盟約紳士 Pr.

盟約紳士 Pr.

鍵を開ける少年の手に握られた光

鍵を開ける少年の手に握られた光

 
 それは西暦2013年のこと。
 広い畳の部屋。開いた障子からは、縁側と、丹精に手入れをされた庭が見える。
 どっしりと座る、その家の主。年は40過ぎ。貫禄のある男だ。
 彼と対峙しているのが、タキシードに身を包み、髪と目の色は明らかに日本人ではない、若い男性。彼は日本人でもなければ人間でもない。
 長い沈黙の果て、家の主が言った。
「……英国紳士というのも、日本と同じ、礼儀を尽くす人間。それは日本の心と同じ。しかと拝見させてもらった」
 タキシードの男は、少し表情を変えて笑う。
「私もこの日本文化というものに興味を持った。なかなか面白い経験だった」
 主とタキシードの男は、目線を合わせる。
 主は、膝を叩いた。
「良いだろう。我が娘を差し出そう」
 待ち構えていたとばかりに、タキシードの男が微笑む。
 主は立ち上がった。
「今日より我が娘は、この紳士に仕える!」


 そうして娘は呼ばれる。
 タキシードの男は、娘の手をとった。
「さあ行こう。我が屋敷へ」
 娘は涙を流している。娘の母も父も、泣いて見送った。
「元気で!」
「ちゃんと紳士様にお仕えするのよ」
 両親と、親戚が、庭に集まっている。
「まあ照れちゃってこの子ったら、紳士様の手を振り払おうとしてるわ」
「礼儀正しくしなさい。お前は日本の代表なのだから」
 タキシードの男が一礼する。
「ではこの娘、貰い受ける!」
 タキシードの男と、娘の身体がふわりと浮く。
 そうして空に消えていった娘は、去り際に心の底から叫んだ。
「嫌だ――――っ!」
 その叫びとともに、娘は空の彼方に消えていった。



               *



 それは、日差しがきつくなってきた6月末のこと。
 たった一日で人生が激変することもある。俺はそれを、身を以って知ることになった。

 俺の名前は我妻真詞<わがつま しんし>。市内の高校に通う17歳。人と変わっているところも持ち合わせているけれど、俺の日々は、平凡に過ぎていっている。朝起きて学校に行って、帰ってからは茶道と華道、それと武道の鍛錬、夜に勉強して、眠る。取り立てて変わったことはない毎日だ。
 その日は土曜日だった。学校は休みだが、朝練は欠かさない。着替えて道場に向かい、瞑想をしていると、母がやって来た。
「おはよう、真詞。今日も頑張ってるわね」
 俺に微笑みかけるこの人は、俺の義理の母親。とても優しくて面倒見の良い人だ。
「おはようございます、お母さん。いい日曜日ですね」
「ええ、本当に。ほら真詞、お茶を淹れたの。飲んでくれるかしら?」
「ありがとう、頂きます」
 母の淹れるお茶は美味しい。銘柄はよく知らないけれど、高級な茶葉を使っているようだ。淹れ方にもこだわっている。
 その美味しいお茶を啜っていると、お母さんは嬉しそうに言った。
「稽古は順調のようね。お父さんが言っていたわ。あなたは我妻流の後継者にふさわしいって。いつ免許皆伝でもおかしくないわね」
「そんな。俺にはまだ荷が重いです」
 俺を引き取ってくれたこの家は、我妻家という、由緒ある家柄だ。茶道、華道、武道の実力者を輩出し、それぞれの我妻流の家元だ。
 我妻家の8代目、つまり俺の義理の父親には、子どもがいない。そのため、孤児だった俺を引き取り、跡取りに据えることにした。俺はそれを承知で、この家の養子になった。俺を育ててくれている二人に報いるためにも、立派な9代目にならなくてはいけない。
 そのために、努力している日々である。
「本当に、真詞が来てくれて良かったわ。長い間続く我妻流の中でも、あなたは逸材よ」
「いえ、そんなことは……。それでも、俺しか後を継ぐ者が居ないんですから、頑張るだけです」
「本当にねえ。玲美も家を出てしまったし」
 母は、ほう、と溜息をつく。
「れみ? って、誰ですか?」
 それは初めて聞く名だった。
 母は、意外そうに俺を見た。
「あら、言ってなかったかしら。あなたの姉よ」
 姉?
 姉って、あの姉だろうか。きょうだいの。
「……俺に姉がいるんですか?」
「ええ」母は頷く。「私の娘よ」
「お母さんと、お父さん――8代目ご頭首の?」
 母は、「もちろん」と頷いた。
 頭に電撃を受けたかのようなショックだった。俺は立ち上がり、後ずさった。
「えええええ!? そんなの初耳です!」
「そうだったかしら」
「そうですよ! お二人に子どもが居ないから、我妻流を継ぐために俺を養子にしたんですよね? 7年も前に!」
「正確には、玲美が家を出たからなのよ。玲美は我妻流の正式な跡取りだったけれど、もうここには居ないから」
 平然と話す母に、俺は唖然としていた。
 全然知らなかった。7年もの間、どうして誰も話してくれなかったのだろう。
 いや、それよりも――
「玲美さんは今どこに? 7年間、一度も音沙汰ありませんよね」
「あら。そういえばそうね」
 そんなこと些事だと言わんばかりの母。
 例えるなら、今日の天気を気にしているような気軽さ。娘のことを7年間忘れていたとでも言うのだろうか。俺はびっくりして、最初に何を訊けばいいのか思いつかなかった。
 とりあえず、一番知りたいのはこれだ。
「玲美さんは、どうして家を出たんですか?」
 失礼な質問だったかもしれないが、動転していたので、気が回らなかった。母は、にっこり笑って答えた。
「〝しんし〟様にお仕えしているの」
「真詞……って、俺ですか?」
「いいえ。英国紳士の〝紳士〟よ」
「イギリスへ奉公に?」
「イギリス出身でもないと思うけれど。そもそも人間じゃない方だから」
 え?
 人間じゃない?
 母は天然系の人だが、話の意味はわかる人だ。人間じゃない? それって何の比喩だろう。
「……我妻家では人間じゃないものは何を意味するのでしょう?」
 仕方なく訊いてみた。
「何だったかしら。悪魔か精霊か妖精か」
 俺の頭に激震が走った。
 母の冗談だろうか。でも、こんなにさらっと冗談を言う人でないことは、7年間共に過ごしたので知っている。
「ともかく、玲美は紳士様に貰われて行ったの。今ごろ素敵なお屋敷で、素敵な紳士様のお世話をしているわ」
 俺はもう、何ひとつ尋ねられなかった。


        *


 母の話を整理するとこうだ。

・俺には姉がいる。
・名前は玲美。我妻流の正式な跡取り。
・彼女は、俺が来る前に『紳士様』のところへ行ってしまった。
・『紳士様』は人間ではない。

 ああ、訳がわからない……。
 俺は、もっとわかりやすい説明を求め、父の居る和室に赴いた。
「真詞です。入ってもよろしいでしょうか」
 中から、入りなさいと声が返ってきた。俺は襖を開け、中に居た和服姿の厳格な父を見て、何となく安堵する。
「訊きたいことがあります、お父さん。俺には玲美さんという姉がいるのでしょうか?」
 父は髭をさすり、頷いた。
「玲美か、懐かしいな。お前から見れば、玲美は義理の姉にあたる」
「!」
 母の言っていたことは本当だった。
 本題はここからだ。
「あの……、お母さんが言うには、玲美さんは家を出て、その……人間じゃない方にお仕えしているとか」
 おずおずと父を見る。
 父は、深く頷いた。
「まさしくその通り。真詞、お前が来る前に、玲美は紳士様に見込まれて、紳士様の屋敷へ行ったのだ」
「え」
 くらっと眩暈がした。
 まさか……まさか、父まで認めるなんて!!
 いや、もしかして、仕えているのは本当なのかもしれない。でも問題は!
「紳士様とはどういった方なのでしょう? お母さんが言うには、その――」
 父は「ふむ」と腕を組んだ。
「何だったか……。聞いたのだが忘れた。由緒ある悪魔だったかな?」
 俺の理解力は限界を越え、卒倒した。


             *


 屋敷の門はとても高く、悠に2メートルを超えていた。
 俺は、鉄格子のあいだから中を覗いた。
「うわー、広い」
 庭園が見える。噴水と、休憩所らしきものもある。テレビでしか見たことのない、外国の屋敷が目の前に広がっている。
「ここ日本だけど……」
 この敷地、どれくらいあるんだろう。
 この屋敷は、町から少し離れた、丘の上に建っている。町から30分歩いてようやく着く場所だ。
 姉が居るという衝撃の事実を聞いてから一日。俺は早速、義理の姉に会いに来た。彼女が仕えているという、『紳士様』の屋敷へ。
 父と母から、紳士様の居場所を聞くのは大変だった。二人とも憶えていなかったからだ。
「何処から来たんだったかな? 彼は」
「さあ。そういえば、あの町だったかしら」
 と、母の微かな記憶を頼りに『あの町』までやって来た。
 駄目元で町の人間に話を聞くと、人々はあっさりと言った。
「ああ、紳士様ならあの丘の上の屋敷だよ」
「そういえば紳士様、最近姿見ないねえ」
「そうだな、もう何年も見ないな」
 俺は驚いた。人間ではない『紳士様』は、町の人たちと上手くやっているらしい。
 信じられない。人智を超えた存在が存在することも信じられないし、それを簡単に受け入れているように思える人々も謎だし、もう何に驚いていいやらわからない。
 そういうわけで、日曜日の昼、俺は紳士様とやらが住む屋敷へ辿り着くことができた。
「ここに、姉が……」
 巨大な屋敷。俺の通っている高校の何倍あるのだろうか。
 7年前、紳士様とやらに見込まれて以来、姉は一度も連絡を寄越していない。両親は欠片も心配していなかったが、どう考えても尋常じゃない。
「姉さんが取って食われていたらどうしよう」
 俺は我妻玲美という人に話を聞きたいのに。
 ともあれ、ここでのんびりしていても仕方がない。意を決して、俺は呼び鈴を鳴らした。インターフォンではない、呼び鈴だ。こんなので中まで聞こえるのだろうか。
 返事がない。もう一度鳴らしてみる。反応なし。もう一度。
 繰り返していると、足音が聞こえた。こちらに近付いてくる。
 ようやく姿が見えた。門越しに居たのは、青い髪の、とてつもなく綺麗な人だった。しかし性別がわからない。少年っぽさもあるし、少女らしい愛らしさもある。
「一度呼べば聞こえる。うるさい奴だ」
 声も綺麗だ。俺はその子の綺麗さに見とれて、その言葉の乱雑さにしばらく気付かなかった。
 ハッとして気付いたときには、その子が呆れた目で俺を見ていた。
 用件を伝えなければ。
「はじめまして。突然お邪魔したご無礼をお許しください。電話番号がわからなくて、連絡を取れず……。俺は我妻真詞と言います。姉の、といっても義理の姉ですが、我妻玲美に会いに来ました」
「ワガツマ、レミ?」
 相手は顔をしかめる。
「ここに居ると伺ったんですが……」
「知らないな。ちょっと待っていろ。紳士様に聞いてくる」
 ふわりとした衣服を翻し、その子は屋敷へ向かっていった。
 青い髪。あの子は日本人じゃないんだろうな。というか、人間じゃないのかもしれない。
 俺は鞄から写真を取り出す。
 両親から受け取ってきた、我妻玲美の写真だ。
 18歳の頃の、紳士様の屋敷へ赴く前のものだ。部活の大会で優勝した記念に撮ったもの。溌剌とした笑顔の、なんとなく好感の持てる人だ。
 生きているならば、今、25歳。
 俺は姉さんに会えるのだろうか。

