イマージョン


日が昇っている。窓を叩きつける雨音は聞こえない。まるで世界の果てに転がり込んだような静けさだ。
昨夜はひどい降りだった。雨礫が波のように襲った。窓が砕けそうな予感に駆られて外を窺うと、濡れたガラス越しに向かいの棟の灯が見えた。普段ならカーテンがひかれている時刻だ。窓際に立ちつくす住人の影がある。嵐の勢いにすくんでいる様を見て取り、俺は少しだけ安らいだ。
目覚めは最悪だった。
瞼も開けたくないほど気だるい。強壮剤を誤って二度呑んだかのように身が重い。過ぎて毒となった薬を排出しきれないのは、代謝機能が落ちている証拠だ。
こんな日は何をやっても駄目だろう。身体がそう告げている。気の持ちようだと思っても、痺れたような腕を動かして、すべきことに取り掛かるためのモチベーションを掴み上げるのは難儀だった。

作業部屋の椅子に身をもたせかけ、キーボードに手を伸ばす。そっと触れると、マシンが覚醒する。モニターに灯が入り、女の姿が浮かぶ。物思いから覚めたように顔を上げ、俺に目を向け、微笑みをくれる。何のてらいもごまかしもない、ナチュラルなスマイル。清々しい朝がそこにあった。
きめ細かな、血色のいい肌。艶やかな眼と唇。スタイリストがセットしたばかりのような髪に、ハイライトの光が綺麗な円を描いている。顔を傾げるたび毛先が振れ、その影を揺らめかす。まったく不自然を感じさせない。
俺の渾身の作。その表情の中に、俺はユーリの心を見る。澤邊ユーリ。俺が心血を注ぐ女。俺の最高の成果、俺の矜持そのものだ。
「大丈夫だから。心配いらない」
 ふと気遣うような表情を見せた彼女に、今度は俺が笑い返す。
「今日も頑張ってくるさ」
 ユーリの表情が明るくなる。かわいい手のひらを俺に向け、小さく彼女は振る。いってらっしゃい――俺には、その声が聞こえる。無言の声援が俺の心に響く。
 自分の手で仕込んだプログラムだ。しかし今、沸き立つこの気持ちは作り物じゃない。

 俺は身を起こし、モニターに背を向け、出勤の身支度を始める。見送るユーリの視線を感じながら。何の操作もしなかったから、マシンは数分でスタンバイモードに戻るだろう。
 ユーリは話さない。音声合成モジュールはセットしていないし、AIも使っていないのだ。彼女に喋らせるつもりはなかった。
 そうしようとすれば、ユーリの性格や、かつて交わした会話を思い出しながらプログラムに組み込んでゆかねばならない。ユーリの構築を始めて間もない頃に、一度試みた。長期の作業計画を組んでおいたが、一週間と続かなかった。ユーリとの日々を思い返すたび気力が失せ、憂鬱になり、苦痛に苛まれるのだ。自分が何をやり遂げようとしているのか見えなくなり、しまいには自分のマシンに向かい合うのが怖くなった。綺麗さっぱりやめた。
 物言わぬままのユーリを見つめているうちに、俺は気づいた。ユーリの肉声など俺は欲していないことに。顔と仕草だけですべてを語ってくれたらいい。ユーリのビジュアルだけを俺は磨き抜くことに決めた。クリエイターとしての誇りをかけ、ユーリを本物にしてやる。
 思ったようにはいかなかった。彼女の顔貌を、肢体を彫り上げる過程で差しかかることを避けられない、不気味の谷すら俺には越えられなかった。人をかたどって造形した顔に残る、ほんのわずかな隙があぶり出す違和感。それが人工物だとわかっていても、なまじリアルに見せかけているだけに生身のイメージが重なってしまい、何かが歪んだおぞましい顔面が現れる。すべての努力を無に帰する陥穽だ。致命的な雰囲気をユーリにまといつかせてしまう寸前で、俺の手は止まった。ここから先で試行錯誤するのは神経が耐えられそうになかった。袋小路どころか、引き返すこともできなくなるだろう。
 俺が立ち竦んでいた、まさにその時だった。大黒啓二が現れたのは。
 バーチャルガイノイド『Risa』を引っさげて、彼は突如業界に躍り込んだ。以前の経歴は不詳。
 急速に発展拡大する仮想現実空間に向けて、腕に覚えのあるクリエイターが既に多くのアイドルキャラクターを送り出していた。それらと同じオープンソースの筋骨格シミュレーションモデルを使用しているにもかかわらず、〝Risa〟の完成度は他から隔絶した、真に驚くべきものだった。最初誰もが、これがVRキャラクターとして発表されたことを冗談だと勘違いしたほどだ(ちょうど4月1日だった)。しかしその2日後、大黒が総合ディレクターを務めるという新会社デュオリンクの設立発表とともに〝Risa〟が正式に公開されると、業界全体が息を呑んだ。
 大黒が創り出した十八歳の娘は、平面ディスプレイの中でも、VR空間の中で対面しても、生きた人間としか思えなかった。若々しい肢体がはじけるように跳ねまわる。どんな沈んだ気分も吹き飛ばす、その笑顔。誰もがひととき屈託を忘れ、相好を崩す。この俺さえも。
 現実のモデルの外見を貼り付けたわけではない、まったくのフルスクラッチだということが信じられなかった。好まれる女性像を網羅したビッグデータを、統計処理して合成された理想モデルにありがちな、作り物くささなど皆無だった。そのへんに普通にいそうな、しかしどこにも見つかりっこないと思わせる、奇跡的な少女。世間は〝Risa〟に魅了されて熱狂し、大黒啓二のアーティストとしての天才を讃えた。
 なにか違うと俺は思った。〝Risa〟は大黒の心に住まっていた女だ、俺のユーリと同じに。心にそれを宿す者自身にしか真の姿を見せない女。大黒はそれをこの世に、完璧に精確な形象を与え現出させてみせた。天才のゆえか。自分が天才でないことを俺は知っている。大黒は神の指先を与えられて生を享けた、それだけの話なのか。根拠などなかったが、違うと俺は直感した。
 大黒はデュオリンクが開くイベントに繁く姿を見せ、社外からも頻りに招かれ、壇上から実に興味深い話を振りまいた。俺は事情の許す限りその場へ足を運び、聞き入った。〝Risa〟の制作にまつわる話も多く聞かれたが、彼は肝心の核心部分に触れるのを注意深く避けているような気が、俺にはした。
 おそらくはVR造形システムだ。一般的なソフトと自分でちょっと工夫したツールを使っている、ぐらいの話しかしていないが、そんなものじゃない。大黒は何か秘法を手にしている。欲しい。それこそ今の俺が必要とするものだ。なぜ彼は明かさない。
 俺のユーリのために、何としても手に入れねばならない。俺が殺したユーリ。白い腹にナイフを突き立て引き裂いた時、愛は一つの結実を見た。生身の愛欲は血とともに流失し、俺はあの女から脱却した。俺は俺の愛をもって、完全な形でユーリを再生させるのだ。
 俺は大黒に感謝した。彼は知る由もないだろうが。
 彼のマシンの中に奉られていた、造化の神。操るのは容易くなかったが、俺は少しずつ、少しずつ彼女を完成へと近づけてゆく。手塩をかけてユーリを形づくってゆく日々が、俺に安堵をもたらしている。ユーリを抱いている限り、俺は溢れ出さずにいられるのだ。


       1

「お母さん、そこにお馬さんいるから! 走ってる走ってる!」
 母親が困惑気味に笑う傍らで、中学生くらいの女の子が宙を指差しながら声を弾ませる。ゴーグルに覆われたその眼は今、草原を疾走する野生馬を追っている。彼女は程なく言葉を忘れた。半開きの口が、時おり歓声を上げる。
「ああ、行っちゃった」
 やがて小さな声でそうつぶやき、溜息をつく。時間切れだ。草原はフェードアウトし、一面灰色になったはずだが、女の子はウェビイチェアに身を預けたまま動かない。アテンダントが頭のストラップのリリースバックルを外し、そっとVRメットを持ち上げる。
「この子ったら、夢中になっちゃって」
 照れ笑いを浮かべて母親が言う。俺は口元だけの笑いで応えた。俺もモニタリンググラスをかけているから、目元はどうせわからない。
『Drgun-Scoope』が発売されたのは二か月前だ。体験コーナーにやってくるのはVR未経験者ばかりで、ヘビーユーザーらしき人間はほとんど見かけない。俺は玄人相手の説明係として待機させられているのだが、この分だと暇なまま終わってしまいそうだ。
「お姉ちゃん、何が見えたの?」
 夢から覚めたような顔でまだぼんやりしている少女に、小さな弟が勢い込んで聞いた。
「あのね、お馬さんが走ってきたの、真っ白な。わたし追いかけて、並んで走ったの。でもすごく速くて、置いてかれそうになって、乗せてくれないかなって思ったら、そしたら飛び乗っちゃったの、背中に、わたし」
 大げさな身振り手振りを交えながら、女の子は弟に説明する。
「それでね、ええと手綱をとったら、羽根が生えて。お馬さんに。ばさっ、ばさって鳴って、飛んだのわたし。草原が海みたいに見えて。遠くの方にほかのお馬さんが飛んでたの、わたし仲間に入っていって、いっしょに……」
 熱の入った話しぶりに、弟は幼い想像力を総動員しているようだ。彼も飛びたくてたまらないだろう。だがそれは叶えられない。あいにくこの機種には使用年齢制限がある。彼の顔に、狂おしいほどのもどかしさが見て取れる。悔しさも。後々、その思いはどんな形になって現れるのだろう。
 彼は物欲しげにアテンダントをじっと見つめた。俺の方は見ない。俺の視線が見えないからか、あるいは、俺の無関心な目つきを意識下で察知したか。
 アテンダントがごめんね、と言いつつ、その両腕は決然と彼に退去を促す。後に続く行列は長い。姉に手を繋がれ引かれてゆく弟に、母親が何事かささやく。ブースを出る頃には、その足取りはもう軽くなっていた。
「笛木さん、笛木さん!」
 ピンクのカーディガンを羽織った女がせわしない足音を立てて寄ってきた。佐門典子、俺より二つばかり下だが、エリート街道をひた走る総務の人間だ。少々居丈高なところがある。
「どうしたんだ」
 モニタリンググラスを外し、俺は言った。
「一機、ちょっとマシントラブル。ゴーグルの映像が動かないんです」
「フリーズか。再起動した?」
「何度もやってます。システムはちゃんと読み込まれて、トップ画面は出るんですけど」
 VR空間が展開される矢先に凍りつくという。入念なチェックを済ませた器機だけに、トラブルの根は深そうだ。
「今行く」
 行列を手前から奥へと一瞥する。玄人らしい顔はない。おとなしそうな連中が並んでいる。
 列の整理係を呼び寄せてモニターを任せ、俺は席を立った。

 高いパーティションで囲われたスタッフオンリーのスペースに入ると、エンジニアが一人、小さな作業テーブルにかがみこんでいた。谷繁はるちか。毎年、秋口になるとユニクロの厚手のフリースジャケットを制服みたいに着ている、セルフレーム眼鏡の男だ。レンズの奥から理知的な眼が覗く。
「どんな具合だ」
 谷繁の背中に俺は声を投げた。
「ソフトの不具合ではないですね。SoCにも異常はない。投影モジュールの接続部か」
 振り返らずに谷繁は応える。テーブルに載せた点検用マシンにはトラブルシューターの画面が開いていた。VRメットの内部構成図に、疑わしい箇所を示すマークが複数ついていて、主原因は特定されていない。
「ばらさないといけないな」
「ですね」
 そんなの困るよ、と、俺の背後から左門が言った。
「一機でも使えなくなると。こんな混んでるのに」
「予備機は」
 俺は振り返って左門に聞く。コンシューマ向け量産機だから、いくらでも用意できたはずだ。
「ない。予備を入れて十機持ってきたけど、入りがすごいから全部動員したの」
 八ボックスだったはずの体験コーナーが、二つ増えていた。予想外の混雑ぶりらしい。
「いつの間に。ウェビイが足りないだろう。立ちっぱなしでScoopeをやらせてるのか」
「ウェビイチェアは余分にあったの。畳むと小さいから、スタッフの休息用に持ち込んどいたの。だからボックス増設できたのよ」
「気が利いてるな。VRメットほど小さくはないだろうに」
「こんなときに皮肉を言わないで」
「ボックスを減らせよ」
 左門は首を振った。
「それはできない。全ボックス、長蛇の列よ。最後尾は少なくとも四十分待ち。今さら、この列は駄目になりましたなんて言えないわ」
「だったら一列に並べ直して、各ボックスの手前で空いた順に振り分ければいい」
「却下です。ただでさえ他の邪魔になってるのに、ここで九十九折りの列を作れというの?」
 ドルガン社のブースは会場入口のそばだった。体験コーナーの行列はややもすると入り口を塞ぎがちで、会場管理の方から注意が来ていた。他の参加企業からのクレームもあり、左門は対応に追われたようだ。一機だけでも予備は取っておくものだろうと俺は思ったが、口に出しても始まらない。
「状況はわかった。十五分くれ。基盤を引っこ抜く。山勘だが、原因はエンドスケルトンだ。スペアパーツはある」
「十分なら。私はその間お客様をなだめてるから、よろしく」
 左門典子は命令同然に言いつけ、風を巻いて去った。
 俺はうんざりして、谷繁に顔を向けた。彼は相変わらずテーブルに向かって背を丸めていて、顎下の贅肉が、場違いの力こぶのように盛り上がっている。座りっぱなしのプログラマーが過食気味だと、カロリーの釣り銭は身体各所に豊かな蓄えをつくる。まだメタボ体型というほどではないが、時間の問題の隠れ肥満だろう。
「スペアパーツって、あれテスト機のでしょう」
 故障したScoopeを点検マシンから外し、メットの額部分のパネルにオープナーを当てながら谷繁は言った。
「ああ」
 テーブルの下にあった道具箱から、俺はScoope量産試作機のパーツセットを取り出す。
「販売用と完全に同じとはいきませんよ。パフォーマンスに影響が出るんじゃないかな」
 谷繁の懸念はもっともだが、他にこの場を切り抜ける方法がない。
「仕方ないさ。今日ここで修理するなんて考えてなかったからな。使用不能よりはましだろう。パラメータ調整でなんとかする」
 ゆるく湾曲した、細長い内骨格基盤を谷繁が差し出す。スロットに収まっている小さなモジュールを俺は片っ端から取り外し、テスト機で使った銀色のスケルトンに次々はめ込んでゆく。
「モジュラー設計で良かったですね」
「どうかな。それが原因になったのかも。この接点ラッチには、前にも不良品が……」
 言い終わるより先に移植を終え、基盤を谷繁に渡した。
「戻してくれ。動作確認して調整する」
 手元に残った販売モデルの空っぽのエンドスケルトンは、干からびた魚の骨を思わせる。谷繁がVRメットの額に再び押し込んでいる方は、光る肋骨の間に赤や黒の内臓を抱えているように見えた。
 時計に目をやる。ここまでで三分半。悪くないだろう。
「できました。電源入れてます」
 パネルをはめ直したScoopeを谷繁が差し出し、俺はそいつをかぶる。ストラップを引き締めて頭に固定している間に、システム起動。
 視界がすうっと開ける。しかし薄暗い。森の中か。頭上は樹冠に覆われ、葉の間からわずかに光がさしている。ゆっくり首を回すと、俺は木の幹に囲まれているのがわかる。
「映像出た。動いてる」
「直りましたか。問題ない?」
「待ってくれ」
 首を巡らす代わりに足を動かして、身体の向きを変えてみる。奥行きのある鬱蒼とした森の眺めが、それにつれて回転する。顔に当たる木漏れ日の具合も、ちゃんと変化している。木々の間に、俺は分け入る。
「歩いてます? 歩けてますか?」
 見えない傍から、谷繁の声が問う。
 足元に目を落とす。ライトグレーのスラックスに濃茶のビジネスシューズ。森には似つかわしくない格好だが、下生えを踏んで一歩一歩進んでいる。草の擦れる音、小さな木の実が砕ける音もする。俺が「立ち止まる」と、出かかった足がためらったように、戻った。
 Scoopeは俺の意思を精確にスクープしている。脳波の変化からユーザーの意向を解釈してVR空間内での行動選択に繋げる、この円滑さが売りなのだ。視覚をシャットアウトするのがHMDの大原則だったから、ハンドリモコンをUIに設定する壁が生じる。それだと没入感を欠く。ドルガン社はそこに目をつけ、研究を重ねた。
 メットに仕込んだ電極シートから波形を計測し、運動意図を推定する脳信号解析システムが突破口だった。UIに落とし込める進化型のプログラムが派生的に生まれ、システムが組み込まれた。画期的なブレイクスルーだった。
判別できる意思はまだ探索、移動、操作の三つとその組み合わせだけだが、完全自動のフィッティング調整は十数秒で完了し、未経験者でもすぐ使える。初めての少女は白馬と並んで疾走し、その背に飛び乗り、目の前で揺れる手綱をとって空へと舞い上がったのだ。自分の意志で、しかし指一本動かさずに。
 だが、補修したこのデバイスで同じことができるかどうか。実体験と見紛う高精細VRの展開には、膨大な量の高速演算を必要とする。替えたパーツのわずかな齟齬が、無視できない影響をもたらす。視覚に訴えるシステムだから、文字通り無視できない。人間の知覚認識は極めて鋭敏で、そしてデリケートなものなのだ。今足を止めた時の、微妙なふらつきを俺は看過しなかった。調整画面を開き、ゴーグルの視野の中でコントロールパッドに指を走らせる。深部の画像精細度をわずかに落とした。プロセッサへの負担はこれだけで随分減る。他のパラメータもいじってみたが、まだ違和感が解消されない。気のせいかもしれなかった。
「使えると思うが……万全とは言いきれない」
 自分の声は森に吸い込まれるように聞こえたが、世界の外から谷繁は応えた。
「念のため、軽めのプログラムに変えておきましょうか。万が一お客さん酔わせちゃうと、非常にまずいですから」
「頼む」
 それにしても陰鬱な場所だ。本当は怖いとかいう童話の世界でも体験させるつもりか。ふと、もう少し先まで行ってみたい気になったが、時間がないのでシステムを停止、映像をフェードアウトさせ、目を閉じてメットを脱いだ。
 再び目を開けた時、俺は疲れた気がした。時計を見ると五分経過している。目の前には谷繁の丸い背中。管理用端末を使って、急速な視点移動の少ないイベントを選んでいるらしい。間に合うだろう。緊張が解けたせいか、腰を下ろしたくなった。俺は立ったまま作業していたのだ。
 パイプ椅子もあったが、パーティションの隅に折りたたんだウェビイチェアを見つけた。Scoopeと同時発売した、VR没入用の安楽椅子だ。ネーミングの由来は、なだらかに起伏した粗いメッシュシートに身を預ければすぐわかる。蜘蛛の巣に支えられたような浮遊感。しばらくすると座っていることを忘れてしまう。本当はベビーチェアにひっかけた名前だ。眠ったままの赤ん坊が巨大な蜘蛛の巣に捕らわれている様が浮かんだからだ。俺は冗談のつもりだったのだが、そのまま商品名に採用されてしまった。
 Webの感触が恋しくなり、歩み寄ろうとした時、世界が回転した。
 湾曲した視界。単純な回転では済まなかった。直交するもう一軸が加わり、さらにまた一軸。多軸(マルチ)旋回(アクシス)になった。壁が床になり、天井になり、前から上、背後から左右へと入れ替わる。重力の方向がわからなくなり、俺は凍りついた。何がどうなっていやがる。上げた足をどこへ下ろせばいい。回転が速度を増し、錐揉みを始めた。パイロットが陥るような空間識失調。ここは地上のはずだ。
 足を踏ん張っていていいのか疑った途端、膝の力が抜けた。手を伸ばしたが壁面に届かず、支持物を求めて宙をもがく。胃が浮き上がった気がして、こめかみから血がすっと引いた。鼻の奥にミントを嗅いだような冷気が突き抜け、同時に、背中に寒気が迸った。吐き気がこみ上げる。
 目を閉じろ。だが視界を締め出しても脳は回転を止めなかった。暗闇の中のヴァーティゴ。喘ぎ声が漏れた。
「笛木さん?」
 振り向いた谷繁の声が頭上から聞こえた。あとは覚えていない。

       2

 目覚めた感覚が曖昧だった。
 ずっと起きていたような気もするし、起きたばかりのような気もする。眠っていた記憶がない。
「内耳に異常は見られません」
 眼前の医者がそう言った。俺は今診察されていたのだった。
 だが主訴からいって平衡感覚は明らかに異常だ、治療が必要だと彼は告げた。
「あなたの脳が混乱しているのです」
 直截な医者だ。無神経ともいう。
「治療って」
「追視機能訓練。低下した平衡感覚機能を、視覚や体性感覚を使って補う。こんなふうに」
 瀬島と名乗る医者は自ら実演してみせた。まず目だけ動かして、対象に視点を固定する。そのまま頭を振って、視線の軸を合わせる、この繰り返し。次第にスピードを上げてゆく。俺は今、それを真似る気力もない。頭のどこかが空回りしているような感じが抜けないのだ。そう訴えると、本当に頭蓋の中にジャイロスコープでも入っていればいいのですが、などと言う。冗談のつもりなのか。仮にそうだったとして、笑えない。この手のタイプは苦手だった。
医者というより、少しマッドな研究者といった風体。角張った顔に、ハリネズミのように逆立った灰色の髪が天を突き刺している。顎髭も加わって、間近で見ると結構な迫力があった。実験動物を観察するような眼差しを感じる。
「すぐ退院できますか?」
 俺は聞いた。通院治療だって御免だと思ったが、最低でも三日は入院するようにとの宣告を返してきた。
 俺は唇を舐めた。舌先が滑らないほど乾き、かさついている。
「仕事があるんです」
「誰にでもあります。あなたは今、歩くのも難しいはずですよ」
 答える代わりに俺はベッドから足を出し、スリッパを履き、手放しで立ち上がった。正直不安はあったが、視覚性動揺病など、早い話が車酔いと同じだ。強気で跳ね返せるはずだ。
 足を踏み出した。瞬間、床が傾いた。予期していたらしい瀬島医師が腕を伸ばし、俺を支える。
「まだ無理だ。それに、原因について話をしなければならない」
 彼は俺をベッドに腰掛けさせ、自分も丸椅子を引き寄せて座った。
「以前に、こういう発作はあった?」
 瀬島は訊く。俺は首を振った。
「嘘じゃないのかね」
 さっきまでと口調が変化している。きかん気の患者には直ちに高圧的に出るわけか。病院ではいろいろな人間がくるから、そのスタンスは間違ってないのだろうが。
「事実です。初めてだった」
「VR開発の仕事を始めてどれくらいになる。一日に何時間くらい、VR空間に入っている? いや、言わなくていい。あなたの上司や同僚の方からもう話は聞いてあるんだ。あなたが昏々と眠ってる間にね。累積時間数は恐ろしいくらいになっている」
 俺の機先を制したつもりだろうが、そうはいかない。事実を知ったらそれこそ目を剥くだろう。俺は家に帰ってからも、毎晩のように真夜中過ぎまでVRに入ってユーリの髪を梳き、耳元に息遣いを聞きながら彼女の肌を磨きあげているのだが、もちろん話すつもりはない。
「仰りたいことはわかりますが、没入時間が長いからといってドランカーになるわけじゃありません」
 とぼけて俺はそう言った。
「調整された、完成品の空間ならね。しかし君は開発者だ。つまり構築途上の不安定なVR環境と長いこと取り組んできたわけじゃないか。おまけにあの、君が意識不明になった時扱っていたデバイスは、脳内意思に直接感応するシステムだ。聞けば、君はあれの中核部分をほとんど一人で、取り憑かれたみたいに不眠不休で……」
 まくしたてる瀬島医師の声が、俺の耳から遠のいてゆく。ユーリを想った途端、白昼夢のように蘇る記憶があった。


 彼女との出会いは、俺の大学四年目、就職活動をしていた時だった。
 その頃、俺はまだVRどころかCGデザイナーすら目指していなかった。なんとなく美大に入り、なんとなくグラフィックデザインをやったが、俺の将来イメージは漠然としていた。CG広告デザインの会社を回ったのは、はっきりした目標があったからじゃない。
 世の中を舐めてはいけないと大人が言う通り、内定通知はさっぱりだった。悔しいといえば悔しかったが、それでも本気にならなかったのだから当然の結果だろう。たいていは、ほぼ門前払い。面接まで漕ぎ着けると、同じ席にはクリエイター志望者が何人も、眼尻を決した顔で並んでいた。この連中はどうしてこんなに熱心なのか――俺は一歩離れた観察者の目で彼らを見つめた。
 俺はなんとなく隣席の女の子の横顔に惹かれ、帰りがけに話しかけた。面接の首尾はまたしても芳しくなかったし、彼女もつまらなさそうな顔をしていたから、どこかで話さないかと誘いをかけたのだ。ナンパだった。
 彼女は応じ、名前を教えてくれた。澤邊ユーリ。
話を聞くに、その日の面接は彼女も手応えがなかったらしい。ここに自分の居場所はないと直感したとたん、売り込む意欲を失ったという。一日を棒に振ったやるせない思いを晴らすつもりで俺に付き合った、そんなところか。
 きっかけなんてどうでもいい。偶然の巡り合わせに俺は感謝した。彼女は、大学でもそれ以前にも俺が会ったことのない、新鮮な魅力を放っていた。これまでとは違う日々が始まりそうな予感がした。彼女を逃したくない。
 だから俺は嘘を並べた。
 ヨーロッパのメディアデザインコンペで入賞し、大学からも優秀学生賞を授かった。卒業制作の作品には買い上げの声がかかっている。主席卒業の噂が高いこともほのめかした。実はすべてゼミの先輩の話だ。しかし話しているうちに、あの秀才を自分の表面に複写したような気分になった。俺は自分に頓着しない。それが俺だ。目の前の女の、俺を見る目が変わってゆくのがわかった。
 連絡先を交換し、次の週に同じカフェでまた話をした。以来、デートを重ねることとなった。
 初めてユーリの部屋に招かれた日。キッチンでコーヒーを淹れている彼女の背中から、小綺麗なドレッサーや、その脇にきちんとたたんで積み上げてある夥しい衣類に目を移した時、俺は気づいた。男物のジャケットが混じっている。
 弟でもいるのか。ワンルームの部屋に?
 ユーリに問いかけると、借りた物だという。顔をしかめたくなるほど、白々しい言葉だった。その通り、顔にも嘘だと書いてあった。
 俺は彼女のクローゼットを引き開けた。扉付きのカラーボックスも、机の引き出しも開け放った。
 男物の時計とアクセサリー。ベースボールキャップ、スラックス。学生サッカーリーグのユニフォーム。次々と思わぬものが飛び出してくる。まだまだ出てきそうだったが、途中でやめた。
 俺はユーリを問いただした。
 ユーリは言葉を失っていた。視線がさまよい、口尻が片方だけつり上がって、かすかに震えていた。俺はかまわず詰問した。
 交際して二年になる男がいる、と薄い唇が応えた。まだ嘘を隠していると直感した俺は追及を続けた。ユーリは身分も偽っていたことがわかった。学生ではなく、すでに社会人。それがなぜ、学生対象の面接会場にいたのか。
「どういうつもりだ。新卒のふりして転職か。ばれないと思ったのか」
 思い返すと、実に見事に初々しさを装っていたものだ。
 覆面調査だったの、とユーリは言った。
 客や求職者を装って、企業の内部事情を内偵する仕事。危険な匂いを俺は嗅ぎとったが、ユーリが言うには、依頼主はその会社の役員である場合が多いらしい。
「自分の会社を、裏からこっそり調べるのか」
 普通にあることだと思う、珍しくないもの、と彼女は言う。
 俺は二の句が継げなかった。だが、この話は脱線だ。知るべきは、こいつの男のことだ。
「そいつが好きなのか」
 押し殺した声で俺は言った。さっき名前も聞き出したはずだが、覚えていなかった。
 わからない、とユーリは答えた。
「わからないってなんだよ」
 会わなくなってだいぶ経つという。そいつとの連絡が途切れた時期と、俺と出会った時期が重なっていた。俺は代用品か。
「クリエイター志望だと、お前言ったよな。俺と同じだと。あれも嘘だったんだ」
 それがいちばん許せない気がした。
 だがユーリはこう言った。
 あなたの気持ちをつなぎとめるために、わたしも嘘をついたの、と――。
 それは一瞬、俺の希望をつなぐ言葉に聞こえた。しかしすぐに疑念が差す。わたしも、嘘を。
 俺のことを調べたのだと彼女は言った。
 俺の素性をこの女はとっくに知っていたのだ。偶然にではなく、調べ上げて。それまでの怒りとは別種の熱が俺の頭に充満した。
 よくこんなに舌が回るものだと自分で思った。腹の底から罵詈雑言がいくらでも湧いて、そのまま口から出力されていく。
 罵倒の言葉を吐き尽くし、最後に俺は付け加えた。
「この嘘つき野郎」
 ユーリは涙を浮かべていたが、小さな声で、本当よと言った。
「何が本当だ」
 あなたを離したくなかった。
 わたしの寂しさをあなたは埋めてくれた。
 あなたはわたしに必要な人だと確信した。ユーリはそう言った。
 それが本当なら、昔の男の物をまだ持っているのはなぜだ。捨てるだろう。
 普通の人だったら、そうするかもね。ぽつりと彼女は言った。
「普通じゃないのか、お前は」
 わたしは嘘つき。嘘をついたのはわたしが先。明かせばあなたは去ってしまう。あなたも嘘をついていると知った時わたしは嬉しかった。あなたを嗤ってなんかいない。わたしは救われたの。あなたをもう離したくない。
 一体何を言っているんだ。何をどうすればそんな感情に至るんだ。俺にはわからない。
 ねえ、と甘い声がした。ユーリの唇から。
 わたしたち、今、本当の気持ちを打ち明けたのよ。わたしもあなたも救われたの。
 救われた?
 この違和感は何だ。冷たく沈殿した俺の心の底に閃くものがあった。
 俺は男物ジャケットをつかみ上げ、羽織ってみた。肩幅と丈、胸回りや腰回りの具合を確かめる。脱ぎ捨て、次はスラックスを目の前に広げて寸法を見た。
 ユーリは何も言わなかった。その表情を見ないように、俺は目をそらしながら帽子をかぶり、時計を腕にはめてみた。
 俺は溜め息を吐いた。力の抜けた手から腕時計が滑り落ち、カーペットの上でかすかな音を立てた。
 俺だって美大生の端くれだ。人体各所のバランスくらい頭に入っている。均整のとれた身体の人間ばかりじゃないとはいえ、ものには限度がある。この服や持ち物はサイズがばらばらだ。一人の人間のものとは思えない。
 何人も男がいたのか。
 たぶん、違う。
「これって、中古屋を駆けずりまわって調達したんじゃないのか」
 俺は独りごちた。俺を部屋に招くのに、「昔の男の物」を、ろくに隠してもいなかった。むしろすぐ目につく所にこれらは置かれていた。置いてあった。
 わざとやったしか考えられない。自分の嘘を俺に明かすための糸口、小道具として。この部屋はお前の舞台か、嘘で飾った。二重の嘘で。
 たしかに普通じゃないよな。
 ユーリの顔を見ないまま、俺は言った。見るのが恐ろしいような気がした。
 わかったでしょう、ユーリが言った。しなだれかかるような声で。
 何をわかれと言うんだ。
 俺は顔を上げ、ユーリを睨めつけた。彼女の眼差しの中に、期待感が宿っているのを俺は見た。
 さっきは怯えた様子だった。涙ぐんでもいた。あれは芝居だったのか。
 わたしたちならうまくいくはず。ユーリの目はそう言っていた。
 俺は顔をそらした。俺は今どんな表情をしているだろう。
 ばかを言え。俺は怒鳴った。
 どうして? 困惑した声が聞こえた。わたしは、あなたを受け入れたじゃない。嘘をついたあなたを。
 お前が受け入れられても俺は受け入れられない。俺はお前とは違う。
 どこが違うのよ! ユーリが、叫んだ。
 あなたは嘘つきだった。わたしも嘘をついていた。どうすればよかったと言うの。
 その答えは、俺の口から自然にこぼれ出た。
「ばれなければよかったんだと思う」
 静かな声が出たのを意外に思った。
 そうだったの?
 ユーリは、驚いたようだった。こいつも驚くのか。ここまで人を虚仮にできるようなやつが。
 言葉は、いっとき途切れた。
 ユーリが先に口を開いた。
 これで終わりなの?
 これで終わりだ。
 ユーリの部屋の扉を俺は後ろ手に閉めた。あとは知らない。想像もしなかった。


