月の味

 月っておいしそうじゃないですか。
 子供の頃から、ずっとそんな想いを馳せていた。こがね色のそれはどことなく私の食欲を引っ張り出してきた。
 ぱりっとしてるのか、それとももちもちしてるのか。あと、多分、すっごく不思議な味だと思う。満月に近ければ近いほど、味が濃い。あんまり甘くない。黒コショウを振りかけて、ナイフとフォークで切り分けるのだ。球体であるとかそんなことは知らなかったから、スライスチーズみたいな薄さなんだと思っていた。まさかこれが、石や岩なんかでできている星だとは思わなかった。
 それを知ってもなお、おいしそうだと思う。今でも、ひょっとしたら食べられるんじゃないかと思う。
 空に浮かんでいるものはなにも月だけではない、当たり前だ。でも、太陽も星も、雲でも、おいしそうだとは微塵にも感じなかった。雲なんかはよく、「綿菓子みたいだ」というのを耳にするが、うーん、まあ、そんな風にも見えるけれども、味がなさそう。多分無味無臭。やっぱり私には月が一番魅力的に見える。
 ああ、月が、空から降ってきたりしないだろうか。誰かに分け与えるだなんてもったいない、私一人でたいらげていしまいたい。

 と思っていたら、最近月が、地球に降りてくるという噂を耳にした。なんでも、空ばかりに浮かぶのは疲れて肩が凝るという。お前肩なんかあったのかよ。それで、地面に足をつけて、革靴をカツカツ言わせ杖をつきながら、鼻歌交じりに街を歩くらしい。そして、たまに出会った人間と会話を交わすという。お前足なんか口なんか、あと鼻なんかもあったのかよ。
 私はすごく嬉しくなって、わくわくして、毎日、二十一時ごろになると寝巻き姿のまま外へ出た。
 一ヶ月ぐらいして、少し諦め気味に空を見上げると月の姿はなかった。やっと降りてきているのだ。地球に。ただ、この星はだだっ広いから、どこへ降りてくるかなんて分からない。もしかしたらもう一ヶ月、待たなければならないかもしれない。それはそれで、めんどくさい。街灯はなんとなく心細い光を放っている。星は月の分まで輝こうと必死だ。あたりをふらふら歩いていると、
「やあ」
と声がした。
 振り返ると、黒いスーツとネクタイが目の前にあった。声のしたそれと私の距離はだいたい四十センチメートルくらい、こいつめっちゃ近い。あと背が高い。顔を見ようと上を向いた。
 それは確かに、月だった。まん丸で、輝いていて、少しまぶしい。その球体にはシルクハットが乗っている。それを、タクシードライバーとか執事さんとかが着けているような、真っ白い手袋に包んだ指先で、丁寧につまみ上げている。もう片方の手は、聞いていたとおり杖を持っていた。そいつは私を見下ろすような形で、少しだけ腰を曲げている。
「こんばんは」
 私は少し離れてから、小さくお辞儀をした。
「こんばんは」月が言った。
「やあ、来てみれば綺麗なお嬢さんじゃないか。運が良い。きみの頭からはよく、僕を呼ぶ声がするのでね」
「はあ、ありがとうございます。そんなことないと思いますけれど。頭の中が分かるんですか」
「もちろんだとも」月は頷く。
「僕はずっとこの星を見てきたからね。特に僕のことをよく想っている人間の声は、聞こえるものなのさ。まあ、けっこう、なんとなくなのだけれどもね」
 月はすごく得意げに、丁寧な言葉遣いで話していた。そういえば月に顔はなかった。どこから喋っているのだろうか。
 月はコンビニに行きたいと言い出した。この人、いや、この月、すごく物腰が柔らかく、上空でダージリンティーとマカロンを食べながらクラシック音楽を聴いていますみたいな、お上品な雰囲気を醸し出しているのに、意外と庶民派。ちょっと面白い。
 道中他愛もない話をして、店に足を踏み入れた。入店のメロディがあたたかい。月は店に入るなり、お酒のコーナーへ一直線に進んでいた。手に取ったのは缶ビールだ。似合わねえ。
「きみもどうです。」
「私ギリギリ未成年なので、いいです」少し焦った。
「ああ」表情こそないもんだから見えないが、声は少し残念そうだ。
「それはそれは。けれどもね、いいでしょう、一度くらい。というかこういうお酒の付き合いとかなんとかというものは、今からでも身につけておくべきだ」
月は小声でそう言って、缶ビールをもう一本掴んだ。私はまあいいか、と、鼻で溜息をついて、何も言わなかった。
 月は僕の奢りです、と言って、そのままレジへ向かい、私は外に出て待っていた。中の様子をうかがうと、店員さんは、目の前の球体に臆することなく、むしろ人間に接するように、自然な応対をしていた。というか今まで、すれ違う人も、車の中の人も、この地を歩く月を見て特に驚く様子はなかった。もしかして、私だけが、これを月だと認識できているのかも。周りには人間に見えているのかもと思った。そういう魔法とかいう類のものが、確かに、この月には使えそうだ。人間の顔なら、これはいったいどんな顔立ちをしているのだろう、すごく気になった。
 コンビニから出てきた月と、来た道を戻る。缶ビールの入ったビニール袋はがさがさと音を立てている。
「お月様が缶ビールだなんて、変なの。」私がそう零すと、
「なんだって?」と月がこちらを向いた。
「なんかこう、あなた、すごく丁寧だし、ワインとか、紅茶とか嗜んでいそうだから」私は、月の、無いような目を見て言う。月は、ははは、と笑った。
「何で僕がそのような印象を持たれているのか、分からないけれど。あっ、この風貌のせいかな?」
月は、スーツのラベルをぴっとつまんで言う。
「そうだなあ。ワインも紅茶も、好きだね。けれども僕は、やっぱり、ビールが好き。ワインなんか、あんなのは上品に飲まなければいけないじゃないか。いや、そうしなければいけないことなんて、全然ないのだけれど、どうも落ち着かないのさ。まあ、ゆっくりしたいときくらい、ぱーっと気軽に飲めるものが良いよね。何せ、僕はすぐに肩が凝るからね」
 なんとなく人間味を感じて親近感が湧いた。家に着いたので、中に招き入れた。月は柔らかく輝いていて、リビングには、天井の灯りなんていらなかった。太陽に照らされるから月は輝いて見えると聞くが、この月にそれは関係ないみたいだ。
 月はスーツ姿であぐらをかいて座り、缶ビールを取り出した。私は酒の肴にと、ベタだなと思いつつ、自分はお酒なんか飲まないし、それしかイメージが沸いてこなかったので、冷蔵庫から枝豆を持ってきた。
差し出せば月はありがとうございます、と両手で丁寧に受け取りテーブルに置いた。カシュッ、と、ビールの開く音は心地よく、私は飲んだこともないそれを喉へ押しやった。あんまりおいしくない。苦い。顔をしかめていると、月が、
「これもいい経験だと思って、心にとっておきなさい。」
とか言って笑うので、
「はい。」
と、愛想のない返事をした。月は、口がないのにどんどんビールを啜ってゆく。枝豆が、皮だけになってゆく。不思議だ。メカニズムが気になる。
 ちまちまと、変な味の液体を流し込みながら、月と駄弁った。太陽君は絶対、地上に降りてこない、楽しいところなのに、とか、星たちは僕がいるからって輝く仕事を怠けている、とか、愚痴っぽい話を聞かされた。月もやはり疲れているのだ。私はほとんど聞き役に回っていた。
 月が動くたびに、ぼんやりと照らされた部屋は、その表情を変えてゆく。窓から見える空は、どことなく寂しげで、月の帰りを待っているようにも見えた。時計を見れば、二十三時。
 月はビールの中身も枝豆もなくなったので、そろそろおいとまするよ、と立ち上がる。私はビールを飲みきれなかった。
「やはり人に話を聞いてもらうって、良いね。僕にはこういう時間が必要だ」
月はそう言って、うんうんと頷いている。いつもこんな調子なのだろう。
「最後に。何かひとつ、願い事を叶えてあげようと思うのだけれど。何かあるかい?」月は振り向きざまにそう言った。ので、

