フィンブルの冬

宮田賢人 作

フィンブルの冬
  1. 第一章
  2. 第二章
  3. 第三章
  4. 第四章
  5. 第五章
  6. エピローグ

2015年3月に発刊された小説です。

第一章

目次
 見知らぬ地
 微かな手掛かり
 湖のアーチ
 謎の老人
 太陽の届かぬ世界
 幻の石
 二人の決意
 地下での闘い
 旅立ちの朝
 

■見知らぬ地                            
「ここはどこ……」
 うっすら目を開け瑠璃香が呟いた。和輝が瑠璃香を心配そうに覗きこんでいた。
「おい、大丈夫か?」
 和輝が横たわったままの瑠璃香に声をかけた。瑠璃香は手足を動かして怪我がないか確かめるとゆっくり起き上がった。
「大丈夫……そう」
「はあ」
 和輝は安堵のため息をついた。
「お前何やったんだ。スピード出し過ぎたんじゃないか?」
 瑠璃香のパラシュートベルトを外しながら和輝が尋ねた。
「急にコントロールが効かなくなって……点検してもらったばかりだったのに。ところで、スカイホイールは?」
「どこに落ちたんだろう……見当たらない。それより一体ここは……」
 周りは見渡す限りの銀世界だった――。
 二人はどうやら山の中腹にいるようだ。見上げると背の高い山々に囲まれ、下を見ると閑散とした曲がりくねった車道が延々と続いていた。
「車どころか人の気配すらない。何で俺たちこんなところに居るんだろう」
 和輝は状況を飲み込めずにいた。
「本当にどうしちゃったのかな――」
 瑠璃香は歯切れ悪く答える。
「冷たい」
 瑠璃香はしゃがみ込んで身震いしながら、両手でスカートの下の黒いレギンスの上から両足をさすった。和輝も黒のロングコートの袖に両手を引っ込めて、縮こまるように腕組をした。空気は突き刺すように冷たく、地面に張られた氷は景色をそのままに映し出していた。気温はおそらく摂氏零度以下と思われる。
「このままじゃ凍え死んじゃいそう。とにかく、こうなったら近くのお家で温もらせてもらおうよ」
 半分泣きそうになりながら瑠璃香が言った。
「と言っても近くに家らしい家はないけど……」
 和輝は自分自身を落ち着かせるように答えた。

■微かな手掛かり
 和輝はしばらく目を凝らして四方八方を見回していると何かに気付いた。
「あそこを見ろ!」
 和輝が指差した方向に瑠璃香が振り向いた。するとなんと、生い茂るアカマツの間から微かに見えた湖に、二人が乗ってきたスカイホイールの残骸が浮いているではないか。
「なんてこと……」
 瑠璃香はスカイホイールのあまりに変わり果てた姿に言葉を失った。湖には、それを堰き止めるようにアーチ状のコンクリートがそびえ立っている。それを見た和輝が言った。
「ダムがあるみたいだ。あそこまで降りてみよう」
「確かにあるけど――行ってどうするの?」
 瑠璃香が訝しがりながら尋ねると、和輝は何かを予感したように答えた。
「誰かいるだろう。話を聞いてみよう」
 ――二人は大きく曲がりくねる車道沿いをただひたすらに進んだ。      
 ザクッ、ザクッ、ザク……。
 歩くたびにシャーベット状に固まった雪が両足に絡みつく。
 ――距離にして二、三キロメートル程歩いた所だろうか、和輝は肩を微かに揺らし、吐息を白く濁らせながら言った。
「あそこに何かある」
 車道から左に分岐した道がダムに繋がっており、そのダムの向こうに小さい建物が見えた。
「はあ、はあ、はあ……足がつりそうなんですけど」
 瑠璃香は和輝の肩幅が広い背中を見上げながら、少し不満そうに呟いた。
「我慢しろ。この林を抜ければもうすぐだから」
 和輝は励ました。
 木々の間から見える灰色の景色が、徐々に広がっていった。

■湖のアーチ
「着いた!」
 和輝が満足げな表情で言った。
 遠くにぽつんと立つ建物に向かって、足元からコンクリートのアーチが美しく伸びている。冷たく透き通った空気が周囲を包んだ。
「はあ……これでやっとお家で温もれる」
 瑠璃香が安堵の表情を浮かべ、ため息交じりに呟いた。
 ゴー! ゴゴー!
 瑠璃香の呟きをかき消すように、大量の水が堰を落ち、叩きつけられて轟音が鳴り響いている。
「すごい迫力……」
 瑠璃香は興奮気味で言った。目の前にある欄干を両手でつかみ、遠く下を見つめた。焦げ茶色の肩までかかる巻き髪を風になびかせながら、そこにしばらく佇んだ。
「でもこの曲線――よく見るととても綺麗」
 瑠璃香は感心した様子で言うと、和輝は得意げに答えた。
「実はこれは中世のヨーロッパに起源を持つダムなんだ。アーチにかかる水圧に耐えるために、頑丈な岩に対して作られている。他の重力式に比べてコンクリートの量が少なくて済み経済的にも優れているんだ。まあこんな辺鄙で人手も資源も少ないような土地には打ってつけだな」
「なんか学校の先生みたい」
 瑠璃香はふふっと笑ったが、次に、しまった――といった表情で呟いた。
「先生で思い出した――レポートまだ出してない」
「レポートって?」
 ピンと来ていない様子の和輝に瑠璃香が答える。
「キャリア形成論のよ。確か今日が締め切りだったはず」
「ああ、あれか」
 和輝は興味なさげに答えた。
「『ああ、あれか』じゃないでしょ」
 瑠璃香は和輝をじろりと見た。
「いいですねぇ。将来とは無縁のお気楽さんは」
 瑠璃香は嫌みったらしく呟くと、それにぶつぶつと続けた。
「近頃は不景気で、大卒だからって良いお仕事が――」
「今はそれどころじゃないだろってこと」
 和輝は瑠璃香の言葉を遮った。
「はぁい」
 瑠璃香はふて腐れたように返事をした。
「とにかく後もう一息」
 和輝は呟いた。
 二人は重い足取りでアーチ状に伸びた長い道を渡った。

■謎の老人
 建物の前まで来ると和輝はその全体をぐるりと見回した。鉄筋コンクリート造りで、全体的に黒ずみ所どころヒビが入っていていることから、そう新しくはないと思われる。
「随分年季が入った建物……」
 瑠璃香は呟いた。入口のドアの右上に、何やら英語で書かれたプレートが貼られていた。英語が得意な瑠璃香が読み上げた。
「『部外者以外立ち入り禁止』だって」
インターホンらしきものも見当たらなかったので、和輝はアルミの扉をノックしながら呼びかけた。
「すみません。誰かいませんか?」
 しばらくして、ゆっくりとした足音がドア越しから聞こえて来た。
 コツ、コツ、コツ……。
「こんなところに誰かいのぉ」
 ガチャ。
 ドアが開き老人が現れた。その老人は、禿げあがった頭の周りから長い白髪を垂らし、白く長いあご髭を蓄えていた。それは神話に出てくるドワーフに似ていた。
「なんと、こんな若いおなごとおのことは」
「こんにちは。すみません、びっくりさせたみたいで。僕たちこの土地に迷い込んでしまい、偶然ここを見つけたんですが……」
 和輝が言った。
「この寒さで凍え死にそうなんです」
 瑠璃香がそれに続けた。
「それは大変じゃったのう。まあ、中に入りなさい」
 老人は快く二人を招き入れた。

■太陽の届かぬ世界
 小さい部屋の片隅に、古めかしい薪ストーブがその周囲の空気を揺らしながら、ぼうぼうと焚かれている。老人の趣味だろうか、温かみと威厳のあるウォールナット製の椅子に二人は腰かけた。そして和輝が早速、老人に尋ねた。
「ところで、ここはどこなんですか?」
 二人は老人の話に相槌を打ちながら耳を傾けていた――。ただただ、驚きながら聞いていた和輝は瑠璃香に尋ねた。
「お前何か知ってたんじゃないか?」
「ごめん、実は私知ってたんだ。後でゆっくり説明するね」
 瑠璃香は申し訳なさそうに答えた。和輝は今すぐにでも聞きたい気持ちを抑えて老人の方に向き直した。
「なぜここはこんなに寒いんですか?」
 老人が深刻な面持ちで話し始めた。
「おぬしたちは太陽の周期変動というものを知っておるか?」
 和輝は少し間をおいてから、ピンと来た様子で答えた。
「詳しくは知りませんが、確か太陽から地球に届くエネルギーが黒点の数によって十一年周期で変動する……もしかしてあのことですか?」
「あっぱれ。その通りじゃ。なぜそのことを知っておる?」
 老人は感心した様子で尋ねた。
「中学理科の天体の授業で、豆知識的な感じで先生から教えてもらったことがあったので」
 和輝は少し照れくさそうに、黒くて短い七分分けした前髪を掻き上げながら答えた。
「太陽のエネルギーの活動周期には、それ以外に数百年規模のものが知られておる。今から四百八十年前に、『第一極小期』といって、太陽のエネルギーが著しく低下してわずかな光しか届かず、約五十年間、寒さと闇の世界が続いたのじゃ」
 老人の表情が曇り始めた。
「その時代に生きていた人々の多くは、作物が育たないことによる飢えと、何よりその突き刺すような寒さで息絶えていった……」
「そんなことがあったなんて……」
 瑠璃香が悲しそうに老人を見つめると、老人は続けた。
「そしてその時代が終わり、平和な時代が続くと思いきや。四百三十年経った今――」
 突然、老人の表情が強張り、それに釣られて二人の表情も緊張する。
「まさに、二度目の寒さと闇の時代――『第二極小期』に突入しようとしておるのじゃ!」
「え? 何ですって!」
 和輝と瑠璃香が叫んだ。
「今は夏のはずなんじゃが、このありさまじゃ。おぬしらも外で身を持って感じたと思うが。もうここには夏どころか秋も、そして春もやって来ることはない……」
 老人は溜め息混じりに呟くと、瑠璃香が間を置いて言った。
「でもこのまま何もしないで諦ちゃいけないはずです」
「何か方法はないんですか?」
 和輝は真剣な表情で尋ねた。
「方法はないわけではないが……」
 老人はしばらく黙りこんで、ゆっくりと話し始めた。
 
