゃなくて…… 僕はボクシングというか、自分が怖くて嫌なんだ」

 信をちらりと見た保護司の目の奥で何かが蠢き、表情が硬いものに変わる。信はナミを見て話を続ける。

「ナミちゃん、もう君は誰かに聞いて知っているかもしれないけれど、僕は去年の秋に前の学校でケンカしたんだ。そして人殺しになりかけた。一人は殴り殺す一歩手前まで痛めつけて、二人目は僕から逃げようとして転んで血だらけになった。三人目には手を出さなかったけど、一歩間違えたら殺してしまっていたかも知れない……」

 そして信はナミの目を見つめながら言った。

「あの時僕は『こいつを殺してしまおう』って思った事をはっきり覚えてる。でも、その時に声が聞こえたんだよ『暴力はダメなの!』ってね。ナミちゃんの声だったよ……」

 真面目な、そして少し不思議そうな顔でナミが聞き返す。

「ナミの声が聞こえたの? ナミはそこにいなかったのに? 信くんが喧嘩をした話も今はじめて聞いたよ」
「ずいぶん前に、僕とマスターがスパーしている時にナミちゃんが勘違いして止めに入った時があったよね。その時の事を急に思い出したんだ。あの時、僕の耳元でナミちゃんが叫んで止めてくれた様に感じたんだよ……」
「だから、もし僕がナミちゃんと会っていなかったら、あの時ナミちゃんが勘違いしてくれてなかったら、僕は人殺しになっていたんだと思う……」
「そんな僕が、このままボクシングの練習を続けるのは人殺しの準備をしているみたいな気がするんだ」

 そう信が言った時、保護司がからかうような口調で言葉をかけた。

「信くん、人を殺すというのはなかなか大変な事なんだぜ。殺そうと思ったってヒトというのは意外としぶとくてね、そう簡単には死なない。それでいて、急所に一発入った途端にあっさりと死んでしまったりするんだ」

 信は怒ったような顔で保護司を見て言い返す。

「僕はあの時、はっきりした殺意を持ってました」
「喧嘩してたんだから当然だよ。頭に血が昇った人間の考えることはみんな一緒さ」

 そう笑って言った保護司に、なおも信は突っかかる様に言葉を返す。

「そうでしょうか? ただの喧嘩で、みんなが相手を殺そうとまで思うものでしょうか」
「思うさ。そして、やり過ぎる直前で我にかえったり、相手が伸びてしまってから我にかえったりする。そして、運が悪いと相手が死んでしまったりするんだ。いい大人の喧嘩でも死んだり大怪我したりするけど、大抵は偶然なんだよ」
「でも……」

 口ごもった信に、保護司は笑顔で、だが真剣な目で話し続ける。

「僕は警官だったし、ずっとマル暴としてヤクザを相手にしてきたからね。その手の話は慣れっこなんだよ。まぁ、場数が違うってことだね。それに僕だって『この野郎ブッ殺してやる』とばかりに暴れた事は何度もあったんだよ」

 信が驚いて聞き返す。

「え? 警官だったのに?」
「あぁ、そうだよ。警官としての仕事でね。『ガサ入れ』って言ってね、ヤクザの事務所に強制捜査に入ることがあるんだけど、相手はここの店のマスターみたいな荒くれ者ばっかりだから、生意気な態度のチンピラなんかは半殺しにするくらいの勢いでやらないと舐められてしまうんだ。傍から見れば、制服を着ていなかったら誰がヤクザで誰が警察だか分からないくらいの騒ぎになるんだよ……」
「僕が新人だった時に鍛えてくれた先輩が、ヤクザの闇取引の内偵中に撃たれて殉職してね。その後、その組 にガサ入れに入った時は、何か口実があれば皆殺しにしてやろうかってくらいの状態だったよ」
「その時はどうしたんですか?」
「僕に触った奴は例外無しに重傷を負って病院送りになったよ。受身を取れないようにぶん投げたからね。柔道じゃなくて古式柔術の技で」
「殺さなかったんですね」
「そりゃあね。でも、殺意がなかったわけじゃない。殺意はたっぷりあったよ、先輩を殺した奴らだからね。でも、その時の僕は自分の殺意までも含めて自分をコントロールできていたんだ。そしてね、それを出来るようにしてくれるのが訓練であり、場数なんだよ」

 そう言って保護司は信の目を見つめて言った。

「信くん。自分を人殺しの様に思うのはやめなさい。それは間違っていて、なおかつ有害な考え方だ。あの時君にナミちゃんの声が聞こえたというなら、それは君が自分で思いとどまったんだ……」
「去年の喧嘩で君はやり過ぎた。それは間違いない。やり過ぎてしまった理由は単純なんだ。あれが君にとって初めての喧嘩らしい喧嘩で、まるっきり場数が足りていなかった、そういう事なんだよ。君が殺意を抱いたのどうのというのは全然関係がないんだ」
「場数ですか? でも、僕はマスターとはずいぶんスパーもマスボクシングもやってますよ」
「それは場数に入らないよ。じゃ聞くけど、君はあのマスターを本気でマットに這わせようとして打ち合ったことがあるかい?」

 明らかに戸惑った顔で信は返事をした。

「いえ、ありません。考えたこともないです」
「そうだろうね。自分の師匠なんだからね。でも、それじゃ怒りや憎悪のコントロール、恐怖のコントロール、究極の攻撃性である『殺意』のコントロールは出来るようにならないよ。練習はあくまで練習さ、戦いじゃない。真剣な戦いだけがそれを効果的に教えてくれるんだよ……」
「僕がしつこく君にボクシングを勧めたのは試合が出来るからなんだ。試合は敵を叩き伏せる快感とマットを舐めさせられる屈辱を教えてくれる。そして自分を制御出来ないボクサーは勝てないからね、勝ちたいと思うボクサーはセルフコントロールを学ぶしかないのさ」

 そう言ってから保護司はナミを見て言った。

「君は信くんがボクシングが好きなのがわかると言ったね?」
「うん、わかるよ」
「彼がボクシングをするのも嫌じゃないって言っていたね」
「うん、嫌じゃないよ」
「もし、彼がボクシングの試合をする時には応援してくれるかな?」

 それまでにこやかだったナミは、表情を曇らせて返事をする。

「うーん、ナミはボクシングを見るのは怖いな。殴り合いを見るのも嫌だな。でも……」
「でも?」
「ナミは信くんを応援するよ。試合を見るのは怖いから無理だけど、信くんが勝てる様に神様にお祈りするよ」

 信がナミを気弱げにちらりと視線を向け、そして聞く。

「でも、ナミちゃんはボクシングが怖いんだよね? それなのにどうして僕を応援してくれるのかな」

 ナミが信を見つめて返事をする。

「珊ちゃんが教えてくれたの。ナミがボクシングを怖がるのは、蛇が嫌いな人が蛇を怖がるのと一緒で、本能として埋め込まれてるから変えようがないんだって。でも、蛇が嫌いな人が蛇をペットにしている人を嫌いになるわけじゃないでしょ? それと同じで、ナミもボクシングが好きな人を嫌いになるわけじゃないんだって……」
「だからナミは信くんを絶対に嫌いにならないの。ナミは信くんが大好きだよ」

 そう言って微笑を浮かべたナミを、信は眩しげに一瞬見つめ、そして目を伏せて照れくさそうに笑い、ふと思う。『僕が慰めてもらってちゃ、いけないのにな』と。

 マスターの奥さんが保護司にさらりと目配せしている。気を利かせろと言う事なのだろう。

ナミの寝室にて

2073年10月10日 東京特別市町田区内 修善寺宅


 先月初めに別府博士が米国に帰った後も、珊瑚は大学の同僚、そして協力を申し出てくれた大勢の旧ピグマリオンの研究者達のサポートを受けてナミのAIモニタリングを続け、手がかりを探り続けた。別府博士が在日中に仮説を立てて検証したのは、AIの異常がメモリサイズの増大とナミの思春期の到来の双方が揃った条件で発現することだったが、これは博士の離日までにほぼ確認がとれた。
 そして、異常の原因となっているプロセスコード群の絞り込みが珊瑚達が解明すべき次の課題となった。LTM解析を進めている指宿のチームと連携をとりつつ絞り込みを進めた結果、最初に疑われた性機能・性衝動に関わるプロセスコード自体が原因ではなく、それの発現のタイミングを制御するメタプロセス群に相互干渉問題があることがわかった。
 メタプロセス群の機能の一つは、独立して動く膨大なプロセスコード群の自由度を適宜束縛して、バタフライ効果に代表される予測不能なプロセスの進行を制限すること(ケイオス・インヒビション)である。その機能はまだ生まれて二三年のナミのAIユニットで検証され、その時にはこれという不具合は検出されなかった。
 しかしそれは、ナミのAIユニットの使用メモリサイズがまだ小さく、リンク密度もそれほど高くなかったためであり、それが実際に働く時期のメモリ状態・プロセス稼動状態に対応出来ていなかったことが原因だった。初期のクリーンなLTMの状態では活性度が低かった自動抽象化整理プロセス群の一部プロセスを、メモリサイズの増大にあわせてメタプロセス群が活性度を上げていったのだが、その時期は性機能関連プロセス群の活性化イニシエーション時期にも当たっていた。その結果、三群のプロセスコード間で制御されない相互干渉が起こり、LTMはカオス化を始めたのだった。
 芙蓉重工AI研の和倉チームによるモニタリングデータ解析により、ナミの睡眠時間は毎日少しづつ長くなっていたにもかかわらず、睡眠中のメモリ圧縮はもはやほとんど生じていないこと、そしてむしろLTMのカオス化を助長しているだけであることもわかった。そのため、睡眠中の自動抽象化プロセスの活性度を最低に設定し直すことによって、ナミの睡眠時間だけはほぼ正常なものに戻り、LTMのカオス化速度も僅かにだが抑えられた。そして、その副次的効果としてディープ・ハイバネーションまでの時間もかなり正確に見積り可能となった。
 LTMのカオス化は初期の緩やかな上昇から転じて、最後の段階で指数関数的に上昇する。そして「ブレークポイント」を超え、LTMはアクセス不能に陥る。
 そのX-Dayは10月10日から11日と見積もられた。そして、それまでの時間では根本的解決方法であるLTMマージ問題はおろか、ナミにとっては一時的な時間稼ぎに過ぎないプロセスコード群の修正と検証すらも間に合う可能性はほとんど無かった。
 珊瑚はX-Dayについては修善寺に話をしなかった。後で喧嘩になるのは分かりきっていたが、隠し事の苦手な連れ合いの性分はよく飲み込めていたし、下手をすればナミに馬鹿正直に話してしまう可能性も考えられたからだった。

