ものもらい

帰り道、コンビニで缶ビールを2本購入した。家に帰るまで我慢できずに飲んでしまうサラリーマンの気持ちが分かる気がする。
疲れた。やってられるか。そんな気持ちだ。多分。
プシュッと1本開けてゴクゴクと飲んだが、全然気分が晴れなかった。こんなむなしい気持ちで家に帰りたくない。
1本飲み切ったが、ちっとも酔えなかった。それどころか余計にむなしくなって2本目に手を伸ばしたが、辞めた。
昼は暖かかったのに、夜は肌寒い。もう23時を回っていたせいかもしれない。歩き始めてもむなしさと寒さは変わらなかった。

左目に何か違和感を感じた。
左耳の奥から何かが動いた気がする。
左の奥歯が少しだけ痛んだ。
だからむなしかったのかもしれない。むなしさの理由なんて適当に作れるのだ。


「すでに内定をもらってる人、挙手してください」
有名ではない中小企業の説明会の時、司会者がそう言った。3,4人手を挙げた。
10人程しかいない説明会なのに、もうそんなにいるんだと少しだけ驚いた。みんな遠慮がない様子で真っすぐに手が伸びている。
心なしか表情まで明るく見える。
イライラした。1社受かっているなら来るなよ。どうせ、ここは本命じゃないんだろ?冷やかしかよ。
心の中でそう毒づいた。いつもならきっとそんなこと思わないのに。1社も内定をもらっていない自分に焦りがあったからかもしれない。


世界にも誰からも何からも”イラナイ”と言われているような気がした。まだ就活を始めて2か月なのに、もうダメな気がする。
左目の瞼にものもらいがぷくりとできた。
左耳の掃除をしすぎて血が出てきた。
左の奥歯がずきずきと痛む。
全部左に異常をきたしている。確か、感情を司るのは右脳の方だったか。なら、間違いない。就活でストレスを感じているのだ。


「ねぇ、それ本気で言ってる?」
ある企業の面接で志望動機を言った時そう言われた。びっくりした。
「はい、もちろん」
すぐにそう答えたが、本当に?と何度も尋ねられた。
「少しだけこの業界でいいのか、悩んではいますね。」
めんどくさくなって適当に面接官の言葉を肯定した。すると、面接官は満足したように微笑した。
「分かるんだよね。そういうの」
その瞬間、自分の顔に笑顔がべっちゃりと張り付いた感覚がした。絶対にはがれないようにべっちゃりと接着剤で張り付けたようなそんな気持ち。
いいや、自分ではがれないように張り付けた。
何が?
今なら思う。そう聞き返してやればよかった。
あなたが望む回答をしただけなのに?今のやり取りで一体、何が理解できた?
いや、やっぱり聞き返さなくてよかった。これでは、まるで怒っているみたいだから。怒りを表に出すことは、泣くことよりもかっこ悪いと思う。
まるで自分の価値観を人に押し付けているような気がするし、傷付きたくないって虚勢を張っている弱い人間に見えるから。
その企業からは、1週間後にお祈りメールが来た。

左目のものもらいのせいで目が満足に開けられない。
左耳にかさぶたが出来た。
左の奥歯は、物を噛むことさえ難しい。
思うようにならない。自分の身体が自分じゃないみたいだ。


「弊社のことをおうちの人になんと説明しますか?」
集団面接で聞かれた質問。その問いに対してその企業の特色だけを挙げた。
他の人たちは、こんなところが魅力で、こんな事業が面白い。だからこの会社に入りたいんだと語っていた。
あぁ、そういえばよかったのか。どこか遠くでそんなことを思った。自分なんかよりもこの人たちの方が必死じゃないか。
なんだか自分がその場にいるのがおかしかった。場違い。そんな気がする。
自分はこんな風にごまをすってまでこの企業に入りたくはないから。
集団面接はそんな気持ちにさせる。もう10回ほど面接してきたが、全部落ちた。

