アジア紀行、私の「深夜特急」

アジア紀行、私の「深夜特急」

 1974年10月から翌75年3月までの半年間フィリピン、タイ、インド、スリランカ、ネパールの5カ国を旅した。出発したときは22歳。帰国したときは23歳になっていた。現在、65歳だから42~3年前のことになる。旅に特別な目的も目的地もない、風任せ、運任せのヒッピー旅行だった。

 大学の講義にはほとんど出席せず、アルバイトと部活の山登りと酒盛りに明け暮れる。当然試験は落第寸前。そんな無為な学生生活を3年近く続けた74年2月の始め、行きつけの飲み屋で数人の友人と中身のない話にうつつを抜かしていたとき、友人の一人が「O君が休学して一人旅で南米に行くらしい」と言った。
 羨ましいと思った。ふと「僕も行こうかな」とつぶやいた。友人たちは一笑に付した「お前のような軟弱な奴が行ける訳ない。呑んだ勢いの戯言だな」と。
 そのときスイッチが入った。友人たちの言葉に腹を立てたのではない。猛烈な焦燥感に襲われたのだ。あと1年無為な学生生活を送り、適当に就職して、そのまま漫然と生きていく。このままだとそうなる。いやだ!レールを外れるなら今しかない!
 一週間後、大学に休学届けを出した。休学期間は4月から1年間。特に行きたい国はなかった。どこでも良かった。とにかく日本を離れる。ただO君が南米に行くのなら南米は避けよう、その程度だった。
 まず半年間働いてある程度まとまった金を稼ぎ、それを元手に旅をすることにした。どれくらいの費用が必要なのか、どれくらい稼げるのか見当もつかなかったが、第一歩を踏み出した。

 昨年、私は完全リタイアを機に、住み慣れた東京の住居を引き払い北海道に移住することにした。その際、長年溜め込んだガラクタの整理をした。ガラクタの中からあの旅で持ち帰った列車やバスの切符、現地で貰った地図や観光案内、宿泊した安宿のカードとともに小さな手帳と一冊のノートが出てきた。
 手帳は第一勧業銀行の1974年版だ。トラベラーズチェックを購入したときに貰った小さなものだ。そこには旅の始まりから終わりまで旅日記兼備忘録的な事柄が小さな文字で書かれていた。下手くそな字が細々と並んでいる。読み辛いことはなはだしいが、眺めていると遠い昔の記憶が蘇ってきた。
 ノートの方は、バンコクの文具店で買ったもので表紙には古代の馬に牽かれた戦車のイラストとタイ語の文字が描かれている。もともと安物の上に40数年経過しているので表紙の隅がボロボロと剥げ落ちてくる。中の用紙も変色している。そこには一人旅のつれづれに心に浮かんだことがとりとめもなく書き綴られていた。青臭さくて恥ずかしくなった。

 私が旅をしていたのとほぼ同じ頃、沢木耕太郎氏が香港からロンドンまで壮大な流浪の旅をし、「深夜特急」という名著にまとめられている。その中には私が旅したインド、ネパール、タイも含まれ、体験談には重なる部分も少なからずあって、改めて読み返してみて高揚感が沸いてきた。
 高齢者の仲間入りをした今、平凡すぎる私の人生の中で最も躍動感に満ちた時間、唯一の宝物といえるあの旅の記憶を書き残したいと思った。表題は、尊敬する沢木氏に敬意を表し、私の「深夜特急」としたい。ただ、沢木氏のような洞察力も構想力も筆力もないので、手帳のメモ書きを骨格とし、その後に、わずかに残る記憶を書き記すとともに、ノートに書かれた文章を入れ子にして整理していくことにする。

生まれて始めて訪れた外国フィリピンは旅を始めた私に旅の醍醐味を教え、優しく鍛えてくれた。

第1章 フィリピン 1974年10月19日~11月8日

10月19日(土)
YSTAPHIL①
2時頃マニラ着 暑さにホテル② 外国初日のことゆえYSTAPHILの回りうろつくのみ。フィリピン人がみんな悪そうに見える。
空港からバスだと40分くらい Cariffornia BusがTafft Ave.を通るので便利。20センタボス
<記憶>
 この日、友人5名に見送られ、大阪伊丹発マニラ行きのJALに乗り込んだ。元来目的も目的地もない旅なので下調べはほとんどしなかった。もちろんマニラやフィリピンについても。
 マニラ空港に到着して、とりあえず空港のインフォメーションに行き、安い宿を紹介してくれるよう頼んだ。英語はほとんど通じなかった。アルバイト中も英会話の勉強はしなかった。何とかなるだろうと甘く見ていた。渡航費用を稼ぐのを優先したとも言える。そんな状態で日本を出てきたのだから大胆というよりアホである。
それでも何とかインフォメーションで、国際学生会館といった感じのYSTAPHIL①を紹介してくれ、行き方も教えてくれた。
  ここはマニラの大学に通う留学生の学生寮と海外の学生旅行者向けの宿泊所を兼ねたものだった。宿泊者の多くは欧米人や日本人のヒッピーだった。
 ヒッピー旅行者たちは、私の絶望的な英会話能力に呆れるとともに、その勇気を嘲笑を交え称賛した。同時に、彼らは貧乏旅行に役立つ多くの情報を教えてくれた。私の旅の最初の宿がYSTAPHILだったことは、本当に運が良かったと言うべきだろう。
 「暑さにホテル」②の意味はよく分からない。ただ、ホテル近くのバス停で、バスから降り立ったとき、私を包んだ強烈な暑さと当時の発展途上国の首都の混沌と人々の熱気に圧倒され、慌ててホテルに逃げ込んだことを覚えている。

10月20日(日)
YSTAPHIL
リザ-ルパークにてお昼寝。そののちそのあたりを散歩する。その後日本語ガイド①に日本語を教えて飯を食わしてもらいマニラ港の夕日を3人で見る。日本人ヒッピー3人と酒をのみ上キゲン。②
<記憶>
 空港のインフォメーションでもらった観光地図を手に、マニラの街を歩いてみた。リザールパークは名所の一つだ。散歩していると女子学生風の二人組①から日本人かと声を掛けられた。そうだと応えると日本語を教えてくれないかと言う。聞けば彼女たちは学生で、勉強とアルバイトを兼ねて日本人相手のガイドをしているとのことだった。良いですよと気楽に応じた。
 彼女たちは私の絶望的な英語に辛抱強く付き合ってくれ、マニラ中心街の名所をいくつか案内し、遅めの昼食までご馳走してくれた。その後、マニラ港に行き3人で夕日を眺めた。マニラ湾の夕日は観光案内にも出ていたように思う。評判通り美しかった。なんだかデートしているみたいだった。
彼女たちの親切は感謝に堪えないのだが、この時点の私は人生初の外国で浮かれていた。人を疑うことを知らないウブな学生だった。この二人が真面目で良い人たちだったのは幸運だった。
 夜、YSTAPHILのドミトリーで同室だった日本人ヒッピー②3人とホテルに近い裏通りの雑貨屋に食事に出かけた。さして広くもない雑貨屋だったが、店の片隅に四角いテーブルが一つ置かれており、そこで簡素なフィリピン料理を提供していた。それをつまみにサンミゲルビールとフィリピン製のジンを呑んだ。
 ヨーロッパからシルクロードを東に向かい、フィリピンまでたどりついた彼らの話す数々の武勇伝を興味深く聞いた。アフガニスタンの地方都市ヘラートの歌舞伎のこと、イスタンブールのカフェのことなど、中でもインドでの経験談は強烈だった。彼らは一様にインドの魅力を熱っぽく語った。彼らの話を聞くうち、当初漠然と持っていたバンコクからはマレー半島を南下するプランは捨て、インドに飛ぶプランに傾き始めた。
 店内にジュークボックスがあった。私はコインを入れ、お気に入りのニールヤングのハートオブゴールドをかけた。雑貨屋のオネーさんが「あんたみたいだね」と言った。私は「まあね」と応えた。実はハートオブゴールドの歌詞は全く知らなかった。メロディーが気に入っていただけだ。帰国後、歌詞を読み返してみた。自分の心の黄金を求めて旅を続けるという意味だった。恥ずかしくなった。半年も後になって。

10月21日(月)
YSTAPHIL
リサールパークおよびサンタクルスを散歩。Reconfirm①に行く。またもやリサールパークでひるね。
<記憶>
 朝、マニラ中心街の公園をぶらぶらと歩いた後、JALのオフィスに行き11月8日のマニラ発バンコク行きの便①を取った。
 そもそも何故バンコク行きだったのか?何故タイを目指したのか?特別な理由などない。半年間働いて得られた金額は高が知れていた。欧米で半年暮らすことなど到底無理だ。となると近間のアジアにするしかない。その程度だった。そこで、とりあえずバンコクに行き、その後マレー半島をシンガポールまで南下し、インドネシアに渡って、可能ならオーストラリアまで行ってみるか。そんな漠然としたプランを描いていた。
 旅の下調べはほとんどしなかった。そもそも目的地がなかったし、旅費を稼ぐので忙しかったというのもある。そんな具合だから、何も知らずにJALのチケットを正規料金で買った。アホである。
 行き先はタイのバンコクだったが、大坂伊丹発バンコク行きはマニラ経由だった。となると、マニラにストップオーバー(途中下車)しない手はない。そんな訳でフィリピンが私にとって最初の外国になった。
 フィリピンには2週間程度滞在することにした。そして、2週間程度で行けそうなところをYSTAPHILのスタッフや寮生に相談した。彼らはルソン島北部の旅を勧めてくれた。特にバギオはお勧めだった。
 JALのオフィスでリコンファームを済ませた後、バスターミナルに回ってバギオ行きのバスの発車時刻を確かめ、切符を買った。