 しばらく待っていると、またあの子がやって来た。
「待たせたな」
「いえ……」
「紳士様は寝起きだ。あまり時間をとらせるなよ」
「あ、すみません。昼に起きる方なんですね」
 時刻は午後12時半だ。
「私が目覚めたのは3日前だ」
 新たな声が聞こえた。
 その声を聞いて、俺と話していた少女だか少年だかわからない子が、一歩退いた。
 黒いタキシードのような服が目についた。それから帽子とステッキ。
 これが、紳士様?
 金髪に碧眼、綺麗な顔立ち。宝石みたいな瞳が、俺をとらえた。
「神聖な寝起きの時間を邪魔するとは、礼儀のない人間だ」
 不機嫌そうな声で、『紳士様』が言った。
「すみません。あの、俺は――」
「まず名乗れ。それが紳士的なルールというもの。私は紳士的でない人間とは会話をしない」
 今名乗ろうと思ったのだけど。
 気を取り直して、名乗ることにした。
「俺は、この屋敷に居る玲美という人の弟です。姉に会いに来ました。俺の名前は――」
「屋敷に居る、『レミ』?」
 紳士様は眉をひそめる。
「はい」
「知っているか、シンカ」
「知らない。紳士様」
 さっきの子の名は『シンカ』というらしい。シンカは可愛らしく首を振った。
「ということは、お前は嘘をついたことになる。嘘は紳士的ではない。私は紳士的でない人間は容赦しない。よって、私はお前をいたぶることにする」
 紳士様のステッキが振り下ろされ、門越しに先が俺に向けられる。
「ちょっ……待ってください! 本当なんです!」
 俺は慌てて写真を取り出し、紳士に見せた。
「この人です! あなたが『紳士様』ならご存知のはずです。7年前に、この屋敷に来たはずなんです!!」
 紳士様は少し表情を変え、写真に見入った。
「……見憶えはある」
 ホッとして、俺は肩を下ろす。少なくとも、姉を知っているなら、嘘ではないと信じてもらえそうだ。
「レミ……ワガツマか。思い出したぞ。我妻玲美だ」
 何だか『我妻玲美』の発音に違和感がある。紳士様が外国人――どころか人ではないからだろうか。
「シンカ。我妻はどこへ行った?」
「私はその人間を知らない」
「そうか。それでは仕方ないな」紳士様は腕を組む。「さて、我妻はどこへ……。この城を離れているとも思えんが」
「あの」意を決して、俺は発言する。「姉と最後に会ったのは、いつ頃なんでしょうか……」
「ふむ。少年、今の西暦を述べよ」
「2020年ですが……」
「私が最後に我妻に会ったのは、2013年8月10日のことだ」
「え、それって」
 簡単な引き算だ。姉が屋敷へ来たのは7年前。
 ということは。
「屋敷に来た年じゃないですか!!」
「騒ぐな。やかましい」
「姉は!? 一体どこへ」
 この『紳士様』に耐えられず逃げ出したんじゃないだろうか。どうもこの紳士様、性格に難ありのようだ。
「7年前のあの日……」紳士様の回想がはじまる。「私は深い眠りについた。そうして目が覚めたのは3日前。私はあらゆる記憶を忘却していた。憶えていたのは、自らが尊い存在であることのみ。そして」
 紳士様はシンカを見る。
「側に居たのは、私と同時に目を覚ました、このシンカ。シンカ、何か憶えていることはないのか?」
「全然だ。私は、7年前には存在していなかったと思われる。何故なら、私には3日前からの記憶しかない。自分が何者であるかすらわからない。名も持たなかった」
「じゃあ、シンカという名は、紳士様がつけたんですか?」俺はシンカに微笑む。「可愛い名ですね」
「私の〝臣下〟という意味だ」
 紳士様がさらっと言った。
「………」
 由来はあまり良いものではなかった。
「ところで」紳士様が言った。「私にもやはり記憶がない。憶えてはいるが上手く思い出せないのだ。少年」
「あ、ハイ」
 紳士様は、再びステッキを俺に向けた。
「私の名を思い出せ」
「はい?」
「喉元まで出掛かっているのだが、思い出せない。私の代わりに思い出せ。さあ早く」
「え……ええ!?」信じられない要求に、俺は慌てる。「あの、俺はあなたの名前を知りません。思い出すなんて不可能です!」
「無力な人間が、私の命に逆らうか。いい度胸だな」
「逆らってません! 異議を申し立てて――」
「それを逆らうと言うのだ。愚か者」紳士様が俺を睨む。「大体、私はお前の名を聞いていない。名を名乗らん野蛮人の相手など、もう飽きた。消えるがいい」
 ステッキの先が、ほんのり光る。
「光栄に思え。私に消されることを」
 光が、眩しいくらいになる。
 殺される!?
「待ってください名乗ります!! 俺は我妻真詞、行方不明の姉を探しに来ました!」
 ステッキの先の光が弱まる。
 格子越しに、紳士様の顔が近寄った。
「シンシ? 貴様の名はシンシというのか」
「はい……」
 俺の声は脅えて震えている。今にも倒れそうだ。
 紳士様はにやりと笑った。
「『紳士』の名に免じて赦してやろう。私は紳士的な人間を愛する」
「……」
 ステッキは、俺から離れる。
 何だかわからないけれど、助かったらしい。
「心臓が縮んだ……」
 俺は胸を撫で下ろす。姉を探しに来てひどい目に遭った。
「ところで人間」
 まだ話は続くらしい。紳士様が俺に言った。
「何でしょう?」
「何故私の姿が見える? 人間には見えぬはずだが」
「さあ……知りません。でもちゃんと見えますよ。その帽子も、ステッキも、立派な衣服も」
 紳士様は少し考えた様子で、俺の顔をじっと見た。
 それはもう、じっと。
 見つめられている。
「あの……近いんですけど」
 格子越しとはいえ、頭突きができそうだ。
「これは珍しい。貴様、『盟約者』か」
「めいやくしゃ?」
「しかもこれは、なかなかに高貴な文字。何者と盟約を結んだのだ?」
「え、盟約?」
 そんなものを結んだ憶えはない。紳士様は、一人納得した様子だ。
「どんな望みを頼んだのだ? 代償は『Me.』か。さて何だろうな」
「Me? あ、それは俺の――」
 瞼の文字。
 俺が普通の人たちとちょっと違うこと。それが、左眼の瞼に刻まれた文字。それは薄く、それほど目立たないのだが、確かに『Me.』と読める。
 そして不思議なことに、その文字は俺の他に誰も見えないという。
「不完全な盟約だな。成立していない。だから私の姿が見えるというわけか」
「???」
 全く訳がわからない。
「シンカ。あなたなら知ってるんですか? 盟約者って何です?」
 紳士様は埒があかないので、シンカに尋ねてみた。
「さあ。私もよく知らない。私には3日前からの知識しかないのだから」
 恐ろしく綺麗な瞳で俺をとらえ、シンカは答えた。
 『盟約者』の意味を紳士様に問いただしてみようと、「あの」と声をかける。
「真詞」
 が、先に紳士様に呼ばれた。
「何ですか?」
「〝紳士〟の名を持ち、我妻玲美の弟であるならば、私の屋敷に入る資格を与えよう。心置きなく我妻を探すが良い」
「俺に探せと?」
「そのためにここを訪れたのだろう?」紳士様はにやりと笑う。「この展開は貴様の望む通りのはず。心置きなく探すがいい」
 ギィィと音を立てて、門が開いた。
 格子で区切られていた視界が、いっぺんに広がる。
 池に、バラ園みたいな一角に、何よりも広くて巨大な屋敷。
「……俺一人で、ここで姉を探せと?」
「シンカを貸してやろう。二人で探すと良い。言っておくが、私のコレクションを壊したら、そのときは奈落の底に突き落としてやるぞ」
 高笑いする紳士様。
 そのまま俺に背中を向けたので、慌てて引き止めた。
「あの、紳士様!」
「何だ」
「7年前に、姉は確かにここへ来たんですよね。そして、7年間姿を見ていない」
「その通りだ」
「一般的に考えて……7年も一人でこの屋敷に居るはずはないと思うのですが……。ええと、つまり、屋敷の外とか」
 でもそれなら、実家に戻っていてもいいはずだ。姉は何処へ行ってしまったのだろう。
 紳士様は、当然のように言ってのけた。
「我妻がこの屋敷から離れるはずがないであろう」
「その理由は?」
「彼女は自ら望んでこの屋敷へ来て、尊い私の側に置かれることを喜んでいた。屋敷から出るはずがない」
 微塵も疑いのない口調で紳士様が言いきった。
 この人には、常識が通じない!
 どう考えても、7年間屋敷の外に出ないなんて有り得ない。屋敷を出て、何処かへ行ったに違いない。
「もしかして……屋敷を捜索したら、姉の行き先のヒントがあるかもしれない」
 俺は単純に、我妻玲美という義理の姉に会ってみたい。そして訊いてみたいことがあった。そのために、あまり深く考えずにここまで来た。
 しかし今は、義理の姉の消息が本気で心配だ。7年間、実家に一度も連絡を入れず、何処に居るのだろう。
 最悪、あの紳士様に取って食われてしまった可能性だってあるのだ。その場合、紳士様は惚けているのか、憶えていないことになるが。
「真詞」シンカが俺を呼んだ。「姉を探すんだろう。紳士様の命により、手伝ってやる。行くぞ」
「あ、ハイ」
 シンカがすたすた歩いて行く。いつの間にか紳士様は居なくなっていた。
「綺麗な屋敷ですね。7年間放置されていたとは思えない」
 草花は優雅に咲き誇っている。あらゆる季節の花々の、一番綺麗なときだ。華道をたしなむ俺は、思わず見惚れた。
「紳士様の力だ。この屋敷は、紳士様の力で守られている。花々も、建物も、全て紳士様が造られたもの。この私も」
「シンカもですか?」
「そんな気がするだけだ」
 俺の肩よりも小さいシンカ。隣に並ぶと、とても華奢で可愛い。きっとこの子は人間ではないんだろうと思った。人間離れした綺麗さを持っているから。
 シンカは立ち止まって俺を見た。
「どこを探す? お前の姉だ、心当たりはないのか」
「姉と言っても、会ったことはないんです。姉は俺の存在を知りませんし……。とりあえず、屋敷の中を一通り案内してもらえませんか?」
 シンカは目を細め、じっと俺を見た。
「え、何ですか?」
「おかしな奴だ。私に敬語を使ってどうする。お前は客で、私は〝臣下〟なのに」
「俺は誰にでも敬語なんです。おかしいですか?」
「いや、悪くない」
 そう言って、シンカは少し笑った。その笑みは、少しの人間らしさを含んでいた。
「そうだな、まずは屋敷の中を探してみよう。姉の顔はわかるんだな?」
「はい。こういう人です」
 俺は、我妻玲美の写真をシンカに見せた。
 シンカは不思議そうな顔をした。
「見憶えがある」
「え、本当ですか? でも、シンカは3日前からの記憶しかないんじゃ……」
「そう思っていたんだが」シンカは俺に写真を返す。「私も寝起きで、頭がハッキリしていない。色々と勘違いをしているかもしれない」
「3日も前に起きたのに、寝起きなんですか?」
「これでもかなりハッキリしてきた方だ。目覚めた私に、紳士様はシンカと名を与えた。そして、紳士様の世話をするよう仰せつかった。それが、私の役目だ」
「へえ……」
「まあ、そんなことはどうでも良い。付いて来い、真詞」
 シンカは庭を歩いて行く。
 俺もその後を付いていった。屋敷の大きな門の前に立つと、シンカが大きな扉を開けた。
「うわ…」
 息を呑んだ。
 映画でしか見た事がない、宮廷みたいだ。
 中央に大きな階段。俺の部屋の幅くらいありそうだ。沢山の部屋。色とりどりの装飾品。どれもが輝いて、たった今造られたようだった。
 シンカは物怖じせず、すたすた歩いて行く。
「お邪魔しまーす……」
 一応断って、シンカの後を付いて行く。
 高い天窓から光が見える。かくれんぼが出来そうな大きな柱。
 何だか、清涼で、綺麗な場所だ。
「こちらが客間だ」
 一階のドアを、シンカがあける。中は、黒革のソファー、ふかふかの絨毯の高級な部屋だ。
「うわあ、綺麗なところですね」
 壁が一面ガラス張りになっていて、庭が見えた。シンカと通ってきた道が見える。
「姉を探すんだろう?」
 シンカに本題に戻された。
「そうでした。でも、どう見ても姉は居ませんし、痕跡もありませんね」
 この屋敷自体、人の気配がしない。本当に姉はこんなところに居たんだろうか。
 客間を出て、次に案内されたのが、紳士様のコレクションの部屋だった。
「紳士様がこの屋敷に入れたんだ。ここにも入っていいだろう」
 その部屋は地下にあった。
 花瓶、万年筆、古書、ドレス……物はバラバラだが、調和がとれているように見えた。
 俺は、その品数に圧倒された。
「すごい……。一体幾つあるんですか?」
 それらはガラスケースに入っていたり、棚に陳列されていたり、部屋中びっしりと品で埋め尽くされている。
「さあ、幾つあるのか……。ここが紳士様のコレクションルームだ。ここにお前の姉が紛れている可能性は十分ある」
「紛れて……いるはずないでしょう。ここにあるのは、全部物で――」
 ふと目線を移し、それと目が合ったとき、俺は全身に鳥肌が立った。
 一瞬、死体かと思ったのだ。
 でも違った。それは、部屋の片隅の人形だった。アンティークドールだ。少女と少年が二体。とても美しく、思わず見惚れた。
 シンカはドールに近付いて、ドールの真ん中のスペースに手を置いた。
「私はここに置かれていたらしい。憶えているわけではないが」
「置かれていた?」
 シンカは振り返り、綺麗な瞳で俺を見た。
「私は紳士様に命を与えられた人形(ドール)だ。紳士様にこよなく愛され、紳士様にお仕えするために、紳士様に動かされている」
「えっ、『人形』……。そうか道理で」
 人間離れした綺麗さだと思った。言われてみれば、無機質とも言える表情は、人形に由来しているように思える。
 でも時折、人間らしさも垣間見える。命を持った人形は、こんな感じなのだろうか。
「このコレクションルームは紳士様の大事な部屋だ。紳士様が、盟約によって人間から奪い取った大切な品なんだ」
「盟約によって?」
「紳士様のような人にあらずの存在は、人間と盟約を結ぶことができる。これらは人間に力を貸す代わりに、代価として得たものだ」シンカの表情が変わる。「大抵は、人間のエナジーを奪うのが普通だが、あの紳士は変人だ。こうやって品を集めるのが好きなんだよ。私のことも、コレクションの一つとしてしか見てはいないんだ」
「……あれ、シンカ?」
 何かおかしい。シンカが違う。口調も表情も。
 ハッとして、シンカは俺を見た。
「? 私は何故紳士様を貶すようなことを?」
「さあ、俺に訊かれても」
 深層心理が出たんじゃないかと言おうと思ったけれど、やめた。
 シンカは不思議そうに首を傾げた。
「やはり目が覚めていないようだな。しっかりしなくては」
 頭をふるふると振って、シンカは話を戻した。
「さて。お前の姉は恐らく、紳士様のコレクションの一つだ。この中に紛れてはいないか?」
「姉がコレクション? そんな、だって生きている人間ですよ」
「生きていようがなかろうが、関係はない。紳士様の持っている基準は、美しいか美しくないか。美しいものはコレクション、そうでないものはガラクタだ」
「……恐ろしい存在ですね、紳士様は」
 まさか生きた人間をコレクションとして――例えば剥製なんかにするはずはないと思うけれど……いや、あの紳士様だ。有り得るかもしれない。
 このコレクションの中に、もしかして姉が。
 必死で探すことにした。あの写真の、溌剌とした少女がこんなところでコレクションにされているなんて、あってはならない。
「見付けたいけど、ここで見付けたくない……複雑ですね」
「ここに居るなら死んでいるということだからな」
 シンカも探すのを手伝ってくれている。彼女の手袋が汚れないか少し気になった。
「あれ……うーん……」
「どうした、真詞」
 呻る俺の側にシンカがやって来た。
「この箱、開かないんです」
 ちょうど棺みたいな形の箱だ。体躯の小さな人間であれば入ることが可能な大きさ。
 全力で開けようとするが、びくともしない。
「駄目だ……開かない」
「退け、真詞。私がやる」
「無理だと思いますよ。すごく固いから」
 シンカは蓋に手をかけ、力をこめた。
 ギィと音がして、難なく蓋が開いた。
「えっ……ええ!?」
「人間は居ないな」
 中身は装飾品がぎっしり詰まっているだけだった。いや、それよりも。
「シンカ。その箱を開けるにはコツが?」
「私は『人形』だ。人より力が強い」
「…そうなんですか……」
 すごく華奢で、今にも折れそうな細い腕なのに。外見に不似合いな怪力だ。
「玲美は見つからなかったな。他を探そう」
「あ、ハイ……」
 人ならぬ者の屋敷は、理解し難いことばかり。
 平常心を保てるのか、不安になってきた……。

         *

 シンカに連れられているうちに、この屋敷内で姉を探すのは不可能に近いことに気が付いた。
「広い!!」
 一日かかっても、全てを回れなさそうだ。広い廊下で、シンカが振り返った。
「そんなのは最初からわかっていたことだろう」
「あの、我が儘を言うようですが、少し休憩させてもらえないでしょうか……」
 必死に姉を探し、体力を消耗してしまった。そろそろ息が切れてきた。
「人間は軟弱だな。……ああそうか、人間には疲労というものがあった。気が付かなくて悪かったな」
 シンカは引き返して俺に近付いた。
「どうすれば回復できる?」
「休ませてもらえれば」俺は少し微笑む。「ここで座っているだけでも」
「食事はどうだ? それは人間の体力回復手段に入るのか」
「ええ、勿論。あとは眠ることでしょうか。でも、眠っている時間はありません」
「では食事としよう。あと少し歩け」
「はい」
 少し重くなってきた足を引きずりながら、シンカに付いていった。
 よく考えたら、この屋敷の食事って何だろう。人間が食べられるものはあるだろうか?
 シンカは俺を二階に連れて行った。その大きな扉を難なく開ける。
 ふわりと、気持ちのいい風が届いた。
 そこは、白い部屋だった。
 壁は一面棚になっていて、グラスや皿、装飾品が並べられている。
 奥にはベランダがあり、ベランダへの扉が開いている。その手前に、丸いテーブルと椅子。
 テーブルには洒落た料理が並んでおり、椅子には――

「どうした。我妻が見つかった報告に訪れたのか」
 あの紳士様が居た。
 思わず後ずさった。が、シンカが扉を閉めてしまったので、もう逃げられない。
「見つかっていない」シンカは答えた。「真詞が疲れたので休憩だ。ここに居ていいか? 紳士様」
 紳士様の目が俺を向く。
「えっと、何でしょう?」
 俺をじろじろ見て、紳士様はパチンと指を鳴らした。
 身体に違和感を感じてふと目を落とすと、俺の衣服が変わっていた。
「えええ!? 何ですかこのタキシード!」
「我が屋敷に足を踏み入れるのであれば、正装するのがルールだ。下賎な格好で近付くな」
「俺の服は……」
 紳士様は答えず、カップを傾ける。優雅な午後のひととき、といった様子だ。
「真詞。椅子があいている。座れ」
 シンカが俺の背中を押す。
「確かにあいてはいますが……」
 紳士様の真ん前の席が。
「真詞が疲労している」シンカが言った。「そこに座らせて良いか、紳士様」
「構わん。〝シンシ〟の名を持つ者ならば赦そう」
 赦されてしまった。
 引き下がれなくなって、俺は「失礼します」と紳士様の前の席に座る。シンカは俺の後ろに立った。
 紳士様が飲んでいるのは紅茶だった。飲む仕草も優雅だ。客観的に見て、紳士様はとても美しい。シンカとはまた違った、人間離れした綺麗さだ。
 その碧眼が、俺をとらえた。
「私の名は思い出せたか? 真詞」
 まだ言うか。
 俺は首を振った。
「貴方の名を、俺は知りません。…そうですね、『紳士』なら英語では『ジェントル』ですけど」
「早く思い出せ。どうにも居心地が悪い」
「とても場に馴染んでいる様子ですけど」
 シンカが、棚からティーカップを取り出し、紅茶を淹れてくれた。「ありがとう」と言って、俺は恐る恐る飲んでみる。
「あ、美味しい……」
「午後の茶は、紳士にとって大切なひとときだ。おろそかには出来ん。不味い茶のはずがない」
 紳士様はお茶を味わっている。俺も紅茶を飲んだ。この屋敷に来て、初めて少し気を抜けた。
「紳士様……。お願いがあります」
「何だ?」
「あなたの力で、姉を探すことは出来ませんか? この屋敷内を、俺とシンカだけで探すのは無理です。何年もかかりそうで」
「かければいい」
「姉の安否が心配ですので……。それに、俺なんかがこの屋敷に居ては場違いです」
「まあ、それは一理ある」紳士様はカップを置いた。「だが真詞。我妻を探してどうしようと言うのだ。会ったところで連れ戻すことは出来ん。彼女は望んで私のところへ来たのだから」
「いえ、連れ戻すつもりはありません」すぐに否定して、俺は続ける。「ただ、訊いてみたいんです。姉に……我妻流を継ぐことについて。俺と違って、姉さんは生まれたときから我妻流9代目を継ぐことを義務付けられていました。それについて、姉さんはどう思っていたのかと」
「訊いて何が変わる?」
「俺の人生が、少し変わりそうで」答えて、俺は微笑む。「最近、疑問に思うようになってきたんです。俺なんかが我妻流9代目を継いでいいのかって。勿論、武道も茶道も好きだし、継ぐつもりで養子に入ったんですが……それ以外の道というのも、あるかもしれないと」
「つまらんな」
 俺の考えを、紳士様はあっさり切り捨てた。
 ちょっと傷付いた。
「そうですよね……俺にとっては、重大なことなんですけど」
 もう苦笑するしかない。紅茶を飲み干して、俺は言った。
「姉が家を出たのも、もしかして我妻流を継ぐことが本当は嫌だったのかもしれないって、勝手に想像して……。俺はそれを訊くために、ここへ来たんです」
「継ぐのが嫌だからでは、まるで逃げてきたみたいだな」シンカが言った。「玲美はここへ逃げてきたわけではない」
「あれ、シンカ……。姉さんのこと知ってるんですか?」
 意外な発言にびっくりした。
「さあ?」シンカは首を傾げる。「紳士様、どうも私は調子が悪いようだ。先ほども、紳士様を侮蔑するようなことを口にしてしまった。人間と違って、休むことは私には出来ない。どうやって回復すればいい?」
「シンカ。お前は私が造った完璧な人形だ。壊れることなど有り得ない」自信満々に紳士様が言った。「7年間動かしていなかったからだろう。動いていればそのうち戻る」
「私は7年前に造られた?」
「ああ……そうだった。今思い出したぞ」
 紳士様はにやりと笑い、立ち上がる。
「私のコレクションの中でも最高級のドール。これをお手伝いにしようと、私が決めた。確かそのときには、隣に我妻も居たはずだ」
「……私は憶えていない」
「そのうち思い出すだろう」
 シンカの綺麗な髪に、紳士様の指が触れる。何とも絵になる二人組だ。
「真詞。体力は回復できたか?」
 シンカが訊いた。俺は頷いた。
「先ほどより随分と。もう大丈夫です。ありがとう、シンカ」
「礼を言われることはしていない。では行くぞ」
「あ、その前に」俺は止めた。「訊きたいことがあります。盟約って何ですか? シンカは言っていましたよね、紳士様のコレクションは盟約によって集められたものだって」
「美しいコレクションであろう」紳士様が笑う。「盟約は、人と我らの繋がりだ。我々は、人のエナジーで体力を回復したり、力を蓄えたりできる。エナジーを受け取る代わりに、我らは人の望みをひとつ叶える。それが盟約」
「悪魔との契約みたいなものですね」
「悪魔などと下賎なものと一緒にするな。我らは尊き存在だ」
「悪魔じゃなきゃ、何ですか? 妖精?」
「言っても理解できぬだろう、人間には。それよりも」
 紳士様は俺に近付き、俺の左瞼に触れた。思わず目を閉じる。
「何ですか?」
「我らは、人間のどこからでもエナジーを吸収できる。髪、血液、それに感情からでも。基本的に、人間はエナジーの塊だ。どこからエナジーを取るか、それは我らと人間が話し合って決める。それを、忘れないよう、人の身体に記しておくのだ。貴様は〝Me〟で始まる何かを、我らに与えたはずだ」
「Me……」
 紳士様の瞳に、俺が映る。
 困惑している俺が。
「盟約を結んでいないのに、文字を刻まれることは?」
「あるかもしれぬな。大体、貴様に刻まれた文字は薄い。非常に不完全な盟約だ。恐らく、貴様の望みはまだ叶っていないのか、貴様が代価を払っていないのだ」
「………」
 誰にも見えない、俺の左瞼の文字。
 〝Me〟
 もしも盟約を結んだのなら、俺は何を望んだんだろう。人ならぬ者は何を叶えようとしたのだろう。
「盟約者となった人間は、我らを見ることが出来る。私を見られて運が良かったな、真詞」
「運が良いかは意見が分かれるところですが、俺が盟約者ってことは本当のようですね」
「〝Me〟か……。どこの言語かも判然としない。解明するのは難しいな」
 紳士様はあまり興味がなさそうだ。
 俺は、自らの瞼に刻まれた文字がずっと気になっていた。もしかして、実の親に虐待されていたんだろうかとか、色々考えたものだ。誰にも見えないことも不思議だったし、ずっと胸のしこりとなっていた。
 盟約……中途半端な盟約ってなんだろう。お陰で紳士様と話ができるので、有難いは有難いのだが。
「あ。姉さんも盟約者だったんですか?」
 ふと気付いて訊いてみた。
「いいや。我妻は私と盟約を結ばなかった」
「でも、紳士様の姿は見えたんですよね?」
 盟約者でなければ見えないと言ったのは紳士様だ。
 紳士様は、「ふむ」と腕を組む。
「そういえばそうだな。どうしていたんだったか……ああ、そうだ」
 紳士様はちらりとシンカを見た。
 次の瞬間、紳士様の姿が消えた。
「え!? 何処へ――」
「こっちだ」
 紳士様の声。
 振り向くと、そこにはシンカしか居ない――が、どうもシンカの様子がおかしい。
「思い出したぞ。我妻と私はこうして会話をしていた」
「紳士様、邪魔だ」
「こうして人形の中へ入り、人形を動かしていたのだ。勿論、麗しい人形を選んで」
「これでは紳士様に仕えられない。不利益が大きい」
 唖然とした。
 シンカの表情がコロコロ変わり、口調も変わる。
「シンカの中に、紳士様が?」
「人形を動かすのであれば、我妻と会話ができる。村の人間や、我妻の親ともこうして会話したものだ。良いアイディアであろう」
 不意にシンカがカクンとうな垂れた。
 紳士様が、元の位置に立っている。
「これで良いであろう、シンカ。私に仕えられる」
 シンカは顔を上げ、紳士様を見た。
「良いわけない……。何故私が」
「うん?」
「私が……」
 辛そうな顔で呟いて、シンカは首を振る。綺麗な髪が揺れた。
「いや……問題ない。大丈夫だ、紳士様」
「ふむ。どうも本当に調子が悪いようだな」
 紳士様は不思議そうにシンカを見ている。
「調子が戻るまで真詞と遊んでいるが良い。真詞にシンカの世話を命じる」
「えっ俺が?」
「紳士様……。『臣下』は世話をするべき存在であって、世話をされる側ではない」
 シンカが拒否するが、紳士様は首を振った。
「私には劣るが、お前は尊い存在だ、シンカ。その美しさは最大の存在理由。真詞をお前に仕えさせることに、何の問題があろう」
「俺の意思は無視ですか?」
「それでも……やはり、世話をされるというのは心地の良いものではない」
「ふむ。そうか」
 シンカが断って、俺は助かった。
「私は玲美の捜索に戻る。紳士様の命だ、遂行せねば」
「俺一人でいいですよ、シンカ。調子が悪いんだったら休んでいてください」
 シンカは不服そうに俺を見た。
「気を遣うな。私は人間と違って、休んでも回復はしない」
「少しは変わるかもしれません。俺のことは気にしないで――」
「真詞を気にしているのではなく、紳士様の命を気にしている」当然のようにシンカが答えた。「行こう。大丈夫だ、無理はしないと約束する」
 そう言って扉を開けるシンカの背中が小さく見える。
 人形(ドール)は疲れない。でも、壊れることはある。死ぬことはできるのだ。
 シンカは、「紳士様の命だ」と退かない。
 ならば、早く姉を見付け出し、その命を解けばいい。
「…行きましょう。シンカ」
 俺は再び、シンカと姉捜索を始める。


