アザのある女
昨年『コンプレックス』をテーマに書いた小説です。
コンプレックスが快楽へと誘う。ある男女の物語。
一
冬の冷たい風が寂れた街に吹き抜けていた。
私達は傍から見れば恋人同士のような年頃の男女だが、しかしその実、恋人とは呼べない奇妙で歪な関係であり、それを嘲笑うような灰色の空からは、しとしとと雪が降り続けていた。
私の隣を歩く女の名はケイという。彼女の長い前髪は片目を隠すほどで、化粧気もないが、整った美しい顔立ちであるのは誰の目にも一目で明らかだ。しかし、いつもどこか陰りのある表情を浮かべて、薄幸そうな横顔を見せていた。彼女には触れれば硝子細工のようにいとも容易く壊れてしまうのではないかと思わせる繊細さがあり、私には彼女という存在がとても可憐に見えていた。
ケイは消え入るようなか細い声で「すこし寒い」と呟いて私に身を寄せた。
足元は石畳の歩道で、街路樹の落ち葉がそこら中に散らばっている。固く冷たい石畳の上で鳴る、彼女のヒールの乾いた足音と、私の使い古した靴の足音は、微妙にずれていて、愛し合う恋人同士のように綺麗に重なり合うことはなかった。
街の景観にそぐわないカラフルな外壁の建物は、性欲を満たすための男女の隠れ家である。私達は無意識にも人目を忍ぶようにして、その建物の入口を潜っていった。
入ってすぐに空き部屋を確認した。明かりの消えたパネルの数だけ、同じ屋根の下で幾人かの男女が今この瞬間も肉欲に溺れているのだろう。私は明かりの点いたパネルの部屋の中から、以前にも利用した覚えのある部屋を選んでボタンを押した。
古い洋館を似せた薄明かりの廊下をゆっくりと進み、空き部屋の扉を開ける。室内からは扉を開いただけで微かに煙草の臭いがした。その臭いは喫煙者ではない私には不快な悪臭にほかならなかった。
私達はそそくさと靴を脱ぐと、下駄箱と共に部屋の入口に備え付けられた小さなクローゼットのハンガーに互いの上着とマフラーを掛けた。
部屋の中央に置かれたソファーに腰掛けようとするケイを、私は構わず背後から抱き寄せた。セーターが包み込む彼女の魅惑的な身体の柔らかさを指先でゆっくりと確かめる。抱きしめたこの感触はなんとも心地良い。細い首にキスをする。髪もうなじも熟した果実の甘い香りがする。ケイはその間まったく抵抗することもなく、私にされるがまま、である。この女はいつもそうだった。自己主張がほとんどなく、何事にも従順で、良く出来た人形のような女だ。だから私は『僅かばかりも愛することなく、この女を抱けるのだ』と心からそう思っていた。
肩を抱いてケイを振り向かせる。見つめ合うと、私達はゆっくりと唇を重ねて、長いキスをした。互いに舌を絡ませて、空虚な心の隙間を埋める『何か』を探すように、口の中を弄り続けた。その『何か』が見つかったことはなく、やがて少し切ない感情を共有しながら唇は離れた。ケイは唇を舐めると、やがて「フッ」と吐息が漏れた。私は少し遅れて深い溜め息を吐いた。互いに相手の胸に手を添えていた。何もかもが二人にとっては自然な流れだった。
見つめ合っていると互いに鼻息が荒くなって、触れている手に相手の胸の鼓動を感じた。自分の沸き起こる衝動を、もはや抑えきれなくなっていることは否めない。
そのままケイをベッドに押し倒すと、私は彼女のセーターを捲くり上げて素肌の下腹部や胸元に舌を這わせて、獣が貪るように理性の欠落した乱暴な愛撫をした。
彼女は吐息の漏れる口元を手で覆った。私はその様子に益々欲情し、スカートも捲くり上げて柔らかく温かい太ももの感触を掌で、あるいは指先でじっくりと確かめた。
彼女を裸にしていく自分は、もう既にその心は剥き出しにされているのだ。それは牡としての純粋なる性だと自覚した。
彼女のセーターと肌着を脱がすと、私も上半身の服を脱ぎ捨て、床に放った。強く抱きしめてやると、彼女は私の首に細い腕を絡めた。両足を絡め合い、ふっくらとした形の良い乳房を片手で弄ぶように揉んだ。ゆっくりと、だが確実に加速していく自らの肉欲を実感しながら、沈み込む柔らかなベッドの上で、甘美な時間に溺れてゆく。
