土竜

土竜

 どうやらこの瞳は警戒心も持たず、何でもかんでも視界に入れてしまうらしい。
 かと言って特段嫌なものを見たとは思わない。ただ、少し、心臓がつつかれた気持ちになった。べつに、僕も死にたいと思った訳じゃない。可哀想とかそういう訳でもない。
 心臓がつつかれた。ただそれだけなのだ。

 猫でもなんでも、動物の死体が目に入ったとき、親指を隠さなければ、親の死に目に会えないとの話をよく耳にする。
 信じていなかったはずなのに、気付いたら、親指は両方とも、他の指の下に隠れていたから、不思議だ。

 もしもこの土竜の死体に、僕がなってしまったら。
 僕は、畑の横の道路わきに転がっている、動かない土竜になってみようと試みた。僕はいま、土竜だ。僕はいま、土竜だ…。
 土竜の生態についてはよく知らないから、それっぽい感じを頭に思い浮かべる。

 僕は目の前にある土を夢中で掘っていた。生憎真っ暗だし、僕らの目はすっかり退化してしまっているから、どうせ地上に出ても、なんにも見えない。なんにも見えないから、だから掘り続ける。
 そうしていたらいつのまにか、手は強くなっていて、掘ることで怪我をすることはなくなった。土竜ライフも、悪くはない。
 たまに土ではない何かに触れる。柔らかくなく、がりっとしている。これは何だ。そう思っても掘り続ける。これはかなり掘り甲斐があるというものだ。楽しい。
 また掘り進めれば、今度は逆に柔らかいものに触れた。少し、冷たい。しっとりしている。細長いこれは、ご飯だ。僕はそのまま、そいつをたいらげた。
 すっかり上機嫌になって、掘るスピードを上げてゆく。ただただ掘るだけの毎日に、これからずっと飽きることはないだろう。本能からか、そういつも思う。むしろこうしていないと落ち着かないのだ。
 やめてしまったら、心臓まで動くのを止めそうな気がして。僕はいつも怖いのだ。死に向かうのが分かっているから、怖いのだ。
 刹那、眩しさで、無いような目が眩んだのは、体がかたい何かに打ち付けられてから気がついたことだ。全身に、焼かれるような痛みがじわりじわり、走っている。僕は何が起こったのか分からなかった。
 向こうで人間の声がした。作物が、とか、ミミズが、とか。土がぼこぼこになった、とか。僕は意味がよく分からなくて。ただ僕は目の前を掘り進めていただけなのに。
 真っ暗だった視界は真っ赤に変わる。太陽が僕の目を焼いている。どんどん体が熱くなる。脳内は溶けてゆく。四肢はかたまってゆく。
 僕は浮かぶ。今まで地中にいたから、こんな感覚を味わったのは初めてだ。僕の意識は今此処にあるはずなのに、ぐったりしている僕が下に突っ伏している。僕は器を抜けたのだ。
 引き寄せられるように、そこにいた、人間の指へと泳ぐ。疲れたので僕はそこに眠ることにした。

 ここまで考えて、僕は心を引き抜いた。当たり前だが気分の良いものではなかった。はー、と長い溜息をついた。
 それからはというものの、どんな動物の死体を見ても、僕はそれになろうとした。自然に体が、頭が動くのだ。不思議な気持ちだ。日常から、非日常へ。そうして、人の指で眠るのだ。そこで終わりだ。それから先には行けない。
 ただ、親指を隠されていれば、そこには入れない。誰かの指を寝床にするまで、僕は彷徨わなければならなかった。
 寝床にされた人間がどうなるのか、多分、そういうことだ。親に死に目に、会えないのだと思う。たったそれだけだと思う。多分。
 あのときの土竜はもういなくなっていた。それがどうなったのかも知らない。
 他の、例えば生きているものになろうと思ったがそれは出来なかった。僕がなれるのは、死んだものだけらしい。死んでいるものならば、それを目にすれば、心に入り込むことが出来た。
 あるときは猫になった。車に轢かれて、痛かった。
 あるときはバッタになった。人間の子供に網で捕まえられた。手足を千切られて、そのまま地面に投げ飛ばされた。痛かった。
 あるときは捨てられた犬になった。保健所に連れて行かれた。ガスの充満した部屋に取り残された。苦しかった。僕の他にも、その部屋には犬や猫がいた。みんな動かなくなっていった。少しだけまだ生きたいと願った。かろうじて生き延びた。そうしたら、焼却炉で炭にされた。

