吾唯足知 ~ われ ただ たるを しる ~

【 第一章 未来を変える 】

幼少期の私の記憶はハッキリしておらず、写真のような場面の映像があるだけです。
他界する前の祖母から聞いた、私の幼少期の話です。
私が幼少期に育った場所は、京都府の最北端にある小さな町で京都というと都会をイメージしがちですが大変田舎でのどかな場所でした。
田んぼと畑ばかりの静かな町で、住んでいた家の前には用水路があり、雨が降ると増水して蛙がそこら中に広がり、雨がやむと広がった蛙が干からびているようなのどかな風景です。
春になると家の裏の竹林で筍を掘り、梅雨の季節になると紫陽花が咲いて蛍が飛び交い、夏になると蝉がうるさくて、秋になるとトンボとイナゴが大量にやってきて、冬になると雪がしんしんと降るような自然豊かな場所でした。
幼少の私は、竹を切ってもらった竿で魚を釣ったり、蟹や貝を獲って観察したりしていた田舎の子供でした。

「前田家」は丹後ちりめんの着物の生地を織っている仕事をしていました。
用水路が道沿いに合って、小さな橋が架かっており、渡ると駐車場、正面に母屋、左側に丹後ちりめんの工場があり、母屋の右に離れがありました。
私と祖母は離れで寝起きをしていて、母屋には親戚のおじさん、おばさん、5歳上と6歳上の従姉妹が2人寝起きしていて、6人家族でした。

当時、コンビニエンスストアも無ければその町にはスーパーもありませんでしたので、おやつは畑になっているトマトや胡瓜を捥いで食べていました。
犬が数頭、ネコも数頭、鶏が駐車場に放し飼いになっていて、朝、鶏の卵を集めるのが幼少期の私の仕事でした。

歩いて三十分くらいの場所に漁港がありました。
漁港に鰯を買いにバケツを持って行く事も私の仕事でした。
バケツ1杯の鰯が30円で買えました。
祖母はその鰯を、生姜醤油で煮て私の食事に出してくれました。
畑の野菜のお漬物も好きでした。
とりわけ、瓜の皮の糠漬けがご馳走でした。
絵に描いたような「おばあちゃんっこ」でした。

小学生になりました。この頃私の名字は祖母と同じ「前田」でした。
家の向かいにある小学校に入学します。
同級生は4人で、全校生徒全員で38人だったのを記憶しています。
相変わらず自然を遊ぶ田舎の子供でした。
その当時は両親がいないことに何も疑問を持たず、受け入れていた様に思います。

小学3年生の秋、母親が沢山のお土産を持って会いに来ました、普段食べないお菓子を貰って嬉しかったのを覚えています。
その頃の母親はとても優しかった印象があります。
学校の事、祖母と筍を掘った話、夏にキャンプファイヤーをした事、はじめてキャンプでカレーを作った事などを話ししました。
母親は笑顔で聞いてくれていたように記憶しています。
母親が帰る時、楽しかったお返しにトンボを捕まえてナイロン袋にいれて渡しました。
夕暮れの秋の空が赤く染まっていて綺麗でした。

小学4年生になる春に、母親に連れられ田舎町から京都市内の都会に来ました。
引っ越すことの意味を良く分っていなかったので、旅行や遠足に行く時の気持ちだったような気がします。
この時私の名字は「高木」に変わりました。
入院していて家には居ない父親は「田島」と違う名字でした。
また、姉が2人もいて突然姉妹ができました。
1番上の姉は高校生でしたが、髪を金髪にしていてアフロヘアーでした。
そんな人を見たことが無かった私はとても驚き、突然姉妹ができたことも合わせて、どう接していいか分らない状態で混乱していました。
名字が自分だけ違う事に違和感を覚えていましたが、混乱していたので母親には何も聞きませんでした。

京都市の小学校に転校となりました。
1学年で4クラスあって、同じクラスの同級生が40人くらい居て、全校生徒が何人いるかも分らないくらい沢山居て大変驚きましたが、こんなに大勢の小学生を見たことが無かったので嬉しい気持ちがあったのを覚えています。

程なくして、クラスの皆から私の話し方やイントネーションが変だとからかわれ始めます。
私が育った田舎町は同じ京都府でも東海地方寄りの方言で、京都市内とはまったく異なったイントネーションであったのと、言葉そのものが方言で通じない言葉もありました。

引っ越してきて1番の変化が生活水準でした。
父親が入院していて働いておらず、子供が3人居るのですから、とても貧しい生活となりました。
住んでいる家は6畳の部屋と、4畳半の部屋が2つの平屋の長屋で、お風呂は無く、1週間に1度、銭湯に行かせて貰いましたが、銭湯に行けない日は、タライにガス給湯器でお湯を入れて行水をしていました。
6畳の部屋で私と姉妹の3人が布団を敷いて寝起きしていました。
部屋の中から軒先の隙間を見ると、夜空の星が見えるあばら屋でした。
台風の季節になると、屋根の大部分から雨漏りがして、外と変わらぬ豪雨のようでした。
冬になるととても寒く、家の中でも冬物のジャンパーを着て過ごしていました。

母親は貧しくとも精一杯、働いていました。
和装着物の工場で糸をつむぐ仕事を朝から夕方まで働いて、その後、家にも帰らず着物の帯の仕立ての仕事をしていました。
いつ食事していたのか、今でもわかりません。
母親が帰宅するのは夜の11時を過ぎた時間でした。
この頃の母親の記憶は、疲れていた印象しかありませんでした。

2番目の姉が中学3年生で、私のご飯や身の回りの準備等をしてくれていました。
食事はもやしを炒めた物や、近所の生肉店から鶏の皮を貰って来て、香ばしく焼いたもの、いわしの生姜煮を大量に作って、何日も無くなるまで同じものを食べていました。
2人の姉と歳が離れていたので、活動する時間も違ったようで、テレビは好きな番組を見ることが出来ました。
中でも、漫才やお笑いが好きでよく見ていました。
2番目の姉には色々と優しく接してくれていたと思います。
母親は、忙しい生活の中でイライラして、何かにつけて私は叱られていた様に思います。

そんな母親は土曜日のお昼は必ず家に居て、学校から帰ると具の入っていない「焼き飯の素」でよく焼き飯を作ってくれました。
私はその焼き飯がとても好きでした。
でも、学校に忘れ物などがあると怒涛のように叱られ、叩かれたり、蹴られたりもしました。
直ぐに学校に取りに行け、と家を追い出されたこともしばしばありました。
そんな情緒不安定な母親でしたが、初めて一緒に暮らす母親でしたので、「自分が悪い」
「叱られないようにしよう」と反省をしていました。
その反面、どんな事で叱られるか分からない状態だったので、いつもビクビクして母親や姉の顔色を伺うようになっていきました。

1番上の姉はその頃、とても荒れていました。
土曜日の夕方になると、何台ものバイクや派手な車が家の近くに来て、1番上の姉を迎えに来ていました。
一般的に言う暴走族でした。
家を出た姉は二、三日帰ってきませんでした。
家で見る一番上の姉は眠っている姿が大半でしたが、眠っている1番上の姉は怖くありませんでした。

姉のお下がりの衣類は女性物で着る事が出来ないので、同じ服を何日も着まわす事が普通でした。
方言をネタにからかっていた同級生が、同じ服をいつも着ていることに気づきます。
そして、バイキン扱いされ始め、からかわれる、からイジメと発展していきました。
はじめは「その半ズボン、何日目?」などと言われるだけだったのが、どんどんエスカレーションしていきます。
机にチョークで「汚い」と書かれたり、登校してくると机と椅子を廊下に出してあったり、下校時によく集団で蹴られたり、教科書を鞄ごと川に投げられたりしました。
泣きながら家に帰ると一番上の姉に「やられたらやり返せ」と何度も言われ、イジメをしている同級生よりも姉のほうが怖かったので、ある日、イジメの中心人物に仕返しするために待ち伏せしようと夕方に家を出ました。
手には軟式野球用の金属バットを持って、イジメ中心人物が住んでいるマンションの部屋の横にある避難階段で待ちました。
結局その日は出会えず朝が来て、学校へ行こうと出てきた同級生をバットで3回、頭を殴り逃げました。
大変な事をしたと震えながら、神社の境内に隠れました。
お腹も空きましたが、それよりも同級生の仕返しを想像すると怖くて、また、人を殴った事なんてありませんでしたので、自分のしたことがこれからどうなっていくのか、予想出来ない事に絶望していました。
境内には手洗いの水があったので、空腹をおさえる為に水をお腹一杯に飲んで過ごしました。
丸一日たって、次の朝、学校の先生が私を見つけました。
そして、大騒ぎになっている事を知りました。
その後、警察に連れて行かれ、事情調書を取られました。
夕方に母親が警察に迎えに来ました。
母親は警察官に向かって頭を下げて言いました。
「大変ご迷惑をお掛けいたしました。」
私も同じように頭を下げました。
それから家に着くまで、母親は一度も言葉を発しませんでした。
家に着くと、母親は私を怒涛のように罵り、そして殴られ蹴られ、私は立てない状態になりました。
その日から6年生の夏ごろまで母親にしばしば乱暴されるようになりました。
眠る時に、神様に祈るようになりました。
「必要がない人間なら殺してください、朝に目が覚めなくても、もういいです。」
それでも、いつも私には朝がやってきました。
神も仏もこの世には居ないと思いました。

家庭裁判所に母親と一緒に行きました。
母親は「私がこの子をきちんと面倒見ます、更生させます。」と児童保護観察官にお願いしました。
施設に入れることなど、児童保護観察官は提案しましたが、母親は同じように更生させます、の一点張りでした。
そして、児童保護観察官が半年観察する事で施設には行かなくてもよいということになりました。

何日かたって学校へ行くことを許されました。
同級生に仕返しされるとビクビクしながら登校すると、誰も何もしてきませんでした。
そして誰も私と話してくれなくなりました。
唯一、友達だった人も私を避けるようになりました。
私は孤独になりました。
家に居ても、学校に居ても、居場所は無い様に思えたのです。
私は自分の環境を否定し始めました。
「両親が悪い、貧乏が悪い」と自分の気持ちのはけ口を家のせいにしたのです。
私が起こした事件を聞きつけた他校の不良が近寄るようになりました。
私は不良と友達になって、ゲームセンターに入り浸ったり、自分よりも弱そうな人を見つけては恐喝したり、どんどんひねくれていきました。
周りの人、全てが幸せそうに思えて「何で自分だけ」と何度も思うようになりました。
不良の友達ですら幸せそうに見えていたからです。
6年生にもなると、家にも帰らなくなり不良の友達の家を転々とし、事実上家出の状態になりました。
やる事もエスカレートして、万引きもするようになり、タバコも吸い始めて、バイクも盗めるようになりました。
誰が見ても私は不良でした。

その頃、入院していた父親の田島が退院し家に帰ってきました。
その父親の田島はアルコール中毒でした。
酒を買う為に、金を出せと父親はいつも暴れていました。
酒を買って飲んで寝てしまうと、聞こえるのは父親の田島のいびきだけで静けさは戻りましたが酒が切れて目が覚めると、昼夜問わず金を出せと暴れる始末でした。
騒ぎが続いていくうちに近所の人から110番通報も入り、警察官が駆けつけてくれたりもしはじめて、そのうちパトロールに来てくれるようになりましたが、父親の田島は相変わらず暴れて、何度も警察に連れて行かれました。

