海風リハク外伝~裏「北斗の拳」~
「北斗の前に北斗なし、北斗の後に北斗なし」
「世の中には二種類の人間しかいない。北斗を読んだ者とそうでない者だ」
千九百八十三年から八十八年まで週刊少年ジャンプに連載された漫画「北斗の拳」。
この漫画はその戦闘シーン、登場人物の漢力、描かれる世界観の全てにおいて「究極」という言葉が最もふさわしい圧倒的なインパクトで読む者を魅了した。
その影響力の強さは、連載終了から二十年経った今もなお、日本のみならず全世界の「漢」と称される者たちの魂を揺さぶり続けていることでも明らかだろう。
だがこの「北斗の拳」はその物語の中に数々の矛盾や疑問を孕んだまま終了してしまったこともまた事実である。
そしてこの「北斗の拳」が生み出した世界観があまりにも究極であり、他に代わりがきくようなものではなかったため、その矛盾や疑問を惜しむ漢たちの哭き声もまた連載終了後いつまでも止むことがなかった。
それらの矛盾や疑問をある者は無視し、ある者は書き直しを求め、またある者は作品への冒涜と捉えて憤った。
また「会社が無理やり連載を継続させたがゆえに生じた苦し紛れの矛盾」という至極もっともな諦めと妥協の境地に達した者もいる。
しかしながら、私はこの作品に数々の矛盾や疑問が残されたこと、そしてその後今日に至るまで、原作者でさえもこれらいわゆる「北斗の謎」を解明し切れていないという二つの事実には、実は大きな意味があるのではないかといつしか思うようになった。
「北斗の拳」というこの偉大なる作品はもはや歴史に残る文化遺産というレベルの創作物であり、一個人の所有物としては、たとえそれが生みの親である原作者であったとしても、あまりに存在が巨大になり過ぎてしまったのだと。
従って「北斗の拳」に残された謎は「北斗の拳」に魅せられた我々が解決すべき究極の課題であり、それを成し遂げるために「北斗の拳」を愛する強敵
とも
たちと拳を交え漢力を振り絞ることこそ我々に与えられた永遠の使命なのではないかと。
よって私は「北斗の拳」を唯一無二の教典とし、ここに描かれたエピソードの全てを否定することなく受け入れた上で、「北斗の拳」から生まれた数々の謎を解き明かすというまだ人類史上誰も成し遂げていない難事に無謀にも挑むことにした。
私のこの小説は以上の基本理念に則り書かれた一つの仮説であり、空想であり、戯言である。
読んでどう感じるかは「北斗の拳」を愛する全ての強敵たちの自由であり、私はそれら一切を否定しない。
第1章北斗四兄弟編 第1話「心の叫び」
一九九Ⅹ年、世界は核の炎に包まれた。
海は枯れ、地は裂け・・・・。あらゆる生命体が絶滅したかに見えた。
だが人類は絶滅していなかった。
世は再び暴力が支配する時代となっていた。
「お帰りなさいませ、長老。」
私はちょっとした視察の旅から村へと帰ってきたところだった。
「うむ、留守中変わったことはなかったか。」
私は留守を預けていた若者に尋ねた。
「は、実は怪しい浮浪者を一人牢に入れています。」
「浮浪者?」
「水を求めて砂漠を彷徨っていたようで。盗賊の一味かもしれませんし長老が返ってくるまで処分は保留にしています。後で会われますか?」
私にはなんとなく胸騒ぎがあった。ついにその日がきたのではないかという。
「いや、今すぐ会おう。連れて参れ」
「かしこまりました」
すぐにその男は私の前に村の若者二人に両脇を固められながら牢から連れてこられた。
男はなるほど浮浪者に間違えられてもおかしくない風体をしていたが、見る者が見ればその羽織っているボロの下にある鍛え抜かれた肉体と鋭い眼光が、ただの浮浪者のそれでないことは明らかだった。
私は残念ながらその男がまだ幼い頃の記憶しかなかったため、一目で確信するには至らなかった。
しかし確かに面影はある。
そしてその男を確認する方法を私は知っていた。後はいかに不自然にならないようにそれを実行するかだけだった。
私はその男に尋ねた。
「どこへ行く?」
男は答えた。
「あてはない・・・」
その受け答え方は助けを求めるでもなく媚びるでもなく、聞きようによっては不敵ですらあった。
それは到底ただの浮浪者のかもし出せる雰囲気ではない。
「長老、もしZの仲間だったら・・・」
私とこの放浪者のやり取りを見ていた若者がこれ以上ない助け舟を出した。
Zとは最近この辺りを荒らし回っている盗賊集団であった。
この集団は他の多くの盗賊軍団同様、一目でそれと分かる特徴的な刺青を体に彫っていた。
「調べろ、Zの一味だったら体のどこかにZの刺青があるはずだ。」
(これで手間が省けたな)
私は内心ほくそ笑んだが無論そのような表情を顔に浮かべはしない。
私の指示の下、村民たちの手にかかり男の汚れたポンチョが剥ぎ取られ、その下からは黒い革のジャケットが現れた。
さらにそのジャケットが左右に大きくはだけられると村民たちから驚愕の声が上がった。
男の胸にはくっきりと七つの傷が刻まれていた。
しかもその傷は北斗七星を形作っていたのだった。
私はその瞬間確信し、そして同時に感嘆した。
(見事だシンよ。これほど見事な北斗七星を刻むとはさすが南斗六聖拳の将。この傷がこれから先ケンシロウのトレードマークとなり北斗神拳継承者としての箔をつけることになるだろう。)
芸術的とさえ見えた北斗七星に内心の興奮を隠せず震える私に村民の一人が声をかけた。
「ちょ、長老、どうしたんですか?」
(さあここからが一芝居。いよいよこのケンシロウを世に送り出す大事な時。大袈裟過ぎるくらいにやらなくてはな・・・・)
「ほ、北斗七星。死を司る星・・・」
私はあえて仰々しく誰にともなく語りだした。
「北斗現れるところ乱あり。不吉な・・・・」
そこへなにやら慌しく叫びながら駆けつけてきた村民が一人。
「た、大変だ。ジードが、ジードのやつらが・・・・」
(どうやら今日は全てがうまくいく日らしい)
私はこの絶妙なタイミングに心の内で快哉を叫んだ。
(見せてもらうぞ、ケンシロウ。成長したお前の北斗神拳を)
私はケンシロウを牢に戻すよう指示した。
この村の民でもない男に外敵と戦えと命ずるわけにもいかないから止むを得ない。
しかし私にはこの日のためにケンシロウを動かす切り札があった。
私は牢番として使われていた少女リンにZの軍団と戦うように仕向けた。
(リン、ようやくお前の出番だ。お前なら必ずやケンシロウを動かせるはず)
私のもくろみは的中した。
どうやら私が村に到着する前に既にリンとケンシロウは宿命の対面を果たしていたらしい。
(やはり血の定めには逆らえぬものらしい。知らぬ者には単に浮浪者と孤児が出会ったに過ぎないだろうがな。この二人の素性を知ればみな腰を抜かすだろう・・・・。)
私だけが知る二人の定めに思いを馳せていると、筋書き通りリンはジードのリーダーに捕えられ、そこへ牢をぶち破って駆けつけたケンシロウが立ちはだかった。
「ケーン!来ちゃダメえー」
ケンシロウの姿を見たリンが叫ぶ。
「しゃ、喋った・・・。リンが・・・・」
リンの声を聞いた村民たちから驚きの声があがった。
(驚くのも無理はない。あの日以来リンは心を閉ざし口を開いていなかったのだからな。これもまた二人の宿命のなせる業か・・・)
リンを捕えたZのリーダーに向かうケンシロウの前に三人の男が立塞がる。
三人は瞬時にケンシロウの回し蹴りの餌食になったがそこはZの屈強な猛者ども。
さすがにそれだけでは致命傷にはならない。
「やろう、ふざけやがって」
反撃に転じようとした三人の男たちだったが、一瞬の間を置いて彼らの肉体を異変が襲った。
三人の顔はおのおの不自然に凹んだかと思うと瞬く間に破裂。
頭から血飛沫を上げて絶命し倒れたのであった。
「な、なんだ?」
先ほどまでケンシロウと共に牢に入れられていた少年バットが叫んだ。
こんな絶妙なタイミングを逃すほど私は愚かではない。
「ほ、北斗神拳・・・・」
私はすかさずこの拳法の、恐らく今後この乱世の唯一の救いの光となるであろう名を口にする。
そこへ部下を殺されて怒りに燃えるZのリーダーがケンシロウに向かって歩んでいった。
まるで目の前に差し出されたデザートを平らげるかのように、ケンシロウは無数の突きをこの男に叩き込んだ。
そして息一つ切らさずにその技の名を静かに、しかしはっきりと告げた。
リーダーの手から落ちたリンを両手に抱えながら。
「北斗百裂拳」
私は次に訪れる北斗神拳、死の劇場までの間を巧みに利用した。
「その昔・・・中国より伝わる恐るべき暗殺拳があると聞く・・・・・その名を北斗神拳。一挙に全エネルギーを集中し経絡秘孔に衝撃を与え正面の破壊よりむしろ内部の破壊を極意とした一撃必殺の拳法。そ、それが今ここに・・・・」
私が一応の解説を終えた頃、Zがタイミングよく立ち上がる。
「貴様の拳など蚊ほどもきかんわあ。ぐふふー、ぶっ殺してやる」
(ほほう。この男、どうやら北斗神拳を少しは知っていたようだな。ケンシロウのデビューを劇的に盛り上げる見事な前振りじゃ)
すかさずケンシロウは敵に背を向けたまま振り返りもせずにこう言い放った。
「お前はもう死んでいる」
「な、なにい。」
それがZの断末魔であった。今度は先の三人とは違い顔だけでなく胸から股にかけて同時に大破裂を起こし文字通りZは木っ端微塵に砕け散った。
(み、見事じゃケンシロウ。「お前はもう死んでいる」。これほど北斗神拳という拳法の唯一無二の特徴を完璧に表現できる決め台詞は他にあるまい。成長したものよ。)
私はケンシロウの決め台詞にすっかり魅せられていた。そしてZのリーダーの命を賭したパフォーマンスにも感嘆せざるを得なかった。
蛇の道は蛇というが、このZのリーダーにはどうやら北斗神拳という拳法についての知識が少なからずあったようだ。
恐らくは目の前で部下が惨殺されたその死に様を見て、二つの事実を察したのだろう。
一つはこれが伝説の拳法、北斗神拳であること。もう一つは自身の命がもはや風前の灯であること。
ある程度拳法の心得があれば、必死になればどうにかなる相手とそうでない相手の区別くらいはつくものだ。
どうせ死ぬなら悪党らしく華々しく散るが本望。そんなことを考えたかどうか、最期に「北斗死の劇場」の引き立て役を演じることにしたらしい。
こうしてケンシロウと北斗神拳はこの世に現れた。これ以上ない衝撃を村民に与えて。
人の口に戸は立てられぬもの。ほうっておいてもこの噂はたちまち各地に広まっていくだろう。
ケンシロウは村を去りバットがその後を追う。
そしてリンも・・・・。
リンが去った後ほどなくして長老は村から忽然と姿を消した。
その後誰もあの長老、すなわち私を長老の姿として見た者はいない。
「長かったがようやくこの変装も不要となった。いよいよこれからだぞ。もう体の方は大丈夫か?」
「はい、お父様。」
長老が消えたその日、村から遠く離れたとある家に一組の親娘と思われる男女がいた。
男は付け髭と坊主頭になるためのカツラを燃やしていた。
「年寄りに化けるのも骨が折れるわい。ところでその方、あれからはあの男に会ってはいまいな」
「はい、全てはお父様のご指示通り。今日まであの男だけでなく誰にも会ってはいません。」
「それでよい。切り札は最後まで取っておくものだ。最も効果を発揮するその時までな。」
「分っております。トウももう子供ではありません」
「それもそうだな、はっはっは。さすがはこの海のリハクの娘。大したものよ。」
そう、私の名はリハク。
世が世なら万の軍勢を縦横に操る天才軍師と謳われたあの五車星の一星、海のリハクである。
なぜ私があの村で長老の変装をしてリンを匿い、ケンシロウを待っていたのか。
それはこれからの長い物語で明らかになるだろう。
第2話 「サザンクロス」
長老としての役目を終えた私は、娘トウを連れ次の仕事へと向かった。
われらが五車星の将ユリア様がいる街、サザンクロスへ。
既に同じ五車星の風のヒューイと炎のシュレンから、拳王がサザンクロスへ向かっているという情報を得ていた。
サザンクロスは南斗六聖拳の一将シンがKINGと名を代えて支配する街。
その勢力は広範囲に及んでおり、私が長老として治めていたあの村の近くにまで進出してきていた。
村を出たケンシロウも程なくシンの軍団に遭遇するだろう。
だが今はまだユリア様と拳王とケンシロウ、この三者を会わせる時ではない。
(確かにケンシロウは成長したようだ。しかしまだ拳王と互角に戦えるほどではあるまい。ケンシロウの更なる成長のためにはユリア様の存在も今はマイナスにしかなるまい。やはりここは策を用いねばなるまいな)
私とトウ、そして五車星の一星、山のフドウの三人は密かにサザンクロスに潜入し策を練っていた。
今はまだ三人を会わせるべきではないという私の意見に山も賛成した。
もっとも今回に限らず五車星の最年長にして参謀役の私の意見に否を唱えるだけの知力のある者など五車星には存在しない。
あの気ままな雲を除いては。
後はいかにシンを説得するかであるが私には勝算があった。もちろんこれにはユリア様の協力が必要となるが、ケンシロウのためと言えば納得してくれるだろう。
私とトウは夜陰に紛れシンとユリア様の住む居城に潜り込み、シンのいない時を見計らってユリア様と密談をした。
翌日打合わせどおりユリア様が事を起こした。自分を振り向かせるために次々に非道の限りを尽くすシンに耐えられなくなり、遂に最上階から身を投げるという身を賭してのお芝居を演じたのだ。
もちろん下では我々が安全にユリア様を受け止めるべく準備をしていたのは言うまでもない。
全ては私の計算通りに運んだ。
これでユリア様が死んだということにすれば、拳王とケンシロウの対決をしばらく先延ばしに出来る。
そしてユリア様を失ったケンシロウは北斗神拳継承者としての使命に目覚め、さらに強くたくましく成長できよう。
まさに思惑通りの展開というわけだ。
ユリア様に執着していたシンも、目の前で愛する女に飛び降りられたショックもあってか、我々の説得に応じるのに時間はかからなかった。
恐らくはシンにとってもこのお芝居は好都合だったのではないか。
いかなる手を用い心を尽くしても自分になびかず、終日暗い顔ばかりいしている女に実のところ嫌気が差していたのではないか。
我々の説得に一度は拒否の姿勢を見せたが、意外とあっけなくユリア様を引き渡したところからすると、この推測はあながち的外れとも言えまい。
私はフドウたちにユリア様を任せた後で、一人所用と称しシンのいる居城へと向かった。
私の姿を見たシンの表情は意外そうではなく、むしろ来るのを待っていたかのようだった。
「リハクか、やはり戻ってきたか」
心なしかシンはほっとした様子に見えた。ようやく肩の荷が下りたといったところであろうか。
「はい、シン様。やはり最後に一言お礼を言っておかねばと」
「礼だと?」
「はい、実は先日私の部下がとある村でケンシロウ様を目撃したと報告を受けました。」
「ほう。ケンシロウに?」
「はい。あなた様のおかげで随分と逞しくなられたようでございます。」
「なるほどな、俺はどうやらお前たちのためにケンシロウの踏み台になるということのようだな。成長させたケンシロウをいずれラオウにぶつける積もりか」
「はい、ゆくゆくは。しかしそれにはまだまだ経験が足りませぬようで。」
「そうか、それでラオウを遠ざけるためにユリアを死んだことにしたかったわけか」
「さすがはシン様、お察しの通りです」
「で、礼とはそのことか?ケンシロウを成長させる時間稼ぎのために俺がユリア殺しの悪名を背負うことの・・・・」
「もちろんそれもございますが・・・・」
「まだ何かあるのか?」
怪訝そうに聞くシンに対し、私は少し意味ありげな笑みを見せながら話を本題に移した。
「胸に七つの傷・・・・。その部下の話ではそれは見事なものだそうで。ケンシロウ様の胸に刻まれた北斗七星こそ北斗神拳継承者の証と既にあちこちで噂になっているようで・・・・」
シンは私の言葉の真意を測りかねるように思案顔であった。
「そんなものはたまたま・・・・。いや、そうではないな・・・・・。そうか、ようやく分ったぞ。リハク、あの胸に七つの傷を俺に刻ませたのもお前だったのだな」
シンは何かに思い当たった、というように私を見た。
「いやいやとんでもございません。私にはそのような術など使えませぬ。おそらくはシン様の潜在意識がさせたものかと・・・・」
「とぼけるな。その潜在意識とやらを俺に植え付けたのはお前ではないか。俺も今の今まですっかり忘れていたが・・・・」
どうやらシンも私とのあの時の会話を思い出したようだった。
それはまだシンがユリア様をケンシロウから奪う前のこと。
私とシンはこの乱世における北斗神拳継承者ケンシロウの行く末について語り合っていたのだった。
「シン様、継承者としてのケンシロウ様をどう見ますか?」
「そうだな。少しお高く止まった所はあるし少々残酷だがセンスは悪くない。もっと経験を積めば良い継承者となるだろう。今が治世の時代であればの話だが・・・・」
「ではこの乱世にはやはり物足りませぬか?」
「うむ。この乱れた世を救う男としてはな。奴が強くなるまで民衆は待ってはいられまい。まして奴は今ユリアとの恋愛ごっこを楽しんでいる真っ最中。この乱世における北斗神拳継承者としては些か自覚に欠ける行いと言われても仕方あるまいな。」
シンのケンシロウに対する評価を聞き、私は話をさらに進めた。
「となると民のためにはケンシロウの成長を早めるための強烈な刺激が要りますな。」
「刺激か・・・。そうかもしれんな。ところでリハク、この裏世界きっての知恵者と言われるお前の意見を聞かせてもらおう。ケンシロウはこの乱世における救世主になれると思うか?」
「私は残念ながらケンシロウ様の子供の頃しか知りませぬ。ただこの世の救世主となるにはやはり誰もがそう信じたくなるような強いインパクトが必要かと」
「インパクト?」
「さよう。民は救いを求めております。一目でこの男こそ救世主に違いないという分り易い印のようなものが欲しいのです」
「なるほど」
「例えばラオウのように誰もが一目でただ者ではないと納得するような黒い巨馬に跨る巨躯、というのもその一つ。」
「そうなるとケンシロウは確かにインパクトに欠けるな。ルックスは悪くないが逆にそれが印象度という点では災いしているかもしれん。」
話は私の望んでいた方向へ進んでいた。
「あるいはこれこそ北斗神拳継承者の宿命と思えるような痣とか刻印とか・・・・」
「・・・・・・。中国の古い話に生まれた時から背中に竜の痣があったとかいう伝説を持つ皇帝がいたとか聞くがそういうことか」
「さすがはシン様、良くご存知で。民とはそうした伝説に弱いもの。ケンシロウ様の体にも何かそうした印のようなものがあれば継承者として説得力があるんですがなあ・・・・」
今や全てを理解したシンの私を見る目は、五車星の一星に過ぎない海のリハクを見るそれではなかった。
「そうか、俺はお前の思い通りにケンシロウに強烈な刺激を与え、奴の体に誰もが納得する継承者の証を刻んだということか。」
「いや、いくら私でもそこまで計算は出来ませぬ。全ては天運の思し召しかと」
「その天運はどうやらお前に味方しているらしい。ジャギなどは己の甘言が俺を狂わせたと勘違いしているようだがさすがに俺もジャギに乗せられるほど愚かではない。」
「仰せの通りで」
「恐ろしい男よ、海のリハク。しかしお前の本当の目的はなんだ?ケンシロウにラオウを倒させてこの乱世を治めさせる、ただそれだけではあるまい?」
「私は南斗六聖拳の一将ユリア様に仕える五車星の一星に過ぎませぬ。命に代えてもユリア様をお守りすること、それ以上大それたことなど・・・・」
「ふっ。どこまでも食えぬ男よ。まあよい。ケンシロウとの戦いに敗れた時はあの世でお前の野望の行く末でも見守っておくわ」
「ご武運お祈りいたしております」
こうして私はサザンクロスを後にした。
ケンシロウがシンと戦い勝利を収めたものの、愛するユリアを失ったことでようやく北斗神拳継承者としての定めを自覚するようになるその少し前のことである。
サザンクロスを去った私であったが、ケンシロウとシンの戦いを見守り報告させるために配下の者を残しておくことは忘れなかった。
命を賭けたシンの一世一代の芝居は見事であり、さすがは南斗六聖の一将に相応しい死に様であった。
愛するユリアをシンに亡き者にされたとあっさり信じ込んだケンシロウは、どうやら北斗神拳の真髄である「怒りを力に転換するコツ」を掴みかけたようだった。
第3話 「ゴッドランド」
さてケンシロウを北斗神拳継承者としてデビューさせ、私の密かな野望は着実に一歩を踏み出しつつあった。
この野望実現のためにも後顧の憂いを絶っておかねばならない。
私にはどうしても早めに始末しておかなければならない男がいた。
核戦争後「神の国」などという気が触れたとしか思えない国家を築き、その支配者として君臨しているあの男を。
荒れ果てた大地を越えてその「神の国」に赴くと、早速主の住む館へと急いだ。
この時の私はと言えば、あのリンがいた村の長老でも五車星の海のリハクでもない、もう一つの顔をしていた。
館で私を出迎えたのはマッドサージと周りから呼ばれている大男であった。
男は私を客間へと通した。
このいかにも戦うしか能のなさそうな大男は、館の主カーネルに接見を願い出た私を今にも握りつぶしかねない勢いだった。
が、私が以前カーネルと昵懇であったことを告げると、まだ疑わしげな表情ではあったものの、大佐という称号のこの街の支配者に取り次ぎにいったのだった。
程なくあの男が客間へやってきた。
「ま、まさかあなたとは・・・・・。生きておられたのですか長官殿」
私を見たカーネルは驚愕の表情を隠そうともせず、核戦争前のもう一つの私の呼び名を呼んだ。
「かろうじてな、カーネル。お主も無事で何より。」
「こうしてまたお会いできて嬉しく思います。ところで長官殿、今は何を?」
「まあいろいろとな。それはそうとゴッドランドとはいかにもお主らしいな。順調に進んでおるか?」
この街のことを誉められたと思ったカーネルの顔は少年のようにほころんだ。
恐らくマッドサージと呼ばれていた自分の部下には決してこんな表情を見せることはないのだろう。
「はい、まだまだ小国ではありますがいずれは理想の国家に近づけていきたいと思っております。こうして再会できたのも何かの縁。よろしければ長官殿のお力をお貸しいただけないでしょうか?」
「いやいや、私の力などこのような時代にはなんら役に立つまい。しかしカーネル、お主の言っていた通りだったな。あの腐った豚どもには呆れ果てるわい。よもや本当に核戦争のボタンを押すとはな・・・・」
「恐れ多いお言葉。あの無知蒙昧な将軍や政治家どもの中で、唯一私の理想を理解してくださっていた長官殿には感謝の言葉もありません。私は常々長官殿こそ国家のトップに立つに相応しいお方と思っておりました。」
「買いかぶるな、カーネルよ。私は所詮影で策を巡らせるのが分相応の男。国のトップになど立てぬわ。」
「ご謙遜を。それはともかくせっかくですからしばらくごゆっくり滞在してゴッドランドをご覧になっていってください。」
どうやらよほどご自慢の街らしい。
しかしカーネルのバカげた理想に付き合うためにわざわざここに来たわけではなかった。
「そうしたいところだがあいにく先を急いでいてな。それはそうとカーネルよ、今日来たのは他でもない。」
私はそれまでよりも真剣な表情でカーネルに話しかけた。
「はい、なんでしょう。」
「このゴッドランドにとって将来災いをもたらす可能性のある男がこの近くいるという噂を聞いてな。」
「ほう、それは聞き捨てなりませんな。で、その男はいかなる人物で?」
「うむ。あの伝説の拳法、北斗神拳の継承者であり名をケンシロウという。つい先日KINGを倒したとか・・・・」
「あのKINGを・・・・。KINGとはいずれ戦わねばならないと思っておりましたが奴を倒すとは相当な腕ですな。長官殿、その男をこのゴッドランドの一員として迎えることは可能でしょうか?」
「それはちと難しいようだな。何しろその男は自らをこの乱世の救世主などと青臭いことを抜かしているような輩。お主のような高邁な思想に共感できるような者とは思えんのう・・・・」
「救世主とは片腹痛し。仰るとおりそのような者ならばいずれこのゴッドランドに歯向かってくるでしょうな。ではその芽は早めに摘んでおくことといたしましょう。」
(やはり食いついてきたか。こういう理想とプライドだけ高い輩を意のままに動かすのはたやすいことだな。)
「ならばお主に良い情報をやろう。リンという少女がそのケンシロウを追ってこの近くを彷徨っておる。捕らえておけばケンシロウはきっとやって来よう。なんせ救世主気取りだからな、幼い子供を見捨てることは出来まいて。」
「さすがは影の参謀と称された長官殿。相変わらずの情報の早さ、災いを未然に防ぐ見事な策。このカーネル恐れ入りました。いずれゴッドランドが大きくなった暁には是非長官殿をお迎えいたしたく思っております。それまでどうかご健勝にお過ごしください。」
「お前の理想が実現するのを楽しみにしているぞ、カーネル。それと念のためだが今日私が来たことはくれぐれも内密にな。」
「は、心得ております。」
(忠実な男よ。腕もたつし頭も切れる。だが清濁併せ呑むような器量が奴にはない。所詮は部隊長の器に過ぎん。国家を建設など分不相応も甚だしいわ)
カーネルの館を去ると誰も尾けている者のないことを確認してから私は変装を解いた。
(打つべき手は打った。後はリンとケンシロウがうまくこの策にはまってくれれば・・・・)
まだ核戦争前のこと。
天帝を頂点とする裏世界の者は表の政治には決して関わってはならないという掟を破り、私は当時の軍部の最高権力者である将軍に近づき、権謀術数を駆使して成り上がった。
その当時の私の肩書が長官であり、大佐であるカーネルから見れば上司という立場になる。
このいわば表世界の裏の顔とでも言うべき長官としての私の姿は、我が娘トウですら知らない極秘事項であった。
掟を破ったことが知れれば私も私の一族も裏世界から完全に抹殺され、野望達成どころではなくなってしまう。
あの核戦争で長官としての私を知る者はいなくなったかと思っていたが、その後の調べでカーネルが生きており、ゴッドランドなるものを建設していると分った時は少々肝を冷やしたものだった。
従って長官としての私を知るあのカーネルにはいずれ死んでもらわねばならなかった。
しかしあの男は強い。
私がまともに戦って勝てる相手ではない。
そこでケンシロウを利用してカーネルを抹殺するという策を思いついたというわけだ。
シンの時と同様、事の成り行きを見守る配下の者を残して私はゴッドランドを後にした。
結果は私の願いどおりカーネルはこの世から姿を消した。
カーネルの拳法家としての力は相当なものであり、ユリア様といちゃついていた頃のケンシロウであれば、あるいは勝敗はどちらに転んだか微妙だったかもしれない。
しかし結果はあっけないくらいにケンシロウの圧勝だった。
カーネルの得意とする殺気を消す能力には少し面食らったようだが、すぐに力の差を見せ付けたあたりはケンシロウの成長を感じさせるに十分であった。
そしてこれも計画通り、リンとケンシロウは再び出会い、共に旅をすることとなった。
(カーネルも哀れな男よ。最後までこの私を信じていたとはな。あの腐った政治家どもに核戦争のボタンを押すように仕向けたのがこの私だと知ったらどのような顔をしたことか・・・・)
第4話 「俺の名を言ってみろ」
私はその後も内偵を放ち、ケンシロウとリンの行動について逐一報告させていた。
カーネルを倒しゴッドランドを崩壊させたケンシロウは、その後返す刀でジャッカルという小悪党一味を一掃。
ジャッカル自体は取るに足りない小悪党のボスにすぎなかったが、彼にそそのかされて牢屋から出たデビルリバースは、さすが「悪魔の化身」と異名を取るインド五千年の歴史を持つ風殺金剛拳の使い手であった。
かつてのケンシロウなら、この巨体を利して風を意のままに操る拳法に苦戦したかもしれないが、日に日に成長を遂げるケンシロウの前ではもはや強敵と呼べるほどの相手ではなかったようだ。
この頃から私は奇妙な現象に気づいていた。
私が長老として治めていたあの村で、Zのリーダーが最期に見せた死のパフォーマンスが、その後小悪党どもの間で密かな流行となっていることに。
あの日以来「胸に七つの傷を持つ男」と北斗神拳の噂は瞬く間に世に広まっていった。
噂が広まるのがこれほど早かった要因の少なからぬ部分を、北斗神拳によってもたらされたその死に様の凄まじさが占めていたのは間違いないだろう。
秘孔を突かれてから死ぬまでのわずかな間、「お前はすでに死んでいる」という決め台詞、そして断末魔とともに内部から肉体が破壊されるという凄絶な死。
これまで「死」というものがこれほど劇的に彩られたことはなかった。
一度でもこれを目の当たりにした者は、抑えきれぬ興奮と昂ぶりを以て、まだ見ぬ者に「北斗死の劇場」の瞬間を伝えていったのだった。
この興奮と昂ぶりが北斗神拳を世に浸透させる大きな原動力となったと言っていいだろう。
しかし世にはびこる小悪党どもにとっては、それどころの話ではなかった。
小悪党どもにとって「北斗死の劇場」は単に見て楽しむドラマではない。
なぜなら明日は自分がその劇の主役を演じるかもしれないのだから。
少し以前からこの世紀末に跋扈しだした小悪党連中が、独自のコミュニティのようなものを作り上げていることを私は知っていた。
彼らの所属は様々であり、拳王軍やKINGの軍のような大規模な集団に属している者や、先のZのような小集団を形成している者、単独で行動している者などがいた。
彼ら小悪党にはこの世紀末を支配しようなどという大それた考えも力も知恵もなかった。
ただひたすらこの世紀末に一瞬の快楽と卑劣と悪の限りを尽くす。
彼らにとってこの世紀末を誰が治めるかなどどうでもいいことであった。
どうなろうが自分たちはどうせろくな死に方は出来ない。
ラオウやサウザーといった覇権を目指すような大悪党には理解できない彼ら小悪党ならではの虚しさが、こうしたコミュニティの存在を必要としていたのだろう。
彼らは仕事、つまりはより弱い者から奪い食らうことだが、の合間に夜間密かに集まっては自分たちの卑劣な武勇伝を語り合い、そしてその小悪党ならではの虚しさを共感し合っていた。
そんな時に降ってわいたように伝えられた「北斗死の劇場」。
その栄えある第1号となったZの死に様は、彼ら小悪党連中のコミュニティでは英雄的な扱いを受けたようだ。
悪党には悪党の美学というものがある。
先の見えないこの世紀末で奪い食らうことに賭けた彼ら小悪党は、所詮全うな死に方が出来るとは思っていない。
どうせ死ぬなら最後の最後まで小悪党らしく無残に華々しく散りたい。
そんな漠然とした死生観を持つ彼らにとって、伝説の北斗神拳によって見るも無残な最期を遂げるという死に様は、まさに我が意を得たりといったものだったのだろう。
以来小悪党連中の間ではZの死に様こそ小悪党にとっての理想の最期として語られるようになり、いつか自分たちもケンシロウと出会い、北斗神拳によってZを超える劇的で無残な死を賜りたいと願うようになったのだった。
そしてその最期の瞬間には練りに練った命がけの断末魔パフォーマンスを披露したいと。
小悪党のコミュニティではZの死以来、どこそこで誰がこんなひどい殺やられ方をした、その時に誰それがこんな凄まじい断末魔をあげたといった情報が集められ、皆でその死に様についての品評会を行うのが一大ブームとなっていた。
彼らは死を恐れる半面、ケンシロウと出会い「北斗死の劇場」の主役を演じたいという強い欲求も持っていた。
私は情報収集のためこうした小悪党連中のコミュニティにも密かに手の者を紛れ込ませていた。
彼ら小悪党は所属する集団も様々であり行動範囲も広いため、その情報量の多さは決して侮れない。
私は軍師としての表の仕事のためにも、私自身の野望実現のためにも彼らからの情報を活用していた。
ジャッカルとデビルリバースを倒したケンシロウは、次にシンと同じく南斗六聖の一将である水鳥拳の使い手、義の星の定めを持つ男レイと出会うこととなる。
生来義に厚くだまされやすい性格のレイであったが、妹アイリを攫われた怒りから今や完全に正気を失い鬼と化し、その犯人と目される「胸に七つの傷を持つ男」を捜していた。
もちろんケンシロウが女を攫うなどという行為に及ぶはずはない。
私はその話を聞いてすぐに真犯人が誰か分かった。
北斗四兄弟の三男にして数奇な宿命を持つ男ジャギ。
(ジャギがケンシロウとレイを引き合わせたか・・・・。)
「お父様、少し聞きたいことがあるのですが」
私が感慨に耽っていると娘トウが話しかけてきた。
この頃、私は我が娘に計画をかなり話していた。私の野望実現にはどうしてもトウの力が必要だったからだ。
だが核戦争以前の出来事についてはなるべく伏せていた。それはこの裏世界の恥部であり、知らずに済めばその方が幸せだと考えたからだった。特に女性にとっては。
「ん?、なんだね」
「私にはどうしても合点がいきません。そもそも何故ジャギのような男が北斗神拳継承者の候補としてリュウケン様の養子になれたのでしょう?」
まるで私がジャギのことを思い浮かべたのを見透かしたかのようなトウの質問に内心驚いたが、これもまた巡り合わせというもの。この機会にトウにジャギの真実を話しておくのも悪くない。
「というと?」
「ラオウ、トキには元々拳法の天賦の才があり、ケンシロウは高貴な血筋と以前お父様からお聞きしました。しかしジャギには一体何がありましょうか?拳の才も凡庸、性格も歪んでいて嫉妬深く卑劣極まりない。私にはあの男を養子としたリュウケン様のお考えが分りませぬ。」
「そうか、お前の目にはそのように映るか・・・・。トウよ、我が娘なら覚えておくがよい。物事は表に現れている事柄だけ見ていては真の姿はわからないということを」
「ではジャギには何か裏があると?」
「そう、今となっては信じがたいかもしれないが、幼少の頃、あの四兄弟の中で最も拳の才に恵まれ、稽古熱心で性質も素直であり、北斗神拳継承者の最有力候補と目されていたのは、あのジャギだったのだ」
「ま、まさか・・・・。いかに物事に裏があると言ってもトウには到底信じられません。」
「そうだろうな。ジャギは本来気持ちの真っ直ぐな良い子だったのだ。自分の出生の秘密を知るあの日まではな・・・・」
「出生の秘密?」
こうして私は我が将にも関わるジャギの秘密をトウに話すこととなった。
あれはまだジャギが少年の頃。
既に物心ついた時から拳法の修行に励んでいた北斗四兄弟であったが、中でもジャギの才は群を抜いており、あのトキですら敵わなかった。
純粋な少年だったジャギは兄弟たちと切磋琢磨し、いつかは自分が継承者に選ばれることを信じて疑わなかった。
そんなある日、あの事件が起こった。
その悪魔のような男は北斗神拳継承者リュウケンの首を取りにやってきた。
たまたま外出していたリュウケンの居城を守る衛士たちは、みなその男に瞬時に虐殺された。
ジャギを含めた四兄弟はすぐに安全な場所へ身柄を隠されたが、どうしてもその男が気になったジャギは一人居城へ様子を見に戻ったのだった。
ジャギが戻って物陰から城の中を見ると、今まさに衛士の一人が悪魔の生贄になろうとしていた。
「そ、その顔はジュウケイ、まさか貴様魔界に・・・・。北斗琉拳の究極の到達地と言われる魔界に・・・・。」
「俺は魔界を見た!」
ジュウケイと呼ばれたその男の拳はかつて見たことのない異様な凄まじさであり、衛士は瞬時に肉体をこの世から消し去ることとなった。リュウケンがその様子をジュウケイの背後から見ていたのがジャギの目に止まった。
ジュウケイはすぐにリュウケンの気配に気づき、先に攻撃を仕掛けた。この鬼気迫る凄まじい攻めにリュウケンも危うかったが、最後は北斗千気雷弾で仕留めることに成功した。
リュウケンに倒されたジュウケイという男の顔は、先ほどまでとは別人のように憑き物が取れたような穏やかな表情になっていた。
「お、俺は一体何を・・・。こ、これは」
周囲に転がる衛士たちの死体と瓦礫の山を見てジュウケイが呟いた。
「ようやく正気に戻ったか。お前もまた北斗琉拳の魔力に心を狂わされていたのだ。」
「リ、リュウケン、俺は何を・・・・」
「遅かった・・・・、見ろ」
リュウケンがジュウケイに差し出したのは二つのネックレスだった。
それはジュウケイの妻と子の物であり、どうやらジュウケイはここに来る前に自分の妻子をその手にかけてきたらしい。
打ちひしがれるジュウケイにさらにリュウケンは詰め寄った。
「北斗琉拳とはなんと恐ろしき拳よ。しかし北斗琉拳は己の本能をありのままに映し出す拳とも聞く。貴様が妻子を殺したのは拳の魔力のせいだけではあるまい。貴様の潜在意識のどこかにこうしたいという秘かな欲求があったのだろう。」
「なにをばかな。愛する我が妻と子を殺したいなどと思う親がどこにいようか」
「本当にそう言い切れるかジュウケイ。貴様まだあの女に未練があるのではないのか?そしてまだ見ぬあの子にも・・・・・」
「そ、それは・・・・」
「無理もない。そう簡単に忘れられるような女ではないからな。南斗の慈母星。まさに魔性のおなごよ。」
「言うなリュウケン。所詮はお互い家庭を持った身での許されぬ関係。二度と会わぬと誓ったのだ、あの女にも生まれてくる我が子にも・・・・・」
「いかに誓いを立てようとも心までは捨てられぬ。封じようとすればするほどその想いはお前の心の中で大きく強くなっていったのではないか?その封じ込められていた想いが琉拳の魔力により解き放たれた。そうではないのか。お前の本心はあの女と子供と一緒になりたかった。そのためには妻子は邪魔。ならば亡き者にしてでも・・・・・・」
「黙れリュウケン、そんなことがあるわけが・・・・・」
強い否定の言葉とは裏腹にジュウケイの声の調子は徐々にか細く弱々しくなっていった。
「貴様がこの城に来た本心は俺との戦いではあるまい。本当はあの子に会いたかったのではないのか?貴様が俺に預けたあの男の子に」
「そ、そんなことは・・・・」
「ないとは言えまい。せっかくだから聞かせてやろう。永遠に親子の名乗りはしないという条件でお前から預かったあのジャギという子は、実に良い子に育っておる。」
「・・・・・」
「本人には両親は盗賊に殺されて既にこの世にないと言い聞かせてある。まあ今の時代には珍しいことではないからな。ジャギはあまりにも心の純粋な子でな。両親共が道に外れた関係だと知れば相当なショックを受けよう。だからこのまま会わずに帰るがよい。」
「分かった、リュウケン。子供を、ジャギをよろしく頼む・・・・。で、その子は・・・・、ジャギはこの先どうなる?北斗神拳を継ぐのはやはり難しいか?」
「今のところ心技体共に四人の中では最も優れておる。選ばれればきっと立派な継承者となろう。だが・・・・・」
「分かっておる。北斗宗家の正式な跡継ぎが弟にいる以上、両不倫の子など選ばれるはずがないのはな」
「すまんな、ジュウケイ。ラオウ、トキならまだしも宗家のケンシロウとでは身分が違いすぎる。俺も気が重い。しかし何ゆえ今になって宗家が継承者争いにしゃしゃり出てきたのだ。俺は元々宗家の血を引くケンシロウを守るため、万が一の時を考えて身分を秘して預かるというだけかと思っていたが・・・・。それが突然次男のケンシロウが宗家嫡男に決まったという通達があったかと思えば、今度は継承者争いの一人として養子にせよと。しかも『本来宗家嫡男が北斗神拳正当継承者となる定め』などと千年も昔の建前を持ち出してきおった。いったい彼の地で何があったというのだ?」
ジュウケイという男は苦りきった顔でリュウケンに説明を始めた。
「あの地位と身分を守ることに汲々とした腐った宗家の高僧どもか。今までのように継承者争いで最も優秀と認めた者を承認するだけの役割で満足しておけばよいものを・・・・。どうも今の高僧どもの中にかなりの野心を持ったなかなかの切れ者が居るようだな。この乱世に乗じて北斗神拳継承者を権威の象徴として悪用しようとしておるらしい。実物が目の前にいないことを巧みに利用して、次男のケンシロウこそ千年に一人の宗家の逸材という評判をまことしやかに流しておる。この乱世に宗家を継ぐべき者は千年に一人の逸材のケンシロウしかいないという風潮を、いつの間に高僧どもの間で固めてしまいおった。さらに『宗家嫡男こそ正当な北斗神拳継承者』という遥か昔に有名無実となったしきたりをどこからか引っ張り出してきてな。何しろこの乱世だ。元々なんら力も知恵もない高僧どもが何かに縋りたくなる気持ちを巧みに利用したのだな。『宗家の嫡男が北斗神拳継承者となってこそこの世は救われる』などという世迷いごとに皆乗せられてしまった。そしてヒョウがまだ物心がつく前にさっさと臨時で会議を開いて宗家嫡男を長男から次男に変更し、その者を北斗神拳継承者として推薦するという異例の措置を満場一致で決定させた・・・・・というわけだ。」
「なるほど、そういうことか。ではそもそもケンシロウを俺に預けたのも端からそういう目的だったのだな。」
「恐らくは。俺も単にこの乱世で宗家の血を絶やすことがないよう兄弟を二ヶ所に分けるという目的かと思っていたが、その後の流れを見ればはじめから計算どおりだったのだろうな。」
「本人が目の前にいなければ伝説だけが一人歩きするということか。」
「そう、実物を見られなければヒョウのように欠点を人目にさらす心配もないからな。全くうまく計ったものよ。おかげでお前にも随分と迷惑をかけたな。」
「俺はまあいい。ラオウ、トキもケンシロウが宗家の出だということは知っているから仕方なく納得はしてくれよう。しかしジャギは・・・・・。あの子はケンシロウをただの義理の弟と思っているからな。心技体全てに勝る自分が継承者に選ばれず弟のケンシロウが選ばれたら・・・・・。その時のことを思うと辛い。純粋な子だけにどのような反応を示すか・・・・・。」
「苦労をかけるなリュウケン。ジャギはお前に預けた子。どのようにしても文句は言わん。俺はもう北斗琉拳を捨てよう。この拳は俺には使いこなせぬ」
こうしてジュウケイは去り、その後二度と姿を見せることはなかった。
物陰から全てを見聞きし、自分の生い立ちの事実を知った少年ジャギの衝撃は計り知れないものがあった。
自分の父と母はどちらも配偶者を裏切り、その結果生まれてきた望まれていない子が自分だという事実は心根の優しい少年には耐えがたかった。
さらに末弟のケンシロウが既に継承者に決まっていることも、また将来へのたった一つの希望を打ち砕くに十分な事実であった。
つまりどう頑張ろうと自分が北斗神拳継承者に選ばれることは決してないだけでなく、自分が懸命に修行に励めば励むほど、強くなればなるほど師父リュウケンを苦しめることになるのだった。
生まれた時から両親の名も顔も知らなかったジャギであったが、師父リュウケンに育てられ拳法の修行に励む毎日は決して嫌ではなかった。
ジャギはリュウケンを本当の父のように愛しており、そのリュウケンが自分のために苦しむ姿を見てはいられなかった。
そして思い悩んだ挙句、とうとうジャギは変わってしまった。
第5話 「南斗慈母星」
私はトウに、かつてジャギから聞いた幼き頃の話を教えた。
ジャギの秘密を知ったトウは明らかに困惑していた。
特にジュウケイの相手が南斗慈母星だという件では。
「よいか、トウ。ジャギが拳法の修行を怠り銃などに興味を持ったのは全て自分が継承者に相応しくないという師父リュウケンへの哀しきアピール。いささか極端すぎる変化ではあるが、元々純粋な子だけに生き方も不器用でな。そんな男よ、ジャギという男は・・・・」
「親子の名乗りは許されず、たった一つの希望も絶たれるとは・・・・・。なんという哀しい定め。しかし話に出てきたそのジュウケイという男の不倫相手とはひょっとして・・・・」
「そう、南斗慈母星、すなわちユリア様のお母上じゃ」
「ということはユリア様とジャギは兄妹・・・・?」
「と、いうことになるな。」
「まさかそんなことが・・・・・。でも、それで分かりました。あの北斗の四兄弟でジャギだけがユリア様に想いを寄せなかったわけが。」
「うむ。種違いとはいえ実の兄妹だからな。永遠に名乗ることを許されぬ兄妹ではあるが」
「ユリア様はこのことを?」
「知らぬであろう。トウもこのことは自分の胸の内にだけしまっておくがよい。」
今聞いた事実をどう受け止めるべきか、トウの表情からはそんな戸惑いが見て取れた。
「承知しました。ところでお父様・・・・」
「まだ何か?」
「ユリア様の母上とそのジュウケイという男は本当に愛し合っていたんでしょうか?私はユリア様の母上を見たことがありませんがそんなに魅力的な人でしたか?その・・・・ユリア様のように」
(何を改まって聞くのかと思えばそんなことか。たくましくはなったがやはり女だな。つまるところユリア様への嫉妬か・・・・・)
「女性としての魅力はユリア様より上かも知れぬな。お前も知っているように南斗慈母星とは代々女系の一族。婿養子を取って女の跡継ぎを作って続いてきた家系。そのせいなのか男が群がってくる不思議な魅力を備えた女性が古くから多いらしいのう」
「だからといって夫も子供もいながら他の男性と関係を持つなど・・・・・やはり私には理解できません。」
(なるほど。ケンシロウという恋人がいながらトキやラオウの気も引くユリア様が許せないということか・・・・)
「まあそう言うな。平穏な時代にはこの裏世界は世継ぎを作り家を絶やさないのが最大の使命。まあ他にこれといってすることもないせいか風俗は乱れがちなのじゃ。ましてユリア様の母上が最初に産んだ子は男の子。他の家なら万々歳だが女系一族の慈母星ではそうはいかん。跡継ぎのために女を産まねばという代々続いた定めがそうさせたのであろう。」
「その男の子は確かリュウガとか・・・・」
「そう。他の南斗六聖なら立派な跡継ぎになったであろう偉丈夫であったが、女系一族の定めで他家へ養子に出されたな。今は泰山とかいう拳法の使い手としてそこそこ名を知られておるようだ。」
「しかしユリア様の兄妹といえばあの雲も・・・・・」
「そう、こちらは腹違い、つまりはユリア様の父上とその愛人との子じゃな」
「しかし理由はともかく両親揃って別に愛人を作るとは・・・・・。ユリア様が子供の頃にお心を病んでいらっしゃったのも分かる気がしますわ」
(嫉妬したかと思えば今度はユリア様への同情か・・・・・。女心というものは複雑だのう。しかしユリア様の実の父が何者か知ったらこの程度の驚きでは済むまいな。まあこれはトウに話す必要のないことだが)
「ところでお父様、その後そのジュウケイという男と北斗琉拳という恐ろしい拳法はどうなったのですか?」
「ジュウケイはその後己の国へ帰り隠居生活をしたと聞く。しかし北斗琉拳はそれ以前に既に三人の少年に伝えられていたようじゃな。」
「まあ、ではその若者たちがいずれまた恐ろしいことを?」
「あくまで使う者次第ではあるが魔力に飲み込まれてしまえばまた悲劇が起こるやも知れぬな。」
トウは不安げに尋ねてきた。
「その地はここから遠いのですか?」
「私も行ったことはないが海を渡って行かねばならぬらしい。」
「では今すぐこの国に恐ろしいことが降りかかるということはないのですね?」
「そういうことだ。まずは今すべきことを考えないとな。トウよ、なぜお前にここまで秘密を話したか分かっているな?」
「はい。分かっているつもりです。私も海のリハクの娘。この乱世に我が一族が大きな野望を成し遂げるため力を尽くす所存です」
「うむ。それでこそ我が娘じゃ。決して情に流され道を誤るでないぞ」
「はい。肝に銘じておきます」
そう言うとトウは部屋を出て行った。
人として、女としての様々な感情を飲み込み私の指示に忠実に従う娘トウ。
この幸薄い娘を一人の父として思うと不憫ではあった。
私が今、我が娘にやらせていることは人の親としては決して許されることではない。
だがしかしこの裏世界に生まれ、その絶対的な身分の差に常に泣かされてきた我が一族の無念を思えば、もう二度とないであろう成り上がりのチャンスを逃すわけにはいかなかった。
トウもまた幼き頃から、同じ女性でありながら南斗慈母星のユリア様と自分との間の越えられない身分の差に悩み苦しんできたのであろう。
そうでなければいかに親の指示とはいえこのような計画に加担するはずもない。
(我が身を犠牲にした娘トウのためにも必ずやこの野望は実現せねばならぬ。そのために私はジャギをも利用したのだからな)
私の想いは再びジャギへと向かっていた。
第6話 「胸に七つの傷」
あれは村の長老としてケンシロウに再会してすぐ後のこと。
私は密かにジャギと会っていた。
あの日ジュウケイとリュウケンとの会話から自らの出生の秘密を知ってしまって以来、全てを変えてしまったジャギ。
表向きは継承者争いをしているとは思えない不届きな振る舞いを重ねていたが、不思議と私にはその心の内を明かしてくれていた。
私が仕える南斗慈母星ユリア様、すなわちジャギから見れば種違いの、名乗ることを許されぬ妹のことを私から聞きたかったという目的もあったようだ。
慈母星の近くにいる五車星の最年長にして軍師として名の通った私は、ジャギから見れば本心を打ち明ける格好の相手だったのだろう。
「リハクよ、どうやらケンシロウが継承者としての役割に目覚めたようだな。何か聞いているか?情報通のその方ならいろいろ知っているのではないか?」
「はい、ジャギ様。シン様に敗れユリア様を連れ去られてからというもの、だいぶ逞しくなられたようでございます。」
「そうか、師父リュウケンのためにも、妹ユリアのためにもケンシロウには強くなってもらわねばな。シンをたぶらかしたのもどうやら正解だったようだ。」
「はい、お見事な策でございました。あなた様のお心はこのリハク分かっているつもりでございます」
「あの日以来全てを捨てて悪に徹することに決めた俺だが、やはり誰かに真実を分かっていて欲しいという弱き心が残っているらしい。その相手がユリアに仕えるお前というのも皮肉なものだ。」
それは決して偶然ではなく、私がユリアに仕える立場だからこそ、心を許す気になったのだろうと思われるが、あえてそれには触れずにおいた。
「何を仰いますか。あなたほど心の強いお方をこのリハク知りません。いつかユリア様にもあなたの真実を語れる時がくるやもしれません。」
「いや、それはいかん。それではケンシロウを信じるユリアを傷つけることにもなろう。俺はそのようなことは望んでいない。ただこの世にたった一人でいい。俺という人間を理解してくれる者がいればな。」
ジャギの目は名乗り合うことの決してない妹への情で溢れているようだった。
「どこまでも心優しきお方。ところでジャギ様、これからどうなさるおつもりで」
「俺もかつては北斗神拳継承者を目指した男。その継承者として選ばれ、妹ユリアの婚約者でもあるケンシロウのために俺にやれることをするつもりだ。逆にリハクよ、お前に聞きたい。ケンシロウのために俺は何が出来る?」
「ケンシロウ様のために・・・・・。あのお方が真にこの乱世の救世主となるにはまだまだ修羅場をくぐった経験が足りませぬ。あなたにとっても兄上でいらっしゃいますラオウ様に勝てなくてはこの世は救えません。」
「兄者にか。ではその経験のために俺がケンシロウと戦い犠牲になろう。だが既に拳法家としては俺の力はさほどではない。今ケンシロウと戦って、果たしてどれほどの意味があるかは分からぬが・・・・。」
私はジャギにとってはさらに残酷な、しかし私の野望にとっては必要なジャギの役割を示唆することにした。
「北斗神拳の真髄は怒りと聞きます。あなた様ならケンシロウ様に最大限の怒りを生み出すことも可能かもしれませぬ。何しろケンシロウ様はあなた様の本当のお心を何一つ知りませぬ。恐らくは腕もなく卑劣な義兄としか思っていないでしょうからな。」
「なるほどな。怒りを力に変えるのが北斗神拳の奥義か。ならばケンシロウの俺に対する悪印象を逆に利用してみるか。面と向かって、シンをたぶらかしユリアを略奪させたのは俺だとでも言ってみるか。ついでにケンシロウがいかにも怒りそうな幼い子供でも虐殺してみるか。」
ジャギは半ば自嘲気味にそう言った。
本来ならば継承者になるべき資質を備えた男が、身分の違いゆえにその座を自ら譲り、卑劣漢の汚名をかぶりながら尚その義弟のために己を犠牲にしようとしていた。
ジャギの胸中を思うと心が傷んだが、私はそんなジャギのけなげな心に応えるべく非情とも言える策を授けた。
「もし、本当にジャギ様にその気でおありでしたら、ケンシロウ様の名を騙ればさらに効果的かと・・・・。」
「名を騙るか。だが俺のこの面相ではいかに名を騙っても無意味だろう。」
ジャギはかつてケンシロウに破壊され醜く歪んだ顔を撫でながら言った。
「それならば仮面を被ればどうにでもなりましょう。幸いケンシロウ様はシン様により胸に七つの傷をつけられています。既に一部では『胸に七つの傷の男』と呼ばれているようで、これからケンシロウ様のトレードマークとなっていくことでしょう。」
「なるほどな。では仮面を被り、俺の体にもその傷さえつければ、みな俺を北斗神拳継承者と間違えるというわけか」
「はい、私も直接見たわけではありませんが、これがまた見事な北斗七星を象っているようで・・・・。」
「それほどわかりやすい傷があれば村人たちをだますのは簡単そうだな。よし、決めたぞリハク。これから俺は『胸に七つの傷』の男として悪逆非道の限りを尽くそう。そしていつかケンシロウに倒されよう。これ以上ない怒りを引き出してな」
決意を秘めた寂しげな表情。
それが私が見たジャギの最後の顔だった。
それから間もなく「胸に七つの傷」の男は各地で悪の限りを尽くし、結果的には北斗神拳の名をさらに世に宣伝する形となった。
そしてその副産物としてジャギが略奪したアイリが、レイとケンシロウを引き合わせたのだった。
ただ注意が必要だったのはケンシロウの怒りを引き出すために、ジャギがリンに手を出さないかという点であった。
ジャギはリンの出生の秘密を知らないためその可能性はないとは言えなかった。
そのため私は手の者を割いてリンを常に監視下に置いていたが、幸いジャギがリンと遭遇することはなかった。
ジャギの最期はケンシロウに付いていた密偵が報告してきたが、実に見事な死に様だったようだ。
無残な死を遂げる最後の瞬間まで悪に徹し、ケンシロウの怒りを最大限に引き出すことに成功したのだった。
北斗と南斗の両不倫の結果生まれた子、という数奇な定めを持った男ジャギはこうして逝った。
その本当の心を知る者は今や私とトウしかいない・・・・・。
第7話 「アミバとカサンドラ」
ジャギの最期の言葉から北斗四兄弟の長兄と次兄、ラオウとトキが生きていることを知らされたケンシロウは、次兄トキを探すための旅に出た。
世の中というのは不思議なもので、同じ時期に同じ事を考える者が現れるらしい。
ジャギがケンシロウの名を騙って悪逆非道を尽くしていた同じ頃、同じく北斗四兄弟のトキを名乗る者がいることを、私は例の小悪党コミュニティに忍ばせた配下の者から聞いていた。
この男はトキが作った病を治す「奇跡の村」を乗っ取り、そこで北斗神拳の新たな秘孔を探求すべく悪魔のような人体実験を繰り返していたようだ。
男の正体はアミバといい、元は南斗聖拳の一派の者で水鳥拳のレイとも顔見知りだという情報もすでに私は得ていた。
アミバとは言ってしまえばただ小器用なだけの男にすぎない。
なるほど技の一通りの習得は凡人よりもはるかに早い。
が、所詮は上っ面を真似するのが早いというだけで、技を極めるという高みにはほど遠い。
さらっと一つの技を覚えてしまうと、それで全てをマスターしたような錯覚を起こし、すぐに次の技を習いたがる。
そのような者に拳の奥義を授けようなどと思う師はいまい。
要するに自業自得でしかないのだが、小才に似つかわしくない巨大な自尊心の持ち主でもあるこの男は、それを自身に対する正当な評価だと受け入れることはできなかった。
つまり自分の才能があまりにも高すぎるがゆえに、みな嫉妬して自分に奥義を授けようとはしないのだと、そんなねじ曲がった解釈をすることで膨れ上がった己のプライドをどうにか満たしていた。
それがアミバという男だった。
そしていつからかこのアミバは拳王、すなわちラオウに使われるようになったらしい。
拳法に対する飽くなき探究心。その一点でのみラオウはアミバの利用価値を認めたものと思われる。
一方のアミバにとっても、北斗四兄弟の長兄から直々に北斗神拳の新しい秘孔を探すという大役を任されたという事実は、この男の歪んだプライドを刺激するに十分だったのだろう。
(ラオウか…。あれも複雑な誤解されやすい男よ・・・・。)
正当な継承者への道は絶たれたラオウであったが、拳の道において頂点に立つという野望はいささかも衰えてはいなかった。
そのために利用したのはアミバだけではない。
カサンドラという拳法家たちの大規模な牢獄を作り、ここでも古今東西の様々な拳法の研究に余念がなかった。
その類まれな巨躯からは誤解されがちだが、ラオウという男は決して力だけの拳法家ではない。
ラオウが自ら名乗った「拳王」という名は、拳の道において頂点に立ちたいという強い欲求の表れであった。
少なくとも拳法の道に対する真摯な探求心という点においては、継承者のケンシロウを遥かに凌駕していた。
そのラオウが長兄であり、力もあり、研究心もありながら、なお継承者に選ばれなかったのは、ジャギ同様ケンシロウとの生まれながらの身分の差としか言えない。
今が治世の世であれば、ラオウもこれを定めと諦め拳を捨て、静かに隠居したかも知れない。
しかし世はまさに歴史始まって以来の未曽有の乱世。
それでもあるいは継承者ケンシロウにその立場に相応しい力や認識があれば、ラオウのやり方もまただいぶ異なるものとなっていただろう。
だがケンシロウはこの乱世における北斗神拳継承者の役目をよく分かっておらず、悠長におなごと恋愛ごっこに興じていた。
北斗神拳を、拳法を誰よりも愛する者として、このまま乱世にこの唯一無二の拳が飲み込まれ、途絶えてしまうのを黙って見過ごすことは、ラオウには耐えがたかった。
迷った挙句にラオウが採った行動は、師父リュウケンを殺すというとんでもない暴挙ではあったが、これもまたラオウなりの考えがあってのことだった。
一子相伝の北斗神拳においてはその継承者争いに敗れた者は拳を封じられる定め。
それを遂行するのが先代継承者リュウケンの役目であったが、リュウケンとてこの乱世に今のままでケンシロウが生き残れる可能性は極めて低いことをよく分かっていた。
ならばケンシロウが死んだ時の保険として、ラオウのような屈強な男の拳を封じずに残しておく方が得策。
一子相伝の定めを守り北斗神拳がこの世から消滅するに任せるか、北斗神拳を次の世に残すことを優先し継承者以外の者にも拳を使うことを認めるか。
どちらを取っても北斗神拳継承者としての道に反する許されざる行い。
もともと優柔不断のきらいがあったリュウケンは、なかなか決断が下せず思い悩んでいた。
そんな師父リュウケンの迷いを見透かしたかのようなラオウの暴挙。
リュウケンからすれば、北斗神拳継承者としての定めを破ることなく、この拳を次の世に遺せる絶好の好機をラオウが与えてくれた形であった。
自らの優柔不断を問い詰めるでもなく、父殺しの大罪を背負って世紀末覇者になろうというラオウの思いに、リュウケンも応えた。
今まで継承者ケンシロウにしか授けていなかった最後の奥義、「北斗七星点心」を披露することで。
リュウケンがこの、本来なら継承者にしか授けないはずの奥義をラオウに見せた真意は、すなわちケンシロウが死んだ際にはラオウにこの拳法を次の世に伝えてほしいという遺言であった。
トキはリュウケンがラオウに負けたのは病のためだと信じていたようだが、それは真実ではない。
リュウケンははじめからラオウに最後の技を伝授してこの世を去るつもりであり、ラオウもそのことはよく分かっていた。
病に負けたというのは北斗神拳正当継承者としてのリュウケンのせめてもの意地であり、それを許したのは義理とはいえ世話になった父へのラオウの最後の情けであった。
ラオウとしては病に倒れた父に容赦なくとどめを刺した非道の息子というエピソードの方が、世紀末覇者として人々に恐怖を植え付けるのにプラスに作用するという計算も働いたかもしれない。
こうしてラオウは「拳王」と名乗り「世紀末覇者」を目指すこととなった。
自分が力と恐怖によりこの乱世をほぼ制圧し、最後にケンシロウと雌雄を決する。
ならばどちらが勝っても北斗神拳はこの世に残る。
それこそがラオウが考えた「北斗神拳」を確実に次の世に伝える唯一の方法だった。
いささか突飛で乱暴なやり方ではあるが、さほど知的とは言えないラオウの頭にしてはよく考えた策と言えなくもない。
そしてこのラオウの策を利用することこそが、私の計画にとっても絶対必要ないわば肝となる部分であった。
娘トウを説得しラオウに近づけたのもその計画の重要な一部。トウは実に首尾よくやってくれた。
まだ若い娘には簡単な役ではなかっただろうが見事にトウは役目を果たし、私はついに最後の切り札を掌中に収めたのであった。
ちなみにリュウケンとラオウのことについて私がこれほど詳しく知ることになったのも、トウがラオウから聞き出したためであった。
さてケンシロウに付けていた密偵からの報告は次々と手元に届いていた。
ジャギと戦った後もケンシロウは順調に経験を積んでいったようだ。
偽トキのアミバもなかなかの腕だったようだが、既に成長したケンシロウにとっては物の数ではなかったようだ。
アミバが偽物だったと分かった以上、本物を探しに行くのは当然の流れ。
そこでマミヤという女性がトキの幽閉されている場所がカサンドラであることを突き止め、ケンシロウとレイと三人でその別名「鬼の哭く街」へ向かった。
このマミヤという女性は、ケンシロウとレイが出会った村の若き女リーダーであった。
どうやらケンシロウに思いを寄せていたようだが、ケンシロウの心が今もユリアから離れていないことを知り、せめてなんらかの役に立ちたいと思いトキを探したらしい。
カサンドラはラオウが作った街で、そこを治めていたのは蒙古覇極道という拳法の使い手でもある獄長ウィグルであった。
このウィグルもかつてのケンシロウならかなりの苦戦は免れなかっただろうが、シンやジャギとの戦いで怒りを力に変える極意を体得していたためか、この難敵も完璧に料理した。
そしてカサンドラの地に囚われの身となっていた次兄トキとケンシロウは再会を果たすこととなった。
(そろそろ一度当ててみるか・・・・)
ラオウとケンシロウは、ユリアがまだシンの居城にいた頃に一度接近していたが、あの時はまだ力の差がありすぎた。
だがシンやジャギとの戦いで大きく成長したケンシロウなら、あるいは良い勝負が出来るかもしれない。
それに今のケンシロウにはトキがついている。
いざとなればケンシロウを助けるためトキが動いてくれるだろう。
(さすがにラオウもトキとケンシロウ二人を相手に無理は出来まい。それにラオウもまだ最終決戦の時ではないことは分かっていよう。)
そんな時に拳王の部隊がリンのいる村に近づいているという報告を受けた。
私はもはやラオウとケンシロウの戦いを止める気はなかった。
だがリンの身に何かあっては困る。
もしもの時はなんとしてもリンだけは救い出せという指令を部下に与え、引き続き様子を探らせた。
リンはまさに間一髪だったらしい。
今まさに拳王軍に焼き殺されるというところでレイが間に合ったが、もしこの義に生きる男が来なかったとしたらと思うとぞっとする。
しかしこの危機的状況における、リンの少女としては不似合いな毅然とした態度は周囲の大人たちをかなり驚かせたようだ。
(さすがは天帝の子。あの年にして既に常人とは肝の据わり方が違うようだな)
リンが天帝の娘であることはトウも知らない。
(いずれ元斗が動き出すまではまだ誰にも知られぬ方が良い。今知られればリンを捕らえて利用しようという者が必ず出てくるからな。)
考え事をしているとそのトウがやってきた。
「ケンシロウとラオウがついに戦ったようですね。」
「うむ。ユリア様には話していまいな。」
「はい、お父様。いつもケンシロウのことを気にしてはいますがまだお耳には入っていないようです」
「それでよい。聞けば動揺するだろうからな。最近ようやくここの暮らしにも慣れてきたところ。あまり刺激を与えてお体に触ってもいかん。」
「はい。ユリア様のご病気はだいぶお悪いのですか?」
「うむ。医師の見立てではそう長くはないそうだ。もはや跡継ぎを産む事は望めまい」
「おかわいそうに・・・・・。最後の時をせめて愛する人と共に過ごさせてあげたいものですね。」
いかにも女性らしいありふれたトウの感慨をあえて無視し話を転換させた。
「次にケンシロウとラオウが激突するのはおそらくこの城になるだろう。」
「ここで?ということは二人にユリア様が存命であることを教えるということですね」
「そう、ユリア様の病状次第ではあるが、そう長くは待てまい。」
「その時は・・・・・ラオウにあの話も・・・・・・」
私は返事の代わりに大きく頷いた。
そう、ユリア様を巡ってケンシロウとラオウがこの地で戦う時こそ私にとっても一世一代の勝負の時。
その日のために取っておいた切り札をラオウに突きつける時だ。
(そのためにはケンシロウとラオウの勝者がこの乱世を治める形にもっていかなくてはならない。他にこの世を支配できるような強大な力を持つ者はすべて排除しておかねば・・・・・)
私の脳裏にはある男の顔が浮かんでいた。
ジャギ以上に呪われた秘密を持つ南斗六聖拳最強の男の顔が。
第8話 「聖帝サウザー」
ケンシロウはどうやら私の想像以上に強くなっていたようだ。
レイ、トキ、ケンシロウの三人を立て続けに相手にしたハンディはあったとは言え、あのラオウと互角に戦ったのだから。
(今こそケンシロウとあの男をぶつける時だな。ラオウが苦手とするあの男を・・・)
私はトウを自室に呼び出していた。
「トウ、サウザーの元へ行け」
「サウザー?」
「そうだ、そしてサウザーに伝言せよ。ラオウはケンシロウとの戦いで大きな傷を負いしばらくは動けぬ。今が好機と。」
「かしこまりました。ではいよいよサウザーとケンシロウを戦わせるのですね。」
「うむ。ケンシロウとラオウの次の戦いこそ、この乱世に終止符を打つ最後の戦いとならなくてはいかん。それまでに邪魔になりそうな大きな勢力はつぶしておかねばな。そのためにはあのサウザーという男が残っていては厄介になる。」
「サウザーは、南斗鳳凰拳とはそれほど強いのですか?」
「単純に拳の強さだけなら既にケンシロウの方が上だろう。だがあの男はいわば北斗の天敵。生まれながらに特殊な体を持っておるからな」
「特殊な?」
「そう。経絡秘孔を突いて内部より破壊させるのが北斗神拳の極意。その技が正確であればあるほどサウザーには無効となる。皮肉なことよ。これもまた因果応報ということか・・・・。」
その言葉にトウは怪訝な表情を浮かべた。
「因果応報とはどういう・・・・?」
(おっと、これは少し口が滑ったようだな。)
「いやいやなんでもない。それよりトウよ。サウザーもただでは動かぬかも知れぬ。その時はこう言うのだ。『あなたの体の秘密にトキが感づいているようだ。急がねばいずれケンシロウも知ることになる』とな」
「トキが?」
「そう。あの男は北斗神拳を医術に生かそうとかなり医学を学んだようだ。それで幼き頃に拳を交えたサウザーの特殊な体の謎を推測したのだろう」
