無意識の自分

 初めまして、『柏崎 猫(かしわざき びょう)』です。pixivでショートショートをいくつか挙げていますが、1万文字越えの作品は今回が初めてです。初心故に至らない点が多々見受けられるでしょうが、是非ともご意見の程、よろしくお願いします。

生きるとは何だろう

  1,導入

 「生きるとは何だろうな?」
 四方をコンクリートを固めた正方形の部屋の中央で、そいつはおどけた調子で僕に問い掛けた。
「そこにいることじゃないの?」
 僕は心底どうでもよさそうに、つまらない回答を返した。
「なぁ、お前には夢があるのか?教えてくれよ」
 そいつは嗤いながら僕に聞いてきた。答えは知っているくせに。
「夢なんてないよ」
「つまらない男」
「つまらなくて結構」
 それ以上、そいつは聞いてくることはなかった。ここは僕の夢の中の世界。この無機質な壁と天井以外何もない寂しい部屋は、僕の心を見事に反映していると思う。僕は決して上等ではない高校を卒業し、それに相応な大学へ行き、親のコネでつまらない企業へ就職した。彼女いない歴は歳と同じだし、趣味は読書とは名ばかりの、読んでもその知識をつまらない言い訳を考えるのにしか使わない。まさに“つまらない男”。その言葉はシンプルにして僕の人生の全てを物語っていた。
 そして、僕の目の前にいるそいつは"影"だった。真っ黒で顔のない男。否、薄い口はあるし、少し高い鼻もあるし、切れ長の目も、大きな耳も、尖った歯も、ゴワゴワな無精髭も、ボサボサとした髪の毛さえもあるが、その顔は一度目を逸らすとすぐに忘れてしまう程に、存在が薄かった。
とはいえ、僕はこの影の特徴を隅から隅まで言える。身長は何センチで、体重は何キロ、視力はいくつで、どこの歯に虫歯があったかも、スリーサイズもわかるし、どこに黒子があるのだとか……影の全身は真っ黒だが……さえもわかる。何故なら、その影は僕自身を映した存在だからだ。
 その影は、いうなれば僕が作り出した幻影なのだ。つまらない僕が、こうだったらいいなと考え出した最高の妄想。意識が霞んでくれば自然と湧き出てきて、僕の代わりに踊るように様々な鬱憤を晴らしたり、その見据えた口を開いて、どうしようもない僕を非難したりする。夢の中だと特に非難が強い。
「さて、そろそろ朝だな、今日も元気に馬車馬のように働いてくる時間だぜ」
 皮肉めいた調子で薄ら嗤いながら影は謂った。
「あぁ、そろそろ起きよう」

 適当に返事をしたところで、僕は目が覚めた。時計はいつも起きる時間を指している。見慣れた天井を少しの間見ながらボンヤリとしていたが、時計がカチッという音と共にジリジリと音を鳴り出したので、面倒くさいが細腕を伸ばして音を止めた。窓から指す朝の光は、寝起きの僕の目には痛かった。顔を洗って無理矢理しゃっきりし、つまらないニュースを見ながらパサパサのパンを水と共に胃へと押し込み、擦れたスーツへと着替え、重い足を引っ張りながら気だるげに家を出た。