母親は殴られて、いつも顔を腫らして、台所で泣いていました。
高校生になった2番目の姉も殴られて顔にアザが出来て、こんな顔で学校に行けないと泣いていました。
それを見た私は、果敢に講義し対抗するも、殴られ怪我を何度もしました。
父親の田島と一緒に救急車に乗って病院へ行き、治療された事もしばしばありました。
時には柳刃包丁を持った父親に「殺す」と追いかけられた事もありました。
家の家財は父親が暴れることが原因でボロボロでした。
窓という窓が割れていて、玄関の扉も穴が開いた状態で、扉とはいえない状態でした。
テレビも壊れてしまい何も映らなくなりました。
そこにいる、全員が病んでいきました。
2番目の姉と母親も言い争うようになって行きました。
その生活は本当に地獄でした。

そんな生活の中で、ある日、母親に呼ばれて会った事の無い40歳台くらいのおじさんとおばさんに喫茶店で会いました。
スーツ姿のおじさんと、美人で綺麗な洋服を着たおばさんは、私の本当の父親である「高木」の息子夫婦でした。
母親は私の居ないところで話したいと言っていたようでしたが、おじさんが私に言いました。
「君にも聞いて欲しい、いいね。」
念を押されて一緒に話しを聞きました。
話しというのが、私の本当の父親である高木が他界したので、高木を名乗らないで欲しい、戸籍も抜いて欲しい、という話しでした。
そもそも私は知らない事情ですので、大変驚きました。
母親と息子夫婦の会話で、知らなかった私の出生に関わる話が耳に入ります。
母親が、なぜ高木の子供の私を生んだのか。

母親は京都で一番歴史が古いお茶屋町で芸者をしていたようです。
高木は良いお客だったそうで、内縁となり子供を身ごもり、父親の高木が生んで欲しいと言ったので私が生まれた、という話しでした。
高木は当時、宝石商で成功していた人だったと知りました。
息子夫婦は私のことを聞いてきました。
学校での活動や友達とはどんな事をして遊んでいるのか、また、好きな食べ物は何、などと聞かれましたが、私は戸惑い、そして何も満足に答える事が出来ませんでした。
胸を張って言える事など、何一つしていないし、無かったからです。
代わりに、母親が私の事を話しました。
田島の父親と乱闘して怪我をして救急で運ばれた事や、同級生に仕返しして事件になった事、タバコを吸っている事、ほとんど家に帰らず家出状態だという事、など、言ってほしくないことばかりでした。
母親の話を聞いた息子夫婦は「残念です。」と母親に言いました。
そして、こう続けました。
「父親はこの子をこんな風になる事を望んでいないし、普通以上に生活できるよう養育費も十分な金額を送っていたはずです。」
金額は具体的には話されませんでしたが、私の養育費を貰っていた事をこの時知りました。
その後、息子夫婦と母親は話していましたが、私は事実を知ってとても驚いていて動揺していたので、その後の話の内容はまったく耳に入ってきませんでした。
私が事件を起こした時に家庭裁判所で、施設に入れることを拒んだのは養育費がもらえなくなるからかな、と何故か思ったりもしました。
暫く話し合いをしていましたが、話は終わりました。
そして息子夫婦は私にフルーツパフェを食べさせてくれました。

息子夫婦は別れ際に、私にこう言いました。
「一緒に暮らせるといいのだけれど、ごめんね、お元気で。」
私は「そりゃそうだろう」と思いました。
その後、今まで一度も会うことはありませんでした。
今もお元気にされているのかさえも知り得ません。
私は「田島」という名字になり、本当の父親の高木の顔さえ知らず生きていく事になりました。
この出来事で私は記憶をたどり、今まで生きてきた事を一生懸命に思い返しました。
京都市に母親に連れられて来るまでは、普通に暮らしていた記憶しかありません。
幼少期の頃の祖母や親戚家族の事。
祖母に叩かれたり、蹴られたり、家財が壊れていたりしていませんでした。
祖母に言われて、漁港まで片道30分歩いて、鰯や鰺、時にはハマチを買いに行って、親戚家族と祖母と私、六人で笑いながら晩ご飯を食べていた事も普通にありました。
夜眠る時に「殺してください。」と祈る事もありませんでした。
初夏の夜には用水路の脇に生えている草に蛍が飛んでいて、従姉妹と一緒に見たりしていました。
「綺麗だね。」と、お尻が光る昆虫を見て不思議に思い、こんな昆虫がいるのかとワクワクしていたのを覚えています。
その記憶には、大切に育ててくれた祖母、分け隔てなく接してくれた親戚家族が居ました。

私は生まれた時から不幸だったのではないと言う事を知りました。
私はすでに全てを持っていました。
普通の暮らしと健康な身体を持っていました。
では、何が今と違うのか、と考えました。
そこで気がつきました。
大人の都合で環境が激変し、貧困でまだ子供の私はお金を稼ぐ事ができないから今の家族に頼るしかない立場で、その家族にお金が無くて私は貧乏なのだという事を。
高木の息子夫婦は、私の兄弟で、お兄さんにあたる人です。
身なりも話し方も上品で、私の兄とはとても思えませんでした。
私も高木の子供として一緒に暮らしていれば、こんな環境じゃないのだということを高木の息子夫婦を見て、高木の息子夫婦が言った言葉で思ったのです。
「このまま何かのせいにして、不貞腐れていても何も変わらない。」と気づいたのです。
この貧困の連鎖から抜け出さなければいけないと考えたのです。
今考えると発展途上国の子供たちも同じような境遇なのだろうと思います。
勉強や仕事をしたくとも色々な大人の事情や国の事情で出来ない環境の中で、貧困の連鎖になっているのだろうと思います、何年も何十年も。

「今、自分が出来る事を考えて、精一杯出来る事をやろう。」
私の中で前向きな自我が目覚めた瞬間でした。
今、母親や父親の田島に頼っても何も変化しない、自分の力で生きるんだ、と決心するきっかけとなりました。

その後、家の近くの新聞屋さんに行って、「社会勉強のために働かせて欲しい」と頼みに行きました。
当然ですが、小学生を雇う事なんて出来ない、と断られました。
その日から、毎日夕方に働かせてもらえるようお願いする為、新聞屋さんへ通います。
何度も何度も断られました。
通い始めて1ヶ月ほど経ち、いつものようにお願いしに行くと急に新聞屋さんは私に「働かせてあげるよ。」と言ってくれました。
「でも勝手に休むとか周りの人に迷惑をかけたら直ぐに辞めてもらうよ。」
続けて働く条件を強い口調で言いました。
私はとても嬉しくて何度もお礼を言いました。
新聞屋さんも私が悪童になっていることは知っていたのですが、社会勉強したいという事にびっくりしたのと同時に、まっすぐになってくれれば、という思いから了解してくれたと後に聞きました。

朝刊の広告準備から朝刊の配達、夕刊も配達しました。
不良たちの友達とは会わない日が増えてきて、どんどん疎遠になりました。
1ヶ月の給料は7万円と少しでした。
自分の力で生きてゆかなければと決心していた私には少なく感じていましたが、それでも貯金をして将来のために蓄えようとやる気が出ました。
そして学校はとても眠い場所になりました。

中学生に上がる時、制服などの購入が必要で、母親から「金が無いのにお前にかかる金なんか無い」と罵られ揉めました。
私はお金を蓄えていたので、当然自分で用意することは問題なく出来たのですが、その頃、私が不良になったので高校を中退した1番上の姉と仲良くなっていました。
そして相談をしました。
すると1番上の姉が制服など必要なものを揃えると言ってくれたのでお願いをしました。

入学式の日になり中学入学式に登校するため制服を着ました。
1番上の姉が用意してくれた制服は、一目で分かる不良のものでした。
後輩から貰ってきてくれたとの事でしたが、上着は膝まで長さがあって裏には刺繍が施されており、スラックスは足が2本入るくらいの太さでした。
靴も紳士用の白いエナメルの靴でした。
それしかないので、その不良制服を着て家を出ました。
中学校の門の手前に砂利を敷いたガレージがあり、そこに見て分かる不良の先輩たちがたむろしていました。
私は不良制服を着ているので、当然、呼び止められました。
出身の小学校とか名前とか制服がどうだとかを色々聞かれましたが、1番上の姉に迷惑がかかってはいけないと何も話さないようにしていると、突然、羽交い絞めにされて、殴られ、蹴られ、乱暴されました。
気がつくと、砂利の駐車場に横たわっていて、体中、頭や顔が痛いことに気づきました。
制服を見ると、上着は片腕をちぎられていて、鞄はありませんでした。
またか、と自分の環境が嫌になりました。
1番上の姉になんて言おうかを悩みました。
家に帰る途中にある散髪屋さんの看板の時計は夕方の4時過ぎを指していました。

帰宅すると2番目の高校生の姉が家に居たので事情を説明すると、制服を縫って直してくれました。

その日以来、登校時に先輩たちから乱暴される日が続きました。

ある日、いつものように朝、乱暴されているところに、知っている顔の人が居ました。
同じ町内の先輩でした。
その先輩も私の事に気づいて、攻撃が止まりました。
その先輩が私のことを説明してくれました。
1番上の姉は不良たちにも有名らしく怖いようで、全員が謝ってくれました。
その日から先輩たちに不良グループの一員のような扱いをされるようになりました。

ある先輩が、私が新聞配達でアルバイトをしている事を知ると、「もっと稼げる仕事がある」と言い、連れられてある事務所に行きました。
お祭りなどにお店を出店する団体の事務所でした。
話の流れから、新聞配達をやめてテキヤをやる事になりました。
色々な店を出店、運営し売上も順調でした。
中学2年になった頃、いつの間にか私が仕入れて店の手配をし、後輩が店で売るというような運営になっていました。
私は長時間働かずして利益を稼げるようになったのです。
後輩たちは自分が楽をする為に後輩に店をやらせるようになっていったので、どんどん所帯が大きくなっていきました。
仕入れと出店だけで利益を稼げるようになった為、私は高校受験のために勉強を独学でやるようになりました。
なぜなら公立高校以外は私の選択肢は無かったからです。
小学校のドリルから始めて問題集が解けるようになって、参考書で応用問題をいくつもこなして、中学の勉強へ進みました。
時間との戦いでした、私はもう中学2年だったからです。
覚えなければならない事が多すぎて大変でしたが、自分の人生を塗り替える為に本当に必死でした。
そして公立高校へ入学する事ができました。
高校生になってもテキヤ組織運営は続いていました。
高校の授業料も支払わなければならなかったからです。
でも、私はすでに不良ではなく、身なりもすることも普通の高校生でした。

高校2年に進級したタイミングでいろいろな事が起こりました。

女性と初めてお付き合いをすることになりました。
友人を通じて知り合った、2歳年上の専門学校に通う女性で付き合って下さいと告白されました。
この時から20年後、妻の真理子に出会うまで結婚願望はまったくありませんでした。

