影 (秋雨真鹿)

 鍵を落としたんです。ええ、何処に落としたのかは分かりません。アパートを出て二十分ぐらいのところのホームセンターから帰ってくる道中かもしれません。まあ関係ありませんか。はい。住所はさっき言いましたっけ? 言いましたか。そうです、二〇八号室。はい。何分ぐらいかかりそうですか? 十分程度? そうですか。はい。では、よろしくお願いします。
あっすいませんちょっと待って下さい。料金は鍵を開けてからになりますか。開けてから? 現場で払いますか? 現場? ああ、そうですか。はあ、あの、あのですね、実は私今すぐに出掛けなきゃならなくて、あの、待ってるのちょっと無理なんですよね。ですから、あの、今私財布は持ち合わせているので、二万か、三万、あの、ここに置いてくんで、それで仕事が終わったらそれを受け取って頂く、って形出来ますか?
無理ですか? 居てもらわないと困る?
ああ、いえ、すいません、あの、時間とかは問題じゃないんですよ。いえある意味では問題なんですけれど。急ぎの用事ではないんです。ただ今日絶対にやるって決めたことなんです。ええ。はい。いえ、今部屋を開けてほしいんです。用事が終わってから、とかではなく、貴方に部屋を開けて頂く、ということが一番大事なんです。実は私が部屋に入ることは問題じゃないんです。私は別に入らなくていいんです。
訳が分かりませんよね。
正直言うと私もよく分からないんです。
私は、今貴方に来てほしいんです。そして部屋を開けてほしいんです。これは確かです。でもそこに私は関知しません。大事なことはそこに私がいないってことなんです。はっきり言って鍵なんてどうでもいいんです。余計混乱しましたか? すいません私も今混乱しながら話してるんですよ。ホームセンターに行って買うもの買って帰ってきて、自分の部屋の鍵を確かめるまでは至っていつも通りでした。それでアパートの階段を上り、うすぼけた蛍光灯でもその照りに輪郭を鋭く光らせたドアノブを見据えて、回した時、いや、回らなかった、鍵が閉まっている、ということに気付いた瞬間なんです私の立っている地面が一瞬ふわって持ち上がったのは。実際飛び上がったのは私かもしれないですけど。夢の中で夢だと自覚する時ってありませんか? 夢の中の自分っていうのは意外と落ち着いているもんなんですけど、その時ほど仰天したことは今までないってくらい現実の私はびっくりしましたよ。
え、何ですか。
閉まっていることの何が不思議なんだ、ですか。
ああ、あの、すいません、ええと、僕は外に出掛ける時、いつも鍵を開けて出ていくんです。鍵は部屋の中の、あの、冷蔵庫に入れておきます。
どういうつもりなのかと言われましても、困りますね、いえ、理由はあるんですけれど。
大学に入った時からの習慣なんです、つまり一人暮らしを始めてから。今年で私は三十になりますから十二年位になりますか、かれこれ。鍵を冷蔵庫に入れたまま、ドアを開けて、出ていく。もちろん閉めていません。帰ってきて、部屋に入ったら、冷蔵庫から鍵を取り出しすぐに施錠します。それからベッドに潜り込みます。ですから鍵を掛けておくのは寝る時だけですかね。それ以外の状況下ではほぼいつも開いています。こういう癖なんです。泥棒に入られたことは多分無かったと思います。幸運なことに。
それでも開けて出ていくのはいくらなんでも物騒だ、鍵を持って出ないのは楽だからか、ですか?
