冥土のミヤゲ

祐喜代

冥土のミヤゲ


積み重ねた求人雑誌の枕が崩れ、俺はくわえていたタバコを床に落としてしまった。気だるい体を慌てて起こし、すばやくタバコをすくい上げたつもりだったが、性懲りもなくまたカーペットを小さく焦がしてしまう。これでもう何回目だ?
「ったくもう、バカっ」
すぐ横にいた妻がすかさず俺の頭を足で小突き、非難をあびせる。俺は小さく舌打ちをして、吸殻で山盛りになった灰皿に拾ったタバコを無理やり押し込んだ。
「いい加減その灰皿かたづけてよ。ヒマさえあればタバコばっかり吸っちゃってさ」
「うるさいな」
「十月になったらまたタバコの値段上がるんだから、ちょっとは本数減らしてよ。子供の体にだって悪影響あるんだし、本当はすっぱりやめてくれるといいんだけどね……」
 非難のあとは決まって嫌味だ。俺はテレビに顔を向け、できるだけ妻の小言を無視することにした。へたに言い返しでもしたら、積もり積もった不満のぶつけ合いで収拾がつかなくなってしまう。テレビのボリュームを上げ、ワイドショーが報道する芸能人のスキャンダルに見入っているふりをする。麻薬を隠し持っていたとかどうとかで、最近売れている人気アイドルグループの一人が逮捕されていた。地味な帽子を深く被って連行されていく彼の姿には、歌番組やドラマで観るような華々しさはまったくない。どこにでもいるごく普通の二十代が押し迫るカメラの前でしょぼくれていた。
「あれれ、無視ですか?」
「別に」
「何が別によ。くだらないテレビばっかり見てさ。あんた興味あんのこんなニュース」
「うるさいなっ、お前の声で全然テレビの音が聞こえねぇんだよっ」
 妻の畳みかけるような嫌味についカッとなって大声を出してしまう。その声を聞いてテーブルの反対側に寝ていた息子がむっくりと起きた。両親の怒鳴り声に心地良い眠りを妨げられ不機嫌そうな顔をしている。
「あ~あ、あんたが大きな声で怒鳴るからびっくりして起きちゃったじゃないの。せっかくおとなしく寝てたのにさ。ホントどうしようもないわね」
「お前が嫌味を言うからだろ。お前のせいだっ。少しは黙ってろって」
 不機嫌な寝ぼけ眼で俺と妻の言い合いを見ていた息子が途端に泣き出した。俺の苛立った神経をさらに逆撫でするような泣き声。俺は頭を掻きむしって、また舌打ちをした。
わけもわからず泣いている息子と、あからさまに気難しい顔をして家計簿と睨み合っている妻に居心地の悪さを感じ、俺は居ても立ってもいられずアパートを出ることにした。
「ちょっと職安行って来るよ」
妻は「へぇ」と冷たく返事をした後、「グータラなあなたにぴったりの素敵なお仕事が見つかるといいですね」とまた嫌味を言った。俺は軽くテーブルを蹴って山になっている灰皿を崩した。
妻の権限でクーラーの使用を禁じた狭いアパートの部屋と外の気温はたいして変わらない。連日続いているしつこいくらいにジメッとした真夏の蒸し暑さ。それにつられて迂闊にもラフな健康サンダルを履いて外出してしまったことを強く後悔する。これじゃ行き先が職安ではなく、近所のパチンコ屋であることをはっきりと妻に告げたようなものだ。帰ったらまたヒステリックに叫ばれて、隣近所があきれ果てる中、一晩中険悪なムードになるに決まっている。
今日は残りわずかな貯金を軍資金にあてての大勝負。負けたらどんなことになるか想像すると胃が重く、それにつられて頭もクラクラする。
「一家で心中したいの?」
 青白い顔で途方に暮れる妻のそんな嫌味が聞こえてきた。
あてにならない職安なんか誰が行くか、早急に金を作る手段を俺はほかに知らないんだよ。
俺は茹だる舗道のアスファルトに唾を吐き、融通のきかない右足を引きずって切らしたタバコを買いに近所のコンビニに向かった。
この足さえなかったら仕事なんかすぐに見つかるんだ。
俺は妻に言えなかった文句を忌々しい右足にぶつけてみた。文句を言われた右足が何か言い返そうとちょっと疼いた気がした。だがそのまま感覚を取り戻して蹴り返してくる勇気まではないようで、重いズタ袋のようにまた負担だけをかけてくる。
右足が悪くなる一年前まで俺は都内の小さな運送会社で働いていた。毎日2トン車のトラックで都内をぐるぐる走り回り、個人宅やオフィスに荷物を届けるのだが、残業しないと生活できないくらいに給料が安かった。
朝から晩まで働きづめで、月によっては休日を返上して働きに出ることもあった。名のある一流大学を出ても厳しい就職状況だ。楽に稼げる仕事なんてそうそうあるわけないし、とりあえずこの不況時に職があるだけマシだと、さほど文句も言わずに働いていたのだが、会社が新規の客から大口貨物の定期契約を取ったことをきっかけに俺の人生がすっかり変わってしまった。
「給料上げてやるから」という条件で会社にほだされ、俺はその新規の客の大口貨物専属のドライバーになったのだが、貨物が海外から輸入された貴重品であるというプレッシャーと、配送ルートがほとんど走り慣れていない道に変わったことが災いして、俺はその仕事を開始してからわずか二週間で大きな事故を起こしてしまった。
 関東に近づいていた台風の影響で横風の強い首都高速。積載量をいくらかオーバーして走っていた俺の2トン車は急なカーブを曲がりきれず、対向車線に大きく膨らんでアクション映画のカースタントさながらに派手に横転した。幸いにも俺の前後を走っている車も対向車もなかったので、人身事故にはならずに済んだが、風に薙ぎ倒されて横転したトラックも、中に積んであった海外からの貴重品の貨物もメチャクチャに大破した。
頭が真っ白になる被害総額を上司に聞かされ、当然新規の大口客との契約は破棄。俺はその責任と完治の見込みがない右足付随の怪我を負って、あっさりと運送会社をリストラされた。ただもう悲惨の一言で、突然の不幸に目の前が真っ暗になった。
三十後半の年齢で大した学歴も資格もなく、挙句に右足付随のハンディキャップまでついてしまったら再就職先なんて早々見つからない。それでもはじめは右足のリハビリも兼ねて根気強く職安にも通っていたが、社会的弱者に紹介される仕事は条件の悪いものが多く、渋々納得して履歴書を送ったのに面接にすら容易に漕ぎつけない過酷な現状を知り、次第に心が折れた。
俺の微々たる失業保険では家族三人の生活をまともに維持することはできない。支えにならない大黒柱となってしまった俺にかわり、妻は足りない生活費を補うため夜勤のパートで働ける仕事を探し、まだ小さい子供が寝静まってからこっそり家を出て朝方になると帰って来る生活をするようになった。
ろくに寝ないで子供の世話をする妻の、睡眠不足で腫れぼったい顔が意地らしく、時折つく深い溜息には心底疲れたような苦々しいものが混じっていた。
そんな妻を見ていると感謝の気持ちよりも先に、自分が厄介なお荷物になっている劣等感ばかりが植えつけられ、妻の何気ない一言一言が俺に対する悪意のように聞こえ癪にさわった。そして妻の努力も虚しく逼迫する家計と絶望的ともいえる就職難に、気持ちばかりが焦ってどうにもやるせなくなった俺は、職探しを口実に外へ出ると、気晴らしにまた以前ハマっていたパチンコをやりはじめた。少しでも生活の足しになればという些細な良心を言い訳にしていたが、気晴らしどころか実際はもうただどうしようもなく意地になってやっているだけだった。
転落人生によくあるセオリー。そんな日課を繰り返してなんとか生活している毎日だ。
コンビニでタバコを買い、ついでにATMでなけなしの軍資金を手にする。妻に内緒で持って来た通帳の残額はもうゼロに近かった。昼時のコンビニは昼食を買いに来たサラリーマンとOLで溢れている。短い休憩時間の中で皆忙しそうに弁当やら惣菜を買って、そそくさと店を出て行く。トレーナー姿でのろのろと店内をうろついているのは俺だけだ。働いていた頃は物凄く時間に追われていたような気がするけれど、今は時間だけが無駄に有り余っている。そんな時間を唯一有効的に使う手段がパチンコだなんて言ったら、ここにいる忙しそうな客たちはどんな顔をするだろう? 俺は他の客たちの視線が気になってまともに顔を上げることができなかった。
昼間からパチンコ。俺は鬼だろうか。好き勝手できた独身の時だってこんな無茶をしたことはない。
生活費を補うためのギャンブルだ。俺は通帳をポケットに突っ込んでそう開き直るしかなかった。背に腹はかえられない。別に働きたくないわけではないし、働き口さえあれば俺だってすぐにでも働きに出る。
そんな言い訳をひとしきり胸にかかえ、雑誌コーナーでパチンコ雑誌を手に取ると、最近出た新機種のパチンコ台の必勝法を研究した。ほかのパチンコ雑誌も何冊か立ち読みして信頼できる情報かどうかを見極める。
トラックを派手に横転させるような俺には、はじめから運などないのかもしれないが、負けたらもう後がないのでいつになく真剣だった。勝てるデータを吸収し、腹を決める。勝って潤った通帳を見せれば妻だってそんなに文句は言わないだろう。
コンビニを出てパチンコ屋へ向かう途中に小さな公園がある。ブランコとシーソーと砂場しかない簡素な公園。子供が少ない地域というわけではなかったが、なぜか遊んでいる子供の姿を見かけることが滅多になかった。蒸し暑い茹だるような気温のせいもあってか、案の定今日もまったく人がいない。
なんだろう?
