月の裏側

あたしには特別な友達がいて、その友達は、オリジナルの人間ではない、獏とかいう空想上の動物とはまた別の、夢を副菜として楽しむ生き物。一応人間。人間から派生した人間。名前はムクで、歳は十といくつか、らしい。学校には行かない主義。
昔はみんな、夢を食べていた。
彼は滅ぼされたユメクイ族の末裔、ではなく突然変異した人間。でも、ムクの本質はどこからきたのかわからない、不思議な人間。
ムクの家族は、ムクが言うには存在する。ただし、あたしはいるとも、いないとも思わない。どちらにしろ、ムクは寂しい気持ちになるから。ムクはいつも一人でいるから。
ムクの家族は美味しい夢を求めて暗闇の中、夜のはりめぐらされた回線を泳ぐらしい。ムク本体の眠りについた意識の線をたどって、他人の夢の中にもぐり込む。ムクにはあたし以外の友達がいない。そして極度の潔癖症。いつも医療用のゴム手袋を持ち歩いている。今日もあたしの夢を食べるらしい。知らない人の夢は汚いから、餓死しそうでも絶対に食べへん、と言われたことがある。本当かどうかは、知らない。

「シオリちゃん、早くねなさいよ」

ママが扉を少し開けていった。はぁい、あたしは眠そうな声をつくって返事する。ママは手を振りながら微笑み、そして扉を閉める。あたしは電気を消して寝ころぶ。ガラス戸から差し込んだ月明かりに、手があと少しで届きそうだ。
少したって、コールがなった。
普段は整頓されている頭の引き出しの中のスペルが大きく波打ち出し、ヒトの形をした文字達が瞳の中で踊る。ドクドクと濁流のように、それらはあたしの脳みそのスキマに流れ込む。その喧騒から逃げるように頭まで布団をかぶっていると、お馴染みの声がそばで聞こえた。

「シオリ、寝てるんか。はよ起きい」

ペラリと布団がめくられ、ムクの白い顔が見えた。ムクの肌の、その輪郭は、月の光をも吸収しているようで、これほど暗く静かな夜の中でも、その存在を知らしめている。

「ほんまに寝とったんか。ごめんやで、今日は話したい気分やってん」

ムクはすまなさそうな顔をしてから、両手を顔の前に合わせた。そして、小袋をあたしの鼻の前によせて、におてみ、と言った。白い布袋。

「白茶いうねんて、知り合いのおばはんにもろてん」

ぱいちゃ、というのは何だか怪しい。おばはん、という言葉の響きも少し怪しい。子供に悪いことしてそう、偏見かもしれない。あたしはいまいち『ぱいちゃ』というものに納得できずにいた。

「美肌効果があるんやて、シオリもそれ飲みなぁ」
「あたしはまだまだ若いけど?」
「アホいうな、若いうちからべっぴんさんは努力するんや」

ムクはにんまり笑いベッドに腰をかけて、ため息をついた。あまりにも満足そうだったので、あたしまで満たされた気分になった。でも、少しおばさん扱いをされたみたいで、腹がたった。ほんの少しだけれど。
ムクはこうしてよくお土産をくれる。知り合いのおばはん、が誰だか知らないけれど、もしかするとムクのおばさん、なのかもしれない。家族、なのかもしれない。
よかったね、ムク。
ムクには聞こえない声でそういった。ムクは大きな欠伸をした。

「シオリ、最近はどうや」

ムクは光る目を細めながらいった。猫のような、丸くて愛らしい目が、細長い月のようになる。
ムクは、アレやアレ、アレやって、アレなんやったっけなぁ、わかるやろ? とすがるように言った。あたしは少しだけ『アレ』が何をさしているのかわかる気がした。

「学校のこと?」
「ちゃうちゃう! シオリが気になっとう子。あかん、名前出てこうへん。もう歳やわ」

ムクはポリポリと頭を掻きながら笑っている。ムクはよく、シンちゃんの名前を忘れる。あたしは別に、シンちゃんの話なんかしたくないのだけれど、ムクはシンちゃんの話を聞きたがる。

「もうええわ。今日ははよ寝よ」

そう言いながらムクはベッドにもぐりこんだ。あたしのことを押しのけて、まくらのポジションをチェックするのだ。足の甲に一瞬だけ触れたムクの足は、とても冷たかった。
ベッドを広く使うムクに、あたしは少しむっとしたけれど、

「ほんま、こっから見えるお月さんはめっさ綺麗やなぁ」

とムクはにこにこしていた。
あたしはコイビトや弟がいたらこんな感じかなぁ、と思った。ロマンチックな雰囲気はないけれど、ベットをともにするのなら特別な関係だと思う。

「ムク、コイビトがいたらこんな感じ?」

あたしは天井に貼った星の蛍光シールを数えながらいった。大きいのは、ひとつとひとつ。

「むしろ、シーツフレンズちゃう。コイビトじゃないけれど、シーツ一緒やし」
ふーん。
よかった、あたし人間と恋したいもん。うん。知ってたけれど、あたしたち不思議で特別で本当に一つしかない関係なのに、恋人じゃないの。でもシーツフレンズってどこで覚えた言葉なのかなぁ。ムク、昼間は何してるんだろう。

「ムク、起きてる?」
「起きとう」

あたしは天井を見上げたまま言った。

「本当にお月さま綺麗」
「うん」

ムクは掠れた声でそう頷き、それから「昔話してもええ?」といった。あたしは「どうぞ」と答えた。

「星はな、シオリらが息するための空気口やねんてさ。息できへんかったら死んでまうやろ?ㅤやから誰かが箱の外から針でポスポスって穴開けたんやって、昔父さんが言ってた」

ムクは自分が人間であることを忘れてしまったかのように、遠くを見据えて話す。

「そのちっさい穴からもれた向こうの光が、星の光やねんで」

ムクは時々、懐かしそうに、楽しそうに、大切なものを柔らかい布で磨くような話し方をする。あたしもそうされてみたいと思ったことがある。

「シオリは何で月があるか知ってる?」

あたしはあくびをのみ飲んで、知らないと返した。

「月はこの世界からの出口やねんで。よく通るねん、この生活のおかげさまやけどな。夢の向こうはあそこにあるから、俺はあそこで飯食うねん。まぁ、話はこれだけやねんけど」

そうか、そこにはあたしの夢もあるのかなぁ。ムクはあっちで夢ごと食べているのかなぁ。それとも夢に入ってきてる?
今まで一度もムクの姿なんてみたことないや。

「シオリ、ちゃんとお腹すかしてる?」

あたしは「少し」と伝えた。ムクはそうかよかった、と呟いた。続けて、お腹空いてる時に見る夢は、めっちゃ上手いもんばっかり出てくるからなぁって。

「ほな、よろしく。おやすみ」

ムクは寝返りをうってあたしのいない方を向いた。あたしは声にならない声で「おやすみ」と言った。ムクだけがあたしの夢をみるのはずるい。あたしもムクの夢をみてみたい。

ママから聞いてた話と違うよ、君のは外の光なんだってね。
ねぇ、あたしの願いをきいてよ。あたしもムクの話す言葉で喋れるようになりたい。ムクとおんなじになりたい。そうじゃなかったら、ずっと違うままでいいから、ムクに一生頼られる存在でいたい。ムクには悪いけれど、ムクの家族はまだもう少し、帰ってこなくてもいい。


あたしが意地の悪いお願いをしている間も、天井の蛍光シールが青緑色に光っていた。天井で静かに光る星たちは、宇宙の本物の星よりも遠く、マリアナ海溝よりもずっと深く、海女さんにも手の届かないところにいるヒトデにも見えた。

月の裏側

月の裏側

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-05-20

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