違います。そんな形而下的な理由ではありません。
ええと、あの、そうですね、私のあの、家庭環境に因しているんですよ。

私が小学四年生の頃ですかね、父の働いている会社の経営が厳しくなって、給料明細の金額が随分と痩せた数字になって、でもスーパーに並ぶ胡瓜だの葱だの野菜の相場は軒並み高くなって、TVの中の首相が不景気を脱したと国会答弁で唾を飛ばして叫んでいました。私の母がパートの仕事に加えて、夜に出来る仕事を始めました。内職じゃありません。近場のスナックです。まあ当時の私は、近所の八百屋でバイトしてるんだくらいの認識でしたけど。四年生だと、十歳くらいですか。もう少し嫌悪感抱いてもいい年だと思いますよね。まあ、当時のことはあまり記憶に定かじゃないんですけれど、母が派手な化粧で夜出掛けるのと、クローゼットを開けると、胸元や太腿を露出しやすく設計された服がずらっと並ぶのを見ていましたから、何となく、家庭に、いえ、母に不穏なものを感じていたのは確かではないでしょうか。日々の家事に加えパートとスナックの掛け持ちですから母は毎日休む暇なかったと思うんですけど、私に、あ、そうだ、当時四歳の弟にも、何の貧窮の思いも感じさせずに育ててくれていました。家の雰囲気にあまり険悪なものを感じなかったのは母のおかげかもしれません。まあ、実際夫婦仲に波風が立っていたとは正直思いません。良好か、と言われるとそれもどうか分かりません。私は父とほとんど喋らなかったんです。会社が苦しくなっても一社員が水車に縛り付けられるような焦りにすぐ追い立てられる訳でもなく、いつも通り、まあ、残業の時は遅いですけど、夜の、九時か十時辺り、がちゃりと扉を開けると玄関には母の香水の甘い香りがほんのり漂っていて、でも既にスナックに出勤した後の誰もいないがらんとした居間の真ん中の机の前に座り、ワンカップを片手に、ぼんやりとテレビを見ていました。大体その時私と弟は二階で寝ているんですが、時々水を飲みに降りてくると、そのスーツ姿の父の憮然とした表情を見ることが出来ました。父はその時そうですね、四十ぐらいじゃないでしょうか。何というか、私は時々鏡を見ると、何故かその時の父の表情が思い出されてくるんです。無精ひげを生やし、銀縁メガネの奥の小さな目に奇妙な色の光を宿らせている、土気色の顔を。人間て疲れているときは皆似たような顔になるもんですよ。三十も四十もそんなに変わりませんね。
それで、ええと、何でしたっけ、ああそうそう。とにかく家計は火の車でしたが私は何とか元気に成長していきました。そして、四年生も終わりに差し掛かる、二月の風が指にひびを入れ始める嫌な季節がやってきた頃です。私はとにかく冬が嫌いでした。どんなに嫌われようと構わずやってくる図々しさも余計憎々しさを駆り立ててくれました。この時期の小学生ってのはどんなにやんちゃな子でも萎んだ花のように大人しくなるもので、厚手の手袋をはめ、白いふかふかしたマフラーに顎を沈めながら、無言で足早に帰路についていきました。しかし、私は学校が終わってもすぐに家を目指さず、木枯らしに打たれながら、通学路を迂遠して帰っていきました。なぜなら、父も母も仕事でいない、弟は託児所で保母を相手に泣きじゃくっている、そんな誰もいない海のように静まりかえった家に帰るのは、少し、いえ、かなり怖かったからです。誰もいない空間っていうのは私には凄く不気味でした。ほんとに一人であることを絶対無変の事実であると受け入られるのはもう少し成長してからです。「もしかしたら誰かいるかもしれない」という仮想が一瞬頭を掠めただけで、もう誰かが私をじっと見ているようなそんな妄想に囚われるんです。ですから、誰もいない家で一人することと言えば、父のように、テーブルの前に座り縮こまって息を殺すことだけです。ただ唯一違うのはTVをつけていないことですか。TVは怖くて点けられません。音に紛れてこっそりやってくるかもしれない。もしくはリモコンに手を伸ばした瞬間腕を掴まれるかもしれない。とにかく一人で何もせずじっとしている。変な音がすればすぐに逃げられるようにしておく。それが全てです。もちろん部屋が暗くなっても電気を点けに行けません。闇が部屋の隅から隅まで染み渡っていき、何も見えない中、冷蔵庫の低い唸り声だけが聞こえてくる。