*星空文庫

碧と白煙

真空中 作


 ――はくはくと昇りゆく煙は、龍のこどもなのだという。

 なるほど、ゆるりふわりと冬の冷気に曖昧に溶けながら薄墨色の空へ消えゆくさまは、どことなく、天駆ける幻獣を思わせる。  
 そうして一番高いところに昇ることができたこどもだけが、おとなの龍となり、仙人がおわする天を貫くほどに高い山々を治めるのだと、祖母は語った。
 辛かろうな、とわたしは空を仰ぐ。 このあんまりに広い天に、たったひとり、果ての無い上を目指して駆け行くのは途方も無く、さみしいと思った。辛かろうな。

「楽珀さまも、そのようにして龍になられたのか」

 養い親に問えば、ひとの形をとった彼はこてりと首を傾げた。さあね、と薄く笑って、山々に目を向ける。

「遠い、遠い昔の事だから、憶えていない」

 ささめく男は、天涯孤独のわたしを拾うた、天を治める老龍である。


 **


 人の子を拾った。
 否、拾ったというのは語弊がある。  
 攫ってきた。

「喰うつもりか」

 古代より、森奥深くに住みついている狒狒は、胡乱な眼をする。

「母親の泣き騒ぐ声が、止まぬ。早う、返して来い」

 そう言って、千里を遍く知るその耳を、両の掌で塞いだ。

「狒狒の耳は虫の呼吸さえ拾うと聞いたが、本当だったか」
「巫山戯るな。あんまりに痛ましい声だ」

 風がすぅと吹き抜けた瞬間、目の前から消えた我が子を捜して、女は半狂乱になっている。  
 そうか、と龍は頷いた。
 ――しろがねの鱗を持つ龍は、幼子を腕に抱くために、今はその姿を人へ変えて、ゆうらりゆらり、眠るひとの子をあやすように、身体を小さく揺らしているのだった。

「ああ確かに、可哀想なことをした」

 嘯けば、狒狒は男を、じいっと睨みつけ、ひどく恐い顔をする。

「天の道理と、ひとの道理。おれは人に近いから、ひとの道理に心寄せる。戯れならば、お前、許さんぞ」
「ならば私は天の道理に従ったまでだ。山に昇る定めの子を、なに、ちっとばかし早く、引き取りに行ったまでさ」

 訝しげな顔をする、その狒狒の眉間をぐりぐり突いて、龍の男はささめいた。

「永く生きた者がいないと、三百年ばかり先、どうにも困ったことになりそうでな」
「……その子どもを、仙人に仕立て上げるつもりか」?
「直に、あの里は滅ぶ。異国の兵士が押し寄せて。父も死に、母も死んで、命からがら逃げだした子が、山を彷徨い凄絶な思いをした末に、頂に辿り着く。そう、視えた」

 ――果たして、必要だろうか。男は問う。

「どうせ山に昇って百年もすれば、人の世にいたときのことは忘れてしまうのに、そんな思いをさせるべきだろうか」

 子どもの背中をそうっと撫でて、目を伏せた龍は呟いた。

「天命のもとに生まれた子を、天が預かっただけのこと。何が悪い。何がいけない」

 覇気が無い言の葉を、ひろい上げた狒狒は言う。

「おれは天の行いに手を出せぬ。故に、お前が時期尚早に事を進めたとしても、やめさせることは、ない」    

 だが、と哀れむ声が、落ちる。

「忘れるなよ。その子どもの、まだ残されていたはずの、ひととしての生が潰えた」

 憶えてるかな、どうだろうね。龍は静かに言葉を放る。  
 耳奥、啜り泣く女の声が、彼にも確かに、聴こえていた。


 **


 とおく、雷の声がきこえた。

「あめ、」
「来るかな」

 言葉少なに、山道を辿る。
 ぽってりと雨を溜め込んだ灰色の雲が、空のずっと上、天吹き荒ぶ風に煽られて、だんだんと近付いて来ていた。水と土のにおいが強くなる。
 きゅうと握り込んだ大きな手は熱くて、何もかもが色褪せたような世界で、その温度だけが、ひどく鮮やかに感じられた。
 男は湿った空気から何かを掬い取るように、すん、と鼻を鳴らして、空をあおぐ。
 同じように曇天を見上げた拍子、ひろい、ひろい空から、一滴、額に落っこちた。
 雨粒を受けた龍が、ああ、と微笑む。