■幻の石
「おぬしらも知っての通り、我々は便利さと豊かさを求める中で石油を電力に変えたり、乗り物の燃料にしたりした。それだけでなく、プラスチックなど様々な石油製品にも使ってきた。その結果、石油は枯渇していった。そのため、ここ数十年間、生活や経済を支える電力は水力発電に頼るようになってきた。しかし、その大事な水さえも……」
 和輝は老人の次の言葉を察した。
「『第二極小期』に突入することで凍りついてしまう」
「そう……」
 老人は肩を落とし俯きながら呟いた。
「その頃の平均気温はマイナス二十度にまで下がり、体の芯まで凍りつくような寒さが続く。それを凌ぐ方法がなければ、人間はおろか動植物にも望みがないじゃろう」
 だが次に、曇った老人の目に微かに光が灯った。
「ただ、僅かだが望みがある。オレイカルコス――」
「オレイカルコス? ――何ですかそれ?」
 瑠璃香が尋ねた。
「この国のどこかの洞窟の奥深くに存在するという幻の石のことじゃ。昔、一人の錬金術師がオレイカルコスの巨大岩を見つけ、その一片を削り取って持ち帰ったのじゃ」
「でもその石を使って何か出来るのですか?」
 和輝が尋ねと、老人は鋭い目で言った。
「その石は微かに差し込む太陽の光から莫大なエネルギーを生み出すことができる」
「『内部光電効果』というやつですね? 波長が短く高いエネルギーを持つ紫外線を金属に当てると、その内部で伝道電子が増える現象を利用した」
和輝が付け足すと、老人はそれに続けた。
「相変わらずよく知っておるの。その錬金術師も持ち帰ったオレイカルコスについてその物性など様々なことを研究し、『内部光電効果』を持つことを発見したんじゃ。ところが、志半ばにして不慮の事故で亡くなってしまった……その時の文献を見つけたんじゃ。ただ、どういう理由かその文献の中でオレイカルコスのあった場所については何も記されていなかったのじゃ……」
 老人の表情が一瞬曇った。が――。
「じゃが、その場所を示しているかもしれない古い言い伝えがあるのじゃ」
 老人は本棚から古めかしい一冊の本を取りだした。
「これは、この国に伝わる言い伝えを書き写したものじゃ。ここを見てくれ」
 老人は鮮やかな水色の鳥の羽根が挟んであるページを開いた。
「こう書いてある。『大地の始まり荒らす者に、あまたの黒い雷降りかからん――天からの菫色封ぜられし時、大地に常しえの森羅広がらん――』」
 読み終えた老人が顔を上げた。
「実は、この本はあの錬金術師の部屋にあったものなんじゃ。このページにこの羽根が栞のように挟んであった。ひょっとすると、このページがオレイカルコスのある場所を示しているんじゃないかと思うんじゃ。じゃが、わしにもこれが何を意味するのかよく分からん」
「そうですね。どういう意味なんでしょうね」
 和輝は老人の読んだ言葉を頭の中で繰り返していた。
 ……。
「もし、オレイカルコスを見つけることが出来たら――」
 老人は重くなりかけた空気を振り払うように語り始めた。
「それを用いてシェルターを作りたいと思っておる。わしの錬金術でオレイカルコスの純度を高めて熱効率を上げることが出来れば、それも可能となる。その空間は外の寒さから守られ暖かい。微かな光によって、そこには僅かながら作物も実るであろう」

■二人の決意
 老人はさらに続けた。
「この国は『第一極小期』が終わってから人口減少が持ち直し、現在では五万人程の人間が住んでおる。ただ、この村に限っては千人程度……。オレイカルコスを見つけたとしても、どれほどのシェルターを作れるかは分からない。が、村の人間だけでも生き残られれば、この国の未来に希望を繋ぐことが出来る」
 老人はしばらくの沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。
「どうじゃ、ここはひとつ、どうにかしてその幻の石を見つけ出してくれんかの?」 
「え? ――誰か他に助けてくれる人はいないんですか?」
 和輝が聞いた。
「残念ながらおらん……。差し迫った課題である石油資源に代わるエネルギーの開発に全世界が躍起になっておる。こんな小国の問題に手を貸してくれる国などおらん。この村のいやこの国の人々も自分達が生き延びるのに精一杯で、誰もわしの話に耳を傾けてくれんのじゃ……」
老人は望みを託すように和輝の両手を握り締めながら言った。
「どうか……頼む」
「……」 
 二人は黙り込んだ。そんな二人を見て老人は口を開いた。
「もし見つけてくれれば、褒美としてここに一台残っているスカイホイール361号を差し上げよう。これさえあれば、元の世界に戻れるのではないか」
「え? スカイホイールがあるんですか?」
 二人が目を見開くと、老人が答えた。
「空飛ぶ自動車として全世界に広まったのじゃが、燃料がなくなって次第に姿を消していったのじゃ。この村にはもうこの一台しか残っておるまい」
 二人はまたしばらく黙り込んだ。和輝が瑠璃香の方を向いた。
「……でも、そのスカイホイールがあれば本当に元の世界に帰れるのか?」
「うん、大丈夫。帰れると思う。やってみようよ」
「そうだな。もうこうなったらやるしかないよな」
 和輝は鼻筋の通った顔を引き締め、腹を決めた。
「その石がどんなものか興味あるし」
 瑠璃香も小さい鼻とは不釣り合いなぱっちり大きな目を輝かせた。
「おお。ありがとう!」
 老人は二人の手を握った。

■地下での闘い
 老人は椅子の足を床に擦らせながら、両膝に両手をついてゆっくり立ち上がった。
「そうじゃ。ついでと言っては何だが二人にわしの一人息子を紹介しておこう。ダムの地下に発電所の管理室がある。息子には数人の部下がおり、それを束ねている責任者じゃ」
 老人に案内され、二人は応接室の奥にある扉を開き、管理室に続く細く長い階段を下りて行った。 
 ゴー……。
 直径一メートル程ある巨大な鉄管の中を、もの凄い重量の水が重低音を響かせて下に向かって落ちている。天井の小さな蛍光灯が遥か下方まで続く階段を点々と照らしていた。地下に着き管理室の扉を開けると、パッと明るくなった。
 部屋の中は無数の制御盤に囲まれていた。そこには、老人の息子が淡々とした表情で、ボタンが並ぶ制御盤に向き合い座っていた。中肉中背、浅黒い肌にぱっちり二重の目で愛嬌と精悍さを備えた顔つきだ。
「こんにちは。始めまして」
 老人に促され二人と息子は挨拶を交わし、互いに紹介し合った。二人はさらにその奥にある発電所建屋に案内してもらった。扉を開けると、そこには薄暗く広大な部屋が広がっていた。天井には無数のダクトが張り巡らされている。
 ビュイーーン。
 強い水圧によって回転する巨大なタービンが目の前にそびえていた。
「一号機、二号機共に異常なーし!」
 遠くから、管理員達の勢いのある掛け声が機械音に混ざって響き渡る。調整バルブの前に立ち、メーターを見ながらハンドルを回す者もいる。ただ、部屋の中はあまり人の気配はなく閑散としていた。
「御覧の通り人手が足りないながらも頑張っています。残念ながら私は持ち場を離れる訳にはいきません。頑張ってください。幻の石、きっと見つかりますよ、信じています」
 老人の息子はヘルメットを脱ぎ額の汗を拭いながら、二人に激励の言葉をかけた。
 二人と老人は応接室に戻り、その夜遅くまで、オレイカルコスを見つける作戦を練った。

■旅立ちの朝
 翌朝、二人は登山用のジャケットに、ニット帽、厚手の手袋、登山靴を身に付けた。食糧や水などで膨れ上がったリュックサックを背負った。
 ――澄み切った藍色の空を柔らかく照らすようにオレンジ色の朝陽が昇り始めた。
「では行ってきます」
 和輝は覇気のある声で挨拶した。瑠璃香はにっこり軽く会釈をした。
「健闘を祈っておるぞ」
 老人は希望を託すように別れを告げた。幻の石を探すための二人の旅が始まった。

第二章

目次
 険しい雪道
 未知の洞窟へ
 黒い物体
 巨大コウモリ
 突破口の模索
 決死の忍び足
 絶対絶命
 安堵の目覚め
 窮地の後の余韻
 あの光の先へ


 二人は長い道のりを経て転々と洞窟を渡り歩き、その内部を探索した。    
 夜になると別々のテントで休息をとった。
■険しい雪道
 これまでの快晴の六日間と打って変わって、雲がかった灰色の空から大粒の雪が舞いおりる七日目の朝――。
 テントの前には純白の急斜面がそびえており、その先に洞窟の入口が見える。
「もう限界……この辺で一旦引き返そうよ」
 瑠璃香はうなだれるように言った。小刻みに震える瑠璃香の顔が若干青白く、唇の色が紫がかっている。
「おじいさんも無理するなって言ってたじゃん。ああ、もう食べ物だってなくなってきてるし」
 瑠璃香はリュックの奥まで手を突っ込みごそごそと探った。
「私の大好きな板チョコちゃんまで……」
 少し涙ぐみそうになりながら呟いた。
「分かってる。でもせっかくここまで来たんだ。あの洞窟で駄目だったら引き返そう」
 和輝が力づけた。
 カツッ、カツッ、ガツ……。
 二人は前のめりになりピッケルを雪面に刺しながら一歩一歩登っていった。

■未知の洞窟へ
 二人はやっと洞窟の前にたどり着いた。瑠璃香の顔が強張る。
「なにこの入口……食べられちゃいそう」
 その入口は、あらゆるものを闇に吸い込むかのように大きく口を開いていた。そこからは今までの洞窟とは違うただならぬオーラが放たれていた……。
「この奥には何かありそうだな」
 和輝は大きな不安と微かな希望を胸に呟いた。和輝はその中に一歩目を踏み入れ、瑠璃香が恐る恐る続いた。熱を逃さない構造になっているのか内部は外に比べると温かかった。冷え切って感覚のなかった手足に、じんと熱が戻るのが分かった。
 暗闇の中、和輝が懐中電灯で周囲を照らした。すると、六階建てのビルがすっぽり入りそうな高さと、その二倍はあるだろう横幅を持つ空洞が広がった。その壁は、様々な形をした石灰岩で埋めつくされ、奥まで延々と続いている。岩肌は発光性の微生物が繁殖しているのか、所々が青白く微かに光っていた。
「見てみて。綺麗……」
 瑠璃香が天井を指差して言った。無数の細長い鍾乳石が地面に向かって伸びている。石灰石を溶かしこんだ地下水が天井から滴り落ち、長い年月をかけてできたものと思われた。
「何だか岩のパイプオルガンみたい――」
 瑠璃香がそれらをうっとり見つめていると、和輝が何かを察知した。
「表面が乾いていて赤みがかっている……一千万年以上前の類人猿の時代、いやもっと前、一億年以上前の白亜紀に出来たものかもしれない」
「へぇ、これだけの長さになるまでそんなに時間がかかるのね」
 瑠璃香は感心した様子で言った。
 二人は幻想的な風景を眺めながら慎重に奥へ奥へと進んで行った。

