遥かな町へ

学生、風呂、硬貨の3つのテーマで書いてみた短編です

遥かな町へ 

駅舎から一歩、足を踏み出した途端、俺の目の前に広がっていたのは灰色の風景だった。
 アスファルトが剥げ、砂の地面が露わになった穴が、ところどころに開いているバスロータリー。墨汁を垂らしたような薄黒い染みを、壁面に浮き立たせた小さいビル。外からは営業しているのかもわからない、煤けた暖簾を提げた定食屋。
「いったい、どこへ来てしまったんだ、俺は・・」
 思わず一人でつぶやいていた。だが、その独り言は誰に聞かれることもない。それほどに、この駅前は、人影がなく、閑散としていた。
 振り返って駅名の看板を見ると、聞いたこともない名前がそこにあった。今度は、壁に取り付けられていた時計に目をやる。時刻はすでに午前十一時を指していた。もうとっくに学校は授業が始まり、二限の終わりごろのはずだ。
 いつまでも、ここでぼうっと突っ立っていたって仕方がない。
俺はとりあえず正面に伸びている、商店街の通りを歩き始めていた。ここにも人の気配が感じられなかった。いまどき、人のいるところなら、どこへいってもコンビニの一軒や二軒が、ありそうなものだが、この通りにはそれすらない。数歩いけば、やかましいくらいにチェーン店の看板が立ち並んでいる、自分の町とは大違いだ。
 とぼとぼと歩きながら、俺はふと自分のスマホを取り出して、画面を見る。そこには着信一件、メール一通、届いたことを報せるものは、なかった。ほっとしたような、誰からも自分は気にされていないのだという、さびしいような気持ちが入り混じって複雑になる。
 一体どうして、こんなところに俺はいるのだろう?また歩き始めながら、朝からここまで来た時のことを思い出す。
 いつものように通学のため、駅のホームで電車待ちの行列に並んでいた。
アナウンスが間もなく、電車がやってくることを告げるのを聞きながら何気なく、うしろを振り向いて、乗ろうとしている側とは反対のホームを見た。
そこには別の電車が扉を開けたまま停車していた。
 俺は、そのとき何を考えたのか、辛抱強く立ち並んでいた列をすうっと離れ、ふらふらと、その中に入り込んだのだ。車内は驚くほどすいており、俺は誰も座っていない座席に腰掛けた。やがて自分が待っていた電車が到着し、大量の乗客を吸い込んで去っていくのを俺は、ただ眺めていた。
そして俺の乗り込んだ電車も、発車ベルを鳴らした後ゆっくりと、学校とは逆の方向へ出発したのだった。
走り続けて数分、窓の外には、俺の住んでいるところにもよく似た、しかし知らない町の風景が次々と流れていく。その中で立ち並んでいた建物の数が少しずつ減り、まばらになるのに対して、木々や田畑の緑色が増えてきたことに気が付いた。そのころには、いよいよ電車は都会を離れ、見知らぬ郊外までやってきていた。
 どこに行くのかという目的地なんかなかった。だが俺は、自分が途方もなく、遠いところまで来ていることがわかっても、途中下車をしたり、行き先を確認しようと思わなかった。ただただ、走る電車に揺られるがまま乗り続けた。
 そして、とうとう行き着くとこまで行きついて、終点の駅に到着し、さすがにこれ以上、進むところが、ないのならと降り立ったのが、この町だったというわけだ。
 ひたすら歩いているが、本当にここには、なにもない。いや商店街があって、店があって、家があり、本当になにもないわけじゃないけど、およそ目立った名物のようなものも、人がいる気配というものも感じられない。よく見ると、並んでいる店のほとんどにシャッターが下りているし、俺以外に通りを歩いている人間もいないのだ。
「いよいよ、とんでもないところにきちまったぞ、っと」
 クリームパンが売り出し中、という色あせたのぼりが店先に立った、電気のついてないパン屋を横目に、俺はつぶやいた。
そして、どんよりとした気分を覚えながら、俺の頭に、また浮かんできたのは、自分の高校生活だった。この春から過ごしてきたおよそ半年の。


