みかんの皮のなか
みかんの皮のなかは、あんがい心地よかった。
みかんの実になったつもりで、ぼくは、みかんの皮に包まれている。実になったつもりでいるので、じっとしている。息をとめる、のは無理なので、ひそめている。みかんの実の、ひとつぶ、ひとつぶになった気分で、すわっている。ときどき、目をつむる。ねむるときも、ある。
皮をむかれて、たべられるかもしれない、という想像をして、ドキドキしてみる。指を挿入され、ぺり、ぺり、と皮がめくられる様子を、思い浮かべてみる。他人に洋服を、脱がされるような感覚だろうか。
はずかしいな、と思う。
こわいな、とも。
きのう、十七回目の誕生日が、きた。
みかんの皮のなかにはいれるようになってからは、二回目の誕生日だった。
はいれるときと、はいれないときの条件は、まだわかっていない。
いつのまにかはいっているときと、きょうあたりはいりそうだなと思っていたのにはいっていなかったときと、はいりたくないのにいれられているときと、はいりたいと強く願っているのにはいれないときと、いろいろある。
さいきん、町ではうさぎがたくさん生まれて、道も学校もうさぎだらけになっていて、大変うさぎくさいので、みかんの皮のなかにはいっていたいなと思うときがある。そういうときにかぎって、はいれなかったりする。
きのう、ぼくが十七歳になったということは、きみは十五歳になっているはずだ。
十五歳になったということは、十五人目のきみが生まれたということだ。
十六歳になれば十六人目のきみが、十七歳になれば十七人目のきみが、生まれるしくみに世界はなっている。
きょう、ぼくはみかんの皮のなかにはおらず、十二人目のきみと、学校の屋上にいた。
十二人目のきみとが、いちばん気が合った。
七人目のきみとは、けんかばかりしていた。
十四人目のきみとは、恋仲のような関係になった。
けれど、十四人目のきみは、太陽がはんぶん溶けてなくなった日の朝に、遠くの国へ引っ越してしまった。飛行機に乗らないといけない、遠い国だ。魚が陸を歩いている国だときいた。魚が歩きながら魚を売っている国、らしかった。奇妙な国だと思った。
「今朝、赤ちゃんのうさぎがいたから、抱っこしたら、温かかったよ」
十二人目のきみが言った。
あたりまえのことだよなぁ、と思った。
なので、
「生きているものが温かいのは、あたりまえのことだよ」
と、ぼくは言った。
十二人目のきみは、へぇ、と言った。
ひどく平淡な、へぇ、だった。
学校の屋上にも、うさぎはいて、みんな茶色いうさぎだった。
ちいさな茶色い毛玉が、ぴょこぴょこうごいている。
おおきな茶色い毛玉が、もそもそうごめいている。
三年生のひとが、うさぎをひざに乗せたまま、昼寝をしている。
一年生の子が、うさぎに餌をあげている。あんまりあげすぎちゃいけませんよ、なんて注意をしているひとがいる。知らないおとなだ。学校のひとではないから、うさぎ保護団体のひとかもしれない。
太陽がはんぶん溶けてなくなったせいで、昼間なのに薄暗い。
「あたりまえのことかぁ」
とつぶやく十二人目のきみの声は、十四人目のきみの声にこわいくらいそっくりだった。あたりまえのことだ。生まれた順番がちがうだけで、おなじきみなのだから。
(あ、いまこの瞬間、はいりたい、かも)
うさぎの背中を撫でながら、ぼくは思った。
ぼくは、みかんの皮のなかで、みかんの実になりきっているときに、ときどき、五人目のきみのことを、思い出す。
五人目のきみは、こどもだった。
とても、こどもだった。
泣き虫だった。
甘えん坊だった。
絵本が大好きだった。
外ではあまり、遊ばない子だった。
五人目のきみは、もういないし、三人目のきみはもちろん、七人目のきみも、十三人目のきみも、いない。
十四人目のきみだって、魚が陸を歩いて魚を売っているような国で、ほんとうにいまも生きているのかどうか、わからない。
十四人目のきみがいなくても、十五人目のきみは生まれる、というしくみになっているので、十五人目のきみはこの世界のどこかに存在しているし、来年には十六人目、再来年には十七人目のきみが生まれる。
あたりまえのことだ。
十二人目のきみだけが一生、ぼくのそばにいる。
うさぎは日に日に、増えている。
みかんの皮のなか