次にお祭りなどにお店を出店する団体の偉い人から呼び出され事務所に行きました。
高校卒業後の進路の事を聞かれました。
当然、大学受験する事を伝えると、すぐにでもテキヤを本業にしろと言われました。
この手の団体の人はしつこくて後が大変だと思い、後輩の中から2人選んで商売ごと引き継ぐ事にしました。
私はその時すでに大学を卒業できるまでの蓄えはすでに出来ていたからです。
後輩は大変喜んで引き継いでくれました。

とても暑かった7月のある日に父親の田島が2日間、大きないびきをかいて眠り続けていました。
母親は、また酒を飲んで眠り続けていると決めつけていましたが、私は酒の匂いがしない事に気づいて、酒を飲んで眠っているのではないみたいだよ、と母親に言いましたが聞き入れてもらえませんでした。
3日目の朝、父親の田島の様子を見に行くと相変わらず眠っているようでしたが、呼吸がとても速く、また浅い呼吸でした。
これはおかしいと思い、着ている服のポケットの中を確認すると、大量の薬の包装材が出てきました。
多分1か月分くらいの量にあたるほどで何の薬か直ぐにわかりました、睡眠薬です。
父親の田島は体内にアルコールが入らないと眠れなくなってしまっていて、病院から睡眠薬を処方してもらっていたのです。
状況を母親に伝えると、急にわなわなと泣き出してしまい、父親の田島に声をかけていました。
私は救急車を手配し、母親と共に救急車に同乗して病院に行きました。
胃を洗浄した上に透析で血液をろ過しましたが、すでに脳死状態でした。
心臓も動いているのがやっとの状態で、いつ止まってもおかしくないと告知されました。
脳死状態なので喉にタンがたまって窒息しないように、切開して呼吸チューブを入れますか、と医師に確認されて、母親は呼吸チューブを入れてくださいと答えました。

そして10日ほど延命の後、田島の父親の心臓は止まりました、52歳でした。

号泣する母親を横に、私は医師に死亡診断書の死因はどのように記載されるのか確認すると、心肺停止ですと答えてくれました。
私は保険金が支払われるだろうと思い、ほっとしました。

喪主を高校生で務めました、母親は泣いていましたが私は涙も出ませんでした。
母親はあれほど殴られていたのに、なぜ泣いているのだろうと思いました。

霊柩車が発進する時、クラクションが鳴りました。
すると沢山の近所の方が数珠を持って、家から通りに出てきました。
そして手を合わせてくれました。
通りを抜けてまがったところにも、まだ手を合わせる人が居ました。
父親の田島との良い思い出がある人がこんなに居て、手を合わせてもらって幸せな人だと思いました。
昔は良い人だったのかも知れないとも思いました。
今考えると母親は父親の田島と結婚したのに高木と内縁になって私を出産したのですから、父親の田島も家庭も姉も母親も、そりゃおかしくもなるだろう、と思います。
その頃でも今の時代でも、関わった人の人生はおかしくなると思います。

一生懸命に勉強に取り組んで大学に合格し、そして団体の人とは縁を切りました。
高校を卒業する時は学校へ黒塗りの車が数台来て団体の人が何人も迎えに来られて問題となり、校長先生に「前代未聞だ。」と叱られましたが縁が切れてよかったと思います。
大学合格した私は、一人で生きていく為に家を出て一人暮らしをしようと決めました。

結果的にですが家を出たその日から私は田島の家族と一緒に暮らすことはなく、母親と姉二人と一緒に暮らしたのは10歳から18歳の8年間だけでした。
その頃「私は家族と縁が薄い人生なんだ。」と自分で言い聞かせて割り切ろうとしていました。

【 第二章 支えられている 】

母親に一人暮らしをする事を伝えると、何故か反対されました。
反対する理由は言ってくれませんでした。
でも私の意志は固く、半ば強引に決めて家を出る事となりました。
2番目の姉に「住むところが決まったらちゃんと連絡しなさい。」と念を押されました。私は「姉ちゃんにだけには教えるね。」と約束をしました。

さて、自分の住む場所を探す事になりました。
生まれて初めての経験です。
自分で生きていく、と決めた事が実現したことが嬉しくて何の悩みもありませんでした。
あるのは未来への希望だけでした。
でも贅沢するとまたお金に困ってしまうと思ったので、出来るだけ家賃の安いトイレとお風呂とキッチンのついた物件を探しました。
いくつか不動産屋さんをまわって、学生専門の不動産屋さんの物件を見てまわる事にしました。
何軒か物件を現地で内覧させてもらった後、閑静な住宅街にあるコーポ円山という物件に決めました。
京都市の中心街を北へ2キロほど行ったところの小川近くの路地のつきあたりにある物件でした。
住んだ後でわかりましたが、小川は湖の疎水の支流で梅雨前になると蛍が飛び交う綺麗で自然豊かな小川で、私が育った場所のようでとても気に入りました。
2階建ての四部屋しかない小さなアパートで隣の話し声が聞こえるほど壁が薄いようでしたが、四畳半の部屋にトイレも小さなお風呂も一口ガスコンロも付いている希望を満たす物件でした。
敷金礼金は無く、なにより家賃が1万2千円と安かったので決めました。
家賃が安いので色々と難はあるかもしれない、とは思いましたが私には生きる為にお金を出来るだけ減らないように工夫しなければなりませんのでそれはそれ、家賃が安いのは良い事だと割り切りました。
不動産屋さんとの契約する際に身元保証人に署名、捺印をしなければなりませんでした。
それも2人必要でした。

母親は私が一人暮らしをすることを反対していた為、2番目の姉に相談しようと思いました。
住むところが決まったら連絡すると約束もしていたので、アパートが決まった事を伝えに行きました
そして身元保証人になってほしいとお願いしました。
2番目の姉は「あんたに何かあれば私に連絡が来るのね、わかったよ。」と快諾してくれて署名、捺印してくれました。
「困った事があったらいつでも言いなさいよ。」と2番目の姉は言ってくれました。

次に、一番上の姉に相談する為、1番上の姉の家に行きました。
1番上の姉は私が高校1年生の時に暴走族で出会った左官職人と結婚していて、娘が1人いて家を新築で立てて暮らしていました。
子供も授かり家も建てて暮らしている1番上の姉は子供思いの良い母親で、普通の主婦になっていました。
もちろん金髪アフロではありません。
自分の事も含めて「人って変わるものだなぁ」と改めて思いました。
1番上の姉とそのご主人にも一人暮らしをして自分の力で生きていく事を説明しました。
今まで1番上の姉のご主人に私が何をやってきたかを言った事が無かったので、新聞配達からテキヤまでの話しをして、これだけお金も蓄えたとも伝えました。
すると1番上の姉のご主人がとても否定的な言葉で「お前一人で生きていける訳が無い。」と言いました。
色々と言われて、私は協力を得られないと思い帰る事にしました。
家を出ると、1番上の姉が見送りに来てくれました。
「悪気があって言っているのではないのよ、あんたの事を心配して言っているの、あれでも。」と言いました。
「喫茶店で私がもう少し話し聞くよ。」
1番上の姉からそう言われて近くの喫茶店に入りました。
飲み物を頼んですぐに1番上の姉はバックから印鑑とボールペンを出して「身元保証人くらいお姉ちゃんがなってあげるから、あの人にはナイショね。」と言ってくれました。
1番上の姉は結婚してから家を出ていて疎遠になっていたので、久しぶりに話をしました。
色々と昔話をしました。
その中でも小学校4年生の頃の「仕返しバット殴打事件」の話しで盛り上がったのを覚えています。
今思うと、そんな話しで盛り上がる姉と弟は常識的にはどうかと思いますが、1番上の姉が署名、捺印してくれたおかげでコーポ円山に入居することが出来ました。

この時、貧困の連鎖から脱出できた瞬間だと感じました。
こうして私はやっと自分の人生をスタートさせる事が出来ました。

大学入学してすぐ、一人で生きていこうと蓄えたお金も学費や家賃、生活費によって当然ですが減っていきます。
私はこの蓄えたお金を減らさずに増やそうと思いました。
その方法をバイト無料情報誌の募集を見たり、大学で知り合った人たちに良い話しは無いかと聞いたりして情報収集をしていました。
大学の友人の一人が、映画撮影所で時給1200円のアルバイトをしている事を話してくれて、一度話しを聞きに行きたいとお願いして連れて行ってもらう事になりました。
当時の時給は550円程度で倍以上だったので話しを聞きに行くほか無いと思いました。
後日、高額時給のアルバイトの話しを聞く為に映画撮影所へ大学の友人と一緒に行きました。
映画撮影所を入ってすぐ左手奥に自動車部と書かれた看板があり、その平屋の建物に入りました。
すると私の名前を呼ぶ人がいました、見たことのある顔です。
すぐに気が付きました、テキヤの団体の人でした。
その人は映画の撮影のために使う劇用車(映画の中で出てくる自動車の事)を用意する仕事をしているとの事でした。
大学の友人は自動車部で映画撮影のロケに使う照明道具や大道具、小道具等を用意して設営したりするアルバイトをしているとの事でした
テキヤの団体の方に話しを聞きたいとお願いすると、撮影所を出たところにある喫茶店で話しをすることになりました。
時給が高い事を聞いたとテキヤの団体の方に話しをすると、アルバイトよりも自分でやったほうが儲かると私に話しました。
意味が良くわからなかったので聞き直すと、有限会社を作って自動車部から請負で仕事をするほうがはるかに儲かる、と話しをしてくれました。
その人は過去、私がテキヤの運営をうまくこなしていた事を良く知っていたのです。
その人は名刺を私に差し出してきて、見ると有限会社の名刺でした。
俳優や女優を送迎する仕事があるとの事で、有限会社は30万円くらいで設立できるとその人から教えてもらいました。
送迎するといくら貰えるのかを尋ねると、拘束時間に関係なく1回あたり燃料費用込みで3万円支払われるとの事でした。
しかも食事の弁当まで付いているとの事でした。
月に10回送迎しただけで30万円稼げると思い飛びつきそうになったのですが、送迎するには自動車が必要で設立資金と合わせて大金が必要となります。
少し考えさせて欲しいとその人に言うと、早く決めないと仕事なくなるよと言われたので、自動車購入費用も含めて資金がいくらかわかってから返事すると私は言いました。
俳優や女優を送迎するのですから、ポンコツではいけません、新車までとは言わないまでも新しいものでなければなりません。
高校の時に知り合った1つ年上の友人が車を所持していたので、中古車を探しに一緒に何軒か中古車屋を回りました。
何軒目かで大体の値段がわかってきました。
新車で350万円程度のトヨタハイエースバンが良さそうだったので車種はそれに決めました。
走行三万キロ以内のハイエースバンで白色を探しました。
何軒か周って、2年落ちで走行2万キロの白色が160万円と1番安かったので中古車屋さんに買うと総額いくらか聞くと、170万円との事でした。
有限会社設立に30万円ですから、総額200万円の投資になります。
送迎の売上は1回当たり3万円ですから67回送迎すると元が取れて、後は利益となる計算です。
中古車屋さんにその車を商談中にしてもらって、テキヤの団体の人に送迎の仕事をやらせて欲しいことを伝えに行きました。
テキヤの団体の人は承知してくれて会社設立の手続きと会計をやってくれる司法書士事務所を紹介してくれました。
こうして18歳の5月に映画撮影所自動車部の仕事を請け負う会社を設立する事となりました。