「ではその体の秘密とは何かの病気のようなものだと?」
「病気というよりは先天性の異常じゃな。」
「お父様、そこまで言っているなら全てお話くださいませんか。このトウも先日のジャギの件で驚かされることには慣れました。それに先ほどの因果応報という言葉も少し気になりますし・・・・」
先日に続いてこの裏世界の恥部を若い娘に話すのはためらわれたが、トウのこれからなすべきことを思えば、疑問を抱いたままでは事を仕損じる可能性も否定できない。
「そうか、仕方あるまいな。よいかトウ。これからする話を聞いても、決してサウザーの前でいらぬ感情を見せるでないぞ。あの男は自分の出生の秘密を知らぬのだからな」
「出生の・・・・?ではまたジャギと同じような許されぬ関係の・・・・?」
「うむ。前にも言ったがこの裏世界は平和な時代には、己の力を発揮する機会がないまま一生を終えるしかない定め。行き場のない鬱積したものが風俗の乱れに繋がっているのだろう・・・・。決して誉められたことではないがな。」
こうして私はサウザーの体の謎、そしてその出生の秘密をトウに話した。
先日のジャギの秘密を聞き、それなりの覚悟を持っていたであろうはずのトウの驚きを見れば、やはりこの話は想像を絶したものであったことが分かる。
それはそうだろう、この裏世界の知恵者として知られるリハクとて、初めて話を聞いた時はにわかには信じがたい思いだったのだから。
しかしサウザーが何ゆえ呪われた子として養子に出されたかについて、これ以上納得のいく説明がないこともまた事実であった。
私がその話を聞いたのはコウリュウという男からだった。コウリュウはかつてリュウケンと北斗神拳継承者を争ったほどの男。その腕はリュウケン以上と評されたこともある。
だがコウリュウはリュウケンに継承者を譲った。
私は以前からこのコウリュウという男に興味があった。
リュウケンに継承者の座を譲り、隠居したコウリュウもまた、自身を理解してくれそうな誰かと話をしたかったのだろう。
私はそうした人の心の弱さにつけ入るのがうまかったのだろう。
いつしかコウリュウは私にだけ極秘中の秘を打ち明けることとなったのであった。
「ではコウリュウ様、あなたがリュウケン様に継承者の座を譲ったのは、リュウケン様の妹御に頼まれたからということですか?」
「そうじゃ、このことはリュウケン本人すら知らぬこと。他言無用じゃぞ」
「それは無論でございます。しかしその妹御はなぜコウリュウ様に?」
「うむ、兄に継承者となってもらいたいという単純なものであれば、わしも継承者の座を譲る気など毛頭なかった。だがな、あの兄妹はただならぬ関係でな。」
「と、申しますと?」
コウリュウの困ったような表情からおおよその察しはついたが、事実は想像をこえるものだった。
リュウケンは若い頃から容姿端麗な妹に心を奪われており、両親の死をきっかけに半ば強引に妹と性的関係を結んだらしい。
その後ももしコウリュウとの継承者争いに敗れたら自分はどうなってしまうのか、という怖れから情緒不安定となり、その度に自暴自棄となっては妹の体を求めたのだとか。
そして二人の間には遂にあってはならないことが起きた。
そう、子供が出来たのであった。
いかに風俗が乱れがちな裏世界とはいえ、実の兄妹の間の子など許されるわけもなく、リュウケンは事が外に漏れるのを恐れ、出産まで妹を世間から隔離された山小屋に事実上軟禁した。
こんな不祥事が明るみに出れば、宗家の高僧たちから継承者として承認されるはずがない。
北斗宗家嫡男によって生み出された北斗神拳は一子相伝であり、その初期の頃には宗家嫡男の世襲制のようになっていた。
しかし経絡秘孔の多さ、それを突く力の強弱による効果の違い、奥義の難解さなど修得の困難さは他の拳法とは比較にならず、凡愚な者には一生かかっても自分のものとすることは不可能であった。
そのためいつしか宗家が選んだ優秀な数名の候補に競わせて、最後に戦って生き残った者を継承者とするという方法が生まれた。
だが、この「継承者以外は皆死ぬ」という究極の選択方法も、平和な時代が長く続くとさすがに残酷に過ぎるという非難が強まることとなった。
同時に北斗神拳を生んだ宗家が自分たちの権威をどこかに残したいという邪心も加わった結果、次第に最近のようなシステムとなった。
すなわち北斗神拳継承者は、競い合った候補者の中から先代継承者に最も優秀と認められた者が最終候補となり、その者を宗家の高僧たちが形だけの会議で承認するというシステムだ。
そして選ばれなかった候補者たちは先代継承者によって拳を封じられるか、記憶そのものを封じられることとなり、その代わりに死を免れた。
最後の宗家高僧たちによる承認はあくまで形式的なものであり、もとより拳法のいろはも分からぬ彼らに北斗神拳継承者の資質を判断することなど出来ようはずもない。
ただ拳の優劣は分からぬ代わりに継承者としての品位という項目には異常なまでの拘りを見せた。
そのため候補者たちは表向き品行方正であることを求められ、目に余るような乱れた私生活は固く禁じられていた。
そのような状況で、継承者候補が近親相姦の末に子をなしたなどという醜聞は致命的であった。
思い悩んだリュウケンは一人の初老の男に相談する。
強さと優しさを兼ね備えた人物として知られたその男もまた、この世界では知らぬ者のない大物であったが、若きリュウケンの話を聞き、全てを秘し捨て子としてその子を育てることを約束した。
こうして危うく難を逃れたリュウケンであったが、その後も不安な毎日は続き、産後の妹の体を懲りずに求め続けたのだという。
リュウケンの妹は、このあってはならない関係に深く悩んでおり、幾度となく兄に止めるよう頼んだが聞き入れられることはなく、また内容が内容だけに誰に相談することも出来ず一人苦しんでいたらしい。
このまま継承者争いに敗れれば兄はどうなってしまうのか、苦しんだ末に妹はなんと兄の継承者争いの直接のライバルであるコウリュウの元へ、全てを打ち明けた上で相談に来たというわけだ。
「リュウケンがそこまで苦しんでいたとはわしも気づかなかった。非道な兄ではあるが、なおその兄を思う妹の切なる気持ちがわしの心を動かしたというわけじゃ」
「そういうことでしたか・・・・・。」
あまりにも衝撃的な内容に呆然とする私に対し、コウリュウは突然表情を崩してこう続けた。
「まあわしがその妹御に一目惚れしたというのもあるがな、はっはっは。」
「コウリュウ様、御冗談を」
「いや冗談ではないぞ。先ほどわしの二人の子に会ったであろう。あの子らの母親がそのリュウケンの妹御じゃ」
「なんですと?」
「もう亡くなってしまったがな・・・・・。良き妻であり母であった。継承者争いには敗れたが、わしは存外幸せな人生を送ったのかもしれんな。リュウケンは結婚相手ともうまくいってはいなかったようじゃしな。北斗神拳継承者というのは孤独なものよ。」
コウリュウの話は驚くことばかりであった。
子のないリュウケンと世間では言われていたが、実の妹との間に子があったとは。
しかし驚かされるのはこれで終わりではなかった。
第9話 「南斗鳳凰拳」
私は先程の話の中で気になっていたことを聞いた。
「ところでコウリュウ様、そのリュウケン様兄妹のお子を養子としたという男ですが、ひょっとして・・・・・」
「やはり気づいたか、さすがは当代一の切れ者と言われる男。だからわしはお主と話すのが楽しいのだろうな。勘の良い者と話すのは老いてゆく頭にはいい刺激になる。」
「わたくしごときにもったいないお言葉。ではやはり・・・・」
コウリュウの話では、リュウケンは以前から南斗最強の鳳凰拳継承者オウガイの人柄を慕っていたらしい。
南斗鳳凰拳は北斗神拳と同じく一子相伝の拳法。
しかしオウガイに子はなく、いずれその拳を伝えるためにしかるべき養子を取るのだろう、という噂はリュウケンの耳にも入っていたようだ。
そんなところへリュウケンから悩みを打ち明けられたオウガイは、リュウケンに対し、子供が成長しても生涯親子の名乗りをしないことを約束させた上で、快くその子を引き取ったのだという。
そしてその子は表向き捨て子としてオウガイに育てられることとなる。
どこの馬の骨とも分からぬ捨て子を南斗最強の鳳凰拳継承者として育てようとするオウガイに、当然周囲は反対した。
しかし「これこそが天の声。出自など分からぬ方が、つまらぬ勢力争いに巻き込まれず拳の道に打ち込めるというもの。」という、人格者オウガイの毅然とした態度の前には、それ以上口を挟める者はいなかった。
周囲の妬み、嫉みをよそに、本人の資質と努力もあって、その捨て子は誰の目にも偉丈夫と映る立派な南斗鳳凰拳の継承者に成長した。
この子こそが、今では聖帝と名乗り、乱世に覇を競う一方の雄、サウザーだというのだ。
つまり先代北斗神拳継承者の実の子が、南斗最強の鳳凰拳を継いでいるということになる。
「しかし皮肉なものよのう、リハク。」
「は?なにがでございますかコウリュウ様」
「亡くなった妻、すなわちサウザーの産みの母に聞いたのじゃがな。その子は先天性の完全内臓逆位という病気だったらしい」
医学にはさほど詳しくない私には、全く聞き覚えのない病名であった。
「それはどのような・・・・・?」
「心臓は右、肝臓は左、つまり見た目には分からないが体の中身は普通の人間と左右全てが逆というわけじゃ」
「それはまた不思議な・・・・。本当にそのようなことが起こるのですか?」
「うむ、わしも知らなかったが、妻が秘かに医師に聞いたところでは、相当低い確率だがありえないことではないらしい。近親婚というのは先天性の異常が出やすいらしいな。ただでさえ後ろめたさがあったからだろう、妻は近親婚と生まれた子の特異体質、この二つの事実に因果関係ありと思ったようだ。後日わしが調べた限りでは、どうやら直接の関係はないようなのだがな。まあさすがに実の兄がこの子の父ですとも医師には言えまい?妻は亡くなるまで、自分の道を外れた行いのせいで呪われた子が生まれてしまったと悔いておったわ・・・・」
「そうでしたか・・・。しかし全てが左右逆・・・・。ということは・・・・」
「そう、ならば当然経絡秘孔の位置も左右逆ということになる。」
「ではその病気のことを知らなければ、サウザーの体には北斗神拳が効かないということに・・・・?」
「そう、まさに北斗神拳殺しと言ってもよい、生まれながらの武器じゃな。北斗神拳継承者の不義が北斗神拳の天敵を生むとはこれ以上の皮肉はあるまい・・・・」
私の話を聞いたトウは呆然とし、そしてその両の目からは涙が溢れていた。
「なんという哀しい定め・・・・。お父様が因果応報と言ったのはそういうことだったのですね。ではサウザーは、実の父が育てた男、ケンシロウに倒されなければならないのですか?本当なら自分が北斗神拳の継承者になっていたはずなのに・・・・、いかに知らぬこととはいえ、その定めはあまりにもむごい・・・・。」
女性としてはごく普通の反応ながら、感傷的となる娘に対して、私はあえて全く別の視点を提供した。
「サウザーの側から見ればそうなるな。しかし、こうとも言える。ケンシロウは北斗神拳の正当な継承者として、先代リュウケンの撒いた忌まわしいい種を刈らねばならないのだとな。」
「ではお父様はサウザーの体の謎をケンシロウに?」
「いや、そうではない。その謎を戦いの中で自ら解き明かし、北斗神拳継承者として堂々と打ち破ることこそがケンシロウに課せられた使命。継承者としての定め。」
ようやく涙を拭いトウは毅然と言い放った。
「よく分かりました、お父様。男には男の辛く厳しい戦いがあるということを改めて思い知らされました。私も一人の女性として女にしか出来ない戦いを貫いていきましょう。」
「よくぞ言ったトウよ。では早速サウザーの元へ行ってくれるな。」
「はい。そして私自身の目でこの宿命の戦いを最後まで見守ってまいりたいと思います。よろしいでしょうか?」
「いいだろう。だがどういう状況でも情を挟むなよ。今の話はサウザーにもケンシロウにも絶対に漏らすでないぞ。」
「はい、分かっております」
トウは城を出た。
トウの話に乗ったサウザーは今が好機と思い、かねてより計画していた聖帝十字陵建設を急ぎ、その勢力を急速に拡大し始めた。
当然ながらその動きはラオウの知るところとなり、レイの最期を見届けたケンシロウともぶつかることとなった。
そしてトウはサウザーとケンシロウの二度に渡る死闘を目の当たりにしたのであった。
一度は敗れたケンシロウであったが、二度目の戦いではトキに教わることなくサウザーの体の謎を解き、勝利を収めた。
哀しき出生の秘密を持つ男サウザーも最期は穏やかな死を迎えたらしい。
自らの体に流れる北斗神拳継承者の忌まわしき血が、その後を継いだ新しい継承者に倒されることを望んでいたのかもしれない。
この二度目の戦いにはサウザーの体の謎を解明していたトキと、トキに伴なわれたラオウも来ていたようだ。
(これも宿命か。リュウケンの実の子と継承者が戦い、養子二人がそれを見守るとはな・・・・・。)
こうして極星は堕ちた。
第10話 ラオウとトキ
南斗最強の男、極星を持つサウザーは倒れた。
戦いの最後でケンシロウはサウザーに、トキから伝授された有情拳による穏やかな死を与えたらしい。
聖帝十字陵を築くためにサウザーが成した悪逆非道の数々は、「愛深きゆえに」などという生い立ちの不遇さを理由に許されるほど生易しいものではなかったはずだ。
これまでのジャギやアミバに対する残虐非情な処刑法と比べれば、些かどころかかなり寛大な対応と言ってよいだろう。
どうも私にはケンシロウが見えない力に突き動かされたような気がしてならなかった・・・・。
そこへトウがやってきた。
「お父様、今帰りました」
「うむ。役目大儀であった。その目でしかと確かめたようだな。宿命の戦いを。」
「はい。なんとも不思議な気持ちになりました。」
「というと?」
「ケンシロウは最後に北斗有情拳という技でサウザーにとどめを刺しました。お父様なら御存知かもしれませんが、トキから伝授された拳で、この技で倒された者は死ぬ前に安らかな気持ちになれるのだとか。どうも私にはリュウケンの魂がケンシロウに乗り移ったのではないかと感じられてなりませんでした・・・・・。情を挟むなとお父様には釘を刺されましたが・・・・・。」
「これはまた奇遇だな」
「というと?」
「実はな、トウ。一足早くサウザーの最後の模様を偵察隊から聞いていたのだが、私もお前と全く同じことを考えておったところだ。」
「ではお父様も・・・・?」
「うむ。サウザーとケンシロウの戦いをトキだけでなく、ラオウまでが見に来たという話を聞いてな。私も今回の結末は、リュウケンが望んだ通りになったような気がするのだ。」
「リュウケンの遺志をその養子三人が継いだと・・・・?」
「恐らくケンシロウはサウザーの出生の秘密を知るまい。だがそこはやはり北斗神拳継承者じゃな。あるいは脈々と受け継がれてきた北斗神拳二千年の力と言ってもよいか。戦いの中でケンシロウはサウザーに何かを感じ、その何かが最後の最後で有情拳を使わせたのかもしれん。今度ばかりはこの私も少し感傷的になっているのかも知れぬのう・・・・」
親娘で不思議な感慨に浸っていると、そこへ伝令がやってきた。
「リハク様、拳王はサウザーとケンシロウの戦いを見届けた後、コウリュウの元へ向かいました。」
「やはりな。で・・・・?コウリュウは・・・・死んだか?」
「は、見事なご最後でした。ただ拳王には傷一つつけることはかなわず。どうやら傷は完全に回復した模様です。」
「そうか、引き続き様子を探れ。」
「はっ」
「コウリュウとはサウザーの出生の秘密をお父様に教えてくれた、あのコウリュウのことでしょうか?」
伝令からの報告を聞いていたトウが尋ねた。
「そう。これもまたリュウケンの、いやリュウケンの妹御のご遺志かな。コウリュウの話では死ぬぎりぎりまで我が子サウザーのことを案じていたようだったからな。サウザーの穏やかな最期を知りコウリュウもあの世で妻に良い報告が出来るじゃろう。」
「本当にそうだといいですね。・・・・・ところでお父様」
「ん、なんだ?」
「サウザーがいなくなったことで、いよいよケンシロウとラオウの最後の戦いが始まるということになるのでしょうか?」
「そうだな。ラオウの傷も癒えたようだし、その時はもすぐであろう。」
「ではそろそろユリア様が存命であることを二人に教えるのですね?」
「うむ。だがラオウはケンシロウと最後の戦いをする前にけりをつけておかねばならないことがあるはず。それが片付いてからになるだろうな」
「それは一体・・・・?」
「長い長い兄弟げんかよ。幼い時から互いに互いを意識し、刺激し合ってここまで成長してきた二人だからな。何人もこの戦いの邪魔はできまいて」
私の話を聞いてトウは思い出したようだった。
「兄弟?それはトキの事ですか?以前お父様はラオウとトキは実の兄弟だと仰っていましたが・・・・」
「そう、トキとラオウは紛れもなく実の兄弟。本当はもう一人一番上の兄がいるのだが、この国にはいない。ラオウとトキはもともと幼き頃に長兄と別れて彼の地からこの国に送られてきたのだ。ケンシロウと共にな。もっともまだ赤子だったケンシロウはもちろん、幼かったトキもどうやらそのことを完全に忘れているようだがな。」
トウは怪訝な表情を見せた。
「トキも・・・?以前お父様は宗家の血を守るためにケンシロウが宗家嫡男であることを伏せていたとおっしゃっていましたが・・・・。何故トキにまで事実を隠さねばならなかったのですか?」
「うむ。トキは幼い頃ずいぶん寂しがりやでな。ラオウの上にももう一人の兄がいて、この国以外に本当の故郷があるなどと知れば、たちまちホームシックにかかってしまうと思われたんだろう。リュウケンとラオウが相談してトキには全く別の経緯を教え込んだらしい。まあ記憶の塗り替えというやつだな。」
「塗り替え?それはいったいどのような・・・・・?」
「なあに。そうたいしたことではない。そもそも人の記憶など本人が信じているほど確固たるものではない場合がほとんどでな。特に幼い頃の記憶など本当に体験したものと後から聞かされた話とが時間の経過と共に渾然一体となり、判別不可能となることが多いものなのだ。」
「それは例えばお腹の中にいる時の記憶があるとかいうようなことですか?」
「うむ。まあ本当にそういうことがないとは言い切れないが、ほとんどは後から聞いた話を自分で体験したものと思い込んでいるケースだろうな。」
「ではトキの記憶もそのようにして塗り替えられたと・・・・?」
「そう。わざわざ両親とラオウとトキの二人が入るべき墓まで作るという念の入れようでな。さすがに幼い子供がそんなものまで見せられたら信じ込むのも無理はないだろう。トキは恐らくこの国に生まれ育ち兄はラオウ唯一人と思っているに違いない。そうトキに信じさせることでラオウにも兄としての自覚を促す意味もあったのであろう。ラオウとて本当は兄に頼りたい年齢ではあっただろうがな。」
「そうだったのですか・・・・?で、その彼の地というのは先日話されたジュウケイとやらがいる・・・・?」
「そう。そのジュウケイはどうやらラオウの兄にも北斗琉拳を教えていたらしい。仮にラオウのような拳の才と激しい性質の持主であれば、琉拳の魔力が恐ろしい怪物を生んでいるやも知れぬな・・・・。まあ今はまだこの国にとっては関係のない話だが」
「そうですね、特にこのトウにとっては・・・・・」
「・・・・・・」
既にトウは死を覚悟している。
無論それも私の計画の一部ではあるのだが、今目の前ではっきりとそれを思い知らされると、さすがの私にもかけてやる言葉が見つからない。
私の表情に躊躇の色を見て取ったのだろう。見かねてトウが口を開いた。
「お父様、今日はいつになく感傷的になったり思いつめたりして、らしくありませんよ。トウはもう誰も恨んではおりません。私のこの命がお父様のお役に立つならばそれで本望でございます。トウは笑ってあの世に参ります」
「トウよ・・・・・。お前の命、決して無駄にすまいぞ」
「分かっております。お父様ならきっとやり遂げるでしょう。では私はそろそろ・・・・・。久しぶりにユリア様のご様子を伺ってまいります。」
「そうだな、ユリア様もお前がいないと寂しいようじゃ。」
トウが出て行った後もしばらく私はこの不憫な娘のことを想っていた。
そしてその頃まさにラオウとトキの壮絶な最期の兄弟喧嘩が幕を開けようとしていたのだった。
第11話 風、炎、山動く
ラオウとトキの戦いは初めから勝敗は決まっていた。
そもそもこれは勝ち負けを度外視した勝負と言った方が良いだろう。
トキは既にこの乱世の終着点がケンシロウとラオウの最後の決戦になることを知っている。
ラオウも然り。
従ってこの戦いは二人にとって最後の拳による会話、いわばキャッチボールのようなもの。
幼き頃より二人だけにしか分からない苦労を共にしてきた実の兄弟だからこそ可能な、激しい拳によるキャッチボールであった。
トキは病により先の短い命を一瞬燃やし、ラオウの剛拳を真似て、あえて力と力の勝負を挑んだ。
その命を懸けて投げ込んだボールを全身で受け止め全力で返したラオウ。
精根尽き果てたトキに、ラオウは止めを刺さなかったようだ。
しかしこれで長い長い兄弟喧嘩もようやく決着した。
ラオウも心残りなくケンシロウと最後の戦いに臨めるだろう。
そろそろ私は表の顔、つまり五車星海のリハクとしての仕事をする時に来ていた。
私は五車星の風、炎、山を呼び、ここまでの経過を端的に伝えた。
かねてからの打ち合わせどおりケンシロウには山を、ラオウには風と炎をあてることとなった。
「リハク、雲はまだ動かぬのか。」
風のヒューイが私に聞いてきた。
「うむ。あの男を動かすのはわしらでは無理じゃな。やはりユリア様の力が必要となろう。」
「俺と兄者でラオウを長時間止めるのは恐らく無理だろう。我ら二人が倒れた時にはどうあっても雲を動かしてくれ。」
「分かっておる。雲は気まぐれで動き出したら止められぬ。何をしでかすか分かったものではないから危なっかしいことこの上ない。そのためなかなかユリア様のことも言い出せないでいたが、いよいよとなれば危険を犯しても奴を動かすしかあるまいな。」
「ところでわしはどうすれば良い?ケンシロウ様に南斗最後の将の正体を聞かれたらどう答えたらいい?」
今度は一際大きい山のフドウだった。
「ラオウの進軍状況は適宜報告していくからうまくタイミングを合わせねばな。どちらかが早すぎても遅すぎてもうまくいかん。わしの指示を待つがよい。それまではのらりくらりとケンシロウと旅を続けるのだ。」
「分かった。もう一度聞くが二人が同時でなくてはならないのだな?」
「そう、ここが重要なポイントだから皆よく覚えておいてくれ。」
風、炎、山が身を乗り出す。
「われらが将、ユリア様は生まれながらの魔性。思い出すがよい。ユリア様の愛を得たケンシロウはシンに敗れ、次にユリア様を強奪したシンはケンシロウに負けた。かつてラオウもその魅力に心奪われトキに簡単に背後を許したという。つまりユリア様に近づきすぎると、男はみなその牙を抜かれてしまうのじゃな。」
「というと、ケンシロウがユリア様に先に会えば、その戦闘能力が落ちてしまいラオウに敗れると・・・・・?」
ヒューイの実兄炎のシュレンが重い口を開けた。
「その通り。だからケンシロウとユリア様が二人で平和に暮らすためには、ラオウを先に倒しておく必要があるのだ。」
「では、先にラオウにユリア様を会わせた場合はどうなる?ラオウの力が低下してケンシロウに倒されるということにはならないのか?」
いかにもフドウらしい単純な思い付きであった。
「そのような危険な賭けを犯せるかフドウ?思いが叶わなければラオウはユリア様を殺すかもしれぬ。あるいはユリア様が今度はお芝居ではなく本当に自殺を試みるやもしれぬ。その時は無事に救出できるか分かるまい。相手はなんせあのラオウだからな。」
三人同時に頷いた。どうやら納得したようだった。
(まったく拳ばかりで飲み込みが悪い連中に理解させるのも疲れるわい。もっともあまり頭が切れるのも厄介だがな。特にジューザ、奴はかなりの切れ者。私の本当の企みを勘ぐられたら事だからな。奴にはぎりぎりまで伏せておくしかあるまい。)
「どうやら作戦の主旨は分かったようだな。では頼むぞ、全てはユリア様のために。」
「心得た。」
三人は声を合わせるとそれぞれの任務に向かって去っていった。
三人が出て行くと陰から先ほどの話を聞いていたトウが入ってきた。
「うまくいったようね、お父様。」
「うむ。あの三人こそ真の五車星。その役目を見事に全うしてくれよう。」
「仮にもお仲間を裏切って少しは心が痛むのかしら?」
少し皮肉っぽくトウが言った。
「ん?裏切りとは聞き捨てならんな。」
「あら、そうかしら?あの三人だから簡単に丸め込めたけど、もしあの場に雲がいたらどうだったかしら?あんな子供だましの理由で納得したと思う?だからこそ雲はここに呼んでいないのでしょう?」
「話は嘘ではないぞ。ラオウにはケンシロウに負けてもらわねばならん。そのためにはユリア様の魔性はケンシロウにとって不利。これは真実じゃ。」
「でもそれはユリア様のためではなく私たち二人・・・・いや三人のためでしょう?」
「まあな。ラオウにはケンシロウに負けることで、己に足りないものがあることを知ってもらう必要があるのだ。そうでなければせっかくの切り札も効果が半減してしまうからな。」
「分かっていますわ、お父様。しかし良い人たちだったのに・・・・。お父様に裏切られたと知ったら悲しむでしょうね・・・・。」
「裏切りか・・・・。このリハクの本心が分かる頃には三人ともこの世にはおるまい。ユリア様のために自らの役目を疑うことなく命を捧げる。五車星としてこれほど幸せな死があろうか。私は彼らに相応しい死に場所を与えておるのだ。」
「まあ、都合のよい解釈ですこと。ですがその方がお父様らしいわ。」
「お前もだいぶ私に似てきたな。世が世なら一角の軍師になれたであろう。」
「まさか。私もお父様に学びこの裏世界のことが少しは分かってきました。表の世界がどれだけ変わろうとここは変わらない。五車星の娘などどれほどの知力があろうと出来ることはたかが知れていますわ。だからこそお父様の計画に乗ることにしたのですから・・・・」
「それでこそ我が娘。トウよ、お前は私の誇りだ。」
「おだてても何も出ませんよ。」
冗談めかしてトウが言った。
そこへ部下の一人がやってきた。
「リハク様。リュウガという者がリハク様にお会いしたいと申し出ておりますが・・・・」
「なに?リュウガ様がここへ?すぐに客間へお通し申せ。それとくれぐれも丁重にな。リュウガ様は我が将の実の兄君でいらっしゃるからな。」
「は、はい、かしこまりましてございます」
リュウガの正体を知り恐縮して去っていった部下を見ながら私は思った。
(リュウガは一時期ラオウの配下になったという報告も受けているが、一体今頃何をしにここへ・・・・。)
第12話 天狼の星
南斗慈母星ユリア様の実の兄リュウガ。
長兄として生まれたリュウガは本来であれば南斗六聖の一将となるはずであった。
しかしリュウガは生後間もなく他家へ養子に出された。
それが代々長女が家長となり婿を取ることで続いてきた、女系一族である南斗慈母星の定め。
そのリュウガが養子に出された家は、天帝の一派である泰山流という拳法を伝承していた。
リュウガは泰山流を修得し、成長して後は直接天帝に仕える天狼星の定めに従い、南斗、北斗どちらにも組せず独自の動きをとっていた。
それが最近になって何を思ったか拳王の配下になったという報告を私は部下から受けていた。
そして今またこの南斗の居城に突然の来訪。
ユリア様存命という事実は、いまだ五車星などごく一部の近い者しか知り得ぬ事実。
無論リュウガとて知る由がないはず。
いかに実の兄とは言え、この乱世において敵か味方かも定まらぬ相手に、今後の情勢を大きく左右しかねない情報を教えるわけにはいかなかった。
(リュウガか。果たしてどのような用件で・・・・・)
不審に思いながらも将の実兄ともなれば無下に扱うわけにもいかない。
客間に赴くとまさしくリュウガその人がいた。
「久しぶりだな、海のリハク。壮健なようで何より。」
「これはいたみいります。リュウガ様もずいぶんご立派になられて・・・・」
「お前と最後に会ったのはまだ俺が子供の頃だったかな・・・・・。なりは立派でも所詮は行く先の決まらぬ浮浪者。聞いていような、俺が拳王の配下に入ったことを・・・・」
「はい、風の噂で・・・・・」
「さぞ不審に思っていような。妹の愛した男の最大の敵に味方しているのだから。」
「いや、人にはそれぞれ宿命というものがありますれば。リュウガ様もこれまでさぞ辛い思いをされたことでしょう。」
「養子のことか。まあ幼き頃は複雑であったがな。今は己の定めに殉じる覚悟は出来ている。それに妹も決して幸福とは言えない人生であったようだしな・・・・・」
「・・・・・」
(やはりユリア様が生きているという情報は漏れてはいないらしい。では一体何の目的でここへ・・・・)
「まあそれはもうよい。今日来たのは他でもない。実はケンシロウという男についてお前に聞きたい。」
「ケンシロウ様の・・・・」
「そうだ。と言っても妹が愛した男の品定めをしたいというわけではない。あくまでこの乱世を終わらせるため。サウザー亡き今この世を治める力があるのはラオウかケンシロウのみ。そうであろう?」
「仰る通りでございます。」
「俺がラオウについた理由は、ケンシロウがシンにユリアを奪われたと聞いたからだ。北斗神拳継承者と言ってもこの乱世では名前だけでは通用しない。シンに簡単に負けるようでは到底今の時代を生き残るのは難しかろうと思ってな。」
「仰せの通りで」
「だがその後どうやらだいぶ成長しているらしいな。あの南斗最強のサウザーを自力で倒したという話を聞き、俺の決断も少し早計に過ぎたのではないかとな。」
「なるほど。それでケンシロウ様の力量を確かめたいと・・・・・」
「そう。この世界きっての情報通として知られるリハクであれば、ケンシロウのこともよく知っていよう。」
少し思案顔で私はリュウガの問いに答え始めた。
「おそれいりましてございます。確かにケンシロウ様はシン様に負けた後、幾つもの激しい戦いを経て見違えるように強く逞しくなられました。ただ、今すぐにラオウに勝てるかとなるとそれはなんとも・・・・・。このリハクも実際にケンシロウ様の戦いを見たわけではございませんし・・・・・」
「そうか、やはり直に見てみなければ分からぬか・・・・」
(ほほう。これは面白いことになってきたな。ここは一つこの男を使って仕掛けてみるか・・・・)
「はい、ただしケンシロウ様の力を計るには一つ注意しなければならない点がございます」
「ほう、それは?」
「ケンシロウ様はラオウ様と違い、戦いを一目見ればその強さが分かるというタイプではございません。相手によって力を加減するような癖があるようでございまして・・・・・」
「なるほど。そう言えばかなり残酷な殺し方を楽しんでいるように見えるというよくない噂も一部で流れているようだな。」
「さすがはリュウガ様、よく御存じで。ただその残酷さもまた北斗神拳の恐ろしさを世に広める役には立っているようではございますが・・・・・」
「確かに他の拳では死ぬまでの余韻を楽しむような殺し方は難しいからな。ではリハクよ。ケンシロウの真の強さを引き出すにはどうすれば良い?」
「は、北斗神拳の真髄は怒り。事実ケンシロウ様が成長されたのもシン様、ジャギ様に愛する者を奪われた怒りからと聞き及んでおります。」
「怒りか・・・・・。ならばケンシロウから愛する者を奪いその怒りを引き出すこととしよう。」
「ですがリュウガ様、その場合はご自分の命を引き替えにする覚悟がいることになりますが・・・・」
「命を賭けなくてはケンシロウの本当の力は見極められぬ。そういうことであろう?」
「御意にございますが・・・・・」
「俺の宿命、天狼星は乱世に天帝より遣わされ世を見定める星。今命を賭けずにいつ賭けるというのだ。」
「そうでございましたな・・・・。ところでその天帝は今は・・・・?」
そもそもケンシロウとラオウがこの乱世を治める最終決戦をするというストーリーは、天帝軍に今のところこの争いに参加するだけの力がないという前提の上に成り立っていた。
「先代天帝は早逝し、今は幼い女子が形の上ではその座に就いているが、もちろん俺などに詳しい事情は知らされておらん。金色のファルコが天帝の村をラオウから守るため、自らの足を犠牲にしたことは知っていような。」
「はい。さすがに元斗皇拳最強との呼び声高い戦士。お見事な決断でございましたな。」
「うむ。ファルコの傷が癒えるまで天帝は動けまい。それまではあの村に被害が及ばぬようにするのが我ら天帝に仕える者の使命。」
既に死を覚悟していたこの哀れな男に私は一つの秘密を教えることにした。
「リュウガ様がそこまでのご覚悟ならば、一つ面白いことをお教えしましょう。実はまだ本人も知らぬことですが、ケンシロウ様を慕いついている少女が一人おりましてな。名をリンと言います。」
「うむ。」
「その者、本当は今の天帝と生き別れになった双子の片割れでございます。」
リュウガの表情が一変した。
「何!天帝の双子の片割れだと?そのような話、いまだかつて聞いたことがないぞ。」
「これは天帝側近の間でも極秘中の極秘。恐らくはファルコ、ジャコウなどごく近くの者しか知りますまい。」
「そのような話にわかには信じられぬ。それにしてもそんな極秘事項をなぜお前が・・・・・?」
「リュウガ様に天狼の定めがあるように、我々にも五車の宿命がございます。私の役目は情報収集でもございますれば・・・・・」
「さすがに世が世なら天才軍師と謳われただけのことはあるな。恐ろしい男よ、海のリハク。分かった。どうやってその情報を得たかは聞くまい。しかしなぜ俺にそのような話をした?ケンシロウもまだ知らされていないのであろう。」
「はい。公になるのは恐らく天帝が動き出してからのことかと・・・・・。私はただあなた様の宿命に殉じるお心に応えたかったまでのこと。」
「そのような戯言、このリュウガに信じろと言うか。まあよい。お前のおかげで冥土のよい土産が出来たわ。双子ならきっと顔立ちも似ていることだろう。最後に天帝の顔を想像しながら死ねるとは天狼の星としてこれほどの幸せはあるまい。」
「このリハクもあなた様にお会いできて嬉しく思います。」
こうしてリュウガは去った。
(リュウガは恐らくトキの命を奪うつもりだろう。そしてケンシロウに倒されよう。私の野望のためにはあのような知恵の働く者たちは残しておかない方が良いからな。なんとも好都合であったわ・・・・・)
第13話 北斗水影心
リュウガが去るのを待っていたかのようにトウが現れた。
「お父様、リュウガはどのような用件で?」
「うむ。どうやらあの男はラオウとケンシロウ、どちらがこの乱世の支配者に相応しいかを自分の目で見定めようとしているらしい。」
「まあ、ではケンシロウのことを聞くためにここへ?」
「そのようだな。」
「ではユリア様が生きているということはまだ・・・・?」
「知らぬであろうな。恐らくは知らぬまま死んでいくことになるだろう。天狼の星もまた自分の死に場所を求めて彷徨っておったのだろうな。最後に北斗神拳継承者と戦うと心を決めたことで、生き生きとして出て行きおったわ。」
「殿方は皆戦って死ぬことがお好きなようですね。お父様は違うようですが・・・・」
トウの口調は若干皮肉混じりであった。
「ではトウは、最後まで己の拳一つで勝負し死んで行く方が父として誇りに思えるか?」
「いいえ。確かにわたくしも小さい頃はそう思っていましたわ。でも今は違います。戦いにも色々な方法があるとお父様から教わりましたから。」
「そう。私には私の、お前にはお前の女としての戦い方があるということだ。」
「はい。ところでリュウガのことはユリア様には・・・・?」
「言わぬ方がよいであろう。聞けばユリア様も兄上の死を望むまい。ただでさえジューザのことでは力を貸してもらわねばならぬからな。これ以上余計な悲しみを与えることもあるまい。」
「かしこまりました。ジャギ、リュウガ、ジューザ・・・・・。ユリア様の肉親もこれでいなくなってしまうのでしょうか?」
「恐らくはな。」
「ではこの戦いの後、南斗慈母星は途絶えてしまうのですか?」
「慈母星だけではない。この戦いで多くの家が途絶えることになろう。世が落ち着けばまたどこかから然るべき養女を取ることになろうな。」
「南斗六聖も全て継承者を残すことなく死んでしまいましたものね。でも養子や養女を取ったとして一体誰が拳を教えるのですか?慈母星は名だけで拳はありませんが、他の流派はそういうわけにもいかないでしょう?」
トウのもっともな疑問に対し、私はまだ話していなかった北斗神拳の秘密を明かすことにした。
「トウよ、北斗神拳継承者が何ゆえ他のあらゆる拳法と違い、特別な地位を与えられているか知っているか。」
「いいえ、考えたこともありませんが一子相伝の最強の拳法という以外にも何か理由があるのでしょうか?」
「うむ。単に強さだけではない特別な理由がな。この裏世界は天帝を頂点とした絶対的階級社会。しかし北斗神拳継承者だけは一介の拳法家にもかかわらず、この階級のどこにも属さない特別な地位を与えられている。それはこの拳法の他には無い特徴にあるのだ。」
「他にはない?」
「そう、水影心とも呼ばれている北斗神拳奥義があってな。一度戦った相手の拳法をそっくりそのままコピーできるという特殊な技よ。」
どうやらトウにも話の行く先が呑み込めたようだった。
「ではその水影心とやらを使って?」
「そう、遠い昔にも今回のように乱世で多くの拳法家たちが、次の者に奥義を伝えられずに亡くなっていったという危機があったらしい。その時も最後に生き残った北斗神拳継承者が、全ての拳法を新しい継承者に伝授したと聞く。」
初めて聞くこの裏世界の真実に、トウは驚いたようだった。
「知りませんでした。北斗神拳にそのような役目があったとは・・・・・。」
「そう、北斗神拳とはまさにこの世にたった一つの拳。この拳の継承者になるということが、どれほど重大な意味を持つか分かるだろう。」
「はい。その継承者の座を争って幾つもの命が失われていくわけもよく分かりました。お父様が必死になるわけも・・・・・」
「そのためにお前まで巻き込んでしまったがな。」
「私のことは構いません。ただ・・・・・」
「お前の言いたいことはよく分かる。だがなトウよ。この絶対的な階級社会の中で生きていく以上、成り上がるチャンスをむざむざ逃す手はない。今、この乱世こそがその好機。」
「はい。それはもう何度も聞かされて十分承知しております。別に迷いがあるわけではございませんわ、お父様。ただその時が近づいているのが分かるせいか、少し不安定になっているのかもしれませんね。」
「無理もない。それだけ辛い役目だからな。」
私の心配そうな表情を見て取ったトウは、急いで前言を打ち消そうとした。
「ふふふ。安心してくださいな、このトウ土壇場で心変わりなどするような女ではありませんから。」
そう言って無理に笑顔を作るとトウは出て行った。
その後の報告で、リュウガが予想通りトキの村を襲ったことが伝えられた。
そしてトキを殺したとケンシロウに思わせることで、思惑通り北斗神拳の神髄である怒りを引き出すことに成功したようだ。
その結果としてもたらされたものがリュウガ自身の死であったことは言うまでもない。
もっともリュウガはやはり卑劣漢には徹しきれなかったようで、実際にはトキにはとどめは刺さず、ケンシロウと戦う前に逆に自らの体にとどめを刺していたようだ。
こうしてリュウガとトキは共にこの世を去った。
さらに私はリュウガがトキの村でリンと出会ったようだという報告も受けていた。
天帝の双子の妹という秘密を私から知らされたリュウガは、果たしてリンを見て何を思ったのか。
(リュウガよ、天帝の夢でも見るがよい・・・・・)
第14話 まさに炎の男よ
いよいよ決戦の時は迫っていた。
まずかねてからの打ち合わせどおり五車星の三人、山、風、炎が動いた。
ここからの作戦は海のリハクとしての表向きのものと、私の秘かな野望実現のための裏のものとの2種類が同時に進行していくという二重構造である上に、わずかにでもずれれば計画が台無しになるというほどかなり微妙なタイミングを要求されるという点で、最重要に位置づけられるべき部分であった。
まずケンシロウに近づいたのは山のフドウだった。
その目的は頃合いを見計らってケンシロウをユリア様のいる南斗の居城に連れてくること。
頃合いとはつまりラオウと同時にという意味だ。
ただケンシロウとユリア様を再会させるだけであれば、なにも難しいことはない。
すぐさまユリア様ご存命であることをケンシロウに告げて城へ連れてくれば良いだけのこと。
しかし天性の魔性であるユリア様を手に入れてしまったケンシロウでは、またあの恋愛ごっこに勤しんで継承者としての自覚に乏しい甘すぎる男に逆戻りしてしまう危険性があった。
さすがにシンに完敗した頃のようには戻らないにしても相手はあの拳王。
わずかな気の緩みが勝敗を左右する可能性は十分にあった。
一方で拳王が先にユリア様と会ってしまい、その長年の思いが遂げられなかった場合、今度こそユリア様の命の保証はなかった。
つまりはどちらが早すぎても遅すぎても作戦はうまく運ばないことになる。
いかにして二人を同時にこの城に連れてくるか。
なにより難しいのはラオウへの対処であった。
こちらへは風、次いで炎が当たることとなっていた。
ただケンシロウへの対応と異なるのは、ラオウに対してはあくまで「南斗最後の将に会わせないため」という目的でぶつかるという点だ。
ラオウに少しでも知恵があれば、すぐに不審に思っただろう。
「会わせたくないなら、なぜわざわざ南斗最後の将の存在を自分に知らせる必要があるのか」と。
もし本当にケンシロウとユリア様を会わせたいだけなら、ラオウなどほうっておけば良い。
密かにケンシロウにユリア様存命であることを知らせ、連れてくれば事は足りるはず。
それをせず、あえてその存在を知らせた上で、「お前を我が将に会わせるわけにはいかない」などと言うのは、会わせたくないのが目的であれば明らかに矛盾したやり方だ。
しかしラオウにはその裏にあるものに気付くだけの知恵はなく、あるのは巨大なプライドと反抗心であった。
「そんなにまでして会わせたくないというのであれば、是が非でも会わねばなるまい。」
それがラオウという男の性質であった。
妨げられれば必ずや興味を示すはず。
私の読みは当たった。
フドウがケンシロウと接触したのを確認した風のヒューイは、自らの部隊である風の旅団を率いて拳王の村を次々に急襲。
その動きを知った拳王は予定通りヒューイの前に現れた。
そして結果はこれも当然ながら瞬殺。
まさに風のごとく拳王の一撃でヒューイは散って逝った。
風の死を知り、実の兄でもある炎のシュレンが次に拳王にぶつかった。
自らの肉体を炎の塊と化してラオウに捨て身の一撃を放ったシュレンであったが、命と引き換えにしても拳王の体には傷一つつけることはかなわなかった。
燃え盛る炎となって消滅していったシュレンに対し「まさに炎の男よ」とはラオウならではの最高の誉め言葉であったのだろう。
風も炎もその実力では、拳王をほんの僅かにでも食い止めることなど端から不可能なこと。
そんなことは当人たちも百も承知していた。
彼らの役目は拳王を食い止めることではなく、あくまで拳王に南斗最後の将の存在をアピールすることだったのだ。
五車星二人の相次いでの死、そして最後の将がラオウではなくケンシロウを選んだというアピールは、予想通りラオウのプライドをいたく刺激した。
ラオウは将の居城へ疾駆し、ケンシロウより先に将に会うために、その進行を妨害する軍をケンシロウに差し向けた。
となると当然そのままでは拳王が先に最後の将に会うこととなる。
フドウが機転の利く男なら、ケンシロウに事情を説明して先を急がせるのであろうが、あの男は私からの指令を待たねば何も決断できない男だった。
そんなフドウの性格を熟知している私は、拳王の進軍を止めるために雲を動かすようフドウに指示を出した。
「なぜお父様が直接ジューザを説得しないのですか?」
フドウへの指令を耳にしたトウが聞いてきた。
「ジューザか。あの男はフドウのように拳だけの男ではない。頭も切れるし勘も良い。ああいう輩を説得するには私のようなタイプでは却って駄目だ。必ず裏を勘繰られるからな。フドウの実直さこそうってつけよ」
「よくご自分のことがお分かりですこと。なるほど。確かにお父様の言葉をあのジューザが素直に聞くとは思えませんわね。フドウなら必死さが伝わることでしょう。」
「さよう。敵を知り己を知るはこれ軍師としての必須条件だからな。」
「そう言えばジューザは以前からお父様とは馬が合わないようですね。」
「知っておったか。五車星の中で私の企みに気づく者がいるとしたらあのジューザしかおるまい。しかも拳の腕では私など比べ物にならぬ才を持っておる。生きておればゆくゆく厄介な男よ。」
「分かっていますわ。この度のケンシロウとラオウを同時にこの城におびき出す目的の中には、そのどさくさに紛れてジューザを亡き者にすることも含まれているのでしょう?」
あまりにも単刀直入な、そして紛れもない真相を突くトウの言葉に一瞬私はたじろいだ。
「お前の頭の良さも相当なものになってきたな。山が今の話を聞いたら驚いて腰を抜かすであろう。そう。お前の推測通りだ。だからこそジューザにはぎりぎりまで将の正体を言わずにおいたのだ。あの男に考える暇を与えてしまってはいかん。裏に私がいることにもすぐ気づいてしまうからな。」
「本当によくできた計画ですわね。ジューザがユリア様の存命を知った時には、既に拳王がこの城に近づいてきている。止められるのはジューザのみ。かつて愛した妹のために出来ることは、拳王の進軍を命を賭けて止めることだけ・・・・。」
「腕も頭も切れるジューザだが、唯一の欠点は情に脆いという点だ。それさえなければあやつも天を握れたかも知れぬ器だったがな。」
「でもお父様、もしジューザがラオウに勝ってしまったらどうなるのです?」
「それはあるまい。拳も才能だけでは限界がある。ジューザが腑抜けて遊びほうけている間にラオウは戦い続けておる。急にやる気を出したからといって今や拳王はジューザが敵うような相手ではない。まあそれでも風や炎よりははるかに上だろうがな。」
「ではこれで五車の星もお父様とフドウだけになりますね。」
感慨深げにトウが言った。
「山のフドウか。あの男は確かにジューザほどの知恵はない。しかし単純なだけに怒らせたらあれほど怖い男もいない。お前はかつて鬼のフドウと呼ばれていた頃を知らぬから想像つくまいな。」
「鬼ですか?あの優しそうなフドウが?」
「そう、若い頃は手がつけられぬ暴れん坊でな。あのラオウも少年の頃にフドウの凄まじい迫力の前に一歩も動けなかったと、かつてリュウケンが笑いながら話しておったわ。」
「まあ、人間変われば変わるものですね。でもそんなに強いのならフドウとラオウを戦わせてもよかったのではありませんか?」
「さっきのは昔の話だからな。さすがに今やればラオウが簡単に勝つだろう。それにフドウはジューザほど機転が利かぬ。ただ力勝負で向かっていっても風や炎と結果はさほど変わるまい。それではフドウも犬死だ。あの男には相応しい死に場所をちゃんと考えておる。」
「相応しい?」
「そう。何事も適材適所と言ってな。これも軍師の重要な能力だ。風や炎には所詮あの程度しか使い道はないが山は違う。あの男にはこの先重要な役割を果たしてもらうつもりだ。そのためにもまずはラオウに一度負けてもらわねばならぬのだ。」
「ではケンシロウに負けた後にフドウの役割が・・・・?。あの話とも関係が・・・・?」
「うむ、大いに関係がある。お前がラオウの心に種を撒き、私がその芽を出させる。最後にフドウとの戦いで実を結ぶというわけだ。」
しばらく私の謎めいた言葉を頭の中で咀嚼していたトウであったが、どうやらその意味を把握したらしい。
「そういうことですか。ではトウはあの世でフドウにも感謝せねばなりませんね。」
そのフドウとラオウとの戦いが実現した時には、既に自分はこの世にはいないことを分かっているためか、さすがに少し哀しげな表情をトウは見せた。
第15話 雲が逝く
私にとって懸念の一つであった雲の動きであるが、どうやらフドウの軍がうまくやってくれたようだ。
もちろんフドウが直接説得して動くようなジューザではない。
ジューザをだまして睡眠薬を飲ませ、この城に連れてきたフドウの部下は、最後の切り札であるユリア様との対面という手を出したのだった。
これもかねてからの打ち合わせどおりであり計算された演出であった。
ジューザは義妹でもあり、かつて愛した女性でもあるユリア様が、突然目の前に現れるという想定外の事態にすっかり冷静さを失った。
普段であれば、この演出の裏に潜む私の策略の匂いをかぎ取るのにジューザならさほど苦労はしなかったであろう。
しかし睡眠薬で眠らされ、目覚めたもののまだ半覚醒状態の寝ぼけた頭で、死んだとばかり思い込んでいたユリア様がいきなり目の前に現れるという刺激的な演出をされては、さすがのジューザも理論的な思考を進めるだけの余裕を持てなかったのだろう。
異様な興奮と感激の中で、ジューザはユリア様に頼まれるまま拳王の進軍を止める役を買って出たのだった。
ひとたび動き出せば雲は誰よりも早い。
早速ラオウの軍に正面から堂々と挑み宣戦布告をしたかと思えば、逸るラオウの裏をかいて、戦うのではなくラオウの愛馬黒王を奪って逃走した。
自分の役割が拳法家らしい潔い死ではなく、時間稼ぎであることを雲はよく分かっていた。
そして誇り高きラオウが自分の愛馬を奪われたまま、他の移動手段を用いて先を急ぐような男ではないこともジューザは承知していた。
(拳の強さはほぼ互角でもここらが山と雲の大きな違い。フドウにはこんな芸当は真似出来まい・・・・。つくづく恐ろしい男よ、雲のジューザ)
その頃私とトウは、ジューザに命を捨てよと命じた後で、また気弱になったユリア様を励まさねばならなかった。
「ジューザも立ち上がってくれた。だが果たしてこれ以上の血を流してよいものか・・・・」
(困ったお方だ。所詮はケンシロウと同じく世間知らずのお嬢様。一体今までどれだけ犠牲を出してきたと思っておられるのか。このような中途半端な状態で臆されてはさらに犠牲が増すばかりだというのに・・・・・。)
そう思いながら私もトウも必死にユリア様を勇気付けていた。
もちろん全ては我らの野望の為であったのだが・・・・。
一方ケンシロウには拳王配下のヒルカという男の部隊が向かっていた。
フドウは一度はケンシロウを先に行かせたが、ヒルカに襲われたフドウの命が危ないと知り、ケンシロウはとんぼ返りで戻ってヒルカを瞬殺。
ケンシロウが負傷したフドウを村へ連れ返った時、ちょうどジューザとラオウの二度目の、そして最後の戦いが行われていた。
既にジューザの機転によりラオウが二日ほど足止めをくっていたため頃合はよく、私はフドウに将の正体をケンシロウに告げても良いというGOサインを出していた。
そして時をほぼ同じくしてラオウはジューザの命を賭けた戦いにより、ケンシロウはフドウの口から、形は違えど両者はユリア様の存命を知ることとなった。
そこから城までの距離はケンシロウの方がやや近かったが、ラオウが黒王で来ることを考えるとこれでちょうどよいくらいであった。
ジューザの最後は雲らしい天晴れな死に様だったようだ。
ラオウは当初ジューザ自身の口を割らせることに必死になっていたようだが、ここまでくればもはや将の正体など聞かずとも分かったも同然。
いや、恐らくはジューザとの一度目の戦いでラオウも察していたに違いない。
にもかかわらずジューザを待ったのは、自分が認めた強い男と戦いたいという「拳王」、つまり拳の道で頂点を極めたいという一人の拳法家としての純粋な欲求のため。
そして今倒しておかなければ、後々さらに厄介な敵となることも計算してのことだったろう。
ラオウはここでも決して己のパワーには頼らず、あくまで技でジューザを凌駕することを心がけた。
両者の間には既にかなりの力の差が生じていたようだ。
ジューザの我流ならではの変幻自在の攻めに苦戦したかのようにも思われたが、実際には強き男との技のやり取りを愉しんでいたといった方が適切かもしれない。
技でジューザを倒したラオウはこの城に向かって疾駆した。
一方将の正体を知ったケンシロウは、リンとバットをフドウの村へ預け、行く手を阻む拳王軍を文字通り薙ぎ倒しながら進んできた。
「トウよ、いよいよ我らが大勝負。このリハク親娘の命を賭けた戦いを見せてくれようぞ。」
私は内なる興奮を抑えかねて娘トウに言った。
「はい、もはや何の迷いもありません。このトウ、見事に逝って参ります。」
凛としたその声音にはわずかな迷いも感じ取ることができなかった。
そのトウの姿は既にいつもとは異なるものとなっていた。
すなわち顔には仮面が、全身には鎧が被せられていた。
それは普段この城の将、ユリア様が身に着けている装束であった。
第16話 トウの最後
ケンシロウとラオウ。
この乱世に終止符を打つ最後の戦いを前にした両雄は、同時にユリア様のいる南斗の居城に到着した。
だが黒王という巨馬を駆るラオウの方が城への侵入は一歩先んじた。
ラオウは馬上のまま城を駆け上がると、一気に最上階のユリア様の部屋へと驀進した。
だがそこにいるのはユリア様ではない。
かねてからの計画通り、ユリア様の装束に扮した我が娘トウが身代わりとしてそこにいたのだった。
本物のユリア様はラオウが最上階へ行くのを見届けてから下の階へと向かった。
そこでラオウより一足早くケンシロウと落ち合う、というのが表向きの作戦だ。
自ら世紀末救世主を気取るケンシロウとしては、ラオウが既に城に入っていることを知りながら、ユリア様と二人でラオウを城に残して逃げるような案を受け入れるわけにはいくまい。
必ずや先にラオウとの決戦を望むであろうという確かな計算が私にはあった。
そんな中、最上階ではいよいよラオウとトウの戦いが始まった。
いかに情欲で己を見失ったとは言え、トウの変装がばれるのにさほど時間は要さない。
私とトウはこのラオウとの対決の打ち合わせを特に念入りに行っていた。
これこそ私の計画の中でも最重要に位置する、いわば核の部分であっただけに、事前に何度も確認をする必要があったからだ。
トウは最初自分の口からラオウに真実を伝えたいと主張していたが、私はこれには強く反対した。
トウの女心も十分に理解できるが、ユリア様への情欲で心が埋められている状態のラオウに真実を告げたところで、せっかくここまで秘してきた切り札もあまり有効とはならないと思われたからだ。
あれはいよいよ五車星が動き出した頃のこと。
私とトウはこのことについて何度目かの話をしていた。
「よいか、トウ。お前の気持ちは分かる。しかし今日まで秘してきた取って置きの切り札を最も有効に使うには、そのタイミングでは早いのだ。」
「ではどうしても私が死んだ後でなくてはならないのですか・・・・・?」
「そう、トウはあくまで一人の女性として、愛するラオウのために死んだと思わせなければならない。」
「それでラオウの心が動きましょうや?」
「いや、残念ながら今のラオウの中にはユリア様への情欲しかない。恐らくトウの死を目の当たりにしても何も変わるまい・・・・・。」
「それではわたくしは無駄死にではありませんか?」
やや失望したようにトウが言った。
「そうではない。人の心とは不思議なものでな。その場ではほとんど効果がないように思えても、後々効いてくるということがよくある。布石のようなものだな。最後の切り札を出した時に、お前がラオウの心に刻んだ布石が強い印象となって蘇ってくることになるだろう。」
トウはまだ半信半疑なようであった。
「そういうものなのでしょうか?わたくしにはよく分かりませんが・・・・」
「うむ。いかなる尊い教えも相手の心がそれを受け入れる状態になっていなければ響かぬもの。ラオウの心がこちらに開くのはケンシロウに負けた後だろう。そこで取って置きのカードを切るというわけだ」
「・・・・・やはりその順番しかないのですね?」
「お前には酷だがラオウという男の心を動かすのは容易ではない。あの男には動物的な情欲というものはあっても本当の意味での愛を知らぬ。今ユリア様を求めるのも単なる情欲に過ぎぬ。本人にはその違いが分かっていないようだがな。ケンシロウに負けた時に、ようやく自分にはないものがあることに気づくだろう。」
「その時に私が生きていては効果が薄れると・・・・?」
「そう。生きている者の心はいつ変わるかも知れぬからな。幼い頃から異性に愛された経験のないラオウの心は疑心暗鬼になっておる。お前が生きていては、ラオウはお前の愛を疑い続けるだろう。私が最後のカードを切った時、ラオウを一人の男性として愛し死んでいったトウはもうこの世にいない・・・・・。この状況でこそ初めてラオウの心は動くのだ。」
私の話を反芻するかのように、トウは視線を落としてしばし沈黙した。
次に私を見た時にはもうその表情から迷いの影は消えていた。
「分かりました・・・・。もうこの件では何も言いません。後のことは全てお父様に任せて私は先に参りましょう・・・・・」
トウは私との打ち合わせ通り、最後の切り札については一切触れず、ただ一人の女性としてラオウを慕い続け、ラオウへの愛のために自ら命を絶つという健気な女の役を完璧に演じきった。
(トウよ、見事だ。お前の死は決して無駄にはすまい。次はこのリハクが一世一代の大勝負を見せてくれよう。)
最上階にユリア様がいないと分かれば、ラオウは手当たり次第に上から部屋を探ってくるはず。
私は最初にラオウが来るであろう部屋に陣取った。
この時のために部屋の仕掛けも十分に施し、タイミングをあやまたぬよう、何度も頭の中でシュミレーションを行ってきた。
全てはこの時のため。
そして遂にラオウはやってきた。
第17話 無想転生
「くだらぬことを」
入り口に仕掛けておいた天井落としを難なく突破したラオウは、私を見て嘲るように言った。
「さすがだな、ラオウ」
「海のリハクか。世が世なら万の軍勢を縦横に操る天才軍師よ。この部屋全体が殺気に凍りついておるわ」
「もはやここまでだラオウ、せめてこの地でユリア様の匂いと共に果てるがいい。」
「フン・・・・。策を弄して時間を稼ごうというのだろうがそんなことでこの拳王を止められるとは思っていまい。ケンとユリアのために己の命をも捨てる気か。娘トウと共に。」
「トウの死は無駄にはしない。この部屋が貴様の棺桶となる。」
「時間稼ぎの余裕は与えぬ。すぐに片付けてくれるわ」
そう言い放つと、ラオウは自分の四方に張り巡らされた仕掛けのピアノ線を一気にまとめて引き寄せた。
その瞬間ラオウの周囲から無数の槍が放たれたが、一瞬早く床を両手で瞬時に剥がして持ち上げるというラオウならではの力技で盾を作り、これを防いだ。
「むむう」
(ここまで己を見失うとは、恐ろしいまでの情欲よ。確かにこんな児戯にも等しい仕掛けでラオウをどうにかできるなどとは思ってはおらぬ。あくまでケンシロウが戻ってくるまでの時間稼ぎ。)
「ふははー。死ぬがよいリハク」
私にとどめ刺しにきたラオウであったが、既にケンシロウがそこまで来ていたことを私は知っていた。
「ラオウ、そこまでだ」
「むっ、ケンシロウ!」
「狂える暴凶星、死すべき時は来た」
(やはり戻ってきたな、救世主気取りのお坊ちゃまよ。さあ見せてもらおうかケンシロウ。お前の成長した姿を。)
ケンシロウが戻ってくることは計算済みではあったが、無論表向きはそんな素振りを見せるわけにはいかなかった。
「ケ、ケンシロウ様、なぜユリア様と逃げなさらぬ。あ・・・あなたの力ではまだ恐怖の暴凶星ラオウは・・・・」
私の考えでは、サウザーとの戦いを乗り越えたあたりから、ケンシロウはラオウにはない類の強さを身に付けていたように思う。
先代リュウケンの北斗神拳継承者にあるまじき所業、近親相姦の末生まれた子であったサウザー。
そのサウザーの深い哀しみを戦いの中で知り、誰に教えられることなく先天性内臓逆位という体の謎を解き明かし、最後は有情拳で安らかな死を与えたケンシロウ。
あの頃からケンシロウは、北斗神拳究極と言われるあの奥義を使えるようになっていたのではないか。
もちろん私自身のこのような考えを表面上漏らすわけにはいかない。
何しろこの戦いは海の軍だけでなく、ユリア様の軍も見守っているのだから。
私はみなの前でケンシロウの成長に驚き、この奥義の解説をしなければならないのだった。
「おお、もしや今の技は。ケンシロウ様がこれほどとは読めなかった。このリハクの目をもってしても・・・」
両者のファーストコンタクトでその奥義はいきなり炸裂した。
自分がケンシロウを粉砕したつもりが壁に吹っ飛ばされたラオウは、まだ何をされたかすら分かっていないらしい。
この展開をある程度予想をしていた私には、恐らくこれこそがあの奥義なのだろうということが分かった。
さらに私は続けた。
「な・・・なんということ。ケ・・・ケンシロウ様はこの海のリハクが読み誤るほど巨大に・・・・」
これは周囲の者たちというよりはラオウへの牽制という意味が大きかった。
ラオウも継承者を目指した一人として、恐らくこの奥義のことはリュウケンから聞いていよう。
そのことを今一度ラオウに思い出させ、自分がケンシロウに劣ることを自覚させる必要があった。
私の言葉に反発するかのようにラオウはいきり立ち、ケンシロウに拳を、脚を繰り出していったがこれまた結果は同様であった。
そして二度に渡りケンシロウに捻られることでようやくラオウも思い出したようだった。
北斗神拳究極奥義、無想転生の名を。
第18話 拳王の誇り
北斗二千年の歴史上誰も体得したことがないという究極奥義無想転生。
その伝説の奥義をケンシロウが掴んだという事実はラオウに計り知れない衝撃を与えた。
ラオウはその巨躯と比類なき圧倒的なパワーのため誤解されがちだが、拳法の修得に関しては実に誠実な男だった。
そもそもあれだけの身体能力があり、その能力が北斗神拳特有の呼吸法により最大限に引き出されているとなると、経絡秘孔など突かずともほとんどの相手を一撃で倒せてしまうのは事実。
実際五車星の風のヒューイや炎のシュレンを粉砕したあの破壊力は、ラオウの持って生まれた資質と修練の賜物であり、秘孔を突いたことによるものではない。
だがラオウは自分が強者と認めた相手に対しては、決して身体能力だけで戦おうとはしない。
強い相手に対してはあくまで拳法の技量で凌駕することが重要であり、圧倒的なパワーで倒したとしても、それはラオウの求める勝利ではない。
それがラオウの拳法家としての、「拳王」を名乗る男としての自負であった。
アミバに北斗神拳の更なる改良を命じたのも、カサンドラにおいて数多くの拳法の研究を重ねたのも、全てはラオウの拳の道に対する真摯な姿勢の現れに他ならない。
その拳法家としての姿勢は、北斗神拳継承者であるケンシロウのそれを遥かに凌駕していたと言ってよい。
継承者争いには身分の差で敗れたラオウであったが、拳の道においては決してケンシロウには負けない。
その誇りが「拳王」という冠を自らに付けさせたのだった。
そんな「拳王」の誇りが、今この瞬間に無残にも打ち砕かれた。
あるいは無想転生など無視してそのパワーと肉体を前面に出して戦えば、ラオウがケンシロウに勝つのは決して不可能ではなかっただろう。
だがラオウはそういう勝負に徹するには、拳法家としてあまりにも心が純粋過ぎた。
自分が体得できなかった技をケンシロウが先にマスターしてしまったという屈辱。
これまで決して劣ることはないと信じ込んできた拳の道において、ケンシロウに遅れを取ったという現実。
「拳王」の誇りを打ち砕くに十分な、この屈辱的な事実をラオウの心は受け入れることができなかった。そんな受け入れがたい現実という屈辱が、ラオウの体を震わせたのであった。
「それが恐怖というものだ、ラオウ」
ケンシロウはどうやらラオウの屈辱からくる震えを、恐怖によるものと都合よく解釈したらしい。
しかしラオウにとってはこの誤解はむしろ好都合であったろう。
恐怖には打ち克てるが、想像すらしていなかった屈辱を消化し、解消する術が今はない。
誇り高きラオウは末弟のケンシロウに、自身が味わっている屈辱を知られることを好まなかった。
よってとっさにこのケンシロウの誤解を受け入れ、それを利用することにしたのだった。
「その精神は臆せずとも肉体は敏感に恐怖を・・・・」
今や解説者の立場となった私も、このケンシロウの誤解に便乗しラオウをアシストした。
「生き方を否定し軟弱者と断言したケンシロウにこの俺が恐怖を、末弟のケンシロウごときに・・・・」
よもやの屈辱に気力が萎えかかっていたラオウであったが、どうやらケンシロウに屈辱と恐怖を誤解されたことで、少し強がるだけの余裕が出てきたらしい。
「認めぬ、ましてや俺は北斗の長兄。俺に後退はない、あるのは前進勝利のみ。無想転生など微に砕いてやるわ」
そう叫ぶと残された僅かな気力を振り絞り、再びケンシロウに向かっていった。
しかしラオウの得意技でもある天将奔烈は、その技の型だけを真似るのが精一杯であり、既に先ほどの屈辱で気力を削がれていた拳ではケンシロウにダメージを与えることは出来ようもなかった。
もはやラオウには打つ手がなかった。
ラオウに残された道は、せめて今味わっている屈辱をケンシロウには悟られずに誇りある死を選ぶのみ。
覚悟を決めたラオウは自ら鎧を捨て最後の攻撃に打って出ようとしていた。
(どうやら機は熟したようだな。ラオウよ、まだお前を死なすわけにはいかない。お前にはこれから重要な役割が残されているのだからな・・・・)
ラオウがケンシロウに向かって大きく一歩踏み込んだそのタイミングに合わせて、私は秘かに懐中に忍ばせていた最後の仕掛けのスイッチを押した。
第19話 一生の不覚
ケンシロウに究極奥義無想転生を先に修得されたことで屈辱に打ちひしがれたラオウ。
これこそ私が待ちに待っていた瞬間だった。
無想転生をマスターするためには自身に足りない何かがあるということを自覚した時に、初めて私とトウの切り札が有効と成り得るのだった。
私はタイミングを見計らって最後の仕掛けをうまく作動させたが、もちろん表向きには想定外のアクシデントという風を装わなくてはならない。
ケンシロウだけでなく海の軍にさえ、私がラオウに加担しているなどという疑惑をもたれるわけにはいかなかった。
ここからは私の演技力が問われる場面。
仕掛けにより部屋全体が揺れ始めた。
「はっ。い、いかん、最後の仕掛けが・・・・」
いかにもラオウが偶然私の仕掛けたスイッチを踏んだかのように私は瞬時に反応し、周囲にいた者たちを、ラオウとケンシロウも含め、巧みにミスリードした。
「ケ、ケンシロウさん、伏せて!」
私はそう叫びながらケンシロウに体当たりをして、いかにも次の仕掛けから守るかのように動いた。
実は私の本当の目的は別にあった。
ケンシロウを体当たりでその場から遠ざけるのとほぼ同時に仕掛けが作動し、床が破裂した。
そしてまだ屈辱感から冷静さを完全には取り戻せていなかったためか、一瞬反応が遅れたラオウは抜けた床から一人真っ逆さまに転落していった。
(よし、うまくいった!)
