今夜は二人

 薄暗い玄関は多少身動きが取りづらく、けれどもすぐさま立ち去る慣れきったこの場所に明かりをつける気にもなれない。急な雨に差していた折り畳み傘を靴箱に引っ掛けると、ガサガサコツンと擦れてぶつかる音がする。いつもの位置で脱ごうとした靴の先で、何かを踏みつけた気がした。
 玄関の様子が、朝とは明らかに違っている。
「――おかえり」
 違和感に口を開く前に、中から声が飛んできた。雨音に交じって回した覚えのない洗濯機がガタガタと働く音はするのに、部屋の中から物音は聞こえない。靴を脱ぎながら扉越しに確認した部屋の中は、明かり一つついていないように見えた。だが、先ほど聞こえた声には覚えがあった。
 電気のスイッチを押せば、想像通りの男がきちんと正された――朝はグシャグシャだったはずのベッドの上に体育座りをしていた。そしてその格好は、布団に紛れていたはずのパジャマと化した俺の高校ジャージ。
「お前、なんでいるの? てか、それ俺の服」
「おかえり」
「……はい、ただいま」
 繰り返された言葉に溜め息混じりに答えれば、彼は満足げににっこりと笑う。以前よりツートーンほど明るくなった栗色の髪が可愛らしい。
「服、溜め込みすぎでしょ。部屋干し嫌いなのはわかるけどさ。忙しかった?」
 洗いたいものあったからついでに回したよ、と洗濯機が動いていた解説を勝手にしてくれた。
「電気ぐらいつければいいのに」
「んー、家主がいないのにそれはどうかなって」
 勝手に上がりこんで洗濯機を回す根性があるならその謙虚さは別にいらないし、どうせなら俺のジャージじゃなくてタンスから洗った服を出して着ていてほしかった。が、どれもこれも今更もう遅い。諦めて溜め息一つですべてを押し流して、改めて口を開く。
「今回はちょっと空いたな。四ヶ月ぐらいか? どうやって入った?」
「三ヶ月と十七日ぶりだよ。前に来た時、戸締り用に預かった鍵を拝借してね」
「……許可も取らずに合鍵作るんじゃねぇよ」
「気付かなかったお前が悪いよ、油断しすぎ」
 俺なんかに気を許し過ぎちゃ駄目でしょ、と彼は猫のように笑う。
「ま、使う予定はなかったけどね。いつもみたく待ってたのに、全然帰ってこないんだもん」
 だったら連絡の一つでも寄こせばいいのにと思ったが、そういえば彼の連絡先は俺の携帯に登録されていない。俺と同年代にしては今時珍しいが、携帯を持っていないのだと言っていた。こいつはいつも帰ると玄関前にいて、いつの間にかふらりといなくなっているのだ。
 疲れてるなら帰るよ、と口では言うが立ち上がる様子は一ミリもない。追い出すつもりもないから構わないが、こいつのこういうところはずるいと思う。
「まだ日付変わって一時間経ってないからセーフだろ。知り合いとちょっと飲みに行ってたんだよ」
「そんなことだろうと思った。楽しかったんだ? 声がいつもより軽いし浮いてる」
 ケラケラ笑うと、そのまま横にぱたんと倒れこむ。ベッドがそれに合わせてきしりと音を立てた。薄緑の布団に散らばる髪の毛は前よりも長く、くるりと丸まった毛先が頬を滑った。
「俺も飲みたくなっちゃった。何かない?」
「ビール、は無いな。ゆず酒ならあるかも」
 飲むならベッドから降りろよと声をかけてキッチンへ向かう。酒に見合うグラスなど持っていないがまぁいいか、と適当なコップを二つ引っ掴む。さっきは気付かなかったが、風呂場の扉も少し開いていて、換気扇の動く音とじっとりとした空気が隙間から流れ出ていた。ここもまた勝手に使いやがったか。どうせなら後始末までやってほしいものだ。俺の休日前をわざわざ狙っているのはわかっているから、今更止めさせはしないけど。
 部屋に戻ると彼は足を投げ出して座っていた。手元に落ちていた視線を追えば、そこにあったのは見慣れた形状の鍵だった。
「作ったやつ?」
「そう。使うなって言うなら、もう二度と使わないよ。捨てろって言うなら、凹凸を全部削ってからひん曲げて捨ててあげる」
 灰色掛かった緑と白の二つのリボンが付いたそれを、整った爪の綺麗な指先で摘まんでぷらぷらと揺らすと、チェーンと鍵がぶつかりあって独特の音を立てた。
「そんなものまで付けておいて」
「可愛いでしょ、俺とお前だよ。この間手芸店に行って探したんだ」
 目の前に下げられたそれを受け取る。リボンは自分で結んだものを接着剤で固めているようだった。相変わらず器用だな。
「……で、今回は何人?」
「二人、どっちも年下の子。でも駄目、全然よくなかった。二人とも反応悪いんだもん」
 それとも俺が駄目になったのかも、と彼は小さく呟く。
「相性の問題かもよ」
 俺は鍵を机に置いて、適当なことを言いながら目の前の髪の毛を指で梳く。彼はコップに口を付けたまま、俺の好きなようにさせてくれる。ふわふわとした猫っ毛はほんのりと湿っていて、俺が使っているシャンプーと同じ匂いがした。
「……なんで、俺の家?」
 彼はぱちりとゆっくり瞬きをして、コップの縁をぺろりと舐め上げる。
「もう嫌になった?」
「そうじゃない。けど、どうしてかなって。別にここじゃなくても、行くところには不自由しないだろうし」
「ここじゃなくてもいいなら、ここでもいいでしょ」
 何でも無いように彼はあっさりとそう言って、コップの底の残り少なくなった酒をぐっと飲み干し、次を注ぐ。