自動車部の送迎の仕事は順調でした。
俳優を駅やホテルまで迎えに行ってロケ現場や撮影所まで行って、俳優の仕事が終わるまで待機すると言う仕事ですから体力的には楽ですし、拘束時間が長い時もありましたが1日に2回、3回と複数回送迎する事もありましたので、3ヶ月くらいで投資金額は回収できました。
テレビの大河ドラマや映画の極道の女たち、時代劇などのロケ現場に送迎することが多く、送迎中には俳優が話しかけてきたりして会話をする事もありました。
「世の中には楽で稼げる仕事があるんだなぁ」と思っていました。
ある日、自動車部の偉い人が小道具や照明を運ぶ仕事もやって欲しいと私に依頼してきました。
利益も出ていたし、テキヤ運営同様、人を雇う事で更に稼げる、と思い請け負う事にしました。
しかしトラックと乗用車、2台駐車できるスペースと人を雇うので事務所開設が必要でした。
しかも小道具などは前日に積み込んで早朝に現場に行く事もあるというので、積荷が盗まれないように考慮しなければなりませんでした。
会社のお金を全て使うと運転資金が無くなり、黒字倒産してしまうのでメインバンクの銀行に融資のお願いをすることにしました。
私は会社法の対応と会計をテキヤの団体の方から紹介してもらった司法書士事務所に委託していたので融資のお願いの際、司法書士の先生と会計士に経営数値の資料の作成と銀行への同行をお願いしました。
快諾してもらったので後日、二人同行の上、銀行に行きました。
資料を見せて説明し、融資の必要性の説明をしました。
銀行の融資担当者は話しを聞いた後「少しお待ち下さい。」と言うと、支店長のところに資料を持って説明に行きました。
設立わずか6ヶ月での融資に不安を感じていました。
融資担当の人が戻ると「ご融資させていただきます。」と答えました。
1100万円融資してもらえました。
この融資のお陰で貸し倉庫と事務所を賃貸で借りる事ができました。
倉庫はトラックが6台入る広さで入り口に南京錠も着いていました。
融資を元に、100万円で買える中古のいすゞエルフ2t車を購入し私が小道具や照明機器を設営する仕事をやって、送迎は新聞の募集欄に募集を出して、何人か応募が来たのでその中から1人を雇いました。
仕事の依頼は増える一方で、気がつくと2tトラック6台とハイエースバン2台がフル稼働するまでになっていました。
その頃には私はトラックにもハイエースバンにも乗らず、事務所で受注作業や配車を担当していました。
このまま大学を卒業しても運送業でやっていこうと思っていた程でした。

会社設立して1年6ヶ月経った大学2年生の11月、司法書士事務所から電話がありました。
内容は会計士の人が事務所に来ないので会計士の自宅に電話したところ会計士の奥さんが「会計士が不倫相手と夜逃げした。」と言う事でした。
その連絡を受けて嫌な予感がした私は銀行口座を確認しに銀行に行きました。
すると口座にあった会社のお金と融資の金額含めてそっくり無くなっていました。
銀行に確認すると2日前に小切手で口座から預金を下ろされているとの事でした。
端的に言うと、会計士が私の会社のお金を横領して、不倫相手と夜逃げした、と言う事実でした。
会計士の自宅にも行きましたが、奥さんも同じ状況で家のお金を持って逃げたとの事でした。
私は奥さんもグルになって騙そうとしているのではないかと思い、何度も確認しましたが本当の話しのようでした。
警察に通報しましたが会計士が小切手を使い現金を引き出した証拠がないため、失踪事件扱いとなりました。
大変な事になりました。
1日にして私は借金を背負う事になったのです。
身内に相談しようかと思いましたが、迷惑をかけるだけだし一人で生きていくと決めていたので連絡はしませんでした。

司法書士事務所に会社を整理するように依頼し、トラックなどの資産を売ってお金を作りましたが800万円の借金が残りました。
融資をしてくれた銀行から返済について打合せの依頼がありました。
話しを聞きに銀行へ行くと支店長が出てきて、25万円を36回支払うように言われ、金利含めて900万円支払わなければならなくなりました。

私はアルバイトを複数する事で、生活費や借金の返済、学費を稼ごうと思いました。
いろんな仕事をやりました。
深夜2時から朝7時まで、京都中央市場で働きその後、大学で講義を受けて15時から20時までスーパーで働いて、また中央市場に深夜2時に行くという生活が続きました。
20時から深夜2時までの6時間、稼ぐ事はできないかと大学の友人に聞いて回ったところ同じ高校に行っていた大学の友人から同級生が祇園でホストをしていると聞き、お店に働けないか聞きに行きました。
同級生はホストをしているのではなくお店を経営していました。
事情を話すと働く事を了解してくれて、空いた時間を埋める事が出来ました。
大学で講義がない時は、付き合っていた女性の祖父の経営する釣鐘工場で働きました。
眠る時間はほとんどありませんでしたが、借金の返済を早く終わらせたかったので寝る時間も惜しんで働いて、その甲斐あって、3年かかるところを大学卒業する6ヶ月前に完済出来ました。
でも生活は質素でギリギリでした。

借金の返済のために働いていたので、私は就職活動をしていませんでした。
残り6ヶ月で就職しなければなりません。
大学が経営学部だったのでホールディングスで経営に携わろうと探しましたが、有名どころの企業はすでに締め切っていた為、あまり有名ではないホールディングスを探しました。
いくつかあたって1社応募できるホールディングスを見つけました。
ホールディングス本体の所在地は東京の麹町だけれど傘下のグループ企業16社の大半は福井県にある企業でした。
繊維を製造する機械を製造販売している企業が中心で、不動産業の企業やゴルフ場も経営しているホールディングスでした。
名前も知らなかったですが応募することにしました。
東京での採用試験と面接に挑み、その後不採用になった場合の事を考えて他のホールディングスを探していました。
1週間後に採用通知が届きました、1社応募で採用されたのですからびっくりしました。
これも何かの縁だと思い入社する事にしました。
そして単位も何とか取れて大学を卒業することが出来ました。
卒業式には二番目の姉が来てくれました。
二番目の姉には会社設立や借金の事は言いませんでした。
今後も田島の家族には言わないつもりです、心配性なので。

大学を卒業するまでの間、一人で生きていくなんて言っていましたが、到底そんな事は出来ないことを実感しました。
アパートを借りる時、二人の姉が協力してくれたから一人暮らしが出来ました。
大学の友人が映画撮影所のアルバイトの話しを教えてくれたので、偶然テキヤの団体の方に出会う事が出来ました。
テキヤの団体の方が自動車部に話しをしてくれたので自動車部の仕事を請け負う事が出来ました。
テキヤの団体の方が司法書士事務所を紹介してくれたので会社を設立する事が出来ました。
1つ年上の友人が中古車探しを手伝ってくれたから仕事を請け負う事が出来るようになりました。
銀行が融資をしてくれたから会社を拡大する事が出来ました。
募集をかけて面接に来てくれたから利益を得る事が出来ました。
アルバイトの募集で私を採用してくれたから借金の返済が出来ました。
銀行が私に配慮して無理のない様にプランを作ってくれたから借金の完済が出来ました。
就職活動出来ずに遅いタイミングで応募した私を採用してくれたから路頭に迷うことなく大学を卒業する事ができました。
クタクタになりながら講義に出席していたのに単位をくれたので留年せずに済みました。

何一つ自分だけで生きる事など出来ませんでした。
色々苦労しましたが、世の中は人と人が関わりあって出来ているという事を理解出来た貴重な時間だったと、今も思います。

社会に出てからは、出会いや他人を大切にしようと決意しました。

【 第三章 命のリレー 】

 大学を卒業しホールディングスに就職した私は東京へ引っ越しをしました。
住まいは神奈川県横浜市保土ヶ谷区のアパートで、通勤は相模鉄道で横浜駅まで出て京浜東北線で有楽町まで行き、有楽町線で麹町まで片道一時間十分くらいでした。
私は副社長付けに配属され副所長直々に教育を半年間受けました。
新入社員はホールディングスには私1人でしたが、集合教育の時はグループ会社の新入社員と一緒に30人位で教育を受けていました。
副社長に最初に指示された仕事は、オフィスフロアと役員室の清掃でした。
朝の八時までに終える事と言う条件でした。
7時に出社して清掃していましたが、慣れないうちは8時までに間に合わず、副社長から間に合わないなら間に合うように早く来れば良い、と指導されて6時に出社するようにしていましたが、慣れてくると7時出社でも間に合うようになりました。
そして清掃を終えると役員室にその日の新聞を5種類、机に並べると言う事でした。
毎朝出勤時に役員室の数だけ新聞を購入しなければならないので大変でした。
役員室は会長室、社長室、副社長、専務室、常務室と5部屋ありましたので25部の新聞を購入し、しわにならないように丁寧に持ち運び机に並べる、と言った作業が必要でした。
購入した新聞を入れる紙袋を用意して家を出ていました。
たまに最寄りの横浜駅キオスクで経済新聞が売り切れていることもありましたので、途中下車して違う駅のキオスクで購入したりもしました。
清掃と新聞を並び終える頃に副社長や役員が出勤してこられます。
私はノートを出して副社長にチェックしてもらいます。
何をチェックしてもらうかと言うと、仕事が終わり、自宅へ帰った後にノートに自分の名前、住所、あ~ん、まで50音を平仮名とカタカナでノートにボールペンで楷書します。
その記載した文字のチェックをしてもらうのです。
赤鉛筆で、私の書いた文字をチェックされるのですが、きちんと書かれている文字は丸をされて、バツをされた文字は副社長が楷書されます。
バツされた文字は副社長の書かれたお手本を見て、ノート1ページ分、同じ文字を綺麗に楷書します。
それを毎日繰り返します。
とても大変でしたが今となっては文字を前より綺麗に書けるようになったので、副社長には感謝しています。
所定労働時間中は鞄持ちをして副社長がグループ会社の役員や取引先銀行の偉い人、政治家もいた記憶がありますが、お話をされている内容をメモに取り聞いていました。
副社長は相手の立場で話し方を変えるもの、と私を同席させてそのテクニックを学べと言う事でした。
他にもコーヒーを淹れるのですがサイフォン式でコーヒーを淹れることを学びました。
6ヵ月が経ち教育期間が終わり、新しく指示されたのがグループ会社のシステムオープン化でした。
私は経営学部でしたので簿記や経営学は学びましたがコンピュータは学んでいませんでした。
「コンピュータの歴史とIT企業の成長」というテーマで卒業論文を書きましたので歴史やIT企業の事は学んでいましたが、技術的なことはまったく知らない状態でした。
しかし、仕事ですからやるしかありません。
任命された翌日からグループ会社へ出向します。
アルミ素材の加工をしているグループ傘下企業へ出向しました。
メインフレームを利用されていて、このシステムそのものをオープンシステム化することが私のミッションでした。
メインフレームのリファレンスを読み学習し、システム化されている業務フローを書き出して、そこからフローチャートへブレイクダウンします。
特に製造業だった事から会計と調達、製造計画については全てが連動している為、全貌を設計書に落とし込む事は容易ではありませんでした。
また、メインフレームやラインプリンターなどの機器そのものは、旧第一勧業銀行(現みずほ銀行)のファイナンスリース契約で、契約のライフサイクルと老朽化サイクルと二軸で計画しなければならないために複雑なスケジュールになりました。
初めてのプロジェクトは3年ほどで大半の業務をビジュアルベーシックとオープンコボルのアプリケーションにすることが出来ました。
その後も様々なグループ傘下企業へ出向します。
アルミホイールの販売をしている企業やコンタクトレンズ製造企業、通信販売企業やテキスタイル染工業企業など多岐にわたりました。
企業へ出向するたびに違うメーカやベンダーのシステムリソースでしたので仕様の確認に苦労しましたが、その経験が自分の原点と言えると思います。
就職して7年経過した1999年にグループ傘下企業であったコンビニエンスストアチェーン企業へ出向します。
コンビニエンスストアチェーン企業のシステムはメインフレームとオープンシステムのハイブリッド型でした。
2000年問題も含めてシステムのスリム化をする為の出向でした。