 今年の四月、俺は高校に入学した。中学三年生の一年間を、必死に勉強して合格した、県内有数の進学校だった。
 生まれて初めて経験する、受験というイベントに、俺はがむしゃらに取り組んでいた。高校受験なんて大学に比べれば楽だよ、と言う年上の従妹もいたが、俺は手を抜かず全力を出した。頭にあるのは志望校の合格だけ。念じるように机に向かい、そして試験本番の日まで過ごしていった。
 だから三月のはじめ、張り出された発表の掲示板に、自分の番号を見つけたときは、心底嬉しかった。自分の努力が報われた喜びと、重責がなくなった解放感でいっぱいに、春休みを過ごした。今から思えば、それがいけなかったのかもしれない。
晴れて四月になり、新学校生活をスタートさせてから、一ヶ月が経ったころだったろうか、違和感を覚え始めたのは。
俺はクラスに親しいと呼べる友達が、一人もできなかった。新しい環境で出会ったのは、見知らぬ顔がほとんどだった。小学校、中学校は、ほぼ同じ地元にあったため、十年近く、同じ顔触れの友達の中で、俺は過ごしていたが、俺と同じ高校に進学したのは、一握りしかいなかった。
最初は慣れないけど、そのうちに誰かと知り合えるだろうと思っていたのだが、どういうわけだか俺以外の人間は、さっさとグループを作ってしまい、その中に俺は入っていけないのだ。
部活も捗らなかった。
俺は新しく入部した剣道部で、実に中途半端な時間を過ごしていた。今まで経験したことのない運動部に入ったのは、深い理由があったわけじゃない。中学まで文化部だったけど、いい加減ここらで運動部にでも入っておいた方が、いいかもしれないという適当な気持ちだった。
運動をそれほど、やってきたわけでもない俺には、基本的な素振りの練習さえも、なんだか要領をつかめない。自分はうまくできないのに、俺と一緒に入ったやつがなんでもないように、できてしまうのを見て、焦りしかわかなかった。
だが、運動神経がないのか、俺には上達しようにも、どうやって努力をしていいのかが、わからない。部活がキツイという以前に、どうしたらいいのか、途方に暮れてしまうのだった。
きっと、こういうのを五月病というのだろう。俺は心の中に、空虚なスキマが生まれ始めてきていた。だけど俺の場合、五月どころか、それから数か月経ち、一学期が終わるころになっても、なにも変わらなかった。
あるとき、中学時代に俺と仲が良かった友達と、久しぶりに電話をして、このことをグチったことがある。
すると、かえってきたのは説教と忠告だった。自分が悪いんだろ、新しい環境に入れば、それに合わせようと努力するなり、動くなりしなければいけないのに、それをしない自分の方に非があるのだと。だから、学校へ行ったら積極的に、どんな他愛のないことでもいいから、会話してみろ、コミュニケーションしてみろよと。そしたら、状況は良くなるはずだと熱弁を受け取った。
その通りだと、俺は話を聞いて納得しながらも、なんだかやっぱり空しかった。あれだけ一年頑張って入った高校で俺は何がしたかったんだろう。思えば入ることに夢中で、入学してからのことを考えることが重要だったのに、俺は合格した成果だけに満足して、なにも先を見てなかったのだ。
最初に躓いてしまったという思いは、服の縫い目にできた、破れた穴の様に広がっていき、修正するきっかけを持てないまま、夏休みを迎えた。そして何事もなく終わり、二学期になっても、俺は宙ぶらりんな自分を持て余して学校に通い続けていた。
新学期になって、二週間ほど経って、そう今朝だ。いつもの通学の電車を待つうちに、自然に動いた足が、違う電車に乗り込ませ、この辺鄙な町まで来ることになってしまったのだ。