薄暗い部屋で、小さな明かりが灯るだけの真っ白な天井を、彼女は虚ろな瞳で見上げていた。
二
ケイと出会ったのは一年ほど前のことになる。
その頃、私は高校時代の同級生で長い付き合いになる悪友の五十嵐という男に五十万ほどの金を貸していた。この五十嵐という男は学生時代は野球部でスポーツ万能、クラスではムードメーカー的な男だった。だが、十数年後の今ではすっかり酒とギャンブルに溺れているようで、何年も定職にもつかず、暇さえあればパチンコ屋に通い、付き合っている女に面倒をみてもらっているような、どうしようもないクズだった。長年の不摂生が祟ってか痩せ細り、頬はこけて、両目は見開いてギョロギョロとさせ、ボロのような安物のトレーナーを着ているみすぼらしい姿だ。かつてクラスメイトに羨望の眼差しを向けられていた姿は見る影もない。
そんな五十嵐でも、私にとってはどういうわけか数少ない友人の一人だった。呑みに誘って会う度に二、三万の金を貸してくれと恥ずかしくもなく頼って来るのだが、私は妙な優越感もあってか度々それに応じていた。そうして膨れ上がった借金が五十万ほどになっていたというわけだ。
それでも毎月少しずつでも私に返済していたのだが(その間にも金に困ればまた借金は増える始末だった)、どういうわけか二カ月ほど返済が遅れて姿も見せず、連絡もつかない時期があった。そして一年前、ついに私はこの五十嵐をたまたま暇潰しに立ち寄ったパチンコ屋で捕まえ、店の外に連れ出して「返済する気はあるのか」と厳しく問い詰めた。実のところ、私は本気でこの場で金を回収する気はなかった。私はストレスが溜まるとそうしてかつてムードメーカーでクラスの人気者を気取っていたこの男に惨めな思いをさせることで、自分のささやかな優越感を満たしていたのだ。
今では体格も、実際の体力も差のある私がこの男の胸倉を掴み少しでも凄むと、つまらない言いわけをして、土下座してその場から逃れようとする。それは学生時代とはまるで逆転した関係であり、当時私が五十嵐に抱いていた嫉妬心をいくらか慰める行為だった。
だがこの日は違った。五十嵐は思いもよらないことを、私に持ちかけてきたのだ。
「返す気はあるが今は手持ちが無いんだ。返済を待つ代わりと言っては何だが、お前さえ良ければ、利息とでも思ってオレの女を抱かないか?」と。
はじめは『何の冗談だ?』と思った。第一、こんな男のためにそんなことに都合良く応じる女がいるのか、と。だが私の意図に反して五十嵐はどうやらこの馬鹿げた提案が本気らしかった。
「とにかく一度会って、何だったら試しに抱いてみてもいい。オレのためにならどんなことでもする女だ。オレが言うのもなんだが、あの女なかなか良い身体だと思うぞ。少しワケありだが、小さなことだ。気にいらなければ断ってくれればいい」
私にも迷いはあったが、すがってくる五十嵐の必死な様子を見ていると、私の『この男を心底見下してやりたい』という欲求は満たされるものがあった。
(とりあえず、ものは試しだ。その女に気に食わないようなところがあれば後で断ればいい。どうせこの男に借金を返す金の目処なんか最初から無いのだ)
「わかった。今度は身を隠すんじゃないぞ」
私は睨みつけて凄んで見せると、気まずそうな表情のまま五十嵐は視線を逸らした。
「都合がついたら連絡するよ。頼む」
そう言って様子を窺いつつ浮かべた下卑た笑みが、かつてクラスのムードメーカーだった男の顔に貼り付いていた。その姿は私にはとても醜い、家畜などの下等な生き物のように見えていた。
無い袖は振れないことは分り切っている。急な提案に私自身も多少の動揺があったため、とりあえずその日は五十嵐を帰し、後日ヤツの提案した約束通り女を連れて来させることにした。その日の晩には携帯電話に連絡があり、週末の夜に待ち合わせることが決まった。
そしてケイと出会い、はじめて共に過ごした夜が訪れる。