 革靴の固い足音がした。
 もっと柔らかい靴を履くものじゃないのか、ここは病院だろう。
 そう、ここは病院だった。
 靴音は次第に近づいてきて、止まった。扉が開く音がした。
 見当はついたが、俺は目を開け、枕の上で首を巡らせた。
 不機嫌そうに口を結んだ瀬島医師が立っている。
「気分は?」
 どんな夢心地も吹き飛ばしそうな無情な声で彼は聞いた。
「まあまあですね」
 しゃがれ声が出た。俺は両腕を毛布の下から抜き出し、伸びをする。
「何がまあまあだ」
 うんざりしたような医師の声。
「君は私が話している最中に、ぱたんと倒れて昏睡したんだ。安らかな寝顔だったよ」
 俺はあくびをした。
「ゆっくり寝て、疲れが取れたんですよ。こんなによく寝たのは久しぶりだ」
 今度は夢も見た。過去の記憶だとはっきり意識していたから、明晰夢だったのかもしれないが、気分は悪くないと思った。
「じゃ、改めて話をしようか」
 溜め息をついて、瀬島医師は言った。

 大量の映像が飛び過ぎてゆく。視野の中、隅、外を。毎日、毎日。大画面のTV映像。街頭ビジョン。デジタルサイネージ。机上のモニター。そして、VR。駆け去る路面。車窓を流れる風景。ドライバーズシートの視界。ウィングスーツで掠めてゆく断崖絶壁。ファイターパイロットのバイザー越しに転回する大空。旋回に次ぐ、旋回。
どれだけの高速、どれだけの移動を、人は日々目の当たりにしているだろう。時速数キロの低速でそぞろ歩きながら、あるいは静止した椅子の上で両足を浮かせたまま。眼だけで経験する疾走、飛翔の距離を積算したらどれほどになるだろうか。衛星カメラに視座を置けば、海も大陸も毎秒数キロで眼下を過ぎ去ってゆく。
 瀬島の話を片方の耳で聞きながら、俺はそんなことを考える。
「ベクション。これは知っているね」
 医者に聞かれるまでもない。視覚によって得られる移動感。VRエンジニアの基礎知識だ。
「日常的に人工映像にさらされている現代人にとって、ベクションはストレスなんだ」
「正確にはベクションと、内耳がとらえる感覚との齟齬が、でしょう」
「より正確には、内耳の前庭、及び半規管が受容する平衡感覚とのずれが、だ」
 患者に対する物言いとは思えない。瀬島はやはり、医者というより研究者だ。俺は観察対象か。この男なら、テーブルに縛りつけたモルモットに実験内容を説明しながら、その頭蓋骨を切り開くんじゃないだろうか。
「耳の奥深くにある、炭酸カルシウムの小さな結晶が、身体の水平移動や垂直移動を感知するんですよね」
「正しくはその加速度を、だ。平衡石は身体の傾きも感受する。身体に、というか頭に回転が加われば、半規管の中のリンパ液の流れの変化から、角加速度を感受する。三つの半規管が互いに直交していて、これだけで三軸の回転センサーになっている。精妙なものだ」
 まったく、そんな仕掛けが、誰が設計したものでもないというのは驚きだ。VRエンジニアやVRデザイナーは、眼と耳で捉える世界を一から十まで、いいや0コンマ00一から一〇〇〇億まで描破しなければならないというのに。
「ところが、その高精度センサーがせっかく与えてくれる認識を、視覚情報がひん曲げる。ほかならぬ君たちがいじりまわしている、現実とまぎらわしい映像の氾濫がだ」
 言ってくれるものだ。究極的には現実と区別のつかないVR環境の構築を、俺たちは目指しているのだが。
「とくにヘッドマウント型のVRデバイスだ。視界を完全にカバーし、現実世界をマスクする。一人称視点のVRアバターがなければ、自分の手足すらわからない。ユーザーは寝っ転がったまま仮想空間をほっつき歩く。頭は静止してるのに、目玉だけはふわふわ散歩するんだ。視神経を引きずったまま」
 なかなかグロいイメージを口にするものだ。まあ、言いたいことはわかる。
「VR酔いの話でしょう。今は過渡期ですからね」
 俺は先回りして言った。
 視野の映像が流れるとき、自分が動いているのか周りが動いているのか、視覚だけでは判別できない。だから、内耳を使って感じ取る加速度の変化と、網膜から入ってくる視覚情報とを交えて判断する。自分の乗った車が動き出せば、それとわかる。
 そこには常識のはたらきもある。車は走ったり止まったりするものだと、誰でも知っている。景色が車を追い抜いて去ったりはしない。これが電車になると、やや間違いが起こりやすくなる。隣のホームに止まっている電車の窓の列がゆっくりと視野を横切り始めると、こちらが走りだしたのだとしばしば錯覚する。自分の乗った電車が程なく出発することを予期しているし、加速も緩やかで感じにくいからだ。
 動くべきものに乗っている時ならまだいい。道を自分の足で歩いたり立ち止まっている時、建物や街路樹、路面といった動かざるべき景観がふらりと揺れたとなると、自分がふらついたと思わねばならない。身体はその認識に基づき、転倒を避けるべく反応する。目に映る景色の傾き具合と、耳の奥に内蔵した鋭敏なセンサーが脳に送ってよこす情報から、自身の姿勢を修正しようとする。
 しかし、もし内耳のセンサーが何も変化を感じていなかったら? 実際にはちゃんと立っていた自分を、自分でふらつかせることになるのだ。内耳はその時初めて姿勢異常を感知する。脳は反応し、再修正をはかる。うまく身体を立て直す方向に戻せればいいが、このフィードバック制御をやりそこなうと、ふらつきが増幅される。陸の上で船酔いを起こしかねない。
 現実には、静止した自分の周りで景色だけが揺らぐことはない。だがVR空間では起こり得る。マシンがリアルタイムに描画する世界の中で視線を巡らせる時、正確に追随すべき景観の変化に、わずかでも遅れやずれが生じると、平衡感覚機能に混乱の兆しがあらわれる。極端な話、VR内でたとえばドライブを楽しんでいたとして、プログラムに重大なバグがあってアクセルを踏んだら減速し、右にハンドルを切れば景色も右に流れる、などということになれば、ドライバーはたちまち車酔いを起こすだろう。運転中のドライバーはふつう酔わないものだし、酔ったら危険だが、VRではあり得るのだ。
 個人差もあるが、幼年者は一般にVR酔いを起こしやすい。認知機能の正常な発達過程に害を及ぼす可能性もある。コンシューマ向けVRデバイスの使用に、ガイドラインで年齢制限がかけられたのはそのためだ。この問題を解消するためにも、VRエンジニアは正確無比な、現実と遜色ない、揺るぎないVR環境を構築せねばならないのだが、まだ途上だ。しかし技術の十分な洗練を待たずして、アミューズメント用途から個人のホビーへと、VR世界は急激に拡大してしまった。管理すべき開発者の手を離れ、誰にも制御できないエリアに飛び込んでいった――。
「VR酔いの患者は、徐々に増えてきているんだ」
 瀬島医師は唸るように言った。彼の歯の間につぶれた小さな苦虫が、俺には見える。
「さっきも言ったが、君はVRに携わってるんだ。あのスコープだかスクープだかいう新製品の開発過程で、たっぷり遊んだんだろう」
「遊んだだなんて。テストプレイです。立派な仕事です」
「どっちでもいいが、そのとき異常は出なかったのかね。君の脳に、いや平衡感覚に」
 言葉を直した。俺が今度はいくらか話に付き合うらしいと知って、少し落ちついたかな。
「ありません。疲れましたけどね。調整のできてないVR環境は認知機能に負担をかける、それは確かですが」
「まったくのいきなりかね、今度のことは。何も前兆はなかった? 軽い目まいとか、空耳とか、幻覚とか」
 幻覚症状となると、前兆どころの話じゃないだろうに。
「いいえ」
「ふむ。業務以外で、何かストレスは? 人に言えない悩みとか」
 人に言えない、か。それはあるが、ストレスと言えるだろうか。
 俺のユーリは俺だけの秘密だ。俺とて、殺した女のVR像を公開する気はない。逮捕されてしまう。俺は誰も自宅に招かないし、ユーリのデータには俺の生体認証で鍵をかけてある。誰にも知られることはない。何より、ユーリを磨き上げることは俺の安らぎだ。
 たまには磨く手を止めて、遊びにも連れ出した。Scoopeのテスト機を俺のマシンに繋いで、そう、二人でドライブにも行った。2シーターのルーフを開け放って、海沿いの長い道路を。ユーリの髪がはためいて光った。言葉は交わさないが、運転しながら横顔を見るだけで俺はいい気分だった。酔ったりなんかしなかった。道脇に車を乗り捨て、古い瀟洒な洋館を目指して歩いた。指と指とを絡め、厚く積もった落ち葉を踏んで、岬の森の中を。
 森。
 俺の意識の底が叩かれたような高い音がした。
 脳の片隅に引っ込んだ何かを、俺は思い出しかけた気がした。
 が、ここで考えこんだら医師に勘ぐられそうなので、俺は言った。
「人並み程度のものですよ」
「では器質的な問題かな。やはり、脳の精密検査が必要だ」
 彼はこれが言いたかったのか。
「まだ診断をうかがえないんですか」
「現時点では、視覚性動揺病。ただし重症だと言わせてもらう。重症化した原因がつかめていない」

      3

 原因は俺も知りたい。あのマルチアクシス回転に陥った時、俺は不安を覚えた。抜け出せない、閉じ込められる不安。閉所恐怖とは違うと思う。
 しかしこのまま入院している気はなかった。ユーリが恋しかった。
 抜け出すなら、まず歩けなければ。
 瀬島が去った後、ベッドから立ち上がってみる。頭のどこかが、まだ回転している。
 俺はイメージの変換を試みる。今回っているのは、子供のおもちゃみたいなプラスチックのコマだ。倒れないうちに軸を指で挟んで回転力を加える、これをいくら繰り返しても、すぐにまたふらつく。
 材質を金属に変えてやる。重みのある鉄。
 加工精度を上げ、形状も重量配分も完璧な軸対称に整える。モーターで超高速回転を与える。
 静止したかのように安定して回り続ける小さなコマが、俺の頭の中にある。
 脳にジャイロスコープがあればいい、などと瀬島は言った。俺はそれを地で行ってやる。

「笛木さん、お加減どうですか」
 ナースが熱でも測りに来たかと思って眼を開けたら、佐門典子が立っていた。一瞬病院ユニフォームと見まがう、淡いパステルカラーの私服。
「おかげさまで、イベントは滞りなく終了しました。お疲れ様でした」
 聞けば、俺が倒れた直後スタッフルームに戻ってきた彼女は即座にアルバイト二名を指図し、谷繁と三人掛かりで誰の眼にも触れないように俺を会場外に担ぎ出し、救急車を呼ばずにスタッフの車に放り込んで病院に運んだという。的確な措置だったと思っているらしいが、仮に俺が卒中でも起こしたのだったらどうしてくれたんだ。
「顔色、良くないですね」
 軽く眉根を寄せ、左門は言った。
 さっきまで自主的な歩行練習をしていたのだ。思うにまかせず吐き気がこみ上げて、また横になったところだった。
「そうでもない。ちょっと、病院の空気が合わないだけさ」
「元気もなさそう」
 この女、何しに来たんだ。その言い草で見舞いのつもりか。
「お見舞いを持ってきたんですが……そのご様子だと、引っ込めたほうが良さそうですね」
 食い物なんか欲しいとも思わなかったが、見たところ彼女は手ぶらだ。今の口ぶりだと、金を包んできたわけでもなさそうだ。
 少し興味を惹かれた。何しろ退屈だ。
「聞かせてくれ。何か、話があるんだろう」
 左門は、ちょっと驚いた顔をした。
「ご明察ですが……でもやっぱり、無理じゃないかなあ」
「仕事の話か」
「仕事というか」
 他社の製品がお披露目されるので、視察に行って欲しいのだと言う。
「VRイベントなんだな?」
 俺に声をかけるとしたら、当然そうだろう。しかしそれだけか。さっき見舞いだと言った。
「デュオリンクか」
 左門はそう、と軽やかな声で言って、こくんと頷いた。可愛らしい仕草も一応できるらしい。
「内容は?」
 自分の声に期待感がこもるのがわかる。
「なんだと思う?」
「こっちが聞いている」
「ヒントはこれ」
 彼女は、唇を宙に接吻するように開き、指を押し当てた。
 キス。
 唇。
 それだけで、閃くものがあった。
「なるほど」
「あら、何かわかったみたい。何なのか、私にも教えてくれる?」
「ヒントをだしたのはそっちだ」
「ワードだけ。そう、〝くちづけ〟って知らされているだけなの。あとは、何も」
「詳細は、何とも言えない。ただ、大黒が出てきそうだ」
 俺が応えると、彼女は腕を後ろに回し、艶めかしいポーズを取った。
「あいにく、大黒氏は今渡米中だそうです」
 そうなのか。
 俺は少し気落ちしたが、いずれにせよ大黒啓二の作品が公開されるのは、たぶん間違いない。出ていかなければいけない。
「でも、やっぱり無理そうですね」
 値踏みするように俺に視線を這わせ、彼女は言う。
「さっき先生にうかがったんです。まだ数日は退院できないって」
 無理なものか。抜け出してでも行ってやる。大黒が関わっていることなら、必ず何かがある。そのチャンスを逃してはならない。
「イベントはいつなんだ。明日か、明後日か? 俺はもう大丈夫だ」
「意固地なんだから。鏡見ますか? 顔、青いですよ。額に浮いてるの、冷や汗じゃありません? 車酔いの顔みたい」
 手術中の外科医の汗を拭く助手みたいな手つきで、左門は木綿のハンカチを指に挟み、俺の額にぽん、ぽんと押し当てる。
 こんな時に、煽るようなことをする。わざとやっているのか、俺が大黒啓二の仕事に執心だと知っていて。
 むかっ腹が立つと、しかし胸もむかついてきた。吐き気をこらえる。また額に汗が吹き出る。
「笛木さん、大丈夫っすか?」
 その声とともに、スニーカーのぱたぱたいう足音が近づいてきた。床とベッドが振動する。
「谷繁くん。何そんなに苦しそうにしてるの?」
 相変わらずフリース姿のエンジニアが、頬を紅潮させ、肩で息をしている。いやあ、と彼は高い声を上げた。
「ちょっと、運動不足解消と思って、エレベーターやめて、階段登ってきたんですよ」
「たかが四階じゃない」
「ここ暑くないですか」
「ううん、全然」
 左門が冷ややかに返したところに、俺は口を挟んだ。
「俺も暑い。この階全体が、温度設定が高めになってる」
「え? そうなの?」
 左門が眼をぱちくりさせ、俺を見る。
「入院患者ってのは年寄りが多いだろう。寒がりに合わせてるのさ。寝てるとわかる。寝苦しいくらいなんだ」
 俺は次々に言葉を繋いだ。谷繁の反応を引き出してやる。
「やっぱり、そうですよね? じゃないと、僕、こんなに汗、かくことないですもの。今ですね、背中びしょ濡れですよ。下にコンビニ入ってましたよね? シャツ買って着替えないと、風邪引くレベルですね、帰り道で」
 谷繁もまくし立てた。うまい具合だ。
「そんなに暑いでしょうか?」
「君はスレンダーだからな」
「そうですよ。僕なんかこんなだから」
 左門典子は黙りこんだ。たぶん、軽い優越感を味わっている。
「ともかく笛木さん、問題なかったんですね。倒れた時は、本当に何事かと思ったんですけど。退院できますか? 三日後に、デュオリンクのイベントが……」
「三日後なのか」
 俺は左門に言った。
「はい」
 反射的に、彼女は答えた。平日だ。
「午後?」
「十五時からです」
 退院手続きは午前中だ。なんとかなる。
「谷繁、ディレクターに伝えてくれないか。あと二日間、俺は休養を取らせてもらう。ここ数週間ろくに休んでなかったんで疲れが溜まっているんだ」
「わかりました! 伝えておきます」
 笑顔の谷繁が、気持ちのいい答えを返した。左門を向いて、良かったですよねえ、と付け加える。
 佐門典子は、軽く溜め息をついた。
「では、お任せすることにしておきます。でも無理だけはなさらないでって、忠告はしておきます」
 俺への心配、というか俺の体調への不安、懸念は本物だったらしい。開発スタッフは社の財産だ。
「そうですよ、笛木さん。それだけは僕からも、お願いしておきます」
 自分が健康管理に失敗したいい例だ――谷繁は自虐的なことを明るく口にした。左門がほんの少し笑ったので、俺は笑わずに済ませた。考え事に取りかかっていたのだ。
 三日後。それまでに、一通りの計画を立てておく必要があった。

         4

 小さなホールだった。ステージはピアノのリサイタルを開けるくらいの広さしかない。しかし〝Risa〟が初公開された時も、会場はこの程度のものだったのだ。新時代を切り開くコンテンツは、一から十まで華やかな道筋を歩んでいるわけではない。同時期に発表されたライバル社との競合に勝ち抜き、生き残ってきた結果に今があるのだ。
 照明が落とされ、オレンジ色のダウンライトだけが灯っている。心を鎮めるような雰囲気。
席はすべて埋まっていた。後方に立ち見も出ている。
 ステージの中央に立つ、大型のハーフミラースクリーン。そこに投影された一人の女の子が、半身をくるりと翻し、背後の宙を片手でひと撫ですると、アルファベットが並んできらりと光った。
〝Rips〟。
 唇なら、lipのはずだが。
 キャラクターそのものは、〝Risa〟のバリエーションにすぎなかった。〝Risa〟を見慣れた今では、初登場した時のような衝撃はない。だが、不自然さというものが欠片もない、誰にとってもまったく抵抗なく人間同然に受け入れられるその容姿は、変わらない驚異だった。
 俺のユーリは、まだこの域に達していない。俺はあらためて実感する。大黒啓二から盗み取った神の指先を、俺はまだ使いこなせていない。俺は今日、ここで何を得るだろうか。
 客席にVRゴーグルが用意されてあった。デュオリンク製の、しかし廉価版だ。画面解像度や描画速度はハイエンド機並だが、Scoopeのように高度な没入型操作機能はない。今は集中管理されているらしく、眼に当てて見てもスタンバイ画面から動かなかった。客はみんな、まだ膝の上に載せている。
 ステージの少女が自己紹介を始めた。名前は〝SWACCO(すわっこ)〟。性格は天真爛漫、人当たりが良くて友達や家族思いといったところらしい。アイドルにはよくあるタイプ、目新しさはとくにない。オタク向きに設定されたのは、VR普及の狙いがあってのことかもしれない。
 発話はAIや合成音声によるものではないらしいことに、俺は気づいた。目を閉じて、声だけ聞いてみる。綺麗な声だし歯切れもいいが、どことなく素人っぽい。目を開けてSWACCOを見直すと、このキャラクターに似合ってはいた。演技くささがあまり感じられない。とはいえ、やはりこれは人間の肉声だ。
 SWACCOは一頻り他愛もない話をすると、口を閉じ、いたずらっぽい笑みを浮かべて、促すように手のひらを出した。同時に膝の上でぽん、とかすかな音がした。VRゴーグルからほのかな光が漏れている。
 被ってみる。他の客も次々に装着している。ゴーグルの視界がすうっと明るくなる。俺の心臓が、跳ね上がった。
 眼前にSWACCOの顔がある。目と鼻の先、十数センチの距離。すこし潤んだ瞳、上気した頬。小鼻がふわりと膨らむ。
 周り中で、息の止まった気配がした。彼女の口元に俺の目は釘付けになった。
 その唇が何事か囁いているが、耳には入らない。ごく淡い象牙色をした歯の、濡れた真珠のような光沢。それをちらちらと見えつ隠れつさせているのは、美しい紅色の生きものだった。歯の間にはまた別の、もっと深い薔薇色のものが蠢く。
 視界の外で、かすかな喘ぎ声がした。微熱のこもった息遣いのさざなみがホールを満たしてゆく。
 細くすぼまった唇がふっと俺に迫り、それからまた、濡れた歯の光をのぞかせた。溜め息の音が、再び波となった。