気がつくと、ずいぶん歩いていたようだ。
目の前を横切るように、広めの国道と交差点が現れた。どうやら商店街の通りは、ここでおしまいらしい。
俺はうしろを振り返り、戻ろうか考えた。だけど、このまますぐに引き返して同じところをウロウロするなんてマヌケすぎる。
ため息をついて、もう一度俺は国道の方を見た。
「ん?」
 そのとき、国道の横断歩道を渡った向こう、そこから広がる住宅街の風景に、なにかが引っかかった。
俺は車が来ていないことを確認し、道路を急いで横切る。家々が立ち並んだ、細い路地の入口に立ってみる。
 やっぱりなにか引っかかる。この町には来たこともないし、見てきた通りなにもない。なのにだ、そこに見える電柱、道路の形、塀や家の並びが、なぜか自分の中の記憶を、強烈に刺激するのだ。
 急に胸の高鳴りをおぼえ、駆け出した。さらに住宅地の真ん中を、どんどん進んでいく。
俺の目に飛び込んでくる様々なものが、頭の中で鮮明に色づいた思い出を、よみがえらせていく。
あの角の小さな郵便局、滑り台しかない狭い公園、道しるべのように建っていた小さな祠。
やがて俺は大きくぽっかりと開けた空間に出会った。
それは、だだっ広い空地だった。土の地面に、雑草が伸び放題に生えている。家が密集している中に、そこだけエアポケットのようにスペースが空いている。
俺は立ち止まり、自分の中に湧き起こってきた気持ちに確信をもった。間違いない、俺はここを知っている。このなんでもない住宅街のことを覚えている。
そして、この空地の周りにも、記憶を刺激されるものがあった。
そのとき、空地のそばに小屋のようなものが建っているのに、気が付いた。中を覗くと、洗濯機と、丸い窓の乾燥機が、それぞれ数台並んでいるのが見える。機械はどれも、百円を入れられる穴がついていた。
その小屋はコインランドリーだった。
なぜ空地のそばにコインランドリーがあるんだ?そう思いながら見ていると、俺は別のことに気が付いた。コインランドリーは、それだけで建っていたにしては、不自然に奥に縦長く、空地の端で細い隙間に収まるような形をしていた。つまりこのランドリーは別の建物と、家の間に挟まるようにして建っていたのだろう。そしてその建物が無くなった跡が、この空地なのだ。
コインランドリーが、そばにある建物といえば。そこまで考えたとき、俺の頭の中にまた一つの光景が浮かんだ。
空に真っすぐ伸びる長い煙突、瓦張りの日本風の屋根、お湯と書かれた入り口の暖簾。俺は今度こそはっきりと思い出した。
「そうだ、ここはタツヤさんとよく行った銭湯だった」

 俺が六歳までのとき、父親は今とは違う町で働いていて、小さいころ俺はその町で育った。家の中のことは、うっすらとしか覚えてないけど、両親は二人とも、いつも忙しそうにしていて、なかなか遊んでもらったり、構ってもらった思い出が少ない。だけど、俺は寂しくはなかった。そのころ、俺の近所には同じような子たちが、わりあいいて俺にはみんなと友達になって、一緒に過ごす時間があったからだ。
 俺たちは、ほとんど毎日グループになって遊んでいた。歳は結構バラバラの、大小ごちゃ混ぜの集団で、俺と同じ幼稚園の子もいれば、小学六年生の女子もいた。その中でも一番最年長の大きいお兄さんがいて、それがタツヤさんだった。
 タツヤさんとの最初の出会いは、思い出せないのだが、あの人は俺たちのような子どもたちより、ずっと年上だったのに、そんなことも気にせず、よく一緒になって遊んでくれた。
 タツヤさんが今となっては、なにをしていた人だったのか、よくわからない。アパートで一人暮らしをしていて、その時の俺は、タツヤさんのことを、大人だと思っていたが働いていたら、いつも俺たちと遊んでくれていた時間なんて、なかったはずだ。もしかしたら、自由に時間を使える大学生か、フリーターだったのかも。
 とにかく小さい俺たちとタツヤさんは、いろんなことをして遊んでいた。アパートの部屋でテレビゲームをしたり、河原まで出かけて凧揚げをしたり、時には行楽地に遊びに行く遠足のようなことを、したこともある。
 そして夕暮れまで遊んで、一旦家に帰り、夕飯のあと子どもたちとタツヤさんみんなで、連れ立って銭湯に行くこともあった。高い煙突がある日本家屋風の銭湯が、そのとき住んでいた家の近所にあって、俺たちがいつも利用するのはそこだった。
 楽しかった。もう随分と昔のことで、はっきり覚えてないこともあるけど、あのころの楽しい思いだけは今もよく覚えている。
 そんなある日、俺の父親の転勤が決まり、引っ越すことになった。小さかった俺は、よく事情が呑み込めなかったのだろう、この町のみんなと離れ離れになることに対して、随分ぐずった思い出がある。
 引っ越しの前日、みんながお別れのパーティを開いてくれた。場所はタツヤさんの部屋で、こぢんまりとしたパーティだったけど、俺にとっては、誕生日より、なによりも特別なパーティだった。
 みんなとのお別れに、悲嘆に暮れていた俺を見て、タツヤさんが部屋の棚から、なにかを取り出して俺にくれた。
 それは一枚の五百円硬貨だった。でもその五百円は、普通のやつと違って、うっすらと金色だったし、なにより描かれていた模様が違っていた。
「それはな、九十八年のオリンピックがあったときに、出された五百円なんだ。このときにしか手に入らない、レアなやつなんだぞ。特別なんだ。これをお前にやるよ、記念だ」
 俺はとても驚き、同時にすごく嬉しかった。子どもの俺には、その五百円は生まれて初めて見る、ものすごく特別なものに見えたのだ。お菓子に入っていたスペシャルなカードや、どんなおもちゃよりも、すごい宝物に思えた。そして、そんなものを俺に譲ってくれた、タツヤさんの想いに、心底感激した。
「ありがとう!ぼく、これをずっとずっと一生、大事にするよ!」
 寂しい気分が吹き飛び、俺は笑顔になってタツヤさんにそう言った。
 パーティが終わり、夜になってみんなとの最後のひとときということで、俺たちとタツヤさんはいつもの銭湯へ風呂を入りにいった。
 ところがだ、もらったばかりの、その五百円硬貨を、あろうことか、その時に失くしてしまったのだ。貰った五百円のことが、あまりに嬉しくて、銭湯に行くときにも持って行ったのは覚えている。しかし、風呂に入って家に帰ったあと、どこで落としてしまったのか、服のどこを探しても、五百円硬貨が見当たらなかった。
 せっかくタツヤさんがくれたものを、嬉しくて嬉しくて仕方がなかった宝物を失くしてしまった悲しさ、悔しさから、俺はこのとき泣きに泣いて、いよいよ両親を困らせてしまった。
 そして翌日、引っ越しの荷物を積んだ車に乗って、出発しようとする俺たち一家を見送りに、みんなとタツヤさんがきてくれた。
 俺はタツヤさんに、貰った五百円硬貨を失くしてしまったことを、別れの直前まで、涙ながらに謝った。でもタツヤさんは
「いいんだ、いいんだ。それより向こうでも元気でやれよ、ケンジ」
と笑って許してくれた。
 そして、出発した車の窓の遠くむこう、手を振ってくれている、みんなの姿が遠ざかっていった・・