約束していた週末、当日待ち合わせ場所のビジネスホテルのロビーに五十嵐は赤いワンピースに上着を羽織った若い女を連れて来た。外はひどい大雨だった。二人とも傘を差しても濡れてしまっているのが一見して明らかだった。
五十嵐がこの女をワケありだと言っていた意味は一目でわかった。長い前髪で隠していたが、片目の周りには大きなアザがあった。それはどうやら外傷ではなく、生まれつきのアザであるらしい。しかしそれを差し引いても若く美しいのは違いなかった。アザさえ気にしなければ綺麗な白い肌をしていた。
女は「はじめまして、ケイです」と名乗って会釈した。オレが五十嵐に向かって手で払うように合図すると、下卑た笑みを浮かべた五十嵐はケイに「たっぷり可愛がってもらえよ」と耳打ちして立ち去った。
私はケイの腰に手を添えて、前もってとっておいたホテルの部屋へと彼女を連れて歩いた。濡れて寒いのか唇は小刻みに震え、濡れた髪からは水滴が滴っていた。
部屋に通して彼女をベッドに座らせると、私は無言で彼女にタオルを渡した。ケイは少し驚いた表情を浮かべたが、すぐに意味を察して髪を拭き始めた。
(可憐だ……)
隣に座った私はそばで見てそう思った。女性に対して見惚れてしまったのは初めてのことだった。歳はまだ二十歳ぐらいだろうか。年下なのはたしかだった。化粧っ気がないため幼く見えるのかもしれない。
「どうして連れて来られたのか、わかってるよね?」
私が声をかけると彼女はか細い声で「はい」と返事をした。
「じゃあ何をするかもわかっているのかな?」
彼女は少し考えるように首を傾げ、やがてコクリと頷いてみせた。
私は彼女の肩に手を回し上着を脱がせた。少し華奢かもしれない。だが十分に魅力的な身体だ。首筋にキスをした。抵抗はなかった。若い女の良い香りがした。
唇を求めるとケイの方からそれに応じた。唇は薄く柔らかい感触だった。互いの唇を吸い合い、舌を舐め合った。甘く優しいキスの味をじっくりと楽しんだ。ケイの口の中は不思議とひんやりと冷たかった。手探りで見つけた彼女の手に自分の手を重ねた。手も驚くほど冷たい。
透き通るような青白い肌だった。傷つけないよう気を付けて触れてやると、なんとも滑らかな感触だ。
この女を淫らに乱れるほど犯したい。その衝動はこれまでの人生で経験したことのないありのままの純粋な欲望だった。
行為に及ぶ前に一緒に熱いシャワーを浴びた。ケイは慣れない手つきだったが、丁寧に隅々まで私の身体を洗っていた。その献身的な姿勢に私は益々欲情した。
互いの泡を洗い流すと、陰部も惜しげもなく露わにしたケイの、美しく艶かしい肉体が目の前にある。私は裸のまま抱き寄せて、ケイに濃厚なキスをした。
それから朝方まで飽くことなく何度もケイを抱いた。何度、彼女の中に欲望を解き放ったのかわからない。ただ私が求めると彼女は素直にそれに応じた。従順に私が欲する快楽を満たし続けた。
やがて彼女の中で果てた私は、彼女を抱きしめたまま心地良く深い眠りへと誘われた。
三
三年前、私は妻と死別している。
妻の名はカナという。カナとは高校時代から付き合っていた。お互いに両親と実家暮らしで一人っ子、友人も少なく、読書が趣味な者同士で妙に気があった。何より地味な性格同士で互いに無理がなく誰よりも気を許せた。
交際が高校卒業後も続くとは、正直私は思ってはいなかった。私は地元の大学に進学し、カナは服飾関係の会社に就職した。学費を稼ぐためアルバイトを始めた私は頻繁にカナと会う時間を作ろうとはしなかった。だが、なかなか会う時間が無いからといって別れようとは思わなかった。高校時代とは環境の変化した大学生活も、私にとっては心躍るような居場所ではなく、退屈な毎日にただ時間を浪費していた。そんな中でカナと過ごす時間だけは少しでも心が安らいだ。慌ただしい日常を忘れることができた。
学生時代は互いの家を行き来することもなく、会うのは外でばかりだった。彼女好みの二人には似合わないオシャレなカフェで一緒に過ごし、他愛のない話しをした。恋人というよりは友人関係に近かった。たまに休みを合わせて旅行に行っては、旅先のホテルや旅館で体を重ねた。恋愛経験に乏しかった二人の肉体関係は濃厚なものではなく、今となっては淡い思い出に過ぎない。当時の私達は若く、同世代の他の男女よりも幼かった。