 動悸がまだ収まりきらなかった。
 SWACCOの顔は、今は少し遠のいている。ちょっと照れた表情を浮かべながら、また何でもない話を始めていた。今度は、客席からの声に応答している。
 俺は会話はどうでもよかった。彼女の唇の記憶を反芻する。
 まぎれもない、大黒啓二の仕事だ。〝Risa〟を初めて見た時のあの驚愕、ときめきと同種のものを感じた。見る者の心の深奥を揺り起こす、あの生命感。生きた唇。およそ二年ぶりの、大黒の会心作か。
〝Risa〟は決して口づけをくれず、誰にも唇を奪わせなかった。VRの中で〝Risa〟は溌剌と跳ねまわり、動き疲れたかのように休むときには必ず、手が届きそうで届かない位置で腰をおろしたり、背をもたれたりした。誰に対しても、そうだった。
 二年前、VRの画面解像度は一般に今ほど高くなかったから、あまり間近に寄っては彼女の魔法が薄れると大黒は考えたのかもしれない。それに、いくら近づいたところで結局、唇を合わせることはできないのだ。
 しかしSWACCOは違った。いや、〝Rips〟と名づけられたあの唇は。迫った瞬間、触れたはずはないのに、触れたとしか思えなかった。薄紅色の肉と肉の間に俺を咥えこんでいった。なるほど、〝Rips〟か。もぎ取ってゆく。さらってゆく。魂を。
 このままでは帰れない。最初からそんなつもりはなかったのだが。
 ゴーグルをはずし、入口で渡された簡素なリーフレットを確かめる。ほの暗い中で夜光インクの数字が浮かんで見えた。イベントの予定時間は、まだ三十分ほど続く。
 デュオリンクのスタッフジャンパーを着た人間は、ホール内に七人ほど動いている。案外多い。バックステージにはどれくらいいるのか。
客の何人かが席を立ち、出口に向かう。用足しか、時間がなくて帰るのか。俺も何くわぬ顔で立ち上がり、ロビーへ出た。
ステージ裏へ続くドアは、あらかじめホールの案内図で確かめておいた。非常扉を兼ねているし、イベントスタッフも出入りする。鍵をかけてあるはずはない。辺りには、声を潜めて電話中の何人かがいるだけだ。人目はないも同然。
ドアをくぐる。プルシアンブルーの薄暗がり。まるで、クラゲを展示する夜営の水族館のようだ。
俺は首を動かさず、目だけを素早く上方に走らせる。防犯カメラらしきものはない。防音用カーペットの敷かれた廊下がゆるい弧を描き、向こう側は見えない。ドアがいくつか並んでいる。一番手前のはトイレだ。
男が一人、通路の先から歩いてきた。足音はほとんどしない。スタッフジャンパーを着ているが、バイトの雰囲気ではなかった。オペレーターの一人か。
俺は顔を伏せ気味にして、通路を進む。すれ違いかけたところで顔を上げ、男に声をかけた。
「デュオリンク様のご関係の方でしょうか?」
 柔らかい声音を使う。彼は足を止め、はい、と答えた。
「ホールの管理の者ですが、ちょっとお尋ねしたいことが……予定よりも随分スタッフさんが多いように思えるのですが」
 彼は頭に手をやり、すまなさそうな顔になって、ご迷惑をおかけしています、と答えた。
「思ったより人員が要るようになって、あちこち応援を頼んだんで。ご容赦いただけるとありがたいです」
「あちこちの部署から?」
「はい。子会社まで声かけて」
 それはいい具合だが、俺は少し心配そうな声を出す。
「そんなに……何か問題でも? 昨日と何やらご様子が違いましたので」
「直前になって参加希望の方が殺到したもので、増やしたぶんのVR端末の管理やら会場整理やらで。かと思ってるとスタジオのセットアップまで手間取ったりしてしまって、もう――」
「スタジオ?」
「はい。音声用の」
「ああ、あれは声優さんがなさってるんですね。綺麗なお声で」
「はい。いえ、あの人は専門じゃないんですが。うちのスタッフです」
「お部屋の用意に何か手違いでもございましたんでしょうか……」
「いえ、ただ、思ったより雑音が入るとわかって、急いで社からパネルを持って来させて、即席の防音ブースを組んだんです」
「ああ、それが先ほどの……大荷物でございましたね。どれくらいの大きさで?」
「一・八メートル立方です。申し訳ありません、ご迷惑を」
 何度も謝るあたり、律儀な男のようだ。
「いえいえ、こちらこそ。防音構造が少々古うございますので。それで、うまくいきましたか」
「はい。テープで目張りしたら、なんとか」
「そこに声優さん、いえスタッフさんがお一人で? 器械も」
「はい。マシンごとすっぽり囲ったんです」
「それはうまいことで」
 つい本音が出た。
「この先の部屋を、スタジオになさったのですよね? 皆さんそこにお集まりで?」
「今四、五人詰めてます。あとはホールと、そろそろ撤収の準備を」
「あちらのドアからお出入りなさってるのですか?」
「はい。駐車場に近いので。すみません、私はちょっと手洗いに」
「あ、これは失礼。お邪魔を……」
 道を開けようとしてうっかり逆に動いてしまった風を装い、俺は男の前に立ちふさがる。ばつの悪い顔を作って男の脇に回りこみつつ、その胃袋を俺はこぶしで突き上げた。続けざまに二度。男がうめいて膝を折る。
 こんな真似をするのは初めてなので、太いボルトにテープを巻いたのをこぶしに握りこんでおいた。効果はあったようだ。
 鳩尾に当身を加えて気絶させるというのはテレビドラマの嘘であって、実際のところ激痛で動けなくなるだけのことだから、準備はしてきた。ボルトをポケットに戻しスタンガンを抜く。二年前に買ったきり使ってなかったが、高級品だ。丸くなった男の背中に押し当てると、彼はびくんと痙攣した。息が詰まっているから声は漏れない。
 ちょうどトイレの前だ。麻痺した男を引きずって個室に放り込む。手早く結束バンドで縛り上げ、ダクトテープで猿ぐつわをかまし、もう一度スタンガンを当てる。しばらくは立てないだろう。トイレに行くところだったのだから失禁する可能性もある。こいつが自由を取り戻すのには多少の手間がかかるだろう。
 とはいえ、たいした時間は残っていない。時刻を確認する。あと、せいぜい十五分というところか。
 通路に戻り、「ホールの管理の者」と名乗った自分をリセットする。
 男が示してくれた部屋のドアノブに手をかけ、静かに回す。ノックはしない。音声スタジオだ。会場をここに設定した理由が何となくわかった。
 ドアのすぐ向こうに立っていた男がこちらを見、怪訝そうな顔をした。俺は会釈して入り込み、声を潜めて話しかける。
「応援頼まれたんだけど、もう必要なかったかな? 出るのに手間取っちゃって」
 彼はスタッフジャンパーではなくスーツ姿で、写真入りのネームタグを首から下げている。デュオリンクの社章、名は椎名靖之。先ほどの男はタグをつけていなかった。
「もう間に合ってる……すまなかったな」
 おざなりな口調ではあるが、一応詫びを言った。印象からすると、彼がこの場の責任者だ。イベントが山場を越えつつあるので、やや緊張が緩んで、少し余裕を取り戻したといった風情。ここで俺の身元など尋ねられては面倒なので、早速言葉を継ぐ。
「いや。それは何よりだ。いい声だな」
 なんのことだ? という顔をして椎名が俺を向く。馴れ馴れしい態度が気に障ったということもあるかもしれない。
「あのボイス。ああ、あの子か」
 部屋の中央に据えられた、一・八メートル角の立方体。畳ほどの大きさの透明なパネルを、各面に二枚ずつ使っている。こちら側の面の一枚はドアだ。中に女の子が一人、小さなテーブルに載せたポータブルコンソールの前に立って、マイクを手にしている。
「大黒氏のご指名かな」
 俺はつぶやくように言った。何となく、そんな気がしたのだ。
「どうしてわかった」
 椎名靖之は、少し驚いた表情を見せた。同時に、軽い不快感。この男の面の皮はあまり厚くない。
「似てるじゃないか」
「SWACCOに? そうかな」
「あの唇にさ。リップシンクしてるんだろう?」
「ああ。若槻の声に同調して動いてるんだが……なるほどな。〝Rips〟が先にあって、それに彼女の声を当てたわけだから」
 後半は独り言になった。彼は、何か安心したようだ。さて何なのか、見当はついた。しかし今はいい。
「でもほんの少しだが、音が割れてるみたいだぜ。ホールのスピーカーで聞くと」
 俺は言った。
「音割れ? 雑音じゃないのか。いや、それは解消したはずなんだが」
「雑音を閉め出そうとあのブースを建てたんだろうが、見当違いじゃないかな。小休止か? ちょうどいい」
 若槻という名の女が、ブースの中でマイクを置くのが見えたのだ。俺は首をひねる様子の椎名に構わず、すたすた歩いてブースのドアをノックした。遮音パネルだから聞こえないかと思ったが、女はちょうどこちらを向いたところだった。俺はにっこり微笑んで、ドアを開ける。生暖かい空気が流れ出し、女の匂いがした。
 お疲れさまです、と俺が言うと、彼女も笑って、お疲れさまですと答える。ハンカチで額や首筋を拭っている。急造の防音ブースだから空調はない。換気用の小穴は開けられていたが、ファンがないから空気は澱みがちだろう。それで一休み入れたらしい。俺は扉を大きくばたばた開け閉めしてやった。彼女はまた笑い、ありがとうと礼を言う。
 若槻の風貌は、おっとりした色白の、いいところのお嬢様といったタイプ。SWACCOには似ていないが、表情はきりっと締まっている。芯は強そうだ。
「暑いね、ご苦労さま。ちょっとわるい、まだノイズが抜けないみたいなんだ。調整させてくれる」
 室内に二、三人いる他のスタッフにも聞こえる大きめの声で、くれる、の語尾を下げて俺は言い、若槻の脇を抜けてブースに滑りこむ。
「ステージ側の音響設備に問題はない。室内の雑音はカットされてるから、この音声出力だと思うんだ」
 折りたたみテーブルの上に載ったマシンに俺は屈みこむ。立ったまま、背中で押し隠すように。
「応援の方?」
 背後から若槻が聞く。涼やかな声だ。俺はちょっと振り返って、そう、今来たばかり、と答えた。
「ちょっと遅れちゃってね」
「助かります。ここ防音があんまり良くなくって、ノイズキャンセラー入れたら声がへんに歪んじゃって。それで慌てて、パネルを持って来てもらってこんなの作ったんですけど。無駄騒ぎだったんですね」
「無駄ってことはないでしょう」
 モニターにはホールの客席が映っている。小さなタブで管理画面を開き、俺は片手の指を走らせる。もう片方の手の中には、とても小さなストレージデバイス。マシン背面部のポートを探り当て、そっと挿入する。マシン内の全ファイル、転写を開始。数分かかる。ふと、二年前を思い出した。あの時も似たようなシチュエーションだった。スタンガンの出番はなかったが。
「でもうまいね、あのおしゃべり。声優さんみたいだった。経験者? 演劇とか、放送部とか」
 俺は画面を矯めつ眇めつするふり、忙しく指を動かすふりを装いながら、若槻と話し続ける。
「いいえ」
 はにかんだ、でも嬉しそうな声で彼女は答える。
「ほとんど素人です。本業はデザイナー」
「VR開発部の?」
「はい」
「羨ましいな。大黒さんの傍で仕事ができるなんて。あの人、どういう人? 今アメリカだって」
「二週間ばかり前に〝Rips〟を仕上げて、そのままふいっといっちゃったんです。昨日までに帰ってくるはずだったんですけど。気まぐれですよね」
「君に、あとは頼んだぞって言い置いて?」
「まさか」
 若槻は笑った。わずかに、寂しそうな声音が混じった。
「そんなに信頼されてません、私はまだ下っ端ですから」
「でも彼に指名されたんでしょう。今日のお披露目の、〝Rips〟のボイスに。どうしてかな」
 からかうような口調は使わない。穏やかに尋ねてみた。答えはない。
 今、彼女は少し頬を赤らめている。でも眉はかすかに曇っている。見なくても俺はわかる。話を変えよう。
「アメリカで仕事? そういえばちょくちょくいなくなるんだよね、あの人。天才なのに寡作なのはそのせいかな」
「古巣があるんだって。言ってました」
「古巣」
 気に掛かった。
 出身大学か、それともどこかの研究機関か。大黒啓二は詳しい経歴を明かしていない。そこに何かがありそうだと頭をひねったところでちょうど転写完了。間髪を入れずデバイスを手の中に戻し、俺は後始末にかかる。痕跡を消す。長居は無用だ。俺はマシンから身を起こし、若槻に向き直る。
「どうもお邪魔さま。たぶんこれで大丈夫だと思う。後、頑張って」
「ありがとうございます。お疲れさまでした」
「じゃあまた」
 また。なぜ俺はこう言ったんだろう。
 ブースを出る時、あの、と小さな声がかかった。俺は立ち止まる。
「なにか?」
「あ、いえ。大黒さんにお会いになったことは?」
「ないが」
 なかった。二年前も今日も、大黒はここにいない。いたら困るわけだが。あとは壇上の彼を、俺は客席で見ていただけだ。こちらが勝手に目をつけ、追い回してきただけのことだ。
「そうですか」
 と、彼女は肩の位置を下げ、言った。
「どうして?」
 若槻は、尋ね返されてちょっと考える様子だった。時間がない。だが俺は待った。
「お名前うかがってませんでしたけど――」
 突如、何を言い出すのか。聞かれたところで名乗る気などさらさらにないが。微笑みを湛えた彼女が次に紡ぎだしたのは、意外な一言だった。
「――大黒さんに似てらっしゃいますね」
 俺が?
「そう? ありがとう。じゃ」
 俺は素っ気なく答え、この危険な舞台から退場した。今、口から礼の言葉がこぼれた。その意味は後から考える。

        5

高架から見下ろす街並がゆっくりと右に滑ってゆく。規則的に視野を横切る黒い架線柱は、古い映画フィルムのフレームのようだ。
 帰宅ラッシュまでは間があるが、車内は割合混んでいた。外回りらしきスーツ姿の男たちが鞄を抱え込み、眠たげにうつむいている。
 眠気が移ってきそうだ。目をそらす。
 俺は立ったまま、得体のしれない猛烈な気怠さと闘っていた。吊革をつかむ手に力が入らない。意識していないと膝も折れそうだ。
「代わりましょうか?」
 声がした。目の前、シートに腰かけた五十絡みの男が俺を見上げている。
「いえ、大丈夫です」
 俺は答えた。疲労が外目に出ていたか。周囲の目が集まっている気配を感じ、急いで素振りを取り繕う。
 緊張が解けたせいか。俺はうまくやりおおせた。
 内ポケットの小さなストレージを想った。〝Rips〟を描出し駆動するシステムが、コピーされて収まっているはずだ。これから帰って、俺のユーリに組み込む。あの艶めかしい口唇を、彼女に与える。
 車両が波打つように揺れた。
 カーブに入ったのだ。
 視覚は、窓外の景色にゆるい回転が加わりつつあることを教える。内耳はかすかな加速度変化を三軸で捉え、等速運動を忘れかけていた脳に知らせる。ベクションを意識して、俺は移動中の認識を改める。瀬島医師のマッドな顔が浮かんだ。結局昨日までに正式な退院許可は下りず、精密検査の結果を待たずに俺は今朝、病院を抜け出したのだ。社にはとっくに連絡が行っているだろう。電話の電源を、俺は朝から切っておいた。
 二日の間に身体のふらつきはどうにかおさまったが、完治していないのは自分でわかる。頭にイメージした小さな重い精密コマに常にトルクを加え、回し続けて俺はかろうじて立っている。しかし病室に戻る気はなかった。
 脳中の回転コマが甲高い音を立てはじめた。鞭打つように足を動かし、棲み家にたどり着く。昼前に出てから数時間しか経っていないのに、久方ぶりの帰宅のような気がした。
 キーボードの隅で小さなランプが明滅している。電話着信記録のリマインダ。病院と、社からだろう。録音機能は切ってあった。連絡は明日にする。ストレージを開かなければ。胸に手をやり、はっとする。ない。
 部屋に入るなり上着を脱ぎ捨てたことを思い出し、何度かきょろきょろして、ベッドの上に見つける。内ポケットを探り、息をつく。疲れている。茶が欲しくなったが、のんびりしてはいられない。
 それでも、まず彼女の顔が見たかった。今朝は支度するので暇がなかったから、考えてみれば五日ぶりだ。いや六日か?
 タッチパッドをそっとひと撫でする。俺の指紋を認識し、彼女が目を覚ました気配。まだ画面は暗い。俺はマイクの小孔に口を寄せ、ささやきかける。ユーリ。
 ぱっと光が溢れ、彼女が振り向く。髪が揺らめいて、毛先がくるりと弧を描いた。一人で俺を待っていた、今明るくなった顔。
 とくん、と心臓が一拍、強く打った。一瞬感じた息苦しさに、俺は喉を鳴らして空気を求めた。
「ユーリ」
 胸が詰まって、あとの言葉が出てこない。俺は心の中で言う。
 ユーリ。明日の朝、おはようのキスを君にあげるよ。

 プレゼントを用意しておく。だから目をつぶって、しばらくおやすみ。
 俺はやさしく告げ、彼女を終了する。ユーリが静かに微笑んで目を閉じ、画面は黒く沈んだ。ブラックアウトした、彼女の心の内側。コマンドを求める表示が明滅している。
 マシンのポートにストレージを挿入し、ファイルをコピー。インストール開始。
 ビープ音とともに、小さなポップアップ。パスワードを要求している。これは予想済みだ。
 いったん作業を止め、デュオリンクの社内ネットに侵入する。もちろん初めてのことではない。
 ステージ裏で俺がぶっ倒した男はとっくにトイレで発見されているだろう。暴行傷害事件だから、当然警察沙汰になっている。彼が襲われたと思しい時間帯にスタジオに現れ、防音ブースに入り込んでマシンに手を触れた身元未確認の男について調査も始まっているはずだ。しかし、社内ネットのセキュリティレベルが上げられた様子はない。これは罠かもしれないから、油断をしないほうがいい。経過には、引き続き、細心の注意を払わなければいけない。
 写真入りネームタグをつけていたあの男、椎名靖之の個人領域を見つけ、裏から手を入れて情報を漁った。パスワード推測用の仮想マシンにぶちまける。人工知能の力を借りて、三つの有力候補が算出された。俺は目を閉じてあの男の顔と表情、口ぶりを脳裏に思い浮かべ沈思黙考、一つを選び取る。
 数秒後、快哉を叫んだ。やりぃ! 気持ちの底から絞り出したような声がついほとばしり出た。
 インストールがじわじわと進み始めた。推測される所要時間は四十八分。俺は、肩の力が抜けた。
 電気ケトルを沸騰させ、多めの茶葉に熱湯を注ぐ。日没を過ぎたが、まだほの明るい。赤黒い空を背に、隣の棟のエッジがくっきりと黒い。
 瀬島医師は、まだ病院にいるのじゃないか。ふとそう思った。途端、着信音が鳴る。思わず取り上げる。不機嫌そうな声音が耳に飛び込んだ。噛み潰された苦虫の匂いが漂ってきそうだ。
「あなたがどのような選択をしようと、それは自由だが」 
 明らかに怒りを押し殺した声で、瀬島医師は言った。
「私としては、一応話しておく必要がある」
「検査の結果が出たんですか」
「出た。器質的には異常はない。まだ聞きたまえ」
 礼を言い別れを告げて通話を切ろうとした、俺の気配を彼は即座に感受したようだ。脳神経科医の鋭敏なセンサーか。
「ポイズン・セオリー。この言葉を聞いたことは?」
 瀬島は言った。俺はどこかで目にしたことがある。
 そうそう、身体の防御メカニズムの話だ。うっかり毒物を摂取した時、身体はそれを体外へ排出しようとする。つまり吐く。要するにそういうことで、当たり前すぎる気がして、俺はあまり注意を払わなかったのだった。
「現代人の脳は、前庭や半規管による反応を伴わないベクションをエラーと認識して、もしくは毒だととらえて排除しようとしているのかもしれない」
「それVR酔いの原因ですか? 頭痛や吐き気の」
「VR障害の。患者が増えている原因だ……」
 医師はつぶやくように言った。
「それで、私の場合は?」
「君はその極端な例の、先駆けなんじゃないかと思う」
「どういう意味です」
「君の脳は、何かを吐き出そうとしているんだ。なにか重要なものを」
「重要って。身体が排出したがる物というのは、毒なんでしょう」
「吐き出すこと自体、毒となるような、それほどのものだ」
「吐けば、もっと悪くなるわけですか。いったい何だと言うんです?」
 どうも話が曖昧模糊として、わからない。研究者の匂いが強い瀬島医師らしくもない。これでは診断とは呼べないだろう。
「勘でおっしゃってませんか。先生」
「所見だ。一昨日測定した、君の脳内活動パターンを概観した、この私の、経験に基づく」
 つまり勘じゃないか。
「はっきりしたことはわからなかったんでしょう?」
「君のパターンは……特徴的なものだ。異常だと言えるわけではないが」
 奥歯に何か挟まっている。煽りの一つでもかましてやりたくなった。
「詳しく知りたいのなら、病院に戻らないかね。入院しろとは言わん。定期的な通院……カウンセリングを推奨する」
 カウンセリングだ? 心の病だとでもいうのか。
 だが瀬島医師は、今慎重な物言いをしている。腫れ物を扱うような。気にかからないでもない。
 さしあたり、こう答えておくのが無難だろう。
「今の仕事に区切りがついたら、考えてみますよ」
 我ながら実に当り障りのない言葉だ。電話の向こうから何か言いたそうな気配が濃く漂ってきたが、俺は型通りの礼を言い、通話を切った。

 俺は再びモニターに向き直る。インストールは続行中。まだ半分弱だ。出過ぎた茶を注いですする。
 瀬島の言葉を反芻してみる。俺の頭が吐き出したがっているもの。しかし吐けば……
 茶が苦い。胃に来そうだ。俺はカップを置き、何気なくキーを叩いた。ディレクトリ画面へ。
 俺はぎょっとした。いつの間にか大量のファイルが開き、勝手に動作している。鉢植えの花にたかる蟻の群れのように。身の毛がよだつ。
 インストールを緊急停止。止まらない。
 ウィルスだ。しかし防護ソフトが作動していない。新種か。手動で防除を開始させる。考えられる手段はすべて駆使しなければいけない。俺は、闇雲に取り掛かった。
 処理終了までどれくらいかかったのか、覚えていない。気がつくと全身に冷や汗をかいていた。
 マシンを再起動させてみる。作動したが、俺は動けなくなった。見たものを信じたくない。
 ファイルの大半が掻き消されている。その中に、ユーリのデータの一部が含まれているようだ。
 震える手でユーリを呼び出す。画面に現れた人影。俺は一瞬で目をそむけた。彼女は肌を剥ぎ取られていた。
 俺が心血を注いで磨き上げたユーリのディテール。
 最新のPtex法を用いた、言わばモザイクアートのようなシステム。2(ク)ポリゴン(ワッド)が最小単位に扱うところをさらにきめ細かくアレンジし、0.5(クォーター)ポリゴン(クワッド)の緻密なスケールに設定し、再構成した。結果、莫大な容量負荷を強いられるようになったものの、本物に近い質感を実現することができた。俺が獲得した技術の中でも、指折りのものと言っていい。
この二年余り積み上げた、それらの更新データが全て失われた。そこにあったのは、冷たい無機質の、肌とは呼べない表面。出来の悪い蝋人形も同然の、生気のないこわばった顔面。醜悪な、ユーリのまがい物だった。
 俺の喉が鳴り、こみ上げてくるものがある。胃の内容物ではない。この前耳にしたのはいつだったかわからない、自分の泣き声。
 俺は泣いた。

 
 ユーリ。
 彼女の部屋のドアを後ろ手に閉めた後、俺はいくらか就職活動に身を入れ直し、幸い、中堅どころのデザイン会社に職を得た。そこで二年を過ごし、CGデザイナーとして多少の経験を積んだ俺は、自分の仕事を創り出そうと模索していた。
 三年目の春、小さいが野心的なプロジェクトを一つ任され、俺はクライアントとの初顔合わせに臨んだ。
 その席に現れた、紺色のスーツの女。俺は虚を突かれ、次に目を疑った。
「あら、笛木くんじゃない?」
 向こうから声をかけてきた。微笑みを湛えて。俺の身体は凝固した。頭も。ぽかんと開いた口を閉じるのも忘れていた。
「私のこと、覚えている?」
 重ねて彼女は問う。屈託もなく。何か言わなければ。
「……もちろん」
 ユーリ。なぜここにいる。
「よかった。しばらくぶりだね。いつ以来?」
 こんなやり取りができる別れ際だったか。そんなはずはない。
「……覚えていないよ」
 嘘だった。忘れようと務めていたのを忘れかけていただけだ。記憶が押し寄せた。
「そんなものかしらね」
 彼女は短く笑った。手の内を読まれていそうな、この居心地の悪さ。
「そうだね。都合の悪いことは、忘れるのが賢い生き方だよ」
 お互いの話か、それとも自分のことか、俺のことなのか。
 俺は困惑を抱えたまま、打ち合わせに入った。もちろん一方的にリードされた。押しが全然きかない。
 下を向いて資料を示しながら話すユーリの表情を、俺はちらちらと窺った。
 何も読み取れなかった。彼女はまったくの自然体、こちらが気恥ずかしくなってしまうくらいだった。前と同じ、くっきりした顔立ちに薄化粧。しかし二年の間に美貌が上乗せされていた。大人びただけでなく、人の目を惹きつける何かが醸成され、匂い立っていた。
 それからどういう経緯があったか覚えていない。ふた月余り後、俺たちはもう肌を合わせていた。予定されていたかのように。
 過程など、どうでもよかった。俺は、結果を重んじる男だ。ユーリと一つになれたことに、この上ない幸せを感じていた。彼女もそうだと俺は信じた。
 薄暗がりの中、俺の耳元に吹きかける息に乗せて、彼女は言った。
「もう嘘はついてない?」
 からかうような口調ではなかった。優しい声だった。
「ついてない」
 俺は短く答えた。
 本当だ。彼女と別れて以来、俺は少しずつだけど、変わってきた。
「本当に?」
 と、彼女が問う。
「ああ」
 どうして。
「必要なくなったんだと思う」
 そう。
 ユーリは目を閉じ、再び唇を寄せた。
 ありのままなのね、今のあなたは。
 俺は枕の上で仰向いたまま、答えた。
「そうだ。本来の俺だよ」
 お前もそうだよな。
 あなたと同じよ。
 お前はどうして、やめたんだ。
 なにを?
 嘘をつくのを。
 彼女は身を起こし、窓辺に向かった。カーテンに指をかける。しゃっ、と鋭くレールが鳴った。
 窓に満ちるのは冷たい暁闇。澄んだ夜空に薄い雲が溶け消えてゆくのを、細く開けた目で俺は眺めた。街の胎動が遠くに聞こえる。
 優しく美しい声で、黒いシルエットのユーリが言った。
 あなたのせいよ。あなたが去ってしまったから。
 そうなのか。
 俺はその時、満ち足りた気持ちになった。

 翌朝、まだベッドの中で、くしゃくしゃのシーツにくるまったまま俺たちは話していた。
「偶然……本当にびっくりしたよな」
「偶然でもないかも」
「どうして?」
 俺は半身を起こし、彼女を見つめた。肩が少し冷えた。
「わたしたち同じ業界にいたんだもの。目指すところは同じ、巡り巡って鉢合わせする運命だったのよ」
「そっか。そうかもな」
 最初の出会いからして、そうだったのだし。
 俺はベッドから起き出し、シャツを引っかけて、ソファにぶつけるように身を預けた。心臓が調子のいいテンポを刻んでいた。
「あの時しばらくぶりにわたしの顔を見て、どう思ったの?」
 毛布の下から顔を覗かせ、彼女は聞いた。
「何が起こったのか、よくわからなかったよ」
「考えてみたら、普通あそこで物別れになるんじゃないかしら」
「君はそんなこと、考えなかったんだろ?」
「あなたは?」
「俺もだ」
 窓から射す日が暖かみを増してきた。じきに熱くなる。身を起こしたユーリの髪の毛先が光に透け、頬が白く輝いている。
「普通じゃないよな」
 俺は笑った。
「元の木阿弥ってやつよね、これ」
「君は変わったよな。あの時見違えたよ。いや、すぐに君だと分かったんだけれどね」
「どっちよ」
 彼女も笑い声を上げた。
「二年ちょっとのロス、短いってば短いけれど……取り返さなくちゃって、思うの」
 わたしは前向きに生きてきた、あなたが行ってしまってから。そうユーリは言った。
「わたしが今のわたしになれたのは、あなたのおかげよ」
「君の努力だろう。いい仕事していそうじゃないか」
 ふふ、まあねとユーリは楽しそうに言った。
「今、ちょっとしたプロジェクトを任されてるの。あなたのところとは別の仕事」
「何だ?」
 俺は興味を惹かれた。
「話してもいいけれど。口外無用よ」
「約束する」
 メロディーを口ずさむように、彼女は機密事項を話しはじめた。
 VR没入用デバイス。その頃話題になりかけていた視聴覚に干渉する機器とは違い、触覚に訴えるものだという。VR空間に手触りを与えるグローブの開発と、それを活用した新しいコンテンツの創出。ユーリはその総合ディレクターなのだった。 
「大したものじゃないか。お前、優秀な女だったんだな」
 俺は、気持ちが昂ぶるのを意識しながら言った。
「わたしが選ばれたのは、たまたまよ。それこそ偶然転がりこんだチャンス。失敗したら転がり落ちる。だからあんまり持ち上げないで、落ちたら痛いもの」
 冗談めいた照れ笑いの下に、彼女の緊張感を俺は感じた。今のは本音に近い言葉なのだろう。
「俺にできることがあったら言ってくれ。何か、力になれるかもしれない」
「丈人くんの方は、何をやってるの。うちとの仕事以外で」
 俺は立ち上がって、備え付けの冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。アイスフィールドのボトルを半分近く一気に空ける。
「VRアバター。わかるか」
 短く言った。
「ああ、うん」
「一人称視点のアバター。つまりゴーグル型の装置を被ってVR空間に入った時の、ユーザー自身の身体なんだ」
「そのデザイン? 現実の自分の手足をカメラでとらえて、そのまま視野に映すんじゃだめなの?」
 さすがに飲み込みが早いと俺は思った。
「それでもいい。好みの外見に変換してもいいけどね。でも、どっちにしろ動きを正確にキャプチャしないといけない。うちが関わってるのは、ボディスーツ型の入力装置だ」
「ボディスーツって、下着よ。女性の」
 いたずらっぽくユーリは言う。
「そうなの? 名前を考え直さないといけないな。ともかく、全身タイツ型の」
 あはは、と彼女は笑う。
「ごめん。言ってることはわかる。ウェアラブルセンサーよね」
「そうだよ」
 俺はふてくされた顔を装う。
「じゃあ、意見交換できそうじゃない」
 彼女は真面目な声音で言った。
「正直、手指のキャプチャ精度はそっちのグローブ型にかなわないだろうな。仕組みは知らないけど」
「こちらは、もうじき商品レベルに漕ぎつけるわ。ちょっと素敵なのよ。水洗いできるし」
「だろうな」
 俺は唸った。
「開発予算が指先まで回らないんだ」
「でしょうね……うちも同じ。技術はあるけど、全身用デバイスは作れないの」
 彼女は傍に寄ってくると、俺の手からアイスフィールドを取り上げ、残りの半分を飲み干した。んふ、と艶やかな声を漏らし、その肩をぶるっと震わせた。ユーリはナイトガウンをかき寄せた。
「体の芯までかちかちになっちゃう、冷たさね」
 これは独り言だ。その後、言った。
「――うちのやつ、見せてあげようか」
 半ば期待した彼女の言葉ではあったが、じっさい聞けるとは思っていなかった。
「本当か? いいのか」
「ええ」
 彼女は相好を崩した。
「冷たいのを飲むと逆に代謝が上がるって、ほんとね。胸が熱くなった」
「いや、そうしてもらえるなら。願ってもない」
「でも、条件が一つ」
「何だ。言ってくれ」
 ユーリはちらりと、試すような目を向けた。しかしすぐに表情がゆるむ。
「わたしとの付き合いを、ちゃんとやって」
「なんだ、そんなこと」
 肩の力が抜けた。と、ユーリが俺の懐に飛び込む。抱きついてきた。柔らかな乳房が俺の鳩尾にぴたりと収まる。
「そんなことじゃないでしょう。大事なことだよ」
 俺の胸の中で言う。
「俺だってお前を取り戻したんだ。簡単に手放すもんか」
「嬉しい。でも不安なの」
「何が」
「わたしがあなたに見せる物。魅力的よ。あなたそっちにのめり込んじゃうかも」
「VRにか。まさか」
 俺はその時、笑い飛ばした。
 ユーリはナイトガウンをするりと落とし、白い裸身の背中を見せた。昨夜脱ぎ散らかした衣類を拾い上げ、一枚ずつ、丁寧に身に着けてゆく。
 横目で見ながら俺は、付け加えた。
「そういうことがあっても、悪くないと思わないか」
 ブラウス姿になった彼女は、ジャケットを広げながら振り返った。
「悪くないって?」
「俺たちクリエイターだろう」
 ユーリは少し目を丸くした。
「あなたって、そんなに仕事好きな人だったの?」
「君と出会った頃は、違ってたかな」
「変わったんだね。ちょっとかっこいいよ」
 その当時の俺など、覚えていない。思い出したくもなかった。
「ちょっとか」
 俺は照れ隠しに言葉を継ぐ。
「それより、こんど君のモーションをサンプリングさせてくれないかな」
「わたしの? そんなことしてどうするの」
「データ化したい」
「それって……つまりお誘いよね。わたしに見せてくれるわけよね。全身タイツ」
「オールインワン・ウェアラブルセンサーだ。やっぱり名前を考えないとな」
「ありがとう。でもライバル同士ってこと、忘れてない? 出世がかかってる」
「お互い様だ。うまくやる。うまくやろう」
「そうね。わたしたちなら、うまくいく」
 思い返す、これが二度目のユーリだった。