 緩やかに、しかし一時として押しとどめられない時の流れは全てを、つまらない日常もかけがえのない一瞬もあまねく押し流していく。そして…… その日は来た。


 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆


Alart! Alart! Alart! Serious memory-unit malfunction occured! Now, emergency hibernation process is running. Please connect the umbilical code to the navel connecter socket to keep electric power supply. I'm connecting to Pygmalion laboratories survice center to notice this malfunction. Alart!...
(深刻なメモリーユニットの異常が発生しました。緊急ハイバネーション中です。電源確保のため、アンビリカルコードを接続してください。ピグマリオンラボラトリーズ・サービスセンターに故障連絡中です……)

 その日の朝まであまりよく眠れぬ夜を過ごした珊瑚が、ナミの寝室から聞こえてくる、声質はナミそのものなのにまるで魂のこもらない英語の音声を聞く。ナミの意識が失われ、ディープハイバネーションに入った証だった。
 わかっていたことだった、驚きもないはずだった。しかし、弾かれるようにベッドから寝不足の体を起こし、隣を見ると寝ているはずの修善寺の姿はなかった。早足で珊瑚がナミの部屋に入ると、修善寺はすでにそこにいて、ナミのアンビリカルコードを接続しているのがわかった。

「どうして? ずっとここにいたの?」

 そう聞いた珊瑚にちらっと目をやり、再びナミに視線を戻した修善寺が穏やかに答える。

「寝られなくてな。結局、ナミの寝顔を見ながら過ごしてたんだ」
「この日がX-Dayだって知ってたの?」
「あぁ、プリンス先輩と聡華さんに聞いたよ。お前に口止めされてたんだってな」

 そう言われた珊瑚が、硬い表情で謝る。

「ごめんなさい黙ってて。先月半ばにはわかってたの」
「いいさ、長くて今月末だとは8月の段階で聞かされてたしな。口止めの理由も聡華さんが説明してくれたんだ」
「…… 怒らないの?」

 硬い表情のまま聞いた珊瑚に、微かに修善寺が笑う。

「もう怒ったんだ、あの二人を相手にな。そうしたら聡華さんにひっぱたかれたよ。『珊瑚さんがどんな思いで口止めを頼んだか想像も出来ないのか? それで彼女を愛してるなんて、一体どの口で言えるのか?』って言われてなぁ。怒ると怖いんだな、聡華さんって」
「そ、そうだったの。私もそんな聡華さんは見たことないからビックリだね……」

 本当に驚いたのだろう、珊瑚はあっけに取られた表情でそう言うと、修善寺がナミの髪を撫でてやりながら、言葉を続ける。

「ごめんな珊瑚。俺は結局、ナミにもお前にも何もしてやれなかった」
「そんなことないよ。あなたはお店を営業しながら、藍の面倒も、私の分の家事も全部やってくれてたんだもん。本当に助かったんだよ」
「まぁ、藍はナミに任せっきりだったし、家事は妙さんが千陽達をハウスキーパーに寄越してくれたからな。俺自身は半分もやってないよ」

 修善寺が珊瑚のわずかに膨らみかけたお腹に目をやりながらそう答えると、珊瑚が質問する。

「でも、どうして聡華さん達にこの日の事を? 向こうから来てくれって言われたの?」
「いや、先月後半、つまりこの日の事が明らかになってしばらくした頃、ナミの話をする度にお前の様子が妙なのに気付いてな。俺にわかるくらいだから相当まずい状態なんじゃないかと思って、あの二人のところに相談に行ったんだ。で、そこで教えてもらった」
「あなたにバレちゃうんじゃ、妙さんたちにもまるわかりだったろうね」

 珊瑚がそう言って苦笑いすると、修善寺もつられて微かに笑う。

「あぁそうだな。後からだけど言われたよ、珊瑚は大丈夫か? ってな」
「でも、何でこの日の事に気づかないふりをしてたの? 私はある意味あなたを信用しないで黙ってたのに」
「まぁ、俺には前科があるからな。ナミに喋っちまうんじゃないかと思ったんだろ? 無理も無いさ。それに……」

 そこで言葉を区切り、溜息をつくように言葉を継いだ。

「俺にはお前になんと言ってやればいいのか、何も頭に浮かばなかったんだ。だから何も気づかないふりをした。すまん……」
「違う…… 違うよ、謝らなきゃいけないのは私だよ…… ごめんなさい」

 二人の寝室から藍がぐずる声が聞こえる。一人にされて面白くないのかもしれない。珊瑚がナミの頬をなぞる様に撫でてから、ドアに向かう。

「私は藍を見てくるわ。しばらくナミちゃんをお願いね、あなた」


 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆


 信の枕元で電話が鳴り、寝ぼけ眼で発信者表示を見た信の目が見開かれる。珊瑚からの電話だったからだ。この時間に電話をしてくるとすれば、もう他の可能性は考えられなかった。信は布団から跳ね起きて電話に出る。

「はい信です。おはようございます。あの、もしかして……」
「うん、今朝ナミちゃんがディープハイバネーションに入ったの。その連絡よ」

 震える声で信が言葉を搾り出す。

「は、はい。あの…… 珊瑚さん、僕、これからそちらに行っていいですか?」

 珊瑚は落ち着いた声で返事をする。

「えぇ、大丈夫よ。でも、そんなに焦らなくても大丈夫よ。ナミちゃんが目を覚ますのはまだまだ先の話になりそうだし、それまではずーっとベッドで眠っているんだから」
「はい、でも、すぐに行きたいんです」
「わかったわ。じゃ、待ってるからね。妙さんたちにも伝えてくれるかしら」
「はい、伝えます。でも、どう伝えれば良いんでしょうか? 母さんは僕と同じだけの事を知ってますけど、仁や千陽姉さんたちは詳しい話を知りません」
「あなたが知っていることを全部伝えてくれればいいわ。それから……」
「それから?」

 珊瑚は低めの声でゆっくりと言った。

「ナミちゃんがいつ目覚めるかは、まだはっきりと分からないわ。でも、いつか必ず目覚めの日が来る事を忘れずに伝えて。特に千陽ちゃん達にはね」
「わかりました」

 信は急いで身支度を整えると、妙や仁、それに千陽達ロボット数名を食卓に呼んだ。そこでナミの事を手短に説明した。店の準備がある妙と千陽達は昼過ぎに行くことにしたが、仁は信と一緒に行きたがったので、二人で修善寺の家に急いだ。


「あ、空海おじさん。ナミちゃんは……」

 挨拶もそこそこに早口でそう聞いた仁に、修善寺が笑って返事をする。

「そう慌てるな、仁。ナミは眠ってるんだから逃げやしないぞ。それと、妙さん達は一緒なのか?」
「いえ、店の準備があるので、昼前に来ると言ってました」

 そう答えた信に珊瑚が質問する。

「信くんたち、朝御飯は食べたの? 学校もあるでしょ?」
「いえ、僕も仁も振替休日で今日はお休みです。食事は帰りがけにでも食べますから大丈夫です」
「だめよ変な遠慮しちゃ。ちゃんと朝ごはん食べなきゃね。もうすぐご飯が炊けるから、一緒に食べましょう」
「ありがとうございます。でも、先にちょっとしなきゃいけないことがあるんです」

 そう言った信に、修善寺が怪訝そうに聞く。

「しなきゃいけないこと? 急ぎでか?」
「いえ、急ぎと言うことは無いと思うんですが、ナミちゃんから頼まれてたことがあったんです」

 信は修善寺と珊瑚を交互に見てそう言った。

自宅リビングにて(3)

2073年10月10日 東京特別市町田区内 修善寺宅


「ナミがハンディカムのビデオを見てくれって言ってたのか? 信」
「食べながら喋らないでよ、汚いでしょ」

 食卓で珊瑚に小言を言われ、『こいつもお袋と一緒かよ……』と修善寺が内心で文句を言うが、もちろん後が怖いから口にはしない。

「はい、ビデオにメッセージがあるから、自分がハイバネーションしてしまった時に見てくれって……」

 真面目な顔で信が返事をする。

「じゃ、御飯食べてから見てみようね」

 珊瑚がそう言って笑顔を作るが、悲しみの色がにじむのが信には見える。

「プリンス先輩とか、関係者にはメッセージは漏れ無く流したよな?」

 そう聞いた修善寺に、珊瑚が答える。

「うん、とりあえず聡華さんと和泉さん、それと別府博士と父さんと有馬社長、協力をお願いしてる旧ピグマリオンの関係者には同じ紋切り型の文面だけど連絡済みだよ」
「返事は?」
「聡華さんの家の二人と和泉さん、それに父さんと有馬社長が午後に来るって」

