Butterfly Kisses

 二月。新年を祝う一月、別れと巣立ちの三月に比べると、いつの間にか終わってしまう印象がある。それは、日数が他の月と比べ少ないことも影響しているだろう。なぜ、一年のうち、三十日の月を二つ減らして、二月を三十日、うるう年は三十一日にしないのだろう、とふと考えたりもするが、どうやら古代ローマにおける暦のなごりらしい。
 
 昔からの習慣が、暗黙の了解の下、今に息づいているのだ。そう考えると、二月の存在が、とたんに大きくなる気もする。
 
 それでも、二月は寒い。日本における二月は、一年で一番寒い季節といえる。
 
 今日も心底冷え、今にも上空から雪が舞ってきそう、そんな日だった。
 
           *
 
 カウンターに珍しいカップルがいた。年の差は三十ほどだろうか。バーという場所の特性上、年の離れた男女のカップルは決して珍しくなく、むしろ自然ともいえる。それでも今日のカップルは珍しかった。
 
 どうやら父と娘のようだ。
 
 父と息子、という組み合わせは良くある。大体は仕事の話か、子供――父側にとっては孫――の話をつまみに飲んでいる。
 
 しかし、父と娘はあまり見かけない。私は、好奇心も手伝い、仕事をしながら二人の会話に耳を傾けていた。
 
 それにしてもよく笑う親子だ。それを見ているだけで心が温まる。
 
 自分には娘はいない。ただ娘がいることを想像したとき、果たして娘が心から笑ってくれるだろうか。いや、笑ってくれる時期は来るかもしれないが、それが若い時期に来るだろうか。そんなことを考えると、その可能性は低そうだ、という思いに帰結する。
 
 そのような想像と反して、目の前の親子はよく笑うのだ。女性は、見た目では二十代前半だろうか。自分の想像の中では、まだ父と娘の間に、少し壁がある状況の年頃なのだが、この女性は、実に素直な笑顔を浮かべ、それに釣られ、父は満足そうに微笑む。
 
 気を抜くと涙腺が緩みそうだ――
 
 さらに耳を傾けていると、少し前はペットの話をしていたはずだが、いつの間にか将来、特に結婚の話に移っていた。
 
「結婚とか、考えているのか?」
「まだ考えてない。今はまだ仕事に勉強に頑張りたいんだ」
「そうか……」
 
 その顔は、幾分かほっとしているようにも見える。父親としては当然だろう。可愛い娘が遠くに行ってしまう、そこに思考が及ぶと、自然と顔に陰りが出て、それが遠いと認識するとほっとする。
 
 ただ、父親として娘の幸せは支えてあげなければいけない。いい人に巡り会い、もしくはいい仕事に出会い、例え自分から少し離れようとも、それが娘の幸せになるのであれば、諸手を挙げ、応援しなければならない。
 
 そんな葛藤が、女の子の父親にはあるのだろう、と想像する。
 
「来週、お父さんの誕生日だよね。プレゼントを買っておいたのに、近くのコインロッカーに置いてきちゃった。取ってくるね!」
「お、嬉しいねえ。気をつけてな」
「うん、五分くらいで帰ってくるね」
 
 そんな会話を交わし、女性が店を出て行った。
 
 店に少しばかり静寂が戻った。
 
 一人になった男性に、私はすっと水を差し出し、声をかけた。
 
「失礼ですが……、親子ですよね? 仲が良くていいですね」
「そうだろう? 自慢の娘だよ」
 
 それはそうだろう。父親と一緒にお酒を飲んでくれる娘、なんて羨ましい環境だろうか。
 
 男性は、ただね、と幾分かトーンを落とした声で続けた。
 
「いつか娘は家を出る、これは、その時が来たら避けられないんだ。それを思うと切なくてね」
 
 想像はしていたが、実際に娘を持つ父親から聞かされると、なんとも切なさが際立つ。一方で、このような悩みを真剣に持てる人は、娘と、そして家族と真摯に向き合ってきた父親への、これ以上ないご褒美とも思えてきた。
 
「素晴らしい悩みですね」
 
 男性は少し怪訝そうな顔を向けてきた。
 
「どういうことだい?」
「良い関係が築けているからこそ、そう思うのではないでしょうか。あんなによく笑う、しかも父親とバーに来るお嬢さんは珍しいですよ。きっと、いい育て方をしたのですね」
「何も特別なことはしてないよ。みんな娘が切り開いてきた人生だ」
 