ある日、2番目の姉から電話が掛かって来ました。
母親が糖尿病の悪化で合併症になっていて、先が長くないかもしれない、と2番目の姉は泣きながら私に状況を伝えました。
そして母親の傍に居てやってほしいという話でした。
私は仕事を途中で投げ出せないと2番目の姉に伝えました。
一段落したら考えるから、と電話を切りました。
その後、気になって月に1度程度、2番目の姉に連絡するようになりました。

2000年のお正月を無事に迎えてシステムは正常に稼動していました。
仕事が一段落したので京都へ戻りたい旨を副社長に説明に行きました。
副社長は話しを聞くと、転職は条件が厳しくなるぞ、と言いましたが、最後には了承を得て2000年2月28日にホールディングスを退職しました。
その後、神戸のソフトウェアハウス企業に3年間勤めた後、2003年5月に京都のアウトソーシング企業で勤める事になりました。
京都市市内に新築の貸しマンションがあったので住む事にしました。
マンションの間取りは1LDKの85㎡もある広い部屋でした。
たまには実家にも顔を出そう、と思っていました。

ある日、久しぶりに実家へ帰って年金暮らしの母親に会いました。
随分と老け込んでいるように見えましたが元気付けようと思い「元気そうやね。」と母親に言いました。
仕事の事など色々と話しをしました。
母親は私に「その仕事はいくらぐらい儲かるの?」と、お金の心配ばかりしてきましたが、問題なく普通に暮らせていることを伝えると「全うな仕事で頑張ってや。」と、私に言いました。
母親はお金に苦労したんだなぁ、と私は思いました。
体の調子を尋ねると、母親は血圧が高くて体が辛い事と節々が歳のせいで痛いと言いました。
「また来るね。」と、帰るときには玄関まで見送ってくれました。
でも私は忙しくて実家には顔を出す事ができなくなりました。

2004年1月から福岡へ出向になりました。
6ヶ月間の期限付きだったのでマンションの契約はそのままにしました。
その頃、お付き合いしている女性が居たのでマンションを管理する意味で部屋を使ってもいいよと、鍵を渡しました。

出向が終わり京都へ帰ってきました。
お付き合いしている女性と久しぶりに会いました。
すると、今までそんな事言わなかったのに、急に私と結婚してほしいと迫ってきました。
その女性は祇園のクラブで働いている水商売の人でした。
そもそも私に結婚願望は無く、ましてやまったく生活リズムの違う人と一緒に暮らすなど考えられませんでしたので結婚する気はない事を伝えました。
色々と話し合い、別れる事になりました。

久しぶりに会社へ出社すると皆、相変わらず明るく仕事をしていました。
皆、久しぶりなので色々と積もる話もあるというので、何人かでランチをする事になりました。
同僚と昼食しながら色々な話をしている中で、何気なく彼女と別れた話しをすると会社の女子社員から「コンパしましょうよ。」と言う話になり、私が男性陣の幹事をする事になりました。
コンパの開催日と男性陣、女性陣の参加メンバーはすぐに決まり、男性4人、女性4人の開催となりました。
幾日か経った土曜日、明日がコンパ当日だというのにお店が決まっていませんでした。
お店をどうしようと考えながらマンション近くのお弁当屋さんにお昼ご飯を買いにマンションの玄関を出ると、福岡に出向する前にあった小汚いお好み焼き屋さんがおしゃれなダイニングバーになっていました。
私はコンパの女性の幹事に電話をかけて、そのお店へ下見を兼ねて一緒に食事に行かないかと持ちかけて、その日の夜にいく事になりました。
18時に女性幹事と一緒にお店に行きました。
「ボルドー」というお店でした。
お店の中もきれいでとても感じが良くて、値段もリーズナブルなほうでした。
このお店でいいよね、と女性の幹事と一緒に決めて予約をして帰りました。
翌日、コンパに参加する8名が揃ってお店に入りました。
お店の人がオーダーを取りに来られて飲み物を注文しました。
私の生ビールを持ってきてくれたお店の人は私のズボンに生ビールを半分くらいこぼしてしまいました。
慌ててお絞りで濡れたところを拭いていると、生ビールをこぼしたお店の人が「ごめんなさい、大丈夫ですか。」とお絞りを何本か持って私のズボンを拭いてくれました。
けなげに一生懸命拭いてくれているお店の人の顔をふと見ると、とても綺麗な透明感のある人で私はその人の事を気に入りました。
その後もそのお店の女性にいくつかオーダーをしたのですが「この料理どんな料理?」と尋ねると「シェフに確認してまいりますので少しお待ち下さい。」と忙しく引き返して確認してから説明してくれたりと、ポニーテールをしているお店の人の高感度が私の中でどんどん上がっていきました。
その時はすでにコンパに参加している女性より、お店の女性が気になっていました。
時間が来てコンパが終わりお店を出て解散しました。
マンションの部屋は「ボルドー」の向かいでしたのでお店のポニーテールをした女性の事が気になって仕方がありませんでした。
次の日、あのポニーテールをした女性と知り合いになりたいと思って「ボルドー」に仕事帰りに行きました。
お店に入って見渡しましたが、あのポニーテールをした女性は居ませんでした。
シフトでお休みなのかと残念に思いましたがお酒を少々と何品か頼んでその日は帰りました。
また次の日、仕事帰りに「ボルドー」に行きました。
お店を見渡してもあのポニーテールをした女性は居ませんでした。
そして次の日も、次の日も行きましたがポニーテールをした女性は居ませんでした。
私は考えました、あの女性の事を知る為にはこのお店の常連になってお店の人から聞けばよいと思いました。
それから毎日通いました。
22時になるとお客さんが少ないのでカウンターに座れる事を知り、それからはいつも22時以降にカウンターでお店の人と話しをするようにしました。
また、お店の人にワインを一緒に飲みましょう、とワインを空けたりしてコミュニケーションを密に取りました。
相変わらずポニーテールをした女性には会えませんでした。
1ヶ月くらい経ってようやく常連中の常連になりました。
いつものように22時過ぎにカウンターでお店の人と話しをしていました。
いよいよ聞こう、と思ってコンパの時に私のズボンに生ビールをこぼしたポニーテールの女性の事を店長に聞きました。
店長は私に教えてくれました。
私があの日の予約を前日に入れたので、人が足りないと思い店長の同級生にヘルプで来てもらった女性だったとの事でした
名前は鹿本さんとも教えてくれました。
しかも私が来る時間よりも早めの時間に家族でちょくちょく来てくれているということでした。
私は名刺に「鹿本さんのファンです、是非お知り合いになってください。」とメッセージとメールアドレスを書いて、鹿本さんに渡してほしいと店長にお願いしました。
店長は快く引き受けてくれました。
数日たってまた「ボルドー」には通っていました。
店長から名刺を渡しましたよ、と聞きましたが、メールは届きませんでした。
ある日、カウンターでいつものように食事をしていると店長から鹿本さんがこの店でアルバイトをする事になったと聞きました。
なんでも下着メーカーのOLをされているそうですが、買いたいものがあるとかで店長にアルバイトを週3日させてほしいと連絡があったとの事でした。
私は知り合うチャンスだと思いました。
後日、鹿本さんがアルバイトを始める日にお店に行きました。
お店に入ると、あの日のようにポニーテールをして働いていました。
いつものようにカウンターに座って店長と話しながら食事をしていると鹿本さんから話しかけてくれました。
「こんばんは、お名刺店長から頂きました、私のファンだそうで、ウフフ。」
とても可愛い笑い方でした。
私はこの日から鹿本さんに猛アタックを始めました。
22時にアルバイトが終わるので、そのあたりの時間にカウンターに座り待ちました。
22時になるとカウンターで鹿本さんは「まかない」を食べ始めるので、ワインを勧めたりして徐々に仲良くなりました。

仲良くなってからのある日、メールアドレスの交換もしてくれて早速メールをしました。
土曜の休日に食事に誘ったのです。
返事が来ないので、私は何度も携帯を確認していました。
食事の予定だった土曜日になっても返信がなかったので、これ以上は無理かも、と諦めかけていました。
お昼も過ぎて15時くらいに携帯にメールが来ました。
「お食事のお誘い有難う御座います、私でよければご一緒します。鹿本」
文面を見てガッツポーズをして「よっしゃ!」と声に出して喜びました。
待ち合わせの場所と時間をメール送信して食事するお店の予約、何を着ていこうかとワクワクしながら、ソワソワしながら服を出しては着てみてを繰り返していました。
そして、ふと我に返りました。
「この機会が最後になると嫌なので、最後にならないようにはどうすれば良いのか。」
私は考えはじめました。
まず私という人物を今回の食事で知ってもらってダメなら仕方ないけど、知ってもらえば必ず道は開けるはずだと思いました。
私は会社の同僚と取引先の仲良くして頂いている人達に電話をしました。
私はみんなに頼みました。
「今日予定が無ければ、このお店で飲み会するので参加してほしい。後で私の好きな人を紹介したいので連れて合流するから、その場を盛り上げて、仲良くなって。」
鹿本さんが飲み会に食事の後に来てくれるかは賭けでした。
でも、来てくれなかったらそれはそれで、いつものメンバーで反省会でもしようと思っていました。

待ち合わせの時間に鹿本さんは来てくれました。
地中海料理のお店でお話しをしながらワインを飲みました。
料理もいくつか頂いてお酒も入っている事からか、なぜか私は自分の人生観を話し始めました。
その中で、こんなことを言いました。
「次にお付き合いする女性とは結婚を前提でないとお付き合いしないし、結婚したいと思う人にしかお付き合いの告白はしない。」
鹿本さんは笑顔で聞いてくれていました。
その後、飲み会の話しを切り出しました。
「私の友人や取引先の仲の良い人たちだけで、近くのお店で飲み会しているんだけど合流しませんか?その人たちと私の関係を見れば私がどんな人なのか、理解できると思うよ。」
鹿本さんは一緒に来てくれると即答してくれました。
会社や取引先の仲間がいるお店へ行きました。
15人ほど集まってくれていました。
会社の女子社員が鹿本さんに「はじめましてぇ、田島さんの部下ですぅ、田島さんから話しは聞いていますよー。」などと馴れ馴れしく話しだしましたが、鹿本さんもそれに合わせて始めて会ったとは思えないほど打ち解けてくれました。
会社や取引先の皆とも鹿本さんは打ち解けて仲良く会話をしてくれていました。
23時前に飲み会は終了し、飲み足りない人は次のお店へ行きましたが私は鹿本さんをタクシーで送ることにしました。
鹿本さんを無事に送り届けて私はマンションの部屋に帰りました。
すぐに携帯からメールで「遅くまでお付き合い頂いて有難う御座います。また、お会いできる事を楽しみにしております。」と送信しました。