       6

 泣き濡れて眠り、午前零時に俺は目覚めた。見慣れた空虚な世界の中に、俺は閉じ込められている。
 状況は変わらない。悪夢を見たわけではない。
 ユーリは失われた。過去二年分の更新データが、水泡に帰した。
 髪も肌も、瞳の艶も。愛らしい小鼻や耳たぶ、頬骨からおとがいへと至るなだらかな起伏。それらの形は残っていた。
 だが俺が精魂傾けて彫り上げ磨きぬいた細部、神の宿るディテールはすべて溶け落ち、そこに現れたのは、もはや忘れ去っていた忌まわしいもの。不気味の谷に踏み出しかけていた頃の顔貌。今の俺には耐え難い、あまりに無残な、生きながら屍蝋と化した姿だった。
 ユーリのデータはクラウドに置かず、すべて俺のマシンの中にあった。自動バックアップのために繋いでおいたリムーバブルストレージの中にまでウィルスは侵入し、食い荒らしていた。
 これまでの日々を思った。毎夜のように彼女の頬を撫で、鼻筋をなぞり、耳介をさすった。指を滑らせるたび、そこに新たに血が通い、体温を蘇らせ、髪に光がつたった。やわらかな産毛に、かすかな波を打たせた。夜ごと、夜ごと、繊細な薄膜を彼女に被せ重ね、撫でつけ馴染ませてきた。何百日もかけて。短くなどない、無二の日々。
 とても取り戻せないと思った。俺は指をも失ったのだ。結局彼女に与えてやれなかったあの美しい唇と一緒に、造化の神が、俺のもとを去っていた。かつて大黒啓二のマシンから盗み出した、類を見ない高機能のVR造形システムが消え失せていた。
 彼女の生命を取り戻す術もないまま、今のユーリを正視する勇気はなかった。電源を落とした画面の前で、俺は放心状態だった。何をすればいいかわからなかった。世界が半分、閉じていた。

 着信音が鳴る。反射的に腕が動き、喉が応答していた。
「うわっ。びっくりした。笛木さん、いましたか」
 聞き慣れた声。
「ああよかった。すいません、システムトラブルです。Scoopeのサーバー。夕方から復旧作業やってるんですが……わわっ何て時間だ。すいません、でも、起きてたんですよね。出たのすぐでしたもの……」
 谷繁。
「行こうか」
 ぼんやりと俺は言った。
「えっ、いいんですか。いや助かります、けど身体平気ですか。画像、出てませんけど」
「切ってた。いいよ。すぐ出る」
 俺は立ち上がった。背と腰がずきりと痛み、いくらか目が覚める。機械のように俺は動いた。
 頭の中にあるのは、ユーリの健康な姿だ。
 あれを、取り返すためには、どうすればいいのか。何度も繰り返し考えてきた。鈍った思考が生み出すのは、もやったユーリの残像だけだった。脱力感を振り払うだけで精一杯だった。本当は、こんな時、何もしない方がいいに決まっている。
 近くのソファに身を投げ出すように腰かけた。
 天井を仰ぎ、顔を何度も撫でつける。
 目に焼き付けられた記憶が、じわりと脳内に再生される。思わず、顔をしかめた。
 ユーリ。
 喪って、はじめて分かったものがある。
 俺の愛情の大きさ。そして、依存の度合い。
 彼女は、俺そのものだ。
 つまり、喪失は俺のいくらかが死んだようなものだ。けれど、このままでは駄目なことは分かっている。なんとかしなければ。俺はすべてを喪ったわけじゃない。まだ、何かしらの方策が残っているはずだ。
 ユーリはきっと、今、不甲斐ない俺を見て、笑っている。いや、悲しんでいる。その顔をもう一度、笑顔にしなければ。
 あの顔を、取り返す――。
 俺は、今、できることから始めなければいけなかった。
 タクシーを頼み、社へ向かう。街の灯が夢のように窓ガラスをつたい流れてゆく。空いた道路を車は滑らかに走り、加速度変化を忘れさせる。だけど、ユーリを喪失した悲しみまでは消えず、残照のように尾を引いた。

 Scoopeのサービスシステムは、俺にとっては薬籠中の物だ。頭が自動的に解決策を導き出し、一時間余りで復旧完了する。居残っていたチームの人間から盛大な感謝を浴び、俺は控室に引っ込んだ。
 来がけに自販機で買ったBOSSにゆっくりと口をつけた時、谷繁が入ってきた。
「お疲れさまです」
 俺の姿を認めるなり片膝を崩し、ずっこける。わざとらしく見えないところがこの男らしい。
「ありゃ。間に合いませんでしたか。裏まで回って買ってきたんで」
 手に同じBOSSの銘柄違いを持っていた。俺は喉の渇きがおさまらなかったので、有り難くそれも受け取る。
 谷繁はソファの向こう端に腰を下ろした。一瞬、こっちの端がわずかに浮く。耳石が軽い垂直加速度を感じるのを、俺は意識する。
「終わりました。すいませんでした。もっと早くお呼びしたらよかったんですが」
 後の言葉を飲み込んだ気配。退院許可が下りないまま俺が病院を抜け出したことは、とっくにこいつも知っている。
「いいさ」
 何がということもなく、俺はつぶやいた。何もかも、どうでもいい。
 沈黙がおりた。深夜の二時を過ぎているから、社内も静かだ。
「大丈夫そうですね」
 谷繁が言った。俺がふつうに仕事をこなすのを見て安堵したらしい。しかし、まだなにか言いたげだ。
 この表情から見ると俺に関することではなさそうだが、それは彼にとってそうであるだけの話で、俺にとっては深い関わりのある問題かもしれなかった。可能性はある。デュオリンク。
「何だ?」
 俺は問うた。
 谷繁は眼鏡のブリッジを押し上げ、鼻先を掻いた後、切り出した。
「デュオリンクで、けっこう大きな事故というか、事件があったそうなんですが。笛木さん行ったでしょう、昨日のイベント」
「行ったが」
 気分が悪くなって途中で帰った、と俺は言った。
「そうですか。じつは」
 会場で暴行傷害事件があったのだという。俺は先刻承知だが、もちろん言わない。
「正体不明の侵入者だそうです。目的も不明ですが、デュオリンクでは当然、データ窃盗を疑ってます」
「盗まれたのか、あの唇」
「わからないそうです。疑わしい状況はあったが、痕跡は残ってないと」
 関係者に直接話を聞いたみたいな口ぶりだ。
「はい。左門さんが対応してます」
 意外なことを言った。
「あ? なんでうちが」
「デュオリンクが協力を求めてきたんです」
「どういう話だ」
「盗まれた可能性のあるモノについて、どこかに出回っているのを見かけたら知らせて欲しいと、いったことらしいんですが」
 ふむ。しかしうちとデュオリンクは、そんなに近しい間柄だったか? そんなはずがない。
「胡散臭い話だ。どう思う?」
そうですね、と彼は言った。
「提携しているわけじゃなし、まるっきしライバルだろうが」
「ですね」
 谷口は繰り返す。
 変な予感がする。口に含んだコーヒーを飲み下すと、喉からごきゅ、と奇妙な音がした。
「――ですが……明日にも、笛木さんに声がかかります。いや、もう今日ですけど」
「何?」
 俺は焦った。
 なぜだ。動揺を悟られまいと緊張しかけたが、考えると、ここで俺が戸惑うのは当然の話だ。
「なんで俺が」
「先方からのご指名で」
「だから、なぜなんだ。向こうに知り合いなんかいないぞ」
 実際は今や五、六人いるわけだが。会ってはならない顔見知りが。
「よくわかりませんけど笛木さん、注目されてるみたいですよ」
 冷や汗を俺は抑えきれているか。脇の下が濡れるのを感じる。ユーリ。彼女との繋がりを、そして約束を今、断ち切るわけにはいかない。
「……Scoopeの開発者として。あと――」
 ほっと息の音を立てそうになった。だが、まだ安心ならない。
「ウェビイの反響が結構大きいみたいですし」
「あれのデザインは、たしかに俺だが、触れ回った覚えはないぞ」
「ですよね。でも先方はご存知みたいで」
「なんでだろうな。それは社外秘ってわけじゃないが……うちのスタッフに、向こうの誰かと知り合いでもいるか」
「スパイが、まだいたんでしょうかね」
 谷繁はぽつりと言った。俺の頭には、ちくりときた。
「だったらとっくにScoopeがスクープされてたさ。うちのセキュリティは相変わらずだからな」
 俺は考えこまざるを得ない。差し迫った問題でもあった。
「出むけってのかな」
「まさか出向って話じゃないでしょう。でも顔合わせはすぐだと思います」
〝Rips〟発表イベントの参加者リストに俺の名前は記されているはずだが、顔写真はない。途中退席者は他にもいた。俺が容疑者になっているとは限らないが、それでも何らかの理由で、俺はデュオリンクに目をつけられているらしい。ドルガン社の開発スタッフの一員として興味を持たれているだけならばいいが、なんにせよ、俺は向こうの人間の幾人かに顔を晒している。身元未確認の怪しい男として。
「俺だって忙しいんだがな」
 努めて嫌気を顔に込め、俺は言った。
「でも良かったんじゃないですか。デュオリンクですよ、大黒がいる。僕はまだ見てませんけど凄かったんでしょう、〝Rips〟とかいうの。笛木さんあの人にご執心なんだし。会えるかもしれませんよ」
 時々ステージで話はするけれど、それ以外は謎だらけの、あの人物に。谷繁は言うが、俺はそれどころではない。しかしここで浮かない顔をしていると、不審がられるかもしれない。俺は誤魔化す。
「彼は関わらないだろうさ。たとえ自分の作品だろうと盗難事件なんて、あの天才にとっては些事だ」
 断れば余計に疑われるだろう。俺は顔を出さざるを得ない。だがデュオリンクは、あの椎名靖之を寄越してくる可能性が高い。舞台裏を取り仕切っていた当事者だ。
 さてどう切り抜けるか。俺の頭は冷たい思考に沈み始める。

        7
 
 帰る気が起こらず、そのまま控室で短い仮眠を取り、朝を迎えた。出勤してきた左門典子に、さっそく声をかけられる。
「昨夜はご苦労さま。いや今朝か。でも病院からの苦情をうけたまわったのは私なんだからね。あの怖い先生から」
 左門が俺の身代わりで瀬島医師に絞られたらしい。これは貸しよ、と彼女は言った。
「さっそく返してもらう。身体はひとまず大丈夫なんでしょうから」
「デュオリンクに行けってか」
「あら知ってた。慌てて髭剃る必要ないわよ。明日だから」
 明日か。俺の頭にまだ妙案は浮かんでいなかった。
「あっちの本社に行くのか」
「向こうから来るわ。協力を求めてきたのはデュオリンクの方よ。それに」
「誰が、いやどんな奴が来るのか聞いてるか」
 まずそれが知りたい。
「もちろん。開発部の椎名さんて人と、あとエンジニアが数名。それとなく尋ねてみたけれど、詳しいことまでは答えてくれなかったわ。あいにく彼氏じゃないからそこからは突っ込めないのよ、わかるでしょ」
 俺が大黒が来るのを期待したと、左門は考えたらしい。余計な世話だ。
「それより、お土産が重要よ」
「ウェビイでも持たせろよ、人数分」
「違う。向こうがお土産ぶらさげて来るのよ」
「何だ」
「〝Whistler〟」
 左門は気取った発音をした。
「ウィスラー? ヒタキだっけ」
「よく知ってるわね。でもこの場合は、口笛吹きでしょうね」
「口笛?」
「昨日発表されたRipsの、描出システムの名前だそうよ。あの唇は、物理計算で口笛が吹けるんだって。どんなメロディでも。昨日のイベントの締めくくりに、そのデモがあったのよ。もう動画が上がってる。あなた途中で帰った?」
「そうなのか」
 凄い。いや待て。
「それを持って来るって? 連中が?」
「そう。中身を公開しますって」
「なぜだ」
「だから、我が社への協力依頼よ。出回ってるのを見かけたらご一報を――ってわけ。凄いよね。まだ盗まれたと決まったわけでもないのに。ちょっと量りかねるところはあるんだけど」
 左門はそこで何故か、ちらりと俺の目を見た。
 俺は内心うんざりしていた。仮にも病み上がりの身をおして盗みに入ったんだ。しっぺ返しというにはあまりに非道な仕打ちを食らった挙句、向こうから持ってくるとは。
 腹の底から怒りが湧き上がってきた。懸命に押し殺す。
「何がウィスラーだ。ウィルスでも仕込んであるんじゃないか、悪質な」
 せめて憎まれ口でも借りてガス抜きしないと、破裂しそうだ。
「はあ? まさか。どうしたのよ、非常に興味深い話でしょう。それに先方はあなたを指名してきている。谷繁くんからもう聞いた?」
「理由は聞いたのか」
「そりゃあね。遠回しに探ってみた。でも、電話ではどうもはっきりしないのよ。変に手の内を隠すような話し方をするの」
 感情や素性を露出することを嫌う人が増えたのは、今に始まったことじゃない。だが、それにしてもだ。
「総務としては、首狩りを疑うわね」
 どぎつい言葉を使う。さっきみたいに英語で言ったらどうなんだ。
「引き抜きか。誰の」
 左門は呆れ顔になった。
「あなたに決まってるじゃない。VRエンジニア好みの美味しい手土産をもって、引っ掛けにくるのよ。普通はヘッドハンターに依頼するものでしょうに、大胆不敵だわ」
 俺は考えてもいなかった。ドルガン社に忠誠心を捧げているつもりはないが、デュオリンクで働くなどは想像の外だった。ほんの三日ばかり前にそんな話があったら、俺は飛びついたかもしれない。だが今は。俺は歯噛みしているべきか。
 いや、罠かもしれない。高めている警戒レベルを引き下げないほうがいい。
連中は俺の面通しに来るのかも。そうだ、椎名靖之と一緒に来るエンジニア数名というのは、あのスタジオにいた連中じゃないのか。あるいは俺が襲ったあの男か。昨日の今日で立てるかどうかは知らないが、律儀そうな奴だったから、肩を支えられ足を引きずってでも、やって来るかもしれない。俺に対する怨恨と憎悪を気付け薬にして。
 他人事みたいに考えている場合ではなかった。
「だからね、明日は私も同席する。あなたに首輪を掛けてしっかりつないでおくようにって、上から――」
「ちょっと待て」
「私の言葉じゃないから。上よ。勘違いしないで」
 慌てて弁解するその様は、いかにも必死だった。
「そうじゃなくて。そんなに俺が心配なら、考えがある」
 VRと聞いて閃きがあった。かなり突飛だが、この際ダメもとだ。
 俺は思いついたことを左門に話した。
「どうしてわざわざ、そんな真似を」
 彼女はこれ以上ないくらい妙な顔をして渋ったが、俺は押し通す。
「先方は俺に興味を持ってるんだろう。エンジニアとしての俺がどういう人間か、アピールしてやる」
「それを職務経歴書代わりに、売り込む気?」
「疑うなよ。単にコミュニケーションだ。連中だってこの業界で生きてるんだ、面白がってもらえるさ」
「そうかしら」
「ご足労をかけることもない、移動に時間も食わない。時は金なり、だ」
 結局、彼女は折れた。
「わかった。まあね、主目的は機密ファイルの受け渡しのはずなんだから、こちらがそういう手段を提案すれば、向こうは意思表示と受け取るかもしれない。あなたを我が社は渡さない、という」
「そうそう」
「一応、あなたは体調不良でと言い訳をしておくわ。病み上がりは事実だし」
 そうよね、と左門は強調した。軽い皮肉と非難、ついでに恩着せの響き。
「頼む」
 俺は言った。これは本音だ。
「まかせなさい」
 優越感を匂わせ、左門典子は答えた。

        8

 半自動的に歩を進める足が、時おり小枝を踏んで静寂を破る。不自然な規則性を感じさせるその音は、緩慢なカウントダウンに似て聞こえる。
 見回せば黒ずんだ円柱が立ち並び、頭上を仰げば、くすんだ緑色をした針の雲。下草の中に、見えるか見えないかの踏み跡が前方へと導く。これを見失えば迷う。振り返ってみる。予感の通り、俺の足跡はない。戻る道はすでに消えている。
 薄暗い針葉樹林を俺は歩いていた。一人きりだ。ついて来るかと佐門典子に問うと、付き合いきれないと言った。
 左門を通して、俺はVR環境下で機密ファイルを受領したい意向をメニュー画面を操作し、デュオリンク社に申し入れた。策に窮して半ば自棄気味に言ったことだったが、彼らは承諾した。デュオリンクのサービス空間内に専用領域を開き、暗号化したファイルを用意して待つという。暗号解除の鍵は、また改めて渡すと伝えてきた。
 VRアバターを被れば、俺は顔を見せずに済む。ひとまず時間稼ぎにはなる。しかし突拍子のない提案を彼らがあっさり呑んだことには、思惑が感じられなくもない。
 体調の不安を理由にして、出勤はせず自分の部屋で、俺はScoopeの開発用テスト機を装着した。VR環境プロトコルは共通、これで問題なく動けるはずだ。指定された時刻が来て、俺は没入した。佐門典子が社内からモニタリングする。一人称ではなく、仮想ドローンカメラの視点だろう。俺には見えないがその辺に浮いているはずだ、彼女の眼球が。デュオリンク側でも、同様に俺を見ているだろう。
 存在することがわかっている視線など、気にはしない。しかし俺は違和感を覚えていた。
 上には樹冠、周りは杉の木立。少し離れれば、俺の姿は幹の間に紛れるだろう。だが、どこか遠くから、俺は見られている。何者かが俺を、いや俺のいるこの場を、俯瞰している。思い過ごしだろうか。その眼差しを、俺はよく知っているように思う。気の迷いか。
 林の切れ目に出た。曇った空が見える。遠雷が聞こえた。
 高精細の景観だが、ずいぶん陰鬱だ。スリラーゲーム用の背景か。
 草地の向こう、正面の幹の間が空いている。さらに林の奥へと誘う小道。ここまでは迷わずに来れたということだろう。オプションとして備わったマップやナビゲーションは、まるで役に立たなかった。足跡の手がかりさえ除けば、ほとんど直感だけでたどり着いたようなものだ。
 埋もれかかった古い石畳を俺はたどる。ほどなく、一軒の家に行き着いた。
 二階建ての洋館だった。薄汚れた煉瓦壁に、干からびた木の窓枠。三角屋根のスレートが所々欠落している。見たところ窓ガラスは割れていないが、中は暗い。人が暮らしている気配はない。まるで廃屋だ。
 塗装の剥げかけた玄関扉を俺は見つめる。一応ノックが必要だろう。VRメットが俺の操作意思を検知し、客観的状況を踏まえて意図を推測する。アバターの右腕が持ち上がり、軽く握られた手が戸を叩く様を、俺は見る。ドアに埋め込まれた見えないプログラムがその動作を受け入れ、ほとんど遅滞なくコン、コンと音を鳴らす。このVR環境は正常に動作している。
 応えはない。俺は構わず戸を開ける。仮想の手がハンドルにかかり、回す。錆びた鉄のこすれる音。
 玄関ホールは暗い。
 移動意思が探索意思を上回り、仮りそめの俺の身体は框を踏み越えて屋内に入る。この世の終わりの日のように、中は森閑としていた。かすかに軋む床の上に、漂う冷気が見えるようだ。
 背後で嫌な音を立て、ドアがひとりでに閉まった。ありきたりな演出だが、悪意めいたものを感じないでもない。
 広間には、生活感が欠如していた。調度品は揃っているのに、使っていた様子がない。酒器や茶器、絵皿の並んだガラス戸棚も、一度も開けられたことがないかのようだ。実際そうだとしてもこの場合不思議はないとはいえ、何かの場面の背景としては、画竜点睛を欠くのではないか。それとも、こんな見かけも演出のうちか。ともあれ精緻な造り込みではあった。サービス空間のデモンストレーションとしては悪くないだろう。
 だが、この先に何が待つのか。
 皆目わからない。
 予期できないことが、俺の心臓を絞るように不安に沈める。まず、この弱気を突き破らなければいけなかった。
 天井には古めかしいシャンデリア。昔日の輝きを感じさせる。昔日など、この空間に存在したためしはないにもかかわらず。
 壁の額にはルネサンス風の夫人の肖像、しかし名画には程遠い。デッサンが狂って、というより歪んでいる。忌まわしいものを連想しかけ、俺は思わずかぶりを振る。
 別のイメージを持ちだしてマスキングする。忌まわしきもの、か。まるでラブクラフトかポーの世界だ。
奥の扉を抜ける。この家は、思ったよりも奥行きがある。長く伸びている廊下に俺は歩を進めた。わずかに処理が遅延しているのか、自分の足音が後からついて来るようだ。これは、いかにも不気味だ。人によっては、シックネスというよりVRフォビアを誘発するのではないか。
埃じみた窓を通して、外光が低く入射している。空間は青白い。ここは朝方なのか、夕時なのか。そもそも時間経過はあるのか。
半開きの扉がある。入ってみると、四面にエボニーの書庫。ガラスの奥に上製本が並んでいる。背表紙の文字も読み取れる。ドイツ語、フランス語、ロシア語。知らない外国語。どれも古い学術書らしい。精巧な外観だ。開いて中を読めそうな気がした。
中央の読書机には何もない。革張りの椅子にはうっすらと埃。もし指でなぞったら、跡がつくだろうか。
だがここに用はない。廊下の先、くすんだ赤絨毯を敷いた階段の下に、俺は立つ。
客に贈る物を置くなら、客間だろう。おそらく二階だ。Scoopeが足を持ち上げ、俺は階段を上ってゆく。
二階の廊下の先に、いくらか明るい部屋があった。小さな鉢植えを並べたサンルーム。クリスタルを削ったと見えるサンキャッチャーが淡い光を屋内に投げている。
何故か、息遣いが荒くなっていた。アバターには反映されない、自室のウェビイチェアに身を預けている俺の呼吸が。
廊下の両側に、樫のドアが三つずつ並んでいる。
移動、操作。手がドアノブを回し、腕が押し開く。足が歩み入る。
階下と同じ、青白い空間だった。華やかなドレッサーに楕円形の鏡。デュベスタイルに整えられた二つのベッド。屋敷の客用寝室というには、微妙にそぐわない感じがした。
隣の部屋を覗いてみる。作りも調度も同じだった。残りの部屋もこうなら、まるでペンションだ。
廊下に戻る。三つ目の部屋のドアに、俺の目は吸い寄せられた。既視感を覚える。そっくりの室内を続けて見たせいの錯覚か、そう思いながら、開けた。
壁に飛び散った真っ赤な染みが目に飛び込んできた。俺はドアから飛び退った。息が止まる。
血痕。認識した瞬間、既視感が脳裏で爆発した。
寝乱れたベッド。その陰から、床に血溜まりが広がっている。足が竦む。竦むはずだった。
だが俺は、もうそれを見下ろしていた。歩み寄った覚えもなく。
太腿まで剥き出しになった、若い女の脚が見えた。染色液に漬け込んだかのように青白い。
はだけたナイトガウンが血に濡れている。
顔。
俺の視野に大写しになる、その面貌。
ユーリ。
ユーリが血の海で凝固している。胸から下腹部まで切り裂かれて。赤黒い肉を露わにして。
 呆けたような顔。半開きの口。
 何かを掴もうとしたまま静止した、指。四肢。
 減り張りの効いたすっきりした首回り。
 起伏の緩い、滑らかな節々。
 こんな時も、切々と光を湛える、御自慢の黒髪――
 これは、なんだ。
 俺は、意識が揺さぶられる。
 微動だにしないユーリの顔に、ほんのり表情が浮かんでいるような気がした。それを掬い取るたび、俺の心臓はどくん、どくんと勢いよく跳ねた。
 スイッチが入ったように、俺の視界が、突如ピンと立ち直る。レンズに雨礫を浴びたような映像が少しずつ、色をなしていく。
 岬の森。
 古い小さな洋館風のペンション。
 二人で目指した、秘密の場所。
 悠久な時間とともに、暖かな感触に包まれていた。何か一言いいだすと、やわらかく響き渡る、エコー空間。洞窟のようだ。
 落ち葉。
 そう、足元は黄色と赤色の絨毯だった。遠近法を見失ってしまうほど、鮮やかな色を湛え、つんと尖った葉先とともに、その先へと誘っていた。
 俺は演出されたようなその道を進むだけでよかった。
 何も考えていなかった。
 胸の内が、ユーリのことだけに満たされていた。

 視界が激しく上下に揺れている。左右の揺らしも入っている。
 俺の頭の中に住まう、加速度の掛った精緻なコマが、暴走しはじめたかのようだ。
 疾駆。
 俺は、全力で足を前に送り出し、走っていた。乱れる息が収まらない。募った追い立てるような焦燥から逃れようと必死だった。
 怖い。
 俺を追い掛けてくる、苦痛を伴うこの感情がひたすら怖い。
 なんの、焦りだ。
 俺もよくわからない。
 捕まえられた途端、俺が崩壊することだけは分かっていた。俺は、まだ死にたくない。まだやり残したことがある。
 ユーリ。
 彼女を救い出すのだ。
 俺のこの手で。
 彼女のためにも、生き延びなければいけない。
 走る。
 闇雲に駆け抜ける。足が千切れようが、身体がバラバラになろうが構いやしなかった。
 脳裏にしがみついてくるものを振り払ってやるよう、スピードをさらに上乗せする。
 だけど、走りが単調になるほど、俺の意識の中に目の当たりにしてしまった映像が蘇る。
 背筋が凍った。
 俺は。
 俺は、何を見た?
 あれは、嘘ではない。
 作られた虚像でもない。
 ユーリ。
 なぜ
 お前は。
 ここにいる。
 なぜ、あそこにいた――。

 足が止まる。森がぐるりと回転し、俺は眼前に木漏れ日を見る。周囲で枯れ葉が舞い立つ。前のめりに倒れて、固い地面に突っ伏した。いや、視界コントロールの制御を見失ってしまっただけだ。俺は、どこも怪我をしていない。だけど、身体がきしむように痛む。VRの臨場感は痛みまでをも創り出すというのか。
 そんなことはどうでもいい。
 俺は打ち身をして、少しだけ我を取り返せた。
 ユーリ。
 彼女は、俺が殺した。
 ここで、やったのだ。
 だから、彼女はここにいる。
 きっと、そうなのだろう。
 魂が抜け出ていくような勢いで、俺の肺から大きな息が漏れ出た。


「着ろよ。約束したろう」
 意地の悪い声を俺は出さない。きっと似合うに違いないと思って勧めただけだ。
 スピードスケーターのレーシングスーツか、さもなければ戦隊ヒーローのコスチュームと見まごうフューチャリスティックなデザイン。等身大アクションドールに着せてディスプレイされたその前で、ユーリは固まっているように見えた。きちんと畳まれた全身用センサーウェアを、俺は彼女に差し出している。
「ちょっと待って。やっぱりいや」
「君の顔、赤くなってないけど」
「それはどういう意味よ。かなり恥ずかしいスタイルだって、あなたも思ってるってことじゃない」
「美しいスタイルだよ。スーツじゃなくて、君のボディラインが。身体の線をそのまま出すんだから」
「もう少し厚めの生地にしたらどうなの。せめてウェットスーツくらいに」
「それじゃ暑苦しいだろう。これは通気性もいいんだ、着てることを忘れるよ」
「裸同然って言いたいの?」
「ナチュラルだよ」
「ワイルドだわ」
 などと言いつつ、彼女の横顔はスーツを見据えたまま、恥じらうというより、どちらかといえば興奮気味だ。
 それを指摘してやろうかな、と思った矢先、
「わかったわよ」
 彼女は俺の手からスーツをひったくった。