■黒い物体
「あ、見て見て。あそこにも生えてる」
 瑠璃香は数メートル先の地面から生えている小さな鍾乳石を指差すと、童心に返ったように駆け寄っていった。とその時だった。
 バサッ、バサバサバサッ!
 瑠璃香の目の前を巨大な黒い物体が、もの凄い勢いで通り過ぎていった。
「危ない! 伏せろ!」
 和輝は手を振り降ろして瑠璃香に合図をすると、素早く近くの岩陰に隠れた。瑠璃香も慌ててそこへ隠れる。その黒い物体が向かうすぐ先に、白いふわふわした物体がぴょんぴょん跳ねながら逃げていくのが目に入った。
 ギャッ!
 残念ながら捕まってしまった。どうやらその黒い物体は獲物を待ち構えて天井から奇襲をかけたようだ。獲物の子ウサギは寒さを凌ぐために一時的にこの洞窟で休んでいたのだろう。
 和輝が懐中電灯を消して、二人は岩陰からそっと目元まで頭を突き出す。もがき動く白ウサギの首を持ち上げている影は見えるが、暗くてはっきりとは見えない。その影がこちらに背を向けた状態から振り返った。黄色く光る二つの目と胴体から伸びる羽が見えた! 二人は目を疑った。

■巨大コウモリ
 何とそれは、羽を広げると三メートルはあるかと思われる巨大なコウモリだった。
「きゃあ!」
 瑠璃香は絶叫した。和輝は咄嗟に瑠璃香の腕を引っ張り岩陰に連れ戻す。そして、瑠璃香の感情の高ぶりを抑えるように耳元で囁いた。
「静かにしろ、襲われたいのか」
 和輝がそう言うと瑠璃香の顔が強張った。そいつは周囲をぐるりと見渡した。
 キキ―!
 仲間に何やら合図を送ると、白ウサギの首を咥えてバサバサと飛び去って行った。
「うわ、かわいそう……」
 両目を手で覆い瑠璃香はその光景を遮った。そいつの姿が見えなくなると、和輝は深刻な面持ちで言った。
「様子がおかしい……普通のコウモリと違う。巨大化して凶暴化している。きっと『第一極小期』か、それより昔の極小期によるものだろう。異常な寒さで川や池が凍って、主食にしていた魚やカエルが減っていき、獲物がウサギなどの小型哺乳類に変わっていったんだろう。この様子だと俺たち人間も獲物にされるかも――」
 その時、遠く離れた天井からざわざわと鳴き声が聞こえてきた。二人が先ほどの巨大コウモリが飛び去った方を恐る恐る見上げると……なんと無数の黄色く鋭い光が一斉にこちらを照らしたではないか! 天井を埋めつくさんばかりのおびただしい数の巨大コウモリがこちらを凝視している。
「きゃ……」
 和輝は咄嗟に彼女の口を片手で塞いだ。
「静かに」
「私達も食べられちゃうの?」
「やつらはとっくに俺たちのことに気付いているはずだ。まだ襲って来ないってことは、獲物かどうか見定めているんだろう。どうにかしてやつらを刺激しないようにここを突破しないと……」
 無数の光る目は洞窟に入ってきた愚かな侵入者を威嚇しているようでもあり、監視しているようでもあった。
「こんな大群に襲われたらひとたまりもない。とにかく攻撃のターゲットにならないことだ」

■突破口の模索
 どうやらこの洞窟から次の洞窟へ続く穴は一つしかないようだ。しかも、運悪く、その穴は巨大コウモリの群れがいる天井の下にある。しかし、その小さな穴の奥からは外界の光がうっすら差し込んでいた。二人にはそれは微かな希望の光に見えた――。
 目の前には地底へ続くかのような巨大な裂け目がぽっかりと口を開けていた。向こうの穴に辿り着くには、懐中電灯の光を頼りにこの裂け目を迂回していくことになる。ただ、足元の先には、行く手を妨げるように大小様々な大きさの石灰岩が転がっていた。
「コウモリは反響定位で獲物の位置を把握するんだ。だから、どんなに静かに動いていても俺たちの動きは筒抜けだ」
「ハンキョーテーイって?」
「聞いたことあるだろ。コウモリが出す超音波のことだよ。その音が獲物に跳ね返って来たのを聞いて、獲物の位置を知るんだ。その耳の感度はすごく良い。とにかく刺激しないように穴まで行かないと」
 和輝は、体勢を低くして両手でバランスをとり、ゆっくり片足を踏み出す仕草をやってみせた。
「こうして、そっとな。いいな?」
 和輝が念を押すと、瑠璃香は今までと打って変わって凛とした表情で言った。
「分かったわ」
「よしっ」
 和輝も小さく気合を入れた。

■決死の忍び足
 巨大コウモリの群れの鳴き声は既に消え、辺りを不気味な静寂が包む。
 二人は足元に細心の注意を払いながらその穴に向けて歩んでいった。穴までの中間地点に差し掛かったところである。
 ビチャッ。
 和輝の背後からその音は洞内に響き渡った――。 
 瑠璃香が不用意に岩場から足を滑らせ、小さな水たまりを踏みつけてしまったのだ。和輝は動きを止め、巨大コウモリの群れを注視する。幸いやつらの様子に変化はなかった。 瑠璃香はえへへと笑って誤魔化そうとしたが、和輝は瑠璃香を睨みつけ注意を促した。それを境に二人は今までよりさらに慎重に歩を進めていった。
 ――いよいよ穴まで十メートルの所まで近づいた。ここからはわずかな足音も立てられないと、和輝は人差し指を口元に近づける仕草をした。二人は数百の視線を頭上に感じながら、神経を足元に集中させる。登山靴のつま先が地面に触れてからかかとが付くまでの時間がとてつもなく長く感じる。
 ピチャッ……ピチャッ……。
 天井から落ちる滴のおとだけが洞内に響き渡る。同様に二歩目を踏み出した。三歩目、四歩目……気持ちだけ二人の足が速まる。
 ようやく穴まで残り三メートルとなった。
 ――後もう少しだ。
 和輝は心の中で呟いた。背後の瑠璃香にもこの想いは届いているだろう。そして残りわずか一メートルに差し掛かった。
 ――よし、後一歩。
 和輝は心の中でガッツポーズをした。その時である。
「ぷふっ!」
 瑠璃香がどういうわけか、突然吹き出してしまったのだ。

■絶対絶命
 巨大コウモリ達が一斉にざわめき始めた。そして、次の瞬間である。
 キッキキ―ッ!
 数匹のコウモリが、もの凄い勢いでこちらに突進してきた。瑠璃香はあまりの恐怖に腰を抜かしてしまい、ドサッ、とその場にお尻から倒れこんでしまった。最初の数匹に続いて、天井の巨大コウモリが一斉に二人めがけて押し寄せてきた。和輝は一瞬立ちすくんだがすぐ我に返り、瑠璃香の手を引っ張り立たせようとした。しかし、リュックの重みが瑠璃香の体重に加わって容易には持ちあがらない。
 ギ―! ギギー!
 その間もそいつらの声はどんどん大きくなってくる。和輝はその場から逃げることを諦めた。急いで瑠璃香のリュックのファスナーを開け、中に手を突っ込んだ。コウモリの餌になるものを探したのだ。しかし、手に触れるものはペットボトルか、くしゃくしゃになった板チョコの外袋で、餌になりそうなものは見つからない。
「何でないんだよ!」
 もうはっきりと黄色く光る眼球が見えるまでそいつらは近づいてきていた。
「あった!」
 伸ばした手が、食べかけの乾パンの缶詰に触れた。
「これだ!」
 ふたをはぎ取ると、その缶ごと、すぐ横に口を広げている巨大な裂け目をめがけて精一杯投げつけた。缶は綺麗な放物線を描いて裂け目に向かって飛んで行った。缶は一度、岩にぶつかり、ガンッ! と大きな音を響かせて、乾パンを撒き散らしながら暗闇の中に吸い込まれていった。先頭の巨大コウモリが羽ばたいて出来た風が和輝の頬をかすめた時である。そいつは急激に進路を変えて穴の方へ向かっていった。それに続くように、後を追ってきた群れも、磁石に引き寄せられる砂鉄のように闇の底へと消えていった……。
「やったぞ!」
 和輝は声をあげた。
 和輝は意識が朦朧としている瑠璃香を背負い、這うようにして次の洞窟へ続く穴に入っていった。

■安堵の目覚め
「ん……んん……」
 瑠璃香の目がうっすらと開く。横たわったまま軽く伸びをするとしばらく宙を見つめていた。横に座っている和輝に気付いた。
「ここはどこ?」
「俺達が向かっていた穴の中だよ。どうやら坑道になってたみたいだ。途中でこの広場を見つけたんだ」
「巨大コウモリは?」
 瑠璃香はゆっくり起き上がった。
「もう居ないよ」
「でも追ってきたりしないかな?」
「こんな狭いとこじゃ飛べやしないよ」
「よかったぁ」
「正確にいうと俺が追い払ったんだけどな。尻拭いをさせられたんだよ、お前の」
 和輝はわざと嫌味ったらしく言った。
「というより、何で私今までこんなところで寝て……」
 和輝に尋ねようとした時、瑠璃香の腰に鈍い痛みが走った。
「あいたたたた」

■窮地の後の余韻
「そうだ、私があの時吹き出して、巨大コウモリ達を刺激してしまったんだよね? そして腰を抜かして……」
 瑠璃香は恥ずかしそうに言った。
「その通り。あの後、一緒に逃げようと腕を引っ張ったんだけど、まあ重くて持ちあがらない」
「で、どうしたの?」
「咄嗟にお前のリュックの中の乾パン放り投げたら運よくそっちに目が行ってくれて」
 瑠璃香は和輝の答えに納得した。そしてにっこりと囁いた。
「ありがとうね」
「――お前太っただろ?」
 和輝が唐突な質問をする。
「太ったってどういうこと? 太ってません」
 デリカシーのない質問に瑠璃香はむっとした。
「甘いもの食い過ぎなんだよ」
「何でそう言えるの?」
「リュックの中身探した時、じいさんからあんなにもらった板チョコが全部なくなってたよ」
「あなたには関係ないでしょ」
「俺が餓死してもいいってことか?」
「……」
 瑠璃香は何も言い返せなかった。沈黙がしばらく続いた後すぐに和輝は話題を切り換えた。
「ところで、さっきの『あの時吹き出して』ってどういうことだ?」
「いやね。和輝の頭の後ろにコウモリのフンが付いててさ。急に可笑しくなって――」
 むくれていた瑠璃香がけらけらと笑い始めた。
「そういうことか」
 和輝は呆れたが納得した様子で呟いた。
「とってあげる」
 瑠璃香は和輝のニット帽に付着してかりかりに乾燥した糞に手を伸ばした。
「やめろ。素手で触るな」
 和輝が瑠璃香の手を振り払った。
「病原性のウイルスを持ってるかもしれない」
 和輝はペットボトルの水をかけて糞を洗い流した。