 修善寺が肩をすくめる。

「別にナミは死んだわけじゃないんだし、そんなに慌てて来なくたっていいと思うんだけどな」

 そう言った修善寺に、珊瑚が気遣わしげな表情で答える。

「実は聡華さんとは電話で話したんだけど、何だかちょっと変な感じだったんだよね」
「変って?」
「何だか伝えたい事があるんだけど、今言うことができない…… って言うのかな。何か隠し事があって、それを言いたいんだけど言えない、って言う感じだったんだよね」

 修善寺の表情が変わり、脇で聞いている信たちの表情にも影がおりる。

「そうか…… そっちは聡華さん達が午後に来た時にでも聞いてみよう…… って、仁。お前それだけじゃ足りないだろ? おかわりしろよ!」

 食べ終わろうとしたところに急に声をかけられた仁が、慌てて言い返す。

「そんなに朝からたくさん食べられないよ」
「何言ってんだ、育ち盛りだろ。お前も信も」
「あなた、無理強いしちゃダメよ。仁くんも本当にそれだけでいいの? ごはんはたくさん炊いてあるから、おかわりしても大丈夫よ」

 そう言った珊瑚に、仁が答える。

「もうお腹いっぱいだよ。ごちそうさまでした。それより早くナミちゃんのビデオ見ようよ」

 そして朝食を済ませた後、リビングでナミが撮った録画の再生を始めたのだが……


 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆


「うーん、ナミに文句を言う筋合いはないけど、これちょっと退屈すぎないか?」

 早くも飽き始めた修善寺に、藍にご飯を食べさせながら珊瑚が言葉を返す。

「しょうがないわよ。もともとナミちゃんが自分の記憶の代わりに撮ってた物なんだもの」
「何だか、藍ばっかり写ってるよなあ」
「そりゃそうよ、一日の半分位は藍の子守をしてくれてたんだし、ナミちゃんが一番好きなのはこの子なんだから」
「しかし、あいつは一体いつメッセージを入れたのかな? まだ一割も見てないぞ、これ」

 そう言った修善寺に、信が申し訳なさそうに返事をする。

「うーん、僕も『すごく長いから見るのが大変だけど、ひまがあったら見てね』って言われて、詳しいことは聞かなかったんで……」
「いやいやイイって。別に信やナミに文句があるわけじゃないしさ…… このビデオの一番最初の部分は三十郎の葬式の日なんだけど、こうして画像で見るとずいぶん前のことのような気がするよな」
「まだ二ヶ月前の話なのにね」

 珊瑚がそう言ってしんみりと笑う。

「結局、あの日の翌日にはナミの記憶は消えないようになったんだから、わざわざこんな録画をする必要もなかったんだけどな」

 そう言った修善寺に、珊瑚が寂しげな表情で返事をする。

「あの後、ナミちゃんが撮ったビデオをみんなで喜んで見ていたから、ナミちゃんは嬉しかったんでしょ。あの子は人を楽しませたり喜ばせたりするのが一番幸せなんだから」
「そうだな。あいつはいつだってそうだったな……」

 修善寺はそう言ってから、暗い雰囲気を打ち消すように明るく言葉を放つ。

「信さ、このビデオ、普通に見てたんじゃナミのメッセージまで届くまでに何日もかかりそうだから、早送りしながら探そう」

 そうして、午前中はビデオを見て過ごしたが、結局メッセージらしい部分にまでは行き着かなかった。昼前には店の仕事を終えた妙と千陽が訪れ、昼食を揃ってとった。食事後に有馬社長と那須、それに和倉夫婦が修善寺宅を訪れてきたので、信と仁は修善寺夫婦の仕事部屋でビデオの続きを、妙と千陽は食事の片付けの後に、藍の面倒を見てくれることになった。


 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆


「あれ、和泉さんは? 一緒じゃないの、陽ちゃん」

 修善寺にそう聞かれた那須が、複雑な表情で答える。

「ん…… ちょっと訳ありで、外してもらった」
「訳あり? なにそれ?」

 怪訝な表情で聞いた修善寺に対し、さらに答えようとした那須を有馬社長が手振りで押しとどめる。

「那須くん、そこまで含めて僕から話そう。そうだ、珊瑚さん、隼人先輩は少し遅れて来ると言っていたよ。一時間ほど遅れると言う事だったからね」
「あぁ、さっきその旨の電話がありました。大学で何だか揉めているという事でしたけれど、細かいことを聞く前に切られてしまって」

 そう言って珊瑚が不満顔をする。

「あぁ、その件も含めて僕から説明させてもらう。僕のせいで先輩が学内で突き上げられて、今ひどく苦労されているんだ」

 眉間にしわを寄せ、苦渋の表情を浮かべて有馬社長がそう言うと、珊瑚と修善寺は目を見合わせる。悪い予感がじわじわと二人に絡みついていく。

「あの、一体何が? もしかしてナミに関係することですか?」

 探るような視線で相手を見て修善寺がそう聞くと、ため息を一息ついてから有馬社長が返事をする。

「そうなんだ。ナミくんに関して悪い知らせを持ってきたんだよ、僕たちは。実は三日前に臨時取締役会が開かれた。そこではガラテア4のAI異常の対策に関する議題について会議したんだが、そこでの結論がナミくんに非常に不利なものになってしまったんだよ」

 目を見開き、二の句が継げなくなった修善寺に代わって珊瑚が質問する。落ち着こうとして低い声でゆっくり話そうとするが、声の震えを止められない。

「一体…… 一体、ナミちゃんに不利な決定って言うのは何ですか?」
「単刀直入に言おう。一つ目は現状のガラテア4のプロセスコードの改良を急ぐことだ。これは今までと同様なので、特にナミくんに不利な決定ではない。二つ目は開発中の次期モデルであるガラテア4NGの開発を加速させることだ。これはナミくんに対して不利な決定になる。この決定によって芙蓉でLTMマージ問題に取り組んできた研究員を、そっくり新モデル開発につぎ込むことになってしまうからだ」
「そんなっ! うちの大学や理研大のチームが同じテーマに取り組んでいますけれども、どちらも芙蓉重工さんとの産学協同プロジェクトにする方向で進んでいて、いま芙蓉重工さんに抜けられてしまっては、プロジェクトが空中分解してしまいます!」

 叫ぶように珊瑚がそう言うと、泣き出しそうな顔の聡華が話しだそうとしたが、有馬社長が止める。

「待ちたまえ和倉グループ長。僕がひと通り全部説明するまで待ってくれないか?」

 そう言った有馬社長を見て聡華がうつむいて黙ると、和倉がその肩に手を添える。

「すまんね…… では続けさせてくれ。決定はもうひとつあり、それが一番問題なんだ。三つ目の決定はガラテア4NGの芙蓉重工単独での開発と機密保持の徹底なんだ。これは、今までの理研大や産総研大との産学協同体制の見直しと、他社に在籍する旧ピグマリオンの開発者との交流の制限を意味するんだよ」

 我慢できなくなった修善寺が怒鳴りだす。顔面が蒼白だ。

「ふざけるな! ナミがハイバネーションに入ってからそんな事を言い出しやがるのか? データーはたっぷり取れたから、もうナミはどうでもいいって言うのか? 芙蓉重工ではもうLTMマージ問題はやらない、大学との共同研究もしない、他社のピグマリオンOBとは縁を切る、そう言ってるのか? 芙蓉重工は!」

 珊瑚ももはや怒りを隠さない。よく通る低い声でゆっくりと話しだす。

「和泉さんがここにこなかったのはそれが原因ですね? 和泉さんは宮城学部長を相手に熱心に交渉して、芙蓉重工さんとの共同研究プロジェクトをまとめようとしてずっと頑張ってました。それを急に芙蓉重工さんが反故にしたので腹を立ててしまったのではないですか?」

 答えようとした有馬社長を、今度は那須が制して話しだす。

「社長、彼女は僕の妻ですから僕が話したほうがいいでしょう…… 珊瑚さん、半分は君の言うとおりだ、彼女は芙蓉重工に対してひどく立腹していて、社員の僕もかなり責められた。それから彼女がここにいない残り半分の理由は、君たち夫婦とナミちゃんに会わせる顔がないからだと彼女は言っていた」
「そんな…… 和泉さんが責任を感じる必要はないですよ。どうしてまた?」

 やや勢いを削がれた珊瑚がそう聞くと、那須は修善寺を見て言った。

「空海が言っていたよな『何でいつもナミばかりが……』って。和泉はそれを気にしてたんだ『ナミちゃんに苦労を無理強いした面があるんじゃないか?』って。だから、彼女はどうしてもナミちゃんを目覚めさせなければいけないと考えていたし、空海や珊瑚さんに負い目の様なものを少しばかり感じていたんだ」

 修善寺が吐き出すように言う。

「何でそんな…… 和泉さんは何も悪くないじゃないか。悪いのは、ナミを見捨てようとしているのは…… 芙蓉重工社長のアンタじゃないか!」

 そう言って蒼白な顔のまま有馬社長を睨みつけた修善寺に、和倉が慌てて言葉を差し挟む。

「待ってくれ、空海。それは違う。有馬社長にもどうにも出来なかったんだ」

 有馬社長が穏やかに和倉を諭す。

「いや、修善寺くんの言う通り、会社の代表である僕に全ての責任がある。和倉主幹、少し控えたまえ」

 和倉は有馬社長の顔を正面から見つめ、決然と言葉を放った。

「いえっ、俺は黙りません。僕は空海とはガキの頃から兄弟の様にして付き合ってきました。こいつが無茶な誤解をしてしまうのを、そのままに見過ごせません」

 有馬社長にそう言ってから、和倉は修善寺を正面にして見つめ、真剣な面持ちで話し始めた。

「なぁ、空海。俺たちピグマリオン出身の連中はさ、社長も含めてディアスポラの民なんだよ。芙蓉重工の中ではマイノリティに過ぎないんだ」
「だから何なんスか? そんなの関係あるんスか?」