「アバターのサンプルは、いくつか用意してあるんだ。これ」
 タブレットに表示して、ユーリの顔に向ける。指を滑らせて上下左右に回転させ、全体像をプレビューしてやった。ポップな模様を表皮にまとった、三頭身の怪獣。赤子のような丸々とした短い四肢。背筋にはステゴサウルスみたいな棘突起。
 ユーリは一目見て口元を押さえ、くすっと笑いを漏らした。
「これに? これになっちゃうんだ?」
「そうそう、これだけじゃないよ、他にもほら」
「これがいい」
「そうかこれか、この怪獣だな」
 俺も気に入りのキャラクターだ。選択し、決定する。怪獣はこちらを見て片眉を上げ、サムズアップすると、フレーム外に素早く消えた。
「お前は怪獣になるんだ」
「どういう言い方よ。でも」
 彼女は小首を傾げる。
「全然体型が違うけど」
「そうだね」
 俺はユーリを鑑賞する。彼女のセンサースーツ姿。板に付くとはこのことだ。何気ないポーズが、実にさまになっている。ブースの前を歩き過ぎる連中が、ちらちらと目をくれる。立ち止まるやつも何人かいる。
「じろじろ見ないでよ」
「いやらしい目は入ってないから」
「そういう問題じゃない」
 ぶつくさ言う彼女から、俺はやはり目が離せない。
「これ、本当に同調するの?」
 と、彼女は口を尖らせたまま俺に言った。
「後ろを見なよ」
 彼女はさっと振り返った。一挙動で、身体ごと。メタリックグリーンのスーツが煌めいた。
 背後に立つ大型スクリーンの中で、怪獣があざやかなターンを見せた。太い尻尾がぐるん、と振れる。
「きゃ」
 ユーリが小さく歓声を上げた。
 センサースーツを着たユーザーがスクリーンの方を向くと、アバターの姿は自動的に鏡面反転するよう設定してあった。ユーリは姿見に向かうように、変身した自分と対面する。彼女が首を伸ばして怪獣の顔を覗き込むと、怪獣も鼻面を寄せ、にらめっこになる。ユーリは笑った。顔筋の動きはキャプチャされないが、スクリーンの裏に置いたカメラがユーリの表情をとらえ、架空の爬虫類のウロコ面を数瞬遅れで笑わせる。スーツの襟元のマイクが、笑い声を唸り声に変換する。
「グルロロロ」
「あはははは!」
 ユーリは全身をフルに使ってポージングを始めた。ダンスともパントマイムともつかない、見たこともない奇天烈なパフォーマンス。
「ユーリ。ユーリ、普通の動きでいいから。もっと日常的な」
 日常。俺は彼女との暮らしを思い描き始めていた。結婚生活を。
「やだ」
 心中の思いに拒否の一言を返されたかと錯覚しかけたが、ユーリは背後を見て慌てたのだった。ブースの前に人だかりができかけていた。
 今度は頬を赤らめた彼女は、身を翻して物陰に飛び込む。メタリックグリーンの残像が尾を引いた。人だかりから好意的な笑い声が湧き起こった。

 ユーリは額の汗を手の甲で拭っていた。ハンカチは脱いだ服と一緒に更衣ボックスの中だ。俺は自分のを彼女に渡した。
「ああ、タオルを持ってくるんだった」
 ユーリの髪の間で、細かい汗の粒が光っている。シャワーでも軽く浴びたあとみたいだ。
「感想はどう」
「面白かった。着ぐるみを着るみたいな感じかと思ってたけど」
 違っただろう、と俺は言った。
「そうね。ただ、変身して鏡を見るのとは、ちょっと違うかな。あの遅延がね。笑った時とか。ガラスを挟んで物真似されてる感じに近かったかな」
 その点は、認めざるを得なかった。
「言うなよ。やっとここまで仕上げたんだから」
「でも、まだ開発の余地があるよね」
 スタッフ用に設けた狭い休息スペースで、俺たちは話していた。
「あれを、VR空間での自分にするわけでしょう。足りないものはまだいっぱいある」
「表情か」
「今のやり方だと、ユーザーの怒った顔とか笑顔、泣き顔、識別できるのはそれくらいでしょう」
「まあな。顔にあちこちマーカーを貼り付ける方法もあるけど、面倒だし、化粧の上からだと剥がれやすいし。いずれ表情認識がもっと使えるようになれば……」
「あと、やっぱり指先。触覚も欲しいし、力覚も」
「だなあ」
 ユーリが話してくれた、彼女の携わるプロジェクト。開発中のモデルの画像もこっそり見せてくれた。ブレスレットから手の甲に沿って指先へと伸びた、平たい五本のシリコーンチューブ。中に入っているのは多数の関節から成る機械の触手だ。人によって異なる手の大きさ、指の長さや関節の位置に、柔軟に適応する。その上から嵌める、レース状のぴったりしたメッシュグローブ。この組み合わせが手指のモーションをマシンに入力し、また同時に、VR空間で物に触れた時の触覚や抵抗感を擬似的に再現する。このシステムを全身に適用できれば、と俺は思わずにいられなかった。
「ないものねだりかな」
「今のところはそうでしょうね」
「遅延のことなら、もうじき解決できるはずなんだ」
「処理を高速化する方法が見つかりそうなわけ?」
「専用チップを作ってる」
「GPUを独自開発? 簡単なことじゃないでしょう」
 ブレイクスルーを見つけたんだ、その言葉が喉から出かかった。開発チームの一人が俺にぽろりと漏らした、あの苦労話。
 ユーリは微笑んだ。
「だめよ。秘密は秘密にしといて。限度ってものがあるでしょ」
 そして横を向いた。途端、あ、と小さな声を上げる。
「何?」
「わたし、まだ、スーツのままだった」
 恥じらうような、可愛い顔をしてユーリは言った。

        9

 電話が鳴っている。手が勝手にキーボードをまさぐり、受話キーを探り当てる。
「笛木さん? お疲れさま」
 誰だ。女の声。ユーリ、違う。何の話だ。
 頭痛がした。
「画像が出てないよ。どうしたの?」
 左門。
 はっとした。記憶が蘇り、背筋が凍る。言葉が出せない。
「聞こえてる?」
 俺をモニタリングしていた左門典子の声。不審そうな、しかし、緊迫感はない声。
 夢を見ていたのか。
「ああ」
 かろうじてそれだけ、声が出た。
「大丈夫?」
「……何があった」
 聞いていいものなのか。
「何って。ちゃんと済ませたじゃない。機密ファイルの受け取り」
 俺は頭を振った。重い。視界が暗い。VRメット。
「見ていたのか」
「もちろんよ、一部始終を。退屈だったけど」
 退屈か、あれが。いや左門は見ていないのか。あれは本当に、俺の夢か。
「ファイルは明日持って来て。来れる? こちらには暗号鍵が、今届いた」
「わかった。君も……お疲れ」
 通話終了。俺はそこでやっと、Scoopeを頭から引き抜いた。室内の明るい光。夢から覚めた気分ではある。
 マシンに目をやる。〝Whistler〟ファイル、ダウンロード完了の表示を画面上に見る。
 そしてぞっとする。VR空間でそれを受領した、記憶が俺にはないことに。
 代わりに脳裏に灼きついている、あの光景。現実の記憶と二重写しの。
 血。ユーリの屍体。
 世界の破滅。


 俺は考え続けている。だが思考は堂々巡りに嵌まり込みそうだ。森の中の環形(リンダ)彷徨(ワンデルング)に。
 幻覚。
 VRに没入しながら幻覚を見ていたのだとしたら、いったいどこから俺は幻の領域に踏み込んだのか。そして逃げ出した、にもかかわらずあの場で為すべきことを為し、それを憶えていないのはなぜなのか。
 俺は解離性障害か。瀬島医師の顔が浮かぶ。彼が言いかけていたこと。脳内活動の特徴的なパターン。カウンセリング。
 それともこれは罠か。デュオリンクが仕掛けた。あのウィルスと同じ。俺を追い詰めるための。
 だが俺しか知らない、俺だけしか目にしていないはずの殺害現場の様相が、俺を待ち受けていたのはなぜだ。誰もがカメラを持ち、そこかしこにレンズが光り、突発事態ですらも多くが画像として残される時代とはいえ、当事者の俺自身が記憶の中にしか留めていないものを、彼らがどうやって俺の眼前にひろげて見せる。やはり幻か。
 血溜まり。流れ出して冷えきり、凝固した生命の痕跡。あの鮮烈な色の周りで、俺の世界はふらつきながら回転している。
 脅迫――。
 単純に考えて、彼らがやろうとしているのは、まずこの二文字が浮かび上がる。 
俺を脅して何を得ようというのだ。ドルガン社の技術情報か。俺がエンジニアとして連中が注目しているというのなら、考えられなくもないのだが。俺の弱みを握って引き抜くか、あるいはスパイに仕立てるか。
飼い殺し――。
俺の利用用途は、見え透いていた。
どうせ利用されるなら、返り討ちにしてやらなければ。
いや、待て。
 ここまで考えたことを、信用していいのか。
 根拠はどこにある?
 俺は頭をひねった。
 一つの取っ掛かりを得た。
 あの洋館で俺が惨殺死体に出くわして泡を食って逃げ出したにもかかわらず、終始モニタしていたはずの佐門典子がそれを見ていないという――この事実だ。
偽装工作でも施したというのか。できないことじゃない。あの針葉樹林を歩いている間に俺のVRアバターの外見をコピーし、別のアバターに貼り付けてファイル受領の場面を演じさせ、そうしてリアルタイム生成したダミー映像を流せばいい。事前準備さえしておけば、俺だってそれくらいはやってのける。整合がつく。
俺は、気持ちを固くし、思案をさらに続ける。
すると、どうなる。
やつらが、俺に目を留めた理由――これについて、答えを出さなくてはいけなくなる。
なぜ、連中は俺なんかに注目するようになったのか。
俺には、才能なんて欠片もない。
いつも抱えている劣等感を跳ね返しきれず、うんうん唸っているような、しがないデザイナーだ。学生時代からすでにやる気はなかったが、だけど、野望がないわけではなかった。それらのいくつを実現できた? 一つもだ。つまり、俺は今も駄目を更新し続けている男なのだ。
確かにドルガン社において、売れる製品の二つ三つを作ったぐらいの功績はある。それが何になる? 大黒啓二に対抗できるだけの要素に取り上げるまでもない。
ユーリ。
彼女の存在があるのは確かだ。
会心作であり、俺の誇り。
だけど、出来栄えのほとんどは、大黒の手を借りたものだった。俺は養父程度で、大黒こそが実の父親だ。俺の中の自慢ですら、その程度なのだった。
改めて彼女のことを想う。
俺が一番に大切な存在なのは、きっと今後も変わることはない。いや、永遠に俺は彼女を愛し、追究し続けるはずだ。俺から切り離すことなどありえない。
傍にいてほしい。
俺の胸の奥がきゅっと痛んだ。想うほどに、感情があふれ出てくる。傍で笑い掛けてほしい。いつかにこしらえた極上の笑み。俺の脳裏に、それがまざまざと甦った。あの温かい感触がもう一度ほしい。包まれたまま、俺は彼女とともに眠りにつきたい。
俺の幸福のイメージはすぐに断ち切られる。
生皮を剥がされた、ユーリ。
俺に深い傷をもたらした、残酷な映像。
また、俺の心に闇を投げかける。心の空洞が広がり、井戸に石塊を投じたような、空鳴りがした。
剥がされたのは、ユーリの肌だけではない。俺の心までに及んでいる。今後も、こうした悲しい気持ちと対峙し、生きていかなければいけないというのか。
 怒りが湧いてきた。
 自制心が煮沸されるほどの、猛烈な熱が俺の意識を占めようとしている。
 殺意――。
 そう、これはもう殺意でいいはずだ。
 形のない、漠然としたものへの破壊願望。
 デュオリンク。
 彼らは、悪魔だ。
ウィスラーに仕掛けてあった極悪ウィルス。あんなものは俺には作れない。その道のエキスパートだってできるやつは限られるだろう。手によりをかけ、作り上げたのだ。きっと、俺を罠に嵌めるために。
 ウィルスが侵食した、あのシーンは忘れがたい光景だった。
 ユーリを囲う、2D空間は神聖な場所だ。
 俺にとっては神を収める器のようなところ。そこに、ウィルスの汚らわしい指がかくやとばかりに、まさぐった。犯し、完膚なきまで破壊した。俺の唯一の安らぎを、奪い取った。
 怒りの熱が、また突き上げてくる。
 俺は、深呼吸を繰り返し、なんとか自制心を引っ掻き出す。
 このままにしてはおけない。
 そう、俺は行動するのだ。
 復讐――
 陳腐な行為だ。
 だけど、今の俺には、清々しい響きにすら聞こえる。
 代償を払わせてやる――
 大黒啓二。その名が浮かぶ。デュオリンクの虎の子。そうだ、彼。今こそ彼を手に入れるべき時だ。彼の指先。造化の神を、ふたたび俺のもとに迎え入れる、彼自身とともに。俺のユーリを蘇らせる唯一の方法。俺は彼が欲しい。彼を奪ってやる。
 虎穴に入ることを俺は決意する。
 それが、俺の復讐だ。
 理知的で、デザイナーの体面を守った、究極の選択。
 しばらくプランを練った後、俺はマシンを起動させる。
 ドルガン社のサーバーに不正侵入。探しものをする。
 目指すは、今日デュオリンクから受信されたばかりの、〝Whistler〟ファイルの暗号鍵だ。

「頼みがあるんだ」
 待ち合わせ場所に現れた谷繁に、俺は言った。
 今日のこいつは灰色のフリース姿。季節になるとまとめて何着も買い込むのだろうか、ほぼ日替わりで色違いを着て来る。手にはゼリー飲料のパウチ袋、グレープフルーツ味。ここは一応、洒落たオープンカフェなのだが。
「外でわざわざ、どうも」
 谷繁は戸惑いがちに軽く頭を下げ、向かいの椅子に腰を下ろした。俺のあらたまった気配を察したのか。
 眼鏡の奥の眼が俺の顔をちらりと窺い、不審の色を浮かべる。谷繁は心配そうな声で言った。
「笛木さん……どうかしたんですか」
「ん? 何が?」
 谷繁の口が開きかけ、つぐまれた。顔が、という言葉が飲み込まれたのが見えた。
 出る前に頭から湯をかぶり、痛くなるほど顔をこすり、髭も剃ったが、まだ内心を覆い隠せていないのか。目つきに出ているのかもしれない。
「まだ、本調子じゃないようなんだ。入院の後遺症がでてきている」
 冗談めかし、身体のせいにして誤魔化す。
「入院の後遺症って。どれだけ、病院嫌いなんですか」
 谷繁は笑った。安堵感。そして、何なんです、と聞いてきた。
「実は、見舞いに行ってほしいんだ」
「病院に戻るんですか、笛木さん。そんなに……」
 具合が、と言いかけるのに押しかぶせて、俺は言う。
「俺じゃないよ。土橋という男。今入院中だ」
「土橋。どういう人なんですか、僕は知ら――あ」
 思い当たったらしい。
「え。まさか、あの人?」
「そう」
 先日俺がボルトを握ってストマックブローをダブルでかまし、トイレに蹴り込み、高性能スタンガンを二度ほど押しつけたところの、デュオリンク社員。目的不明の暴行に遭い病院に搬送されたが命に別状はない、と報じられていた。全治どれくらいだったか、忘れた。谷繁は彼の名を、報道される前から、おそらく左門の口を通して聞き知っていたのだろう。
「なんで? 知り合いですか。でもどうして僕が」
 俺の仕業だとは、もちろんこいつは夢にも思っていない。
「偵察。聞き込みだよ」
 首をひねる風情の谷繁に、俺は事実をいくらか改変した話をする。
 俺は今デュオリンクから移籍の誘いを受けている。お前も左門からそんな話を聞いてるんじゃないか。
「……ええ。じつは。まだはっきりした話じゃないと思ってましたけど」
 谷繁は、かすかに首肯した。やっぱりか、あの隠れおしゃべり根回し女。
「俺は、どうも腑に落ちないでいるんだ。どうしてあそこが俺なんかを目に留めたのか」
 今は虚偽の説明を試みているところだが、これは俺の本音ではある。
「なんかって、笛木さん、なんかじゃないですよ。僕は――」
 俺は構わずさえぎって続ける。
「だから、探ってみてほしいんだ。彼はデュオリンクの人間だ。事情を知ってるかもしれないし、もしかしたら俺に関して、彼なりの印象というか、先入観みたいなものを持っているかもしれない。同じVR技術者として。噂か何かで。いや、ほんとに噂レベルの話でもいいから、彼にきいてみてくれ」
 谷繁は黙り込む。ややあって、言った。
「でも、僕がどうやって。その人と面識もないですし、どういう口実で出ていったらいいのやら……」
 もっともな疑問だ。ここからがミソだ。
「谷繁。お前が、俺になりすまして行ってくれ」
 できるだけ軽い感じで、俺は言った。
「へ? ……え。えええ」
 意表、認識、困惑と疑問の顔。俺は言葉を継ぐ。
「俺がいま体調を崩してるってことは、先方に伝わってる。入院中の土橋氏は、まだ知らないかもしれないけどな。俺は、彼と同じ病院に通っていることにするんだ。ニュースで、いや違うな、うちの左門の口から彼の入院先を知って、奇遇だと思って、通院のついでに見舞いに寄ってみた。理由か? だから俺が、つまり俺になりすましたお前が、今デュオリンクからコナをかけられているってことを、彼に匂わせてやったらいい。意外な話だったから事情を知りたくなった、と」
 俺はまくし立てた。谷繁は目を白黒させているが、こいつの頭の回転は鈍くない。
「……でも。でも、笛木さん自分で行けばいいんじゃないですか?」
「それはさ、俺はどうもな。自信がないんだ」
 弱気の演技を交え、言った。
「自信って、なんです」
「俺は人当たりが良くない。仮に俺が向こうへ行ったとすると。その時は、帰ってこれなくなりそうだな」
「笛木さん」
 谷繁はいきなり勢い込んだ。
「まさか、移る気でいるってことなんですか」
 真剣な目をして顔を寄せてきた。俺はちょっと引く。
「いや。裏切る気はないって。Scoopeだってまだ発展途上だ。手放したくない」
「そうですよね。まだ幾らでも改良できるんだ。あれの基盤をモジュラーにしたのはそのためなんですから」
 谷繁は鼻で息をつき、怒ったような声で続ける。
「Scoopeの筐体は完璧設計です。あのメットとゴーグルの形状は、あれより良い物は考えつけない。次のブレイクスルーが起こるまでは、あれがもっとはるかに小型化されて普通のメガネ並みになるとか、それまでの間は、あのデザインがうちのスタンダードになるんですよ。加工がちょっと手間でそのぶん値が張るけど、だから、中身だけ簡単にグレードアップできるようにしたんだ」
 彼はコップの水をあおる。話が止まらない。
「笛木さんがあれをデザインしたんだ。どうやったのか知りませんけど会議の三度目でしたっけ、いきなりモックアップ持ってきて、みんな度肝抜かれて。キモって言えばあの、インテント判別解釈のプログラムもブラッシュアップも、笛木さん一人でやったみたいなもんじゃないですか、あの短期間で。ウェビイだって、あの座面形状に支持構造、折りたたみ機構、一週間やそこいらで、開発費ほとんどゼロで。商品デザイン部のやつらなんて顔色なくしちゃって――」
 谷繁は咳込んだ。つかんだコップが空だったので、大口をあお向けてパウチのゼリーを喉に流し込んだ。俺は多少気圧されていたので、黙っていた。
「だから……だから、ヘッドハンティングされても当然なんですよ」
 最後にぽつりと、帰結を付け加えた。
 なるほど。そういうものなのか。谷繁の俺に対する評価はわかったが、まだどこか腑に落ちない。
「ありがとな。しかし、この間も言ったけど、そんな内部事情はデュオリンクの連中は知らないはずだろう。詳しい開発過程は公開してないんだから。どこからか噂が伝わったのか、それとも本当にスパイでも動いてるのか。向こうの関係者に直に聞いてみたいのはやまやまなんだが、俺はそういうのは得意じゃないんだ。ちょいと、軽い気持ちで話しかけることができないし、話をうまく繋ぐこともできない。そこへいくと、お前は人当たりがいいから」
「そうなんですか」
 谷繁はしゃべり疲れた様子だった。やはり、気乗りはしないようだ。
「ただとは言わない」
「お礼なんて、要りません」
 また奮然とする。
「そう言うな。見せたいものがある」
 俺はタブレットを取り出し、そのストレージの中身を表示させ、彼に示す。
「わかるか」
「……これって」
 谷繁の眼がディスプレイに吸い寄せられている。
「俺がデュオリンクから預かったやつだ。読めるようにしてある」
「〝Rips〟の。でもこれ」
「機密情報だ。これをさ、一晩預けるから」
「僕に?」
 タブレットから目を離さず、谷繁は放心気味の声で聞く。その指はひとりでに画面を滑り、〝Whistler〟のソースコードをスクロールさせている。
「コピーをとって構わない。明日の朝まで、それはお前のものだ」
 眼鏡を光らせてコードを追いながら、谷繁の口は小さく動き続けている。
 そのつぶやきが数分後、承諾の返事を導き出すことを俺は推測した。

         10

 明るい部屋で、俺はしばらく待たされた。日当たりのいい小会議室。いわゆる東南角部屋、壁の二面が窓だ。外には青空、白い雲。バーチカルブラインドは隅に押しやられ、天井の照明は消されている。
 壁は淡いアイボリー、毛足の短いカーペット。どこかに似ていると思ったら、病院だ。多かれ少なかれ不安を抱えているはずの患者の心をいくらかでも安んじるべく設計された、待合室。近頃は消毒薬もほとんど匂わない。椅子を窓側に向け、手を頭の後ろに組んで目を閉じていると、頭がサスペンドする。思考の一部を保留状態にして、休む。眠ると溺れる海棲哺乳類は、脳の半分だけ睡眠するんだったっけ、そんなことをぼんやり考える。
 何しろ静かだ。片側に四、五人ずつ着席できそうなテーブルの傍らに、俺は一人でいる。ドアの縁が遮音構造になっているのを、さっき見た。密談向きの部屋に通されたのは、はたして思惑あってのことだろうか。
 顔に当たる陽光は心地よい。表皮を炙るちりちりした感じがない。ガラスが紫外線を遮断している。
 ホットドリンクのサーバーがあったのを思い出した。受付で、ご自由にどうぞと言われた。紅茶の香りを漂わせるのも悪くないかなと思いかけた時、柔らかいチャイムが鳴った。
 ドア脇のインターフォンにランプが光っている。会議中だったら、ここで応答した後に室内からドアロックを外すのだろうが、今のは単にノック代わりだ。ハンドルがかちゃりと音を立て、ドアが開いた。俺は一応、立ち上がる。
「どうも、お待たせしました」
 オフィススーツに身を固めた男が一人、入ってきた。
「いえ。はじめまして、笛木です」
 俺は何くわぬ顔で応える。
「椎名です。今日はわざわざ、お越しくださいまして――」
 型通りの挨拶を交わす。
俺は黒いセルフレームのダテ眼鏡をかけていた。ついでに髪も、思い切り短く刈ってきた。もともと取りたてて特徴のある顔立ちはしていないから、一見ではわからないだろう。
デュオリンク開発部長椎名靖之は、俺に腰をかけるよう手で促し、自分は向かい側の席に着いた。俺も腰を下ろす。そして、口を開かない。じっと彼を見る。
この部屋に入って俺の姿を認めた瞬間から、椎名はわずかな違和感を覚えているはずだ。もうじき顔に出る。
一昨日、俺に成り代わった谷繁はデュオリンクのエンジニア土橋が入院中の病室を訪ね、彼と話している。土橋はそのすぐ後で、「ドルガン社の笛木氏」が思いがけず自分の見舞いに来たと、椎名に報告しているはずだ。椎名は彼に「笛木」の人相風体を尋ねる。彼は椎名に、〝Rips〟発表イベントのステージ裏で自分を襲った男とは別人だったと答えているはずだ。
そして昨日、俺は左門典子を通じて、椎名靖之に面談を申し入れた。左門はデュオリンク側の俺に対するヘッドハンティングを疑っているから、俺に理由を問うた。
「だからこそ逆に探りを入れに行くのさ、狙いは本当に俺なのか。それに俺がVRで会社訪問した感想も聞きたい」
「あれはやっぱりエントリーシート代わり? いい度胸ね」
 左門はつっけんどんに言った。
「冗談だよ。君も見てただろう。何事もなかった」
「そうね。いかにもな雰囲気だったから、そのうち凝ったコスプレでもしてお出迎えかと思ったら、肩すかしだった」
「何を期待していたんだ」
「死人のような顔をした屋敷の主とか、服を着た半魚人とか」
「けっこうな趣味だな君も」
「サイドボードに、リボンをかけたお菓子の箱とはね。味な真似をするわ、連中も」
「向こうも面白がってくれたんだろう。誰も出てこなかったのは君が考えた通り、こちらの意思表示だと受け取ったのかもな」
「残念? だから改めてご訪問ってわけ」
「そう絡むなよ。敵情視察のいい機会じゃないか」
 突如、彼女は腕を組んだ。言っておくけどね、と言う。
「エビに食いついちゃ駄目だからね」
「そんな忠告など必要か。俺だぞ」
「何が起こるかわからないでしょ」
 本当に心配してくれているのかどうか。その顔は、少しおどけが入っている。
「アポを取っといてくれるか」
 俺は顔つきを改め、言った。すると、彼女の腕が解かれた。
「実は向こうから言ってきたのよ。今度はぜひ、直接お会いしたいってね」
 やはり何かある。だから俺は谷繁を使った。偽装には偽装で返してやる。
しかし左門が見たという、俺は見た覚えがないキャンディの箱、それを持って歩いて帰ったという俺の姿は、本当に偽装VR領域の映像だったのか。もしそうでなかったとしたら、いったい俺の記憶は。
よぎる不安を解消するためにも、俺はデュオリンクに乗り込んでゆく必要があった。連中が俺を追い詰めたつもりなら、こちらから食らいついてやる。喉笛に噛みつき、息の根が止まるまで顎に力を籠める――そう、狂犬だ。俺は、獰猛な野獣に成り切ってやる。
椎名靖之は今、俺を凝視している。俺の顔形、背格好、雰囲気を、土橋を聞いて描いたイメージと照合している。そぐわないだろうな、それは。
そして声を思い出す。数日前に短い言葉を交わした声。疑念と不安が深まる。まだ、本気で予期はしていない。このタイミングだ。
俺はゆっくりと眼鏡をはずし、彼に視線を返す。
椎名靖之の目が見開かれる。顔色が変わる。
あなた、君、お前、きさま――その変移は、わかりやすいほどだった。興味深い風景を、俺は目の当たりにした。
憎しみや怒りがこもるほど、目が白く濁り、薄まる。目尻が血走る。
なるほど、人には理性と本能のスイッチの中間に、怒りを抱えている。彼がいい手本だ。
「あんたは――」
 やっと言った。まだ数に入れてない人称があった。
「だれだ」
「だれだはないだろう。もう会ったじゃないか」
 俺は鼻で笑い、答えた。
「ドルガン社の、笛木丈人です」
 慇懃に頭を下げる。目は見据えたまま。
「違う。違う、はずだ」
 記憶。困惑、不安、そして恐怖。
「どっちが違うのかな。土橋さんをお見舞いした俺と、この俺と」
「どっちなんだ」
「どうでもいいんだ。俺はあんたに会いに来た、それでいいだろう」
「だれだ。警察を呼ぶ」
「動くな」
 俺は硬質の声を発した。椎名が腰を浮かせかけたまま凍りつく。
「今テーブルの下から、あんたに狙いをつけてる」
 彼の眉間に、波のような皺がよる。それは怪訝を多く含んでいた。
「消音銃だ。といっても音はそんなに小さくないんだが、ここは防音が効いてていいな。うん、いいところに俺を案内してくれたよ」
 俺は重ねて言った。
 椎名はしばらく俺を見返していた。
 やがて、口を開いた。
「何を言っている」
 銃などあるわけない――そう、言いたいのだ。俺にはわかっていた。
「信じないってか?」
「当たり前だ」
 彼は腰をかがめ、俺の手元を見ようとした。
「動くな!」
 俺はもう一度、警告を発した。彼の動きがまた凍りついた。
 俺は目つきを鋭くし、さらなる威圧を掛ける。
 目――
 そう、これも武器だ。
 目を合わせただけで、人を虜にできる催眠術師もいる。術を使えるわけではないが、俺も暗示をかけてやるような勢いで、目に力を籠める。説得力――目だけで、それを持たせるのだ。過去に嘘をついてきた履歴がある俺は、人を騙す術を心得ている。いま、ここで役に立つ時が来た。
「嘘だと思うなら、試してやってもいい」
 俺はさらに威圧を付け足し、言った。
 椎名の表情が強張っている。
 俺の狙い通りだ。彼の肝をしっかり握った。
「いま、引き金を引いたら、ちょうどあんたの生殖器あたりが吹っ飛ぶだろうな。男の象徴など、いらないか? いらないなら好きに動いたって構わない」
 俺は容赦しないが――
 とどめの言葉は、やはり目に込めた。
 椎名の引き攣った面差しが、さらに濃くなった。腕がゆっくり持ち上がった。待て、の仕草。腰を下ろす気になったらしい。
 信用する気になったかどうかは、わからない。
 彼の中では、本当であるという確率が半分よりも上をいったのは、間違いない。
 椎名は四秒ほどかけて、尻に体重を乗せ直した。
「そうだ。それでいい。次は、息をしろ」
 彼は呼吸を忘れているようなので、親切に促してやった。あえぎ、生唾を飲む音がした。
「その調子だ。その位置なら、撃っても臍の穴が深くなるだけだから、貫通もしない。弾は背骨で止まる。お前は、いい選択をした」
 あえて、生々しい話を持ち出し、駄目押しした。椎名はまんまと硬直している。 
「しばらく、ゆっくり話をしよう。ほら、これ」
 俺はテーブル上にあった通話端末を、片手で彼に押して寄越す。目は離さない。
「そのボタンで、ドアをロックしろ。それから、しばらく誰も入れるなと言え。大事な客に応対中だ」
 椎名は、俺が命じる通りにする。ドアハンドルががちゃりと鳴り、閉鎖中を示すランプが点った。