        *


 我妻流の跡取りとなることを決めたのは、今から7年前のこと。
 その頃の俺は、ひどい喪失感に心を喰われていた。一日中ぼーっとして、頭が働かなかった。
 そんな俺に養子の話が舞い込んで、それに飛びついた。少しでも自分を変えたかった。喪失感を埋めたかった。勿論、我妻流にも興味はあった。が、それ以上に、喪失感から逃げ出すのに必死だった。
 俺が何を失ったのか、実はわからない。感覚しか残っていないから。
 俺が失ったもの。
 それこそが、盟約で人ならぬ者に取られてしまったものかもしれない――

「シンカ。紳士様って、眠るときは何年も眠りにつくんですか?」
 俺とシンカは庭を捜索していた。オブジェの裏を調べたり、池を覗いたり。
「いいや。そもそも眠る必要なんて無い。眠ろうと思えば眠れるのだが――せいぜい人間と同じ時間だろう」
 シンカは庭園をきょろきょろと見回す。麗しいシンカに、花園はよく似合った。
「じゃあ今回は特殊なんですね。どうして7年も?」
「……」
 シンカは暫く黙って、それから口にした。
「何か大変なことがあった気がする」
「え?」
「あまり……思い出したくない」
 シンカは俺に背を向ける。
 悪いことを訊いてしまったかもしれない。シンカはこっちを振り向かない。
 7年前。
 姉が屋敷に来てから、何があったのだろう。
 ふと、シンカが顔を上げた。シンカの目線は門の方向。
「誰か来たようだ」
「…客人ですか?」
 草を掻き分ける手を止めて、シンカは門へ歩いて行く。どうしようか迷ったが、シンカとはぐれるのも困るので、付いていった。
 近付くと、確かに見えた。
 門の外に、少年が居る。年は俺と同じくらいに見える。
「お知り合いですか?」
 シンカは驚いて振り向いた。
「見えるのか」
「えっ……」
 見えてはいけないものだったのか? 俺はちょっと怖くなる。
「あれは悪魔だ」シンカが答えた。「中級クラスだな。わかりやすい」
「あれが悪魔?」
 言われてみれば、髪の色は薄い赤色だし、こちらを見ている眼は鋭い。でも、どう見ても人間なのだが……。
「盟約者となると、悪魔も見えるようになるのか――いや」シンカは一度、言葉を切る。「真詞と盟約を結んだ奴の力か。紳士様が言っていた、真詞に刻まれたのは『高貴な文字』だと。そいつの力が強大なのかもしれない」
「………」
 俺は左瞼に触れる。
 〝Me〟は一体何を表している?
「オイ、お前ら」
 中級悪魔が声を発した。
「私のことか」
 シンカが答える。
「この屋敷の中の主を出せ。俺はそいつに話がある」
「紳士様に会いたくば、正装して来い。でなければ紳士様はお会いにならないぞ」
「訊きたいことがあるだけだ」悪魔はにやりと笑う。「やっとここに辿り着けた。この屋敷の中に、俺のものが眠ってるはずだ。そいつが本当にここにあるのかどうか――あるなら、絶対に取り返す」
 自信満々な悪魔。
「シンカ……」
 俺は心配になってきた。悪魔という存在は、すごく怖いものでは?
「たまにあなたみたいなのが来るけど――あいつは自分のコレクションを他人に渡す気はない。それが、あなたの持ち物だったとしても。超が付く傍若無人なんだ。諦めな」
「え、シンカ?」
 またおかしくなってしまったらしい。シンカはハッと気付いた。
「何故傍若無人などと……? 悪かった、訂正する。紳士様は強くて凄い私の主だ」
「訳わかんねえ」
 中級悪魔は吐き捨てる。
「とにかく、紳士様の認めた者でなければその門は通れない。ここは紳士様の力で造られた屋敷だ。中に入れなければ、物も取り返せない。諦めることだ」
「諦めねえ。俺は絶対に!」
 中級悪魔は、大きな門を蹴り飛ばす。
 ギィ。
 門が動いた。
「あれ」
 中級悪魔から勢いが消えた。悪魔もシンカも呆然とした。
 悪魔は足を使うのをやめて、手で門を押した。
 ギィィィ。
 開いた。難なく。
「……シンカ。開かないんじゃなかったんですか?」
「おかしいな」
 シンカは可愛らしく首を傾げる。
 ふっ、と悪魔が嗤った。
 それから片手を上げたと思うと、ものすごい突風が地面をえぐり、土が割れた。
「ええええ!?」
 俺は慌てて避け、難を逃れた。
 砂煙が舞う。割れた大地は、悪魔の力の強さを物語っている。
 俺の隣のシンカも、ちょっと驚いたみたいだ。
「……説明しよう、真詞。今の状況は、とてもまずい」
「言われなくてもわかります!!」
 悪魔はにやりと笑い、俺たちに近付く。
「ふふふ……」
 その右手が、また振り上げられようとしている。
「とりあえず逃げますか?」
「あの攻撃から逃げられると思うか? 可能性はとても低い」
 シンカはちらりと俺を見た。
「観念するか。真詞」
「俺まだ死にたくありません!」
 叫んだとき、風に乗って、花の良い香がした。
「騒々しい。これは何の祭りだ」
 振り返ると、俺たちの後方にあの紳士様の姿があった。
「紳士様!!」
 俺とシンカが同時に叫んだ。
 紳士様は、悪魔に気付くと眉根を寄せた。
「無礼者め。私の屋敷に土足で踏み込むとは、赦せぬ行為だ」
 紳士様が現れたことに気付いた悪魔は、ぴたりと動きを止めた。
「……お前がここの主か」
「無礼者の質問に答える義理などない。早く立ち去れ」
 が、悪魔は帰る素振りは見せない。逆に、紳士様に一歩近付いた。
「俺の名前はイディ。ここに俺の槍があるだろう。槍を返せ!」
「シンカ。休憩だ、茶を淹れよう」
「わかった、紳士様」
「俺を無視するな!」イディが叫ぶ。「わかった、じゃあ力ずくだ!」
 イディが大地にバン!と両手をつく。
 途端、地面がひび割れ、屋敷の門まで深い穴が開いた。
 屋敷に向かおうとしていた紳士様の足が止まる。
「……神聖なる我が領土に攻撃を仕掛けたな。命知らずめ」
 紳士様が振り返る。その、纏った強烈な負のオーラに俺は後ずさる。これじゃどっちが悪魔かわからない。
 紳士様の手の中で、ステッキがくるくる廻る。
「覚悟はできているな、下等悪魔。私の庭を傷つけた罪は重い」
「やる気か。いいぜ……その前に槍を返してもらう!」
 イディが右手を高らかに上げる。
 屋敷の一室が光った――と思ったら、その部屋の窓ガラスがパリンと割れ、窓ガラスを割って出てきたそれが、イディの右手に飛んできた。
 イディはそれを上手くキャッチする。
「俺の『魔槍』……。ずいぶん探したぜ。これがないと落ち着かなかったんだ」
 その長い槍は、イディの身長くらいあった。悪魔イディはそれを軽々と振り回す。
「槍を取り返したんだから、もういいじゃないですか……」
 俺はこっそりと進言した。
 が、紳士様がそれを拒否した。
「それは私のコレクションだ。返せ、下等悪魔」
「え!?」
「ふざけんな、これは俺の武器だ。お前、これを何処で手に入れたんだよ!」
「盟約によって人間から奪ったのだ。大体、人間に武器を盗られるお前が悪い。それを返せ。物干しに丁度いいのだ」
「なっ……これの何処がだ、馬鹿野郎!」
 イディと対峙する紳士様は、しれっと返せと言い張る。それは自分のものだと。
「……何でだろう。あの悪魔の言い分が正しいような気がしてきた」
 もう、どっちを応援していいやらわからない。とりあえず成り行きを見守ることにして――隙を見て逃げよう。ここに居たら巻き添えになりそうだ。
「槍が欲しけりゃ、俺を倒してみやがれ!」
 悪魔の槍の先が、紳士様を向いた。
 紳士様は余裕で笑う。
「この私に勝負を挑むか。面白い。では、紳士的に貴様を潰してやろう」
「こっちの台詞だ!」
 イディが高く飛び上がる。それから、紳士様に向かって急降下する。
「私は寝起きだ。手間をとらせるなよ」
 ふわりと、紳士様が避ける。
 紳士様のステッキの先が光り、その光がイディに向かって突き刺さる。イディはそれを食らったが、大したことないと言わんばかりに笑い、高く振り上げた槍を振り下ろした。
「紳士様!!」
 砂埃の合間から、紳士様の姿が見える。
「まだ生きてやがるか!」
 槍を持ったイディが、紳士様に突進する。
「ふむ。力が出ないな」
 紳士様はそれをかろうじて避ける。
「……なんか、押されてるような」
 俺は木の陰から見守っている。
「おかしいな。紳士様の力はあんなものじゃないんだが」
 シンカは不思議そうな顔をしている。
 攻撃を仕掛ける悪魔イディ。それを避けているだけの紳士様。たまに攻撃をしようとするが、イディはへっちゃらだ。
「負けそうじゃないですか? 紳士様」
「……おかしい。変だ」
 シンカが段々と真剣な顔になる。
 イディの攻撃を避け、紳士様の帽子が宙を舞う。
「――そうか」紳士様がこっちを見た。「わかったぞ。燃料切れだ。私は7年も眠っていた。この屋敷を維持するのにエナジーを使っていて、戦う分のエナジーが無いのだ」
「だったら、燃料を補給すれば良い」
 シンカが俺をじっと見る。
 何だか嫌な予感がしてきた。
「あの、シンカ……?」
「行って来い」
 シンカが、俺の腕をがっしり掴んだ。……と思った次の瞬間、俺は投げ飛ばされていた。
「う…わあああ――っ!」
 飛ばされた俺を、紳士様がキャッチする。
 ふと目を開けると、俺の目の前に、槍を持った悪魔が立っている。
「殺されに来たか、人間? 酔狂だな」
「ち、違いますっ」
 俺は勢いよく首を振って否定する。
 イディがにじり寄る。
「少しエナジーを寄越せ、真詞」紳士様が言った。「返しはしないが」
「えっ……」
「あの下等悪魔をひれ伏させるだけのエナジーを、少量貰い受けるだけだ」
 紳士様がにやりと笑う。
「ええと……」
「今さら遅いぜ! 滅びろ、この似非紳士!」
 イディの槍がこちらに向かってくる。
 紳士様の目が、光った気がした。
「今、何と?」
 紳士様は俺を引っ張ったまま、かろうじて槍の攻撃を避けた。
「今何と言ったのだ、下等悪魔」
「この気取った似非紳士!」
 俺を掴む紳士様の手に、ぎゅううと力が入る。
「い、痛い……です……」
「貴様は今、この世で最も下賤で、最も醜い言葉を口にしたのだ」
「何度でも言ってやるぜ、似非紳士」
 イディが吐き捨てる。
「馬鹿、やめなさい」シンカが慌てる。「その言葉は、決して口にしてはならない禁断の言葉。殺されるよ!」
「殺せるもんなら殺してみろ!」
 優勢で調子に乗ったイディは、再び槍を紳士様に向ける。
「紳士的に手加減してやろうと思ったが――やめだ」
 紳士様は俺を見て、その指先を俺に向ける。
「盟約を結ぶぞ、真詞」
「え?」
「お前が私に与えるのは――そうだな、『感情エナジー』にしよう。私からも、お前に何か与えねばならん。願いを言ってみるがいい」
「願い?」
「余所見してんな!」
 槍を持ったイディが突っ込んでくる。紳士様はまたしても避けた。
「時間がない。早く答えろ」
「この状況で願いなんて!」
 砂埃が目に入る。間近で爆音を聞いて、耳がおかしくなりそうだ。
 何でもいい、この状況から逃れられるなら!
「俺……俺は、姉さんに会いたい!」
 紳士様が、ふっと笑った。
「いいだろう。盟約成立だ」
 その指が、俺の額に触れる。
 何か描かれている。
『Em.』
「『想い(Emotion)の盟約』。真詞の想い、貰い受ける!」
 紳士様の指先が、俺の額から離れる。
 不意に、気持ちが安らいだ。あれだけ怖かったのに、まるで気持ちを抜き取られているように。
「『恐怖』は私には不似合いだな。まあ、エナジーには違いない。今回は我慢するとしよう」
 何だか、少しも怖くない。おかしいな。こんな危機的状況だっていうのに。
「感情を吸い取られたんだ」シンカが言った。「人間の感情エナジーを動力源にしたというわけ。基本的に、あいつはエナジーがないと動けない。迷惑な存在だな」
「え……」
 シンカ。この表情。
 俺、見たことある……?
「立てる?」
 シンカが近寄って、俺に手を差し伸べる。
 違う。シンカじゃない。
「あの、あなたは……?」
「?」彼女は首を傾げる。「私は、わ――」
 そのとき、俺たちのすぐ側で物凄い音がした。また、砂埃で視界が遮られる。
「ちょっと、静かに!」
 彼女が不満げに言った。
 槍を持ち上げたイディ。が、攻撃を仕掛けた先に紳士様は居ない。
「どこ行った?」
 イディが気付くより少し早く、俺は紳士様の位置に気付いた。
 イディの真上!
 が、気付いたときにはもう遅い。イディは紳士様の足の下に居た。どうやって踏みつけたのか、人間の俺の目では見えなかった。
 イディはじたばた暴れるが、紳士様は平然とイディを踏みつけている。
「てめ……踏むな!」
「下賎なものには素手で触れたくないのだ。こうするしかないだろう」
「ふざけるな――っ!」
「黙れ、愚か者」
 紳士様のステッキが、イディの頬をぐりぐりと押す。ちょっと痛そうだ。
「やめろっ」
「貴様のごとき愚か者はこの世に存在してはならない。消し去ってやる」
「!」
 ステッキの先が光る。俺が攻撃されかかったときと同じだ。
「やめろ、わかった! 俺の負けだ!」
「だから何だ?」
 紳士様が冷酷に笑う。
 ステッキが、振り下ろされる――
「ジャスティ!」
 今にもイディに当たろうかというステッキは、しかし寸前で停止した。
 紳士様が、こちらを振り向く。
「私の前で殺生はやめてくれる?」
 紳士様を止めたのは、俺の隣のシンカだった。
 紳士様は、シンカを見て少し笑う。
「そうか――そこに居たか。我妻」
 紳士様はステッキを振り上げ、ひらりとイディの背中から降りた。
「慈悲深い我妻に感謝するがいい。今回ばかりは見逃してやろう。私は今、機嫌が良い」
 紳士様の拘束から逃れたイディは、痛そうに背中をさすって立ち上がる。
「くそっ……仕方ねえ!」
 イディは紳士様に脅えながら、猛スピードで屋敷から出て行った。
 助かったらしい。
 庭園には、さっきまでの静けさがまた戻っている。
「〝そこに居たか〟じゃない! 私をここに閉じ込めたのは誰だと思ってる。ようやく全部思い出せた」
「良いではないか。その姿、大変に麗しい」
 紳士様はシンカの髪に触れる。
 シンカは不満げに紳士様を睨みつけ、身を引いてパンチを繰り出した。
 紳士様はそれを軽やかに避ける。
「面白い愛情表現だな、我妻」
「これの何処が愛情表現だ! 大体、私がいつ妻になった? 妻呼ばわりするな!」
 シンカは身軽に攻撃を繰り出すが、紳士様は笑いながら避ける。シンカは本気で怒っているようだが、紳士様は楽しそうだ。
「ええと……?」
 取り残された俺は、戸惑った。もう戸惑うしかない。
 ふと、俺とシンカの目が合った。
 彼女は攻撃をやめる。
「我妻……真詞?」
「あ、ハイ」
 俺は背筋を正す。
 シンカが、ふっと笑った。
「私の弟。はじめまして。こんな形の対面でごめんなさい」
「え、弟?」
 シンカはにこりと笑う。いや、シンカじゃないんだ、この人は。
 だとしたら、俺を『弟』と呼ぶのは――
「玲美。狭い。私を押しのけるな」
 彼女の表情が『シンカ』に戻る。
「ごめん。でもちょっと貸して。ようやく私の意識が取り戻せたんだから」
「私の意識はどうなる。だが、これで私の調子が悪い理由がわかった。玲美が入っていたからだ。つまり、玲美が出て行けば調子は戻る」
「わかった。身体を見つけたらすぐ出て行く」
 紳士様がシンカに入ったときのようだ。シンカの表情が変わり、独り言のような会話をする。
 俺はようやく理解した。
「つまり、シンカの中に姉さんが存在しているわけですか?」
 シンカは頷いて肯定した。シンカなのか、姉さんなのか、両方なのかわからないけど。
「一体どうして――」
「あの馬鹿紳士のせい」
「玲美。紳士様を馬鹿とは何事だ」
 姉さんの言葉にシンカが怒る。
「我妻は人間だ。そのうち壊れる」紳士様が言った。「人形の中に居れば、麗しく、そして朽ちない。究極の美だ。私は、試しにシンカの中に我妻の魂を移してみたのだ」
「それが7年前。眠りにつく直前のことね」
「ああ……思い出してきた」紳士は深く頷く。「シンカを作って2日後のことだった。我妻をシンカに入れてみた。シンカと我妻の人格が混在する様も、面白いものであった」
「今の状態だな、紳士様」
 紳士様はシンカを見て、にこりと笑う。
「私の名も思い出せたぞ。真詞」
「ハイ」
 紳士様は威厳に満ちた声で言った。
「アルジエイド=ジャスティ。これが私の名だ。親しみを込めて『主(アルジ)』と呼ぶがいい」
「え、主?」
「それは主君を呼ぶ名なのだろう? 丁度いい」
「いや、俺は貴方の家臣じゃないので……」
「何と」紳士様は驚く。「真詞。貴様は私に仕えるのを拒否するか」
「ええと……そもそも、何故仕える必要があるのでしょう」
「それが世の理だからだ」
 紳士様がしれっと言った。
 常識が通じない。それは、紳士様が人間ではない所為なのか、元々の性格なのか……。
「あれ。そういえば、さっきから何か引っ掛かってる気がするんですけど」
「私の偉大さについてではないのか?」
「違います。そうじゃなくて、もっと別の」
 俺は腕を組んで考える。
「まあいいじゃない」玲美姉さんが俺に笑いかける。「今日は疲れたでしょう? 何回も死にかけて。休んだ方がいいよ」
「我妻もこう言っている。屋敷で休む許可を与えよう、真詞」
「誰が妻だ」
「あ、それです」俺はハッとした。「妻って、姉さんの愛称なんですか? 我妻の『妻』」
「違う」姉さんがうんざり顔になる。「この紳士、私を妻呼ばわりするの。鬱陶しい」
「妻って、その、奥さんの妻ですか?」
「そうだ」紳士様が答える。「我が妻、玲美。私の妻だ」
 頭がくらっとした。
 姉さんが、
 この『紳士様』の妻……?
「私は否定し続けてる。勝手に言ってるだけ」
「それが愛情の裏返しであることは手に取るようにわかるぞ、我が妻」
「何て自分勝手な理屈!! 私は絶対に妻になんてならない!」
「玲美。紳士様に歯向かうな。早くも夫婦喧嘩か?」
「何てこと言うのよ、シンカ!」