 怒りを押し殺してそう聞いた修善寺に、和倉はあくまでなだめすかすような口調で言葉を続ける。

「お前も社員だったからわかってると思うけど、俺たちピグマリオン組は基本的に信用できる相手とはアイデアの流出を恐れずにどんどん周りと協力して仕事をする。だから産学協同プロジェクトでも機密だの守秘義務だのと言った事には深く頓着しないで、どんどん情報を出してしまう。それが当たり前のスタイルで一番能率が良いと信じてる。情報を出しあって相手が二歩進んだら、俺達は三歩進めば良いと思ってる……」
「でも、芙蓉重工のマジョリティ、生え抜きの連中にとってはそれが信じられないんだよ。そりゃピグマリオンだって、機密保持には気を使っていたし、情報の価値だってわかってはいた。だから昔にお前がナミを救うために裏ファイルを持ち出した時には、自分で腕をへし折るまでして偽装しなきゃならなかった……」
「でも、芙蓉重工は長い間軍需産業に深く関わってきたせいなのかもしれないが、守秘義務だの情報の価値だのには信じられないほど熱心で、俺達には偏執的に見えるくらいなんだ。連中にとっては情報は大事に隠して、必要に応じて売り買いしたり交換するものなんだ。だから、お互いを信用してギブアンドテイクでどんどん情報をやり取りするっていうピグマリオンのやり方は、連中の目にはあまりにも時代錯誤でデタラメに映るようなんだ……」
「それでも今までは俺たちが自分たちの流儀でやって来れた。と言うのは、ラボだけは所長以下、ピグマリオン組が過半数で比較的自由にやれる部門だからな。それでも、社外との協力体制の規模が大きくなってきてごまかし様がなくなってきたんだ」

 那須が話しに割り込んでくる。

「俺は逆にピグマリオン組があまりいない営業部にいるから、生え抜きの芙蓉社員の中に、ラボのやり方への不安と不満が日に日に高まっていくのを肌で感じてたんだよ。俺自身も同業他社のピグマリオンOBをずいぶん回って口説いてきたから、俺自身への風当たりも強くなってきてたんだ。そうしているうちに臨時取締役会が開かれてな。社長解任までちらつかせて、いま社長が説明した三つの議決をしたんだ……」

 那須はちらっと有馬社長を見てから言葉を続ける。

「空海、お前にはうちの社内でのパワーゲームなんて興味がないだろうけど、一応説明しておくよ。芙蓉重工には派閥が三つある。一つが有馬社長のグループでこれが主流派だ。相談役と会長もこの派閥に入っている。もともと有馬社長をヘッドハンティングしたのが、当時会長の現相談役と当時社長の現会長だからな。二つ目が反主流派。まぁ、反主流派と言っても普段から社長に何でも反対してるって訳ではないんだけどな。ここが今の取締役会の半数弱を占めている。部門は色々だけど、全部生え抜きの芙蓉重工出身者で、ギブソンのコンパニオンロボット部門と芙蓉の軍事・産業用ロボット部門の交換に大反対したのもこのグループだ……」
「三番目は社外取締役のグループで、提携企業のギブソンや出資銀行の関係者だ。このグループは少数なんだけど、ここが主流派に付くか反主流派に付くかで取締役会での議決結果が変わる。そして、今は反主流派に付いているんだ」

 有馬社長が那須の言葉を継ぐ。

「社外取締役達からの意見はこうだった。『異常のあるプロセスコードの修正は、世界中の重要顧客が所有する200体以上のガラテア4にとってぜひとも必要なことで、直ちに行わなければならない。しかしLTMマージ問題はそうではない。これはたった一台のガラテア4を救うだけの意味しか無いからだ』とね」
「何だと! それじゃナミは『金にならないから』見殺しにするってのか! ふざけるなこの野郎!」

 立ち上がって有馬社長に掴みかかろうとした修善寺を、珊瑚がしがみついて抑え、唸るような低い声で彼の耳元に言葉を流し込む。

「やめて、有馬社長を責めても意味が無いよ。ナミちゃんなんかどうでもいいと考えてるのは、別の連中だよ」
「でもなぁ!」
「ここで暴れたんじゃ駄目、何にもならない。それだけじゃ私の気が済まないよ。絶対に許せない。このままにはさせない……」

 そう言った珊瑚の目に何の表情も浮かんでいないのを見て、修善寺は黙ったまますっと力を抜いた。言葉だけの怒りではないことが、その目から伝わったからだ。

 その時、急にリビングのドアがノックされ、妙がひょこっと顔を出した。後ろには信も立っている。

「あらごめんなさい。お話中だったのにね。ちょっといいかしら、主任さん?」

 修善寺が怒鳴り散らしていたのがはっきり聞こえていたはずだが、そんな事はついぞ知らぬと言った笑顔で妙がそう聞くと、修善寺がきまり悪そうに答える。

「え、えぇ。一体何です?」
「ナミちゃんのメッセージが見つかったの。10日ほど前に録画した様ね」

 少し無理をして笑った珊瑚が、妙を見て告げる。

「そうしたら、妙さん達は仕事部屋の方で待ってて下さい。こちらはすぐ片付けて、私達夫婦も行きますから」

 そう言ってから、珊瑚は有馬社長たちに向きあう。拭ったように表情が消える。

「そちらからのお話は以上でしょうか? 私達から言いたいことは山ほどありますが、今言ってもただ感情をぶつけるだけの事になって建設的ではありません。時間を改めて、こちらからお伺いすることにしたいのですがいかがでしょう」

 そう言った珊瑚に、聡華が聞く。目尻からもう涙がこぼれ、声がかすれている。

「ナミちゃんのメッセージって? 良ければ私達もそれを見てみたいんだけど……」
「お断りします。これでお引き取りください」

 間髪入れずに氷のような一言でそう突き放した珊瑚を、聡華が信じられないといった表情で見つめる。すると妙が、相変わらずの柔らかい笑顔で話しかけた。

「珊瑚ちゃん、意地悪言わないで見せてあげれば? ナミちゃんがみんなに残したメッセージよ」

 珊瑚が振り返って妙を見つめる。

「もう妙さん達は見たんですか?」
「最初の部分はね。私は主任さんや珊瑚ちゃんだけじゃなくて、会社の人達も見た方がいいと思うのよ」

 珊瑚の代わりに修善寺が答える。

「わかりました。ここでグダグダ揉めるより俺も早く見てみたい。部屋の方は手狭だけど、全員入らない事はないだろうし」

 珊瑚が聡華達に向かって冷たく告げる。

「見たいと思う人は、書斎にどうぞ。不要と思われる方はこのままお帰り下さい」

 そうして全員が仕事部屋に入り、ナミのメッセージを見た。

自宅書斎にて

2073年10月10日 東京特別市町田区内 修善寺宅


 仕事部屋に全員入ってしまうとさすがに狭く、藍を抱いた千陽が逆にリビングへ行くことになった。修善寺の家に来るたびに藍を相手しているので、藍も千陽には人見知りしない。

「ごめんね千陽ちゃん。しばらくの間、藍をお願いね」

 そう言った珊瑚に、千陽はニコニコして返事をする。

「はい、ナミちゃんみたいにはうまく子守は出来ないかもしれませんが、任せてください。私、ずっと藍ちゃんの面倒を見てみたかったんです」

 千陽はナミの一世代前のモデル、ガラテア3であるが、やはり子供の面倒を見るのは本能として埋めこまれていて、赤ん坊や小さな子供を構いたがる。何より千陽は妙の店に買われる前、当時最先端のコンパニオンロボットとして最初に入った家庭では、ベビーシッターとしても働いていたから尚更だ。
 その後にすっかり変わってしまった長い生活の中で、ガラテア3の小さなメモリでは当時の育児のスキル自体は保持不能だった。だから千陽はその多くを忘れてしまっている。けれど『小さな子供を世話する喜び』自体は、様々なエピソード記憶となって『生涯の大事な記憶』として深く千陽のメモリに刻まれているのだ。
 千陽が藍を抱いて部屋を出る時、珊瑚が藍に手を振ると藍も手を振り返す。その間に、仁がビデオを操作して頭出しを終わらせる。

「ずいぶん早く見つけたな。相当飛ばして見たんじゃないのか?」

 そう聞いた修善寺に、仁が首を振る。

「ダメダメ、早送りとかじゃ全然埒があかなくて、結局画像検索かけて見つけたんだ」
「どんな画像で?」
「そりゃ、ナミちゃんの顔でだよ。多分、自分を映しながら喋ったんだろうと思って。兄貴の電話にナミちゃんのホログラム・スナップがたっぷり入ってるから、それを使って検索したんだ。最初からそうすればよかったよ。あっという間だったもん」

 信が済まなそうに言う。

「探してから気づいたんですけど、ナミちゃんは最初からインデックスを入れててくれてたんですよね。僕たち、インデックス検索もしないで、いきなり頭から見始めちゃったから気づかなかったんですよ。僕がナミちゃんからちゃんと聞いとけばよかったんですけど……」

