眠れぬ夜は君のせい【スピンオフ①】 ~ ケイタとマリの大学ノート ~

眠れぬ夜は君のせい【スピンオフ①】 ~ ケイタとマリの大学ノート ~

■第1話 Side:ケイタ

 
 
 『ナミキさん・・・ 今日、日直だよね?』
 
 
 
僕は片手に掴んだ学級日誌をヒラヒラと目線の高さにチラつかせ、初めて
話し掛けるそのクラスメイトの反応を待った。
 
 
彼女は一瞬表情が読み取れない目で僕をみて、その後黒板の右隅。日直当
番2名の名前に自分の苗字を確認すると、慌てて立ち上がりやたら馬鹿丁
寧に僕に謝った。

クラスメイトとは思えないほどの余所余所しさと、他人行儀ぶりに面食ら
った僕。
 
 
 
  (確かに初めて会話するけど、そんなにかしこまらなくても・・・。)
 
 
 
すると彼女は、小さい声で言った。
 
 
 
 『ナナミ君て、ほんとすごいよね・・・。』
 
 
 
それは、彼女の嫌味のつもりだったのだろうか・・・

その時の僕は、言われ慣れた ”すごい ”という言葉に何故か少しだけ違和
感を感じていたんだ。
 
 
出席番号順で当番が回ってくる日直は、僕 ”ナナミ ケイタ ”と彼女 ”ナ
ミキ マリ ”が今日の担当だった。
 
 
放課後、教室の掃除も終わりほとんどのクラスメイトが部活に行ったり、
家に帰ったり閑散としはじめた中、僕と彼女は日誌のまとめをしていた。

開け放した窓から入る緩い風が、色褪せた白色のカーテンと黒板前に立つ
彼女の柔らかそうな栗色の髪の毛を軽く揺らす。
 
 
『明日の日直は・・・。』 黒板の日直名の空欄に白いチョークをコツコツ
とあて彼女が斜め上を見上げてクラスメイトの名前を思い出そうとしていた
ところへ、
 
 
『ニシダ・ニノミヤ』 と即座に口にした僕。
 
 
別に得意気になって即答した訳でも、級友の名を思い出せない彼女への当て
つけでもなかったのだが、彼女は僕の方へ振り返りまたすぐ俯いてちょっと
笑った。
 
 
思わず、『人の名前覚えるの得意なんだ・・・。』 
意味もなく早口で言い訳めいた僕。
 
 
すると、
 
 
 
 『やっぱりすごいよね、ナナミ君は・・・
 
  ”西中のナナミケイタ ”って言ったら、有名人だもんね?』
 
 
 
肩をすくめ笑いながら、彼女が続ける。
 
 
 
 『成績優秀~ぅ、スポーツ万能~ぉ・・・の、元テニス部主将。

  西中の元生徒会長で、今年の北高・新入生代表で答辞までつとめて。
 
 
  おまけに多くの女子の注目の的っ! ・・・なんでしょ?』
 
 
 
僕は小馬鹿にされている様な気分になり、内心ちょっとムっとしたがそんな
事おくびにも出さず軽くニコっと微笑んでみせた。
 
 
すると、
 
 
 
   『ナナミ君演じるのって、疲れそうだね・・・。』
 
 
 
そう言ってまるでスキップでもするように軽快に駆け寄り、彼女は僕から日
誌を奪うと、『日誌、担任に渡して帰るね。 じゃあ。』 と僕の方を見も
せず教室を出て行った。
 
 
それは、鼻歌でも歌いはじめそうに上機嫌な横顔だった。

せっかく用意した僕の微笑みには一瞬も目を向けることなく、職員室へ向け
廊下を駆けて行った。
 
 
 
 
 
僕はクラスの学級委員長の他、中学からやっているテニス部に入部し推薦
されて入った生徒会では書記も担当していた。
 
 
中学から生徒会長やら学級委員長やら部活主将やら、色々やってきたので
それらにはなんの抵抗もなかった。
教師や級友に『ナナミしか出来ないから』と頼まれれば、快く引き受けた。
 
 
おまけに勉強も不得意ではなかった。

あんなのなんて、要点を押さえるコツさえ掴めばなんでも一緒。
塾などには通った事が無かったが、成績は常に上位にランクインしていた。
決して公言したりはしなかったが、僕の中では当たり前の事だった。
 
 
いつもニコニコする事を心掛けていたから、やたら女子も集まってきた。

”笑顔 ”と ”やわらかな物腰 ” このふたつで大抵は簡単に良い印象を
与える事が出来る。
それもまた、僕の中では当たり前の事だったんだ。
 
 
 
日直の後、部活へ顔を出した。

特に好きという訳でもなかったけれど、執拗に勧誘を受け入部したテニス部
で暗くなりボールが見えにくくなるまで練習を続けた。
 
 
部活の仲間に笑顔で挨拶をして別れると、自転車に乗り家路へ向かう。

実家は保育園経営をしており、両親からは当たり前に園を継ぐものだと思
われているようだった。
それについて話し合った事はないけれど、長男の僕に任せる以外の案なん
て彼らの中には無かったのだと思う。 

弟コースケの方が子供好きという点では向いているようにも思えたが・・・
 
 
 
 
  (ナナミ君演じるのって、疲れそうだね・・・。)
 
 
 
 
彼女の一言が、一瞬、頭をかすめ流れた。
 
 
 
毎日は、当たり前のように過ぎてゆく。
 
 
僕は、当たり前のように
勉強をし、
部活をし、
上手に微笑んで、

僕という役割をこなしてく。
 
 
 

■第2話 Side:マリ

 
 
 
正直、ナナミ君はどっちかっていうと苦手なタイプだった。
 
 
 
まるでマンガに登場しそうな万能な男子で、いつもニコニコしてて、決して
怒ったりムっとしたりしない。

喜怒哀楽の ”怒 ”と ”哀 ”どころか、もしかしたら本当は ”喜 ”も
”楽 ”も無いロボットとかサイボーグとかみたいだって思ってた。

嘘っぽい笑顔が仮面みたいな顔だなって・・・
 
 
日直で一緒の当番になった時だって、ナナミ君一人でやった方が絶対手っ取
り早いくせにわざわざ私に振ってきたり。嫌味にならないように細心の注意
を払っている感じが、仮面の笑顔から伝わった。
 
 
 
  (なんでモテんだろ、あんなのが・・・。)
 
 
 
私には大多数の女子の気持ちがサッパリ分からなかった。

仮面の下にきっと嫌味っぽく薄ら笑いでも浮かべてそうな感じに、なぜ誰も
気付かないのだろう。
 
 
でも、もう彼と一緒の日直は暫くまわってこないので特に気にもしていなか
った。 ”ただの、30人いるクラスメイトの一人 ” 彼は私にとってその
程度だった。日直が終わったことで、私はまるでテスト明けの放課後のよう
に身も心も軽くなっていた。
 
 
 
新学期が始まって3ヶ月経った、ある日。
 
 
一人のクラスメイトが家庭の事情で急に転校する事になった。

特に親しかった訳でもなかったが、そう言えばその彼は私と同じ図書委員
だった。1クラスから2名選出される各委員。私一人しかいなくなってし
まうではないか。
 
 
 
  (図書委員・・・ どうなるんだろ・・・。) 
 
 
 
さほど真剣にでもないが頬杖を付いてぼんやり考えていたところへ、放課後
担任から急に呼び出しがかかった。
 
 
 
  (図書委員の事かな・・・?

   まぁ、でも。 一人なら一人で、別に全然いーんだけど・・・。)
 
 
 
必要以上に近寄りたくない職員室の、やたら重い引き戸を開け担任の元へ
向かう。先生達がなにやら忙しそうに動き回り、引っ切り無しに生徒が出
入りしている。

あまりここに入り慣れない私にとっては、ただ踏み入るだけで落ち着かず
思わず肩に力が入ってしまう。
 
 
キョロキョロと見渡し担任の姿を見付けると、そこには先にナナミ君が立
っていた。彼も呼び出されたようだ。落ち着き払った横顔で定規で測った
ような正しい姿勢で立ち、担任の話に頷いている。
 
 
 
 『はい、分かりました。』
 
 
 
ナナミ君が淡々と返答している。低くて抑揚がない、いつものナナミ君の声。

担任とナナミ君の話が終わるのを少し離れて待ち、『先生?』と小さく呼び
掛けると、
 
 
 
 『図書委員、ナナミが引き受けてくれる事になったから。』
 
 
 
担任がえらく満足気に、腕組みをしてにこやかに言った。
その顔はまるで、即座に私から笑顔とお礼の言葉でも飛び出すと思ってるか
の様なそれで。
 
 
『ぇ・・・。』 一瞬渋い顔をした私を、彼は見逃さなかった。
 
 
 
 『よろしく。』
 
 
 
ナナミ君が、目を細め仮面のような上手な笑顔で私に微笑んだ。
 
 
 
職員室を出ると、否応なしにナナミ君と並んで廊下を歩く。

私の足取りは、足枷でも填められているかの様にあからさまに重い。
靴箱のあたりから流れ込む、外履きに履き替える帰宅生徒の何やら楽しげな
声が廊下に響いていて、今の私にはやけに恨めしい。
 
 
自分でも意識しないうちに、私の顔はしかめっ面になっていたようだ。

隣を歩くこの仮面の彼は、生徒会やら諸々担当してるのになぜ図書委員まで
引き受けるだろう。
内申点アップ? 教師陣からの好感度急上昇? はたまた慈愛の精神とでも
いうのか。私には彼の考えている事も、そんな彼に頼む先生もサッパリ意味
が分からなかった。
 
 
背筋をピンと伸ばしてキレイな姿勢で廊下を進む彼を、目の端で睨むように
チラっと見る。すると彼も一瞬コッチを見たため、目が合ってしまった。

ギョっとして慌てて目を逸らした。
その後の沈黙がやたら重くて、咄嗟に話し掛けてしまった私。
 
 
 
 『図書委員までやって、大丈夫なの・・・?』
 
 
 
すると彼は『あぁ・・・ ぅん。』 と、どこか気の抜けた返答をした。

そして慌てて、あの上手な笑顔を後付けした。
 
 
 
 
 
ナナミ君が図書委員になって初めての当番の日。

放課後の教室に彼の姿が見当たらないので、委員のことなどスッカリ忘れて
部活でも行ったのかと、然程気にすることなく、むしろ好都合とばかり私は
少しご機嫌に図書室に向かった。

一応進学校でもある北高はしっかり自習室が完備されている為、勉強したい
人はそちらに籠るので図書室自体はいつもガラガラで、ハッキリ言って委員
が2名も常駐する必要なんてまるで無かった。
 
 
ほとんど人はいないであろう図書室に、一応音を響かせないよう静かにそっ
と引き戸を開け貸出係席へ着こうとしたところ・・・
 
 
 
 『ぁ、やっと来た・・・ ココでいいんだよね?』
 
 
 
もう、そこにはナナミ君がいた。
 
 
先に着いたと思った私より、先に。
居ないでいてくれる事を願った私を、まるで嘲笑うかのように。

なんだか理由もなく腹立たしい。やっぱり彼とは絶対的に相性が悪い。
なんだろうこの腹の底から湧き上がるモヤモヤした感覚は。
 
 
しかし、そんな私をよそに彼は至っていつも通りだった。

いつも通りの仮面の笑顔で、私が素っ気なく教える委員の仕事をいとも
簡単に覚え淡々とこなしてゆく。
 
 
 
 『てゆーか、図書委員ってこれしかやる事ないの?』
 
 
 
両手で数冊掴んだ本をトントンと机に打付け揃えて、涼しい顔をしている。

なんだか上から目線な彼の言葉に思わずムっとしてしまう。
わざとではないのかもしれないけれど、彼の一挙手一投足が気に障って仕
方がない。
 
 
私は、思わずチクリと言い返した。
 
 
 
 『だから・・・

  図書委員なんてやんなくていいよ!
  