 ……ああ、何だかもう、俺の頭はパンク寸前。
 たった一日で。
 今日会ったこの人たちによって。
 俺の人生は急展開、右から左に方向転換。猛スピードで突き進む。
 このときすでに、そんな予感がしていたんだ――

 
 目の前に無尽蔵に広がるコレクションの山。
 俺たちはこれを、端から探っていっている。一昨日からずっと続いている作業だ。

「しかし溜め込んでますねー、アルは。これ、全部が人間から集めたコレクションなんですか?」
 部屋の端でガタンと音がする。姉さんが、コレクションである棚の扉を開けたのだ。
「全部じゃないと思うけど、殆どは人間からだよ。恐ろしい数だよねー」
 棚の中は空っぽ、何も入っていなかった。
「ここもハズレだな、玲美」
「ホントね」
 姉さんとシンカが溜息を吐き出した。
 俺の名は我妻真詞。今、姉さんの身体を探しています。

 三日前。
 姉さんとの衝撃の対面(?)を果たした後、俺の額に刻まれていた(らしい。俺は見ていないけど)Em.の文字は消えた。アルは俺からエナジーを得て、俺は一応姉さんと対面を果し、盟約が完了した。完了すると、刻まれた文字は消えるのだ。
 イディとの対決後、ボロボロになった庭は、俺のエナジーを使ってアルが直した。それから、屋敷に結界を張り巡らせ、イディみたいな悪魔が勝手に入れないようにした。
「俺のエナジーちょっと取っただけで、そんなことまで出来るんですか?」
 そのとき俺は訊いてみた。
「燃費がいいのだ」
 アルはさらりと言った。人ならぬ者が『燃費』なんて口にすると思わなかった。
 それから俺たちは、屋敷に入り、話し合った。
 議題はシンカと姉さんについて。
 7年前、アルの悪ふざけから、シンカの中に姉さんの意識が入ってしまった。今、人形のシンカの身体には、シンカと姉さん二人の意識が存在している。
「我が妻の意識を戻すには、身体がなければならん」
 アルはそう言って、ふと腕を組んだ。
「そういえば――我が妻の身体はどこだ?」

 …アルは、姉さんの身体がどこにあるかわからないという。そういうわけで、俺たちは姉さんの身体を探している。

「あの変態紳士~…」
 姉さんは怒りながらアルのコレクションを引っくり返している。
「もう一度確認します、姉さん」俺は手を止めた。「アルは、姉さんの身体から魂を取り出し、シンカの中に入れた。姉さんのその姿が気に入ったアルは、姉さんの身体をどこかに隠し、身体に戻れないようにした」
「そう、よく憶えてる。シンカと私のこの姿を見てご満悦だった」
 姉さんは眉間に皺を寄せて怒っている。姉さんと言っても、姿はシンカだけど。
「玲美。早く探そう。どうも心地よくない」
 今度はシンカが出てきた。今、シンカの身体を二人で共有している状態だ。
「身体を見つけて、こんなとこ出てってやる」
 人形になった姉さんは怪力で、コレクションを次から次へと確認し、投げ飛ばしていく。
「あ~もう、無いっ」
 俺は、かねてから疑問に思っていたことを訊くことにした。
「姉さん。水を差すようで悪いんですけど――」
「何?」
「7年も放っておいたら、人間の身体って、その――…無事じゃないんじゃないですか?」
 姉さんの手がぴたりと止まる。
 振り返った姉さんは、目つきが険しかった。
「……それは言っちゃいけないわ、真詞」
「すみません……気になってて」
「死体になってるかもしれないって言いたいんだよね? それも、死体を7年も放っておいたらどうなるか、私にだってわかる。でも見つけないと気持ち悪いんだもん」
「はい。俺も奇跡を信じて姉さんを探します」
「奇跡ね」
 俺と姉さんは、再びコレクションと向き合う。
 こんなせわしない状態なので、姉さんに聞きたいことを、俺はまだ訊けずにいた。そもそも俺が屋敷へ来たのは、姉さんの安否確認と、姉さんに聞きたいことがあったからだ。俺はまだ目的を果せずにいる。
「駄目、見つからない……」姉さんはうな垂れる。「ちょっと休憩しよっか、真詞」
「そうしましょう。俺、お茶淹れますね」
「いいよ、私が淹れる。身体探すのに付き合ってもらっちゃってるし」
「いえ、俺に淹れさせてください。紅茶は我妻流にはありませんけど、茶道も学んでるので」
 俺と姉さんは、そうして連れ立ってコレクションルームを出た。
 アルの屋敷は広く、何処を見てもアルの趣味で満たされている。この屋敷はアルの力で成り立っている、彼の巣窟なのだ。
 その、屋敷の主であるアルジエイド=ジャスティは、庭で午後の紅茶を愉しんでいた。
「我が妻、我が家臣。私に会いに来たのか」
「違うっての」姉さんがズバッと言った。「休憩。全然見つからないの、私の身体」
「難儀だな。もう見つけなくて良いではないか? そのまま人形の中に入っていれば、朽ちず衰えず、良いことづくめであろう」
 姉さんがカチンと来たのがわかった。
「誰のせいだと…! ちょっと変態紳士。私の身体を隠したのは貴方なんだから、私の身体を見つけなさい。一緒に探すよ!」
 アルはのんびりと紅茶を飲み、カップをテーブルに置いた。
「仕方ない。妻の我侭、たまには聞いてやることにしよう」
 そう言ってアルは立ち上がる。
 姉さんは眉間に皺を寄せ、思いっきり不満そうな顔で俺を見た。
「…真詞。私は何か我侭を言った!?」
 俺は首を振った。
「いえ、姉さん……。俺からすると、今のは真っ当な要求です」
「だよね!?」
 アルはもう俺たちから離れ、城に向かっていた。俺と姉さんはその背中を見つめる。
「…真詞が来てくれて良かった。私一人じゃ、あの変態紳士のペースから抜け出せない」
「俺が居ても変わらないと思いますが……」
 俺はアルの『家臣』、姉さんは『妻』。アルの中ではそういう位置づけだ。
 そもそもの発端は、7年前、アルがこの国にやって来て、姉さんと会ったところからだ。
 アルは姉さんに興味を示し、なんと『妻』として屋敷に迎え入れることに決めてしまった。周囲の人々(我妻家の両親然り)を上手く説き伏せて、アルは姉さんを城へ攫ってしまった。
「あの日、私、声が出なかったんだよね」
 姉さんは悔しそうに話した。
「喉痛めちゃってさ。身振り手振りですっごい拒否してんのに、どういうわけかそれが肯定にとられて、両親も親戚一族も泣きながら私を見送ったわ」
 決死の覚悟で嫌だと叫んでも、誰にも届かなかったという。俺は姉さんを哀れに思った。
 姉さんは何度も何度も屋敷から逃げ出そうとしたという。その度にアルに見つかり、連れ戻されてしまう。
 そんな中、アルの戯れで、悲劇が起こる。
「〝臣下として人形を作った〟って言ったのよね。それが、今の私の容れ物になってる『シンカ』。そしたらアルの奴、私とシンカを交互に見て――」
 アルは、姉さんの『魂』をシンカの中に移した。
 シンカの人格と、姉さんの心。二人が交互に喋り、身体を取り合う。面白いと、アルは大満足だった。
「元に戻せ!」
 姉さんは叫んだ。が、アルは聞き入れない。そして、あろうことか姉さんの身体を屋敷のどこかへ隠してしまった。
 シンカの中に入った翌日、姉さんは必死で自分の身体を探した。
 そのとき――