 珊瑚が柔らかく信の肩にぽんと触れる。

「別に信くんのせいじゃないわよ。みんな気付かなかったんだから」

 そして振り返って、有馬社長たちに向かって無表情に席を勧める。

「狭いですがそちら側の開いた場所にお座りください。私たちはこっち側の床に座りますから」

 仁が珊瑚を見て聞く。

「もう始めていい? インデックスを確認したら録画時間は短かったから、すぐ終わっちゃうけど」
「うん、始めてくれる?」

 ビデオが起動され、ホログラムビデオが映り始めた。自分のベッドに座って話す自分を写したものだった。カメラの前で独り言を言う事など恐らく初めてのナミが、妙に緊張した面持ちで写っていた。キョロキョロしたり、カメラの向きを調節したりして、随分落ち着かない様子だったが、深呼吸を一つしてから話し始めた


 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆


「…… えーと、今日で9月が終わっちゃうから、ナミが後でみんなに聞いてもらいたいメッセージを言います。主任が『10月になったらナミは冬眠するんだ』って言ってたから、その前に言わないといけないから……」

「最初に妙さんや仁くん、それと千陽ちゃん達にお願いがあります。このあいだ信くんが教えてくれたんだけど、信くんは主任のお友達が教えているジムでボクシング選手になるって言ってました。来年には試合にも出るんだって言ってました。ナミも応援したいけど、冬眠中だったら応援に行けないので、ナミの分も信くんを応援して下さい。あ、でも千陽ちゃん達はロボットだから、ボクシングの試合は怖いので見ないほうがいいと思うよ……」

 聡華が修善寺に聞く。

「錦ちゃんの彼氏がやってるジムのこと?」
「あぁ、俺が紹介したんだ。そこで信の奴、錦ちゃんにあっさりひねられてな。相当悔しかったらしいぞ」

 そう言って信を見てふっと元気なく笑った修善寺に、信が不満そうにうつむいて言う。

「それはいいですから、ナミちゃんのメッセージを聞きましょうよ……」

「…… 別府博士にもお願いがあります。レンちゃんとプリちゃんが、ナミの冬眠のことを知っても心配しない様にお話してあげて下さい。レンちゃん達はナミの次に生まれた妹達だし、アメリカの研究所でたくさん実験を受けたから、AIユニットの調子が悪くなるのがその分早いかもしれないって聞きました。AIユニットを直す方法が早く見つかればいいけど、もし方法を見つけるのが間に合わなかったら、冬眠してしまう日まで、いつも通りに笑ってあげて下さい」

「ナミは最初に主任と珊ちゃんからAIユニットの故障の話を聞いたとき、とても怖くて泣きました。でも、それから珊ちゃんたちはいつもナミに笑ってくれて、優しくしてくれました。藍ちゃんはまだ小さいからナミに起こったことがわかってないので、ナミがお世話するといつもと同じように喜んでくれます。だから藍ちゃんと一緒の時には、ナミは冬眠のことを忘れてしまうので、ナミは今、そんなに怖くありません。だから博士も、もしレンちゃん達の調子が悪くなったら、いつも通りに笑ってあげて下さい」

「和倉さんと聡華さん、有馬社長さんと湯布院のおじいちゃん、それに陽ちゃんと和泉さん、あと珊ちゃんの大学の先生達にお願いを言います。ナミが冬眠するまでに、ナミや妹達のAIユニットを直す方法は見つからないかもしれないけど、きっとすぐにいい方法が見つかるからって、別府博士や珊ちゃんから聞きました。ナミはそれを信じてます。なるべく早く直す方法を見つけて、妹達を、レンちゃん達やプーちゃん達、世界中にいる239人の妹達を助けてあげてください……」

「ナミはおばあちゃんに教会に連れていってもらって、神父様のお話を何度か聞きました。十字架が付いたネックレスももらいました。ナミはロボットだから洗礼も堅信の秘跡も受けられないけれど、祈る事は自由なんだと教わりました。神様は人間をお作りになり、その人間がロボットを作ったのだから、ロボットは神様の孫のようなものかもしれないとおばあちゃんが言ってました。おばあちゃんが藍ちゃんを可愛がるのと一緒で、きっと神様も孫をかわいがってくださるに違いないから、ロボットも神様の教えを守って暮らしていれば、きっと祈りを聞いてくださるはずだと教えてくれました……」

「神様はいずれ来る裁きの日に、正しい行いの者を選んで天国へ連れて行って下さると神父様が教えてくれました。だからナミは僅かな間だけれど、神父様とおばあちゃんに教わったおしえを守って正しい生活をしています。復活の日にみんなと一緒に天国の門をくぐりたいから……」

「なので、ナミはもし研究がうまく行かなくて、このまま冬眠から目が覚めないで死んでしまったとしても、それは怖くありません。だから…… だから、必要ならナミのAIユニットやナミの体を使って実験してください。もしそれで妹達が助かるのなら、ナミはそのほうが嬉しいです……」

「神父様は、イエス様が自分を犠牲に捧げて人間の最初の罪を償って下さった事を教えてくれました。だからナミも、もし…… もしも必要なら、妹達のために自分を捧げようと思います。ナミは一番上のお姉ちゃんだから……」

「主任と珊ちゃんにもお願いがあります。二人ともいつもナミに笑いかけてくれて、いつも優しくしてくれて、本当にありがとう。ナミはピグマリオンのラボでAnnaとして生まれてきて、その時からずっと二人に仲良くしてもらって、色んなことを教えてもらって、ナミはずっと二人が一番好きでした。一番最後のイヤな実験の時も、二人が聡華さんたちと一緒に頑張ってくれたおかげで、実験が短くなったんだって和泉さんや和倉さんが教えてくれました。本当にありがとう……」

「ピグマリオンが無くなってしまってから、主任が会社を辞めさせられて小さい修理屋さんに勤める様になった時、珊ちゃんに会えなくなって寂しかったけど、珊ちゃんはすぐにナミたちを探して会いに来てくれて、あの時ナミはすごく嬉しかったです。そして、大好きな二人が結婚して、ナミはいつも二人と一緒に暮らせると聞いた時、ナミは本当にほんとうに嬉しかったです。そして、ナミが一番大好きな藍ちゃんが生まれて、ナミはずーっとずーっと幸せでした……」

「おばあちゃんにその話をしたら、それが神様の恩寵でちゃんと神様はロボットの事も心にかけてくださっている証拠なのよ、って教えてくれました……」

「あ、そうだお願いを言います。主任は優しいけど怒りっぽいので、あまりおばあちゃんと喧嘩しないで下さい。あと、お仕事が忙しい時にもごはんを抜かないでください。あと、おばあちゃんとお爺ちゃんたちにはナミはちゃんと冬眠から目が覚めるから心配しないでって言っておいて下さい……」

「珊ちゃんにもお願いがあります。珊ちゃんは藍ちゃんのお母さんで、お腹にも赤ちゃんがいるので、本当に体に気をつけて下さい。主任がいつも『珊瑚は無理ばかりする』って心配してるので、ナミも心配です。ナミが冬眠から目が覚めたときには、もうお腹にいる赤ちゃんが生まれてるかも知れないので、ナミは楽しみにしています。元気な赤ちゃんを産んでください」

「信くんにもお願いがあります……」

 そう一言いってからナミは少し口ごもり、そしてまた話し始めた。

「信くんは、去年喧嘩をして相手に怪我をさせてしまったので、学校を変わってボクシングも止めてしまったって言ってました。でも、ボクシングはまた始めるって言ってたから、ナミは安心してます。ボクシングを見るのは怖いけど、ボクシングの事を教えてくれる信くんはとても楽しそうで、それで…… かっこ良くてナミはそういう時の信くんが一番…… えっと……」

 言葉に詰まって少しうつむいたナミの顔が赤らんでいるのがわかる。呼吸も少し荒い。

「おかしいな、どうしてこんなに恥ずかしいんだろ。ナミ、別に何も失敗してないのに…… えぇとね、ナミは、そういう時の信くんが一番…… 好きです」

 だんだん声が小さくなって、最後の『好きです』はかすれて消え入りそうな声だった。

「お、おかしいね。ナミ、信くんのことがずっと好きで、いつも大好きだって言ってたのに、何で今日はこんなに恥ずかしいんだろうね?」

 ナミが自分の言葉で照れて、耳たぶまで赤くなっているのがわかる。子供の恋心から薄目をあけた性の目覚めと、それによる『恥じらい』の芽生え。なのに開きかけた蕾は、そのまま寝台の上に凍りついてしまう……

「信くんは学校が変わっちゃったから、今はあまりお友達がいないんだって妙さんに聞きました。信くんはすごく優しいし、お店の仕事もすぐ覚えちゃうくらい頭が良いし、強くてかっこいいのですぐにお友達が出来ると思います。だからナミの目が覚めた時に、信くんのお友達を大勢紹介してください。それがナミのお願いです」

 そう言ってナミは目を細め、にっこり笑った。両の目尻に涙の粒が光っている。

「えぇと、最後にみんなにお願いです。ラボも大学もいつでもデスマーチで、主任のお店もいつも忙しいけど、体を壊さないようにして、あまり無理をしない様にして下さい。みんなが無理をして研究して、ナミの冬眠が終わるのが一年早くなるより、みんながのんびりと研究して、ナミがその分長く眠るほうがナミは良いです……」

「いつもみんなナミに親切にしてくれてありがとう。いつもナミに笑いかけてくれてありがとう。ナミは神様の救いを信じています。そして、みんなの事はもっと信じています。だから、ナミはのんびり眠って待とうと思います……」