二人で暮らすようになったのは、私が地元の大学を卒業し、警備会社に就職してからのことだ。独身者向けの社宅には入らず、数年前に建ったばかりだという真新しいアパートに部屋を借りてカナと一緒に暮らし始めた。
同棲生活はすれ違いも多く、遅い夕飯を食べて寝に帰るだけの毎日に、二年という時は瞬く間に過ぎ去っていった。やがて『結婚したい』と告げたのはカナの方からだった。そろそろ子供が欲しいというのが理由だった。私はただ一言「わかった」とだけ言った。正直、私はこの時まだ自分達の子供をあまり望んではいなかった。だが、同棲している二人の男女が結婚するのは自然なことだと思った。断る言いわけが見つからなかった。
私達は友人や知人も少ないため式は挙げなかった。既に面識のある互いの両親に挨拶を済ませて、思いのほか順調にことは進んでいった。
婚姻届を出した日の夜、カナがいつになく嬉しそうにしていたのを覚えている。書類上の結婚に、私はどうしてもあまり実感が湧かなかった。
結婚してその後、二人の生活にそれほど変化があるわけでもなく、相変わらず妻と私とのすれ違いの生活は続いた。結婚後も妻が仕事を辞めないことに疑問はなかった。妻に専業主婦をさせてやれるほど甲斐性はなく、妻自身それを望んではいなかった。
妻は子供が出来た時のために、将来家を買うために、とよく家計をやり繰りして少しずつ貯金を積み立てていた。よく働き、一切の家事も怠らない真面目な妻。過去を振り返ってみると私には勿体無い女だったのだと思う。
ただ結婚してからも月に何度か体を重ねていたが、結局妻が妊娠することはなかった。私は深く考えてはいなかったが、子供を欲しいと強く願っていた妻にとっては深刻な問題だったのかもしれない。結婚して一年ほどが経って以降、二人の間で交わされる会話は少なくなっていった。妊娠に焦りのある妻に対し、性生活も私の方が避けるようになっていた。
そして妻との別れは唐突に訪れた。職場で妻が倒れたという連絡を受けて、私は急いで搬送先の病院に向かった。だが、妻は既に息を引きとった後だった。横たわる妻の亡骸にかけてやる言葉は無く、私はただ茫然として立ち尽くしていた。
連絡を受けて妻の両親も私の後に駆けつけた。妻の両親は遺体を前にして泣き崩れた。それが愛する人を亡くした人の自然な反応だとしたら、私にとって妻はどんな存在だったのだろう。
私達は若い医師から説明を受けた。妻の死因は脳内出血だった。そういえば「最近頭痛がひどい」と言っていたようだったが、私は妻の話しを聞き流していた。もしかしたら症状が表れていたのかもしれない。横で妻の母の嗚咽を聞いていると、責任を感じずにはいられなかった。早く病院に連れて来てやれば助かったのかもしれないと思った。
しかし妻の死をきっかけに、さらに事態は私を複雑な心境へと陥らせた。それは亡くなった妻が妊娠していた、という事実だった。妻の妊娠は初期で、まだ産婦人科にはかかっていなかったが、搬送されてすぐの精密検査の結果で明らかになったのだとカルテ片手に淡々と医師は告げた。
医師は当然私との子であると仮定した上で「お子さんも残念ですが」とだけ呟いて口を閉ざした。セックスレスであった私達の夫婦関係では妊娠した時期が合わない。私の子を妊娠していたわけではないのは明らかだった。私は激しく動揺し、そしてそれを妻の両親に悟られまいと必死なあまり、その場で嘔吐を催した。
それから一週間ほどの記憶は曖昧だった。妻の葬儀は妻の両親や私の両親によって話し合って進められた。遺影も遺骨も、妻の実家の方で預かって頂くことになった。
妊娠していた子が私との子ではないことについては、その後も誰にも話せないでいた。それまで私の良き妻でいてくれた彼女の名誉を貶めることはしたくなかったし、誰が不倫相手だったのかなんて興味もなかった。ただ妻を人並みに幸せにしてやれなかったことを思うとやりきれなかった。少なくとも妻は私よりも幸せになるべき人だったと思うし、将来に夢や希望を持って生きていたと思う。だが、妻の明日は突然奪われた。