「急に眠くなったのだ」
 アルが言った。
 広い広い、屋敷の廊下。高い窓から日の光が覗く。
「それで私とシンカは動けなくなったわけ」姉さんが言った。「この人形の身体は、アルの力の供給によって動く。アルが眠って、供給が絶たれた。それで、私たちも眠った」
 7年間。
 アルと、シンカと、姉さんは深い眠りについていた。俺が訪れる少し前まで。
 そして起きたとき、寝起きの紳士様は記憶をなくし、シンカと姉さんもぼんやりしている状態だった。
 そんな中、俺が現れて、あんな大変な事態になったというわけだ。
「アルはいつも、そんなに急に眠るんですか?」
「そうではない」アルは否定した。「眠ることは自らの意志だ。が、あのときだけは、引きずられるように眠りについた。何か変だったな」
「私もそう思う、紳士様」そう言ったのはシンカだった。「あのとき私は怖かった。紳士様から力の供給が絶たれて、身体が動かなくなっていく一瞬のあいだ、ひどく怖かったんだ」
 暗い表情のシンカが、その恐怖を物語っている。俺にはよくわからないけれど、シンカが怖がっていることは理解できた。
 怖がっているシンカの表情ががらりと変わり、彼女は腕を大きく上げて伸びをした。
「まあいいか。こうして目覚められたんだし」
 姉さんが出てきたらしい。二人の人格は全く違うので、表に出る方が交代するとすぐにわかる。
「アル。姉さんの身体を捜しましょう」俺が言った。「憶えていないんですか? 何処に隠したのか」
「憶えていたら教えている」アルは俺をじっと見る。「人間には『縁』というものがあるのだろう? 姉弟の縁で探せ」
「無茶言わないでください。それに俺と姉さんは会ったばかりなんですから。アルの力で何とかならないんですか?」
 アルはふっと笑う。
「『アル』か……。なかなか面白い呼称だな」
 主と呼べと強制されて、俺が思いついたアイディアがこれだ。
「〝主〟の愛称、アル。可愛いですよね」
 俺がアルジエイド=ジャスティを『アル』と呼び、姉さんも同じように呼ぶようになった。俺たち姉弟の、紳士様の呼び方だ。
「玲美の身体を探すんだろう」シンカが言った。「早く見つけないと紳士様にお仕えできない。玲美は紳士様に尽くしてくれないからな」
「尽くすわけないでしょ。シンカ、貴女もあの紳士に仕えるのはやめたら?」
「拒否する。私は紳士様の人形(ドール)だ」
 姉さんが説得してもシンカは聞き入れない。シンカは、アルがお手伝い用に造った『人形』。シンカの性格も、アル好みなんだろう。
「あ、そうだ」俺は思いついた。「アル。俺と盟約を結んで力を蓄えたら、姉さんの身体を探せるんじゃないですか? 三日前みたいに――」
「そうだな。エナジーを補充しておくのも良い」アルはにやりと笑う。「それに、真詞……。貴様は中々良いエナジーの持ち主だ。良質だぞ」
「あ、はあ……」
「我が妻もだ。だからこそ、側において置こうと決めた」
「誰が妻だ」
 姉さんの目線は冷ややかだ。
「では真詞……」アルの指先が俺を向く。「感情エナジーを頂くぞ」
「あ、額はやめてください。なんか怖い……」
 俺が手の甲を差し出すと、アルはそこに『Em.』と文字を記した。
「姉さんの身体を探してください」
「心得た」
 俺の願いが了承される。
 そうして、俺の感情が抜き取られる。その感情から生み出されるエナジーが、アルのエネルギーとなる。
 そのエネルギーの一部を使い、アルは盟約者の願いを叶えるのだ。
 屋敷全体が、ボウッと明るくなる。
 あたたかな光。アル自身も眩しく光っている。彼は目を閉じ、集中しているようだった。
「力のある存在っていうのは確かなんだよね」姉さんが言った。「性格に難がありすぎだけど」
「それが大問題なんですよね」
 その性格に難ありな紳士様は、ゆっくりと目を開けた。
「姉さんの居場所、わかりましたか?」
 光が引いていく。アルはステッキをくるりと廻した。
「ふむ……。あそこか」
「あったの?」
 姉さんが期待を込めて訊く。
「見当はついた。どうする、我が妻。身体に戻りたいか?」
「戻れるような状態ならね」
「では見に行くとしよう。付いて来るがいい」
 アルはステッキを廻し、優雅に歩いていった。俺たちはその後を追う。
 着いた先は、広間の大きな鏡の前だった。俺たち三人の姿が映る、大鏡。
「この鏡が何か?」
 アルは答えず、鏡に手を伸ばした。
「えっ……」
 アルの腕が、
 鏡の中に……!?
 そのうち、腕だけでなくアルの身体の半分が鏡の中に入ってしまった。
 俺と姉さんは唖然とする。
「鍵(ロック)は解除した。人間でも入れるぞ」
 と、アルが手招きをするので、俺は恐る恐る鏡に触れてみた。
 腕が通る。
 痛くもなんともない、鏡という物質が無いみたいだ。
「真詞、大丈夫?」
 姉さんは心配そうにしている。
「平気です。俺、ちょっと行ってみますね」
 怖そうにしていた姉さんだったが、思いっきり首を振って、大きく息を吐き出した。
「私の身体なんだから、私も行くわ」
 まず俺が鏡の中に入った。眩しくて一瞬目を閉じる。
「うわ…」
 硬質な空間だった。
 壁も、天井も床も全てが銀色。正方形のタイルがその空間を作っている。
「何ここ」
 姉さんも驚いている。
「真詞。妻よ」アルが先で手招きした。「見つけたぞ」
 アルが示した先に、棺があった。宝石で彩られた、綺麗な棺だ。
「……ここに、私の身体が?」
 姉さんがアルに訊くと、アルは頷いた。
「開けてみるがいい」
「……」姉さんは恐る恐る棺に手を伸ばす。「自分の死体なんて、見たくないけど」
「死んではいない。仮死状態だ」
 アルがさらっと言った。
 姉さんの手は震えている。
「…俺が開けましょうか?」
「いい。開ける……」
 カチャリと音がして鍵が開く。
 ゆっくりと、棺の蓋が開いた。
 そこに横たわる、一人の少女。
「私だ」
 姉さんは大きく息を吐き出し、全身の力が抜けてへたり込んだ。
「良かったですね、姉さん。綺麗なままですよ」
 姉さんの身体は、アルに連れ去られた当時、18歳のときと全く変わっていなかった。目を閉じ、腕を組み、ワンピースを着て横たわっている。
「やっと見付けた、私の身体」
 姉さんは、身体に指を伸ばし、触れた。
「冷たっ」
「魂が入っていないのだ、温度は無い」
「アル。姉さんの身体、どうして7年前と全く変わらない姿なんですか?」
「この空間は時間の流れを遮断するのだ」アルが言った。「…まあ、遮断するというか、極端に遅くしているのだ。一年で一秒くらいだろう」
「無事だった……。良かった、ミイラになってたらどうしようって考えてた」
 姉さんは少し笑って、それからアルに言った。
「私を身体に戻して」
「考え直さないか、妻。その姿は大変に麗しい」
「絶対嫌。私は普通に年を取りたいの」
「私は玲美に賛成だ、紳士様」シンカが出てきた。「私は早く紳士様にお仕えしたい。玲美に出て行ってもらわなくては」
 二人に言われ、アルは渋々了承した。
「仕方あるまいな。では諦めるとしよう」
 アルはステッキを軽く上げる。
 シンカの身体が光った――と思ったら、その光が姉さんの身体の中に入る。
 ぱちっと、姉さんの目が開く。
「姉さん!」
 俺が呼ぶと、姉さんは起き上がった。
「戻った……」
「戻ってしまった」
 アルは残念そうだ。
「姉さん、大丈夫ですか?」
「うん、平気みたい」
 俺はこのとき初めて、姉さんの声を聞いた。少し低めの、優しい声。
 姉さんはハッとして、眉根を寄せる。
「真詞。アルは何処行った? 一発殴らないと気が済まない」
「アルならそこに――ああそうか。姉さん、身体に戻っちゃうとアルが見えないんでしたね」
 アルたち人でない者の姿が見えるのは、盟約者だけなのだ。
「ああ、残念だ。本当に残念だ」
 アルはそう繰り返している。
「私は本当に嬉しいわ」
 姿が見えなくても、アルの声は姉さんに届いているようだ。会話が成立している。
「紳士様。お待たせしてすまない」正真正銘のシンカが、アルに小さく礼をする。「これで、ちゃんと紳士様に仕えられる。いつでも命をくれ」
「シンカ。では茶を淹れてくれるか。私は少々落ち込んでいるようだ」
「了解した」
 シンカは頷く。
「アルでも落ち込むことあるんですね……」
「見えないのは悔しいな。そんなレアな姿」
 心なしか、アルの背中がしょんぼりしているように見える。よっぽど、シンカに入った姉さんを気に入っていたのだろう。
「茶の時間としよう」アルが言った。「真詞。我が妻。来るといい」
 その声に、少々元気がない。
 俺と姉さんは、目を合わせて笑う。
「はい。行きましょう、アル」
「しょうがない。一緒に茶を飲んでやるか」

 アルと初めて会ってから三日。
 何だかこの屋敷に馴染みつつある自分がいる。姉さんと同じく、俺もこの屋敷に囚われてしまったみたいだ。
 そんなことを考えながら。
 アルとシンカと、俺と姉さんの茶会ははじまる。

儚い瞳をした二匹の仔猫

儚い瞳をした二匹の仔猫


 人生において、カードを引かなければならない場面が何度かあると思う。
 たとえば、事故とか。当たりのカードを引いた人間は生還、ハズレのジョーカーを引いた人は、もう帰れないとか。
 カードを引く場面は、いつ訪れるかわからない。何回も引かなきゃいけない人間もいれば、そうでない人間もいる。
 それらは全て運。
 いきなりハズレを引いてしまう人もいれば、晩年になってハズレを引いて転落してしまう人もいる。

 私はその日、初めてハズレを引いた。

 目の前で起きたことが信じられなかった。その場は惨劇だった。真っ赤な血しか目に映らない。
 私は電柱にもたれて、息も絶え絶え、死の寸前だった。

――まだ意識があるのか

 誰かの声。
 私に語りかけている?

――生きたいか?

 生きたい……。
 生きて復讐を。
 仇を討ちたい。


――いいだろう……
  では、盟約を結ぶとしよう。

 メイヤク?

――俺は、お前の寿命を少し延ばし、仇をとる手伝いをしてやろう。その代わり、お前は俺に何かを差し出さなければならない。

 何でも持っていくといい……。
 私は今日、大切な人を失った。
 それでもまだ、差し出せるものがあるなら、
 全てを。

――いい覚悟だ。気に入った

 そうして私は、盟約者となった。
 真っ黒い死神が、私の寿命を引き延ばす。

 彷徨い、放浪する日々。
 私の側にはいつも黒い死神が。


「――時間を無駄に遣ったな」
 隣の死神が、私に語りかける。
 ビルの屋上から、さっきの現場が見えた。パトカーが集まってきている。
「無駄なんかじゃない。そろそろエナジーを補給しないといけないところだったし」
「まあ、それはそうか」
 死神は煙草が大好きだ。いつも吸っている。最初は煙たかったけど、もう慣れた。

「ところで」死神が切り出した。「手掛かりが絶えて3年になる。少し遠出をしないか」
「遠出?」
「アプローチを変えてみるんだ。人間を捜すのではなく、俺のような存在の力を借りる」
「いいよ。手掛かりが得られるなら縋る」
 私は立ち上がり、血染めの服を見つめる。
「その前に、これ何とかしないとね」
「ああ……。着替える必要があるな。あいつは礼儀にうるさい奴だ」
「わかった」
 死神は煙草の煙を吐き出す。
 それはゆっくりと、空に昇る。


「私はジョーカーを引いたってわけね」
 盟約を結んだ後、私は言った。
「そういうことだ」
 私を助けた死神は頷いた。
 だから、私は彼をそう呼ぶ。

「行こうか、ジョーカー。時間がもったいない」
 ジョーカーは、冷淡に言う。
「時間を惜しむ身体でもないだろう、ツキカ」
 私は首を振る。

「こうしてる間に、妹を殺した犯人が死ぬかもしれないでしょう?」


              *


「玉葱とー、ジャガイモとー、あと何が要るんだっけ?」
 カゴの中に食材が放り込まれていく。
「ウィンナーなんていいんじゃないですか?」
「あ、肉類欲しい」
 また食材が足される。
 そろそろカゴが一杯になってきている。
「それで、料理は誰が作るんですか? シンカが?」
「さあ。誰でもいんじゃない」
 姉さんは興味なさそうに言って、肉をカゴに放り込む。
 俺は我妻真詞。隣で食材を選んでいるのが、俺の義理の姉、我妻玲美。
 俺と姉さんは、麓の町のスーパーまで買出しに来ていた。
「それにしても、いきなりトムヤムクンが食べたいなんて、我侭言い放題ね」
「まあ、アルですから……。我侭言わないアルなんて、アルじゃないですよ」
 俺の自称〝主〟で、姉さんを妻と呼ぶ、アルジエイド=ジャスティ。彼の我侭のため、俺と姉さんはこうしてスーパーにいる。
 アルは人間ではない。人間と盟約を結び、人間のエナジーをエネルギー源とする存在だ。なので、基本的に食べ物を摂取する必要はないのだが、アルは三度の食事と午後の紅茶を欠かさない。
 買い物を終え、俺と姉さんは町を歩いた。
「あーあ、このまま逃げ出したいなあ」
 姉さんは本当は25歳。でも、見た目――というか、本当の本当は18歳。そんな複雑な事態になったのも、原因はアルにある。
「逃げ出しても無駄な気がします。見つかって連れ戻されそうで」
「正解。逃げられないのはわかってるんだ……」
 姉さんはしょんぼりする。
 脱走を企てても必ず連れ戻される。姉さんは、それを身をもって知っているのだ。
「せめて明るいことを考えましょうよ。ほら、動物園のパンダ、可愛いですよ」
 電気屋の店頭のテレビの一つを、俺は指差した。
 が、姉さんが興味を持ったのは、その隣のテレビに映るニュースだった。

 〝本日午前10時、永和銀行豊瀬木支店に銀行強盗が押し入る事件がありました。犯人は金を持ち出し、店の外へ出ると、道を歩いていた11歳の少女を人質にとりました〟

 テレビの画面に現場が映る。ここから三つ離れた県で起きた事件だった。
「銀行強盗なんてほんとにいるんだ。物騒だね」
「ですね。銀行じゃなくてATMを狙えばいいのに」
「だよねえ」

〝その時間の通行人の情報によると、犯人は、突然5メートル後方に突き飛ばされ、銀行の壁に激突。そのまま気を失いました。人質は、吹き飛ばされる前に犯人の手を離れており、無事でした〟

「突然、飛ばされた?」
 画面に映る、犯人がぶつかった壁は、ヒビが入っていた。
「突風でも吹いたんでしょうか」
「でも人質の女の子は無事だったんだよね。女の子も飛ばされそうなものだけど」

〝さらにおかしな事に、現場から10メートル離れた路上には、大量の血痕が残されていました。この血痕は、銀行強盗と何らかの関連があるのでしょうか――〟

「血だって、真詞」
「うわあ~、なんか謎めいてますねえ。その血の主はどこ行っちゃったんでしょう?」
「さあ……」
 テレビの中でコメンテーター達が言い合う。が、結局、結論は出なかった。
「あ、ヤバ。早く帰らないとアイスが溶けちゃう」
「急ぎましょう。溶けたアイスほど不味いものはないですよ」
 買い物袋を提げながら、俺と姉さんは家路を辿る。家路といっても、実家ではない。仮住まいをしている、アルの屋敷だ。
 信号が赤になり、横断歩道で立ち止まる。車が目の前を行き行き交っている。
「真詞さ、いつの間にか巻き込まれちゃってるけど、逃げたいとか思わない?」
 車を眺めたまま、姉さんが訊いた。
「うーん……思いますけど、抵抗しても無駄というか、多少興味があるというか……」
「興味? 何に」
 意外そうに姉さんが俺を見る。
「アルとか、盟約に。ほら、俺の眼の件がまだハッキリしてませんから」
「ああ、そっか……」
 俺に刻まれた〝Me〟の文字。
 俺は何かを差し出そうとした。そして、何かを受け取ろうとした。それが叶っていない、不完全な盟約。
 これがハッキリするまで、俺はアルから離れられない気がする……。

「青だよ」
 姉さんに声を掛けられ、我に返った。周囲の人たちが歩き出そうとしている。
「あ、ハイ。行きます」
 こちら側と向こう側から、人が行き交う。
 その、向こう側から来た二人組みに、不意に目がいった。
 金に近い茶髪の、カールがかかった髪の女の子だ。帽子をかぶって、黒い、ふわりとしたワンピース。
 彼女のすぐ後ろに、彼が居た。
 真っ黒のスーツに、真っ黒いコートに帽子。髪まで黒い。何だか異様だ。
「……」
 思わず振り返って眺める。
「真詞。赤になっちゃうよ」
 姉さんに腕を引っ張られ、横断歩道を渡って、もう一度振り返る。彼らはもう見えない。
「どうかした?」
「今の人たち、ちょっと変わってましたね。女の子の後ろに居た人なんか、この季節にコート着てましたよ。暑くないのかな」
「え?」姉さんは首を傾げる。「女の子って、さっきすれ違った茶髪の子でしょ。その後ろに、そんな人居なかったけど」
「いや、確かに居ましたよ。気付かないはずないですよ、あんな長身で目立つ人――」
 俺と姉さんは暫し見つめ合う。
「まさか」
「人じゃなかったんじゃないの?」
 俺はもう一度、彼らが去った方を見る。
 盟約者となった俺は、人ではないものの存在を見ることができる。だが、それが人かそうでないか、見分けることは難しい。
「姉さん……。あれ、悪霊だったんでしょうか」
「さあ……。そんなに悪そうなヤツだったの?」
「ええ、もう前科100犯みたいな」
 姉さんは顔をしかめる。
「あの子、取り憑かれてたのかな」
「そんな。じゃあ助けないと――」
 俺たちの前を行き交う車の群れ。
 もう、影も形も見えない。
「追うのは無理だね。仕方ない」
「………」
 人でないものの存在が見えるといったって、役に立ってはいない。見えたって、どうすることもできない……。
「ほら行こう、真詞。お腹すかしたアルが待ってるよ」
「……はい」
 買い物袋が、重くなった気がする。
 擦れ違っただけの二人が、頭から離れない。
 彼女が嵌めていた小指の指環が、きらりと光ったことも……。


        *


「オカエリ。真詞、玲美」
 屋敷に戻ると、シンカが出迎えてくれた。シンカは、アルの『臣下』でお手伝い。彼女の正体は人形で、人間離れした美しさを持っている。
「ただいま、シンカ。出迎えありがとう」
「気にするな。私は〝臣下〟だ」
 シンカは俺に向かって腕を伸ばす。どうやら、買い物袋を寄越せと言っているらしい。
「俺が持って行きます。ちょっと重いですから」
 が、シンカは譲らず、二つの買い物袋を俺から奪った。
「私は『人形』だから、重さを感じない。任せておけ」
 シンカは軽々と袋を持っている。さすが人形だ。
「シンカ、料理できるの?」
 姉さんが尋ねると、シンカは振り返る。
「紳士様にお仕えする者として、料理くらい出来なければまずいだろう」
 シンカは姉さんをじっと見る。
「え、何?」
「玲美も紳士様の妻なら料理の腕を磨け」
「!」姉さんは固まる。「シンカ……私がいつあの変態紳士の妻になった!?」
「紳士様がお前を妻だと決めたのだ。従え」
「従えるか!!」
 吼える姉さんに、シンカは諦めた。
「わかった、そんなに料理が嫌いなら、今は無理強いしないでおこう」
「私が嫌いなのは料理じゃなくて、あの変態紳士なんだけど」
 シンカはすたすた歩いて行く。
 俺と姉さんは、シンカに付いていった。
 この屋敷のキッチンは一階にある。シンカは手早くエプロンを着て、ものすごいスピードで野菜を刻み始めた。
「超速!」
「ていうか人間業じゃないですよ……」
 シンカの腕が見えない。フライパンと鍋二つがいつの間にか用意され、具材が放り込まれている。
 だんだんと目が廻ってきて、俺と姉さんはキッチンから出た。
「シンカは完璧なお手伝いだね。家に欲しいな」
「アルが造った人形ですからねー。でも、シンカはたとえ家事ができなくても、とても良い子だと思いますよ」
 紳士様のため、シンカは尽くす。さらにシンカは、俺たち姉弟にも優しい。

 カン、カン。

 音が聞こえた。小さな音なのに、確かに鳴っているのがわかる。
「真詞」
 シンカがひょいと顔を出した。
「どうしたんですか?」
「客だ。代わりに出てくれ」
「あ、もしかして今の、ドアを叩く音……」俺はドアを見た。「どうしてここまで入って来れたんでしょう?」
 この屋敷はアルの力によって維持されている。アルに認められた者でなければ、門を通ることは出来ない。
 それが、門を通り、庭を抜け、今、ドアを叩いている者がいる。
「私にもわからないが……」
「いいですよ、出てみましょう。また悪魔が来たら、アルが追い返すでしょうし」
「一応気をつけてね、真詞」
 姉さんの言葉に頷いて、俺はゆっくりとドアに近付き、開けた。
 その途端、ドアはぐいっと引っ張られ、ドアノブを握ったままの俺は前方に体勢を崩す。
「うわっ!?」
 が、俺は倒れなかった。何かに支えられた。
「え……」
 煙草のにおい。
 でも、決して嫌な香りじゃない。むしろ清涼さを感じるくらい……。
「失礼した」
 低くて太い声がした。
「あ…」
 俺の頭に蘇る、さっきの横断歩道。
 倒れた俺を支えたのは、あのときの真っ黒い男。
 それから、その男の後ろには、左手に指環を嵌めた彼女が居た。


        *


 アルは紅茶が好きだ。
 というより、午後のティータイムが生み出す雰囲気が大好きだ。その雰囲気こそ紳士的だと彼は信じているから。
 今日もアルは、『紳士的』を追及し、陽のあたる部屋で本を読んでいた。