■あの光の先へ
 細く薄暗い坑道の中をはるか遠くの光に向かってひたすら歩いた。
 瑠璃香が和輝に尋ねた。
「でも坑道ってことは、ここを誰かが掘ったってことよね?」
「だな。どう見ても自然に出来た道じゃないからな」
「でも、一体誰が……。あの言い伝えを書いた人達?」
「さあな。そうかもしれないし、それよりもっと昔の人かもしれない――。ところで、瑠璃香」
「え、何?」
「さっきの巨大コウモリの群れのことなんだけど……あいつらって、俺らを単なる獲物として狙っていたのかな」
「え?」
「いや、俺らがあいつらを刺激してしまって襲われた時、噛みつかれはしても喰い殺されるとまでは思えなかったんだよな」
「どういうこと?」
「獲物を狙っているというより、俺達の侵入を拒むために監視していただけのような……そう、この奥にある我々人間に知られてはまずい何かを守るために」
 すると瑠璃香が思い出したように言った。
「そういえば、旅立つ前日におじいさんが喋ってた言い伝え覚えてる? 錬金術師が持ってた本――」
「ああ、覚えてるよ――『大地の始まり荒らす者に、あまたの黒い雷降りかからん』」
 和輝はゆっくりと唱えるように言った。
 二人はしばらくその言葉を頭の中で繰り返す。
 ……。
「それだ! 間違いない!」
 和輝が閃いたように声を上げ、続けた。
「『黒い』ってあのコウモリのことだよ。そして『雷降りかからん』は、そのコウモリが襲ってくることを意味してるんだ、きっと。そして『荒らす者』とは、洞窟に侵入してきて『あるもの』を奪おうとする者ということ」
 瑠璃香の目が輝きを帯びてくる。
「じゃあ、もしかして……『大地の始まり』って」
「そう、オレイカルコスのこと――」
 和輝は確信を込めて言った。
「『大地の始まり』というのはオレイカルコスが、生命を育む力を持つことを指してるんじゃないだろうか。やっぱり、あの言い伝えはオレイカルコスの場所を指してたんだ。この道の向こうにきっとあるはずだ」
 和輝は遠く先から差し込む光を見つめた。
「さあ」
 和輝は歩みを速めた。
「待ってよ、かずき―」
 瑠璃香も後を追った。

第三章

目次
 希望への架け橋
 聖なる洞窟へ
 異世界への導き
 縁取られた絵画
 巨大岩の塔
 封ぜられし菫色
 コスモス
 塔から広がる緑


■希望への架け橋
 坑道は出口に向かってほぼ真っすぐ伸びている。オレイカルコスがあるのではないかという期待で二人は足早になった。しかし、巨大コウモリから逃げるために体力を使い、リュックの重みも加わるとなると、地面の少しの起伏が足腰に堪える。
 次第に道が開けてきた。視界を確保するのに十分な光が前方から差し込んでくる。和輝は懐中電灯の光を消した。
「見て見て――何か生えてるよ」
 瑠璃香が足元の岩肌に付いたコケを指差した。
「こいつらは寒さと乾燥に強くて弱い日当たりでも生きていけるからな。ここから見る限り出口は外と直接繋がっているみたいだ……」
出口の穴から空がはっきり見える所まで来た。正午にさしかかった澄み切った空が写し出されている。どうやら朝からの大雪は止んだようだ。そして、 登り斜面になっている穴の出口から外界に出た――。
 なんと目の前は深い谷になっており、その向こう岸にはごつごつした岩場が広がっているではないか。足元から前方には、まるで岩で出来た橋のように、谷を横切る細い道が伸びている。もちろん手すりなどは付いていない。その先には巨大な岩で囲まれた入口のようなものが見えた。
「どうやらまだ中間地点だったようだな」
 和輝は険しい表情で呟いた。瑠璃香は気持ち良さそうに両手を空に掲げて伸びをした。
「やっぱりいいね。外の空気は」
 外は洞内よりは冷たいが、早朝よりもうららかであった。
 和輝は足元を確かめながら慎重にその岩の橋を渡っていった。一方瑠璃香は、周囲の景色を楽しみながら和輝の後に続いた。そして、入口の前に辿り着いた。

■聖なる洞窟へ
 その入り口は先ほどの洞窟とは違い、闇に吸い込まれるような感じではなかった。岩が積み重なったような構造であり、天井の隙間からは光が差し込んでいる。岩肌も黄土色の石灰岩とは異なり、艶のある明灰色の花崗岩であり、天井からの光と相まって、神聖な感じがした。
 グ、ググー……。
 洞窟に入ろうとした時、空腹が二人を襲った。
「そろそろお昼にしようよ」
 瑠璃香は腕時計を見た。
「ここで外の景色を見ながら食べるのもいいかもな」
 和輝は賛成した。二人はシートを敷き、余った乾パンを頬張り、ペットボトルの水を喉に流し込む。瑠璃香が残った最後の乾パンの缶ブタを剥がそうとした時である。和輝が声をかけた。
「そいつは帰り道のコウモリ対策にとっておこう」
 瑠璃香は少し残念そうにフタに伸ばした手を止めて言った。
「だよね」
 和輝は立ち上がりながら言った。
「もうひと踏ん張りみたいだな」
「うん」
 瑠璃香は穏やかな表情で答えた。
 内部は思ったより広く、光が差し込んでいるとはいえ薄暗い。和輝が懐中電灯で周囲を照らしながら二人は進んでいった。
 危険な動物の気配はなく地面の起伏も少ないが、所々尖った岩がむき出しになっているところもあった。岩には黄色やピンクのマーブル模様があり、瑠璃香はそれを見るたびにはしゃいだ。 

■異世界への導き
 しばらく進むと洞窟はだんだん狭くなり、直径三メートルほどになった。岩の隙間から漏れる光で、今までより明るさを増しているようだ。二人は躊躇することなく先へ進む。
 ふと和輝が岩に絡み付いているツタに気付いた。
「おかしいな。こんな寒いところに」
 葉っぱは光沢のある黄緑色で、所々小さいブドウのような濃い紫色の実が成っている。
「葉っぱの色といい実が成っていることといい、寒い所の植物には見えないな」
「そういえば、だんだん暖かくなってきた気がする」
「確かに」
 額にじんわり汗が滲んできた。二人は分厚いスキーウェアとその下のセーターを脱ぐ。和輝は不可思議な出来ごとに心が高鳴ってきた。ツタは天井にぐるりと張り巡らされ、
 浅く三股に分かれた葉っぱが二人をその先へ手招いているように見えた――。
 出口が迫ってきて、外の景色が徐々に鮮明になってくる。そこには、今までの硬い純白の世界とはかけ離れた柔らかい緑色の世界が映っていた。
残り数メートル、なんと地面の両脇に、背の低い雑草が黄色い花を付けているではないか。そして二人は穴の外へ出た。

■縁取られた絵画
 目の前に広がった光景に、和輝は言葉を失った。
「わあ、すごい!」
 瑠璃香は感嘆の声をあげた。
 目の前には、一面若緑の草原が放射状に広がっていた。遠く前方には緑色の巨大な岩の塔が天高く伸びているのが見える。上空には淡いオレンジ色の薄雲が広がっていた。草原には、白・紫・黄と色とりどりの花が咲き、点々と木も生えていた。そこを小鹿やうさぎなどの小動物が楽しそうに駆け回っている。木の上では小鳥達も鳴いている。草原の周囲は断崖絶壁になっている深い谷で、対岸まではかなり距離がある。それはあらゆるものの侵入を拒んでいるようであった。対岸には今までと変わらず純白の世界が広がっている。この空間だけ洋風の白い壁に縁取られた絵画のようであった。

■巨大岩の塔 
 和輝は片手で日差しを遮り、前方にそびえ立つ塔を見上げた。それは細長い三角錐の形をしていて、底幅は十メートル、高さはその三倍はあるように見える。
「もしかしてこれがあの幻の石?」
 瑠璃香が和輝に尋ねた。
「おそらく……この特徴的な形状からして。ただ、これは緑色だ。オレイカルコスは暗緑色だったはずだが……」
 和輝は腕組みをする。
「それより見てよ、見て見て」
 瑠璃香は駆け足で花々のそばまで行ってしゃがみ込むと、一輪一輪指を差していった。
「これはオイランソウでしょ、これはカラミンサ、これは……ガーベラかな?」
「お前詳しいな」
 和輝が感心すると瑠璃香は少し照れたが、その後すぐ和輝の背中を押すように言った。
「とりあえずあの岩の麓まで行ってみようよ」
 ――その塔の周囲は一面ピンクの花で覆われている。二人はその花園を通り抜け塔の根元に辿り着いた。足元を見ると、塔の周囲には大小・色様々な透明な石が張り巡らされていた。瑠璃香は巨大な塔を目の前にし、その荘厳さに圧倒されて息を呑んだ。和輝はその全体を眺めて言った。
「この艶といい色合いといい巨大な石の結晶であることは間違いない」
近くで見ると、塔は暗緑色と浅緑色の二色のマーブル模様になっていた。瑠璃香がそっと目を閉じた。
「何だかお母さんの腕の中にいるみたい――」
「どうやらさっきの鍾乳石と同じく大昔に、地下マグマから奇跡的に出来たものみたいだ。この暗緑色の部分がオレイカルコスかもしれないな」
 和輝は感慨深そうに言うと瑠璃香と同じように目を閉じ深呼吸をした。
「誰かが俺らみたいにこの前で目を閉じて、何か祈ってたりしてたのかもしれないな」
 しばらく二人はその厳しさと優しさを併せ持つ神秘的な光景に見入っていた。