10月22日(火)
BAGUIO ラッキー① 8②
5時頃着。ホテルが中々見付からずあせる。ホテル見つけてのち散歩中イスタフィルにいたドイツ人に会いビールを飲む。親切なダロ-氏③に会う。
<記憶>
 バギオはマニラの北方、ルソン島中部の高原にある冷涼で閑静な町。フィリピンの夏の首都と言われ、猛暑の時期には首都機能が疎開してくるとのことだった。
 朝、バスがマニラを出発し、途中昼食休憩を取って夕方5時にバギオに到着した。多分7時間程度の行程だったと思う。
昼食休憩のとき、トイレに行こうと思ったが見当たらない。場所を聞こうにも、尋ねる英語が浮かんでこない。尿意はさほど感じなかった。まあ次の休憩の時で良いかと安易に考えそのままバスに乗り込んだ。
 しかし、いくら走っても休憩がない。止めて貰うだけの度胸も英会話力もない。結局、バギオに着くまで休憩はなかった。バギオ到着前の1時間の苦しみは今もかすかに覚えている。当時は膀胱に弾力性があり、何とか乗り越えられた。(笑)
 バギオの町に入るや否や、転がるようにバスを降り、ひと気の無いところを必死で探して立ち小便をした。周囲を見回しながら、人が来ないことをひたすら念じた。早く終われと思うがなかなか止まってくれない。焦った。結局人は来ず事なきを得た。バギオの皆さんごめんなさい。
 出すものを出しホッと一息ついて歩き始めた。町外れで降りたので、どの辺りにホテルがあるのか皆目見当が付かない。とにかく町の中心部に向かって歩いた。行けども行けどもホテルが見付からない。ちょっと心配になり始めた頃に、目に止まったホテルがラッキーだった。マニラの学生会館と違って、場末のいかがわしさに少し抵抗を感じたが、8ペソという値段は魅力的だった。女を勧められたが断った。
 部屋に荷物を置いて、夕食を取りに賑やかそうなところに出かけた。歩いているとマニラの会館にいたドイツ人ヒッピーと偶然出会い、一緒に食べることにした。サンミゲルビールを飲んだ。このレストランにダロー氏③もいたのだと思う。ただこのあたりはあまり覚えていない。
 ダロー氏はオーストラリア人で、私と同い年くらいだった。彼とはバギオ滞在中、彼の泊まっていたホテルのロビーや街中のレストランで長時間語り合った。日本の文化に対して憧れに近い興味を抱いているようだった。
ダロー氏は、真面目で温厚な好青年で、絶望的な私の英語に根気よく付き合ってくれた。そして、英語を丁寧に教えてくれた。この後の半年間、ある程度自由に旅行ができる程度の英会話力が身についたのはまさしく彼のお陰だ。
ホテルの窓からはバギオの下町の一角が見えた。深夜ひと気が全くなくなった。ただ、軍人達が街中を巡回していた。戒厳令だった。マーシャルロード云々と誰かに言われたような気がしたが、その時は意味が分からず、ハイハイと曖昧に応じていた。部屋で辞書を引いた。戒厳令の意味だった。背筋が凍った。
 手帳に「8」と書いてあるのは宿賃だ。この日から手帳に宿賃を記すことにした。当時のレートは1ペソ30円くらいだったと思う。日本円だと1泊240~250円くらいだろう。1ヶ月泊まっても1万円かからない。この調子なら半年間は旅ができそうだと少し安堵した。

10月23日(水)
BAGUIO ラッキー 8
昨日会ったダロ-氏と行動をともにする。おもにマーケット見物。

10月24日(木)
BAGUIO  MAHALICA HOTEL&HOSTEL 12①
同上 ジーザスクライストスーパースターを見る。
<記憶>
 少々いかがわしいラッキーから折り目正しく清潔そうなこのホテル①に宿を移した。ダロー氏が泊まっていたホテルだ。さすがに宿泊代はラッキーより高かったが、これくらいの贅沢は許容範囲だろう。
 ダロー氏とジーザスクライストスーパースターを見た。勿論字幕は無かった。さっぱり意味は分からなかった。後で、映画について語り合ったが、何を語ったのか勿論記憶はない。

10月25日(金)
BAGUIO 12
同上 

10月26日(土)
BAGUIO 12
Museumに行く。ずっとダロー氏と同行する。「よごれた金」を見る。日本題はリスボン特急。ダロー先生バギオを去る。
<記憶>
 このあたりの記憶はほとんど無い。ただ、ダロー氏には感謝の言葉しかない。無謀にも英会話の練習など全くせずに日本を飛び出した私が、半年間アジアを歩き、無事日本に戻ることができたのは、旅の初期にダロー氏に巡り会い、彼が親切に英会話の師匠を務めてくれたお陰だ。 ダロー氏は真面目だがユーモアも持ち合わせており、彼が外国人であることを意識せずに楽しい時間を過ごすことができた。
 「学ぶこと」の意義を意識させてくれたのも彼だ。彼の専攻が何であったか覚えていないが、彼はこの国の文化・風土・習俗を真剣に理解しようとしていた。彼の姿勢は、私が如何に無為な3年間を過ごしてきたかを反省するきっかけを与えてくれた。
 また、この後、行く先々で目的地と自己を見失い、旅を終わらせるタイミングをも失って、空疎な旅を続ける多くのヒッピー達(彼らのことを「大陸浪人」と言った)を見たが、私が辛うじて大陸浪人にならずに済んだのは、常に目的を持って前向きに旅する彼の姿が私の心の片隅に居続けたからだろう。
  
10月27日(日)
BAGUIO 12
日本人の先生(もちろん大陸浪人)①バギオに来る。最初日本人とはわからず。不信に思う。この夜から台風が猛威をふるいだす。
<記憶>
 何故「先生」なのか?この人物①に関する記憶は全くない。この日の夕刻から雨風が強くなった。堅牢なホテルだったので不安はなかったが、近くのレストランで早々に夕食を済ませホテルのロビーで「先生」やホテルのスタッフとおしゃべりをして過ごしたような記憶がある。
 
10月28日(月)
BAGUIO 12
風終日吹きまくりホテル内水びたし。おまけに停電。1時間おきにバスが出ている。①
<記憶>
 フィリピンの台風はさすがに強烈だった。窓ガラスが割れた訳ではないが、隙間という隙間から雨が降り込み、道路を流れる水が玄関ドアの隙間から浸水し、ロビーが水浸しになった。ロビーにローソクが並んでいた。もちろん部屋の灯りもローソクだった。外は暴風が吹きまり、心細い夜を過ごした。
 バギオ滞在が長くなったので、次の目的地をサンフェルナンドに決め、風雨の中バスターミナルにバスの出発時刻を調べに行った。天気が回復してくれれば明日出発だ。
  
10月29日(火)
SAN FERNANDO① RIO GRANDE HOTEL 6
とにかくボロボロのホテルなのでオドロク。先生わりと弱気で二人で南下しようというが、北上を主張する。②
<記憶>
 サンフェルナンド①は、高原のバギオからバスに揺られて北西に下り、海岸線に出たところに開けた港町。東シナ海に面している。
 リオグランデなどと名前は立派だが、木造の朽ちかけたようなホテルだった。6ペソだから文句は言えないが。日本を出て早や10日、だんだん度胸が着いてきた。
 「先生」とのやりとりについては全く思い出せない。フィリピンでは、後から出てくるカストロ氏を除けば一人旅の記憶しかないので、「先生」とはバギオからサンフェルナンドまで同行し、その後、「先生」はマニラ方面に南下、私はルソン島をさらに北上することにしたと思う。
 北上することは辺境に向かうことになるので「先生」は怖じ気づいたのかもしれない。手帳には彼のことを大陸浪人と書いているが結構軟弱な人だったようだ。この頃、既に私には妙な自信がつき始めていた。翌日、鼻っ柱を折られるのだが。

10月30日(水)
LAOAG YMCA 4.5
フィリピンラビッド①の近く。英語まるで通じずまことに情けない思いがする。この時旅に出たことを後悔する。この時のみ②
<記憶>
 バス会社のターミナル①からほど近いところに宿を見つけた。街路樹のある閑静な住宅街の一角に平屋建ての清潔そうなゲストハウスがあった。昨日とは雲泥の差だ。しかも安い。
 YMCAの女性スタッフは少々偉そうだった。しかも、彼女たちの話す英語がさっぱり聴き取れない。面と向かって「You can’t speak English」と言いやがった。ダロー氏のお陰で英語はある程度話せるはずだ。何故だ?
理由が分かった。彼女たちの英語が変なのだ。まるでスペイン語なのだ。つまりステーションはエステション、スリープはエスリープと言うのだ。要領が分かって後は何とか通じたが、その後も居心地は悪かった。
 日本人の「先生」と別れて一人で辺境の町にやってきたこと、英語力の無さを露骨に指摘されたこと、その町は閑静だが、何故か余所余所しい感じのするところだったことなどから、寂しさがどっと押し寄せてきた。前日の勢いは何だったのか?!この日ほど寂寥を感じたことは後にも先にもない。「この時のみ」②と書いたのは、後日書き加えたのだろう。