  2,つまらない生活

カンッカンッカンッと頭に響く金属音がゆっくりと辺りにこだまする。ここは古い安物アパートで、階段は錆びまみれの鉄製だ。またギシッ……と別の音が聞こえた。補修しろよと思うが、その金がないのが現状だ。せめて地震が来ないことを祈るしかない。
「おはようございます」
 年老いた大家が扉の前を竹箒で掃きながらこちらをチラッと見て、無愛想に言った。
「……はよう……ございます……」
 僕はボソボソっと口の中で答えた後、そそくさと駅へと向かった。
 都心へ向かう電車は駅ですらも窮屈で、人口密度は洒落にならないくらい厚い。電車の中の人口密度が100%を余裕で越えている狭さであった。例えるなら奴隷を乗せた貨物船だろうか、我ながら笑えない冗談であった。しかしここは、それほどまでに辛いのだ。ビクビクと痴漢対策として、女性から離れて片手は吊革をもう片手は小さなスマホを握りながら、到着をひたすらに待った。
 乗り換えし、電車に揺られること一時間強、ようやく目的の駅についた。降りたくてもその自由が効かない容器の中から、広い外へと踏み出した時の爽快感は他では味わえないものがあると思う。とはいえ、満員電車はかなり疲れるからもう散々なのだが。
 そして、ここからさらに足取りが重くなる。カンカンに照り付ける太陽は、道に陽炎を立たせ辺りを歩く人々に疲労感と熱気を一方的に送り付けてくる。灼熱の地面を嫌々ながら踏み込み、ようやく目的のビルへと到着した。真新しいビルとビルの隙間に建てられた、このボロっちい雑居ビルの二階こそ、僕が働く職場なのだ。

 今日も時間ギリギリに到着、一分一秒ですらここにいたくないのだ。恒例の朝の挨拶、「今日も1日笑顔で頑張りましょう」と心にもないことを言う上司。だって顔が笑ってないもの。終わり次第、早速パソコンの前に座り仕事に取りかかる僕。少し作業していたら、フラッと意識が揺れた。つい指を額に当てようとしたのだが、手が飲みかけの珈琲へと当たってしまい、そこに置いておいた文書に池のような染みを作った。
「また失敗かね君ぃ」
 ガミガミとうるさい上司の声が仕事で疲弊している僕の頭に聞こえてきた。面倒くさい。そもそも、サービス残業をさせている会社のせいで、疲れているのだから、小さなミスが増えるのは仕方のないことだと思うのだが。それにこれはコピーを取ってある分、また取り直せばよいものだ。
「はい……すみませんでした……」
 当然、そんなことは言えず、謝るだけの僕。周りから僕を嘲笑う声が聞こえてくる。特に甲高い女性の笑い声が頭をキンキンさせるため癪に障るのだ。
「それとさ君、もっとはっきりと喋りなよ?モゴモゴとして、まるでリスみたいだよ。リ、ス」
 仕事上、重大なミスとは言えないだが、この上司は一々うるさいし、ミスを指摘する際にはついでと言わんばかりに僕の気にしていることを突いてくるし、何より説教……というより理論を無視した自己満足な精神論をしているときの幸悦そうな顔に腹が立つ。
 今日も昼飯が美味しくなかった。
「あ、今日も残業よろしくね。タイムカード切っておいてよ?」
 頭に血が昇ってキレそうになった。訴えたら勝てるんじゃないか、という考えが頭を過るが、そうしたらこの会社にいられなくなってしまう。流石にそれは困るので僕は黙って指示に従う。
 不快な1日を終え、終電に滑り込む。疲れて微睡む意識の最中、影が顔をだし頭の中で、劇が開幕した。―――


  3,頭の中の劇

 ―――「……やぁ」
 俺は校舎裏で待っていた彼女に声をかけた。
「ねぇ、こんなところに呼び出して、何の用?」
 彼女は半笑いしている。夕陽の鮮やかな橙色と濃い黒のコントラストに染まり風に髪をなびかせる君の姿を見た俺は、西部のガンマンのようにカメラを取り出したいと思った。
「……綺麗だね」
 俺は歯の浮くような台詞を吐いた。それは綺麗に決まっている。恋は盲目。欠点なぞどこにも見えないからだ。
「ありがとう……」
 半笑いから照れ笑いへと口角が持ち上がり、その頬を朱に染めている。いや、夕陽のせいでよくは見えないが反応からして照れていることに間違いはないだろう。
「こんなとこに呼び出したらわかるかもしれないが……」
 少しためて、俺は言う。
「君のことが好きだ。付き合ってほしい」
 ははっ。何度言わされてきたことか。恥ずかしさなんてとっくのとうになくなっている。
「…………」
 彼女は考えている。どうせ答えなんて決まってるのに。
「……いいよ」
 彼女は恥ずかしさで声が震えていた。まったく、嗤わせてくれる。お前も何度同じ台詞を言っているのか。たまには別の声を聞かせてくれよ。あのとき僕に言ったみたいに嘲るとかさ 。つまんないんだよ、お前ら。進歩がない。
「…………」
 彼女の顔が近づいてきている。良く見ると平均的な顔立ち。可愛い部類だが、これより可愛いやつなんざ、ごまんといる。さて、この後の展開だが、口と口を合わせた後、親のいない家に連れ込むってとこだろ。だからつまんないんだよ、同じことの繰り返しでさ。 
おっとノイズが走った。これは……”僕”の思い出のワンシーンだな。この下らない劇の正体だ。なに、簡単な話。告白したらフラれたっていうだけの、よくある話さ。お前もいい加減別の女に切り替えろよなぁ。諦め悪すぎだ。そろそろ違う女とやりたいもんだ。―――