■封ぜられし菫色
 瑠璃香が額の汗を拭った。
「さっきより暑くない?」
「確かに」
 和輝がおもむろに巨大な結晶に近づき表面に指を触れる。
「熱い……熱を帯びている」
「え?」
「この巨大な熱でこの周囲を暖めてるんだな。だから、ここだけ外の寒さからバリアを張ったように、春や秋のような季節になる」
 和輝は目をつぶり、老人から教えてもらった言い伝えをゆっくりと唱え始めた。
「『天からの菫色封ぜられし時、大地に常しえの森羅広がらん』……そうか、なるほど」
 和輝は腑に落ちた。そして瑠璃香に説明を始めた。
「『天からの菫色』とは、おそらく太陽光に含まれる紫外線のこと。『封ぜられし時』はオレイカルコスがその光を吸収することを意味している。この巨大な結晶は紫外線を吸収してそのエネルギーを熱に変えているんだ。じいさんが言ってたオレイカルコスの原理そのものだよ。強い紫外線は動植物の組織やDNAを傷付けその成長を著しく妨げる。大気を汚す廃棄物が増えてオゾン層の破壊が進んで、紫外線が素通りしていると考えられる。でも――」
 和輝は淡いオレンジ色の薄雲を見上げ、続けた。
「ここではこの結晶がほとんど吸収してくれるだけじゃなく、紫外線のバリアになる物質を上空に放っているんだろう」
「通りで、今まで動物や草木がほとんど見受けられなかったり、日焼け止めが余り効かなかったりしたんだ」
「でも、その後の『大地の』からが分からない」

■コスモス
 和輝は額に手をやりしばらく考え込んだ。そして、ふと足元に目をやる。
「それより、この周りに生えている薄いピンクの花はなんて言うんだ?」
「やぁね、和輝らしくないよ。秋桜で有名でしょ。コスモスよ。コスモス……コスモス(cosmos)はギリシャ語で『秩序』『美しい』って意味。星が綺麗に揃っている『宇宙』をコスモ、花びらが綺麗に揃っているこの花をコスモスって呼ぶようになったんだよ」
「お前、花のことはよく知ってるな」
「まあね――花言葉は乙女の純潔。まるで私の心のようね」
「はいはい。どこがだよ。どっかの金持ちの社長がいいとか、顔は芸能人の誰誰がいいとか、とっくに薄汚れてると思いますが」
 和輝が嫌みったらしく返した。
「しかも、お前もう成人してるんだし、そういうこと言う年でもないだろ」
「何よ――相変わらずデリカシーのないことを言うわね」
 瑠璃香は脹れっ面をして和輝を睨みつけた。が、すぐににこにこしながらしゃがみ込み、足元のコスモスに何やら話かけていた。
「コスモス……?」
 そして、和輝は閃いたように叫んだ。
「それだ!」
「何よ、びっくりさせないでよ、今コスモちゃんとお話してるとこなのに」
「さっき俺が唱えた言い伝え覚えてるか? 『天からの菫色封ぜられし時、大地に常しえの森羅広がらん』だよ。森羅は『宇宙』と同じ意味。お前さっき言ってたよな? コスモスと『宇宙』は語源が一緒だって。やはり、コスモスに囲まれたこの場所がその言い伝えの場所に違いない」
 和輝は自信に満ちた笑みを浮かべた。
「ついに幻の石、オレイカルコスを見つけたぞ」
「やったぁ!」
 瑠璃香は歓喜の声をあげた。

■塔から広がる緑
 ただその後すぐ、瑠璃香は困惑した様子で言った。
「でもこんな大きな結晶どうやって持って帰るの?」
「一応、場所は突き止めた。まずはじいさんの錬金術とやらで、本当にオレイカルコスかどうか確かめてもらおう」
 和輝はハンマーで巨大な結晶の一片を削り取ると、サンプル用のフリーザーバッグに詰めた。老人にその外観を伝えるため、カメラであらゆる角度からシャッターを切った。そして、巨大な結晶の周りに広がる緑に輝く景色を見渡した。すると、そのまま黙り込んでしまった。
「どうしたの?」
「――いや、何でもない。さあ帰ろうか」
 二人は結晶の塔がそびえる草原を後にした。

第四章

目次
 期待の土産
 健闘の祝杯
 コナラの調達
 巨大な炉
 錬金術とは
 研ぎ澄まされた技
 レーザー解析
 各物性値より
 浮かない祝杯
 共生という矛盾


■期待の土産
 二つの洞窟を引き返し、外へ出た。夕陽が水平線に沈み空を橙紫色に照らしている。それを遠くに眺めながら老人の家へと向かった。
 ――こうして十日間に渡る旅が終わった。
 老人の家に着いた頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。和輝と瑠璃香の健闘を静かに称えるように、満月がうっすらと二人を照らしている。老人の部屋の窓からはロウソクの灯りが漏れていた。ヘトヘトに疲れていた瑠璃香はそれを見てほっとした表情を浮かべた。
 コンコンコン。
 和輝がドアをノックした。
 ガチャ。
 ドアが開くと老人が出てきてた。
「おお、お帰り。寒かったろうに。さあさあ、中で暖まりなさい」
 そして、あたかも二人が役目を果たせず止むなく引き返したかのように言った。
「まあ、焦ることはない。ここでしっかり休んでまた出直せばいい」
「それが……」
 和輝はわざと下を俯いて不甲斐なさそうに呟くと、その後すぐ顔を上げて目を輝かせた。
「見つかったんです」
「なんと!」
 和輝はリュックから結晶の一片の入った袋を取りだし、老人に差し出した。
「これが、あのオレイカルコス……」
 老人は最初、鋭い目で渡された結晶を見たが、徐々に頬を緩ませた。
「ありがとう――」
「ただ、まだ確実にオレイカルコスかどうかは分かりません」
 和輝は念を押すように言った。そして、老人にその巨大な結晶の塔の外観を撮った写真を見せた。
「うむ、これだけの量があればシェルターを作るには十分じゃろう」
 老人は表情を引き締めた。
「分かった。明日以降、わしの錬金術で成分を確かめてみよう。そして、オレイカルコスだと確かめられたら、約束通りスカイホイールを差し上げよう」
「どうか合ってますように」
 瑠璃香は両掌を合わせておまじないをするように呟いた。

■健闘の祝杯
 その日の夜――。
 老人はお気に入りのシャンベルタンをワイン棚から取ると、それを高く掲げた。
「二人の健闘を称えて乾杯といこう!」
 ガチャ……。
 ちょうどその時、部屋の奥にある扉が開いた。
「ただいまぁ!」
 低く威勢の良い声が響き渡った。それはダムの発電所から帰って来た老人の息子であった。ヘルメットを脱ぐと、所々薄い髪の毛が、汗で湿りくしゃくしゃになっている。
「ちょうど息子も一仕事終えたみたいじゃの」
 ――。
 和輝が老人の息子と、瑠璃香が老人と向き合って、暖かみのある木製の長テーブルに着いた。そのテーブルには老人が創った料理が並んだ。子羊のロースト、じゃがいものポタージュ、カブとレタスのサラダ…どれも綺麗に盛り付けられている。
「すみません、こんなに豪勢なものをふるまって頂いて」
 和輝は普段見慣れない料理を目の前にして、嬉しそうにお礼を言った。瑠璃香もぺこりと頭を下げた。
 老人から勧められた赤ワインを酒に強い和輝はぐいぐいと、酒に弱い瑠璃香はちびちびと飲みながら、四人は歓談した――。
 しばらくすると、酔いが二人に回り始める。和輝は道中での瑠璃香の様子を話し始めた。
「聞いて下さいよ。こいつ旅に出て早々に僕の分の食糧まで喰い尽してしまって」
 瑠璃香は横に座った和輝の腕を小突いた。
「それはそうと和輝だって、岩の一本橋でビビってたくせに」
 瑠璃香はけらけらと笑い始めた。
「それは……」
 和輝は黙り込んだ。老人は二人の他愛のないやりとりに微笑ましく相槌をうっていた。
 その後、老人はこの国の自然と歴史について語り始め、瑠璃香は興味深そうにそれを聞いていた。一方、老人の息子は何やら和輝に仕事についての苦労話を始めた。
「うちは一日中しかも毎日休みなく操業ですからね。ずっと神経を尖らせて異常がないか操作盤に向き合ったり、今日なんて油で真っ黒になりながらギアの交換ですよ……発電機のギアが劣化してたんです。最近入って来た若手がいるんですが、なかなか言うことを聞いてくれなくて。僕だって忙しい中、親身に世話をしてやっているのに」
「色々と大変なんですね……」
 頭は切れるがどこか物事に対して適当なところがある和輝は、生真面目な老人の息子の苦労話に時おり生返事をしつつも付き合っていた。
こうして、祝杯の時間は過ぎていった。

■コナラの調達
 その翌朝から、老人は持ち帰った結晶がオレイカルコスかどうかの検証を始めた。その前に、二人は老人から一仕事を頼まれる。
「もうすぐ山は雪で閉ざされる。じゃから、今のうちに薪を集めておきたい。すまぬが、近くの森で取って来てくれんかの?」
 老人は申し訳なさそうに二人に頼んだ。
「もちろん、二人だけでとは言わん」
 三人の会話を聞いていた老人の息子が奥の休憩室からこちらの部屋にやって来る。
「僕も協力しますよ。おやじには普段からこき使われてるんで」
「これ、余計なことを言うんじゃない」
 二人は老人と息子のやりとりを聞いてくすくすと笑うと、老人の願いを快く引き受けた。
 三人はコナラ林を求めてトラックで出発する。舗装されていない林道をしばらく走ると、コナラが生い茂る森を見つけた。
 和輝と老人の息子は、チェーンソーとヘルメット、切断時に出る木屑から目を守るゴーグルを装備して、作業に取り掛かった。二人は燃やすのに適当な太さの枝をひたすら切っていく。瑠璃香も切った枝をトラックまで運ぶのを手伝う。そして、切断した何十本もの枝をトラックの荷台に積み、老人の家へと戻って行った。
 その間老人は、あの錬金術師が残したオレイカルコスに関する文献を片っ端から調べていった。
「なんと、これは……」
 その中の一ページに、オレイカルコスの物性の数値など詳細な情報が書かれた文章を見つけたのであった。 