左目のものもらいは相変わらず、赤くはれている。
左耳のかさぶたは薄くなった。
左の奥歯の隣に親知らずが生えてきた。
左の異常は軽くなったのか、重くなったのか、それとも変わらないのか、自分ではわからない。


説明会にはもう30社は行った。ESも何社も出した。もう60社は出したと思う。テストも受けたが、ほとんど落ちた。
SPI、Webテスト、適性試験。
一般企業が採用しているテストは、一通りやったと思う。どれもダメだった。
でも勉強はしない。付け焼き刃の知識で通ったって、入社後苦労するだけだから。

左目のものもらいはたんこぶのようにはれ上がり視界を狭める。
左耳のかさぶたはきれいになくなった。
左の奥歯の隣に生えた親知らずは、半分だけ頭をだすと動かなくなり、ずきずきとした痛みも治まった。


洗面所の鏡を見てふと思った。前髪がのびてきた。そろそろ切らなくては。試しにヘアピンでとめてみたが変だった。
腹が苦しい。ベルトを緩めようとジャケットをめくる。ベルトの穴はもうボロボロだった。
ズボンの裾がほつれているのが目に入る。縫わなくては。
だらしない格好だなと自覚はするが、めんどくさいという気持ちが強すぎて直そうとは思えない。

左目のものもらいは小豆のように瞼の上にぷくりとある。
左耳も左の奥歯も治ったのに。


「手術して切開しちゃいましょう」
面接前に病院に行ったら、その場で手術してもらうことになった。部分麻酔はしてもらったけど、痛かった。目の薄い皮を鉄クリップで挟まれたような、左目の奥からずきずきとぐりぐりと悲鳴を上げているような、上手く表現はできない。しかし、麻酔をしてもらってこんなに痛いとは思いもよらなかった。まさかものもらいごときで手術するハメになるなんて想像もできなかった。

手術後、まだずきずきと痛む左目に眼帯を付けて面接へと向かった。正直、面接で何を聞かれたのか、なんと答えたのか覚えていない。帰りもずっとずきずきとする左目ばかり気にしていたので痛みで記憶が飛んだのかもしれない。
きっとこの企業も落ちただろう。そんな気がする。
就活が始まる前は、自分は今よりもキラキラしていた。将来への希望に満ちていて、自分のことは何でも分かっていたつもりだったのに。
でも、実際は真っ暗で太陽の光どころか月の光も蛍光灯の光さえも自分の足元を照らしてくれない。
真っ暗だ。先が見えない。
面接官が気難しそうなところばかり受けているから?集団面接だから?単純に運がないだけ?
分からない。暗闇の中をああだこうだ言ったって見えていなければすべて想像でしかない。

左目の眼帯を外すのが怖かった。眼帯を付けていることで守られている気がした。事実から目を背けていいよと言われている気がした。
何もしてこなかった自分を認めるのが嫌だ。
勉強も
企業研究も
何かに打ち込んだ経験さえも。
自分の言葉はいつもふわふわしていた。自信を持ってしゃべれることなんて1つもなかったのだ。


自分を否定していたのは、世界でも誰かでも何かでもなく、ずっと自分自身だったのかもしれない。


左目の痛みは、もう治まっていた。眼帯をもう外さなくてはいけない。
伸びていた前髪はばっさりと切ってもらった。
スーツのベルトは買い替え、ほつれた裾も直した。


「泣いてる?」
久しぶりの学校でふと先生に言われて、慌てて目に手を当てた。左の中指にしずくが1滴ついた気がする。
「いいえ。花粉症です」
もう4月が終わり、5月になっていた。もうすぐ5月も終わる。

左目は、手術後の内出血のせいでアイシャドウをしているかのように青くなっていた。
しかし、もう痛みも違和感も感じなかった。

ものもらい

ものもらい

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-05-06

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