 ―――僕はトラウマを刺激され、体がビクッと反応し現実へと起こされた。周りの人に一瞬、冷たい目をされた。僕は萎縮して次の駅を確認した。どうやら僕が降りる駅のようだ。僕はせかせかと準備をして、扉が開くと同時に駅へと降り、足早にアパートへと向かった。
 錆びた階段を音が立たないようにかつ駆け上がり、家の扉を開け、見たくもない服を脱ぎ捨て、熱いシャワーを浴び、ボロッちくなったパジャマに着替え、冷たい布団へと入った。また、いつもの明日を迎えることになるだろう。


  4,転換期

「何故、僕は生きているのだろう」
 コンクリートの部屋の中で、僕は体育座りで俯きながら独り言とはいえない独り言が口から漏れ出した。生きるとは何なのだろうか。誰かは一度は考えたことはあるだろうが、これだ、と言える答えは出たことがないだろう。
「なんで生きてるんだろうな」
 返答はあった。僕の影だ。
「死のうかな」
「死んだらつまんねえよ」
「今でもつまんない人生なのに?」
「さらにつまんなくなるぜ」
 影は嗤う顔をする反面、どこか心配する声で返答を返してくれる。影だけだ。こんな僕ときちんと話してくれるのは。
「どうせどっちもつまらないなら、僕は死ぬことを選ぼうかな。そっちの方がなにも考えなくて楽そうだ」
「そうかい」
 それじゃあ、と言葉を紡ぎ
 
「俺と交代しねえか?」

 子供のような屈託のない笑顔浮かべながら、影は提案した。
「交代できるなら、そうしたいよ」
 影の目が光ったのは気のせいだろうか。その言葉を聞いた影はニィ…と笑った。その影は、僕が見せたことがないだろうほどに不気味な笑顔だった。
 確かに、このオートメーション工場で生産されるような日々をこれからずっと、定年退職するまで続けるのかと考えると嫌気も差してくる。それなら、たまには息抜きもいいだろう。そんな気軽な気持ちで僕は答えた。
「オーケー。早速、明日から"僕"と"俺"を入れ替えよう」
 人格を入れ換える、そう一言で言っても容易なことではないはずだ。交代するには諸々の準備がある、少し待ってくれ、そんな言葉を待っていたのだが、余りにも早い段階で可能というのは、少々拍子抜けであった。
「お、おい、話が急すぎないか……?そもそも、どうやって入れ替えるんだよ」
「思い立ったが吉日だ。ああ、入れ替えるなんて簡単さ、眠ればいい。なあに安心しろ、一時的な交代だ。それじゃ、お休み、”僕”」
 まだまだ影と喋りたいことはあった、聞きたいことがあった。だが、僕の意識はその言葉と共に闇へと堕ちた。―――


  5,つまらない世界

 ―――奇妙な夢を見た。それは、僕が底の見えない半透明な虹色の水の中にいて、影が水面よりも上いる。影はその黒い細腕を水面に突っ込むと、僕の右腕を引っ張り、その全身を都会の夜空のように真っ暗な水面の上へと持ち上げる。
それと同時に、影は透明なのに底が見えない水へとダイブした。ちょうど僕と居場所を交代する形だ。その時の彼の表情はクリスマスの朝の少年のような純粋な笑顔だったが、何故か僕はゾッとしていた。―――