 
  もう、なんなら、

  担任にはちゃんとやってるって事にしとくから。』
 
 
 
私はなんとか委員からはずれてほしい一心で彼に言う。

しかし、彼は空気を読めないタイプなのか、はたまた読んだ上で更に嫌味の
つもりなのか、『そーゆう訳にはいかないでしょ・・・。』私を一瞥し呟く。
 
 
煮え切らない彼に、私は尚も続けた。
 
 
 
 『なら、アッチの机で他のことしてていいよ!
  
  ほら、勉強なり読書なり・・・。』
 
 
 
すると、『勉強は授業中しかしないから。』
 
 
 
 『・・・・・・・・ぁ、そうですか・・・。』
 
 
 
授業中のみの勉強で成績トップの生徒代表という現実に、呆れて笑うしかな
い私。”出来が違う ”とはこうゆう事をいうのだと、心の底から痛感した。
 
 
 
空まわり合う私たち。
全てが噛み合わない私たちだった。
 
 
 
毎週金曜日、そんな私たちには図書委員の当番が回ってきた。

私はこの金曜が憂鬱で憂鬱で仕方なかったが、彼はなんとも思っていない
様子で相変わらず私より一足先に図書室に行っては、涼しい顔をして委員
の仕事を全て一人で片付けてしまうのであった。
 
 
図書室閉館までの2時間。
ふたりっきりの、無言の2時間。

私には苦痛でしか無かった。ストレス以外の何物でもなかった。
 
 
どんどん夕刻に近付くにつれお腹も減ってくる。

しかし、物音ひとつしない静かすぎる図書室で、おまけに隣にはサイボーグ
ナナミがいる。彼の前で腹の虫を轟かせるなんて、考えただけで血の気が引
いてゆく。
必死にお腹の音が鳴らないように、息を止めたりお腹を引っ込めたり腹筋に
力を込めたり。
 
 
すると、その時。
 
 
 
      グゥゥウウウウウウ・・・
 
 
 
響いた・・・
時計の秒針しか響かない図書室内に、思いっきり腹音が。
 
 
慌てて腹部を押さえ前屈みになって、誤魔化しきれやしないけれど咳払いを
しようとした。

・・・の、だが。
 
 
 
  (今の・・・ 私のお腹、だった・・・?)
 
 
 
顔を上げパチパチとせわしなく瞬きをし、ふと隣席のナナミ君にゆっくり目
を向けた。
すると、目を見開いてまっすぐ前を向き真っ赤な顔をして固まっている彼。
 
 
そして、トドメのもう一発・・・
 
 
 
      グゥゥウウウウウウ・・・
 
 
 
『あはははははは!!!』 私は、図書室という場所も忘れて思いっきり
大声を出して笑った。笑いは一向に収まらなくて、体をよじらせながら。

チラっと彼を見ると、『うははははははは!!!』 
耳まで真っ赤にして、目を細め大きな口を開けて笑っている。
 
 
二人でお腹を抱えて暫く大笑いして、思わず私は彼に言った。
 
 
 
 『ナナミ君の笑ってるトコ、はじめて見た。』
 
 
 
尚も笑い目尻の涙を指で押さえながら、ちょっとイタズラな目で彼を見る。
 
 
 
 『いつものアレ・・・ ”仮面の微笑み ”でしょ?』
 
 
 
そう言われ、彼はちょっと驚いた顔をして私を見ていた。
思いっきり笑って血色がよくなったほんのり赤い頬を向けて。
 
 
 
 『今の、笑ってる顔の方がいいと思うよ。』
 
 
 
思わず、彼にそう言った。
 
 
彼が、ちょっと照れくさそうに眉根を寄せ拗ねたような顔を向けた。
仮面ではない、彼の顔をはじめて見た日の事だった。
 
 
 

■第3話 図書委員

 
 
 
それ以来、ケイタとマリは少しずつ少しずつ距離が縮まっていった。
 
 
相変わらずクラスでのケイタは ”優等生 ”だったが、毎週金曜の委員の
時にはほんの少しだけ ”役 ”を抜けた顔をマリに見せた。
 
 
 
 『ナナミ君・・・ 進学するんでしょ~?』
 
 
 
ある日、マリが相変わらず誰もいない図書室で、なにもする事がないので暇
つぶし程度に訊ねた。

『そうだね。』 と、片肘をついて半身に傾げ、貸出カウンター隅に置いて
ある地球儀をクルクル回転させながらケイタが答える。
 
 
 
 『大学の後は? 何になるの? 

  ・・・まぁ、なんでもなれそうだけど・・・。』
 
 
 
すると、『実家、継ぐんだと思う。』
 
尚も地球儀を弄びながら、怠そうに欠伸をしたケイタ。
たまに回転するそれを指先で止めてそのポイントを指すと、まるで日本から
の距離を測るかのようにじっと興味深そうに眺めている。
 
 
 
  (継ぐんだと思う・・・?)
 
 
 
マリは『だと思う』の節に違和感を感じていた。
いつも正しくキレイな日本語を使うイメージのケイタらしくない気がした。

『継げと言われてる』とか『継ごうと思う』ではなく、なんだか他人事みた
いで妙な感じが拭えない。
 
 
『なんか・・・変な感じだね? 他人事みたい。』 思わず口にしたマリへ
『そ?』 なにも気にした風でもなく、ケイタが退屈そうに窓の外を眺めた。
 
 
 
委員がある金曜は、部活は出なくていいと顧問から許可を貰っていたケイタ。

他にも掛け持ちして色々な担当をしていたというのもあるが、マメに練習に
出なくても元々テニスは上手かったし、試合前の少しの練習だけで充分な腕
があった。
 
 
図書室が閉館する6時になり戸締りをし鍵を職員室へ戻して、ふたりは自転
車の駐輪場へ向かう。
 
 
帰り道が途中まで同じ方向なので、嫌でもなんとなく一緒に帰るような形に
なる。少しでも距離をおこうと、マリは気持ちゆっくり目に自転車のペダル
を漕いで進んだ。しかし、横断歩道の信号につかまったケイタの背中に不本
意ながらアッサリと追い付く。

今度は勢いよく踏み込みスタートダッシュをかけてみるが、男子の脚力には
敵わず結局は後半失速してまたケイタと並走してしまうのだった。
 
 
賑やかな商店街に差し掛かり、いつものスーパーの前でマリはゆっくりとブ
レーキを掛け自転車を停めた。店内出入口横の駐輪スペースで自転車のスト
ッパーを立て掛け施錠する。腰の高さまで積み上げられている黄色い買い物
カゴを持って店内に入ろうと何気なく振り返ると、ケイタが店前で一旦自転
車を停め片脚で支えて斜めに傾げながら、マリを見ている。
 
 
別に説明する必要もないのだが、なんとなく ”買い物して帰るから ”の意
味を込めてカゴを目の高さに上げ、マリはわずかに会釈した。

するとケイタも軽く頷き小さく手を上げてまたペダルを踏み込み、商店街の
奥へ消えていった。
 
 
 
 
 
 『ナミキさん、あそこのスーパーよく行くの?』
 
 
相変わらず当番ふたりしかいない退屈な図書室で、ケイタが思い出したよう
に訊ねる。
 
 
『あぁ・・・ 私、ゴハン担当だから。』 そうマリが答えると、ちょっと
驚いた顔を向け不思議そうに小首を傾げたケイタ。
 
 
 
 『ウチ、お父さんとふたりだから。

  必然的に、家事は私の担当になるでしょ。』
 
 
 
そのマリの言葉には ”ふたり ”という一言から一般的に感じる悲壮感など
微塵もなく、人に話すのにまるで慣れているかのような普段通りのトーンだ
った。
 
 
 
 (お父さんとふたりなのか・・・。)
 
 
 
『・・・大変だな・・・。』 ケイタの少し遠慮がちな口ごもった声色にも、
マリは呆気らかんと『ナナミ君の方が色々大変じゃない?』と明るく笑った。
 
 
 

■第4話 帰り道

 
 
 
とある日、いつもの図書委員を終えて二人が駐輪場へ向かうと、そこには
女子3人組がケイタの自転車の前でなにやらヒソヒソと話をしていた。
 
 
そしてケイタの姿を見付けるや否や、その3人組は嬉しそうに声を上げ駆
け寄ってケイタを取り囲み、手提げバックからラッピングされた包みを出
して渡そうとする。

女子が複数人でかたまった時の、やけに耳障りな甲高い声が薄暗い駐輪場
に響き、穏やかだったはずの夕暮れのそこが一瞬にして違うそれに変わる。
 
 
 
その光景を目の当たりにしたマリ。
 
 
 
なんとなく見てはいけない気がして瞬時に目を逸らし、一人自転車のペダル
を踏み込んだが、一行の横を通り過ぎる一瞬チラっとケイタに目を遣った。

すると、ケイタも一瞬マリを見て、なにか言いたげに口を動かしたがマリは
即座に目を逸らし涼しい顔をして、夕暮れの奥へひとり行ってしまった。
 
 
やたらと女子に人気があるケイタのいつもの光景ではあるが、改めて目の前
でやられると少し面食らってしまう。
 
 
 
  (てゆーか、誰もいないトコとかで渡せばいいじゃん・・・。)
 
 
 
女子に取り囲まれ、にこやかに微笑んでいる姿が頭の中をグルグル巡る。
 
 
 
  (なに?アノ微笑み・・・

   ホントはもっとヘンな顔して爆笑するくせに・・・。)
 
 
 