私は内心快哉を叫んでいた。
ここが今日の計画の中でも技術的に最も微妙なタイミングを要求される場面であった。
ケンシロウにもラオウにも周囲の誰にも疑われることなく、あたかも偶然起こったかのようにラオウだけをこの部屋から落とす。
頭の中では既に何度となくシュミレーションしていたとは言え、一瞬のずれが全てを台無しにしてしまう場面だったため、この完璧な成功は私をさらに勇気付けることとなった。
私の最後の仕掛けにより床が抜け落ちて転落したラオウは、そのまま下の部屋の天井をもぶち破って床に着地した。
その部屋にはケンシロウの到着を今や遅しと待ちかねていたユリア様がいた。
ラオウがその部屋に落ちることは、既に仕掛けを作る際に綿密に計算していた。
だからこそユリア様とケンシロウの落ち合う場所としてその部屋を選んだのだから。
拳の道で末弟のケンシロウに後れを取ったラオウの中では、実のところユリアへの情欲などもはや完全に消えていた。
私はあえて目の前にユリア様を差し出すことにより、ラオウにこの場から逃げる口実を与えたのだった。
拳王を名乗るラオウが拳の道で人に劣るという屈辱は他の何にも代えがたい物。
この屈辱を晴らすには自分もその奥義を修得する以外ない。
しかし今この場でそれを成し遂げるのはいかにラオウと言えど不可能というもの。
ましてやケンシロウに先を越されたことで混乱しきった頭では、何をどうしてよいのかという考えもまとまるはずもない。
恐らくラオウも頭の中を整理するだけの時間が欲しかったに違いないが、誇り高きこの男が大勢の目の前で、ただ負けたままケンシロウから逃げ出すなどという事ができるはずもない。
そこで偶然仕掛けが作動し、たまたま転落した場所にユリア様がいたという奇跡的な状況を作り出す。
元々ラオウはユリア様を奪いにこの城に来たわけだから、その目的を達したので城を去るという大義名分がここで成立することとなる。
ラオウはきっとこの偶然の巡り会わせを時間稼ぎのための幸運と受け取るに違いない。
全てはこのリハクの読みどおり。
ラオウはこれ幸いとユリア様を奪い、黒王に跨り城から走り去っていった。
(待っているがよい、ラオウ。もうすぐこのリハクがお前に奥義を授けよう。)
自らの仕掛けにより負傷した形となった私は、ケンシロウに抱きかかえられながら頭の中ではそんなことを考えていたが、もちろん皆の前で発した言葉は全く別のものだった。
「あなたの力を読めなかったばかりに余計なことを・・・・海のリハク一生の不覚。」
(天才軍師としてはあるまじき失態と後世の者には笑われような・・・・。だが真の軍師とは凡人にはその意図すら読ませぬもの。お主らには分かるまい、このリハクの深慮遠謀が・・・・)
人前では一生の不覚を悔いながら、内心では私はこの度の策の会心の出来を自画自賛していた。
ケンシロウはラオウを、そしてユリア様を追っていった。
ケンシロウは私の仕掛けにより目を負傷していたが、さほど重症ではない。
今度こそ本当に最後の戦いとなるであろうラオウとの決戦にはなんら影響はあるまい。
(驚くでないぞ、ケンシロウ。次の戦いは究極奥義を修得した者同士の壮絶なものになろう。その時はもう邪魔はせぬ。見事ラオウを倒しこの乱世に終止符を打つが良い・・・・。)
第20話 ラオウの子
ケンシロウが城を去った後、仕掛けにより内部が崩壊した城の修復などの後処理を部下に手配した私は、表向き負傷のための休養と称して姿を隠した。
行く先は誰にも告げず。
もちろん私の向かう先は一ヶ所しかない。
私はぼろを身に纏い、目立たぬように顔を隠して夜陰に紛れ、ラオウの居城へ忍び込んだ。
ラオウはちょうど目を覚ましたところであった。
その部屋にはラオウの他に、ウサというラオウの部下とユリア様がいた。
どうやらラオウは寝ている間にユリア様に傷の手当をされていたようだった。
その事実がラオウの屈辱感をさらに倍加した。
そんなラオウの胸中など推し量る術もないこのウサという哀れな男は、ユリア様が部屋から出て行くと
「ケヘヘヘ・・・・。拳王様チャンスじゃないですか、このウサもあやかりたいもんですな」
と感情を逆なでするような戯言を口にしてしまった。
その結果が主に一撃で粉砕されるという無残な最期となったことは言うまでもない。
部屋にラオウ一人になったことを確認すると、私は静かに近寄った。
「誰も呼んではおらんぞ。ん?貴様何奴・・・・」
どう見ても拳王軍には見えない私の姿を不審に思ったラオウの前で、私は身につけていたぼろを取り去った。
「貴様・・・リハク。」
「はい、拳王様。突然このような形でお邪魔するご無礼をお許しください。」
「五車星の一星海のリハク。その使命に従いユリアを奪い返しに来たとでもいうのか。」
「滅相もない。私ごときが単身乗り込んできてどうにかなる相手でないことは、先刻の勝負でよく分かりましてございます。」
「ではケンシロウに負けた俺をあざ笑いに来たか。」
「いえ。今宵は南斗慈母星に仕える海のリハクとしてではなく一人の親として参りました。」
私の意図を計りかねるといった表情でラオウはこちらを見た。
「親として?では娘トウの恨み言でも聞かせに来たとでも?」
「恨み言など恐れ多いこと。我が娘トウは最後まであなた様を想い死んでいったのです。その死に様は親として恨むよりむしろ誇りに思います。ただ・・・・」
「ただ・・・・。なんだ?」
「トウは恐らくあなた様に何も告げずに死んでいったのでしょう。あくまで一人の女としてあなた様のお心を自分のものにしたかった。ユリア様ではなく自分を愛して欲しかった。それがトウの女としてのプライド。その気持ちは痛いほど分かるものの、やはり一人の親としてはこのままあなた様に何もお知らせしないでおくというのも・・・・・・。」
「何も?それはどういう意味だ。俺に一体どんな話しがあるというのだ?」
そう問われた私は、顔をそれまでより心持高く上げ、ラオウの目をこれまでにないくらいしっかりと視線の先に捉えた。
「はい。ラオウ様。今からする話は決して娘トウの本意ではございません。あくまでトウの父リハクの哀れな親心としてお聞きください。」
「よかろう、天才軍師と謳われたうぬの親心とは面白い。話してみるがよい。」
待ちに待った切り札をいよいよ突き付ける時がきた。
私は一瞬間を置いてからいきなり本題に入っていった。
「はい。実は我が娘トウには生まれてまだ数ヶ月の赤子がおります・・・・・・。」
「なに、トウに子供が・・・・・?ま、まさか・・・・」
子供という言葉にあのラオウが見た目にもおかしいくらいに狼狽を見せた。
普段であれば内心の動揺を相手に悟られぬくらいの虚勢を張る余裕はあるのだろうが、やはりケンシロウに負けたことで心が弱くなっていたのだろう。
「はい。事実でございます。身重になってからは恐らくあなた様にもお会いになっていなかったはず。トウは自分の子があなた様の足枷になるのを恐れておりましたゆえ・・・・。」
「で、では・・・・・そのトウの子供の父親というのは・・・・・」
半ば覚悟を決めたような、それでいて万が一違っていてくれたらいいというような複雑な表情でラオウは聞いた。
「よもや身に覚えがないなどとは言いますまい。あの子があなた様とそういう関係にあったことくらいはこのリハク存じております。」
「う、うむ。確かに・・・・。だがそれは・・・」
「分かっております。あなた様のお心がユリア様にしかないことを知りながら、その身を任せたのは娘トウの方でございましたからな。何も娘を弄んだなどと非難する気は毛頭ございません。むしろあなた様の子を授かり、このリハク感謝しているほどでございます。」
私に非難されるとでも思っていたのか、ラオウは少しほっとしたようであった。
「・・・・・。しかし、もしそれが事実なら、なぜトウは俺にそんな大事なことを言わなかったのだ?」
「はい、実はこのことトウからは自分が死んでも決してあなた様には言うなと口止めされておりました。このことで少しでもあなた様のお心が乱れ、それがもとでケンシロウ様に敗れるようなことがあってはならぬと。」
今度の一言は確実にラオウの心を動かしたようだった。
「まさか・・・・・。あのトウがそのようなことを・・・・・。」
「はい。おなごとは不思議なものでございますな。一人の女としてあなた様を惑わすことにはなんらためらいなく目の前で死んでさえ見せるのに、赤子を使って相手の心を動かすのは許しがたいようでございますな。これが女としての誇りを賭けた戦いというものなのでございましょうか。」
「そのようなことは俺にも分からぬ。だがリハクよ。トウのせっかくの気遣いも無用であったわ。心など乱れずとも俺はケンシロウに負けた。あの末弟のケンシロウにな。」
今やあの拳王の心を覆っていた鉄の鎧は剥がれ落ち、そこには一人の拳の道に迷う男がいた。
(もはやラオウの心は剥き出しの赤子同然。後はこちらの思うがままよ・・・・)
「北斗神拳究極奥義、無想転生・・・・」
私は先ほどの戦いを思い出させるかのように呟いた。
「まさかあの若輩者に先を越されるとはな・・・・・。しかもリュウケンのやつめ、この俺には決して修得できぬ技などと抜かしおって・・・・・」
「リュウケン様がそのようなことを?」
「そうだ。死ぬ間際にな。その奥義は哀しみを知らぬ者には成し得ないのだとか。その時にはさほど気にも留めなかったが・・・・。」
「なるほど、それでケンシロウ様が・・・・」
「リハク、貴様もそう思うのか。哀しみを知る者が最後には勝つと・・・・・」
「それはこのリハクごときには分かりかねます。ただ無想転生という奥義をマスターするにはそれが必要な条件なのでしょう。ただあなた様の剛拳を以てすれば、無想転生など使わずともケンシロウ様に勝てるのでは?」
私はラオウの性格を知りながら、あえて聞いてみた。
「いや。それはできん。仮に俺が力でケンシロウを倒したとしてもそれは真の勝ちではない。少なくとも拳法家としてはな。優れた拳法家はあくまで拳の優劣で勝負するもの。まして俺とケンシロウは同じ拳を学んできた者同士。その一方が先に奥義を修得した以上、俺がその技を体得しない限り勝ちはありえないのだ。」
「なるほど。それが真の拳法家の勝負というものですか。このリハク浅はかでございました。」
すでに心を開いたラオウは改まった表情で話を続けた。
「トウの親として来たお前にだから言うがな、リハクよ。」
「はい、なんでございましょう。」
「実は俺は先のケンシロウとの戦いで潔く死ぬつもりであった。」
「なんと、そうでございましたか。」
おそらくそうであろうとは思っていたが、私は驚いた風を装った。
「拳の道で遅れを取った以上、潔くこの世から消えるのが拳王、すなわち拳の頂点を目指した男の最後に相応しかろうと思ってな。」
「それほどのご覚悟とは、このリハク存じ上げませんでした。」
「だがあのようなアクシデントが起こって、間を置くための絶好の口実が与えられたとなると、不思議なもので欲が出てくる。一人の拳法家としてあの究極奥義を我が物にしたいという、どうにもならない強い欲求がな。しかしとんだ恥を晒してしまったことには違いないがな。」
「私の要らぬ仕掛けが無粋なことになってしまったようでございますな。申し訳ございません。」
「もうよいのだ。だがな、リハク。俺には分からぬ。リュウケンの言った通りあの奥義を掴むには本当の意味での哀しみというものを知らねばならぬらしい。しかし俺にはその方法の糸口すら見えてこぬ。哀しみとは一体なんだ?どうすればそんなものを手にすることが出来るというのだ?」
(ここまで本音を口にするとはラオウもすっかり参ったらしいな。では話を進めるとするか。)
第21話 愛と哀しみ
完全にラオウの心を丸裸にすることに成功した私は、さらに話を進めた。
「一度は命を捨てたあなた様がこうして生きて目の前にいるというのも神の思し召しかもしれません。究極奥義・無想転生をあなた様が修得するチャンスをくれたということではないでしょうか。」
「では、この俺にあの奥義がマスターできると言うのか?」
「はい。今のあなた様ならその可能性は十分あるかと・・・・・」
「どういう意味だ?」
「哀しみを知るとは本当の愛を知ることでもあります。愛する者を失う哀しみ、愛する者と戦わねばならない哀しみ。本当の愛なくしては哀しみもまた生まれません。」
「愛?では、俺のユリアに対する愛では足りぬと申すか。」
「お言葉ながらあなた様のユリア様に対するお気持ちは愛ではなく情欲かと。少なくともケンシロウ様のそれとは全く違うものでございましょう。」
「愛ではなく情欲か・・・。言われてみればそうかも知れぬな。ではどうすればよい。いまさらユリアを情欲ではなく愛せとでも?」
(なんという幼い発想。拳の道以外では本当に子供だな・・・・)
私はいささか呆れながら、しかし根気よくラオウを導いていった。
「無理に愛せと言われてもできるものではありますまい。しかし愛というものは別に男女の間にだけあるものではございません。」
「というと?」
「肉親の愛というのも男女のそれに勝るとも劣らぬ強さがありましょう。特に親子の愛というものは時に不可能を可能にするとすら言いますし・・・・・」
「親子の・・・・。そうか、それでトウの生んだ子が出てくるわけか。」
「はい。もしあのままラオウ様がお亡くなりになっていたら、リハクもこのような話をする機会はありませんでした。あなた様にとっては究極奥義を修得するためのチャンスが生まれ、私にとっては娘トウの真実をあなたに告げる機会が出来た。これが神の思し召しでなくてなんでしょうか?」
「ううむ。その子への愛が俺に奥義を修得させるというのか。だが俺にはまだその赤子への愛情など微塵も湧いてこぬ。なにしろ顔すら見ていないのだからな・・・・。ところでその子は男か女か?」
「健やかな男児にございます。ラオウ様の仰ることはごもっとも。ただ残念ながらまだ赤子ゆえここへお連れするわけには参りませぬ。」
「分かっておる。そうか男子か、で今はいずこに?」
「私の親戚のハクリという若い夫婦に預けてございます。何しろトウは生んで間もなく私の仕事の手伝いで走り回っておりましたからな。子供に乳を飲ませる者が要りますので。」
「そうか。で、俺にその子に会いに行けと?」
「いえ、今の状況でさすがにそれは無理でしょう。ですが親子の愛を想像する事は可能かと・・・・」
「想像?」
「はい。親子の愛の強さ、深さを身をもって知ることで、私の言っていることが見当違いでないことをお分かりいただけるのではないかと存じます。」
「身をもって知るとは?」
ラオウのように生まれてこの方誰にも心を開いたことがないような頑なな男は、一度その心を掴んでさえしまえばこちらの意のままに操るのはそう難しいことではなかった。
「我が五車星の一星山のフドウは沢山の親のない子を実子のように育てております。今は心優しきフドウですが、その内に秘めた鬼の力はラオウ様もよく御存知のはず。子を思うフドウの強さ、フドウを慕う子の強さ。親子の愛の強さを知るにはこれほどの相手はいないかと・・・・」
「リハク。うぬは五車星の仲間の命を俺に売るつもりか・・・・・」
「ですから今宵は五車星ではなく一人の親としてここに参りました。一人娘のために愚かな行為に走る父を蔑んでくだされ。しかしこれもまた哀れな親子の愛。」
「親子の愛・・・・」
私はさらにラオウに畳み掛けた。
「このリハク、五車の星の定めよりも我が娘と孫の為に命も名も捨てる覚悟。本来は我が将の敵である拳王様に味方するなど五車星の最年長としてあってはならぬこと。しかしあなた様は紛れもなく私の孫の父であり娘の愛した男。表立って味方こそ出来ませんが、私の本心はあなた様と共にあります。」
「智謀並ぶ者なしと言われた海のリハクをしてそこまで狂わせるとは・・・・・。親子の愛にはそれほどの力があるということか。」
「なんともお恥ずかしい限り。しかしこの強さこそ今のあなた様にたった一つ欠けているものかと。それはすなわち愛する者のために自分の命さえ犠牲にするという強き心・・・・」
「なるほど。確かに今日まで俺は誰かのために己を犠牲にしようなどと考えたことはなかった。それが愛というものか・・・・。フドウとの戦いで俺にもそんな心が芽生えてくるのであろうか?」
「今のラオウ様なら。恐らくはフドウとの戦いがあなた様に多くの物をもたらすことでしょう。私はその後でまた会いに参ります。」
話は私の思うような方向に進んでいた。
ラオウの表情を見ればもうフドウとの戦いを決意したことは明らかであった。
「分かった。ところでリハク。まだその赤子の名を聞いていないが・・・・」
「はい。実はまだ名はありません。トウは私が名付け親になることを望みましたが、いまだ良い名が決まっておりませぬ。それに実の父がいながらそれを差し置いて私が名を決めるのも・・・・・」
「俺に名をつけよと申すか?」
「もしそうしていただけるのであれば、このリハクにとっても娘トウにとってもこれ以上の誉れはありませぬが・・・・・。御迷惑では?」
「いや、迷惑というわけではないが・・・・・。正直なところ今はまだその余裕はない。フドウとの戦いを終えて戻ってきたら・・・・・、お前が言うようにその戦いで何かが得られたら・・・・・、その時は考えておこう。」
「それはありがたき幸せ。このリハク、次に拳王様に会うのを楽しみにしております。」
ラオウとの極秘会談は上首尾に終わった。
死んだトウとの間に自分の子がいたという事実を、これからラオウは徐々に実感していくであろう。
そしてフドウとの戦いを経ることで、まだ見ぬ我が子への想いがさらに強くなっていくに違いない。
(トウよ、どうやらお前の死は無駄にはならなかったぞ)
私の野望のために自ら命を絶った娘トウを想い、私はラオウとフドウの戦いが終わるのを待った。
第22話 鬼のフドウ
一方私との話を終えたラオウは、再び気力を漲らせフドウの村へと向かった。
私はいつものように偵察を放ち、この戦いの詳細を報告させた。
フドウとの戦いの中でラオウは私が言った以上の何かを掴むに違いない。
それこそ私がラオウの相手にフドウを選んだ本当の理由だった。
(それにしても魔王とはまたラオウらしいな・・・・)
ケンシロウとの戦いに敗れたラオウが、それまで名乗っていた「拳王」という冠を捨て、新たに「魔王」と称していることを知った私は思わず苦笑した。
そもそも「拳王」とは拳法の道において頂点に立つ者の意。
身分の差により継承者争いに敗れたラオウの、拳の道においては決してケンシロウに負けてはいないという精一杯のプライドが、そのネーミングには込められていた。
その高き誇りが、ケンシロウに先に究極奥義を修得されることにより打ち砕かれた今、自ら「拳王」の名を捨てたのは、いかにもラオウらしい窮屈な生き様であった。
そんなラオウであるから、奥義をマスターするためとあらば、なりふり構わずフドウの村を襲うのは当然であった。
かつてラオウがまだ少年の頃、鬼のフドウに恐怖したという話はリュウケンから聞いていたが、さすがに今のラオウにとってフドウはさほど脅威ではないはず。
だが私の話にすっかり心を奪われたラオウは、必要以上にフドウと彼が育てている「親のない子供たち」の様子に意識を向けていたのだろう。
そのためもはや死に体となったフドウを後ろから見守る子供たちの強い視線を気にしすぎたようだった。
ラオウは自らが設定したデッドライン、ここから下がれば自分に向かって矢を射よと部下に命じていた一線、を越えて後退した。
偵察からの報告の中で、とりわけ私が聞きたかったのはこの部分だった。
報告によれば、終始優勢だったラオウが、フドウの後ろにいる子供たちを見てから途端に様子がおかしくなり、うろたえて見えたのだという。
その後ラオウは自分の指示に従わずフドウを射た部下たちに、八つ当たりとも思える暴挙を働いた。
私はこの報告にいたく満足であった。
(どうやらうまくいったようだな。ラオウの一見狂ったとしか見えない暴挙は、己の中に湧いた生まれて初めての感情をコントロールできず怯えたためであろう。ラオウよ、それこそが愛というものだ。)
私は二度目の、そして恐らくは最後になるであろうラオウとの対面を楽しみに待った。
その夜またもぼろを纏い変装をした私は、ラオウの城に忍び込んだ。
ラオウの乱心という噂は既に城内を駆け巡っており、いち早く逃げ出すものも出始めていたため、前回より城に入るのは容易であった。
ラオウは燃え盛る炎に己の両腕を突き入れていた。
それは己の内なる感情を、肉体を焼くことで鎮めようとする儀式のようにも見えた。
私はぼろを取り去り一歩進み出た。
「待っていたぞ、リハク。」
「はい、私もこの再会を待ち焦がれておりました・・・・・。いかがでしたか?フドウとの戦いは・・・・」
私は正面からラオウの顔を見据えて言った。
「リハクよ、俺にフドウと戦えと言った本当の理由が分かったぞ。」
「本当の?と言いますと・・・・」
「いまさらとぼけるでない。いかに人の情に疎い俺でもそのくらいのことは分かる。お前の本意は、俺にまだ見ぬ我が子を想像させることだったのであろう。」
「さすがはラオウ様。見抜かれておりましたか。では、やはりフドウの子供たちを見た時に・・・・」
「うむ。鬼のフドウとは言え昔の話。さすがにあの程度の力では、今の俺には大した敵とは言えぬ。北斗神拳を使うまでもなかったわ。だが、あのフドウの子供たちの哀しそうな目を見た瞬間に全てが変わった。」
私は何も言わず、目でラオウに話を続けるよう促した。
「あの子供たちの目は、生まれてから親の愛情を受けずに育ったがゆえの哀しさを秘めていた。親のない子ばかりを集めて育てたフドウ。その子たちが親代わりのフドウを失う哀しさ・・・・・。あの子供たちの目の中に、俺は確かにまだ見ぬ我が子の目を見たのだ。いや、ただの考えすぎなのかも知れぬな。リハク、お前の話を聞いていなければこんなことは思いもつかなかったろう。だが母親のトウは既になく、この俺がケンシロウに倒されれば生まれたばかりの我が子は両親ともにない子として育つ・・・・。我が子も将来このフドウの子たちの様な哀しい目をするのかと思うと・・・・・。あの一瞬の間にそんな想いが体の奥から湧き上がってきたのだ・・・・・。」
「ラオウ様・・・・・」
ラオウは泣いていた。
あの恐怖の覇王とさえ呼ばれ、誰からも畏怖されたラオウが、この私の目の前でとめどなく涙を流していた。
「笑うがよい、リハクよ。このラオウが涙とはな。フドウとの戦いの最中に生まれて初めて感じたこの激しい想いを、俺は抑える術を知らなかった。それゆえこの感情に怯え、それを打ち消すために誰ともなく当り散らした。部下どもは俺の気が触れたと思っていような・・・・。」
私は答えが分からず戸惑う子に謎解きをするかのように静かに話を始めた。
「どうやら、掴んだようでございますな・・・・。」
「ん?掴んだとは?」
「ラオウ様、もはやお分かりになっているはず。まだ見ぬ我が子の行く末の哀しみを思うその気持ち。それこそまさしく親の愛。情欲ではない本当の愛というもの。」
「愛・・・・。これが、愛というものなのか・・・・・。」
「あなた様は幼き頃にトキ様と二人故郷から離れ、常に兄として強く生きることのみを強いられてまいりました。それゆえ本当の愛を知らず、そのような感情を自ら拒絶することで今日まで生き抜いてこられたのです。その生き方は決して間違ってはおりません。ですがもうお認めになってもよいでしょう、少なくともこのリハクの前では。あなた様はもう愛を知り、哀しみを知ったのです。」
「むう、確かにそうかもしれぬ。これが愛というものだとすると、俺はこのように激しく揺れ動く感情を受け入れたままで、今のような強さを手に入れることは出来なかっただろう。情けない話だが、今もなおこの得体の知れない感情を封じてしまうことが出来たらどれほど楽になれるかと思っているほどだ。」
万人が恐れたあの拳王の姿はもはやそこにはなかった。
今目の前にいるのは鎧を剥がされた、少年のように怯えて澄んだ目をした一人の男。
「それでよいのですラオウ様。本当の愛や哀しみとは常に不安定なもの。愛を、哀しみを知るとは、その不安定さゆえの怖さをも同時に受け入れること。不安を排除するのではなく受け入れなされ。そのお気持ちのまま戦えば、必ずや次こそ無想転生を修得できましょう。」
「これでよいというのか・・・・。この感情のまま戦えと・・・・・。」
「そうでございます。元々ラオウ様には、これまでの十分な拳法の鍛錬と強い精神力という下地がございます。本物の愛と哀しみを知った今、ケンシロウ様との戦いの中で自然と奥義が使えるようになるものと存じます。」
「この俺があの無想転生を・・・・・」
ラオウは先ほどまで炎に突き入れていた己の両腕を見つめていた。
「よかろう、リハク。ここまできたら乗りかかった船。お前の言う事に賭けてみよう。元々一度は捨てた命。あの奥義をものにできるならやってみる価値はあるというもの。」
「よくぞ御決心なされました。」
「うむ。で、リハクよ。お前の望みはなんだ?」
「私の望み・・・でございますか?」
「そう。お前は俺に子があることを教え、五車星の仲間フドウと戦わせることで俺に本当の愛というものを教えた。俺が次の戦いで究極奥義を修得できるようになったとして、一体お前に何の利があるというのだ?いかに一人の親としてとは言え、ここまで俺に加担したからには別に目的があろう。」
ラオウに促されたことで、私は一呼吸置いてから話し始めた。
私とトウが命を賭けた真の目的を。
第23話 その名はリュウ
ここまでの過程でラオウの心は十分掴んだという確信はあったが、やはりいざとなると内心の興奮と緊張は隠せない。
「では、ラオウ様。恐れながらお願いの儀が二つございます。」
「うむ。何でも言うがよい。お前たち親娘にはいくら感謝しても足りぬわ。ケンシロウと戦った後でなら、この命くれてやってもよいぞ。」
「いえ、そのようなことではございませぬ。一つは先日お話ししたとおり、あなた様とトウの間に生まれた赤子にはまだ名がございませぬ。そこでラオウ様に名を付けていただけたら、あの子にとってもトウにとってもこれほどの幸せはありますまい。」
「案ずるな。そのことなら既に決めてある。」
「おお、そうでございましたか。でなんと?」
「リュウ。」
「リュウ様。それはまた御立派なお名前で。ありがたき幸せに存じます。」
「うむ。その子が北斗と繋がりのある子だという印を名に秘めようと考えてな。後々何かの役に立とう。」
「と、言いますと?」
「お前も知っていよう。北斗神拳は代々劉家の厚い庇護を受けてきた。そのリュウを名としていただいたのだ。それにこの名にはトウの末字とリハク、お前の頭字も入っているしな。」
「なんとこの私まで・・・・・。ラオウ様のお心遣い深く感謝いたします。」
「俺の子を産みながら労わりの言葉一つかけてやれなかったトウへのせめてもの気持ちだ。せめて母親が生きておればその子の人生もまた変わってきたであろうに・・・・」
ラオウの心は確実に変わってきていた。
私は今こそトウの命を賭けた布石を蘇らせる時と確信した。
「いや、ラオウ様。これで良かったのです。トウはあくまで女として、母ではなく女としてあなた様を愛し死んでゆくことを望んだのですから・・・・。」
「トウ、・・・・・不憫な女よ。しかし不思議なものだな、リハクよ。俺はこれまでユリア以外の女は愛せぬと思い込んでいた。それゆえトウの気持ちを受け入れるなどありえぬと思っていた。しかしお前にユリアへの気持ちは愛ではなく情欲だとはっきり指摘され、目から鱗が落ちたようであった。今頃になって我が子と共にトウの事が思い出されてならぬ。許せよトウ・・・・・。」
ひとたび鎧が剥がれ落ちたラオウの剥き出しの心は脆かった。
今度は娘トウを想い涙しているのだった。
(自ら築いた鎧が強固だった分、素の心は幼くか弱いままだったようだな。思えば哀しき男よ・・・・)
「我が娘のためにラオウ様が涙を・・・・・。トウもあの世でさぞや喜んでおりましょう。」
「そうであると良いが・・・・。ところでリハク、もう一つの願いをまだ聞いていなかったが・・・・。」
もう一つの、そしてこれこそが真の願いであるところを私は口にした。
「はい、実はこれが最も重要なお願いでございまして・・・・」
「なに?これ以上まだ重要なことがあるというのか。」
「はい、これはラオウ様の子、リュウ様の将来に関わる大事でございます。」
「我が子リュウの・・・・。一体どのような?」
「はい、リュウ様を、あなた様の子をケンシロウ様の次の北斗神拳継承者にと。つきましてはラオウ様からその旨ケンシロウ様にお伝えいただけたらと・・・・・」
これもまたラオウにとっては思ってもみなかった申し出であったようだ。
「なに、リュウを北斗神拳継承者に?」
「さようで。あなた様のお子ならきっと立派な継承者になるものと。」
「しかしリハクよ。お前も分かっていよう。北斗神拳継承者になるには宗家の高僧たちの承認が必要。以前は承認も形だけであったようだが、この度のケンシロウを養子にした際の強引な横やりの入れ方をみると、継承者には宗家の嫡男が選ばれよう。北斗宗家の跡継ぎケンシロウと南斗慈母星のユリアの間に男子が誕生すれば、俺とトウの間の子など候補にすら挙がるまい。」
ラオウの当然の疑問に対する答えは、しかし私の中では既に用意されていた。
「いえ、ケンシロウ様とユリア様の間に子はできませぬ。」
「それはどういう意味だ?」
「実はユリア様は御病気でもう長くは生きられませぬ。子など産める力は残されておりますまい。」
「ユリアが病気だと・・・・?しかもそんなに悪いのか。」
「はい、このことはまだケンシロウ様もご存じありません。そしてあのケンシロウ様の性格からして、ユリア様以外の女子との間に子をなすことなど考えられますまい。」
「ううむ。そこまで分かった上でリュウを継承者にと?」
「はい。ラオウ様、継承者争いでケンシロウ様に敗れた悔しさを忘れたわけではございますまい。自分の子が代わりに北斗神拳を継ぐなら、ラオウ様にとってもこれほどいい話はないのでは?」
「うむ、それは確かに・・・・。我が子が、俺がなし得なかった北斗神拳継承者に・・・・・。」
どうやらラオウの中にも私と同じ野望がむくむくと頭をもたげてきたようだった。
北斗宗家の嫡男であるケンシロウに、生まれながらの身分の差により継承者の道を絶たれた自身の無念を我が子が晴らしてくれる。
今や我が子の行く末を案ずる父親の心を得たラオウにとって、この考えは何にも勝る至福であったに違いない。
やがて意を決したかのようにラオウは力強く言った。
「あい分かった。次のケンシロウとの戦いは恐らくこの俺の最後の戦いとなろう。俺が死ぬ前に必ずやケンシロウに伝えよう。我が子リュウの行く末を頼むとな。」
「は、心得ましてございます。あなた様の最後の戦い、将来リュウ様に必ずや語り聞かせましょう。」
「頼むぞ、リハク。これまで非道の限りを尽くしてきたこのラオウだが、最後に一つくらい父として誇れる戦いを残しておきたいものだからな。俺の最後の戦いは我が子リュウに捧げるとしよう。」
「互いに究極奥義を修得した者同士の、まさに究極の戦い。このリハクも楽しみにしております」
ラオウに本心を伝えることに成功した私は城を去り、海のリハクとしての仕事に戻った。
私が去った後ラオウはユリア様を仮死状態にしたようだ。
それがラオウなりに考えた末の筋書きだったのだろう。
ラオウの隠し子の存在はまだ当分は公には出来ない。
となればラオウが無想転生を身につけるに至った、表向きのそれなりの理由が必要となる。
そこで私の話からユリア様の不治の病という事実を知ったラオウは、それを利用することを思いついたようだった。
つまりユリア様の病気を知り、ユリア様への愛を背負ってケンシロウと戦うというストーリーだ。
(あの不器用なラオウにしてはよく考えおったな。ユリアを殺したと見せたのはケンシロウに全力を出させるためか。最後の戦いゆえ相手にも全力で向かってきてもらわねば悔いが残るということだろう。最後の最後までラオウらしい生き様よ・・・・)
最終決戦はもうそこまで迫っていた。
第24話 赤子の戦い
ラオウは愛馬黒王号をケンシロウの元へと走らせた。
それがケンシロウを決戦の舞台へと誘う使者であることは明白だった。
ケンシロウとリン、バッドは黒王に跨りラオウの待つ決戦の地、北斗錬気闘座へと向かう黒王に身を任せた。
私もこの最後の決戦を直に見届けたかったが、さすがに五車星最後の生き残りとして、ラオウ軍団の後始末という役目を放り出していくわけにもいかなかった。
もちろんいつものように偵察部隊は派遣していた。
この戦いは将来ラオウの子であり、我が孫でもあるリュウに語り継がねばならぬ大事な戦い。
偵察にはいつにも増して詳細な報告を求めていた。
予想通り、戦いはいきなりお互いに究極奥義無想転生を繰り出すことで始まった。
無情のラオウが無想転生をマスターしたことに少なからず驚いたケンシロウだったが、ラオウは自らユリアを手にかけ愛を背負うことで奥義を修得したと思わせることに成功したようだ。
報告によると、ここからは赤子の殴り合いのような戦いが延々といつ果てるともなく続いたのだという。
「互いに無想転生を身につけた今、奥義は武器にならぬ、ここからは赤子の戦い」
とラオウはケンシロウに宣言したのだとか。
(なるほど、どうやらその時だな)
ラオウとケンシロウの、この赤子のような殴り合いの最中に、他の誰にも分からない二人だけの会話が成立していたようだ。
すなわちそれはラオウの隠し子リュウの話に他ならない。
何しろこの話はリンやバッドを含め、まだ誰にも知られてはならない秘密。
とはいえ戦いの前に二人でこそこそ話をするわけにもいかず、戦いの後にラオウを待っているのは今度こそ確実なる死のみ。
ならばリュウの話をする機会は戦いの最中にしかない。
戦いの最中に話をするなどにわかには信じがたいかもしれないが、互いに互いの力量や技のスピード、癖などを熟知し合った関係ならば決して不可能なことではない。
それを可能にするのが「赤子の戦い」だ。
「赤子の戦い」とは技を駆使して相手の虚をつくという本来の拳法家同士の戦いとは異なり、突き、蹴りを一定のタイミングで互いに応酬し合うだけの単調な戦闘。
このような単調な接近戦であれば、ほとんど無意識の内に体が動くので余計な頭を使う必要はない。
その最中であれば、周囲に聞かれないほどの小さな声で会話も可能というわけだ。
ただこうした単調な殴り合いは、素人目には血沸き肉躍る肉弾戦の名勝負と映るかもしれないが、拳法家として目指すような戦いでは決してない。
まして拳の道において頂点を目指すラオウにとって、「赤子の戦い」など拳法家として最も屈辱的であったに違いない。
しかしこれ以外にケンシロウと話す機会はないと判断したのだろう。
もし戦いの場にリンとバッドの姿がなければ、ラオウももう少し別の方法を選んだに違いない。
が、事ここに至っては他に道はない。
ラオウ自ら「赤子の戦い」を宣言したことで、ケンシロウも何かの意図を察したのだろう。
あれほど拳の腕を競うことに真摯なラオウが、この最終決戦にただ殴りあうだけの単調な戦いを好むはずがない。
それはケンシロウにもよく分かっていた。
だからケンシロウにはラオウの「赤子の戦い」の意味が分かったのだ。
ラオウとケンシロウ、優れた拳法家同士だから分かるサインというわけだ。
(無想転生をケンシロウに披露したことで、ラオウは一人の拳法家としてなすべき最低限のことをなしたと自身を納得させたのだろう。後は遺される我が子のことを頼むため、あえてそのような策を弄したというわけか・・・・)
自分の勝利よりも子供の行く末を優先したラオウの心の変化に最も驚いたのは、あるいはケンシロウだったやも知れぬ。
あの恐怖の拳王、ラオウが他人のために犠牲になろうとしているのだ。
驚くなという方が無理な注文だろう。
報告はさらに続いた。
いつまで続くかと思えた単純な殴り合いは突然終わり、再び両者が間合いを取った。
そしてケンシロウは
「次の一撃が最後となろう」
と勝利を確信したかのように兄ラオウに言い、涙した。
(一目見ることすら叶わなかった我が子を、ライバルであったケンシロウに託してこの世を去らねばならぬラオウの親としての愛情を知り、ケンシロウも心打たれたのであろうな。)
互いに合図をしたかのように最後の一撃にこれまで以上の全霊を込めて打ち合い、そしてケンシロウがラオウを上回った。
その後、殺されたと思ったユリア様が実は仮死状態にされていたことが判明。
ラオウは最後の最後までユリア様への愛を心に刻んで究極奥義を身につけたという演技を貫き通した。
戦いの最中に真実を知ったケンシロウであったが、ラオウの親としての強い遺志を知り、その演技に乗ったようだった。
ラオウの最期は永遠に語り継がれる見事な死に様だったという。
自ら己の秘孔を突き、天に向かってあの強靭な腕を突き上げ
「我が生涯に一片の悔いなし」
と天も震えるほどの大きな雄たけびを上げて死んでいったそうだ。
その死に顔は拳王と恐れられた男とは思えない晴れやかな表情だったという。
(見事だ、ラオウ。お前の最期必ずリュウ様に伝えようぞ。その晴れやかな死に顔からして、どうやらケンシロウはラオウの遺言を、すなわちリュウを次の北斗神拳継承者にという願いを聞き届けたのであろう。)
戦いが終わり、ケンシロウとユリアはいずこへともなく去った。
こうして一つの時代が終わりを告げた。
有力な敵を全て倒した今、しばらくは大きな勢力は現れてこないだろう。
余命僅かなユリア様とここまで戦いの連続だったケンシロウにもしばし休息が必要だろう。
しかし本当に世が定まるにはまだまだ時間を要することは分かっていた。
これは一時の平穏に過ぎない。
そして私の野望もまだ道半ばであった。
第25話 リセキという男
ラオウとケンシロウの最後の戦いが終わり、その後始末に追われていた頃。
一人の物静かな男が私を訪ねて城にやって来た。
その男の名には聞き覚えがなかったが、あのラオウからの使いと聞いては無視するわけにもいかなかった。
私は客間でその男と会うことにした。
男の態度から話はおそらくあの事だろうと察しがついた。
あの事とはすなわちラオウの子、リュウに関することだ。
そのため私はあらかじめ人払いをし、初対面のその男と二人だけの場を作ったのだった。
男は私と同じくらいの年齢であったろうか。
痩せ型と言ってもいい細身の体であったが、よく観察すれば細いながらも鍛えられ引き締まった体躯であることは分かった。
目つき、表情は穏やかであったが、その分底には強い意志が秘められているようで、一見して信頼のおける男だと思えるそんな人物であった。
ラオウの部下というとヒルカのようなろくでもない輩が目立ってしまうが、大部分はよく教育され、統率の取れた優秀な軍人であり、参謀やラオウの相談役のような役割の者もいたのを知っていた。
この男の風貌から考えて恐らくはラオウの相談役、拳王軍の中でも武官ではなく文官に属する役割だったのではないか。
「これはリハク様。お忙しいところお時間をいただき申し訳ありません。」
「いやいや、この城の修復だけでも大仕事でな。骨が折れるわい。しかしラオウ様の使いと聞いては何を差し置いてもお会いせねばと思ってな。」
「はい、確かにわたくしめは我が主ラオウ様より遣わされた者にございます。遅れましたが名はリセキと申します。」
「リセキ殿・・・・。してラオウ様からどのようなことを・・・・?」
「はい、実は我が主ラオウ様より御遺言を託されましてございます・・・・。」
「御遺言・・・・・?」
(やはりな。ラオウが自分の隠し子という極秘中の秘を誰かに託すとしたら、こういうタイプの男であろう。)
「はい、あれはケンシロウ様との最後の戦いの前日の夜のことでございました。密かに私だけがラオウ様に呼ばれたのでございます。」
リセキと名乗ったその男が語った話によると、ラオウはリュウという自分の隠し子のことを全てこのリセキに話したらしい。
それだけラオウからも信頼されていたということなのだろう。
その上で自分がケンシロウとの戦いに敗れた後、ケンシロウから北斗神拳継承者としての教育を受けるまでの間、リュウを守り育てて欲しいというのがラオウの遺言の内容であった。
リセキは、リュウが今はリハクの親類のハクリ夫婦の元で匿われ、乳を与えられていることも知っていた。
「リハク様。今しばらくは大きな戦いは起こらないものと存じます。しかし逆にこういう時は各地で残党や小悪党がはびこるもの。多少の相手ならこのリセキもお役に立てましょう。」
決して自信満々とは言えない物言いだったが、それだけにその言葉には重みがあり、大言壮語を吐く腕自慢の男よりも遥かに頼もしく感じられた。
元々ハクリ夫婦は私の親類で秘密が絶対守れるという点を重視していただけで、戦闘能力という点においては甚だ心許ないのは間違いない。
だがリュウの素性を公にするのはまだ時期尚早であり、その時期はラオウから後を託されたケンシロウが決めるべきだろうと考えていた。
従ってそれまでは大げさにリュウを守ることは出来ない。
もちろん私自身は再びケンシロウの力を必要とする時が来るまでこの世を治め、とりわけリンを守るという大役があったため、直に動くわけにはいかなかった。
次に大きく時代が動くとすれば、元斗皇拳最強のファルコを擁した天帝軍の態勢が整った時。
その時にはリンの、天帝の双子の片割れとしての存在が重要となるはず。
リンにはさらにその後も大きな役割を担ってもらわなければならない。
無論これはまだ私の心の内だけの計算に過ぎないが。
そんな思惑もあってリセキの申し出は私にとっても願ったりかなったりであった。
「リセキ殿、貴殿の申し出ありがたくお受けいたします。ラオウ様の忘れ形見リュウ様の将来のため、お力お貸しください。」
私はリセキの手を取りしっかりと握って言った。
「我が偉大なる主ラオウ様の遺児。その子を預けられる身に余る栄誉。このリセキ必ずやケンシロウ様がお迎えに上がるまでリュウ様をお守りいたします。」
それからほどなく私とリセキは馬を並べて進んでいた。
目指すはもちろんハクリ夫婦の住む村であった。
第26話 リュウのいる村
私とリセキがハクリ夫婦のもとを訪れると、そこには意外な人物が待ち受けていた。
つい先日ラオウとの激闘を終えたばかりの北斗神拳継承者ケンシロウその人であった。
「ケ、ケンシロウ様・・・・・。なぜここに?」
さすがの私も予想外のことに少し狼狽していたが、ケンシロウはいたって平然とした表情を崩さなかった。
「リハクよ、そう驚くことはあるまい。リュウの話はそもそもお前がラオウにしたのであろう。」
「は、はい。そうではございますが・・・・。私はてっきりユリア様とどこか安住の地を探しているのかと・・・・・。」
「うむ。それがある男のおかげでちょうどよい隠れ場所が見つかってな。今はユリアとそこで暮らしている。」
「そうでございましたか。それは何よりでございます。ユリア様にとっても長い年月待ちに待ったひと時。このリハクも安堵いたしました。」
「お前にもずいぶん世話になったな。ひとまず落ち着く場所が見つかったのでな。それでラオウの忘れ形見とやらを一度この目で見てみたくなってな。」
「それでわざわざここへ・・・・。ではラオウ様からリュウ様の居場所もお聞きになられたのですね?」
「うむ。あの最後の戦いのさなかにな。まさかあのような時に内密の話をしてくるとは思ってもみなかったが、その内容を聞き納得した。あのラオウに子がいたとはな・・・・。しかも一度も顔を見たことがないという。顔を見ることもかなわないままこの世を去らねばならない無念、まだ見ぬ子の行く末を想うラオウの親としての真摯な気持ちが俺にはよく伝わってきた。子を想う親の愛。何ゆえあのラオウが北斗神拳究極奥義無想転生を身につけることが出来たのかも、その時ようやくわかった。」
「さすがはケンシロウ様、そこまでお気づきとは。で、リュウ様をご覧になられましたか?」
「うむ。父譲りの強い良い目をしている。俺は一目見て確信した。この子なら将来北斗神拳を託すのに相応しい男子となるであろうと。」
ケンシロウはいきなりこちらが最も気になる核心にズバッと話を振ってきた。
「ではリュウ様を継承者に・・・・?」
「ああ。残念ながらユリアの体ではもう子は産めぬ。ならば義理とは言え我が兄の子、しかもあのラオウの子とあれば誰も文句はあるまい。」
ケンシロウはまだ自身が北斗宗家の嫡男であることも、その身分ゆえに継承者に選ばれたという経緯も知らなかった。
従って宗家の高僧たちが継承者争いに横槍を入れてきているという最近の事情も無論知る由がなかった。
それはいずれケンシロウ自身が彼の国へ渡る時が来れば分かることだろう。
それにもはや救世主としてのケンシロウの存在は、宗家の高僧たちが想像していたよりも遥かに巨大になってきていた。
そのケンシロウの推薦とあれば、もはや今の高僧たちにそれを覆すだけの力はあるまい。
私が頭の中でそのような計算をしていると、これまで沈黙を守っていたリセキが口を開いた。
「おお、それはめでたい。北斗神拳の正当な継承者ケンシロウ様にそう言って頂けたらこれ以上のお墨付きはありませぬ。なんというありがたいお言葉。」
「お前は?」
「は、ラオウ様の部下にして、このたびその遺児リュウ様を守ることを亡き主君に命じられたリセキと申す者。どうかお見知りおきを。」
「そうか、ラオウの・・・・。先ほどハクリ夫婦にも俺から改めて頼んでおいたのだが、リュウのことくれぐれもよろしくな。北斗神拳継承者として正式に俺が迎えに来るまでにはまだかなりの年月を要するだろう。それまでリュウを頼むぞ。」
「は、ケンシロウ様。このリセキ一命を賭してこのお役目果たす所存。」
リセキをハクリ夫婦に紹介し、私とケンシロウはその村を去った。
私はケンシロウと途中まで同伴することとなった。
「ところでケンシロウ様。まさかとは思いますが、その隠れ場所を教えてくれた者、信用して大丈夫でしょうか?」
「ああ。安心していい。たまたま通りかかったその男の村で盗賊が暴れているのを退治したのが縁でな。あの面構えからしてかなりの人物だとは思うがあえて俺の名を聞かなかった。『聞けば戦わねばならなくなるかもしれない』と言ってな。実に気持ちのよい武人だ。」
「そうでしたか。ではその男の名も知らぬのですね。」
「いや、直接は聞いてはいないが、他の者と話しているのを耳にしたからな。確かショウキと呼ばれていた。」
「ショウキ・・・・・」
「聞き覚えでも?」
「いや。知らない名前ですな。ですがケンシロウ様、くれぐれもお気をつけて。ラオウが倒れた今、その残党や盗賊どもがあちこちで暴れだすのも時間の問題でしょうから。」
「うむ。ユリアは必ず俺が守る。お前もバットとリンのこと、よろしく頼むぞ。」
「はい、あの二人もきっと立派な戦士となることでしょう。なにしろあなた様の戦いをずっと見てきましたからな。」
そんな会話を交わしながら、ケンシロウはユリアの元へと帰っていった。
(しかし驚いたな。まさかケンシロウとユリア様に隠れ家を提供したのがあのショウキだったとは・・・・・)
ケンシロウの前では知らぬふりを通したが、私はその男の名を知っていた。
いや、知っていたどころではない。
ショウキとは天帝の一派。
あのラオウから村を守るため脚一本を犠牲にした、元斗皇拳最強の男ファルコの旧友。
そしてリンの出生の秘密を知る数少ない男。
(生きていたかショウキ。しかしケンシロウと出会うとはなんという奇遇。恐らく次に会う時は敵と味方となっていよう・・・・・・。)
第2章 帝都編 第27話 天帝動く
ラオウとケンシロウの戦いが終わり、ひと時の平穏が訪れたが、それはやはり長くは続かなかった。
ケンシロウがユリアと安住の地を目指して去ってから数年後。
ついに天帝が動き出した。
既に北斗、南斗の名立たる者は皆この世からいなくなっており、天帝軍の動きを表立って止める勢力はもはやこの世に存在しなかった。
立派な大人に成長したリンとバットも北斗軍と名づけた一軍を率い抵抗を試みたが、所詮はゲリラ戦を挑むのがせいぜいであった。
天帝軍は瞬く間に中央帝都を中心とした中央集権政府を作り出し、各地を支配下に治めていった。
天帝が動き出したということは、すなわち片足義足となったあのファルコが戦える状態になったということを意味する。
(元斗皇拳最強の戦士、金色のファルコ。あの男がいる以上我らは正面からは戦えぬ。今はケンシロウが来るのを待つしかあるまい。)
当初リンとバットはゲリラ戦を好まなかった。
これまで常に正面から戦い、いかなる大軍であろうと堂々と打ち破ってきたケンシロウの姿を見てきた二人だけに、それも無理のないことだった。
恐らく二人にはゲリラ戦など姑息で卑劣な戦法としか映らなかったのだろう。
だが私は粘り強く説得を続け、何とか二人が命を無駄にしないように努めた。
二人もケンシロウ抜きで戦ってみて初めて、自分たちの力の乏しさと現実に否応なく気づかされ、私の言っていることが理解出来たようだった。
こうして我々北斗の軍はひたすら待った。
あの男が帰ってくるのを。
そして男はやって来た。
北斗神拳継承者ケンシロウは、ラオウから引き継いだ愛馬黒王に跨って我々の前に戻ってきた。
最初にケンシロウが現れたのは、バスクという将が治める郡都であった。
天帝は中央帝都を中心として全体をいくつかの市都
シティ
に分け、さらに市都を細かく郡都
エリア
に分割し各都に中央直轄の将を配するという体制を布いていた。
バスクという郡将もケンシロウ抜きでは到底太刀打ちできる相手ではなかったが、いかに実戦から遠ざかっていたとは言え北斗神拳継承者にとっては復帰のためのウォーミングアップ程度の相手に過ぎなかった。
ケンシロウが戻ってきたことでリンとバッド率いる北斗の軍は一気に活気付いた。
もうこそこそとゲリラ戦などせずとも堂々と正面から天帝軍と戦えばよいのだから、士気が上がるのも当然だろう。
そして天帝軍の動きも早かった。
ケンシロウが再び戦場に戻ったという知らせはいち早く帝都にも伝わっており、その知らせは帝都の実質の支配者ジャコウを怯えさせた。
私は以前から偵察部隊を帝都に派遣しており、その内情はほぼ把握していた。
さらに言えば、まだ帝都を築く前から天帝の村のことを私はよく知っていた。
そも天帝とはいかなる存在か。
天帝を理解するということはすなわちこの裏世界の歴史を理解することに等しい。
表の世界の人間にはこの裏世界の成り立ち、仕組みは理解しがたいだろう。
長く歴史の表舞台からその存在そのものが秘せられてきた裏世界。
このようなものが二千年もの長きに渡って存在し続けていたこと自体、表の歴史しか知らない者たちには容易に信じがたいことに違いない。
天帝とは遥かな太古、この世を支配していた一族。
かつてはこの地上において、身分の上でも実質的な権力という意味でも頂点に立っていた。
北斗神拳を生んだ宗家を始めとして元斗、南斗など名だたる拳法家は皆天帝を守護し、一度外敵が現れた際にはその超人的な技と力で撃滅してきた。
しかし時は流れ文明が進むにつれ、その戦い方も大きく変化していった。
武器の進化により、もはやいかなる超人であろうとも、拳法によって世界を支配できるような時代ではなくなったのだった。
ある時天帝とそれを守護した拳法家たちは天下を分ける大きな戦で、新時代の武器を有する勢力に惨敗した。
これまでの多くの歴史がそうであったように、本来なら新しい支配者によって天帝も多くの流派もここで潰えてしまうところであった。
この危機を救ったのが、他ならぬその戦で天帝軍を破り勝利者となった新時代の覇者であった。
この者は姓を劉といった。
劉家は元々拳の道を愛し、天帝を頂点としそれを守護する様々な拳法の技の見事さと、拳法家たちの鍛え抜かれた肉体をこのまま滅ぼしてしまうことを惜しんだ。
そこで今後一切実際の政治、権力とは関わりを持たないという条件付で天帝と多くの拳法を保護することとしたのだった。
ここに実際に世を支配し歴史を作っていく表世界と、拳法の継承と絶対的な階級制を使命とする裏世界とが分離することとなったのである。
以来天帝を中心としたこの裏世界は、歴史上にはなんら形跡を残すことなく、その絶対的な階級制と各流派の継承を今の時代まで脈々と続けてきたのであった。
時と共に変わりゆく表世界の文明や社会制度とは対照的に、権力から完全に分離したことで、この裏世界の身分制度や慣習、そして拳法の諸流派はほとんど当時から変わることなく生き残ることに成功した。
劉家はその後権力の座を退いたが、その後もこの裏世界を世間から秘して守り続けた。
裏世界には様々な掟が存在し、それを固く遵守することで生きながらえてきた。
この世界では天帝を頂点とし北斗宗家、元斗金色家、南斗六聖拳を特権階級とし、それ以外を非特権階級と称し厳密に両者を区別した。
そして権威を守るため、この両者の間では決して婚姻関係を結んではならないという絶対的な階級の壁が設けられたのだった。
つまり特権階級の者は同じ特権階級の縁戚からその配偶者を選ばなければならなかった。
例外的に該当する者が見つからない場合には、非特権階級の者を一旦然るべき特権階級の家の養子としてから迎えるということはあったようだが、その際には天帝の承認が必要とされた。
この明確で厳しい階級制のどこにも属さない特別な地位を与えられた流派がたった一つだけあった。
それこそが北斗神拳継承者であった。
北斗神拳がこのような特別な地位に置かれたのには表裏二つの理由があったと言われている。
一つは既に述べたようにその水影心という他の流派にはない特殊な能力のため。
が、これはあくまで表向きの理由であり、本当の狙いは別にあったとされる。
それは極めて血生臭く俗世的な理由であった。
天帝を破り権力の座に就いた新しい覇者・劉家は数多の流派の中でも特にこの北斗神拳を寵愛した。
あるいはそれは愛などという純粋で心温まるものではなかったかもしれない。
北斗神拳の暗殺拳としての表世界での利用価値を高く評価していたといった方が正確だろう。
もちろん歴史上公にされたことはないが、新権力者となった劉家が政敵を密かに病死、突然死に見せかけて亡き者にするといった目的のために北斗神拳を利用したことは少なからずあったようだ。
それは劉家が権力の座から降りた後も、あの核戦争前まで度々あったという。
劉家はいつしか表世界では、金で要人暗殺を請け負う暗殺集団として一目置かれるようになり、その巨額の金で財をなし、その財力で裏世界を養ってきた。
このため北斗神拳継承者は、裏世界の中でも劉家から特別な待遇を与えられ庇護され続けた。
決して交わることの許されない表と裏の世界の両面で特別な地位を与えられ、両世界に存在することが許された蝙蝠のような存在。
それが北斗神拳であった。
その表裏二面に渡る特別な待遇と、表世界に金で使われていることに対する妬みと蔑みから、いつしか「劉家北斗神拳」という皮肉を込めた呼び名でこの一子相伝の暗殺拳を影で揶揄する者もいたようだ。
つまり「劉家北斗神拳」とは、「劉家に金で雇われ汚い仕事をしているあの北斗神拳」というような意味合いであり、あのカサンドラ獄長ウィグルもケンシロウに対して言ったことがあったようだ。
恐らくはケンシロウもこの皮肉の意味を知っていたのだろう。
元々残虐癖のあるケンシロウであったが、ウィグル抹殺に際して特にその傾向が強く出たのは北斗神拳を侮蔑されたことに対する報復と、二度とそのような輩が現れないための見せしめという意味があったのではないか。
いずれにせよ表裏二つの世界は北斗神拳継承者以外には互いに交わることなく両立してきたのだった。
しかしあの核戦争により時代は大きく変わった。
あらゆる文明と同時に武器もまた消え去り、世界は再び超人的な肉体と技を有する拳法家によって支配可能な対象へと逆戻りした。
「力こそ正義、いい時代になったものよ。」
かつてシンがケンシロウに言ったとされるこのセリフは、表の世界に野心を持ちながらその厳しい掟のため欲望を封じねばならなかった多くの先人たちの心の叫びとも言えるのであった。
そんな時代の変化を敏感に感じ取り、天帝の名を利用して己の野心をこの乱世に開花させようとした男が総督ジャコウであった。
そもそもジャコウという男は先代天帝の側近が遊女に産ませた子であった。
そのようなスキャンダルは出世に響くという極めて俗世的な理由で表向き認知はされず、女が一人で育てることとなった。
しかし出産は難産であり、その際の母体の後遺症が祟ったかその女も産後しばらくして容態が悪化し急逝。
事が公になり自らの家名に傷が付く事を恐れたジャコウの父は、ファルコの母に泣いて頼みその子を育ててもらうこととなった。
当時からファルコの母はその寛容な人柄で誰からも頼りにされる存在であったようだ。
こうしてファルコと共に育てられることとなったジャコウであったが、世間体を気にした卑劣漢の父に似てその性質もまた陰湿であった。
ジャコウは実の父が天帝の側に仕える高官と知り、いつか自分にも出世のチャンスがあると野心を抱いていたようだ。
幸い同じ家に育ったファルコは、天帝を守護する元斗皇拳の中でも最強の使い手として、幼少の頃よりその将来を嘱望されていた男。
しかしファルコは性質が素直すぎ、世渡りが上手ではなかったため、ことあるごとにジャコウに利用されていたようだ。
こうしてジャコウはファルコの威を借りて若くして天帝の側に入り込むことを許されたのだった。
そんな時にあの事件が起きたのだった。
今から起ころうとしている北斗と元斗の最強戦士の戦いに繋がるあの出来事が。
そして同時にその出来事は、私の野望にとっても必要不可欠な僥倖となったのであった。
第28話 二人の天帝
代々天帝に最も近い位置にあり、その裏世界の頂点としての地位と伝統を守護する立場であった元斗皇拳。
その拳は体内に貯めた闘気を刃とし敵の体を瞬時に滅殺するのを特徴としており、その使い手は光る手を持つ男たちと称された。
元斗は古くからその冠する色によって格が決められており、中でも虹の七色を冠した者達は「元斗七色の戦士」と呼ばれ他流派から畏怖されていた。
そしてそれら「七色の戦士」たちのさらに上位に君臨する元斗皇拳最強の戦士のみが、代々金色を冠することを許されたのだった。
ファルコの家はその栄えある元斗金色の家系であった。
金色を冠したファルコの家はただの戦士という役割だけにおさまらず、さまざまな障害から天帝を守護し、災いから遠ざけることをもその役目としてきた。
事件はまだ核戦争以前のこと。
先代天帝には男子がなく、待望の赤子は双子の女児であった。
天帝の一族は最初に生まれた赤子を後継者とすることが決められており、古来より男女の区別はなかった。
従って生まれたのが女児であること自体は問題ではなかったが、双子となるとそう簡単にはいかない。
二人の後継者は後の世の乱れに繋がるということで忌み嫌われ、生後間もなく片方の赤子は抹殺されるのが古よりの掟であった。