私には妻のような将来への期待は何もなかった。夢見ることなく生きてきた。ずっと一緒にいた妻を心から愛することさえできなかった。
若くして愛する一人娘を亡くし、この先妻の両親は何を希望に生きていくというのだろう。それを思うとあまりにも不憫だった。
妻の死後数日が経って、宇佐美という男が自宅を訪ねてきた。中年の生真面目そうな男だった。
聞けば妻の会社の上司だったという。そう言われてみれば、私もこの男に見覚えがある。葬儀の時にも参列していたように思う。
「お線香を上げさせて頂きに来ました」
妙に低姿勢で丁寧な挨拶だったことに、私は若干の違和感を覚えた。
「せっかく来て頂いて申し訳ありませんが、妻の遺影や遺骨は妻の実家に預けておりますので、こちらには粗末な写真しかありません。お茶ぐらいしかお出しできる物もありませんが、どうぞお入りください」
私はやや強引ではあったがこの宇佐美という男を自宅に招き入れた。
部屋は妻が亡くなったあの日から時が止まってしまったかのようだ。遺影代わりに生前の妻の数少ない写真の中から、一枚を選んでテーブルの上に飾っていた。そうしていると、不思議とこの部屋にまだ妻が存在しているような気がした。
宇佐美は写真の横に香典を置いた。その時、左手の薬指に結婚指輪を確認した。来た時からなんとなく既婚者の雰囲気はあった。年齢的にもおかしくはない。だがそんな些細なことに私は嫌悪感を抱いていた。写真の前で手を合わせる宇佐美に対して、私は『ああ、この男が子の父親なのだ』と直感した。
妻の写真に向き合う宇佐美の姿は、妻に何か語りかけているようにも見えた。
台所でお茶を淹れていると、宇佐美は「どうぞお構いなく」と言ってそそくさと帰る支度をしていた。私は立ち去る宇佐美の背に向かって言い放った。
「妻は、妊娠していました。ずっと欲しがっていた子を」
靴を履きながら玄関に立つ宇佐美は一瞬動きを止めた。そして向き直った宇佐美は私に何か言おうとしたが、ただ一言「失礼しました」とだけ言って、逃げるようにその場を立ち去ってしまった。
部屋の中に戻ると私は台所の引き出しから妻の携帯電話を取り出して、妻の写真の前にそっと置いた。妻が亡くなって以降、妻の携帯電話はずっと私の手元にあったが、一度も開いて見ることはなかった。頭を抱えたまま妻の携帯電話を睨み続けた。
妻が亡くなったあの日から何度も覗き見ようとした。嫉妬や好奇心が私をそう駆り立てた。だがいざ実行するのは躊躇われた。この中に裏切りの事実が記されているのだとしたら、先ほどの直感は確信に変わってしまう。それは私にとって逃れられないおぞましい現実に他ならない。それはまるでパンドラの箱のようだった。
もしかしたらあの宇佐美という男の方が、私なんかより妻を愛していたのかもしれない。もしかしたら私なんかより妻を幸せにできたかもしれない。それがたとえ許されざる愛だったとしても。
妻の方はどうだったろうか。妻はあの宇佐美という男よりも夫である私を愛していただろうか。身勝手だが、私はそれでも最後まで妻に私は愛されていたと信じたい。自分は妻を心から愛せていなかったとしても。
死んでしまった今となっては妻の本心は誰にもわからない。しかし妊娠していた以上、妻が他の誰かと関係をもっていたことは疑いようもない。もし妻が愛する人の子を孕んで死んでいったのだとしたら、それこそ彼女が報われないではないか。
思いもよらぬ形で妻を失った実感は訪れ、静かな部屋に暗い影を落とした。そして気付いた。悲しみはいつも足音もなくゆっくりと忍び寄るのだ、と。
私は部屋を引き払うことを決意した。
結局、妻の携帯電話を開くことはなかった。あれは妻の遺品と共に妻の実家に送った。私が持っておくべき物ではないと思った。秘密は秘密のままにしておけばいい。けっして妻の両親が見ることのないよう一度水没させて起動しないことを確認した。そこまで徹底しなければ気が済まなかった。妻好みの可愛らしいキャラクターのストラップが、携帯電話に繋がれて虚しくぶらさがっていた。