何故かマリのペダルを漕ぐスピードは、グングン勢いを増していった。

しかめっ面で眉根を寄せ無我夢中で立ち漕ぎをし、信号待ちで止まった時に
はゼェゼェと息が上がっていた。
 
 
 
  (別に、 私には、 全っっっ然 関係ないけど・・・。)
 
 
 
すると、そんなマリの隣に少し遅れて物凄い勢いで一台の自転車が滑り込ん
できた。

急ブレーキをかけたそれは油の切れかかった嫌な音を立て、その勢いでアス
ファルトは少し砂煙を起こした。自転車がつんのめって、カゴに入れている
学校指定カバンとサブバッグが前に後ろに揺れて動く。

マリより更に息が上がり肩を上下させたケイタが、赤信号で自転車を止めた。
 
 
 
 『・・・・・・。』
 
 
 『・・・・・・。』
 
 
 
突然の爆走ケイタの姿に心臓が止まりそうなくらい驚きながらも、さっと目
を逸らし口をつぐんで何も言わないマリ。

ケイタはいまだ呼吸が整わず情けなく背中を丸め肩で大きく息をしているが
その顔は何か言いたげで。
 
 
互いなにも言葉を交わすことのないまま、横断歩道の信号は青に変わった。
マリが無言のままケイタを無視して進もうとした時、
 
 
 
 『なんで・・・ 先に行くんだよ・・・。』
 
 
 
ケイタがいまだ息苦しそうに顔を歪めて、低く低く呟いた。
 
 
『だって・・・ 信号、青に変・・・』 目線だけで横断歩道の青信号を
差したマリの言葉をケイタは途中で遮って、
 
 
 
 『そうじゃなくて。
 
  ・・・駐輪場で・・・。』
 
 
 
ケイタの問いへの答えもぞんざいに、尚も自転車を進めようとペダルを踏み
込もうとしたマリのハンドルをケイタが左手でおもむろに掴んだ。

まるで逃げようとしているようなそれを阻み、ジロリと目を遣り睨む。
 
 
 
 『な、なんでって・・・

  だって、ナナミ君・・・ 囲まれてたじゃない・・・
 
 
  そ・・・ それに元々、別に・・・

  ・・・一緒に帰る、って訳じゃ・・・・・・。』
 
 
 
険しい表情で、今度はマリがケイタを睨み返した。
 
 
あんな状況でもわざわざケイタを待たなければならない義理など無いし、
たまたま帰る方向が一緒というだけで二人で帰る約束もしていない。
ケイタが何を考えそんなこと言い出したのか、マリにはさっぱり分からな
かった。
 
 
じりじりと嫌な ”間 ”が二人を覆い、マリは分かり易くケイタから逸ら
していた目をもう一度チラリと向ける。するとそこには見たこともないよ
うな不満気な赤い顔をし口を尖らせるケイタがいた。

それはまるで、おもちゃ屋の前で駄々をこねる小さな子供のようで・・・
 
 
思わず、マリはぷっと吹き出した。
先程女子3人組の前で、王子様のように微笑んでいた顔を思い出して。
 
 
 
 『 ”優等生の仮面 ”はどうしちゃったのよ~?
 
  鏡で見てみなさいよ、今の顔・・・ すごいムっサい顔!!』
 
 
 
そう言うと、ケラケラと声を出して可笑しそうにマリは笑った。

本当に仮面を付けたり外したりしているような、ケイタのその表情の変わ
り様。よくマンガなんかにある、心の中の天使と悪魔ほどのそれなのだ。
 
 
一瞬マリのその言葉にハっとして真顔に戻り、しかし思わずつられてケイ
タも口許が緩んだ。笑ってしまいそうな口の端が照れくさそうに震える。
 
 
 
気が付くと、信号はまたもや赤にかわっていた。
 
 
 
なんとなくまだこの場から離れがたくなり、一度マリは跨っている自転車
を降りた。少しだけ捲れたスカートの裾を慌てて指先でならす。

すると、ケイタも同じように静かにサドルから降りた。
 
 
ふたりの間を通り過ぎる居心地の悪い沈黙に、言葉を探すふたり。

車道を行く車の群れがまるで生き急ぐように、我先へと前のそれを急かし
て進む。ケイタとマリ以外の世界はやけにスピードを上げて進んでいる様
に感じた。自分たちだけ、そこに止まったままで。
 
 
ケイタの自転車のカゴの中、先ほど女の子達から貰ったであろうプレゼン
トの包みがマリの目に入った。
じっとそれを見つめたまま、何か言いたげでしかし何も言わない。

黙ったままのマリの視線の先を追ってケイタもそれに気付き、更に気まず
い沈黙が流れた。
 
 
すると、
 
 
 
 『・・・ナナミ君はすごいねぇ~?』
 
 
 
小さな棘のある一言が、思わずマリの口をついて出た。

そんな言い方をするつもりなど無かったのに。言ってすぐ気まずくなり、
俯いたマリ。その棘は、何故かマリの胸をも小さく刺した。
 
 
すると、ケイタが強めの口調で即座に言い返した。
 
 
 
 『なんか・・・ 

  ナミキにソレ言われんの、 俺、すっげぇムカつく。』
 
 
 
低く唸るよう発せられたそれに、
 
 
 
 『・・・・・・。
 
 
  ”ナミキ ”っ?!  

  ”俺 ”っ?!
 
 
  いつもの ”さん付け ”と ”ボク ”はどうしたのよっ?!』
 
 
 
はじめて耳にしたケイタの声色に、驚くよりも先に笑ってしまったマリ。
しかしそれは馬鹿にした感じではなく、純粋に可笑しくて仕方なくて。
 
 
尚も一人で愉しそうに笑い続けるマリに、ケイタは爆発する様に吠えた。
 
 
 
 『ナミキの前では、”優等生 ”はしないんだっ!!』
 
 
 
その言葉に一瞬固まるふたり。

そしてやたらと高らかにした意味不明な宣言に、互いキョトンと顔を見合わ
せそして一気に吹き出して笑った。
 
 
 
横断歩道の信号は、もう3回青から赤に変わっていた。
 
 
 
そのまま自転車には乗らず、ふたり並んで押して歩いた。

夕暮れの生ぬるい風が、ほんのり赤い頬のふたりに優しくそよいでいた。
 
 
 

■第5話 一緒に

 
 
 
それからというもの、金曜の委員当番の後は必ず二人で帰るようになった。
 
 
自転車には乗らず押して歩きながら、時には喋って、大体は無言で。
でも、その無言があまり気にならない二人だった。

相変わらずケイタは女子に人気があり、仮面の笑顔で微笑んでいたけれど
マリと二人になると気怠い気の抜けた、ただの普通の男子高校生だった。
 
 
 
 
気が付くと、もう季節は初冬。

街にはクリスマスカラーが目映く踊り、教室の窓ガラスは外気との熱差で
曇り、人々は厚手のコートを着込み背中を丸めて歩いている。
 
 
あまり積もるほど雪は降らないこの街で、肌を刺すような朝の空気に肩を
すくめながら、マリは相変わらず自転車のペダルを踏み込んでいた。
 
 
一方、ケイタは早々と自転車から下り、バス通学に切り替えていた。

毎朝必ず、バスの左窓側の同じ席に座る。
 
 
するとその席から、赤いチェックのマフラーを巻き、赤い手袋をして白い
息を吐く自転車の女子高生を眺める事が出来た。
 
 
頬を真っ赤にして肩で息をし自転車のペダルを漕ぐ、小柄なマリの姿。
遅刻しそうな訳でもないのに、何故か大慌てで立ち漕ぎしている。

それをこっそり窓越しに見つめるケイタ。文庫本で顔を隠し気味にして目
線だけ小さく窓の外へ向けている。自分でも気付かぬうちに、自然と顔は
ほころんだ。

その姿を見るため、毎朝寒いなか背中を丸めやたらと早目にバス停に並び
指定席を陣取っていたのだった。
 
 
 
 
とある委員当番の後の、帰り道。
 
 
マリは自転車通学だった為、靴箱で外履きに履き替えるとほんの少し目を
伏せて、どこか照れくさそうに心なしか不貞腐れたように、『じゃあ。』
バス通学のケイタに小さく手を上げ、一人パタパタと小走りで薄暗い駐輪
場へ向かった。

その背中になにか言いたげに口ごもっているケイタになど気付くはずなく、
さっさと消えた赤いチェックのマフラー。
 
 
ひと気のない薄寂しい駐輪場でマリは一人、自転車の鍵を開錠しカゴにカ
バンを置いて静かにサドルに跨り、ペダルを踏み込み進むと薄暗い校舎の
入り口に立ち尽くすケイタらしき姿が見えた。

自転車の揺れるライトに照らされ微かにシルエットが浮かび上がっている。
 
 
 
 『・・・どしたの??』
 
 
 
それが思った通りケイタだと気付くと、咄嗟にサドルから下りて自転車を押
しながら駆け寄ったマリ。

しかしケイタはモゴモゴと口ごもり視線は中空を彷徨って、なんだか要領を
得ない。
 
 
『ん??』 ケイタを覗き込むようにして見つめるマリに、
 
 
 
 『・・・歩いて、帰ろうかと・・・。』
 
 
 
空まわっていたケイタの吐息が、やっと聞き取れる言葉となった。

『え?』 マリが尚も意味が分からず、キョトンとしてケイタを見つめる。
 
 
すると、
 
 
 
 『金曜は・・・
 
  ・・・歩いて、帰る日じゃん・・・。』
 
 
 
その言葉の意味がやっと分かり、マリが咄嗟に目を逸らし俯く。
ジリジリと急速に頬が熱くなる感覚に襲われる。
 
 
 
 
   心臓が、ドキン ドキンと音を立てる・・・
 
 
 
 
恥ずかしくて照れくさくて、中々顔を上げられない。
マリは俯いたまませわしなく瞬きを繰り返し、ムートンブーツの爪先をただ
見ていた。
 
 
言葉に出来ない歯がゆい空気が二人を取り囲んで纏わりつく。
 
 
すると、ケイタがマリを気にしながらも静かに歩き出した。
エンジニアブーツの靴裏がシャリシャリと砂利を擦る音を立てる。

マリもそっと自転車を押して、それに続いた。
 
 
何も喋らず、ただ二人。俯きがちに歩いていた。
二人の吐く息だけが、冷え切った寒空のなか白く流れ吸い込まれていった。
 
 
照明が明るく照らす賑やかな商店街のいつものスーパーの前で、マリが歩み
を止める。

『じゃぁ、またね・・・。』 照れくさそうにそう言って店内に入ろうとし
たその時、ケイタがポケットに入れていた手を出しマリへ拳を突きつけた。
その手は何かを握りしめているようだ。
 
 
 
 『・・・ん??』
 
 
 