 「それでも」軽く息をついてから続けた。
 
「その土台は、貴方と家族が作ったものだと、初めてお会いした私でも感じます。それくらい良い雰囲気の親子ですよ。私も参考にしたいものです」
「はは、そう云われると嬉しくなるな」
 
 頬の赤さは酔いのせいなのか、照れのせいなのか。嬉しそうな顔を見ると、こちらの気持ちもくすぐられる。表現が正しいかどうかは分からないが、とても素直で可愛い父親だ。こんな人柄の大黒柱がいれば、それに支えられ、支えている家族も素直で可愛くなるというものだ。
 
 そう考えたとき、無性に一杯ご馳走したくなった。
 
「とても良い気分にさせてもらったので、次は私がご馳走します。お好きなお酒はございますか?」
「それはありがたい。お酒なら何でも好きだが……、そうだな、今のウイスキーブームにあやかって、何かおすすめのウイスキーをいただこうか」
「かしこまりました。お任せください」
 
 私はバックバーの上部に目を遣り、脚立に昇り始めた。
 
           *
 
 私がお目当てのボトルを探し当てた時、入り口のドアが開いた。
 
「ただいまー」
「おう、お帰り。今な、マスターが父さんのために、ウイスキーをご馳走してくれるそうだ」 
「えー、いいなあ。マスター、私にも一杯下さい!」 
「かしこまりました。では、お嬢様にも、私からご馳走しましょう」 
「お嬢様だって~。そんなこと云われたの初めて!」
 
 先ほどまでの、憂いと渋みがあった空間が一転し、雰囲気が一気に華やいだところで、私は仕事に取り掛かった。
 
「お待たせしました。お父様には宮城峡十五年をご用意しました。よろしければストレートでどうぞ。そして、お嬢様にはカリフォルニアレモネードです」
 
 それぞれにグラスを差し出す。
 
「おいしそう!」
「そうだな。ではいただくことにするか」
 
 軽くグラスを合わせ、二人は飲み始めた。
 
「わあ、このカクテル、美味しいなあ! ……そういえば、お父さん、寒い日に、よくホットレモネード作ってくれたね。あれも美味しかったなあ」
「ああ、おばあちゃんの家で、レモンを作っていたからな。レモンと蜂蜜をたっぷり入れて」
「あの頃も今も、ずっと変わらず。優しいお父さん、大好きよ。ありがとう」
「おいおい、{嫁|とつ}ぐ前日みたいだな」
「まだそんな人いないから大丈夫よ、えへへ」
 
 ああ、なんて素晴らしいコミュニケーションだろうか。
 
 ――おはようのハグと、おやすみの軽いキス――
 
 そんなフレーズが頭に漂う。そう、あれは、父が娘に対して歌った曲だったか。まさにその登場人物のような父娘が、ここにいる。 
 
 そんな感慨にふけながら、私は口を開いた。
 
「カリフォルニアレモネードには、『永遠の感謝』というカクテル言葉がついているんです」
「永遠の感謝……」
 
 女性はもう一口飲んでから、続けた。
 
「永遠の感謝、か。確かにお父さんにもお母さんにも、感謝してもしきれないな。今の私にぴったりの一杯ですね。ところで、このカクテル、どうやって作るんですか?」
「バーボン、レモンジュース、ライムジュース、グレナデンシロップ、砂糖をシェイクし、最後にソーダを注いで作ります」
 
 レシピを説明し、一呼吸おいた。
 
「由来は不明なのですが、バーボンを使うことで、アメリカンな風味を演出し、グレナデンシロップの赤みで、アメリカ西海岸の夕焼けをイメージしているのでは、と考えています」
 
 なるほど、と頷きながら、決してアルコール度は低くないが、レモンとライムの酸味で飲みやすいカクテルを、女性は堪能しているようだった。
 
「娘に出したカクテルには、マスターの真意が隠れていたようだけど、この宮城峡十五年にも、何か意味はあるのかな?」
「宮城峡、これは仙台市の西側にある、ニッカウヰスキー宮城峡蒸溜所で作られているのです。一つ目の理由は、この土地ならではのウイスキーを味わってもらいたい、という点にあります」
「NHKの連続ドラマで取り上げられたりしていたから、聞いたことはあるな……。一つ目ということは、他にもあるのかな?」
「ええ。十五年、という意味ですが、ここでは、樽の中で十五年熟成している、ということです。樽という漢字を分解すると、尊い木、と読むことができます」
「尊い木……」
 
 カウンターの二人は、思いを同じくしているのか、それとも、別のことに思いを馳せているのか、それは外からは判断できないが、凛とした静かな顔をし、こちらを見つめていた。
 
