川越のおじさん

川越のおじさん

先ごろ開通した東武東上線から横浜みなとみらい線までの直通運転車内での、ちょっとしたできごと。

   ◇  ◇  ◇

 美和子が川越の友人を訪ねたのは、一月初旬のことだった。中学時代からの友人広子は自動車製造業の夫と共に川越に住み、二人の子供を育てていた。翌朝横浜で仕事のある美和子は夜のうちに帰るつもりだったが、結局、泊まってしまった。その帰りのことだ。
 川越駅のある東武東上線は、二〇一三年三月から東京メトロ副都心線を経由して東急東横線との相互直通運転を開始した。美和子は元来川崎市に住み、多摩川を横切る赤い電車を見て育った「東急っ子」だった。だから、いつもの線路の上を東武線の車両が走っているのを見ると、お客様を迎えているようでこそばゆい感じを覚えていた。車内の路線図を見上げると、「寄居」というところまで繋がっているらしい。
 その日、美和子が川越駅のホームに立ったのは朝七時半くらい、平日だった。横浜まで一時間二十四分の旅路である。できれば、座りたい。ホームにはドア位置の標識ごとに四、五人の列ができていた。やってくる車両はきっとガラガラで、最後尾の美和子も悠々座れるものと思って列に並んだ。しかし、到着した電車には意外と既に人が座っていた。少ない空席は先に乗り込んだ人たちで次々埋まっていく。キョロキョロ探しながらやっと乗り込んだが、座席シートにはぴったり、茹でたトウモロコシのように人が座っていた。立っているのはその車両に美和子ともう一人くらい。いや、美和子は二駅三駅の座席を探しているのではない、一時間半を過ごす座席を探しているのだ。すぐに誰か立つだろうと踏んだ。少なくとも、小竹向原という有楽町線の乗り換え駅で三分の一は席を立つと思い、小竹向原か、あるいは次のターミナル駅の池袋で下車しそうな人を物色した。そして、ぱっと見たところサラリーマン風の細身のおじさん、ベージュのコートを着て臙脂色のマフラーをきつく首もとに巻いているおじさんに狙いを定めた。おじさんは寝ているのか目を閉じていた。七人掛けシートの中ほど、美和子はそこで吊り革を握った。
 横浜からの往復でたっぷり読書するつもりだった美和子は、ちょうど読み込んでいた作家の全集本を持っており、要するに五〇〇ページを越えるハードカバー本を左手だけで広げ、なかなかしんどい読書をしていた。

 さて、小竹向原駅である。おじさんは動かない。
……まあいいさ、池袋駅で交代しよう。それまでよく寝ているといいよ。
 と心の中でおじさんに話しかける。さすが都心に向かう電車だけあって、どんどん人が乗ってきて、立っている乗客同士肩が触れるくらいになった。おじさんがどかない以上美和子が座れる可能性がなくなった。

 さて、池袋駅である。おじさん、眉一つ動かさず、目を閉じたまま。おじさんのいる七人シートからは五人腰をあげている。その前に立っていた七人のうち、美和子よりも後から乗ってきた五人は晴れて座席を確保。皆思い思いにスマホを出したり、文庫本を広げたりしている。
……うそぉ、おじさん、降りないの? 
 次の大きな駅は副都心線の新宿三丁目駅だ。そう言えば、着ているコートは高級そうだし、中央官庁で働いているのかもしれない。膝の上にカバンがないし、網棚にものせていない。しかも携帯電話をいじることもない。ずっと寝たままだ。忙しないサラリーマンならメールのチェックくらいするはずである。新宿三丁目で乗り換えて霞ヶ関や永田町のほうへ行くのだろう、と高をくくった。