マリがゆっくりと右手を差出しケイタの拳の下に手の平を広げると、小さく
折り畳んだメモがポトリと落ち現れた。ずっとポケットの中で握りしめてい
たのであろう、少し湿って熱を帯びている。
 
 
すると無言で踵を返し、ケイタが逃げるように全速力で走って商店街の奥へ
消えて行った。
 
 
マリはその走り去る背中をじっと見ていた。
その少しつんのめって転んでしまいそうな背中が見えなくなるまで、じっと。
 
 
そして、手元に目を落とし小さく小さく畳まれたメモをそっと開いてみた。
 
 
 
そこには、
 
 
 
    優等生らしからぬ殴り書きのメールアドレスが記されていた。
 
 
 

■第6話 大学ノート

 
 
 
  (どうしよう・・・。)
 
 
 
マリは一人、自室のベッドにちょこんと腰かけ、ケイタから手渡されたメモ
に書かれたアドレスを真っ直ぐ見つめていた。

小さく小さく折り畳まれていた為についた無数のシワを、指先で丁寧に丁寧
に伸ばす。照れ隠しに慌てて書き殴ったようなケイタらしくないその文字を
愛おしそうにしかしどこか哀しそうにマリは優しく優しく撫でた。
 
 
 
 『・・・アドレスじゃなくて電話番号にしてよね・・・。』
 
 
 
うな垂れ背中を丸めるマリの溜息が、その夜、幾度となく繰り返された。
 
 
 
その頃。ケイタもまた、自室のベッドに仰向けに寝転がり虚ろな目で天井を
ぼんやり見つめていた。

左手には、きつく握りしめられたケータイ。汗ばんでいく手の平に、嫌とい
うほど己の緊張具合を思い知らされる。
 
 
マリとスーパーの前で別れてから、もう、ゆうに3時間は経っていた。
 
 
夕飯が終わり、後片付けが終わり。そろそろ・・・

もうそろそろ何かしらの反応があってもいい頃合いだと、何度も何度も壁に
掛かる時計を確認して、思う。
ケータイを何度も何度も覗き、新着メールを何度も何度も問い合わせる。
 
 
しかし、一向にマリからの連絡は無かった。
 
 
 
  (もっとキレイに書けば良かったかな・・・。)
 
 
 
今までしつこいくらいに連絡先を訊き出されたことはあっても、自分から
訊かれてもいないのに教えたことは、只の一度も無かった。相手のアドレ
スを知りたいが故の、自分のそれなのだが。
 
 
恥ずかしくて照れくさくて、敢えて崩して乱雑に書いた。しかしその結果
アルファベットの書き間違い・読み間違いがあったのかもと想像し、しょ
ぼくれて横向きにゴロンと体勢を変え胎児のように体を丸める。

そして再度ベッドに仰向けに寝転がった。

見つめ続けた天井のシミがどことなく泣き顔に見えてきて、心の中に湧き
起こる不安を煽る。
 
 
 
  (迷惑・・・ だったのかな・・・。)
 
 
 
ケイタもまた、幾度となく溜息を繰り返し、眠れない夜を過ごした。
 
 
 
 
 
週明け、マリはいつもより早く家を出て、猛ダッシュで自転車のペダルを
漕ぎ学校へ向かっていた。

ケイタもまた、ソワソワ落ち着かなくて1本早いバスに乗車していた。
互い居ても立っても居られなくて、早く学校へ登校しようと思ったのだった。
 
 
まだ誰もいない寒々しい教室のドアを開ける、マリ。

静まり返った教室。遠く聞こえるのは、運動系の部活がする朝練の声だけ。
普段からは考えられない全くひと気がないこの空間になんだか心細くなる。
 
 
実は、マリはケータイを持っていなかった。

父親からは再三持つことを勧められたのだが、必要性を感じず首を横に振り
続けていた。父親は持っているので、何かあったらマリから連絡は出来る。
女子高生にしては珍しく連絡を取る手段は ”家の電話 ”だけだった。
 
 
だから、ケイタから渡されたメールアドレスに返事は出来なかった。

返事を待っているであろうケイタを思い、気持ちは焦り落ち着かず散々悩ん
だ末にマリはある案を思いついていた。
 
 
早朝の教室で一人、窓際の自席に着く。
 
 
冷えきった机が、触れた肌に硬く痛い。赤い手袋をはずし、カバンからそっ
と1冊の大学ノートを取り出しゆっくり開いた。

その真新しい1ページ目には、一晩かけて書いたケイタへの言葉。
 
 

ゆっくりゆっくり、自分の文字を読み返してみる。
たった数行の言葉を、何度も何度も。
繰り返し繰り返し。

微かに頬が、耳が、ジリジリと熱く赤くなる音がする。
 
  
   
その時、ガラガラと教室の引き戸が開く音がして、マリは途中まで読み返し
ていたノートを慌てて閉じ机の引出しに押し込み隠した。

さっと顔を上げドアの方向に目をやると、そこには少し息を切らせたケイタ
の姿がある。
 
 
 
 『ぉ・・・ おはよ・・・。』
 
 
 
マリが少し口ごもって心許なくを挨拶する。
 
 
『・・・ぉはよ・・・ぅ・・・。』 ケイタも弱々しく返し、気まり悪そう
に瞬時に目を逸らした。
 
 
 
  (ぁ・・・

   ・・・ちがうよ、ナナミ君・・・ 私・・・。)
 
 
 
ケイタのその表情にハっとして、慌ててケイタの元へ駆け寄るマリ。
そんなマリも少し泣きそうな顔になりかけている。
 
 
そして、冷えた白い手に大学ノートをぎゅっと握りしめ、
『あの・・・・ コレね・・・。』

事情を説明しようとしたところへ、部活朝練終わりのクラスメイトが数名
ガヤガヤと賑やかに教室に入ってきた。

満足に説明しきれず口惜しそうに眉根をひそめ、しかしマリは大学ノート
だけ少し強引にケイタに押し付けて自分の席にパタパタと戻った。
 
 
ケイタは押し付けられた、なんだかよく分からないそれに戸惑いマリの方
へそっと目を向けるも、窓の外へ顔を向けマリの表情は読めない。
 
 
手元には、少し丸まったマリからの新しい大学ノートがあった。

ケイタは背中を丸めて辺りをキョロキョロと見渡し、誰にも見えぬように
それを机の下に隠し、膝の上で静かにそっと表紙を開いてみた。
 
 
 
 
 
        めくったページに、

               マリが、いた。
 
 
 
 

■第7話 バレンタインデー

 
 
 
ケイタとマリの大学ノートには、等身大の互いの表情が活き活きと溢れてい
た。言葉を口にするより、文字にする事で正直に素直になることが出来る。
 
 
そこには、”家族のこと ” ”学校のこと ” ”将来のこと ”、
16歳のふたりの16歳らしい気持ちが満ち満ちて綴られていたが、肝心な
”相手への想い ”についてはまるで示し合わせたかの様に一切触れずにいた。

それでも、クラス内ではあまり多く会話を交わす事が無いふたりの、誰にも
秘密のふたりだけの大学ノートだった。
 
 
 
 
 
2月の凍てつくような冬風が吹く、とある夕暮れ。
 
   
マリはエプロンをして自宅の台所に立ち、ちょっと照れくさそうに頬を緩ま
せながらチョコレートを作っていた。

毎年父親に渡しているバレンタインのチョコレート。
今年は、生まれてはじめて二人分作っている。
 
 
一人分多いそれを父親に知られるのはさすがに恥ずかしい。夕飯の支度を早
目に済ませ、父親が帰宅するまでの間に大慌てでチョコレート作りの下準備
をし父親が寝入った夜更けにそれはやっとの事で完成した。
 
 
2月14日 バレンタインデー当日は、金曜だった。
 
 
図書委員の当番がある、金曜。
ふたりになる時間がある、金曜。

ケイタにチョコレートを渡せるタイミングも充分にあるはずだった。
 
 
しかし、いざ実際ふたりきりになってみると、手提げカバンから包みを出
す勇気が出ない。

マリが座る席のすぐ横に手提げカバンを置き、その中から取り出そうと思
えばすぐにでもそれを取り出せるようスタンバイは完璧なのだけれど。
 
 
ケイタも2月14日という日を意識していないはずはなかった。

ケイタもマリも充分すぎる程その日を意識し、しかし一歩踏み出す勇気を
出せず、ただただ図書室の貸出係席に並んで黙って座っていた。
マリは読んでもいない本に必死に目を落として闇雲にページをめくりケイ
タは片肘ついて意味もなく高速で地球儀をグルグルと回して。
 
 
ただただ、ふたり並んで黙って座っていた。
 
 
マリがモタモタしているその間も、女子生徒が入れ代わり立ち代わり図書室
にケイタを呼びに来る。

その度にケイタはちょっと俯き気まずそうに、ノロノロと踵を引き摺って図
書室を出てゆく。ドアに手を掛ける直前でいつもの優等生スマイルを作り、
図書室に戻ってくる直前で本来の気怠いケイタの素顔に戻っていた。
 
 
貸出カウンターに山のように積み重なってゆく、色とりどりのチョコレート
の包み。
 
 
マリはまるでそんなもの見えていないかのように敢えてそれを見ようとせず
一言も、何も言わなかった。
次第に不機嫌になっていったのは、ケイタの方だった。
 
 
嫌味のひとつでも言われた方がまだマシだった。

しかし、マリは何も気にしていないような顔をして本に目を落とし、時折窓
の外をじっと眺めるだけだった。
 
 
 
夕刻6時、気まずくて長い長い当番の時間が終わった。
 
 
最近は委員当番がある金曜だけ自転車で来ていたケイタ。
当然一緒に帰るつもりで共に駐輪場へ向かったが、そこにもまたケイタを待
つ女子生徒の姿で騒がしい。
 
 
またしても取り囲まれたケイタに、はじめてマリが不満気な目を強く向けた。

一瞬ケイタを鋭く睨み唇をぎゅっと噛み締めると、即座に自転車に跨りすっ
かり暗くなった校舎脇の道へ猛スピードで消えて行く。
 
 
『ナ・・』 ”ナミキ ”と呼び掛けて飲み込み、ケイタはその消え去る背中
をどこか哀しげな目で見つめていた。
 
 
ひとり、薄暗い通学路で自転車のペダルを漕ぐマリの脚に力が入る。
 
 
早く、1秒でも早く学校から離れたかった。

ケイタから、あの偽物の顔をしたケイタから。
上手に微笑み、気持ち悪いくらい丁寧な物腰のケイタから。
 
 
 
  (最悪・・・ もう、最悪・・・ 最っ悪だ・・・。)
 
 
 
猛スピードで立ち漕ぎをする。
息があがりすぎて、肺が爆発でもしそうに苦しくて痛い。
 
 
 
