ま も の
「モンスターがいます」
あの子が言った。
んなもんおらんやろ、と私は答えた。
夜の夜に入ったときだった。
夜の夜に入る方法は、あの子だけが知っていた。
「まほうのことばがあるのです」
と、一枚のメモを見せてくれた。んてふにゆすてもをるにくしえけろ、とメモには書かれていた。
「このことばを三度、唱えます」
そう言ってあの子は、メモを見た。
メモを見たまま三度、唱えた。
んてふにゆすてもをるにくしえけろ。
んてふにゆすてもをるにくしえけろ。
んてふにゆすてもをるにくしえけろ。
(しえけろ、しえけろ、しえけろ)
まほうのことば、とやらの最後の部分だけを、私はこころのなかで繰り返した。あたまのなかでは、しえけろ、しえけろ、と、へんないきものが両手をあげて、はしゃいでいた。へんないきものは、とにかくへんないきものだった。ちいさくて、みどり色をしていた。お祭り騒ぎやな、と思った。
そんなことを思っているあいだに、夜の夜に入りこんでいた。
夜の夜は、すごい夜だった。
夜のなかの夜、という感じだった。
実際に入ったひとにしか、この夜さはわからんやろな、というくらいに、夜、だった。
「あすこにいます、モンスター」
と、あの子が指をさしたところには、なにもいなかった。
おらんやん。
「います、いますよ」
あの子はもう一度、いますよ、と言った。
あの子の人さし指の先っぽあたりを、じいっと見つめたが、モンスターらしきものはまったく見えなかった。生物らしきものすら、見あたらなかった。見あたらないというより、なにもいなかった。真っ黒だった。夜の黒だった。夜の海の黒だった。夜の街の路地裏の黒だった。夜のなかの夜は、ものすごい黒だった。私と、あの子が立っているところだけに、カスタードクリーム色の光が照らされていた。モンスターというやつは、私には一切見えなかった。私にはあの子しか見えなかった。あの子には私以外のなにものかが、見えていた。
そのモンスターって、どんなやつや。
私はあの子にたずねた。
のどがかわいてきた気がする。
私はすこしだけ、いらいらしていた。
ズボンのポケットから、たばことライターを抜きだした。
火を点けようとした瞬間、あの子が言った。
「目がおおきいです。ぎょろん、としています」
「鼻が高いです。すっ、としています」
「髪が長いです。とても、長いです」
「うでが長いです。あしも。とても、とても長いです」
「それから、つめも。おそろしいほど、長いです」
女のひとか。
私は言った。一本のたばこに火を点けて、残りのたばことライターをズボンのポケットにしまった。
「ひとではありません、モンスターです」
あの子はなんだか怒ったような口調で、言い放った。
その存在を信じない私に、憤っているのかもしれないと思った。
(けど、しゃあないやん)
(見えんもんは、見えんし)
ほんとうにのどがかわいてきた。
たばこのせいもあるか。
そろそろ夜の夜から出たい、と思った。
夜の夜は、あまりにも夜で、夜のなかの夜で、これ以上なにもないだろうと思わせた。
それくらいに夜だった。
わかった、モンスターはいるっちゅうことにしたるから、もう帰ろう。のどかわいたし。
「いいえ」
あの子が、首を横に振った。そして、
「帰れません。なぜならモンスターが、いるからです」
と言った。
どういうことやねん。
「モンスターがいるからです」
それ、あんたにしか見えんのやから、どうにかせえや。
「できません」
なんでや。
「あなたにしかできません」
だから、目に見えんもんをどうせいっちゅうねん。
「元の夜に戻るためには、これでモンスターをどかさなくては」
と、あの子が花柄のショルダーバッグから取り出したのは、〇〇だった。
私は息をのんだ。
実物の〇〇を見るのは、はじめてのことだった。
さわってもええか、とたずねると、あの子は私に、〇〇を差し出した。
(重たい)
(かたい)
(つめたい)
私は〇〇を、あらゆる角度から眺めまわし、触れた。
指で撫で、てのひらにのせて、何度も握り、その感触を確かめた。
(これ、あかんやつや)
私は思った。
なにが、あかんやつ、なのかはわからないが、とにかく、あかんやつや、と思った。
「モンスターの足元に、まほうじんがあります。そのうえで、まほうのことばを唱えなくては。さあ、どうぞそれで、あのモンスターをどかしてください」
あの子がふたたび、指をさす。
あの子が指をさしているところに、モンスターがいる、ようなのだが、やはり私には見えない。
黒。
夜しかない。
そこには夜のなかの夜、夜以外のなにもない。
いつのまにか、たばこはくちびるから落ちていた。
私は〇〇を、あの子が指さす方角に向けてみた。
(おる。あすこにモンスターが、おる)
まるでじぶんに暗示をかけるように、そう唱える。
見える。
見えない。
見えるはずや。
見えん。
見えんし。
ぜんぜん見えん。
〇〇を持つ手が、ふるえる。
ちいさくて、みどり色をした、あのへんないきものが、しえけろ、しえけろ、と両手をあげて、はしゃいでいる。
あたまのなかではなく、カスタードクリーム色の光に包まれた、私の足元に、彼らはいる。
ま も の