 コインランドリーの中にあるベンチに、俺は一人腰かけて、ここに建っていた銭湯にまつわる、一連の思い出に耽っていた。そうだ、この辺りは子どものころに住んでいた町だ。記憶のボヤけていた情景が、この目で見て、はっきりと輪郭を取り戻していく。
 俺は改めて、ランドリーの中を見渡してみる。俺が子どもの頃から、あるから何年建ってるんだろう。横にあった銭湯はなくなってしまったのか・・
 ここのランドリーも、よくきたなあ。毎回、きたついでに、洗濯物はなかったけど、このベンチでタツヤさん、みんなと風呂上がりのジュースを飲んだり、置いてある漫画雑誌を読んだりしてたっけ。
 どうして、駅で降りたときに、この町のことに気が付かなかったんだろう。駅前から今日歩いた辺りは、やっぱり記憶になかった。でも少し考えて、その理由がなんとなく、わかった気がする。
 子供のころの俺は、自分で行けるところなんて限られていた。自転車にも乗っていなかったし、出かけるときは親に連れられて、車に乗って出かけるか、タツヤさんとの遠出も、バスに乗るくらいだった。
だから、幼い自分の土地鑑は、住んでいる家のごく近所から、狭い範囲に限られていて、あの駅前には行ったことがなく、見覚えがなかったのだ。
 ああ、そうだ。ここにくる途中に渡った国道。子どものころ、あそこは車がビュンビュン走って流れる、大きい川の様に見えていた。それが、ついさっきはたった数歩で難なく渡れてしまった。
 俺は堰を切ってあふれる、懐かしい感情を味わうと同時に、この奇妙な偶然に驚いていた。
 たまたま今朝、気の迷いで乗り込んだ電車に、行き先も決めず流れに任せてたどり着いた先が、自分の幼いころを過ごしていた町だったなんて、そんなことがあるんだろうか。
 でも、実際に自分の身に起きていることを、俺はどう受け止めたらいいのだろう・・。