「私に、何の用だ」
「ご挨拶じゃないか。あんたがた、俺に興味があったんだろう」
 俺は言った。
「あ、あんたは」
 少しどもったが、俺に対する二人称を選択決定したようだ。対等か。まあいい。
「だから、誰なんだ。笛木さんじゃない」
 谷繁が笛木だと信じ込んでいるらしい。あいつはうまくやってくれたようだ。それにしても、先入観からくる固定観念は怖い。
「名前はいいだろう。面識はあるんだから。この間は、お世話になりましたね」
「あんたなのか。あいつを、あんな目に」
「ちゃんと、日本語をしゃべってくれ。……土橋さんのことを言っているのか。彼は、運が悪かった」
「それだけか」
 椎名の言葉の底に、怒りがこもる。あんがい部下思いなのか。
「そうさ。彼が襲われたのは、偶然俺と出くわしたからだ。人生そんなものだろう」
「あいつは。胸骨にひびが入って、病院送りになった」
 そんなに。
 彼のその後のことなどまるで頭になかったから、寝耳に水だ。俺にとって悪くない話ではあった。ハードパンチャー。俺の拳にまた一つ、箔がついた。小石みたいな固くて重いものを握って殴る――祖父から教わった昔ながらの伝統、喧嘩法。また、役に立ってしまった。父の代わりに育ててくれた祖父に感謝しなければいけない。
「知ってるよ。見舞ってやったんだ。不満か? あんたも味わいたいか。いいぜ、立てよ。脾臓破裂にしてやる」
 ごろつきを俺は演じる。椎名の顔の中で、再び恐怖感が増す。暴力に不慣れな人間。
「落ち着けよ。俺は手並みを見せてやったんだ。盗みの」
「盗み?」
「そうさ。〝Whistler〟」
 佐門典子の発音を思い出し、俺も気取って言う。椎名はまた唾を飲み込んでから、口を開いた。ちゃんとしゃべれるかな。
「やっぱりあの時」
「鮮やかだっただろう。何の痕跡もなかっただろう」
「あんた泥棒か。強盗」
「失礼なことを言うなよ。俺はアイデアマンだ、フリーランスの」
「何がアイデアだ。盗んだものを売ってるだけだろう」
 吐き捨てるように言った。
「流通と言え。動くな、忘れたか」
 俺はテーブルの下でコツ、と硬い音を鳴らしてやる。手に持った太いボルトで。あの時のやつだ。
「産業スパイか」
「古い言い方だな。アイデアの共有を助けてるんだ。そう、フィクサーとでも言ってもらった方がイメージがつきやすいかもな。イノベーションを促進するためだ。世のためにやっている」
 椎名は喉の奥で唸る。嫌悪感と憎悪。だがその目にわずかに、別の色が宿るのを俺は見逃さない。
「何しにきた。俺は用はないぞ」
 私が俺になったが、うちは、とは今言わなかった。
「本当にそうか」
 ポケットから小型のタブレットを出し、テーブル面に滑らせる。椎名の前へ。
「中を見ろ」
 椎名は躊躇する。俺はまた、テーブルを鳴らす。彼は見た。スクロールする。
「わかるだろう。ドルガンの内部資料。新製品の開発に関する、社外秘だ」
 椎名は、食い入るように読み続けている。谷繁の同じような姿を俺は思い出した。

「おい。もう三分経ったぞ」
 俺は声をかけてやる。椎名ははっと我に返った。
「熱心に読んでたじゃないか、この状況で」
 軽くせせら笑う響きを込めた。彼は歯噛みする。
「そこに入ってるのは一部だけだ。全部欲しいか?」
 デュオリンクの開発部長はタブレットから目をもぎ離した。
「盗品じゃないか。うちは要らん」
「デュオリンク社じゃない。あんたに売りたいんだ。あんた個人に」
「俺に?」
 彼は顔をこちらに向けた。俺はまた眼鏡をかけている。レンズの奥から彼を見返した。
 彼の目つきの中に欲の熾火が見える。野心を伴った欲望。燃え盛った火種がさっきよりも濃くなっている。
「俺に売ってどうする。いくら吹っかけるつもりか知らんが、俺は金持ちじゃない」
「金はいらない」
 俺は言下に答える。
「……技術情報か」
 低く唸るような声で、椎名は言った。俺は無言で、笑ってやる。
「会社の財産だ。私の一存で提供はできない」
「そうか? あんたは気前がいいと思ったけどな。〝Whistler〟のソースコードをドルガンに公開したじゃないか」
 俺が言うと、彼はやや奇妙な反応を示した。
「あれは……」
 椎名は言いよどみ、目をそらす。
 さて。今のは不満感の表れだ。
 意外というほどではない。重要機密をライバル社に公開するというのは、もちろんデュオリンク社上層部の決断だろう。開発部の長である椎名靖之にしてみれば、自分たちの苦心の作に違いないプロダクトを、条件付きではあろうが丸ごと投げ出せという社命に従うのが不本意なのは、わかる。ではあの性急過ぎると思える情報提供は、誰のどういう意思によるものなのか。その目的は。俺の当初からの疑問だ。
「デュオリンクはなぜあんなことをしたんだ? 俺は少々くさったよ。苦労して、危険を冒して、そうそうあんたの部下を痛い目に合わせてまで手に入れてみれば、その翌日だぜ。盗まれたのかどうかもわかってないうちに。なあ」
 椎名は斜め前方下側を向いたまま、憮然としている。
「目的は何なんだ。笛木丈人を引き抜くための餌か? それにしては豪華すぎるだろう。大したエンジニアでもなさそうなのに」
 鎌をかけると、無言のうちに同意の色が見えた。多少残念だが、俺に目を留めたのがこいつでないことはわかった。
 もう一つ、聞いておくことがある。というより本題だ。
「彼にどうして、あんなことをした」
 椎名が顔を上げる。あんな、という言葉をオウム返しにした。口の中で。
「彼に何を見せた。VR空間で。あんたらが用意した」
 質問の意味がわからない、という表情を彼は浮かべた。
「何って」
「とぼけるな」
 死体だ、と言ってやりたかったが、それはできない。この点、俺には不安がある。下手をすると墓穴を掘りかねない。
「笛木は……あそこでどういう反応をした。言ってみろ」
「どういうって……別に」
 椎名は、戸惑っている。これは演技か。
「よく思い出せ。彼はあそこで何をした」
 仕掛けた方も仕掛けられた側も、あっさり忘れられるようなイベントではなかったはずだ。
 椎名は、訥々と説明した。笛木氏からの申し入れは奇妙だとは思ったが、上に伝えると承諾して構わないと言われたので、我々もちょっと面白いと思って、いくらか凝ったステージを用意した。
 いくらかだと、と俺は言いかけたが、自制する。椎名は続けた。
 新作サスペンスゲーム用の限定領域を展開して、道を辿ってもらい、古い洋館に誘い込んだ。
「その先は」
 二階の客用寝室、サイドボードに置いた菓子箱の中に、機密ファイルを入れておいた。赤い包みの、キャンディの形にして。
「それだけか」
「それだけだ。笛木氏はすんなりそれを見つけ、持ち帰った」
 開発部内では何かイベントを用意しようかという話も出ていろいろ考えたが、急ぎのことでもあったし、あまりふざけたような仕掛けをするのも失礼だと思ったので、結局沙汰止みになった。
「変わったことは起こらなかったというのか。彼は……少し驚いたそうだが」
「イベントを抜けばただの無人の館だ。ディテールは凝っているが、何も出ない。そういえば」
「何だ」
「何かに驚いたのかもしれない」
「どこで」
「二階の空き部屋だ。ドアを開けた時、しばらく立ったままでいた」
 あそこで、俺は飛び退ったと思ったが。しかし、そのあたりからの記憶は俺自身、はっきりしていない。立ち竦んでいたのかも。
 待て。何か引っかかった。空き部屋?
「客室だろう。菓子箱を置いたのは別の部屋か?」
「ただの空き部屋だ。板張りだけの空っぽだ。ファイルを用意したのは客用寝室だ、あの館には、二階に一つしかない」
「あそこは洋館風のペンションだろう」
「ペンションだ? 違う。古い無人の屋敷だ」
 一瞬、頭の回転が止まった。
俺は椎名の表情を見澄ました。嘘を言っているようには見えなかった。
 すると、俺の記憶と異なっているというわけか。
 頭を抱えたい気分になった。脳内に住まう、精緻なコマが高速回転を始める。鼓膜を突き刺すような、甲高い耳鳴りが俺に襲い掛かる。涙袋がひくひくひく痙攣し始めた。外目にはわからないよう、唇を噛み、俺は耐える。
彼は今訝しげな表情を浮かべている。俺は気を取り直す。仮にも今は脅迫の実行中だ。これ以上この疑問に拘るのは危険だ。
「嘘じゃないだろうな。あんたら、ずいぶん汚い真似をするからな」
「嘘を言ってどうする。何の話だ」
 そう、今聞くべきことはまだあった。
「〝Whistler〟ファイルにウィルスを仕掛けたな。あんたの仕業か」
 椎名は、あからさまに不審な顔をした。
「何を言ってる。こちらから申し入れて提供したんだぞ。そんな真似をしたら犯罪だ」
「違う。俺が盗んだやつだ。あのスタジオのマシンの中身だ。しらばっくれるな」
「馬鹿言え。実演中のシステムだぞ。何のためにそんなことをする」
「あんたのパスワードで解錠したらウィルスが出てきた。とびきり悪質なやつが」
「俺のパスワードだと?」
 彼は怒りの目を向ける。プライベートのデータを探られて推測に使われたことを意味するからだ。
「知らん。言いがかりはやめろ。院内感染したんじゃないのか」
「ああ? どういう意味だ」
「あんたのマシンの中で感染したんだろう。あんたみたいなのは、そういう危険なものを自宅にわんさと飼ってるんだろうが」
 こいつ、なかなか言うじゃないか。恐怖心に少し麻痺してきたのか、さっきより腹が据わってきている。
 そのうち目まで据わるかもしれない。そうなったら厄介だ。怒りに順応したやつほど、扱いにくいものはない。俺が持っているあらゆる手段が通用しなくなるのは、いつも自制心を捨てたか、最初から持っていないやつのいずれかだった。 
 俺はもう一度テーブルの板を鳴らして、彼の現状認識を改めさせる。
「あんたじゃないなら、まあ今はいい。話を戻そう。買うか、それ」
 椎名はタブレットを見る。
「払う金はない」
「だから、金じゃない。技術情報も、今回はいらない」
 彼の目に浮かぶ。意外さと警戒心、そして期待感。罪悪感が少し。
「……何が欲しい」
「お試し料金にしとこう。大黒啓二に関する情報だ」
 椎名は、軽く息を吐いた。安堵感。だが、同じくらいの失望感が表れた。なぜだ。
「どうした。住所や連絡先、立ち回り先くらいでいい。大したことじゃないだろう」
「悪いが、知らない」
「しらばっくれるな。ここの社員だろう」
「違う」
 何?
「彼はここの総合ディレクターじゃないか」
「名目は、そうだが」
 椎名は言いにくそうにしている。不機嫌の色が現れる。
「契約社員か? あんたは開発部長だよな。大黒の上か? それとも下なのか」
 彼はますますむっつりとなった。ややあって、言った。
「上も下もない。彼は外の人間だ。製品開発の契約を結ぶことはあるが、基本的には、うちは彼の作品を買い上げるだけなんだ」
 そうなのか。これは考えの外だった。
「もう一度聞く。彼の住所は。連絡先もわからないってことはないだろう」
「連絡はSNSで済ませている。あとうちに知らされてることといったら、振り込み先の口座番号くらいだ」
「ここへ来るのはいつだ。もう帰国してるんだろう」
「空港には着いたらしい」
「今の滞在先は」
「どこかのホテルだろう。ついでに言うとだな、彼の住所は無いも同然、国内ではいつもホテル暮らしだ。会社にはいつもふらっと来て、ふらっと帰る。あの人は、捉えどころがない人なんだよ、いつもいつも。まったく」
 どれほど注意したところで聞く耳持たないらしい。いくつかのエピソードを吐き散らした後、彼は苛立たしげに言葉を切った。
 俺は内心考え込む。
 察するところ、開発部長・椎名は、天才風来坊・大黒啓二の異才に自分は敵わないと思いながらも、彼の立ち位置が気に食わない。おそらくは別の感情も絡む。〝Rips〟のバックステージでボイスを担当していた若槻という女に、椎名は気がある。しかし彼女はたぶん、大黒に惹かれている、というわけだ。二重のジェラシーか。
 それはともかく、国内の友人、知人、立ち回り先も椎名に訊いてみた。しかし手がかりになりそうな情報はない。大黒という人間はよほど用心深いのか。何か理由があるのか。
 俺は疲れてきた。俺としても相当の覚悟を固めてこの場に臨んだのだが、ろくな収穫を得られていない。むしろ謎が深まっただけのような気がする。何よりわからないのはデュオリンク社上層部が何を考えているのか、なのだが。
 俺は言った。
「それはやるよ。もう帰る」
「え?」
 椎名はきょとんとした。
「いくらかの情報はもらった。お試し料金だと言ったろう」
 俺は立ち上がる。片手は意味ありげにポケットの中だ。
「そのタブレットに俺の連絡先も入れてある。続きが欲しければ知らせろ」
 まだ不安材料は多いが、この男を買収しておけば、さしあたり「笛木」の身の安全は保たれる。しばらくの間は。
 俺はデュオリンク社を後にする。ここを訪れることは、もう二度とないだろうという予感がした。興味が失せていた。
 大黒啓二はここにいない。だが俺は何としても彼を探し出し、捕らえる。
 彼だけが望みだ。


 ユーリの身体が、俺の手元にあることに気づいた日を、俺は覚えている。高精度のセンサーウェアに身を包んで彼女は踊り、そのモーションをVRアバターのデモンストレーターマシンに送り込んだ。俺はそのメモリの内容をコピーし、自宅に持ち帰った。仕事のためだった。人体の動作を、骨格がまったく異なるアバターの動きにリアルタイム自動変換する処理のキャリブレーション。でも取りかかる前に、俺はユーリのデータを抜き出し、自分のマシンで再生した。特に目的があったわけじゃなく、もう一度見たかったのだ。
 四ミリメッシュのポリゴンが、ユーリの首から下の体型を忠実に再構成した。首なしというのも味気ないので、適当な頭部をはめ込もうとして、ユーリの顔も記録されていることを思い出した。自分の分身となったコミカルな怪獣と彼女が鼻を突き合わせた時、ハーフミラースクリーンの裏にあったカメラがとらえた像――繊細なレース編みのようなライブマスクが、モニターの中で笑った。
 二つを組み合わせてみる。頭髪こそないが頭の形から首筋まで揃った、見慣れたユーリのボディラインが現れた。彩色してみようか。その前にもう一ついいことを思いついて、筋骨格シミュレーターを起動した。当時、オープンソースで公開されたばかりだった。
 ユーリの体型データを入力する。シミュレーターが彼女の骨と筋肉の造りを推測し、モデルを構築する。半透明の肌の中に、やはり透き通った骨と関節、軟骨、随意筋や筋膜が造り込まれた。胸腔と腹腔には肺や横隔膜、腸管のダミーモデルが挿入される。
 ユーリの体内。拡大すれば筋原線維の一本一本まで見えてくる。物理計算による駆動を試してみる。体内の骨が動き、筋肉が膨らみ、曲がりくねった腸管が微妙に滑る。
 俺は見とれた。ユーリが知ったらどんな顔をするか想像はできたが、このモデルを抹消することは、もうできなかった。愛おしかった。筋肉や、臓器、骨格フェチの気など、俺にはない。これは、純粋な愛だった。
仮想空間に命を込めるのは、デザイナーやエンジニアの常だ。
クリエイターの大半が意思を共有している。それがゲームの世界だったとしても、関係ない。どっぷりのめり込み、人生のすべてを費やしてしまうハードユーザーがいる。コアファンの存在を押さえておきながら、中途半端にものごとに取り組むわけにはいかなかった。それが現場のスタンスだ。
俺も例外ではなかった。
制作に励むにつれ、クリエイターとしての矜持が掛かり始めた。その思いが、命を創造する行為に昇華されたのだ。俺はさらに精度を上げ、突き進むことだけを考えた。
その日も、手を置くタイミングを掴めないままずるずると引き延ばし、結局、深夜遅くまで作業となった。明日の晩は、この体に化粧をしてやろう――俺は、モニターのユーリに誓う。
 もちろん、生きたユーリとの関係も順調だった。
 二人とも忙しいから週に一度会うくらいだったが、熱は冷めなかった。互いに交換しつつ放散した体温は、数日の別れの間に再充填され、何度でも溢れかえった。彼女の部屋のキッチンでちょっとした摘みを作ってくれている時、その後ろ姿に俺は将来を想像した。
 二ヵ月近く過ぎた頃、ユーリは自社の新製品紹介イベントに誘ってくれた。俺のことを同僚にどう言い繕ったものか、俺はまるでVIP待遇、待つこともなく体験コーナーに案内された。少々気後れしたが、
「大丈夫よ、遠慮しないで。少しだけの特別扱いだから。招待客リストに紛れ込ませておいたの」
 と、ユーリが強引に誘い込んでくる。
「あとから何か言われても知らないぞ」
「問題ないって」
「そんなんじゃないけれど。でも少しだけ特別扱いなのは、ほんとよ。招待客の一人としてリストの中に入れておいたの」
 ユーリからコーヒーを手渡された。サーバーから紙コップに注いだものだが鏡面が引き立つほど真っ黒で、挽きたてのようなアロマが香った。俺が普段飲んでいるやつより高級だ。
 間近で見せてくれたのは、少し意外なものだった。ロボットハンド。俺は首を傾げる。
 ささやき声でユーリに尋ねた。
「グローブは? あの開発中の画像の」
「それはあっちよ」
 彼女が指した方を見ると、たしかに置いてあったが、以前に内緒で覗かせてくれたモデルとは違っていた。
「前に見たやつは、もう少し洗練されていたろう?」
「そうね。ここにあるのは、一つ前のプロトタイプ。あれは出せない。格好は素敵だけど、まだ十分な性能が得られてないの。力覚フィードバックの出力がね」
「あのロボットハンドは? VRモデルじゃなくて、実物のスレイブを使うのか?」
「そこはまあ、ね。とにかく、やってみて」
 俺に差し出された制御グローブは、ごついブレスレットから五本の太い機械の指が生え、それぞれの先端部には指貫みたいなカップ。触覚再現デバイスだろう。あのレースの手袋はない。
 一方、向こう側のテーブル上に据えられた台座に固定されているスレイブハンド。手先だけでなく腕まであるが、台座に接続する肩関節から肘までは、ありきたりの汎用型アームだ。
 しかしエンドエフェクタは、白いシリコーンの膜で覆われていた。五本の指は平たく、細い。力は出そうにないが、優美だ。
「なるほど、あっちに使ってるのか」
「そう。気づく人は、気づく。手は届かないけどね」
 ロボットハンドの下には白いアクリル板、その上に小さなものがばら撒かれている。紙吹雪に使うような数ミリ角の紙片、縫い針、糸切れ。髪の毛らしいものもある。手先を覗き込む位置にカメラが据えてある。
「君の毛?」
「何言ってるの。ウィッグ用の人工毛髪よ」
「あれを摘めってのか。カメラの画像は? どこに出るんだ」
「あの展示用大画面に。あなたは、有視界でやるの」
 俺は挑戦した。シリコーンの指先には人工の爪があり、指紋みたいな細かい彫り面も成形されていたが、悪戦苦闘する。縫い針は摘めたが、薄い紙片や糸は難しい。しかし途中で気づいて、自分の指でやるように指の腹をぐっと押し付けると、くっついてきたので、すかさず親指を当てて挟みつける。おお、と背後でどよめきが上がった。振り返ると背後に人垣、上方の大型ディスプレイを見上げているが、何人かは俺のマスターハンドを注視していた。
「こいつ。図ったな」
「先日のお返しよ。で、感想はどう」
「そうだな」
 縫い針や髪の毛の触感は、俺の指先に嵌った指貫型カップの中に、たしかに再現されていた。触覚の精細度は高い。
「しかし指自体の制御性が今一つだ。少し、ずれてないか」
 ユーリが難しい顔になった。
「それは解消できなかったの」
「技術的限界?」
「予算的によ。VRへの応用については、どう思う?」
 俺は考えこんだ。VR空間に構築された、物理的には実在しない物体に、これほど繊細な手触りを与えられるなら、それはワンダフルだ。絹の肌合いや女性の表皮の滑らかさだって味わえるだろう。
「どうしたの?」
「いや。いいと思うよ」
 俺は自分のマシンの中にいるユーリのモデルを、つい想起したのだった。
「でも、手にロボット装置を取り付けるってのが、どうも面倒だな。あの開発中の先進モデルだって、まだ煩わしいような気がする」
「それは、あなたのところの全身スーツだってそうでしょ。没入する時に、いちいち着替えなきゃならないんだから」
 俺は同感する。確かにそうだった。
「実はね」
 会場に設けられた喫茶コーナーの片隅で、ユーリは俺にささやいた。
「もっと先に行ってる開発計画があるの」
 空間Hapticsだと、彼女は教えた。いくつかの方式が実験中だが、有望視されているのは、細く絞った超音波ビームを指先や手のひらに照射して、空中に触感を作り出すもの。
「トラッキングが大変だろう」
 俺は思ったことを率直に述べた。
「それはフェーズドアレイをね……ともかく、今の段階でも、グリップみたいなものを手でふわっと包むようにするだけよ。つかむ必要はない」
「見込みがあるのか。そんなものができるなら、こんなグローブなんて」
 こんな、などとうっかり口に出してしまった。ユーリの右頬に力がこもった。少しむっとしている。
「うちの会社は技術の融合が得意なんだから。ちゃんと活用されると思う」
 しかし、やや伏せた目に焦りの色が差した。予算の壁か。
「なんとか食い下がるわよ。忙しくなるね」
 決意を込めて、言う。
 なんだかユーリが遠ざかっていくように思えて、俺は少し不安になった。
「前に、言ったよな」
 彼女が顔を上げる。
「何?」
「俺にできることがあったら」
「あればいいね」
 ユーリはまた顔を伏せ、短く言った。
 俺は次の言葉を、呑み込みきれなかった。


「笛木さん」
 女の声がした。
「はい?」
 回想にふけっていた俺は、つい顔を上げて答えた。
 オープンカフェ、俺の丸テーブルの前に若い女が立っている。見覚えのある顔。
 今の声。思い出し、俺は凝然となる。
 スタジオにいた女。SWACCO、〝Rips〟のボイス。デュオリンクの若槻だった。

        11

『グランディア東京』――。
 太い円柱で屋根を支えた車寄せが見える。老舗の一流ホテルだ。セキュリティーレベルも高いだろう。玄関の中では事を起こせない。
 広い円形の車回しを囲む、灌木の繁みの中に俺は潜んでいた。玄関からは最も遠い位置。俺は濃い紺色のパーカーを着こみ、同色の帽子も被っている。サーモカメラでも使っていないかぎり、姿は目立たないはずだ。
 時計を見る。七時四十八分を回った。待ち始めてもう一時間近くになる。日が沈んでから気温は急に下がっていた。大きく息を吐けば、白く濁るだろうか。それで見咎められるとも思えないが、俺の手は口元を覆っている。
 また一台、車が近づいてきた。ライトバンだ。窓にカーテンがかかっている。俺は直感した。立ち上がり、玄関に向かって歩く。
 バンはゆっくりと車回しを半周し、止まった。少し距離があるが、これから荷物を下ろすはずだ。
 運転手が降り、後席に回って手でドアを開けた。中から現れる、男が一人。見慣れた背格好。
 大黒啓二。彼に間違いなかった。
 彼が今夜、このホテルにチェックインする。聞いた時は話がうますぎるように思えた。しかしこの場へ来てみて、俺は確信めいたものを得ていた。いかにも彼が選びそうな宿だ。

 若槻かすみ。彼女がカフェに現れた時、俺は二の句が継げなかった。まったくノーガードだった。椎名靖之からもう一度話したいという連絡が来たので、俺は場所と時刻を指定して待ったのだ。この店に呼んだのではなく、ここから見通せる百メートルほど向こう、もう一軒のオープンカフェに。小型の双眼鏡を用意し、彼の姿を確認してから近づくつもりだった。
 つい物思いに耽り、気が緩んだ隙を突くように若槻は声をかけてきた。思わず返事をしてしまい、悔やんでももう遅い。これが偶然のはずはなかった。
 それでも俺はどうにか平静を装い、若槻に向かいの席をすすめた。会釈して、彼女は腰を下ろした。
「椎名さんの代わりか」
 一応、尋ねてみた。
「乱暴なことなさるのね。土橋さん、いい人なんですよ」
 眉をちょっと悲しげに寄せ、しかし微笑みを忘れず彼女は言った。
 質問に答えていないが、これはつまり無駄な説明を省くという意味だ。若槻は俺をステージ裏の侵入者、しかも「笛木」本人であると認識している。彼女が椎名の代理としてここへ来たのだとすると、あの男は俺が笛木だとひとまず結論づけたわけか。しかし、なぜ彼女なんだ? 俺との機密情報の裏取引について、この子に話したというのか?
「椎名さんはなぜ来ない」
「あの人は……手が離せないんでしょう。部長ですから」
「なら、なぜ君を寄越した。彼は理由を話したのか」
「……はい。聞きました」
 ややためらいがちに答えるところが気になるが、彼女自身が聞いたというなら、聞いたのだろう。信頼のおける部下か。彼女も悪行に加担することになるわけだが。
「それで君は、俺が怖くないのか」
 俺は言った。俺は暴行傷害犯、窃盗、しかも椎名に「銃を突きつけて」脅迫した産業スパイだ。考えてみるとよくそんな俺のところへ女の子を一人で寄越したものだ。あの男は何を考えてる。この子に気があるんじゃなかったのか。
「私が今ここで、あなたから危害を加えられる心配はないでしょう」
 若槻かすみは悪びれず言った。それはそうではあるけれど。芯の強そうな女だとは思ったが、予想以上のタマだ。
「驚いてもいない?」
「それは、少しは。でもこの間お会いした時、只者じゃなさそうだという印象は受けましたから、なんだか納得しました」
 俺は悪人の雰囲気をまとっていたか。目をつけられるのも無理はないのだろうか。
 溜め息をついている時ではなかった。これは危機かもしれない。
「要件は?」
「これです」
 折りたたんだ紙片を白い指にはさんで、俺に差し出す。そこにホテルの名前と、日時が記されていた。大黒の情報だ、と俺は悟る。椎名靖之はやはり知っていて、あの後で気が変わったか。お試し品の続きが欲しくなったわけだ。
「確かなのか」
「たぶん」
「わかった」
 俺は答え、紙片をしまい込んだ。胸の奥で動悸が高まった。少なくとも、まったくのガセではないだろう。
 彼がホテルに入れば、部屋にこもり切りになるかもしれないし、いつどこへ出かけるかもわからない。だからチェックインの直前が、唯一のチャンスだ。もうあまり間がなかった。
 