引越しのため妻が生前大切にしていた物から、些細な物に至るまですべて荷物をまとめていると、妻の私物は驚くほど少なかった。私に残ったのはコツコツと彼女が貯めてくれていた将来のための貯金と、付き合い始めた学生時代からの思い出だけだった。
私は二人で暮らしていた部屋を引き払い、独身者向けの社宅での生活を始めた。
寂れた古いオンボロアパートだ。四畳半の畳部屋があるだけの狭い部屋に腰を据えた。私一人の生活で、仕事を終えて寝に帰るだけなら良い部屋はいらない。風呂とトイレがあればそれだけで十分だ。
手狭なため、以前住んでいた部屋から持って来ると入りきらないような家財道具はすべて処分した。私一人であれば最低限生活に不自由がなければ良かった。
幸い親しい同僚も入居しているため、何かと世話を焼いてくれた。
隣の部屋は粗暴な性格だが面倒見の良い石田という同期の男だった。妻が亡くなったばかりでいろいろと思うところもあり、塞ぎがちだった私も、非番には同期と酒を呑み交わす日々に酔い、自堕落な生活に少しは気が紛れた。時には女を世話してくれることもあったが、すぐにはそんな気分にはなれなかった。
石田は頻繁に付き合う女をとっかえひっかえしているようで、夜な夜な薄い壁を通して女の喘ぎ声が聞こえてくることがあった。
部屋に連れ込んだ女達は皆、石田のサディスティックな欲求を満たしているようだった。激しい行為が繰り返されていることは容易に想像がついた。石田は女を辱めることで快感を満たされるタイプの男だった。危険な性癖だが、不思議と女が途絶えることはなかった。彼曰く、女もまた服従し、虐げられることに快感を満たされるタイプの女が必ずいるということだった。それは見分けるのでは嗅ぎ分けているのだ、と。なんて動物的で単純な思考だろう。何も顧みず本能の赴くままに悦楽している。それが少し羨ましくもあった。
薄い壁の向こうで性欲に溺れる淫媚な声に耳を傾けながら、私は酒を呷り、孤独な夜を抱いて静かに眠りに就くのだ。
四
私が勤めている警備会社は、商業施設などに常勤の警備員を派遣している。私は県内では有数の大型複合商業施設の警備に就いていた。
警備室に設置のディスプレイには複数の監視カメラの映像が映し出され、万引きなどの犯罪行為が起こっていないか、怪しい人物がいないか常に流れる映像をチェックしている。交代の巡回が数時間ごとに行われ異常があれば無線で連絡が入るようになっていた。
監視室の奥には簡易ベッドと目隠しのカーテンがあるだけの仮眠室があり、夜勤では交代で一時間程度の過眠をとるようにしている。
その日も私は夜勤だった。建物内には二十四時間営業のスーパーや飲食店があり、深夜にも客足がまったく途絶えるということはない。
この日何度目かの巡回から戻ると、警備員室にいた警備員は同期の石田一人だった。交代で別の警備員は巡回に出払っている。
石田はじっとディスプレイの映像を見ていた。見下ろすように映し出された駐車場裏の映像では、物陰で男が女に背後から覆い被さるようにして行為に及んでいた。
「またやってるのか?」
「ああ、五分ぐらい前からだ」
見覚えのある男女だった。以前にも同じように淫行に及んでいた。本人達は見られていないとでも思っているのだろうが、このようなことは日常茶飯事であり、悪質性がなければ放置しておくこともあった。あえて露出することに快感を得ているカップルも多く、痴態の現場に居合わせたり、このように監視することは珍しくもない。
しばらく映像を見ていると慌ただしく監視室のドアが開かれた。見ると後輩の若い警備員に腕を掴まれて女が連れて来られている。気の強そうな派手な服装の若い女だ。私が後輩に近付くと「万引きです。お願いします」と耳打ちされた。
後輩は警備室を出てまた巡回へと向かった。私はドアのカギを内側から閉めて女をパイプ椅子に座らせた。