翌々日の月曜日、仕事が終わってから「ボルドー」で食事をしにお店へ行きました。
まだ22時前だったので鹿本さんはアルバイトで働いていました。
22時になってカウンターでまかないを頂く鹿本さんに、今度の土曜日も一緒に食事に行きませんかと誘いました。
すると鹿本さんは言いました。
「田島さんのマンションの部屋に行っていいですか?」
驚きましたが、同時に嬉しかったので快諾しました。
そして土曜日になるまでの平日の夜は「ボルドー」にも行かず、部屋の整理と掃除を念入りにする事にしました。

土曜日になり、鹿本さんは私の部屋のあるマンションに来ました。
部屋に入りソファーに座ってと私が言うと、チョコンと座りソワソワした感じに見えました。
私がパスタとサラダを作って、バゲットとチーズを出して2人で頂きました。
時間が経つにつれて鹿本さんは自然な感じになってきていました。
私が「ソワソワしていた?」と聞くと、「男の人の部屋に1人で来ると緊張するよ。」と鹿本さんは言いました。
その後、仕事の事や大学はどこに行っていたとか、家族の話とか、色々な事を互いに質問し合っていました。
楽しい時間はすぐに過ぎて、時計は22時50分を指していました。
時間も遅いので家まで送ると鹿本さんに伝えると、もう少しだけ話ししたいと言われたので話しを聞く事にしました。
鹿本さんは「なぜ、今日田島さんの部屋に来たいって言ったかわかる?」と聞かれました。
私は「どんな生活をしているか確認しに来た、とか?」というと、「ううん、違う、2人だけで話したいと思ったからよ。」と鹿本さんは言いました。
少し黙った後、私は思い切って「僕とお付き合いしてもらえませんか?」と鹿本さんに言いました。
鹿本さんは少し考えて、「ソファーから降りて、下に正座して、さ、早く。」と笑顔で言うので私はソファーから降りてカーペットに正座しました。
鹿本さんは私の正面に来て正座して言いました。
「こんな私ですが結婚してください。」
そう言うと深々と手をついて、頭を下げました。
私は少し驚いて、言いました。
「こちらこそこんな人ですが結婚してください。」
そして私も深々と手をついて、頭を下げました。
顔を上げると2人供照れくさくて、ケラケラと笑い出しました。
私は「お付き合いって言ったけど、なんで結婚なんですか?」と聞くと、鹿本さんは「あなたが最初に食事に行った時、お付き合いする人は結婚前提だって言ったから、プロポーズかな、って思って。」
私は「そう、プロポーズのつもりで言ったんだ。」と言いました。
この時から私は「鹿本さん」から「真理子」と呼ぶようになりました。
真理子は私の事を「田島さん」から「パパ」と呼ぶようになりました。

その後、タクシーで私が家まで送っていきました。
翌日の日曜日も真理子は私のマンションの部屋に来てくれました。
結婚すると決めたのですから、何をしなければならないのかを2人で話しました。
まず、それぞれへの親に相手を紹介する、そして親同士の紹介の場を作るところまでを2人でする事にしました。
食事はマンションの前の「ボルドー」に行きました。
お店の皆に付き合うことと婚約した事を伝えると、とても驚いていて「婚約って早すぎない?」とも言われましたが2人で笑いながら「こんなもんやろ。」と言っていました。
その日も23時になったので家まで送ると言うと「話したい事があるから聞いてほしい。」と真理子が言いました。
私は聞く事にしました。
真理子は話し出しました。
「3年程からお付き合いしていた男性がいたんだけど、お付き合いした後に妻子がいる事がわかって、別れようと話しをしてもなんだかんだとズルズル長引いてしまって・・・」
私もついこの間までお付き合いしていた女性がいた事を伝えて「ちゃんと別れているのであれば過去のことはいいよ、気にしないから。」と言いました。
真理子もスッキリしたようで笑顔になり、タクシーで家まで送ってあげました。
私は母親に電話で連絡して結婚する話しをしました。
母親はびっくりしていました。
相手との顔合わせと紹介をしたいと日程を伝えて、当日は車で迎えに行く旨を伝えました。

2004年11月の秋晴れの爽やかな日でした。
母親へ挨拶するために真理子と一緒に車で実家に行きました。
東山にある京料理屋さんを真理子が予約をしてくれていて母親と私の3人でお店に行きました。
母親は髪が薄くなっている事が気になってか、かつらをつけていました。
真理子を紹介して会席を頂きました。
母親は「こんなに綺麗な人がねぇ、本当にこんな人と結婚して後悔しないですか?」と言いました。
次は真理子の親御さんとのご挨拶をすることを伝えると、恥ずかしいしこんなお婆さん引っ張り出さないでほしいと言いましたが、結婚すると言う事は家と家が一緒になることだから、とお願いすると渋々了解してくれました。
これが母親との最後の会話となりました。

私も真理子の父親と母親、姉妹に紹介されました。
「次は両家のご挨拶をよろしくお願いします。」
私はご両親にお願いをしました。

2004年の12月に入ったばかりの肌寒い日でした。
両家の挨拶を控えた3日前の20時過ぎ、2番目の姉から電話が掛かって来ました。
電話に出ると2番目の姉は泣きながら、夕方に母親が倒れて集中治療室に入院したと言うのです。
私は驚き、真理子に連絡して2人で病院に急いで行きました。
日本赤十字病院の集中治療室にいた母親は、喉を切開されて呼吸チューブが入っている状態で意識不明でした。
泣いている2番目の姉にどういう状況かを聞きました。
突然胸が痛いと言ってうずくまり、凄い声を発して意識が途絶えたそうで、心筋梗塞と診断されたと説明してくれました。
さらに救急車を呼んだのに30分来てくれなかったとも聞きました。
もっと早く来てくれれば、と2番目の姉は悔しそうに泣いていました。
看護師の方から呼ばれて行くと、担当の医師が居られて説明を受ける事になりました。
心臓は動いている状態だが心肺停止状態が続いた為、心臓の一部が壊死していて危険な状態であるとの事でした。
また、同時に心肺停止状態で肺に血液がたまっていて呼吸が出来ず溺れそうな状態であると説明を受けました。
私は説明を聞いた上で助かって普通に暮らせるようになるか尋ねると、何ともいえませんと医師は言いました。

私はパジャマの替えやベッドに敷くバスタオルなどを用意して毎日仕事が終わったら病院へ行きました。
2番目の姉も毎日来てくれていました。
真理子も時間があるときに私に連絡してくれて病院に来てくれていました。
ある日、2番目の姉と真理子と私と、いつものように病院行って意識不明の母親の世話をしていると、母親の意識が戻り目を覚ましました。
3人供母親に寄り添うように顔に近づきました。
私が母親に言いました。
「俺が世話してあげるから大丈夫、ゆっくり治そうね。」
すると母親は喉を切開されて呼吸チューブが入っている身体で、何か言おうとして口を動かしましたが言葉は出てきませんでした。
でも、目から涙を流しながら3回うなずいて、すぐ目を閉じました。
それから意識は戻りませんでした。

それから2日たって、仕事中の19時頃、日本赤十字病院から私に電話が掛かって来ました。
電話に出ると母親の容態が急変して息を引き取るかもしれないので病院へ来るようにとの事でした。
私は2番目の姉に電話をして伝えた後、真理子に電話をしました。
真理子の携帯電話は電源が入っていないようでNTTドコモのアナウンスが流れました。
真理子の勤め先に電話をかけると、部署の打ち上げで飲み会に行っていると会社の方から言われました。
取り急ぎ、病院に行かなければと思い急いで病院へ行くと2番目の姉が母親の横にいました。
母親の容態を確認すると安定したようで、命の危険は無いと説明を受けたと聞きました。
私は少し安心して22時ごろ真理子の自宅へ行きました。
真理子のお母さんがいらっしゃって、まだ娘は帰ってきてないと教えてくれました。
私の母親の容態が変化した事を真理子のお母さんに伝えました。
娘が帰ってくるまで、中で待てば?と言われましたが、車を路上に駐車していたので車の中で待つ事を伝えて車の中で真理子の帰宅を待ちました。
23時を過ぎた頃、私の車の隣にタクシーが1台停車しました。
そして真理子が降りてきましたが、見たことの無い男性も一緒に降りてきて腕を組んで、お酒を飲んでいるせいなのか、高い声ではしゃぐ声があたりに響いていました。
私は車を降りて2人に小走りで近づきました。
そして男性に言いました。
「こんばんは、私は田島といいます、この人と婚約しているのですがこれはどうゆう状況ですか?」
すると真理子が自宅のほうへ走り出しました。
私は大きな声で「逃げるな!」と強く言うと真理子は泣きながら引き返してきました。
男性に話しましょうと促して私の車の後部座席に乗せました。
真理子に「この人は誰?」と聞くと「妻子持ちだと後からわかった人。」と言いました。
私はその男性に「今日は遅いので後日話しましょう、連絡先と住所とお名前書いていただけますか?」
するとその男性は逆上して「お前表に出ろ、ボコボコにしてやる!」と凄い勢いで言われたので「いいですよ、傷害事件起こしてあなたの家庭も人生も捨てる根性があるならかかって来い。」と強く言い返しました。
すると男性は「こんな女なんかこっちから願い下げだ!」と車のドアが壊れるくらいの強さで閉めて走っていきました。
車には取り残された真理子がいました。
泣いている真理子に事情を聞きました。
「会社の部署で打ち上げがあって、帰ろうとすると送っていくとあの男性に無理矢理タクシーに乗せられたの。」
真理子はそう説明をしてくれました。
私が見たときは、無理矢理どころか楽しげにはしゃいで男の腕にぶら下がっているようにしか見えなかったので、真理子に言いました。
「楽しそうに甘えた声ではしゃいでいたようにしか見えなかったけど、腕にもぶら下がっていたようだし。」
そう話すと真理子は言いました。
「本当に無理矢理タクシーに乗せられたんやもん。」
真理子は撤回しませんでした。
「一旦マンションに帰るから、真理子も車から降りて帰りなさい。」
「嫌、車から降りない、嫌、帰らない、パパと一緒に居る。」
「どうして嫌なの?どうして降りないの?」
「降りて今離れたら、2度とパパに会えなくなると思うから。」
「僕は帰る事も出来ないの?」
「パパと一緒に居る、マンションに帰るんだったら私も一緒についていく。」
真理子はどうしても聞いてくれませんでした。
明日も仕事があるので仕方なく、私のマンションの部屋に連れて行きました。
すると真理子が言いました。
「どうしたら信じてくれる?」
「きちんと妻子持ちと別れてくる事。」
「私、自分の気持ちを手紙に書いて、明日渡す、手紙の内容を見てほしい。」
そういうと私のデスクにあったノートの1枚を破り、その紙に手紙を書き出しました。
書き終えると私に「内容を見て確認してほしい。」と言われ、確認しました。
色々と沢山書いてありました、男性と縁を切る内容でした。
私は手紙の内容を見て「わかったよ、明日それを渡して話しをして身辺整理を終わらせてきなさいね。」と言うと「はい、わかりました。」と真理子は泣いた後の元気のない声で言いました。
その後、自宅まで車で送っていきました。