 大黒はツィードのジャケットに柄物のパンツを合わせている。首に巻いているのはラフな毛織りのマフラー。黒と、黒の残像のような濃いグレーだけでまとめている。いつもながらスタイリッシュな出で立ちだ。
 俺は歩調を速める。タイミングが全てだ。
 大ぶりのキャリーバッグをホテルマンが曳き、先にフロントに向かう。ホテル暮らしだ、手荷物一つということはない。運転手が車の後部に回った。トランクルームを開け、半身を中に入れる。大黒がそこで歩き出し、玄関へ。
 俺は斜め後方からすっと近づき、低く声をかける。
「大黒さん」
 振り向いた彼の鼻先まで寄り、ポケットの布越しに、硬い物で彼の脇腹をつつく。
「銃だ。わかるな」
 彼の呼吸が止まる。
「右へ行け。逃げれば撃つ」
 俺は少し身体を離す。
「振り向くな。歩け」
 大黒はわずかにためらったが、従った。
「どうも、すいません」
 俺は軽く声をかけ、大黒の真後ろについて歩く。

「どこに行くんだ?」
 大黒が小さな声で言った。俺の一メートル前方。マイク越しでない、彼の肉声を聞くのはこれが初めてだ。
 意外に落ち着いた声音だった。そういえば、彼の背中にも肩にも、怯えた様子はない。壇上に立つ姿はいつも堂に入ったものだから、物怖じしない性格なのだとは思っていた。しかし差し迫った身の危険、殺されかねない恐怖に対しても動じないのか。予期しない事態に遭遇して、まだ実感が湧かないのか、鈍いのか。想像力に乏しいタイプではないはずだ。
「黙って歩け。もうすぐそこだ」
「行き先ぐらい、いいんじゃないか」
「都内だ。気にするな」
 俺はぶっきらぼうな口調で言う。
 もっと冷酷な、無情な声を使った方がいいはずだが、なぜか出にくい。尊敬の念のせいか。
 俺のユーリの、実質的な生みの親。この男がいなければ、彼女を造り直せなかった。俺は彼に感謝している。 
 そしておそらくは、救いの手。再び失ったユーリを取り戻せる力を持つのは、この男だけだ。俺は彼を渇望している。
 彼を奪取するのに躊躇はないが、傷つけることはできない。それが俺の弱みだが、気取られるわけにはいかない。
 だが、大黒はすでに察知しているのではないか。ふと疑った。彼の、この態度は。
「止まれ」
 俺は言った。STOPキーを押されたように大黒は足を止める。遅延はない。俺と呼吸が合っているかのようだ。
「もう一度言っておく。逃げたら、撃つ」
 大黒と同時に自分にも言い聞かせる。心構えを崩してはならない。態度に出る。
「わかってる。こういう経験は、初めてじゃないから」
 そうなのか? 国内でそんな事件は聞いたことがない。少なくとも大黒啓二が登場してから今までの間には。
 それ以前のことか、あるいは、この男の古巣があるというアメリカでの話か。
 川沿いの道に出た。移動用の車を止めてある。
 大黒を先に車に近づける。俺のポケットにあるキーが認識され、ドアロックが解除される。
「開けろ」
 大黒が、後席のスライドドアを引き開ける。
 シートの上に用意しておいたアイマスクを着けさせ、俺はその上からバラクラバをすっぽり被せる。
「動くなよ」
 両手を後ろに回すように言い、手首を結束バンドで封じる。
「乗って、横になれ。シートじゃない、床だ」
 彼は言う通りにした。ステップに足をかけ、背を屈めつつ身体を入れ、車室の床にいったん膝をつき、ゆっくりと横たわる。かなりスムーズな動作だった。おそらく視界を覆われる前、位置関係を頭に入れたのだ。油断がならない。
「お、」
 彼は、少し驚いた声を出した。
「Thanks」
 小声でそんなことを言う。俺は床に、折りたたんだベッドパッドを敷き詰めておいた。
「悪いが、少しの辛抱だ」
 心を押し隠した声を俺は使う。薄手の軽いブランケットで、大黒の身体を覆い隠した。

 拉致現場からの距離を推測させないため遠回りをし、地下の駐車場からエレベーターを使い、マンションの部屋に彼を連れ込んだ。
 納戸を片付け、監禁室を用意しておいた。食料、水、衛生用品。簡易水洗式のポータブルトイレも完備。もちろんマシンも据え付けた。外部との通信回線は遮断済みだから、大黒がどれほど聡明だったにせよ、手も足も出ない状況は変わらない。
「いい環境だな」
 室内を見るなり大黒は言った。皮肉なのか。
「私の作業室に似ているよ。ああ、アメリカの家のね。私はコンパクトな造りが好みなんだ」
「かけてくれ」
 俺は言った。やや緊張気味の声になった。
「うん。これを借りていいかな」
 マシンを置いたデスク前のスウィベルチェアでなく、大黒は別の椅子に目をやった。
「……どうぞ。好きにしてくれ」
 俺は、努めて無愛想に言った。これから大事な要求をしなければならない。
「私も使っているよ。〝Webby-chair〟」
 意外なことを大黒は言った。
「軽くて、たたむと小さくなる。持ち運びに便利だ。私はホテル住まいが多いから」
 俺は、何となく答えに窮する。
「座り心地もいい。WebにかかったBabyみたいな気持ちがする」
 俺と同じイメージを持つやつがいたのか。
「時々、この上でアイディアを練ったり、うたた寝することもある。この座面形状と支持構造は絶妙だ」
 俺にとっては尊敬する天才からの褒め言葉。そして同時に、彼自身に対するリスペクトでもある。彼は知らないだろうが。
 しかし俺は、不安を覚えはじめていた。彼の声を聞いているうちに。だが理由がわからない。
「私が作ればよかった」
 この言葉はどういう意味合いだ。わからない。そうだ、わからない。推察できない。彼の声音、口調、表情。姿勢、身動きから読み取れるものがない。見えているのに。聞こえているのに、耳を塞がれたような不安。
「立派なものだ。君が作ったんだって?」
 俺は耳を疑う。大黒は言った。
「君、笛木さんだろう。はじめまして」


 ユーリ。
 あの女は突然いなくなった。
 二週間ほど音沙汰がなく、最初は、急に忙しくなったのだろうと思っていた。その理由は、俺には察しがついたのだ。
 それまで、今度いつどこで会おうといった連絡は、いつも彼女の方からだった。俺よりも仕事がハードらしいと知っていたから、俺の方で彼女の都合に合わせることが多かった。
 三週目、何度かメッセージを入れたが返信がない。電話をかけると、繋がらなくなっていた。
 彼女の部屋に行ってみると、解約された後だった。
 
 その足でユーリの仕事先に向かった。受付で尋ねると、素っ気ない答えが返ってきた。
 ――先月で退職なさってます。
 俺は目の前が真っ暗になり、卒倒しそうになった。強烈な言葉だった。思い切り横面を張られた思いだ。急いた気持ちのまま、応対を渋る受付係に食い下がり、なんとか所属部署の上司に取り次いでもらった。
 パーティションで囲っただけの簡素な応接スペースに通され、ややあって現れた元上司の女性は冷淡だった。
 あの子は、もううちにはいません。やめました。
 転職先、連絡先、新しい住所は、と聞いても、そういったことは部外者には教えられないと言う。
 交際していたんだ、と俺が言い返すと、彼女は鼻で笑うような表情をした。
 その目が告げていた。あの子があなたに知らせなかったのなら、意味するところは明らかでしょう。
 俺は途方もない憤怒に駆られた。突き上げてきた熱をすべて言葉に変換し、彼女に浴びせつけた。何を口にしたのか自分でもよくわからない。思い返すのが苦痛なことも形にしたかもしれない。
 けれど、無益だった。
 彼女には通じなかった。また、その手の手合いについての対応を熟知していた。まもなく、厳めしい顔つきを引っ提げた警備員、三人に取り囲まれた。俺の抗議などお構いなしに身体を掴み、外へと連れ出そうとする。噛みついて対抗してやろうかと思った。だが、警察という切り札を出され、俺は成す術もなく封じ込められた。
 任意同行を求められ、取調室で事情を聴かれた。警備員たちと連動して、畳み掛けてくるような態度だった。説明にくれたところで、形無し。まるで取り合ってもくれない。次第に、疲弊し、俺は何も言えなくなった。胸の内に残っているのは、不条理の三文字。苛立ちが絡んだ、何ともやるせない気持ちだった。頭の中で何かが、空回りしている。
釈放されたときには、日が暮れていた。俺はすごすご帰った。翌日、彼女が住んでいたマンションの管理会社に転居先を問い合わせたが、個人情報は教えられないと拒否された。行方不明になったんだ、と俺は訴えたが、なら警察へどうぞと言われた。
 俺は途方に暮れたが、あきらめなかった。
 手がかりは、ユーリが在籍していた会社にしかない。保管されているはずの、社員としてのユーリの記録。
 ユーリ本人以外、俺にはあの会社に伝手などなかった。盗み見るしかない。直截乗り込むなど、リスク面が大きく、危険だった。ただでさえ、警察にマークされてしまっているのだから、ちょっとした不穏でも俺はあの取調室に逆戻りにする羽目になる。
 それまでまともに考えたこともなかった世界に、俺は足を踏み入れることにした。
 不正アクセス。コンピュータへの不法侵入、情報の窃取。悪行だとわかっている。そんなことに手を染めるやつは、よっぽど黒いマーケットに足を突っ込んだやつだと過去にイメージを抱いたことがあったが、まさか俺が突っ込むことになるなんて。
 悪――
 俺の中に同居している小さなしこり。いま、それが芽吹き、花開こうとしていた。誰にでも、種や、芽はある。法を順守しながらも、見えないところで開放し、自分を再確認する。そう、一時だけ、社会に帰属している自分からすべてのタグを外し、生身の人間になるのだ。法は人間を帰属させても、それを飛び越えていけるわけではない。これは俺が人生から得た、真理だった。
 俺はいくら正直に生きても、そのことが実になったためしがない。経験則だった。そこから派生的に、人を信用し、真っすぐに生きていくことをやめた。法を脱線するようになったのは、きっとその延長なんだろう。
 どんな代償を払ってでも手に入れたいものができたとき、俺は曲がった道を選ぶことをためらわない。
その気概は、俺の嫌う、〝普通〟から脱却する手段でもあった。そうして気概を高め、俺は何かを持っている、と言い聞かせることにより、さらに心を強化していく。それは、俺らしさの追及にもつながった。
 取っ付きは大したことではなかった。情報の循環系は、まかり間違えばシステム自体を崩壊させかねない劇物をも内包している。漏れ出せば臓器は融解させる塩酸やペプシンを、胃が絶えず分泌するように。毒は普通に流れていて、誰でも汲み出し、精製できる。一度、取っ掛かりを掴んだら、引っ込みがつかない。俺はどんどんのめり込み、蒙を開いていった。その道に詳しい人間が集まるコミュニティにも参加し、がむしゃらに知識をむさぼった。学ぶほどに、何かが充足していく。
 腕試しに、マンションの管理会社の情報を閲覧した。澤邊ユーリが解約時に届け出た連絡先が見つかった。しかしそれは、虚偽だった。
 慎重に、さらに何度か経験を重ねた後、当初の目的を果たす。侵入した社内ネットのサーバーを隅から隅まで、思う存分探しまわり、得たものは落胆と悲しみだった。
 ユーリの在籍記録は消されていた。抹消操作の形跡さえない。ユーリ。そこまでして去ったのか。なぜだ。
 なぜなのか。俺は自問を避けた。考えればいずれ行き着く最も可能性の高い理由を、頭から振り捨てた。
 年明け早々に俺は退職願を出し、受理された。

 俺はユーリを磨きはじめた。俺のマシンに残された、ユーリの残像。彼女を取り戻そうと思った。
 彼女のシミュレーションモデルは、既にセルルックの姿に整えてあった。アニメキャラクター風のユーリ。その外見デザインを初期化し、もっと真に迫ったものにしようと考えた。そこで俺は気づいた。ユーリの顔写真がないことに。
 俺には写真を撮る趣味がなかったし、それはユーリも同じらしい、そう思っていた。一緒に写ろう、などと彼女は一度も言わなかったし、俺も誘わなかった。
 残されたのは、モーションとともに記録されたユーリの笑顔のポリゴンデータ、あとは俺の記憶だけだった。俺は彼女の眼差しをよく覚えていたが、記憶のフォーカスの周縁部は曖昧なものだ。緻密なメッシュの起伏の上に思い出の貌を転写するのは、考えるよりはるかに難しかった。俺が欲しいのは生きたユーリの姿だ。しかし何度描き直しても、現れるのは生命の抜けた作り物だった。
 記憶力の乏しさより何よりも、明らかな技術不足の壁が立ち塞がった。
 俺は、経験の浅い、クリエイターでしかなかった。
 研鑽を重ねるたび、何度も自信を挫かれた。破壊衝動に駆り立てられ、自暴自棄に陥った。それでも、俺はあきらめなかった。続ける以外に、道はない。
 暗中模索。
 時だけがいたずらに過ぎていく。
 先に進めないまま、俺はドルガン社に新しい職を得た。VR環境の開発に携わりながらユーリ再生の作業に明け暮れる日々、希望の光が飛び込んできた。
〝Risa〟
そして、開発者の大黒啓二――。


「私は君に会いたかったんだ」
 今は目の前にいる、大黒啓二が俺に言った。
「やっと会えた」
 この言葉は、俺が言うはずの台詞ではないのか。
 俺は彼に憧れ続けてきた。彼の天才を欲するあまり、盗みまではたらいた。最初は彼の指先を、そして今、彼自身を虜にした。
 虜か。もしかしたら、俺の方が虜なのか。
「なぜだ」
 かすれた声がした。自分の声だった。
「なぜ、あなたは俺を知っているんだ」
「驚かせたかな。でも、私も驚いたんだから」
 彼は口元を持ち上げた。おあいこだ、というふうに。俺はそれがわかって、両耳を潰されたかのような不安が少し薄らぐ。だがすぐに気づいた。今のは彼が伝えたのだ、意識的に。逆に慄然とした。
「俺が、いつ」
「私を拐ったじゃないか。いや、今のはjoke、pardon。別の話だ」
「いつから知ってるんだ、俺のことを」
「そうだね、二か月と少し前。それまでは、君の名を知らなかった」
 二か月。その頃俺に何があった。
「でも君という人の存在は知っていた。ずっと以前から」
「どういうことなんだ」
「君、盗んだろう」
「〝Rips〟のことか」
 この期に及んでしらを切る気はなかったが、俺はついそう言った。
「あれはつい先日じゃないか。もっと前」
 たしかに盗んだ。俺は急に恥ずかしくなる。
「知って、いたのか」
 罪を恥じる感情ではない。ばつの悪さだ。俺は状況も忘れ、大黒から目をそらした。
「手並みは見事だった。私も無警戒だったし。コピーを取っていったわずかな形跡を見つけただけだ」
 盗みの手口などどうでもいい。盗んだこと自体も。盗んだものをこそ、俺は今恥じていた。
 俺はそっと彼に目を戻した。大黒は俺を見ず、宙に視線を泳がせている。空間に刻まれた記憶を読み取るかのように。
「ジック」
 彼は言った。〝THEC〟。俺は考えなかったが、そんな発音だったのか。
「あれは、何の略なんだ」
 ぼんやりと俺は聞いた。大黒啓二は答えた。
「acronymではないよ。The〝C〟、ザ・クリエイターだ」
 造物主。造化の神。やはりそうだった。

「〝Risa〟を発表して、いきなりだったな。まだ一月も経っていなかった。彼女そのものでなく、秘密のツールに目をつける人がいたとは驚いたよ。ちょっと嬉しくなった」
「知られて嬉しいのなら、なぜ公開しなかったんだ。あんな凄いものを」
 俺は、いくらか平静を取り戻していた。ウェビイチェアに身を預けた大黒の前で、カーペットに胡座をかき、パーカーのポケットに片手を収めたまま、彼と話をしていた。
「あれは私にしか使えないものだから。いや、そのはずだったんだが」
 大黒は俺の顔を見た。見下すような視線は、感じない。
「君は使ったな」
「使いこなせなかった。あなたほどには、とても」
 事実だ。
 ここで強がっても駄目だ。自分ができなかったことを、俺は認めなければいけない。
「それにはいくつか理由があるんだ。私に合わせて組み立てられていること以外にも」
 彼はまた視点を浮揚させた。
「私のほか誰にも使えない物だから、盗んだやつも扱いかねて、近いうちブラックマーケットに放出するだろうと思っていた。あれには私の署名が書き込んであるから、網を張っていればすぐに見つかる。それで待っていたんだが、いつまでたっても出てこなかった。死蔵しているのか、抹消されたかとも思ったが、別の可能性も考えた。誰か、稀有な人間が、私用に使ってくれてるんじゃないかとね」
 稀有な人間。俺が?
「いつか、彼もしくは彼女の、その作品が世に出るのを私は期待したんだけれどね。それもなかった」
 俺のユーリを発表する気はない。
「しかし二か月前、思いがけない物が現れた。Drgun-Scoope。君の会社の新製品だ。私は直感したよ」
「……そうだったのか」
 たしかに、ScoopeにはTHECを使った。脳波の微妙な変化から意思を判定し、意図を解釈するプログラムには、俺がわずかに解析できたTHECのインターフェイスの一部を組み込んだ。独自に共通のプロトコルを開発するところから始まったこの作業は途方もない、時間の拘束を強いられた。電極シートを介した、大脳領域から生じるガンマ波と、脳表脳波の複合解析。それでも汲み取れる意思は、THECとは比較にならないほど大雑把で単純なものだが、手塩にかけた甲斐あって正確に、スムーズに動作した。
「筐体をデザインするのにも使っただろう。あれは美しい。そしてこれも」
 大黒は、ウェビイチェアの上でゆらりと身体を揺すった。揺動はすみやかに吸収され、浮遊感を保ちながら姿勢は安定する。
「お見事。私がやればよかった。他のことにかまけていたのでね」
「あなたのTHECを使えば、手遊び同然だった」
「それほど簡単ではなかったろう。さっきも言った」
 図星だった。俺は苦労した。
「無理もない。スタンドアローンではね。限られた機能しか使えない」
 あれは通信するのか。そうは見えなかったし、何しろ盗品だから、オンライン状態で使うわけにはいかなかった。
「マシンに入れてあるTHECは、本体の、ほとんどインターフェイスみたいなものなんだ。オフラインでも一応動くようにはしてあるけれど、機能メニューはほんの一部しか出てこない」
 俺は、深い溜め息を吐いた。俺が悪戦苦闘しながら使っていたのは、つまりインターフェイスのインターフェイス、おそらくは、さらにそのまた一部だけ、だったわけか。小手先の先で転がっていたようなものだ。自分なりに順調にやって来たと思っていたのが、幻想を掴んでいただけだった。無力感が肩に圧し掛かった。
「ともかく」
 大黒は伸びをした。この男、自分の部屋にいるようにリラックスしている。さっきから、ずっと。
「今も誰かがTHECを持って、曲がりなりにも使ってくれていると知って、なんだか安心したんだ。生き別れの双子を見つけたような気持ちになったよ。それで少し調べを入れてみて、Scoopeの開発の中心になっているのが、ドルガン社の笛木さんという人らしいとわかった」
「どうやって調べた? 大っぴらにはしてないし、あなたはあまり日本にいないじゃないか」
「エージェントがいるよ。内緒だけれど」
 そうか。代理人ぐらい、いて当然か。それを探し当てられれば苦労はなかったんだが。
「会いに行こうかと思ったんだけれど、何しろ泥棒さんだからな。それも凄腕の」
 俺をからかうようには、やはり聞こえない。この男の心は読めない。
「だから招待状を出した。また来てくれるんじゃないかと思って、素敵なのを作った」
「招待状?」
「愛をこめて。〝Rips〟」
 まさか。リップス。盗む。
「名前も書いておいたよ。気づかなかったか? 残念だな」
「俺の名前?」
「〝Whistler〟」
 ヒタキ。いや、口笛吹き。佐門典子がそう言った。笛。
「君は来てくれたな」
 餌。本当に餌だったのか。だが。ということは。
「あのウィルスは」
「ウィルス?」
 大黒は小首を傾げた。
「ふざけるな。仕込んであったウィルスだ。あんたか」
 俺は怒鳴りはしなかった。なぜか、声に力がこもらない。むしろ、震えた。
「ウィルスじゃない。探索回収ボットだ。特殊なタイプではあるけれど。何か、君に損害でもあったのか」
「損害だと。あんたのせいで」
 俺のユーリは。
「……破壊された」
 目に涙が滲んだ。悲しみと、悔し涙。
 俺は思い返すと、一気に心が沈む。あの時の屈辱と、空虚感は俺の中でつづいている。片時も頭から離したことはない。今日まで、地に足がつかない気分が続いてきたのは、根っこに張った悲しみを背負って生きてきたからだ。
 あの時、俺の中で何かが弾け、はじまったのだ。
 ユーリ。
 胸のうちで、彼女の名前を唱える。
 お前に危害を加えたやつが、いま目の前に。
 俺の怒りが、喉元を通り越していく。顔が、怒りの一点に染まっていくのが自分でも分かった。
 殺意。
 そう、殺意だ。
 俺は、あの時、見えない相手に殺意を抱いたのだ。俺は、その時高ぶった熱を少しずつ引き出していく。
「私は破壊は嫌いだ」
 大黒の声がした。何を言ってやがる。白々しいことを。
 近くにいたら、突き飛ばしていたはずだ。
 けれど、大黒は鷹揚に構えている。顎を引き、冷静に俺を見返している。その目と対峙していると、自然と殺意を抑えつけられるような思いがした。
 この魔力。
 これが、この男の器か。
 それとも、俺が呑まれてしまっているだけなのか。息を吞み、俺は自分を高める。
「言っただろう、あれは探索と回収用だ。マシンの中に放出されると、THECを探しまわる。THECを使って作成したデータも。識別用の目印がつくようになってるんだ。見つけると、圧縮して取り込み、脱出する」
 俺は顔を上げる。悲しみはまだ心の底にあった。怒りの熱の他に、悲しみも顔に浮かんでいるだろうか。
 いや、これらは俺の中で表裏一体なのだ。
 だから、俺の顔はただ怒り一筋になっているはずだ。殺意は俺の懐に収められたままだ。引き出そうと思えば、いつでもできる。
「マシンがオンラインなら、ネットを走り抜けて本体に帰投する。オフラインの場合は、手近なストレージの中に偽装して潜伏する。次に接続する時まで」
 なんだって。
 息が乱れた。
「君が何を失くしたのか知らないが、取り戻せるよ。もっとも、復元作業はちょっと面倒だが。フルスペックのTHECが必要だし、あのボットには関連の強いデータを一緒に巻き込んでしまう癖があって――」
「本当か。戻せるのか」
「嘘をつく理由がない」
 安堵。滅びかけた世界がいきなり救われたような、拍子抜けに近い安心感。嬉しいはずなのに現実感が欠けている。
 嘘をつく理由がない。どこかで聞いたような台詞だ。この男は本当に嘘をつかないのかもしれない。隠すことはあっても、偽ることは要らないのかもしれないと思った。その時俺が感じたのは、羨望だっただろうか。
「俺を追わせていたのは、あなただったのか」
 半ば独り言のように、俺はつぶやいた。
「追わせた?」
「デュオリンクが俺に注目していたというのは、つまりそういうことじゃないのか」
「ああ、まあね。社長は私の古い友達だから。私のメッセージに気づけば、君は接触してくるだろうと思ったんだけれど、考えてみれば君は強盗をはたらいたわけだし。来にくいだろうとは思った。君の顔を見ている椎名さんをそちらに寄越すと伝えたら、君はどうするだろうかと、ちょっと興味をそそられた」
「俺をからかったのか」
「試してみただけだ。君は稀有な人間だからね」
 また言った。俺はいったいどんな目で見られているっていうんだ。
「名演技じゃないか、あの脅迫ぶりは」
 見ていた? 社屋内の警備システムをハッキングでもしたのか。だがあの会議室に監視カメラはなかった。あれば俺は手を打っていた。
「古い手だけれど、ボイスレコーダーを仕掛けておいた。後で録音を聞いたんだ」
「どうやって。あそこに、あなたはいなかった」
「エージェントがいると言っただろう」
「デュオリンクの社内にか」
「社員として働いてる。本人と社長しか知らないことだ。もっとも開発部長は薄々感づいてるらしいと、彼女は言ってたが」
 彼女。
「若槻かすみくん。彼女が君に接触したのは私の指示だ。椎名さんは知らないことだよ。彼が今後どんな選択をするかも、知らないけれど」
「待ってくれ。それじゃ、あの子が〝Rips〟の声をやってたのは。あのスタジオにいたのは」
「うん。やって来るのがどんな人なのか、確かめておこうと思って。配置しておいた」
 完全に嵌められていた、最初から。
何もかもが手の内だった。
何手先を読んで行動しているというのか。百手? 千手? いや、もっとだ。俺にはそれぐらい空恐ろしく思える。精度の高いコンピュータを相手にしているより、ずっと上をいっている。
この男には敵わない。
肩に掛った無力感がさらに肥大し、俺を呑み込みはじめた。いつしか、息継ぎの仕方すら忘れていた。
なんだ。
こいつは、なんなんだ。
同じ、人間だっていうのか?
耳鳴りがはじまった。
ヒューン、と小さなモーターが空回りするような音。脳内のコマに、加速度が掛かっている。それも一段と激しく。その揺らぎが、俺の五感をゆすぶっている。得体のしれない、不安が込みあげる。
「それにしても、ホテルに会いに来てくれるかと思ったら、人拐いに来るとはね。驚いた」
 俺は息を吞み、一先ず交渉のスタンスに立ち返る。心臓が早まり、不愉快な心音が耳鳴りに重なる。
 本当に驚いたのかどうか。嘘ではないかもしれないが、驚いたのはせいぜい一瞬だろう。
「ところで……」
 打ちひしがれている俺に、大黒が声をかけた。
「少し気になってることがあるんだが」
 自分の身の安全のことか。俺はもう、この状況などどうでもいい気分だった。
「君は何を見たんだ?」
 彼が質問している。俺に聞くことなどあるのか。
「デュオリンクのVR空間で、いったい何があった」
 耳鳴りの音が低周波に切り替わった。まるで、チューナーのスイッチを入れ替えたかのようだ。
 その問題。
 まだ、解消されていない、俺の取っ掛かりの一つだった。
 思い出した。
 けれど、なぜこんなところで。
 その質問をするのは、こちら側だろうに。
 大黒の顔は変わらない。
 俺はハッとする。
「あれもあんたがやったのか」
 思わず、語尾が震えた。
 信じたくない。
 だけど、俺をはるかに超越した世界観を持ち、明晰な頭脳を操るこの男なら。あるいは、作戦でもって俺を陥れようとしたところでなんら不思議ではない。
「私は、君があの屋敷を訪ねる様子を、横からモニタリングしていただけだ。君は二階の空き部屋で、ドアから飛び退った。何かを見て驚いたように、いや、慄いたように見えた。そして走って逃げた」
 飛び退った、と大黒は今言った。それは俺の記憶の一部と合致している。
「実を言うと、Scoopeがピックアップする脳波信号も、私はこっそりモニタしていた。あれの機能に興味があったからね。私は神経生理学の学位を持っているんだが、君の脳波は、あの空間に没入した当初から不安定な兆候を示していた。屋敷に入って二階に上がるあたりから、はっきり乱れ始めた。そしてあの瞬間だ。Scoopeの回路は過負荷になっていたよ。壊れるんじゃないかと思ったくらいだ」
「それで、どうなったんだ」
 俺は本当は何を見た。
 過負荷になったScoopeの世界。俺のなかで何かが起こっていたのは、間違いない。
「わからない。あの部屋は空っぽだったんだ。ともかく私はとっさに、その場を取り繕った。なぜそんなことをしたのか自分でもはっきりしないんだけれど、ダミー空間を展開して環境をすっぽりマスキングし、そこに君のアバターの姿をコピーして演技させた。何も起こらなかったように偽装したんだよ」
「何の準備もせずに、いきなりそんな真似ができたのか、あなたには」
 俺は背筋がうそ寒くなった。俺の不穏な記憶と、大黒の計り知れない能力に、同時に怖れを感じた。
「THECのフル機能を使えば簡単なんだ。あれは私のイマジネーションを瞬時に、細密に具象化するんだからね」
 あの針葉樹林の小道を辿っていた時から、俺は誰かに見られているような気がしてならなかった。佐門やデュオリンクの連中とは違う、何者かの眼が、林冠の上から俺を見下ろしていた。
「あなただったのか?」
「違う。おそらくそれは、君自身だよ。あのVR環境に、君は君の脳内のイメージを重ねていた、たぶん。君は自分の頭の中、心の底を覗き込んでいたんだ」
 よく知っているような眼差し。この俺の視線。
 心の底の森。洋館。大黒の声が遠くに聞こえた。
「それで、君はいったい、あそこで何を見たんだ?」