 ―――僕はそこで目を覚ました。目を覚ました僕はすぐに影の話を思いだし、周りを確認した。
 辺りは墨を垂らしてしまったような暗闇で、手を伸ばしてもモヤモヤとする影のように何も掴めない空間が広がっていた。あの奇妙な夢の、水の上のように本当に何もない。まだ、あの夢の中に出てきていたコンクリートの部屋のほうが寂しくはあったが、壁があるだけマシであった。
 この真っ暗な空間で僕は何もすることはなく、とりあえず目を開いて起きておいた。もう一度寝る気分にはならなかった。
 僕はここで一応立っているつもりなのだが、このふわふわと宙に浮く奇怪な感覚と、地面を踏んでいるはずの足の裏の不気味な感覚に、面白さと不愉快さを覚えた。ここは例えるなら星の瞬きがない宇宙のようなものだろうか。そう考えると僕は少し息苦しくなった。
 それにしても、意識を失う直前に見た、影の顔はまるで少年のような笑顔だったが、それよりも、例えるなら……そう、悪魔のような笑顔であった……ように思える。僕の考えすぎか。それとも周りの人間が恐いと思う僕だからこんな解釈をしてしまうのか。そんな僕につくづく呆れてしまう。
 人は暗い中で考え事をするとひたすらに疑問と答えが生まれるのかもしれない。道理で寝る前に物を考えると眠れなくなるわけだ。疑問が沸くと答えがわかるまですっきりしないし、答えが浮かんだとしても新たな疑問が沸く。ついループしてしまうのだ。そしてたった今気付いた。ここにはいつ朝が来るのだろうと。
 そう思った途端、急に視界にテレビの砂嵐のようなザーッといったノイズが走り、つい先程まで暗かった世界を照らした。興味深いことに、僕はこのモノトーンの光で安心を覚えた。
 モノトーンの砂嵐は最初こそそれ以上の色を見せなかったが、ついには三原色を手に入れ、それらが混ざり合い、様々な色を見せ始めた。この光景は、それはそれは神秘的で幻想的で、感動的でサイケデリックな映像だった。ただの色とはこんなにも美しい物であったのか。
 だんだんと色が混ざっていく様子を放心しながら眺めている僕のことは放っておいて、複雑な映像は次へと動く。ノイズは明確化していき、ついには 僕の見慣れた天井へと変わっていた。そう思うとまた一瞬だけ暗闇へと戻り、数秒程度暗闇が続く。開かれた映像は少し霞んでいるが、手らしきものが近付いた後、今度は映像が鮮明になった。映像は右へと動く。窓が映り眩しい光が映像に焼き付ける。
 このとき僕は違和感を覚えた。何故なら僕自身は体を動かしているつもりではないのに、映像が動いているのだ。例えるならドキュメント映画等のカメラのような感覚。そこで声が聞こえた。
「……よし……うまくいったぜ!」
 声を聞いた瞬間、僕は背筋が凍る思いをした。何故ならその朗らかな声は、ここ毎日のように聞き慣れているものとは違う、だが明らかに聞き飽きている声だった。つまりは僕の……否、紛れもなく"俺"の声だった。