■巨大な炉
 三人は老人の家に着くと、トラックの荷台に積んだ大量のコナラの枝を日当たりのよい倉庫の軒下に降ろした。それが終わると、二人は広場の片隅にある冶金を行う倉庫に案内される。
 入口のシャッターを開けると、なんとその奥には部屋一杯の大きな円筒形の炉が据えられているはないか。ずっしりとした風貌で、全体的に黒ずんでいることからかなり使い込まれていることが窺える。炉の上部からは煙突のような真っ黒い棒が2本突き出していてアームで支えられている。炉を取り巻くように無数の細いダクトが走っていた。耐火ガラスの窓から炉内の様子も見ることができる。
 老人は蓋に無数の小さな穴が空いた円筒形の耐火容器に結晶の一片を入れ、炉の中央に置いた。ガラス窓を閉めると、老人がおもむろに隣にある操作盤のスイッチに手を伸ばした――。
 バチッ! バチバチ!
 炉内に白い閃光が走り、耳をつんざくような音が倉庫内に響き渡った。和輝と瑠璃香は反射的に耳を塞いだ。が、その音はやがて消え、ゴォ―……という重低音に変わっていった。老人が説明を始めた。 
「これはアーク炉というんじゃ。電極棒に大電流を流すことで炉内で放電させ熱エネルギーに変えておる――ただ、この貴重な電力も『第二極小期』に入ってしまえばどうなるか分からん。急がねば……」
「アーク炉? ……ですか」
 和樹は腑に落ちないように呟いた。老人は続けた。
「結晶に含まれるオレイカルコス以外の石成分を溶かして、容器の穴から蒸発させておるんじゃ」
 三人は遠くから固唾を飲んでガラス窓を通して中の様子を見つめていた。炉の周りの空気がゆらゆら震え、とてつもない熱の塊が炉内にあることが感じられる。 
 ――。
「もういいじゃろう」
 老人はスイッチを切った。数時間、炉が冷めるのを待った。
 老人は炉内から容器を火ばさみで取り出した。そこには暗緑色の結晶の塊が出来ていた。
「おお、色といい形といい、オレイカルコスに違いない……」
 老人は呟いた。老人の目が鋭くなった。
「ただもう一つやることがある。これからがわしの錬金術の本領発揮じゃ」

■錬金術とは
 三人は結晶の塊を持ち帰ると、老人の部屋の地下にある解析室に進んだ。
「オレイカルコス、ルンルンルン」
 瑠璃香は成功に期待を膨らませ、機嫌よく鼻歌を歌っている。一方、和輝は先ほどの炉の説明を聞いて以降、すっきりとしない顔をしていた。
 解析室の扉を開けるとそこには……錬金術という響きからは程遠い近代的な光学機器が並んでいた。
「錬金術って……こんな感じなんですか?」
 和輝は、有機的で古代的なイメージとはかけ離れた無機質で近代的な部屋の様子に、少し心外そうに言った。
「『錬金術』という呼び方は文明が発達した今では死語になっておる。おぬしらにオレイカルコス探しに協力してもらおうと思い、気を引くため敢えて響きの良い言葉を選んだのじゃ。申し訳なかった」
 老人は頭を掻きながら言った。
「そういうことだったんですね」
 和輝は先ほどから感じていたもやもやがすっきりした様だった。
「では早速、この結晶の解析に取り掛かろう」
 老人の目が再び輝いた。

■研ぎ澄まされた技
 ここから先の操作は老人がほぼ全て行うことになった。老人は部屋の中央にある実験台の前に座った。台の上には様々なガラス器具が無造作に置いてある。中には埃を被っているものもあった。
 電子天秤の上には薬包紙が載せてあった。老人は電子天秤の数値を見ながら、粉々に砕いた先程の結晶を少しづつ薬包紙の上に注いでいった。薬さじで粉をすくい反対側の手で薬さじの柄をトントンと小刻みに叩きながら粉を落としていく。その手さばきは非常に慎重で緊張感が二人にも伝わってきた。
「これだけでいいんですか?」
「これだけあれば十分じゃ。まあ見ておれ」
 老人は薬包紙に載せた結晶の粉を三角フラスコに移し、それを持ってドラフトチャンバーの前に座った。ドラフトチャンバーは箱型の排気装置で、低い音を立てて装置内の空気を天井へ吸い上げている。その前面には上下にスライドするガラス窓が付いている。ガラス窓を上げてドラフトチャンバーの中に三角フラスコを載せた。
 次に老人はその横にあるキャビネットのスライドドアをギ―ッ、と音を立てながら開いた。数えきれない開け閉めによってレールが歪んでいるのだろう。そこにはラベルが剥げかかった試薬ビンが所狭しと置かれている。瑠璃香が和輝に小声で尋ねた。
「これって刑事ドラマで悪者が人殺しに使うやつじゃない……?」
「全部が全部ってわけじゃないけどな」
老人はその中の一つを取りだした。そのラベルには『危険』と書かれた横にドクロのマークが描かれている。それを見た瑠璃香は言った。
「やっぱりそうだよ」
「いいから黙って見てろ」
 和輝は老人の手元から目を離さずに応える。老人はドラフトチャンバーのガラス窓を半分降ろし顔の前を遮ると、手だけを中に入れて作業を進めた。試薬ビンの中の透明な液体をガラス棒に伝わせ三角フラスコへ注いだ。三角フラスコの首を持ち、慣れた手つきで回し始めた。
 和輝と瑠璃香はじっとその様子を見ていた。さすが、長年に渡り様々な結晶の解析に没頭し続けてきただけはある。その手際の良さ、精密さには目を見張るものがあった。この老人は一体何年の月日を生きてきたのだろう――という一つの謎も湧いた。
 小さな泡が出てきて液が白く濁ってきた。やがて、その泡はぶくぶく音を立て始めた。次第に粉が溶けていくのが分かる。
「酸で結晶を溶かしておる。その時、気体が発生するんじゃが、中には火に触れると爆発したり吸うと有害なものもある。じゃからこの装置で排気しておるんじゃ」
 粉が見えなくなり泡が消えると、老人が言った。
「じゃあ、次はレーザー解析じゃ」

■レーザー解析
 部屋に並んだ光学機器の一つにレーザー解析機があった。細長い箱型のレーザー照射装置の出口から延長線上に試料を置く台が付いている。そのすぐ背後にはカメラのようなシャッター付きの解析機があり、その横に「FIPPLE」と刻印された所々傷んで茶色がかったパソコンが置いてあった。
 三角フラスコの液体を試料台上の角セルに慎重に注いだ。
「よし、これで準備完了じゃ。じゃが、その前に」
 老人は奥の棚の引き出しの中から、防護メガネを取り出すと二人に渡した。それには両目の周囲を広く包み込むプラスチック製のレンズが付いている。三人はそれを装着した。
「じゃあ、そこのボタンを押してくれ」
 老人は和輝の前のレーザー装置のボタンを指す。
「僕が押してもいいんですか?」
 和輝が不安そうに尋ねる。
「よいから、よいから」
 老人に促され、和輝は恐る恐るボタンを押した。
 ジージジー……。
 装置の内部から電気機器の接触不良の時のような音が微かに聞こえるだけで、照射口から光の線などは見えない。
「何も見えないんですけど……壊したりしてないですよね」
「うむ。これでよい」
 老人が微笑んだ。
「レーザー光は色として人間が感知できる波長の範囲外にあるんじゃ。じゃから目には見えないんじゃ。その中には目に悪影響を与えるものも含まれる。じゃから念のため防護メガネを付けてもらったんじゃ」
 次に、老人は結晶の解析の原理について説明を始めた。
「照射口から出たレーザー光は、試料に衝突して色々な波長に変化して散乱する。その散乱する光を解析機で検知する。散乱した光のスペクトルは物質毎に決まっておるんじゃ。このスペクトルが、どのような物質か……すなわちオレイカルコスであるかどうかの判断材料の一つになる」
 一通り、説明を終えると、老人は解析機のボタンに手を伸ばす。
「そして、このシャッターボタンを押す」
 ガッチャン、と硬い音が部屋に響き渡った。
「さあ、次じゃ」
 老人は別の解析機の前に座った。

■各物性値より
 一通りの解析を終えると、老人はパソコンの前に座った。パソコンの画面には物性の各項目が英語で、その横に測定値が数字で表示されている。
「ふむふむふむ……ふむ……おお、だめじゃ。年のせいもあり今日は目の調子がよくない。どちらかこれを読み取ってくれんかの? わしがそれを書き留めるから」
 瑠璃香が、やっと私の出番だ――と張り切った。
「じゃあ、いきますね。上から順に、セカールシフト五百二十カイザー、原子半径百五ピコメートル、第三フェルミ化エネルギー七百七十八テラジュール毎モル……ちょっとこれは分かりません」
「そこまでで十分じゃ」
 老人は瑠璃香にそう告げると、読んでもらった各物性値を羅列した手書きのメモと、過去の文献をじっくり照らし合わせる。その間部屋には、ただならぬ緊迫感に満ちた静寂が立ち込めた。その静寂を破るように老人が椅子から立ち上がった。
「これじゃ! これがオレイカルコスに間違いない! どの物性値も過去の文献と一致しておる」
 老人は歓喜の声を上げた。
「やっぱりこれで合ってたんですね」
 和輝は胸を撫で下ろした。
「いえーい」
 瑠璃香は隣に立っていた和輝に子供のようにハイタッチした。老人は一息つくと立ち上がった。
「さあ、今夜は祝杯の第二弾といこうか!」
 老人と瑠璃香は祝杯の時間や作る料理について楽しげに話し始めた。和輝は無言でその様子を見つめていた。

■浮かない祝杯
 その日の夜も、四人の配席は昨夜の祝杯の時と同じであった。瑠璃香はいつもよりも早いペースでグラスを空けていく。オレイカルコスを手に入れた喜びが相まり、相当酔いが回っているようだ。そして、両手を組み宙を見つめ、祈るようなポーズを取った。
「オレイカルコスがあった草原、素敵でした。一面花が咲いて小鹿さんやうさぎさんが走り回ってて、まるでメルヘンの世界でした。でも、あの巨大コウモリ達もただの悪者じゃなかったんですね――」
 老人は瑠璃香の旅についての感動話に微笑ましく相槌を打っていた。老人の息子も自分とは普段縁がない世界について少し羨ましそうに聞き入っていた。
「でも、ちょっと寂しいですね。これでもうこの世界とお別れなんて……」
 瑠璃香はしゅんとした。
「ぜひ、ずっと居てください。こんな可愛い子が毎晩お酌してくれたら、仕事にも精が出ます」
 老人の息子は目を輝かせて言った。
「え? そうですか」
 瑠璃香ははにかんだ。間を置かず老人の息子は言った。
「いえ、冗談ですよ」
「もう、おじさんったら」
 瑠璃香はむすっとしたが、老人の息子は満更でもない様子で微笑んだ。
「はっはっはっはっは」
 その様子を見て、老人は高笑いした。一方、和輝の酒を飲むペースは明らかにいつもより遅い。そして、三人の話に素っ気なく相槌を打つだけで、その表情は宴のひとときにそぐわない硬いものだった。老人の息子が、そんな和輝の様子を見かねて言った。
「大丈夫ですか? 気分でも悪いですか」
 三人の会話が途切れ、辺りがしんとなる。
「いつもの和輝と違うよ……」
 瑠璃香も心配そうに言った。
「どうした、もっと飲まんかい。ほれ」
 老人は、元気づけるようにワインを注ぐそぶりを見せる。その時、タイミングを見計らったかのように、顔を赤らめた老人の息子が急に立ちあがり、お茶らけて敬礼のポーズを取った。
「僕はこれで失礼します。また明日朝早くから場内の巡回があるんで。何か僕がいたら話しにくそうですしね」
 瑠璃香に目配せすると、この国に古くから伝わる歌を口ずさみながら自室へと消えていった。

