深倉さん家の兄と妹 第1話

深倉家の兄妹のお話。 第1話


 溶き終わった卵の入ったボールを片手に、もう片方の手をコンロにかざす。火を点けておいたフライパンは十分に熱を発しており、手のひらにじりじりと熱さが伝わってきた。細かく溶いた卵をそこに少量入れれば、ジュッというなんとも美味しそうな音を立てて固まっていく。
 素早くフライパンを動かし薄く伸ばした卵を菜箸で突きながら、春代(はるよ)はチラリと時計に目をやった。時刻はもう午前九時を指そうとしている。つい二時間ほど前に、休日出勤で出ていく夫を見送ったところだが、そこから家事をこなしているうちに過ぎた時間に、思わず「あら」と声を漏らした。
 いくら日曜日とはいえ、そろそろ子供たちを起こさなければならない。
 サクサクと慣れた手つきでそのままだし巻き卵をこしらえ、食卓に並べる。さらに、炊き立てのご飯をよそい、火を通しておいた味噌汁をお椀によそった。
 テーブルに並んだ朝ごはんを前に満足げに頷くと、春代は足早に階段へと向かう。
 「もう九時よ、そろそろ起きなさいっ」
 数段上がったところで、二階にある部屋に向かい声を張り上げた。
もちろん、このくらいで起きるとは思っていない。
何の物音も返ってこない二階に向かい、「もう」とため息をつきつつスタスタと階段を上がる。年々、この階段をするすると上れなくなってきたが、まだ足取りは軽い。
階段を上がり終え、廊下の右手側の部屋、濃い茶色のドアノブに手をかけた。
 「入るわよ」
 そう声をかけ、扉を開ける。
モノクロを基調とした、シンプルな片付いた部屋に足を踏み入れると、部屋の隅にあるベッドの上で、枕に突っ伏し寝息を立てる姿が目に入った。
いまだ全く顔を上げる気配のないその人物に春代はそっと近づくと、勢いよく掛け布団をはぎ取った。
 「起きなさい、慎人(まこと)。いくら日曜日だからって、いつまでもダラダラしてちゃダメよ」
 そう声をかければ、のっそりと頭が枕から上がる。寝癖だらけの髪の下から、目つきの悪い顔がこちらを向いた。その表情は、幼い頃、母親に叩き起こされた際の不機嫌な自分と、瓜二つである。
 「ほら、起きて」
 「わかったから。つか、ノックくらいしろって」
 「ノックしてもあんた寝てたでしょうが」
 そんなやり取りをしつつ、あくびを漏らしながらもゆっくりと起き上がった慎人に笑みを浮かべ、春代は「朝ごはん、できてるから」と言い残し部屋を出た。
そうして、今度はすぐ向かいの部屋の扉を軽く叩く。
 「藍(らん)、今日部活じゃないの?そろそろ起きなさい」
 そう声をかけつつドアノブを回せば、入ったすぐ傍のベッドから、がばっと人影が飛び起きた。淡い色を基調とした部屋の中は、棚の上や机の上など、先ほどの慎人の部屋と比べると、少々散らかっているように感じる。
 「あら、もうちょっと部屋、片付けた方がいいんじゃない?」
 「え、お母さん、今何時っ」
 「今ね、そろそろ九時」
 「うそ、なんで目覚まし止まってんのっ」
 恨めしそうに目覚まし時計をベッドに向かい放り投げると、バタバタとベッドから飛び降り、クローゼットを勢いよく開く。そんな娘の姿に、春代は思わず呆れ顔を浮かべた。
 「朝ごはんできてるから、ちゃんと食べていきなさいよ」
 春代のその言葉に、曖昧な声で返す藍。そんな彼女のベッドを整えようと足を踏み出し、ふと枕元に飾られた二つの写真が目に入った。
 一つは、家族写真。
 我が家の玄関先で仲良く四人並ぶ、深倉(みくら)家の写真である。
 会社勤め、それなりに大きな企業の部長にまで上り詰め、日々忙しく過ごしている夫、深倉耕三(こうぞう)をはじめとして、妻の春代、長男の慎人、長女の藍の四人家族。
 春代は、大学時代に学生結婚をしてから長い間、専業主婦として家庭を支えていた。当時は風当たりの強い結婚だったが、耕三と結ばれてからもうすぐ三十年。後悔したことは一度もない。
むしろ、家族の為に頑張る夫を支えることに、日々喜びを感じていた。
 娘の部屋に飾られたその写真にも、満足げに微笑む自分が映っている。
 そんな写真を眺めていると、春代の口元にも、思わず笑みが浮かんでいた。
 一足先に身支度を整え部屋を出た藍を見送り、布団と部屋を丁寧に整えていると、不意に一階から、何やら言い争う声が聞こえてきた。
 何事かと体を少し廊下へ向けると、どうやら騒がしいその声は、階段下の洗面所から届いてくるようだ。
 「お兄ちゃん、邪魔っ」
 「寝坊したお前が悪いだろ」