10月31日(木)
CLAVELIA① Free②
LAOAGからのバスの中でウィルペッド③に会う。家に来いと誘われ渡りに船とばかりのこのこついて行く。その間がけ崩れに遭いバス立ち往生。歩いて渡る。
<記憶>
 LAOAGから海沿いに北上し、ルソン島北端の町CLAVELIA①を目指した。ところが、3、4時間走ったところでがけ崩れの現場に遭遇。4、5日前の台風の影響らしい。当然バスはここまで。どうするか?聞けば、崩壊箇所の向こう側に乗り継ぎのバスが待っているとのことだった。
 バスの乗客は連れだって荷物を背負って崩壊場所を歩く。歩いていると、私より4、5歳若い純朴な感じの青年が話しかけてきた。ウィルペッドと名乗った。③
 彼は「自分の母親は日本人で、母親が喜ぶので是非自分の家に泊まってほしい」と言った。この後の予定は何もない。少し英語が話せるようになり、旅にも慣れてきた。「何でも見てやろう」精神で彼の言葉に甘えることにして、乗り継ぎのバスに乗った。
 彼の家は、クラベリアの手前のカマラガワンという小さな村にあった。そこでバスを降りた。彼の家に行って驚いた。家は屋根も壁も茅葺きの高床式住居だった。窓も茅葺きで、窓枠の上がロープで結ばれ、窓枠の下を支え棒で開け閉めする方式だった。ただ、高床式住居と言っても50㎡くらいの広さがあり、大きなリビングルームの外に部屋が2つあったように思う。その一部屋つまりウィルペッド君の部屋を私に提供してくれた。灯りはランプだ。
 母親は親切に迎えてくれた。小柄な人だった。日本人ではなかった。日本人とのハーフのようだったが日本語はほとんど話せなかった。
 夕食は潰したばかりの鶏の煮物とご飯だった。彼の家では大変なご馳走だったと思う。夕食が終わった頃、近所の老若男女が20数名訪ねてきた。目的は日本から来た客人の見物だ。車座になり、私は下手な英語を駆使して彼らと語り合った。昨夜の寂寥感はどこかへ飛んでいった。ヒッピー旅行の醍醐味に満たされた。日本を出てきて本当に良かったと思った。適当なものである。こんな具合だから宿泊代②はもちろん、食事代もタダだった。

11月1日(金)
CLAVELIA Free
カマラガワンを自転車で散歩する。この夜からまたもや風が強くなってくる。薬をくれとせがまれ、やる。フィリピンのど田舎で交通はストップし、人々は田舎独特の陰気な感じでなにか寝首をかかれそうな気になる。
いなかのいやらしさをしみじみ感じ台風吹きまくる中APARRIへの長い長い行動を起こす。②
<記憶>
 カマラガワン村をウィルペッド君と自転車で散策した。小学校に行き、校庭で土地の子供達とバスケットボールのまねごとをした。その後、砂浜を歩いた。静かな穏やかな村だった。
手帳からは悪意を色濃く感じるが、今思うと二晩を過ごしたカマラガワン村に悪い印象は無い。多分薬の一件が心に引っ掛かっていたのだろう。
 この日の夕方、近所の若い母親がウィルペッド君の家を訪ねてきた。子供が病気なので薬をくれないかということだった。旅は始まったばかりだ。これから何時薬が必要になるか分からない。薬をあげることには抵抗感があった。
「泊めてくれたギブアンドテークで薬かよ」という私のひねくれた思いもあった。とはいえウィルペッド君に免じて日本から持参した抗生物質を数錠あげた。
 このとき貴重に思えた抗生物質だったが、その後、半年間の旅でほとんど病気をしなかった。強いて言えば辛い物を食べ過ぎて痔になったのと、大量の南京虫に噛まれて熱を出したくらいだ。だから、結局抗生物質のお世話にならなかった。自分のけち臭さが恥ずかしい。
 カマラガワン村は、公共機関や商店などには勿論電気が通っていたが、田舎の村なので電灯の点っているところは限られていた。だから村は本当に暗かった。
 日中、村を散策していると、外国人をめったに見ない村の人たちから好奇の目を向けられ続けたことにも圧迫を感じた。
二晩を過ごしたカマラガワン村での経験は、濃厚で思い出深いものだ。だから悪意のこもった手帳の記述は理由はともあれ意外だ。カマラガワン村の皆さんゴメンなさい。
 翌朝、村を去るにあたり、ウィルペッド家に何かお礼をしなければと考えた。そして、日
本から携行してきた未使用のユースホステル用の筒状のシーツがあることを思い出した。マニラでヒッピー旅行者から聞いた話では、アジアを歩くのにこの手のシーツは全く役に立たないとのことだった。お母さんは喜んで受け取ってくれた。私としても必要の無い重い荷物を処分できることはありがたく一石二鳥だった。
 荷物をまとめ、ウィルペッド君と家を出たところ、前夜薬をあげた母親が巨大なバナナの房を抱えてやってきた。彼女は、薬のお陰で子供が良くなった。お礼にこれを持って行ってほしいと言った。驚いた。2、3本ならうれしいが、20~30本ほど付いた房なのだ。断る訳にもいかないし、ウィルペッド君にあげるのも失礼だ。結局、巨大なバナナの房を抱えてバスに乗り込んだ。バスの乗客は目を丸くしたり、ニヤニヤ笑ったりしていた。まるでバナナの行商人だ。しかも見知らぬ外国人の。
 バナナの一件は心中にわだかまっていた違和感や疑心をすっきりと洗い流し、感謝の気持ちで胸が熱くなった。私は自分の狭量を痛切に恥じた。
 手帳には「台風吹きまくる中APARRIへの長い長い行動を起こす」と書いているが、出発したのは勿論翌朝だ。この夜、ウィルペッド君に明朝出発することを告げ、ベッドの中でまだ見ぬアパリへ思いを馳せていた。

11月2日(土)
APARRI① LACASA ROYAL HOTEL 8
気の良いモスキートスプレー売りのおっさんに会い大いにおだてて一本もらう。非常に重宝な酒も飲む。② 輪タクに乗ると良い。③
<記憶>
 カマラガワンからバスに乗り、ルソン島北端の海岸線を東に向かう。地図ではハイウエーと記されているが砂利道だ。名ばかりハイウエーはアパリまでつながっているように記されていた。バスもアパリ行きだった。しかし、実際はカガヤン川西岸で道は行き止まりになる。カガヤン川は大河で橋が架かっていない。バスを降りて、渡し船に乗る。15分ほどで対岸に到着した。そこがカガヤン川の河口に開けた港町アパリだ。
 船を降り、誰かにホテルの場所を尋ねて、そこまで歩いて行った。ただ、距離が相当あり、しかも暑い中を歩いたので、輪タクを使えば良かったという反省の弁を書いたと思う。③
 ホテルのロビーに防虫スプレーのセールスマン氏②がいた。セールスマン氏と、彼のビジネスの話、私の旅の話、日本の話などに花が咲いた。彼は野心家だが茶目っ気のある好人物だった。
「一本」とはたばこのことだ。当時私はたばこを吸っていた。当時の発展途上国ではたばこを箱で買うことはまれで普通は本数で買うものだった。だから1本のたばこでも贅沢品なのだ。しかし、彼は気前よくたばこを勧めてくれた。ビジネスが上手く行っており景気が良かったのだろう。その勢いで酒までご馳走してくれた。
 彼に限らずフィリピンの男達は皆フレンドリーで気前が良かった。食堂に行ったり、ホテルのロビーにいると、大抵誰かが声を掛けてきて気前よくサンミゲルビールを奢ってくれた。貧乏学生とはいえ日本人の私の方が金を持っていたはずだが、こちらがお金を払おうとしても頑として受け取らなかった。
 日本を離れるとき、フィリピンは第二次大戦の後遺症から対日感情が悪いと聞かされていたが、一度も嫌な眼に遭わなかった。ちょっとやんちゃだが茶目っ気のあるフィリピンの男達を思い出すとついニヤリとしてしまう。
 ところでバナナの房の件だが、これを抱えてホテルまで長く暑い道のりを歩いた。結局、自分用に5本ほど確保し、残りは全てホテルのスタッフにプレゼントした。スタッフは特に喜びもしなかったが、一応は受け取ってくれた。せっかくの頂き物は無駄にならずに済んだ。