そしてこういう時の役目もまた天帝を守護する元斗皇拳金色家の任務の一つであった。
しかし非情になりきれない若きファルコに、この双子の片割れを殺害することはできなかった。
思い悩んだファルコは母に相談し、表向きは抹殺したこととして、極秘にこの女児を母の兄夫婦に預けることにしたのだった。
このことを知る者はファルコの一族以外では、ファルコが唯一心を許した旧友ショウキくらいのはずであった。
恐らくファルコはそう信じ込んでいたはずだが、私はその時既に天帝の片割れ、すなわち後のリンが秘かによそで匿われていることを知っていた。
天帝の双子の片割れが誰も知らない場所で生かされ、その身分を秘して育てられているという事実は私を興奮させた。
当時の私にはまだ今のような具体的な青写真は出来ていなかったが、それでも天帝の双子の片割れは、この先の自分の人生を大きく変え得る切り札になるという漠然とした確信と、それをいつか利用してみたいという野心があった。
ただその当時はファルコもリンの行く末を気にしており、リンを匿う叔父夫婦をそれとなく保護していたため、おいそれと手は出せなかった。
私はリンが預けられたファルコの叔父夫婦の家を常に監視下に置き、チャンスを伺っていた。
そしてそのチャンスは意外に早く訪れた。
当時表の世界は次第に崩壊へと歩み始めており、表では陰の参謀長官でもあった私の示唆もあって、遂にあの核戦争が勃発した。
時代は私が待ち望んだ荒廃した乱世となったのだ。
私は参謀長官という表の顔を捨てた代わりに、予てから考えていた案を実行に移した。
それはすなわちリンの略奪である。
核戦争後の混乱は当然ながら天帝の村にも及び、ファルコも天帝と村を守るのに必死で叔父夫婦とリンの保護まで手が回らなかったようだった。
この機を逃す手はなかった。
躊躇すればまたいつファルコの手が伸びてくるやも知れぬ。
私の決断は早かった。
核戦争後の荒廃は各地に小悪党を跋扈させており、食料や水を十分に与えるという条件さえ出せば、略奪や殺人など厭わない輩を集めるのに苦労しなかった。
私は野盗の集団を雇い、ファルコの叔父夫婦を襲撃させリンを略奪させた。
無論約束通り食料と水を与えて放つような愚かな真似はしない。
水と食料には予め眠り薬を仕込ませてあり、薬の効き目が出た頃を見計らって、私は野盗どもを殲滅した。
こうして己の素性を何一つ知らず、目の前で親と信じていた二人を突然野盗に殺され、そのショックから意識を失っていたリンを私は確保した。
私は首尾よく天帝の双子の片割れという強力なカードを手中に収めることに成功したのだった。
第29話 ジャコウとファルコ
核戦争後、私は裏世界における五車星の海のリハクでもなく、表世界における影の参謀長官という役職でもないもう一つの顔を持つこととなる。
それはこれといって特徴のない平凡な小さな村の長老という顔だった。
小さく平凡であまり目立たない村というのがこの場合最も私の目的に叶っていた。
リンという切り札の存在を知って以来、私の計画を遂行する上で、この天帝の双子の片割れを略奪することが欠かせないパーツとなることは分かっていた。
略奪する以上、その後の住処を考えておかなければならないのは必然。
いかに素性が割れていないとはいえ、せっかく手に入れた大事な珠に万が一のことが起きないように、なるべく自分の目の届くところに置いておきたいのが本音であった。
しかし後々のことを考えると、五車星海のリハクがこの件に関わっていたという事実は、リンを含め余人には絶対知られるわけにはいかなかった。
そしてリン本人にはもちろんのこと、誰に対しても当分の間は天帝の双子の片割れが生き残っているという事実を伏せておかねばならなかった。
もしそのような大事がファルコの耳にでも入れば、たちまち私の命など消し飛ぶに違いないからだ。
そのためリン略奪より以前から、私は長老という変装をして小さな村を作り、その長としてリンを受け入れる準備をしていたのだった。
私はリンを略奪した後、まだショックで意識を失ったままのリンを夜陰に紛れ自分の村に連れて行き、親に捨てられてさまよい辿り着いたかのようにその場に置き去りにした。
翌朝村の者が捨て子を発見したと私に伝えてきたため、牢番として村に留め置くことを許可したのだった。
リンは最初から口がきけなかったわけではない。
自分の身に起きたことがあまりにもショックで一時的に記憶を失っていたのだろう。
目覚めた当初は自分の名前も言えたし受け答えもしっかりしていた。
しかし次第に目の前で両親が惨殺されたシーンが記憶として蘇ってきたためか、それと並行するかのように言葉を失くしたのだった。
こうしてリンを監視下で密かに育てることに成功した私は待った。
元斗最強の男ファルコに対抗できる駒、その時はまだユリアとの恋愛ごっこを楽しんでいただけの無自覚な北斗神拳継承者ケンシロウの成長を。
その後シンにユリアを奪われたことで、ようやくその才能を開花させ始めたケンシロウが、私の村に浮浪者と間違われ囚われて以降の話は既に述べた通りである。
ケンシロウもリンも順調に成長し、私はファルコと天帝軍に勝てるだけの駒を手に入れた。
一方のファルコは、まだ幼かった天帝と村を拳王軍から守るために己の脚を一本捨てており、片足義足の戦いに慣れるまでにはさすがにかなりの時間を要したようだ。
元斗最強戦士が万全でなくては天帝、すなわちジャコウは動けない。
私の読みどおり、天帝軍はケンシロウとラオウが乱世の雌雄を賭けて戦っていた時は静かに鳴りを潜めていた。
この間ジャコウの唯一の理解者でもあったファルコの母が亡くなり、ジャコウは保身のために天帝を幽閉し実権を握ることに成功。
事ここに至ってようやく利用されていたことに気づいたファルコであったが時既に遅く、元斗最強戦士は今や天帝の命を握っているジャコウの言いなりとなっている。
そのジャコウが、かつて村に進軍してきたラオウの影に怯え、ファルコに北斗軍の鎮圧を命じたのは当然かもしれない。
ラオウは一人の拳法家としてファルコの才を惜しみ、その将来の妨げになるであろうジャコウを抹殺するようにファルコに助言していたのだから。
今またそのラオウを倒したケンシロウが出現したとあっては、元来気の弱いジャコウが平静を保てるはずがない。
ケンシロウを得て勢いづいたリンとバッド率いる北斗軍は、これまでのゲリラ戦を捨て正面からの進軍を続けていた。
もはや私にも正面からの進軍を止める理由がなくなってしまったし、もうこうなっては私の言うことになど耳を傾ける2人ではなかった。
私は老体に鞭打ち、久しぶりにぼろを纏い変装をして、漆黒の闇の中で一際その煌煌と輝く威容を誇る中央帝都を目指した。
(ケンシロウとファルコの決戦の前に、いきり立った北斗軍がファルコとぶつかってしまっては一大事。特にファルコは北斗の名を冠する長を抹殺してきただけにリンが殺される可能性は高い。せっかくここまで育ててきたリンをむざむざと殺されるわけにはいかんからな。)
もっとも私の目的地は帝都そのものではなく、そこから少し離れた片田舎にあるとある家だった。
(懐かしいのう・・・・。ここはあの頃とほとんど変わっていないようだ。)
私は当時を懐かしみ感慨深くその家を眺めた。
今も中央帝都の喧騒とは無縁のその村は人口も少なく、夜ともなればひっそりと静まり返っており私の姿を見咎める者もいない。
仮にいたとしても、今の私を見てあの頃ここいらに足繁く通っていた青年のなれの果てだと気付く者はもう残ってはいまい。
風景こそ変わりはないが、時代は大きく移り変わっていた。
(若気の至りであったな。今となっては良い思い出だが・・・・)
そんな郷愁に耽っていた私を一瞬で目覚めさせるような圧倒的な、それでいてどこか哀しげな闘気を身にまとった男が近づいてきた。
男は私の指示通り一人でやってきたようだった。
私はその偉丈夫と間近で対面することとなった。
我が娘トウとは異父兄にあたるその男と。
第30話 ファルコの母
男にとって私が歓迎すべき対象でないことは、その表情から明らかであった。
名も知らぬ老人に突然元斗最強を自負する戦士が呼び出されたのだから当然だろう。
それでも一応年配者の私に対して、最低限の礼を失しないように心掛けるくらいの自制心を保っていたのがいかにもこの男らしい律義さだった。
これがもしラオウであれば、名乗る前に粉砕されていたかもしれず、私もこのようなやり方は選ばなかっただろう。
天帝の村を守るために己の脚を一本犠牲にした男。
元斗皇拳最強の証である金色を冠する誇り高き戦士ファルコ。
いま私はその男と相対していた。
かつてファルコとその母、そして養子のジャコウが暮らしていた家の中で。
「早速だが用件を聞こうか、御老人。俺も明日から忙しくなるのでな。」
「分かっております。いよいよ明日からは北斗軍との全面対決。そのため手遅れにならぬよう、今日どうしてもファルコ様に会っておかねばと思いやって参りました次第。」
それまで迷惑そうな態度を隠そうともしていなかったファルコの表情が一変した。
「手遅れ?どうやらただの昔話をしに来たわけではないようだな。サイヤからこの手紙を受け取っていなければわざわざここへ来ることもなかったが・・・・・。手紙には我が母のことで話しがあると書いてあったが。」
「はい、それも嘘ではございません。私は若い頃ファルコ様のお母上とは親しくさせていただいておりましたので・・・・・」
ファルコの表情がやや固くなった。
「母と・・・・?そう言えばまだその方の名を聞いていなかったな。」
「はい、これは失礼を。手紙で名を名乗れば決してファルコ様お一人ではおいでくださらぬと思いましたので、あえて伏せておきました。私リハクと申す者。南斗慈母星を守護する五車星の一星、海のリハクでございます。」
今度はファルコの表情は困惑へと変わった。
「海のリハク!!その名は知っているぞ。かつては南斗六聖拳の一人ユリアに仕え、今は北斗軍の参謀・・・・。いわば敵味方となる私の元へなぜ・・・・?」
「そうでございます。明日からは敵と味方に分かれて戦うことになりましょう。ですから今日の内にあなた様にお会いせねばならなかったのです。しかしまともに名乗ったのではあのジャコウ総督を刺激することになりましょう。ですから失礼とは思いながら、あえてこのような密会の形を取らせていただきました。」
「なるほど。ジャコウはケンシロウの出現に異常なほど怯えているからな。その北斗軍の参謀が来たとなればただでは済むまい。しかしジャコウの性格まで知っているとはさすがに天才軍師と謳われるだけのことはあるな。」
「これは恐れ多いお言葉。敵を知り己を知れば百戦危うからずとは古よりの真理。情報を得ることが私の仕事でもありますれば。ファルコ様が何ゆえジャコウ総督の命ずるまま動かねばならぬかも、よく存じております・・・・。」
ファルコの驚愕はさらに大きくなったようだった。
「まさか・・・・。ではお前は天帝のことを・・・・?」
「はい。天帝ルイ様はジャコウの手の内にあり、いまだその幽閉されている場所は掴めていないようですな。」
「ううむ。そこまで知っているとは・・・・。」
「ですがさすがにこのリハクもルイ様の居場所までは分かりませぬ。ただファルコ様がこのような民を苦しめる非道に加担するとしたら、その理由が天帝にあるのは明らか。何しろあなた様は、かつてあのラオウから村を守るために己の脚を差し出したほどのお方。」
「ラオウか・・・・・。思えばあの時ラオウの指示通り、ジャコウを殺しておけばこのようなことにはならなかったのだが・・・・・。今更悔いても遅いが・・・・。」
「ルイ様の居場所はいずれ突き止めてみせましょう。ケンシロウとファルコ様が戦われる時が恐らくはチャンスかと。それより今日はもう一人の天帝についてお話が・・・・」
「も、もう一人だと・・・・・?貴様いったい何を・・・・・」
その表情からはもはや元斗最強戦士の余裕は消え去り、狼狽の色は明らかであった。
「文字通り、天帝ルイ様の双子の片割れ、リン様のことでございます。」
「な、なぜ・・・・・。お前が何ゆえリンのことを知っているのだ・・・・。あのことはこのファルコの一族しか知らぬはず。ジャコウにさえ知られていない秘密をなぜお前が・・・・」
リンという名まで出されては、もはや知らぬ存ぜぬでは済まない事を悟ったのだろう。
ファルコは私の次の言葉を固唾を飲んで待った。
「はい、実は亡くなる前にあなた様のお母上からお聞きしました。幼い赤子の命を救うのは人としては当然の道なれど、天帝を守護する定めを持つ元斗最強の金色の家に生まれた者としては掟に背く行為。元斗の家に生まれた女として、あなた様の母として、いずれが正しい道かさぞ悩んだようでございますな。」
「母がそのような苦しみを抱えていたとは・・・・・。元はと言えば私一人で決断できなかった心の弱さが母を苦しめたのだ。その母がお前に悩みを打ち明けていたというのか・・・・・。分からぬ。母とお前は一体どのような関係なのだ。いかに悩み苦しんでいたとはいえ天帝にまつわる極秘事項を他家の者へ洩らすとは容易に考えにくい。先ほど母とは親しくしていたと言っていたが、ただの友人にそのような大事を漏らす母とは思えぬが・・・・・。」
「さようでございます。あなた様のお母上は、そのような大事を簡単に他人に話す方ではございませぬ。」
「ではお前と母は・・・・?」
ここで一呼吸間を取って私は話を続けた。
「はい。そもそも今日は全てを話すためにわざわざあなた様をここにお呼びしたのです。実は私はかつてあなた様のお母上と道ならぬ関係に陥りましてございます。あれはまだあなた様が幼少の頃・・・・・。」
こうして私は私とファルコの母のかつての情事を話すことになった。
第31話 トウの秘密
私には正妻がいたが子には恵まれなかった。
幼少の頃より自分の才に驕りがあった私は、親に与えられた分相応な、つまりは自分同様非特権階級であった結婚相手を蔑んでいたところもあり、決して仲睦まじいとは言えない夫婦関係であった。
私には誰にも負けない智謀があり、表世界であればこの才を生かして大いに出世できるはずと確信していた。
しかし絶対的な階級社会であるこの裏世界では、所詮非特権階級出身が特権階級の者より上に行くことはありえなかった。
どれだけの才があろうとも南斗の慈母星を守護する付き人でしかない自分の行く末に失望し、この裏世界に漫然と存在する身分差別に憤慨した。
そんな社会の理不尽さに対する私のやり場のない怒りが、その理不尽さを当たり前のこととして受け入れ、私との結婚にささやかな幸福を見出そうとする妻に向けられただけと言えばそうなのかもしれない。
そんな私の若さゆえの過信と傲慢を受け止めてくれたのがファルコの母であった。
ファルコの母は若い頃からその美貌と何事をも許容してくれそうな懐の深さを併せ持ち、男どもの憧れの的であった。
私はファルコの母に強くひかれ、彼女もまた腕と家柄を自慢するだけの輩が多い男連中の中にあって、異彩を放つ私の智謀を愛した。
しかし私は既に妻帯者であり、それ以上に2人の間には越えられない身分の壁があった。
ファルコの母は元斗最強の金色の家の一人娘であり、特権階級の中でも上位に属する高い身分。
五車星の一星に過ぎない非特権階級の私の家とでは格が違いすぎた。
ファルコの母には男兄弟がいなかったため形の上だけファルコの母が元斗を継ぎ、天帝の親類から然るべき男子を婿養子に迎えることとなった。
その夫との間に生まれた男子がファルコである。
私とファルコの母との許されぬ関係はファルコの母が結婚したことで一度は終わりとなった。
しかしこの婿養子はどうやら生まれつき性格が歪んでいたようで、さらに婿養子という立場がさらにその性質を増悪させたようで、度々ファルコの母に暴力を振るうようになった。
ファルコが生まれたあたりから特にその傾向が顕著となり、とうとう彼女は私のところへ相談に来たのだった。
これをきっかけにまた私とファルコの母の秘かな逢瀬が再開することとなった。
もちろん誰にも知られることのないよう用心をして私はあの村に通った。
そんなある日、ファルコの母が妊娠したことが発覚した。
既にファルコの母はあの婿養子と性的交渉を持たなくなって久しいということを私は聞いていた。
つまりお腹の子の父親は紛れもなく私ということになる。
私には子がなかったこともあり、また心から愛した女性との間に出来た子でもあったため喜んだ。
しかし現実的な問題として、事はそう簡単に喜べるものではないこともよく分かっていた。
ただでさえ暴力的な夫のこと。
妻に裏切られていたと知れればどのような行動に出るか分かったものではない。
ファルコの母はお腹の子を堕ろすことを提案したが、私はそれを受け入れることができなかった。
なんとしてもこの子が欲しい。
そしてこの最愛の女性との子を自らの手で育てたい。
状況からは明らかに無理難題に思えた私の願いであったが、私はこの問題を解決する唯一の方法を考え出し、そして実行した。
ファルコの母には私の計画については何も言わず、ただ堕ろすのはしばらく待つようにとだけ伝えた。
私はある夜、ファルコの母の夫でもある件の婿養子を病死に見せかけて毒殺した。
思えばこれが私が手を下した最初の犯罪であったと言えよう。
これはもちろん私の一存であり、ファルコの母に了解は取っていない。
恐らくは何が行われたか気づいていたのだろうが、ファルコの母は夫の死に異議を挟まず、死体は表面上の手続きだけで病死とされ検死は行われなかった。
それどころか彼女はそれ以後も死ぬまでこの事について一切私を問い詰めなかった。
こうして表向きは夫の死後にファルコの母が既に妊娠していたことが明らかになったという形となった。
ファルコの母は私以外には夫との不仲を話してはおらず、プライドだけは高い婿養子も夫婦のことを悪いようには他人に話していなかったようで、その死と死後の妊娠について疑惑の目を向ける者はいなかった。
未亡人となったファルコの母は出産するも死産となり、周りからは「夫に続いてその忘れ形見まで・・・・」と悲しい事ばかりが続く境遇に随分と同情されたようだった。
だが実際は出産は正常であり、元気な女の子が誕生していた。
そして私は予定通りその子を養女として引き取ったのだった。
その養女こそ私の娘トウである。
すなわちトウとファルコは父違いの兄妹ということになるのだった。
第32話 リンと北斗軍
自分の全く知らない妹がいたという話はファルコに強いショックを与えたようだった。
「俺に妹が・・・・・。あの母が不倫とは、信じられぬ・・・・。」
「当時ファルコ様はまだ幼子。記憶がないとしても不思議はありますまい。お母上も我が子には道を外れた関係のことを知られたくなかったのでしょうな。」
私は全てをファルコに話したわけではない。
さすがにファルコにとっては実の父に当たる男の死因については、毒殺ではなく不慮の事故死とだけに留めた。
それでもファルコにとって私の話が青天の霹靂となったことは違いなかった。
「そのような話、にわかには信じがたいがお前の口ぶりは嘘を言っているようにも聞こえぬ。事実であれば我が母にはもう一人の子が、俺の妹にあたる子がいることになるわけか。で、その子は今は?」
私はさらに話を続けた。
トウを養女として迎える以前から私は妻にその旨を伝えていた。
さる高貴なお方の子がやんごとなき事情により実の親に育てられるわけにはいかなくなったため、我々夫婦の実の子として育てたいと。
妻は日頃から私の決定に異を唱えるだけの知性も覇気もなく、この時もただ言いなりだった。
私との間に跡継ぎを産めなかったため、後ろめたさもあったのかもしれない。
その養子は表向き実子として育てられるということで、むしろ救われたという思いもあったのだろう。
このような準備を経てトウは我々夫婦の実子として育てられることとなった。
もちろんトウも自分が、自分を育てた父と母の実の子であることを信じて疑わなかった。
私はファルコが疑心を抱きながらも私の話を信じようとしていることをその表情から読み取り、話を先へ進めた。
トウがラオウと関係を持ち、その子を授かったこと。
トウはラオウへの愛が届かず自害して果てたこと。
ラオウはその後トウとの間にできた子の存在を知り、その名をリュウとしたこと。
ラオウはケンシロウにリュウを次の北斗神拳継承者にして欲しいと頼み、ケンシロウもそれを受諾したこと。
そのリュウは、今私の親類の元で秘かに育てられていること。
ラオウに子がいたという事実は、今は亡きトウとラオウ以外には、私とケンシロウとリュウを育てているわずかな者しか知らないこと。
ここまでは話をしたところで、私はファルコが内容を理解し、頭の中で整理できるようになるための間を取った。
ファルコはどうやらリュウに興味を持ったようだった。
「あのラオウに子がいたとは・・・・・。しかもその母は我が義妹。ではそのリュウという子には北斗と元斗の両方の血が流れているということか・・・・・。」
「さようにございます。このことはまだ私とファルコ様以外には誰も知らぬこと。ケンシロウ様でさえご存じありません。」
「ほう。そのような大事をなぜこのファルコに打ち明けたのだ?」
「はい。ここまで話したのは、こちらの手の内をさらけ出すことで、あなた様に信用してもらうため。2人の天帝の未来のため・・・・・。」
「天帝の未来?それが先ほどのリンの話と繋がるわけか。」
「さようでございます。あなた様のお母上は自ら腹を痛めて産んだ娘トウのことをいつも心にかけておりました。ですからトウを養女とした後も、私は度々この村に忍んで参っていたのでございます。」
「そうか。母とお前がそのような関係ならリンのことを打ち明けたとしても不思議ではないかも知れぬな。では聞かせてもらおうか。リンのことを。」
ここからが今宵この村を単身訪れた本当の目的だった。
「はい。天帝ルイ様の双子の片割れであるリン様は、御存命でございます。」
「なに!リンは生きているのか・・・・。あの時リンを預けていた俺の叔父夫婦が夜盗に襲撃され、その際にさらわれたと聞いて八方手を尽くしたがついに行方が分からなかった。もうとうに諦めていたが・・・。そうか、生きていてくれたか。」
「はい、まだ自分の出生の秘密を本人は知らず、目の前で惨殺されたあなた様の叔父夫婦を本当の両親だと信じ込んでいるようですが。元気にたくましく育っております。」
「そうであったか。で今はどこで暮らしている?」
私はここでまた一つ間を取った。
「ここからが一番肝要な点でございます。リンはさらわれた後、とある村で拾われ育てられました。その村で偶然ある男と出会い、その後はその者と一緒に旅を続けております。一時期離れておりましたが最近になって男はまたリンの元へ戻ってまいりました。今はリンも成長し、女リーダーとして共に戦っております。」
「ま、まさかその男というのは・・・・・・」
ようやくファルコにも私の意図が飲み込めたようだった。
「はい、そのまさかでございます。男の名はケンシロウ。そしてリンは今あなた様と戦っている北斗軍の若き女リーダー・・・・・」
第33話 決戦前夜
「なんという事か。天帝の片割れがよりによって北斗と結びつくとは・・・・・。しかもリーダーだと?」
ファルコはこの運命のいたずらに驚愕するだけでなく、興奮さえしているようだった。
無論リンが北斗と結びついたのは運命の糸のようなロマンを感じさせる偶然などではなく、私の野心としたたかな計算の結果に過ぎないのだが、そこまではファルコには伝えていない。
「はい。そもそも私がリンの出生を不審に思ったのもその態度、振る舞いのただならぬ高貴さ、力強さにございました。この子はきっと只者ではないと思い調べさせたのでございます。」
「・・・・・・」
「その結果リンが両親と思い込んでいた父親がファルコ様の叔父にあたることが分かりました。そこで以前あなた様のお母上に聞いていた天帝誕生の秘話を思い出した次第・・・・・。」
「ううむ。やはりこれが天帝の血の定めか。このような事態となることを恐れて元斗の先人たちは務めを果たしてきたということなのか・・・・・。今日のこの事態を招いたのは、己の務めを全うできなかったこのファルコの甘さが原因ということか・・・・。」
「いや、あなた様のなされたことをお母上はむしろ喜んでおられました。元斗の継承者である前に一人の人として、取るべき道を取った我が子を誇りに思うと・・・・・。」
「母がそのようなことを・・・・・。その母にも随分辛い思いをさせてしまったようだ・・・・。」
亡き母を思いしばし沈黙が流れた。
そしてファルコは迷いを振り切るかのように決然として話し始めた。
「ところでリハクよ。俺は元斗皇拳金色のファルコとして、自分がなしたことの始末をつけねばならぬ。天帝ルイ様をジャコウに握られている以上、リンとケンシロウをこの世から抹殺せねばなるまい。」
「そのことならこのリハクに考えがあります。」
「ほう。何か良い案でも?」
「はい。それにはあなた様とケンシロウ様が天帝とジャコウのいるこの城で戦うことが必要。ケンシロウ様が城まで来たとなれば、ジャコウもその軍も混乱をきたしましょう。私はその混乱に乗じてルイ様の居場所を突き止めます。」
「ではそれまでの時を稼ぐために、俺とケンシロウを戦わせるということか。」
「はい。ルイ様さえジャコウから救い出せば、ケンシロウ様や北斗軍と戦う理由もございますまい。」
「それは確かにそうだが・・・・。しかしリンはどうする?天帝の片割れがケンシロウと一緒では、いずれまた誰かに利用されて世の乱れを生むことになろう。」
「そのことなら御心配には及びますまい。ラオウ様とケンシロウ様の長い戦いにより南斗、北斗の名だたるものは死に絶えました。今また元斗もこの戦いで生き残るのはあなた様だけになりましょう。次世代の継承者はケンシロウ様がいずれお育てになるでしょうが、それはまだまだ先の話。その頃にはもう拳法の力だけで世を支配できる時代ではなくなっているでしょう。」
ファルコはどうやら私の言ったことを理解したようだった。
「そうか。なるほどお前の言う通りかも知れぬ。いかに天帝の血といえど担ぐだけの力のある者がいなければ心配はいらぬか。そこまで読むとはさすがにかつて天才軍師と謳われた男だな。」
「恐れ多きお言葉。そこでファルコ様に改めてお願いが・・・・。」
「うむ。聞こう。」
「ケンシロウ様が戻ってこられてから、リン達北斗の軍は少々勢いがつきすぎております。ルイ様を救い出すには天帝のいる城下において、ケンシロウ様とあなた様の対決が行われねばなりません。それまでに両者がぶつかってしまっては計画が難しくなります。」
「なるほど。だがそれまで俺が何もしなくてはジャコウに疑われよう。」
「はい、そこで妙案がございまして。まだ元斗が動くという情報は北斗の軍は知りません。調子に乗ったリン達はケンシロウ抜きで市都の軍と戦いを進めておりますれば、今すぐならケンシロウのいない北斗の軍と戦うことも可能かと・・・・・。」
「ほう。しかしケンシロウ抜きでは俺にかかればひとたまりもあるまい。俺は北斗の名を冠するリーダーを抹殺してきた。もしぶつかれば立場上そのリンを消さねばならなくなるが・・・・・」
「あなた様が手を下す前にこちらが手を打ちましょう。実はもう布石は打ってあります。ファルコ様が北斗軍を抹殺せずに帰還しやすいように。それでも猜疑心の強いジャコウは納得しないでしょうが、まあ大きな疑惑までにはなりますまい。」
私は明日にも起こるであろうファルコ対北斗軍の戦いを無事に終えるための秘策をファルコに授けた。
かなり微妙なタイミングを要求される策ではあったが、相手方のファルコさえ承知の上なら時間を調節することは可能であろう。
その策を聞いたファルコの私を見る目は、先ほどの出会いの時とはまったく異なる色を帯びていた。
「恐るべきは海のリハク。まさかここにくるまでにそこまでの準備をしてきたとは。俺のような戦うことしか能のない人間にはそのような策思いもつかぬわ。」
「いやいや恐れ入りましてございます。仮にも金色を冠するファルコ様にそのようなお褒めの言葉をいただくとはこの海のリハク、光栄の至り。」
「謙遜するなリハクよ。お前のおかげでルイ様を無事に救出できるめどが立ったのだ。もしうまくいけばこの命お前に差し出しても構わぬぞ。」
(ラオウもファルコもこの私に命を差し出すと言う。戦いに生きる男の感謝の表現とはみな似たようなものかもしれんな・・・・・)
奇しくもケンシロウとの最終決戦前にラオウから聞いたのと同じせりふを耳にして私は苦笑した。
「ありがたきお言葉。このリハク必ずやルイ様の居所突き止めて救い出してみせましょう。」
こうしてファルコとの密談を終えた私は急いで北斗軍のアジトへと戻った。
元斗対北斗の決戦はもうそこまで迫っていた。
第34話 南斗双鷹拳
ファルコとの密会の前に私は今回の作戦を成功させるためにどうしても必要となる駒を用意していた。
帝都の居城でケンシロウとファルコの頂上決戦を実現させるためには、まずそれ以前に二人が激突することがないように注意する必要があった。
この二人が戦えばいずれかが死ぬ。
おそらくはケンシロウが勝つだろうが、その場合ファルコを失ったジャコウが恐慌をきたしてしまえば天帝ルイの命がどうなるか分かったものではない。
仮にファルコが勝ったとしてもルイの居場所が分からなければ状況は何も変わらない。
天帝という切り札を持っている以上、ファルコは永遠にジャコウの言いなりとなるしかなかった。
それが分かっているからこそファルコも私の策に乗ってきたのだった。
帝都の居城に北斗軍が迫り、ケンシロウとファルコが決戦をする。
そこで生まれる場内の混乱を利用して天帝の幽閉場所を突き止める。
決して万全とは言い難い危険な賭けではあるが、現在のところ他に打開策がない以上ファルコとしてもこの案に乗るより他なかったのだろう。
しかしケンシロウと北斗軍が帝都に進行してくるまでファルコが手を出さないなどということを、あのジャコウが許すはずがない。
立場上ファルコはどうあっても北斗軍殲滅のために出陣しなければならなかった。
元斗皇拳最強の男が出陣し、ケンシロウとも戦うことなく、北斗軍のリーダーであるリンとバットを抹殺することもなく城へ戻るなどということがどうして可能となるだろう。
この一見不可能なミッションを成し遂げない限り、ケンシロウとファルコが帝都の城で決戦をするという私の案は単なる空想でしかない。
その不可能を可能にするための駒が私には必要だったのだ。
その二つの駒はかつてファルコと戦い敗れ、今は牢獄に入っていた。
牢獄といってもかつてのカサンドラのような難攻不落の巨大監獄ではなく、A級反逆者収容所という名称であったがA級とは名ばかりのごく小さなものだった。
ここにも一応番人なるものが帝都から派遣されていたが、そのモラルは帝都への忠誠心に比例して低かった。
私はわずかばかりの金塊と食料で牢番を買収し、牢の中にいるお目当ての二人と会うことができた。
そのお目当てとは我が将と同じ南斗の一派である南斗双鷹拳の使い手ハズとギルのハーン兄弟。
ただ同じ南斗とはいえわが将ユリア様の六聖拳とは比較にならない格下。
こういう時には南斗慈母星を守護する五車星というかつての肩書が役に立つ。
南斗を冠する拳法家にとって六星拳は特別な存在であり、あの乱世で六星全てが命を絶たれた今となっては直属の部下だった私のようなものでさえ、過去の栄光を伝える生き証人として尊重すべき対象だったようだ。
今や南斗にとって憎むべき対象は南斗と北斗を根絶やしにしようとする天帝と元斗。
かつては敵対した北斗と南斗であったが、いまや共に元斗から命を狙われる立場。
敵の敵は友というわけで、ハーン兄弟にとって北斗は共に闘う同志のような存在となっていた。
その北斗軍の軍師をしている私からの策ということであれば、彼らハーン兄弟がこれを受け入れるのにさほど疑問を抱かなかったとしても不思議はない。
実際北斗軍のリーダーを守り、ファルコに一泡吹かせるためという目的を話すと、二人はいとも簡単に私の話に乗ってきた。
何しろ二人にはいつの日か牢を出てファルコに復讐したいという強い執念があった。
そこをくすぐってやれば意のままに動かすのは容易なことだった。
とは言え元斗皇拳最強のファルコに対して、南斗双鷹拳ごときで勝てると信じるほど二人も愚かではない。
そこで私は二人にファルコを倒す切り札となる不発弾のありかを教えたのだった。
二人が狂喜したのは言うまでもない。
もちろん私がここへ来たことや、不発弾の話などについては一切他言無用であることを固く約束させた。
これが私がファルコとの密会の前に用意した駒だった。
ファルコとの密会を無事に成功させた私は、ハーン兄弟を解き放ちに二人が囚われているA級反逆者収容所へ向かおうとしていた。
しかしそこへ思わぬ朗報が部下からもたらされた。
最近北斗軍に加わったアインという若者が、因縁浅からぬハーン兄弟を野に放つためにケンシロウと共に牢獄に向かったという報告であった。
アインはかつてファルコに敗れたハーン兄弟をかっさらって賞金と引き換えに売ったという過去を持つ。
いわばハーン兄弟にとっては憎悪の対象のはずだったが、それをわざわざ解き放とうというのだからアインという男もなかなかの変わり者のようだ。
いずれにしてもこれで手間が一つ省けたというわけだ。
後はハーン兄弟とファルコがうまくやってくれるのを祈るしかない。
牢獄から二人を救出したケンシロウはアインの娘アスカをマミヤとアイリの住む村へ預けに行き、アインとハーン兄弟は北斗軍の救援に向かった。
その頃バットとリンの北斗軍は元斗最強のファルコ軍と衝突し瞬く間に制圧されていた。
全ては昨日の打ち合わせ通り、私は北斗軍の主力の進軍方向をファルコに教えていたためファルコは最短距離でここにぶつかることが出来たのだった。
そしてファルコはケンシロウが北斗軍に合流するのを遅らせるために、すでに手を打っていた。
元斗七色の戦士の一人紫光のソリアをケンシロウに当たらせたのだった。
いかにケンシロウといえども元斗七色の戦士が相手となればそう簡単には片付けられまい。
ファルコは私の意図をよく理解し、どうやらうまく時間を調節してくれたようだった。
ファルコはまず、リーダーを名乗るバッドを抹殺するかに見せかけて、バットの誰かを守るために己を犠牲にしようという表情から真のリーダーであるリンを見つけ出したかのような大芝居を打った。
そしてハーン兄弟が間に合ったのを気配で察知しておいて、おもむろにリンの処刑を行う振りをした。
ハーン兄弟もなかなかの演技を見せたようだ。
彼らは予定にはなかったアインというお供を気絶させた隙に作戦を実行した。
無論南斗双鷹拳はファルコに傷一つ負わせることも出来なかったが、これはあくまで拳法家としての最期の意地のようなもの。
兄のハズが切り札である不発弾を破裂させてファルコを死出の道連れにしようという算段であった。
少なくともハーン兄弟はそう信じていたに違いない。
結果はファルコの周囲を部下たちが盾となって守りファルコは無傷であったが、これは何も驚くには値しない。
さすがにファルコの部下の命を賭した行動までは読めなかったが、もともと不発弾一発で致命傷を負わせられるような相手でないのは百も承知。
そうでなくてはこのような策をファルコが受け入れるはずもない。
不発弾でファルコを道連れに出来ると信じていたお人よしはハーン兄弟くらいのものだろう。
もっともそう信じてくれたからこそこの策は成り立ったのだが。
そう、ファルコはハーン兄弟が不発弾を用いてファルコを道連れにしようと企んでいることを私から聞いて知っていたのだ。
これが今回の計画の肝となる部分だった。
不発弾という想定外の攻撃によって軍の大半を失い、ファルコ自身もそれなりの負傷を追う。
そのためやむなく帝都に一時帰還するというわけだ。
これによって、ファルコは出陣し北斗軍と戦うも、ケンシロウやリンを抹殺することなく城に帰還するという大義名分が立つこととなる。
実際にはファルコの部下たちの自己犠牲によってファルコ自身は無傷であったが、その代り部下は大半ではなくほぼ全滅となった。
少し予定とは違った形となったが、ファルコが帰還する理由としては、十分とはいえないまでもそう無理はないものとなっただろう。
一方紫光のソリアに足止めを食ったケンシロウは、初めて戦う元斗皇拳の技にやや苦戦するものの終わってみれば力の差を見せつけて完勝。
しかしその戦いに要した時間だけ北斗軍への合流は遅れ、着いた時には既にファルコは立ち去った後だった。
私とファルコの秘策は完璧に成功を収めたのだった。
後は予定通り中央帝都の城下でケンシロウとファルコの大将戦を行うのみ。
決戦の日はもう間近であった。
第35話 ジャコウという男
ファルコがいったん帝都へ去ったため、我々は態勢を立て直して改めて進軍することとなった。
今度はケンシロウを伴い正々堂々中央帝都へと向かった。
私はその進軍の途中で、ケンシロウたちにかつてのファルコとラオウのエピソードを話す機会を得た。
天帝の村を守るために己の脚をラオウに差し出したという逸話は、ケンシロウの心を揺さぶったようだった。
これもまたもうすぐ始まる2人の戦いのための布石。
ケンシロウの頭にファルコはただの悪党ではないという印象を植え付けておく必要があったからだ。
(あのファルコが簡単にやられるとは考えにくいが誤ってケンシロウがあっさりファルコを倒してしまうようなことがあっては作戦に支障をきたすからな。幽閉されている天帝ルイを見つけて救い出すまで、この二人には戦いを引き延ばしてもらわねば・・・・。)
私は一行を帝都の城から流れ出る運河へと導いた。
ここは帝都で働かされた奴隷たちが死んだ後に袋詰めにされて流される忌まわしき河であった。
すると、ここでまたも運命のいたずらともいうべき偶然が起こった。
あのショウキの死体が目の前を流れてきたのである。
ショウキと言えばファルコの旧友にしてリンの出生の秘密を知る数少ない男。
そして何の因果かケンシロウとユリアに安住の地を提供した義に厚い男でもある。
ショウキは以前からファルコをいいように操る総督ジャコウのやり方に腹を据えかねていたようだ。
しかし天帝のため、親友ファルコのためと我慢に我慢を重ねていたショウキだったが、その堪忍袋の緒を切った一因はどうやら私にもあったらしい。
後に帝都に放っていた私の間者からの報告で分かったことは以下の通りであった。
出陣し北斗軍と遭遇するも不発弾という不測の事態が生じたことで、ケンシロウもリーダーであるリンやバットも抹殺せずに中央帝都へ帰還したファルコ。
さすがにこの私との密約までは疑われていなかったようだが、だからといって北斗の影に怯える総督ジャコウが、何らの手柄もなしに帰還したファルコをあっさり許すはずもなかった。
ぬぐいきれない不安と恐怖を紛らわすために、ジャコウはその鬱憤をファルコに対して発散するしかなかったのだろう。
元斗皇拳最強の男を跪かせ、反撃されないのをいいことに一方的に攻撃を仕掛けるという醜い快感は、今のジャコウには何よりの安定剤だったのかもしれない。
不安の大きさはそのままファルコへの攻撃の強さへと比例する。
その見るに堪えないあまりの仕打ちに、ついにショウキの我慢も限界に達し、怒りの鉄拳がジャコウへと向けられようとした。
しかし既に私との密談により天帝救出のめどが立っているファルコにとってみれば、ここでショウキの暴挙を許しジャコウを無駄に刺激してしまっては、せっかくの計画も台無しとなりかねない。
そこでファルコは涙を呑んで親友ショウキを総督に反逆した謀反者として成敗したということのようだ。
もっともファルコはジャコウの指示にそのままは従わず、ショウキにとどめを刺すことはせず生かしてこの運河から流したようであったが、それに気づいたジャコウの息子シーノによってショウキは槍で突かれ命を絶たれた、というのが事の顛末であったらしい。
我々が袋から出した時、ショウキにはまだ微かに息があった。
ショウキはそこでケンシロウと運命の再会を果たすことになるのだが、すぐその横にいたリンや私の存在に気づいたかどうかまでは定かではない。
いずれにしてもショウキの死は私にとっては喜ぶべきことだった。
ショウキは昔からファルコの家によく出入りしており、ファルコの母と密かな関係を続けていた私の顔をどこかで見ていたとしても不思議はない。
そしてショウキの持つあの正義感という性質は何より厄介だった。
私とファルコの間で交わされた密約を知れば、どのような行動に出るか知れたものではないからだ。
ショウキが死んだことで、私とファルコの母を関連付けて記憶している可能性のある者は、先に私が話をしたファルコを除けば、これでただ一人となった。
そしてその男ももう間もなく死ぬ事になるだろう。
天帝ルイを救い出しさえすれば、ファルコがその男を生かしておく理由はもはやどこにも存在しないからだ。
中央帝都を手中に治め、我が世の春を謳歌している総督ジャコウ。
私はこのジャコウにどこか自分と似た匂いを感じてはいた。
この乱世に成りあがりを目論む智謀と野心を有しているという点では、ジャコウも私も同類と言ってよいだろう。
天帝を手中に収めることで権力を手に入れようという発想には大いに共感できる点がある。
事実この私も天帝の双子の片割れリンという存在を知り、いつか己の野望実現のための切り札になると睨んで手元に置いておいたのだ。
正義感ばかりのショウキや、拳法しか能がないファルコと比べても、私はむしろジャコウという男の方が共に語るに足る人物と見ていた。
ただジャコウと私には決定的な違いがあった。
それは己の野心を周囲に悟られないようにコントロールできるか否かである。
ジャコウはかつてラオウに一目でその野心と卑劣な性質を見抜かれてしまったというエピソードからも推測されるように、己の本心を包み隠すという軍師としては必須の術を心得ていなかったようだ。
軍師たるもの自らの考えや本心を周りに容易に悟られてしまっては事は成せない。
最高の策というものは、騙された者が最後まで騙されたことに気づかないほど巧みなものでなければならない。
ジャコウにも若い頃に野心をコントロールする術を教えてやれば、なかなかの軍師になれたかもしれない。
(世が世なら私の後継者として育ててもおもしろかったがな。惜しい男だが私の過去を知る可能性のある者を生かしておくわけにはいかぬ。本物の策士とはどういうものか冥土の土産に身を以て味わうがよい。)
私がジャコウに思いを馳せている傍らで、中央帝都での戦いは既にその火蓋が切られていた。
ケンシロウはショウキの命を絶った槍を投げ、その元の持ち主であるシーノの胸を串刺しにして返すという強烈な挨拶を行った。
いかにもケンシロウらしい派手な宣戦布告であり、ジャコウを混乱させるに十分な一撃であった。
こうなればジャコウはケンシロウと互角に戦えるであろう唯一の札、ファルコを出してくるに違いない。
そして私との密約があるファルコもこれに否は唱えまい。
北斗神拳継承者対元斗皇拳最強金色の男の戦いが今まさに始まろうとしていた。
第36話 ケンシロウ対ファルコ
無人の野を行くがごとく中央帝都へと歩みを進めるケンシロウ。
その進行を止めるべく立ちはだかった総督直轄軍が、何らのダメージを与えることもなく蹴散らされ壊滅したことでジャコウの恐慌は頂点に達し、予想通り最後の切り札であるファルコにケンシロウと北斗軍抹殺を命じた。
一方ケンシロウも、金と権力で従わされているだけの総督直轄軍とは違い、将のために命を犠牲にしようというファルコ軍の兵士たちの戦いを目の当たりにし、その命を惜しんだのだろう。
帝都の城を目前にしたところで進行を止め、ケンシロウはファルコを待ち、ファルコもまたそれに応えるような形で城から姿を現した。
ついに北斗と元斗、最強の二人の戦士の戦いが幕を開けた。
戦いはファルコの先制攻撃が功を奏したかに見えた。
いきなり元斗皇拳の奥義である衝の輪を繰り出すなどケンシロウを圧倒。
リンやバッドだけでなく、この戦いを見守っていた北斗、元斗の両軍兵士たちの目にも、凄まじいファルコの猛攻と映ったに違いない。
しかしこの最初のファルコの攻撃で、逆にケンシロウはその意図を理解したようだった。
すなわちファルコは決して本気で自分を倒そうとはしていないということを。
何らかの理由でファルコがこの戦いを長引かせようとしているということを。
素人目にはとてつもない破壊力と映ったファルコの攻撃も、北斗神拳継承者ケンシロウにとっては拍子抜けなものでしかなかった。
既に紫光のソリアと一戦を交え、元斗皇拳を体験していたケンシロウから見れば、この程度の技が元斗最強戦士の奥義でないことくらいはすぐに分かる。
そこでケンシロウはとっさに大芝居を打った。
ラオウのために義足となった足が原因でファルコが今一歩踏み込めずにいるという理由をつけ、自らも秘孔上血海を突き、己の片足を不自由にすることであえて互角の条件での戦いを望むというもったいぶった形を取ったのだった。
もちろん私には分かっていた。
ファーストコンタクトでケンシロウはファルコの意図を察し、その思いに乗ってみたのだ。
そしてケンシロウのこの大がかりな芝居によってファルコもまた、己の意図するところが相手に受け入れられたことを確認することができた。
(ケンシロウもなかなかやりおるわい。瞬時にこの戦いの本質を見抜くとは。ますます成長したようだな。)
ファルコとケンシロウ。
すぐ近くで見ている者にも分からない、達人同士の二人だからこそ可能な拳による会話。
二人の意思疎通が図れた以上、この戦いがファルコの思惑通り長期戦となるのは必死。
まさかこの二人が、ともに加減をしながら馴れ合いで戦いをしているなどと見抜けるほどの眼力のある者は、もうこの地には一人もいない。
無論ジャコウになど分かるはずもない。
もちろんこの私とて先日のファルコとの密談という情報がなければ、到底気づくことはできなかっただろう。
(さて後はどうやって城に忍び込むかだな・・・・・)
いかにリン達に不自然に思われずに天帝を探し出すかが最も難しいところだったが、その思案をしていると突然リンが叫んだ。
「あああー、聞こえる。な、泣いている、天帝が泣いている・・・・・」
(なんと、双子というものは一種のテレパシーのようなものを持つと聞いたことがあるが・・・・・。近くに来たことで共鳴したとみえる。)
予想外の出来事に驚いたが、私はこの機を逃さずアインとバットにリンを連れて城の中に入るよう指示をした。
どうやらリンがいればルイを探す手間も省けそうだった。
北斗軍に城の中にまで入られ追い詰められたジャコウは、リン、バット、アインの三人を天帝ルイと共に葬る策に出た。
ジャコウは城のいたるところに施してあった仕掛けを用い、三人をルイが幽閉されていた地下水を掘るための作業場へと落したのだった。
そして上から巨大な岩を落下させ、全員を亡き者にしようというわけだ。
この一度に天帝二人を失ってしまいかねない危機を救ったのはアインであった。
私の計画の中にアインという存在は全く入っていなかったが、結果的にこういう不確定要素が大きな意味を持つことは混乱の中ではよくあることだった。
この点でも私にはまだ運があったというべきだろう。
さて城の外ではケンシロウとファルコの戦いが続いていた。
いかに馴れ合いとは言え、元斗と北斗の最強戦士同士の戦いを間近で見れたのは私には幸運であった。
特にファルコの秘孔封じの凄まじさは想像を絶していた。
闘気で自らの体を秘孔ごと焼き尽くすことで死を逃れるという「北斗封じ」は、長年様々な戦いを見てきた私にとっても鳥肌が立つような迫力であった。
これ以上戦いが長引けばさらにどのような奥義が見れるのか楽しみでもあったが、私の策がばれてしまっては元も子もない。
そんな時、死闘に疲れ果て、瀕死のふりをする二人の前に愚かなジャコウ軍が現れた。
今の二人の状態であれば自分たちでも倒せると読んだのだろう。
(浅はかな。仮に本当に瀕死状態だとしてもジャコウの軍でとどめがさせると思うとはな・・・・・。
その詰めの甘さを地獄で呪うがよいわ。)
私はジャコウの甘すぎる読みに、同じ策士として喝を入れてやりたい気分であった。
ジャコウの攻撃は二人とっては単なる時間稼ぎのレクリエーションに過ぎなかっただろう。
本音を言えば私は二人の戦いをもっと見ていたかったが、作戦のためにはジャコウの浅はかな攻撃はちょうどよい間を作ってくれた。
アインの命を賭した一撃はついに地下水を掘り当て、その噴き出す勢いを利用し地下から二人の天帝を助け出すことに成功。
脱出したバットが天帝の無事をファルコとケンシロウに告げたのは、二人にとってジャコウによるレクリエーションにそろそろ飽きてきた、そんなよい頃合いだった。
そしてジャコウにとってはまさにその瞬間こそ「ゲームオーバー」だった。
第37話 ジャコウの遺志
天帝という長年の足かせが外れたことで、ファルコの中で蓄積され続けていた怒りの闘気を抑制するものはもはやなく、そのリミッターを解除された元斗皇拳最強の男の拳は光の刃となり、ジャコウを完全にこの世から滅し尽くすほどの凄まじさであった。
天帝を幽閉することで元斗最強戦士を手足のごとく操り、この世を一度は支配しかけたジャコウの野望のゲームはここに完全に終わりを遂げた。
(軍師としては致命的な読みの甘さが命取りになったな。しかし一介の男子としては、ここまでやれば思い残すことはあるまい。お前の野望は私が引き継ごう。)
果たしてジャコウがかつての私の情事を覚えていたか確かめる術はなかったが、これで後顧の憂いが一つなくなったことだけは確かであった。
しかしこの世から滅殺されたジャコウの肉体であったが、その魂はまだ死に切れなかったようだ。
ジャコウの息子の一人にしてケンシロウに串刺し刑に処されたシーノの弟ジャスクが、どうやらジャコウの遺志を継いだらしい。
北斗軍により壊滅した帝都の居城で、負傷した奴隷のふりをして逃亡のチャンスをうかがっていたジャスクは、格好の人質を手に入れることに成功した。
城内に取り残された奴隷たちを救出しようと一人戻ってきたリンが自ら近づいてきたのだった。
飛んで火にいる夏の虫とはまさにこのこと。
ジャスクはやすやすとリンを捕えることに成功した。
そしてジャスクの手には城に仕掛けられた時限爆弾の起爆装置があった。
これはもともとはファルコがケンシロウとの一戦を前に恋人のミュウに預けたもの。
もし自分がケンシロウに敗れてしまえば、ジャコウは天帝を亡き者にし一人逃げ出すに違いないと読んだファルコが、そうなる前に天帝もジャコウをも道連れに城ごと全てを破壊してしまおうと考えての最終手段であった。
しかしその最終手段はジャコウ総督の密偵によって既に知られるところとなっており、ファルコとケンシロウの戦いの前にはすでに起爆装置は総督の手に落ちていた。
それをこの混乱のさなかジャスクは隠し持っていたということのようだ。
リンを奪ったジャスクは迷わず起爆装置のスイッチを入れ、帝都崩壊の混乱を利用して人質リンを伴い城を脱出することに成功。
そしてジャスクは海を渡った。
海の向こうにある地。
そこは修羅の国と呼ばれ恐れられる国。
そしてケンシロウやラオウの生まれた国。
私はケンシロウがファルコを倒し、この国を支配しようという大きな勢力が全てなくなってから後で、修羅の国が出世の地であることをそれとなく教えるつもりであったが、どうやらその手間は省けたらしい。
私はこの時に備えて修羅の国にも偵察隊を放っていたが、何しろ彼の国は異国の者を一切受け入れない鎖国状態となっており、最近の正確な情報についてはあまり把握できていなかった。
私が得た数少ない情報では、ジャギの実の父でもあった北斗琉拳の継承者ジュウケイが、拳を捨てるという誓いを破り三人の男子に北斗琉拳を伝えたこと。
その三人の内一人はラオウの実の兄カイオウ、もう一人はケンシロウの実の兄ヒョウだということまでは分かっていた。
しかし三人のうちの残る一人については全く素性が掴めていなかった。
そしてどうやらこの三人が成長し、三羅将として修羅の国を支配しているようであった。
ジャスクが海を渡り修羅の国へ向かったことが分かると、その夜ファルコが私の元へ赴いてきた。
「リハクよ、これが今生の別れとなろう。」
「では、あなた様も海を渡りなさるおつもりで。」
「うむ。ケンシロウより一足早くな。お前には本当に世話になった。こうして天帝ルイ様を無事に救い出せたのもお前の秘策のおかげ。しかしその代わりにリンが修羅の国へ・・・・・。なんと詫びてよいか分からぬ。」
「詫びるなどとんでもない。ジャスクのとっさの行動まではこのリハクにも読めませんでした。誰のせいでもありますまい。それにいずれ修羅の国へ向かうはケンシロウ様の宿命。それが少し早まっただけのことでしょう。」
「宿命・・・・?」
私の言葉にファルコは怪訝そうに聞き返してきた。
「はい、ケンシロウ様もラオウ様も元はと言えばあの修羅の国で生まれた者たち。いつかあの国の混乱を治めなければならぬ定め。」
「なに、ケンシロウが修羅の国で生まれたというのか?では、ケンシロウはそのことを・・・・?」
「いえ、何しろケンシロウ様が赤子の時にラオウ様に抱かれて修羅の国からこの国へ渡って来ていますのでな。いまだ本人は知らぬこと。」
「そう言えば生前母より、天帝の次に位置する身分とされる北斗宗家は、今は海の向こうにいると聞いた事があるが、それが修羅の国なのか?」
「はい、御存知でしたか。さすがは元斗皇拳金色のお家柄。そうです。その北斗宗家の正当な跡継ぎこそケンシロウ様でございます。」
「そうか、それでこのファルコにもようやく理解が出来たぞ。何故リュウケンの四人の養子の中で末弟のケンシロウが選ばれたのか。今一つ得心のゆく答えが見当たらなかったが、そんな裏があったのか・・・・。」
私はかつてジャギから聞いた話をファルコに教えることにした。
まだ少年だったジャギが、リュウケンとジュウケイの戦いを盗み見た際に知ってしまった自身の出生の秘密、そして宗家の高僧たちの計画を。
「むう、北斗神拳継承者を決めるのにそのような歴史があったとは・・・・・。ではケンシロウは宗家の高僧の思惑によって継承者に選ばれたことを知らないというわけか。」
「はい、ケンシロウ様はあくまで自分が競争により勝ち残ったと思い込んでおります。おそらく修羅の国において初めて自分の出生の秘密を知ることとなりましょう。」
「しかし知れば知るほどラオウも哀れな定めよ。初めから勝ち目がないと分かっていながら北斗神拳の修得に全てを賭けたのだからな。ラオウが我が子に自らが果たせなかった北斗神拳継承者という夢を託すのも当然かもしれぬな。」
そう言いながらファルコの表情がわずかに変わったのを私は見逃さなかった。
どうやらラオウの子の話がファルコに何かを思い出させたようだった。
第38話 ミュウという女
「ところでリハクよ、お前に聞きたいことがある。」
ファルコは少し考えてから尋ねてきた。
「はい、なんでございましょう。」
「北斗神拳奥義に水影心というものがあると聞く。その昔、世が乱れ、諸流派の継承者がほぼ死に絶えた時に、ただ一人残された北斗神拳継承者がその奥義を用い、失われた流派の新たな継承者に技を伝授することで断絶の危機を救ったとか・・・・・」
「さすがは天帝に仕える元斗最強戦士のファルコ様。よくぞ御存知で。」
「ではその伝説は事実なのだな。」
「はい、北斗神拳が最強の一子相伝の拳法であるばかりでなく、他流派途絶えた時、その技を次の者に継承するという唯一無二の役割を担っていることも、その継承者が特別な待遇を受ける所以の一つ。」
「そうか。ならば元斗皇拳の技もいずれケンシロウが然るべき者に授けてくれような。」
「それは間違いないでしょう。『北斗を見ずに死ぬべからず』、我ら南斗にもそのような古くからの言い伝えがございます。思えば皆ケンシロウと出会い、自身の技をその前で披露したことで、安心して死んでいった者たちばかりでしたな・・・・」
「『北斗を見ずに死ぬべからず』か。そのような言い伝えがあったとはな・・・・・。それを聞いて安堵した。ならば安心してこの命捨ててこよう。」
「なにをおっしゃいますか。いかに修羅の国が強大とは言え、元斗最強戦士のファルコ様が負けるようなことはありますまい・・・・・。」
そういう私をファルコは少し寂しそうな表情で見た。
「実はな、リハク。俺の命はもう長くはないのだ。」
「まさか・・・・・・。ケンシロウ様との戦いで・・・・?」
「いや。そうではない。あの戦いはお前も見たとおり。俺とケンシロウは戦いを長引かせるために時間稼ぎをしたに過ぎない。さすがに秘孔封じの奥義は少しばかりこたえたがな。なにせこの俺も実際に使ったのはあれが初めて。いささか強くやりすぎたようだ。」
そう言ってファルコは己の胸をさすった。
そこにはケンシロウに突かれた秘孔を封じるために己の肉体を滅殺した痕がくっきりと残っていた。
「私も初めて見ましたが、あれは凄まじい技でしたな。今でも思い出すと鳥肌が立つようです。しかしあの戦いが原因でないとすると一体・・・・・?」
「不治の病よ。そう驚くことはない。実は脚を切り落とした後に医師に処置をしてもらったのだが、その時に偶然分かったのだ。そもそも俺がこの度動いたのもジャコウに操られていたからというだけではない。なんとしてもこの体が動ける内に俺の撒いた種を刈っておかねばならぬと思ってな。」
「なんという・・・・。そのことはどなたか御存知で・・・・?」
「許婚でもあるミュウはもちろん知っている。あるいはショウキも気づいていたかもしれぬが、今はもうこの世にいない・・・・・。他に知る者はいないだろう。」
「そうでしたか、ミュウ様が・・・・・」
「ミュウは本当によくしてくれた。母が亡くなる時も付きっ切りでな。母も小さい頃からミュウのことを我が子のように愛してくれていた。」
「お母上とも・・・・・。そうでございましたか。」
平静を装ってはいたが、私は思ってもみなかった話に内心動揺していた。
(ではあの時の少女が・・・・。変われば変わるものよ。まさかあのような美しい女に成長したとは・・・・。今の今まで全く気づかなかったわい。)
私がファルコの母と密かな逢瀬を繰り返していた頃、ファルコの家の近くでよく見かけた少女がいた。
当時は特に目立つところのない、どこにでもいそうな地味な女の子でありたいして気にも留めていなかった。
一度だけファルコの母が、「あの子はきっと美人になるわ。頭も良いし性格も優しいだけでなくしっかりしている。息子の嫁にはああいう子が欲しいものだわ。」と言っていたのを今思い出した。
私はまさかあんな地味な女の子が、と思い一笑に付したが、その少女は言われてみればミュウという名だったかもしれない。
(さすがに女性を見る目は女性の方が確かということか。しかし私を見ても全く反応を示さなかったが、ひょっとしてミュウは昔の私を知っているのでは・・・・?)
