雨がやまない日。

雨がやまない日。

梅雨時の晴れない気分、どれも案外悪くないかもしれない。

雨がやまない日。

あの人は、傘をささない。
雨が降れば雨宿りをし、平気で遅刻をする。
小雨ならば濡れることを厭わない、それが彼だ。

『どうして傘、ささないの?』
梅雨時、初めて彼と話をした。
朝から雨が降っていたのにもかかわらず、彼はただ一人悠々と雨の中を歩いていた。
『ヨーロッパではほぼみんなささないよ』
そういえば、帰国子女だと聞いたことがある。
英語が得意だからとか、顔立ちがハーフのようだからとか、とにかく噂の多い人だった。
『濡れるの、嫌じゃないの?』
『どうして嫌なの?』
彼はいつも自由だった。
『服が濡れたらべたつくし、かばんが濡れたら教科書だって使えなくなるかもしれないでしょ』
彼は鼻歌を歌っていた。
私の話を聞いていない。
『あ、そういえば。三木さんって』
彼は雨空をご機嫌に見つめて私に問いかけた。
『いつもそんなに理屈っぽいの?』
えっ、と思わず声に出てしまった。
『服が濡れたら着替えればいいし、かばんが濡れたら教科書なんか隣の人に見せてもらばいい』
でしょ、と楽しげに彼は微笑むのだった。
『そういうものじゃないんだよ』
私は一言だけ彼に放って、再び唸るような雨を見てため息をつく。
傘があろうと無かろうと、大雨の日は楽しい気分になどなれない。
『おいで』
しかし彼は自由なのだ。
どの瞬間を見ても、彼は自由であり楽しそうだ。
彼が強く私の腕を雨の中に連れて行った。
『雨は怖くないよ、おいでよ』
彼は雨に溶けこむように、全身で水分を飲み込むのだった。
『なぜわざわざ濡れに行くの』
水滴が滴る私の腕を見ながら尋ねた。
『なぜって、理由がいるのかな。では、なぜ人間の要素の多くは水分だというのに雨に濡れることを拒絶するの』
彼の眼差しは真剣そのものだった。
『だから、それは』
『さっきの答えは気に入らないなあ』
にっこりと彼は笑った。
ぴんと張られたロープのようになってバランスを保っていた私の体は、彼の私をつかむ手が離れた瞬間、僅かにぐらつき、雨が突き刺さった。
『またね』
彼が私に手をふり歩みゆく瞬間に、唸るような雨が、時間稼ぎをするようにゆっくりと、しかし着実にアスファルトに着地する。
その様子を何秒間か、彼が見えなくなるまでじっと見つめた。