11月3日(日)
TOGEGARO① RAVADIA HOTEL 6
ここで大地主と会う。② ジンを飲むがバナナを食い過ぎてジン入らず残念。③
<記憶>
 アパリに1泊して、翌朝カガヤン川沿いのハイウエー(もちろん砂利道)をマニラに向けて南下した。最初にたどり着いた比較的大きな町がトゥゲガラオ①だった。
 この頃になるとホテルを探すのが上手くなっていた。難なく町一番と思われるホテルを見つけた。少々古いが立派な構えの木造二階建てだった。一階ホールの奥には二階に上がる階段が左右に別れていた。階段を上りきると回廊になっていた。回廊からは手すり越しにホールを見下ろすことができた。西部劇に出てきそうな雰囲気があった。
ホテルの一階ホールの左奥にレストランがあった。せっかくなのでここで夕食を取ろうと入ってみた。恰幅の良い白髪の初老の男性が中程のテーブルに座っていた。横に若い女性が二人立っており、3人でしゃべっていた。一人は飛び切りの美人だった。
 彼は私を見るなり「こっちに来い」と声を掛けてきた。名前はカストロと名乗った。「どこから来た」「日本からです」「何者だ」「学生です」・・・そして一緒に飲もうということになった。
 彼はこのホテルの常連だった。女性二人はホテルのスタッフだった。彼は女性の一人にジンを持って来るよう命じた。そして二人を横に侍らせ、酒盛りが始まった。つまみは大皿にてんこ盛りの茹でエビだった。新鮮で美味かった。ジンも美味かった。ただ、残念なことにバスの中でバナナを食べ過ぎていた。美味しいエビもジンもあまり入らなかった。
 それでも、カストロ氏とはエビをつまみにジンを飲みながらいろいろと話した。カストロ氏は農場主だった。住居はマニラ郊外のケソンにあると言うことだった。
 今日はトゥゲガラオに泊まっているが、明日、バヨンボン(トゥゲガラオから比較的近い)にある自分の農場に行くという。折角の機会だから一緒に俺の農場に行こうと誘われた。この先も特に目的地はない。7日までにマニラに戻れば良いだけだ。喜んで同行することにした。
 ところで、飛び切りの美人についてだが、フィリピンはスペイン人の血が交じっているためか、たまに得も言われぬ美人を見かけることがあった。このホテルのスタッフは皆そこそこ可愛いかったが、その中の一人は群を抜いていた。彼女たちは皆愛嬌があったが、多分まともなスタッフだったのだろう。この夜も何もなかった。何もって何が??

11月4日(月)
BAYONBONG① J’ms HOTEL 6
ホテル代以外タダ。②SOLANOにバスターミナルがある。③
PANTRNCO~~BAYONBONG~~SOLANO~~BAGABAG~~ TOGEGARO④
<記憶>
 カストロ氏と一緒に、バスでハイウエー?を南下しバヨンボンまで来た。バヨンボン①はひなびた田舎町で、ここにカストロ氏の農場があった。バス停まで農場のスタッフが迎えに来た。
農場に着くと、農夫が30名ほど集められており、カストロ氏の訓示のあと、私を日本から来た学生だと紹介した。彼は得意そうだった。富豪のカストロ氏が日本の貧乏学生を従え漫遊する構図だ。農場の人たちは物珍しげに私を眺めていた。拍手してくれたどうかは覚えていない。居心地が悪かったことと、農夫の背後に広がる農場の緑と濃い空の青さだけは覚えている。
 カストロ氏はこの日飯と酒を奢ってくれた。②富豪となったカストロ氏にとっても、日本の貧乏学生を引き連れての旅は気分の良いものだったと思う。太鼓持ちになったようで居心地は悪かったが、フィリピンの大農場を見学するという珍しい体験をさせてくれたことに感謝している。
 バヨンボンに一泊して、翌日棚田で有名なバナウェに行くことにした。バナウェはルソン島では有数の景勝地であり観光地だった。ただ、バヨンボンからバナウェ行きのバスは出ておらず、少しトゥゲガラオ方面に戻ったソラノ②という町からバスが出ていた。
 一方、カストロ氏からはマニラまで一緒に帰らないかと誘われていた。まるで太鼓持ちだなと屈折した思いはあったが、貧乏旅行者の身で飯、酒付きというのは魅力的だった。そこで、明後日バナウェからバヨンボンに戻ってカストロ氏と合流することにした。
 手帳には、このような順路④が記されていた。勿論、これらの町の記憶はない。しかし、道中、バスの中や休憩時の茶店でバスの乗客たちと他愛のないおしゃべりを交わしたこと、再三悪路で立ち往生して、皆で泥だらけになりながらおんぼろバスを押したことは覚えている。思い返すと今でも笑みがこぼれる。みんなフレンドリーで茶目っ気のある人たちだった。

11月5日(火)
BANAWE 20 2食付き①
たいした事なし。日本人女史に会い不愉快。道路最悪、行かない方がよい。
<記憶>
 バナウェはルソン島北部の最深部の急傾斜地一面に棚田が貼り付く景勝地だ。
 バナウェまでの道のりは遠く、しかも悪路が続く。乗り物はトラックの荷台にイスを溶接したようなバスといも言えない代物。これが、無舗装の凸凹道をガンガン走る。脳みそが崩れるのではないかと思うようなガタガタ道が続き、時に大きくゆられ谷底に落ちそうになる。そんな難行苦行の末にたどり着いた先が、壮大な棚田群だった。期待が大きかった分ガッカリ感も大きかった。山地率の高い日本に住む日本人にとって棚田はさほど珍しいものではない。だから、壮大さに驚きはしたが、さほど感動はしなかった。
 そんなバナウェに学術的な研究のため滞在している日本人女性がいた。彼女のことはよく覚えていないが、上から目線で軽蔑的な態度を取られたように思う。私は相当頭に来たのだと思うが、彼女にしても愛するバナウェをコケにしたのだからお互い様かもしれない。
 ホテル名を書いていないが、多分山の上のゲストハウスのようなものだったと思う。飯付きで20ペソは少々高かった。

11月6日(木)
SANJOSE① 
バス待合所で仮眠し問題外。CASTROのオッサンといるとすべてが裏目裏目と出て本当に不運なオッサンである。②
<記憶>
 奥地バナウェから幹線道路沿いの町ソラノに出て、バスを乗り換えてバヨンボンに行き、カストロ氏と合流してマニラに向け南下した。
 あの頃は、首都のあるルソン島の幹線道路でも、道路にハイウエーと名前が付いていても、実際の道路は劣悪だった。だから、バスが時刻表通り走ることは最初から期待できない。遅れがどの程度で済むかという問題だった。
そんな具合だから、私はサンホセよりも手前の町で一泊することを提案した。しかし、カストロ氏はサンホセまで行くことを主張した。太鼓持ちの私は仕方なくそれに従った。
 案の定、我々の乗ったバスは遅れに遅れ、サンホセに到着したのは真夜中だった。宿を探すのも苦労だ。結局バス待合所で仮眠ということになった。「だから言ったじゃない」腹は立ったが、太鼓持ちの身で文句は言えない。仕方なく手帳に怒りをぶつけた。

11月7日(木)
YSTAPHIL 10
日本に荷物を送る。
<記憶>
 早朝、サンホセからマニラ行きのバスに乗った。もちろんカストロ氏も一緒だ。道中の記憶はない。多分ほとんど眠っていたのかもしれない。覚えているのはマニラ首都圏に入ったころ、バスの中にポールマッカートニーとウィングスのバンドオンザランが繰り返し流されていたことだ。今もこの曲を聴くとあの時のバスから見たケソンとマニラの町並みを思い出す。
 カストロ氏はマニラ手前のケソン市の閑静な一角でバスから降りて行った。ようやく太鼓持ちから解放された。
17日間のルソン島北部を巡る旅を終え、マニラに戻ってきた。10月19日に日本を出発してから20日が経過していた。
大阪伊丹空港発のJAL便でマニラに到着したとき全く喋れなかった英語は文法はともかく旅行に支障を感じない程度に上達していた。安い宿の見つけ方、食事の注文の仕方、値段の交渉など貧乏旅行に必要なスキルも身についた。
 20日前、空港からマニラ市内に入り、バス停に降り立ったとき、あれほど悪そうに見えたフィリピンの人たちは、今ではみんな気の良い庶民たちだ。たった20日のルソン島の旅だったが私は多くの経験をした。私が出会ったフィリピンの人たちは、ほとんどが貧しい人たちだったが、皆屈託がなく、お茶目で、時に気前が良かった。
 フィリピンを最初の訪問国としたのは全くの偶然だったが、幸運だった。フィリピンはアジアを旅する私に旅の醍醐味を教え、優しく鍛えてくれた。決して豊かではないが、お茶目で、暖かいこの国が私は大好きになった。ありがとうフィリピン。
 荷物のことだ。ルソン島北部の旅では、日本で買いそろえた旅の道具一式を巨大なキスリング(リュックサック)に詰め込み、背負って旅した。
 旅をする間に、絶対に必要な物、無くて良い物が明らかになった。2/3が無くて良い物だった。無くて良い物の一つユースホステル用のシーツは、カマラガワンのウィルペッド君の家に置いてきた。そして、それ以外の物をキスリングに詰め込み日本に送り返すことにした。
 残った1/3の荷物は、Tシャツが2、3枚、パンツが2、3枚、長袖シャツ2枚、洗面道具、タオル、筆記用具、それに現地で買った安いペラペラの毛布くらいのものだった。トラベラーズチェックとパスポートと時計とカメラ以外盗まれそうなものは何もなくなった。
 ホテルの近く、小さなバッグ屋の軒先につるされていたモスグリーンの背嚢のような小ぶりのバッグを買った。そして、これらを詰め込んだ。
 英会話と旅のスキルはある程度身に付いた。要らない荷物は全て処分した。準備万端。さあ、明日は二番目の国タイだ。