 録画するうちに眠くなってきたのだろう。ナミの瞬きが多くなってきた。

「えぇと、ナミ、眠くなってきちゃったので、コレで今日はお休みにしようと思います。おやすみなさい」

 そう言ってカメラの方に手を伸ばす。そこで録画は終了していた。

ゴールデン・シティにて

2073年12月2日 コロラド州ゴールデン市内 別府邸


 前日の吹雪は嘘のように止み、抜けるような高い青空に朝日が輝く。別府博士一行は、昨日の晩までプリズムのAI修復完了を確認し、それから博士の私邸に戻って、今朝食をとっている。

「しかし本当に済まなかったね。昨日は良く眠れたかね?」

 そう聞いた博士に、和倉が笑う。

「ラボが長い人間は、眠れる時間にはどこでも眠れるようになってますよ。たとえ床の上でもね」
「相変わらず君たちのラボも忙しいようだね。本当にすまんね、そんな時に呼び出してしまって……」

 聡華が口元で微かに笑って博士をたしなめる。

「もう気にしないで下さい。ナミちゃんとの約束ですから、この子達だけでなくて世界中のナミちゃんの妹達は私達や、うちのラボの者が救います。そうでなければ、ナミちゃん、そして修善寺くんや珊瑚さんにも顔向けが出来ませんよ……」

 博士が聡華を見て質問する。

「まだあの二人は怒っているのかい?」
「もう怒ってはいないですよ。二人とも私達とは元通りの関係を取り戻して、連絡も時々取りあってますが、私たちは芙蓉重工の社員ですからね、やっぱり一線をひかれちゃった感じです。敷居が高いって言うんですか……」
「今でも、例の取締役会の議決を何とかしようと、那須や僕を始め、色々な人間が動いてはいるんですが、反主流派の結束も堅くてなかなか一筋縄では行かない状況です」

 ため息をついて博士が相づちを打つ。

「そうだろうね。もともとの企業文化がまるで違うし、僕らが正しくて向こうの言い分が間違っているとは一概に言えないわけだからね。それはそうと、那須くんの夫婦はどうなんだい?」
「まぁ、陽一に何の責任もないのは和泉ちゃんにも分かってますからね。あれから一週間位は機嫌が悪かったようですが、今では何とか彼女の機嫌も戻ったそうですよ」

 そう言って和倉が笑う。

「それでも、いい動きは幾つかあるんですよ」

 そう言った聡華のほうを博士が向く。

「隼人先輩の事かい?」
「えぇ、理研大と産総研大の共同研究プロジェクトが立ち上がって、LTMマージの研究を進めることが決まりました」
「この間先輩に直接聞いたよ。隼人先輩だけじゃなくて、宮城君が随分積極的に動いてくれたって言っていたよ」
「どうも宮城先生は、最初からうちの会社との共同研究はうまく行かないだろうって見越していたみたいですね」
「先輩は当面は芙蓉重工は仲間外れだって言ってたけど、宮城君もそれで乗り気になったのかな?」
「そうかも知れませんね。それに宮城先生にしてみれば理研大は自分の古巣ですものね。それから、芙蓉重工自体もLTMマージの研究チームを再立ち上げしたんですよ。規模は随分縮小されてしまいましたけれどね」
「そうだろうね。今のガラテア4は早ければ10年先には躯体更新が必要だし、その時の躯体は今開発中の次世代機なんだから、その時にLTMマージやLTMコンバートが出来ないって訳には行かないからね」

 和倉が肩をすくめてぼやく。

「全くです。役員さん達も、もうちょっとロボット開発の中身を理解しててくれれば、あんな馬鹿な議決はありえないんですがね。社長も現状はLTMマージは少人数で基礎研究を進めて、段階的にチーム構成を拡大しようとしているようです」

 博士が聡華を見て浮かない顔で話しかける。

「この先、芙蓉さんと大学側で少し揉めそうだねぇ」
「えぇ、共同プロジェクトの発表直後に、芙蓉重工の法務部から両方の大学に宛てて『ガラテア4のLTMに関する知的財産の侵害があれば、弊社は直ちに法的対応をとる』って警告書を送ったそうですけどね」

 そう言って聡華が鼻白んだ表情を浮かべると、博士も苦笑して相づちを打つ。

「修善寺君が聞いたら暴れだしそうだねぇ」

 和倉が渋面を作る。

「社長は『最初に芙蓉が不義理をしているんだし、馬鹿馬鹿しいから止めろ』って言ったそうなんですけどねぇ。ガラテア3にせよ4にせよ、エライさんの多くはどれくらい両大学の特許使用許諾を受けているのかわかってないんですよね」
「まぁね。多分理研大が使用許諾契約を全部取り消してしまえば、芙蓉重工さんは一台もロボットを作れなくなると思うよ。でもね……」

 そう言って言葉を切った博士の表情が曇る。

「本当は大学と芙蓉重工さんが共同すれば、どれほど研究の先行きは明るくなることか……」

 うつむいて聡華が呟いた。

「本当にそうですよね。珊瑚さんや和泉さんたちと一緒にやれれば、どれほど心強いかといつも思います」

 そうして話しているうち、テーブル脇の電話が鳴り、レンズが出る。

"Hello, this is Lenz Beppu speaking. May I hel... Ah, Sango!"

 珊瑚からの電話だった様で、急にはしゃいだ声を出している。

「久しぶりですー 何ですか? 博士に代わりましょうか? プリズム? はいわかりましたー」

 そう言って電話をプリズムに手渡す。

「プリズムっ、珊瑚さんがお話したいって」

 食卓から離れてメタノールを飲んでいたプリズムが、慌てて電話を受け取る。

「もしもし…… はい、プリズムですよ。もう大丈夫ですよ。昨日の晩に全部AIのチェックをして、OKが出たので今は博士達と一緒に家に帰ってるんです…… 和倉さんたちですか? いますよ、今ご飯食べてますよ。あ、電話を代わる前に聞いていいですか? ナミちゃんの事なんですけど……」

「ナミちゃんは今眠ってるって聞いたんだけど、大丈夫ですか? そうですか、いつごろ目が覚めるんですか? あーそうなんですか、研究の進み方次第なんですね。はい、わかりました。じゃ、博士に代わります」

 博士が珊瑚と電話で話す間、プリズムにレンズが質問している。

「ナミちゃんはどうだって? 大丈夫なのかなー?」
「うん、いつ目が覚めるかはわからないけど、そんなに心配はいらないって。博士が日本に戻ってくる頃には研究が終わるようにしたいなって言ってたのよ」
「それって、まだずっと先だよ。やっぱり大変なんだねー、研究って」
 そう言ったレンズがしょぼんとしていると、聡華が後ろから肩を叩く。
「時間はかかってしまうかもね。でも、必ず研究は成功させるからね」

 電話で話していた博士が聡華を呼ぶ。

「聡華くん、代わってくれないか。向こうの電話も珊瑚くんから和泉くんに代わってるからね」

 ちょっと驚いた顔で聡華が電話を受け取る。

「あら、珊瑚さんと一緒だったのね? あぁそうか、そっちはまだ勤務時間で大学にいるんだもんね。うん、もうプリズムは大丈夫よ。プリズムのモニタリングデータとかは博士から送ってもらうね。私が直接送ると首になっちゃうから。えぇ? 辞めてあなたの研究室に? ダメよ、次世代機の開発をしないといけないんだもの。我慢しなきゃね。うん、日本に帰ったら連絡するね。それじゃそっちも体に気をつけて……」

 聡華は笑いながらそう言って電話を切った。

「芙蓉重工なんか首になっても、うちの大学に来れば良いって。でも、そういうわけにもねぇ……」


 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆


「警告書? 芙蓉重工がか? 何考えてんだあいつら」

 大学から戻った珊瑚に、腹を立てたというよりは、むしろ半ば呆れた声で修善寺が言うと、珊瑚も冷笑気味に返事をする。

「わっからないよね、あの人達。ガラテアシリーズの製造技術は結構大学の使用許諾を貰ってるものが多いのに、その大学と喧嘩してどうする気なんだろ。有馬社長も大丈夫なのかな? 法務部にあんなメチャクチャやらせておいてさ」

 そう言った珊瑚を、眠ってしまった藍を抱いた湯布院教授が宥める。

「まぁそう言うな。格さんも板挟みで大変なんだよ。本気で格さんを解任しようって連中もいるから、今はある程度のガス抜きをしておかないとな。本当に格さんが社長を解任されちまったら、ガラテア4NGなんてもう夢物語になっちまうぞ」
「まぁそれは分かるけど、理研大とうちの大学に喧嘩売るのも大概だと思うよ」

 そう言った珊瑚に修善寺が質問する。

「実際上どうなんだ? 理研大と産総研大の共同研究の方は影響受けそうか?」
「関係ないと思うよ。理研大もウチも基本特許の使用許諾を芙蓉重工には随分出してるけど、それの契約更新を本気で渋ったら、あそこは潰れるしか無いからね。ハッタリで言い出しただけだと思うよ」

 湯布院教授が忌々しげに呟く。

「それで格さんが余計に社内で責められてるらしい。『芙蓉重工を大学の奴隷にした』とまで言われてるからな」

 修善寺が湯布院教授に質問する。

「まぁ、実際に告訴を受けて研究が妨害される可能性はなさそうってことですよね?」
「反対派の重役連だって馬鹿じゃねぇからな、そこまでトチ狂っちゃおらんだろう…… と信じたいな」

