眠り姫

────カロカロ、カロカロ



優しい音がする。


和泉さんが、僕より二十分早く起きて化粧ポーチを探る音だった。プラスチックとプラスチックがぶつかり合う音。

柔らかい衝突。


瞼を渋々動かすと、霞みがかった日差しが目に染みる。もう九時前だろうか。今日も曇りだな。


和泉さんがシーツから抜ける瞬間を僕は知らない。
僕を起こさないようにと、そっと、スルリと、猫のように身を滑らせているのだろう。

それとも、ドスンドスンと相撲取りのように大胆に起き上がっているのだろうか。僕の眠りの深さからすると、それもあり得る。



「葉山くん、おはよ。」


和泉さんのふにゃりとした笑顔が朝日に照らされる。
その表情はどこか猫を彷彿とさせる。

あ、やっぱり前者じゃないかな。
きっと和泉さんは猫のように眠りから覚める。ゆるり、と。
猫が尻尾を一振りするみたいに、僕の頰筋をひと撫でしてから、朝の支度をするのだ。


つまらない事を考えながら、僕はただうーんと寝呆けた声を出す。ぼんやりした瞳で、和泉さんを見つめる。


和泉さんは今日の服を選びながら


「起きなよ、眠り姫」


と、僕を笑う。曇りの日差しを掻き消す、弾ける笑顔。

そして白いワンピースを手に取る。


なんだよ、自分がお姫様みたいな格好するんじゃんか。


まだ六月になったばかりだというのに、夏らしい服を彼女は好んだ。

じめじめしてて気持ちが滅入るから、服装くらいは明るくしたいの、と先週の日曜に言っていた気がする。

和泉さんは、夏生まれだから、明るいのが好きなのかもしれない。

僕も夏生まれだけど、明るいのが好きってわけではない。きっと僕が、例外なのだろう。



今日は珍しく、二人とも仕事が一日休みだったため、最近できた喫茶店に出かけることになった。


幸い、その喫茶店は歩いて行ける距離にあった。


喫茶店に向かう途中には民家が何件か並んでいた。ガーデニングが好きな夫婦が住む家の垣根には、紫陽花が咲いていた。

この紫陽花があるのを知っていて、そのために白いワンピースを着たのかと思う程、和泉さんに紫陽花がよく合っていた。


ぼんやりした僕と正反対の和泉さんなのに、僕の好きなものをよく心得ていた。

現に僕がよく着ているグレーのシャツは、彼女が去年の誕生日にくれたものだった。

六月のじめじめした気候に、グレーのシャツを着た僕は、溶け込んでいた。


十五分ほど歩くと、喫茶店に着いた。

赤煉瓦の壁には、小窓が二つ並び、
“le repos”と真新しい看板が置かれていた。


「いらっしゃいませ」

朗らかに微笑む老夫人が迎えてくれた。

新しい店なのに、なんだか、懐かしい感じがする。

夫人に問うと、民家を改築してできた喫茶店とのことだった。


手書きのメニューを見て、サンドウィッチと珈琲を注文する。

和泉さんは、サンドウィッチとアイスティー。


僕らは、あまり言葉を交わさない。

喫茶店に行って二人で、静かに、窓の外を眺めることがほとんどだ。

でも、その時間は幸せな時間の一つだった。

同じ枠から、同じ景色を見る、同じものを感じ取る、静かな幸福。


さっきの紫陽花が曲がり角の端に見える。



────────ぽつん



紫陽花の花びらが水滴に揺れる。


「「あ」」



声が重なる。
ちょっと可笑しくなって、二人でふふっと笑う。


雲行きは怪しいと思っていたけど、降ってきたか…


降り始めた雨は、アスファルトを黙々と黒く塗りつぶしていく。

これは、なかなか止みそうにない。


「傘忘れちゃったね。」


と僕が情けなく、苦い顔をすると、和泉さんは悪戯っぽく微笑む。


「じゃーん」


右手に持っているのは、淡い空色の折りたたみ傘。

昔、和泉さんのアパートに泊まりに行った時に、僕が忘れて行った傘だった。

それ以来、和泉さんが気に入って使っている。


「用意周到だなぁ」


思わず感嘆する。


「僕は持ってないから、濡れながら帰るさ」


と不貞腐れると


「グレーシャツの葉山くんが、濡れたら、きっと見すぼらしくて耐えきれないから、入れてあげようじゃないか。」


と仕方なさそうに、でも、少し嬉しそうに、
彼女ははにかんだ。


その顔を見ると、雨に濡れて下着の透けた和泉さんの姿を想像していた僕は、バツが悪くなった。

首筋を這う雨水は、きっと温かいだろう。


一時間経っても、雨は止まなかった。


僕らは雨が止むのを待つのを諦めて、小さな傘に身を縮めながら外に出ることに決めた。


席を立つ時、黒い傘をさし、スーツを纏った長身の男が、窓の外に見えた。


日曜も仕事か、お疲れ様です、と思いながら僕は鞄の中の財布を探る。

財布を見つけて、顔を上げると、目をまん丸にした和泉さんが中腰で固まっていた。


その目は、垣根に見える紫陽花の滴る雫すらも写していた。


紫陽花の雫が滴るたび、和泉さんの瞳が滲む。



「ごめん、葉山くん」



和泉さんは早足で席を立った。

急いで立った勢いで、アイスティーのグラスがゴトリと倒れる。

店のドアに吸い込まれるように、速度は上がり、ドアをくぐるともう彼女は駆け出していた。



僕は一瞬の出来事に、戸惑う。


えっと、倒れたグラスを起こして、お会計して……えっと…僕は、傘を忘れたから……和泉さんの傘に入れてもらって………それで……………………………



兎に角、テーブルに五千円札を置いて、駆け出す。


「あらあら、こんなに……また来てね」

老夫人がグラスを起こしながら、のんびり優しく声をかけてくれた気がした。



「和泉さん!!!!」


走ったのなんて何年ぶりだろう。肺が痛い。

叫びながら走ったからか、雨粒が目や口に入って、溺れそうな感覚になる。



彼女は僕に目もくれず、きっとさっきのスーツの男を捜している。


濡れた白いワンピースの和泉さんの腕を漸く掴む。

ひんやりした水滴の先に、確かに彼女のぬくもりがあった。温度の違いに、ぬめりとした不気味さを感じた。



雨に濡れた腕が、スルリと、僕の掌から逃げ出す。


あ、やっぱり、君は、猫みたいだなぁ



彼女の、わなわなと震える唇は、もう六月の霞んだ日差しを掻消せなかった。



すっかり、滲んでいた。



濡れて色濃くなったグレーの僕は、見すぼらしい。


彼女の首を這う雨粒は、きっと、冷たい。





僕らがぶつかる時、どんな音がする?


君のチークとファンデーションがぶつかるみたいに、優しい音がする?


こんなことになるなら、今日はもう、一日中眠っていればよかったな。



僕が眠ってる時、君は、誰の夢みてた?

眠り姫

紫陽花の花言葉は “元気な女性” “辛抱強い愛情” “移り気” など。

眠り姫

少し早いですが、六月の話です。

  • 小説
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  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-05-07

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