蹲って腕に沈めた顔を、床から足へと伝わっていく影がぺたぺたといやらしい手で触る。そろそろ感情が限界になりそうでなりそうでもう耐えきれない七時になると、母が弟を連れてパートから帰ってきます。私はその時この世で一番救われた人間になります。顔を上げる。母さんがいる。ああ家に帰ってきたんだ。帰ってきた母が居間に入ってきてただいま、と言う前に、私が、ただいま、と叫んで、母が「あなたは、おかえり、でしょ」と笑うのを見て、お帰り、と言いながら母の胸に顔を寄せる。誰もいない家って家じゃないんですよ。少なくとも当時の私にとっては。猛獣が眠っている檻に放り込まれるような気分でした。
そんな怖い思いをするのはちっとも慣れませんでしたし、毎日家に帰るのがとても嫌でした。といっても友達のいなかった私には誰かの家に寄るとか遊ぶとかして時間を潰す手段はありません。学校の図書室で本を読むか、公園でぶらぶらするぐらいですね。でも定時になると先生に学校から追い出されるし、公園には意地悪な同級生らがたむろしていました。いくら独りが厭だからって腹を殴られたり、金を取られたりするのも厭でしたからね。ええ、実際に経験しました。正直、これなら独りで暗闇を吸っていた方がましだ、と思いました。まあ、これは詳しくは話しません、話したくありません。
とにかく、金曜日の五時限目が終わり、児童が一斉に校門を飛び出していくのを尻目に、一人とぼとぼといつもの遠回り帰り道コースを歩いていきました。一様に刈り揃えられた稲の寒々しい姿が並ぶ田園風景を眺めながら、車が一台通り抜けられるか抜けられないか位な幅の土道を渡り、誰か家に帰っていないかなあ、という願望を夕暮れに飛ぶカラスの群れに重ねていました。赤いスープに浮かぶ胡椒に似ていました。があ、と声が響くと、誰かが、があ、と返事をしました。
ぼんやりしていると、すぐに家に着いちゃうんです。猫や犬ってどんなに離れた場所からでも飼い主の家に戻って来ちゃうらしいんですけど、多分彼らも考えてるんじゃなくて本能で歩いてるんですよね。意思や思考とは関係なく身体が自然に自分の巣を目指している。北風に震えながら歩いて、ふと顔を上げると自分の家が見えた時いつも自分がそんな動物のように思えました。
私は溜息を吐いて、もう少しここらをぐるぐるしようか、と逡巡しましたが、そろそろ寒気が耐えがたいほどに身体に爪を食い込ませていました。震えを止めるためには家で毛布に包まってじっとするぐらいしか方法はありませんでした。ごしごしと肌をこすりました。
私は家の前に立ちました。
何故でしょうか? 私はその時とても奇妙な心持になったのです。何の予兆も感じず、余りに突発的に。何故なのか、今でも分かりません。確かにいつも家の玄関扉を開けて帰宅する時は憂鬱な気持ちにひどく沈んだものですが、その時のそれは、どうやら今までとは違う、ひどく異質なものでした。恐怖や、怯懦の類ではない、もっと熱の高い、それでいて激しくけがわらしい、触れてはいけない焼けた鉄の塊のように、その家が姿を変えて現れていました。いや、そこまではっきり感じ取れていたかどうかは分からない。なぜなら私は吸い寄せられるように家に入っていったのだから。いやだからこそだろうか。今まで見たことのない剝き出しの巨大な妄想を目の前にしたからこそ、その魅惑に抗うことが出来なかったのだろうか。
玄関扉は重かったが静かに開いた。いつもはもっと大仰な音を立てていたはずなのに。迎えられているように感じた。誰に? 家に。いや妄想に。馬鹿馬鹿しい静かに開けたのは他でもない私自身だ。私が「こっそり入った方がいい」と判断したからこそ扉を静かに開けた。家の中を隙間から覗く。電気は一つも点いていない。背後の夕影が差し込んできて廊下を照らす。廊下の突き当りに居間へと繫がるドアがあり、縦状の細長い擦りガラスが二本はめ込まれている。そのガラスの向こうに、黒い影が、二体うねっているのが見える。私がいつも見ている妄想だ。いや見ているとは語弊がある。蹲って必死に目を瞑る私の腕を、肩を、脚を掴み揺さぶろうとする形の無い影だ。それはひょっとしたら存在しない、何ら怖がる必要はない奴らなのかもしれないと最近ちょっとだけ思えるようになったけれど、ほら見ろ、やっぱりこうして存在しているじゃないか! 私は勝ち誇った。