そんな疑惑がふつふつと湧いてきたが、さすがにファルコに確認するわけにもいかず、私は黙ってファルコの話の続きを聞いた。
「ケンシロウ現ると聞き、いよいよこの命も尽きる時が来たと俺は観念した。一人の拳法家としては北斗神拳継承者と戦って死ねるなら本望。しかし出来れば俺の血を引く子に元斗を継いで欲しかった・・・・・。実は今朝ミュウにつわりのような兆候があってな。これが本当に妊娠であれば良いのだが。修羅の国へ渡るにあたりその点だけが心残りだ。」
「おお、それは実に吉報ですな。もしミュウ様にあなた様とのお子が出来ましたなら、必ずやその子に元斗皇拳を伝えてもらうよう私からもケンシロウ様に頼んでおきましょう。」
「頼むぞ、リハク。」
ファルコは海を渡った。
ケンシロウもすぐ後を追うだろう。
表面上私の計画には何の問題もなかった。
だがファルコとの最後の会話以降、私の脳裏には一人の女性の姿が焼きついて離れなかった。
ミュウが私とファルコの母の情事を知っていたとしても、いまさら私の計画の妨げになるとは考えられない。
理屈の上ではそうだったが、それでも私はなんとなく気になっていた。
地味で平凡な少女が美しい女性に化けた。
ただそれだけではない何かを、あのミュウという女性に感じずにはいられなかった。
第39話 リンとユリア
ファルコが海を渡ったことを知り、ケンシロウもその後を追った。
その前日私はケンシロウと二人だけで会っていた。
「リハクよ、修羅の国から帰ったらリュウを迎えに行こうと思う。次の北斗神拳継承者としてな。それまでリュウを頼むぞ。」
「はい、ケンシロウ様。ではリュウにはそのことを・・・・」
「うむ。もう言ってもいいだろう。偉大なる父ラオウのこともな。」
「そのお言葉、ラオウ様が聞いたらどれほど喜ばれたことか。リュウ様のこと、このリハクにお任せください。」
「リハク、お前にも随分世話になったな。俺がいない間リンとバットをよく守ってくれた。お前がいなければあの二人は正義感のあまりまっすぐに突っ走ってとっくに命を落としていただろう。」
「もったいないお言葉。しかしリン様にはあまりにも過酷な定め・・・・・。生き別れた姉とようやく再会できたというのに・・・・。」
「心配するな。リンは必ず俺が守る。しかしリンが天帝の双子の片割れだったとは驚いたな。全てがおさまれば、いつかリンにも然るべき地位を与えねばな。」
そう言いながら私を見るケンシロウの表情はどこか思惑ありげだった。
「はい、そのことでしたらこのリハクにいささか考えがあります。というよりユリア様が既にその答えをお出しになられているようでございますな。」
「さすがだなリハク。やはり気づいていたか。」
ユリアは亡くなる前に自分の遺品としてネックレスをリンに託していた。
そのネックレスこそユリア様の遺志。
つまりは子をなすことができない自分に代わって、リンに南斗慈母星を継いで欲しいという願いが込められていたのだった。
「ではケンシロウ様も・・・・・。やはりユリア様から・・・・?」
「うむ。ユリアは一目見てリンを気に入ったらしい。まるで我が妹のようだと。ユリアは病のため自分が子を産むことはできないことも分かっていたからな。リンを慈母星の後継者にと願っていたようだ。そして自分が死んだ後で俺とリンが一緒になることを・・・・。」
「そうでしたか。まるで妹のようだと仰っていましたか・・・・・。やはり血は争えませぬな。」
「それはどういう意味だ?」
「はい、ユリア様無き今となってはもうケンシロウ様には申し上げてもよいでしょう。実はユリア様の実の父は先代天帝にございます。」
「何!ユリアが天帝の子だと・・・・。ではリンとは・・・・。」
「さようでございます。ユリア様とリン様は腹違いの姉妹。ユリア様がリン様を妹のようだと仰ったのはまさに血のなせる業かと・・・・・・。」
「ユリアとリンが姉妹・・・・。ではリュウガも?」
「はい。先代天帝とユリア様の母、つまりは前の慈母星だった方は長くそうした関係を続けておりました。しかしこの裏世界の頂点に位置する天帝が不倫の子を正式に認めるわけにはいきません。そのためリュウガもユリア様も慈母星の正式な子として籍に入れられております。女系家系ゆえユリア様が慈母星を継ぎ、男子のリュウガ様は実の父の存在を秘して天帝に近い天狼の家に養子に出されたのでございます。」
「ではジューザは?あの者もユリアとは腹違いの兄と聞いているが・・・・。」
「ジューザはユリア様の戸籍上の父、すなわち母の配偶者が外で作った愛人に産ませた子。その愛人というのが五車星雲の家に嫁いでいた女子でしてな。その夫婦に子がなかったのを幸いと、ジューザを正式な子として育てたというわけです。つまりユリア様とジューザには実のところ血の繋がりはございません。しかしユリア様の実の父が天帝などという話はジューザも知らなかったのでしょうな。」
「なんという複雑な・・・・・。しかしユリアの母というのは一体・・・・」
「それもこれも慈母星の宿命。女系一族の長としての血がそうさせるのでしょうか。」
「慈母星の血か・・・・。この世界にはまだまだ俺には理解できぬことが多いようだな。」
(まだまだお坊ちゃま根性が抜けないとみえる。修羅の国へ行けば、さらに不思議な血の定めを嫌でも知ることになるだろう・・・。)
「それはともかくリン様ならきっと素晴らしい南斗の将になられましょう。ただ天帝の血を欲しがるものは他にもおりましょう。ジャスクが素性を明かせば修羅の国の男たちも黙ってはおりますまい。」
「だが天帝の血を引くと知れば、さすがにそこらの雑兵には与えまい。噂が広まればきっと彼の国を支配する者が正式に娶ろうとするはず。ならば時を稼ぐことも出来よう。」
「なるほど。ですがくれぐれもお気をつけなされ。修羅の国にはこの国にはない拳法もあると聞きますしな。」
「うむ。俺は死ぬわけにはいかんからな。俺が死ねば北斗神拳だけでなくこれまでに散っていった数多の流派が絶えてしまうことになる。この拳の継承者としてそれだけは避けねばならぬ。」
「はい。ご武運お祈り申し上げます。」
ケンシロウが海を渡ったすぐ後で、私は意外な人物の訪問を受けることとなった。
訪問と言っても正式に門を叩いて来たわけではない。
私が気付いた時には、その者は音もなく私のすぐ近くまで忍び寄ってきていた。
その瞬間私は死を覚悟した。
この不審者の腕は、私では到底歯が立たないレベルであることが瞬時に分かったからだ。
「この私にいかなる御用かな。」
「さすがはリハク殿、このような状況でも顔色一つ変えぬとは。」
「ここまで気配を消して近寄れるほどの力量であれば、私を殺すのは雑作もないこと。ならばいまさら慌てても仕方あるまい。」
「ふふふ。大したお方じゃ。理屈の上ではそうだがそれでも人というのはうろたえるもの。いきなりこんな怪しげな男に近寄られて騒がずに対処できる人間はそうはおりますまい。さすがは天才軍師と謳われるリハク殿。感服いたしました。」
「わざわざ私の肝を試しにここまで来た訳ではあるまい。まだ名前も聞いていないが・・・・・。」
「これは失礼をいたしました。わたくし黒夜叉と申す者。と言っても御存知ありますまい。北斗琉拳の継承者ジュウケイ様に仕える者と言えばお分かりでしょうか」
これが私とこの黒夜叉という男の出会いであった。
第3章 修羅の国編 第40話 第三の羅将ハン
黒夜叉と名乗るその男は見れば見るほど異様な風体であった。
髪は頭頂部まで大きく刈り込まれており、顔には斜め十字に二条の痣が刻まれ小柄に見える体は全身がすっぽりマントで覆われている。
そして一目で様々な修羅場を潜り抜けてきたであろうことを連想させる不敵な面構え。
(これが修羅の国の男か・・・・・。想像していた以上の恐るべき国かも知れぬな・・・・・。)
私は内心の動揺を悟られないように、努めて冷静に話を進めた。
「北斗琉拳のジュウケイ殿・・・・・。ではお主は海を渡ってきたというのだな。」
「さようでございます。他国者にとっては入ることさえ至難の業の修羅の国も、わたくしにとっては住み慣れた我が家も同然。行き来も自在でございます。」
「蛇の道は蛇というわけか。してジュウケイ殿に仕えるその方が、この私になんの用だ?」
「はい。そもそも私の本来の勤めは北斗宗家嫡男であるケンシロウ様の従者。ケンシロウ様が我が国へ来られるのをずっとお待ち申しておりました。つきましてはリハク殿に御挨拶をと。」
「北斗宗家の・・・・・。しかし分からぬな。何ゆえこれほど早くケンシロウ様が海を渡ったことを知っているのだ?」
「実はこの地へ来たのはこれが初めてではございません。これまでもケンシロウ様の成長を見守るため、度々この地へ赴いておりました。」
黒夜叉は意味ありげな笑みを私に送ってきた。
(この男、一体どこまで知っているというのだ。)
「ではこれまでのいきさつもおよそ知っているという事か?」
探るように私は尋ねた。
「はい。わたくしめの見たところ、ここまでケンシロウ様が成長されたのは、ひとえにリハク殿のおかげかと。あのように幾重にも張り巡らされた周到な策は、到底わたくしごとき者には考えもつきませぬ。全くお見事という他ないはかりごとと、いつも感心致しておりました。」
「はかりごと・・・・・というと?」
「例えば我が主ジュウケイ様の忘れ形見ジャギ様のこと・・・・・。」
「そうか。お主がこの地に遣わされたもう一つの目的はジャギか?」
「はい、さようで。ジュウケイ様の心の中にはいつもジャギ様のことがありました。そのジャギ様の本心を理解していただいたリハク殿の広いお心には、ジュウケイ様もいたく感謝しておりました。」
「ジャギか。本当に心の優しい男であったな。あれだけの悪名を負わせられることを知りながら、最期までケンシロウのためを思い死んで逝った・・・・・。」
「はい、実に見事な最期でありましたな。ジャギ様のおかげでケンシロウ様の成長も一段と早められました。わたくしめもリハク殿には深く感謝いたしております。」
「そう誉められると何やら照れくさいのう。それで黒夜叉とやら。お前もこれから修羅の国へ帰り、本来の勤めであるケンシロウ様の従者としての役目を果たすのか?」
「はい、さようで。恐らくはこの地を訪れることももうないでしょう。我が国の三人の羅将はみな北斗琉拳の使い手。第三の羅将ハンには勝てましょうが、残る二人を倒すのはケンシロウ様でも容易なことではございませぬ。その時こそこの命を役立てましょう。特に北斗宗家の血を分けた第二の羅将ヒョウが魔界に入った時、その血を絶つのが我が定め。」
「ラオウの兄カイオウ、ケンシロウの兄ヒョウ。この二人がジュウケイ殿に選ばれたのは分かるが、もう一人の羅将ハンという者のことがよく分からぬ。ジュウケイ殿はなぜそのハンという者を北斗流拳の継承者の一人に選んだのだ?」
黒夜叉は私の質問を待っていたかのように、ただでさえ不気味な面相をにやりと歪ませた。
「さすがにこの世界の知恵者として知られるリハク殿もハンの正体までは知りませぬか。」
「正体?ではやはりそのハンには何か選ばれた秘密があるのだな。」
「はい、このことを知る者は恐らくわたくしとジュウケイ様のみ。ハン本人ですら知らぬこと。ただケンシロウ様は戦えばあるいはお気づきになるやもしれませぬな、その共通点に。」
「共通点だと?」
「はい、第三の羅将ハンの拳は疾風。特徴はその速さにございます。初めて対戦した者がハンの拳を見切るのは至難の業。しかしケンシロウ様にはその速さは初めての経験ではございません。ですから先ほどハンにはおそらく勝てるだろうと申し上げた次第。」
「うーむ。我ら五車星の中にも風のヒューイという疾風のごとき速き拳を操る者がいたが、あの者はケンシロウ様とは戦ってはいないはず。では他にケンシロウ様が戦った相手の中に速さを特徴とした拳を使う者がいたということか・・・・・。まさか・・・・・」
「どうやらお分かりになったようですな、リハク殿。ジュウケイ様が何ゆえハンを継承者の一人に選んだかも・・・・・」
そう言うと黒夜叉は不気味に微笑んだ。
その笑みを見て私が思い浮かべた男が正解であることを確信した。
「では、そのハンという男は・・・・・」
「お察しの通りでございます。第三の羅将ハンとは南斗鳳凰拳継承者サウザーの双子の弟。先代北斗神拳継承者リュウケン様とその妹御の間の呪われた遺児の片割れにございます。」
第41話 修羅の国伝説
黒夜叉はケンシロウの後を追って海を渡っていった。
あの男が従者としてついているのであればケンシロウも大丈夫だろう。
初対面の私にそう思わせるだけの雰囲気をあの黒夜叉という男は身に纏っていた。
(世の中は広いな。あれだけの腕を持った男が従者とは。しかしサウザーが双子だったとはな・・・・・)
黒夜叉の話は私を驚かせるに十分であった。
南斗最強の男サウザーが、リュウケンとその妹との間の近親相姦の末に生まれた子であることは私も知っていた。
後にリュウケンの妹と結婚することになった、かつてリュウケンと継承者の座を争ったライバル、コウリュウからじかに聞いていたからだ。
しかしそのコウリュウでさえ、リュウケンと妹との間の子が双子であったという話はしていなかった。
果たしてコウリュウがこのことを知っていたのか、あるいはコウリュウも妻から聞かされていなかったのか、今となっては知る術もない。
いずれにしてもこの双子の片割れは北斗流拳のジュウケイに預けられることとなった。
それはジュウケイが先代慈母星、つまりはユリアの母との間の両不倫の子であるジャギをリュウケンに預けたのと、いわば交換条件のような形であったらしい。
黒夜叉の話では、そもそもはジュウケイが我が子ジャギの将来をリュウケンに託そうとしたのが始まりであったようだ。
この時点ではリュウケンの中には、ジャギを北斗神拳継承者候補として養子にするという明確な計画はなかった。
当時のリュウケンはまだ継承者候補の一人でしかなく、そのような約束を出来る立場ではないということもあったが、それ以前に両親の素性を明らかにできぬ者を北斗神拳継承者にするなどということは、この厳しい階級制社会においては考えられないことであった。
当初リュウケンはジャギを親類の家に預けておいて、頃合いを見計らって然るべき家に正式に養子に出すという程度の腹積もりであったようだ。
しかしリュウケン自身が実の妹との間に二人の子を成したことで状況は大きく変化した。
双子の内一人は南斗鳳凰拳の継承者オウガイに預けることが出来たが、ついでにもう一人もというわけにはいかない。
仕方なく、しばらくはリュウケンの妹がこの双子の片割れを周囲から隔絶された山小屋で育てていたが、それとていつまでも続けるのは無理があった。
そこでかつてジャギを預かることで恩を売った形のジュウケイに頼んだというわけだ。
黒夜叉から聞いた話を私がかつてコウリュウから聞かされた話と照らし合わせると、どうやらリュウケンの妹がコウリュウに継承者の座を兄リュウケンに譲るように泣いて頼んだのがこの時期らしい。
継承者争いによる心身の疲労から情緒不安定になりがちだった兄リュウケンを思い、兄には内密でそのライバルであったコウリュウに事情を打ち明けた妹。
その妹の切なる願いに打たれ継承者の座をリュウケンに譲ったコウリュウ。
こうして晴れて北斗神拳継承者となったリュウケンは、その立場を利用してジュウケイと取引をする案を思い付いたのだった。
元々同じ北斗を冠する流派を継承する者同士、そして互いに公に出来ない子を持つ親という似たような境遇からか、二人は容易に意気投合した。
こうして二人の間で余人の知らぬ密約が交わされることとなった。
それはすなわち互いの隠し子にそれぞれの技、リュウケンの子には北斗琉拳、ジュウケイの子には北斗神拳、を伝授すること。
しかし継承者を一人だけにしてしまってはあまりにも唐突で目立ちすぎる。
一体どういった素性の子かとあらぬ疑いをかけられては、どこから出生の秘密が漏れないとも限らない。
そこで二人は一計を案じ、同時に複数の者に技を継承するという策を弄した。
木を隠すなら森への例え通り、一人の継承者を目立たなくするためには他の継承者の中へというわけだ。
互いに数人の者に技を継承し、その中に預かった隠し子を混ぜるというのが当初の計画で、他の候補者については具体的には決まっていなかったのだという。
ただカイオウ、ラオウの兄弟をその第一番目の候補者にするということだけは、その時点ですでにほぼ決定していたようだ。
そこには体躯、性質の似通った兄弟を互いに育成し、その二人を将来競わせることで、どちらの教え方が優れているかを間接的に勝負しようという二人だけの秘かな楽しみもあったのだとか。
その後状況は大きく変化し、結局この座興にも似た老後の楽しみが実現することはなかったが、二人の隠し子にはそれぞれ実の父のものとは異なる北斗の拳が伝授された。
そしてジュウケイに預けられたリュウケンの子、つまりはサウザーの双子の弟こそが、今の第三の羅将ハンの正体であるという。
ハンの拳は疾風のごとき速さを特徴としているのだとか。
それは恐るべき踏み込みの速さを誇ったあのサウザーの拳と性質が似ていると黒夜叉は語っていた。
それゆえケンシロウはハンの拳を見切れるだろうと。
黒夜叉の話ではハンの体にはサウザーのような特殊な性質はなかったようであり、同じ双子でもリンとルイのような一卵性ではなく二卵性だったのであろう。
そうするとやはりサウザーの内臓逆位という先天性の異常は単なる偶然の産物であり、近親相姦とは直接因果関係はなかったのかもしれない。
まあ今となってはどちらにしても大差ない話ではあるが。
どういうわけか黒夜叉は私のことを気に入ったらしい。
私というより私が企てている野望に興味を持ったというべきか。
あれだけの腕を持ちながら北斗宗家の従者という定めに殉じなければならない己の境遇を思い、同じように南斗慈母星を守護する定めにありながら、この乱世に大いなる野望を成し遂げようとしている私に共感するところがあったのかもしれない。
黒夜叉は修羅の国で起こったことを随時私に知らせることを約束しこの地を後にした。
これで私は修羅の国へ行かずとも、ここに居ながらにしてケンシロウの戦いぶりを知ることが出来るようになった。
いずれ時が来ればバットを彼の地に派遣しなければなるまい。
バットはすぐにもケンシロウを追ってリンの救出に向かおうという勢いであったが、さすがにあのファルコが名も無き修羅と相討ちに終わったという報告を聞いて自重したようだった。
ファルコが不治の病で既に死を覚悟していたことをバットは知らない。
ミュウもそのことは誰にも話していないようだった。
ならば私がわざわざ言う事ではあるまい。
それとバットには話していないもう一つの事実があった。
それはファルコが最期に戦った「名も許されぬ修羅」は、実は三羅将に次ぐほどの拳の使い手で、その若さと拳の才から彼の地では神童と呼ばれ、その将来を大いに嘱望されていたのだという事実である。
黒夜叉の話によれば、修羅の国では他国者の侵入を防ぐためと、この国の強大さを周囲に宣伝するためという二つの目的により、海から最初に修羅の国に上陸できる要所には、三羅将以外で最強の修羅を配置しておくのだそうだ。
そしてこの修羅たちには、あえて最下層の「名も許されぬ修羅」と名乗らせることで、修羅の国の底知れぬ強大さを外敵に印象付け恐怖させるのだとか。
これも鎖国体制を維持するための工夫というものなのだろう。
からくりさえ分かってしまえば児戯にも等しいが、ファルコの最期を聞いたバットの反応を見れば、この子供だましとも思える手は意外と有効なようだ。
同様に男子の生存率1%だの、成人するまでに百回の戦いを繰り返し、生き延びた者にしか生を許さぬだのという数々の伝説も、他国を威圧するために修羅の国が広めた宣伝文句だそうで、実際のところそのような事実はないのだとか。
また黒夜叉は、他国から花嫁を迎える時や、年に一度の格闘技大会の際など、特別な時にだけ行われる愛羅承魂という不思議な儀式についても教えてくれた。
それは倒した相手の血を自らの体に塗りその魂を受け継ぐという伝統的な儀式で、古くは実際に行われていたようだが、今は特別な催しの際にその形式だけが残っているのだとか。
これもまた修羅の国の異様さと恐怖を他国に広めるためのパフォーマンスの一種であろう。
黒夜叉の話を聞き、私はどうやら修羅の国は思ったよりも脆いと確信した。
現在の様々なシステムは、ほぼ第一の羅将カイオウが築いたもののようだが、外部に向けて自国の強大さを必要以上に見せ付けるのは、裏を返せばその内部が崩壊しかかっているからであろうと思われた。
ファルコとケンシロウが主だった者たちを倒してしまえば、混乱した修羅の国の雑兵ならバット率いる北斗軍で十分制圧できるに違いない。
その時が来るまでは、このからくりはバットには言わずにおいた方がよいだろう。
さて海を渡った黒夜叉の報告では、リンと共に修羅の国へ入ろうとしたジャスクは彼の地を踏むことなく惨殺されたらしい。
リンは修羅の花嫁として連れて行かれたが、天帝の血を分けた女だという情報は既に伝わっており、いずれカイオウが正妻として迎えに来るだろうからそれまでは無事と考えてよいようだ。
一方ファルコを修羅の国へと送り出したミュウであるが、どうやら命を賭けたファルコの種は無事にその愛する者の体内で芽を出したようだ。
その事実を知らせる元斗の伝書鳩は、ファルコが死ぬ前に修羅の国に到着しその役目を果たした。
これでファルコも思い残すことなくあの世へ旅立ったことだろう。
第42話 策士ジュウケイ
ファルコが最後に戦った「名も許されぬ修羅」は、黒夜叉の言うとおり相当な腕の持ち主であったようだ。
「相手はたかが門番」という心の隙がファルコになかったとは言い切れないとはいえ、元斗皇拳最強の男を一度は一蹴したのだから、その実力は推して知るべしだろう。
しかしケンシロウに刹活孔を突かれ、一瞬の活力を甦らせたファルコが二度も遅れを取るようなことはさすがになかった。
そしてここを最期と悟ったファルコは、ケンシロウが見ていることを幸いと思ったか元斗皇拳秘奥義黄光刹斬を披露した。
もちろん自身の奥義をいずれケンシロウから新しい元斗皇拳継承者へ授けてもらうためであろう。
ファルコの死を見届けたケンシロウは、修羅の国の中心へと歩を進めた。
修羅の国において、実力は第四の羅将と言ってもいい門番を倒したことで、ケンシロウの進軍を遮るような者は皆無であった。
一方リンは第一の羅将カイオウが娶りに来る前に、シャチという若者に連れ去られたようだ。
このシャチという若者もジュウケイが北斗琉拳を授けた一人らしいが、腕前の方はまだまだ三羅将には遠く及ばない程度のようであった。
シャチはどうやら自身では倒せない第三の羅将ハンにケンシロウをぶつけるための駒としてリンを奪ったようだった。
ここでいよいよケンシロウは北斗琉拳の使い手と初めて対戦することとなる。
黒夜叉によれば、この戦いはかなり見ごたえのあるものであったらしい。
結果的には黒夜叉の予言どおり、サウザーのスピードを体験していたことで目が慣れていたためかケンシロウに僅かに分があり、苦戦を強いられながらもハンに勝利を収めた。
そしてケンシロウは、ハンから死ぬ間際に修羅の国こそ自身の生まれた地であることを告げられたのだった。
時を同じくして、修羅の国ではケンシロウをラオウだと勘違いして民衆が蜂起。
彼の国ではいつかラオウが救世主となってやってくるという伝説があり、ハンとの戦いを見た民の一人が、その強さから海を渡ってきた男こそラオウに違いないと誤って確信してしまったことによって噂は一気に広まり、これまで圧政に耐えてきた民衆の憤懣が一気に暴発した形となったのだった。
もちろんジュウケイは黒夜叉からの報告で、ラオウがケンシロウに敗れたことをとうの昔に知っていた。
しかしジュウケイはあえてその事実を誰にも告げず、民がケンシロウをラオウだと勘違いしても素知らぬふりを通した。
ラオウ伝説を利用して民を蜂起させ、修羅の国を大混乱に陥れることこそジュウケイの目的であったからだ。
混乱により生じた隙に他国者が入りやすくなるために。
ジュウケイは三羅将はもちろんのこと、一度修羅の国を完全に無に帰してから再生することを企んでいた。
かつてその琉拳の魔力から本能の命ずるままに己の妻子を殺した男ジュウケイ。
その魔力を知りながら、あえて三人の男子に北斗琉拳を授けたのは、やはり拳法家としての欲が理性を上回ったということだろうか。
自分の代で流派が途絶えてしまうのは、拳の道を志した者として何より耐え難いこと。
ジュウケイはやはり継承者の責務として、北斗琉拳を次の世に残したかったのだろう。
カイオウ、ヒョウ、ハン。
力、技、速さとそれぞれ特徴のある三人にこの拳法を伝授したのも、いずれ三人が北斗神拳継承者と戦うことを想定してのことだろう。
北斗琉拳をより完全な形でケンシロウから次の世代に継承してもらうために。
同じ北斗を冠する拳を継承する者として、ジュウケイは北斗神拳水影心の奥義もまた知っていたに違いない。
一方では拳法家として北斗琉拳を残すために、もう一方では自らが拳を授けた三羅将が築いた修羅の国を完全に崩壊させるために。
最期の最期まで自己矛盾と葛藤し続けた男ジュウケイ。
そのジュウケイは最期の相手として、北斗宗家のもう一人の男、すなわちケンシロウの実の兄ヒョウを選んだ。
表向きはヒョウにのみ刻まれた宗家の封印を解き、ケンシロウに宗家の秘拳を伝授することが目的であったが、実は一人の拳法家として北斗宗家の血を引く男と最期に戦ってみたかったのではないか。
それが拳法家としての本能というものなのかもしれない。
その最期の戦いで、ジュウケイはヒョウにちょっとした細工を施したらしい。
ヒョウにのみ継承された宗家の秘拳はカイオウによって封印されていたが、これをジュウケイは戦いのさなか、難なく解いた。
がその場ではあえてヒョウの記憶を戻さなかった。
記憶が蘇ってしまってからでは、ヒョウとケンシロウが戦う理由がなくなってしまう。
ジュウケイはケンシロウにヒョウと戦うことで、その拳を記憶してもらいたかったのだ。
だからこそジュウケイは、ケンシロウとの戦いの中でヒョウに記憶が戻るように、新たに記憶を封じ込めるという実に手の込んだ細工をしたのだった。
仮にも三羅将と恐れられる一人ヒョウに対して戦いの最中にこれだけの事をやってのけるのだから、ジュウケイという男の腕は老いたりとはいえまだ相当なものだったのだろう。
そして同時にジュウケイというのは相当な役者でもあったようだ。
カイオウの細工によってヒョウの記憶を完全に解くことができず、
「この修羅の国はケンシロウを倒したカイオウにより支配されるであろう」
などという、実際には露ほども思っていない絶望的な予想を立てながら死んでいったというのだから、全くとんでもなく厚い面の皮だ。
実際にはまだ若き頃のカイオウの施した細工など、ジュウケイに手にかかっては解くのは造作もないことだったらしい。
それをあたかもあと一歩のところで、カイオウの細工によって、ヒョウの記憶が戻るのを妨げられたという渾身のお芝居を打ったのだから、大した役者という他ない。
(恐らく内心ほくそ笑みながら息を引き取ったのであろう。ヒョウとカイオウがケンシロウと戦い、北斗琉拳がケンシロウの体に刻まれるのを夢見ながら・・・・・・)
こうして稀代の拳法家でもあり策士でもあった男ジュウケイはこの世から姿を消した。
第43話 宗家の血
ジュウケイがヒョウの体に細工を施し、満足気にこの世を去ったのとほぼ同じ頃。
ケンシロウは第一の羅将カイオウと初めて対戦し、北斗琉拳の特徴でもある魔闘気の前にあっけなく敗れ去った。
(相変わらず初物には弱いな・・・・・・。)
確かにケンシロウは一度見た相手の技を見切る能力に長けている。
それはケンシロウの強さの特長としてよく知られているが、逆に言えば初対戦では意外な脆さを露呈しやすいという致命的な欠点の裏返しでもあった。
実際シンもサウザーもケンシロウとの対戦成績は一勝一敗の五分であり、その初対戦では完勝と言ってもいい勝利を収めている。
なるほど二度目の対決ではいずれの相手にもケンシロウがその強さを見せつけて文句のない勝利を挙げているが、そもそも戦場においては一度の敗北は即、死を意味し、二度目のチャンスなどもらえないのが普通である。
「俺に二度の敗北はない」などとケンシロウは己の欠点を棚に上げて、さもそれが自分にしかない特殊能力であるかのように言っているようだが、戦場における真剣勝負では最初の対戦で敗れた者は命を絶たれるのが当然なわけで、二度目の対戦などというものは本来あり得ないのである。
ではなぜケンシロウにだけ二度目の対戦のチャンスが与えられているのか。
それこそが「北斗神拳継承者」というこの裏世界に二人といない特別な身分の成せる業なのである。
シンやサウザーが最初の戦いでケンシロウにとどめをさせなかったのも、この乱世における北斗神拳継承者という特別な存在を、本当に自分の手で絶やしてしまってよいのかという迷いによるものに他ならない。
生まれた時から絶対的な階級制と流派の継承を使命として教え込まれた彼らの中では、北斗神拳継承者というのは比類なき特別な存在であり、その長い歴史に己の手で終止符を打つだけの勇気と決断をどうしても持てなかったのだろう。
北斗神拳継承者を倒してしまうということは、北斗神拳だけでなく、この乱世で継承者が失われた多くの流派をも永遠に葬り去ってしまうことを意味する。
その反対に仮に自分がケンシロウに倒されたとしても、北斗神拳継承者さえ生き残っていれば、水影心という奥義により己の流派は次の世に存続される。
流派の存続を最大の使命としてきた拳法家としては、ケンシロウにとどめを刺すという決断を容易に下せないのもまた至極当然のことであろう。
今またカイオウがケンシロウに勝利しながらとどめを刺さなかったのも、北斗神拳継承者に対する遠慮と北斗宗家の血に対する特別な思い入れのため。
頭では宗家と自分達との身分の差を呪い、その血を忌み嫌ってきたカイオウであるが、嫌えば嫌うほどその宗家に対する意識もまた誰よりも強くカイオウの心の奥底で膨れ上がっていったのであろう。
その膨張した潜在的なコンプレックスが、ケンシロウにとどめを刺すことを躊躇させたに違いない。
(しかし魔闘気が臆したとはつくづく面白い男よ、カイオウという者。やはり弟ラオウと似ているな・・・・)
カイオウはシャチという若者に瀕死の状態で連れて行かれるケンシロウを追い詰めたが、後一歩のところでとどめを刺せずに逃がしてしまった。
この時ケンシロウはカイオウに対してなんらの実際的な反撃を加えてはいない。
反撃できるだけの体力も気力も残されてはいなかったというべきだろう。
シャチはわずかばかりの抵抗を試みたようだが、北斗琉拳をようやく修得したという程度の技量では魔界に君臨するカイオウを止めることなどできるはずもない。
つまりその時点でケンシロウの命は完全にカイオウの掌中にあった。
後は生かすも殺すもカイオウの心次第。
そんな状況であった。
にもかかわらずカイオウは、突如としてケンシロウの幻影を見たと言って狼狽え、さきほどまで圧倒的な威力を誇っていた魔闘気は急速に萎み、苦し紛れに放った一撃はケンシロウを逸れていった。
その際にカイオウが発したのが「我が魔闘気が臆したというのか」という謎の言葉であった。
それはあたかも北斗宗家の血による何か特別な魔力のようなものがあって、それがカイオウの魔闘気を臆させたとでも言わんばかりであり、実は臆したのは自身に他ならないことを認めることができない屈折したプライドの産物でもあった。
しかしそもそもカイオウが意識しているような宗家の血の特別な力など、本来どこにも存在しないと私は思っている。
「宗家の血」はそれを他にはない特別高貴なものだと信じている者にしか通用しない類の、極めて心理的な要素の強い力なのであろう。
幼い時から宗家との身分の差に苦しんできたカイオウにとって、宗家を忌み嫌えば嫌うほど意識もまた強大になり、自らの手でその宗家の血を絶やしてしまうことを潜在的に恐れたに違いない。
その恐怖がカイオウを臆させたのだ。
つまりは「宗家の血」という自己暗示に自ら負けたわけだが、カイオウ自身がそのことに気づいていないのだからその潜在意識はよほど小さい頃から植え付けられてきたものなのであろう。
思えば弟ラオウも拳王という名にこだわり拳技の修得に執着するあまり、たった一つの奥義で先を越されたというだけで自らケンシロウに負けたことを認めてしまった。
技にこだわらず戦いに勝つことに集中しさえすれば、ラオウがケンシロウを破るのはさほど難しいことではなかっただろう。
ラオウもまた拳王という自ら課した自己暗示に負けた男だった。
その兄カイオウは宗家の血にこだわるあまり弟同様ケンシロウに敗れることになるだろう。
ケンシロウ得意の二度目の対決において。
一度戦った相手の技を見切ることができるというケンシロウの特徴は、初対戦では脆さを見せるという弱点の裏返しに過ぎない。
本来なら戦場では致命的とも言える「初物に弱い」というこの弱点を、その特別な地位を相手が意識することによってとどめを刺されず補ってきたのがケンシロウのここまでの戦い方であった。
ケンシロウが北斗宗家の特別な血を引いていると思われる点がもしあるとすれば、それは他人の生殺与奪の権利を自分が持っているということを、特に意識しなくともごく自然に感じることができるという点であろうか。
例えば先のシンやサウザーとの対戦の時のように、最初に敗れた際には命を救われた相手に対して、二度目に勝った時にはなんらためらいなくとどめをさせてしまう。
一度は命を救われているのだから、今度は逆に救ってやり三度目の対戦で決着をつけるというやり方の方が拳法家としてはむしろフェアなようにも思えるが、ケンシロウにはそのようなためらいや引け目といった類の要素は微塵もない。
他人は自分を殺すことを躊躇しても、自分は他人の命を操ることに一分のためらいも示さない。
この誰に教えられるでもなく自然と身についたとしか思えない特権意識こそが、宗家の血でありケンシロウの強さと言ってよい。
黒夜叉の話からケンシロウの実の兄であるヒョウという男の人となりを聞くところでは、どうやらヒョウにはこの生まれながらの特権意識というようなものが薄かったようだ。
それがヒョウのいわゆる「宗家の血の薄さ」であり、その弱さ、宗家でなければそれは弱さではなくむしろごく普通の性質ではあったのだが、につけこまれ、宗家の高僧たちによって長男でありながら嫡男の座から降ろされた所以でもあっただろう。
その長男でありながら嫡男から降ろされたヒョウと、次男でありながら嫡男に祭り上げられたケンシロウの兄弟対決が迫っていた。
カイオウの魔闘気が臆したため命拾いをしたケンシロウはその後短期間で回復し、第二の羅将ヒョウの元へと向かった。
そして私の方もそろそろバットを動かす時がきていた。
第44話 北斗軍海を渡る
「バットよ、海を渡ってみるか?」
「いいのかリハク。前はあれほど強く止めていたが・・・・」
私はバットを呼び出して修羅の国への渡航を勧めていた。
そもそも修羅の国へ一刻も早く行きたがっていたのはバットの方だった。
リンが攫われ、そのリンを追ってファルコ、ケンシロウが次々と海を渡っていくのを見て、この行動力が取り柄と言ってもいい血気盛んな若者の心が動かないはずがない。
そのバットの逸る気持ちを抑えたのは他ならぬこの私であった。
もちろん私のような老いぼれが正面から諌めたところで素直に耳を傾けるようなバットではない。
そこで利用したのがファルコが倒されたというエピソードだった。
ケンシロウと互角の戦いを演じた元斗皇拳最強の男が、彼の国では最下層の「名も許されぬ修羅」にすら、自身の命を投げ出すことでようやく相討ちに持ち込むのが精いっぱいだった、という衝撃の事実はバットに対して十分な抑止力を発揮した。
いかに血気盛んな若者とはいえもう現実を知らない子供ではない。
ケンシロウがラオウとの戦いを終えた後の不在期間に、自分たちの正味の力がいかに頼りないものであるかという厳しい現実を体験したバットにとって、あのファルコでさえ門番程度の男に苦戦したという事実は、勢いだけで無視するにはあまりにも重たいものだったのだろう。
そういう経緯があったので、今になって修羅の国への渡航を勧める私をバットが訝しむのもまた当然のことであった。
「うむ。わしもあれからただ座して待っていたわけではない。色々と調べておってな。」
「そうか、さすがはリハクだな。でどうだった?ケンは、リンは無事か?」
「二人ともご無事なようだ。ケンシロウ様の出現により、修羅の国もだいぶ乱れておるようじゃ。彼の国を治めている三人の羅将のうち一人は既に倒したようだな。」
「とすると残るは二人か・・・・・。」
「だがその二人はラオウの兄とケンシロウ様の実の兄。いかにケンシロウ様とてそう簡単にはいくまい。」
「なんだって!ケンに実の兄が・・・・?」
「うむ。ラオウもケンシロウ様ももともとのまれはあの修羅の国のようだな。」
「そうだったのか・・・・。それでリハク、俺はどうすればいい?」
「羅将二人はいずれケンシロウ様が倒してくれよう。その他の主だった者たちは既に一掃されているようだ。もはや北斗軍の上陸を止める者はおるまい。リン救出に向かうなら今が好機だろう。」
「そうか、ようやく出番か。待ちくたびれたぜ。」
これまでの鬱憤を吐き出すかのように活気を取り戻したバットは、北斗軍を率いて早速海を渡っていった。
私は引き続きここに留まり、黒夜叉からの報告を待つこととした。
その黒夜叉からの報告によれば、カイオウとの戦いで受けた傷も癒え、ケンシロウは再び進軍を開始。
今度は実の兄であるヒョウとの対決が待っていた。
この時すでにヒョウは魔界に入っていた。
もともとヒョウはカイオウの妹であるサヤカと婚約していた。
その妹サヤカをカイオウはあっさりと亡き者にした。
もちろんヒョウには妹を抹殺したのはケンシロウだと告げる。
その目的はヒョウから哀しみと怒りによって冷静さを失わせ、その憤怒の炎をケンシロウに向かって噴出させるため。
怒りに我を忘れ魔界に入ったヒョウが、ケンシロウとの戦いの中で宗家の血に目覚め兄弟相討ちとなる。
これがカイオウの狙いであった。
こうしてカイオウの策略通り魔界に入ったヒョウは、まずはケンシロウの従者黒夜叉を一蹴する。
しかし既に魔闘気のからくりをカイオウとの対戦で見抜いていたケンシロウの敵ではなかった。
魔闘気の流れによって無重力状態を作り出し、その流れの中にいる敵は自身の位置を見失ってしまう。
それが先の戦いでケンシロウを苦しめた北斗琉拳暗琉天破の正体であった。
タネが分かってしまえば対策を立てるのはさほど困難なことではない。
ケンシロウは魔闘気の流れの中で自ら回転し、遠心力を作ることで自分の位置を確保することに成功。
魔闘気による優位性が失われてしまえば、残されたのは拳技の優劣のみ。
となればここまでの戦いで数々の修羅場をくぐってきたケンシロウと、第二の羅将の地位に甘んじてさしたる敵と戦ってこなかったヒョウの差は歴然であった。
そしてケンシロウの圧倒的な力量の前に劣勢となったヒョウは、ジュウケイによって細工を施された破孔の影響で戦いの最中に記憶を取り戻し、ここに宗家の実の兄弟同士による争いは終了。
己の手で宗家の血を絶つ勇気がなく、二人の相討ちを期待していたカイオウはあてが外れ、ヒョウにより宗家の拳がケンシロウに伝授されることを恐れ、北斗宗家の泰聖殿へと向かった。
ここでまたも目の前に現れ、自分の計画をことごとく邪魔してきたシャチを文字通り粉砕したようだが、これは八つ当たりと言ってもよいだろう。
北斗宗家の血に「魔闘気が臆した」ことでまだ心理的に動揺したままのカイオウは、この泰聖殿でも宗家の秘拳の鍵となる女人像に怯え冷静さを失い、既に死に体となった格下のシャチに反撃を許すという醜態を晒してしまった。
「封印を解かれたケンシロウを倒してみたくなった」などと強がってリンを攫って去って行ったカイオウだが、こうまで狼狽えていては勝てる戦いも落としてしまうだろう。
気持ちを立て直す間を取るために、ケンシロウから体よく逃げたというのが本当のところではなかったかと思われる。
このあたりもケンシロウに無想転生を修得されたことで必要以上に狼狽し、ユリアを攫って逃げる口実とした弟ラオウと似ていると言えなくもない。
カイオウが去り、少し遅れてやってきたケンシロウは、女人像から北斗神拳創始者のメッセージと宗家の秘拳を受け取ったようだ。
そしてケンシロウはカイオウが待つ決戦の地へと赴いた。
そこはかつて幼き頃のヒョウとケンシロウの命を救うために己の命を犠牲にした、カイオウたちの母の骸が眠る地。
「宗家の血」という自己暗示に怯え動揺する心を鎮めるために、母の眠る地を決戦の場として選んだのは、ラオウ同様カイオウの素のままの心の脆さの証でもあろう。
心の外を覆った鎧が余りにも強固に過ぎたため、本来鍛えられるべき時に心を鍛えてこなかったつけが今になってカイオウを襲っていたのだった。
そんなカイオウの心の乱れがリンの死環白を突かせた。
死環白を突かれると記憶と共に一切の情愛を失い、次に目覚めた時に最初に見た者にその情愛の全てを捧げるのだという。
しかし北斗神拳継承者のケンシロウにとって、死環白を破る秘孔を突くことなど造作もないこと。
少し冷静になればカイオウにも、そんな児戯にも等しい小細工はなんら意味を持たないものだと分かったはずだが、もはやその程度のことも判断できぬほどに心は揺れ動いていたのだろう。
そんな状況でカイオウとケンシロウの二度目の戦いは始まった。
第45話 カイオウ死す
カイオウとケンシロウの二度目の戦いが始まったのとほぼ時を同じくして、ケンシロウの兄ヒョウもまた最後の戦いに臨んでいた。
カイオウの部下の一人でゼブラという取るに足りない者が、リンという女がカイオウに死環白を突かれていずこへともなく放り出されたことをヒョウに告げた。
ヒョウは気が触れたとしか思えないカイオウの尻拭いのためリンを救出し、追っ手のカイオウ陸戦隊を黒夜叉と二人で撃退した。
黒夜叉としても主ジュウケイが死に、カイオウもケンシロウとの二度目の戦いで世を去ることが明らかな以上、もはややるべきことはなかったのだろう。
仮にケンシロウとカイオウの最初の戦いにおいて、カイオウが臆すことなく本当にケンシロウが殺されそうになったならば、そこが黒夜叉の死に場所となったものと思われる。
いざとなればそこで命を捨ててでもケンシロウを救うため、気配を殺して潜んでいたに違いない。
結果的にはカイオウの、自身の手で宗家を根絶やしにしてしまうことを恐れる心が、黒夜叉の命をも僅かに永らえさせたことになる。
死に場所を求めた黒夜叉は宗家のヒョウと戦い、最期はそのヒョウと共に三百人にも及ぶ修羅を殲滅した。
戦いに生き戦いに死ぬことしか許されぬ宗家の従者黒夜叉の最期としてはこれ以上のものはないだろう。
さて海を渡ったバット率いる北斗軍であるが、どうやらリン救出に間に合ったようだ。
黒夜叉が死に、さすがの羅将ヒョウもその持てる力の全てを出しつくし、新たな敵の出現に気力も尽きつつあったところで登場。
リンを救い出し、ヒョウの命が尽きる前に義兄カイオウの元へ送り届けることにも成功したらしい。
さて肝心のカイオウとケンシロウの再戦であるが、これは当然のことながらケンシロウの圧勝に終わった。
魔闘気のからくりも既に見抜かれた上に、己の心の脆さに怯えるカイオウでは勝負になるはずもない。
一方ケンシロウはシンやサウザーの時と同様、一度はカイオウに命を救われたことなどどこ吹く風といった涼しげな顔で、
「お前もまさしく強敵だった」
という決め台詞でカイオウにあっさりとどめを刺した。
やはり宗家のお坊ちゃんはどこまでいっても変わらない。
そこがケンシロウの強さではあるのだが。
カイオウがケンシロウに事実上息の根を止められたのと、ヒョウがバットに連れてこられたのがほぼ同時であった。
カイオウは己の体にも宗家の血が流れていたことを戦いの最中にケンシロウから教えられ、ようやく宗家の血の呪いから解放されたようだが時既に遅しであった。
宗家の血に特別な力などは初めからなかった。
宗家の血に特別な力を与えていたのは、そう信じていたカイオウ自身の弱き心に他ならない。
自らかけた宗家の呪文が解けたのは、もう完全に勝負が決してからのことだった。
結局はカイオウもこの裏世界の絶対的な身分の差に敗れたと言ってよいのだろう。
そして私にとって、この修羅の国での最も想定外だった出来事は、カイオウの体にもまた宗家の血が流れているという真実が判明したことであった。
泰聖殿で女人像の中から現れた聖塔に刻まれていたのは北斗神拳創始者シュケンの遺言であった。
シュケンには同日に生まれた従兄弟のリュウオウがいた。
宗家の守護僧たちは一人の男児に宗家を継がせるため二人の赤子を降天台に置き、生き残った方を継承者とするという非情の決断をした。
降天台とは北斗宗家の始祖が神の剣を握ったとされる聖地。
病により余命僅かであったシュケンの母シュメは、我が子の命を救うために掟に背きリュウオウを抹殺しようと企んだ。
シュメの姉でありリュウオウの母でもあるオウカは妹の哀しき心を知り、シュケンに継承者の座を譲ると言い残し自ら命を絶った。
こうして二人の姉妹の深き愛を背負ったシュケンが継承者として選ばれることとなったが、オウカの子リュウオウもさすがに殺されることはなく、宗家から追放されるだけにとどまった。
そのリュウオウの額には七星の痣があり、それと同じ痣がカイオウの額にも刻まれていたため、ケンシロウはカイオウがリュウオウの子孫であることを知ったのだった。
カイオウが宗家の血を受け継いでいるということは、当然その弟であったラオウとトキにも同じ血が流れているということであり、それはすなわちラオウと我が娘トウの子であるリュウにもまた宗家の血が流れていることを意味する。
既にケンシロウから北斗神拳継承者として認知はされていたリュウであったが、宗家の血が流れているというのは思ってもみなかった僥倖であった。
ましてトウは元斗皇拳最強の金色の血も受け継いでいる。
リュウには北斗宗家と元斗金色家の血が流れていることになる。
宗家や元斗の血に実質的な意味での特別な力などはない。
しかしカイオウが自らの暗示に破れたように、この裏世界では宗家や元斗という名はそれだけで絶対的な説得力を有している。
この予想外の事実はリュウの今後にとっても大いにプラスに作用することだろう。
私は満足してケンシロウの帰国を待った。
第4章 新継承者リュウ編 第46話 ケンシロウ帰国
修羅の国での戦いを終えたケンシロウは、死環白を突かれたまま目覚めていないリンをバットに預けた後、一人帰国した。
カイオウの突いた死環白は、それまでの記憶の一切を失わせ、次に目覚めた時に最初に見た者に情愛の全てを捧げてしまうという破孔。
無論北斗神拳継承者であるケンシロウならば、この破孔を破る秘孔を突いてリンの記憶を呼び戻すこともそう難しいことではない。
しかしあえてケンシロウはリンの記憶を戻すことはせず、死環白を突かれたそのままの状態でリンをバットに託したのだった。
ケンシロウはリンの自分に対する思いも、それを見守るバットのリンに対する気持ちもよく知っている。
死環白を利用して自分に対するリンの思いを断ち切らせることで、バットの長年の苦労に報いようということだったのだろうか。
それともケンシロウにとっては、リンがいかに女性として美しく成長したとしても、恋愛や結婚の対象とはならなかったということなのか。
真意のほどは不明であるが、いずれにしてもそれがケンシロウの選んだ答えであった。
ケンシロウはラオウの子、リュウの存在をまだバットたちにも告げていない。
カイオウとの戦いの中でリュウに宗家の血が流れていることを知ったケンシロウは、まずはそのことを私に報告に来たのだった。
「お見事な戦いでございました。ケンシロウ様。」
「うむ。俺にとっては大きな意味のある戦いであった。まさか俺があの北斗宗家の後継者だったとはな。思えば俺は物心つく前にこの国に送られてきたため、ここでの記憶が全てであった。先代リュウケンに拾われた孤児だとばかり思っていたが・・・・・。」
「いえいえ、北斗宗家の血はあなた様の中に脈々と受け継がれております。本当に立派な継承者になられました。」
(おめでたいお人だ。宗家のお世継ぎという身分だからこそ、その継承者になれたというのにそのことには疑問を抱かないらしい。まあ初めの頃を思えばここまでよく成長したものではあるがな・・・・)
「その宗家の血がラオウの体にも流れているという事実は、さすがに本人も知らなかったようだな。」
「はい、私も聞いてびっくりいたしました。ラオウ様もあの世でさぞや驚いておられることでしょう。」
「うむ。俺とユリアの間には子がなかったからな。俺は修羅の国で自分が北斗宗家の唯一の生き残りと知り、なんとしてもこの血を絶やすわけにはいかないと思ったのだが、カイオウが宗家のリュウオウの血を引くことが分かり安堵した。リュウには紛れもなく宗家の血が流れていることになるからな。」
「はい、このリハクも望外の喜びにございます。後はケンシロウ様にリュウを引き渡すのみ。これでこのリハクも安心してあの世へ逝けます。」
「そう老け込むな、リハクよ。お前には次の世代に俺たちの戦いを語り継いでもらいたいのだ。」
「私に・・・・?」
「うむ。これまで数々の戦いを見て、生き抜いてきたお前にしかこの役は果たせまい。」
「こんな年寄りめにもったいないお言葉。私などでは力不足でしょうが、せいぜい長生きさせていただきます。」
「そうだな。もうこれからはさほど大きな戦いは起こるまい。俺はリュウに北斗神拳継承者としての心得を授けた後で、残された重要な役目があるからな。これまで戦った相手の拳法を次の世に伝えねばならぬ。」
「承知しております。それこそ北斗神拳継承者にのみ可能な大事な務め。ケンシロウ様もくれぐれもお体お労わりください。」
「そうも言ってはいられないが、これまでの激しかった戦いと比べたらどうということはないだろう。では早速リュウのところへ行くとしよう。随分大きくなっただろうな。」
「はい、すくすくと逞しく成長なされた由。今はリセキが一人で預かっております。」
「ん?乳をあげていたお前の親類のハクリという夫婦はどうしたのだ?」
「それがどうやら妻の方が伝染病の類に患ったようでございまして。リュウ様に万が一にもうつしては一大事と思い、夫婦揃って山奥深くに隔離されて暮らしてございます。」
「そうであったか・・・・・。その者達にも苦労をかけたな。」
「いえいえ、リュウ様は本当に素直なお子で。ハクリ夫婦も我が子のように可愛がり育てておりました。苦労などとんでもない。」
「リュウが無事に育ったのもお前たちのおかげ。感謝しているぞ。」
「ありがたきお言葉。ただ・・・・・リュウ様には私が関わっていることは内緒にしておいてください。」
ケンシロウは怪訝な表情を見せた。
「というと・・・・。お前はまだリュウとは名乗り合っていないのか?」
「はい。赤子の頃に見たのが最期でございます。その後はハクリとリセキを通じ、成長の報告は仔細に受けていますが・・・・・。ラオウ様のご最期のこともリセキから伝えてもらいました。リュウは自分の父が偉大なるラオウ様であることは知っていますが、母の素性については何一つ知りません。」
「お前にとっては娘の子でありたった一人の孫。なぜ名乗らぬのだ?」
「宗家の血を引くラオウ様の子というだけで、リュウ様には十分でございましょう。五車星の娘の血などリュウ様の将来に何の役にも立ちますまい。私は陰ながらリュウ様の行く末を楽しみに生きていくだけで十分に満足でございます」
「そう遠慮するものではない。お前は両親のいないリュウにとっては残されたたった一人の祖父。リュウはいずれ北斗宗家を継ぐことにもなろう。お前には宗家の後継者の祖父として、リュウの心の支えになってやって欲しい。」
「それはどうかご勘弁を。ラオウ様が宗家でなければまだ良かったのですが・・・・・・。いまや正当な宗家の血筋と分かった以上、リュウの母が我が娘という事実は金輪際公には出来ません。」
ケンシロウにもようやく私の言わんとしていることが理解できたようだった。
「なるほど、お前はあの掟のことを気にしているのか。」
「はい、特権階級である宗家と非特権階級の五車星との間の子など、あの宗家の高僧たちが認めるはずはありません。さすがにケンシロウ様が強く推せばあの者たちも拒否は出来ないとは思いますが、決して快くは承諾しますまい。それにあなた様が亡くなった後、リュウがどのような嫌がらせにあうとも限りません。私としては、リュウのためにそのような事態は避けたいのです。」
「そうか。あのような古いしきたりなどもうこれからは不要とも思うが・・・・・・。祖父としてのお前の心配も分からぬではない。まあこのことはしばらくは俺の胸の内に閉まっておこう。」
「は、お心遣い感謝いたします。」
(その古いしきたりがなければ宗家の次男に過ぎなかった男がよくぞ言ったものよ。こういう特権意識がこの男をここまで生きながらえさせてきたのではあるがな。)
「いずれリュウにまた俺が必要になった時にはリハク、お前を訪ねるように言うつもりだったんだがな。代わりにリンを訪ねるように言っておこう。その頃にはリンは南斗の都にいるだろうからな。お前もリュウの成長した姿をその目で確かめることが出来よう。」
私にはケンシロウの意図が読めなかった。
「いずれとは?これからリュウ様に北斗神拳を授けるのでは?」
「リュウにはこれから北斗神拳継承者として一番大事な心構えをまず教えるつもりだ。その後はしばらく離れてみようと思う。技の伝授はリュウがもう少し大きくなってからでよい。」
「それはまた何ゆえ・・・・?」
「俺は幼い頃からラオウやトキたちと切磋琢磨して北斗神拳の技を修得してきたが、リュウにはそうしたライバルたちはいない。今北斗神拳の技を教えてしまえば、リュウに立ちはだかる敵などはいなくなってしまう。あまり若くして強敵と戦わないのはリュウにとっても不幸なこと。」
「なるほど。あえて北斗神拳の技を知らぬ状態で修行させるということですな・・・・」
「うむ。俺はその間に他の流派の継承者を探し出し、技を伝えておこう。もしリュウが修行に行き詰ったらその時はリハクよ、お前が相談に乗ってやってくれ。これまで多くの戦いをその目で見てきた長老としてな。」
「さすがは北斗神拳継承者として今日まで強敵たちとの幾多の戦いを生き抜いてきたケンシロウ様。その深きお考えにこのリハクただただ敬服いたしました。」
ケンシロウはリュウを預かるリセキの元へ旅立った。
私はリュウが宗家だけでなく、元斗の血をも引くことをケンシロウには告げていない。
ユリア様との純愛しか知らぬケンシロウは、私とファルコの母の道ならぬ関係をあまり快くは思わないだろう。
せっかく継承者のお墨付きを得たリュウの将来が、こんなことで白紙にされてはたまったものではない。
私の野望は予想外の出来事を孕みながらも順調に進行していった。
そして更なる計画のため、私はある女性を訪ねなければならなかった。
第47話 帝都復興
私はケンシロウが去った後、久しぶりに帝都を訪れた。
元斗対北斗の最強対決の後崩壊したあの帝都である。
天帝ルイが救い出され、総督ジャコウがファルコによって滅殺させられたことでジャコウの野望は潰えた。
あの時城内で息を潜めていたジャコウの息子ジャスクは、ファルコがもしもの時のために城内に仕掛けた爆弾の起爆装置のスイッチを入れた。
ここに帝都はジャコウの野望の象徴という意味においても、物理的な意味でも完全に崩壊したのであった。
その帝都は徐々にではあるが、しかし着実に復興への兆しを見せていた。
帝都復興の旗印となっていたのはもちろん幼い頃から長きに渡り幽閉されていた天帝ルイであったが、その第一の側近にして実質権力の中心にいたのはファルコの婚約者であり、その子を腹に宿した女性ミュウであった。
ミュウはかつて天帝の居場所を探るためにジャコウに近づいていたためか、政治というものに習熟していたようだ。
無論それだけではなく、元々国を治めるだけの才覚がこの女性に備わっていたということなのだろう。
ミュウはジャコウの政治の良い部分はそのまま残し、力による圧政を止めて天帝を象徴とした民主主義の基礎を築いていこうとした。
かつてのジャコウ総督全盛時代よりは版図はかなり縮小したが、小さいながらも民がその働きに応じて暮らすことが出来る健全な体制を維持することに努めたため、近隣にその噂は広がり徐々にではあるが人々は帝都に集まりつつあった。
(あの混乱から僅かな時間でよくぞここまで・・・・。やはりあのミュウという女ただものではないな。)
私は修羅の国へ渡る前にファルコと話をして以来、ミュウという女性に特別な意識を持つようになった。
ミュウはファルコの母が亡くなる前は付きっ切りで看病するほど信頼されていたという。
ひょっとしてミュウは私のことをファルコの母から何か聞かされているのではないか。
実際まだミュウが幼い頃に、私はファルコの母と一緒にいるところを何度か目撃されているのだった。
私は密会する際、ファルコやジャコウには顔を合わさないように心掛けていたが、見た目も中身も凡庸そうに思えた一人の少女には正直なところほとんど警戒心を抱かなかった。
あの頃からファルコの母に可愛がられていたとなると、かなり親密な関係と考えてよかろう。
亡くなる前に私が知らないような悩みをミュウに打ち明けていた可能性は否定できない。
がしかし、ミュウの態度や振る舞いからはそんな気配を全く感じ取ることができなかった。
ケンシロウとファルコの戦いが終わり、我々は一堂に会することになったが、ミュウは私に対して全くの初対面であるという態度をごく自然に貫いた。
その態度があまりにも自然であったため、私もあの時の目立たない少女と成長して美しい女性となったミュウを関連付けることができなかったのだった。
ミュウが本当に何も知らされていなければよいし、もちろんその可能性も十分にある。
だがもし何かを知っていながら私に対してあれだけ完璧に初対面のふりができるとしたら、これは容易ならざる相手と考えざるを得ない。
もちろん仮にそうだとしてもミュウが私の敵となると決まったわけではないのだが。
そんな諸々の可能性を頭に浮かべながら私はミュウとの会見に備えていた。
以前ミュウやジャコウが住んでいた中央帝都自体は完全に破壊されており、そのすぐ隣に新帝都が建設中であった。
無論この工事も以前のような強制労働ではなく、仕事として代金が支払われている。
そのためか建設現場も活気に満ち溢れていた。
私が通されたのは建設中の新帝都が見える仮普請の小さな邸宅であり、どうやらここで天帝ルイとミュウは暮らしているらしい。
「これはリハク殿、お久しゅうございます。ますます御壮健のようで何よりですわ。」
私を出迎えてミュウはこう挨拶をした。
「いやいや、すっかり年をとりましたわい。ルイ様にもミュウ様にもお変わりなく。」
「その節は本当にお世話になりました。あなたたちがいなければ、わたくしはまだあの地下に閉じ込められたままだったかもしれません。」
天帝ルイは長い幽閉生活から解放されて本来の気品と明るさをすっかり取り戻したようだった。
「よくぞあのような環境で長く自分をお保ちになられました。さすがは天帝の血を引くお方。このリハク頭が下がりますわい。」
「わたくしの苦労など今となっては取るに足らぬこと。それよりリン、我が妹は?無事に帰ってきたという話は聞きましたが・・・・」
「はい。リン様は御無事でございます。ただ・・・・・」
「ただ・・・・?」
「彼の国でカイオウという者の手により全ての記憶を失った状態。今はバットと共に静養しております。」
「まあ、なんと・・・・・。神は一体どこまで妹に辛い定めを課すというのでしょう・・・・・。」
生き別れて長い年月を経て再会したもののすぐに修羅の国へ連れ去られ、今また一切の記憶を失くした妹を思いルイは泣いていた。
「本当に・・・・・。それでリハク殿、ケンシロウ様は?あの方ならリン様の記憶を元に戻すことも可能なのでは・・・・?」
天帝の涙に同情の意を表しながらミュウが私に至極もっともな疑問を投げかけてきた。
「恐らくは・・・・。しかしケンシロウ様にはどうやら違う考えがおありのようですな。」
「というと?」
「リン様がケンシロウ様をお慕いしていることは、ルイ様もミュウ様も御存知かと。ただケンシロウ様の心の中にはあくまでユリア様しかおられませぬ。ならば全ての記憶を失くしたままバットと共に平穏に暮らす方がリン様にとっては幸せなのでは、と。」
「そうですか・・・・。確かにバットという青年ならリン様を幸せにしてくれるかもしれませんね。」
「恐らくは。しかしバットというのもなかなかに義理堅いというか遠慮深い男でございましてな。リン様のケンシロウ様への思いを知りながら、果たして一緒になれるかどうか・・・・」
そこで先ほどまで流していた涙を拭ったルイが割って入ってきた。
「妹にとってはどちらが本当の幸せなのでしょうか・・・・。恋すらしたことがないわたくしにはよく分かりませんが・・・・。」
「ルイ様・・・・」
幼い頃より地下に閉じ込められていたルイにとっては、恋など自分とは無縁のものだったのだろう。
解放された今も、天帝というこの裏世界の頂点に位置する特別な身分が、逆に普通の男女の年相応の恋愛というものを事実上不可能にさせてしまっている。
そんな天帝ならではの不幸を思い、ミュウは慈しむような眼差しでルイを見守っていた。
第48話 狐か狸か
私は天帝ルイ、ミュウの二人としばらく歓談をしてからその家を後にした。
私を見送るためという名目でミュウが一人出てきたため、ようやくここへ来た本当の目的を果たすことができそうだった。
私はなるべくさりげない形で、ケンシロウがいよいよ次の北斗神拳継承者を定め、その少年を迎えに行ったという話をミュウに持ち出した。
そしてその選ばれた少年があのラオウの忘れ形見だという件になると、さすがのミュウも驚きを隠せなかったようだった。
「まさかあのラオウに子が・・・・・?」
ミュウの驚きは当然かもしれない。
何しろミュウの愛した男ファルコが己の脚を切り落とさなくてはならなくなった原因が、他ならぬラオウだったのだから。
「驚くのも無理はありません。ミュウ様は恐怖の覇王と恐れられていたあの拳王のイメージしかご存じないでしょうからな。ただあの者も修羅の国にいた兄カイオウと同じく、愛に飢え彷徨していたのでしょうな・・・・。特にケンシロウ様に敗れてからは・・・・・」
「で・・・・・、そのラオウのお相手というのは・・・・?」
当然予測された質問であり、すでに私の返答も決めていた。
問題はその後の相手の反応だった。
「はい、お恥ずかしい限りではございますが・・・・・。我が娘トウにございます。」
私はここで札を一枚切った。
まだリュウ本人にすら伝えていない極秘事項を、さほど親しいとも言えないこのミュウに曝したのはかなりの冒険と言ってもよいだろう。
私はトウの話を切り出した時のミュウの反応を注意深く観察した。
もしファルコの母から私との関係を聞いていたとしら、僅かでも心の動きを見せるのではないかと思ったからだ。
ミュウの表情には、微かに意外なことを聞いたと思えるような動きと取れなくもない反応があったようにも見えた。
が、それはこちらがはじめから疑っていたからそう見えたというだけなのかもしれない。
いずれにしてもそれはどのようにも解釈できそうな、非常に微妙な変化でしかなかった。
「そうでしたか・・・・。以前リハク殿のお嬢様はご自害なされたとお聞きしていましたが、その方が?」
「はい、娘トウはラオウの子を産んだことを本人には最期まで告げませんでした。そしてそのラオウ本人の前で自らの命を絶ちましてございます。」
「子ができたことを告げずに・・・・・。そうでしたか。あるいはそれが女の意地というものかもしれませんわね。分かる気がします。一人で子を産むのはさぞ心細かったでしょうに・・・・・」
まだお腹は目立たないが、ミュウも今ファルコの子を宿しているのだった。
互いに愛し合って出来た子という点では事情は違えど、たった一人で出産という難事に立ち向かわねばならない女として、トウに共感する部分があるのかもしれなかった。
「ありがたきお言葉。そう言っていただけるだけでトウも浮かばれましょう。ミュウ様もこれからが大事な時。あまりご無理をなさらぬよう。生まれてくる子は元斗皇拳最強の金色の継承者になるのですからな。」
「お心遣い感謝いたします。後はこの子が男の子であればよいのですが・・・・・。またあの悲劇が繰り返されるかと思うと、女の子では不憫でなりません。」
「悲劇?と言いますと・・・・・?」
「リハク殿は御存知ありませんでしたか?ファルコ様のお母上のこと・・・・・」
そういうミュウの目はこちらに謎かけをしているかのようにも見えた。
(この私を探ろうとしているのか・・・・?果たしてどこまでとぼけるのが得策か・・・・)
「確かファルコ様のお母上には男兄弟がなく、他家より配偶者を貰ったのだとか・・・・・」
一瞬迷った挙句私は当たり障りのない答えを返しておくことにした。
「はい。ファルコ様のお母上はそのことでいつも苦しんでおられたようにございます。女しか産めない母、つまりファルコ様からはおばあ様にあたりますが、その方が世間から冷たい目で見られているのを幼い頃から自分の責任のように感じていたようです。また金色家の婿養子として夫になられた方からもあまり大事にはされていなかったようで。やはり殿方にはプライドというものがございますから・・・・・。結局その配偶者も若くして病死。ファルコ様のお母上はその時すでに身ごもっていらっしゃいましたがその子も死産・・・・・。そうした全ての悲劇を、あの方は自分が男子でなかったからだと思っていたようでございました。」
ファルコの母の配偶者の死、そしてその後の死産。
いずれも裏で私が大きく絡んでいるのだが、ミュウの言葉や表情からそれを知っているのかどうかを推し量るのは難しかった。
「そんなことがありましたか・・・・。確かに男子であるに越したことはございませんが、まずは元気なお子を産むことが肝要でございます。あまりお心を痛めますとお腹の子にも触りましょう。」
「そうですね。こればかりはなるようにしかなりませんし・・・・」
「はい、私も無事にファルコ様のお子がお生まれになるのをお祈りしております。ところでミュウ様、一つ御相談が・・・・。実はルイ様の前では言い出しにくかった用件がございまして・・・・」
「わたくしに?それはまたどのような・・・・?」
私が今回帝都を訪れた目的は、実はここらが本題であった。
第49話 縁談
「先ほどのお話からするとルイ様にはまだ決まったお相手はいらっしゃらないようですが・・・・。そのあたりについてミュウ様には何かお考えがおありでしょうか。」
仮にも裏世界の頂点に位置する天帝の結婚相手となればそこらの男子でよいはずもない。
しかし核戦争以降の未曽有の乱世によって多くの家が死に絶えた今、それほどの身分の者がまだ残っているとは思えない。
それを承知の上で、あえて私はミュウに尋ねたのだった。
「今はまずルイ様の一日も早い回復を第一に考えております。お元気そうに見えても長年の幽閉生活によりあの方のお心はかなり傷つきやすくなっております。今はまだ男性との親密な関係は難しかろうと・・・・・」
「そうでしょうな。では将来的にはどなたか候補となりそうな方がおられますか?さすがに天帝の血を絶やすというわけには参りますまい。」
「仰る通りでございます。天帝を補佐するわたくしとしてもそのことではなかなか妙案が浮かばないのが現状・・・・・」
そう言うとミュウは探るように私を見た。
「そうですか。今のミュウ様のお話を聞き、ますます確信を持ちました。」
「とおっしゃいますと?」
「先ほど話に出たリュウをルイ様のお相手にと、実はこのリハク密かに考えておりましてな。ただ年齢はルイ様の方が少し上になりますし、リュウはこれから修行の身。結婚できるようになるまでにはまだしばらくの時がかかります。それまでルイ様をお待たせするのもいかがなものかと、その点を案じておりました。しかし先ほどのお話ではルイ様の心が男性を受け入れるまでに回復するにはまだ時間がかかりそうだとか・・・・。ならばこの縁談、どちらとっても好都合かと。」
既に話の流れから私の意図を察していたのか、ミュウはさほど意外という顔を見せなかった。
「さすがは智謀並ぶ者なしと言われたリハク殿。これこそ妙案ですわ。北斗神拳継承者になるリュウ様と天帝ルイ様。乱世に終わりを告げるのに相応しいこれ以上の華やかなカップルは考えられませんわ。」
「いやいや、ただの老人の夢物語とお笑いください。リュウは北斗神拳だけでなく北斗宗家もいずれ正式に継ぐこととなりましょう。宗家の嫡男と天帝のご成婚。ミュウ様の仰るとおり、乱世に疲れ果てた民もこの婚礼を祝福することでしょう。まさに平和の象徴ですな・・・・。」
「わたくしもこれで肩の荷が下りた気が致します。正直なところ天帝に相応しい殿方を見つけるのは容易なことではありませんから。」
「それはそうでございましょうな。ただミュウ様、このこと今しばらくは我ら二人だけの秘密にしておいていただけませんか。実はケンシロウ様にもまだ相談していませんし。それにリュウはいまだ父ラオウのことしか知りません。」
「まあ。それはまたどうして・・・・?」
「私ごとき非特権階級の五車星の血がリュウに混ざっていてはかえって将来の妨げというもの。私はただ遠くからリュウの幸せを見届けられればそれでよいのです。ですからこの婚礼の話も、ミュウ様から時機を見てケンシロウ様にお話していただくということにしてもらえないでしょうか。」
ミュウはさすがに私の本心を図りかねるという表情を見せた。
「本当にそれがよいことなのでしょうか?リュウ様にとって実の母も祖父も知らずに育つということが・・・・・。結婚が成立すればルイ様にとってもリハク殿は義理の祖父。リハク一族にとってもこれ以上の名誉はないのではありませんか?」
「いやいや、これでよいのです。私は所詮五車星の一星、海のリハク。特権階級の中でも頂点に位置する天帝との婚姻など恐れ多いこと。それに軍師というのは本来表立った栄誉より、誰にも気づかれず影で一人ひっそり祝杯をあげることを願うもの。」
「リハク殿がそこまで言うならこれ以上は申しますまい。それではわたくしからも代わりに一つお願いがございます」
「はい、私で出来ることなら何なりと・・・・。」
「全てが終わってリハク殿がひっそりと祝杯をあげる暁には、わたくしにそのお相手をさせてくださいませんか?」
ミュウのあまりにも意表を突いた提案は、ここまで予定通りに話を進めていた私の余裕を瞬時に奪うのに十分なものだった。
「ミュウ様が・・・・?」
「孤独を愛する天才軍師にもたった一人くらい理解者がいてもよろしいのではありませんか?それとも他にそういう時の特別なお相手でもいらっしゃるのかしら?」
先ほどまでの真剣な顔から一転して今度は無邪気とも思える愛らしさをミュウは振りまいていた。
「いやはや、参りましたな。ミュウ様のようにお美しいお方が私などのお相手をしていただけるとは。ならばこのリハクせいぜい長生きせねばなりませんな。」
「あら、お世辞は通用しませんことよ。どうせ私は地味で目立たない女の子ですから。ではその時を楽しみにしていますわね。」
そう言うといたずらっぽく笑いミュウは去っていった。
私はしばし呆然と立ち尽くしていた。
(やはりあの女は私の過去を知っている・・・・・。だがどこまで・・・・・。)
第50話 野望の全貌
いよいよ私の野望の最終到達点も現実のものとなろうとしていた。
南斗六聖拳の将を守護する五車星の一星に過ぎない我がリハク一族が、ついにこの世界の頂点に位置する天帝と交わる。
核戦争後の未曾有の乱世というかつてない混乱の世だからこそ成し得た出世。
私は帝都からの帰り道、これまで駆使してきた権謀術数の数々と来るべき栄光を思い、一人昂ぶっていた。
しかし別れ間際のミュウの言葉が頭を過ると、この興奮にも少し水を差された気がしてしまうのだった。
(あの女は一体何を企んでいるのか・・・・?)