 さて、新宿三丁目駅である。おじさん、まだ寝ている。美和子は車両のほぼ真ん中に立っていたので、車内が乗降客で押したり引いたりの混乱状態になっていても左右で人が動くだけでどうということはない。ひたすらに、眠っているおじさんの額を見つめ続ける。
……おじさん、なんで降りないの? 
 美和子が川越駅で前に立ってから一度も目を開けていない。かれこれ一時間の仲である。ちょっとくらい美和子の顔を見てもいいようなものだ。なるほど、おじさんは渋谷で降りるのだ。公官庁勤務ではなかった。もしやNHKの偉い人か? カバンを持たずに出社する人ってどんな職業なんだろう。まあどちらにしても、あと数分でさよならだ。

 さて、渋谷駅である。ここから東横線だ。おじさん、いまだ腰をあげず。もう、読書どころではない。
……え! なんで?
 なぜおじさんは電車を降りないのか。おそらく、川越から乗っているのはその車両におじさんと美和子しか残っていない。
……もういいよ。横浜まで一緒に行こう。あと三〇分、こうして向き合っていようじゃないか。
 車内アナウンスの声が代わり、東急東横線が始まった。急行の最初の停車駅は中目黒だ。代官山あたりのカーブをやり過ごし、日比谷線の銀色の車両が向い側に停まる中目黒駅のホームに入る。外は雨が降っていた。本を持つ左手の肘にかけた美和子のビニール傘はもう乾き切っていた。そういえばおじさん、傘も持っていない。
 すると後ろから小柄な女性が美和子にぶつかってきた。混雑しているとはいえ、下りの東横線は乗車率一六〇%くらいだろうか、座席は埋まっているが、シートの前に立っている人はまばらだ。そんなにぶつかることもないだろう。しかしその赤いショート丈のコートを着たおばさんは、なぜかニコニコ笑って美和子の隣にはりつくように立った。
……え、何、この人。なんでこんなにくっついて来るの? 
 すると今度は、なんとおじさんが目を開けて顔を上げた。
……あ、起きた!
「おはようございます」
と、赤いおばさん。
「ああ、どうも」
とおじさん。二人は知り合いらしかった。おじさんの前には美和子が立っているので、斜めに顔を合わせている。そして、何かもっと会話をしたい風をするのだが、電車が揺れ、そして美和子が邪魔で、二人とも言いよどんでいる。その言いよどみ方の雰囲気が、なんとも道ならぬ恋でもしているような、睦まじい空気感を漂わせている。おじさんなどは、手を差し出して赤コートのおばさんの荷物を自分の膝の上に置いたりしている。
 美和子は川越から、ここまでこのおじさんの前に立ってきたのだ。いまさらこの場所からどくもんですか。二人はいつも決まった時間の電車の決まった車両で待ち合わせをしていたのかもしれない。それならきっとおじさんも、私が早く降りないかと思っていたのだと美和子は思った。
 美和子が意地でもどかないらしいことを察したのか、荷物の受け渡しを済ませるとおじさんもおばさんも黙ってしまった。しかしおじさんはもう目を閉じることなく、斜め前のおばさんを意識した表情で、頬まで紅潮させて起きていた。美和子は本をカバンにしまい、まっすぐに窓を見ていた。おばさんは相変わらず不自然なくらい美和子に体を寄せ、ニコニコして立っている。
 多摩川は雨にけぶってサップグリーンとペインズグレーを混ぜたような色をしていた。武蔵小杉でけっこう降りたが、美和子たち三人はそれぞれ同じ姿勢のまま川崎市を通り抜けた。

 結局おじさんとおばさんは、菊名で降りた。おじさんは降りるとき、ちょっとだけ美和子の顔を見た。まさかおじさんも、川越駅で乗り合わせた人がここまで乗って来るとは思わなかっただろう。バツの悪そうな瞬きをしたように、美和子には見えた。降りていくとき、おばさんはおじさんの背中に手を添えていた。
 かくして美和子は、菊名から横浜駅までの一駅をやっと座って過ごすことができたのだった。            (了)

川越のおじさん

川越のおじさん

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-06-01

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