通常なら万引きの被害を受けた店舗の責任者立会のもと警察に通報するようマニュアルでは定められている。だが従業員の少ない深夜帯で相手が若い女の場合、私達の仲間内では暗黙の了解としてある取引きを持ちかける。
「万引きしたモノを全部出せ」
石田が荒い口調で言うと、女はふてぶてしい態度で、鞄から取り出したモノを一つ一つ事務机の上に並べ始めた。生理用品、化粧品、菓子。万引きする若い女によくありがちな品だ。動機は様々だ。金に困って手を染める者もいれば、スリルの快感を忘れられず何度もやる病気の人間もいる。そんなことはどうでもいい。
「万引きは犯罪だってわかってるよな?」
石田が荒い口調のまま言うと女は頷いた。濃い化粧ですぐには気付かなかったが、女はまだ十代の幼さが残った顔立ちをしていた。おそらく十五、六歳の少女だ。
「警察に通報することもできるがどうする?」
口調は甘くなった。女は『警察』と聞いて首を横に振った。動揺を隠せず怯えた様子だった。
「言うことを素直に聞くなら、今回だけは見逃してやってもいいが」
石田は甘い口調で続けた。俯く少女を尻目に、こっちを向いてニヤニヤと笑っている。
やがて黙り込んだ女は目に涙を浮かべて「お願いですから、警察にだけは」とだけ呟いた。石田は立ち上がると少女の細い腕を掴んで、引きずるようにして仮眠室へと連れ込んだ。少女は「嫌、痛い」とか細い声を上げて抵抗したが、それから激しく抵抗したりはしなかった。少女の顔にはもはやあきらめがあった。
石田は何も言わずに仮眠室のベッドに少女を押し倒し、こちらに見えないようカーテンを閉めた。
警備室に監視カメラは存在しない。監視する側の人間が常にいるからだ。だから、誰が思いついたのかこんな行為が容易に行われていても不思議はなかった。疑われても現場を目撃されない限りは全員で口裏を合わせてしまえばいい。こちらが揉み消した万引きの事実を隠すためにもこのことを通報する女はいなかったが、念のため携帯電話で女の裸の画像や行為の最中を撮影して脅すようにしている。
カーテンの向こうから女の喘ぎ声が聞こえる。石田の荒い鼻息も漏れていた。ギシギシと簡易ベッドの揺れる音が、乱暴で激しい交わりを物語っていた。私は耳障りなその音を聞きながら、飽き飽きする監視カメラの映像をぼんやりと眺めていた。
結局その晩は早朝まで警備員全員で、交代でこの少女を犯し続けた。
ようやく解放した少女はすこしやつれた顔で、もつれるような危うい足取りで何処かに立ち去っていった。
自分達の穢れた行為も、相手が薄汚い万引き犯だと思うと罪悪感は微塵もなかった。狂った日常は、知らず知らずのうちに私の感覚さえもマヒさせているのかもしれない。
五
五十嵐の死はろくでなしらしい最後だった。早朝、飲み屋のラストまで居座った五十嵐は帰り道に酒に酔って道路に飛び出し、乗用車に轢逃げに遭った。発見が遅れたのと、事故の時の打ち所が悪く内臓破裂が致命傷となり、搬送先の病院で亡くなったという。私は同級生からの連絡で知ったが、葬儀には参列しなかった。ケイとはしばらく連絡のつかない日々が続いた。
五十嵐の四十九日も過ぎようという日のことだ。その晩、私は不思議な夢を見た。亡くなった五十嵐が現れたのだ。それは妙に現実味のある夢だった。
放課後の教室で、席に座った私の前に五十嵐が立っていた。他には誰もいない。
物言わぬ五十嵐は私に背を向けてただじっと黒板を見ていた。五十嵐の姿は高校時代のままで、坊主頭にボタンも留めず着崩した制服姿に懐かしい見覚えがあった。何故、後ろ姿で五十嵐だと分かるのか、それは私が高校時代この背中ばかり見ていたからだ。地味で印象の薄い自分とは間逆で、皆に羨望の眼差しを向けられているこの男に嫉妬していたからだ。明らかな上下関係にある友人を、心の底では憎んでさえいたからだ。
「おい、五十嵐」
高校時代のように声を掛けた。すぐに返事はなく、振り向きもしなかった。五十嵐はじっと背を向けていた。静寂が教室の空気を支配した。
「あの頃は同じようにこの学校を巣立ったのに、どこで間違えたんだろうな?」