  痛い。

  喉と、喉の下のあたりと、肺と・・・
 
 
  苦しい。

  痛くて、苦しい・・・

  喉も肺もみぞおちも、全部全部・・・
 
 
  違う。

  違う、そうじゃなくて・・・

  そんなんじゃなくて・・・ 
  
  
 
      ・・・胸が、 

             痛いんだ・・・。
 
 
 
マリは途中でゆっくりブレーキを掛け自転車を停めた。

静まり返った藍色の空に耳障りなブレーキ音と、タイヤが砂利に抵抗するそ
れが響く。両脚で支えにしてサドルに跨ったまま手を伸ばし、カゴに入れた
手提げバックの中の小さなそれを手に取った。

赤い手袋をはずし、凍える白い手で優しく包み込み、じっと見つめた。

鼻の奥がツンと痛んで目頭がじわじわ熱を持つのを感じる。
赤い頬に、涙をこらえる目に、白い息がかすめ流れる。
 
 
すると、遠くから微かに聞こえてきたペダルの軋む音と、慌てて立ち漕ぎを
しているのだろう自転車の揺れに合わせ大きく左右するライトの光が現れた。
 
 
マリはゆっくりその薄暗がりの奥を見る。
揺らぐ瞳で瞬きもせず、息を殺して、じっと見つめた。
 
 
 
そのシルエットが、マリの前で急停車した。
 
 
 

■第8話 チョコレート

 
 
 
 『・・・・・。』
 
 
 『・・・・・。』
 
 
 
ケイタもマリも互いを見つめたまま何か言いたげに、しかし何も言えずただ
心許なく立ち尽くしていた。

校舎脇の薄暗がり道に、自転車のライトだけが物寂しげにポツリ2台分。
 
 
マリが、ひとつ、小さく深呼吸をした。

襟元のマフラーを少し引っ張り上げ、寒さで乾燥した口元を隠すようにして
俯き凍える両手で包んでいたそれを、ゆっくりゆっくりケイタへと差し出す。
 
 
それは、小さな小さな四角い包みだった。
 
 
ケイタは哀しいほどに優しい視線で目の前のそれをそっと見つめ、待ちきれ
なそうに手袋をはずして大切そうに両手でしっかり受け取った。
互いの凍えた白い息を吸って吐く音だけが、寒空の下、耳に流れる。
 
 
いまだ恥ずかしそうに爪先ばかり見つめているマリへ、ケイタが言葉を掛け
ようと一歩前進したその時、立て掛けていた自転車のハンドルに腕がぶつか
ってしまい大きな音を立てて自転車が横倒しになった。

冷たく乾いたアスファルトの上に、カゴに積んでいた紙袋から多数のチョコ
レートが飛び出し散乱する。嫌味なほど派手でカラフルな包みが、まるで誇
示するかのようにグレーの地面に色とりどりに眩しく広がった。
 
 
散らばったチョコレートの横にしゃがみ込み、ケイタは溜息まじりにそれを
乱暴に紙袋に戻す。包みを掴んでは放り入れるその様子は、至極タイミング
が悪いそれにイライラした感じが隠し切れない。
 
 
ケイタが次々に掴む目映いラッピングの包みの数々を、マリはただじっと見
つめていた。なんて言葉にしたらいいのか分からない、悔しさのような妬ま
しさのような哀しさのような怒りのような感情が喉元まで迫り上げる。

そして『じゃあ。』 ケイタの背中を暗がりに残し、マリはまた全力でペダ
ルを踏み出し、すっかり暗くなった道を一人駆け抜けて行ってしまった。
 
 
 
ケイタの左ポケット奥には、たったひとつだけ小さな四角い包みが大切に大
切にしまわれていた。
 
 

 
 
 
ケイタが自宅に帰ると、母親と弟が ”今年の収穫物 ”を待ちわびていた。
 
 
毎年バレンタインには大量にチョコレートを貰って帰るケイタ。

しかし、そのチョコレートを食べすぎた為か、いつの頃からか体が一切受け
付けなくなり、そのうち貰ったそれは母親と弟にそのままスライドされる流
れになっていた。
 
 
 
 (くれた子には申し訳ないけど、捨てる訳にもいかないし・・・。)
 
 
 
毎年同じセリフを繰り返しては、大きな紙袋ごとチョコレートはナナミ家の
リビングに放置された。
 
 
 
帰宅したケイタが大慌てで階段を駆け上がり、急いで自室のドアを開ける。

カーテンを閉めるのも制服を着替えるのもすべて後回しにし、ベットに腰か
けてゆっくりと左ポケットから手を出した。
 
 
ずっと手を突っ込んだままだった、左のポケット。

決して落としたり失くしたりしないよう、しっかりその手に掴んだままだっ
た四角い小箱。

目の前に現れたそれの赤いリボンを、微かに震える指で静かにほどいた。
 
 
丁寧に箱を開けると、その中には控えめな感じの小ぶりのトリュフが3粒。
精悍すぎないそれに、手作り感が溢れている。
 
 
もう何年も口にしていないチョコレート。

その甘ったるい香りだけで顔をしかめたくなるほど、ここ数年は嫌厭してき
た。正直、どんな味だったかも曖昧なほどだった。
 
 
箱にそっと指先を差し込み一粒つまんで、目の高さに上げ、じっと見つめる。
 
 
放課後の図書室で手提げカバンに手を入れたり出したりして、これを出すタ
イミングを見計らっていたマリをふと思い出す。

早く欲しくて、でもさすがに言い出せなくて。マリに気付かれぬようチラチ
ラとこれが入っているであろうカバンを盗み見ていた数時間前。
 
一人、思い出して思わず肩をすくめて笑った。
胸の奥の奥が、こそばゆくて、歯がゆくて、なんだか苦しい・・・。
 
 
 
そっと、口の中に入れてみた。
 
 
 
それはあまりに、甘くて、苦くて、切なくて、鼻の奥がツンとした。

普段冷静なはずのケイタが、大声で叫んで飛び上がりたいくらいの胸の高鳴
りを憶えていた。
 
 
 
         ”ケイタへ
 
             マリより ”
 
 
 
たったそれだけの小さなメッセージカードを、ケイタは眠れずに一晩中見つ
めていた。
 
 
 

■第9話 ジンマシン

 
 
 
その日、ケイタは学校に来なかった。
 
 
担任が言うには ”体調不良 ”という事だったがどうしても気になり、放課
後ケイタの自宅であるひまわり保育園へ自然と足が向いていたマリ。

無我夢中で自転車のペダルを漕ぎ保育園のグラウンド前まで来たところで、
そこから先の事は無計画だった事に気が付いた。
 
 
 
  (来てはみたものの・・・ どうしよう・・・。)
 
 
 
グラウンドを囲むフェンス脇に自転車を立て掛け、一人ぽつんと立ち尽くす。

フェンスに指を掛け網目越しに見つめると、そこには親のお迎えを待つ園児
たちの楽しそうに弾む笑い声が遠く響いている。
 
 
すると、
 
 
 
 『兄ちゃんの学校の人ですかぁ~?』
 
 
 
突然背後から声を掛けられた気配に驚いて振り返ったマリ。

そこには、ランドセルを背負った男の子がニコニコと朗らかに笑っている。
背格好からして、5年生か6年生だろうか。
 
 
すると、
 
 
 
 『兄ちゃんなら、ジンマシン出て家にいますよ~。』
 
 
 
マリの返答も待たずに、続けるその小学生。

モゴモゴと口ごもり返事に困っているマリへ 『僕、弟のコースケです。』 
そう言って、思いっきり笑顔を向けたケイタの弟。
 
 
以前、大学ノートに ”弟が一人 ”と記載があったのを思い出す。
てっきりケイタに似た男の子を想像していたのだが、直観で根本的にタイプ
が違うように感じた。

ケイタはクールでキリっとしたタイプだが、弟コースケは人懐こく親しみ易
い根っからの ”善人顔 ”をしている。
 
 
でも、マリは思った。
 
 
 
  (ナナミ君が図書室で思いっきり笑う顔と、

   やっぱり、ちょっと似てるかも・・・。)
 
 
 
思わず、口元を手の甲で隠しクスっと微笑んだ。

ケイタが肩の力を抜いて大笑いする顔をなんだか無性に見たくなって、そう
思った自分に自分で照れまくり、恥ずかしそうに一人眉根をひそめる。
 
 
 
 『ジンマシンって・・・ ナナミ君、アレルギーかなんか?』
 
 
 
マリが訊ねると、『えーぇと・・・ あの・・・。』 慌てて目を逸らして
言い淀んだコースケ。
 
 
『ん~?』 その何かを隠しているような様子に、少し屈んで顔を覗き込み
コースケの二の句を待つと、
 
 
 
 『・・・チョコ・・・ 食べたみたいで・・・。』
 
 
 
言っていいものかどうか悩みながら、小声で呟いたコースケ。

それはまるで小さな体全部で考えて考えて ”言っていいこと ”と ”言わな
くていいこと ”を必死に選別したような、随分遠慮がちな声色でこぼれた。
 
 
 
 『チョコ?!

  ナナミ君、チョコ食べるとジンマシン出るの?!
 
 
  まぁ・・・ でも、あんな数の食べたら、そりゃ・・・。』
 
 
 
紙袋に詰まった大量のチョコレートを思い返し、顔をしかめながらそう言っ
たマリの言葉を、コースケが首を横に振り遮る。
 
 
 
 『いや、あの・・・
 
 
  兄ちゃん、元々チョコ駄目なんです。

  もうずっと食べてなかったんですけど・・・
 
 
  ・・・なんか、今年は食べたみたいで・・・。』
 
 
 
そう言うと、”しまった! ”という顔をしてコースケは眉尻を下げて慌て
ふためく。
 
 
 
 『ももももしかして、兄ちゃんにチョコくれた人ですか?
 
  僕・・・ 余計なこと言ってたらスミマセン・・・。』
 
 
 
そのコースケのうろたえぶりに、小学生なのになんて気遣いが出来る子なん
だろうとマリはある意味感心していた。

まだ少ししか話していないけれど、コースケの純粋さや真っ直ぐな感じは言
葉の端々に溢れ出ている。弟が天真爛漫な分まで、ケイタは必要以上に肩に
力を入れ、本人も気付かぬうちにしっかり者を演じているのかな、なんて心
の中で少しだけ切なく思う。
 
 
『私、ナナミ君にあげてないよ。』 咄嗟にマリは嘘をついた。
 
 
恥ずかしかったの半分、もっとコースケからケイタの事を聞きたい気持ち半
分からの嘘だった。
 
 
 
 『ナナミ君、モテるから毎年チョコ大変だね?』 
 
 
 
コースケへ話を振りこっそり表情を覗き見ると、

『それで食べれなくなったんです。』 ちょっと安心した顔で、屈託なく笑
ったコースケ。
 
 
 
 『だから、毎年

  紙袋いっぱいに貰って帰るチョコは、僕とお母さんで食べるんです。
 
 
  ・・・ぁ、これ内緒にしてて下さいね?