  6,新しい生活

 唐突にジリジリジリジリと目覚ましの音が響く。"俺"はその時計を壊すかのような勢いで、バンッ!と上を叩いた。チンッと些細な音を立て、時計は一回床をバウンドした後、やかましい音を立てることはなくなった。
「さあ、新しい生活の始まりだ」
 鏡の前に立った"俺"の顔はまだ顔を洗っていないというのに、初めて見る清々しさを持っていた。
「うっわ、無精髭濃いな……剃っとこ」
 ジョリジョリと音を立て、髭が剃られていく。剃るのが面倒くさかったし、剃らないからといって、どうにもならないのであまり積極的には剃っていなかった。剃った自分の顔は案外しゃっきりしているのだった。
「ああ、そうだ、一つ言っていなかった。"僕"と"俺"とは"俺"が無意識下じゃないと会話ができない、それどころか認知すらできないぜ。俺は無意識の存在だったからな。無意識と入れ代わったってことはお前は"俺"の無意識になったってことだ。わかりづらいかもしれんが、俺からはそうとしか言えない。それじゃ、また後でな」
 "俺"は極彩色のテレビから流れる経済のニュースで目を輝かせながら、パサパサのパンを目玉焼きとベーコンと共においしそうに食べ、冷たい水に喉を鳴らし、擦れていたはずのスーツを見事に着こなし、颯爽と我が家を出掛けた。
 カン!カン!カン!といつもよりも大きな音が立つ階段。しかし気のせいか今日は軋まなかったようだ、珍しいこともあるもんだ。
 突如、僕にとっては信じられないことが起きた。竹箒でアパート前を掃除している大家さんに対して、「おはようございます!」と自分から挨拶したのだ。
「……おはようございます。今日は元気ねえ」
「ちょっと色々あったんですよ。おばあさんも元気良く1日過ごしましょう!」
 あろうことか、"俺"は好青年に属する性格のようだ。当たり前か。最高の自分なのだから……。少し羨ましくなった。

 駅につき、満員電車に乗る。流石の"俺"でも普通のようだ。吊革を片手で掴み、もう片手でスマホをいじる。
視界の隅でもぞもぞと動くものがあった。チラッと横目で見ると、OLが痴漢にあっているようだ。なぶるように動くその手は男の僕が見ていても気分のよいものではなかった。可哀そうだなと僕は思った。関わらない方がいい、時間を喰うだけだ、と卑屈に考えた。
だが、"俺"はそれだけで済まさなかった。スマホを鞄へとしまい、一瞬で手を伸ばし、動く男の腕を捕まえ、高く上げる。

「この人痴漢だ!」

 車内の全目線が集まる。そんなことを異に返さずに「この男はその女性に痴漢をしていた!何も言わないことをいいことに、ずっと触っていた!許されないことだ!最低だ!」と次々と叫びだす。
 しーんと静まり返った車内。完全にやらかしている"俺"に目も当てられなかった。しかし、被害者女性が声を上げる。
「そ、そうです。私は痴漢にあっていました……だけど声を出すのが恥ずかしくて……」
 ここまでくれば日本人なら動く。正義感が強い人が「痴漢を許すな!」と便乗すれば野次馬の集団心理が働き、それは徐々に伝染していく。
痴漢をした男性は気がつけば正義感溢れる男性に囲まれ、被害者女性は同情してくれる心優しい女性に慰められている。「か弱い女の子に手を出すなんて最低!」とおばちゃんが言えば「痴漢をする男は器が小さい。痴漢は姑息で下らない、最低の犯罪だ」と説教するおじさん。加害者男性は口を開く権利すら剥奪されていた。
 次の駅で二人と共に第一発見者の"俺"も降りることになった。確実に会社に遅刻する。言わんこっちゃない……。
 少なくとも一時間は拘束されていた。あの後警察を呼び、当時の状況を詳細に聞かされていたが、"俺"はきっちりと応えていた。加害者の男性は現行犯逮捕となり、見送った後、被害者女性と話した。その時だ、彼女が僕の告白を蹴った張本人であると気付いたのは。話し掛けてきたのは彼女の方からだった。
「ひ、久しぶり……」
「ああ、久しぶり……だね、元気してた?」
「う、うん……その……今回はありがと……おかげで助かった」
「いいよいいよ。卑劣な奴は許しておけないし。それにしても酷い目に合ったね……大丈夫?」
「大丈夫……っていうと嘘になる。マジで気持ち悪かった……」
 そういい、彼女は苦虫を噛み潰したような顔をし、下に向けた。
「そりゃそうだ。ひどい災難だったね。心の傷は、そうは治らないよ」
「そうよね……でも、あの男からたくさん分捕るから、それで帳消しにしよっかな」
 そういうと、顔をあげた。その顔はキリッとした力強い顔へと変わっていた。
「……強いね。その意気だ。やべっ、会社忘れてた……完全に遅刻だ……」
「あ、そうだよね。そうそう、連絡先教えて?また改めてお礼したいからさ」
 彼女らは僕にはできなかった短い談笑を、永遠の如く長々としていた。