靴を脱ぎ、廊下に一歩足を踏み出した。きし、と床が軋んだ。影の声が近づいてくる。最初二体だと思っていた影は支点を中心に一体となり、獣のような叫び声を上げると、また分離し二体に分かれた。どうやらそれぞれ形状が違うようだった。片方は、ごつごつとした、岩のような身体を振り回し、もう片方の影をつつき、噛み、絞めている。そのもう片方の影は対照的になよなよと線の細い、長い髪を滝のように揺らし、時々、きい、きいと高い声を自由に上げていた。さっきの獣声はこいつだろうか。私は恐ろしくなかった。むしろ興奮していた。熱が私の身体の一か所に充満していくのを感じた。いつも怯えていた影にどうしてここまで惹きつけられるのか不思議だった。こいつらの正体を見たいと思った。いつも塞いでいた視界の向こうに確かに存在していた影をこの目で確かめたかった。ゆっくりとドアに近づく。よく見ると居間には薄い光が点いている。影は電気を点けられるのか? 私はその時初めて不気味に思った。しかしそれも一瞬の事だった。むしろその事も好奇心に火を点けドアノブに伸ばす腕を下げることを不可能にさせた。ドアノブをしっかりと握り締める。この向こうに奴らがいる。私はゆっくりと手首を回した。
影はそこにいた。私の父と母の姿を模していた。
 ただ異常なことに彼らは裸だった。肩幅の広いごつごつとした体格が母にのしかかり、色の黒い腰の肉をびりびりと震わせた。母が父の背中に腕を回し、血が出そうな程肉に爪を立て、ぜいぜいと息を切らしながらも離すものかと踏ん張っているように見える。彼女の肉体から伸びた影が私の足元に触れていた。
 彼らは気付かない。気付かないふりだったかもしれない。いやきっと気付いていなかった。私が彼らを怖がらなかったから。私が静かに玄関扉を開いたから。いつもじっと蹲って目を塞いでいたから。どれも本当の理由ではないかもしれない。父がぎりぎりと腰を深く沈めると、母の脚はびくびくと跳ね、歪んだ嬌声を漏らした。私の方を見ない。見ないのはそもそも存在を認識されていないからか。いわば認識の外で二人は絡み合っている。彼らに見えているのはお互いの顔と熱と性器だけだ。でも私は違う私は影がいるのを確かに認めた上であんなにぶるぶると震え何も見ようとしなかったんだ。見たくないと思った時点でどんなに否定しようともその存在を認めてしまったことになる。彼らはどうなんだろう見たいとも見たくないとも思ってない目の前の入れ物に欲望を満たしていく作業に夢中になっているだけだ。
 声をかけてみようかと思った。でも躊躇われた。影はいつも私の周りをうろつくばかりで感覚に干渉しようとはしなかった。ならば私もそうするべきだ、と思った。
 私は二階に上がろうとした。すると背を向ける直前、私を貫く視線が感じられた。気付かれた。私は彼らの方を見た。しかし彼らはこちらを見ていない。依然お互いの肉にむしゃぶりついたままだ。私はドアの隙間からきょろきょろと目を泳がせた。今も見られている。ぺたりとシールが額に貼りついているような違和感がある。そして、両親のいる向こう側のソファに、もう一人の影がいるのを見つける。私の弟だった。うつぶせになってクッションを頭からかぶり、ぶるぶると肩を震わせながら、私を、怯えた目でじっと見つめている。

 私がいつも怖がっていた影の正体が両親だったかは正直今もよく分からないんです。だって私が怖がっていた時母は玄関からただいま、と言って帰って来るんですから。同じ人物が同時に違う場所に存在することは不可能なのでやっぱり影は影と存在していたことになる。でもたまにそうじゃない日もあった。いつまで待っても待っても母が帰ってこないで、遂に眠ってしまったことが度々ありました。帰ってこなかった訳じゃないんですよね、元々家に居たんです。父と一緒に。二階でセックスをする軋みや、熱とか、声が私に影の妄想を膨らませていたんでしょうか。たまに居間でセックスをする日もあったんですかね。私が入ってきてもやめなかったでしょう。いえ見た記憶はありません。でも記憶が無いからと言って彼らが居なかった証明にはならない。ただ単に認識の外へ追いやっただけかもしれませんよね、あの時の彼らと同じように。