ミュウは今でこそ誰もが見とれるほどの美人だが、少女の頃は十人並みの容姿でしかなく決して目立つ方ではなかった。
ファルコの母はまだあどけなさの残る少女のミュウを見て「この子は将来美人になる」と予言をしていたが、私はそれを同性ゆえの客観性の欠如の成せる業だと当時は見ていた。
女性が同性の容姿を評価する際に、相手の性格が自分にとって好ましいか否かがポイントに大きく影響するというのが古今東西不変の真理であるからだ。
そしてファルコの母は明らかにミュウの性質を気に入っていた。
その好意的感情が、ファルコの母のミュウの将来性に対する予測を無意識の内に上方修正させていたのだろうと私は考えていた。
その時ファルコの母と確かそんなような話を冗談交じりにしたことを記憶している。
そんな大人の男女の他愛もない会話をあのミュウという女は知っていた。
ファルコの母がミュウという女性に私のことを話したのはまず間違いないだろう。
問題はそれがどの程度までかだ。
いずれにしても先ほどの会話から、ミュウが今すぐ私に何かを仕掛ける気はないということははっきりした。
ならば現時点でこちらも無理に追及すべきではないだろう。
何しろリュウと天帝ルイの縁談を無事まとめるためにはミュウは絶対に必要な存在。
ミュウならばルイを上手に説得することが出来よう。
短時間共にしただけでも、天帝がミュウという側近をどれだけ信頼しているかはよく伝わってきた。
逆に言えばミュウがその気になりさえすれば、この縁談を天帝の意志として拒絶するように仕向けることもまたたやすいことだろう。
つまり私の野望の成否は望むと望まざるとに関わらず、今やあのミュウの心一つにかかっていた。
切り札を向こうが握っている以上、ミュウの出方を待つしかあるまい。
少し時間がかかったがようやくそう考えをまとめると、私はもうミュウのことをあれこれ心配することを止めた。
状況を分析し事態を好転させるために頭を使い、可能な限りのあらゆる策を巡らすのは軍師としてもちろん必要な能力だがもう一つ、軍師にとって欠くことのできない大事な資質がある。
それは考えてもどうにもならないことにいつまでも拘らないという決断だ。
人間の思考能力などはおよそ限られたもので決して無限ではない。
考えるべきことに最大限の力を使い、そうでないことには使わない。
言葉にしてしまえば簡単なことだが、これを文字通り実行できる者はそう多くはない。
そして今目の前にある問題が、頭を使うべきものであるか否かの見極めができるかどうかも軍師としての重要な資質。
そして今は頭を使うべき時ではないという決断に達すれば、即座にそこから頭を切り替える。
つまりは限られた能力を有効に活用するということだ。
私はミュウのことを頭から追い出し、今私の成すべき事に集中することにした。
それは情報収集と町の建設である。
ケンシロウとリュウがどういう修行をしているのか。
そしてリンとバットの行く末はどうなりそうなのか。
私は各地に偵察隊を派遣し仔細を報告させることにした。
こういう活動は軍師である私の得意分野であり、この手の作戦に長けた部下たちは日頃から訓練しており人材にはこと欠かない。
私は表向きは海のリハクとして新たな南斗の将を迎えるための町の建設に着手しながら、リュウとケンシロウの修行の旅を耳と頭で楽しんでいた。
第51話 継承者への旅
リセキからリュウを預かったケンシロウは、ハクリ夫婦のいる山奥へと向かった。
そこは最近流行していた伝染病の患者達が隔離された場所。
ハクリの妻もその伝染病に犯されてしまったのだという。
ハクリ自身は病にかかっていなかったが、長年連れ添った妻を一人そのような場所に置き去りにするのは忍びなかったのだろう。
リセキにリュウを預け、妻と共に隔離された地で暮らしていたのだった。
ケンシロウとリュウがその地で再会を果たしたのも束の間、ハクリ夫婦は無残にもリュウたちの目の前で惨殺されてしまう。
殺ったのはコウケツという者の部隊だった。
コウケツとは元は拳王軍団で馬のえさ係という仕事をしていた者で、その名を知る者はほとんどいないといういわゆる小物であった。
多少は小知恵の聞く者のようで拳王、サウザー、ファルコといったツワモノどもがいなくなったのをいいことに、知力で武の力を牛耳ろうとしていた。
ケンシロウはリュウの最初の相手として、このコウケツを選んだようだ。
知力で武力を支配するという考え方自体は決して間違ってはいないが、それを自ら実行するにはコウケツの身分はあまりにも卑しすぎた。
表の世界であればそれでもまだ純粋に知力だけで伸し上がることも可能だが、この裏世界ではどこの馬の骨とも知れぬ小ざかしい策士などに心から従う者はいない。
コウケツよりはまだ身分の高いこの私ですら、いかに智謀があろうともただそれだけでは所詮南斗の将を守ることに命を捨てることが最高の名誉とされる五車星でしかないのだ。
要するにコウケツとは、分不相応な出世を己の才覚だけで成し遂げようとした哀れなピエロに過ぎない。
図らずも帰国したばかりのケンシロウと関わったのは不運と言えなくもないが、遅かれ早かれ誰かに潰されるか裏切られるかして滅んだだろう。
コウケツが成り上がろうと思えば、高貴な身分の者を形の上でトップに置いて、その参謀として実権を握るというやり方しかない。
例えばジャコウのように。
ジャコウはコウケツごときと比べれば、思えばかなりうまくやっていた方であったと言えよう。
天帝というこの裏世界のトップを戴き、ファルコという武のトップを従わせるというジャコウの政略は、実に理に適っていると言わねばなるまい。
ただジャコウの最大の過ちは、あまりにも早くから己の欲を前面に出しすぎたことだ。
天帝とファルコを幽閉と脅迫という強制的な形ではなく、あくまで大義名分の下に自分の意のままに操るという才覚がもしジャコウにあれば、あるいは敗れたのは私の方だったかもしれない。
いずれにじてもジャコウと比べればコウケツなどは取るに足りない存在であった。
案の定リュウとケンシロウの師弟コンビはウォーミングアップ代わりにコウケツ一味を一掃。
リュウとしてはこの時初めて北斗神拳というものを目の当たりにしたことになり、その衝撃は想像するに余りある。
この凄まじい拳法を受け継ぐということが何を意味するのか、嫌でも考えさせられたに違いない。
少年ならば誰もが夢見る超人への憧れが現実のものとなろうとすることへの期待と不安と戸惑い。
そうした様々な感情を体験し、それらを制御し、拳の巨大な力に呑み込まれない精神力を作り上げることもこの旅の大きな目的の一つなのだろう。
コウケツ一味を一掃したケンシロウとリュウは、その地をかつて拳王軍の猛将と称されたバルガに預けることにした。
バルガはその息子をコウケツに人質に取られていたために、奴隷という屈辱的な身分で仕えていた。
バルガという男にもう少し知恵があれば、人質を見つけ出し状況を打開するというくらいのことは可能だっただろうが、この男もどうやら無骨一辺倒の武将だったらしい。
リュウが人質を解放し、ケンシロウに勇気付けられたことでようやくかつての猛将の誇りを取り戻すことができたようだ。
ケンシロウとリュウは、そこからさらに辺境の山奥へと向かった。
そこでサヴァという国の王女と出会い、その国へ招かれることとなる。
サヴァ国は周囲を山で囲まれ外界から閉ざされた地で、かつては蛮族が跋扈していたがアサムという男が一代で平定し国王として治めているのだそうだ。
そのアサムには三男一女という四人の子がおり、末の一人娘である王女サラが、たまたま旅をしていたリュウとケンシロウに出会ったという経緯であった。
アサムには末娘のサラの上に三人の男子がおり、この三人がサヴァ国の次期国王の座を巡って醜い争いをしていた。
すでに病で余命いくばくもないことを自覚していた国王アサムにとって、自身亡き後に息子三人の争いによって国が滅ぶことが唯一の心残りであった。
そんな時に現れた伝説の北斗神拳継承者。
アサムにとってはまさに神の思し召しと感じられたのだろう。
藁にもすがる思いでアサムはケンシロウに三人の始末を依頼する。
無論ケンシロウにはアサムの本心が分かっていた。
そこでケンシロウ自身が三人の前に立ちはだかり、その圧倒的な強さを見せ付けることによって、自分のことしか考えなかった三兄弟の心の絆を取り戻させることに成功。
内部をまとめるには外に共通の敵を作るのが得策という古くからの常套手段を用いたに過ぎなかったが、もともと心が歪んでいたわけではない三人にとってはこれで十分だった。
ケンシロウに全てを託したアサムは、死ぬ間際になってようやく三人の息子達が協力して国を守っていく姿を見ることが出来たのだった。
結局三人の息子のうち長兄であったカイは戦闘で死に、三男サトラが次兄ブコウに国王の座を譲ることで継承問題は解決。
そしてケンシロウとリュウもサヴァ国を後にした。
次に二人が向かったのはブランカという極北の聖国であった。
ブランカはかつては羊の民の国と呼ばれるほど平穏な国であったが、今はある男に乗っ取られたことで狂信者の国へと変貌。
実はアサムの長兄カイを殺害したのもそのブランカの兵であることが判明していた。
そして三男サトラの婚約者はブランカの王女ルセリだった。
そのルセリに亡き妹の姿を見て、一方的な盲愛を捧げブランカを狂わせた張本人こそ、自ら光帝と名乗るバランという男であった。
その頃私は一組の親子の訪問を受けていた。
先にケンシロウによって奴隷同然の屈辱的な扱いから解放された、元拳王の将軍バルガとその息子シンゴであった。
第52話 武将バルガ
その大柄な男はいかにも実直そうであり、これまで武の力でこの世の中を渡ってきたことから培われた自負心を全身に漲らせていた。
と言っても決して相手を必要以上に威嚇、威圧して怯えさせることで優越感を覚えるといったようなタイプではない。
むしろ静かなる威厳とでもいうべき雰囲気を備えており、およそ武将として誰もがかくありたいと願う理想像を全身で体現したような男とでも言ったらよいだろう。
それがかつて拳王軍の猛将として恐れられたバルガという男の第一印象であった。
以前リュウを預かってもらっていたリセキという男は、どちらかと言えば拳王軍には珍しい文官に属するタイプであったが、このバルガはまさに武官の代表格と言えよう。
そのバルガがシンゴという息子を連れ私の元へ、すなわち旧南斗の都へと赴いて来たのだった。
「これはこれはよくぞ参られました。拳王軍にその人ありと謳われた勇将バルガ殿とこうしてお会いできるとは光栄の至り。」
「いやいや、こちらこそあの拳王様と一戦を交えたこともあるという伝説のリハク殿との対面、楽しみにしておりました。」
「一戦などとは恐れ多いこと。私などはケンシロウ様とラオウ様の戦いにちゃちゃを入れただけにございますれば。」
「なんの御謙遜を。しかし今やあの頃の戦いを知る者も少なくなりましたなあ。今宵はリハク殿とゆっくり昔話などしたいものでございます。」
「私もバルガ殿の武勇伝の数々を伺えるとあらば、何の異存がございましょうや。」
(武将という人種は戦がなくなれば所詮過去の栄光を語るのみか。これからはますますこういう男は使い道がなくなっていくであろうな・・・・)
内心ではそのようなことを考えながら、その晩私はバルガと酒を酌み交わした。
話の大半は他愛もない武勇伝であったり、バルガの勇猛さと拳王への二心無き忠誠を示すエピソードであったり、まあ雑談としては決して退屈ではなかったが、ただそれだけのことでもあった。
バルガは昔話を共有し、自分の武将としての価値を分かってくれる者が欲しかったのだろう。
ケンシロウに救われた際に、「狼の時代はまだ終わっていない」と言われたことで、コウケツに踏みにじられてきたプライドが少し回復した直後だっただけに誰かに過去の栄光を喋りたかったのだろうか。
もちろんバルガがわざわざここへ来た本当の目的が他にあることは分かっていたが。
ひとしきり自分の話しを終えると、バルガはようやく本題を切り出した。
「ところでリハク殿、リュウ様のことですが・・・・」
「リュウ様の・・・・?」
私はとりあえずバルガの話を聞いてみることにした。
ケンシロウがこのバルガという男にリュウのことをどこまで話しているのかがわからなかったからである。
「さよう。ケンシロウ様からお聞きいたしました。リハク殿はラオウ様の遺児リュウ様のことをご存知だと。」
「ほう、ケンシロウ様から・・・・?で、なんと?」
「はい。ケンシロウ様はリュウ様に、北斗神拳継承者としての心構えをまず身を以て教えた後で、しばらく離れるお積りと。その後このわたしめにリュウ様と共に旅をせよと。」
「ほう。それは実に素晴らしきお役目。猛将バルガ殿にこそ可能な英才教育ですな。」
「なんとも恐縮でございます。わたしごときに北斗神拳継承者となるべき方の教育など恐れ多いことと、ケンシロウ様にはお断りしたのですが・・・・・。」
「いやいやさすがはケンシロウ様。バルガ殿の勇敢さ、実直さ、武人としての誇り高き振る舞い。どれをとってもリュウ様の成長に必ずや大きな糧となりましょう。」
「そうだといいのですがな。で、ここからが本題ですが・・・・」
「はい、なんでございましょう?」
「ケンシロウ様からは、いずれ大きくなって心がしっかりと育った頃にもう一度リュウ様を迎えに来ると言われております。それまでリュウ様の成長の過程を、リハク殿に定期的に報告してもらいたいとのこと。」
「この私にでございますか・・・?」
「さようで。しかもそのことをリュウ様には内緒でということでしたので、さすがにこのバルガも気になりましてな。リハク殿はリュウ様と何か関係がおありで・・・・?」
「いや、私ごときはリュウ様とはなんら関係はございません。恐らくここまで長生きした私へのケンシロウ様からのお心遣いでしょう。ケンシロウ様がユリア様とお二人でお暮らしの間は私が北斗軍の参謀のような役割もしていましたからな。それにしてもありがたいことでございます。」
「なるほど。そういうことでしたか。それで得心いたしました。そうそう北斗軍と言えばリーダーをしていたのはかつてケンシロウ様と共に旅していたあの少女と少年でしたな。その後あの二人はどうしていますかな?もう随分大きくなったでしょうなあ。」
「はい。二人とも北斗軍の若きリーダーとしてよくやってくれました。ただその後は色々とありましてな・・・・・。」
私はリュウの話をこれ以上詮索されることを恐れ、注意を逸らす目的もあり、リンとバットのことを語りだしたのだった。
第53話 旅の終わり
私はバルガにリンとバットのここまでの経緯を話し出した。
バルガは拳王亡き後は誰にも組せず、天帝と北斗が戦ったことは風の便りに聞き知っていたが、リンがその天帝の双子の片割れだったという情報までは知らなかった。
バルガは私の話に熱心に耳を傾けていた。
特に元斗皇拳ファルコや修羅の国の北斗琉拳の使い手たちとの戦いの様子には、武人らしく子供のように興奮を隠さなかった。
「まだそのような強き者どもがおりましたか。拳王様も生きておればさぞ拳を交えてみたかったことでありましょうなあ・・・・・。」
「さようでございますな。ラオウ様は本当に拳の道一筋のお方でしたからな。」
「まことに。それでその拳王様の兄、カイオウに記憶を奪われたリンはそれからどうなりました?」
「はい、ケンシロウ様はリンの愛を受け入れることが出来ずバットにリンを委ねました。バットが以前からリンに心を寄せておりましたことはケンシロウ様も重々ご承知でしたからな。そしてバットはめでたくリンと結ばれるはずでしたが・・・・。」
「はず・・・?というと?」
「バットという男、ケンシロウ様を兄のように慕っておりましてな。同時にリンのことも心より愛していました。その双方への思いが葛藤した結果、記憶を無くしたままのリンと自分が結ばれるのはフェアではないと判断したようですな。」
「なるほど、一個の武人としてはその心境分からぬでもありませんな・・・・。それで?」
「バットはケンシロウ様の見よう見まねで秘孔を突き、リンの記憶を新たに封じることにしました。しかも結婚式当日に・・・・。」
「なんと・・・・・。」
「そしてもう一度リンにケンシロウ様への愛を思い起こさせてやろうと、二人で旅に出たのでございます。」
「そうでしたか。バットという男、なかなか天晴れな武人になったものですな。してケンシロウ様はこのことを御存知で・・・・?」
「いや、恐らくはまだなにも。リュウ様とお別れになった後、一度はリンとバットがいた村へ立ち寄ることと思いますので、その時に知ることとなるでしょうな・・・・。」
「果たしてケンシロウ様はどうされますかな・・・・・。」
「ケンシロウ様は男女の仲にはとても潔癖でいらっしゃいますからな。恐らくは生涯ユリア様以外の女性と関係を持つことはありますまい。」
「やはりそうですか・・・・・。となるとリンが記憶を戻し、自らの意思でバットと結ばれるようになれば誰にとっても望ましい結末、ということになるのでしょうな・・・・。」
「仰せのとおりにございます。女性は男性に望まれて一緒になる方が幸せになれるとも言いますしな。」
バルガは大いに飲んで語り、すっかり満足した様子で翌日息子シンゴと共に旅立っていった。
バルガ親子はケンシロウからの伝言を受け、リュウを迎えに行ったのだった。
極北の聖国ブランカという国へ。
私は手の者を使ってバランという男について調べさせていた。
羊の民の国と呼ばれていたブランカを狂信者の国へと変えた男バランは、幼き頃ラオウに感化された一人であった。
もともとごく普通の少年だったバランの性格を現在のように歪めたのは皮肉にも愛する妹の存在だった。
盲目的に神を信仰する敬虔な妹ユウカはある時病に罹ってしまう。
病を治すために薬を進めたバランであったが、ユウカは兄が他人を傷つけてその薬を得たことを知り、神がお許しにならないと言い服薬を拒否。
あくまで神の思し召しに従ったユウカの信心は、死という最悪の結果を招くこととなった。
以来神という存在に対して歪んだ憎悪を抱くようになった少年バラン。
そんな時にたまたま出会ったのが拳王であった。
それまで少年が目にしたこともない巨大な黒い馬に跨り、腕一振りで数十の雑魚を一瞬でなぎ倒す巨躯の漢。
自身が神を超える存在であれば妹も神ではなく自分を信じ死なずに済んだはず、という屈折した解釈をしていた少年バランにとってみれば、この世の業とは思えない圧倒的な強さと存在感を誇るラオウの中に、これこそまさしく「神を凌駕した男」という理想像を見出してしまったとしても無理からぬことだろう。
少年バランは頼み込んで拳王と旅を共にし、その時に北斗神拳の技も多少盗んだらしい。
しかしある時バランは突然拳王から破門を言い渡されてしまう。
それは旅の道中で妹に似た孤児をバランが見つけ、声をかけた時のこと。
ラオウはいきなりその孤児を殺せとバランに命じ、バランが躊躇したのを幸いと「情を捨てずして神に復讐などなせるはずがない。」などという言いがかりをつけて一方的に破門したのだった。
ラオウからすれば体のいい厄介払いということだろう。
その後バランは成長し極北の地に流れ着く。
そこで出会った王女ルセリが亡き妹に生き写しであり、また盲目的に神を信じる生き方も酷似していたため、バランは妹の時に果たせなかった思いをルセリに対する偏愛という形で代償しようとしたようであった。
拳王から盗んだ北斗神拳を駆使し、ブランカの王族たちを牢獄へ繋いでたちまち実権を握ることに成功。
そうして神ではなく己の力の強大さを見せ付けることで自分を信仰させようとしたわけだが、そんなやり方がまともな人間に通用するわけはない。
手法としてはかつてシンが我が主ユリアに用いたのとほぼ同じだが、妹の影を全く別の女性に投影しているという点においてバランの方がより病巣は深いと見るべきかもしれない。
そのルセリという女性にとってみれば、迷惑極まりない一歩的な片思いに過ぎなかっただろう。
思うにこのブランカにしても先のサヴァにしても、その地理的優位さのために中央の争いからは逃れ、情報も入りづらかったのであろう。
バランも拳法家としての力量的には多少北斗神拳が使えるという程度に過ぎず、かつてのアミバにも劣るレベルではなかったかと思われるが、彼の地ではそれでも一時的とはいえ神を超えた男になれたようだった。
もちろんケンシロウが苦戦するような相手ではなく、完膚なきまでに力の差を見せ付けられ完敗。
おまけにあの「神を超えた男」だと信じていた拳王が、既にかなり以前にケンシロウに倒されていたことを知らされたため、ショックですっかり心が折れてしまったのだろう。
拳王の遺児リュウにまで慰められるという醜態をさらし、心身ともにボロボロになってあっさりと己の考え方の非を認めてしまった。
どうやらケンシロウはこの機を利用してリュウにラオウの父としての思いを伝えようとしたようだ。
ケンシロウはバランに対し、「ラオウがお前を切り捨てたのは、お前の中に自分と同じ弱さを見たからだ。ラオウもまた己の子リュウを捨てることも忘れることもできなかった。」と諭したようだが、これはバランにではなく実際はリュウに向けられたものだろう。
つまりラオウは以前からリュウの存在を気にかけていて、父として子を思う気持ちをちゃんと持っていたというメッセージだ。
実際にはラオウがリュウの存在を知ったのはケンシロウと最終決戦をする少し前のことで、バランと旅をしたのがいつかは正確には分からないものの、少なくともその時期にラオウが我が子の存在などを知る由はなく、それどころかおそらくはトウの体にラオウの種が宿るのさえそれよりはかなり後のことだったろう。
まだ子供のリュウならともかく、ケンシロウがそのくらいの矛盾に気づかないはずはなく、おそらくは意図的に子供だましの嘘をついたものと思われた。
物心ついた時には既に両親ともにないままに育てられたリュウに対する、ケンシロウの優しい嘘というべきだろう。
さて己の過ちを認めたバランは自ら後始末をすることになった。
それはまだ神の奇跡を信じる愚かな民衆に対し、神通力が失せたことを明瞭に分からせる儀式のようなもので、まあ茶番には過ぎないが民衆はこういう分かりやすい劇を好むものだから、これはこれでそれなりの効果はあるのだろう。
ケンシロウが果たしてこのバランにシンの面影を見たかどうかまでは定かではないが、コウケツ、アサム、バランと戦うことで、どうやらリュウの継承者としての教育の第一段階を終えたと判断したようだ。
かねてよりの計画通りケンシロウは書置きを残して消え、代わりにケンシロウにリュウを託されたバルガとシンゴの親子が迎えに来ていた。
ここからは北斗神拳なしでリュウはしばらく戦わねばならない。
もう南斗も北斗も元斗も名だたる者たちは死に絶えている。
猛将バルガほどの男がついていればそうそう危険なことはあるまい。
私はバルガからの表向きの報告と自ら放った偵察隊の情報から、リュウの成長を居ながらにして知ることが出来るようになった。
北斗神拳の次期継承者はどうやら順調に歩み始めたようだ。
次はいよいよ南斗六聖の将にして、我が主ともなる慈母星の後継者を何とかしなければならない時期にきていた。
結婚式当日に新郎に記憶を奪われた花嫁リンを。
第54話 長老の村
それは俗に人生の門出と称される日に起こった。
幼き頃から幾多の苦難を共に乗り越えてきた二人にとって、ようやく訪れた安寧の日々。
お調子者のバットとしっかり者のリン。
見た目にもお似合いのこのカップルが、晴れて結ばれることに異議のある者など一人としていないはずだった。
新郎ただ一人を除いては。
バットにとってケンシロウは少年の頃に出会った絶対的な存在であり、慕い、憧れ、やがては超えてみたいという究極の対象となっていた。
もちろん拳法家としてケンシロウを超えるなどという大それた夢は、成長とともに培われる現実的な判断力と引き換えにとうに無くしていた。
しかし一個の男子として、なにか一つくらいはあの人を超えてみたいという願望までは捨ててはいなかった。
そしてその一つがバットにとってはリンという存在だったのだろう。
リンがまだ少女の頃からケンシロウに思いを抱いていることは、一番近くでずっと見てきたバットには誰よりもよく分かっていた。
成長したリンが大人の女性としてケンシロウを見るようになったことも。
だからバットは自身の思いをリンに告げることはしなかった。
いつかリンがケンシロウではなく自分と結ばれることを選ぶその日まで。
そしてその時初めてバットは男としてケンシロウを超えたと実感できる。
それがバットの中での究極の戦い。
誰よりも敬愛するケンシロウとの拳なき戦いであった。
そんなバットの漠然とした思いが、晴れの舞台である結婚式当日についに抑えきれないものとして噴き出した。
カイオウに突かれた死環白という破孔の影響でケンシロウの存在を忘れてしまったリン。
そんなリンに愛されて結ばれたところで、自分はケンシロウに勝ったことにはならない。
今ここでリンと結婚式を挙げてしまえば、もう一生自分にはケンシロウを超えるチャンスは訪れない。
バットは修羅の国から帰還後ずっと心に秘めていた思いを、とうとう式当日に決行した。
リンの秘孔を突き、再び全ての記憶を奪ったのだった。
そしてハネムーンは全てを失ったリンの記憶を呼び戻すための思い出探しの旅へと変わった。
失くしたものなら一から取り戻せばいい。
いかにもバットらしい分かりやすい発想だ。
修羅の国から帰還後も私はリンとバットの様子を偵察隊に探らせていた。
既にリュウという宗家の血を引く後継者を定めた以上、ケンシロウがリンの気持ちを受け入れる可能性は限りなくゼロに近かったが、それでも念には念を入れねばならない。
この先もリンとバットにかき回されては、ケンシロウが北斗神拳継承者としての本来の務めを果たす妨げにもなろう。
それはひいてはリュウに北斗神拳を伝承する時期が遅れることを意味する。
さらにはユリアの後の南斗六聖拳慈母星をリンに継いでもらうという私の計画にも支障をきたすこととなる。
したがってリンとバットが結ばれることは私にも大いに意味のあることだった。
しかしバットの男としての気持ちを考えると、この問題を解決するにはリンの記憶を元に戻した上で、自らの意思でバットと結婚させるしかなかった。
やはりここはケンシロウにもう一肌脱いでもらう他あるまい。
私はバルガが去った後、ケンシロウを待ち伏せすることにした。
リュウをバルガに預けたケンシロウが向かったのはユリアが眠る墓。
私はその少し手前で待ち構えていた。
「リハク、こんなところでどうしたのだ?」
私の姿を見咎めたケンシロウは訝しげな表情を見せた。
「はい、実は折り入って御相談が・・・・」
「リュウのことか?バルガのことはお前に相談なく決めてしまったがあの者なら心配はあるまい。」
「はい、バルガ殿は先日私のところへ出向いてまいりました。さすがは拳王軍の猛将と言われただけに実に立派な将軍でございますな。あれならリュウにとってもよきお手本となりましょう。相談というのはリンとバットのことにございます。」
「リンとバット・・・・。二人の身に何かあったのか?」
「いや、命の危険というようなことではございません。ただバットはあなた様にもリン様にも遠慮があり、記憶を無くしたままのリンを妻にすることが出来ないようです。」
「そうか・・・・。バットらしいな。で、どうなったのだ?」
「はい、それが結婚式当日にバットはリンの記憶を封じ、二人で旅に出たようです。」
「旅に・・・?」
「恐らくはリンに記憶を取り戻させるための旅かと・・・・。」
「いかにもバットが考えそうなことだな。」
困ったようなそれでいて穏やかなケンシロウの表情だった。
その顔は出来の悪い弟を思う情に溢れていた。
「で、リハクよ、俺にどうしろと?まさかリンの気持ちを受け入れて結婚しろなどと言うわけではあるまい。」
「マミヤならそう言うでしょうな。さすがに私もそこまで情に目がくらんではおりませぬ。」
「マミヤか・・・・。あの女にはさぞ薄情だと詰られような・・・・・。」
「でしょうな。ただバットはリンの気持ちが本当に自分に向いていなければ意地でも結婚はしますまい。もちろんリンの記憶が、つまりあなた様への思いも含めて全て戻った上で、ですが。」
「どうやらそのようだな。なるほど。そこで俺に一芝居打てということか。」
「はい、ケンシロウ様もいつまでもあの二人と関わっているわけにはいきますまい。」
「そういうことか。よく分かった。あの二人は小さい頃から知っているからな。最期の最期まで世話を焼かせる二人だ。」
そう言いながらもケンシロウは笑っていた。
私とケンシロウはその後の段取りを打ち合わせて別れることにした。
ケンシロウはその後ユリアの墓に行き、そこで待つマミヤと会う事となる。
そしてマミヤからさも初めて聞くような顔をして、リンとバットのここまでの経緯を聞く。
案の定リンの気持ちに応える気がないことを知ったマミヤから、ケンシロウはかなり罵倒されたようだ。
かつてケンシロウに思いを寄せたがかなわなかったという経験を持つマミヤは、ケンシロウから唯一愛されたユリアに対する嫉妬心からリンに己を投影させていたのかもしれない。
(愛する者には愛されず、愛してくれた者は既にこの世にいない。マミヤも哀しい定めよのう・・・・)
かくしてケンシロウは、リンとバットの前には二度と顔を出さないとマミヤに告げ、その場を立ち去った。
そして私との打ち合わせどおり記憶を無くしたふりをしてリンとバットの元へと赴いた。
二人の居場所はすでに分かっていた。
リンとバットが記憶を呼び戻すために最初に訪れたのは、ケンシロウとリンが初めて出会った村。
すなわち私がかつて長老として治めていた村だった。
第55話 大団円?
記憶をなくしたふりをしたケンシロウは、あの時同様水を求めて彷徨い、たまたま村へ辿りついた風来坊という風を装った。
リンとケンシロウが同時に記憶を失うなどというこのわざとらしい筋書きを、バットが信じてくれるかどうかがこのお芝居の成否の鍵であったが、どうやら杞憂に終わったようだ。
バットはこのありえない偶然を、二人がやり直すための好機と都合よく捉えてくれたようだ。
リンの記憶を取り戻すよりも、このまま二人だけでなにもないところから新たな記憶を積み上げていく方が良策と判断し、二人には何も告げず黙って村を立ち去ったのだった。
(恋は盲目というがバットも相変わらず真っ直ぐすぎる男よ。まあそのおかげでケンシロウ程度の猿芝居でも事はうまく運ぶことになりそうだが・・・・)
その間に私は既に次の手を打っていた。
お芝居を盛り上げるには敵役が必要なのは古今東西不変の真理。
私は配下の者たちに探らせて格好の相手役を見つけていた。
かつてケンシロウに両目を奪われた過去を持つ小悪党のボルゲという男がそれだった。
ケンシロウの相手として場を盛り上げるにはいささか力不足ではあったが、今回主に相手をするのがバットということになるので、あまりに強すぎて一撃でバットが死んでしまっては元も子もない。
そう考えればボルゲ程度がまあふさわしい実力ということになるだろう。
なによりこの役に必須な要素は視力を失っているという身体的特徴と、ケンシロウに対して今も恨みを抱き続けていて、なおかつ今度はケンシロウに勝てるはずという根拠のない過信を持っているという性格的特徴の二点であった。
ケンシロウに対して恨みを抱いている者なら掃いて捨てるほどいる。
ボルゲのように目を奪われた者もいれば聴覚を失った者、舌を抜かれて喋れなくなった者、腕や足を奇妙な形に捻じ曲げられたまま生きていかなければならくなった者など、いくら悪党とはいえ見るも哀れとしか言いようのない無残な姿でかたわとして生かされた者たちの数は数えきれない。
おそらくケンシロウと戦ってたまたま命を永らえた小悪党の中で、恨みを持っていない者など皆無と言ってもいいのではないか。
しかしたいていは彼我の圧倒的な実力差を思い知り、わずかでも客観的な判断力を有している者であれば、いかに恨んでいようともあのケンシロウに再度戦いを挑もうなどという気にはならないのが普通だ。
だが中にはそうした客観性を全く持たず、端から見れば無謀としか思えない勝算ゼロのチャレンジを懲りずに繰り返せるタイプの者もいる。
ボルゲはいわゆるそうしたおめでたい奴であり、その稀有な性質が今回のキャスティングの決め手となった。
私はボルゲ一味にそれとなく噂が伝わるように仕組んだ。
どうやらケンシロウがこの辺りをうろついているらしいと。
思惑通り復讐に燃えるボルゲは己の力量も省みずケンシロウを探し始めた。
ボルゲは目が見えないのをいいことに手当たり次第に出会った者を殺しては両目を潰し、胸に七つの傷を付けて公開処刑をし始めた。
バットが執念に燃えるボルゲの存在を知ればどういう反応を示すかなど、私には手に取るように分かっていた。
ボルゲ程度の雑魚は仮に記憶をなくしていようともケンシロウの敵ではないのだが、そうした適切な判断力よりも、己の感情に任せて正義感を振りかざし自己満足の世界に浸りたがるのがバットという男の本質であった。
さすがのバットもボルゲの目が見えていればそんな計画を実行に移すこともなかっただろうが、今目の前でケンシロウに復讐の炎を燃やしている男は盲目。
この偶然にバットは必ず飛びつく。
これはもはや予測というよりは確信に近いレベルだった。
案の定バットは自らの胸に七つの傷を付けてケンシロウと名乗り、ボルゲと相対した。
勝負はあっけなくついた。
ボルゲも小物に過ぎないが、バットはそれ以上に弱かった。
ボルゲの変則技に翻弄されたバットは敗れ、十字架に磔にされたまま公開処刑に処されようとしていた。
私はもちろん事の経過をケンシロウに逐一伝えていた。
ケンシロウはリンと二人であの村に残されながら徐々に記憶を取り戻してきたというふりをして、タイミングを見計らいバットを探しに村を出た。
そしてこれ以上はないぎりぎりのタイミングでケンシロウは登場する。
バットの盲愛に共感したお節介なマミヤがボーガンでボルゲを射ようと試みるが、逆にあっさりと反撃され捕まってしまう。
ならばせめて苦痛のない死を、というわけでマミヤがその矢をバットに向けたその時。
「待ってました」という掛け声がないのが寂しいくらいの絶妙なタイミングで真打が登場。
これが舞台なら拍手喝采間違いなしの颯爽たる主役の登場であり、このあたりの演出効果というものをケンシロウは実によく分かっている。
この点はまさに天性の役者と言ってもいいだろう。
アドリブのセリフもまた実に小気味いい。
「貴様が本物のケンシロウか」と問うボルゲに対して、
「そうだ。貴様が誰だか知らん。だがその男返してもらうぞ」と切り返すことで、ボルゲを軽く愚弄すると同時に、聞いていたバットとマミヤにはまだ記憶は不完全にしか戻っていないことを端的に伝えることに成功した。
完全に元のケンシロウに戻ってしまえばボルゲごときに苦戦するはずもなく、それでは盛り上がりに欠けるというケンシロウなりの演出なのだろう。
まだ記憶が戻り切っていないケンシロウがボルゲの奇策に苦戦することでバットとマミヤの危機感を煽る。
そしてまだ磔にされたままのバットが気力を振り絞り「ケーン!!」と叫んだ瞬間に全ての記憶が復活する。
それはあの村で最初にリンとケンシロウが出会った時に、リンの心の叫びが声になった瞬間を彷彿とさせるシーンだった。
自分の思い描いた通りの反応がバットから得られたことでケンシロウもさぞやご満悦だったことだろう。
バットの叫びで一瞬にして生気を取り戻しあっさり形勢を逆転したケンシロウは、またも効果的なセリフを吐く。
「久しぶりだなボルゲ。二度までは生かさぬぞ。」
記憶が完全に戻ったことをバットとマミヤに的確に知らせ、同時に他人を生かすも殺すも己の気分次第という彼我の絶対的な力関係をボルゲに宣告した上で、ケンシロウはボルゲを瞬殺。
いや、正確には完全にとどめを刺さずにおいた。
最後はバットに花を持たせようということだろう。
死にぞこないのボルゲは近くにいたリンを道連れにしようと醜い悪あがきを始めた。
バットはここで自分が死ねばケンシロウとリンがめでたく結ばれるに違いないという、またしても自己満足以外の何物でもない衝動的な行動に出て、愛する者のために命を落とす悲劇のヒーローになったはずだったが、既にリンの記憶も戻っており、結局はいつものように道化を演じることとなった。
もちろんリンの記憶が戻ったのはケンシロウが本人に気づかれないようにカイオウに突かれた死環白を解いたからであって、偶然でも神のご加護でもなんでもない。
自分の幸せのために命を投げ出したバットを見てさすがのリンも考えを改めたようだ。
バットの墓を一生守っていくと言いケンシロウと別れることを決意。
当然ながらバットは死んではいない。
秘孔を突かれて一時的に仮死状態にされただけであって、ケンシロウが去ってからほどなくして息を吹き返した。
こうしてようやくリンとバットは理想的な形で結ばれることとなった。
記憶が戻ったリンが、ケンシロウではなく自分と結ばれることを自らの意思で選んだのだから、バットにとってもこれ以上の幸せはないだろう。
二人に解放されたケンシロウも、これで心置きなくその務めを果たすことが出来る身となったのであった。
めでたしめでたしの大団円である。
共同演出の片割れを担った私としても、この結果については何ら不満はない。
ではあるのだが、それでもやはりこううまく事が運び過ぎるとそれはそれで何かを疑わずにはいられなくなるというのが私の生まれながらの性分であった。
第56話 お芝居の後で
「どうやらうまくいったようでございますな。」
「ああ。少々手が込んだお芝居だったがな。これであの二人ももう大丈夫だろう。」
今、私の目の前にはケンシロウがいた。
当人同士が望むような形でリンとバットの二人をどうにか一緒にさせることに成功した北斗神拳継承者は、その帰りに私の元へと足を延ばしていた。
「はい。ユリア様もさぞお喜びでしょう。リンなら慈母星の後を立派に継いでくれましょうからな。」
「そうだな。俺もこれでようやく本来の務めに集中することが出来る。これからはリンとバットのことはお前に任せたぞ。」
「では、いよいよこれからですな・・・・。」
「ああ。これからが北斗神拳継承者にとっての大仕事になる。まあそうは言ってもラオウやファルコとの死闘を思えばどうということもないがな。」
「いえいえ。戦い済んで休む間もなく、他流派の継承者選びと技の伝承。思い切り戦って果てて逝った者達の方がむしろ気楽だったやも知れませぬ。これこそが北斗神拳継承者の定めとは言え胸中お察しいたします。」
「うむ。リュウが大人になるまでには一区切りさせておかねばな。」
「さようでございますな。北斗神拳は他の誰にも教えることは出来ませぬからな。リュウもその日を楽しみにしておりましょう。ところでケンシロウ様・・・・。」
私はどうにも我慢ができなくなり、心に引っかかっていたことを思い切って尋ねてみることにした。
「なんだリハク?」
「リンとバットのことでございますが・・・・?」
「うむ。」
「先の大芝居の結果、リンはとうとうあなた様ではなくバットと共に生きる道を選ぶことになりましたな・・・・・。」
「そうだな。それがなにか?」
「確かにリンの幸せを思い自ら死を選んだバットの気持ちがリンを動かしたという話はそれなりに説得力があります・・・・・。が、しかし・・・・。」
「しかし・・・・?」
「その点に関しては計画通りとはいえある種の賭けのようなものでもございました。果たして人の、特に女子の気持ちというものがそう計算通りに動くものかどうか。さすがにこのリハクにも確信はございませんでした。」
「なるほど。結果的にはその賭けに勝ったというわけだな。さすがは海のリハクと俺は感心していたが・・・・。」
「まああるいはそうなのかもしれません。しかし世の中にはもっと確実な方法というものもあるのではないか、とそんな思いもふと頭に浮かびましてな・・・・。」
「ほう。例えば・・・?」
「そう、例えばでございますが。ここにある者に術をかけられ記憶を封じられた女がいると致しましょう。さらにこの術は記憶だけでなく感情をも支配することが出来るとしましょう。意識を失って最初に目が覚めた時に見た者に情愛の全てを捧げさせることができる。そんな術です。」
私が何を言い出すのかと興味深そうにケンシロウはにやっと笑った。
「面白い術だな。それで・・・・?」
「はい。そしてここにもう一人別の術者が登場します。この者は前の者がかけた術を解くことができる。つまり術者としての力量はこちらの方が上ということになりますな。」
「なるほど。」
「この新たな術者は本人に気づかれない内に術を解いた。しかし、実はただ解いただけでなく、もう一つ新たな術をかけた・・・・・。」
「別の術を?」
「そうです。前の術者が感情を支配できたのですから、それよりも力量が上の新たな術者ならば当然もっと強力な術をかけることができてもなんら不思議はない。いかがでしょうかな、この設定は?」
「理に適ってはいるな。それで・・・・?」
「新たな術者は術をかけられた者が情愛を捧げる相手をすら自在に操ることが出来た。術者はその者がこの相手となら幸せな人生を送れるに違いないと思える人を愛するように仕向けることが出来た・・・・・。しかもその情愛の捧げ方は極めて自然なため、本人はもちろんのこと情愛を捧げられた方ですら、それがよもや術者の力によるものだとは夢にも思わない・・・・。」
例えというにはあまりに直接的な私の問いかけを興味深げに聞き入っていたケンシロウは、しばしの沈黙の後でこう話し始めた。
「実に面白い話だな。しかし・・・・・仮にそんな術があったとしても、術者はその力を生涯誰にも話さないだろうな。」
「ほう、それはまたどうしてでございましょう・・・?」
「あくまで仮にの話だが。俺がその術者だとして、誰かにそういう術があるかと尋ねられたらこう答えただろう・・・・・『この世の中には知らない方がいいこともある』と。」
ケンシロウは去っていった。
事実は誰にも分からない。
リンは本心からバットを愛したのか、それとも北斗神拳の力によるものなのか。
だがこの件に関してはケンシロウの言うことは正しい。
確かにこの世の中には知らない方がいいことがあるのだ。
第5章・最終章 「北斗の拳」後 第57話 結婚式
リンとバットを誰もが望むような形で結び付けることに成功してケンシロウは再び姿を消した。
それから数ヵ月後、私はその二人の結婚式に出席していた。
見る者にとっては先日途中で中断した式の続きということになるが、新婦にとってはそうではなかった。
前回の式では死環白を突かれて過去の記憶を失くした状態のままであり、先日の大芝居の結果その記憶を取り戻したリンであったが、その代償として逆に死環白を突かれて以降最近までの記憶は残っていないようだった。
つまりリンにとっては正真正銘これが生涯最初の晴れの舞台ということになる。
もちろん新郎バットにとっても単なるやり直しではない。
ケンシロウとの思い出を失ったまま、ただ眼を開いた時最初に見た男というだけで情愛の全てを捧げられての結婚という前回とは違い、今回は記憶と共にケンシロウへの思いをも取り戻したリンから生涯の伴侶として選ばれたのだから。
そしてもう一人、この私にとっても今回の二人の婚姻には特別な意味があった。
その目的のために私はリンには内緒でバットと話を進めていたのだった。
まずは養子縁組であった。
天帝の一族からは遠い親類にあたる家の生き残りを見つけ出し、バットをその家の養子とした。
もちろんこの裏世界の掟通り養子縁組には天帝の許可が必須となるが、現在の天帝ルイに否やのあるはずもない。
天帝ルイは私の話に大いに喜び二つ返事で承諾してくれた。
これで準備は整ったというわけだ。
式は滞りなく進み、いよいよ新郎バットの感謝の挨拶となった。
「今日は本当にありがとう。俺の我がままで一度は中断してしまった式だけど、今日こうして最高の形で最高の花嫁を娶ることが出来た。これもみんなが支えてくれたおかげだと思う。ありがとう!」
二人を祝福するために集まった観衆も皆拍手でバットに応えた。
ボルゲから受けた傷もすっかり癒えたバットは、実に晴れ晴れとした表情だった。
あの時ケンシロウに成りすますために自ら付けた胸の七つの傷も、もうほとんど痕跡は残っていない。
やはり本物の「胸に七つの傷」のように永遠に刻まれる傷痕というのは、そう簡単にできるものではないようだった。
改めて比較するとシンがケンシロウに付けた胸に七つの傷は、いまさらながら見事な芸術作品であったと私は感慨深げに思い出していた。
バットの話はさらに続いた。
「今日はリンとみんなにもう一つめでたい報告があるんだ。」
そう言うとバットはリンと聴衆を順に見回して一間置いた。
まだ何も聞かされていないリンは、一体バットは何を言い出す気かとやや不安げな表情であった。
観衆の大半はリンが妊娠しているのではと期待したようだが、そんなありきたりの話ではないことを私は知っていた。
皆の注目が自分に集まったことを満足気に確認してからバットは徐に語り出した。
「今度リンには南斗六聖拳の将の一人になってもらおうと思う。今は亡きユリアさんの慈母星を継いでもらうんだ。」
あまりにも想定外のバットの話に観衆も皆その真意が飲み込めないようだった。
「待って、バット。私は何も・・・・」
そう口を挟もうとしたリンを片手で制止して、バットはむしろこの意外な反応を楽しむかのように話を続けた。
「聞いてくれ、リン。それからみんな。今度ばかりはこの俺の早合点や勝手な思い込みではないんだ。南斗慈母星をリンに継いでもらうというのは、亡きユリアさんの遺志でもある。ちゃんと証人もいるんだ。そうだなリハク。」
それまで観衆の一人に過ぎなかった私に、その日集まった全員の視線が注がれた。
私は何も言わずただ大きく深く頷いた。
それまで驚きと疑問が渦巻いていた観衆から、その日一番の大歓声を引き出すにはそれで十分であった。
「やったな、リン」「おめでとう!」「リンが六聖拳だってよ、すげえ!」
今やこのサプライズに祝福の嵐と化した場内で、たった一人当のリンだけがまだ半信半疑といった表情であった。
リンは何も言わず私を見ていた。
どうやらこの老体が口を開かねばならぬらしい。
「リン、いや今日からはリン様と呼ばせていただきます。ユリア様からあなたに託されたそのネックレスが何よりの証。そのネックレスこそ南斗六聖拳の将、慈母星に代々伝わる由緒正しき品。リン様が慈母星をお継ぎになるのはユリア様のご遺志、そしてケンシロウ様の願いでもあります。」
「ケンの・・・・・」
「はい。リン様ならユリア様の代わりに立派な慈母星の後継者となってくれるだろうと・・・・・」
「私がユリアさんの後を・・・・・」
「さようでございます。これからは私が五車星最後の生き残りとしてリン様をお守りいたします。どうかお引き受けくださいませ。」
私の話を深く噛みしめるように聞き、ようやく納得した表情でリンは言った。
「分かりました。そのような大役が私に務まるかどうか自信はありませんが精一杯やってみましょう。リハク、これからもよろしく頼みますね。」
私とリンの話の成り行きを固唾を呑んで見守っていた観衆も、リンが了承したことでまた爆発的な歓声を巻き起こした。
「まあそうは言っても御老体にかつてラオウと戦った頃の働きを期待するのは酷というもんだろう。逆にリンがリハクの世話をすることになるんじゃないのか?」
「もう、バットったら。リハクに失礼よ。」
「いやいや、リン様。バットの言う通りでございます。今の私にはリン様がかつての拳王よりも強大に見えまする。なにとぞお手柔らかに・・・・。」
「もう、リハクまで。ひどいわ。」
バットの軽口から始まった我々三人のやり取りに皆がどっと沸いた。
こうして和やかに賑やかにリンとバットの新たな船出は大勢の祝福を得て幕を閉じた。
よもや断ることはあるまいとは確信していたが、慈母星の後継者が無事決まり、五車星の海のリハクとしてもこれ以上ない式となった。
特権階級である南斗六聖の将との婚姻となると、ただの風来坊のバットがその相手では具合が悪い。
そのために事前にバットを然るべき家の養子とすることで体裁を整えたのだ。
全ては収まるべきところに収まった。
ただこの場には新郎新婦が誰よりも出席して欲しかったであろうあの男はいなかった。
私との会談を終えたケンシロウは誰にも行方を告げず旅に出たきりであった。
恐らくはこれまでにケンシロウ自身が倒してきた諸流派の継承者を選び、その奥義を伝授するという北斗神拳継承者にしか出来ない務めに没頭しているのだろう。
第58話 新婦の姉
リンとバットの式にはリンの姉である天帝ルイも招待されていた。
ただ天帝来賓ということになると式自体も完全なフォーマルで行われなければならず、それはリンもルイも望むところではなかった。
しかも天帝の第一の側近でありルイの信頼を一身に集めているミュウは先日今は亡きファルコの子を出産したばかりであり、この式には参加できないことが分かっていた。
そんな諸事情もあってルイは非公式のいわばお忍びという形でこの式の末席に加わっていた。
もちろんそれとは分からないように護衛の者たちが付いてはいたが、式の雰囲気を損ねない程度にというミュウの配慮もあって、見るからに屈強な大男ではなく、腕は立つが服さえ着ていれば比較的一般人の中に溶け込みやすい者たちが人選されていた。
おかげで天帝ルイも特に誰に気を遣うということもなく、静かに妹の晴れ舞台を楽しめたようだった。
このあたりの心配りの妙もミュウという女の卓越した事務処理能力をよく現していると言っていいだろう。
自ら初の出産という大事を終えたばかりでありながら、さらっとこれだけのことをこなしてしまうミュウという女の底知れぬ能力を本当に理解している者は恐らくこの参列者の中で私しかいないだろう。
式が終わるとリンとバットはささやかながら新婚旅行へと出発した。
宴も終わり皆三々五々引き上げていく中で私は天帝に挨拶に伺うことにした。
ルイは式が終わると式場内の特別室に控えていた。
付き人も室内に数人詰めていたが、私が入るとルイはその者達に頷いて手で出て行くように合図をした。
その動作にはぎこちなさも気負いも感じられず、ごく自然な、優美とさえ表現したいような流れがあり、目の前の女性がこの数ヶ月の間にすっかり天帝らしい振る舞いと風格を身に付けたことを思わせた。
「これはリハク、会えて嬉しゅうございます。今日は誰とも話をしていないので少しばかり退屈しておりました。」
そう言うとルイは屈託のない笑顔を見せた。
その愛らしい笑顔は先ほどの天帝らしい威厳とも取れる行動とはいかにもアンバランスで、それがまたこの女性の魅力というプラスの要素に自然となっていた。
これが生まれながらの品の良さというものなのかもしれない。
「ルイ様もお元気そうで何よりでございます。今日はさぞやお疲れのことでしょう。」
「いいえ、疲れなどちっとも。今日は天帝としての挨拶や立居振る舞いなども気にすることなく、妹の幸せな式を一人の来客として見ることが出来て本当に良かったですわ。ただ話し相手がいないというのが少しばかり退屈でしたけれど。ですので先ほど部屋に入ってきたリハクの顔を見た時は思わず喜んでしまいましたわ。」
「このジジイごときをそこまで歓迎していただけるとはもったいなきお言葉。私でよければ何なりとお話くださいませ。」
「あら、そんなこと言ってしまって、きっと後悔いたしますわよ。最近はミュウも忙しくてなかなか話しが合う人がいないものでしたから、話し出したら止まらないかもしれなくてよ。」
そう言うといたずらっぽくルイは笑った。
(今やこの天帝のことを本当に理解しているのはミュウくらいか。そのミュウが自分の出産で関わる機会が少なくなり、寂しいのであろうな・・・・)
ルイは自ら予告したとおり、堰を切ったように話を始めた。
大半は日常の他愛もない雑談であったが、私は気が済むまで話させてやることにした。
私はかつてジャギやコウリュウの心を開かせて内密の話を聞き出したこともあるくらいで、いわゆる聞き上手という部類に属したのだろう。
他人よりも多く情報を得るのが軍師としての重要な資質とすれば、私には生まれながらにしてその類の能力が人よりもいくらか豊富に備わっていたらしい。
天帝ルイは嬉しそうに色々な話をし出した。
「リハクとお話していると時が経つのを忘れてしまいそうですわ。なんだかミュウと話している時のようです。不思議ですね。」
「ミュウ様と・・・・。」
「ミュウもとっても話を聞くのが上手ですのよ。お二人はきっと話しが合うと思うわ。」
「私などただのジジイでございますれば・・・・。似ているなどと仰られてはミュウ様に失礼でございましょう。」
「あら。そんなことはなくてよ。ミュウはリハクの話をする時はいつも楽しそうですもの。いつもはとても上品で大人の女性という雰囲気ですけれど、あなたの話題になると年下のわたくしでもちょっと可愛いと思えるくらいの表情になりますのよ。一度見せて差し上げたいくらいだわ。」
「ほうほう、そうでしたか。それはいつか是非拝見したいものでございますなあ。」
「また帝都にもいつでも遊びにいらしてくださいな。ミュウの子もとても可愛くてよ。」
「男の子だそうで、ミュウ様もさぞやお喜びでしょう」
「それはもう。だってファルコはもうこの世にはいないのですから・・・・・。ファルコも天国で安堵していることでしょう。」
「ルイ様・・・・」
先ほどまでの明るい笑顔から、今度は自分のために誇りを捨て屈辱に甘んじた生涯を送ることになった元斗皇拳最強戦士のことを思い、ルイは遠くを見るような顔つきになった。
しばらく静かな時が流れた後、ルイはまた打って変わった軽い調子で話題を転換した。
「ところでリハク、これはまだ内緒の話ですが黙っていてもらえますか?」
第59話 恋する天帝
私はルイが何を話そうとしているか、およその察しはついた。
「もちろんでございます。ルイ様が内密にと仰せであれば、このリハク墓場まで誰にも言わずに持って行きましょうぞ。」
私の仰々しい物言いに思わずルイは吹き出してしまった。
「リハクったらおかしい人。そんなに深刻な話ではなくってよ。」
「は、さようでございますか。では一体どのようなお話でしょうか・・・・」
「実はわたくしに縁談があるのです。」
わずかなためらいの色を見せた後、意を決したようにルイはそう言った。
心なしかその頬に朱がさしていたように感じられた。
予想通りの展開ではあったが、私はあえて大げさに驚いて見せた。
「おお、なんと。ご縁談でございますか?それはまたなんともおめでたいことでございますな。」
「喜んでくれてありがとう、リハク。誰かに話をしたくて仕方がなかったのですけれど、正式に決まるまではまだ誰にも言わない方がよいとミュウに口止めされていたものですから・・・・。」
「なるほど。天帝様のご縁談とあれば万に一つも粗相があってはなりませぬからな。ミュウ様が慎重になられるのも致し方ないことかと存じます。で、そのお相手とは?」
私が尋ねるとルイは口ごもった。
ルイの胸中を察した私はあえて反対のことを切り出した。
「まあこういうことはあまり詮索せん方がよいのでしょうな。いずれ正式に発表された時の楽しみに取っておくことと致しましょう。」
そう言ってあっさり話を切り上げようとしたところ、こちらの思惑通りルイは慌てて口を開いた。
「そうではないのです、リハク。いまさらためらうなんておかしいですよね。あなたを信じてこの話を始めたのはわたくしの方なんですから・・・・。実は私もまだお相手の方にお会いしたことはないのです。」
「ほう。」
「その方はまだ子供なんだとか。ですから本当に結婚をするとしてもまだまだ先の話なんです。」
「子供・・・・」
「はい。なんでもケンシロウを除けばその少年が北斗宗家の血を引く最後の一人になるのだとか。」
「北斗宗家の血を引く・・・・。もしやそれはラオウの・・・・・?」
「そうです。ケンシロウの義理の兄でもあるラオウの遺児で、名をリュウというのだとか。やはりリハクは知っていたのですね?」
「いや、私もそれほど詳しくは存じ上げません。ただラオウは死ぬ前に一人の子を遺したという話は聞いています。その少年がたしかリュウという名だったかと・・・・・。」
「やっぱりリハクは物知りだわ。わたくしリハクに打ち明けてみて本当によかった。だってそのリュウという少年のことについてはまだほとんどの人が知らないのだとミュウが言っていたものですから。リハクはその少年について何か他に知っていることはない?父親のラオウという人はそれはそれは恐ろしい人だったと聞いていますが・・・・・。」
(なるほど、リュウのことが知りたくて話を持ち出したというわけか。無理もない。自分が結婚する相手のことを知りたいのは一人の女子として当然のこと。ましてや妹リンが幸せな式を挙げたのを今、目の前で見たばかり。まだ見ぬ相手に不安と期待の両方ともが大きすぎるのであろうな・・・・。)
「はい、私もそのリュウという少年に実際に会ったことはありませんが、その父ラオウについてなら些か縁がありましてな。実を申せば一度ラオウにこの命を奪われかけたことがございます。」
「まあ、なんという・・・・。」
「ははは、まだリハクの体が今より動く時の話でございますがな。我が将ユリア様をお守りするためラオウと一戦交えましたが・・・・いやはや全く歯が立ちませんでしたわい。」
「そのようなことがあったのですか・・・・。」
「幸いその場はケンシロウ様に助けられましてな。そこで拾った命がこうして今も消えずに残っているのも不思議なものですなあ。まあもうすっかりついてるか消えてるかも分からないような頼りない火ですがな。はっはっは。」
「また冗談を。しかしそうでしたか、あのケンシロウに・・・・・。」
「そうそう、そのケンシロウ様がラオウの忘れ形見リュウを、どうやら次の北斗神拳継承者と決めたようでございます。これもまた不思議な縁でございますなあ・・・・。」
「北斗神拳。あの一子相伝の・・・・」
「はい、北斗神拳は本来北斗宗家の正当な嫡男が継ぐべきもの。ところがケンシロウ様とユリア様の間に子はなく、いまや宗家の血筋を継ぐ者はケンシロウ様とリュウというラオウの遺児のみ。そこでリュウに宗家の正式な嫡男を継がせ、その後に北斗神拳継承者にするというのがケンシロウ様のお考えのようでございます。」
「宗家だけでなく北斗神拳も・・・・・。なんだかまだ子供なのにそこまでいろいろな物を背負わすのは酷な気もしますね・・・・・。」
まだ見ぬリュウの定めに自分の境遇を重ね合わせているのか、ルイの顔は少し寂しそうであった。
「仰る通りかもしれませんが、これがこの裏世界の逃れられぬ宿命。そういうルイ様も天帝という特別な身分のためにこれまで想像を絶する苦しみに耐えてこられたではありませぬか。」
「わたくしの苦労など死んでいったファルコや妹リンの背負った苦しみと比べれば大したことではありません。でもリハクにそんな風に思ってもらえていると分かっただけでも嬉しいわ。」
「特別な身分には特別な責任とご苦労がございます。そう考えるとルイ様のお相手としてはリュウという少年は相応しいかもしれませぬなあ。」
「そうでしょうか?」
「はい。片や天帝、片や宗家の嫡男にして北斗神拳継承者。余人には分からぬ生まれながらに選ばれし者のみが知る苦しみを、二人なら分かち合って生きていけるのではありませんかな。」
「そういうものでしょうか。わたくしにはまだよく分かりませんが・・・・。」
「やはり身分の差というものは夫婦生活にも影響してくるもの。あまりにも差がありすぎては相手も萎縮し卑屈になってしまい、ルイ様も頼りに思うことが出来なくなりましょう。その点宗家の嫡男であればそういう心配もございますまい。ましてやあのラオウの息子。大人になればさぞや頼もしい漢となりましょう。」
「頼もしいのはよいですが、乱暴したりはしないでしょうか・・・・・?」
ルイの言葉はいかにも恋愛というものを経験したことがない少女の素直な思いであった。
「はっはっは。ルイ様はよほどラオウのことを恐れていらっしゃるようで。御心配には及びません。ラオウという男、確かにひどいこともたくさん致しましたが根は真っ直ぐで拳の修得にも真摯な男。世が乱れてさえいなければ、一介の拳士として立派にその生を全うしたことでございましょう。ラオウとは違い、リュウは宗家の嫡男として正々堂々と北斗神拳を継ぐことができます。それに世はこれから徐々に平穏に向かっていきましょう。よもやリュウの性質が歪むこともないでしょう。」
やや寂しげであったルイの顔にようやくぱっと明かりが差したようであった。
「そうですか。それを聞いて安心いたしました。やっぱりリハクに話してみてよかったわ。でもこのことミュウにはくれぐれも内緒にしておいてくださいね。」
「はい。よく心得ておりまする。このことはルイ様とこのジジイの胸の内だけに留めておきましょう。」
そう言って私が口に人差し指を当てる仕草を見せるとルイもいたずらっぽく笑い返してきた。
「リハクは本当に面白い人ね。またわたくしのお話し相手になってくださいね。」
ルイとの話を終えた私は、既にさきほどまでの式の賑わいが嘘のように静まり返った教会を後にした。
第60話 伝説の巨人
時は流れ数年後。
南斗の都をある男が訪れた。
その男は通常の倍はあるかと思われる巨大な黒い馬に跨っており、それだけでも人目を引くには十分であったが、騎乗しているその男自身もまた、およそそこいらではまずお目にかかることがないと言ってよい偉丈夫であった。
ただ大きいというだけではなく、服の上からでも鍛え上げられたことが分かる筋骨隆々とした体躯であり、顔つきも造作そのものは端正と言っても差し支えない美男子でありながら、その鋭く奥深さを感じさせる眼光は見る者を自然とひれ伏させてしまうような独特の威圧感を備えていた。
この尋常ではない巨馬とそれに全く見劣りしない偉丈夫というコンビは、当然のことながらたちまち街中の話題となった。
この街の長老であり、南斗六聖拳の新しい将となったリンを支える五車星の一星でもあるこの私の耳にもほどなくこの噂は伝わってきた。
(いよいよやって来たか。しかしまだなにもしていない内から街中の者がこれだけ騒ぐとは、一体どれほどの偉丈夫となったのか・・・・。今から楽しみなことよ。)
名乗らずともその偉丈夫の正体は、とうに私には分かっていた。
ただバルガから逐一報告は受けていたものの、実際にその男に会うのは実は生まれて間もない赤子の時以来であった。
久々の再会を心待ちにしていた私であったが、南斗の都へやって来たその男の行動は、そんな私の思いをあざ笑うかのようにやや拍子抜けするものであった。
その男は街外れに宿を取ると、数日特に何をするでもなく、街の様子を見物して過ごすという予想外の動きを見せた。
すぐにでもこの南斗の城を訪れるだろうと期待に胸を膨らませ待っていた私としては、些か当てが外れ肩透かしを食らった格好となっていた。
「どうしたリハク?ここのところ毎日城に詰めているな。何か気になることでもあるのか?」
どうやらバットからも私の最近の動きは不審に見えるらしい。
