個性を殺すな

個性を殺すな

 描けば描くほど、少しずつ上手くなってゆく。
 描けば描くほど、少しずつ不自由になってゆく。
 表現の幅を広げようとすればするほど、そのつもりになった気でいても、狭くなってゆく。

 美術というのは、どうしてああもむつかしいのだろうか。自分をキャンバス上で表現する事って、案外むつかしい。言葉だけでは足りない部分を、絵でも何でも、そういうものに反映させるのに、あんなに苦労するとは。
 物心ついたときから、気付いたときには鉛筆を握っていて、色々なものをえがいているが、十八年経った今でも、うーんと首を捻ることが多い。

 刺激を受ける芸術家ならたくさんいる。フィンセント・ファン・ゴッホや、サルヴァドール・ダリ。最近の画家なら北村直登さん、立島夕子さんなどといったところか。
ああいう絵を間近に見て、胸の内からどんどこ、「ほお~~!」みたいな、感動があふれる。
どこかで言ったが、風景などは、目の前の世界が広すぎて、頭の処理が追いつかず「ふーん。」とその場では思うのに、絵や音楽は「ほお~~!」となるなのだ。なぜだ。奥深くの広さを心で感じているからか。
好きなものを好きなだけ描いていても、心のどこかで「あの画家のような絵を私も描いてみたい」と思うのは、当然というか、仕方のないことだ。

 けれどそのために自分の個性が死んでしまうのは、良くない。
 絶対に、良くない。
 誰かの価値観に従えばその時点で、個性は、死んでしまうと思うのだ。

 だから私は美術教師が嫌いだ。
あの人たちなんかは、よく生徒の作品に口出しをすることが多いが、あれって先生たち個人の価値観や感性を押しつけている、とみた。
生徒の作品を見回って、そこまではいいのだが、「こうしたらもっと良くなるよ」と筆や鉛筆を取り上げて、画面に書き込む先生をたくさん見てきた。あれぞまさしく「個性を殺す」ことなのだ。

「もっと良くなるよ」って、それは誰が決めたことなのか?
そこに根拠はあるのか?
自分の好みに仕上がらなかったら、人の作品を改変しても良いものだろうか?

それでは個人の作品ではなく、その教師の作品になってしまう。
 でもたいていの人は、それに気付かなくて、「ああ、こうしたら良いんだ」と素直に受け入れてしまう。悪循環である。
そもそも美術の授業って、人が元々持っている感性を、育てたりのばしたりするためのものだと思うのだ。だから筆を取り上げるまでのことをする教師は、美術教師に向いていないと思う。きみは教師ではなく一人の芸術家として歩みたまえといつも思う。

教えなければ感性など育たない、と言うが、そうではなくて。全てが全て好きにさせろと言いたいのではない。
あるテーマだけ設定して、画材や描くものは好きにさせるのが良いのだと思う。それで「どうしたら良いですか」と聞かれれば「そんなものは自分の好きに、思うとおりに描けば良い」と言ってくれれば良い。「ぱきっとした質感を描きたいんですけど」と聞かれればそのときは、「私なら、こんな感じに描くかも。」と、黒板にさっと描いてさっと消すくらいで良いのだ。決して、自分の価値観を押し付けない。

そういう意味では、初めて出会った、中学時代の、美術担当の教師は、テーマは決めても口出しすることはほとんどなかった。好きに描かせてくれた。あれは今考えれば良い先生だったと思う。
彼女は、他人に興味がなかったのだろうか。けれどそれが良いのかもしれない。
自分の作品が頭をぐるぐる回っていて、他人の作品なんぞどうでもいいくらいの、そういう人が良いのだと思う。

先生たちよ、どうか、この授業で自分の作品を作り上げないでほしい。私たちの感性を育てる、手伝いだけ、そっとしてくれれば良い。好きなようにして感性が育つのを、個性が確立されてゆくのを、ただ見守っていてほしい。

 そうして広がってゆく感性を、誰もがどこまででも、何らかの形で表現できればいいなと思う。
その中でも私は、思い切り、自分の好きなように、好きなものを、好きなだけ、好きなときに、キャンバスにぶつけられる、むつかしくも美しい術が、私は大好きなのである。

個性を殺すな

個性を殺すな

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-06-12

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