五十嵐は独り言のように呟いた。
夕刻、窓から射す光は徐々にその眩しさを失くし、教室は薄暗くなっていく。
「オレに仕返しできて満足だったか? オレに惨めな思いをさせて、優越感に浸れて満足だったか?」
五十嵐がポツリポツリと呟く度に、不安と後悔に襲われた。私はこの男の僅かばかり残っていたかもしれない自尊心を弄び、すべてを取り上げてしまったのかもしれない。
「お前、もう死んだんだよ、五十嵐」
私が言うと、五十嵐は声もなく肩を震わせた。泣いているようだった。
悔しかったのだろうか。辛かったのだろうか。あんな最低な生き方でも、それでもまだ生きていたかったと望むのだろうか。
この目の前の五十嵐は、あの希望に満ち溢れた青春の頃のままなのだ。純粋に、輝かしい未来に何の疑問も抱いていなかった青年のままなのだ。
出会い、共に学んだ校舎は、今はもう存在しない。卒業後、校舎の老朽化や生徒不足を理由に廃校となり、昨年ついに取り壊されてしまっている。
五十嵐は私に最後の別れを告げに来たのだろうか。
目覚めの悪い朝が来た。携帯電話には深夜に着信履歴が残っていた。不在着信に表示されている発信者は『ケイ』だった。
その日、ケイをホテルに呼び出した私は彼女を抱くことなく、ただベッドに横になって話しをしていた。愛人のような関係になってから週に何度かは会っていたが、一カ月以上会えなかったのははじめてだった。そして彼女と会って抱かなかったのもはじめてだった。
ケイは珍しく自分のことをゆっくりと語り始めた。
ケイは顔のアザに常にコンプレックスを抱いて生きてきた。
三人姉妹の二女に生まれ、ごくごく普通の家庭に育ったが、両親はいつも顔にアザのある彼女よりも容姿に恵まれた姉妹の方を可愛がった。彼女はいつも家庭の中でのけ者だったという。
幼少期から周りの子供からは気味悪がられ、避けられていた。内気な性格は彼女の孤独に拍車をかけていった。
思春期になるとそれはあからさまないじめへと変化した。落書きからはじまり、時には暴力にもさらされた。彼女が辛い日々の中で身に付けたのは笑って誤魔化すことだった。何をされても笑って見せた。そうすることでいじめが沈静化することはなかった。
周囲からの扱いに変化はなかったが、彼女は年齢とともに徐々に美しい姿に変化していた。そんな彼女に目をつけたのは周囲の男共だった。
ある日の放課後、通っていた高校からいつものように一人で帰宅していた彼女は数人の不良上級生に囲まれて襲われた。ケイの処女は見ず知らずの男子によって奪われた。全身が痛くてすぐには立てなかった。レイプされたことは誰にも言えず、独りで痛みと悔しさに耐えて泣いた。
それでも事態を両親や姉妹に悟られないためには学校に行くしかなかった。
学校では既に噂が広まっていた。上級生の性処理の相手をしている淫乱な女子だと。実は上級生を焚きつけたのは、いつもケイをいじめていた同級生の女子達なのだと後で知らされた。教えたのはその後もケイに体の関係を強要した上級生の一人だった。
ある日、精神的に耐えられなくなった彼女は親に黙って高校を辞め、インターネットで知り合った男を頼って家出した。
それから何人かの男の元を渡り歩き、何度となく騙され、体を売らされた。
酷い男からは毎日何人かの客の相手をさせられたこともあった。そういう客の男共の中には異常な性癖を満たすために暴力を振う男もいた。
彼女は男の要求を拒むことをあきらめた。五十嵐のような最低な男共を前にしては、そんな権利さえ自分にはないことを思い知らされた。数え切れないほど多くの男に抱かれた。いつしかその時だけは必要とされている、という奇妙な安心感を得られた。
いくつになっても顔のアザのコンプレックスは彼女につきまとった。水商売などで働こうとしても入店を拒否された。客が気味悪がるから、と。男に依存し、体を売る生活から結局は抜け出せなかった。
アザのある女
まだまだ修正の余地もあるかと思いますし、もしかしたらいつか続きとなる小説を書くかもしれません。