「……育花雨」

 葉擦れの音に掻き消されてしまいそうな声が、清ら、耳に透った。


 **


 いつも不機嫌な貌をしているから、何か怒らせるようなことをしたかと怯えていた。  
 つむじ風のような養い親と違い、かの森主は大地にかたく根ざした大木を思わせる。  
 今日も今日とて、狒狒は森の中心に腰を据えたまま、おとなった子どもをじいっと底知れぬ目で見下ろすのだ。  
 おっかなびっくり、引け腰になりながら預かりものの包みを差し出す。指先で受け取った狒狒は、やはりむっつりと子どもを見返す。

「――で、では、これで」

 震える声を絞り出せば、狒狒の眉間の皺がいっそう深くなる。ひっと喉を鳴らす子どもに、狒狒はゆるゆると腕を伸ばした。  
 思わず目を閉じて身を固めていると、不意に、瑞々しい香りが鼻先に宛がわれた。  
 おそるおそる目を開けば、

「……梨」?
「……駄賃だ。食え」

 腕にごろごろと落とされる。  
 細まった目が、睨んでいるのではないとわかった途端、胸の奥がじんわりと温まった。


 **


 光が欲しいと泣く子の掌に、星を落とし込んだ。  
 きら、きら、閉じ込めた指の隙間から、薄い肌を透かして燦然と煌めく。  
 幼子は目を細く細くして、いとおしむように星を抱いた。

「お前が望むなら、あげるよ」
 
 囁けば、子どもはきょとりと首を傾げる。  
 小さく笑って、いい、とかぶりを振った。

「だって、もう、満ち足りた」


 **

 家族というものについて、幼い時分の記憶は、ひどく曖昧で、断片的だった。  伝説を、寓話を、昔話を、語って聞かせる祖母。大きな逞しい腕を持つ父。わたしを腕に抱き上げて、優しく笑う母。  
 幾つか年下の、ちいさな弟が、いた気がする。  
 今はもう、誰もいないのだと云う。  
 わたしには、彼らと離れたときの記憶が、欠けている。

「何故ですか」  

 そう問うたとき、養い親は、傷をひらき暴かれたような、ひどく痛ましい貌をした。  
 禁句。こんな質問をしてはいけなかったのだと、悟って以来、わたしは家族というものについて、自分から話さなくなった。

 時折、ふと思い出したかのように、男は尋ねる。

「寂しくないかい」  

 否、とわたしは首を振る。

「楽珀さまがいますから」  

 答えると、彼は哀しげに目を細めて、わたしの頭をそうっと撫でる。

「そうか」  

 そして、それきりだ。  
 龍は言う。  
 忘れてはいけない。かつて、他にも、わたしを慈しんだ人たちが、いるということを。  
 決して答えを教えてはくれないのに、忘れるなと繰り返すその人を、わたしは時々、ひどく厭わしく、哀れに思う。


 **


 白、紅、黄、色とりどりに、花満ちる。
 ひと振り、花盛りの枝を担いで歩く男は、どこか足取りが覚束ない。もしや酒でもくらったか、と背後から衣に鼻寄せてみるが、ふうわりと霞の匂いがするばかりである。
 その微かな気配さえ、馥郁たる梅の香りに隠されてしまうのだ。
 花に酔った、と男は言う。
「梅の香毒を知っているか」
 その香りに囚われたら最後、花散りと共に香りが薄れることを恐れ、囚われ人もまた儚くなってしまうのだと。
 滅相も無いと顔を青くすれば、龍は冗談だとけらけら笑った。陽気な養い親の姿は珍しい。呆れながら溜息をついて、咲き誇る梅花を、その更に向こう、霞たなびく空をまんじりと見上げた。
 山の麓は仙女の装いのように美しく染まり、浮かれる春の気配が、すぐそこまで迫って来ている。


 **


 その女仙は、赤い実を捧げ持っている。  
 
 夕焼けを閉じ込めたかのような色だった。  
 養い親の掌のうち、煌めきを放つ小さな珠が三つ。まじまじと見下ろし、「飴ですか」と問うた。  
 いんや、と柔く否定して、男はひとつを取り上げた。

「東還迹という。ずっと昔、ある女仙が仙木の実に己が名を分けた。人の世では、不老長寿の妙薬として知られている」  

 赤く透ける珠を、ふに、と子どもの唇に押し付ける。お食べ、と促す声に口を開けると、甘い香りが鼻に抜けた。口の中に閉じ込めるが、味がしない。そのまま舌先で転がしていると、「飲んでおしまい」と龍が呆れ笑った。

