戦火のゆうべ
近ごろの私は、夢遊病に罹っているらしかった。
医者には「ちゃんと薬をのみなさいね」と言われているが、のんだことはない。だって、この色見てよ。あまりにも毒々しいじゃないか。
白いちいさな紙袋のなかでかさりと揺れる薬の色は、いつだってあやしいショッキングピンクだ。
私は深呼吸して、医者のことばを反芻する。
--朝昼晩きちんとひと粒ずつのめば、すぐによくなるはずなんですけどねえ。まあ、経過を見ましょうかね。お大事に。
私が容量をまもらずに、いちどに多量の薬を服用しているとでも思っているのだろうか。甚だ心外だ。
私は憤然として駄菓子屋に寄った。ここでラムネを買うのが、もうすっかり病院帰りのルーティンとなっている。ゆっくりとひと壜を空けながら、見慣れた真昼の帰り道を歩く。
夜の零時をとうにまわったというのに、窓の外は予想以上にあかるい。外灯が多いこの街は、私の住んでいた人口百人程度の島とはなにもかもがちがう。騒々しくて、そこらじゅう人の気配であふれている。越してきたころは少々の人混みにも吐き気がしたものだったが、五年経ったいまではずいぶん慣れた。
レストランの店内は涼しく、自分と彼女のあいだに置かれた山盛りのポテトが順調に冷めていくのがわかった。私は彼女を窺いつつ、温かいコーヒーをすする。なにか話さねばという思いにかられ、ふっと前を向いた刹那、息を呑んだ。
眼前にいる彼女の手が、燃えていたのだ。
ちかちかと、瞬くように燃えている。
なんで、と思うよりも早く、私は見惚れてしまっていた。きっとこの現象に理由はないと確信した。
「ねえ、サハラさん。ひとが燃えるところを見るのは、初めてでしょうか」
彼女の声は凜としていた。肩の上で切りそろえられた黒髪をしずかに揺らして、私に問うている。私はテーブルのしたで、こっそりと赤いハイヒールを脱いだ。あつい。シャワーを浴びたい。
彼女から発せられる熱気が移ったのだろうか。
「……そうですね。初めて見ました。こんなふうに、ひとは燃えるのですね。こんなに美しい世界があることを、私はいままで二十余年生きていて、ひとつも知りませんでした」
頭はくらくらして、私は意識を手放しそうになりながらも、しっかりと話せていた。不思議だ。彼女に生かされている、と思った。
「まったくもって同意です。激しく燃えて、静かに淡々と、消えてゆくのです。棗はそれを誇りたいのに、自身の現象を愛したいのに、だれひとり認めてはくれません。だれにも愛されなければ、どうにか生きながらえることさえできないのです。もう、疲れてしまった」
棗さんの、未だ口をつけていないメロンソーダのグラスから、水滴がひとつふたつしたたり落ちた。彼女は手提げからハンカチを取り出すと、なんのためらいもなく濡れたテーブルを拭いた。
「ーー痛くは、ないのですか」
彼女の顔は涼しげで、とても苦しんでいるふうには見えなかった。棗さんは、そうですねと呟いた。
「すこしだけ、つらいかもしれません。でもちょっとくらい痛みが伴わないと、生きていると感じられないでしょう。だから、ちょうどよいのです」
理にかなっているような、まったくそうでないような、よくわからない返答だった。まあ、本人がいいと言っているのだからそれで正解なのだろう。他人が口を挟むことでもないかと、なんとなく納得する。
消えたり戻ったりしながら燃えている手を、彼女は慈しむようにもう片方の手で包むようにしている。
「そういうものなのですね」
「サハラさんは、人間、ですよね」
「そうです」
「ひとというのは、いいものですよ。教訓とか説教とかではなく、ほんとうに、心から」
だからあなたはどうか、そこにいてください。
いつのまにか彼女は消えていた。私は、私の手はふるえていて、頼りなかった。彼女がそこにいたということが、白昼夢の副作用のように、ただただ私を支えていた。
戦火のゆうべ