次の日、真理子から仕事が終わったと18時過ぎに電話があり、会いたいと言いました。
私は仕事がまだ終わらないので今日は無理だと断りました。
昨夜の事でそんな気持ちにはなれなかったのもありました。
仕事が終わり21時過ぎにマンションへ帰るとオートロックの玄関先に真理子がいました。
「いつから居たの?」と聞くと「電話したあとパパに会いに来た。」と言いました。
とりあえず寒いからと部屋に入れました。
すると真理子は「今日、男性に手紙を渡そうとしたら会社に居なくて会えず、猛手紙を渡す事ができないの。」と言いました。
何を言っているのか分らなかったので詳しく聞くとこんな話しでした。
男性とは同じ会社で営業担当の人だそうで、周りの人には独身と嘘をついていて皆独身だと今も思っているそうです。
昨日の打ち上げをしている時間に、その男性が会社の大金を横領していた事が明るみに出て、あの男性は今日失踪したと言うのです。
刑事事件となっていて、社内は騒然としているとの事でした。
私はその説明を聞いてもよく分らなかったのと、やっぱり釈然としないし、こんな気持ちでは無理だろうと別れる話しをしました。
真理子は嫌だ、の一点張りで、今日は帰らない、と言い出しました。
明日は土曜日なので仕事は無いけどと、困る私にくっついてきて離れようとしませんでした。
仕方ないのでいろんな話しをしました。
しかし前向きな話しは到底出来ませんでした。
真理子は黙って聞いていました。
そして明るくなってきて時計を見ると7時前でした。
携帯電話が鳴りました、病院からです。
容態が悪化していよいよ危ないと言う事で病院へ行きました。
真理子も行くと言って聞かないので連れて行きました。
日本赤十字病院に着いて母親のベッドに行くとそこに母親はいませんでした。
2番目の姉が先に着いていて、案内されて別の病室に行きました。
そこは個室で母親には呼吸器が入れられた状態で同じでしたがその他の機器は無く心電図の機器だけが残っていました。
私は1番上の姉にも電話をしてすぐ来るように伝えると30分ほどで母親の元に着きました。
2番目の姉が母親の妹で大阪の大阪市に住んでいる叔母にも連絡したようで知らないおじさんと2人で母親の元に来ました。
時間は9時過ぎでした、医師が呼吸のタイミングが短くて速くなっているので、まもなく臨終されると言いました。
少し経って、母親は大きく深呼吸のような呼吸をした後、心電図のリズムが消えてアラームが部屋に鳴り響きました。
母親の顔は微笑んでいるように見えました。

母親が死にました。
2004年12月で72歳でした。

2番目の姉は母親の顔を撫でながら嗚咽のような声を出し泣き出しました。
1番上の姉も泣いていました。
大阪市の叔母が「姉ちゃん、姉ちゃん。」と言って泣いていました。
知らないおじさんはプロテスタントの牧師さんでした。
叔母から母親はプロテスタントの洗礼を受けてエリサベツという名前になって生まれ変わったのだと聞きました。
牧師さんは教会葬儀を勧めてきました。
私は母親の事を何も知らず、目に入る映像を現実ではないかのように見ていました。
真理子が私の右手をぎゅっと握ってきました。
嫌な気はしませんでした。

実家に母親が無言のまま帰宅しました。
叔母と2番目の姉、真理子と私の4人で母親の身体を清めました。
その後、私は死亡届を区役所に届けに行きました。
帰りに美味しいと評判の老舗のみたらし団子を買って帰り、皆に勧めました、16時を過ぎていました。
叔母は私に良いお嫁さんを見つけたねと言いました。
私は愛想笑いをしました。
親戚に教会葬儀になることを電話で連絡しました。
親戚は母親の意思ならそれでいいと快諾してくれましたが、お墓のあるお寺さんに説明するのが大変でした。
分骨納骨という形で教会とお寺とに分ける事で合意しました。
真理子のご両親にも電話で伝えました。

そして教会葬儀の日、棺の中に母親は居ました。
賛美歌合唱の中、棺の中の母親に来てくれた方が全員、順番にお花を入れていきます。
親戚も1番上の姉もその家族も、大阪市の叔母の家族も、真理子とご両親も、そして私も、母親の顔が隠れるほどにお花が添えられました。
霊柩車に乗った母親は出棺されるクラクションと供に火葬場へと向かいました。
私も車に真理子を乗せて母親へ続きました。

母親が小さな箱になった後、教会葬儀に来てくれた親戚や仲の良かった方などの皆さんと食事をする為、教会の近くにある料理旅館へ行きました。
皆さんにお礼を言いながら座卓をまわっていました。
一段落して私の座卓に戻り会席を頂こうとしたら、真理子にちょっと席を外して話したいと言われました。
2人で外に出て話しを聞きました。
「赤ちゃんが出来たみたい。」
私は大変驚きました。
来るはずの生理が3週間来ないので、簡易検査を料理旅館のトイレでしたら陽性の反応が出たというのです。
「明日、産婦人科できちんっと診てもらって内容を教えて。」
私はそう伝えて座卓に戻りました。

次の日、夕方に真理子が私の実家に来ました。
私は母親の遺品を整理しに実家に来ていました。
検査の結果を聞くと、「妊娠4週目で順調みたい、母子手帳も作らなきゃね。」と言うので「今日、真理子のご両親に報告しよう」と私が伝えるとコクンとうなずきました。

遺品を整理しようと母親が使っていたタンスを開けると、ナイロン袋に丁寧に入れられた私の写真が沢山出てきました。
生まれた時の赤ちゃんの頃のものや幼少期、小学生の頃の写真も何十枚もありました。
中学生の頃と高校生の頃の写真も出てきました。
小学校の時に学校で書いた絵や作文なども出てきました。
夏休みの宿題で書いた絵日記や工作もいくつか出てきました。
出てきたものを眺めていると涙が出てきて止まりませんでした。
そして嗚咽のような声を出し私は号泣しました。

私はその時知ったのです。
母親は私を愛していたと言う事を。
そして私も母親を愛していた事を。

私はとても後悔しました。

もっと優しくすれば良かった。
ずっと傍にいてあげればよかった。
いっぱい話しをすればよかった。
そして、孫の顔を見せてやれなかった、と。

私は自分を親不孝な人間だと思いました。
でも、もう話しをすることさえ出来ません。
いつも、無くしてから気づくのです。

夜になり真理子の自宅に行きました。
お父さんとお母さんにお話したいことを伝えると、リビングに集まってくれました。
最初にお父さんから葬儀は無事に済んだのかを聞かれ、皆さんが来て頂けたので立派な葬儀になったという事を伝えると、で話しって?と聞かれました。
私が言いました。
「子供が出来ました。」
お父さんは少し黙った後、こう言いました。
「良かったないか、悪い事と良い事が一緒に起こるのは縁起の良い話や、ちょっと早かっただけや、で、生まれるのはいつ頃の予定や?」
真理子が言いました。
「9月上旬って今日、産婦人科で言われた。」
お父さんが続けました。
「お腹が出てくる前に式上げなアカンな、田島君、すぐに段取りしてくれ、君のお母さんの生まれ変わりかもしれんなぁ。」
私は承知しましたと伝えて真理子と一緒にマンションへ帰りました。

マンションの部屋で私は自分の気持ちを真理子に伝える事にしました。
「僕はまだ色々な出来事に対応出来るほど気持ちの整理も出来てないけど、授かった子供を殺すわけにはいかないから、真理子と一緒になると決めました。でも、一緒に人生を歩む中で釈然としていない事を整理していけるように協力してほしい。」
すると、真理子は言いました。
「ありがとう、もちろん2人で取り組まないと整理も出来ないから、これからもよろしくお願いします、きっと幸せになれると信じているよ。」
その後、挙式をどうするかを2人で話し合いました。
そして2005年3月19日に挙式する事になりました。

2005年、私は1月に転職をしてシステムインテグレーター企業の関西エリア責任者をしていました。
とても忙しく、家に帰る事もままならずサウナに泊まる毎日を過ごしていました。
3月に挙式も行い大勢お祝いに来てくれました。
5月に真理子のご両親と一緒に暮らせるようにと、全財産を叩いて2世帯住宅を建てました。
6月にハワイへ新婚旅行へも行きました。
真理子は英語が得意でペラペラだった事と、国立大学外国語学部で英語専攻だった事も、新婚旅行で知りました。

そして、あっという間に8月になっていました。

この頃、私は生まれてくる子供の名前を考えるのに一生懸命でした。
沢山の名前の候補を書いて、真理子に見せると「う~ん・・・」と言われ不採用になりました。
8月9日の火曜日、たまたま早く帰ることが出来たので自宅で食事をして、真理子と2人でソファーに座り生まれてくる子供の名前について話しをしていました。
21時半ごろ、真理子が破水したと言いました。
予定日より随分早いので驚きましたが真理子を車に乗せて、日本赤十字病院に向かいました。
産婦人科で診察して頂き状況の説明を受けました。
予定日よりも早いですが、破水しているので陣痛促進剤を点滴で入れるとの事でした。
陣痛が来るまでどれくらい時間が必要か分らないとの事でしたので、私は一旦家に帰り休むことにしました。
翌朝の8月10日水曜日、朝6時に電話が掛かりました。
真理子からの電話で、周期はバラバラだけど陣痛らしきものが来たとの連絡でした。
私はすぐに日本赤十字病院へ行きました。
リラックスしていた真理子でしたが、時折不安そうな表情をしていました。
本格的に陣痛が始まったのは11時過ぎでした。
そして、14時ごろ分娩室に入りものの10分くらいで出産が終わりました。
2600グラムの可愛い女の子が生まれました。
母親が死んだ病院で、母親の孫という新しい命が誕生しました。
赤ちゃんの顔を見ると、どこと無く母親の面影がありました。
その時、母親が棺の中でお花に包まれていた顔を思い出しました。
「花」という漢字を名前に入れよう、と思い「花凛」と言う名前が頭に浮かびました。
出産後にベッドで横になっている真理子のそばに行き言いました。
「花に凛と書いて、花凛と言う名前はどう?」
「パパ、その名前がいい。」
二人の意見が一致したので、花凛と名付けました。
私は一人で生きていこうなどと思って生きて来ましたが、いつのまにか家族を手に入れていました。

花凛は神経質な子のようで、お腹にいた時の体勢でないと凄く泣く子でした。
バスタオルで背中から丸く包んであげると泣きやみました。
母乳を飲むのも体勢が落ち着くのか、左側の乳房からしか飲みませんでした。

【 第四章 感謝 】

初めてだらけの子育てが始まりました。
二世帯住宅で隣に住んでいる真理子の両親は、初孫の誕生をとても喜んでくれました。
子育てに関しても真理子のお母さんから教わって学んでいきました。
花凛がお腹を空かせて夜泣きをしたら、粉ミルクを人肌の温度のお湯で溶いて、哺乳瓶で飲ませてあげていました。
お風呂に入れるときはガーゼで上半身を覆ってあげて、お湯をかけてあげると気持ち良さそうに目を閉じていました。
とても愛おしいと思いました。
仕事は忙しい状態でしたが、出来るだけ早く帰って子育てをしたい、と思うようになりました。