「珍しいね、お前が理由を欲しがるなんて。……そうだな、だったらここの匂いが好きだから、とかにしといてよ」
 一杯目を飲み干した俺は、コップを机の上に戻して上体を後ろに倒す。肩甲骨のあたりで程よく受け止めてくれたベッドに頭を預けて目を閉じる。
「そりゃあ、なんとも適当だな」
「案外そうでもないよ。そこに立って深呼吸して、そのまま落ち着いて息を吐き出せる場所は大好きだからね」
 酒が入って幾分か柔らかくなった笑い声が耳を擽る。それにつられて笑い声を零せば、なぁに、とちょっとすねたような声がした。
「お前だって、気許し過ぎじゃない? 対して俺のこと知らないのに」
 体勢はそのままに目だけを開いて彼を見れば、さっきまでの笑顔は変わらないままで、けれども瞳だけは肌をピリピリと刺すような色をしていた。
「……俺があんたのこと調べてないってわかってるんだ?」
「それぐらいはわかる。でもまぁ、こうやって酒を出してやるぐらいには俺は好いてるし、それを躊躇わないで飲めるぐらいにはお前だって俺をわかってるはずだよ」
 夜遅くにやって来るこいつを家に入れたり、風呂場を貸したり、こうやって酒を出したりエトセトラ。第三者から見れば古くからの付き合い、旧知の仲のように見えるかもしれないが、俺のバイト先の常連として知り合った相手だった。数か月おきに突然俺の部屋に訪れるだけの関係、と言ったら妙だが事実その通りで、俺がバイトを辞めてからもその関係は続いている。
 実際俺がこいつについて知っていることと言えば、名前と髪の柔らかさとタオルの畳み方ぐらいだ。知り合って二年ちょっと、部屋にあげた回数が両手を越しているにしては少なすぎる情報だが、それでもいいかとずるずるここまで来たのは俺だから文句は無い。
「こっちが不安になるのも馬鹿らしいぐらい、あんたがモノを深く考えてない人だってのは知ってる」
「うん、そうだよ。だから、それでいい」
 でしょ? と笑えば、彼はきゅっと唇を噛んだ。慎重になるのもわかるけど、俺は思われている以上に善人じゃない。
「んー、そうだな。それでも心配ならさ、お土産持ってきてよ」
 俺の急な物言いにきょとんとした顔をする彼が可愛くて、収まったはずの笑いが込み上げてくる。
「貢ぎ物だよ、献上品。わかりやすく、沈黙を買わせてあげる。そうだなぁ、酒を飲むのに丁度いいグラスとかどう?」
 俺の言葉に何かを察したような表情をして口角を上げる彼は、俺しか見ていないのが勿体無いぐらいだった。こういう顔を女の子たちに見せればいいのに。
「レベル高い要求だなぁ。俺の冥土の土産になってもいいなら今度チャレンジするけど、俺はもうちょっと生きていたいかな」
 彼は俺のコップにおかわりを注いで、中身の半分ほど減った自分のコップを軽くぶつける。ごちん、と鈍い音を立てたそれにどちらからともなく声を上げて笑う。これだけのことで笑えるなんて、今日は二人ともどこかおかしいかもしれない。
「ふふ、あの子たちが乗り移ったかもしれない」
「あの子たち、って今日の二人?」
 彼は楽しそうにこくりと頷く。箸が転んでもおかしい年頃、と笑い過ぎて掠れた声で言った。
「名前知りたい?」
「毎回聞くね。別に興味ないよ」
「そう。……お酒は楽しいのに、二人とも残念だね」
 二人して二杯目を空けて、彼が三杯目を注いでくれているのを見て俺は腰を上げる。
「一緒になんか摘まむ? 戸棚見てくるよ」
 扉を半開きにしたまま、漏れてくる明かりだけでは少し心許無くて、携帯の画面をつけてキッチンに立つ。リビングの明かりが廊下から玄関までをぼんやりと照らしている。靴箱に折り畳み傘とレインコートが並んで吊るされているのがちらりと視界に入ったが、それ以上深追いせずに戸棚から貰い物の米菓を取り出した。
 ピーピーと音を立てて動きを止めた洗濯機の中には、俺が溜め込んだ服と一緒に彼が着ていた服が混じっているのだろう。調べてみたら明日の天気は晴れらしい。部屋の向こうで立ち上がる様子も見せないあいつを潰してから干すか、と心に決める。
 背後の浴室からは、換気扇の音とじっとりした空気が相変わらず漏れている。明日起きてから風呂場の掃除もしなければならない。洗剤がもうないかもしれないから、買い物に行くところから始めないと。
 明日明後日は誰がチャイムを鳴らしても開けるつもりはない。これは俺が勝手に決めたルールだが、守って裏切られたことは無い。大丈夫、今回だって何もない。
「――真白」
「なに、柳」
 部屋の中から俺を呼ぶ声に、指先がピクリと震える。半開きの扉の向こうから手が伸びてくるような感覚がした。俺の考えも呼吸も、きっと何もかも読んでいる。
「あいしてるよ」
 週末の天気の隣に表示されるニュース速報には目を向けずにホームボタンを押す。余計な感情を混ぜることなく、どういたしましてと声を返した。

 だから俺は、二人の名前を知らなくていい。

今夜は二人

今夜は二人

2017年5月7日に行われた文芸フリマで販売していた冊子「紙魚風船」より。高校時代の文芸部仲間に誘われて書いたもの。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-05-22

Copyrighted
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