*星空文庫

夜明けが一番哀しい 新宿物語

沢 良 作

夜明けが一番哀しい 新宿物語

(2)
 トン子とはその名の通りに、豚に似た丸っこい身体つきから付けられた呼び名だった。彼女には外にも、九官鳥というあだ名があって、その騒々しいおしゃべりには誰もが辟易させられた。成田市に近い農村に実家があって、土曜日の夜になるといつも二時間以上をかけて新宿へ通って来るのだった。
「横浜?」
 安子と向き合って椅子に掛けていたノッポが振り返って言った。
「うん、わたしいっぺん、外国航路のきれいな船を見てみたいと思っていたのよ」
「外国航路の船がいるの?」
 安子が突っかかるような、棘のある言い方をした。
 安子は不感症だった。そのため、いつも不機嫌だった。彼女はこれまで自分の人生に、心からの満足感をいだいた事が一度もなかった。時々、ノッポと寝る気になったが、それは気が滅入って悲しくてたまらず、そうしなければいられない時にそうするだけだった。そんな時は彼女でも、他人とのつながりが欲しいと思うのだ。
 だが、彼女は決して、ノッポの愛撫を心でも肉体でも受け入れる事が出来なかった。いつもノッポのあえぎを遠い夜汽車の過ぎ行く音のように聞いていた。そして、ノッポの感激に満ちた表情を傍らに見ると、この背丈だけはバカデカイしょぼくれ男が当分、自分から離れていく事はないだろう、と思って安心するのだった。
「いるかどうか分からないけど」
 トン子はしどろもどろで言った。
「クイーン エリザベス号でもいるって言うんなら話しは別だけどさ」
 ノッポが安子の機嫌を取るように言った。
「クイーン エリザベス号なんているわけないじゃない」
 安子はノッポの言葉尻をとらえてやり込めた。
 ノッポは途端に元気をなくして、一メートル八十五センチの体を小さくした。彼はどんなに安子に邪険にあしらわれても、彼女を憎む事が出来なかった。二十二歳で町工場に勤める東北出のノッポには、安子が理想の女性に見えるのだった。
 彼は安子が十七歳の時、郷里の東尋坊の近くで四人の男たちに暴行された事を知っていた。安子の口から、まるで自慢話のようにその話しを聞かされた時、彼はある種の、恍惚感とも言えるような感情におそわれた。暗い夜道の雑草の中に横たわる安子の白い肉体を想像して、異常な興奮にとらわれた。自分もそのような形で彼女を"ものに"出来たらどんなに素晴らしいだろう、と夢見た。
 だが、現実のノッポには、安子をそんなふうに"ものに"する事など、とても出来なかった。安子の前ではいつも気おくれがしてしまって、なにかに付けて敗北感に近い感情を味わった。安子の体の上に自分の体を重ねている時にでも、安子の心をつかみ切れていないのでは、というもどかしさだけを感じ取っていた。彼はもし、安子と家庭を築く事が出来たら、いつまでも、こんなディスコテックで夜明けまでねばっていやしない、と思っていた。
 ノッポにはディスコテックの雰囲気に、なんとなく馴染めないものがあった。踊る事はもちろん、音楽に酔う事もまた、出来なかった。耳元で騒々しく鳴り響く音楽には、頭が割れそうに痛くなった。それで、一口呑むと顔中が真っ赤にほてるビールを無理してグラスに一杯呑んでは、その苦痛から逃れようとした。
 ノッポが最初に"うえだ"に来たのは、若者らしい好奇心からだった。なんとなく、今評判のディスコをのぞいてみたかった。恐る恐る入った店内で彼はだが、茫然と立ち尽くしていた。
 安子を見たのはそんな時だった。彼には安子が都会の粋を一身にまとった、イッチイカス、ナオンに見えた。ちゃらちゃらと幾重にもからんだブレスレットや、大きく垂れ下がった丸いイヤリング、さらに、派手に体の線を強調したサイケデリックな服装などと共に、けばけばしい化粧の美貌や、しなやかに伸びた色白の肉体に、ただただ、視線を引き付けられていた。腰の線を強調した短い丈のスカートから出ている白い脚には、ふるい付きたいぐらいの興奮を覚えていた。その夜、彼は安子のまわりをうろうろしているだけで、いつの間にか夜明けを迎えていた。
「あんた、どこの子? 初めて見る顔だね」
 一晩中そばにいて、丸太ん棒のように目障りなノッポに安子は、とうとう我慢が出来なくなって、イライラしながら言った。
「錦糸町です」
 ノッポは緊張感でノドが塞がれて、半分かすれた声でようやく言った。

 

『夜明けが一番哀しい 新宿物語』

『夜明けが一番哀しい 新宿物語』 沢 良 作

  • 小説
  • 掌編
  • 青年向け
更新日
登録日 2017-06-03
Copyrighted

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