 珊瑚が教授から修善寺に視線を移して溜息をつく。

「いがみ合ってる場合じゃないのにね。私達だって芙蓉重工が潰れてしまったら最後なんだもん」
「全くだ。あそこが潰れてガラテア4の次世代機が出ないとなれば、たとえナミのLTMが治ったとしても次の躯体更新ができなくなって、三十郎と同じことになっちまうからな」

 湯布院教授が修善寺にニヤッと笑いかける。

「まぁ、しばらくは忍耐の時期だな。格さんもやられっぱなしでいるわけじゃねぇんだ。格さんを解任しようとしているのは反主流派のごく一部だから、いずれ機会を捉えて徹底的に反撃すると言っていたからな。三郎と違って格さんはその手の泥仕合を嫌がらんから、いずれ反有馬派はボロクソに殲滅されると思うぞ……」
「早くそうなってほしいよ。やっぱり和倉さんたちと一緒に研究できる体制が一番いいんだもん。ナミちゃんは待ってるんだからさ……」

 そう言って珊瑚が部屋の壁を見る。そこには大きな麦わら帽子がかかったままになっている。修善寺がナミを手元に引きとってきた日に買ってきた物で、ナミのお気に入りだった。
 それは色あせた大きなリボンが付いた、何の変哲もない麦わら帽子だったが、ナミが初めてお店で買ってもらった物なのだ。修善寺は今でもその時のナミのはしゃぎ様を思い出せる。

 教授が修善寺に向かって穏やかに話しかける。

「あとな、格さんだってナミのビデオメッセージを見て、思うところは色々あったんだ。言っとくけど、格さんは直接開発にタッチしてないが、それでもやっぱりナミは娘なんだぞ。だからあまり責めてやってくれるな」

 修善寺が教授にうなづく。

「はい、頭ではわかってるんです。有馬社長が望んでやっている訳じゃないって事も。だから今度会った時には、この間の無礼な態度を詫びようと思ってます」
「まぁ、そこまではせんで良いだろ。適当に流しとけ」

 そう言って教授は目を細め、眠っている藍をゆっくりさすりながら珊瑚に話しかける。

「そう言えば珊瑚、病院でなんて言われた。順調か?」
「ん? お腹? 順調だってさ。また女の子だよ」
「そうか、賑やかになっていいな」
「ナミも喜ぶでしょうね……」

 修善寺が教授にそう言って、帽子を見つめた。

エピローグ: ユリーカ

2075年5月23日 コロラド州ゴールデン市内 別府邸


「博士、珊瑚さんからメッセージが来てますよ」

 プリスムがそう言って、この頃めっきり白髪の増えた別府博士にインフォ・タブレットを渡す。

「Eureka! ってしか書いてないんですけど、何のことですか?」

 それを聞いた博士の顔に笑みがゆっくりひろがり、プリズムを見返す。

「言葉の意味はわかるだろう? 言ってごらん」
「えぇと、『発見した!』ですよね?」
「何を見つけたかわかるかい?」
「え? これだけじゃわかりませんよ」
「推論してごらん。珊瑚くんが探してたことで、僕にわざわざ知らせること。そして、たった一言でも僕にわかるくらい重要なことだよ」
「えーと、珊瑚さんが探してたことってなんだっけ…… 重要なことで、一言で博士に…… あっ! もしかしてLTMマージ問題を解く方法が見つかったんですか?」
「そうだよ。日本に帰ったときにはナミくんと会えるだろうと思うよ」
「あっ、そうしたら日本でお留守番してるレンズの方が、先にナミちゃんに会えるのかな?」

 そう言って悔しそうな顔をするプリズムに、博士が苦笑する。

「コイントスで君が勝ったから僕についてきたんだよね。文句を言ってはいけないよ」
「いつ日本に帰るんでしたっけ?」
「ギブソンの取締役会が終わるのが月末だから、余裕を見て来月の三日に帰りの飛行機の予約を取ってあるよ」
「5月31日の深夜便に振り変えていいですか?」
「いいよ」
「はい、ありがとう博士」

 はしゃいだ声で礼を言ったプリズムは、早速部屋の机に端末を出して予約の変更を始めた。



2075年5月23日 東京特別市町田区 修善寺宅


「珊瑚、ナミはいつ頃に目を覚ましてやれそうなんだ?」

 子供を抱いた修善寺がそう聞くと、珊瑚はニカッと笑う。

「ん? 実は今これからでも大丈夫なんだよ。プロセスコード更新はとっくに終わってるし、LTMの修正とチェックも終わってるもの」
「チェックって言ったって、AIシミュレーターでのチェックだろ? 実機チェックは……」
「それは結局ナミちゃんを起こさないと出来ないんだもん。もう後は、覚醒コマンドを送ってあげるだけなんだよ」
「じゃぁ、さっさと起こしてやろうぜ。俺が夜なべで躯体とANS周りのチェックを終わらせてるから、ハードウェア的には完璧だぜ」
「うん、焦るのはわかるんだけど。もうちょっと待ってよ。信くんが今日、大阪から帰ってくるからさ。彼を待ってるのよ」
「あぁ、今日はあいつ決勝試合で勝ったんだよな。でも、帰ってきた時にナミにおめでとうを言わせりゃいいんじゃないか?」
「それじゃダーメ。私だけじゃなくて、和泉さんや聡華さん、って言うか今回のプロジェクトに関わった女性陣の総意なんだから。ナミちゃんの目覚めのセレモニーは信くんにやってもらうの、無理矢理にでも」
「何だよ、その陰謀臭いのは」

 半ば呆れ顔の修善寺に、珊瑚はいたずらっぽく笑う。

「まぁ、楽しみにしててよ。信くんは夕方帰ってくるから、それにあわせてナミちゃんのお目覚めよ。それからパーティの準備は出来てるかしら?」
「あぁ、そっちは大丈夫。「めいふぇあ」のマスターに頼んで大きめのホールを貸切にしてもらったし、料理とかは妙さんのところで手配してもらってる。あとさ、くどいようだけど、お前、あの衣装を本当に着るのか?」
「もちろんよ。あなたと揃えたんだからね」

 修善寺が肩をすくめる。

「はいはい……」
「ハイは一度でいいのっ。あなたもパーティではちゃんと詰襟着なさいよ!」

 そう言って珊瑚がカラカラと笑った。


2075年5月23日 奈良広域市 奈良駅付近


「信くん、何見てるの?」

 大阪から帰りのリニア新幹線の車内で、信に声がかかる。声の主は網代錦。修善寺の元同僚で芙蓉重工社員、今は信が通うジムの師範代でもある。

「え? あぁ、ホロビデオです」
「あぁ、これナミちゃんじゃない。早く目が覚めるといいね」
「実はさっき、珊瑚さんから連絡があって、今日の夕方目覚めるから真っ直ぐ来てくれって」
「もうそろそろだとは聡華さんに聞いてたけど、今日だったんだ。信くん、今年はツイてる年だね。U18のライト級王者もとったしさ」
「そっちは錦さんや師範達のおかげですよ」

 そう言って照れ笑いした信の背中をバシッと叩きながら網代が返す。 

「いやいや、本人の努力だってば。本当に強くなったよ、君」
「まだまだですよ。今回の決勝だって判定に救われたし」
「何言ってるの、去年の王者から12点も取っておいて救われたもないもんだよ。だめだよ、もっと自信持たなきゃ」
「あはは、何か実感がなくて…… あれ、またメッセージだ」

 電話を見ると、修善寺からのメッセージが入っている。

「何で僕のボディーサイズなんか聞いてくるんだろう?」

 不審そうな顔の信に、声を上げて網代が笑いだす。

「あっはっは、行けばわかるよ。まーったく、コレだから年少組出身者は困るのよねぇ」

 そう言ってからも、笑い上戸の彼女はまだくすくす笑っている。

「あ、あの、一体何があるんです?」

 不安そうにそう聞いた信に、網代がクスクスと含み笑いをしながら答える。

「ま、まぁ、行けばわかるよ…… あれ、私にもメッセージ来てる。珊瑚ちゃんかぁ」

 そう言って自分の電話を見た網代が、苦笑いを浮かべて独り言を言う。

「私もなの? あーあ、バニースーツも久々だねぇ……」
「あ、あの……」

 信がものすごく不安そうな顔だ。

「心配無いって、恥ずかしいのは最初だけだからさ」

 網代が笑ってそう言ったが、信は全然励まされた気にならなかった。


2075年5月23日夕刻 東京特別市 八王子駅


 信と網代が八王子で新幹線を降りると、約束通りロータリーに和倉が迎えに来ていた。

「錦ちゃん、信くん。ナミが待ってるから早く行こう」

 二人が乗り込むと、先客が二人いた。網代が嬌声を上げる。

「サキちゃーん! 久しぶりー、元気だったー? 宮城先生も久しぶりですねっ」
「お久しぶりなのです。錦ちゃんも元気だったですか?」
「もちろん! あぁ、紹介しとくね。この男の子が草津信くん。U18のボクシング日本王者だよ」

 走りだした車の中で急に紹介されて、少し気後れした表情の信が慌てて挨拶する。

「あ、えっと、草津信です。よろしくお願いします」
「宮城咲耶です。こちらこそよろしくなのです」

 そう言ってふわっと笑った咲耶を見ると、どこの王侯貴族かと思うような豪華な衣装を着ている。本人も貴族令嬢で通りそうな目鼻立ちのくっきりした美人だ。奥に座ったイブニングスーツの壮年の男性も会釈気味に頭をさげる。

