何者?

 駅の事務所に若い男が訪ねて来た。
「あのう、遺失物係はこちらでしょうか?」
 受付でこっそりスマホを見ていた女性職員は、顔を上げて「はい」と言いかけた「は」の形のまま口が開きっぱなしになった。
「すみません。驚かれたと思いますが、ぼくも困っているので」
 女性職員は酸素が足りない金魚のように口をパクパクしながらも、カウンターの下の見えない位置にある非常呼び出しボタンを押した。
 通報を受けて駆け付けて来た警備員は、男を見て一瞬ギョッとした表情になったが、すぐに苦笑に変わった。
「きみ、ふざけるのはやめたまえ。早くそのお面を取らないと、警察を呼ぶことになるよ」
「ふざけてなんかいません。昨日終電で帰って、朝起きて鏡を見たらこうなっていたんです」
 そう言う男の顔は、テレビなどで素性をわからなくするために使われるモザイクがかかっているように見えた。それがお面などではない証拠に、男がしゃべるのに合わせてモザイクもチラチラ変化している。
 警備員は迷いを振り払うように首をふった。
「た、たとえそうだとしても、うちには関係のない話だ。どこか、うーん、そうだな、病院にでも行ってくれ」
 だが、男は食い下がった。
「かなり酔っていたのでウロ覚えなんですが、たぶん電車の中で落としたと思うんです」
 警備員は困惑した表情になった。
「いったい何を落としたと言うんだね?」
 それには答えず、男はポケットからカードのようなものを出し、警備員に示した。
「見てください。ぼくの免許証です」
 警備員がいぶかしげに覗き込むと、顔写真、氏名、住所などにモザイクがかかっていた。もちろん、シールなどではなく、顔のモザイクと同じように角度が変わるたびにチラチラと変化している。
 警備員は眉をひそめた。
「わけがわからん。どういうことなんだ」
「ぼくは昨夜電車の中で、失くしてしまったみたいなんですよ。いわゆる、アイデンティティ、とかいうものを。ぼくは、いったい何者なんでしょうか?」

 警備員は到底自分の手には負えないと判断し、女性職員に頼んで、保管期限の切れた大きめの帽子と未使用のマスクで男の顔が目立たないようにしてもらい、近くの交番に男の身柄を預けに行った。
 帽子とマスクを外した男から話を聞いた老巡査は、「まあまあ、ひとまず落ち着いて」とお茶を出してくれた。
「その顔で飲めるかどうかわからんが、どうぞ」
「いただきます」
 男がお茶を飲むのをジッと見ていた老巡査は、「ほう」と声を上げた。
「湯呑がまったくブレないね。口はちゃんとあるべき位置にある、ということだな」
「そうだと思います。ぼく自身、鏡を見るまで、まったく違和感はありませんでした」
「痛いとか、痒いとかは?」
「ありませんね。見るのもしゃべるのも、自分の感覚としては以前と違いはありません。記憶も、自分の住所氏名などに関すること以外は、ハッキリ思い出せます」
「その記憶の件だが、ちゃんと自宅に戻れたということは、この現象は電車の中じゃなくて、あんたが寝ている間に起きたんじゃないかね」
「違うと思います。電車が大きく揺れた時に何か大事なものを落としたような記憶があるんです。それに、住所は思い出せないのですが、道順だけは体が覚えているみたいです」
 老巡査は自分の下唇をつまんで考えていたが、あきらめたように顔を上げた。
「まあ、わしなんかが考えてもしょうがないな。専門家に診てもらった方がいいだろう。やはり、メンタルクリニックかな。一応、記憶喪失ではあるんだろう?」
「さあ、どうなんでしょう。実際、ぼく自身の個人情報以外、記憶に切れ目はないんですよ。昨日だって、イヤなことがあって気晴らしに飲みに行ったことを、ちゃんと覚えています。もっとも、飲み過ぎてしまって、後半は少し曖昧ですけど」
「イヤなことって何だね。差し障りがなければ、教えてくれないかね」
「職場の上司から、『きみ一人いなくても、会社は少しも困らない』みたいなことを言われて。もちろん腹も立ったんですが、ある意味その通りだなと、自分でも虚しくなってしまって」
「あ、今、あんたが『虚しくなって』と言った瞬間、モザイクが濃くなった気がするよ。やっぱり、あんたの気持ちに原因があるんじゃないかね。ほら、今時の若者特有の疎外感がどうのとか言うじゃないか。わしらみたいな年寄りには、よくわからんがね。まあ、もうすぐ巡回に行った相棒が戻る時間だから、あんたをわしの知り合いの心療内科に連れて行かせよう」
 その時、交番の表にキッと自転車が止まる音がし、もう一人の巡査が帰って来た。
「只今戻りました。先輩、大変ですよ。駅から降りて来る乗客たちの顔にモザイクがかかってるって、大騒ぎになってます。あれっ。先輩、先輩、聞こえてますか?」
 だが、老巡査は口を開けたまま、返事をすることができなかった。帰って来た巡査の顔にも、モザイクがかかっていたからである。

 マスコミによって『顔面モザイクウイルス』とか『アノニマス症候群』とか呼ばれたこの病気(?)は、性別を問わず、十代二十代の若者を中心に大流行した。『ウイルス』といっても、病原体が発見されたわけではなく、感染の経路もまだ不明だった。当然、社会に大混乱が生じたが、モザイクがかかっている当人たちは、案外平然としていた。それどころか、中には身元がわからないことをいいことに、悪事をはたらく者もいた。
 対応に困った政府は、著名な科学者に相談することにした。だが、研究所を訪ねた政府の高官は、その相手を見て絶句した。
「は、博士、そのお姿は」
 モザイクのかかった顔の白衣の老人は、深く頭を下げた。
「すまんのう。もう少し待ってくれ。間もなくアイデンティティワクチンが完成するんじゃ。でき次第、大量生産して無料で配布するつもりじゃよ。ところで、あんたに聞くのも変じゃが、わしは何者なんじゃろう?」
(おわり)

何者?

何者?

駅の事務所に若い男が訪ねて来た。「あのう、遺失物係はこちらでしょうか?」受付でこっそりスマホを見ていた女性職員は、顔を上げて「はい」と言いかけた「は」の形のまま口が開きっぱなしになった。「すみません。驚かれたと思いますが、ぼくも困って......

  • 小説
  • 掌編
  • SF
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-05-13

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