11月8日(金)
フィリピン→タイ
Thai Song Greet Hotel 35 シャワーなし
タクシーぼられる。女を買うが病気が怖くてできず。

2番目の国タイは魅惑の国。旅に慣れ心にゆとりができた私を堕落と退廃が襲う。

第2章 タイ 1974年11月8日~12月1日

11月8日(金)
Thai Song Greet Hotel 35 シャワーなし
タクシーぼられる。女を買うが病気が怖くてできず。
<記憶>
 夕方近くに飛行機がバンコク空港に到着した。そのとき、私はバンコクの地図も観光案内も持っていなかった。バンコクに関する情報といえばヒッピー旅行者から聞いた「バンコク駅の周辺に安宿が沢山あり、中でも南洋旅社がおすすめ」ということくらいだった。そこで、とりあえずバンコク駅に向かうことにした。
空港を出ると外は暗くなっていた。市内向けの公共交通機関に関する情報は持っていなかったし、ましてバンコク駅にピンポイントで行ける交通機関を見つけることは至難の業と思えた。仕方がないのでタクシーを使うことにした。タクシーの運転手にはバンコク駅まで行くと言い、乗る前には運賃の交渉をした。乗ってから駅近辺の安いホテルを知っていたらそこで下ろしてくれと頼んだ。
タクシーがバンコクの街中に入った頃は完全な夜の佇まいになった。道の両側は店が並び、店内の灯や看板が光を放っている。マニラに比べると随分明るく感じる。そんな通りを右に曲がり左に曲がりして走り続ける。そろそろ到着しても良いように思うがなかなか到着しない。まさか変なところに連れて行かれて、身ぐるみ剥がれて、なんてことにならないだろうかと心配し始めた時、タクシーが道路端に車を寄せた。賑やかな大きな通りだった。運転手が指さす先に食堂が見えた。運転手はここがホテルだと言う。よく見ると食堂の入り口の上に○○旅社タイソングリートホテルと書かれていた。
タイのこの手の安宿は華僑が経営しており、漢字では「○○旅社」と書かれていた。この旅社は1階が食堂で、奥に帳場があり、その奥に階段があって階上に上るような造りになっていた。食堂の2階以上がホテルという訳だ。このホテルの宿泊代は35バーツだった。シャワーは共同だ。当時1バーツ15円くらいだったから一泊500円くらいか。フィリピンより若干高めだ。バンコク駅近くの便利な場所にあり、価格も比較的安いのでこの辺りの旅社をヒッピー旅行者たちが愛用するようになったようだ。
そんな訳で1階の食堂には現地人に交じってヒッピー旅行者もたむろしていた。その中の一人にタクシーの値段を確かめてみた。やはり若干高く払わされていたようだ。用心したつもりだったが、早速洗礼を受けた。
この辺りの旅社にはもう一つ特徴がある。売春宿を兼ねているのだ。私の部屋は3階だったと思うが、同じフロアの1室のドアの前に若い兵隊が一人立っていた。ヒッピーに聞いたら中で上官が奮闘中で、その間ドアの前で護衛しているとのことだった。
宿のオヤジは当然私にも女を勧めてきた。据え膳食わぬは男の恥。タクシーにはボラれたが、バンコク最初の夜だ。たまに羽目を外しても良いだろう。オヤジにオッケーした。しばらくして女が部屋にやってきた。おどろいた。まだ小娘なのだ。年の頃なら14、5歳か。歳の割には初々しさはなく隠微な影を宿してはいたがそれでも子供だ。困った。こんな子供やっちゃって良いのだろうか?相手は金さえ貰えれば何も問題はないはずだが、良心というのではないが何とも複雑な思いがした。病気のことも頭をかすめた。
とはいえ乗りかかった船だ。今更止めるとも言えず、本番に取り掛かった。ところが・・・・出来ない!!出来ないのだ。○○が大きくならないのだ!!どうした?!何故だ?!
少女はYou can'tと明け透けに言い放つ。焦れば焦るほどダメだ。結局出来ず仕舞いだった。少女にはしかるべきお金を払った。少女は慰めるような言葉を掛け、部屋から出て行った。
長旅の疲れか?タイ最初の夜の緊張感か?良心の呵責か?病気への恐怖か?理由は大体そんなところか。いずれにしても23歳の青年にとって極めてショッキングな出来事だった。 
思えばこの日は誕生日だった。目出度いはずの誕生日になんということか!この一件から「今度もし出来なかったらどうしよう」という愚かな心配が胸の奥に棲み着くようになり、しばらく女を買う気になれなかった。

11月9日(土)
Thai Song Greet Hotel 
南洋旅社見つからず。しかたがなくここに滞在。することなくカバンを修理する。夜日本人大野氏に会い翌日新華南峰にうつることとなる。 
<記憶>
 この宿は、繁華な大通りに面していたため騒音はひどかったが、ほどほどに清潔で居心地は悪くなかった。また、1階が食堂というのも便利ではあった。
しかし、昨夜の娘の一件もあって、できれば話に聞いていた南洋旅社に移りたかった。そこで周囲を歩き回り、ヒッピーの何人かに尋ねてみたが南洋旅社を見つけることはできなかった。
カバンの修理と書いているが、マニラで買った背嚢のようなリュックサックに手を加えたのだ。
話はこうだ。安宿はベッドの上掛けを置いていないところが結構ある。仮に置いていたとしても何時洗濯したのか分からないような代物が多い。暑い東南アジアでも夜は上掛けが欲しいことがあるし、腹くらいは掛けて寝たい。そこでフィリピンで毛布を買った。勿論安物のペラペラだ。だが、そのペラペラ具合が東南アジアの夜には丁度良かった。
この毛布を持って歩くことになるのだが、薄い毛布とはいえリュックには入らない。取りあえずリュックの口ヒモを閉めてから、その上に丸めた毛布を乗せ、上からリュックの上蓋をきつく締めて固定し、バンコクまでやってきた。
しかし、上蓋では安定が長続きしない。徐々に毛布が左右どちらかにズレ、落ちそうになった。そこで、太めのヒモを調達して、リュックの底4カ所に4~50cmほどのヒモを縫い付け、ヒモで毛布を縛り付けることを思い着いたのだ。そして、この日の日中はヒモの調達を兼ねたバンコク駅周辺の探検に充てることにし、夕方、晩ご飯までの空いた時間にリュックの底に手縫いでヒモを取り付けた。
裁縫を終え、1階の食堂に下りて行くと日本人旅行者が食事をしていた。互いに自己紹介し一緒に食事をした。それが大野さんだが、彼の宿は新華南峰旅社と言いこの近くだと言った。この宿より静かで快適なようだったので、食事の後彼の宿を見に行った。裏通りの静かなところにあり、値段は同程度だが部屋にシャワーが付いていた。宿の者に聞けば部屋の空きがあるというので、翌日移ることにした。

11月10日(日)
新華南峰旅社 40~35
バーント君に会う。
【手帳の空欄にバンコク駅(手帳には現地人に倣いクルンテープ駅と記している)周辺の略図が書いてあり、そこに新華南峰旅社と南洋旅社が記されている】 
<記憶>
 タイソングリートホテルを引き払い新華南峰旅社に引越してきた。昨日散々歩き回って見付けられなかった南洋旅社も簡単に見付かった。新華南峰旅社のすぐ近くの路地を入ったところにあった。
部屋で洗濯を済ませ、廊下に出ると欧米系の若者が廊下の壁沿いのベンチに座り、ホテルの若い衆と何やら話をしていた。挨拶をし、互いにこれまでの行程を紹介し合った。彼はオーストラリアからタイに来たところだった。ドイツ人で名前はバーント君と言い私より1歳下だった。長身で髭をたくわえ、最初は厳つい感じがしたが、話してみるとほどほどに真面目でほどほどにくだけており、何となく気が合いそうだった。彼とはバンコクで数日行動を伴にし、その後別行動をしてインドで再会し、また別行動をしてスリランカで再開するといった具合で、結局一番長く行動することになった。バーント君はこの旅で最も記憶に残る友人の一人となる。

11月11日(月)
新華南峰旅社 シャワー付き40 まずまず清潔。
キックボクシングを見る。
<記憶>
 日中、バーント君と弥次喜多道中をする。何処をどう歩いたか覚えていない。夕方、ルンピニスタジアムにキックボクシングを見に行った。
 観客の大半は現地の人たちだが、旅行者も数人いた。日中、バーント君と欧米人は欧米人の国籍を見分けられるか?アジア人はアジア人の国籍を見分けられるか?というような話で盛り上がった。彼は見分けられると自信満々だった。
試合が始まるまで少し時間があった。バーント君は観客の中に欧米系の若者を見つけ、彼は○○人に違いないと言った。私も当てずっぽうで△△人だと言った。バーント君は勇躍若者の席に行き尋ねて戻ってきた。どうだったと聞くと△△人だったと正直に答えた。バーント君は本気でしょげていた。面白い奴だ。
 場内に緊張感が高まり試合が始まった。緊張感が失せたと思ったら、一気に異様な熱気と興奮に包まれた。とはいえ、試合はまだ前座の前座だ。素人の私が見ても技のキレなどなく、むしろ退屈なくらいだ。しかし、熱気と興奮は不釣り合いにすごい。すぐに理由が分かった。博打だ。何回にどちらが勝つかを賭けているようだ。試合が終わるごとに、若い衆が賭けの紙の回収に走り回っていた。熱くなるはずだ。
最初のうちは試合内容が物足りなく、賭けない我々はあまり楽しめなかった。しかし、たまにめっちゃ強そうな奴と素人に毛の生えたような奴が戦い、素人の方が意外に善戦すると、つい判官びいきで素人の方を応援し楽しんだ。また、試合の合間にトイレに行くと隣に試合前のボクサーが緊張した面持ちで用をたしに来ており、当然そのボクサーを応援した。
勿論、メインイベントに近づくにしたがいテレビで見たようなキックやパンチが繰り出されるようになり、これをリングサイドに近いところで見るのだから迫力満点だった。
ただ、試合そのものはあまり覚えていない。むしろ、湿気の充満した薄暗いスタジアムのど真ん中、煌々とライトに照らされたリングの上で、粘り着くようなタイの音楽に合わせて踊るボクサーの姿が今も心に残っている。