 でもあそこに弟がいたことが何よりも不思議です。彼らは弟が見えてたんでしょうか? 弟は母と父が見えていたんでしょうか? それとも私と同じように得体のしれない「影」が踊り回るのをじっと耳を塞いで恐怖に耐えていたんでしょうか。私には分かりません。自分の家族の事なのに、私には分からない、思い出せないことが多すぎるんです。弟と見つめあった瞬間、私は身動き一つしませんでした。それからどうしたのかもう覚えていません。ただ、弟の目には、私も影として映っていたんだろうか、ということだけが今もまだ気掛かりです。
 それからまあ私は順調に進学し、勉強し、大学に通い、就職しました。何も変なことは起きていません。家族のみんなも元気です。ただ鍵を開けていくのを忘れないようにしておくだけです。理由ですか? あ、まだ言ってませんでしたね、すみません。僕は、いつも母から鍵を持たされていたんです。家に帰ったらポッケからアニメキャラのキーホルダーのついた鍵を出し、玄関を開けました。それからまた閉めました。最近物騒だから、が母の口癖で、いつも施錠や鍵の管理をしっかりするように言いつけられていたんです。私はそれを守りました。
 でも、一人暮らしをするようになってからですよ、私の部屋に影が回るようになったのは。自分一人が住んでいるんだから他に誰かが居るわけない、馬鹿馬鹿しいとその時はもう成長していたはずなんですけど、でも、ほんの一瞬。頭を掠めてしまっただけでもう駄目なんです。いないと思った瞬間いることを想定せずには居られないんです。それで、恐怖で夜も眠れなくなった私がどうしたかというと、施錠した鍵を開け直すことなんです。馬鹿らしいと思いますか。でも実際に、影はそれっきりいなくなったんですよ。あんなに枕元をしつこくうろつき回ってた影が。部屋はこんなに美しかったのだと僕は驚嘆しました。いかに影が空間を醜くすすけたものにしていたかが良くわかりました。防犯の事はそんなに気になりませんでしたね、まあ少しは不安でしたが、実体のある泥棒の方が影よりも何倍もましだったんです。
 それで、今日の事です。私は部屋から出て、ホームセンターに行く、帰ってきて、ドアノブを握る。固い。開かない。鍵がかかっている。ありえない。いつも開けておくはずなのに。普通の人なら鍵をもって出かけて行きかけるのを忘れるなんてことあるかもしれませんが、私の場合そんなことありえない。いつも冷蔵庫に入れておくのだから。寝る時ぐらいしか使わないのだから。考えられるのは一つ、私はポケットを探りましたが鍵が見つからない。当然です私は持って行かないのだから、でも現実に鍵は閉まっている。状況は自然とも言えました。私が眠るときはこういう状況下だからです。鍵は扉を閉めた後冷蔵庫の中にある、そして私はベッドで眠っている。でも、私は今確かにここに居る。何が起こっているんですか? 同じ人物が同時に違う場所に存在することは出来ません。じゃあここにいる私はいったい誰ですか。誰にも分かりませんよね。今話している貴方だって私の妄想かもしれないんですよ。鍵が開いていたのなら入れるのに締め出されて近づくことが叶わない影に僕自身が今なっているんです。否定できますか? 出来ないでしょう? ですから鍵を開けてほしい。あなたに鍵を開けて、中に私が眠っていることを確かめてほしい。私はそこに存在してはいけないんです。影となった僕が部屋に入っては駄目なんです。
 え? 出来ますか? 本当ですか? あ、ではお金、え、いらない? いえ、あの、いくらなんでも、あの、それじゃ僕の気が済まないというか、はあ、そうですか、まあ、じゃあお金はここに置いていきます。頂いてもらってももらわなくても構いません。私は平気です。私にお金はもう不必要ですから。
 はい。では、よろしくお願い致します。
 私は電話を切った。白い息は昇る間もなく掻き消えた。私は財布から二万円を取り出し地面に置いた。風を心配したが、飛び去る気配はなかったので安心した。そして、やはり鍵は冷蔵庫に入れておいたんだな、と思いながら歩き始めた。

影 (秋雨真鹿)

影 (秋雨真鹿)

「鍵」先週の分です。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-06-06

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