図書室で星を見る

 金曜日のお昼休みは当番の日なので、図書室のカウンター席に座って、貸出帳簿に必要事項を記入したり、貸出カードに返却印を押したりする。書架に本を戻しに行く作業は、チャイムが鳴る前に始めるので、本を持ってくる人がいないときは、私、自分の本を読んでいた。
 本は好きだし、図書館も好きだけれど、中学校の図書室は好きじゃない。大きくない図書室に集まる、たくさんの人の話し声が絶えないからだ。授業中に先生がちょっと忘れ物を取りに行っている間の、教室と同じくらいうるさい。図書室の奥にいる司書さんは注意してくれないし、壁の「静かにしましょう」という張り紙は色あせている。図書委員の他の当番はあまり仕事をしてくれないし、下手に注意すると面倒だと一年生のときに学んだから、だいたい一人でやることをやって、手が空いたら本を読むようにしていた。
 春の穏やかさを感じる隙もない図書室は、去年よりもにぎやかになっているような気がする。いい加減司書さんに頼んで注意してもらおうって、ひっそり決意した日、図書室に行ったら、カウンターには、なぜか木原さんが座っていた。私、曜日を間違えたのかと思った。黒板を見ると、日付の下の括弧には、金、の字。当番の名前の中には、関口、私の苗字もある。そして、そもそも彼女は図書委員ではないことを思い出した。
 木原さんは、大きな図鑑らしき本をカウンターに広げて、その上に身体を伏せて眺めている。私が座るスペースは若干残っていたので、いつも通り座ってみたけれど、肩身が狭い。帳簿記入のとき、じゃまなのでどうしようかと思った。でも、実際カウンターに人が来ると、彼女は図鑑を避けてくれたので、じゃまになることはなかった。
 クラスは違うけれど、髪を結うゴムの色もスカートの長さも校則違反の木原さんは、怖いと評判の人だから、知っていた。カウンター席に座らないでくださいなんて、言えない。言っても、図書委員しか座ってはいけないという決まりなんて、彼女が守るとは思えなかった。いつもは窓際の奥の席にいるのに、どうしてここにいるのだろう。
 困って木原さんを眺めていたら、ふとこちらを向いたので目が合ってしまい、すぐ手もとの本に目を戻す。少し高い不安定な椅子が、軋んで音を立てた。
 その日、お喋りを注意してもらおうと思っていたことはすっかり忘れていた。というのも、今日は普通にお喋りしている人がいなかったから。
 次の週も、木原さんは私のとなりにいた。のびのびと大きな本を広げている木原さんの横で、私は小さくなって本を読む。ときどき、本の返却の対応をする。
 めずらしく返却本が多かったので、何回かに分けて書架に戻すためにも、今日は少し早めに片づけを始めた。他の図書委員はひそひそ話に夢中。その声がやけにカサカサと響く。カサカサ、クスクス。みんなには背を向けて書架を見る。作者名で探しながら横歩きをしていたら、誰かにぶつかりそうになった。
「ごめんなさい」と謝ってとなりを見ると、頭ひとつ分ほど背が高いその人は、木原さんだった。彼女は本を数冊抱えている。
「多かったから、手伝おうと思って」
 彼女はひそひそと言う。そう、彼女が抱えている本は、今日返却された本だ。驚いたけれど困ることではないし、むしろありがたかったので、素直に「ありがとう」と言ったら、木原さんは「べつに」と言って作業に戻った。キラキラしている髪ゴムで結ばれたポニーテールが、本棚の向こうに隠れてしまう。素っ気なかったから、何か言い方がまずかったのだろうかと不安になる。やっぱり怖い人かもしれない。
 三週目も変わらず木原さんがいたけれど、図書室はガヤガヤではなく、ひそひそとしていて、彼女が座っていないときより良い環境だったから、もうこのままでいいと思った。木原さんは、ゆったりと広げた本を、熱心に見ている。一体何の本だろうかと気になってしまって、のぞかずにはいられない。
 木原さんからはみ出しているページには、きれいな星の図が載っていて、どうやら星の図鑑のようだった。図や写真の合間には、細々とした文字がびっしりと書き込まれていて、木原さんはそれを一生懸命に読んでいるらしい。私は、細かくて難しい文章を読むことが苦手なので、図鑑の細かいところを読めるなんて、すごいと思った。