11月12日(火)
ブラブラゴロゴロ。インド大使館に行きビザ申請。
<記憶>
 フィリピンで芽生えたインドへの思いはタイに来てさらに強くなった。食堂やホテルでヒッピー達と話せば大抵はインドの話に落ち着いてしまうからだ。となるとまずはインドのビザを取らなければならない。
ヒッピー達の話では、インドの観光ビザは簡単には取れないとのことだった。つまり、十分な旅行費用を持って高級ホテルに泊まるような観光客は大歓迎だが、我々のような貧乏旅行者にはあまり来て欲しくないということだ。だから意外とハードルが高い。
また、東京のインド大使館でビザを申請すればさほどハードルは高くなかったと思うが、タイのような外国に駐在する大使館で申請しようとすると結構面倒なのだ。
その日は朝から英語の勉強をした。インドに入国する目的を英語で説明する必要があるからだ。「私は日本の学生であるが、以前からインドの文明、文化に興味を持っており、貴国には深い尊敬の念を抱いている。現在、大学の休暇を利用してアジア諸国の文化を学ぶ旅をしており、この機会に尊敬するインドを訪れ、貴国の文化を深く理解するとともに貴国の人と直に接し、日本とインドの友好に尽したいと思っている。ついては、貴国への訪問を是非ともお認め頂きたい」といった文章を、辞書とにらめっこして綴り、暗記した。
この日の午後、持っているシャツの中で一番真面目そうなものを着てインド大使館に赴いた。ビザの申請書類に名前や生年月日、パスポート番号などを記入し、渡航目的を書く欄には、あらかじめ用意しておいた文章をスラスラと書いた。
少し微笑んで、内心相当緊張した面持ちで窓口に書類を提出した。担当官からいくつか質問された。しかし、渡航目的、旅行の予定地、持参している金額など聞かれそうなことは想定問答が功を奏して、真面目な学生を演じきることができた。案外スムーズに書類を受け取ってもらえた。インドへの門が開かれた。

11月13日(水)
新華南峰旅社
タイ大丸で本3冊購入。
<記憶>
 バンコクで一番おしゃれな界隈に大丸が鎮座していた。日本の商品も多数並んでいた。日本を思い出し、ちょっと懐かしくなった。日本語に飢えてきたところだったので、一瞬ためらったが思い切って本を買った。当然どんな本だったか覚えていない。
 大丸の一階にアートコーヒーがあった。明るい店内は高級感が溢れていた。日本のアートコーヒーよりもハイソな感じだった。コーヒーを飲みながら買ったばかりの本をパラパラとめくった。久しぶりに優雅な午後の一時だった。勿論コーヒーの値段は街場で飲むものとは雲泥の差だ。本といいアートコーヒーといい少し贅沢が過ぎた。
 確かこの日か前日だったと思う。夕方、同じホテルに泊まっていた日本人が部屋を訪ねてきた。大○でもやらないかと言う。ヒマをもてあましていた私にとって渡りに船だ。良質な大○だった。バンコク駅を発着する列車の音がどんどん大きくなり、列車の形になって頭の中を通過して行った・・・日本人の輪郭が徐々に変形し、私の輪郭になって私の身体に重なり、私の輪郭が徐々に変形して日本人に重なった・・・突然、奈落の底に落ちた・・・落ち続けた・・・急に身体が浮いた。私は宇宙を泳いでいた、蛍光色の宇宙だ・・・目が覚めた。日本人は「良いだろう」と言った。「良い」と答えた。日本人は「阿○はもっと良い。今度は阿○をやらないか」と言った。「阿○は遠慮する。大○で十分だ」と答えた。あの日本人はあの後日本の土を踏めたのだろうか、今も生きているのだろうか。歳は私と同じくらい青白い端正な顔をしていた。勿論名前など覚えていない。

11月14日(木)
新華南峰旅社
インド大使館に行く。16:00 30min①
<記憶>
 めでたくビザを取得。一仕事終えた。これで安心してタイ旅行が楽しめる。明日はチェンマイだ。
「16:00 30min①」の意味は不明。大使館に出向いた時刻と拘束された時間だったのか?もしくはチェンマイ行きの電車の発車時刻だったのか?発車時刻だとすると30minの意味は何だろう?

11月15日(金)
SRI LANNA HOTEL 30下
チェンマイSt.の近く。午後からホテル探し。
バンコク→チェンマイ78Bht rapid 急行より上 
<記憶>
 バンコク中央駅からチェンマイまでは鉄道で行った。ラピッドだから特急列車のようなものか。ただ、何故か車窓からの風景やチェンマイ駅の佇まいなどの記憶がない。鉄道好きの私としては不思議だ。夜行で外がよく見えなかったのか、早朝発でほとんど車内で眠っていたのか。いずれにしてももったいないことをした。
 チェンマイ駅には多分夜遅く着いたのだろう。駅近くで取りあえず宿を見つけたと思う。だから宿のことは全く記憶がない。「下」と書いてあるので印象は悪かったのだろう。

11月16日(土)
KOTCHA] SARN HOTEL 30中 シャワートイレ付き
終日ガン○○ガン○○
<記憶>
 前日、チェンマイ市内を歩いて見つけたこのホテルは、街の中心部にありながら比較的閑静な趣があった。ホテルは運河沿いの通りに面し、通りには大きな街路樹が列をなし長い陰を作っていた。通りに面した一角にはウッドデッキのテラスがしつらえてあり、テーブルを並べて食堂として使われていた。
木陰が暑さを和らげ、優雅な気持ちで食事ができた。テーブルには唐辛子が詰まった酢が置いてあり、朝食にチャーハンや麺類を食べるときにこれを振りかけたことを覚えている。
記憶は定かではないが、壁にうすい青か白のペンキが塗られた涼しげな部屋だったような気がする。どこで仕入れたか覚えていないが良質の大○が手に入ったので、食事を取るときを除いて朝から晩まで大○に浸っていた。アホである。

11月17日(日)
KOTCHA] SARN HOTEL
チェンマイ娘に親切にされるが、ホテルにいると思い大いに気を悪くしガン○○、ガン○○、ガン○○、ガン○○、ガン○○(文字が乱れており何とか判読)
<記憶>
 この日のことはあまり思い出したくないが、かなり正確に覚えている。
前日の大○まみれを反省し、今日は真面目に見聞を広めようとチェンマイの観光スポット巡りを開始した。冒頭か2番目かに訪れたお寺の境内で一人の娘さんから声を掛けられた。互いに自己紹介をし、会話が始まった。
彼女はチェンマイの学生ということだった。会話の中身は覚えていないが、何を学んでいるか、大学生活はどのようなものか、休暇の過ごし方など真面目な話題が多かったと思う。
かなり長い間会話した後、彼女からどこか行きたいところは無いかと問われたので、お勧めの観光スポットに連れて行って欲しいと答えた。
そして、連れて行ってくれたところはチェンマイ郊外の山の上のお寺だった。境内からの見晴らしが良かったことを覚えている。拝観し、眺望を楽しんだ後市内に戻ってきた。お寺への行き帰りは同じタクシーを使った。市内に着いてお金を支払うことになり料金を聞くと、想像していたより遙かに高い金額だった。
「だ、だまされた!そうか、この娘とタクシー運転手はグルで、法外なタクシー代をだまし取ることを企んでいたのか!」怒りがこみ上げてきた。請求されたお金を払い、「もう沢山だ!いい加減にしろ!」言い捨ててその場を離れた。娘は呆然としていた。何故突然怒りだしたのか理解できないという感じだった。「よくそんな顔ができるな。俺はだまされないぞ」腹の虫が治まらなかった。
ホテルに戻って、山のお寺までのタクシー代の相場を聞いた。請求額と同じ位だった。全くボラれてなどいなかった。バンコクに来て、いろいろな場面で何度かボラれたり、ボラれそうになっていたので、神経が過敏になっていた。彼女は遠く日本からやって来た学生と真面目に親善交流をしたかっただけだ。タクシー運転手も真っ当に料金を請求しただけだ。
ショックだった。自分の思慮の浅さ、思い込みの激しさを悔いた。悔いても悔い切れない。情けなかった。申し訳なかった。親切を仇で返してしまった。彼女の心を傷つけた。芽生え始めた日タイ親善に傷をつけた。どうすれば良いか。彼女に会ってわびるにしても名前はともかく住所は聞かずに怒って別れてしまった。どう仕様もない。
耐えきれず、大○に逃げた。大○のお陰で心の痛みは徐々に薄れていく・・・・大馬鹿者だ。そんな具合で手帳に書かれた文字も文章もグダグダだ。

11月18日(月)
KOTCHA] SARN HOTEL
ワットプラタートに行く。40Bht。非常に高いのだ。あほらしくてその後ガン○○。
<記憶>
この辺りのことはほとんど記憶がない。ただ、読んでいて恥ずかしくなるくらいお金に汚くなっている自分がいた。多分タイに来てからボラれたり、ボラれそうになることが多すぎてかなり神経過敏になっていたのだろう。それにしても、直ぐに大○に走るというのが本当に情けない。
 