あっという間に首が据わりハイハイしていたかと思っていたら、つかまり立ちをするようになって、花凛の成長を私はとても早く感じていました。
ヨチヨチ歩けるようになった頃から、凄く人見知りをするようになりました。
知らない人と目が合うだけで泣き出してしまいました。
この頃はオムツをしてヨタヨタ部屋を歩きながらキョロキョロと部屋を見渡していた姿が愛らしく、花凛に会えて良かった、と思いました。
真理子が私に花凛が2歳になったら、インターナショナルスクールに行かせようと相談してきましたので、行かせることにしました。

2007年7月、37歳の私は勤めている会社で本部長となり、全国拠点の事業部責任者となりました。
そして東京へ転勤となり単身赴任しました。
この時から2014年に退職するまでの7年間、単身赴任で家族と一緒に暮らすことは出来なくなりました。
花凛は8月に2歳となり、インターナショナルスクールに通うようになりました。
私は週末出来る限り京都の自宅へ戻ろうと努力しましたが、月に2回程度しか自宅へ帰ることは出来ませんでした。
自宅に帰れた時は花凛と出来るだけ遊ぶようにしました。
絵を描いたり折り紙をしたり、紙芝居の笠地蔵を読んであげたり絵本を聞かせたりしていました。
公園に行くと砂場でおままごとを良くしていて、私は花凛の子供役で、延々とご飯を食べさせられていました。
花凛は活発に走り回るタイプではなく、どちらかと言うとおとなしいタイプでした。
この頃の花凛は、インターナショナルスクールの環境のおかげで、話す言葉が英語、日本語と混ざっていて、発音が良過ぎて聞き取れない言葉もありました。
花凛に「誰に似ているの?」と聞くと「パパ似!」と元気良く言ってくれました。
私にとても顔が似ていたのです。
病院で生まれてすぐ、花凛の顔を見た時母親の面影があったのも、今では理解できます。
私の顔が母親にとても良く似ていたのです。
幼稚園に行くようになって、英語のスピーチコンクールに参加する事になりました。
「大きなカブ」のお話しを英語でスピーチしました。
準優勝にあたる優秀賞に選ばれて、家族で大喜びしました。
この頃の花凛は食べるのがとても遅い子でした。
私も小学6年生くらいまで給食を食べるのがとても遅かったので、そんなところまで似なくても良いのに、と思いました。

花凛が小学校に入学します。
ちょうど桜が満開の時期でした。
ランドセルを背負って紺色のワンピースを着た花凛は、お嬢さんになっていました。
教室の後ろで見ていると、振り向いてニコニコ嬉しそうにしていました。
小学生になって国語や算数、などの勉強が始まります。
花凛は最初から算数が苦手のようでした。
真理子も文系だったので、算数と理科は私が教えてあげる事になりました。
教えてあげるのもただ教えるだけではなく、効率を色々と考えた結果、答えの出し方を教えるのではなく、私が質問して花凛が教える、というやり方にしました。
人に説明する事で、覚えるのが早くなるからです。
この頃から花凛は自分より小さな子のお世話をすることがとても好きでした。
花凛が小学2年生になってから、真理子は病院の医療事務で働く事になりました。
ある日、真理子から電話があり、花凛がおしっこするととても痛いと言うので病院に連れて行くと、尿道に大腸菌が入って膀胱と尿道が炎症を起こしていて即入院になった、と言うのです。
私は業務調整をして、次の日京都に帰り病院へ行きました。
夜1人で眠った事が無いので真理子は付き添って病院で添い寝をしてあげたとの事でした。
花凛に様子を聞くと、点滴と薬で痛みは無くなって来ていると言いました。
5日間入院して退院しました。
花凛は何日か経って、将来、女医さんか助産師さんになると言いました。
なぜなりたいの?と花凛に聞くと「女の子の診察は女の子がしなくてはダメだと思ったから。」と言いました。
入院時の主治医は女医さんでしたが、診察は研修医の男性だった事がそう思うきっかけとなったようです。
私は子供の夢はすぐ変わるだろう、と思っていました。
その頃、1通の葉書が届きました、網野の祖母が99歳で他界したと書かれていました。

2014年の3月、私は勤務していた会社を退職しました。
転職先はまだ決めていませんでした。
事業部長や本部長の立場の人間が、退職せずに転職活動していたら、責任感が疑われると思ったので、転職活動をしていませんでした。
退職理由は真理子や花凛と人生を一緒に過ごす見通しが立たないからです。
京都に二世帯住宅を建てましたが、すでに9年経って私はほとんどその家に住めても居ませんでした。
また、真理子にも子育てをほとんど全てやってもらっている状態でしたので、仕事もしているし負担も大きいだろうと思ったのです。
色々と考えた結果、リスクはありましたが、思い切って会社を退職したのです。
真理子もそのタイミングで医療事務の仕事を辞めたいと相談がありました。
人間関係が複雑で非常に仕事がしにくい職場だとはじめて聞きました。
私は2人で無職も人生の中で、なかなか出来ない経験だと思って、無職の間2人で楽しもう、と真理子に言いました。
再就職が決まるまでの3ヶ月間、新婚生活を取り戻そう、と2人で過ごしました。
毎日ランチは外食しました。
今日はタイ料理、明日はベトナム料理、次はイタリアン、その次はお寿司、と新婚の時に忙しくてやれなかった事をしました。
一緒に公園を散歩したり、ハイキングに行ったりしました。
晩ご飯は私が料理をして花凛と3人で頂きました。
そして7月、私は総合メーカーのIT部署に転職し、真理子は大学の研究室に転職しました。
そして私はまた、東京に単身赴任となりました。
話が違う、と思いながらも会社の命令ですので従いました。

花凛は小学3年生になっていました。
2歳から始めたインターナショナルスクールを続けていて、これまでも英検を受けていたのですが。ある日、英検2級に合格しました。
高校生や大学生の中に混じって小学3年生が受験している姿が珍しいと、高校生や大学生に写真撮ってもいい?と皆に写真を撮られたと言っていました。
家族で大変喜びました。
その反面、算数がやっぱり芳しくないので、真理子と花凛と3人で話し合い、学習塾に通う事にしました。
学習塾で月に一度、学年全員で行う統一試験があります。
結果はいつも650人中、300番前後で中くらいの成績でした。
国語と社会は80点台以上なのに理科は50点台、算数は30点前後とやはり苦手のようでした。
クラスも成績順で分けられていて、3組が成績の良いクラスで、2組、1組と成績の悪い順となっていました。
花凛は成績通り2組でした。
私は徹底的に算数を強化する為、土曜と日曜は学習塾の宿題に加えて苦手な算数の文章問題を100問用意して、解いてもらいました。
また、理科は過去の復習を覚えるまで何度もしてもらって、小テストを繰り返しやりました。

小学4年生の夏、統一試験で4番の成績を取れる様にまで成長しました。
私はとても喜んで、嬉しくて、花凛に言いました。
「花凛、凄いね、成果が出たね、一生懸命取り組んだ結果だよ。」
花凛は少しも笑わずに言いました。
「あれだけ勉強したのに、まだ花凛の上に3人も居るんやろ、1番になれると思ってたのに。」
私は1番を目指していた花凛に驚きました。
真理子にその話しをすると、闘争本能が出ればいいね、と言いました。
しかし、4番になってから12番、35番と少しずつ順位を下げて60番台になりました。
小学5年生になりました。
花凛はクラシックバレエを習いたいと私に言ってきたので、勉強と両立することを約束して習い始めました。
小学校のクラスでは、誰もが花凛の事を勉強が出来る賢い人、となっていました。
学校の先生も何をしてもお手本になる児童だと高い評価をされていました。
花凛はそれだけでは満足していませんでした。
学習塾では小学6年生になる前の1月に、統一試験の結果順でクラスが6年生として再編成されます。
1クラス増えて、成績の良い順に、4組、3組、2組、1組と再編されます。
花凛は4組に行きたい、最悪3組で2組以下は絶対嫌だと猛勉強をしはじめました。
2016年1月、統一試験の結果で、花凛は3組になりました。

私が3月に大阪に転勤となり、京都の自宅で家族と一緒に暮らせるようになりました。
真理子も花凛もお父さんもお母さんも、喜んでくれました。
花凛は家で勉強を一生懸命していましたが、部屋を移動する時は必ずバレエの振り付けで移動していて、特にクルクル回りながら移動するので、すぐに靴下に穴が開くと、真理子が言っていました。

2017年4月、花凛が小学6年生になりました。
花凛は真理子のお母さんの身長を超えて150センチ以上です、本当に大きくなりました。
足のサイズは24.5センチになっていました。
胸も膨らんできていて、服のサイズも大人のSサイズが着用できるまで成長していました。
4月の終わりごろにクラシックバレエの発表会がありました。
初めての発表会でしたが、とても綺麗に踊っていました。

5月、学習塾で中学受験の決起大会がありました。
「必勝」と書かれたハチマキを頭にして「合格するぞ!」と皆の前で決意表明してきたと言いました。
そして「決意表明書」というものを私に渡しました。
内容を見るとこんな事が書かれていました。

決意表明書
・中学受験:京都教育大学付属桃山中学校
・高校受験:京都教育大学付属桃山高等学校
・大学受験:京都府立医科大学医学部看護学科
・将来の夢:助産師になって新しい命と出産するお母さんを守る人になる!
・実現する為の約束:塾のない日は家で必ず5時間以上勉強する!
・努力する事:塾がある日も夜10時まで残って復習する!
・その他:料理クラブとバレエと勉強も、これからずっと両立する!

小学2年生の時に私たちに言っていた事を実現させようと頑張っていたのです。
凄い子だなぁ、と感心し、一度決めた事を実現する為にやり続ける大切さを花凛から学びました、そして今も花凛は猛勉強を続けています。

私は結婚して親となり、子育てや花凛を通じて様々な事を学び成長しました。
そして少しずつ父親になっていくのでしょう。

私は、47歳になりました。

花凛が生まれてくれたので親の気持ちになる事ができました、私の娘として生まれてくれてありがとう。

真理子と出会えたから幸せな家族と家庭を持つ事ができました、私を選んでくれてありがとう。

真理子のご両親が結婚と出産を認めてくれたので、新しいお父さんとお母さんに親孝行できる機会が出来ました、私を認めてくれてありがとう。

1番上の姉と2番目の姉が身元保証人になってくれたから大学時代貴重な経験を積む事ができました、私を信頼してくれてありがとう。

祖母と親戚家族が私を引き取り大自然の中で遊び育った事で性根は曲がる事はありませんでした、私を分け隔てなく育ててくれてありがとう。

母親が私を生んでくれたから幸せを感じる事ができました、私を愛してくれてありがとう。

私に関わった全員に孝行するために、私は全力で何事にも取り組みます。
そして、私が居てよかったと、存在意義を高めて皆さんへ恩返ししたいです。



私は生まれた時から。

必要な全てを。

持っていて。

足りていた事を。

今、知っています。

吾唯足知 ~ われ ただ たるを しる ~

吾唯足知 ~ われ ただ たるを しる ~

幼少から小学生となり、大人の都合で環境が激変する中、逞しく未来を形成していく。死別、生命の誕生、そして親となり成長していく。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2017-06-21

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