やわらかいほね

 やわらかいほね、だった。
 月が三つになったので、お祝いしようと言ったひとは、ワインが好きなひとだった。わたしはワインより、ビールの方が好きだったので、きんきんにひえたビールをのんだ。そのひとはワインをのんだ。ワインのうんちくをあれこれ語っていたが、わたしはきいているふりをしていた。興味がなかった。夜空には月が、三つ並んでいたのだけれども、それだってなんのために月が三つになって、三つになった月のなにを祝っているのかが、わたしにはぜんぜんわからなかった。ただ、そのひとが、月が三つになったことを子どものようによろこんでいることだけは、よくわかった。

 やわらかいほねは、そのひとのほねなのだった。
 一度、さわらせてもらったことがあるが、ほんとうにやわらかかった。ぷにぷにしていた。杏仁豆腐みたい、と言ったら、そういう感じだ、とそのひとは他人事のように笑った。なんで笑うのか、とわたしは怒ったが、かまわず笑い続けた。わたしにほねをさわらせながらもワインをのんでいたし、片手間に本も読んでいた。
 月が三つになったせいか、妙に夜が明るくなった気がした。
 三つになったとはいえ、もともとひとつだったものが三つに分かれただけなのに、などと考えていた。考えていたけれど、むつかしいことを長い時間考えるのは、ニガテだった。りんごを三等分するみたいに、月も包丁のようなもので三つに切り分けられたのだと、そのひとが言った。やっぱりぜんぜんわからなかった。さきにシャワーを浴びて、ねむった。そのひとは時間をかけて、ゆっくり、じっくり、グラス一杯のワインをたのしむひと、であった。ビールをぐびぐびのみがちのわたしとは、相容れないなと常々思っているのだが、わたしはそのひとのことが好きなのだった。離れられないのだった。

(結果として、月が三つになったところで、世界になにが起こるわけでも、ない)

「きのう、割ってしまったんだ」
と、そのひとは言った。
 右手に、包帯を巻いていた。
 あやまってワイングラスを割ってしまったのだと、そのひとは続けた。たばこを吸っていた。たばこを吸っているそのひとをみるのは、はじめてのことだった。
「どじだな、ぼくは」
 けむりを吐きながら、そのひとは笑った。
 笑いごとじゃないのに、また笑ってる。
 わたしはいらいらした。
 好きだった。
 好きだから、いらいらした。
 十六時の喫茶店には、わたしとそのひとしかいなかった。わたしはアイスティーを、そのひとはホットコーヒーをのんでいた。喫茶店のひとが、グラスを磨いていた。どこかできいたことがあるような、ないような音楽が流れていた。外は雨で、あしたになったら雪が降ると天気予報のひとが言っていた。
 ほねがやわらかいせいか、そのひとはときどき、ぐにゃりとゆがんだ。
 みぎにぐにゃり、ひだりにぐにゃりと、へんな折れ方をしたり、曲がり方をしたり、した。
 まっすぐに立っていてもそうなるときが、たまにあるのだった。
 からだがやわらかいひと、というより、軟体動物に近い感じだと思った。たこや、いかのように、にょろにょろとはしていないけれども。

 だいじょうぶなの。

「たいした傷じゃないから、心配しないで」

 するよ、心配。

「ごめんね」

 そう言って、そのひとは申し訳なさそうに、笑った。
 やっぱり笑うんかい、と思った。
 笑うんじゃなくて、泣けよ、とも思った。
 そのひとの泣いた顔が、みてみたかった。
 泣いた顔が、ぜんぜん、まったく、想い描けないからだった。
 
「そういえばさ、月の断面って、どうなっているのだろうね」

 三つに切断された、月の断面。
 そのひとはたばこの火を消して、それからコーヒーをひとくちのんで、胸ポケットから黒い表紙のメモ帳を取り出した。
 メモ帳には、球体だった月は三つに切り分けられたことにより、半月型になっている、と書かれていた。
 半月型になった月は宇宙で、いまはおたがい近接している、とのこと。
 引力のかんけいでうんぬんかんぬん、三つに分かれた月が離れ離れになることはおそらくない、とのこと。
 ぜったいにないとは言い切れない、とのこと。
 それは宇宙でも、地球でも、人生でも、おなじだよ、とのこと。

「ただね、月の見え方はそのときどきで変わってくるかもしれない。たとえば、

月 月 月

とか、




とか、


  月
    月

とか、

    月
  月

とか、三つの月がこんな感じにみえることは、あるかもしれないね」

 ふうん、とうなずきながら、のこりわずかなアイスティーをストローでじゅっとすすった。
 グラスの底に溶け切らなかったガムシロップが沈殿していて、やたら甘かった。
 たのしそうに月のことを語る、そのひと。
 やっぱり好きだ、と思った。
 きらいだ、とも思った。
 よくわからん、と思った。
 いろいろむつかしいな、とも思った。
 むつかしいことを長い時間考えるのは、ニガテだった。
 そのひとはむつかしいことを延々考え続けられるひと、だった。

(やわらかいほねに、さわりたい)

 りんごを三等分するみたいに、月を三等分に切り分けるそのひとの姿を、想像してみた。
 しっくりきていて、なんだか笑えた。

やわらかいほね

やわらかいほね

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-05-03

CC BY-NC-ND
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