11月19日(火)
KOTCHA] SARN HOTEL
朝ブラブラしているとバンコクで会った日本人に会い豆腐を食う。その後アゲを食って大感激。
<記憶>
 この辺りの記憶もない。豆腐を食ったくらいで喜んでいる自分が情けない。特に書くべきことが無かったのだろうが、小者だな。

11月20日(水)
JEEB HOTEL 
バンコク9時につく。最悪、新華南峰、南洋ともに満員。
<記憶>
 チェンマイから夜行便で戻ってきた。まずは南洋旅社を当たってみたが満室。なじみの新華南峰旅社も満室。「最悪」とは落ち着いた先のこのホテルの居心地が悪かったからだろう。

11月21日(木)
JEEB HOTEL 最悪
朝、Thai Song GreetでBernd氏に会う。
TVトラベルに行きその後ガン○○を少し。
<記憶>
 また最悪と書いてある。よほど気に入らなかったのだと思うが、このホテルのことは何も覚えていない。
朝食を食べになじみのタイソンに行った。新華南峰旅社で知り合ったバーント君が食事していた。彼はバンコクを拠点にあちこち回っているようだった。
ヒッピー仲間とは、こんな具合に安宿で顔見知りになって、別れ、偶然別の場所で再会し、また別れ、また再会する。このようなことがよくある。そして役に立ちそうな情報を交換し合うのだ。
TVトラベルは、バンコクの中小旅行代理店の一つで安いエアチケットを売っていた。この代理店を知ったのもヒッピー仲間のお陰だ。この代理店でバンコク発カルカッタ行きのチケットとバンコク発東京行きのチケットを買った。カルカッタ行きはタイインターナショナル航空の日付の入ったチケットで東京行きはパキスタンインターナショナル航空の日付の入っていないオープンチケットだった。オープンの方は、有効期限が3月末だった。つまり3月末までにバンコクに戻って来れば東京まで帰る命綱を確保したことになる。これで一安心だ。
 「その後ガン○○を少し」とは何ということか!?本当にアホである。これじゃ「今時の若者は」などと偉そうなことは言えない。

11月22(金)
HUAHIN RALUG HOTEL 
まあまあ。痔核悪化。Tatures①のVaccinationを受ける。
<記憶>
マレー半島をシャム湾沿いに南下して海沿いの保養地ホアヒンにやってきた。長距離バスを利用したような気がするが、鉄道だったかもしれない。
バンコクに近い海辺のリゾートとしては、ホアヒンよりもパタヤビーチの方がメジャーだった。パタヤはシャム湾の東側にあり、ホアヒンとは湾を挟んだ対岸に位置していた。パタヤは歓楽的な要素が強く多くの日本人観光客が訪れていたので、パタヤは避けることにした。方やホアヒンはタイ人御用達の色彩が強く静かな保養地という佇まいだった。
街は2本の大きな通りがほぼ並行して走り、ここに商店やレストランが立ち並んでいたが、2本の通りが徐々に近づき1本になった辺りから賑やかさが薄れ、そこを左に折れて少し歩くとビーチに出た。ビーチはリゾート地というより地方の海水浴場のような佇まいで、オフシーズンなのか人影がまばらで静かだった。
バンコクの喧噪から解放され、穏やかな気分に浸るはずだったが、連日辛い物を食べ酒を飲に続けた報いで痔が悪化していた。思う存分酒が飲めず、辛い物も御法度ときては今ひとつ元気が出なかった。
手帳にTatures①と書いてあるが意味不明。ただ、インドとネパールに行くので、狂犬病の予防接種をした覚えがある。何故、ホアヒンで予防接種を受けたのか疑問だが、酒もあまり飲めないので暇つぶしを兼ねて受けたのだろう。

11月23(土)
HUAHIN RALUG HOTEL
バストイレ付きだが水の出ない時がある。部屋は広いし、建物は古いがリゾートホテル風でなかなか良い感じ。
<記憶>
ホテルは2階建てで、私の部屋は2階にあった。ホテルには広い中庭があり、2階の外廊下が中庭に面していた。庭に大きな木が3、4本植わっており、心地よい木陰を作っていた。木には私がそれまで見たことのない実を着けていた。大きさはイチジク位、ハンドベルのベルのような形で、緑がかった白い色をしていた。ボーイに聞けば食べられるというので早速食べてみた。味も舌触りもリンゴのようだった。2階の外廊下から手を伸ばせば簡単に採れたので、小腹が空いたときなど何度か頂いた。
部屋は質素な造りだったが白壁で清潔感があり、リゾートホテルの感があった。スタッフの対応ものんびりしていた。
このホテルのすぐ近くにホアヒンホテルという由緒正しそうなホテルがあった。広い芝生に丁寧に刈り込まれた樹木が整然と並び、奥の方に車回しのある白い豪華な建物が見えた。粗末な身なりで中に入れば一瞬にして追い払われそうな威厳があり、入ることはなかったが、このリッチなホテルを眺めながら街に食事に出かけるとき気持ちは少し優雅になった。

11月24日(日)
HUAHIN RALUG HOTEL
痔の薬を買う。終日ホテルでごろごろ。痔良くならず情けなし。この日一日で黒い森林完破。
<記憶>
 痔の調子が一向に良くならないため、折角のリゾート地を存分に楽しめない。仕方がないので、効能がありそうなメンソレータムを買って塗布することにした。何となく良くなるように感じたが、期待したような効果はなかった。
 出かけるのが億劫になり、部屋で読書三昧ということにした。本はバンコクで仕入れた井上光晴の黒い森林だったが、どのような内容だったか勿論覚えていない。

11月25日(月)
Sri Hualumpong Hotel
新華南峰旅社 4時頃バンコク到着。痔と便秘の薬を買う。ノートとメモ購入。
<記憶>
午後バンコクに戻った。痔が一向に良くならないので塗り薬と飲み薬を買った。便秘していたことは覚えていないが、便秘も痔の原因だったのかもしれない。
思い返せば日本に帰るまでの約半年間一度も下痢をしなかった。あの頃のアジアで毎日大衆的な食堂か屋台で食事をし、現地人と同じ水を飲んで過ごしたにも関わらず一度も腹を壊さなかったのは奇跡的だ。快挙と言えるかもしれないが、乞食腹にも程があるので少し恥ずかしい気もする。
旅を始めて一月半ほど経ち、気持ちに余裕が出てくると旅の徒然を書きたくなった。そこでノートを買うことにした。このノートに書き綴ったものが紀行文の一部になっている。また、携行してきた第一勧銀の手帳のメモ欄が満杯になったのでメモ帳も買った。

11月26日(火)
新華南峰旅社
SRI LANKAembassyに行って断られる。その後、タイ大丸へ行き、おくれてきた青年とジャーナルを買う。その後コーヒーを飲む。4Bht。その後エクソシストを見たのだ。
<記憶>
 インドに渡ったら南下してスリランカ(セイロン)まで足を伸ばそうと思い、ビザの申請に大使館に行ったようだが、この辺りの記憶がない。ビザの申請をあっさり断れたので印象が弱いのだろう。何故断られたのか分からないが、翌月には無事スリランカに入国しているので、その時の私の印象が悪かったのか担当者の対応が悪かったのか。
 タイ大丸へはバンコク滞在中3度行った。店内は高級感が漂い、ヒッピー旅行者には少々敷居が高かったが、日本人の強みで(大丸側は貧乏日本人より金持ちタイ人の方が歓迎だろうが)気楽に行けた。日本にいるような安心感があり、ディープなヒッピー旅行の合間の安息の場としてお世話になった。本売り場には日本の本が数多くあり、気に入ったものを買って、1階のアートコーヒーで日本式のコーヒーを飲みながら本を眺めるというのはかなりの贅沢だったが心からリラックスできた。
 「おくれてきた青年」は大江健三郎の小説、ジャーナルは「朝日ジャーナル」だ。あの頃の若者は大半が左翼的だった。友人の下宿に行けば、必ずと言っていいほど朝日ジャーナルがあった。当時一世を風靡した「平凡パンチ」とジャーナルは若者たちの愛読書だった。
その後、街角でエクソシストの看板を見つけ、フラフラと入ってしまった。字幕は漢字だったように思う。悪魔に取り憑かれた少女がベッドの上でバッタンバッタン飛びはね、首がグルグルと回った。メチャクチャ怖かった。寝る時そのシーンを思い出し、あまりに怖くて、部屋の電気を点けっぱなしにして寝た。

11月27日(水)
新華南峰旅社
朝のうちPost Officeに行く。ガン○○をやる。昼から日本人会クラブへ行って新聞を読む。
<記憶>
 たまに実家にあてて手紙や絵はがきを送った。無事に旅を続けていること、タイの次はインドに渡るつもりであることなどを報告したと思う。その後ガンチャと書いてある。朝から大○に耽るとは本当にアホである。
バンコクには日本人が多く駐在していたので日本人会の集会所があった。ヒッピー旅行者を歓迎する雰囲気はなかったが、大使館ほど敷居は高くなかった。クラブには数日から1、2週間遅れの日本の新聞が置かれていた。情報収集と暇つぶしを兼ねて2度お世話になった。
 