 ドルガン社のVR開発部で同僚になった、谷繁はるちかと雑談していた時だった。俺は不吉な噂を聞いた。
 新興のVRベンチャー――『シモン-センス』。設立以来ずっと秘密主義を貫き、出資者も不明。その小さな会社を拠点として、先端技術情報の不正な流通が行われているのではないか。つまり産業スパイ組織ではないかというのだった。
 そして数年前から暗躍しているらしい、一人の女。特定の技術者に狙いを定めて接近し、新製品や新技術に関する機密情報を巧みに聞き出す。友達の友達から聞いたレベル、都市伝説めいた話だと思っていたが、どうも本当のことらしいという噂が、次第に高まっているという。
「ハニートラップなのか」
「あれは美人局でしょう、恐喝が目的の」
野心的なエンジニアに目をつけて、何か月もかけて親密になり、魅力的な新情報をちらつかせて相手に気を許させ、堅い口をゆるめて滑らせる手口。
「被害にあったやつがいるのか。詳しい話、知ってるか」
「直接には、何も。ですが……開発中止になりかけた製品が急に息を吹き返し、逆に有力視されていたプランが突然お蔵入りになったとかいう話、ここ何年か妙に多くないですか、この業界」
「最先端の分野だからな。技術も人も、浮き沈みは激しいさ」
「それはそうですが……」
 俺は聞き流すふりをした。できれば忘れてしまいたかったが、頭から離れなかった。
 しばらく足が遠のいていたアンダーグラウンドのコミュニティに戻り、探りを入れてみた。
 シモン-センスという会社の名は、既にかしましく囁き交わされていることを俺は知った。そして、件の女の噂も。生々しい話を次々と聞かされた。将来を棒に振った若い研究者。身投げしたデザイナー。職を失った上、離婚訴訟を起こされたエンジニア。この数年で、餌食になった人間は少なくとも十名以上。動いている女はおそらく複数だと思われた。
 コミュニティ内にシモン-センス社へのアタックを図っているグループがあると聞き、俺は参加を申し出た。周到な計画が練られ、半月後、実行に移された。異様に強固なファイアウォールを突破する。獲得された社内データ。関係者として出入りしているらしい女が数名。名は記されていなかったが、その一人のプロフィールに、俺の目は吸い寄せられた。
似ている。
激しい耳鳴りが、俺の鼓膜をつんざく。

 闇のテクノロジスト集団は既存の社会規範から遠いところにいるが、一定の信義は機能しており、時おり義憤に似たものを示すことがある。引っかかって破滅した連中は気の毒な愚か者だが、穢らしい女狐をこのまま野放しにしておくのは癪だ、狩り出そうという機運が盛り上がった。彼女らの身上、出自、これまでの罪業を残らず暴き、晒し者にするのだ。
 俺はコミュニティとは異なる単独行動をとった。掠め取った情報を元に自力で糸をたぐり、見当をつけた女への連絡ルートを突き止めた。まだ彼女だとは断定しない。俺は短いメッセージを送った。
〈まだ俺に嘘をついているか〉。
 返信があった。
〈助けて〉――。
後に続くのは、衛星測位座標。
 ユーリだ。彼女は組織に利用されたのだ。おそらくは脅迫されて。
 俺は彼女が報せた場所へ向かった。岬の森へ。


「うん。たぶんこの中だろう」
 俺が差し出したリムーバブルディスクを受け取り、大黒啓二は言った。
 彼の仕掛けたウィルス、彼の言によれば回収ボットが俺のマシンの中で猛威を振るった時、接続してあった。
「回線を繋がせてもらうよ。君の失われたデータを取り返すには、THECが必要だから」
 大黒が言うのを聞いて、俺は我に返る。
「待て。助けは呼ばせない」
 俺は彼を誘拐し脅迫しているのだ。ともかく、俺としては。
「通報する気はない。そんなことをしたら時間が足りなくなるだろう。ボットをTHEC本体に帰還させて、aquariumに浸けてcryptobiosisから蘇生させ、vomitから食ったものを分離抽出し、PATEで圧縮されている情報を解凍して、元通りにするには時間がかかる」
「……どれくらい」
「数時間から、半日程度かな。自動処理というわけにはいかないんだ。言っておくが、君にこの作業はできない」
「あなたは……協力すると言うのか」
「私は君に銃で脅されているからね」
 忘れていた。俺は今、両手をポケットから出していた。
 今さら誤魔化しても遅いだろう。本物の銃など俺は持っていないことに、大黒はすでに気づいている。もしかしたら最初から。
「最初からそうするつもりだったんだよ。君が私のjack-in-the-boxにびっくりして、私のところに怒鳴りこんでくるのを、私が望んだんだから。隠したものは返すさ」
 俺は何も言えなかった。
「有線の方がいい。ケーブルを用意してくれるか」
「……わかった」
 ついでに茶を淹れた。他にできることがない。
 ホテルではとっくに大騒ぎになっているだろう。
「どうかな。この国で私に何かあった時は、まず若槻くんに連絡が行くようにしてある。彼女がうまく時間稼ぎしてくれるんじゃないかな。不測の事態に備えておきます、と言っていたから。だから、たとえばホテルの門前で、奇遇にも私の友人が私を見かけて、そのまま彼が贔屓にしている店へ飲みに行ってしまったんだとか何とか。私の知人には奇矯なのが多いんだ」
 復元作業の準備をしながら、大黒は言った。
「あの子が」
「彼女は有能だもの。君が椎名さんに渡したタブレットをこっそり拝借して、君に連絡したし、呼び出した場所から離れたところで君は待ち受けているだろうと当たりをつけて、君を不意打ちしたのも彼女だ。あの人には、私にも敵わないところがある」
 俺はもう、聞きたくない気分になっていた。
「さてと。Scoopeはあるかな」
「テスト機なら」
「いいだろう。貸してくれ」
「何するんだ」
「インターフェイス」
 大黒は俺のVRメットを被り、調整する。
「君がTHECの扱いに苦労したのには理由があると、さっき言ったな」
「ああ」
「理由の一つがインターフェイスだ。脳内意思ピックアップ。君が私からTHECを盗んだ時、ヘッドセットはなかったろう。君はあれからどうした?」
「……脳波信号の入力が必要だと知って、THECが要求している仕様を割り出して、医療用のやつを改造した。あとは試行錯誤で」
「大したものだ。だがもちろん、仕様は満たせなかった。このScoopeはいくらかましだが、まだ不十分だ」
「あなた専用のデバイスがあるのか」
「うん。当時は使っていた。たたむとポケットに入るように作ったから、マシンのそばには置いてなかった」
「それを、今持ってないのか」
「あいにく荷物の中だ。ホテルの前に置いてきた」
 それで復元作業ができるのか、と俺は危惧した。時間がかかるというのはそのせいなのか。
「持ってても大差はないよ。それに、もう要らないんだ。今、デバイスはここにある」
 大黒は自分の頭を指先でつついた。VRメットではなく、その隙間に見えている髪を。
 埋め込んだのか。頭蓋の中に。
「今度アメリカに行っていた理由がそれだ。微調整に時間を食って帰国が遅れた。Scoopeはアンテナとして利用する」
 こともなげに大黒は言う。やはり、違うと思った。おそらく見えている世界のスケールそのものが違うのかもしれない。気持ちの入れようも。
「あなたの……目的は何だ」
 俺は問うた。
「目的って?」
 大黒の口が聞き返した。今、彼の両目はVRゴーグルに覆われている。
「目標というべきか。何が望みなんだ」
〝Risa〟や〝Rips〟を作るような、あんなものは彼にとって片手間仕事にすぎないだろう。大黒啓二が本当は何をしているのか。自分の脳にインプラントまで施して、何がしたいのか。俺は知りたくなった。
 俺に話してくれるだろうか。
「そうだな。究極的には……世界を創る」
 低い声で彼は言った。デスク上に据えたマシンのモニターは暗いままだが、たぶんもう作業にかかっている。
「VRの?」
 座ったまま遠ざかるかのような彼に、俺は呼びかけた。
「バーチャルではなくなるさ。リアルの一部となる。一体化する」
 彼は俺に話しているのだろうか。
「昔から言われてきたことだ。古典的な考えさ。長く夢見られてきた」
 夢見るような口調ではない。そこに潜むのは確信。
「誰もが夢見てきた。世界を我の意のままに」
 自分だけの、全世界。
「誰もがこの世を、見たいように見る」
 見たままに世界は成る。
「いずれは誰もが、世界を手にする」
 競合することもなく。
「無数の世界が創られる」
 生きる人の数だけ。
 死せる者のためにも。
 新たに生まれるものたちも。
 新たな世界に没入してゆく。
「君は、私に似ているよ」
 誰かの声が言った。


 2シーターのルーフを開け放って俺は岬へ走る。ユーリと乗るはずだった車。
 風が髪を吹きちぎろうとする。ユーリの横顔が浮かぶ。
 車を道脇に乗り捨て、森へ飛び込む。厚く積もった落ち葉を蹴立てて俺は駆ける。
 もうすぐだ。この森を抜けた先にある廃業したペンション。そこに彼女がいる。俺の助けを待って。
 俺の息が荒くなる。落ち着かなければ。俺は彼女を救うのだ。
 見えてきた。古い瀟洒な洋館。


「何をそんなに興奮しているんだ」
 大黒の声がして、俺ははっとする。神経を張り詰めすぎて、自分だけの世界に入り浸っていた。そう、俺はまだ目的のものを目にしたわけではない。しかし、近づいていることは確かだ。俺の心に根差す、焦燥。いままた大きくなり、俺の鼓動を急き立てる。
「作業は、どれぐらいかかるんだ」
 俺は言った。
 彼は振り向きさえせず、モニターに取り掛かっている。高速のブラインドタッチ。キーに触れる音が滑らかで、鼓膜を撫でるように爽やかにすら聞こえる。
「さあ、どうだろうか?」
「あんたなら、見込みぐらいは立てられるはずだ」
「どうして、そんなに急ぐ」
 どうして?
 どうして、だろう。
 俺自身、よくわからない。理不尽な苛立ちが込みあげる。
「俺のことは、どうでもいいだろ。質問に答えろ」
 扱いにくい偏屈者になっていることの自覚はある。だけど、自制など敵わなかった。興奮。俺は内側から迫りくる感情が今一番に高まっていた。少しでも気を抜くと、押し潰されそうだ。内側から崩壊し、臓腑をぶちまけそうだ。吐き気を堪えるような気分。俺の胸の奥から、ぐ、ぐ、ときしむ音が断続的に響く。
「手伝えることはあるのか?」
 俺は言った。
 モニターはディレクトリ画面と、3Dを制作するワークスペースが交互に展開されている。本来ならマルチタスクで作業するところを、この男はたった一つのモニターで間に合わせている。
「もし、頼んだら逆に時間が掛ってしまいそうだ」
 超越した頭脳が操作する世界。
 俺が手を出す隙がないと断じられたところで、文句など言えなかった。それにしても、見ているしかないだなんて。
「一つ、聞かせてほしい」
 大黒が突如言った。
「俺を詮索するようなことは、よせよ」
 釘を刺した。
 なんとなく、どさくさに紛れ、個人的なことに突っ込んできそうに思えた。大黒は身じろぎもしないまま、作業をつづけている。動いているのは、十本の指だけ。神経がそこに集中している。
「――これは、ある種の手伝いになることだ」
 ほう、と俺は思った。
「言え」
 俺は彼の背後に就いたまま、促した。
「制作したデータのことだ。消えたものよりも以前に積み重ねてきたもの……、それについてどれぐらい記憶しているのか」
 消えたデータより以前に積み重ねてきたもの?
 こいつは、何が言いたい。
 顔色を窺ったところで、モニターに集中しているから何も汲み取れない。
 その時、モニターに表示されたポップアップが真っ黒になり、ゲームエフェクトのようにぱちぱち明滅した。
 クラッシュしたのだ。
 データ容量の大きさにマシンの読み込みが耐えられなくなった。だが、大黒の表情に変化はない。予測済みといったふうだ。一瞬止まった指が、また動き始めた。コードが列挙されていく。文字だけを追うと、規則にならって組み立っていくように見えた。まるで、磁力を帯びているよう。世界だ。彼は、2D世界の法則さえをも創造している。
「しっかり覚えているさ。それは、俺の心、そのものなんだ。忘れるはずがない」
 俺は息を吞み、なんとか言った。
「そうか。なら、詳細を掘り下げても大丈夫だな」
 大黒の質問攻勢がはじまった。俺の向こう側にあるものを引き出そうとしているようだった。俺は、頭にあるものしか答えない。回答を口にするたび、大黒は沈思にくれた。何かを吟味しているようだ。
 掴んでいる何かがあるのか?
 俺は、彼を見ていて、そんなことを思った。詮索しようとしているのではない。事実をもとに、確認しようとしている――そう、問診だ。医師による徹底した問診のように俺の全体像を押さえようとしている。
 答えないわけにはいかなかった。
 ユーリ。
 彼女のために、俺は自分にあるものを引き出さなければいけない。今の俺にできることは、ただそれだけなのだから。

 神の手触りが俺の背を揺すっている。
「作業を完了したよ」
 耳慣れた声が、俺の意識を明るい場所へと引っ張り上げる。
 大黒。
 俺ははっとする。カーペットの上に崩折れて、俺はいつの間にか眠っていた。記憶にある構築してきたデータの模様を紐解きながら、俺は格闘してきた。心に重圧が掛ったのだろう。ほとんど、ダウンするように睡魔に引き込まれた。前後の記憶が抜け落ちていた。
 慌てて身を起こす。一瞬、壁が床に変わる感覚。ベクション。
 俺はこめかみを押さえる。張り詰めていた気が緩んだからか。あの症状がぶり返している。
「大丈夫か」
 感情の読み取れない声。時計を覗く。もう夜明けが近い。
 俺は目を上げる。夜を徹したらしい彼の顔にやつれた様子は見えない。
「君の大事な人は取り戻せたよ。綺麗じゃないか」
 一気に目が覚める。
「モニターを。いや、Scoopeをくれ」
 口が吃りそうになった。彼女を間近に見たい。あの微笑みを視界一杯に溢れさせたい。
 大黒は躊躇した。いや、ためらいを俺に伝えた。
「どうかしたのか」
 俺は戸惑う。不安が兆す。彼女は元通りの姿になったはずだ。綺麗だと彼は今言った。
「君はまず知っておいたほうがいいと思うのだが」
「何をだ」
「復元したあの女性のデータファイルは二つあった」
「二つ?」
 目の前で、火花がはじける。
 やっと、わかった。
 大黒が俺に問診を浴びせつけたのは、俺が想定していないデータまでもが復活し、彼の前に現出していたからなのだ。それを横手に、彼は俺を試しに出た――。
「思い当たることはないか」
 と、大黒は催促する。
 ユーリが二つ。
 一つは、わかる。
 では、もう一つは?
 俺は頭を捻り、考えた。だが俺の心の底で、それを拒むものがあった。いくつもの魔手が伸び、俺のすべてを雁字搦めに拘束する。
脳の奥の、あの森。
俺の、禁断。
 俺はまた目を瞑る。まだ床が、部屋が傾いているようだ。
「一つはTHECで描出した、美しい姿だ。しかしもう一つは」
 もう一人のユーリ。
「……VR用のシミュレーションモデルではあるが、ありきたりのツールを使って描いたものだ。君がTHECを手に入れる以前の作なのだろう。回収ボットがこのデータまで食べてしまったのは、その内容において、THECを使用したもう一方との関連性が非常に強かったせいだ」
 大黒が、この男が言い淀んでいる。
「何だったんだ」
 聞くまでもなく俺は知っている。
「これもよく描けている。美しいといえば美しい」
 そうだ美しい。生命が溢れ出した姿。
「君はこれを見ていたのか。君の森で」
 俺が殺したユーリ。


 木陰から俺は屋敷を窺う。干からびた木の窓枠。薄汚れた煉瓦の壁。欠け落ちたスレート。
 窓は割れていない。住めるだろう。だが人の気配が感じられない。
 座標軸を求め、行き着いた成れの果て。
 ユーリ。ここに閉じ込められているのだろうか。名を叫びたくなった。だが他に誰がいるのかもわからない。
 遠雷が鳴った。雨宿りを頼むふりをして入り込むか。
 いつまで潜んでいても仕方がない。俺は意を決し、扉を叩く。
 応えはない。ノブに手をかける。回った。框を踏み越える。
 板床がかすかに軋む。広間に入る。ガラス戸棚の酒器、絵皿。使っている様子がない。青白い空気。読書室の棚は空だった。
 誰もいない。隠れているのかもしれない。物陰を気にしつつ進む。
 二階で物音がした。空耳かもしれない。乾いた木が鳴っただけかも。だが俺は階段を昇る。動悸が高まり、息が乱れる。
 ユーリ。
 もう耐えられなかった。俺は彼女の名を呼んでいた。ユーリ。ユーリ。叫んでいた。
 俺の声が遠くまで響き渡っていく。
 虚しく弾け、闇に消えていく。
 いくら叫んでも同じだった。俺の衝動は、尽きることなく続く。
 感情が器から溢れ、零れてゆく。
二階の廊下。奥はサンルーム、削り出した小さな水晶が淡い光を投げる。両側に三つずつの扉。俺は開け放ってゆく。
 二つのベッド。ドレッサー、楕円形の鏡。同じ造りの客室。ユーリ。応えがない。ユーリ。口を塞がれているのか。
 ユーリ。それとも。
 六つ目の部屋。開ける俺の手指が震える。横たわる姿を俺は予期する。俺は足を踏み入れる。
 壁に染みた赤い色。俺は凍りついた。



 視界が激しく上下していた。走りながら俺は何か叫んでいた。やがて力尽き足がもつれ、身体の周囲で森が回転した。面前に木漏れ日、視野のはずれで枯れ葉が踊った。雷が轟き天が押し寄せた。涙雨に俺は浸かり逃げるように流されていった。



 俺が真に見たものは。
 白い壁紙に鮮やかな赤い印。血飛沫と見紛う、筆を投げるように書きつけられた紅の文字。
〝Lie〟
 横たわる。Lie。嘘。
 誰もいない部屋。



※  ※  ※
 ユーリを殺す。
 俺は今あの女を殺している。白い胸の谷間に刃を入れ、下腹部まで正中切開する。血が必要だ。肉の赤黒さも、粘る脂の淡黄色も。
 あの場で凍りついた俺の身を、心の底から湧き上がった炎熱がたちどころに融かし灼き焦がした。描く手は憑かれたように動く。
 ナイトガウンは血で濡れそぼらせる。投げ出された両脚からはみるみる生気が失せ、染色液に浸けたように青く変じるだろう。ユーリの口は半開きだ。何が起こったのかもわからない呆けた顔。作り物のような顔面でも血をしぶかせればたちまち生命を宿すことを俺は知った。溢れ出し今まさに失われんとする生命の潮。鮮血の色を塗りたくるだけで一時生きる。俺は快哉を叫ぶ。あの女の、これが死に様だ。



 俺が殺したユーリの姿を俺は心の森に据え、俺はユーリを殺したのだと己が記憶に彫りつけた。
 モニターを切り俺はその場に倒れ伏し、やがて朝が俺を覚ますに任せた。日の光がこの偽りを白く晒し、新たな偽りで染めてゆく日々に再び俺を投じてくれることを願いながら。
 俺の心は俺の願いを優しく叶えた。しかし不朽の屍体を蔵した森は、心の底に根ざし続けた。枯れ落ち続ける樹冠の欠片を厚く積もらせ、俺の心を拉いできた。
 だが俺は吐いた。神の指先が喉元に差し込まれ何もかも吐かせてくれた。偽りの血を。作り物の屍肉を。
 俺はユーリを殺していない。まだ殺していない。
 あの女は逃げたのだ。最後まで俺を弄んで。おそらくはあの微笑みを頬に浮かべながら。
 追ってやる。この世の何処にいようと追い詰めてやる。俺が描いたあの死に顔を、あいつの頬にこの手で貼りつけてやる。
 俺は起つ。
「どこへ行くのだ」
 背後に聞いたのは神の声か。だが俺を諌めることはできない。 
 俺は扉を開け放った。
 待ち受けていた風が、びょうと吹き抜けた。
 あの女が息をしている。
 あの女の呼気がこの風に混じっている。囁き声を運んでくる。
 あなたのせいよ。
 風の中に俺は燃える息を吐く。あの女に届け。
 日が昇り俺を新たに目覚めさせる。この俺を軸として世界が回り始める。
 悪魔の嘲笑がこだまする天地に、俺は再び没入する。




※  ※  ※

 固く閉ざされた扉が大きく開く。ぎい、と木を絞るような耳障りな音。立て続けに蝶番から弾けた、ぱきぱきぱきという甲高いエフェクトは火にくべた薪そのものだった。古い洋館風のペンション。入ってすぐに、二階へ続く階段が現れた。調度品は何から何まで味気なく、埃をかぶったようにくすんでいる。
窓は、森の気配一色に染まっていた。奥には銀色に輝く、小さな湖が見える。ボートの姿はない。陸と仕切る木柵さえも。隠家といってよかった。俺は廊下にいた。粗い画素のマットの上に立っていた。
自前でこしらえた世界。
 ユーリと過ごすためだけに用意した、感情をフラットにできる場所。世界の果て。俺の心の秘境。
 ユーリは俺に従い、部屋に入る。足の短い、二つのベッド。スプリングの上には薄いシートが一枚敷かれているのみ。
「どこでもいい。好きなところに座れよ」
 俺はユーリに言った。
 彼女は笑顔で応える。
 俺が組み込んだとおりの動作。徹底した、予定調和。それでいい。俺の望むこと以外は、してもらいたくない。
 今日にいたっては、特に。
 俺は、彼女を殺すと決めた日なのだから。
 VR空間にて、彼女を一突きし、殺す。
 殺人。
 そう、これは殺人の仮想体験なのだ。
 こんなことを考え付いた俺は、どうかしている。屈折している。人として大切な何かがいくつも、抜け落ちている。けれど、今はどうでもいい。
 俺は、ことをなす。
 それだけを考えればいい。
 瞑目。
 闇――。
 光が、見えた。
 目の奥まで射貫く、光が。
 俺は、生きている。
 彼女には、ひどい仕打ちを受けた。俺の心を破滅に陥れる、裏切り。信じていた分だけ、すべて俺に跳ね返ってきた。処理できないほどの圧迫。俺は追い込まれた。自殺も考えなくてはいけないほどに。胸が張り裂けそうな、懊悩の日々。今も、そうだ。この鬱屈。黙っていれば、無尽蔵に膨らみ、俺の人格をかき消す、恐怖の塊。俺は、これを撤去し、心を開放しなければいけない。
 救いが欲しいのだ。
 明日を掴み、もう一度やり直す。
 自分のために、必要なことだ。
 アナログモードに設定したままのメニュー画面を手に握ったリモコンを操作し、呼び出す。UIは、あえてこのタイプを選んだ。触覚エフェクトなど、望むべくもない。だが、俺はものをしっかりつかんでいる感触だけは、欲しかった。
 ナイフ。
 これだ。
 手の中に収め、握りしめる。
 この感覚。
 殺人は、俺の手でしっかり果たさなければいけない。
 2D空間でこしらえた仮想の武器を、俺は握る。重みは感じない。だけど、俺は手を振り上げるのもつらいほど、動きが鈍っていた。
 何を躊躇っている。
 今日まで、何度頭の中でデモを繰り返してきた。その通りに、やればいいんだ。簡単ではないか。イメージするまでもない。
 はあっと、息が抜けた。
 ユーリ。
 ベッドに腰かけている彼女を見つめる。まっすぐ前を向いたまま、鼻歌でも口ずさみそうな陽気な顔を見せている。
 その顔を見ているうち、俺の中の生身のユーリが重なる。
 累積した殺意が俺の中で高まった。ナイフを握る手に力がこもる。思わず、腕がぶるるっと震えた。
 柄尻を臍にあて、俺は彼女に一歩ずつ近づいていく。
 俺に気付いた。
 どうしたの?
 ナイフの意味も分からない彼女は、のほほんとした顔を崩さない。だけど、俺は足を止めない。彼女が立ち上がったところで、一気に腹にナイフを突き立て、袈裟懸けに引き裂いた。組み込んだプログラムの通り、ユーリは苦しみ悶え、血をまき散らしながら倒れる。どくんどくんと、ポンプで送り出すように血溜まりの嵩が増す。
破れかぶれだった。自制心を維持しながらやる予定だったが、無理だった。想像以上に、生々しい。そして、エネルギーが必要だった。
 ユーリ。
 彼女が次第に、影が薄くなっていく。
生気がしぼみ始めたのだ。
 やがて気配が消えた。
 姿かたちを、残したまま。
 誰もいない静かな空間。
 俺は、ただ一人、ぽつんと取り残されていた。
 成し遂げた、と胸のうちでつぶやく。
 そう、俺は、一つの殺人を成し遂げたのだ。
 いや、これは体験なのだ。
 だから、厳密な意味でいう、殺人ではない。
 俺は、そう思い込もうとした。
 だが、目の前に広がったリアルな屍体が俺の意識を揺さぶる。地図を描くような、不規則に広がった鮮血。まだ、溢れている。ユーリの影を作り出すよう、赤が広がっていく。まがまがしいまでに金属の光沢を放つ、ユーリの腹に突き立てたままのナイフ。まとった白布の柔らかさと対照的に冷たい。視神経までもが切り刻まれそうだ。
 すべて、時間をかけ、自分が作り出したものだ。募りにつのった憎しみを昇華するために、俺は陰険な作業に、時間を惜しみなくつぎ込んだ。その成果を今、目の当たりにしている。ただそれだけに過ぎない。
 それより、手の内にある、この感覚。
 これが、殺人の感覚だというのか?
 俺の心臓が、どくん、と一拍、跳ねた。
 違う。
 断じて、違う。
 そんなわけがない。
 俺は、手の震えが止まらない。その手さえもが、執刀医のゴム手袋にこびりついた生々しい赤と同じ色合いに染まっていた。てらてらと光る緋――。
 これは、殺人そのものだ。
 決して、体験なんかではない。
 俺の手が。
 ナイフを握り。
 ユーリの腹を突き刺し、
 彼女を、
 殺した。
 殺した。 
 叫び出したい気分だった。暴れ狂い、俺という殻から脱皮してやりたい気分だった。
 本来なら体験のみに済ませ、このイベント自体を忘れるつもりでいた。それが、どうだ。このざまときた。ここまで、激しい臨場感を呼び込むだなんて。俺の意識から当分、離れてくれないことだろう。禁断の沼に足を突っ込んでしまった。自分から。
 俺は、飛び出した。喚き散らしながら。
 ユーリを殺した。
 殺してしまった。俺が用意した舞台で、自ら目的を遂げてしまった。胸が張り裂けそうなんてレベルじゃない。ばらばらになりそうだ。魂が砕けそうだ。
 懸命に走った。
 このまま光となり、世界の果てに飛び込んでやりたい。
 この身を隠したまま、闇に入り浸るのだ。
 だけど、陸はいつまでも続く。走れども走れども、道が現れ、俺を現実に引き込む。混沌に陥れる。そして、またユーリを殺害した事実が頭をもたげる。頭痛がした。
 消したい。
 いや、すぐに消さなければ。
 走りながら、頭を抱えた。
 バランスを崩し、俺は前のめりに突っ伏した。ビジョンが入り乱れる。一瞬、破断線を見た気がした。
 VR。
 そう、俺は仮想世界にいるのだ。その事実を今一度、思い出す。
 この忌まわしい体験を消すには……?
 俺は漠然とながらも、すでに一つの答えを掴んでいた。
 VRしかない。これに打ち込み、もう一度ユーリを再構成する。
 VRで体験してしまったトラウマは、VRで塗り替えていくしかないはずだ。そのためにはVR漬けの日々を越さなくてはいけなくなる。覚悟の上だった。それぐらいは、やってやる。たとえ、変調をきたしたところで関係ない。苦しみから逃れるなら、それが一番だ。意識を丸ごと変え、俺は新しい自分を獲得する。
 生きていくために。
 そう、生きていくために……!



 かちり、と俺の中で何かが嵌る音がした。


                                     (了) 

イマージョン

イマージョン

VRをテーマにしたミステリーです。

  • 小説
  • 長編
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-06-26

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