「いや、大したことではございません・・・・・。」
「隠すなリハク。例のあの大男のことだろう。」
「では、バット様も御存知で・・・・?」
「ああ。噂は聞いている。なんせ街中その話題で持ちきりだからな。巨大な黒い馬に跨る巨人・・・・・。それはまるで・・・・・。」
「まるで・・・・?」
「あの伝説の巨人、拳王のようだとな。」
「拳王・・・・?」
私はあえて驚いて見せた。
「と言っても実際に拳王を知っている者はもうこの街にもほとんどいないからな。ただ拳王伝説を思い出させるような雰囲気を持った若者らしいな。聞くところでは年はかなり若いようだが。」
「ほう。今の時代にそれだけの者がまだ残っていましたか。」
「まあ見掛け倒しかもしれんがな。今のところ特に悪さをするでもなく、仕事を探すでもなくぶらぶらしているらしい。リハクが案ずることはないだろう。」
「はい、それならばよいのでございますが・・・・・。」
するとバットは何かを思い出したようにはたと手を打つと、
「そうか、リハクは拳王に殺されかけたことがあったんだったな。その時の恐怖がいまだに抜け切っていないということか?おいおい頼むぞリハク。」
何をどう勘違いしたものか、そう冗談交じりに私に言った。
「いやいや、これは面目次第もございません。しかし耄碌しても恐ろしい記憶は昨日のことように覚えているものですなあ・・・・・。こんなことではリン様をお守りするどころではございませんな。はっはっは。」
「もう俺もリンも御老体に守ってもらうほどひ弱くはないぞ。今度拳王が現れたら俺がリハクを守ってやるよ。」
「頼もしいことでございますな。やはり人の親になるというのはそれだけ自覚も出てくるということでございましょうか。」
「まあな。大げさでも強がりでもなく、あの子のためならこの命を捨てるのに何のためらいもない。それだけは胸を張って言えるぞ。」
そう言うバットの顔にはもうあのいたずら好きのやんちゃ坊主の面影はなく、一人前の大人の親としての自覚と責任に溢れていた。
リンとバットの間には、昨年待望の娘が誕生していた。
女系一族である慈母星にとっては長女はお世継ぎであり、バットは婿としての役目を果たしたということにもなる。
そして多くの男親同様バットもまた、この一人娘を目の中に入れても痛くないという言葉が決して大げさに聞こえないほどの溺愛ぶりであった。
「リン様とバット様のご寵愛を受けて、あの子もさぞお幸せでしょうな。」
「そうか、お前の娘はあの時・・・・・。嫌なことを思い出させちまったな。すまんリハク。」
伝説の拳王に似た大男の登場が、バットに我が娘トウの最期を思い出させたようだった。
「いやいや、お気になさいますな。トウだけでなく多くの若者が命を落とした時代でした・・・・。ただ娘が死んだ後もこうして長々と生を貪っておる己が卑しく感じられましてな・・・・・。」
「そう言うな、リハク。お前はこの国にはなくてはならぬ存在だ。」
私の言葉は必ずしも心にもないことではなかった。
己の野望を達成するために突っ走ってきた充実感が、このところやや乏しくなってきているのは認めざるを得ない事実であった。
天帝ルイと我が孫であるリュウの婚姻は着々と進行している。
ルイの信頼を一身に集める側近ミュウもこの婚姻を認め、天帝ルイ自身もこの縁談に乗り気であることを本人の口から確認している。
もはや私の壮大な野望は完成したも同然と言ってよい段階に入っている。
後はただその時機が来るのを待つだけであった。
しかし野望を計画し、一歩間違えれば己の命もろとも泡と消えかねないきわどい策を一つづつ遂行していたあの頃のわくわくするような感動は今はもうない。
ルイとリュウの結婚が行われればまた違った感慨のようなものが芽生えてくるのかもしれないが。
二人の間に子ができれば、それはすなわちこのリハクの曾孫となる。
そしてその曾孫はいずれこの裏世界の頂点である天帝となる定め。
五車星の一星に過ぎなかった我がリハク一族からついに天帝が誕生する。
かつては想像するだけで小躍りするような興奮を感じていたこの夢物語にもどこか虚しさが伴うようになった。
これがあるいは世に「年をとった」と表現される心の変化なのであろうか・・・・。
「バット様、ご来客です。」
私がしばし物思いに耽っていると、取次ぎの者がやってきてバットに来客を告げた。
「おいおい、様は止めろと言っているだろう。この爺さんに遠慮は無用だ。なんせ俺やリンがこんなガキの頃から知っているんだからな。」
バットは片手を自分の膝位においてそう冗談っぽく言うと話を続けた。
「で、その客人とは誰だ?」
「はい。それが、今巷で噂のあの大男で・・・・。」
それを聞いたバットの顔が瞬時に輝いた。
何のことはない、この男もまた生来の好奇心により、一刻も早く噂の男に会ってみたかったのだ。
「ほう、ついに動いたか。面白い。すぐ行くから客間に通しておけ。」
「かしこまりました。それともう一つ・・・・。」
「なんだまだあるのか?言うことがあるならさっさと言え。」
「はい。その男はバット様・・・いやバットだけでなくリン様とそちらのリハク様も御一緒にお会いしたいと願い出ております。」
「なに、リンとリハクもだと?」
私の顔色を伺うバットに、私は黙って頷くことで返事をした。
「よし、リンには俺から言おう。」
そう言って出て行こうとしたバットであったがすぐに立ち止まることとなった。
ドアの向こうには新しいこの城の主が凛々しく立っていた。
第61話 リュウ現る
「いいわ、わたくしも会ってみましょう。」
リンははっきりとした口調でそう言うと部屋の入り口から我々の前に進み出た。
「聞いていたのか、リン」
「ええ。今やこの街でその男のことを知らない者はいませんからね。このところリハクもどこか落ち着かないようでしたし・・・・。」
そう言うとリンは私に微笑んだ。
ユリア様の遺志に従いリンが南斗慈母星を継いだのが昨日のことのように思われるが、もうあれから数年の歳月が流れていた。
リンには既に将としての気品と風格が備わっていた。
それはあるいは天帝の血を引く者としての生まれながらの性質なのかもしれなかったが、昨年母となったことで元々持っていた女性としての芯の強さがさらに深みを増した感があった。
(さすがに世が世なら天帝になっていたかも知れぬ人物。いかに後から躾けてもこういう雰囲気は凡人には出せまい・・・・。)
「いやはや、年は取りたくないものでございますな。リン様にそのような気を使わせてしまうとは。」
そう言って照れを隠すために頭をかく私にバットが追い討ちをかけた。
「リハクの爺さんはかつて拳王に殺されかけた恐怖を思い出してビビッていたらしいぞ。」
「まあ、バットったら、口が悪いわよ。」
そう軽く窘めるとリンは私の方に向き直り話を続けた。
「でも、リハクはてっきりその男を待っているのかと思ってましたわ。」
「待つ?私めがでございますか?」
「ええ。リハクの最近の様子を見ていると長年待ち焦がれた想い人に会う前のようでしたから・・・・・。」
「これはまた御冗談を・・・・。いかに男やもめが長いとは言え私にそんな趣味はございませんぞ。」
話を違う方向にもっていくため私は右手の甲を左の頬に当てて意味ありげな表情をして見せた。
すかさずバットが私のふりに応えた。
「おいおい、勘弁してくれよ。想像するだけで眩暈がするぞ。」
バットのお調子者らしい一言でこの話はこれ以上詮索されることなく済んだが、私はリンの観察力と勘の良さに舌を巻いた。
(実に女の勘ほど恐ろしきものはないのう。バットにはただの恐怖としか映らなかった私の変化の実体をリンはしっかり見抜いておったか。)
「まあ会うと決まった以上あまり待たせておくのも礼を失するってもんだ。では参りましょうか、御一同。」
バットはすっかりはしゃいでいるようにさえ見えた。
あるいはそれは妻リンを前にした夫としてのやせ我慢だったのかもしれない。
バットとて少年の頃に体験したあのラオウの恐怖を忘れたわけではあるまい。
その内心の恐怖をおどけてみせることで追い払おうとしているようにも見えた。
ともかく私はリンとバット夫婦と三人で、その噂の男が待つ客間へと赴いたのであった。
客間の入り口は開いたままになっていた。
男は窓から外の様子を眺めており、我々からはその背中しか見ることが出来なかった。
しかし入って来る者の気配は察していたようで、我々が中央にあるテーブルの前に来たのを見計らって徐にこちらを振り向いた。
「あっ。お、お前は・・・・・」
いち早く反応したのは予想通りバットであった。
普段は冷静沈着なリンの表情も凍りついたように固まっており、その目は信じられないものを見たといったように大きく見開かれていた。
ある程度想像はしていたものの私の驚きも決して少なくはなかった。
それほど目の前にいる大きな男の存在はデジャブのように我々には感じられた。
今我々の目の前にあの恐怖のラオウがいる。
十数年の時を一瞬で遡ったような不思議な感覚に私は襲われた。
それは私以外の二人にとっても同様であっただろう。
私と違ってこの訪問者に対する予備知識がない分、二人の驚きは私以上だったかもしれない。
男は我々の反応を十分に予期していたようで、むしろそれを楽しんでいるかのようにも思えた。
「そんなに似ていますか、父に。」
それがこの訪問者の第一声であり、それはまた同時にリンとバットをさらに混乱に陥れるものであった。
「父だって!?そ、それじゃあお前は・・・・・。」
もはやバットには先ほどまでの余裕を見せるだけの虚勢すらなかった。
この対談はまず第一段階で完全に我々がこの訪問者に度肝を抜かれてしまったのだった。
狼狽するバットとは対照的に落ち着き払ったその訪問者はいたって丁寧に挨拶を始めた。
「これは失礼しました。リンさん、バットさん、そしてリハク。改めて自己紹介させていただきます。私はリュウと言います。そして我が父の名はラオウ。」
第62話 ラオウの子
リュウと名乗ったその男がラオウの子だという確かな証を既に我々は目にしていた。
今目の前にいる男がラオウ本人だと宣言したとしても信じてしまいそうなくらい両者は似ていた。
似ているのは顔だけではない。
その尋常ではない巨躯と見る者を畏怖させずにおかない圧倒的な威圧感、つまりはその身に纏うオーラが、まさしく余人では到底真似出来ようはずもない拳王にのみ許されたそれであった。
実際その威圧感に惑わされず、客観的に顔だけを比べてみれば、全く同じというほど似ていたわけではなかったかもしれない。
リュウはラオウと比べれば顔に険しさがなく、むしろ爽やかなと表現してもよいような無垢さをまだその表情に残していた。
よくよく見れば年齢も相当若い。
リンもバットもラオウが既に拳王と名乗っていた頃からしか知らないはずであり、今のリュウと比べれば恐らく10以上は年長だっただろう。
にもかかわらず私もリンもバットも、この青年を最初に見た時にラオウが目の前に現れたかのように感じたのは、やはりラオウにしか持ち得ないオーラを既にこの青年が身に纏っていたからだろう。
第一印象で圧倒されたリンとバットであったが、リュウの明らかに拳王とは異なる丁寧な口調に次第に落ち着きを取り戻したようであった。
リュウの声そのものはラオウとよく似ていたが、その丁寧な話し言葉は決してラオウにはあり得なかったものであり、リュウが話をすればするほど二人の脳裏から拳王によってもたらされた恐怖の影が消えていくかのようであった。
仮にリュウの第一声が「うぬがバットか、でかくなりおったな」とかであれば、バットの心の蔵は恐怖で止まってしまったかもしれない。
「それにしても驚いたな。まさかあのラオウに子供がいたとは・・・・。」
ラオウの子、リュウの存在はまだごく一部の者しか知らされてはいなかった。
リンとバットがこの突然の来訪者の正体に驚くのも無理はなかった。
「驚かせてしまってすいません。バルガから、私が何も言わずに目の前に現れたら、リンもバットもさぞや腰を抜かすだろう。その驚く顔を見てみたいなどと言われていたものですから、つい悪戯心で試してみたくなりまして。」
そうはにかみながら、少し照れたように話す青年からは、もはやラオウのあの恐怖のオーラは消えていた。
「全く冗談きついぜ。最初に見た時はどうやってこの場から逃げようかと思ったぞ。」
「まあ、私やリハクを置いて一人で逃げ出すつもりだったのかしら?ひどいわねえ。」
さすがに最初は表情が硬かったリンであったが、今はもうすっかり普段の余裕を取り戻し、いつものようにバットをからかった。
「そう言うな、リン。なんたってあの頃の拳王の恐ろしさと言ったら。なあ、リハク。」
「さようでございますな。私などは文字通り腰が抜けて、逃げ出すことすらかないませんでしょうなあ・・・・。」
「そうそう、リュウと言ったな。この爺さんはお前のお父さんに危うく殺されるところだったんだぜ。」
バットが私の名前を出したことで、ようやくリュウは私をその鋭い視線の焦点に合わせた。
その時がリュウが私を、三人の内の一人としてではなく、名のある個人としてしっかりと見た最初であったろうか。
それまでは私に視線を向けることもなかったが、それが単なる偶然か故意だったのかまでは私にも判断は出来かねた。
さすがの私も物心ついてから初めて会う自分の孫と真正面から目を合わせるのに、ちょっと気恥ずかしさを感じずにはいられなかった。
「父はあなたをそんな目に・・・・・。海のリハクという名は聞いていましたが、まさか父とそのような因縁があろうとは・・・・・。」
「いやいや、もう昔話じゃよ。お気になさるな。それより私の名を誰から聞かれましたかな?」
そもそもリンとバットだけでなく、私をもこの対談のメンバーに含めたのはリュウ自身の希望であった。
リュウと旅をしていたバルガは、ケンシロウから私の名をリュウに出すことを禁じられていたはず。
私は気になっていたことをリュウにぶつけてみた。
「はい、実はこの南斗の都に来る前に帝都に立ち寄って参りました。そこで天帝の側近のミュウという方にお会いしてきたのです。」
リュウは私の反応を窺うように少し間を置いた。
「ミュウ様と・・・・。で?」
「そこでそのミュウから南斗の都に行ったらリハクという者に会うとよいと勧められました。父ラオウについても、この世界のこれまでの様々な戦いの歴史についても、誰よりもよく知っている人だから、きっと私のこれからの修行にも役立つだろうと。しかしそのミュウもリハクが父に殺されかけたとまでは教えてくれませんでしたが。」
「そういう次第でしたか。それはまたなんとも恐れ多いことで。して、ミュウ様はお元気でしたかな?」
「はい。皆様にくれぐれもよろしくお伝えくださいと。それと・・・」
そう言うとリュウは今度はリンの方に顔を向けた。
「天帝ルイからも妹に会ったらよろしく伝えて欲しいと言付かってきました。」
「まあ、姉さんともお会いになったのね。ルイももうすっかり立派な天帝になったようね。」
「はい。帝都はよく整備され人民は天帝を平和の象徴として慕っているようです。私も実によい街だと思いました。この南斗の都と雰囲気が似ているように思います。やはり上に立つ者が双子の姉妹だからでしょうか。」
(ほう。なかなか面白い着眼点だな。どうやら腕だけでなく頭もなかなか切れるようだ。いやいや、やはり孫を見る目はひいき目になるのかもしれんな・・・・。)
リュウの話からそんなことを考えていると、バットがいつもながら大きく話題を転回させた。
「ミュウさんもかなりのやり手だからな。ところでリュウはこれからどうするんだ?帝都の次は南斗とまるで挨拶回りみたいだが・・・・・。」
バットの話はどうやら核心に触れたらしく、リュウの顔はそれまでよりやや引き締まって見えた。
「はい、実はその通りです。今回の旅の目的はこの世界の主な人たちへの挨拶回り。私リュウがケンの次の北斗神拳継承者となることを皆様にお知らせするための旅です。」
第63話 バットの思い
「なに!北斗神拳だって?」
リュウの言葉に何も知らないリンとバットが驚くのも無理はなかった。
ほんの少し前に「ラオウの息子」という衝撃を受け、そのショックからようやく落ち着きを取り戻しつつあった矢先に今度は北斗神拳継承者だ。
二人にとって今日はよくよく刺激的な日らしい。
さらに言えばバットにとってこれはただのサプライズではない。
バットが今日まで密かに胸に抱き続けていた淡い希望が、音を立てて崩れ落ちた瞬間でもあった。
幼き頃よりケンシロウと旅をし、その戦いを誰よりも多く見続けてきたバットが、次の北斗神拳継承者として自分が指名されることを密かに願っていたとしても誰も責めることはできまい。
無論バットとてこの裏世界の絶対的身分社会の定めを知らぬわけではない。
もしケンシロウとユリアの間に子がいたならば、バットのそのような分不相応な希望が今日まで消えずに膨らむことはなかっただろう。
だが不幸にもケンシロウに子はなく、北斗に関わる名だたる者も皆死に絶えていた。
相応しい血筋の者が誰もいないのであれば、誰よりもケンシロウのことを知る自分に白羽の矢が立ったとしても不思議ではないのでは?
そんな微かな期待がバットの胸中で日ごとに大きくなっていたのを私は知っていた。
従って今リュウという初対面の青年から、さも当たり前のように北斗神拳継承者になると宣告されたことが、バットにとってどういう意味を持っていたかは想像するに余りある。
もちろん妻であり、共にケンシロウの戦いを見守ってきたリンも、バットのそんな思いには気づいていたに違いない。
驚きと失望から二の句を次げずにいるバットにリンが代わった。
「ではあなたはすでにケンと会っているのですか?」
「はい、実は数年前にケンとしばらくの間旅をしました。そこでケンの戦いと生き様を見て、北斗神拳継承者としての心得をこの心に刻み付けたのです。」
「数年前・・・・。というと修羅の国から帰ってきてすぐぐらいになるのかしら。」
「そうです。その修羅の国でケンは父の兄でもあるカイオウという男を倒し、彼の国の混乱を収めたと聞いています。この国に帰還してすぐ私を迎えに来てくれたのです。」
「そうでしたか・・・・・。私はその頃はちょうど記憶を失っていて空白の期間でしたが・・・・・確か修羅の国でそのままケンとは分かれたんだったかしら?」
そう言うことでリンは巧みにバットに話題を振った。
「あ、ああ。そうだ。ケンはリンと俺を結びつけるために、俺たちとは一緒に帰らなかったんだ。そうか、その後一人でこの国に帰り、あんたのところへ行っていたということか・・・・。ということはケンは修羅の国へ渡る前からあんたの・・・・・、つまりラオウの子の存在を知っていたということになるのか?」
「おそらくそうだろうと思います。私はケンが迎えに来る少し前から、北斗神拳継承者となる定めを育ての親から聞かされていました。」
バットの表情がまた寂しげに翳った。
あの修羅の国での戦いが終わった後、バットはケンシロウが次の継承者を誰にするつもりなのだろうかという話をよく近くの者と交わしていたそうだ。
彼の国でラオウの兄弟も死に絶え、宗家の血筋もケンシロウのみとなったという事実が、バットに「ひょっとしたら」という期待を抱かせた大きな要因だったのだから当然だろう。
だが、今のリュウの話からすると、修羅の国に渡る前には既に次の継承者は決まっており、どう転んでも自分にお鉢が回ってくる可能性は最初からなかったということになる。
またもおろかな道化を演じたことを知ったバットは、それがこの男の長所であるのだが、大胆な気分の転換を計った。
「はっはっは。ケンもやってくれるよなあ。ラオウの子供なんて立派な跡継ぎがいるなら教えくれてもいいのになあ。そうすりゃ余計な心配もせずに済んだのによ。」
「バットったら、まるで自分が継承者に選ばれるかと心配していたみたいね。」
さすがに幼い頃から行動を共にしてきた夫婦だけあって、バットの精一杯の強がりを悟ったか、全てを冗談で流し、場の雰囲気を壊さないようにリンはバットの話に乗った。
「そうそう、北斗神拳継承者なんぞ俺には荷が重過ぎるからな。南斗の将の夫っていうだけでも毎日肩がこって仕方がないってのによ。」
「あら、平和になったのはいいけど戦いがなくなって毎日退屈だ、退屈だってぼやいていたのはどこの誰でしたっけね。」
バットとリンの機転で場は再び和やかな雰囲気となり、バットはようやく自分のペースを取り戻した。
「それで、リュウよ。ケンと旅していたのはしばらくの間だって話だったけど、その後はどうなったんだ?」
「ケンはバルガという男と一緒に旅をするように言い残して、私の前から去りました。そのバルガというのは、元は父ラオウの部下だったそうです。」
「何でまたケンはずっと一緒にあんたと旅をしなかったんだ?」
「おそらくは、私が北斗神拳を学ぶ前に戦う漢の心を身につけて欲しかったのではないかと今は思っています。バルガというのはまさに武将の鏡のような男。この者から武将としての生き様を学んで欲しいと考えたのでしょう。」
「それじゃあ肝心の北斗神拳はいつ覚えるんだ?」
「私は知りませんでしたが、バルガは私との旅の状況をケンに逐一知らせていたようです。そしてつい先日、バルガから旅の終わりを告げられたのです。」
「てことは・・・・?」
「はい、これからいよいよ実際に北斗神拳の技の全てを修得するための修行に入るようです。帝都へ挨拶をした後、この南斗の都で待てということでした。」
「じゃあ、ケンはもうすぐここに?」
リンの顔が輝いた。
その言葉に合わせるかのように入り口の方から声が聞こえた。
「そう、だがもうすぐというのは正確さに欠けるな。」
私とリンとバットは一斉に振り返り、入り口に立っているその男を認めた。
だが、我々には見て確かめる必要などなかった。
その声には忘れるはずのない懐かしさと頼もしさと暖かさが詰まっていた。
第64話 リュウの成長
「ケン!」
「ケン!来ていたのか?」
数年ぶりとなる再会に驚きと喜びを隠せないリンとバットの前にケンシロウは悠然と歩を進めた。
「久しぶりだなリン、バット。」
「ケン、もう会うことはないのかと思っていたぜ。一体あれからどこへ行ってたんだ?それに、リュウを継承者にってのは本当なのか?」
急かすバットをリンが静止する。
「バットったら、そう一度にいろいろ聞いたらケンも答えられないわよ。とりあえず元気そうで安心したわ、ケン。」
「リンはすっかり大人の女になったな。やはり子ができると女性の方が男性よりしっかりしてくるものらしいな。」
そう言いながらケンシロウはバットの方をいたずらっぽく見た。
「ちぇっ。それじゃあ俺はまだまだ子供ってことか。これでも少しは父親っぽくなったかと自分では思ってたんだけどな。」
「バットがあまり大人びてしまうと俺も寂しくなるからな。少しくらいおっちょこちょいでお前はちょうどいい。」
そう冗談めかして言うケンシロウにバットはふてくされたような、それでいてどこか嬉しそうな表情を見せて返した。
「なんだか誉められてるんだか、馬鹿にされてるんだかわからねえや。まあいいや、こうしてケンと再会でしたんだしな。しばらくいられるんだろう?」
「まあ少しはな。だがあまり居心地の良い場所でゆっくりし過ぎると、この先の修行に身が入らなくなるからな。」
ケンシロウは、それまで旧交を温めている三人を黙って眺めていたリュウの顔をしっかりと見据えた。
「ケン、お久しぶりです。」
「リュウ、待たせたな。」
「あの日、ケンが黙っていなくなった時には、俺はこのまま見捨てられたのかと思って、正直哀しかった。ひょっとして俺は継承者に相応しくないと判断されたのかと。でも、今はバルガと共に旅をして本当に良かったと思っている。ケンがなぜ北斗神拳を教える前にバルガと修行に出させたのかも、今ならなんとなく分かるような気がする。」
「お前のその顔を見れば、バルガに預けたのが正解だったということがよく分かる。しかしいい面構えになったものだ。リンもバットもさぞ驚いたことだろう。リハクは腰が抜けたのではないか?」
ここでようやく名を振られた私は、意味ありげにこちらを見るケンシロウを少し意識しながら話の輪に参加した。
「いやはや、それはもう。なんせあの拳王様にこれほどまでに似ているとは。血は争えぬものですなあ。」
「その顔とその体躯がラオウの血を受け継いでいることの何よりの証。同時に北斗宗家の遠い祖先、リュウオウの遺伝子も強く受け継いだようだな。」
そう言うとケンシロウはリュウの右の額を指差した。
そこには微かだが痣が刻まれており、よくよく見るとその痣は北斗七星の形と見えなくもない。
その実物を私は見たことがなかったが、ケンシロウたち三人は、あの修羅の国でその痣とそれにまつわる逸話を記憶に刻んでいたはずだった。
「リュウオウ?」
どうやらまだその名を知らされていないらしいリュウがケンシロウに尋ねた。
「そう、北斗神拳創始者シュケンの従兄にあたる男。その男の額にも七星の痣があったという。そしてラオウの兄カイオウの額にも確かにその痣があった。」
「そう言えば・・・・。カイオウの額には確かにそんなような痣があったわ・・・・。」
彼の国でカイオウに囚われた経験のあるリンは、恐怖と共にその記憶を蘇らせたようだった。
リンは修羅の国において、ケンシロウがカイオウに無残に敗れ去った場面しか見ていない。
二度目の戦いの前には既にカイオウによってその記憶を封じられてしまっていたため、ケンシロウがカイオウにリベンジを果たした時にはまだ意識を失ったままであった。
つまりリンの記憶の中でカイオウは、唯一ケンシロウが負けた場面しか思い出せない敵であり、自分が囚われて記憶を封じられたことよりも、あのケンシロウが無力に打ち砕かれたシーンしか思い出せないことの方がショックであり、それがいまなお恐怖を呼び起こすのであろう。
「大丈夫かリン?」
さすがに夫らしくリンの異変に気づいたバットが震える肩を抱きかかえた。
「この痣はそんなに恐ろしいものなのですか?」
状況が飲み込めないリュウとしては、突然リンが目の前で恐怖に震え出したのだから狼狽するのも無理はなかった。
「いえリュウ、ごめんなさいね驚かせて。バット、もう大丈夫よ。」
リュウの慌てた素振りを見て逆に落ち着きを取り戻したリンがバットから離れると言った。
「別にあなたが悪いわけでもその痣が悪いわけでもないの。ただ昔のことを少し思い出してしまっただけ。気にしないでね。その痣は北斗宗家の血を引くことの何よりの証。あなたは誇りを持っていいのよ。」
「はい、お心遣い感謝します。ですが・・・・」
ここでいったん言葉を切ると、意を決したようにリュウは話を続けた。
「父にしても叔父のカイオウにしても、理由はともかく大勢の人に恐怖を植え付けてしまったのは事実。それもまた私がこれから背負っていかなければならない定めだと改めて思い知りました。ケンもバルガも父は偉大だと誉めるばかりで決して悪く言うことはない。でも私ももう子供ではありません。色々な事を見たり聞いたりしていれば、およそのことは分かります。それに先ほど私の顔を初めて見た時の三人の反応が何よりの証拠。みなさんもこれからは父の良かったところも悪かったところも含めて、全て私に教えてください。それがラオウの子として生まれた私の務めと思っています。」
リュウの言葉はその場にいた誰もを驚かせた。
もちろん良い意味でだが。
この場合の驚きは、あの恐怖の拳王の子とこのようにまっとうな人らしい反省の言葉とが容易に結びつかなかったという意外さと、周囲の大人の気遣いからくる正当とは言えない父ラオウの評価を、自らの頭で考えて客観的に訂正できる知力と理性に対してのものだった。
次期継承者の言葉に現在の継承者が応えた。
「リュウ、お前は俺が思っていた以上に立派な継承者になるだろう。俺は今そう確信した。そうだな、リハク。」
「は、はい。仰る通りで。ラオウ様もあの世で泣いてお喜びでございましょう。」
事実私はリュウの言葉を聞き、今にも溢れようとする熱いものをこらえるのに、必死で歯を食いしばらねばならなかった。
(トウよ、お前の子はこんなにも立派な偉丈夫に成長したぞ・・・・。)
第65話 本当の再会
「じゃあリュウを北斗神拳継承者にするっていう話は本当だったんだな?」
ケンシロウを加えて計五人となった我々の話は核戦争後の世が乱れていた頃のことから、リンとバットがケンシロウと出会ったこと、リュウの父ラオウのこと、修羅の国での戦い、バルガとリュウの修行など多岐に及び尽きるということはなかった。
ケンシロウはその中で、北斗宗家の血を引く者は自分以外にはこのリュウしか残されていないこと、本来北斗神拳は北斗宗家の嫡男が継ぐべきものであること、ラオウから直接リュウのことを頼まれた経緯などについてバットたちに説明した。
ただしこの「本来」というのは決して嘘ではないが、北斗神拳継承者の最近の状況を正確に伝えているとも言いがたい。
少なくともケンシロウまでの千年以上もの間、北斗宗家の嫡男が北斗神拳継承者に選ばれたことはなかったのだから。
そもそもケンシロウが北斗神拳継承者に選ばれたのも、乱世に乗じて宗家の高僧たちが自分たちの権威を高めるという私利私欲のために、突然先代リュウケンに、遥か昔に有名無実と化していた「本来あるべき姿」なるものを持ち出してきたからに他ならない。
その高僧たちの計略のため、ケンシロウは修羅の国を生まれて間もなく出され、彼の国でその人となりが誰の目にも触れないように秘されたのだった。
そして高僧たちにより、ケンシロウこそ千年に一人の逸材とまことしやかに宣伝され、この乱世を救うにはケンシロウを宗家嫡男とし、「本来あるべき姿」に立ち戻って、宗家の嫡男を北斗神拳継承者とすることしかないという論調を巧みに作り出したのだった。
恐らくはケンシロウ本人も、自身が継承者に選ばれた本当の理由については知らされていないのだろう。
この宗家のお坊ちゃんは自分が宗家の嫡男であることを知っても、なおさほどの疑問を感じていないようだった。
例えば長男ではないケンシロウが、いかなる経緯で宗家嫡男になったのか。
先代リュウケンは宗家とは無関係の血筋ながら、何故北斗神拳継承者になれたのか。
通常の感覚ならこうした様々な、ごく自然に湧いてくるであろう疑問を抱くのであろうが、この生まれながらの選民思想の持ち主は、そうした一般人が持つ感覚とは無縁のところにいるようであった。
ケンシロウは今もなお、自分が最も優れていたからこそ宗家嫡男になり、そして北斗神拳継承者に選ばれたのだと思っているのだろう。
それをごく自然に受け入れられるあたりが、ケンシロウという男のケンシロウたる所以でもあった。
それはともかく、ケンシロウの説明はバットを納得させるには十分だったようだ。
もちろんリュウの母がトウである事はまだ伏せられている。
このことはケンシロウの他にはリセキ、ミュウしか知らないはずであった。
話を聞き終えたバットが、自分に言い聞かせるかのようにケンシロウに確認したのが先の台詞であった。
「うむ。俺もリュウもそのつもりだ。リンもバットもリュウが立派な継承者になれるように支えてやってくれ。」
「もちろんだ。俺たちで力になれることがあったら何でも言ってくれ。なあリン。」
「ええ。わたくしたちはいつもこの街にいます。辛いことがあったらいつでも遊びに来てください。」
「みんなありがとう。これまでに亡くなった者たち、残された人たちのためにも、これからしっかり北斗神拳を学んでいくつもりです。」
最後は力強い次期継承者の言葉で締めくくられ、驚きが幾重にも重なったこの日の会談は終わりを告げた。
リュウとケンシロウは同じ宿を取っていたようで二人は南斗の居城を後にした。
リンとバットは城に泊まることを強く勧めたが、二人は街の雰囲気を味わいたいという理由でやんわりとこの申し出を断った。
私は普段この城に泊まることもあったが、たいていは街外れのこじんまりとした館を住まいとしていた。
そのためケンシロウとリュウが城を去るのに合わせて私も帰宅することにした。
城を出てケンシロウとリュウとも別れ、私は館へと帰った。
だがすぐに館内には入らず、私は館の裏にある丘の上へと向かった。
丘の頂上に着くとそこで私は一つだけ厳かに聳えている墓の前に立ち、静かに手を合わせた。
(トウ・・・・、今日リュウに会ってきたぞ。そう言えばお前は我が子の名も知らずにこの世を去ったのだったな。あの子は本当に素晴らしい青年に成長した。必ずや立派な継承者になろう。お前も母として空から見守ってやっていてくれ。)
私は孫のリュウを見て、その逞しく成長した様を目の当たりにして、いつになく感傷的になっていた。
リュウは肉体的にだけでなく精神的にも大きくなっていた。
父ラオウの偉大な面だけではなく、犯した悪事にもきちんと目を向けようとしているその真摯な姿勢は、これから先、この裏世界の頂点に君臨しようという者としては実に好ましい態度であり、今の気持ちを失わなければ、人の上に立った時、部下からも民からもきっと信望を集めることができるだろう。
私はリュウをその祖父として誇らしく感じた。
確かに外見にはラオウの血が多く反映されているようだが、その中には我がリハク一族であるトウの血も確実に入っているのだ。
先ほどの会談の最中、私はリュウに母のことを告げてしまいたい、私がお前の祖父だと名乗りたいという欲求に強く駆られたのを思い出していた。
だがそれはあの場ではできない。
一族の出世のために己の娘を使ってラオウの子を産ませた、などという不埒な憶測は、これから輝かしい未来が待ち受けているリュウの人生には相応しくない。
五車星という非特権階級の血も、この先実現するであろう天帝との縁談には妨げにこそなれプラスとなることなどない。
第一五車星海のリハクとして、ユリア様を守ることを唯一つの使命とせねばならない私が、自分の出世を一番に考えていたなどということは分相応を正道とするこの裏世界ではあってはならないこと。
こうしてトウの墓の前で誰にも知られることなく、一人己の成功を祝うことこそが私に最も相応しい栄光なのだ。
私は娘の墓の前で改めてそう自身に言い聞かせた。
「そこに私の母が眠っているのですね。」
どれくらいトウの墓の前にいただろうか、既に日は暮れ辺りは闇に包まれていた。
私の背後から突然聞こえてきたその声は、つい先ほどこの耳で聞き、しっかりと忘れないように脳裏に印象を刻みつけていたものだった。
そのため声の主を確認するために振り返る必要はなかった。
「知っていたのか、リュウ」
私は震えながらトウの墓に手を合わせたまま言った。
「すまんな、リハク。約束を違えてしまった。」
今度は先ほどとは別の声が、同じく私の背後から響いてきた。
「いつからそこに?」
私は何をどう返してよいか判断のつかぬまま、全く無関係なことを聞いた。
「今来たところだ。リハクよ、リュウに母の墓に手を合わさせてやってくれぬか?」
ケンシロウがそう言うのとほぼ同時に、大きな黒い影が背後から私のすぐそばまで近づいてきた。
「どうか母に挨拶をさせてください・・・・・、お祖父様。」
それまでどうにかこらえてきた熱いものが、両の眼から零れ落ちるのを防ぐ力はもはや私にはなかった。
第66話 静かな交流
「今宵は二人で心行くまで語り明かすといい。俺は先に宿に帰っておくことにしよう。」
ケンシロウはそう言うとリュウを私の家へ残して去って行った。
今、私の館の中の居間には二人しか居ない。
一人の年老いた男と一人の壮健な若者。
二人の間には語るべきこと、聞くべきことが山のように積まれているはずだった。
だがケンシロウが去ってしまうと、二人は互いにそれが予め決めていた誓いででもあったかのように沈黙を通した。
先ほどまではケンシロウが我々二人の間にいて、ここに至った経緯について私に説明をするという役回りを演じていた。
それによるとリュウはどうやらかなり以前から私との関係を疑っていたらしい。
それはハクリ夫婦と共に暮らしていた頃というからまだリュウがほんの小さな子供時分ということになる。
確かにハクリは我がリハク一族ではあるが、そのことはリュウには伏せてあるはずであった。
とは言え生まれた時から共に暮らしている以上、いつしか油断が生じたとしても誰も二人を責められまい。
子供というものは存外大人が思っている以上にいろいろな情報を得る力を備えているものらしい。
一方の大人の方はというと、いつまでも生まれて間もない赤子のままという印象が抜け切らず、ある程度複雑そうな話は子供の耳を素通りして記憶には残らないはずだと思い込んでいるきらいがある。
リュウは幼き頃に何度かハクリ夫婦の会話から、リハク一族の話や我が娘トウの話などを盗み聞きしたのだという。
ただそれを大人がするような盗み聞きといっしょくたに片づけてしまっては、少年にはいささか酷というものだろう。
大人の側に、この子にはまだこんな話は分からないだろうという勝手な思い込みから生じる気の緩みがあり、その油断が次第に拡大してしまい、もはや聞き耳を立てなくともごく自然に耳に入る距離で、本来秘密にすべきはずの会話が行われるようになってしまったということだろうと思う。
それが日常のありふれた雑事に関する内容であれば、リュウの記憶に留まることもなかったに違いない。
しかし人というものは不思議なもので、内緒話をする時とふだん日常的に行っているちょっとした雑談をする時では、声のトーンや口調が微妙に変化してしまう場合が多い。
それは単に声量の大小だけに留まらない。
そのいつもとは異なる微妙な声の変化が、逆に他者の耳を止めてしまうものなのだ。
通常は単に背後に流れる雑音の一部に過ぎなかった大人の会話が、急に明確な意味を持った言葉として耳から脳へと送られてくるようになる。
恐らくリュウはそのようにして自分の出生の秘密に関する話を断片的ながら少しづつ頭に入れ、それら断片を脳内で繋ぎ合わせたり解体したり、時には培養させたりしながら自分なりのストーリーを組み立てていったのだろう。
物心ついた頃にはリュウはもう母の名がトウであること、恐らくは既に亡くなっていること、そしてここが最も重要な点だが、大人たちは何らかの子供には理解しがたい事情により、母のことを自分には内緒にしておきたいのだということを漠然とではあるが理解していたのだという。
リュウはケンシロウが迎えに来た時、これで全ての事実が分かるものと期待したのだそうだ。
ハクリ夫婦やリセキは、ケンシロウが来るまでの間、母のことを自分に内緒にしておきたいのだろうとリュウは考えていた。
自分にこの話を打ち明けるのにふさわしい人物こそが、ケンシロウという人なのだろうと。
だからケンシロウが迎えに来たら、自分に全てを話してくれるものと思っていたらしい。
だが期待に反してケンシロウは何も語らず、リュウをバルガに託して去ってしまった。
北斗神拳を伝授されなかったこともショックではあったが、母について何一つ触れようとしなかったことはそれ以上にリュウを落胆させた。
それでもリュウはケンシロウやハクリ夫婦たちに対して悪感情を持ったことはないのだという。
なぜならリュウは、自分を我が子のように育ててくれたハクリ夫婦やリセキ、そして共に旅をしたケンシロウ、バルガたちから確かな愛情を感じ取っていたからだ。
だから母のことを内緒にしているのも決して悪意からくるものではなく、あくまで自分のためを考えてのことなのだろうと言い聞かせるようにしたのだと。
そして自分からは決して母のことを尋ねたりしないように、その幼き心に誓ったのだと。
それはいかにしっかりしているように見えても少年にとっては辛い心の作業だったに違いない。
この世の中に母のことが気にならない子供などいまい。
リュウはその自然な感情を理論で封じ込めることで成長してきたのだった。
今、目の前にいる純粋無垢で誰からも愛されて心身共に健やかに育ったかのように見えるこの青年の心の中で、そのような葛藤が繰り返されてきたとは容易には想像しがたい。
赤子の時には既に二親ともこの世にはないという孤児の持つ寂しさや影といったものを、この青年の表向きから感じ取るのは困難だった。
その父ラオウが己の心の弱さをカバーするために強固な鎧を築いていたのと同様、リュウもまた自分の心の中に容易に他人が踏み込めないような複雑な防御機構を幼い頃から身に付けてきたのだろうか。
私は二人の間に静かな時が流れるに任せてそんな思いに耽っていた。
私同様リュウもその頭の中で何らかの思考を巡らせているのではあろうが、それが決して心地の悪いものではないことくらいは見ていて分かる。
ここにいるのはお互いにとって今残された唯一の肉親。
これまで長く名乗ることを許されず、そしてまた明日からも公の場で肉親として親しく語らうことは出来ないであろう二人。
私もリュウも今のこの静かな時を楽しんでいた。
どれくらいの時間が経ったか、突然開かれたリュウの口から出てきた言葉は、私の想像していたものとは大きく異なるものだった。
「お祖父様、私は今度結婚することになりました。」
どうやらこの日最後に驚かされたのは私だったようだ。
第67話 軍師道
どうやらこの新しい継承者は人を驚かせることが好きらしい。
私はもちろんリュウの縁談を知っていた。
なにしろこの話を最初にミュウに持ち込んだのは誰あろう、この私なのだから。
だが情報を得ているはずの私でも、今この場でリュウの口から縁談の話しが出るとは思ってもみなかった。
私はミュウに、いずれケンシロウにこの話を持ちかけるようにという提案をした。
ミュウもこの縁談には同意していたため、いずれ時が来れば天帝と北斗宗家嫡男の婚姻という、これ以上ないおめでたい話がどこからか私に伝わってくるだろうという予測はしていた。
しかしまさかこれほど早くケンシロウだけではなく、リュウ本人にも話が通じていようとは予想の範囲を超えていた。
順番としては、ミュウはまずケンシロウに先に話を通し、その後にリュウに縁談を持ちかけたはずだ。
となるとケンシロウとミュウは私の知らない間にどこかで秘かに話し合いの場を持っていたということになる。
ここ数年は、私はもうケンシロウの偵察を止めていた。
リュウにはバルガからの報告以外にも、私が独自に育てた密偵を放ちその様子を探らせていたが、ケンシロウにはもうその必要はないだろうと思っていた。
どうやらその隙にミュウとケンシロウの間でなんらかの動きがあったらしい。
ケンシロウがバルガを通じてリュウに帝都に行くよう指示したのは、表向きは新北斗神拳継承者としての挨拶回りということになっているが、本当の目的はこの縁談のための顔合わせだったのではないか。
今の段階ではこの件が私の計画に支障をきたすというリスクはほとんどないようだ。
せいぜい今のように不意を突かれて驚かされ、残り少なくなった寿命をさらに縮めるくらいのものだろう。
だが私は生来他人に出し抜かれることを好まないタチだった。
それは軍師という職業上必須だからという後天的に獲得されたものというよりは、おそらくは持って生まれた性質というものなのだろう。
さらに今回私を驚かせたのが、間接的にあのミュウであったということも少し引っかかるところであった。
どうもあの女が相手だと私は少し遅れを取ることが多い。
もう一つ気になったのは、リュウとケンシロウはこの縁談に私が関与していることを知っているのかどうかという点だった。
私はミュウに、この件はあくまでミュウ自身が思いつき提案したという形にして欲しいと頼んでいたのだが、果たしてその約束は守られているのだろうか。
私は誰よりも強い出世欲を持っていると自覚している。
そしてその欲を他人から悟られぬように封印し、あたかも誰か他人のために己の生涯を捧げるのが本望であるかのように振舞ってきた。
私はそれが軍師としての本来あるべき姿だと確信していたし、ここまで幾多の危機を乗り越えて命を永らえてこれたのもそのおかげだと自負している。
その私のいわば軍師道からすると、自分の出世のために孫のリュウを天帝と結び付けようとした、などと腹を探られることはこれ以上ない恥辱であった。
たとえそれが我が孫のためであってもそれだけは避けたかった。
いや、孫だからこそとも言える。
これから宗家を継ぎ天帝と契りを結ぶリュウには、そのような小ざかしい策を弄する卑しい祖父の血が入っているとは世間に思われて欲しくない。
リュウにはあくまで正々堂々と王道を歩んで欲しかった。
身勝手な言い分と思われようと、それが祖父としての私の偽らざる願いであった。
もちろん五車星という非特権階級の血がリュウの体に半分混じっているという事実が、宗家嫡男、さらには天帝との婚姻に大いに妨げとなるという現実的な理由もあったのだが・・・・。
瞬時にそのようなさまざまな思いが私の脳裏を駆け巡っていたが、実際表した反応は間髪を入れなかった。
私はリュウの様子を探るため、とりあえずはリュウが望んだであろう反応を自身の顔に浮かべて見せた。
すなわち今日何度目かになる驚愕の表情を。
「その様子ではどうやら御存じなかったようですね。」
リュウは私のリアクションにまずは満足したようであった。
「わしが?まさか。それにしても今日はよく驚かされる日じゃわい。これ以上驚かされたら本当にこの世からおさらばするかも知れんぞ。」
「それはどうもすいませんでした。でもお祖父様がなにも知らなかったのだとしたらもう一つ驚かせてしまうことになるかもしれません。」
「おいおい、これ以上は勘弁してくれ。まだ何があるというんだ?まさか結婚する相手が天帝だとでも言うんじゃあるまいな。」
あえて私は冗談めかして先手を打った。
実際のところ、これ以上さらなる驚愕を示すような表情のバリエーションを、もう私の顔の筋肉は隠し持っていなかったという事情もある。
私の先制攻撃に対し、リュウはにやりと余裕を示す微笑を返してきた。
そして私の反応を楽しむかのように、少し間を取ってから切り出した。
「そのまさかならどうします?」
こういうやり取りならもうそれほど極端な驚きの表情は必要としない。
先手を打っていなければ、今頃は卒倒した振りでもしなければならなかっただろう。
「リュウ、お前まさか・・・・。」
「そうです。私の結婚する相手とは、天帝ルイ様です。」
第68話 リュウの迷い
「ルイ様・・・・・。わしの孫が天帝と・・・・・。そんなことがあっていいのか・・・・・?信じられん・・・・。」
「いきなりですから信じられないのも無理はありません。ですがこれは正真正銘本当の話です。」
驚く私に対してリュウはゆっくりと、反応を楽しむかのように説明を始めた。
「実はケンから帝都に行って天帝とミュウに挨拶をしてくるようにという指令を受けた時は、私もまだそんなとてつもない話が密かに進んでいたとは思ってもみなかったのです。」
その後リュウが語ったところはほぼ私の想像どおりであった。
帝都においてリュウはミュウから天帝ルイとの縁談を持ちかけられた。
さすがにそのような大事を自分独りで決めるわけにはいかないという理由で、リュウは一度は態度を保留したのだそうだ。
だが、この話は既にケンシロウからも了承されていると聞かされたため、リュウは北斗神拳継承者としての修行を終え、宗家を正式に継いでからでもよければという条件付きでこの縁談を受諾。
そして先ほど南斗の城を去った後で、ケンシロウと二人だけになってからそのことを確認したという経緯だった。
私は話を聞きながら内心安堵していた。
どうやらミュウは私との約束を破ってはいなかったようだ。
リュウがこの縁談に関して私の関与を疑っている気配は話しぶりからは感じられなかった。
「で、リュウよ。お前から見たルイ様の印象はどうであった?」
「はい。天帝という身分を驕ることなく、それでいてしっかりその重責を全うしようという強い意志を心に秘めた女性と感じました。それに・・・・実に美しい方ですね。」
「うむ。ルイ様の哀しい半生についても聞いておるのかな?」
「はい。ミュウから聞きました。双子の天帝、元斗皇拳継承者ファルコの決断、そして元斗と北斗の戦いまで。そうそう、ケンと戦ったファルコはミュウの夫でもあったんですね。」
「ファルコ様か・・・・。強い漢であったな。拳だけでなくその心も。ミュウ様はお前の父とファルコ様の関係については話さなかったか?」
私の話はリュウをやや驚かせることに成功したらしい。
「父とファルコの?まさか二人は戦ったことがあるのですか?」
「やはり聞かされていなかったか・・・・・。この話はラオウ様の子としては知っておいた方が良いだろうな。」
私はラオウとファルコの因縁をリュウに説明した。
かつてラオウが拳王としてこの乱世の覇者たらんとしていた頃、天帝のいる村を席巻しようとしていたこと。
ファルコは拳王から村を守るために、自ら己の片脚を切り落としたこと。
拳王はそのファルコの漢気に応え、村を襲うことを断念したこと・・・・・。
「そうでしたか・・・・。ではファルコは片脚でケンと、北斗神拳と戦ったのですね。元斗皇拳とは恐ろしい拳ですね・・・・。それにしてもミュウはなぜ私にそのことを言わなかったのでしょう?」
「恐らくは、言えばお前が引け目を感じると思ったのであろうな。父の悪口を子に押し付けるようで気が引けたのだろう。」
リュウの顔に少し影がさしたように見えた。
「今度会ったら私の方から父のことを謝っておきましょう。もちろんそれで済むというわけではありませんが、ルイ様と結婚するということはこれからもミュウとは顔を合わせるということですからね。なるべくわだかまりのないようにしておきたいですから。」
「うむ、それがよかろう。ミュウ様もお前を恨むということはよもやあるまいとは思うがな。それでもリュウの方から謝っておくというのは、ミュウ様にとっても決して悪い気はしないだろう。」
「ミュウ以外にも父のせいで哀しい思いをした者が多くいるのでしょうね・・・・・。私が一人だけ幸せになって本当に良いものでしょうか・・・・・?そう言えばお祖父様も父に一度殺されかけたんですよね。」
「はっはっは。わしなどはケンシロウ様とラオウ様の戦いの前のほんの前座で弄ばれたに過ぎん。気にするほどのことはない。だがお前の中にそういう気持ちがあるのを、祖父として嬉しく思うぞ。」
リュウはまたも口を閉ざした。
しかし今度は先ほどまでのような心地よい沈黙ではなく、何かためらうような気配が漂っていた。
しばらくして迷いを振り切るかのようにリュウは口を開いた。
「お祖父様、母のことをお聞きしても良いでしょうか?」
今度は想定の範囲内の問いであり、私は既にその問いに対する模範解答を用意していた。
第69話 語られた「真実」
リュウの母、すなわち私の娘トウのことを尋ねたリュウの顔は、リンやバットを凍りつかせた際の最初の出会いの時とはまるで違っていた。
もちろん顔そのものが変わったわけではないが、今のリュウの表情には相手を畏怖させるようなオーラは微塵もなく、代わりに表れたのは幼さや脆さとでも表現されるべきものであった。
私はトウの墓の前でリュウの思わぬ来訪を受けてからこの問いのあることを予期し、ずっとその返答についてどうすべきかを思索していた。
これまでにもこういう日がいつか来ることを全く予想していなかったわけではない。
私は公の場でリュウの祖父であることを知られるのはなんとしても避けねばならないと思っていたが、個人的にはリュウとただの祖父と孫として交流を持つことを内心密かに願っていた。
恐らくはケンシロウがいつかそういう機会を設けてくれるのではないかと期待さえしていた。
それが思っていたよりも早く訪れたというだけに過ぎない。
従って私にとってはリュウの問いに対する解答を作成するのは、さほど労を要する作業ではなかった。
私はリュウに、トウとラオウの関係について予め答えを用意していたと勘繰られない程度に流暢に説明をした。
もちろん私が語ったのは、私の計略によってトウがラオウに近づき、ラオウが持て余していた無尽蔵の精力を利用してお前を孕んだなどという、今や誰にとっても望まれていない真実ではない。
娘トウは幼い頃よりラオウを慕っており、若い男女ゆえにいつしかそういう関係を結ぶこととなった。
しかし真実の愛というものを知らぬラオウの心には慈母星のユリア様がおり、トウの思いはついに受け入れられることはなかった。
思い余ったトウは、ラオウがユリア様の下に迫ってきたまさにその時に、愛する男の目の前で自害して果てるという峻烈な道を選んだ。
トウは既に生まれていた子、すなわちリュウのことをラオウには告げず、最後まで一人の女として死ぬことを願ったが、父であるこの私が不憫に思い、ラオウに赤子の存在を告げた。
ラオウはまだ見ぬ赤子を思い、自分を愛し死んでいったトウを思い、ようやく本当の愛とそれを失う事による深い哀しみを知ることとなり、その結果北斗神拳究極奥義である無想転生を修得することができた・・・・。
「では父は、私や母のことを最後には愛してくれていたのですね?」
私の語った「真実」の物語を聞いたリュウが尋ねてきた。
「そうだ、リュウ。リュウというその名はラオウ様がケンシロウ様との最後の戦いに赴く前にわしに告げたもの。お前のその名には、ラオウの愛するわが子への思いが詰まっておるのじゃ。」
「この名にですか?」
私はリュウという名の由来を告げた。
リュウの両目からはいつしか涙が溢れていた。
「ありがとうございます。お祖父様・・・・。私はこれまでずっと真実を知ることを心のどこかで恐れていました。母は一体どのような死に方をしたのだろう。母と父は一体どのような関係だったのだろう。皆が母のことを私に伏せているのはなぜなんだろう。次から次へと疑問が湧いてきて、それに対する私の答えはいつも芳しくないものばかりでした。」
「寂しかったであろうな。生まれてすぐに両親とも亡くし、母のことを知りたくとも誰に尋ねるわけにもいかぬ。辛かったであろう。お前には本当に苦労をかけたな。」
「いえ、私はよいのです。ただ・・・・母はさぞ苦しい人生だっただろうと・・・・。ですが、今の話で少し気が晴れました。母の愛は決して無駄ではなかったのですね。死後とは言え母の気持ちは父に届いたのですね。」
「そうじゃ。トウは不憫な生涯であったがラオウへの思いは報われ、息子のお前はこんなに立派に育った。きっと天国で喜んでおるじゃろう。じゃがな、リュウ。」
「はい・・・。なんでしょう?」
「そなたの父ラオウと我が娘トウの間に子がいた事は決して公にしてはならぬ。これから先もな。」
「では、お祖父様と私の関係も・・・・?」
「そうじゃ。こうして祖父と孫として会うのも二人だけの時だけにせねばならん。人前ではわしはリュウ様と呼び、お前はリハクと呼ぶのじゃ。」
リュウはどこか寂しげであった。
「それが私のためだと・・・・?」
「そうじゃ。お前もそろそろこの世界の伝統というものが分かってきたであろう。我々の住むこの裏世界では階級の差は絶対じゃ。非特権階級である五車星の娘が母というのでは天帝とは釣り合わぬ。ならば母はどこの誰か分からぬという方がよほどましというものじゃ。」
「しかしそれではお祖父様は・・・・。」
「わしはわしの心の中でだけお前が孫だと思えたらそれでいい。娘トウも生きていたらきっと同じことを言っただろう。それがわしの、五車星海のリハクの分相応というもの。天帝の婿が我が孫などと思える贅沢なジジイは広い世界でもわし一人じゃからな。お前は余計なことを考えなくていい。わしの密かな幸せを奪わんでくれ。」
この最後の台詞はかなり真実に近い。
せっかくここまでこぎつけたものを、今ここでリュウに生半可な肉親の情などを優先されて全てが台無しになってしまっては私もトウも死んでも死に切れない。
リュウもどうやら納得してくれたようだった。
今後もたまには今夜のように誰も見ていないところで会うことを約束してリュウは私の館を去った。
既に夜は明けようとしていた。
第70話 最後の願い
「しかしたまげたな、リン。」
「本当に。でも良かったわ。姉さんにもやっとそういう相手が出来て。リュウとならきっとうまくやっていけると思うわ。」
「しかし双子なのに片やお相手は宗家の嫡男で北斗神拳継承者、こちとら養子に入ったとはいえどこの馬の骨とも分からないチンピラ風情。一歩間違えばリンがリュウと結婚していたかもしれないのにな。悪いな、リン。こんなんで。」
「またそうやってすぐ茶化すんだから。」
リンとバットの夫婦の周囲にはいつも笑いが絶えない。
それはバットという男が結婚してからも、子をなし父となってからも、基本的な部分では変わらなかったからだろう。
もちろん良い意味でだが。
リュウは南斗の都に数日滞在した後で、ケンシロウと共に旅立って行った。
今私と慈母星夫妻は、北斗神拳継承の修行に旅立っていった二人を見送って、城に帰ってきたところであった。
リュウと天帝ルイとの結婚については、あの翌日にケンシロウからリンとバットに伝えられた。
そこで私もまた初めて耳にしたという驚きの演技をさせられる羽目になったのは言うまでもない。
リュウの出現で騒然となっていた南斗の街は、その後に続いた北斗神拳継承者ケンシロウの登場によって更なる喧騒に見舞われた。
北斗神拳継承者と言えばもはや生ける伝説と言ってよい。
拳王の子と北斗神拳継承者が共に黒い巨馬に跨って街を去る様は、さながら映画のワンシーンのように見る者を引き付ける無言の魅力があった。
リュウを背に乗せた馬はあの黒王号が生んだ双子の片割れだという。
そしてケンシロウが跨っているのがその双子のもう一頭であった。
あのラオウが愛し、その死後はケンシロウへと引き継がれた黒王号は、先年その数奇な生涯を閉じたのだった。
黒王号という圧倒的な存在感が、ラオウの拳王としての威厳を大いに引き立てていたのは間違いないだろう。
ラオウは拳王というネーミングについても言えることであるが、形や名前が相手に与える第一印象というものを大事にした男だった。
逆にその形式へのこだわりが「拳王」から「魔王」へという、おそらく本人以外にはほとんど意味を持たない呼び名の変更を生み、ケンシロウに敗れ去った一因ともなったのではあるが。
一方のケンシロウはと言えば、トレードマークとなった胸に七つの傷もシンから与えられたものであり、黒王も義兄ラオウから引き継いだものであるに過ぎない。
だが継承者として選ばれたのはケンシロウであり、この乱世の最後に勝ち残ったのもラオウではなくケンシロウであった。
突き詰めればそれこそが北斗宗家の嫡男という身分の成せる業であり、ラオウもカイオウも最後までその太古から続く絶対的な身分の差に泣いたのだった。
そして今ケンシロウを勝利者たらしめた最大の要因である宗家の嫡男という身分にリュウが、この私の孫がなろうとしている。
成長したリュウを初めて見た私にとって、その間近に迫った現実はそれまで思い描いていた頭の中だけの空想よりも遥かに甘美であり、感慨深いものであった。
私がこれまで成してきた「真実」は決して他人に誇れるようなものでないことは十分自覚している。
だからこそリュウにもその核心については全く触れず、トウとラオウの関係について、リュウが望むような「真実」を話してやったのだった。
「目的は手段を正当化する」
という多くの偽善者や独裁者が有難く戴く古くからの格言があるが、リュウを見た私も恥を忍んでこの言葉を自分自身と娘トウへの言い訳に使わせてもらうことにした。
それくらい自分の孫が宗家の嫡男となり天帝と婚姻を結ぶということは他の何にも代えがたい喜びであった。
私もさすがにもうそう長くは生きられまい。
生涯の全てを捧げてきた野望の実現が見えてきたことで、私自身少し気力が萎えかかっていた時期もあった。
実際に一時はもうこのまま夢半ばで朽ち果ててしまった方が幸せなのではないかという気にさえなっていた。
だがリュウとの対面は私に再び最後の活力を与えてくれたようだ。
まるであのトキやファルコを最後に奮い立たせた刹活孔を突かれでもしたかのように。
私はなんとしてもリュウが宗家を継ぎ天帝と式を挙げるまで生き続けていたくなった。
それが老いたる軍師の最後の望み。
それさえ叶えば今度こそ笑ってこの世を去ってもよい。
リンとバットがおしどり夫婦を地で行くやり取りを楽しんでいる横で、私はリュウの姿、言葉をいつでも鮮やかに思い出せるように脳裏に刻みつけながら、そんな思いに耽っていたのだった。
第71話 挙式前夜
リュウとケンシロウが南都の都を去ってから、さらに数年の時が流れた。
帝都はかつてない盛大な挙式の話題で大いに賑わっていた。
この裏世界の長い歴史上でも、天帝と北斗宗家という二つの頂点の正式な跡取り同士の婚姻というのはそうそう例があることではない。
天帝や宗家のように、特権階級の中でも特に高貴な家柄では、自らの家の世継ぎを決めるのが何より大事であり、他家から嫁や婿養子を取ることはあっても外へ子を出すということはあまりない。
子供が多ければそういう話もなくはないが、それでも相続争いの元となる種はなるべく増やさない方が良いという古くからの経験に基づく教えがあり、実際にはそうした事例はあまり多くない。
ましてやいまや天帝も宗家も後を継ぐものは数少ない。
天帝にはルイの双子の片割れであるリンがいるが、既に南斗六聖拳の一将である慈母星を継いでいた。
一方宗家の血を引く者は今やケンシロウとリュウの二人のみとなったが、ケンシロウにはすでに再婚する気も子をなす気もない以上、実際に宗家の跡を継ぎ次の世代にその血を引き継ぐべき者はリュウしかいない。
このような状況では通常どちらの家も婚姻はさせたがらないだろう。
どちらの家にとってもたった一人残された頼みの綱。
その両家が婚姻となれば形式上どちらか片方は跡継ぎを無くすことになるのだから当然だろう。
無論格の上では天帝はこの裏世界の頂点であり、婚姻となれば宗家が婿養子を出す形となるのが常道。
ただ宗家の側からすればこちらは嫡男であちらは女子、ならば当然女性が宗家に嫁として入るべきという理屈も成り立たないことはない。
これが平穏の世であれば、互いに家の体面や誇りを優先し相譲らず、このような婚姻が成立することはなかっただろう。
だがあの未曾有の乱世は、そうした諸々のお家事情など取るに足らない瑣末なことと思わせるだけの圧倒的な影響力を持っていた。
核戦争によってこれまで繁栄を重ねてきた表の世界は完全に崩壊し、それまで格式とお家の相続が唯一の関心事であったこの裏世界にも、天地をひっくり返したと言ってよいほどの変化が生じた。
我々裏世界の人間は長いこと名を保つことのみに執着してきたため、実際の政治からは遠ざかっており、ほとんど素人同然の集団であった。
それがにわかに世の中を動かすことを余儀なくされたわけで、その混乱ぶりは後世の物笑いの種となるほどお粗末極まりないものであった。
そんな中にあって帝都の宰相ミュウの政治力は卓越しており、名前の上でのトップである天帝を戴いていることもあって、ごく自然と民から「帝都こそがこれからの世界の中心となっていくであろう」と目されてきた。
無論天帝ルイの妹であるリンには、その帝都を中心とした流れを覆そうという野心など微塵もなく、南斗の都はいまや帝都に次ぐ第二の街として、帝都を支えるべく機能していた。
今政治の実権を握っている者たちの多くは、あの戦いに明け暮れてその日食べるものもおぼつかなかった乱世を、自分たちの目で見て肌で感じて知っている。