  兄ちゃんにチョコあげた人は、イヤでしょ。』
 
 
 
この気遣いに改めて感心するマリ。
 
 
『でも、今年は食べたの?  あのチョコ・・・全部??』 マリは首を傾げ
何故今年だけ無理をしたのか訊ねると、
 
 
 
 『ううん。

  いつも通り、紙袋は僕が貰ったんで・・・
 
 
  なんか別のやつだけ、自分で持ってたみたいです・・・。』
 
 
 
その一言に、マリは目を見張って固まる。
 
 
そして、あの日の映像を必死に呼び起こす。

あの日、薄暗い校舎脇の道でケイタが自転車を倒し、紙袋から散乱した大量
のチョコを乱雑にそこに詰め込んでいた姿が浮かぶ。
 
 
 
   確か、マリが渡したチョコは・・・
 
 
 
違うかもしれない。
マリの、ただの記憶違いかもしれない。

勘違いかもしれないのだけれど・・・
 
 
急速に鼓動が早打ちをする。
耳元で打ち付けるような自分の心臓の爆音がやけに鮮明で、まるで他人のそ
れを聴かされているよう。
 
 
どうしても、確かめたい。 
確かめずにはいられない。
 
 
 
するとマリは、その場にしゃがみ込み手提げカバンから大学ノートを取り出
すと膝の上にページを広げ、シャープペンシルの頭を乱暴に2回ノックして
おもむろにそこにペンを走らせる。
 
 
急いで殴り書きするとコースケにノートを半ば強引に押し付け、ケイタに今
すぐ渡してもらえるよう頼んだ。
 
 
すると、笑顔でアッサリ引き受けたコースケ。

『ちょっと待ってて下さいね~!』と、駆け足でグラウンド奥の自宅へ消え
て行った。
 
 
 
  (勘違いだったら・・・ バカみたい・・・。)
 
 
 
膝を抱えてしゃがみ込んだまま頭をうな垂れ、ノートの言伝を頼んだ事に今
更ながら激しく後悔しはじめていた・・・
 
 
 

■第10話 たった一人だけ

 
 
 
  コンコン・・・
 
 
 
自室のドアをノックすると同時に『兄ちゃ~ん?』と声を掛けながら部屋に
入ってきた弟コースケ。
 
 
ベッドに仰向けになりぼんやりと小さなカードを眺めていたケイタは、体を
起こしてコースケへと目を向けた。ノロノロと気怠そうに起き上ったその顔
も首も腕も、赤く広まった発疹で見る影もない。
 
 
『これ、頼まれたよ』と手に掴んだそれを差し出したコースケ。状況がイマ
イチ把握出来ずコースケの顔と手元を交互に見たケイタの目に、ケイタとマ
リの大学ノートが映った。
 
 
『え?! これ、どうした??』 勢いよく前のめりに上半身を起こし再度
弟の顔とノートをせわしなく見ながら、慌ててページを開く。
 
 
 
 『・・・・。』
 
 
 
そこにあった2行のそれに、顔も耳も一気にジリジリと熱くなる。
 
 
すると慌てて立ち上がり、少しくたびれた部屋着のまま自室を飛び出してゆ
くケイタ。騒々しく大きな音を立て、ドアも開けっ放しにして。

部屋に一人残されたコースケが、あまり見たことがない兄の慌てぶりに目を
白黒して驚き固まっていた。
 
 
階段を2つ飛ばしで駆け下り、裏口にあった父親の不格好なサンダルを引っ
掛け飛び出すと勢い余って転びそうになりながらグラウンドへ向けて駆ける。
 
 
そのがむしゃらに駆ける先に、膝を抱えてしゃがみ込み元々小さな身体が増
々小柄に見えるシルエットがポツンと。

こんなにグラウンドは広かっただろうかと思う程、必死に脚を蹴り出すのに
マリまでの距離がなんだか遠い。

1秒でも早く、1ミリでも近く、マリの元へ駆け付けたいのに。
 
 
 
 『・・・・。』
 
 
 『・・・・。』
 
 
 
マリの前へと滑り込むも息が上がって肺が苦しくて、すぐには言葉が出ない
ケイタ。マリも来てくれることを乞うその姿がいざ目の前に現れると、恥ず
かしいのと不安な気持ちで、ただの一言も言葉を紡げない。
 
 
互いに泣きだしそうな顔をして、ただ見つめ合っていた。
 
 
すると、
 
 
 
 『・・・ジンマシン・・・ 酷いじゃない・・・。』
 
 
 
暫し黙って見つめていたマリが、ケイタの頬や首筋に見える発疹を見て哀し
そうにしかめっ面をした。
 
 
そして、『ねぇ・・・?』 

マリが更に切なげに続けようとした時、
 
 
 
 『・・・食べた。
 
 
  食べたのは・・・ ナミキの、だけ・・・ 

  ナミキがくれたのだけ・・・ 食べた・・・。』
 
 
 
 
 

      ”今、目の前のグラウンドにいます。 

         もしかして、チョコ食べてくれたの? ”
 
 
 
 
ケイタが片手に握りしめる大学ノートが、ギュっとひしゃげる。
真っ白なページには、たった2行。マリの丸い小さな文字が並んでいた。
 
 
そのケイタのやわらかいが熱を帯びた言葉に、咄嗟に俯いたマリ。
 
 
 
 (あんなキレイな顔を赤い発疹だらけにして、

  そうなるの分かってて、
 
 
  それでも食べてくれたんだ・・・。)
 
 
 
マリはゆっくり顔を上げてそっと手を伸ばし、少し震える指先でケイタの頬
に触れた。

無数の赤いそれは触れたら痛いのか痒いのか分からず躊躇いながらも、それ
でもどうしても確かめずにはいられなかった。
外気の冷たさで冷えたマリの細い指先に、ケイタの燃えるような頬の熱。
 
 
 
 『ノートに書いといてよね・・・
 
  ”嫌いな食べ物 ”・・・ チョコ、って・・・。』
 
 
 
少し不貞腐れるように目を眇め呟いたマリに、ケイタは落ち着きなく目を伏
せて小さく小さくこぼす。
 
 
 
 『いや・・・ 

  だって・・・
  
 
  それ、書いたら・・・ 貰えなくなると思って・・・。』
 
 
 
それはいつも学校で見え隠れする自信満々で傲岸不遜な声色とは全く違う、
切ないほどに心許ないものだった。

『バカみたい・・・。』 そう呟くマリの声もどこか笑っているような、
泣き出しそうな不安定なトーンで響く。
 
 
そしてふたり、再び黙ったまま泣きだしそうな目で見つめ合った。
互いの赤い頬、つぐんだ唇、潤んだ瞳にほんの少し目を細める。
 
 
 
 『じゃぁ・・・ 

  ・・・来年は、クッキーにするね・・・。』
 
 
 
小さく小さく呟いたマリ。

照れくさそうに咄嗟に俯いてしまったため表情は見えないが、柔らかな栗色
のサイドの髪の毛の間からのぞく耳が真っ赤に染まっている。
 
 
 
 『ぅん・・・

  ・・・ナミキのだけ、食べるから・・・。』
 
 
 
同じくらい耳を真っ赤にしたケイタが、震える声で小さく答えた。
 
 
赤らむふたりに、少しだけ雪が散らついていた。
 
 
 

■第11話 3月14日

 
 
 
ケイタからこっそり渡された大学ノートに、肩をすくめ恥ずかしそうに目を
落とすマリ。
 
 
 
 
     ”明日、必ず一緒に帰りたい。

      出来れば、自転車じゃない方がいい。 ”

 
            3月13日   ケイタ
 
 
 
 
『明日・・・。』 否応にも ”その日 ”だという事を痛感する。
 
 
ふたりで帰る放課後には慣れてきていたものの、改めてそんな風に文字にさ
れると恥ずかしさに戸惑ってしまう。

何度も何度もケイタの少し気怠い文字を見つめ、指先でそっとそれを撫でる。
どこか素っ気ないその文章も、照れくさくて敢えてそうなってしまっただろ
う事を想像し、そんなケイタが愛おしくて胸の奥がキュンと音を立てた。
 
 
自室の机上カレンダーに赤色でマルを付けた ”14日 ”が、小さなプレッ
シャーをかけてくる様で、マリはきゅっと口をつぐみ困ったように眉尻を下
げ目を細めた。
 
 
『明日はバスで行かなきゃ・・・。』 マリが小さくひとりごちた。
 
 
 
その日の放課後の教室は、いつもとは違うそれだった。

男子が女子を隠れて呼び出したり、堂々とした受け渡しがあったり明らかに
浮わついた空気が充満している。
 
 
クラスメイトに紛れて目の端でチラっとケイタを覗き見る、マリ。
ケイタもマリへ視線を向け、ほんの少ししかめっ面をして合図をする。
 
 
ケイタの机にドサっと置かれた重たそうな紙袋。

その中にはたくさんの四角い包みが入っている。全て同じ包装紙で同色リボ
ンが付いているそれ。仮面の笑みでクラスの女子にホワイトデーの包みを手
渡しはじめたケイタを、マリは窓際の席で頬杖をついてぼんやり見ていた。
 
 
じっと見つめていた訳ではないのだが、バツが悪そうに眉尻を下げるケイタ
とチラチラ目が合う事にさすがに気まずさを感じ、マリはカバンを持って教
室を出た。クラスメイトの雑踏の中、振り返りもせず一人でパタパタと駆け
てゆくその背中に、何か言いたげに不安そうな目を向けたケイタだった。
 
 
今日は自転車で登校していない為、駐輪場にいても仕方がない。
 
 
何処でケイタを待とうか悩んでいた。
何処に行っても校舎内は仲睦ましい姿で溢れていて、なんとなく居場所がな
い気がした。
 
 
トボトボと当てもなく廊下を歩いていたマリ。

遠くに聞こえる吹奏楽部が奏でる音色と、運動系の部活の快活な掛け声と、
教室のあちこちから漏れる愉しげな笑い声が交ざって流れる。

自分だけひとりぼっちな気がして、何故だか急に心細くなってゆく。
足を止めて長い廊下の窓際に立ち、窓枠に手を掛けてグラウンドを駆ける球
児達をぼんやり眺めていた。
 
 
 
  (なんか、こそこそ・・・ してるなぁ・・・。)
 
 
 
気付かぬうちに小さく溜息がこぼれた。
 
 
 