「ひとつを食べて、こちらへ来た。もうひとつは時機を見て。最後のひとつは、自分で決めると良い。永きを過ごすに、一番相応しい姿を」  

 養い親の言葉は、時々、ひどく難しい。  
 唸りながら飲み下せば、おまけとばかり、栗の甘露煮を押し込まれた。


 **


 天源、それは犯してはならぬ罪だったのだと、後になって気づく。  

 夜半、厭な煙の匂いを嗅ぎ付けて飛び起きた龍は、ねぐらの外へまろび出て言葉を失った。今日であったか、と悔悟とも達観ともつかぬ言葉が漏れ、そうして彼方、燃える山麓を呆然と見下ろす。

「……楽珀さま」

 息を呑んで振り返ると、起こしてしまったか、寝ぼけまなこの子どもが夜着のままに立ち尽くしていた。

「火の花が、燃えて……?」

 ぼんやりと呟いた子どもを咄嗟、抱き寄せる。ううん、と訝しげな声を深く、深く胸の内に抱き込んで、その眸に火が――故郷を焼く炎が映らぬように、覆い隠す。

「……ゆるして、ゆるしてくれ」

 天の定めを変えることは、罷り通らぬ。  
 かたく抱きしめたまま、嗚咽するおとこの懺悔の意味に、子どもが気づくことはない。  

 そうして夜が尽きる頃、下界は俄かに水のにおい満ち――しめやかに降り出した雨が、燻る残り火をしずめた。


 **

 みはるかす峰々の、薄青く冷えた山頂には雪が積もり始めていた。ひらけた雪野を見渡した子どもは、息を吐き出してやにわに、こふん、とむせた。後ろから伸びた大きな手が、ちいさな肩に厚衣をかける。そうして、静かに彼方を指した。

「ご覧、雪豹だ」  

 ささめく声が僅か、寒さに震える。  
 指差す方向には獣が一匹――否、ゆるゆると白銀の原より身を起こすひとり――まほろ花銀の眸をひらいた、それは雪華の如きおんなだった。白磁の膚は雪よりなお白く、銀に輝く髪はそろそろと雪原に枝垂れ落ちる。  
 男と、その腕に抱えられた幼子を一瞥すると、おんなは気だるげに目を眇めた。何事かを口にして、ふいと顔を反らすや否や、転じた姿が白に踊った。
 点々と足跡を残して遠ざかる豹を見送り、「なんと言ってたの」と子どもは問う。  
 龍は少しだけ眉をひそめて、うっそりと呟いた。

「赤貌がふたつ並ぶから、てっきり狒狒の親子かと思ったよ、って」  

 見上げた先、養い親の真っ赤な鼻にきゃらきゃら笑うと、冷え切った鼻を摘ままれた。


 **


 一度だけ、龍が飛ぶ姿を見たことがある。

「天が動く」  

 戦火があちこちに燃えて止まぬ、混乱の時代だった。  
 人の世の諍いに、天が関わることは無い。けれど、その天で嵐が起こっているというのだから、龍は行かなくてはならなかった。

「おまえ、できるね?」

 いつも飄々としている養い親は、このときばかりは苦く笑って、少年の肩を抱いた。  
 暗赤色の空に昇ろうというかの人を、引き留めたかったのやもしれない、伸ばした手は、けれど握り込むままに終わった。  
 千年の齢を重ねた、その龍の眼の中に揺らぐ不安を見取ってしまった瞬間、狼狽えていたのが嘘のように、心が落ち着いた。

「お待ちしています。御帰りになるまで、わたしはわたしにできることを」

 どうぞご無事で、と願った。  
 少年の眼に燃えた火をどう思ったのだろう、養い親はくしゃりと破顔して「行ってくる」と手を離した。  
 上衣を脱ぎ去り、坂を駈け下り始めた男が、たん、たんと地を蹴る、やがて足が土を離れ、人のそれから龍のものへと転じて宙を掻く――銀の腹をうねらせ、ごうと尾を振り凪いだそれは、まさしく龍であった。  
 煌めく銀の一筋が、赤い空に吸い込まれていく。それを見送り切らぬまま、少年は――今や山の主は、己が責務を果たすべく、踵を返した。  
 養い親とは、それきりである。