多くの犠牲の末にようやく治まった今の平和のありがたさを忘れ去ってしまうほどには、まだ時は経っていなかったのである。
そんな人々の平和への希求が、この縁談を可能にさせたのだと言ってよい。
天帝と北斗宗家の婚姻。
この裏世界のNo.1とNo.2が、互いのお家事情を無視してでも結ばれるという事実が、何より民に平和な世を確信させる象徴となりうるのだった。
いかに頭の固い特権階級の人々といえどもその程度の理屈は分かる。
こうしてルイとリュウの縁談は、どこからも横槍を入れられることなく円滑に運んだのだった。
もちろんそのためにはリュウが宗家の正統な嫡男となっていなければならず、この婚姻の前年にその儀式も厳かに執り行われていた。
これは現在の宗家の唯一の嫡男であるケンシロウ自らがリュウを推薦しているのであるから、ほとんど形だけのもので済んだ。
その場で同時に、一子相伝の最強にして特別な拳法である北斗神拳の次期継承者にリュウが選ばれたことも、宗家の高僧たちによって正式に認可された。
それまでにリュウはケンシロウと数年に渡る修行を行い、北斗神拳の技の全てを一通り伝授されていた。
そのケンシロウは、リュウに北斗神拳と北斗宗家を継がせると、すぐにまたやりかけていた重要な務めを果たすための旅に出たのだった。
それはリュウとの最初の旅の後にも行っていた、北斗神拳継承者にのみ成しうる、そして成さねばならない務めであった。
乱世によって継承者が死に絶えた他流派の拳法の然るべき継承者を探し、その技を伝授するという気の遠くなるような地道な作業は、北斗神拳が何ゆえ他とは異なる特殊な拳法であるかを雄弁に語っていた。
あの乱世でケンシロウが倒した拳法家の数たるやにわかに数え切れないほどであり、その全ての継承者を探すだけでもかなりの難事であった。
ましてやその者に奥義を授けねばならず、そこに費やされる時と労力は常人の想像を絶するものがある。
だがこれが北斗神拳継承者にしか成しえない重要な定めであり、平和な世であればその必要もないが、あの乱世の後ではまさにこれこそが継承者の最後の、そして最も重要な任務であった。
そのケンシロウもこの度の挙式には参加することになっている。
天帝と宗家の婚姻という平和の象徴とも言うべき式典に、既に生ける伝説と化した救世主の存在は最高のお祝いとなろう。
私もリンやバットと共にこの式に招待されていた。
第72話 帝都と南斗
「ここは本当に素晴らしい街ね。バット、そう思わない?」
「まあな、でも南斗の街だって負けちゃあいないぜ。なあリハク?」
「はい、リン様の慈愛と徳を慕って多くの人が南斗の街に移ってきています。規模はやや小さいですが中身では決して帝都に劣ってはいますまい。」
私とリンとバットの三人は祝典ムードに湧く帝都の街を歩いていた。
賑やかで活気がありよく整備されたその街は、ここを訪れる者を普段よりもちょっと華やかな気分にさせる力を秘めていた。
リンの素直な感想に対して持ち前の子供っぽい対抗心を披露したバット。
バットに話題を振られた私の受け答えも今や堂に入ったものだった。
この夫婦のやり取りは両者が子供の頃からよく見ている。
お互いいい大人になったが、二人の関係自体にはそう大きな変化はないようだ。
リンは幼い頃から気品があり、自分や他人のありのままを受け入れるだけの度量がある。
一方バットは常に自身を必要以上に大きく見せるかまたはその逆であり、一見誰に対してもざっくばらんでくだけた自然体で接しているかのように見えるが、実はその全ては意図的に作られたキャラクターであることを私は知っている。
実際このバットという男ほど、等身大の自分を他人に見せることを潜在的に恐れている人間を私は思い出すことが出来ない。
そんなバットの弱さ、脆さをよく理解し、リンはその深く大きな度量で包み込んでいる。
それもバットがリンとの人としての器量の差を感じてしまい、逆に卑屈になることがないような巧みさで。
バットの言を受けた私の言葉も決して嘘ではない。
実際南斗の街には、このリンとバットの夫婦関係がそのまま反映されたかのような居心地の良さがあった。
華やかさという点では帝都にやや劣るが、街の持つ寛容さ、暖かさという点ではむしろ勝っているのではないか。
もちろん南斗の街を直接整備した私自身の自負心も、幾分その評価に含まれていることは否めないが。
「それはリハク、あなたのおかげよ。わたくしもバットも街をどう作っていくかなんてことはこれっぽっちも分かっていなかったんだから。」
「そうそう。俺もリンもケンにくっついて戦ってきただけだからな。政治のことなんて全くのど素人。南斗の街も実際はリハクが作ったようなものだからな。」
「いやいや、箱は作れても心がなければ人はそこに集まりませぬ。その心とはすなわち街を治める将の心。お二人の人柄があの街に魂を吹き込んだのでございます。」
「相変わらずうまいこと言うな、リハクは。てことはこの帝都も箱を作ったのがミュウさんで、そこに魂を入れたのが天帝ルイって事か。」
「そうなりますな。ただルイ様はまだ一人身でしたからな。よき伴侶を得て子をなすことで、この街にもさらに温かみというものが出てまいりましょう。」
「そうね。ルイ姉さんの晴れ姿、本当に楽しみだわ。リュウと良い夫婦になれるといいわね。」
「俺たちみたいにか?でもルイはリンほどおてんばではなさそうだからな。夫婦喧嘩はそんなに怖くなさそうだけどな。」
「あら、失礼ね。それじゃまるであたしが怖いみたいじゃない?」
「そりゃあなんたって南斗六聖拳だからな。俺なんざいつきり刻まれるかと毎晩震えながら眠ってるぜ。」
「ふうん。切り刻まれるようなやましいことでもしてるのかしら?今度リハクに素行調査でもしてもらおうかしらね。」
またしても愉快な夫婦喧嘩に巻き込まれた私もまたいつものように仰々しく返すことにした。
こうしたケ-スではそういうやり方が最も相応しいリアクションであったからだ。
「かしこまりましてございます。この海のリハク、式が終わりましたら早速手の者に命じておきましょう。結果は細大漏らさずリン様にお知らせいたします。」
「おいおい、勘弁してくれよ。降参降参。」
毎度このような展開となり、この慈母星夫婦の周りには常に穏やかな笑いが絶えないのだった。
その輪の中に私が入ることも少なからずあり、私自身この役回りを実は気に入っている。
今回のこの帝都への小旅行は私にとって特に格別なものであった。
天帝と宗家の挙式は誰にとってもおめでたいことには違いないが、私にとってこの婚姻は孫の晴れ舞台であるだけでなく、私の生涯を賭けた野望の終着点でもあったのだ。
その日までもうあとわずか。
野望はいよいよ現実として目の前で執り行われようとしていた。
第73話 至福の回想
私は天帝ルイと宗家嫡男にして北斗神拳継承者リュウの結婚式に招待されはしたが、無論新郎の祖父としてではない。
あくまで天帝の双子の片割れである南斗慈母星の将リンの側近という立場である。
私とリュウの関係については今もごく一部の者しか知られていない。
公にはラオウの子リュウの母については、一切その素性は明らかにされていない。
あの核戦争後の大混乱の最中でもあり、ラオウの種を宿した女性が氏素性の分からぬ者で、出産後間もなく死亡していたとしてもさほど不思議なことではない。
従ってリュウが宗家を継いだ時もこの度の婚姻の際にも、その点についてはあえて誰も触れなかった。
要するに誰にとってもその方が、つまりリュウの母方の血筋などというものが存在しない方が、都合が良かったのである。
これがどこそこの家の誰それの娘というような具合で素性が分かってしまうと話は少々厄介なことになる。
仮にも天帝との婚姻となると、リュウと血の繋がりのある者たちもこの先特別な身分に連なることとなり、それを快く思わない保守的な一群というのがいつの世にも存在するからである。
その素性が宗家嫡男の母としてふさわしい家柄、すなわち特権階級の者であればなんら問題はないが、非特権階級である南斗五車星の一星の娘ではこうすんなりと事は運ばなかったかもしれない。
それがこの裏世界の絶対的階級制社会の現実であり、その巨大な階級の差という壁の前に泣かされてきた数多の先人たちの辛苦を知るからこそ、私はここまで慎重に事を進めてきたのであった。
そして私のこのややもすれば小心とさえ評価されがちな慎重さが決して無駄ではなかったことが。、つい先ほど目の前で行われた華やかな挙式によって証明されたのだ。
リュウとルイの結婚は誰からも、天帝の一族からも宗家の関係者たちからも祝福された。
式中リュウはたった一度私と目を合わせただけであったが、それだけで私には十分過ぎる至福の瞬間であった。
その一瞬だけリュウの目はこの世に残されたただ一人の肉親を見る愛情溢れた眼差しになっていたように見えた。
そんなリュウの思いに気づいた者は、私を除けばあの場ではケンシロウとミュウだけだったであろうか。
もっともそう見えたのは私の内なる高揚から生じた単なる思い込みと言われればそうかもしれないが、例えそうであっても一向に構わなかった。
それは思い出しただけで全身の至る所から歓喜の波が沸き上がってくるかのようなシーンであった。
これまで私が為してきたこと全てがこれで許されるというわけではもちろんない。
だがたとえ許されなかったとしても、肉体が朽ち果てた後、魂が地獄の業火に焼かれようともその代償として余りある最高の瞬間を私は確かに享受したのだから。
私は一人余韻に浸り幸福を噛み締めていた。
その回想の甘美さに酔うあまり、私はそこで人を待っていたことさえ忘れかけていた。
そこは中央帝都からは少し離れた村にある一軒の家であった。
帝都からの距離はさほど遠くないが、まだ人口もそれほど多くはなく、盛大な挙式の喧騒からも逃れ、嘘のように静かな空気が流れていた。
その家で待ち合わせるというのは先方からの提案であったが、私にとっても無論否やはなかった。
その家は私にとっても相手にとっても特別な場所。
そしてひょっとしたら私は遥か以前に今から会う相手にその家で最初に出会っていたのかもしれない。
そんな場所でもあった。
私はもうこの家はなくなっているか、残っていたとしても既に建て直され人手に渡っているのではないかと思っていた。
なので先方から待ち合わせ場所としてこの家を指定された時は、驚きと嬉しさと懐かしさの入り混じった不思議なものがこみ上げてきたのを覚えている。
その誘いは先ほどの式の最中にあった。
私の中ではもうあの冗談とも本気とも取れる口約束などとうに忘れ去られているのだろうという気持ちもあった。
と同時にその誘いをどこかで予感している自分もいた。
そう、私は正直に言えば少し期待していたのだ。
今、私が腹を割って話をしてみたいと思えるこの世で唯一の人物。
軍師として政治家として共に語るに足ると認める唯一の人物。
これまでに行ってきた、決して人には言えない後ろめたい過去を理解してくれそうな唯一の人物。
そして私が生涯唯一愛したと言える女性から最も信頼された人物。
「遅くなりました、リハク殿。あまり長くお待たせしてしまったのでなければよいのですが。」
私の回想を静かに打ち破る言葉と共に待ち人は入って来た。
天帝第一の側近にして、かつてこの家の主だった漢の妻ミュウがそこにいた。
第74話 二人だけの宴
この女性は今何歳になるのだろうか。
ファルコが修羅の国でその短い生涯を閉じてからもう相当な歳月が流れていることを考えれば、そう若いはずはない。
そもそもファルコとの間にできた子が、もうとうに幼子と呼ばれる年頃を過ぎてしまっているのだから、世間では中年のおばさんと言われてもおかしくない齢になっているのだろう。
そんな下世話なことを想像してしまうくらい今目の前にいるミュウは若く美しかった。
細かく観察すれば肌のきめ細かさや目じりの微かなしわなどからその歳月を読み取ることは可能だろう。
だがそうした細部の変化を年齢から来る衰えとは感じさせない女性としての艶やかさがこの女性にはあった。
子供を生んだ中年のおばさんなどという単純な枠組みでは到底このミュウという女を括ることはできないだろう。
「わたくしの顔に何かついていますか?リハク殿にそう見つめられると心の奥まで見透かされそうで怖くなりますわ。」
ミュウはそう冗談っぽく言って私のグラスにワインを注いだ。
「いや、これは失礼。あまりにお美しいのでつい見惚れておりました。こんなありきたりの誉め言葉などあなたの耳には挨拶程度にすら聞こえないでしょうがな。」
「まあ、今日はまたいつも以上にお口が軽いですわね。やっぱり式の余韻ですかしら?」
「いえいえ、決してお世辞ではありませんぞ。ですが確かに本当に素晴らしい式でしたな。ミュウ様も肩の荷が下りたことでしょう。」
「わたくしなどは大したことはしておりませんわ。それよりリハク殿こそ今宵は特別な夜になったのではございませんか?」
「ミュウ様にそう言っていただけると何より喜びがこみ上げてまいりますなあ。こうしてあなたと二人でこの日を祝えるとは思ってもみませんでした。」
「あら。わたくしこう見えても約束は守る方ですのよ。天才軍師海のリハクがその大いなる野望を達成し、誰にも知られずひっそりと祝杯を挙げる時にはわたくしがそのお相手になると・・・・・。お忘れになりまして?」
そう言うとミュウは冗談めかして微笑んだ。
「忘れるなど滅相もない。この老体が今日まで命を永らえることが出来たのもこの瞬間を願えばこそ。ただあまりにも夢のようなお話ゆえ、期待し過ぎないようにはしておりましたがな。夢叶わず失望のあまりそのままあの世へ旅立つようなことがあってはミュウ様も寝覚めがよくないでしょうし・・・・・。しかし私などの相手をしていただいて、改めてお礼申し上げます。」
「わたくしこそリハク殿の最高の夜のお相手に選んでいただけて光栄ですわ。しかもこの思い出の場所で。わたくしにとってもあなたにとっても・・・・」
ミュウは微笑の中に探るような目を忍ばせて私を上目づかいに見た。
ミュウが待ち合わせにこの家を指定し、私がそれを受けた時点で当然この展開は予想されたものだった。
元斗皇拳最強の金色の家。
そこはファルコとその母が暮らした家であり、ミュウは幼い頃よりこの家に出入りしていた。
ファルコの母が亡くなる寸前にはその看病をしていた家でもある。
だからミュウがこの家に深い思い入れを持っていることはごく自然のことであった。
だが私の場合は事情が異なる。
私がこの家でファルコの母と道ならぬ情事に耽っていたことは当然ながら秘密とされていた。
私にとってもこの家は生涯ただ一人愛した女性との思い出の場所ではあったが、それは公には知られていないこと。
にもかかわらずミュウは今宵の二人だけの祝宴の場所としてこのファルコの家を選んできた。
それは私に対するミュウの軽い牽制であり、その申し出を受けた段階で私はファルコの母との関係を半ば認めたも同然であった。
私の方ももうこの女性には全てを話してもよい気になっていた。
我が孫リュウと天帝ルイの婚姻は無事行われた。
天帝の信頼厚い側近であるこのミュウの協力なくして式の実現は危うかったことを思えば、それくらいの情報提供は感謝の印として決して高すぎる代償ということはないだろう。
私は意を決していよいよミュウに全てを話すことにした。
第75話 告白
孫のリュウが天帝ルイと婚姻を結んだことで肩の荷が下りたのか、私の心も口もすっかり軽くなってしまったようだった。
もはやこの先の短い老人に失うものなど何もなかった。
全てを話してしまったところでもう私の計画に支障をきたす恐れはない。
既に結婚式まで済んでしまった今となっては、これを解消するだけの強力な力を持つ者など天帝の関係者にも宗家にもいまい。
まして宗家嫡男にして生ける伝説でもある北斗神拳継承者ケンシロウが承知しているとなればなおさらだ。
そんな思考回路が心地よく酔わされた覚束ない頭の中でフル回転していたが、それでも今目の前にいる人物が他の者であれば、仮にこの何倍ものアルコールが脳内に入っていようと決して余計なことを話したりはしなかっただろう。
私の体と頭脳に染み付いた軍師としての習性はそれほど深く強く、アルコールに負けて完全に理性を失くしてしまうほど歴史の浅いものではなかった。
私は恐らくこの目の前の麗人に心惹かれているのであろう。
それは政治家としての女性らしからぬ卓越した手腕や、軍師としての潜在的な能力の高さを評価しているというだけではなく、もっと純粋に異性としての魅力をこの女性に感じているのだろうと思う。
といって何も女の色香に狂わされてついぺらぺらとなにもかも喋ってしまう、というような次元の低いことでないのは確かだ。
私がこれまで成してきた事を同じレベルの知性、同じタイプの価値観の持ち主として正当に評価し、なおかつ異性として自分を受け入れてくれそうな人物に、私はこの女性以外に出会ったことがなかった。
もちろん後半の方、つまり異性として自分を受け入れてくれるかどうかについては純粋に客観的な推量とは言いがたい。
ここには多分にいわゆる希望的観測といわれる要素が含まれていることは否定しないが、私はこの推量もそう大きく外れてはいないだろうと思っている。
それに仮にこの憶測が全くの私の思い込みに過ぎなかったとしてもせいぜい私が恥をかくだけのことであり、それはこれまでに私が勝ち得てきたものと比較すれば取るに足りない程度と片付けてよいくらいの誤算に過ぎなかった。
まあそのような理屈を付けようと思えばいくらでも付けて自己を正当化することは可能だが、つまるところ私は誰かに全てを話したかったということなのだろう。
その相手として目の前にいるミュウは改めて考えるまでもなく完璧に相応しかった。
話してしまいたい欲求とそれを受け止めるだけの許容力を持った相手。
両者が同時に揃った時、人は不思議なほど饒舌となるのだろう。
「ミュウ様、今宵は一つこの老人の思い出話に付き合っていただけますかな?」
私がそう意味ありげに切り出すとミュウはごく自然に、まるで私がその話題を持ち出すのが当然であるかのように答えた。
「はい、喜んで伺わせていただきますわ。わたくしが今日ここへ参りましたのもそのためでございますから。」
「ほう・・・・。やはりここを待ち合わせの場所に選んだのはそういう意図でしたか?」
「ええ。リハク殿ならきっと私の意を汲んでくれると思っておりました。ファルコ様とそのお母上が暮らしていたこの家でなら、きっとまだ誰にも話していない海のリハクの本当の生涯が語られるだろうと・・・・。」
「そこまで言うからにはミュウ様、あなたもどうやらかなりのことを御存知のようですな。やはりあの方から?」
「お察しの通りですわ。わたくしはファルコ様のお母上から亡くなる前にリハク殿についていろいろなお話を聞かせていただきました。でもそのことであの方を責めてはいけません。あの方はリハク殿のことを最期の最期まで思っておられました。あの方がわたくしにあなたのお話をされたのは、いつかこういう日が来ることを願っていたからです。」
ミュウの話はまたも私の意表を突いた。
「こういう日・・・?」
「はい。あなたがその計画の全てを成し遂げられ、誰かにその生涯を語りたいと願う日が訪れたら、わたくしにその聞き役になって欲しいと・・・・・。」
ある程度は覚悟していたが、さすがにミュウがここまでファルコの母から全幅の信頼を置かれていたとは想像以上であった。
ファルコの母は、かなり以前からこのミュウを私が生涯の最期に全てを語るに相応しい相手と見抜いていたということになる。
さらに言えば、ファルコの母は私が誰かに私自身の全てを、ファルコの母本人にすら話してはいない全てを、いつか打ち明けたくなることを予見していたということにもなる。
思えばファルコの母のミュウの美貌についての先見の明は完全に私を凌駕していたのだが、その人物を見る目もまた確かだったというわけだ。
驚きと感嘆の思いで目の前に端然と座しているミュウを見ながら、私はゆっくりと語りだした。
娘トウもケンシロウもファルコの母もその全てを知らない我が生涯を賭けた野望の全てを。
第76話 救いの手
私はミュウに全てを包み隠さずに話した。
それは決して聞く者を心地よく酔わせるようなサクセスストーリーではなく、実の娘の命でさえも己の出世のために容赦なく差し出させるといった非道な内容をも含んでおり、特に女性の立場としてはかなり聞くに堪えないであろうエピソードも少なからずあったのではないかと思われる。
だがミュウは話の腰を折ることもなく、否定的な表情、例えば眉を顰めるといった仕草を見せることもなく静かに、それでいて真摯に私の話に聞き入っていた。
全てを話すと決めながら幾つかのエピソードについては私は披露するのを少しためらった。
例えばリンを匿っていたファルコの叔父夫婦を盗賊を雇い虐殺させた件やファルコの父、すなわちファルコの母にとっては夫にあたる男を病死に見せかけて殺害した件は、ミュウにも浅からぬ関わりがあるだけに、事実を歪曲して話した方がよいようにも思えたが、そんな私の躊躇を見透かしたかのようなミュウの深い慈愛に満ちた目は、結果的には私に一切の脚色や編集を許さなかった。
全てを話し終えると、その話すという行為そのものが贖罪であったかのように、これまで為してきたことが全て許されるかのような不思議な錯覚に襲われていた。
無論それはただの錯覚に過ぎないのではあるが、誰かに秘密を打ち明けるという行為は、己一人が背負ってきた重い荷物の一部を下ろしたかのような解放感、安堵感をもたらすものだということを、自分自身がそれを体験してみて初めてよく分かった。
私自身ジャギやコウリュウの秘密を打ち明けられた立場でもあり、心理的にはそういった現象はさほど珍しくもなくありうる事だということは知っていた。
しかし私はこれまで常に秘密を明かされる側であり、自分の秘密を誰かに明かすなどということは、それ自体が策略の一部としての意味を持っているというような例外を除けば皆無であった。
今、私は生れて初めて戦術的な計算抜きで他人に自分の本心を明かしたことで得られる精神的な安心感というものを体感していた。
私は他人の心を読むことに長けていると自負していたし、それが軍師足るべくして自分に授けられた天性の能力だとも思っていた。
しかし他人の心の動きを読み、己の意のままに操ることはできても、存外自分自身の心のありようというものには疎いものらしい。
私はミュウに心を開くことで得た安堵の気持ちの大きさから逆に、想像していたよりも自分の心が弱っていたことを思い知らされたのだった。
長い年月私は誰にも自分の本心を明かすことなく他人の心を読み、自分の計画を成すために周囲を操作しようと努めてきた。
それこそが天が私に与えた力であり、この力を最大限に生かして乱世に己の野望を賭けることこそ天命だと信じてきた。
従って私が他人の心の中に入り込むことはあってもその逆はないし、また私自身そんなことを望んでもいないと自分で思い込んできた。
だがその思い込みもまた私が自らにかけた自己暗示のようなものだったのかもしれない。
私もまた一人の人間として誰かに救いを求めたいという心があったのだろう。
その救いの相手がミュウだった。
そしてミュウに救いの手を差し伸べさせたのが、誰あろう遥か昔にこの世を去ったファルコの母だったというわけだ。
あの女は私の心もいつか誰かに救われることを望んでいる、本人すらそれに気づいていなかったが、ことを知っていた。
「リハク殿、少しお聞きしたいことがあるのですがよろしいでしょうか?」
自らの懺悔にも似た告白に酔っていた感のある私を、ミュウの穏やかな問いが覚ました。
もはや全てをさらした無防備な私にとって、いかなる詰問であろうと抗う術はなかった。
「もちろんです、ミュウ様。もう何も隠しごとはございません。何なりとお聞きくださいませ。」
ミュウの質問は、しかし私が想像していたようなものではなかった。
「リハク殿の中ではケンシロウ様というお方はどのような評価なのでしょう?」
「評価?と言いますと・・・・」
「ケンシロウ様は北斗神拳継承者にしてこの乱世の救世主。強さだけでなく愛と徳を兼ね備えた英雄。今生き残っている者たちはだれもが皆そう信じています。ですが、リハク殿のお話からはまるで違う人物のお話を聞いているようで・・・・。」
私はまたもこの女性に驚かされていた。
聞きたいことというのでてっきりファルコの母への想いや娘トウへの贖罪の気持ちなど、女性として当然気にかかる類のことを問われるのかと思ったがまさかケンシロウに対する評価とは。
それはすなわちケンシロウを、この乱世の救世主として評価し記録するであろう後世の歴史を認めるかどうかという問いに他ならない。
やはりこの女は天性の政治家なのだろう。
気になる点は決して女性的とは言い難いが私はこういう女が嫌いではない。
私はケンシロウに対しての私自身の偽らざる評価をミュウに話すことにした。
第77話 ケンシロウ伝
そもケンシロウとは何者であったのか。
私は現存する誰にも負けない、誰にも書けないであろう「ケンシロウ伝」を創作することが出来ると自負している。
それはおそらく後世の史家が記すこの乱世の記録、すなわち救世主としてのケンシロウの死闘の記録とは全く趣の異なるものとなるであろう。
私の中ではケンシロウとその他の優れた拳法家たちを分けた唯一のもの、何故にケンシロウが乱世の覇者となり、その他の者が彼にとって代わることができなかったのか、その違いを一つに絞るとするならば、それは巷間伝えられているような絶対的な強さでも、ましてや愛情の深さでもなく、宗家嫡男という天帝を守護する特権階級の中でも最高位の家柄の血を、最も強く受け継いだという点に尽きるだろう。
そう、ケンシロウは決してみなが思っているほど強くはない。
もちろん私などと比べれば超人的な強さであることは間違いないが、おそらくケンシロウよりも拳の才があった者は、すでにこの世を去った多くの拳法家たちの中に少なからずいたであろう。
例えば北斗の四兄弟に限ってみても、最も能力的に劣っていたのはケンシロウであり、逆に幼少の頃より類稀なる才を発揮していたのは三男のジャギであった。
ジャギは自身の出生の秘密を知り、自ら継承者争いを降りるためにあえて卑劣な手段ばかりを駆使し、拳を学ぶことを止めた。
そのためケンシロウが物心ついた頃には、もはや何故リュウケンがこのような男を養子にしたのか理解できないほどの出来損ないの兄としか映らなかったようだが、元々はジャギは「あのトキですら認めた」ほどの天才拳士であったのだ。
皮肉なもので、幼いケンシロウは誰から聞いたかこの幼少期のジャギの才能を物語る表現をどうやら逆に記憶したらしい。
すなわち「あのジャギですら認めた」トキの拳の才という風に。
ケンシロウが物心ついた頃にはもはや天才ジャギの面影はなく、代わりにその技の切れとセンスで見る者を魅了していたのはトキであった。
従ってまだ幼かったケンシロウがそう思い込んで誤解してしまったとしてもさほど不思議なことではない。
そして誰もそのケンシロウの勘違いを正すことなく時は流れ、いつしか誤解が定説へと進化していくこととなる。
ラオウ、トキ、そして師父リュウケンですらジャギが何ゆえ変わったかを正確には知っていなかった。
しかしその極端な変わり様から、少なくともリュウケンにはおよその察しはついていたであろう。
だが仮に察していたとしても、リュウケンはそれをジャギ本人に尋ねるわけにはいかなかった。
生涯互いに親子の名乗りをしないというのが、ジャギを養子とする際にジャギの実の父であるジュウケイとの間で交わされた約束。
である以上、ジャギにその件について問い詰められても知らぬ存ぜぬで押し通す以外にリュウケンに採る道はなかっただろう。
ケンシロウの誤解を正すことはすなわちジャギの変節について話すことでもあり、それはリュウケンにとっては可能ならば避けたい事態に違いなかった。
よってリュウケンは拳の道でも性質でも末弟のケンシロウに劣る兄というジャギ本人が望んだ役を受け入れ、ケンシロウにもその役を信じ込ませるべく巧みにアシストしたのだった。
師父のそんな気配を察したのか、ラオウとトキもあえてこの末弟の誤解を解こうとはしなかった。
ラオウとトキがジャギのあまりの変わりようをどう解釈していたのか、今となっては知る由もない。
しかしこの二人の兄は拳の天才にして性質も素直だった少年ジャギを記憶しており、宗家の嫡男ゆえにケンシロウが継承者となるというこの裏世界の掟も理解していたため、大体の事は推測できていたのではないかと思われる。
さすがにジャギが北斗琉拳のジュウケイと当時の南斗慈母星、すなわちユリアの母との間に生まれた両不倫の子という秘密については知る由もなかったであろうが。
そんなジャギは宗家嫡男のケンシロウがその身分ゆえに継承者に選ばれることを知っていたが、それでもなお最期の最期まで、なかなか成長しない宗家のお坊ちゃんを一人前にするために、己の名誉を捨てて悪逆の限りを尽くし捨石となったのだった。
このような弟思いのジャギの心をケンシロウは無論全く知らない。
ケンシロウはユリアが死んだのもシンが狂ったのも、全てはジャギのせいだとする極めて短絡的な思考に基づきジャギを怒りに任せぶちのめし一人溜飲を下げたが、本来なら「私の力量が至らない故にあなたにひどいことをさせてしまいました。」と泣いて許しを請うべきところだったろう。
ラオウ、トキも初めからケンシロウが北斗神拳を継ぐことは覚悟していた。
これが平和な時代であれば両名とも自らの拳を封じることになんら躊躇はなかっただろう。
だが時は風雲急を告げ、表の世界が核戦争により完全に崩壊。
北斗神拳継承者はただ名ばかりでなく、力を伴っていなければ務まらない時代となっていた。
果たしてこの才もなく継承者としての自覚にも乏しいお坊ちゃんが、死ぬことなく無事この世を乗り切れるのかが二人の義理の兄の最大の不安であった。
北斗神拳というこの唯一無二の拳を絶やすことは何があっても避けねばならない。
その使命感から二人は北斗神拳を捨てないばかりか、継承者本人よりも真摯にその技を修得することに務めたのだった。
いざという時は自分たちがこの拳を後世に伝える役を担わねばならないという使命感のために。
事実トキは自らの命を縮めることでケンシロウを救い、ラオウもまたケンシロウが乱世を治めやすくするために天下の大掃除をしてきた。
ラオウが有象無象の者たちを一掃していたおかげで、ケンシロウは最後にラオウを倒しさえすればそれでこの戦乱の世を治められるという絶好のポジションを与えられたのだった。
「ではラオウはわざとケンシロウに負けたとお考えでしょうか?」
これまで沈黙を守ってきたミュウが初めて口を挟んできた。
「恐らくは。それもかなり以前からラオウはそのつもりだったと私は思っています。ミュウ様は『カサンドラの遺産』という言葉を御存知ですかな?」
「『カサンドラの遺産』?いえ、全くの初耳ですわ。カサンドラというのは確かトキという人がラオウに捕えられていた獄舎のような場所と聞いていますが・・・・。」
「そうです、そのカサンドラこそがラオウが初めからケンシロウに負けて死ぬことを想定していたという何よりの証・・・・。」
私はまた己の仮説をミュウに語り始めた。
北斗神拳の他の拳法にはない唯一無二の特徴である水影心。
これは平穏の世であれば単に技の物まねがうまいという程度の芸に過ぎないが、乱世においては世が治まった後、次の然るべき者に奥義を伝授しその流派を絶やさないでおくという大きな役割を担うこととなる。
だがこの水影心には問題が二つあった。
一つは当然ながら全ての拳法の継承者が北斗神拳継承者と出会うわけではないということ。
もう一つは出会ったからといって必ずしも皆が北斗神拳継承者と戦うわけではないということである。
例えば私は直に見てはいないが、跳刀地背拳という世にも稀な拳を継承していたフォックスのような輩であれば、どういう形であれケンシロウと出会えば必ず戦って殺されることになったであろうが、一般論として言うならば拳法家という者はそれほど野心家ではない。
拳の道を志す者というのは概ねそれぞれの拳の修得とその奥義を次の世代の者に伝授することに生涯を費やすことを生きがいとしており、拳の力を用いて立身出世を目指すというような野心的なタイプはそう多くない。
そのようなまっとうな拳法家がケンシロウと出会ったとしても両者が拳を交える可能性は極めて低い。
となるとこうした多くの真摯な拳法家たちはケンシロウにその技を記憶されることなく、この乱世に次の継承者を選ぶこともかなわず逝ってしまう可能性が高い。
これらの誠実なる拳法家たちを、そしてその技が失われてしまうことを誰よりも惜しみ恐れた者、それこそがラオウであった。
「拳王」という自らに付けた冠は拳の道で頂点に立つということを目指しているだけでなく、誰よりも深く拳の道を愛していることを自負しているがこそのネーミングであった。
そんな拳王にとって、この乱世で多くの拳法が次の世に残されずに朽ちてしまうのは耐え難く、これを可能な限り防ぐことこそが、拳王の名を冠した己に課せられた使命と感じていた。
そして作られたのがあのウィグル獄長が支配した鬼の哭く街「カサンドラ」であった。
第78話 カサンドラの遺産
「カサンドラ」に集められた拳法家たちの多くは、いわゆるもっとも拳法家らしい拳法家であった。
恐らくはほうっておけばケンシロウと出会うこともなく、仮に出会ったとしてもケンシロウと戦う理由などどこにも見出せない拳の道に生きる漢たち。
ラオウは彼らの拳を惜しみ、その奥義を次の世に残すために極めて荒っぽいやり方をせざるを得なかった。
すなわち彼らを力によりカサンドラへ強制連行し、そこであらゆる手法を用いてある者にはその奥義書を差し出させ、またある者には奥義の詳細を白状させ、それを然るべき者に記載させた。
奥義を白状させる際にはかつてジューザに対して用いられた解唖門天聴が有効であったようだ。
拳王はそれらの奥義書や拳法の極意の詳細について記された書物を、特命としてある者にカサンドラの一室に厳重に保管させていた。
そこは獄長ウィグルですら入ることが許されぬ特別な部屋となっていた。
拳王からの特命を受けたその者は、カサンドラにケンシロウ一味が近づいていることを知ると、拳王の予てからの指令により、特別室の書物を運び出し拳王の居城へと持ち帰ったのだった。
その後拳王とケンシロウの最後の戦いの前に、書物の全てはその者によって城から持ち出され、安全な場所に密かに隠された。
拳王からの信任厚きその者は、主から死ぬ前に二つの遺言を託されていた。
一つはまだ僅かな者しかその存在を知らぬ拳王の子を、いずれケンシロウが迎えに来るまでの間守ること、そしてその役目が無事終わった暁には、カサンドラで得られた数々の拳法の奥義書と技の詳細を記した書物を然るべき継承者を探し出し引き渡すこと。
「では、そのラオウから後事を託された者というのはリュウ様の・・・・?」
「そうです。名をリセキと言いましてな。拳王軍団には珍しい文官タイプの逸材でございました。その者がカサンドラで数々の拳法家たちの供述を記録し、奥義書を保管していたのでございます。」
「それが『カサンドラの遺産』・・・・・?」
「お察しの通りです。世の拳の道を志す者、その研究をしようという者にとってはまさに垂涎の的。これ以上のお宝は他にありますまい。」
「ラオウがそのようなことを考えていたとは意外でした・・・・・。しかしわたくしにはまだ話が掴めていないようです。そのこととラオウが初めからケンシロウに負けるつもりだったということとはどう繋がるのでしょう?」
「はい、ここからはあくまで私の推測に過ぎませんが・・・・。」
私はまた話を続けた。
もしラオウがケンシロウに勝ち、この乱世の勝者として生き残る積りであったならば、自ら水影心を用いて技を伝授すればよいことになる。
ならば手間暇かけてカサンドラなどという大げさな箱を作り、女子供を脅迫のネタにしてまで奥義書を差し出させるなどという卑劣で手の込んだ真似をする必要はなかったはずだ。
ラオウは初めから自分が生き残る可能性などないことを十分認識していたのだろう。
それにもし自分がケンシロウを倒して生き残ったとしても、次の世に残せる流派の数は自分が直接相見えた拳法家に限られてしまう。
誰よりも拳の道を愛する漢であったラオウにとって、拳の道で頂点に立つことと同じくらい、あるいはそれ以上に大事だったのが、より多くの流派を後世に伝えていくことであった。
そのためにはケンシロウが直接拳を交えることがなかった拳法家たちの一人でも多くから、その奥義を聞き出し記録として残すことが一番の近道と考えたのだろう。
そして最後に自分が死にケンシロウが生き残れば、ケンシロウが自ら戦い記憶し水影心によって直接伝えられる分と、自分がカサンドラで記録として残した「カサンドラの遺産」から書物によって伝えられる分と併せてかなりの数の流派がこの乱世を生き残ることが出来る。
「まあこの老いぼれの穿った見方ではありますがな。」
私が自分の推測、自分自身の中では限りなく確信に近いレベルではあるが、を披露するとミュウは得心したような表情で私を見ていた。
「ただいまのリハク殿の御見解、さすがは天才軍師と言われた人物に相応しいものですね。聞いていたわたくしにもそれが真実のように思えてきましたわ。それでラオウから遺言を残されたというリセキは今・・・?」
「はい、リュウを無事にケンシロウに引き渡してからようやくそのもう一つの遺言を果たすために旅に出ましてございます。実を言えば私もラオウの二つ目の遺言についてはつい先年まで存じ上げませんでした。」
「そうだったのですか?」
「はい、先年久しぶりにリセキが私を訪ねて参られましてな。そこで初めて打ち明けられた次第。リセキもようやく主ラオウの遺言を二つとも果たすことが出来たと安堵しておりました。私もその話を聞き、改めてラオウという男の拳の道を愛する心の深さを思い知らされました。」
「どうやらわたくしもラオウに対する見方を大きく変えねばならないようですわ。となるとリハク殿、ケンシロウは宗家の嫡男ゆえに継承者争いでも優遇され、北斗神拳という特殊な拳法を継いだがゆえに他流派の拳法家たちからもその存在を亡き者にしてしまうことを躊躇われた。そのためこの乱世の最後の勝者となり得たと・・・・?」
「まあ、大雑把に言えばそうなりますかな。」
「拳の才については良く分かりましたわ。ならばその人となりはどうでしょう?ケンシロウは誰よりも愛を知り哀しみを知ったからこそ北斗神拳究極奥義である無想転生を修得できた。世間ではそう思われていますが・・・・。」
「はい、それも一面においては間違いではありません。ケンシロウのユリア様への愛情は確かに一途なもので、ラオウのような情欲に任せた乱暴な愛とは異なりますな。ですがケンシロウの愛はあくまでも上から見下ろしたもの。自分を敬う者には愛や情をかけますが、対等の関係では決してありません。逆に自分に敬意を表さない者に対しては病的なくらいの残虐さを発揮しておりますな。まあそれこそが宗家嫡男としての持って生まれた資質とも言えますが。」
「資質?残虐さがですか?」
私は問われるままに、さらにケンシロウという人物の核心について語ろうとしていた。
第79話 衝撃の事実
平然と楽しむかのごとく、さもそれを遂行することが絶対の正義である事を一分たりとも疑わない確信に満ちた残虐性こそが宗家嫡男としての資質などと言えば、ケンシロウの救世主伝説を信じる多くの者から眉を顰められるだろう。
だがそれこそがケンシロウという人間の本質であり、宗家嫡男や北斗神拳継承者という肩書き以外にケンシロウが他の拳法家たちと一線を画す唯一と言ってよい能力であった。
ケンシロウにとっては自分を敬わないということ自体が既に大罪であり、その罪は残虐な死をもって報いられるべきものなのであった。
これこそ生まれながらに自分だけが人とは違う特別な存在であるという選民思想であり、この思想を誰から教えられるでもなく、意識することなくごく自然と持ち得たところがケンシロウの北斗宗家嫡男としての血の濃さと言っていいだろう。
私はケンシロウが成してきた、どう好意的に解釈しても快楽としか思えない殺戮ショーの数々をミュウに話して聞かせた。
またその特別な身分ゆえに戦いに負けながら命を救われたにも拘わらず、次に勝った時には命を助けず止めを刺すことになんらためらいを示さなかった例としてシン、サウザー、カイオウとの対決を挙げた。
そして極めつけはシュウとのエピソードだ。
この南斗六聖拳の一人、白鷺拳の継承者はケンシロウが少年の頃に、自らの両目を犠牲にしてまでそのやんごとなき命を救っている。
当時のケンシロウはまだ少年とは言えもう赤子というほどの幼さではない。
ケンシロウが世に言われるような情に厚い男であるならば、いやそれほど特別ではなくても普通に人として感謝する心を持っていれば、自分の命を救うために両の目を失うほどの恩をそう簡単に忘れるものではないだろう。
しかしケンシロウは成人してからシュウと拳を交え、目が見えない拳法家であることまで知りながら、かつて自分が受けた大恩と結びつけることが容易に出来なかった。
要するにケンシロウにとっては、自分のために他人が犠牲になるのは当然の事であり、特に記憶に留めるほど特別な出来事ではなかったのだろう。
常識的にはこれほどの恩知らずはちょっと類を見ないと思われるが、それでもなおかつシュウはケンシロウに対して、その忘恩を怒るどころか敬意を表すことを疎かにしない。
それどころか今度は自分の一人息子にまでケンシロウのために将来ある命を投げ出させた挙句、「誉めてやってくれ」とどこまでも遜った態度を崩さなかった。
この親子二代に渡っての大恩に対してケンシロウがしたことと言えば、せいぜいサウザーにシュウの得意技であった蹴りで一太刀浴びせたというだけのことであった。
これがケンシロウという男の価値観であり、彼の中ではこれで自分が受けた恩に対する返礼としては十分だったのであろう。
私の話はミュウを大いに感心させたようだった。
「リハク殿、やはりあなたとこうして話すのはとても愉快ですわ。あなた以外の何者も今のような斬新な『救世主伝説』を語ることは出来ないでしょう。いっそ記録に残されてはいかがですか?いつか歴史的な価値が高まるかもしれませんわよ。」
「いやいや、それはやめておきましょう。私は今日ミュウ様に私の思うところを聞いてもらえただけで満足でございます。」
「そうですか?これほどの分析と考察は十分にあの乱世の真実の記録として価値があると思うのですが。」
「いえいえ、歴史というものは必ずしも真実が正解となるわけではございません。後の世の人々が求めるもの、それが歴史における正解となるのでございます。これまでの様々な歴史がそれを示しておりますように。」
「なるほど。確かにそうかもしれません。しかしお言葉を返すようですが後の世の求めるものも時代時代で移り変わっていくものではありませんか?今は確かにケンシロウの救世主としての偶像が望まれていますが、もっと後にはあるいはそうではなくなるかもしれませんわよ。」
「時代時代で人の心も移ろいゆくもの。そうかも知れませんな。しかし・・・・」
「しかし・・・・?」
「実を言いますとな。この私自身も乱世を救った愛と哀しみを知る男、救世主ケンシロウという物語の方が読み物としては好きでしてな。はっはっは。」
私の冗談にミュウもつられて笑った。
「本当に面白いお方。ではお返しにわたくしも一つあなたにとっても興味深いお話をさせてもらいましょうか。」
「ほう、それは是非。天帝のお側で長年を過ごしたミュウ様ですから、さぞやいろいろな秘話を御存知でしょうな。」
「リハク殿のお話と比べたらあまりにも短いのですが・・・・・。リハク殿はカイオウがリン様との交わりをあれほど求めたのは何ゆえだと思われます?」
話はどうやらまたも意外な方向へと進んでいくようだった。
「カイオウ?はて、それはリン様が天帝の双子の片割れという貴い血を持っていたからでは?」
「それも一つの理由だとは思います。ただ先ほどのカイオウの話を聞いていて、わたくしはあの噂はあるいは本当であったかと思ったものですから・・・・。」
「噂・・・・?」
「はい。帝都でもごく一部の者だけしか知らない噂話です。内容が内容だけに噂することすら憚られるものですが、あのジャコウはたまにそんな話を嬉しそうにしておりました。わたくしも卑しいジャコウが好みそうな戯言とあまり真剣に考えたことはなかったのですが、リハク殿の話から推察するカイオウの人となりとリン様の血を異常なまでに欲した行動とを考えるとあるいは・・・・・と。」
「ジャコウが・・・・。で、その噂とは?」
先を急ごうとする私を焦らして楽しむかのように、ミュウは少し間を取ってから徐に結論を切り出した。
「はい。その噂とは、実はリン様とルイ様の実のお父様は先代天帝ではなく北斗宗家の先代嫡男、つまりケンシロウとヒョウのお父様ではないか・・・・・という噂です。」
年齢の割に衰えてはいないと自負していた私の頭脳であったが、ミュウのこの一言は私の思考過程を混乱させるに十分であった。
第80話 カイオウという男
(リンが宗家の子だと?それでは一体・・・・?)
私は瞬時にこの複雑な姻戚関係を整理することが出来なくなってきていた。
そのためただミュウの、その後に続く説明を呆然と聞き入るしかなかった。
「先代天帝が南斗慈母星、つまりユリア様のお母上と不倫関係にあり、二人の子を生したことはリハク殿も良くご存知ですわね。」
無論その話ならよく知っている。
先代天帝と慈母星の道ならぬ関係の末生まれた兄妹、それがリュウガとユリア様であった。
私の沈黙を肯定と受け取ったミュウは先を続けた。
「ところが先代天帝の奥様も不倫をしていたらしいのです。夫婦共に不倫。どちらが先かは分かりませんし今となってはそれはどちらでもよいことでしょう。その不倫相手というのが当時の北斗宗家嫡男だったのではないかという話は以前より天帝に近い者たちの間ではよく噂されていたようです。そして生まれてきたのが双子の女子。子のなかった天帝夫婦にとっては長いこと待ち望まれたお世継ぎ。このお目出度い話に水を差すような噂は、たとえ噂ではあっても広く流れるなどということがあってはなりません。天帝自身その妻の不倫には気づいてはいたものの、自分自身も公には出来ない隠し子を作っている手前、事を荒立てるわけにもいかずこのことは以後一切不問とされたとのこと・・・・・。」
ミュウが話している間に徐々に頭の中の建て直しを図り、ようやく整理がついてきた私は確かめるように口を挟んだ。
「その噂が本当であればリンとルイには宗家の血が・・・・?」
「はい、実は先ほどの話を聞いていてカイオウという者にとても興味を惹かれました。その者は宗家に対して強い憎悪と同時に憧れを抱いていた由。その二律背反とも言える強い感情が、宗家の血を引くリンへの欲求へと繋がったように思えたのです。」
「ではカイオウはリンの父が先代宗家嫡男だと知っていたと?」
「もちろん憶測に過ぎませんが、そうだとすればカイオウのリンへの異常な執着も理解しやすいように思いました。」
確かに私が聞いてもその話には説得力があった。
カイオウは誰よりも宗家を憎み、同時に宗家に対して特別な思いを抱いていた。
そのカイオウにとって宗家の血を引くリンと交わるということは、宗家の血を自らの血で汚す事になり、同時に自らの血に宗家の血を入れることにもなる。
宗家への復讐と同時に征服。
これはカイオウにとっては言い知れぬ、他の何にも代えがたい快感であったに違いない。
と同時に私はまた別のことを思い、一人合点がいった。
「ミュウ様、私はこれまでケンシロウがリン様の愛を受け入れないのはユリア様への愛情の一途さゆえと思っていましたが、今の話でようやくその真実が分かりました。リンが宗家の子であればケンシロウとは母違いではあっても実の兄妹。ケンシロウは恐らくカイオウが死ぬ前にリンの出生の秘密を聞かされたのでしょうな。ならばあれほどまで頑なにリンの思いを拒絶し続けたことも得心がいきます。」
「そうかもしれませんね。いまさら確認の術もありませんから、これはこれで私とリハク殿の間だけの話ということにしておきましょう。」
「その通りですな。『この世の中には知らない方がいいこともある』か。ケンシロウもなかなか味なことを言いおるわい。」
「思い出し笑いですか?おかしなリハク殿。」
私は以前リンとバットを結びつけるために私とケンシロウが打った芝居の後で話した時のことを思い出していた。
リンの秘孔を突きバットを愛するように仕向けたのでは、という私の問いにケンシロウが返した台詞がこれであった。
自分とリンが血の繋がった兄妹だと知っていながら何食わぬ顔で私の策に乗ったとすれば、ケンシロウも相当な狸になったものだ。
私は先ほど披露した「リハク流ケンシロウ伝」に書き加えなければならない項目が一つ出来たな、などと一人ほくそ笑んでいた。
だが本当に私にとって「知らない方がいいこと」は、実はこのことではなかった。
空想し一人笑いをしている私を眺めながら、ミュウはやや緊張した面持ちで持っていた小さなバッグからある物を取り出した。
「リハク殿、こうして今日あなたと二人だけでお会いした本当の目的はこれなのです。これはずっと以前にある方からリハク殿にお渡しするように頼まれていたものです。今日までいつお渡ししようか、渡すべきか、このままなき物とすべきか、ずっと迷い悩んでまいりました。ですが今日リハク殿の本心を聞くことができ、ようやくわたくしも決心を致しました。」
実のところ私はミュウの話を途中からしっかり聞けてはいなかった。
ミュウが取り出した物を見た刹那、私の心はもはやこの場にはいなかったのだ。
正確にはその物の表面に書かれたある言葉を、その文字を、筆跡を見た瞬間から。
ミュウが私に差し出した物は一通の封書であり、その表面には「愛する人へ」とだけ記されていた。
その筆跡には私が忘れようにも忘れられない特徴があったのだ。
私がその生涯でただ一人愛した女性、我が娘トウの生みの母であり、リュウの祖母でもあるあの女性。
そう、その手紙は紛れもなくファルコの母からの物であった。
第81話 手紙
愛する人へ
この手紙を私の最も信頼する女性に託します。この手紙を渡すかどうかも含めて全てをその女性に委ねます。こんな時代です。この手紙があなたにちゃんと渡される保証はありません。よからぬ者の手に落ちてあなたに御迷惑がかかってはいけません。ですから手紙の中では一切個人名は出さずに書くこととします。もちろんあなたにはそれで十分伝わるものと信じます。
この手紙があなたに読まれる時がどういう時なのか、わたくしには全く想像すらできません。わたくしの体はもうこの乱世を生き抜くだけの時を与えてはくれないようです。ですが悔いはありません。わたくしは十分に幸せな人生を生きてきました。もちろんそれはあなたのおかげです。この世の中で愛する人と結ばれることほど素敵なことがあるでしょうか?あなたはわたくしにこの世で最も大事なものを与えてくれました。わたくしはあなたを生涯でただ一人愛しました。そのことにはなんら恥じるところはありません。
ただ愛の形が正しかったのかどうか、それには少し疑問も残ります。私が結婚をしあなたも結婚をした。それぞれ別の相手と。結婚というものはただ愛しているというだけでは成立しないものだということはわたくしも知っています。だから二人の関係は結婚前の良い想い出とすべきだったのかもしれません。
わたくしはしかし結婚後もあなたに頼ってしまいました。わたくしは夫を愛そうと務めたつもりです。最初はそれが形だけだったとしても、いつかは激しくはないものの温かな愛情溢れる家庭が築けるのではないか、そんな風に漠然と思っていました。だが夫はいつまでたってもわたくしと良い関係を築こうという努力をしているようには思えませんでした。
いえ、これは言い訳になりますわね。わたくしは結局あなたが忘れられなかった。夫からの暴力を自分への言い訳にしてまたあなたと関係を持つことを望んでいた。恐らくそうなんだと思います。
あなたは優しかった。わたくしのわがままを聞き入れてくれ、二人はまた愛し合うことになり、わたくしは幸せでした。しかし今度の関係はただの恋愛ではなく決して許されぬ仲。それを思うと心が苦しくなりました。しかしその苦しさはあなたとの関係を止めるほどの力は持っていなかったのだけれど・・・・・。
そしてわたくしはあなたに一つだけ嘘をつきました。
そう、この手紙を書く気になったのもあなたにこの嘘を告白するため。本当は直接会って言うべきだったのかもしれません。そのチャンスがなかったなどという言い訳をする気はありません。正直に言えばわたくしはあなたが失望する顔を見る勇気がなかったのです。
わたくしがついた嘘、それは女性としては嘘と断じられてしまってはとても辛いものではあります。
ですがわたくしはあなたがそう解釈するように期待したのは確かですし、訂正しようとは決してしなかったのも事実。ですからあなたにとってはこれはやはり嘘になるのでしょう。
今書いていてもこれを読んだ時のあなたの顔を思い浮かべるととても辛い気分になります。
回りくどい書き方をしてごめんなさい。
わたくしは結婚してからあなたと再びそういう関係になった時に、夫とはもう長く関係がないということを言いましたね。気持ちが通じ合っていてこそ初めてそういう関係が成り立つはず、という女性の独りよがりの視点から言えば、それは決して嘘ではなかったのです。ですが純粋に肉体的な交わりという行為がなかったのかと言えば、それは事実ではないということになります。夫はわたくしに愛情を注ぐということは生涯ありませんでしたが、不思議なものでわたくしの体を求めることだけは止めませんでした。女性のわたくしには到底理解しがたいことですが、わたくしに暴力を振るうようになってもその肉体的欲求がなくなるという事はなく、かえって強くなったようにさえ感じました。それはわたくしにはもはや恐怖と苦痛でしかありませんでした。あなたとの、愛情と幸せを感じるあの素敵な行為が、形の上では同じ行為が、何故あのような恐ろしく暴力的な感情から成されるのか。わたくしにはそれを理解しようという心はもう残っていませんでした。
頭の良いあなたにはもうわたくしの告白の意味がお分かりかと思います。
そう、わたくしとあなたとの間に出来たと思っているあの子、あなたが養女として密かに引き取ったあの娘の父親が本当は誰であったのか。それはもう誰にも分かりません。
よくお腹を痛めた母親には誰の子かが分かるなどと言う人がいますがあれは本当でしょうか?
それがもし本当ならわたくしはあの子の父親はあなただと確信していますが、そこにわたくしの希望的な予測が入っていることは残念ながら否定できません。
ですがこれだけははっきり言えます。
わたくしはあの子をあなたの子として育てて欲しいし、私がただ一人愛した人の子として育って欲しい。
たとえ血が繋がっていなくてもあの子を我が子として愛して欲しい。
本当に血が繋がっていないと親子の愛情というものは成り立たないのでしょうか?
はなはだ勝手な言い分かもしれませんがわたくしはそうは思いません。
わたくしもあなたもそう望んでいれば、きっと本当の親子と同じように、あるいはそれ以上に強い愛情で繋がっていられるのではないでしょうか?
最後にもう一度だけ言います。
あの子はわたくしとわたくしがただ一人愛したあなたの子です。
わたくしはそう思っています。
あなたももしそう思ってくれるなら、わたくしにとってこれほどの幸せはありません。
去り逝く者より
第82話・最終話 血よりも濃いもの
私が手紙を読み終わるまでミュウは何も言わずに黙って待っていた。
私は手紙の内容に驚きはしたものの誰かを責めるという気には不思議とならなかった。
それだけ私も年を取ったということかもしれない。
もっと若い頃であれば、あるいはこれほど寛容にはなれなかっただろうか。
私は懐かしい筆跡によって書かれたその手紙を何度も読み直し、しっかりとその一つ一つの言葉を頭に入れた。
そして私の口から何かが発せられるのを固唾を飲んで見守っている目の前の女性に向けて語りだした。
「お笑いくだされ。世が世なら万の軍勢を操ると言われた天才軍師。他人の心を読み意のままに動かすことを得意としたこの私が、たった一人愛した女性の心すら読めていなかったとは。」
「リハク殿・・・・。」
「考えてみれば私も浅はかでした。『関係がない』という言葉を文字通り受け取り疑いすらしないとは。いかに仲が悪くとも毎日生活を共にする夫婦に全くそうした関係がなくなるなどと思う方がむしろ不自然というもの。私の方もそうであって欲しいという願望から誤った解釈をしていたのでしょうな。女性ならともかく同じ男としてそのくらいのことを疑いもしないとは・・・・・。これこそ『このリハク一生の不覚』でございますなあ。」
自虐的に笑うとミュウが尋ねてきた。
「それでリハク殿はどうなさいます?トウを娘として、リュウを孫としてこれからも愛せますか?」
私はしばらく考えをまとめてから喋りだした。
「私は恐らくあの女に試されているのでしょうな。あの女は、自分の娘の命をも利用してリハク一族の血を高貴な身分にしようとした私の野望にも薄々感づいていたのでしょう。その野望の全てが達成された時に、我が孫が天帝と結ばれたと思ったその日に、その孫が私とはなんら血の繋がりのない子かもしれないという天からの非情な通告。そればかりではない。私の孫ではないということは、リュウは私が殺害したあの卑劣な男の孫という事。私は最も憎んだ男の血をこの裏世界の最高位にまで高めてしまったことになる。これ以上の皮肉があろうか・・・・・。」
「・・・・・・」
「それらを全てひっくるめた上で、なお私にトウやリュウを肉親として愛することが出来るかとこの手紙は問うている。それこそが本当の愛だと。」
「わたくしもそう思います。この世には血の繋がりを越えるものがあると信じます。わたくしもそう信じて我が子を育ててまいりました。そしてこれからも・・・・。」
一瞬私はミュウの言葉の意味が掴めなかった。
しかしミュウの目に溢れた涙、そして強い決意を秘めたその表情を見てようやく私にも思い当たることがあった。
「ミュウ様、あなたは・・・・。」
「確率は半々。最も愛した人の子か、最も忌み嫌った男の子か。でもわたくしは最も愛した漢の子として我が子を愛してきました。たとえ血は繋がっていなくとも、愛した漢の魂は、わたくしが我が子に語り教えることで繋げることができるはず。もしこの世に血の繋がりよりも強いものがあるとするならば、それは魂の繋がり。ファルコ様のお母上もきっとそう言いたかったのではないかと思います。愛した漢の魂を子に繋ぐことこそ妻として、母としての私の務め。そうではないでしょうか?」
私は畏怖の思いで目の前の女性を見つめていた。
私にはようやくこのミュウという女の強さの源が分かったような気がした。
自分がお腹を痛めた子が最愛の人か憎んでも余りある敵かいずれかの種という究極の選択。
この内なる葛藤を克服するのに一体どれだけの時と精神力を費やしたことだろうか。
いや、あるいは今も完全に克服したのではないのかもしれない。
だがこの女は少なくともその迷いを誰にも見せず、我が子を最愛の漢の子として愛し、育ててきたのだろう。
血よりも濃いものを我が子に繋げるために。
それがどれだけ困難なことかはたった今、同じような立場に置かれた私にはよく分かる。
「このリハク完全に負けました。貴女にもあの女にも・・・・・・。私には今すぐにミュウ様のようにリュウにこれまでのような愛情を注ぐことは出来ません・・・・・・。が、しかしこれからの残り少ない人生に新たな生き甲斐が出来ました。」
「生き甲斐?」
「この過去からの手紙と私は残る余生を共に戦っていきましょう。私が血よりも魂の繋がりを信じ、リュウを孫として心から愛することが出来れば私の勝ち。いつまでも忌み嫌った男の顔が頭の中でちらついて迷いが残るようであれば私の負け。結果はあの世であの女に報告いたしましょう。」
「やっぱりリハク殿も殿方ですね。死ぬまで何かと戦い続ける。漢とはきっとそういうものなのでしょうね。」
「いやいや、私などよりミュウ様のほうが真の漢と言えましょう。この手紙と先ほどのミュウ様のお言葉、このリハク終生忘れますまい。」
これが私の生涯を賭けた野望の全てである。
私は天から与えられた能力を駆使し、この乱世に己の野心を駆け巡らせた。
その計画はほぼ思い描いたとおりに達成されたと言ってよいだろう。
しかし最後の最後で私は私の計画を根底から揺るがす事実を知らされた。
この事実とどう向き合うか。
私が最後に戦う相手は私自身の心の内にあった。
この戦いに勝てるかどうか。
それによって私の成したことの意味もまた大きく変わってくるだろう。
輝かしい成功だったのか、それとも単なる愚かな骨折り損だったのか。
ただ残念ながらその結果をここで語ることは出来ない。
この戦いは私の命が続く限り終わることはないのだから。
海風リハク外伝~裏「北斗の拳」~
おわりに~戦い終えて~
私はこの小説を書く上で自らに一つのルールを課した。
それは「原作『北斗の拳』に登場する以外の個人名を一切使用しない」というものである。
私の小説には何人か原作には登場しない人物が現れるが、それらの人物に新たな名前を付けることを敢えてしなかった。
新しい人物に名前を付けてしまった時点で話を無限に拡大することが可能となり、それはもはやあの「北斗の拳」とは関係のないものになってしまうと思ったからである。
私にとって「北斗の拳」とはあの1980年代に奇跡のように生まれた究極の傑作以外になく、その後に現れた「蒼天の拳」などの幾つかの作品には正直なところ全く魅力を感じることが出来なかった。
したがって私はこの小説を書くにあたり、原作「北斗の拳」以外のいかなる作品も参照していない。
そのため「蒼天の拳」などの北斗以降の作品群とこの小説は多くの点で矛盾するだろうと思う。
しかし原作「北斗の拳」に出てくる全てのエピソードとこの小説は矛盾しないように工夫されており、なおかつ「北斗の謎」と称される原作において生じた幾つかの疑問や矛盾について、一つの筋の通った仮説を提唱することは出来たのではないかと自負している。
中でも最大の焦点となったリュウの母、すなわちラオウの相手は誰かという謎については我が生涯の強敵たちとかなりの分析と考察を重ねた結果、自信を持って世に出せる結論に達したと思っている。
そもそもリハクをこの物語の主人公として選択したのもその結論から逆算した結果であり、そういう意味ではこの物語の中心はやはりラオウとケンシロウの戦いの件、フドウとの絡みを含めて、であったと言ってよいだろう。
とは言えここで書かれた仮説だけが正しいなどと主張する気は全くない。
あくまで私にとっては原作「北斗の拳」がその全てであり、これは「北斗の拳」を今なお愛して止まない漢の一つの仮説に過ぎない。
そんな一つの仮説として同じく「北斗の拳」を愛してやまない強敵たちに、
「ほうそんな仮説もあったのか」
くらいの遊び心で楽しんでいただけたら幸いである。