  (付き合ってる、って・・・

   みんなに知られたら、 ケイタ、どうするんだろ・・・。)
 
 
 
マリは窓に手を掛けたまま背を丸めてうな垂れ、内履きの爪先をぼんやりと
見つめていた。
 
 
すると、遠くからバタバタと騒々しく走る足音が聴こえた。

顔を上げその足音の方へと目をやったマリに、先の廊下をケイタが駆け抜け
る姿が映る。

『ケ・・・』 名を呼び慌てて追い掛けようとした瞬間、一拍早くマリを目
の端に捉えたケイタが慌てて引き返し駆けて来た。
 
 
 
  『か・・・ 帰った、かと・・・ 思っ、た・・・。』
 
 
 
マリを探し、必死に校内を走り回っていたケイタ。
息苦しそうに屈んで頭を垂れ、全身で大きく大きく息をして切れ切れに呟く。

体の横で垂れたその手に掴むのはカバンのみだった。紙袋の大量の中身は全
て配り終わったという事のようだ。
 
 
 
  (いっつも走って息切らしてる・・・。)
 
 
 
マリはケイタの手から紙袋がきれいサッパリ無くなった事にホっとし、ちょ
っと嬉しそうに目を細め笑う。
 
 
 
 『・・・ちゃんと約束したじゃない・・・

  先に帰ったりしないよぉ・・・
  
 
  ・・・どこで待とうか、迷っちゃって・・・。』
 
 
 
肩をすくめると、まだゼェゼェ息をつくケイタの背中をそっとさする。

マリの手の平の熱を背中に感じたケイタもまた、嬉しそうに照れくさそうに
頬を緩めて微笑み返した。
 
 
ふたりは、あと数センチで二の腕が触れあう距離で並んで歩き靴箱に向かう。
互いの間で揺れる手と手は、本当は相手のそれに触れたいと歯がゆく彷徨う。

すると廊下を進んでいる二人の目に、向かいからこちらへやって来るクラス
メイトの姿が見えた。ケイタとマリ、”この日 ”にふたり並んで歩いている
事に、厭らしく目を輝かせヒソヒソ何やら話している。
 
 
咄嗟に、慌ててマリがケイタから少し距離をあけた。

それはまるで、たまたま廊下で一緒になっただけのクラスメイトのように。
女子に人気があるケイタの隣に立つのは、自分では役不足なのではないかと
一瞬かすめて。
 
 
すると、ケイタは即座にそんなマリの腕をぐっと引っ張り、腕をつかんだま
ま廊下を進んだ。真っ直ぐ前を向いたままマリを見ず、なにも、一言も言い
はしない。

そして腕を掴んでいたその大きな手は次第にゆっくり下にさがり、マリの臆
病で自信の無い華奢な指先を掴んで握り締める。
ケイタの無言のそれに、マリは頬を染め潤んだ瞳で俯いた。
 
 
はじめて繋いだ二人の手と手は、緊張と喜びと恥ずかしさでやけに熱を持っ
てしっとりしていて、互い同時にぷっと吹き出して笑ってしまう。

ピアノが弾けるような低音と高音の笑い声が、放課後の廊下に木霊していた。
 
 
 
 
 
夕暮れの帰り道。
少し薄暗い中、ただ黙って手を繋ぎふたり歩く帰り道。
 
 
歩く上下の揺れに襟元の赤いマフラーが肩から落ちないよう、マリは片手で
軽く押さえる。

そっと横を向けば、目の端にはケイタがいる。
軽く頭ひとつは背の高い、凛とした横顔のケイタがいる。
 
 
しばらく歩くと、ケイタは学校から少し離れた公園にマリを促した。
ひと気は全く無い。さすがにもう子供たちが遊ぶには薄暗くなりすぎていた。
 
 
公園の中央、噴水の前まで来てケイタが止まる。

夏の噴水前は大勢の人で賑わっているが、さすがにこの時期は噴き出す水も
なく閑散として少し物悲しい感じが漂っていた。
 
 
するとケイタが左手に掴んでいたカバンから、そっと小さな包みを取り出し
た。それをマリの前にゆっくり差し出し、ひとつ呼吸して言う。
 
 
 
  『コレ・・・・・。』
 
 
 
マリははずした赤い手袋を手提げカバンに入れると、しずしずと両手を出し
て包みを受け取った。

シンプルな四角い包みが手の平にやさしく佇む。
それは紙袋に大量に詰め込まれていたカラフルなそれらとは、あきらかに別
物だった。
 
 
ちょっと微笑みながら、『開けてもいい?』 マリが小さく訊く。

コクリと頷き手持無沙汰で首の後ろをポリポリと掻きながら、照れ臭そうに
ケイタも口許を緩めた。
 
 
そのシンプルな包みには派手なリボンや輝くシールなどは無く、デパ地下で
この時期に特設コーナーを設置して売りさばかれているものとは全く違う感
じがした。
 
 
丁寧にテープを剥がして包装紙をはずす。

すると、中から直方体の小箱が現れた。
小箱のフタをそっと開ける。
 
 
現れたその箱の中身を、瞬きもせず見つめたマリ。
 
 
なにも言わない。
なにも。
 
 
ケイタは息を呑み、マリに気付かれぬよう不安気に視線を向けた。
 
 
すると、
 
 
 
  『キレイ・・・・・・・・。』
 
 
 
マリから絞り出された声は、か細くて不安定で消えてなくなりそうだった。
 
 
指先で掴んでゆっくり目の高さに上げ、弱々しい月明かりに透かして見る。
それは、七色に輝くビーズのストラップだった。

心許ない月光にも反射して目映く光り、ほんの少し吹いた風にゆらゆら揺
れてその色をマリの潤んだ瞳に映す。
 
 
目を細め、嬉しそうに泣いてしまいそうに『キレイ』と何度も何度もマリ
は繰り返し呟く。
 
 
 
 『キレイ・・・

  キレイ・・・
 
 
  すっごい・・・ キレイ・・・・・。』
 
 
 
その嬉しそうな横顔にしばしぼんやり見惚れ、ケイタもまた泣き出しそうに
『ケータイ持ってないのは知ってるんだけどさ・・・。』 と呟いた。
 
 
すると『ううん!』と首を横に振り、『あっ! カバンに付けるっ!!』

マリはその場にしゃがみ込み、手提げカバンの片方の持ち手へくくり始めた。
 
 
しかし、夕闇のどんどん下がってゆく気温に指先がかじかんで、巧くストラ
ップはくくれない。凍えて赤く染まる指先にハァと息をかけて温め、ストラ
ップの紐と格闘するマリの姿を目に、ケイタが隣にしゃがみ込んだ。
 
 
そして『ちょ、貸してみな?』 
優しく目を向け、マリの指先からそれを受け取った。
 
 
 
 
 
   一瞬のことだった・・・
 
 
 
 
 
しゃがんでふたりの顔が近くなった、瞬間。

今までで一番近い距離で目が合い、互いの吸って吐く息を頬に感じ、マリが
慌てて目を逸らそうと俯きかけた、その瞬間。
 
 
 
 
 
   ケイタが、そっと、唇を近付けた。
 
 
   ただ、ほんの少し触れただけの。

   それは小さな、とても小さな・・・
 
 
 
 
世界中の音が消えてなくなった。
 
 
 

■第12話 ふたり

 
 
 
それからケイタとマリは、いつも二人でいた。
 
 
高校2年、3年と進級し、クラスが離れても。
ケイタは大学進学、マリは就職し環境が変わっても変わらず二人でいた。
 
 
よくケイタの自宅にも遊びに行き、弟コースケとも姉弟のように打ち解け
ていったマリ。

しかし、実家でのケイタの立ち居振る舞いを目にする度に少しだけ心は遣り
切れないもどかしさにザワザワとざわめいた。
 
 
 
 『ねぇ、ケイタ・・・ 

  卒業したら、ほんとに園 継ぐの・・・?』
 
 
 
両親の前でも相変わらず優等生のケイタの姿に、マリは不安で仕方がなか
った。どうしてそこまで必死に繕うのか、正直なところ理解出来ない。

あの頃、大切に大切に書き綴った二人の大学ノートには、ケイタの ”色ん
な国を見てみたい ”という熱い思いが随所に溢れていたのを、マリは忘れ
られずにいたのだ。
 
 
『ご両親に本音をぶつけてみたら?』 マリは何度もそう言った。

しかし、ケイタは頑なに首を縦には振らない。
両親のガッカリする顔を見たくないとの思いが、ケイタをがんじがらめに縛
っていた。
 
 
 
そして、それはある日突然のことだった。
 
 
 
就業時間を終えたマリの職場前にケイタの姿がある。

『どうしたの?』 特に迎えに来るなんて約束もしていなかったのでマリは
驚いてパタパタと駆け寄ると、ケイタは思いつめたように眉根を寄せ、きゅ
っと唇を噛み締めて中々二の句を継がない。
 
 
『・・・ケイタ?』 小首を傾げ真っ直ぐ見つめるマリのその目を、真剣な
少し強張った表情でケイタがじっと見つめ返す。
 
 
そして、ついに震える心許ないそれでこぼれ落ちた。
 
 
 
 『一緒に行こう・・・。

  大学には届け、出してきた。
 
 
  ・・・ふたりで、行こう・・・・・・・。』
 
 
 
やはり、ケイタは動き出してしまった・・・
 
 
それは結局、一番哀しい形として。
”誰にも内緒で黙って行く ”という、最悪の形で。
 
 
 
その夜、マリは一睡も出来ずに考えていた。
 
 
二人で、誰にも内緒で、黙って出て行くという無謀な案。
ケイタはもう大学に退学届を出してきてしまった。

ではマリはどうするのか。
マリは決して大きくはないがとても良い会社で働いている。

それに、父親のことが一番の心配事だった。
父親を一人おいて、しかも何も告げずに出ていくなどそんな事出来ないし
したくはない。

ケイタの両親の気持ちも考えていた。
マリにも優しくし、可愛がってくれる両親の嘆き哀しむ姿を想像する。
弟コースケだって、あんなに兄を尊敬し慕っているではないか。
 
 
 
 
  でも、それでも。 ケイタを、行かせてあげたかった・・・
 
 
 
 
ケイタを応援したい気持ちは際限なく溢れ出していた。
 
 
そのままのケイタで。
ケイタはケイタのままでいいんだと。

もう誰かのために頑張らなくていいんだと。
”優等生 ”じゃなくてもいいんだと。
今まで精いっぱい頑張ってきた ”役 ”を、もう卒業させてあげたかった。
 
 
 
マリは考えた。
一晩中、考えた。
 
 
 