「――三人揃ってどうした? 食事ができたのか」
 俺たちを見て、アルは本を閉じた。
「客だ。紳士様」
 シンカが言った。
「客?」
「紳士様の知り合いだと言っているが、通していいか?」
「名は何というのだ」
「無いと言っている。全身真っ黒の長身と、その連れの女だ。男の方は人間じゃない」
 アルは少し考え、シンカに言った。
「その二人組の服装は?」
「一応ちゃんとしている」
「では通すがいい」
 そう言ってアルは本に目を落とす。
「服装で決めちゃっていいんですか?」
 俺はこっそり姉さんに訊いた。
「アルにとっての不審者は、紳士的でない人間。判断が偏ってるの」
 何だか納得した。確かに、アルの判断は偏りまくり、もう修正不能だ。
 程なくして、シンカが二人を呼んできた。
 部屋に入った二人を見て、アルはちょっと驚いた顔をした。
「……闇か。貴様には見覚えがある」
 そう言ってアルは立ち上がる。
 視線は黒服の男。
「……久し振りだな、ジャスティ。元気そうで何よりだ」
 男は銜えていた煙草を右手に移す。
 彼の右手に、指環が嵌められていた。
「――ねえ、どんな男なの?」姉さんが俺に訊いた。「私にはあの女の子しか見えない」
「えっと、服装は真っ黒で、顔もちょっと険しくて……近寄り難いかんじです」
 近付いたら殺す、みたいなオーラが出ている。人でない人間がみんなこんな感じなら、見分けやすいのだけど。
 黒服の男は、アルに一歩近付いた。
「話がある。時間を作れるか?」
 アルは少し笑った。
「良かろう。久々に会った知人だ、無下に帰すことは出来ん。シンカ、茶の用意を」
「承知した」
 シンカは頷いて部屋を出て行く。
 広い部屋に、俺と姉さん、アルと謎の二人。
「真詞」
 突然アルに呼ばれて、慌てて「はい!」と返事をする。
「机を繋げて、それから椅子を持ってくるのだ。これから茶会が始まる」
「あ、ハイ」
 条件反射で動こうとして立ち止まる。これでは本当に家臣みたいだ。
「何をしている?」
 アルが俺を見ている。
「……アル。後で、俺の扱いについてじっくり話し合いましょう」
「扱い?」アルは眉をひそめる。「そうか。この私の丁重なもてなしへの礼を言いたいと」
「恐ろしく的を外しています。後で話し合いますからねっ」
 俺は駆け出し、机と椅子を探すことに翻弄した。幸いそれはすぐに見つかった。この屋敷は部屋数も多く、机と椅子などすぐに見つかる。
 重い机は、シンカが手伝ってくれた。
「すみません、手伝ってもらって」
「紳士様の命なら遂行せねば」
 机の片側を持つシンカの目が、じっと俺を向いている。
「? どうかしましたか?」
「…紳士様はずいぶんと真詞を気に入っているようだな。屋敷に入れて、さらに下働きをさせるなどと」
「気に入られてるんですか? 俺は」
「光栄なことだ」
「嬉しくないんですけど……」
 気に入られているにしては、待遇が悪いと思う。それともこれも、紳士様の愛情表現……なんだろうか。
「紳士様は人間が好きではないと思っていた。だがこうして、屋敷に人間を二人も招きいれている。私の考えには修正が必要かもしれない」
 シンカは難しい顔で考えている。シンカはいつも、紳士様のためを思っている。
 部屋にテーブルを運び入れ、シンカが料理を運び、茶会――というより食事会の準備が整った。
 俺と姉さんとシンカは当然に席を外すものだと思っていたのだが、アルにあっさりと言われた。
「何のために椅子とテーブルを運んだのだ」
 アルの命により、俺とシンカと姉さんも茶会に参加することになる。シンカは、食事を運んだり、茶を用意したりしている。
「何で私も?」
「俺にもわかりません」
 テーブルの上の銀食器、料理、卓上花。アルは満足そうに、食前のスープを味わっている。
「あの、アル……」俺は切り出した。「一体これはどういう……?」
 俺の言葉に、アルが手を止める。
「そうか、初対面であったな。闇。これらは私の妻と、その義弟だ」
「妻じゃないから」姉さんが否定する。「巻き込まれた一般人の、我妻玲美です」
 強い口調でそう言って、姉さんは食事に手を伸ばす。
 俺は口を開いた。
「ええと……、姉さんの義理の弟の、我妻真詞です。はじめまして……」
 二人の視線が俺を向く。
 アルが言った。
「これは盟約者だ。それも大層に不思議な」
 黒服の男の人が、俺をじっと見る。
 怖い。
 獲物をとらえた暗殺者みたいだ。
 恐怖を紛らわすために笑ってみたが、相手は微笑み返してくれなかった。
「……『Me』か。何を望んだ?」
「えっと、わかりません」
「わからない?」
 なんだか威圧的だ。俺は思わず謝った。
「すみません、本当にわからないんです。俺、盟約を結んだ憶えなんて全然なくて。気付いたらあったんです、この文字」
「闇。お前ではないのか」アルが言った。「真詞に文字を刻んだのは、力のある存在。お前は違うのか?」
「憶えはないな。大体、文字が消えずに残っているということは、盟約が完了していないということだ。俺は、結んだ盟約は必ず完了させている」
 アルは「ほう」と女の子に目をやる。
「今の盟約は何だ? その娘は盟約者であろう」
 ティーカップを置いて、彼女は口を開いた。
「私の名は月香(ツキカ)。復讐を遂げるため、ジョーカーと盟約を結んだ」
「ジョーカーとは、今の俺の名だ」男が言った。「月香が付けた。これからは俺をそう呼ぶといい」
 姉さんは『ジョーカー』の声が聞こえないので、ジョーカーの言葉は俺が伝えた。姉さんは頷いて月香を見る。
「復讐って、穏やかじゃないな。一体何の復讐?」
「……私と、妹の花香(ハナカ)の。その手掛かりを求めてここへ来た」
 月香はアルに視線を送る。
 その瞳からは、強い意思が感じられる。
 アルは月香と目を合わせて、少し笑った。
「我が名はアルジエイド=ジャスティ。私に何を訊きに来た? 人間の娘」
 一瞬の間のあと、月香が答える。
「私は、花香を殺した犯人を捜している。貴方なら、犯人を見つけることが出来る?」
 アルはちらりとジョーカーを見た。
「それを見つけるのは闇の役目であろう。何故私の手を借りる?」
 妹を殺した犯人を捜して欲しいという娘と、その盟約者。復讐を遂げるのが彼女の望み。
 その二人が、アルに協力を求めている。
 ジョーカーは、軽く右手を挙げた。
「見えるか?」
 その小指に指環が。
 アルの表情が変わった。
「……難儀な盟約だ」
 月香は左手を挙げる。彼女の小指に、ジョーカーが嵌めているのと同じ指環がある。
「その指環がどうかしたんですか?」
「これは私の生命維持装置。外せば短時間で私は死ぬ」
「嵌めていても、永遠に生きられるわけではないが」ジョーカーが言う。「難儀な身体だ」
「何故そんな面倒な盟約を結んだ? 闇よ」アルは頬杖をつく。「貴様にどんなメリットがあるというのだ」
「平凡な盟約には飽きた。これは俺の暇つぶしだ」
 ジョーカーの煙草の煙が、上へ上へと昇っていく。そのか細い煙が、どこか刹那的な二人によく似ていた。
「それで」ジョーカーが切り出す。「俺の力は、月香を生かすために使っている。犯人を追おうにも上手くいかない。お前なら、犯人を捕まえられるか? ジャスティ」
 頼むというより脅す眼で、ジョーカーが言った。
 アルは動じず、「ふん」と鼻を鳴らした。
「下らんな。何故私の力をそんなことに使わねばならんのだ」
「アル」姉さんが呆れた声を出す。「今の話のどこが下らないの。貴方の力を有効利用できる、いい機会じゃない」
「私の力は美のためにあるのだ。大体、結んだ盟約は自らの力で叶えるのが道理。私の力を借りるのは筋違いだ」
 玲美姉さんの顔が引き攣る。
 ジョーカーは、少しだけ笑った。
「確かに。失礼した、では俺の頼みは無かったことにしてくれ」
 隣の月香を見て、「すまないな」とジョーカーが言う。
 月香は静かに首を振った。
「ううん。無駄足なんてよくあること」
 月香は落胆の色を見せない。彼女は儚げで、そこに存在していることも危うく、今にも消えてしまいそうだ。存在している人間なのに。
「ではもう一つ話そう」
 ジョーカーが話を切り出した。
「ほう。何だ。今度は美しい話を頼むぞ」
 アルは欠伸をしている。
 ジョーカーは、煙草を口から外した。
「七年前のことだ。お前も記憶にあるんじゃないか?」
「七年前?」
「俺たちが消されかけた。憶えがないか」
 ぴくりとアルが反応する。
 そして、ゆっくりとジョーカーを見た。
「……消されかけたと言ったか」
 俺が見たことのない、真剣なアルの顔。姉さんも驚いているようだ。
「ああ」ジョーカーは頷く。「俺は死にかけた。恐らく、俺たちのような者全員がだ。七年前のあの日、思い出すだけで鳥肌が立つ」
「……」アルはゆっくりと口を開く。「私は抗いがたい眠りに誘われた。そして、目が覚めたのは――」
「七日前だ。紳士様」
 シンカが言い、アルは頷く。
「そう、七日前。私は消滅の危機に晒されていたというわけだな」
「俺は、一年後――つまり六年前に目を覚ました。が、完全に記憶を取り戻すまでに時間がかかった」
 ジョーカーは煙草をくゆらせ、さらに小声でアルに語りかけた。
「感じたか? 奴の意志を」
「……」アルは眉をひそめる。「オーランドか」
 話が見えない。ジョーカーの言葉を通訳して伝えると、姉さんも首を傾げた。が、姉さんはあまり興味がない様子だ。
「前回は失敗したが――」ジョーカーはさらに小声で話す。「いつまた消しにかかるかわからん。ジャスティ。その前に手を打っておかないか」
「手とは? オーランドを消そうとすれば我々は消える。大体、オーランドが何故我らを消そうとしたのか、理由もわからないぞ。消す必要など無いはずだ」
「それだ。俺は、今のオーランドの意志を知りたい。でなければ、きっとまた、奴は俺たちを消そうとする」
「では手は一つだな」アルはにやりと笑う。「真詞」
「え、俺ですか?」
 いきなり呼ばれて戸惑った。
 アルは意地悪そうに笑っている。
「ランズを全員集めよ。この屋敷に集結させるのだ」
「はい?」
「早めにな。いいか、全員だ」
「えっと……」
 俺は何かを命じられたらしい。アルは、紅茶を優雅に飲み、それ以上の説明をしようとしない。
「成る程。盟約者であれば、俺たちの姿を捉えられる。適役だ」
 ジョーカーも異議がないらしい。
 二人とも、その話は終わったと言わんばかりに食事を楽しんでいる。
 仕方ないので訊いてみた。
「どこから訊いていいやらわからないんですが、アル……俺に何をしろと言ったんですか?」
 アルは眉をひそめる。
「貴様は私の尊い声を聞き逃したというのか。ランズを全員集めろと言ったのだ」
「えっと、ランズって何ですか?」
「何と」アルは驚く。「貴様はそれも知らずに我が屋敷に足を踏み入れたというのか」
 アルの中でその情報は、知っていて当たり前のものらしい。俺は姉さんに訊いてみた。
「知ってますか? ランズって」
「さあ?」
 姉さんも知らないらしい。
「月香さんは……」
 彼女はちらりと俺を見る。
「ジョーカー達みたいな存在のこと。悪魔でも妖精でも精霊でもない、彼らは独立した存在」
「ああ。『ランズ』っていう種族なんですか」
「種族っていうか……」
「オーランドの守護者(ガーディアン)たちだ」ジョーカーが答えた。「…『オーランド』はわかるか?」
「いえ、全然」
「〝オーランド〟は、悪魔、妖精、精霊、それらの存在の頂点だ。魔界の王とでも言うべきか」
「あ、魔王ですね」
「人ならぬ者たちのトップだ」アルは言った。「つまりは王。悪魔も妖精も精霊も、掌握する強大な力を持っている」
 ジョーカーの煙草が短くなる。彼は、シンカが用意した灰皿に煙草を押し付け、新しい煙草に火をつけた。
「王となった者は決して死なない。消えることはない。たとえ身体を失おうと、その存在は残り続ける。不死というわけだ」ジョーカーが話す。「俺やジャスティは、オーランドの骨から生み出された、奴の守護者だ。王の骨を持つ俺たちは、他の魔物どもと違う、独立した強大な存在だ」
「骨……」ちょっとぞっとした。「骨がなくても、オーランドという王は存在できるんですか?」
「あいつは片腕もなかったな」アルがあまり興味なさそうに話す。「王というのはよく狙われる。これ以上身体を失わないために、オーランドは自らの骨から守護者を生み出した。だから言っただろう、真詞。我らは尊い存在だと」
 俺は頷いた。
「なるほど。王の分身ってわけですね」
「私は私だ。分身ではない」
 アルはさらっとそう言って、また紅茶に手をつける。
 オーランドの骨から生み出された、アルとジョーカー。煌びやかなアルと、真っ黒いジョーカー。
「……同じ存在から生まれたって、思えない感じですね」
「それはそうだろう。私は骨と『光』から生まれたのだから」
「光?」
「オーランドの骨だけでは、守護者は作れない」アルが話す。「骨と、自然界の力によって作られる。私は、『光』から生まれた」
「俺は『闇』だ」ジョーカーが言った。「他に、火や水、土から作られた奴も居る。色んな属性がある。そして――」
「オーランドの骨と、自然の属性を持ったオーランドの守護者を『ランズ』と呼ぶ」アルはにやりと笑った。「話は繋がったな。真詞」
 ランズを集めろというアルの命。
 つまり、オーランドの骨を持つ、オーランドの守護者たちを集結させよということか。
「ランズが集まれば、オーランド自身を呼び出すことが可能だ」
「更に、ランズが集まることにより、少しはオーランドに対抗できるかもしれない」アルは俺を見た。「真詞。各地に散らばったランズを即刻集めよ。オーランドは7年前、ランズを消そうとした。その謎の解明、そして対オーランドの対策を練るのだ」
「はい」
 思わず返事をしてしまってから、俺の心に疑問が湧いてくる。
「あの……ランズってどうやって探すんですか?」
「貴様は良い目を持っているではないか」アルが言った。「各地を廻って探すのだ」
「各地って……」
「世界だ」
 あっさりとアルが言った。
 暫しの沈黙。
「俺に……世界中を廻って、ランズという存在を探せというんですか……」
 まさかとは思うが、整理するとそうなる。
 アルはあっさりと頷いた。
「早急に探しだぜ。私の紅茶が冷めぬうちにな」
「それは無茶です」
「手掛かりはやろう。が、後は真詞自らが探すのだ。任せたぞ」
 任されても……。
 俺は反論を試みた。
「俺が探すより、アルやジョーカーが探す方が早いんじゃないですか?」
「俺には月香との盟約がある」ジョーカーが答えた。「それにより、余分な力は使えない。月香の寿命を縮めることになる」
「じゃあ、アル――」
 アルは優雅に紅茶を飲んでいる。
「何故私が動かねばならんのだ。面倒な」
「………」
「真詞。紳士様の命だ」シンカが俺の背中を突つく。「やれ」
「そんな……」

 俺に拒否権は、どうやら無いらしい。
 温かな午後の日差しの中、
 俺の人生の歯車は、どんどん狂わされていく――

廻転木馬の内側で密やかに廻る歯車

廻転木馬の内側で密やかに廻る歯車

 夏休みの少し前って、これから始まる長い楽しみを前にした、浮かれ気味な雰囲気が漂っていると思う。

 私のクラス、2‐Dもそんな感じだ。夏休みの遊びの計画を立てたり、目標を掲げたりする生徒が沢山。無論、宿題は山ほど出されるのだが、そしてその前に期末テストがあるのだが、その辺は視界に入らない。大きな楽しみの前には、些細な行事だ。
 でもたった一人、浮かれていない(ように見える人)がいる。
 同じクラスの男の子だ。

 彼は、ここ四日ずっと学校を休んでいた。学級委員である彼は、クラスの人たちの人望もあって、すごくいい人だ。私はあまり話したことがないけれど、穏やかで、周囲の男子生徒より大人びた雰囲気を感じる。『悟っている』とでもいうのか。
 彼が四日ぶりに姿を見せたときは、クラスが湧いた。

「おお、来た!」
「どうしたんだよ、四日も」
「夏風邪か?」

 彼は少し困った顔をしながら、それでも学校に来られて嬉しそうな顔をした。
 我妻真詞。
 私の人生を大きく変えることになる人だ。


          *


 今日は午前中で授業が終わりだ。
 教科書を片付けていると、級友の舞花と祥子に声を掛けられた。
「洸(ひかり)。一緒にお昼食べに行かない?」
「ごめん。今日、学童に行かなきゃならないの。もう行くね」
 私はショルダーバッグを肩に掛けた。
「ああ、洸が小さい頃に居た学童ね。まだ通ってるんだ」
 私は、小学校の頃に居た学童にたまに顔を出す。子どもたちと遊んで帰るだけなのだけど、それは私のライフワークだ。
「また今度誘って。じゃあね」
 級友二人に手を振って、私はそそくさと教室を出る。