■共生という矛盾
 沈黙が三人を包んだ。そして、和輝が口を開いた。
「こんなに浮かれてていいんですかね、僕たち」
「え?」
 瑠璃香はきょとんとする。
「確かにオレイカルコスは見つけました。ただ、それでめでたしめでたしというわけにはいかないような気がするんです」
「………」
 老人は腕を組むと、無言で頷いた。和輝は続ける。
「あの結晶の塔は、自然が残した動物や植物達の特別な場所のはず。もしそれを奪ってしまったら、ここに住む人達は一時的には助かるけど、この世界の自然のバランスが崩れて何か予期しない災難が起こるんじゃないだろうかって……あの錬金術師が文献の中で場所について何も記さなかったのも、みだりに人間に利用させないためだったんじゃないのかと……すみません、水を差すようなことを言ってしまって」
老人は全てを悟ったように目を閉じた……。
「その通りじゃ。」
 そして、淡々と語り始めた。
「わしも長い年月をこの自然の中で生きてきて、様々な矛盾に直面してきた。このダムにしても、一見、温暖化ガスを出さなかったり、水不足を解消したり、良いこと尽くめに思われた。しかし、肥沃な土が堰止められて海に流れなくなるという問題が起きた。生き物達の住みかを知らず知らずのうちに奪ってしまっていたのじゃ」
「そんな……」
 瑠璃香は悲しそうに呟く。そしてふと、結晶の塔を去る時に緑の草原を見て黙り込んだ和輝のことを思い出した――。老人はしみじみと言った。
「人間と自然との共生、それは尽きることのない永遠のテーマじゃ――」
「じゃあ、僕たちはどうすれば……」
 和輝は、すがるように老人に尋ねる。が、老人は腕を組んだまま、目を閉じ俯くだけだった。長い間、沈黙が続いた……。
「今日は、これでわしは失礼する」
 老人は一言残して、自分の寝室へと消えて行った。

第五章

目次
 ゲレンデの笑顔
 この国の選ぶ道
 ロシェコライト


■ゲレンデの笑顔
 その一週間後に、和輝と瑠璃香は元の世界に帰ることになった。それまでの間は闘いのご褒美として、スキーや釣り、バードウォッチングなどで大自然を満喫した。
 ここに居る時間も残り三日――。
 その日の午後、昔スキー場だった真っ白なゲレンデに、澄み切った空から差し込む陽光が照り返している。
「いたたたたた……」
 瑠璃香がスットクを突いて起き上がろうとしていた。どうやら転倒して尻もちを付いたようだ。斜面の遥か上方から、和輝が風を切って滑り降りて来る。
 ザ、ザザーッ。
 瑠璃香の近くまでくると、和輝は、瑠璃香の周囲に弧を描くように、雪しぶきを上げながら鋭くカーブした。その勢いですっと瑠璃香の横に付けると、目を覆っていたゴーグルを額にかけ、少し得意げに言った。
「重心移動がだめだ。まずは基本からだな」
 瑠璃香の手を取って起こすと、スキー板を平行にして斜面をカニの横歩きのように登る動作をやって見せる。
「まずはこうしてみな」
「……こんな感じ?」
「そう、親指側のエッジを立てて体重を乗せるようにして……違うなあ」
 和輝は、飲みこみの悪い瑠璃香を少々もどかしく思いながらも、根気強く教える。だが、瑠璃香はあきらめたのか、脹れっ面になった。
「もうやだ、こんなの……」
「ははは」
 倒れないように背後で支える構えをしていた和輝は、そんな頼りない瑠璃香が可愛らしく思えて微笑んだ。和輝の笑い声を聞いた瑠璃香が振り向く。
「よかった。久々に和輝の笑顔が見れて」
 瑠璃香は、オレイカルコスに対する葛藤を打ち明けた日から、和輝からしばらく笑顔が消えていたことを心配していたのだ。和輝は吹っ切れたように言った。
「まあな。俺らが考えてどうこうなる問題じゃないし」
 すると、瑠璃香が照れ笑いを浮かべた。
「スキー飽きちゃった」
 そして、思い出したように言った。
「トリさんが見たい!」

■この国の選ぶ道
 ダムの下流は大きな川に繋がっていて、水辺には様々な水生植物が茂っている。その草陰からオオハクチョウが顔を覗かせた。どうやら、川底に生えた水草を食べているようだ。 
「夏にハクチョウか。この国では、夏をこの地域で過ごし、冬になると越冬のためにもっと南へ飛んで行くようだ。これから寒くなっていけば、もう夏でさえこの国では見られなくなるんだろうな」
「そうなんだ」
 瑠璃香は残念そうに呟いた。そのオオハクチョウが餌を食べ終えた。足元から水しぶきを上げながら助走をつけて、大きな羽翼をバサバサと羽ばたかせ離陸する。そのまま大空へ飛び去っていった。二人はその優雅で堂々とした姿に目を奪われた。
 夕暮れに染まりつつある空に吹く風は次第に冷たくなっていく――。
 スキーでかいた汗が冷え、瑠璃香はぶるっと震えた。スキー用のジャケットを羽織って、フードを被ろうとした時である。
 ふわっとしたものが足元にヒラヒラ落ちた。
「あ、鳥の羽根……そっかぁ。オレイカルコスの草原で飛んでた鳥さんが落としていったものね」
 瑠璃香は独り言を呟いた。
「でも、どこかで見たような……」
 が、瑠璃香には思い出せない。
「まあ、いいや。この水色の羽根とってもキレイ。記念にとっておこう」
 瑠璃香はそれを拾い上げると、バッグの内ポケットにそっとしまった――。
 しばらくして、瑠璃香が何かに気付く。
「見て見て。可愛い」
 近くの小枝に止まっているジョウビタキの雌を指差した。すると、ふと俯き加減の和輝が呟いた。
「この国の人はこれからどちらを選ぶんだろう」
 和輝はまた思いを巡らせているようだった。そして顔を上げ、遠くを見つめた和輝が独り言のようにしみじみと呟いた。
「人間をとるか、自然をとるか――」
「……」
 瑠璃香がその出口の見えない問いに何も答えられずにいると、和輝が開き直ったように歯を見せて笑顔を作った。
「まあ、どちらにしても明後日の朝にはこの世界ともおさらばだ」

■ロシェコライト
 あの日から、老人は、ひとりで冶金小屋と解析室、そして野外を行ったりきたりしながら、忙しそうに何かを行っていた――。
 ――ちょうど一週間経った日の早朝、老人は二人を応接室へ呼び出すと、やや深刻な面持ちで話し始めた。
「気付いておったかもしれんが、おぬしらが持ち帰ったあの結晶の一片は、暗緑色と浅緑色の二色のマーブル模様になっておった。だから、結晶の塔を見た時、中間の緑色に見えたわけじゃ」
 二人はその話の続きを促すように黙って頷く。
「あの結晶の暗緑色の部分は、オレイカルコスそのもので、浅緑色はオレイカルコス以外の成分と考えられた。炉で結晶を蒸発させた際に、容器にはオレイカルコス以外の何らかの成分が残ることが予想された。しかし、そこにはオレイカルコス以外の成分はほとんど見当たらなかった。怪しく思ったわしは、結晶の一片のストックから、浅緑色の部分だけを削り取って、炉で蒸発させた。すると、そこには若干他の成分が混じっていたものの、オレイカルコスが生じていたのじゃ」
「え?」
 和輝は意外だという顔をした。
「わしはその浅緑色の結晶をその色からロシェコライトではないかと予想した。ロシェコライトとは何億年も前に地下マグマが地表に出る時に出来たもので、現在のこの国では至る所に見受けられる。そして近くの岩場からロシェコライトの一片を削り取り同様に、炉で蒸発させた。すると……」
「まさか……」
 和輝はごくりと生唾を飲み込む。次の瞬間――。
「何と! 先ほどと同様、オレイカルコスが出来ているではないか!」
「そうなんですか!」
 和輝と瑠璃香は思いもよらない朗報に驚きと喜びの表情を浮かべ顔を見合わせた。老人は、興奮を抑えて話を続ける。
「つまり、あの結晶の塔は純粋なオレイカルコスとロシェコライトが混ざったものだったのじゃ。解析の結果、ロシェコライトの中にはオレイカルコスと酸素が結びついた化合物があった。あの塔を含む草原の台地は百万年前に地下深くのマグマが隆起して出来たものじゃろう。その時偶然、ロシェコライト中のオレイカルコスの化合物から酸素が外れて、一部が暗緑色のオレイカルコスになったと考えられる」
「なるほど、そういうことだったんですね――」
 和輝が納得したように呟くと、老人は、頬を緩めてこう言った。
「これで、オレイカルコスの源すなわち自然の源を侵さずして、多くのオレイカルコスを採取することが出来る」
 それを聞き終わったと同時に、思わず瑠璃香が叫んだ。
「よかったあ!」
 そして、隣に居た和輝にぎゅっと抱きついた。老人は続けた。
「シェルターを作るには極めて純度の高いオレイカルコスが必要になる。よって、後はロシェコライトからいかに純度の高いオレイカルコスを精錬できるかでこの国の運命は変わる」
 和輝は抱き付いて気持ちよさげに目を閉じている瑠璃香に気付くと、照れくさそうに、瑠璃香の腕をほどいた。老人は表情を引き締める。
「もちろん、まだ油断はできない、どちらにしてもこの自然の資源を人間の都合で利用することに違いはないのじゃから。なにかしらの弊害も出よう」
 そして、決意のこもった静かな口調で言った。
「ここから先はわし自身の仕事じゃ、任せておいてくれ――」
 老人は微笑んだ。
「おぬしらには本当に感謝しておる。広場にスカイホイール361号を用意しておくから、おぬしらの好きなように使っていい」
「でも、もう一つ気がかりなことが……」
 和輝が俯いた。
「なんじゃ?」
「オレイカルコスがあった草原を覆っていた、あのオレンジ色の曇って一体――」
「うむ。わしも気になっておったんじゃ。オレイカルコスの塔が作った雲かどうかも含めて、調査せねばなるまい」
「それを聞いて安心しました」
 和輝は何も言わないで俯いたままの瑠璃香に気付く。
 ふと見ると瑠璃香の手の甲にぽつりぽつりと涙が落ちてきた。
「よかった。これで安心して元の世界に戻れるね、私達……」
 瑠璃香がそう言うと和輝は瑠璃香の肩に掌を載せ、穏やかな表情で囁いた。
「よかったな――」