ぶすり。

 隠し持っていた包丁で、腹部を貫いた。血なんてものは出なかった。月は驚いたように一瞬止まった。
「お月様って、おいしそうですよね。」私は顔を見ないままに、下を向いてそう言った。月は、特に困った様子もなく、「そうだね。」と笑った。
 そのまま、ごろん、と音がしたので、床に目を落とすと、球がころころ、転がっていた。ちらりと声のした方を見れば、そこに先ほどの輝く月はなく、黒スーツも霧のように消えていった。
残された、こがね色のそれがぴたり、私の足にぶつかって止まった。それを拾い上げて、台所へと向かう。途中、やっとリビングの電気をつけた。
私の足取りは重たかった。彼は人間味が強すぎた。
 まな板に、スイカくらいある大きさの月を乗せて、包丁でそのまま角切りにしていく。手触りはやはり岩肌に近く、これほんとうに食べられるのかと疑問に思えてきたが、意外にも包丁の刃はすんなり入って、切り心地は最高だった。表面だけ少しさくっとしたけど、そこからは、チーズを切るような感覚に近い。が、クレーターを見るたびに心がずきずきと痛んだ。刻んでも刻んでも、月は暗くなることを知らない。
 そのまま大きめのお皿に盛り付け、あらかじめ茹でておいたキャベツをちぎって別のお皿にてきとうに放り込んだ。なんとなく月にはキャベツが合うような気がした。
 テーブルまで運んでから、座り込む。さっきの月を思い出したわけでもないのに、自然とあぐらをかいていたので、なんだかいたたまれない気分になる。けれども姿勢を直そうとも思えなくて、ふう、とため息をついた。
 塩茹でキャベツを一枚取って、月のかけらをひとつ、くるむようにした。そこに黒コショウをふりかける。うん、すごくいい香りだ。それを一口で頬張る。
 なんともいえない、溶けるような味が、じゅわっと舌に広がった。おいしい。子供の頃から想像していた味を上回るようだった。キャベツが、黒コショウが、月の味を引き立てる良い役回りをしていた。まだ残っていたビールを口にすれば、さっきとは違っておいしく感じた。
しんと静まりかえる部屋に響く、咀嚼音と喉の鳴る音。その夜、私は夢中で月を口に放り込んだ。気がついたら朝になっていた。

 そこからしばらくは、月の出る夜はなかったのだが、また一ヶ月ほど経ってから、球体がようやく顔を出した。やはり、食欲がそそられた。
それからまた何度も夜を待って、月の出ない夜が来た頃、あの日食らったその味を思い出し、またキャベツを茹でていた。

月の味

月の味

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-06-12

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