11月28日(木)
新華南峰旅社
朝のうちBangkok Cristian Hospitalに行って痔を見てもらう。その後にトーフを食う。その後フォークをやってる飲み屋に行きビールを飲む。6本で135Bht。
<記憶>
 薬を飲んだか軟膏を塗布したか覚えていないが痔は良くならず、意を決して病院に行くことにした。大きな病院だった。医者からは手術するしかないと言われた。しかし、入院して手術するようなお金も時間的余裕も無かった。何しろこれからインドに行かなければいけない。薬で何とかならないかと懇願し、薬を出してもらった。
 ホテルに戻り、近くの食堂で豆腐の炒め物を食べた。後述のつじ田氏がタイ大丸近くサイアムスクエアにフォークを聴かせる店がありそうだと言うので、夕方行ってみることにした。
 タイの青年のギターの弾き語りを聴きながらビールを飲んだ。哀調を帯びた歌は心に沁みた。40年以上経過した今でもメロディーの一部を覚えている。

11月29日(金)
新華南峰旅社
朝TOTに行きアユタヤの資料を貰う。その後黄金の塔にのぼる。昼からサイアムスクエアをぶらつき、またまたその後アートコーヒーに行ってマンガを読む。
<記憶>
 TOTは多分観光案内所のことだと思うが、何故綴りがTOTなのか分からない。アユタヤの資料を貰ったことは覚えていない。翌々日にはインドに行くので、さほど時間に余裕はなかったはずだ。翌30日に日帰りで行こうと思ったのかもしれない。
 サイアムスクエアは当時バンコクで最もオシャレなエリアで、その一角にタイ大丸が鎮座していた。相当トレンディーな場所だったと思う。大丸の1階にアートコーヒーがあり、お客の大半はタイの有閑マダムや尖った若者たちで、ヒッピー旅行者は少々気後れしたが、日系のコーヒーハウスの気安さで居心地は悪くなかった。高いコーヒーは貧乏旅行者には痛手だったが、日本のマンガの誘惑に負けた。
翌々日にはインドに旅立つ。これまでの旅で、数多くのヒッピーたちからインドにまつわる武勇伝を散々聞かされてきた。未だ見ぬ亜大陸を思うと胸がざわついた。期待と不安は膨らむ一方だった。今しばらくバンコクの活気と安穏と隠微を楽しんでも良いだろう。
 
11月30日(土)
昼前に起き、つじ田氏と昼食。イカの野菜炒め5Bht大満足。そのあと日本人会クラブに行き新聞を読んで後、つじ田氏とタイソングリートに待ち合わせてフリーライター氏の部屋(マレーシアホテル)を訪れる。
<記憶>
カンカンと金属を打ちつける音で目が覚めた。世間では日常の営みの真っ最中だ。優雅と言えば優雅だが、世間から見放された怠け者になったようで少し恥ずかしく思った。
昼食を食べにタイソングリートホテル1階の食堂に行った。辻田氏が食堂にいたので一緒に食べた。イカの野菜炒めことは勿論覚えていないが、この食堂は値段も味もそこそこで、半ば常連のようになっていたので、特に頼まなくても店の方で適当に旨い物を出してくれた。
情報通の辻田氏が面白そうなフリーライターがいるので訪ねてみようというので話に乗った。訪問は夕方だったので、暇つぶしに日本人会クラブに新聞を読みに行った。
フリーライター氏と食事をしながら色々と話したと思うが、あまり記憶がない。ただ、フリーライター氏の話よりも辻田氏の体験談の方がよほど面白かったことを覚えている。 

12月1日(日)
CALCATTA Salvation Army 11.5
Burnd君と再会!インドの初日カラスの多さに驚く。
9:30頃AirPort着
<記憶>
 インドカルカッタでの話は次章に譲る。
このメモの下に私が利用した3軒のホテルの評価が記されていた。いずれもバンコク駅から半径2~300m圏内のビジネスホテル兼売春宿兼ヒッピー宿だ。多分空港で飛行機の出発を待つ間に書き留めたものだろう。「女」の評価の基準って一体何だろう。若気の至りとは言え恥ずかしい限り。40年以上経つから時効だな。

Thai Song   シャワーなし35 シャワー、トイレつき40
JEEB         〃
新華      シャワーつき
騒音      Thai > JEEB > 新華
清潔感    JEEB > Thai > 新華
便利さ    Thai > JEEB > 新華
総評     新華 > Thai >JEEB
女      Thai > JEEB > 新華
めしはThai Song Greetが安くて良い。南洋は新華とタイソンの中間くらい。

ノート1「旅立ちの事など」
 旅立ちの朝はゆるやかに明け、7時に目を覚ました。いつも通り顔を洗って、トイレに行く。オッサンへらへらと笑ってサワッディーと言えば、同時にサワッディーと返す。
 ホテルの外は日曜日のせいもあって7時というのに早朝の佇まい。朝日は明るく、その光クルンテープステーション(バンコク駅)を照らしている。しかしその光に熱は感じられず人々みな起き抜けの顔。その人々の間をやはり起き抜けの顔で食堂に行く。食堂のオヤジ、小僧たちみな起き抜けの顔。読めもせぬチャイニーズ新聞を難しそうな顔で眺めていると小僧がチャーハンを持ってくる。
 荷物をまとめて南洋旅社に急げば辻田氏は部屋におらず、南洋のオヤジに聞けばけだるい朝の光の中、一人の日本人と話している辻田氏を見つける。
 辻田氏がさあ行こうと言い、うどん屋に行きまだ時間はあると言う。時間を気にしていたが辻田氏の迫力に負けてか突然落ち着いた気分に。辻田氏金もないくせにバンコク最後のスイカを食えとスイカ丸ごと買い、大盤振る舞い。辻田氏の親切に泣かんばかりに大感激。その辻田氏は私を空港まで送ると言う。
 10時に空港に着いた。私がチェックインする時辻田氏は窓際の席を取れとケタタマしく私を声援する。窓際の席が取れたときわが事のように喜び、前歯のない間の抜けた顔でヘラヘラと笑っている。もとより気の弱い私が空港の喧噪にイライラしていると、辻田氏が出し抜けに辞世の句を詠めと言う。歌の心得のない私はうろたえる始末。
そうこうするうちに時間となり、Immigration Counterを通過し、Gateを探すが全く見当たらぬ。あの広いDeparture Loungeをあっちウロウロこっちウロウロ。そうこうするうち出発時間の5分前。その時やっとアナウンスの声。小さい胸をなでおろす。結局出発は12時となった。飛行機に向かうバスの中で見送りデッキの辻田氏を探すが全く見当たらぬ。手を振るつもりでいたがその思い達せられぬ。その飛行機もついに出発時間となり、エンジンゴオゴオと空吹かし始めれば何故かこの飛行機落ちるような気がして、辞世の句に頭を痛める始末。飛行機はその後グングンと高度を上げればすでにチャオパオ川は尻の下、遙か下に流れている。
サイナラ、タイランド、売春とガンチャの国などと旅情にひたればアナウンス。現在ビルマ国境にいるという。何とも速いものだと感心する私をあざけるようなアナウンスの声。ベンガル湾が見えると言う。この下があのバングラディシュかと一人世界の苦労を背負ったような顔をしてみせる。さて、予感は見事に外れ、あの世にも恐ろしい着陸の衝撃を感じさせつつ私を乗せた飛行機はカルカッタに着く。
                    S49.12.1 サルベーションアーミー ドミトリー カルカッタ
注)ノートについて
11月25日、ホアヒンからバンコクに戻り、馴染みのホテルにチェックインした後、近くの文房具屋でノートを買った。
旅を始めて一月半ほど経過し、旅に慣れ、時間的、精神的に余裕が出てきた。すると、やることが何もない時間ができ始めた。つい大○に手を伸ばすこともあった。折角日本を飛び出してきたのに大○漬けというのでは情けない。旅の途中に感じたことを書きとめて置きたくなったこともある。
そこでノートを買うことにした。このノートに書き綴った文章も私にとって大事な旅の記憶だ。ノートは、インドに到着した12月1日に書き始めた。書き納めは翌年の3月25日だ。その間、間断的に思いつくままを書き綴った。これらの文章は、それを書いた日の手帳の記述及び<記憶>の後に移記することにした。読み返してみると恥ずかしい文章が並んでいるが、原文のまま記載することにした。40年以上経過しているので時効だろう。

アジア紀行、私の「深夜特急」

アジア紀行、私の「深夜特急」

1974年10月から翌75年3月までの半年間アジアを旅した。旅に特別な目的も目的地もない、風任せ、運任せのヒッピー旅行だった。歩いたのはフィリピン、タイ、インド、スリランカ、ネパールの5カ国だ。 その頃のアジアは、ベトナム戦争が最終盤を迎え、カンボジアではクメールルージュがほぼ全土を制圧していた。パキスタンからの独立を果たしたバングラデシュは混乱と貧困にもがいていた。私の訪れた5カ国はこれら3カ国に比べればはるかに平和だったが、発展途上にある国らしい希望と欲望と熱気と貧困が充満していた。 これらの国を歩いた半年間は平凡極まりない私の人生で最も躍動感あふれる時間であり、唯一の宝物と言えるものだ。私が歩いた同じ頃、沢木耕太郎氏がアジアからヨーロッパまで流浪の旅をし、「深夜特急」という名著を執筆されている。尊敬する沢木氏に敬意を表しつつ、私のささやかな「深夜特急」を記そうと思う。

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 青春
  • 冒険
  • 青年向け
更新日
登録日
2017-04-29

CC BY-NC-ND
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  1. 生まれて始めて訪れた外国フィリピンは旅を始めた私に旅の醍醐味を教え、優しく鍛えてくれた。
  2. 2番目の国タイは魅惑の国。旅に慣れ心にゆとりができた私を堕落と退廃が襲う。