そして、あの頃と同じように ”文字 ”にする事を決めたのだった。
16歳のあの頃のように、素直な正直な気持ちを・・・
 
 
久しぶりに取り出した大学ノートは、日付が高校3年の卒業式で止まって
いた。高校3年間続いた、二人だけの大学ノート。
 
 
ゆっくり懐かしむようにページをめくり、当時の互いの言葉に目を向ける。

最初のページ、初めてノートに気持ちを書き込んだ日が目に飛び込んだ。
それは距離間を測りかねるふたりの、やたらと短い文章で。
 
 
 
 『照れくさくて、2行しか書いてない・・・。』
 
 
 
文字を目にするだけで、当時の気持ちが鮮やかによみがえった。
まるでそれは昨日のことのように、胸を熱くし歯がゆく高鳴らせる。

マリは照れくさそうに嬉しそうにノートで半分顔を隠し、クスリ笑った。
 
 
 
 
    ”ジンマシンが痒い、イケメンが台無し。”
 
 
 
    ”自業自得です。

     正直に言わないのが悪い!(笑)”
 
 
 
 『赤い発疹、なかなか引かなかったっけ・・・

  塗り薬で、ほっぺ、テッカテカに光らして。
 
 
  ケイタ、図書室でずっと手鏡みて、愚痴って・・・。』
 
 
 
 
 
    ”俺、体育祭のリレー、アンカーになった。”
 
 
    ”知ってる。

     だって私、アンカー投票、ケイタに入れたもん。”
 
 
 
 
 『あのリレーで ”優等生のケイタ ”がコケて・・・

  クラス最下位になったっけ・・・ 笑ったなぁ・・・。』
 
  
 
クスクス笑いながらページをめくるマリの手が、止まった。
 
 
 
 
         ”好きだ ”
 
 
 
 
そのページには、このたった3文字を何度も書いては消した跡が微かに残っ
ていた。
 
 
書いては、消し。
書いては、消し。
 
 
少しクシャっとなったあたり。
シャープを握る右手の小指の付け根あたり。

緊張が紙に跡をつけて残っていた。
 
 
本当は全然器用なんかじゃない。

器用に見せているだけで、そつなくこなして見せているだけで。
自分の気持ちを後回しにして頑張っちゃうだけで。
 
 
瞬きをした瞬間、マリの目からひと粒の涙がこぼれ落ちた。
ページの隅にそれは小さな染みをつくって広がる。
 
 
 
 
 
     ”ケイタへ
 
        
      私はケイタを応援するから。
 
 
      待ってるから。

      ケイタが戻るのを、私が待ってるから。
 
      だから、心配しないで行ってきて。
 
 
  
                       マリ ”
 
 
 
 
 
 
その日、ケイタは静まり返った自宅をひとり後にしていた。
大きなスーツケースを、音がしないよう細心の注意を払って転がす。
 
 
園のグラウンドまで足を進め、ゆっくり振り返って自宅を見つめる。

何も知らず眠る両親と弟を思った。
これ以上ないくらい、死んでしまうのではないかと思うくらい胸が痛んだ。
呼吸が出来なくなるほど、鋭利な刃物で心臓をえぐられるような熱を持っ
た痛みが全身を覆う。
 
 
しかし、ケイタは前を向き足早に、気付いた時には大股でグラウンドの土
を蹴り上げ駆けていた。
 
 
早朝の駅に一人、マリの姿がぽつんとある。

ふたりは一緒に空港へ向かっていた。
電車に並んで座るも、互いに一言も言葉を発しない。

ケイタは心許なく俯き、しかしマリはしっかり顔を上げ前を向いていた。
ふたりの手と手だけ、言葉はなくとも伝わる気持ちを、決して変わらない
想いを表すように堅く堅く握り締められていた。
 
 
まだ、人もまばたな国際線の待合席。
 
 
もうすぐケイタは、あの高くそびえ立つゲートをくぐり遠くへ旅立つ。
時間は刻々と迫っていた。

ソワソワと落ち着かなげなケイタに、マリは少しだけ微笑んだ。
 
 
 
 『優等生の仮面はどうしちゃったのよ?

  しっかりしなさいっ! ・・・ ”ナナミ君 ”?!』
 
 
 
 
 
『必ず戻るから、待ってて。』 マリを抱きしめ、ケイタが涙声で何度何度
も囁く。
 
 
ケイタの胸の中で、マリも何度も何度も頷いた。

涙は見せたくない。
なんとか笑顔のままケイタを見送りたい。

”ひとかけらの不安も無い ”という顔をして送り出したい。
 
 
 
 
   そして、ケイタはマリを一人残し空の彼方へ消えたのだった。
  
 
 

■最終話 ケイタとマリの大学ノート

 
 
 
 
 
  メール出来なくてごめん。ケータイ持ってなくて。

  返事が面倒だったら読むだけでいいから。
 
 
              12月4日  マリ
 
 
 
 
  わかった。このノートに色々これから書いていくから。
 
   
              12月5日  ケイタ
 
 
 
 
 
  *******************************
 
 
 
 
 
  ジンマシン、まだ治らないね。

  このままじゃファンが減っちゃうんじゃない?

  モテモテ優等生、ピーーンチ!!
 
 
               2月17日  マリ 
 
 
 
 
  別に減ってもいい。一人いるから。
 
   
               2月18日  ケイタ
 
 
 
 
 
  *******************************
 
 
 
 
 
  2年になった途端、中間テストだな。

  数学と理科、苦手だよね?

  優等生くんが、マリさん専属スーパー家庭教師になりましょうか?
 
 
               5月13日  ケイタ
 
 
 
 
  嫌なこと思い出させないでー!!

  楽しかったゴールデンウィークはもう遠いキオク・・・

  遊園地たのしかったね!!

  またゼッタイ行こうね。

  次こそはジェットコースター乗ろうね(笑)
 
 
  ってゆうか、なんかシャクだから家庭教師はケッコーです。

  試験にゼッタイ出るトコだけ教えて。
 
 
               5月14日  マリ
 
 
   
 
 
 
  *******************************
 
 
 
 
 
  中間の結果、サイアクだった。
 
 
  ちょっと優等生くん!

  地理100点満点って、どーゆーこと?

  ワイロとか、そでのした(←あってる?)とか

  そうゆう系はよくないと思います。
 
 
               5月28日 マリ
 
 
 
 
  地理は一番好きだからね。

  一日中でも世界地図見ていられるし。

  色んな国に行ってみたい。

  色んな文化とか言葉とか人とか見たい。
 
 
  マリさんは何点だったんですか~?

  やっぱりスーパー家庭教師が必要だったろ?
 
 
               5月29日 ケイタ
 
 
 
 
 
  *******************************
   
 
 
 
 
  体育祭のリレー。

  ゴール手前でコケたのはマリのせいだからな。

  あれがなければリレー優勝確実だったのに。

  しゃべってないで、ちゃんと応援しとけよ。
 
 
               10月8日  ケイタ
 
 
 
 
  タカハシ君としゃべってた私に気を取られてコケたのね?

  それはヤキモチですか?(笑)  
 
 
  優勝してこれ以上カッコいいトコふりまく必要なしです。

  カンベンして下さい。
 
 
               10月9日  マリ
 
 
 
 
 
  *******************************
 
 
 
 
 
  卒業式だね。

  高校生もおわりだね。

  高1の12月からはじめたノートも今日でおしまいです。

  ぜんぶで9冊になったよ。何回も読み返しちゃった。
 
 
  ありがとう。

  ケイタがいたから、サイコーの高校生活でした。
  
  
  これからも、よろしくごべんたつのほど。

  この後、いつものファミレスに3時ね。遅れないで。
 
 
                3月1日  マリ
 
 
 
 
 
 
  好きだ。
 
   
 
  大学卒業したら、結婚してください。
 
 
                  ナナミ ケイタ
 
 
 
 
 
  *******************************
 
  
 
 
  
成田空港の一角。
まるで最初からひとつだったかのように、ケイタとマリが抱き合っている。

マリが持つバッグの持ち手には、七色に輝くストラップがやさしく揺れる。
 
 
 
そんな二人の間にヤキモチを妬くように割って入ったタクヤが、片手に持っ
ていたその包みを満面の笑みでケイタへと差し出した。
 
 
『ん?』 小首を傾げて袋の中を覗く。

そして不思議そうに取り出したその包みを開けると、そこには毎年必ず食べ
ていたマリ特製のクッキーがあった。
 
 
 
 
   ”じゃぁ・・・
 
    ・・・来年は、クッキーにするね・・・。”
 
 
 
 
セーラー服姿のあの頃のマリの姿が甦る。

チョコで蕁麻疹が出ることを知らないマリから貰った、初めてのバレンタイ
ンを思い出すケイタ。
 
 
そっと指先でひとかけら摘んで、どこか緊張しながら口に入れる。
それはやっぱり、甘くて、苦くて、切なくて、鼻の奥がツンとした。
 
 
それを嬉しそうに目をキラキラ輝かせて見ているタクヤの口に、ひとかけら
お裾分けする。すると、満面の笑みで『美味しいね!』と顔を緩めた。
 
 
ふとマリへと視線を向けると、また顔をクシャクシャにして肩を震わせて泣
いている。ケイタは目を細め、マリとタクヤとぎゅっと抱きしめた。
 
 
 
  誰にも取られないよう、
  ほんのわずかな隙間も出来ないよう、

  強く強く、力の限り抱きしめた。
 
 
 
心の隙間が全て埋まるほど、三人の鼓動はひとつになって打ち付けていた。
 
 
 
                            【おわり】
 
 
 

眠れぬ夜は君のせい【スピンオフ①】 ~ ケイタとマリの大学ノート ~

引き続き、【眠れぬ夜は君のせい】スピンオフ・番外編をUPしていきます。暇つぶしにでもどうぞ。【本編 眠れぬ夜は君のせい】も宜しくお願いします。

眠れぬ夜は君のせい【スピンオフ①】 ~ ケイタとマリの大学ノート ~

マリは同級生ケイタの仮面のような嘘くさい笑顔が苦手だった。 そんなふたりは図書委員になり、毎週金曜は物音ひとつしない図書室でふたり、隣に並んで座り当番をしなければならない。 互い、少しずつ見える素顔に段々戸惑いはじめ・・・。 【眠れぬ夜は君のせい】のスピンオフ第一弾 ≪全13話≫

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-05-27

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. ■第1話 Side:ケイタ
  2. ■第2話 Side:マリ
  3. ■第3話 図書委員
  4. ■第4話 帰り道
  5. ■第5話 一緒に
  6. ■第6話 大学ノート
  7. ■第7話 バレンタインデー
  8. ■第8話 チョコレート
  9. ■第9話 ジンマシン
  10. ■第10話 たった一人だけ
  11. ■第11話 3月14日
  12. ■第12話 ふたり
  13. ■最終話 ケイタとマリの大学ノート