──さっきの答えは気に入らないなあ。

模範解答は、何だったのだろうか。
雨に濡れることを厭う理由。
まともに考えたこともない雨のための理由が、今だけは重要に思えた。

次の日、彼は学校を休んだ。
風邪を引いたらしかった。
あんなことを言っておいて、結局雨に濡れて風邪を引くなんて、と少し可笑しかった。

その次の日も、またその次の日も彼は学校を休んだ。
梅雨時の雨は片時も止むことを知らず、ガラス窓を叩くのだった。
私は数学の問題に向き合うよりも先に、雨を厭う理由について考えていた。
冷たいから?
風邪を引くのが嫌だから?
そんな答えばかりが一日中ぐるぐると頭の中で浮き沈みを繰り返し、彼の言葉が、顔が私の中から消えないでいた。
そうやって3日を繰り返し、今日もモヤモヤが晴れぬまま放課後になるのだった。
私はいつも通り傘をさし、学校を後にする。
周りに歩く生徒も先生も、見知らぬ通行人も皆傘をさして歩いている。
私は周囲を見渡し、自身の感覚が変ではないことを再確認した。
皆が当たり前の如く、傘をさしている。
だから気づかなかった。
違和感すらなかった。
梅雨時の景色は、いつも傘をさす人々にまみれてよく見えない。
私が見つけられたのは偶然なのか必然なのか理解しがたい。
彼は傘をさして立っていた。
校門近くの交差点で、向かい側の道路にただ一人佇んでいた。
『何してるの?』
こちらに渡ってこない彼を不審に思い、私は交差点を渡った。
そして、3日ぶりに私の目の前に現れた彼は制服姿ではなかった。
『学校を休んだのはどうして?』
彼は何も答えずにこちらを見た。
『傘をさすのはどうして?』
彼は私の質問には答えず、質問をした。
『それ、ずっと考えていたよ。いい答えが出ないままだけれど』
私は彼を見た。
彼がこの質問をする時の表情はいつも真剣だ。
まるで子供が初めて手品を見て、タネを暴いてやろうと見ているかのような目つきだ。
『分からない』
そういったのは彼だった。
『3日前、ずぶ濡れの俺を見て彼女は嫌そうに離れて行った。それから3日も会えていない』
彼は眉間にシワを寄せて俯いた。
雨には恋をも揺るがす強い力があるのかと私は衝撃を受けた。
同時に少し胸が苦しくなった。
『何度会いに行っても、出てきてくれないんだ』
彼はもう可哀想なほど顔をクシャクシャにして涙をこらえていた。
『だから彼女に嫌がられないために雨に濡れないよう、こうして傘をさしている。どうして皆が傘をさすのか分からないまま』
彼はもう話すこともそこそこに泣き出していた。
雨は強くなるばかり。
私と彼の足元は、地面に押し返された雨に濡らされていた。
『ちょっと落ち着こう。どこかで話をしよう』
交差点、通り過ぐ人は私達を邪険そうに避けて歩いた。
私は涙を流す彼とゆっくりと、ただ黙ってバス停まで歩いた。
バス停の屋根が、雨と忙しく会話をしながら私達を濡れないように守ってくれている。
『今日も、会いに行ってきたの?』
私は彼の彼女を知らない。
いたことさえも、今さっき知ったばかりだった。
『いや、これから会いに行くつもりだった。でも、もしまた出てきてくれなかったらと思うと、なかなか足が進まなかった』
彼は少し落ち着いて、鼻をすすった。
『悪いなこんな話を聞かせて』
彼は口元だけ微笑んだ。
私と彼の折りたたんだ傘から滴る雫が、緩やかに勾配のあるバス停から道路に流れ出していた。
その雫と、道路に溜まる雨とが交わっていく。
私は沈黙が続く中それをじっと見つめていた。
『今日は帰ることにする。付き合わせて悪かった』
不意に彼はそう言って傘を広げた。
『今日も行ってみなよ。今日は会えるかもしれないでしょ』
私は、咄嗟に口をついて出た言葉にドキリとした。
こんな状態の彼を見ていられない、そう思ったからだけではなく、別の感情がこみ上げてきたからだ。
彼の笑顔が見たい、彼の力になりたい。
そういった感情が。
『…三木も付いて来てくれるか?』
彼は、怒られた子供が親の機嫌をうかがうような目で私を見ていた。
『もちろん』
私はそう答えて傘を広げた。
先程より足取り軽く、着いた先は最近できた和菓子屋さんだった。
ショーケースに美しい和菓子と大福が並び、狭い店内には甘い香りが広がっていた。
奥から、店のオーナーと見られるおばさんと、娘と思われる美しい女性が顔を出した。
目鼻立ちがハッキリとしていて、まとめた黒髪が艷やかで美しい。
あ、この人なんだ。と、直感的に感じて彼を見ると、彼の顔はまた少し泣きそうな顔をしていた。
『会いたかった』
彼はしぼりだすように震えた小さな声でつぶやき、美しい女性に近づいた。
『また来てくれたのね、ありがとう』
彼女はそういってやさしげな顔で彼に微笑んだ。
彼も涙をこらえ、ニコリと微笑んだ。
『今日は濡れてないのね』
彼女は、傘を手に持つ彼にそう言った。
彼はコクリと頷き、照れ臭そうにはいと返事をした。
『会いたかった』
今度はハッキリとそう言いながら、彼は彼女に近づき、足元にいる白い毛並みの猫を抱き上げ頬ずりをしてキスをした。
『どうして3日も出てきてくれなかったんだ』
彼は猫の目を見ながら拗ねた口調でそう言った。
猫は明るい店内で目を細めながら彼をじっと見つめている。
後ろ足をぷらぷらとさせながら抱き上げられた状態で、猫はみゃあと一声鳴いた。
彼は夢中になって猫に頬ずりをし、嬉しそうに何度もキスを繰り返した。
そして我に帰ったように私の方を見て言った。
『付いて来てくれてありがとう。この子はメス猫のミィ。またこうやって彼女に会えたことが嬉しくてたまらない。本当にありがとう、今日ここへ来てよかった』
私は返事もせずに店をあとにした。
家までの道のりを毒づきながら、全力で走る。
水溜りが弾けて靴が濡れ、冷たい雨が染み込んでくる。
肩にかけている鞄はもう既に色が変わっていて、ずっしりと重かった。
『どうして猫なの』
家についた時、傘を店に忘れたことに気がついた。

雨がやまない日。

人の想いは様々で、優先順位をつける必要なんてなくともだいたい心は何が一番か知っている。

イメージカラーは緑色。

雨がやまない日。

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-05-08

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