 痴漢騒動により電車は完全に遅延。それに駅に一時間ほど拘束され、今日は類をみないほどの大遅刻となった。しかも遅刻連絡をしたのは時間ギリギリになってからだった。きちんと説明したとはいえ、あの上司が黙ってはいないだろうと僕は予期しながら出社した。すると、予想外なことにあの上司は開口一番にこう切り出した。
「素晴らしい!パッとしない君はこんなにも正義感が溢れていたのは思わなかった!君のような良い人格を持った社員がいるというのは我が社にとって誇りだ!」
 いつものしかめっ面の嫌味な顔と似合わず褒め称えていた。後に知ったことなのだが、痴漢に遭った女性とは実はこの上司の娘らしい。道理で聞いたことある名字だと思ったと、一人合点していた。
 珍しいことに仕事にミスがなかった。今日は上司の機嫌が良いため、全員残業なしだそうだ。しかもその上司の奢りで飲みにいくことになった。
 かなり飲まされたためか、帰りの終電に乗った"俺"は流石に眠ってしまった。映像にノイズが走り、元の暗闇へと戻る。そして劇が開かれた。―――


  7,つまらない劇

 ―――劇か。
 今度は僕が劇をする番のようだ。辺りの宇宙のような空間はまるでブロックのようにドザザザッとセットが組み立てられていく。何もない空間に瞬時にしてセットがが作られていく様はまさに圧巻であった。今回の舞台は満員電車のようだ。どうやら朝の再現のようらしい。
 僕もヒーローになれるのか……そう思った瞬間、僕の右手は平常では有り得ない行動にでた。意識もせず、その手は目の前にいた女性の臀部を鷲掴みにし、揉み始めたのだ。なんだこれは……ッ!そう声に出そうとしても声にならない。人混みを分け、腕がニュッと伸びてきて、唐突に右腕が捕まえられる。その腕が伸びている先を見ると、僕がいた。否、これは"俺"だ。あの男だ。あの男は僕の右手をグイッと持ち上げると、鬼の首を取ったかのように劈く声で高らかに叫んだ。

「この人痴漢だ!」

 その叫びを浴びせられた僕の顔は、まさに鳩が豆鉄砲で撃たれたような顔だったに違いない。対してあの男は、光悦そうな笑みを湛えていた。周りが一斉に僕の方を見る。その目は余りにも無機質で冷たくて生きている感じがしなくて、まるで能面を被っているように見えた。恐怖で叫びたかった。しかし台本が許さなかった。羞恥で逃げ出したかった。
 しかし捕まえられる腕が打ち付けられた杭の如く許さなかった。こちらを見つめるひとつの双眸があった。被害者女性だった。侮蔑と嫌悪、一切の拒絶と僅かな哀れみ。それらを含んだ瞳がこちらを見据えていた。違う、違うんだ……。ガヤガヤと周りが騒がしくなる中、僕はその場にしゃがみこみ、必死に目をギュッとつむった。せめて目の前の地獄の光景を見ないために、惨めな頭をブンブンと細かく左右に振り、この悪夢の劇が終わるのをずっと待っていた。―――
 ―――辺りから気配が消えた気がする。おずおずと濡れている目を手で拭うと、ガタガタと凍えるように震える顔を上げた。劇のセットは粉々に消え去り、元の宇宙へと戻っていた。
「なあ!今のなんなんだよ!僕はあんなことしないぞ……!」
 ついつい僕は声を荒げ叫んでいた。しかし、それが引き金になったのか視界にノイズが走る。ノイズの色は見慣れた電車の光景を照らし出していた。"俺"はそんなこと聞こえていないかのように、のっそりと立ち上がると、いつもの駅で降りていた。
 ああそうか、あいつが無意識じゃないと会話できないんだったな……。今夜、夢の中で交代してもらおう。こんな生活は嫌だ。だが、あの男が元に戻してくれるだろうか……。疑問を覚えた僕だったが、あの男の『一時的』という言葉を信じて、直ぐに戻れるだろう、そんな楽観的な思考で奴が眠るのを待っていた。