「尊い木の中で、十五年熟成させると、ウイスキーは、ゆっくりではありますが、着実に変化していきます。このお味、どうですか?」
「俺が味を表現するのかい? 自信ないな……」
 
 感じたままでどうぞ、と促す。
 
「ええと、香りは甘めかな。そうだな、レーズンのようだね。味わいは甘さと軽い酸っぱさ、これはパイナップルに近いかな。後口は蜂蜜のようで、軽く、長く、続いていく感じだ」
「お見事です!」
「すごい、お父さん! プロみたい!」
 
 口々に褒められ、男性の頬はさらに赤くなった。
 
「私は、このウイスキーに{艶|なま}めかしさを感じます。勝手ながら、これをシェリーグラスに注ぐ際、お嬢様をイメージさせていただきました。そして、樽はお父様、もしくはご家族です。お嬢様は、その愛情たっぷりの樽の中で熟成され、素晴らしい淑女に成長された……、そんな思いを込めて、このお酒を出させていただきました」
「確かに、よくまっすぐに成長してくれた。俺は、成長させるための手助けをしてこれたんだな」
 
 目を細めながら、男性は云い、女性は、それを見つめていた。優しい目線を交わし、うなずき合っている親子の空気を、極力乱さないように、静かに、次の話を始めた。
 
「さらに続けさせていただくと、宮城峡の味わいは、優しさが核にあるのです」
「ほう」
 
 カウンターの二人は、興味深そうに身を乗り出してきた。
 
「仙台蒸留所を建設する際、ニッカウヰスキーの創始者、竹鶴政孝氏は、『風光明媚な環境が美味しいウイスキーを作り出す』と話し、出来る限り、この宮城峡の美しい自然を残したとのことです。この思い、そして優しさが、ここのウイスキーにはぎっしり詰まっている、そう感じるのです」
 
 少し表情を和らげ、非科学的ですけどね、と付け加えた。
 
 私が話し終えると、二人は静かにグラスを見つめていた。
 
 こういった時間は、大人になればなるほど貴重だ。静かに馳せた思いが、自分をより深いところへ連れていく。
 
 
 静寂は十数秒くらいだっただろうか、女性は、思い出したかのように話し始めた。
 
「あ、誕生日プレゼント!」
 
 女性は、紙袋の中から、セーターと、一つの小物を取り出した。
 
「一つ目はセーター。いつまでも若くいてね、と思って、若く見えるデザインを選んだよ」
「このセーター派手じゃないかな」
 
 男性は、セーターを体に合わせ、まんざらでもないという笑顔を振りまいた。よくお似合いです、十歳は若返ったね、との言葉に、さらにはにかみ、微笑んでいた。
 
「あと、デザインに一目ぼれしたタイピン」
 
 女性が、男性のネクタイに、ネクタイピンを付けた。ちょっと変わったデザインだ。青い、花、だろうか。
 
「青いバラがデザインされたネクタイピンだよ」
「青いバラ。なかなか珍しいな」
「そうでしょ。青いバラって、日本で発明されたんだって! しかも作ったのはサントリー」
「サントリー?」
 
 男二人が、異口同音で聞き返した。
 
「そう、あのサントリー。かなり苦労して実現したこともあって、花言葉は『神の祝福』なんだよ。誕生日にぴったりな言葉だと思って選んだんだ!」
「物知りだな、お前」
「何か凝ったものをプレゼントしようと、ここ一週間くらい図書館とか、インターネットとかで調べたんだ! 完璧でしょう」
「ああ、素晴らしいよ! ありがとう」
 
 そう答えた男性の目元が、きらりと光った気がしたのは、おそらく気のせいではなかっただろう。
 
「それにしても、ニッカとサントリーですか。偶然とはいえ、竹鶴さんと鳥井さんの情熱が、この場に降りてきて、お二人を祝福しているかのようですね」
 
 そう云うと、親子そろって、期待を含んだ笑顔を、こちらに向けてきた。
 
「さて、次は何を飲ませてくれるのかな?」
「楽しみ!」
 
 この親子の時間は、まだまだ続きそうだ。
 
 さて、次は何を出そうか――
 
 考えながら、ふと窓に目を遣ると、外は雪が降り始めていた。さすがに二月、一番寒い月だけはある。ただ、この空間だけは、体の芯から暖まるような、濃やかな空気に包まれていた。
 

Butterfly Kisses

Butterfly Kisses

ふらりとBARにやってきた父と娘。2人の会話から始まるお酒の物語。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-05-07

CC BY-NC-SA
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CC BY-NC-SA