 木原さんは、私が見ていることに気が付いてしまって、身体を起こした。じゃましてごめんなさいと焦って両手を合わせる。怖い。彼女は机に手をかけて、若干こちらに寄ってきた。緊張して身体をこわばらせていると、木原さんは私の手もとをのぞき込んだ。冷や汗が背中を伝う。心臓が早鐘を打つ音が聞こえませんようにと思いながら、息をひそめる。
 本から顔を上げた木原さんは、ほとんど吐息のような声で、その本、好きなの、と聞いてきた。私、言葉に詰まってしまった。読みかけの詩集なので、好きかどうかと言われても、まだわからない。詩は、星の集まりのように光っていることばの集まりだから、好きだ。でも、この本が好きかどうかと言うと、まだ、好き、ではない。
 詩集を指さす木原さんにじっと見つめられて、私、わからない、と正直に答えるしかなかった。彼女は、そう、と言ってまた図鑑の上に伏せて、目の前の文字を読み始めた。せっかく話しかけてくれたのに悪かったな、と思った私は、喋りたいという気持ちと、喋ってはいけないという思いが、心の中でぐるぐるしていることに気が付いて、頭を抱えた。どうしよう。
 私の葛藤を知らない木原さんは、ひそひそと話しかけてくるようになった。星の寿命のことや星の最期のこと、今見える星のことなど。そんなことを毎週聞かされていくうちに、星の知識がほんのりと増えていって、星の話は、まるで物語や詩のように楽しいのだと知った。木原さんが熱心に読むのもわかる気がする。木原さんは、新しい知識を教えてくれるとき、目を輝かせて、小さく笑った。えくぼがかわいかった。木原さんは、怖い人じゃなかった。
 そろそろ天の川を意識し始める頃、図書室はひそひそと話すことが当たり前になっていた。学校の図書室はそんなものなんだな、と思うことにしたものの、ひそひそと話す自分にはもやもやしていた。でも、木原さんの笑顔が、私を許してくれているような気がして、許すことにした。それに、木原さんと話せるのは、金曜日の図書室だけだったから。仕方ない。そう思いながら、私ってずるいんだ、と知った。
 星雲の話は、無数の星やガスの集まりとか、種類があるとか、難しいことはわからなかったけれど、写真がとてもきれいだった。一緒に眺めていたら、木原さんが、「花みたい」と言った。星が、花みたいだなんて、この人、かわいいことを言う。確かに、花みたい、とひそひそする。紙の上の星、ふたりで眺めるのも、悪くない。
 私、読んでいた泣菫詩抄に、星と花の詩がでてきたことを思い出して、手もとの本をパラパラとめくる。地には星が落ちてきて、空には花が咲く景色が見える、七五調の心地よい詩。木原さん、聞いて聞いて。
「星が空から落ちて来て、花が代りに撒かれたら……」
 ひそひそと詩を読む。いつも私が教わってばかりだから、私も知っていることを、教えてあげたかったんだ。ついでに、「この本、好きだよ」と伝えた。
 木原さんは黙って聞いてくれた。うん、と何度もうなずいて、それから、何か思いついたみたいで、しばらく動かなかったけれど、突然、本を開いている私の手に、手を重ねてきた。
 どういうつもりだろうと、胸をときめかせたのは、一瞬。彼女は手を重ねたまま、泣菫詩抄を閉じた。よくわからなくて呆然としている私の手から、本を取って、じろじろと見ている。木原さんは、うん、ともう一度うなずいて本をカウンターに置くと、立ち上がって書架のほうへ行ってしまった。図鑑を開いたままで。
 私、また不安になってしまった。もしかして、今の詩があんまり好きじゃなかったのではないか、とか、そもそも詩が好きじゃなかったのではないか、など。木原さんはうろうろしてから、ゆるりと戻ってきて、変わらず図鑑の上に伏せて再び図鑑を読み始めた。私は閉じられた詩集を前に、わけがわからなくて途方に暮れた。
 休み時間が終わって、いつもと変わらずひらひらと手をふる木原さんと別れたあとも、詩集を開くことはできなかった。
 わざわざ木原さんに会うために、他のクラスの教室に行くのは、気が引けるし、なんて言えばいいのかわからないから、行くに行けない。灰色の雲に覆われたような心模様のまま、次の金曜日まで過ごすことになった。
 あまりお箸が進まない給食の時間を終えて、早く行かなきゃという気持ちと、行きたくないという気持ちの両方を胸いっぱいに抱えたまま、図書室にたどり着く。いつも軽く開くことができる扉を開けることが、怖い。一週間も経ったのだから、先週のことなんて忘れて、いつものようにカウンター席にいるかもしれない。または、最初の頃のように、窓際にひっそり座っているかもしれない。