  8,そして結末へ

 電灯が消され、布団へと体を入れていく。つまり僕が待ち望んでいた睡眠の時間だ。辺りは真っ暗になり、セットが構築されていく。一度目をつむり、開くとセットは完成していた。しかし、それはいつものコンクリートの部屋ではなく、ライブステージのような空間であった。周りに観客はいない。
「やあ、どうだった?」
 彼はいつもの調子で話しかけてくる。どの面下げて……ッ!
「どうだった?じゃないよ!何なんだよあれは?僕はあんなことしないぞ!」
 あの柔らかい、ゾッとする右手に残る感触と、強く握られた腕の感触は、二度と忘れられないだろう。
「まぁ夢の劇だからね。自分がしたくないことでも、台本通りに進めなくちゃいけないんだ。今回は俺がヒーローになるっていう劇だったんだから仕方ないだろ?」
 おどけた調子で彼は淡々と答えていく。
「仕方ないって……ふざけんな。早く元に戻せよ!一時的って言ってただろ?それなら今すぐだ!!」
 頭が熱くなってきた。そうだ、早く戻してくれ……こんな屈辱、耐えられない……。

「断る」

 だが、僕の期待を他所に、一声で彼は切り捨てた。
「…………は?」
 予想はしていたが、実際に言われると非常に戸惑う。
「なんで戻さなきゃならないんだ?"俺"はこの生活に満足しているぞ?」
 彼はニヤニヤとした嗤い顔をやめ、鉄面皮のように無表情となり、淡々と声を出した。
「おい待てよ……それじゃ話が違うじゃないか!」
「話?話ってなんだ?一時的とは言ったが、それがいつまでとは言っていないぜ?」
「こいつ……ッ!」
 僕の熱は天辺まで来たようで、彼に近付き、両手で彼の首を掴んだ後思いっきり締めようとした。だが、その動きは彼の片手であっさりと制されてしまった。
「そんな、顔を真っ赤にすんなよ。お前と、俺の役割は今までと、何も変わらない。変わらないんだよ。」
「なにをいって……」
 両手と共に怒りを抑えられてしまい、吐き出すところがなくなってしまった僕は、ただただ呆然とするだけだった。
「まず、お前は今のどこに不満があるんだ。電車でのヒーローになった話。これって、お前が出来ないことを俺が出来るってことだよな。今までと何が違う? 告白してフラれたお前と、無意識の中で成功させた俺。その関係が逆になっただけじゃないか。それに、自分が不本意なことをやらされる? 俺はいつもやらされてきたんだがな?」
 ………。
「何よりも、お前は認めないだろうが、周りは俺に満足していて、『俺も"俺"に満足している』ようだぜ」
 ………。
「つまり、無能なお前は世界からいらない。必要とされてるのは俺だ。わかったか?」
 そこまで話した辺りで急に周りが騒がしくなった。何もなかったはずの観客席には多様な人が集まり、歓声を上げている。仕切りに僕の名前を叫んでいるが……。
「残念ながら、お前の名前じゃない。”俺”の名前だ」
「……僕は……世界から……必要とされていない……」
 自我を否定された憤怒、そんなことがあり得るのかと困惑、自分よりも優れているくせにという嫉妬、自分ではどうしようもできない絶望と無力感……。元々、劣等感を抱いていた僕は、さらなる負の感情の坩堝と化し、もうぐちゃぐちゃで、なにを喋っていいのか、そもそもこんな僕が喋っていいのかすら、わからなかった。
「あぁ、そうだ。お前は、いらない人間なんだ」
 そんな僕に、彼の言葉が突き刺さる。観客の声が遠ざかるのを感じる。僕の視界は揺らめきながら、必死に言葉を紡いだ。
「……そ、そんな身勝手な話があるか! お前はおかしいよ! というか、これは夢なんだろ?なんという悪夢だ。早く目を覚ましたい!」
 助けを願った僕の口は、完全にキャパシティオーバーしているようで震えていた。
「無理だね」
 それすらも、彼は吐き捨てた。
「残念だが今、"僕"という存在は俺しか認知していない無意識なんだ。もし俺が"僕"を見なくなれば、お前は誰の目にも止まらないことになる。となると、『存在がなくなる』ってことじゃないか。言ってしまえば、死んでいないのに『死んだこと』になる。俺はそれが目的なんだ。死者に目覚めも何もないなよな」
「死ぬ……?お、おまえはなにをいっているんだ……?ぼくはここにいるし……ほ、ほら……手もある……だから死んでない……死にたくない……」
 凍えた腕を前へ突き出し、声は嗚咽を漏らしながら僕は言葉を吐いた。
「残念だ」
 冷酷な声の主は、鉄のごとく何の慈悲もくれず、ただ冷たい機械のような雰囲気を放っていた。その姿はまるで……。
「この……悪魔……ッ!」
 彼はようやく、といった具合で今まで無表情だった顔から"悪魔のような笑顔"になる。
「気付くのが少し、遅かったようだ」
 詰まる所、彼は"メフィスト"だったというわけだ。願いを叶える代わりに魂を奪い去る、幻想上の悪魔。僕はまんまとそいつの手の平の上で踊らされていたってことか。答えを自己完結できたのも束の間、視界が薄く暗く、霞んでいく。遠めに聞こえていた観客の声は存在すらなくなった。否、僕の存在がなくなっているのか。苦笑したいがその余裕すらなく、溢れでるのは辛さ故の涙と悲しみの嗚咽、そして……。
許さない……絶対に……。
呪ってやる……必ず……後悔させてやる……。