いつもよく通るその殺風景な公園に、今日は何故か少し違和感があった。立ち止まって公園内を見渡すと、すぐにその違和感の正体がわかった。
大きな銀杏の木陰になった公園の隅。数日前まで電話ボックスがあったその場所に鈍い銀色のボックスが立っている。銀色一色の無機質な長方形。公園の殺風景な雰囲気を損なわないようひっそりと設置されてはいるが、そのシンプルな冷たい無機質の出で立ちが異様な存在感を出すのに一役買っていた。
どこかの芸術家が遊ぶ子供の姿が少ない公園に気をつかって創ったオブジェだろうか?
オブジェにしては地味だがとにかく異様に目立っていた。
俺はその銀色のボックスがすごく気になったので側まで寄って見てみることにした。
銀色一色の無機質な長方形はかなり硬い材質の金属で出来ていて、その大きさから判断するとどうも前にあった公衆電話を再利用して作られたものらしかった。長方形の一面が公衆電話と同じくドアになっていて、中に入るためのドアノブには迂闊に手を伸ばせない厳重な趣きがある。
【自殺幇助BOX】
ドア部分に記載されたそのボックスの名前と思われる文字が、同時にそのボックスの利用目的を明確に告げていた。
ああ、これがそうか。
俺はすぐに合点がいった。何ヶ月か前にニュースで報道していたあの噂のボックスだった。
平成の大不況。戦後最大とまで言われているこの不況で転落人生を送る者は俺だけではない。倒産、リストラは一種の流行り病のようなもので、何千人、何万人と全国のいたる所に無数にある話だ。それにともなう自殺者の数も年々増え続ける一方で、今現在では完全失業者の数と自殺志願者の数がほぼイコールになりつつある。
【自殺大国日本!】
 新聞や雑誌の記事にそんな見出しが踊って、本日の自殺者数が毎回テレビのニュース番組で告げられる。都内を走る電車の各線は二日に一回の割合で人を撥ねて電車を止め、週末のひっそりとした深夜パーキングに駐車する車の中ではほぼ毎週のように練炭が炊かれている現実。首吊り自殺を出さないマンションやアパートの方が珍しいくらい自殺は日常茶飯事で、その数は膨大だ。
俺の知り合いにも何人か自殺した者がいるし、つい先日もうちのアパートの近所で自殺があったばかりだ。一家四人が住む家で、一番楽に死ねると評判の硫化水素を引き籠もりがちだったその家の長男の息子が閉め切った風呂場で発生させたらしい。
すぐ近くに住んでいながら俺はその家に引き籠りの長男がいたことなどまったく知らなかった。てっきり両親と娘の三人家族が健全に仲睦ましく暮らしているものだとばかり思っていたから、他人事ながら少し気の毒だった。たまに俺が夜中にコンビニにタバコを買いに行くと、その家の二階の部屋の一室にだけいつも明かりが灯っていたが、今にして思えばそこが自殺した引き籠りの長男の部屋だったのだろう。何も気付かずにその家の前を通り過ぎていた記憶がもうすでに懐かしい。長男の息子と異臭に気づいて助けに向かった母親も巻き添えになった悲惨なケースの自殺だった。
国や地方公共団体、それに民間のボランティア団体の取り組みも虚しく、そうやって連日連夜一人身勝手に誰かがこの世を去る。自殺の原因は不況だけでなく、引き籠りの長男を抱えた一家のように個人的な事情にもよるが、多くの人が今の世の中に何らかの生きづらさを感じているのは確かだ。
生きづらいのなら、いっその事死んで楽になってしまえっ。
自殺した人たちに対する共感というか、俺も薄々ではそれを自然の摂理として受け入れはじめていた。
こんなご時世は死んだ者勝ち。世間ではそんな皮肉な言葉すら飛び交っていたから、きっと間違いではないのだろう。
自殺すること自体を問題にしてももうどうにもならないのではないか? それよりも自殺の弊害として起こる電車の遅延、マンションやアパートの賠償、衛生面上の問題などに目を向けて、国も民間も取り組むべきだ。
そんな国民の声を受けて議会に提出された新しい法案は、賛否両論の度重なる激しい議論の末、自殺を個人の自由意志に任せた“正当なる死”として合法的に援助する「自殺幇助法」として可決された。
国民の大多数の支持を得て動き出した自殺幇助法により、携帯電話の普及で使用されなくなった全国各地の電話ボックスが銀色一色のボックスとして新たに生まれ変わった。そして自殺する事を公に許された唯一の場所として今俺の目の前にあるのがそうだった。
冷たい金属の棺桶。陰気臭さのないシンプルでスマートな見た目が俺の頭の中に漠然とあったある決意を強く後押しするようだった。ドアノブについた電子ディスプレイには「未使用」の表示が浮かんでいる。
負けた時に帰る所が決まった。これでもう妻のヒステリックな顔を見なくて済む。重い荷をおろした安堵感と同時に不思議と身が引き締まる思いがした。そして先客が現れないことを祈りながら、俺は銀色の棺桶を後にした。

昼下がりのパチンコ店は少し肌寒いくらいにクーラーが効いていて、ほどよく空いていた。今日ばかりはジンクスやインスピレーションに頼った馬鹿げた打ち方はしない。確実なデータに基づく堅実的な打ち方でコツコツと勝ってみせる。
俺はそう意気込みながら店内をうろつき、戦国の荒武者が踊る新機種台の一つに目星をつけて腰をおろすと、おもむろにタバコをくわえた。
選んだ台はまだ一度も大当たりを出していない台で回転数も悪くない。俺の掴んだデータが正しければ、この台を選んだ時点で半分勝ちが見えていた。
俺は雑誌に書いてあった「パチンコはギャンブルではない」というプロの意見に同意し、三千円分のプリベイトカードを台に挿入した。勝てるノウハウさえ身につければパチンコだって立派な投資だ。もしこれで大勝ちする事ができたら思いきってパチプロに転身するのもありかもしれない。
いざ参る、天下分け目の関ヶ原へっ。
十五インチの液晶画面にそんなど派手な文字が浮かび、勇ましいBGMがうるさく鳴り響いた。大きく深呼吸をしてタバコの煙と一緒にゆっくりと息を吐き出す。
「いざ参る、生死分け目の青木ヶ原へっ……てか」
 側に他の客がいたらおそらく失笑を買っていただろうが、俺はそんな自虐的なギャグでも飛ばさないと耐えられないくらい心身共に緊張していた。負けたら冗談ではなくなる。常に合戦の前線に立たされ、多くの犠牲を払う足軽にでもなった気分だ。
緊張でハンドルを持つ手が震え、ハンドルを固定するために取り出した小銭を何度も床に落としてしまった。
落ち着け。
はじめてプレイする新機種台。必勝法どおり玉の入りやすい釘の打ち方をしてある台を選んだのだが、過度の緊張からか玉はなかなか自分の思うようにスタートチャッカーに入らなかった。ハンドルの調整がうまくいかないままみるみるうちに持ち玉が減っていき、それに比例するようにタバコの本数が増えていく。店の狭い灰皿はもう俺が吸ったタバコの吸殻でいっぱいだ。深呼吸をすると肺が濁ってうまく呼吸ができない。タバコの煙とチカチカする液晶画面の動きで目も痛かった。パチンコをやりはじめてからというもの俺はすっかりヘビースモーカーになってしまっていた。
液晶画面のドラムが回転してリーチがかかるたびに、豪快な合戦シーンが繰り広げられる。新機種台の派手な演出に期待し、一時胸が躍るが、結局大した当たりはなく、ほとんどが疲弊した兵の敗走する映像と共にハズレに終わる。三十分も経たないうちにもう三千円分の玉を使い切った。
妻は俺が死んだらショックを受けるだろうか、それとも清々するだろうか?