 「寝坊じゃないって、目覚まし止まってただけ」
 「それを世間では寝坊って言うんだよ、この遅刻魔」
 「遅刻したくないから急いでるんでしょ」
 おそらくは洗面所を取り合っての論争だろうが、毎度のことに春代は「まったく」とため息をつく。
幼い頃はとても仲の良い兄妹で、面倒見の良い慎人のことが、藍も大好きだった。今でも、兄の面倒見の良さはほんの時折発揮されるものの、性格の不一致ゆえに、喧嘩をする姿の方が目立つようになってしまった。
いや、ちがうか、と春代は小さく息をつく。
性格の不一致などではない。二人とも、不器用なのだ。
うまく優しくすることができない兄と、素直に甘えられない妹。それ故に、幼い頃ほど噛み合わなくなっているだけなのだ。
 一階の様子を気にしつつも、ベッドを整え終え、再び枕元の写真に目を移す。
 そういえば、この写真を撮った日も、何やら喧嘩をしていた気がする。原因は確か、どちらが先に録画予約をするか、ではなかっただろうか。
 そんなことを考えていると、ふともう一つの写真が目に入った。
 二つ目の写真には、深倉家ともう一つの家族が、仲睦まじく映っている。
 写真の中で微笑むその姿を目にし、春代はハッと、あることを思い出した。
 「あらやだ、大変」
 慌てて部屋を出て、階段を下りる。
ダイニングに着くと、いつの間に争いが終息したのか、二人は食卓につき朝食をとっていた。喧嘩の内容がくだらない分、収束も早い。並んで食事をとる二人の前に座り、もぐもぐとだし巻き卵を頬張る娘に、春代は慌てて声をかけた。
 「ねえ藍、今日の部活って、大輝(だいき)くんいるわよね?」
 「ん?」
 突然の問いに、口いっぱいに卵を詰め込んだまま、首をかしげる藍。
そんな妹を注意しつつ、隣に座る慎人も、母の言葉で思い出したようにあっと声を上げた。
 「そっか。明日だっけ?」
 「そうなのよ。お母さん、まだ、浅岡(あさおか)さん家に連絡できてなくて」
 「え、何の話?」
 きょとんとする藍に、春代は「もう」とつぶやきながらカレンダーを指さした。
 「晩ごはんよ、晩ごはん。皆で一緒に食べに行くって、約束してたでしょ?」
 母の言葉に思い出したのか、「ああ」と声を上げる藍。そんな彼女に、春代は、ずいぶん前から書いたまま置きっぱなしにしていたメモを差し出した。
 「このお店にしようと思って、予約してたの。ほら、明日って祝日だから、予約がないと八人なんて入れないかもしれないでしょ?」
 「で、その予約を伝えるのをお母さんは忘れたと」
 「そう、うっかりしてて。だから、このメモ、大輝くんに渡しといてくれない?お母さん今日は、電話の修理の人と、あと宅急便が来るから、どうしても家を空けられなくて」
 「メールすればいいじゃん」
 ご飯を口に運びつつ告げた藍の言葉に、隣に座っていた慎人は「バカじゃねえの」と切り返した。
 「母さんのケータイ、こないだ水没して壊れただろ」
 「あ、そういえば」
 「つか、お前が皿洗いで溜めてた水をそのままにしてたから、母さんがうっかり落としたんだろ。忘れんなよ」
 「忘れてないよ。うっかりしてただけ」
 「うっかりしすぎだろ。どうせ、大輝にそのメモ渡すのも、忘れるに決まってるな」
 完璧主義の兄にそこまで言われ、悔しげに最後の一口を噛みしめると、藍は、春代からメモを受け取り、足早に家を出て行った。
 残されたしんとした空気に、春代は、頬に手を当てながら、思わずため息を吐く。
 「慎人、もう少し藍に優しくしてあげたら?あの子、抜けてるところがあっていろいろと心配するのはわかるけど」
 母の言葉に、何も答えない慎人。
 だが、その眉がほんのわずかに下がったのを、春代は見逃さなかった。
 「ごちそうさま」
 話を切り上げるかのように手を合わせると、慎人はさりげなく、片付けを手伝いに台所へと向かっていく。
その姿に、春代はにっこりと微笑んだ。

深倉さん家の兄と妹 第1話

こまめに更新していければと思います。
楽しんで頂けると幸いです。

深倉さん家の兄と妹 第1話

良いも悪いも、白いも黒いも、全部混ぜこぜ。大層なものじゃないけれど、人を好きになるって、そういうことではないでしょうか。

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更新日
登録日
2017-05-16

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