 負け惜しみの呪詛だった。―――

 ―――やめろ……やめてくれ……。
悪かった……許してくれ……。
頼むから、亡霊となってまで毎日、夢の中にその声を響かせないでくれ……眠らせてくれ……。
俺が……俺が悪かったから……。
だから今まで通りに暮らさせてくれ……。
無意識の……悪魔め……。

無意識の自分

 まず始めに、ここまで自分の稚拙な文を読んでくださった方へ、厚く感謝の言葉を述べさせていただきます。誠にありがとうございます。今回、こちらのサイトへ初投稿となる今作は、pixivへはまだ挙げておりません。というか、挙げる予定もございません。
 元々、小説を書こうと思い立ち、この今作を書き始めました。ですので、ある意味では初めての作品と言えます。完成は少し遅れてしまいましたが……。
 この内容を書こうと思ったきっかけは、フロイトが提唱する『夢の定義』を知ってからでした。簡潔に言いますと、エスが超自我によって抑圧されている願望を、夢に映し出すというもの。これが今作の根本です。『つまらない"僕"』から『素晴らしい"俺"』になるため、無意識が立てた策略。どうも語彙力のない自分では完璧に説明することが難しいのですが、各々ご自由に補完していただきたいです。
 一つだけ説明できますのは、半透明な虹色の水と、真っ黒い空間です。前者は明るい現実を指し、後者は宇宙のように虚大で掴み所のない無意識を指していました。光あるところから闇への転落。はてさて、"僕"は『つまらない現実』を受け入れておくべきだったのでしょうか。その答えは『"彼"のみぞ知る』のでしょう。
 なお、pixivでも同名で活動いたしておりますので、気になった方はよろしければご覧になっていただけると幸いです。稚拙な文には変わりありませんが……。
 最後となりますが、一つだけ皆様にお聞きしたいことがあります。
「生きるとは何なんだろうな?」

無意識の自分

僕はつまらない男だ。変わらない毎日を送る日々。そんな僕のストレスを発散していてくれたのは、"俺"、つまり『無意識の自分』だった。ある日、疲れに疲れた僕は、"俺"と交代することにした。そして、現実と理想のズレから生じた悲劇が起こる。この作品を読んだ後、一度自分に問いかけてみてください。 「生きるとは何だろうな?」

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-06-26

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted