*星空文庫

眩む

北城 玲奈 作

 アイスコーヒーを作っていて、思いついた。それで、製氷皿にのこる氷を全部、部屋に撒いてみたのである。氷はすでに融けはじめていたようで、透明な尾を引きながらするすると散らばっていく。

 アイスといっても、最初から冷たいわけではない。コーヒーそのものは、沸騰後すこしおいた湯で抽出する。熱いのである。これを氷の詰められたグラスに注ぐ。みるみるうちに温度が下がる。そうして、われわれが口をつけるころにはすっかりアイスコーヒーになっている、といった具合である。

 私は、これを部屋に応用しようと思いたったのだった。まだ五月の半ばであるというのに連日、暑かった。乱れ打ちの日差しがカーテンの織目のあいまに命中、空間をつらぬいて侵入するさまが目に見えるようだった。それほどに太陽は照っていたのである。昼過ぎになると光は勢力を増し部屋はさらに熱される。現在午後二時、手ぬかりなく暑気はそこにある。こんな調子で何日たったろうか。いい加減に手を打とうと、いよいよ私はこもりつづけた毛布をクリーニングに出す決意をし、ついで着ていた服を脱ぎ、アイスコーヒーを作り、そして氷を床に撒いたのだった。

 氷はなめらかに進んでいたがやがて思い思いに静止した。私はそのうちのいちばん近いところにあるひとつを注視した。氷はカーテン越しの陽にこまかく照らされ、水分におおわれた表面をうすくなめらかにしていた。内側は白く折り重なって線をいくつも形成している。ここは閉ざされているため、決して動きがみられることはないだろう。いまにも滑り落ちそうな躍動をあたえられた表面とは対照的に、内側の線は、どれもきわめて鋭利な形をしているそれは、押し固められたきりなにものも刺すことはできないように思われた。

 そのときチャイムが鳴った。インターホンの画面を見ると友人である。金を返しに来たのだった。私はさっき脱いだキャミソールを拾い、被りながらドアを開けにむかった。彼女はかるく謝ったのち、じゃあ急いでいるからといって紙幣をぐいと押し付けてそのまま手を振りながらアパートの廊下を走っていった。私がまだ右腕を紐に通しきらぬうちの出来事である。見送ったのち、枚数を確かめようと思ったが、いくら貸したかよく覚えていなかったのでやめた。

 久しぶりの外では光線が物質の影を濃密にうつしとっており、また空気は部屋と同じように熱されていた。部屋のそれと違う点は、湿り気を帯びている点である。いつのまにか外気は夕立の気配をともなって土っぽく重みを増していた。相いれないふたつ、明と暗とを峻別する光の鋭さと、のさばる空気の鈍さとがいちどきに飛び込んでくる風景だ。私は、車酔いのことを思った。車酔いは、三半規管と視覚からそれぞれ送られる情報が食い違うのに、脳が混乱して起こる。同じようにいま、光と空気とは、ひとところに収まることをよしとせず私を戸惑わせた。

 両者は平面上に位置しようとはしなかったが、私は歪な立体を考案することで相反する二点を丸め込むことに成功した。丸め込まれてしまうと、風もなく、穏やかな昼下がりである。外が恋しくなった。私はドアを閉め、部屋を突っ切り、カーテンを開け、窓を開け、ベランダに出た。一瞬途切れた土埃の雨の匂いがふたたび舞い戻ってくる。匂いはすれど雲は申し訳程度に浮かぶのみ、残りの空はひたすら太陽の膝下に置かれていた。サンダルに砂がうすく層をなしているのが足裏に感じられた。向かいのビルや通りを行く人々、車、アスファルト、植え込み、ものの大小にかかわらず、すべてに烈しい色彩と陰影が加えられている。遠巻きに眺めているぶんには、抽象画でもみるようで、気楽であった。もたれようとして、手すりに肘をつけたら、熱かった。腕の内側のやわらかい皮膚も少し、触れてしまった。

 火傷!いそいで部屋に戻り、流しで冷やした。部屋は全体として深緑に沈んだきりで、ただ窓際を浮かび上がらせるばかりだった。私は薄暗い中、内腕に水をあてることに集中した。シンクは小さいうえに、洗い物が積み重なっていてなかなかに難しい。うまくいかない。浴室にうつり、シャワーを使ったら、上々であった。ついでに足裏の砂も流した。

 タオルを取りに部屋に戻ると、目が慣れたようで、今度は風景のほうが太陽のなかに渾然一体となり胡乱げであった。対して、部屋は、よく見える。親しんだあらゆるものの輪郭がそこに屹立していた。床の上でちいさな半透明の個体がところどころで静かに背を光らせているのがわかる。それは撒かれた氷であった。

『眩む』

『眩む』 北城 玲奈 作

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2017-05-17
Copyrighted

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