「宮城蔵王です。産業総合研究大学で学生を教えてます。咲耶の夫です」
「初めまして。先生のお話は珊瑚さんからお聞きしたことがあります」

 宮城教授が温和な笑顔を向ける。

「何て言ってました?」

「お子さんが五人もいるって聞きました。今日はお子さんたちはお留守番なんですか?」

 咲耶が笑って答える。

「子供たちは先にパーティー会場に行ってるのです。向こうでいたずらしてそうで心配なのです」
「パーティ?」

 首をかしげた信に、網代が答える。

「修善寺くんの家でナミちゃんの目覚めのセレモニーをやってから、近くのホールでどんちゃん騒ぎするんだってさ」
「はぁ、そうなんですか」

 咲耶が信を見て質問する。

「信くんはパーティーではどんな衣装を着るですか?」
「え? 衣装ですか? 別にこれといって…… って、何です? 衣装って」

 慌てて聞き返した信を見て、網代が我慢できなくなって笑いだす。

「アッハッハッ、心配無いって、珊瑚ちゃんが準備してるから、そんなに突飛な衣装じゃないはずだよ」

 それを聞いた信は、ますます不安が増して行ったのだが、それからは網代も咲耶もお喋りに夢中で割りこむことが出来なかった。そうこうするうちに、和倉の運転する車は修善寺の自宅からほど近いホテルのアプローチに停車し、宮城夫妻と網代が降りる。

「じゃあ、後でね」

 そう言って見送った三人を後に、車は修善寺の家に向かう。

「和倉さん、もうナミちゃんは目覚めてるんですよね?」

 そう聞いた信に、和倉が何気なしに答える。

「いや、まだ眠ってる。君を待ってるんだ。君とナミがセレモニーの主賓なんだそうだ」
「え? 一体何ですか? それ」

 ますます不安が募っていく信に、和倉がいわくありげな笑みを浮かべる。

「さぁなぁ? 何か女性陣が色々企んでるみたいだったなぁ。いばら姫がどうのこうのと」
「はぁ……」

 そして、車は修善寺のアパートメントに到着した。



2075年5月23日夕刻 修善寺宅


「お、来たな。大会優勝おめでとう、信」

 そう言って、玄関を入った信の肩を修善寺が叩く。

「ありがとうございます。あの、ナミちゃんは?」
「はは、あいつの寝室だ。行こうか」

 そう言って、寝室に入る。いつものようにベッドに横たわったナミがいる。ベッドの周りには赤ちゃんを抱いた珊瑚や那須夫妻、湯布院教授も一緒だ。一抱えもある大きな花束を持った聡華もいる。有馬社長が所用で来れなかったので、頼まれたものだ。和倉も遅れて入ってくる。

「ちょっといい? 信くん」

 そう言って手招きした珊瑚の方に信が行くと、修善寺や那須が苦笑している。

「はい、あの…… セレモニーのことですよね?」

 頼りなげな口調でそう言った信に、珊瑚がにっこり笑う。

「そう、ちょっとだけお願いしたんだけど、聞いてくれるかな?」
「えっと、どんな……」

 と一応は聞いたが『いばら姫』と言われたら、もう何をやらされるかはわかりきっている。自分の手がひどく汗ばんで、顔が火照って熱くなるのがわかる。

「目覚めのくちづけをお願いしたいの。いいでしょ?」

 笑みを浮かべながらも真剣な目でそう言う珊瑚。聡華と和泉も見つめている。逃げ道はなさそうだ。信は気圧されてうなづいてしまう。

「じゃ、お願いね」

 そう言ってサンゴがニッコリと笑うと、誰かが控えめな拍手を始める。と、次々と静かに拍手が重なっていく。珊瑚が信に目配せすると、信は半分熱に浮かされた気分で、眼を閉じて眠っているナミに覆いかぶさる様にゆっくり顔を近づけていく。体に力が入らず、心無しか爪先立つ様な感じがする。ナミの寝息を唇に感じ、信は眼を閉じて更に顔を寄せる。その刹那、どこまでも柔らかく温かい羽毛の触れる感触を唇に感じる。

 そして拍手が急に大きくなって小さなナミの寝室に響くと、信は驚いた人の様に閉じた目を開き、スッと体を起こしてナミの顔を見る。長い睫毛が震え、長い間閉じられ続けたまぶたがゆっくりと開かれる。起き抜けのぼんやりした表情でナミは信を見つめ、そして笑みがどこまでも広がっていく。

「おはよ、信くん……」

 ナミが信を見つめたままそう言った瞬間、珊瑚が抱いていた赤ちゃんが大きな声で泣き出してしまう。拍手の音が大きすぎてビックリしてしまった様だ。

「あー、だめだよ、藍ちゃんのいるところで大きな音をたてちゃ! 藍ちゃんがビックリして泣いちゃうよ」

 ベッドから起き上がりながら口を尖らせて周りに文句を言ったナミに、湯布院教授のスラックスを掴んだ小さな女の子が不思議そうに声をかける。

「藍ちゃんはなかないよー。るりちゃんがないてるんだよー」

 そう言われたナミが、赤ちゃんと女の子を交互に眺めてから、女の子を見つめる。

「藍ちゃん?」
「うん、藍ちゃんだよ。おはよう、ナミちゃん」

 不思議顔をしていた女の子はにこーっと笑い、ナミも顔をくしゃくしゃにして笑う。
 珊瑚が赤ちゃんをあやしながらナミに近づける。

「おはようナミちゃん。この子は瑠璃よ。ナミちゃんが眠ってしまった時には、私のお腹の中に居たの」
「ルリちゃん…… 男の子? 女の子?」
「女の子よ」

 珊瑚が優しく笑ってそう言うと、ナミが瑠璃に笑いかける。すると、藍が修善寺を呼ぶ。

「ねぇパパー、藍お腹すいたのー。早くパーティーに行こう」
「わかったわかった。じゃあ、藍はママと一緒に着替えてこなきゃな。珊瑚、瑠璃は俺が見ておくから、準備しちゃえよ」
「はいはい。じゃ、ナミちゃんも一緒に着替えようね」
「はーい。パーティーがあるんだね」

 ナミが嬉しそうに返事をして、ベッドから離れて隣の部屋に向かう。
 瑠璃を珊瑚から受け取った修善寺が、ナミに声をかける。

「お前の目覚めのお祝いだけじゃなくて、信の優勝祝いも一緒だぞ。昨日のボクシングの試合で、信は優勝したんだ。日本一だぞ」

 ナミが信を振り返って、こぼれんばかりの笑顔をふりまく。

「おめでとう、信くん」

 那須が修善寺に声をかける。

「空海、俺達も着替えがあるから先にホテルに行ってるぞ。信くんも一緒に行こう。君のお母さんたちが向こうで衣装を準備して待ってるそうだからな」

 『衣装』と聞いた信は再び不安に襲われるが、もう逃げ道はなさそうだ。修善寺が那須に笑いながら返事をする。

「了解。こっちもすぐに追いかけるよ『神主さん』」

 隣の部屋で着替え始めたナミや藍の声が賑やかに聞こえてくる。





 2075年5月23日、一年半にわたったナミの長い眠りはようやく終わった。
 変哲もなく穏やかに流れ行く日々、そしてかけがえのない毎日が再び始まる。













おしまい。

サクリファイス

サクリファイス

のんびりとロボット修理店で暮らしていたコンパニオンロボットの「ナミ」に人工頭脳の異常が生じ、やがて機能停止を迎えます。オーナーの修善寺夫婦やその周辺の開発者達、そしてナミと淡い恋を結ぶ少年の周辺を描きました。

  • 小説
  • 長編
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-08-13

CC BY-SA
原著作者の表示・CCライセンス継承の条件で、作品の利用を許可します。

CC BY-SA
  1. プロローグ: 蘇生
  2. 芙蓉重工AIラボにて
  3. AIラボ 第八実験室にて(検査開始)
  4. 自宅リビングにて
  5. AIラボ 第八実験室にて(検査終了)
  6. 弓ヶ浜海岸にて
  7. AIラボ 第八実験室にて(臨時対応処置)
  8. 「ロボットのお医者さん」にて
  9. ロボットのお医者さん 店内事務所にて
  10. ロボットのお医者さん 店内玄関にて
  11. ロボットのお医者さん 店内処置室にて
  12. ロボットのお医者さん 店内処置室にて(その2)
  13. ロボットのお医者さん 店内応接室にて
  14. ロボットのお医者さん 倉庫にて
  15. 町田第11消防分署にて
  16. 消防分署からの帰り道にて
  17. 学校にて
  18. 喫茶店「めいふぇあ」にて
  19. 自宅ベッドルームにて
  20. AIラボ 第一研究室にて(1)
  21. AIラボ 第一研究室にて(2)
  22. AIラボ 第一研究室にて(3)
  23. AIラボ 第一研究室にて(4)
  24. AIラボ 第一研究室にて(5)
  25. AIラボ 第八実験室にて(覚醒処置)
  26. 小割烹『ぜんまい』にて
  27. ロボットのお医者さん 店内処置室にて(その3)
  28. 喫茶店「めいふぇあ」にて(その2)
  29. 喫茶店「めいふぇあ」にて(その3)
  30. ロボットのお医者さん 店内処置室にて(その4)
  31. 教会にて
  32. ロボットのお医者さん 店内応接室にて(2)
  33. 自宅リビングにて(2)
  34. スナック『オートマータ』にて
  35. 喫茶店「めいふぇあ」にて(その4)
  36. ナミの寝室にて
  37. 自宅リビングにて(3)
  38. 自宅書斎にて
  39. ゴールデン・シティにて
  40. エピローグ: ユリーカ