 一瞬、意識が途切れた感覚が、あったような気がする。
ふと俺は顔をあげた。
 いつの間にか、中が煌々とした、蛍光灯の白い光に、照らされていた。ゴウンゴウンと、洗濯機が回る音が、地響きの様に鳴り響いている。見ると乾燥機も数台動いていて、丸い窓の向こうで誰かの洗濯物が舞っていた。機械が放つ熱気で、ランドリーは夏場のような蒸し暑さになっていた。
 あれ?ちょっと待て、洗濯機は動いていたか?それに電気もついている。外を見ると俺は驚いた。さっきまで昼過ぎだったはずの空は、陽が落ちて真っ暗だった。
 慌てて立ち上がり、辺りを見渡したとき、俺はまた息を呑んだ。
そこには小さいころに見た、このコインランドリーの光景が、そのままあった。何週間も前の、ボロボロの漫画雑誌のナンバーや、日焼けした文庫本を、数冊並べている小さな本棚。貼られたばかりの銭湯の広告ポスター、まだまだ白く新しそうな洗濯機たち。ベンチや壁についている細かい傷の入り方まで、幼い記憶と寸分違わず、そこに存在していた。
 呆然として周りを見ながら、俺の目はふと本棚と、一台の洗濯機の隙間に止まった。そこになにか鈍く光を放ったものが、落ちていたように見えた。
 俺はなんとなく、それが気になってしまって、腰をかがめ隙間に手を押し込んだ。壁際の方まで手を伸ばしてみると、硬く小さなものが指先に触れた。なんとかその小さいものをつまむことができ、取り出す。
 手に取ってそれを眺めてみた。一枚の丸い硬貨の表に、ボードで宙を舞っている、スノーウェア姿の男が描かれている。その下には“一九九八年 長野”の文字があった。
 九八年?長野?俺はそのとき、雷に打たれたような衝撃を受けた。
 これはもしかして、長野の冬季オリンピック記念に発行された、俺が貰って失くしてしまったあの。
 そのとき、俺は視線を感じて振り返った。
ランドリーの入り口に、半そでのTシャツに、半ズボンの男の子が立って、俺の方を見ていた。いや、正確には拾い上げた硬貨に、視線が注がれていた。
「お兄ちゃん」
 男の子が寄ってくる。
「それ、ぼくの五百円玉だよ、どこで見つけたの?」
 俺の顔を、じっと見上げて聞いてくる。その顔に見つめられながら、俺は何も言えず、震える手で、男の子に硬貨を差し出した。
 男の子は硬貨を受け取ったあとも。少しいぶかしげな様子で、硬貨と俺の顔を見比べている。
「ケンジ、ケンジ」
 外から誰かが、呼んでいる声がした。ケンジだって?
 男の子は入り口の方へ駆け出すと、一瞬だけ俺の方を振り返って叫んだ。
「お兄ちゃん、ぼくの五百円、拾ってくれてありがとう」

 どこを、どう歩いて帰ってきたのか、覚えていない。
 気が付くと俺は、また走る電車の中に揺られていた。窓からは流れる景色の彼方、夕陽が沈もうとしている。車内を染めるオレンジ色の夕焼けが眩しかった。
 まるで長い夢から覚めたような、ぼんやりした気分だった。確か朝、学校に行かずに、電車で全然違う方向に行って、知らない駅で降りて、しばらく歩いて、それから昔住んでいた町に辿りついて・・
 ポケットの中で、スマホが振動する。慌てて取り出し、画面を見て現実に戻る思いだった。十何件もの、不在着信があったことを報せている。
 生まれて初めて、学校をサボってしまった。
 電車は、俺の家がある町に向かって、走っているようだ。まだしばらく時間が、かかるに違いない。俺はなんだか急に、肩から力が抜けていくようだった。そして座席に深々と、腰をかける。
もうここまできたら、適当にしてしまえ。帰って親になんと言われようと、なんとかなるさ。
 ふと、俺はポケットにもう一つ入れていた、財布が気になった。
不思議な予感があった。財布の硬貨入れを開けてみる。
一枚の五百円硬貨が入っていた。普通よりも薄く金色で、一九九八年、長野と銘打たれた特別な五百円玉が。
俺の胸に、感じたことのない暖かさが流れる。その暖かさは、空虚だった俺の中を満たしていってくれるような思いだった。
何が起こったのかは、よくわからない。
だけど、明日からは今までよりも頑張れるような気がする。そうだ、きっと大丈夫だ。走る電車の振動を感じながら、俺は静かで奇妙な満足感を抱いていた。
窓の外はそろそろ夜空になり、一番星が輝きつつあった。

遥かな町へ

遥かな町へ

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-04-23

Copyrighted
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