 高校に入学して、一年と半年弱。
 毎日何だかんだで忙しいけれど、高校生活は順調だ。クラスの仲は良いし、学校全体の雰囲気も申し分ない。授業も、ついていけないほど難しくはなかったし、友人は優しい。私は高校生活を楽しんでいた。
 電車に乗って、目的の駅で降りると、駅のオブジェの前に見慣れた人を見つけた。
 彼の方でもこっちに気付いたらしい。私を見て人懐っこい顔で笑った。
「吾妻(あづま)さん。奇遇ですね」
 私の名字を呼んで、彼は一歩私に近付いた。
「あれ。我妻くんて、最寄り駅ここだっけ?」
 意外に思って尋ねると、彼は小さく首を振った。
「今日はちょっと、この辺りに用事があって。吾妻さんは?」
「私もちょっと用事が。それに私の最寄り駅、ここなの」
 我妻真詞は「そうなんですか」と微笑む。無邪気な笑みだ。
 我妻真詞は不思議な人だ。代々続く我妻流の跡取りだというから、そのせいかもしれない。人に対して近付きすぎず、かといって離れすぎない。気は利くし、勉強もできるし、皆から慕われている。
 私は、我妻くんと席が近いわけでも委員会が同じなわけでもなく、私はこのとき、初めてまともに我妻くんと話をした。
「実は俺、道に迷ってるんです。吾妻さん、〝志紀屋〟というお店、ご存知でしたら教えてもらえませんか?」
「シキヤ? ああ、あそこ――知ってるよ」
「ホントですか!」我妻くんはぱっと笑顔になる。「教えてください、お願いします! そこに辿り着けないと、俺――」
「辿り着けないと?」
「…主にしばかれるんです……」
 途端に我妻くんが暗い顔になった。思わず「暗っ」と声に出そうになるのを押さえ、訊いた。
「主って……義理のご両親? 我妻くんって確か、養子に入って我妻流の修行してるんだよね。修行、そんなに大変なんだ」
「あ、両親じゃなくて。ええと…バイト先?の」
「店長さん?」
 我妻くんは苦笑する。「…まあ、そんなようなものです……」
 事情はわからないけど、店に辿り着けないと我妻くんが大変だというのは理解できた。
「志紀屋まで案内するよ。通り道だから」
 我妻くんはホッとした顔で、「ありがとうございます」と私に礼を言った。私と我妻くんは、並んで歩き出す。
 持ち前の優しい性格で、我妻くんは女生徒に人気だ。彼女たち曰く、人懐っこい笑顔が堪らないらしい。私はクールな人が好きなので、我妻くんにそれほど興味はなかったのだが、なるほど、確かに構いたくなる笑顔をしている。
「吾妻さんは電車通学なんですね。ここからだと、二十分くらいですか?」
「うん、それくらい。でも、家から駅まで遠いんだぁ。雨の日なんか大変」
「うわ、困りますね~」
 我妻くんは誰にでも敬語を使う。馴れ馴れしくないし、丁寧だ。
「我妻くん、どんなバイトしてるの?」
「そうですねー…店主の話し相手と言いますか、下働きというか……」
「大変そうだね。我妻流の修行もあるんでしょ?」
「ええ。お陰で全然修行ができません」
「…なんか、大変なんだね……」
「大変ですけど、どっちもやめられそうにないですから」我妻くんは苦笑する。「あ、そういえば、吾妻さんのお宅はどこですか? 案内は途中まででいいですから、ご自宅に――」
「いいの、いいの。私、これから学童に行くとこなんだ。志紀屋の側を通るから」
 私は、学童の手伝いをしていることを我妻くんに話した。頷きながら、我妻くんは懐かしそうに聞いていた。
「じゃあ、子どもたちと遊ぶお手伝いですね。いいなあ、それ」
「小さい子なんてわんぱくで大変だよー。ケンカなんてしょっちゅう」
「あはは、わかります。玩具取り合ったりするんですよね。よく泣かされたなあ」
 なんとなく嬉しそうに、我妻くんが話す。
「我妻くんも学童にいたの?」
「はい。ちょっとの間ですけど、学童というか施設に。我妻家に引き取られる前に二ヶ月ほど居たことがあるんです」
 悪いこと訊いたかな、と思ったが、我妻くんの表情は明るい。
「……大変だったんだろうね。その、小さい頃」
「いいえ、全然です」我妻くんは明るく否定する。「というか、憶えてないんです。辛かったのかもしれないけど」
「? 憶えてないの?」
 少し寂しそうに、我妻くんは頷く。
「施設に入る前のこと、忘れちゃってるんです。唯一憶えていたのが『真詞』という名前だけで。年齢だって、もしかしたら吾妻さんより上かもしれないですよ」
 まるで遊びの計画を立てているみたいに、明るく我妻くんが話す。重い話なのに。
「……我妻くんて強いねえ」
「え、そんなことはないですよ。全然です」
 我妻くんは笑顔だ。
 いつも学校で見ている我妻くんは、しっかりしていて、恵まれて育ってきたように見えていた。今聞いた話とギャップが大きくて、頭の中で上手くつながらない。
 そうこうしている間に、先に学童に着いた。
「ここが学童。賑やかでしょ」
 防球ネットの向こうで子どもたちが遊んでいる。元気な声が聞こえてくる。
「うわぁ~。良いですねえ」
 我妻くんは顔を綻ばせる。まるで子どもみたいだ。
 学童の敷地内から、職員が出てきた。顔見知りの人だ。
「洸ちゃん。いらっしゃい」
「こんにちは尾形さん」私はにこりと微笑む。「お手伝いに来ました。あ、こっちはクラスメイトの我妻くん」
「あら、こんにちは」
 目が合った二人は、軽く会釈する。
 尾形さんは私に視線を戻した。
「洸ちゃん来てくれて助かるわぁ。今日ね、藍沙ちゃんが来れなくなっちゃったのよ」
「え、そうなんですか?」
 藍沙ちゃんは、私と一緒に学童を手伝っている、一つ年下の女の子だ。
「じゃあ今日、忙しくなりますね。夏祭りの準備もあるし……」
「ほんとね。でも、なるべく早く帰れるようにするから――」
「あのっ」
 我妻くんの声。
 彼は小さく片手を挙げていた。
「良かったら、手伝わせてください」
「我妻くん?」
 彼はにこりと微笑んで、許可を求めた。
「是非手伝わせてください。えっと、邪魔にはならないようにします。お願いします」
「でも、我妻くん……テストも近いよ?」
「それは吾妻さんも一緒じゃないですか」我妻くんは微笑む。「人手が必要なら是非。俺、子どもの相手、好きなんです」
 私と尾形さんは目を合わせる。
「我妻くん、学級委員もやってて、頼りがいがあるんです。良かったら」
 尾形さんに進言すると、彼女はおずおずと我妻くんを見た。
「手伝ってもらえると助かるけど……本当にいいの?」
 我妻くんは笑顔で、「はい」と答えた。
 そういうわけで私は、我妻くんと学童のお手伝いをすることになった。

        *

 今まで生きてきた中で、変わっている人は沢山いた。というより、「あの人は普通」と指差せる人なんて、そうそうは居なかった。
 そんな中、今日初めてちゃんと話をした我妻真詞は、そういう「ちょっと変わってるけど、枠は出てない人たち」と少し異なった空気を感じた。
 異質というのも違う。何かちょっと、歯車が違うというか。でもそれは全然嫌じゃない。むしろその不思議さがいいと思えた。
 そんな我妻真詞は、子どもたちと遊ぶのが上手かった。巧みに子ども心を捉え、厭きさせない。大人数の子どもたち相手に、鬼ごっこをしたり、夏祭り用の絵を一緒に描いたり、我妻くん本人も楽しんでいるように見えた。
 すっかり日が暮れてしまってから、私と我妻くんは学童を出た。
「すごく楽しかったです。すみません、俺までおやつを頂いちゃって」
「来れなかった子の分が余ってたから、丁度よかったよ。それより、我妻くんて子どもと遊ぶの上手いねえ。吃驚しちゃった。私なんて、大人数が相手だと絶対ケンカが始まるから」
「子どもと一緒になんて遊んでただけですよ。俺が勝手に楽しんだだけです」
 我妻くんは嬉しそうだ。子どもたちと遊んでいるとき、我妻くんは面倒見のいいお兄ちゃんという感じだった。
「夏祭りのときには是非遊びに来てね。学童の子どもたち、また我妻くんに会いたがってる」
 にっこり笑って、「是非」と我妻くんが答えた。
 ふと時計を見ると、午後7時。
「あっ、ごめん我妻くん! お店行くんだったよね」
 確か、行かないと大変なことになるはずだ。
「大丈夫ですよ。多分、夜の方が都合いいと思いますから」
「え、そうなの?」
 我妻くんは頷く。そうなのかと納得し、私は言った。
「じゃあ、お店まで案内するね。帰り道だから」
「いいんですか?」
「うん。付いてきて」
 我妻くんが礼を言い、私たちは歩き出す。
 この町は、古い町並みを維持するのが方針だ。家も一軒家の古い家ばかりで、店は老舗が沢山だ。小さい頃は新しいものが好きで、都会に憧れたものだけど、最近では風情がある町並みだと思えるようになってきた。
 志紀屋も、そういった老舗の一店舗。確か、染物を売っている店だったか……いや、違うかもしれない。志紀屋は本当にひっそりと立っていて、地元民すらあまり立ち寄らない。私も、一度も足を踏み入れたことがなかった。
「あの角曲がれば、もうすぐだよ」
「助かりました~…本当、吾妻さんが居てくれて良かったです」
「この辺り、迷路みたいだからね。ええとね、ここ曲がって――」
 角を曲がった途端、我妻くんの足が止まった。
「? どうかし――」
 我妻くんの顔は、脅えていた。
 その視線の先は、道しかない。
「どうしたの?」
 我妻くんは一歩後ずさる。
「…なんでこんなところに居るんですか」
「え、何かいるの?」
 もう一度見てみる。猫一匹居やしない。民家の裏の道だ。
「我妻くん?」
「あ、吾妻さん、えっとこれは」
 何やら混乱している。一体どうしたんだろう。「遅いって……いや、夜の方が都合いいかなって。あ、いえ、反論したわけじゃなくて!」
「わ……我妻くん?」
 独り言?
 我妻くんは首を振りながら後ずさる。
「――え?」我妻くんはハッとする。「ちょ、ちょっと待ってください、アル!」
 急に我妻くんの動きが止まる。
 下を向いて、両手を下げて、動かない。
「我妻くん? えっと……大丈夫?」
 恐る恐る、我妻くんに話しかけてみる。
 我妻くんが急に顔を上げた。
「わっ」
 びっくりして、私は一歩下がる。
 我妻くんは、自分の身体を見つめる。
「……ほう。上手くいった。喜べ真詞。貴様の身体は暫し、私に使われる」
 我妻くんは呟いて、にやりと笑う。
 さっきまでと違う。なんか違う。
 不意に彼の目が私を向く。
「真詞の友人か?」
「えっ」
 私のことか!
 おかしいと思いつつ、戸惑いながらも答えることにした。
「あの……私は、我妻くんのクラスメイ――」
「反故には出来ぬな。家臣の知人だ」
 我妻くんは私に近付く。
 それから、ごく自然に私の手を取る。その動作の優雅さに、思わず心臓が飛び出しそうになった。
「あ、あの……我妻くん?」
「家臣が世話になった。礼を言うぞ、娘」
「か……しん?」
 我妻くんの瞳が、私を向く。
 冷たい目線、少し笑った口元。
 思わずくらっと倒れそうになると、我妻くんが私の背中を支えた。
「どうした。具合でも悪いのか」
「い、いえ……」
 なんとか自力で立って、我妻くんが少し離れる。
「私はこれから用がある。さらばだ」
「はい……」
 我妻くんは去っていく。
 そのときの彼の優雅さを、何て説明したらいいんだろう。
 このとき。
 我妻真詞という人の、私の中の比重が、他の誰よりも重くなったのだった――

        *

 ハッと気付くと、目の前に『志紀屋』の看板があった。
「あれ、俺……」
 どうしてこんなところに?
 辺りはもう暗くて、電灯の明かりが頼りなく古びた店を照らしている。
「店まで辿り着かせてやった。全く、これなら私が来た方が早かったな」
「アル!?」
 俺の隣に居たアルジエイド=ジャスティは、いつものようにシルクハットを被り、ステッキを片手に立っている。
「あ、そうだ。アルが俺の身体の中に入ると言い出して、それで――」俺は慌てて辺りを見る。「吾妻さん!?」
「誰だそれは?」
「クラスメイトですよ。俺と一緒に居たでしょう?」
 アルは「ふむ」と腕を組む。
「ああ、真詞の知人のことか。そういえば居たな」
「…吾妻さんに変なこと言わなかったでしょうね?」
 アルが俺の中に入ったということは、アルの行動が俺の行動として見られてしまうのだ。
「紳士的に別れを告げただけだ」
「――…ちょっと心配ですけど、まあいいです……で、志紀屋ってここですか?」
「看板の文字を読め。ここが志紀屋だ」
 それは平屋の古い民家だった。時代を感じさせる建物と、西洋風のアル。全くの不似合いだ。
 アルは躊躇いなく店に入った。
 立て付けの悪い扉が、ガラガラと音をたてる。中は、建物の木のにおいがした。
「はい、いらっしゃい――」
 中に居た和服の青年が、アルを見て目を丸くする。
「ジャーさん久し振り。何十年ぶりじゃないですか」
「貴様は変わりないな。店主は居るか?」
「あいにく眠っちまってますよ。子どもみたいですよね、あの人」
 青年はアハハと笑う。
 腰に白布のエプロンを付けた和服の青年は、不意に俺を見た。何故だかギクッとする目をしている。
「あれ。お宅、人間?」
「え、はい」
 青年は物珍しそうに俺を見て、言った。
「蔵野(くらの)っす。はじめまして。呼び捨てでいいよ」
「初めまして……我妻真詞、人間です」
 和服の袖をちょいと持って、青年は俺の周りを一周した。
「へー! 人間! ジャーさんが人間連れて来るのって初めてですね」
「あの、そんなに珍しいですか?」
「物好きな人間もたまには来るけど、この店に足を踏み入れるのって大抵は人じゃねーから」
 そう、この店は人ならぬ者たちの店だとアルから聞いている。人に隠れてこっそり営業しているのなら、夜の方が都合がいいだろうと思ったのだ。それに、人ならぬ者たちに会うといえばやはり夜だ。
 俺の目の前に居る、蔵野という青年。たぶん、彼も――
「蔵野さん。あなたも人間じゃないんですか?」
「ふふん。何に見える?」
 少し鼻を鳴らした蔵野は、くるりと一回転して俺を見つめる。その目は少し鋭い。
「えっと、妖精?」
 当てずっぽうに言ってみると、蔵野は首を振った。
「妖怪。戌ね」
「あ、化け犬?」
 蔵野はにこりと笑う。
「化け戌の蔵野。志紀屋の接客係っす。よろしく」
 蔵野は右手を差し出す。
「我妻真詞。人間です。よろしく…」
 握った蔵野の手は少し冷たい。やはり、雰囲気や姿が、どことなく人と違う。
 蔵野はアルに目線を移す。
「ジャーさん、注文した品を取りに来たんでしょ? 聞いてますよ」
「完成しているか?」
「モチっす。良い出来ですよー。今持ってきますから」
 蔵野は店の中の暖簾をくぐり、奥へ入って行った。
 アルを「ジャーさん」と親しげに呼び、自分のスタイルを崩さない彼を、ちょっと凄いと思った。俺なんてアルにペースを乱されてばかりだ――
「あの、アルと蔵野って古い付き合いなんですか?」
「そう古くはないな。志紀屋が開店してからの知り合いだ」
「この店めちゃくちゃ古そうですけど」
 木造の平屋。半世紀は経っていそうだ。
 人間と、アルたち人でない者たちは時間軸が違う。それだけではなく、生活スタイルも考えも、異なっているところが多々あるところに、最近俺は気付いた。
「お待たせっしたー。はいどうぞ」
 蔵野が笑顔で持ってきたのは、2メートル近い、縦長の箱だった。ぱっと見、棺桶に見えた。蔵野はそれを軽々と担ぎ、アルと俺の前に置いた。
 アルは箱に近付き、蓋を開けて中を見た。…死体が入っていたらどうしよう。怖くて俺は目を逸らした。
 バタンと蓋の閉まる音が聞こえて、俺は視線を戻す。
「結構だ」アルは満足そうだ。「店主に働きを褒めておけ」
「造ったのはあの人じゃないっすけどね」
 アルは蔵野に何か差し出した。その手のひらの上に、小さな石が乗っている。
「報酬だ」
「毎度」
 蔵野はそれを受け取った。
「そんなのがお礼でいいんですか?」
 思わず尋ねると、蔵野はニッと笑って俺に言った。
「この業界は、物々交換が主流なの。志紀屋の客で、この悪魔の眼を欲しがってる人が居たから、店がこれを買い取って、眼を客に売りつけるわけだ」
「え、それ、眼なんですか?」
 小石にしか見えない。
「時間が経っちまってるからね。でもレアもんだよ。昔々、悪魔の頂点に居た奴の眼だからさ」
 蔵野の手の中で小石が転がる。
「ジャーさんは色んなコレクション持ってるから嬉しいなあ。お得意さんだよ。また来てくださいね」
「用があればな。ではさらばだ」
 アルが歩いた後ろに、箱が浮いて着いて来る。目を疑ったが、これもアルの力なのだろう。箱を持たされなくてよかったと安堵する。
 ふと蔵野を振り返ると、俺を見てにこにこと手を振っていた。俺も手を振り返し、店を後にした。

        *

 アルと会ってからというもの、アルの屋敷が俺の住処になった。
 というか、帰らせてもらえない。
 意を決して、今朝、俺は申し出た。

「学校に行かせてください。今日という今日は行きます!」
 制服を着て、万全に準備をしてアルと向き合った。
「お前には私に仕えるという最優先事項があるであろう」
 俺は説き伏せる作戦に出た。
「アルに仕える者は、有能でなければいけないと思うんです。学校は勉学をする場。きちんと仕えるためにも、学を得たいんです」
 アルはちらりと俺を見た。
「なるほど。良かろう、行って来るが良い」
 許可が出た。
 が。
「屋敷の外へ出るのであれば、ついでに命を言い渡す。志紀屋へ行って、注文した物を取ってくるのだ」

 …と、そういうことで、俺は学校が終わった後で志紀屋に寄ることになった。結局は、アルと一緒に行くことになってしまったのだが。
 志紀屋で受け取った荷は、アルの後ろを勝手についてくる。浮遊している。物珍しくて、俺はじっと箱を見ていた。
「アル。この箱の中身、なんですか?」
「悪魔の眼で交換できるものだ」
 答えになっていない。
「アルの持っていた悪魔の眼はレアものだって、蔵野が言ってましたよね。これ、高価なものなんですね」
「大したことではない」
 アルはぴたりと足を止める。箱も止まった。
「真詞。一番高価に取引されるものは何だか知っているか?」
 振り返ったアルが俺に尋ねた。
「えっと……人間の魂ですか?」
「それはエナジーの中で最も強いものだというだけだ。人間から得られるエナジーの中で一番強いものが魂。そうではなくて、この世で最も重宝され、誰もが欲しがる貴重なものだ」
「ええと――」
 考えてもわからない。人でない存在のことは、俺は初心者なのだから。
 アルはにやりと笑った。
「オーランドの骨だ」
 アルが答えを告げた。
 それは、ランズの証。この世の頂点、オーランドの一部。
「それを手にすれば、強大な力を得ることができる。オーランドの力を借りられるわけだからな。私の持っている骨を狙い、今まで何人も戦いを挑んできたが、全て返り討ちにした。この骨は、何よりも貴重なものなのだ」
「そうなんですか……」
 俺はじっとアルを眺めた。アルの中の、オーランドの骨を思った。アルの力の源で、オーランドの守護者たる証……。
「あの、オーランドってどうして守護者を作ったんでしょう?」
「それは、自らを狙う雑魚どもを排除させるためだ。次から次へと襲い掛かってきたからな」
「でも、オーランドってすごく強いんですよね。頂点に立つ王なんですから。全部返り討ちには――」
「守護者が現れるまではそうしていた。が、四六時中襲い掛かられては休む暇もないだろう。そうこうしている間に、片腕を失くし、身体をあちこち失くし、それでも力は衰えなかったわけだが……自らを守護する者たちを、自らの骨から作った」
「なんか……王って大変なんですね」
 守護者を自分の骨から生み出すしかなかった。つまり、他の者には、誰一人頼れる者が居なかったのだろう。周りは全て、敵。
「何でオーランドは王になったんですか?」
「王というのは代々受け継がれるものだ」アルは答えた。「奴が王となったのは、単に前王が奴を指名したからだ」
 だが、とアルが続ける。
「あいつは王という立場に執着していなかった。あるとき、王という立場を放棄し、姿を消した。ランズは空中分解、それからは悪魔や妖怪たちが新たに頂点に立とうと争いを続けている、戦国時代だ」
「放棄した? 何で――」
「さあな。気まぐれだろう」アルはさらりと言った。「が、オーランドは次期王を選ばなかった。奴はいまだに王の立場に居るはずだ。死なず、衰えず、身体を失おうとも存在し続ける。何処に居るかはわからないが、オーランドは必ず、この世界の何処かに潜んでいる」
 俺は腕を組んで考えた。
「そのオーランドが、7年前にランズを消そうとした……。消せるものなんですか? ランズって」
「オーランドになら可能だ。骨はもともとオーランドの一部……主には逆らえん。骨がなければ力を失う、ランズはそんな存在だ」
「案外儚いんですね」
「今ごろ気付いたか、真詞」アルはにやりと笑う。「気高く儚い紳士。それが私だ、憶えておけ」
 そう言って、アルはすたすたと歩いて行ってしまう。
「…やっぱ、儚くないかもしれない……」
 傲慢で頑固な〝紳士様〟。
 ランズという存在も、人ならぬ者たちのことも、俺にはまだよくわからない――

        *

 屋敷に戻る頃にはもう真っ暗だった。
 俺たちが帰ったことに気付いたシンカが出迎えてくれた。
「お帰り、紳士様。お疲れ様、真詞。食事があるが、食べるか?」
「ありがとう、頂きます」
「私は今日は遠慮しよう」アルはそう言って奥へ引っ込む。「部屋に居るぞ」
 箱はアルにくっついて行く。
「あれっ、真詞。おかえりー」
 姉さんがひょっこり顔を出した。中庭にでも居たのだろう。
「我が妻。シンカに用意させたその髪留め、よく似合っているぞ」
「…姉さん。アルの言葉、通訳しますか?」
「要らない」姉さんはきっぱり否定した。「それより真詞、お腹すいてんじゃない? シンカの作ったシチュー美味しいよ」
「ふっ」アルは笑う。「私の姿を見られないからと拗ねているのも今日までだ。妻よ」
 高笑いしながらアルは去っていく。
 姉さんにこれだけ拒絶され、何故余裕でいられるのだろう。
「……変わってるなあ、アルって」
「奴の話はやめて」
 鳥肌が立ったらしく、姉さんは腕をさする。
「あ、はい……。じゃあ、シンカのシチューを頂きます」
「では温めてくる。食堂で待っていろ」
 シンカはキッチンに向かった。
 言われたとおり食堂で待つ。姉さんは俺の向かいの席に座った。
 食堂は広い。テーブルが、西洋の城みたいに縦に長いのだ。片側十席ある。ガランとして、夜は寂しい。
 シンカが料理を運んできてくれた。「頂きます」と手を合わせ、食べると本当に美味しかった。
「真詞。久々の学校どうだった?」
 向かいから姉さんが尋ねた。
「楽しかったですよ。やっぱり屋敷に閉じこもりっきりじゃいけませんね。姉さんもたまには外に――」
「出られればいいんだけどね」姉さんは顔を引き攣らせる。「逃げ出そうとすればあいつに連れ戻される……」
「えっと、姉さんって18歳のときにここに来たんですよね。あ、なんていうか今も18歳とは思いますけど」
「そう。高校3年のときにね。私、中退になってるんじゃないのかな」
「それは……気の毒な……」
 そこで、俺はずっと訊いてみたかったことを思い出した。
 スプーンを置いて、俺は訊いた。
「姉さん。我妻流を継ぐことについて、どう思っていましたか?」
「え?」姉さんは俺を見る。「…ああ、そっか。最初に会ったとき言ってたね、それが聞きたいって。そうだなあ……」
 姉さんは「うーん」と考え込む。
「我妻流は好きだったよ。でもそれは、なんていうかな……趣味の域を出なかった」
「趣味、ですか」
「うん」姉さんは頷く。「生業にしようとは思わなかった。あくまで趣味ね」
「将来は継ぐつもりだったんですか?」
「そうなっただろうね……」姉さんは頬杖をついて遠い目をする。「別に嫌じゃなかったけど、他に夢もなかったからなあ。生まれたときから『我妻玲美』だったから……。他にきょうだいでも居ればよかったんだろうけど、あいにく一人っ子だからね。我妻流を継ぐってレールが最初からあったわけ。18歳まで、レールの外へ出ようとはしなかった。…一度、出てみればよかったかもね。そうしたら、他に夢を見つけたか、それとも改めて我妻流を好きになったかしたと思う」
 真剣な姉さんの答えは、俺の胸に染みた。
 姉さんは、俺に笑顔を見せた。
「だから、真詞は一度レールの外に出て、我妻流という生き方を客観的に見るといいよ。私はそれ、出来なかったから」
 じんわりと染みた。
 俺が我妻流を継ぐことを、否定も肯定もしない、ただ穏やかに、自分の道を見つけろと。
 俺が声を出せたのは、五秒後だった。
「そう、ですね……。俺、そういう言葉が聞きたかったのかも」
「姉さんらしかった?」
「はい」俺は微笑んだ。「ここへ来て良かったです。姉さんに会えて……」
「私も弟ができて嬉しいわ」
 にこりと微笑む姉さん。
 この人はとても優しい人だ。他人のことを真剣に考え、思いやれる人。アルが、姉さんを『妻』にしたい理由がわかった気がした。
「ねえ、真詞は何で我妻流を継ぐことにしたの? というより、何で我妻家の養子に?」
 今度は姉さんが俺に尋ねた。
「えっとですね……俺、その前は施設に居たんですけど、そのとき丁度姉さんが家を出た後だったんでしょうね、我妻家の――今の義父さんと義母さんが施設に来て……」
「施設って……真詞って孤児だったの?」姉さんはハッとする。「ごめん。あんまり訊いちゃいけないことかな」
「いえ、全然。俺、施設に居たのが10歳ちょっとのときだったと思うんですけど、それ以前の記憶がないんです。真詞って名前だけはわかったんですけど、施設に拾われる前はどこで何をしていたか、わからないんです。こうして日本語話せるんですから、少なくとも日本で育ったことは確かですね」
 姉さんはきょとんとする。
「記憶がないって……。記憶喪失? なんにも憶えてないの?」
「はい、何にも。だから辛い思い出なんて全然ないので、却っていいんですよ」
 姉さんは驚いたようで、目を丸くする。
「…知りたいとは思わない? 昔のこと」
「興味はありますけど、それほど思いません。知っても、俺が我妻真詞であることに変わりはありませんから」
 再びシチューに手をつける。少し冷めてしまっていた。
 だいぶ間のあいた後で、姉さんが「あっ!」と声を出した。あまりの大声に、思わずスプーンを落としそうになる。
「姉さん?」
「真詞。それじゃないの?」
 姉さんは興奮した様子で俺に話す。
「はい?」
「真詞の記憶!」
「それが何か……」
 姉さんは、俺の左眼を示す。
 俺が盟約者たる証。
「盟約の代償。『Me』って、もしかして」
 じわじわと、俺の胸の奥から予感が湧き上がる。
 もしか して――
「『Memory』……〝記憶〟の『Me』……」
 何かと引き換えに、俺が失ったもの。
 今、姉さんに言われて、ハッキリわかった。

        *

 記憶がないことは不思議に思っていた。
 それでも、昔を知りたいと切に思ったことはない。俺には俺の人格がちゃんとあるし、名前だって持っている。案外、生きてきた軌跡を持たないことは楽なものだ。だって、みんなが抱えているような過去のトラウマとか、柵とか、そういうものが一切ないから。
 だけどそれが、盟約によって奪われたものならば。
 俺が持っていたはずのトラウマ、思い出、柵、それが全て、奪われて失ったのなら。
 俺は、人ならぬ者に〝記憶〟を差し出した。たかだか10歳前後の子どもがだ。盟約を結んだことすら忘却し、代わりに俺は何かを受け取ろうとした。
 記憶と引き換えに、俺が得るはずのものは――…

「真詞。風邪をひくぞ」
 ベランダに出てぼーっとしていたら、シンカがタオルケットを持ってやって来た。
「ああ……、すみません。でも大丈夫です、もう中に入ろうと思っていたところですから」
「そうか? ならいい」
 シンカは引き返そうとしたが、ふと足を止めた。
「何か考え事か?」
「はい。さっき姉さんと話していて、俺が盟約によって何を失ったかわかったんです。俺の記憶……盟約を結んだ記憶すら、俺にはない。それすら俺は、人ならぬ者に差し出した。…よく考えたら、記憶がないのは異常なんですよね」
「……記憶か。では、いくつか推測ができる」
「え?」
「真詞の盟約は成立していないと、紳士様が言っていた。考えられる可能性は三つ。真詞は何かを受け取ったが、それに比するだけのエナジーを与えられなかった。つまり、真詞の記憶だけではエナジーが足りなかった。真詞は盟約相手に相応の代償を与えられなかった」
「なるほど……」
 その場合、俺は何かをちゃんと受け取ったことになる。
「続いて二つ目だ。真詞は記憶というエナジーを差し出したが、何らかの事情により、相手から望みを叶えてもらえなかった場合」
「それだと、俺は何も受け取ってないことになりますね」
「そうだな。損なパターンだ」
「三つ目は?」
 尋ねると、シンカは答えた。
「予期せぬ可能性。私にも真詞にも考え付かない理由……。『盟約』とは、非常に強力に盟約者同士を縛るもの。それでいて、非常に繊細なもの。予測がつかないことなど簡単に起こりうる」
「一番目と二番目以外の、特殊な事情ってことですね」
「そうだ。恐らくそれが一番厄介なんだろう。その瞼の文字を消すことは、多分難しい」
 Memoryの『Me』。
 俺の記憶が始まったときから、この文字はあった。ずっと謎だった、アルファベット2文字。
「……消えなくても、いいんです。ただ――」
「ただ?」
「この文字が何故俺に刻まれたのか、俺は何を望んだのか……知りたくなってきました」
「ならば、力を尽くして突き止めるしかないな」
 そうだ。この文字に隠された意味を、俺は知りたい。俺は誰と盟約を結んだのか。その盟約は何故不完全なのか。
 俺が記憶を失くしたとき、何があったのか。
「…部屋に戻ります」
 俺が室内に入り、シンカも後をついてきた。
 シンカがドアを閉めると、一階から「わ!」と声が聞こえた。
「姉さんの声?」
「玲美が転びでもしたのか」
 駆け足で、俺とシンカは階段を降りる。
 その先のロビーには、アルと、姉さんが居た。
「どうしたんですか、姉さん?」
 姉さんは俺に気付くと、慌ててアルを指差した。
「ちょっ……何でアルが」
「え?」
「いや、それが――」
「感動に声を震わせ、喋れないようだな、妻よ」アルは何だか嬉しそうだ。「私の姿を再び見ることが出来たのがそれほどの喜びとは」
「何で!? どうして見えるの?」
 アルが近付くと姉さんが後ずさる。どうも、姉さんにアルの姿が見えているらしい。
 人ならぬ者の姿が見えるのは盟約者だけ。それがどうして、姉さんが――
「人形だ」アルが言った。「私そっくりの人形を作らせ、その中に入って動かしている。真詞も見たであろう」
「え、俺は知りませんが――」
「志紀屋へ共に言ったであろう」
 志紀屋――…
「あ、もしかしてあの箱の中身!」
「妻に私の姿を見せるためだ」アルはにやりと笑う。「私の姿が見えないというのは寂しいものだからな」
「清々してたんだけど……。ていうか、こんな精巧な人形作らせて……よくやるわ……」
 アルは優雅な仕草で姉さんの手を取る。姉さんは即座に一歩退いた。
「これからはこうして会える。これで寂しくはないだろう」
「誰が寂しいって言った!? その手を放せっ」
 姉さんは本気で嫌がっている。アルには何故だかそれが伝わらない。
「そうか。長い間私の姿が見られなくて拗ねているのか。可愛い奴だ」
「どうしてそういう解釈になるわけ!?」
 姉さんの腕に鳥肌が立つ。なんとかアルの手を跳ね除け、姉さんは俺の後ろに隠れた。
「あの、アル――お話が」
 話題を変えた方がよさそうだ。俺はアルに声をかけた。
「何だ?」
「俺の左眼の文字、Memory――記憶という意味だと思い当たったんです」
「成る程。記憶を取られたために、盟約者たる自覚もないと」
「はい。それで……俺の盟約相手を見付け出すことは可能なんでしょうか?」
 アルはステッキをくるりと廻し、俺に二歩近付いた。
「真詞。この文字は力のある者が書いたものだと言ったな」
「はい」
「そこらの悪魔などではない。悪魔の及ばない存在――ランズの可能性が高い」
「え……」
 アルの顔が、俺の瞳に映る。
 アルは俺の左瞼に触れた。
「ランズたちに聞いてみるが良い。丁度いい、貴様にはランズを探すという任務がある。ついでに、一人ひとり当たってみるといい。たかだか数年前のこと、憶えていないはずがない」
「………」
 ランズを探す。
 それが、俺の盟約を解き明かすことに繋がる。
「行くがいい。自らを解明するために。そして、主の命を果たすために」
 左眼からアルの手が放れる。
 俺の目的が定まった。
「後半はどうでもいいんですけど、前半は俺の望みです」
 アルが不敵に笑った。
「真詞。少しエナジーを寄越せ。それで手を貸してやろう」
「え? はい」
 俺が右手を差し出すと、アルがそこに文字を刻む。
 『Em.』と。
 一瞬、俺はぼんやりする。感情を抜き取られるということ。それでも、どれだけ感情を失くしても、それはまた湧き上がってくる。怒りを取られたからといって、それは一時的なもので、源泉はなくならない。
「私から真詞への手掛かりだ」
 アルは目を閉じる。
 何が起こっているかわからない。ただ、アルの身体――心臓あたりが眩しく光る。
 拳ほどの小さな塊。
 その、圧倒的な〝力〟。
「オーランドの骨……?」
 神々しいまでの光。
 これが王の骨の力。逃げることもできず、俺も姉さんもシンカも立ち尽くした。
 しばらくして光がひいた。
「〝共振〟を起こした」アルが言った。「骨を持つ者同士、共振で互いの位置を知ることができる。これにより、私の位置もわかる。向こうからこちらを訪ねてくる者も居るだろう」
 アルが俺に手掛かりを与え、右手の文字が消える。
 シンカが世界地図を持ってきて、アルは点々を位置を指す。
「一人はカナダ。一人はイギリス。一人は韓国。日本にも一人。これは『闇』だな」
 アルが指したのは計六箇所。
 世界に散らばる、六名のランズたち。
 この中の誰かが、俺の盟約者かもしれない。
「準備は整った」アルが言った。「心置きなく命を果たせ」
 命令を受けて動くというのは、釈然としないけれど。
 でも俺は、やると決めた。
 顔を上げ、俺は、アルと姉さん、シンカに告げた。
「行って来ます!」

盟約紳士 Pr.

盟約紳士 Pr.

高校生・我妻真詞はある日、自分に姉がいることを知る。その姉は7年前、「紳士様」に仕えるために家を出たのだという―― 行方不明の姉を捜すために向かった先で、真詞は自らの過去を知り、不思議な事件に巻き込まれていく。 非日常系ゆるふわ時折シリアス物語。

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • 冒険
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-05-06

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 鍵を開ける少年の手に握られた光
  2. 2
  3. 儚い瞳をした二匹の仔猫
  4. 廻転木馬の内側で密やかに廻る歯車