新しい玉を補充して気を取り直しても、すぐに頭が余計な事を考えたがってゲームに集中できない。狭いアパートでまだ家計簿と睨み合いを続けている妻の姿なんて想像していたら運に見放されて当然だ。頼みの綱だった雑誌の必勝データはまったくと言っていいほど当てにならず、半ばやけくそになった俺は、いつものように根拠のないジンクスとインスピレーションを頼りに台をどんどん替えていった。
パチンコはギャンブルではない。それはやはりプロに限った話だ。パチンコは所詮ギャンブルにすぎない。運に見放されたらそれでお終いだ。

「ちくしょうっ」
 四時間にもおよぶ勝負の末、俺は昼に通った小さな公園の、あのボックスの前に立っていた。生活と引きかえにした軍資金はわずかな小銭を残して、景品のタバコと一緒にズボンのポケットの中に収まっている。三文を円に換算するといくらになるのかは知らないが、残った小銭は三途の川を渡る船賃として、あの世の渡し守にくれてやることにした。
鈍い銀色のボックスの無機質な反射面に自分の情けない顔を映し、なぜか無理やり笑ってみる。時折公園を通りすぎる通行人たちがボックスの前に佇んでいる俺を、何か見てはいけないものを見るような目で眺めていた。そしてすぐに目を逸らしてそそくさと立ち去っていく。
こいつこれから死ぬんだな。
自殺幇助法により、個人の自由意志による死が認められたとはいえ、自殺者や自殺志願者に対する世間の目はまだまだ冷たいようだ。
自殺幇助BOXのシンプルな見た目は、一見すると配電室とか大型の冷蔵庫とか、死のイメージとは何ら結びつかない機械的なものにしか写らないが、実際この中で人が死んでいくことを考えるとやはり縁起の良い場所ではない気がした。
 ズボンのポケットに押し込んだくしゃくしゃのタバコを取り出して、人生最後の一服。これまで特にタバコをうまいと感じたことはなかったが、これが最後の一服だと思うと、うまいというか何というか、よくわからない感慨深さみたいなものがあった。
 ゆっくり味わいながら根元まで吸い、地面に落とした吸殻を揉み消して【自殺幇助BOX利用者へ】と書かれたプレートの注意書きによく目を通す。

・この自殺幇助ボックスを自殺以外の目的で使用するのは絶対にやめてください
・この自殺幇助ボックスを利用するには身分証明書(運転免許証、パスポート、保険証、住基カードなどの公的機関が発行する証明書)の携帯が必要です
・この自殺幇助ボックスは一度中に入ると、内側からも外側からもドアの開閉がロックされる仕組みになっています。ボックスが【使用中】の表示になっている場合は中に入れませんのでご了承ください(高濃度の一酸化炭素を使用するためボックス内は常に密閉状態が保たれています)
・自殺幇助ボックス利用者のご遺体は利用者の死亡が確認された二十四時間後に民間の業者が回収し、手続きが済み次第遺族のもとへ送還されます。
・このボックスを利用する方は、事前に家族や親しい友人、知人の方たちのいずれかにこのボックスを利用することをきちんと告げてください(自分の判断が本当に正しいどうか充分話し合ってみてください)
 
注意書きの最後に自殺防止ネットホットラインの電話番号が記載されていて、今一度自殺志願者に自殺を踏み留まらせようとする一応の配慮がしてあった。そんなところに電話してみたところで、おそらく慰めの言葉や同情の言葉で励まされてやんわり尻を叩かれるだけだろう。気力だけで不幸な現状を乗り越えられるなら誰も苦労なんかしない。今の俺に必要なのは精神的なケアじゃなくて、経済的なケアだ。どうせなら親切な利息で評判の良い街金融の電話番号でも書いておいてもらった方がよほど助かる。
俺はボックスのドアノブについている電子ディスプレイの表示が【未使用】になっていることを確かめると、自らの手で固く重々しい棺桶の蓋を開けた。命の重みが圧し掛かって来るようなかなり重量のあるドアだった。
窮屈な空間に半ば無理やり身を押し込めると、重量でドアがひとりでに引き、ボックスは音もなくピタリと閂を下ろして、今の今までいた現世から俺の存在を完全に断ち切った。
ほとんど身動きの取れないボックスの中は薄暗くて青白かった。目の前に俺を転落させたパチンコ台と同じ十五インチくらいの液晶画面がある。その液晶画面が照らす青白い光でボックス内を確認すると、ボックス内は固定式のカウンターチェアが一つと、天井から細いパイプが一本下に伸びているだけの造りであることがわかった。
もともとは電話ボックス。通話することだけが目的だったスペースはかなり狭くて本当に棺桶の中にいるような気分だ。
俺はとりあえずカウンターチェアに腰を下ろして、目の前の液晶画面を覗き込んだ。青白い画面の中央に音声ガイダンススタートの表示が浮かんでいる。俺はタッチパネルになっているその画面の表示を試しに押してみた。
「自殺幇助ボックス利用案内……」
 環境音楽っぽい、安らぎを促すBGMと明朗に響く無機質な女性ガイドの声が流れる。観光施設の案内をしているような軽快なテンポで、あの世の水先案内人は淡々とこのボックスが提供する自殺幇助サービスについて説明した。これから中で人が死ぬっていうのに少し不謹慎なガイドだな、と思いつつ、俺はその音声ガイドのテンポの良さを笑った。
音声ガイドは入口のドアに記載された注意事項と同じ内容を繰り返し、俺が死んだ後に処理される法的な手続きについて了解を促して来た。人が死んだ後ってけっこう面倒くさいんだなと、俺はどこか他人事のようにガイドの説明を聞いていた。
「この音声ガイダンスが終了後、今ご覧になっている画面の中央に【自殺幇助開始】の表示が出ます。その表示を押した一時間後に、このボックス内の上部に設置されたパイプから高濃度の一酸化炭素がボックス内に流れ、個人差はありますが比較的スムーズにあなたを安らかな死へ誘引いたします」
 もしこの音声ガイドが肉声だったら、俺は“自殺幇助”という言葉や“高濃度の一酸化炭素”といった言葉に恐怖を覚えて自殺を後悔したかもしれないが、淡々とただ事務的な内容を告げる機械の音声ガイドにはそういった感情を引き起こさない気楽さのようなものがあった。
「高濃度の一酸化炭素がボックス内に流れはじめて、あなたが死に到るまでの所要時間は、平均しておよそ十分前後です。一酸化炭素は無味・無臭・無刺激なので、死に到るまでの自覚症状として、軽い頭痛・耳鳴・めまい・嘔気などがあるかと思われますが、この画面の下に設置されたグローブボックスの中にある睡眠薬を服用されますと、そういった自覚症状が比較的少ない、昏睡した状態で死に移行することができます」
 俺は説明に従って画面の下にあるグローブボックスの中を探り、小分けにされた錠剤を取り出した。青白い薄明かりの中で確認した錠剤は薬局で普通に市販されているハルシオンだった。
 どういう手段を使って自殺するか?
首吊り、練炭、硫化水素、多量の睡眠薬摂取、飛び降り、リストカット……。この世の中に自殺の手段はいろいろある。性格とか住んでいる環境とか時間的余裕とかを加味して、死を望む個人がそれぞれに合った死に方で死んでいく。その手段を選択するに到った経緯は死んだ者にしかわからないが、どの自殺志願者もできれば楽に死にたいという気持ちは一緒だろう。少なくても俺は苦しまずに死にたいと思っている。俺はこの自殺幇助BOXの良くできたシステムに心から感謝した。
「あなたの遺体はあなたの死亡が確認された二十四時間後に厚生労働省が委託した民間業者により回収されます。一度このボックス内に入った以上、後戻りはできません。例えあなたが今後悔しているとしても、それは自己責任です。わたしたちはあなたの意志を尊重し、あなたが充分に考え抜いた末にこの場所に座っていることを信じて自殺幇助を行っています」
 俺は音声ガイドの言葉を静かに飲み込み、こくりと頷いた。
「心の準備はよろしいですか? 睡眠薬は【自殺幇助開始】の表示を押した後で服用してください」
 音声ガイダンスが終了して、緑色に変わった液晶画面に【自殺幇助開始】の表示が映った。
後悔してもそれは自己責任。最後に音声ガイドが言ったその言葉が重く胸にのし掛かってくるようだったが、俺はそれほど後悔していなかった。
すっかりやつれた妻のヒステリックな顔と、わけもわからず泣いている息子の顔がなぜかちらっと頭に浮かんだ。
……もう見なくて済むんだ。
俺はそんな解放感の中、【自殺幇助開始】の表示を押した。
「ご冥福をお祈りいたします。どうか安らかにお眠りください」
音声ガイドが途切れ、画面がまた青白い状態に戻るとそのまま停止した。青白い空間に安らかな環境音楽のBGMだけが流れ続ける。
錠剤の包装に記載された用量に従って小分けされたハルシオンを口に含む。あの世に一歩足を踏み入れた気がした。そのまま目を閉じると心地良い眠りがすぐにやって来る。
おやすみじゃなくて、バイバイか。
俺は俺に冷たかった家族と世間に永遠の別れを告げて、訪れた眠りに素直に身を任せた。

目を開けたのか開けていないのか、気づくと目の前にただ暗闇がある。人は死んだらお花畑が広がる彼岸に行くのではなかったか? 俺は熱心な仏教徒ではないから天国と地獄の話は疑わしいが、死後がただの暗闇という状態には納得がいかなかった。
ぼんやりとした意識。自分が今どんな状態なのかわからない。
これが死? これがあの世なのか? 
暗闇を見つめ、自分が今どういう状態なのかを考えてみる。生前と同じ肉体の感覚がまだ残っていて、どうも俺の腰は固定式のカウンターチェアーに接しているようだった。
物理的空間の継続。自分の身に何が起こったのかよくわからないが、徐々に意識がはっきりしてきて自分はまだ死んでいないという実感が湧いてきた。
……死ぬ前に起きてしまったのか。
ひやっとする感覚が生じてジッとしていられず暗闇の中を手探りすると、正面に液晶画面とグローブボックスの感触があった。グローブボックスの中から手を引いた時、いくつか錠剤が落ちる感触も確かにある。
俺はまだ死なずに窮屈なボックスの中にいる。そう確信した時、俺は言い知れぬ恐怖に襲われパニックになった。
急に体が押し潰されるような圧迫感と息苦しさを意識する。生きながらにして棺桶の中にいる絶望感。何かの手違いが起こったに違いない。死を渇望したまま現世に留まってしまった途方もない後悔の念がどっと押し寄せてきた。
「出してくれっ、だ、誰か出してくれっ」
 完全に密閉された空間の中で俺は必死になって叫んだ。ボックスの内側にドアノブらしきものはない。外に俺の声が届いているのかどうかわからないが、何度叫んでも外からは何のリアクションもなかった。一切物音のない静寂と暗闇だけがある。
死ななかった場合。死ななかった場合は一体どうなるんだ?
音声ガイダンスは死亡を確認した二十四時間後に民間業者が俺の遺体を回収しに来ると言っていたが、死ななかった時の事は何も言っていなかった。何の不備もない完全なシステムだと高を括っているのか、死ななかった場合の事などまったく想定していないのかもしれない。お役所仕事がやらかすトラブルは、いつも事が発覚した後に渋々対処されるのが常だ。声を大にして不備を指摘したくても閉じこめられたままではどうすることもできない。
高濃度の一酸化炭素はもう流れ終わったのだろうか? 暗闇の中では時間の概念がなく、自分がどれくらい眠っていたのかまったく見当がつかない。もう流れているなら俺は死んでいるはずだし、まだ流れていないのならそのうちめまいなどの自覚症状が現れるだろう。
闇、息苦しさ、闇、圧迫感、闇、息苦しさ、闇、圧迫感……。
自分の置かれている状況を意識にあげただけで気が狂いそうだった。
「なんだよ、安らかに死ねるんじゃなかったのかよっ」
 息苦しさ、闇、圧迫感、息苦しさ、息苦しさ、圧迫感、闇、闇、息苦しさ。
しばらくそんな錯乱した状態が続き、俺は思うように身動きが取れない窮屈な空間でジタバタと暴れ回った。あの世に一歩足を踏み入れはしたものの、想像以上にあの世は遠い。一酸化炭素がボックス内に流れこむ気配はなく、何の自覚症状も訪れないまま、俺はただ闇の中で静止した時間を過ごしていた。
息苦しさで呼吸は荒く、俺の体から放出された二酸化炭素と体温でボックス内の室温はどんどん上がっていった。まるでサウナか砂風呂にでもいるような暑さだ。果てしない耐久。命がけの馬鹿なギネスに挑戦しているみたいで自分がひどく惨めだった。
全身汗だくになった俺は乱れた呼吸を整えて冷静さを取り戻そうと努力した。目を閉じても暗闇のままだが、パニックによる圧迫感の恐怖に耐えるため、俺は目を閉じたまま、自分は今広い場所にいるんだ、と無理やり思い込むことにした。とにかく空気がたくさんあって、あたりまえに酸素が吸える広い場所を想像する。野球場とかコンサートホールとか広い場所ならたくさんあるのに、なぜか俺の瞼の裏側に浮かんだのは自分の住んでいたアパートの六畳のリビングと四畳の寝室だった。
家族三人で暮らすには狭すぎるアパート。それでもこの窮屈なボックスの中に比べたら充分すぎるほど広い。クーラーの使用を禁じたアパートの茹だるような暑さも今では全然快適に思えた。
誰かが気づいて救出してくれなかったら、俺はこのまま死ぬ。安らかどころか苦しみ抜いて死んでいくのだ。
溜息をつく余裕もなかった。確かに俺は死にたくてこのボックスに入った。でも俺はこんな死に方は望んでいない。音声ガイドが言った「自己責任」の言葉が恨めしい。こんな目に遭っても自分の責任だというのか。
「これは俺の責任なんかじゃないっ、不慮の事故だっ。明らかに他人の責任だ。早くなんとかしてくれっ」
想像で持ちこたえていた冷静さが再び失われ、意識した暗闇と息苦しさと圧迫感のパニックに再び陥る。かつて味わったことのない恐怖。心の底から死にたくないと思った。
「出してくれっ、誰かここから俺を出してくれっ」
 泣き叫んで恐怖を振り払おうとした手がグローブボックスの中に滑り込んだ。その手がグローブボックスの中に残ったいくつかの錠剤を掴む。この過酷な現実から一時でも逃れられるならと、俺は慌てて錠剤の包装をむしり取り、残ったハルシオンを全部口の中に放り込んだ。
頼む、次こそ死んでくれ。
次に目覚めた時はこの世なのかあの世なのか、意識が混濁してその判断は最早まったくつかなかった。

「ありがたや、ありがたや、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」
 祈る言葉とお経の大合唱。いつのまにか大勢の人たちが俺を取り囲んで犇きあっている。皆何故かずいぶんと時代外れな襤褸の着物をまとい、ひどく痩せこけた顔で一心に手を合わせている。そのうちの何人かは目から涙を流していた。
寺の本堂だろうか? 煤けた障子とところどころが抜け落ちた板の間で仏像などは見当たらないが、俺は大勢の人たちの中心にいて、一段高い台座のような所に座り、徳の高い坊さんが着るような袈裟と頭巾を被っていた。ただ困惑している状況の中、暗くしめやかな合唱が続く。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……。上人(しょうにん)様、どうか堪えておくんなせぇ。わしら村人一同、決して上人様の御心を無碍(むげ)にするような事は致しません。成仏された上人様の魂が天に届き、この村に必ずや雨が降りましょう。ありがたや、ありがたや……」
 一人の老人が恭しく俺の前に進み出てそう言うと、老人に倣い他の人たちも揃って俺に頭を下げた。俺は座っているのも容易でないほど衰弱していて、身にまとった袈裟と頭巾が異様に重く感じられた。それに加えて耐え難い空腹も感じている。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と繰り返される合唱を聞きながらふと数珠を握った自分の手を見てぎょっとした。俺の手は異様に細くて白く、まるで小枝のように骨と皮だけになって青い脈がくっきりと浮かんでいた。死期の迫った者に見る貧弱すぎるほど貧弱した身体。無意識に起こる手足の震えが止まらない。
「皆の衆、そろそろじゃ。覚悟は決めたか? 上人様を外へお連れしろ。体の方がだいぶ衰弱し切っておられる。そっと運ぶのじゃぞ。決して粗相のないようにな」
村の仕切り役と思われる老人の命を受けて若い男たちが何人か立ち上がり、台座に座っている俺の両脇と両足をそっと抱えてどこかへ連れて行こうとする。
「な、何するんだっ」
 はっきりとそう口にしたはずの俺の声はか細くて声にならず、用心深く支える男たちの手を振り払おうとしても、体にまったく力が入らない。無駄な抵抗はよせとばかりにすっかり軽くなった俺の体が容易に台座から引き離された。
「俺をどこに連れていくんだ?」
わけもわからぬまま俺は男たちに抱えられ、外に連れ出された。村人たちが俺の後に続き、やつれた顔を見合わせながら静かにぞろぞろとついて来た。俺はされるがまま、外に置いてあった大きな木の箱の前まで連れて行かれた。体が一度地面におろされ、男たちによりその木の箱の蓋が開かれる。
「皆の衆よ、さぁもうお別れじゃ。辛いだろうが、一人ずつ上人様に手向けの言葉をかけてやっておくれ」
 外に集まった村人たちが俺の前にそぞろに列を作り、一人一人深々と頭を下げると、別れの挨拶や感謝の言葉を順番に口にしていった。依然として状況は飲み込めなかったが、何かすごく嫌な予感はしていた。これから俺の身に何か恐ろしいことが起こるのは明白だ。木の箱の中は大人が一人入るのにちょうどいいくらいのスペースになっている。
木棺。そう呼ぶに相応しい箱。おそらくそうなのだろう。
「心優しい上人様、あなたはわたしたち村の者にとってまことの仏です。どうかこの村を、この村の飢えをお救いください。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
「上人様には感謝しても感謝しても感謝し切れません。なんと言ったらいいか、上人様が心安らかに極楽浄土に行けることを一心にお祈りしていますから、どうか恵の雨を、この村に恵の雨を降らせてください」
 列をなして俺に言葉をかける人々の様子からおおよその事情が理解できた。
どうもこれは雨乞いの儀式か何かで、俺はこの村に雨を降らせるために自分の身を犠牲にしなければならないらしい。飢饉に見舞われた村を救うために即身仏になった坊さんの話をどこかで聞いたことがある。
何の因果だ。崇高な坊さんに課せられた過酷な使命。融通のきかない厄介な体で無職の俺がそんな大役を果たすというのか? とても納得のいく話しではなかったが、なぜかこれがもともと俺の意志で決まった事だという事実になっている。
もちろんそんな約束をした覚えはない。この村の人々にとって俺がどれほど崇高な坊さんなのかは知らないが、これは何かの勘違いだ。俺はまったくもってそんな立派な奴じゃない。俺が望んでいるのは苦しみから逃れるための死だ。苦しみながら死ぬ事など全然望んでいない。
重々しい空気の中、列の最後にいた人が俺に言葉をかけ終えると、若い男たちがまたゆっくりと俺の体を抱えた。
「上人様、鈴を。この鈴をお持ちくだされ」
 村の仕切り役の老人が俺に鈴を渡した。落とさないようにと、数珠を持った俺の細い手首にきつく巻きつける。小刻みに震える俺の手が頼りない鈴の音を鳴らし、それが俺の生命活動の唯一の意思表示であるかのように静かに辺りに響く。
「お、お待ちくださいませ」
 ふと、どこからか声が上がり、俺の体を抱えた男たちの動きがその声で立ち止まった。見ると一人の若い女が村人たちを掻き分けて恐る恐る俺の目の前に歩み寄ってくる。一見して綺麗な顔立ちだとわかる女の顔は目に涙をいっぱい浮かべて深い悲しみにくれていた。
「今しばらくお待ちくださいませ。……皆さん、どうか少しばかりわたしのお話しをお聞きください。わたしなんだか恐ろしくて……やっぱりこんなやり方は間違っていると思うんです」
 若い女は俺の顔をまともに見ないよう伏し目がちに進み出て、神妙な面持ちでざわつく村人たちに向かってそう言った。
「いくらこの村のためとはいえ、上人様一人を犠牲にしてわたしたちだけ助かろうだなんて、わたしにはとても恐ろしくてできません。上人様が死んでしまったら、もう上人様のありがたいお言葉を聞くこともできなくなってしまうんですよ。村の良き相談役として上人様は何度もわたしたちを救ってくださいました。時には身を粉にして一緒に畑を耕したり、自分が食べる分の食べ物を惜しみなく分け与えてくれたりもしました。上人様の尊い御心は生きてこそなのです。死んでは何の意味もありません。上人様、そして村の人たちも、お願いだからもう一度考え直してみてください」
 若い女の訴えを聞いた村人たちが急にうろたえ、何人か気まずい表情を隠すようにうな垂れた。
女の言うとおりだ。俺が犠牲になる必要はどこにもない。今ここで行われているのは迷信を真に受けた非人道的な自殺幇助だ。正気の沙汰じゃない。この村の人たちは皆どうかしている。
「今さらなにを勝手なことを言っておるのだ。これは上人様が村を救うために、自分から願い出てくださったありがたい行為なのだぞ。この村に残された最後の希望だ。衆生救済を一心に祈願し、雨を降らせる。その結果上人様の魂は成仏され、この村を救った偉大な仏として今後何十年、いや何百年とこの村で崇められ続けるのだ。これは村のためだけではなく、上人様ご自身のためでもあることだ。今さらやめるわけにはいかん。皆でさんざん話し合って泣く泣く納得したことではないかっ」
 村の仕切り役である老人が鋭い眼で若い女を睨み、叱責した。
「わたしはまだ納得しておりません。村の皆も本当はまだ迷っているはずでございます。こんなことして本当に雨など降るのですか? わたしはただ、上人様が苦しい思いをしているところをこれ以上見ていられないだけでございます」
「辛いのはお前だけではない、皆一緒だっ」
 若い女と老人の激しいやりとりはしばらく続いたが、その間ほかの村の者は誰も口を挟まなかった。しかし本音では若い女の訴えに加担しているのだろう。その場に居合わせたほぼ全員が沈鬱な表情で罪の意識に苛まれていた。
俺は若い女がなんとか村人たちを説得してくれることに期待した。俺の命は今、この若い女の手にだけ握られている。
「わたしにはどうしても納得がいかないのです。本当にこれ以外、ほかに方法はないのでしょうか? 上人様、どうかお答えくださいましっ」
 若い女の主張はもうほとんど悲鳴に近かった。答えを委ねられた俺は、嗄れ果ててまったく声にならない口をぱくぱくさせて強く若い女の主張に同調したが、目に涙が溢れるばかりで一切自分の口から村人たちに主張することは許されなかった。
「そうまで言うならばお前が上人様の代わりになるか? 上人様の代わりにお前が即身仏となってこの村に雨を降らせてみせるかっ。どうだ? ……お前には到底出来まい。これは深く仏の道に通じた上人様だからこそ出来る崇高な行為なのだ。身勝手だがわしらにはもうどうすることも出来んのだよ。頼むからこれ以上決断を迷わすのはやめてくれ」
 老人がそう声を荒げてたしなめると、若い女はそれ以上何も言う言葉が見つからないのか、顔を曇らせたまま押し黙り、ついにはその場に泣き崩れた。周囲の村人たちの間により沈鬱な空気が流れ、老人の固い決断に皆が無言で承諾する意志を見せていた。これで俺の命が助かる見込みは完全になくなった。
仕切り役の老人の合図で男たちが再び俺の体を抱え上げ、木の箱の中にゆっくりと沈めた。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……。
切実な思いを込めて、涙ながらに念仏を唱える人々の合唱と共に、木の箱がゆっくりと閉じられる。
生き仏。そんな皮肉な言葉が頭に浮かんだ。生きながらにして仏と崇められた俺は、これからこの村のために死んで本当の仏にされるのだ。
「こんなことしても無駄だっ。俺が死んでも雨など降らないっ。取り消してくれ、すぐに取り消せっ」
 俺の悲痛な叫びはやはり声にならず、無情にも木の箱は完全に閉まった。ふいに闇が訪れ、一心不乱に念仏を唱える人々の声が遠くなる。
 死にたくないっ。
死の恐怖に抗うように箱の中で這いつくばり、残された力を振り絞って天井の蓋を持ち上げようとしたが無駄だった。衰弱し切った体で持ち上げる木の蓋は石蓋のように重く、ほんの少しも開く気配がない。箱の上に村人全員の命が圧し掛かって閉じているようだった。
外界から遮断された暗闇の中で箱が箱ごとふわっと地面から宙に浮いた感覚があり、外で数人の男たちが声を張り上げたと同時に、俺の体が箱ごと移動した。
状況が掴めない不安と、状況がわかったところでどうにもならない恐怖に身悶える。箱はガタガタと傾いては軋み、不安定な状態で宙を移動し続けると、緩やかに地面に着地した。念仏の合唱はまだ続いているようで微かに耳に届いている。
暗闇の中で目を見開き、微かに聞こえる念仏に耳をすましてじっと恐怖に耐えていると、バラバラバラッ、バラバラバラッ、と箱の天井に何か降って来る音がした。
雨。人々の祈りと俺の犠牲が功を奏して早くも雨が降って来たというのか。死ぬ間際に起こった迷信の奇跡を俺は複雑な思いで聞いていた。
 いや。俺はすぐにそれを否定する。断続的に降る音を聞く限りこれは雨ではない。一塊になって覆いかぶさってくる音。この音はきっと土だ。俺は箱ごと穴に埋められて、今その穴に土がかぶせられているところなのだ。
生き埋めにされる。
罪人ならまだしも、村人の尊敬を集める徳の高い坊さんがなぜこんな惨い死に方をしなくてはならないのか。俺は何一つ納得のいかないまま、恐怖と憤りだけを抱えて、どうせ死ぬなら一思いに殺せ、と暗闇の外へ向かって嗚咽を洩らした。俺はこの生き埋めにされた箱の中であとどれだけ生きるのだろうか? 念仏の合唱は止んだのか、もうまったく聞こえなかった。どんどん積み重なっていく土の重さをひしと感じながら、多少息苦しくなって来た空間に発狂する。眼球が飛び出しそうなくらいありったけの力で搾り出したはずの声がぜいぜいと、喉元ではなく頭の中で鳴った。
俺が仏の道に仕える真に徳の高い坊さんなら、きっとこんな極限の状態にも耐えられるのかもしれないが、俺はたとえ雨が降っても俺を生き埋めにした外の連中を恨み続けるだろう。最後までジタバタと諦めがつかずに、恐怖に顔を引き攣らせた見るも無残なミイラの姿になって、俺をこんな目に遭わせた運命を呪い続けるだろう。
暗闇が怖い。静けさが怖い。圧迫感が怖い。暑苦しさが怖い。空腹が怖い。自分の身にまとわりついた袈裟と頭巾の重みまでも怖かった。
手首の鈴が小刻みに震えて弱々しく鳴り続けている。外の奴らに聞こえてるかどうか、俺がまだ生きていることを告げる唯一の意思表示だ。この鈴の音が止んだ時、俺の生命活動も終わる。執念深くて頼りない風前の灯だ。

自分のあげた叫び声で恐ろしい悪夢から目を覚ますと、そこもまたさっきと同じ暗闇の中だった。大量の汗で体が水に浸かったようにぐっしょりと濡れている。悪夢から現実の悪夢に引き戻された俺は衰弱し切っていて、喉が貼りつくように渇いていた。鼻からも口からも貪欲に酸素を吸おうとするが、気道をうまく確保することができず、虫の息同然の呼吸で意識がぼんやりとしていた。
どれくらい時間がたったろう?
何も見えないし、何も聞こえない暗闇の中で時間のことなど考えてもどうしようもないのだが、だからこそ余計に時間が気になった。かなり長い時間閉じこめられているような気もするが、中に入ってからまだほんの一時間も経っていないような気もする。とにかく暗闇の中では一切が曖昧だった。
哀れな妻はまだ家計簿と睨み合っているのかな……。
 俺は、イライラしながら俺の帰りを待っている妻の姿を思い浮かべて、可哀相だな、と思った。そんなイライラしている妻に夕飯を作ってもらえず、腹をすかして泣いている息子の姿を思い浮かべて、可哀相だな、と思った。
これが後悔ってヤツか? 変に感傷的になっている自分が可笑しかった。煩わしい家族とおさらばしたくてここへ来たのに、そいつらのことで感傷的になるなんてどうかしていると思った。生きてここを出られたら……。

妻と出会ったのは六年前。俺が事故を起こした運送会社で働きはじめた時だ。妻は俺が配送に行っていた会社のOLをやっていて、俺が荷物を持っていくと、いつも妻が受け取りにサインしてくれていた。
OLをやっていた時の妻は会社でも評判の良い美人で、俺が荷物を届けに行って妻にはじめて会った時、「ご苦労様です」と愛嬌のある笑顔で一声かけてくれたのがすごく好印象だったのを覚えている。俺がそれまでに付き合ってきた女はほとんどが飲み屋で知り合った女ばかりで、変に男慣れして可愛げのない、どこか擦り切れたタイプの女が多かったから、朗らかで真面目な妻のようなタイプは新鮮で、俺はすぐに一目惚れした。今ではふて腐れた顔とヒステリックに叫ぶ顔しか見ることがなくなったが、当時は本当に可愛らしい女で、俺は久しぶりの恋に心が躍っていた。
「今日も良い天気ですね」
 そんな当たり前の日常会話からはじまり、俺は妻の勤めている会社へ行くたびに一言、二言、気のきいた言葉を増やして、なんとか妻と親しくなろうと努力した。あまりナンパとかは得意なほうではなかったけど、時々冗談混じりの臭い誘い文句なんかも言ったりして妻の気を引こうとした。最初のうちは「調子の良い人」とか「冗談のうまい面白い人」って言われてあしらわれることが多かったけれど、日を追うごとにそんな些細な努力が実を結んで、俺は互いの電話番号を交換してデートに誘うことに成功した。お互いが休みの日に二人で映画を観に行こうと誘うと、妻はすんなりオッケーしてくれたのだ。
初デートの待ち合わせは確か新宿だったと思う。俺は普段のさえない服装を一掃させ、流行物だと思われる着慣れていないジャケットなんかを買ったりして、その日だけは特別にお洒落をして妻を待った。正直自分では似合っているかどうか判断がつかなかったが、一応俺なりには頑張ったつもりだった。人が大勢いる待ち合わせ場所に行ってはじめて、俺は自分の服装が周囲の人たちからかなり浮いていることに気づいて愕然としたが、妻は別にそんなことを気にする様子もなく、いつものように笑顔で俺に手を振ってくれた。妻の方は派手すぎない洗練されたコーディネイトで周囲から注目を浴びていたっけか?
「待ったぁ?」
「いや、俺もさっき来たとこ。そんなに待ってないよ」
 遅れて来た妻の声はいつになく弾んでいて、その日のデートをすごく楽しみにしてくれていたのがはっきりとわかった。一人浮いた格好をして来てしまった俺は、周囲から羨望の眼差しを受けている妻に多少気後れしながら、映画を観て、食事をして、その後デパートで買い物なんかしたりして楽しい時間を過ごした。
「ありがとう。今日はとっても楽しかった。映画も面白かったし、食事も美味しかったし、ホント最高だったよ。あたしデートなんて久しぶりだったから昨日ははしゃぎ過ぎてあまり眠れなかったんだよ」
 夜の路上を何気なく二人で散歩しているうちにたどり着いた公園のベンチ。星空と高層ビルの下で俺と妻は良い感じのムードだった。
「ごめんな、浮いた格好で来ちゃってさ。俺もデートは久しぶりなんだ。でも今日はホントに楽しかったよ」
そろそろデート終了の時間になりつつあるのに俺の口数は極端に少なく、焦りながらなんとか妻といる時間を長引かせようとあれこれ思索していると、妻の方が気を遣ってなんとなく会話をリードしてくれた。しばらく二人で話をしているうちに、もう改めて確認しなくても二人の気持ちは通じ合っているような気がしたから、俺はそのまま調子に乗って目の前に聳えていた高級ホテルの最上階を指差し、
「実はね。今日は君のためにあそこの最上階スウィートを取ってあるんだ……」とストレートに告白出来ない照れ隠しの冗談を言ってみた。妻は案の定「はぁ?」とおどけてくすくす笑った。そしてそれをきっかけに盛り上がった俺と妻はその日のうちにキスをした。
その後妻と俺の交際がスタートし、互いが休みの日には必ず会ってデートをしたり、どちらかのアパートに行って一緒に時間を過ごした。そのまま順調に交際が進み、半年も経たないうちに妻がふと俺にこんな事を言った。
「ねぇ、結婚しよ」
「えっ」
 いつも二人でよく行っていた喫茶店で唐突にだった。俺は当時まだ結婚なんて全然考えていなかったから、呆気にとられて当然返事に困った。俺は妻の顔を見ながらしばらく考えていたけれど、冗談っぽく笑顔で言った妻の目が思いのほか真剣だったことに気づき、何か運命的なものに突き動かされるように、つい弾みで「うん、いいよ」と言ってしまった。根拠はないけど、こいつとならうまく行くだろうと、多分心のどこかで思っていた。
真面目で純粋な妻は俺と出会う以前はあまり男と交際したことがなかったらしく、恋人になった男と築く家庭に強い憧れを抱いていた。俺も妻も育った家が恵まれた家庭環境ではなく、特に妻の方は早くに両親を失くし、頼る身寄りもなくたった一人で苦労して来た事情があったから、家庭に対する思いは人並み以上にあったはずだ。だから妻は専業主婦を希望して俺と結婚した後すぐにOLを辞めた。
結婚後の妻はあまり贅沢をせずにしっかり家計の舵を取り、新しい生活でなにかと出費のかさむ俺の安月給に気をつかって新婚旅行もすぐ近場の伊豆で済ました。
「いまどき新婚旅行で伊豆はないだろ。一生に一度なんだから、海外とかさ、行きたい所があったら遠慮なく言ってくれていいよ」
「別に伊豆でいいよ。あたし海外はあまり好きじゃないからさ。それに二人でゆっくり温泉入りたいし」
 妻は「節約が趣味だから」と言い張って、俺が贅沢を許しても意地らしく笑っていた。
人知れず苦労を重ねて来たからか、妻はなにより安定した暮らしを望んでいた。俺はその時、こいつを幸せにしてやりたい、と思った。こんな状況になっていなかったら二度と思い出していなかったかもしれないが、その時は確かにそう思った。そしてきっとあの頃が俺の人生のピークだ。
それからまもなくして妻が妊娠し、子供が一人産まれた。笑った顔が妻にそっくりな男の子で、目元だけが少し俺に似ていた。妻の優秀な顔立ちをしっかり引き継いでいたから、妻はよく調子に乗って「この子全然パパに似ていないから、将来きっと男前になるね」と、俺をからかった。俺はそれまであまり子供が好きな方ではなかったが、やはり自分の子供だけは別で、目の中に入れても痛くないという言葉がまんざら嘘ではないと思えるほど自分の息子が可愛かった。
家庭。妻が憧れていた家庭が出来たのだ。妻は本当に嬉しそうで、俺は「パパ」と呼ばれることに照れ臭さを隠せずにいたが、妻はなかなか堂に入った「ママ」ぶりを発揮して、良き妻から良き母親になろうと子育てと家事に励んでいた。俺もそんな妻を横目にしながら家族のために本腰を入れて仕事に励むことにした。
体力的にきついのを覚悟して残業時間を増やし、時々早朝からの配送も買って出て、少しでも収入を増やそうと躍起になった。安い稼ぎの中から将来独立するための資金を捻出するため、独身時代に身についたギャンブルや飲み屋通いの悪癖もすっぱりやめた。
「最近仕事頑張ってるね。パパになって急に張り切ってるって感じ。さすが一家の大黒柱っ、エライぞ。でも……あんまり無理しなくていいからね」
 いつだったか妻が息子を胸に抱いてあやしながら俺にそう言ってくれたことがあった。俺が疲れた顔で帰って来るといつも心配してくれる。俺は心からこいつと結婚して良かったとそのたびに思った。今は顔を合わせれば不満の言い合いでどうしようもない夫婦になってしまったけれど、心のどこかでいつもやり直したいと思っていた。だがもう手遅れだ。
俺が帰らなかったら妻と息子はどうなるんだろう? 狭いアパートの部屋で俺のいない二人だけの家庭を継続するだろうか。
空腹で突如腹が鳴った。思えば朝から何も食べていない。最後の晩餐にもありつけずに死んでいく惨めさに心底嫌気がさす。きっと今日の夕飯もカレーだろう。妻は食費を浮かすために、ここ最近は毎晩カレーばかり作っていた。
「毎晩カレーばっかじゃ飽きるだろっ。お前はホント芸のない女だな」
 俺がそうやって妻に悪態をつくと、妻はテーブルを叩いて、
「あんたのせいなんだから、いちいち文句言わないでよねっ。カレーは栄養価が高い食べ物だってこと知らないの。毎晩でも、食べて生きていられるだけマシじゃないのよ。ちょっとは感謝しなさいよっ」
 と、むくれた顔で言っていた。
食べて生きていられるだけマシ。そう言われると確かにそうだな、と、こんな目に遭った今だから思う。いつも悪態を突いていたが、妻のカレーは決してまずくはなかった。
俺は毎晩でもいいから、また妻のカレーが食べたいと思った。最後の晩餐も当然カレーだ。そう思ったら、ふと涙が出てきた。
「おいっ、誰かっ」
 俺は泣きながら外に向かって叫んだ。
「誰かいないかっ? いたら返事をしてくれっ、頼むから俺をここから出してくれよっ」
 真っ暗の窮屈な空間に拳を何度も叩きつけ、俺は叫び続けた。
「俺は死にたくないっ、俺は家に帰るんだっ。……なぁ、頼むよ。誰かぁ、俺は家に帰りたいんだよ」
 何でもする。ここから出られるんだったら何でもする。仕事だってそれこそ死ぬ気で探してやるのに。
何の返事もなかった。正面にある液晶画面をがむしゃらに殴りつけ、ボックスの天井から下がったパイプを引きちぎるように強く握りしめても、何のアクションも起こらなかった。
一度このボックス内に入った以上、後戻りはできません。例えあなたが今後悔しているとしても、それは自己責任です。
音声ガイドの無機質で冷たい声が頭の中で繰り返され、銀色一色の棺桶が俺を嘲笑っていた。暗闇の中、焦点がぼやけ、俺はカウンターチェアーにへたり込んだ。
 俺は『自殺幇助BOX』なんていう、こんな馬鹿げた物を作った奴のことを呪った。そしてそれをまんまと利用して死のうとした俺自身のことも呪った。
乱暴にグローブボックスの中に手を突っ込み、睡眠薬の錠剤が残っていないか探す。無情にもグローブボックスの中には錠剤は一つもなかった。床に落とした分を取ろうにも窮屈すぎて体を折り曲げることができない。
抗いたくても俺には死以外の選択の余地がなかった。自ら入った棺桶の中でまだしぶとく生きていることが滑稽だった。死にたくても死ねない状況で生きている矛盾。それがどんなに苦しいか? 首吊りや硫化水素で安易に死んでいった自殺者にはわからないだろう。 寒くはない。むしろボックスの中は暑すぎるくらい暑いというのに、体がガタガタと震える。気づくと俺は股間から熱い液体を垂れ流していた。大量の汗で充分湿った下半身がさらに湿っていく。
情けないことに小便を漏らしたのだ。喉がどうしようもなく渇いて、一刻も早く水分が欲しいというのに、恐怖に震える俺の体が勝手に貴重な水分を逃がしてしまった。無様だがこれは体が少しでも長く生きようともがいて引き起こした生体反応だ。精神は嘘をついても肉体は正直だ。恐怖も苦痛も生きているからこそ感じられる。卑しくも儚い命だった。
狭い空間に湯気が立ち込め、不快なアンモニアの臭いが強く鼻を突いた。息をしているのかしていないのかわからないくらい呼吸が困難になる。
「だから自己責任だって言ったろ、やっぱり後悔したじゃないか」
安らかに死ねなかった俺の死に顔を見て、遺体を回収しに来た奴が俺にそんな罵声を浴びせているところを想像した。俺は生き恥を晒したうえに、死に恥まで晒すことになるのか? 一矢報いるように平然を装って、安らかに死んだふりをしてみるが、体がどうしてもジタバタする。心臓が停止し、脳が思考を止めるまで悪あがきは無意識に続くだろう。
ボックス内の酸素は極端に薄く、吸っているのも吐いているのも二酸化炭素だった。苦痛の限界をすでに超えてしまったのか、気づくと変にリラックスした気持ち良い状態が訪れていた。死を前にした恍惚感。呼吸も心拍も無駄な悪あがきをやめて落ち着いて来る。
早く楽になりたい。俺が死を受け入れようとしたその時、
ガッタンッ。
ふいにドアが開いた。窮屈な暗闇に淡い光が差し込み、どっと新鮮な酸素が吹き込んでくる。ようやく受け入れようとしたあの世から連れ戻される不安定さ。俺は母親の胎内から無理やり引きずり出される赤ん坊のように、ありったけの悲鳴をあげた。
ぼんやりとした視界。飛び込んで来るこの世の風景。
外は夜だった。公園の外灯に照らされて男が一人ドアの前に立っている。くたびれたスーツ姿の虚ろな目がぽかんと口を開けてこっちを見ていた。
「な、なんだ……入ってたのかっ。て、てっきり未使用だと思って」
 男は頭を掻きながらひどく困惑していた。俺と同じ自殺志願者なんだろう。男の虚ろな目の中に冴えない事情を読み取る。
「あんた、死にたいのか……」
「はい?」
「あんた、死にたいのかよ」
 夜の湿気を含んだ酸素を貪欲に吸い込みながら俺がそう尋ねると男はただ動揺していた。そして怯えた目で「ええ、まぁ」とぎこちなく笑う。昼間の自分自身を見ているようで不快だった。
「俺は……」
 大きく息を吸い、擦れた声を絞り出す。
「え?」
 自殺しようとした後悔でもなく、生還した喜びでもなく、とにかく思い切り叫びたかった。
「俺は」
 目の前の男が眉を顰めて、俺の顔を覗きこむ。全身がわけもなくぶるぶる震えた。
「俺は死にたくないよ。俺は死にたくなんかないよっ」
 俺はバツの悪そうな顔で俺を見ながら突っ立っている、昼間の俺の亡霊のようなその自殺志願者の男に、擦れた声ではっきりとそう叫んでいた。

冥土のミヤゲ

冥土のミヤゲ

失業した妻子持ちの男が、日々の生活に困窮してたどり着いた先は国が自殺を公に認める自殺幇助ボックス。この完全に密閉されたボックス内で、男は睡眠薬と一酸化炭素による自殺で苦しまずに死ねるはずだったが、システムの誤作動で生きたまま狭く暗い空間に閉じ込められてしまい、生と死の間でもがき苦しむ。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
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