 扉を開けたら話し声が廊下にこぼれて、カウンター席には、だれもいなかった。反射的に窓際の奥を見る。そこにも、木原さんの姿はない。
 まだ来ていないのだと思って、貸出帳簿を取り出したり、返却に応じたりしながら、心の準備をした。
 作業が終わっても、彼女は姿を現さない。まだ五分しかたっていないのに、もっと長い時間が過ぎたように感じる。詩集を開いても、文字の上を視線が滑ってゆくばかりで、ちっとも内容が頭に入ってこない。
 落ち着かないまま席を立って、詩集が並んでいる書架を見に行く。星と花が出てくる詩に関する記憶を、引っ張ってきて、探す。金子みすゞの詩集を見ていたら、小学生のとき、教科書で読んだ詩を見つけた。そうそう、これも、教えてあげたいんだ。でも、木原さんは来ない。
 彼女がいつも見ている図鑑を、カウンター席に持ってきて、広げてみる。いろいろな星雲の写真、少し不気味で怖い。一緒に見ている人はいないから、思ったことを伝える相手はいない。さびしかった。
 何度、時計を見たことだろう。チャイムが鳴ったとき、私の心は、遅れて梅雨がやってきたように、ざあざあ降りだった。
 木原さんがカウンター席に座っているおかげで、図書室はガヤガヤからひそひそになったし、本を読む場所が図書室に変わるだけの休み時間は、人とことばを交わすことができる、少し楽しみな時間になった。
 また一年生のときみたいに、一人でカウンター席に座っていないといけないんだ。そう思ったら、もうぜんぶの終わりのような気持ちになった。
 土日を挟んで、何の楽しみもない一週間が始まる。朝、とってもうるさい教室。ぽっかり浮いているような心持ちで自分の席に向かうと、適当に座っている人がいて、目が合うとすっと席を立つ。おはようのひとつも、私は言えない。言えたら、私もこの教室に馴染むことができる、かもしれないのに。
 ゆるりと席に着いて、詩集を開く。好きだった詩が、読み返すほどにさびしいと感じてしまう詩になってしまった。目の前に星が、空に花が光っている景色は見えなくて、花も星も失われた地面が、よく見えるような気持ち。相変わらず読み返すことができないから、私、机の傷をなぞるように、見ている。
 教室が、少し静かになった。先生でも来たのだろうかと思って顔を上げると、スカートが短くて、背の高い、怖い人が、教室の中をのぞいていて、「関口さんはどこ」と近くの人に聞いていた。うっかり目が合ってしまって、遠慮なく足を踏み入れた彼女は、一直線に、私の目の前に来た。かばんを持ったままの木原さんは、マスクをしていた。
「おはよう」と言われて、私、うろたえながら、挨拶を返した。彼女は、私の机に手をかけてしゃがむと、机越しに斜め下から私を見て、「ごめん」と言った。
「金曜日、ごめん。風邪ひいて、学校休んじゃった。だから、行かれなかった」
 思わず目を見開いて、視線を泳がせている木原さんを見る。
「じゃあ、詩は、いやじゃなかったの」と聞いたら、木原さんは、「詩って、薄田泣菫の」と不思議そうに言った。私はうなずく。「いやじゃなかったよ」木原さんはかばんを床に置いて、本を一冊、取り出した。
「私も読みたいと思ったのだけど、学校の図書室にはなかったから、図書館で借りたんだ」
 その本は、私が読んでいるものと同じ、泣菫詩抄だった。
「詩は、授業以外で読んだことがなかったけれど、星の図鑑と同じくらい、おもしろいね。また、詩のこと、教えてよ」
 木原さんの目じりが下がって、やわらかく、笑っているのだと、マスクをしていてもわかった。彼女が私の本を見ていたのは、タイトルを知りたかったからで、図書室の書架を見に行ったのは、同じ本を探しにいったからだったんだ。ほっとして、力が抜けた。
「いいよ。そのかわり、星のこと、教えてね」
 そう言ったら、木原さんは大きくうなずいた。嬉しい。私、また木原さんと一緒に、図書室で星を見てもいいんだ。

図書室で星を見る

図書室で星を見る

中学校の図書室で当番の仕事をしている図書委員の関口さんと、そのとなりに座ってくる木原さんのおはなしです。 (pixivにも同じものを投稿しています。)

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-06-28

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