エピローグ

目次
 バスルーム
 『X』
 志
 361号
 果てしない空へ


■バスルーム
 その日の夜も和輝は、地下一階にある浴室で疲れを癒した。その浴室は窓は付いてなく外の景色は眺められない。が、お湯には地下から湧いた天然水をそのまま使っていて、浴槽は大理石、さらにそこにはジャグジーまで付いていた。ささやかな贅沢を味わえる造りとなっている。浴室の隣には奥行きのある脱衣所を兼ねた洗面所が付いている。洗面所への入口と浴室への入口は部屋の両端にある。
 和輝は自室に戻り歯磨きをしようと思い、ポーチの中身をごそごそとやる。
 ――あれ? ない。
 昨晩遅くに歯ブラシを浴室の洗面所に置き忘れたことを思い出した。
 ――取りに行くか。
 自室を出た和輝は、洗面所へ向かった。その入口の扉はプラスチック製でスライド式になっている。
 コンコンコン。
 和輝は扉をノックして呼びかけた。
「誰かいますか?」
「………」
 何も返答がない。中に誰もいないと判断し、扉を開けた。浴室からはシャワーの水しぶきの音と瑠璃香の鼻歌が聞こえてきた。どうやら和輝の声はその音にかき消され、瑠璃香には聞こえなかったようだ。
「ちょっと失礼」
 小声で呟くと、まず洗面台を見た。が、それらしきものは見当たらない。次に、壁際の戸棚を一つずつ開いては閉じた。戸棚には、ドライヤーやタオルなどが入っているカゴが並んでいる。――いくつ目かの棚を開けた時、一つのカゴの片隅に歯ブラシの柄の部分が見えた。
 ――あった。
 そこへ手を伸ばそうとした時である。
 ガチャ。
 浴室のドアノブが回った。和輝は歯ブラシを掴もうとした手を止めて、浴室の方を振り向いた。なんと、瑠璃香がドアを開け浴室から頭を覗かせたではないか。シャンプーで髪を洗い終わり、入口の横にあるラックのリンスを取ろうとしたようだ。誰かが居る気配を感じた瑠璃香が振り向いた。
「キャ!」
 瑠璃香は叫ぶと、バタン! と浴室のドアを閉めた。

■『X』
 瑠璃香には薄明かりの部屋の端にいる人影が和輝だとは分からなかったようだ。
「誰? そこにいるのは」
「俺だよ。俺」
「なんだ、和輝かぁ。怪しい人かと思ったじゃん……何の用よ」
「いや、ちょっと歯ブラシを取りに来ただけだよ」
 和輝は動揺を隠すように素っ気なく答える。
「そうなんだ――」
 瑠璃香は納得した様子だった。
 ――。
 ガチャ、とまたドアが開く音がする。バスタオルで胸元から下を覆った瑠璃香が入口からぴょこっと顔を付き出す。
「あっかんべーだ」
 瑠璃香は背中をこちらに向けてリンスに手を伸ばした。その時である。
 なんとバスタオルの上に出ている白い背中のちょうど真ん中に、何やらマークが刻まれているではないか! よく見ると無限を表す∞の記号を繋げた円の中にローマ字で『X』と書かれている。しかし、何のことなのか和輝には全く見当が付かない。
「お前……それって……」
 ただその先の問いは、瑠璃香について触れてはいけないことに触れてしまうようで、ぐっと飲みこんだ。和輝の声に瑠璃香が振り向く。
「何よ」
「いや何でもない、じゃあな――」
 和輝は洗面所を後にした。

 その夜、和輝はあの『X』というマークのことが気になってなかなか寝付けなかった。

■志
 最後の夜が明けた。
 帰りの身支度を済ませ応接室へやって来た二人に老人は声をかける。
「もう行くんじゃな?」
「はい。僕達の役目は終わったみたいですし」
 和輝は晴れやかに答えた。
「シェルター造り――上手くいくといいですね」
「うむ――」
 老人は少し間を置いて静かに語り始める。
「シェルターが完成すれば、村の人々の不安を少しは拭うことができるじゃろう。その安心感から思いやりの心が芽生え、その想いが、隣の人から人へ、家から家へ、村から村へ、ゆくゆくは国から国へと広がって行けばいいと思っておる。そう、あの塔から広がる草原のようにな――」
「そうなるといいですね」
「まずは純度の高いオレイカルコスをいかに創るかじゃ。早速今日から精錬を始めようと思う」
 老人はそう言うと、目を瞑った。
「『志は高く、歩みは着実に』――これは、この国に古くから伝わる言葉で、わしも大好きな言葉なんじゃ」

■361号
 二人は老人とその息子に別れの挨拶を告げ、スカイホイール361号が置いてある広場に出た。
「わーカッコいい!」
 瑠璃香は洗練されたその形に思わず声を上げた。
「これが361号……? 俺達が乗ってきた試作車から百年近く経っても、基本構造は変わってないんだなあ――」
 和輝が呟く。スカイホイールのボディはその人気から、初期の卵型がこの時代まで継承されてきたようだ。この現存する最後の型は、二人が乗ってきたものとはプレスラインや質感が大きく違っている。
「これが空を行き交う時代があったんだね……」
 瑠璃香は少し残念そうに呟いた。スカイホイールはその名の通り『空飛ぶ自動車』に由来している。老人によるとそれは、一時は全世界に広まった乗り物で、人々にとって極めて便利な移動手段だったが、燃料の枯渇により次第に姿を消していったそうだ。
 和輝は機体の周囲をぐるりと回り機体に触れてみては、その形状や質感を確かめている。そして、跳ね上げ式で球状ガラス張りのカバーを開くと運転席に座り、ハンドルを握ったり、操作盤を触ったりした。英語で「格納」と文字打ってあるボタンが目に付く。気になった和輝はアイドリング状態にして試しに押してみた。
 ウィーンウィーン……。
 四方八方から機械音が鳴り響く。
「これは……」
 和輝からガラス越しに、頭頂部の垂直浮遊するためのプロペラと、両脇から伸びた魚のヒレのような翼が、機体内部にゆっくりと納まっていくのが見えた。
「なるほど、一時流行った家庭用機だけはあるな」
 どちらも入庫スペースの確保のため、必要に応じて格納出来るようになっていたのである。機外へ出ると、今度は運転席後部のボンネットを開けて、しゃがみ込んで搭載されたエンジンを眺める。
「質感や機能性、スピード全てにおいてパーフェクトだ」
「それより見てよ――」
 瑠璃香が361号に釘付けになっている和輝に呼び掛け宙を指差した。

■果てしない空へ
 午後に差し掛かる空は、二人がこの世界で最初に目を覚ました時の、灰色ではなく、すじ雲がうっすらと架かる青色だった。二人はこの国で過ごした日々を思い返しながら、たたずんでいる。
 しばらくして瑠璃香がそっと口を開いた。
「ねえ、和輝――」
「ん?」
「この世界には私達の孫が住んでいるかもしれないんだよね。何だか不思議ね」
「だな」
「今、キャリア形成論の授業受けてるじゃない。レポート提出したら、毎回先生にこのままじゃダメだって言われるんだ。私、弁護士になんかなれるのかなって思ったの。このまま今の喫茶店のアルバイト続けてた方がいいんじゃないかって。たまに店長やお客さんに怒られる時もあるけど、それ以上にたくさんの笑顔に出会える。弁護士って、頼んで下さった人の人生を左右するわけでしょ。そんな重い仕事、私耐えられるのかなって。人を助けるってそんなに甘くないんじゃないかって悩んでた……」
「ふーん」
「でも、ここに来て、そんなことがちっぽけな悩みに思えてきて」
「そうだよな……」
「この世界がこんな大変な目に遭わないために、元の世界に帰ったらしなくちゃいけないことがあるんじゃないかって……」
「でも……」
「え?」
「それって歴史を変えてしまうことにならないか。歴史が変わることで俺達に予期できないとんでもないことが起こったりしないかな」
「じゃあ、百年後にこんな氷の世界が来るのが分かっていて、元の世界に戻って何もしないでいられる?」
 ……。
 長い沈黙が二人を包んだ。
「志は高く、歩みは着実に――」
 和輝が小さく呟いた。俯いていた瑠璃香が和輝の顔を見上げる。
「進む方向を見失わなければいいんだよ。もし歴史が変わったとしても、悪い方向に変わるはずはない」
 和輝は自分に言い聞かせるように続けた。
「その時に出来ることをやるしかない」
「だよね」
 瑠璃香は微笑んだ。
「じゃあ、早く乗ろうよ」
 瑠璃香は和輝の背中をポンと叩き、361号の乗降カバーを開くと和輝を運転席に乗せる。そして隣の助手席に回りそこへ座った。
「え、俺が運転するの? こっちはお前に付き合って、百年後の見も知らずの世界に来たんだからな」
 が、和輝はすぐに笑顔で言った。
「ここもなかなか良いところだったけどな。無茶苦茶寒かったけど」
「だね! いつかこの地方一周とかしてみたいね」
 瑠璃香がはしゃぐように言うと、和輝は少し間を置いて答える。
「だな」
 その時、和輝は昨夜の一件が頭を過った。
 ――瑠璃香の背中に刻まれたあの『X』のマークはなんだったんだ。瑠璃香は一体何者なんだ。
「さあ、行こうよ。百年前の元の世界へ」
 瑠璃香の一言で和輝はふと我に返った。
「で、どこに行けばいいんだ? 俺は元の世界に戻るための時空の裂け目がどこにあるかなんて知らないぞ」
「どこだっていいじゃない。どこまでも行けるわ。そう、どこまでも――」

第一話 完

フィンブルの冬

今回の作品は「自然と人間の共生」というテーマで書いてみました。寒冷化した地球を舞台に、オレイカルコスは自然の象徴として描きました。

フィンブルの冬

ある日、和輝と瑠璃香が迷い込んだ見渡す限りの銀世界。 その世界に『第二極小期』――寒さと闇の時代――が訪れることを知らされる二人。その危機を乗り越えるために必要な『オレイカルコス』――幻の石――とは? そして、二人は元の世界に戻れるのか……? 大自然の脅威と神秘に向き合う人々の姿を描いた青春SFアドベンチャー。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 冒険
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2017-05-04

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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