 痛かった。

 僕はどんどん人間が怖くなった。僕はすでに、人ならざるモノの心を得ていたのだと思う。だから、ただただ怖かった。神様に願った。もう死体なんて見たくないです、と毎日手を合わせて祈る。
 そうしたら、願いは届いたのか、いつからか死体を見ることはほとんどなくなった。人間に対する恐怖はそのままに。
 僕はぼんやりしながら、家の近くをふらふら歩いていた。特に意味はなかった。生きているものと、沢山すれ違い、僕は、生気を得る。みんな、素知らぬ顔をしていた。
 生きることも死ぬことも、殺すことも殺されることも、どれほど残酷なことだろう。そんなのはどうしたって、計り知れない。僕は何度も死んでいる。何度も殺されている。けれどもこうして生きている。殺生はまだ、ない。
 生きるだけでも残酷だというのに、誰よりも僕はそれを受けている。少しだけ僕は笑った。

 祖父が死んだ。
 優しい祖父だった。小さい頃、祖父の家で僕が眠れないでいると、彼は子守歌を歌ってくれた。母は歌ってくれなかったから、僕はそれが楽しみだった。
 厳しい祖父だった。あるとき僕が、川で溺れそうになったとき、祖父が助けてくれた。そして、こっぴどく叱られた。それは僕のことを心配してのことだったから、それでも僕は嬉しかった。
 そして、動物が好きだった。祖父の家に行けば、庭にたくさんの犬や猫、鳥なんかが沢山いた。彼は一匹一匹、自分の子供のように育てていた。僕はそんな彼の姿が好きだった。僕もお世話するのを手伝った。ロン、花子、じゅん、竜、他のみんなも、名前はまだ覚えている。彼らはまだ生きている。祖母が彼らの世話を引き継ぐことになった。僕もまた、手伝いに行こうと思っていた。
 祖父の葬式に出た。僕は菊の花を一輪持って、眠るように死んでいる祖父の元へ歩く。それはそれは、穏やかな顔だった。
 まだかすかに息づいているような気がした、祖父の肌に触れると、宇宙のように冷たかった。もうこの体には、あたたかい血は巡っていないのだ。祖父が死んでいることが、やっと、分かった。
 僕は久々に、死んだものになろうとした。祖父に、なろうとしたのだ。だが、祖父にはなれなかった。こちらに来るな、と言われているような気がして。
 入り込めなかったけれど、あたたかい何かが僕を包んだ。どうして逝ってしまったかは分からない。けれど、祖父はきっと、幸せに死んでいったのだと思う。それは表情からも、何かからも、感じ取ることが出来たから。僕は胸の奥がきゅうっとしめつけられたような気がした。そして、花を手向けた。
 祖父は焼かれた。骨だけになった祖父を見て、また胸は苦しくなった。骨になっても祖父にはやはりなれなかった。久々だから、きっとやり方を忘れてしまっているのだろうとも思った。触れた肌の感触を、穏やかな顔を、忘れたくないと思う。
 祖父の葬式が終わって外に出ると、雨がざあざあと降っていた。まるで、祖父の死を悲しむ僕の気持ちを、空が、形容してくれているようだった。雨は嫌いだった。けれど、このときばかりは、降りてくる一粒一粒を、愛しいとさえ思えてきてならなかった。


 そうしたら、僕も死んだ。
 雨の中を走った。特に意味はなかった。悲しさとか虚しさとか、そういうのを振り払うように、手足を振り回し続けた。雨と霧で、目の前は何もかも分からなかった。何もかも分からなくて、そのまま走り続けていたら、投げ飛ばされた。
 やはり何が起こったかは分からなかった。
 地面に目をやると赤黒い肉塊やらが転がっていて、気分が悪くなる。気分が悪くなって、初めて、痛みがやってくる。息ができなくなる。人の声がする。雨が、開いたままの両目に容赦なく注がれる。脳内が溶けてゆく。
 僕は、すっと体が楽になった。飛べたのだ。僕は空を飛ぶことにあこがれ、飛行機に思いを馳せていた。だから嬉しかった。
 空から見る僕の姿は、散々だった。ああ、僕はきっと助からないな。そう思った。僕は彷徨うことなく、人の指に入ることもなく、そのまま、上へ、上へと、昇ってゆく。
 これが、死というものか。これが僕らのところでいう、死なのだ。上へ昇ってこそ、死なのだ。つまり僕は今まで、死んで、殺されて、いなかったのだ。だって、あのとき、一度も空を飛んでいない。なぜあのとき飛べなかったのか、それは僕にも分からない。
 ふと、あのとき見た土竜を思い出した。僕は自分に、土竜になったあの体験を重ねていた。全く同じだった。わけもわからず穴を掘って、走って。結局何も見えずに死んだのだ。何とも、笑えない。

 あーあ、と、僕は呟いた。祖父に、来るなと言われていたのに。
 もし出会ったら、そのときはきちんと、ごめんなさいと、謝る所存だ。

土竜

土竜

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-06-12

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