 **


 十年を待った。
 百年を待った。
 目まぐるしく変わりゆく世を醒めた目で横目に見ながら、とうとう二つ目の実を口に含んだ。
 赤い実を、噛み砕くことなく呑み込んで、そうして、息を吐く。
 ――諦めてもよいのだろうか。
 龍の昇雷ののち、天の音絶えて久しい。
 狒狒は言葉を語らず、山々はうっそうと繁り、雲は導かれる水のように滔々と流れゆき、時だけが、ただ無為に潰されてゆく。
 かの人は来なかった。
 来ないのだ。
 待てども、待てども。

 話し相手も無く、この喉は枯れたように声を失くして大分経つ。
 いつまで我が身を山の頂に据えていればよいのか、皆目見当もつかなかった。
 崖が崩れ、山に雷落ち、火が燃え盛り森に広がるとき、頼りたくても、その相手はいないのだ。
 いっそ恨めしくなって、山を下りてしまおうかと思ったこともある。けれど無理だとわかっていた。
 かの人が遺していったものを守ることができるのは、自分ただ一人だと知っていたから。


 ふらりと明けの山にさまよい出でて、そうして霞凝る中を当てども無く歩く。
 獣の声も鎮まって、朝の訪れを待つばかりの森はしんと密やかで、草を踏む音立てることが躊躇われるほどだった。
 みずのにおいに混じる、甘やかな香りを嗅ぎ取ったのは、偶然だった。久方振りに興味がわいて、芳しい香りに惹かれるように、一歩、一歩と踏み出してゆく。
 気づけばそこはいつか歩いた道、梅の花がいっぱいに咲き映える、山の麓だった。
 白に、黄色に、紅色に染まる蕾が、見る人もないのに花びらをやわく綻ばせて、清廉とした華やぎ纏い並んでいるのだった。
 胸の内で、ふつりと息した感情が、洪水のように押し寄せた。

「……ああ」

 花に酔うと笑ったひと。
 あのときと変わらない花が、そこに在った。

 諦めてしまいたかった。
 帰ってこない待ち人に知らん顔をしてしまいたかった。
 けれど。
 けれども、この梅を、幼い頃に養い親と見たこの花を、目にしてしまったら、そんなこと言えなくなってしまった。


「……楽珀さま、」

 貴方と、もう一度梅を共に見られるなら、いくら待ったって構わないのだ。
 ぼろぼろと溢れてくる涙を拭って見上げた梅木は凛と背を伸ばして美しい。やがて昇る朝日が、その白い花弁を光の色に染め上げた。


 **


 その山の頂には、仙人さまがおわすると云う。

「たすけて」  

 病気の母を訪ねて急いだ旅路、無理をおして踏み入った山で足を挫いた。夜になれば獣も出るだろうに、と半狂乱になった矢先、忽然と現れた影に縋るように叫んだ――真緑のただ中から現れた、年若い男は目を瞬かせ、そっと旅人の手を引き寄せた。  
 背を抱いて、「だいじょうぶ」、穏やかな声が落ちる。

「大丈夫ですから、どうか、その荷を下ろしてくださいな」  
 
 背をさする手が、あんまりに優しくて、身体中に染み渡る温もりに安堵した。



「有難うございます。この御恩は決して忘れませぬ」  

 手当を受け、杖を与えられた旅人は頭を垂れる。いえ、と返した男に、旅人は不思議そうに問うた。

「ここらは村里もありませんが、どうして斯様な場所に」
「待ち人がいるのです」
「待ち人? この山に?」
「ええ。もうずっと、待っている」  

 言って、男は微笑んだ。  



 あれから幾度の戦と混乱を超え、それでも山は変わらぬまま、泰然とそこに在る。  
 かの龍との邂逅のときはまだ来ない。  
 けれど、苦ではなかった。

「東環迹の最後の実は、貴方が来たら食べようと決めています。山をお返しするまで、わたしはここに留まりましょう」  

 だから、楽珀さま。  
 いつか、どうか――。


 **  

 花に謳う者がいる。  
 そよ風に笑う者がいる。  
 時に綺羅の原に寝転がり、時に遙か山々を見渡し、そうして悠久の時間をたゆたいながら、わたしはいつまでも、貴方を待とう。  

 気が長いと呆れてくれるな、ここは遙かなる山々の地。龍が棲み、狒狒が棲み、仙人の棲まう別天地。
 人が住まう世界とは、また少し、時の感じ方が異なるのだから。

 了

『碧と白煙』

『碧と白煙』 真空中 作

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2017-05-02
Copyrighted

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