夜を越える道

 役場の窓から山頂を見上げると、橙から紺に変わりかけた夕暮れの空に、送信塔のシルエットがそびえていた。鉄骨で組まれた櫓の左端近くに、アンテナのポールがひときわ高く伸びている。天を指さすような姿のその塔は、元々は電力会社の通信設備として建てられたものだった。昨年の臨時放送局開設に当たって送信アンテナとして使われることになったのは、町内全域に電波を届けるのに十分な高さがあり、役場からも近いという理由からだった。
 そのアンテナを見つめながら、アームに取り付けられたマイクへ向かい、小夜子はしゃべり続ける。夕方五時からのこの放送を楽しみにしている町民がたくさんいるのだということは、手元に置かれた葉書の束を見るまでもなく、良く分かっていた。仕事からの帰り道、休日にマーケットで買い物をしている時、病院のベンチにマスクをして座っている時でさえ、彼女は頻繁に声を掛けられた。嬉しかったが、しかし役場の新人に過ぎない自分がこのような仕事ができるのもあの災害の結果なのだと思うと、手放しに喜ぶ気にはなれなかった。
「次は、下果野の鍛冶さんからのお便りです。『上月さん、こんばんは』。こんばんは。『昨日で、孫が二歳になりました。あの大水で家は流されてしまいましたが、息子も嫁も無事で、こうして孫もすくすくと育っています。谷向こうのお隣だった、梁瀬さんのご一家など、みなさんお家ごと川に呑まれて……。西の方では地震で大きな街がめちゃくちゃになり、たくさんの方々が亡くなられたと聞きます。町が用意してくださった新しいお家で、こうして健康に暮らしている私たちは何と幸せ者か、何と恵まれているのかと申し訳ない気持ちになります』」
 役場に専用のスタジオなどはなかったから、空いている小会議室をその代わりに使っていた。調度品もろくにない殺風景な部屋で、一人パイプ椅子に座って葉書を読んでいると、時々言葉につまりそうになってしまう。実際、この放送を担当することになった最初の頃は、途中で泣き出してしまって番組が中断することもあった。
 そんな時、小夜子はまた送信塔をじっと見つめる。空はすっかり濃紺に変わり、アンテナポールが指し示す先には大きな月が輝いていた。この空の彼方、山地を越えた向こうにある町にまで、塔からの電波は届くのだという。きっと館林主査も、仕事帰りの車でこの放送を聞いてくれているはずだ。

 忌まわしい低気圧があの日、この地方を通過したりしなければ、上月小夜子が彼と出会うこともなかっただろう。
 山間部に大量の雨をもたらしたその雨雲は、「町」とは名ばかりで実際にはいくつもの村の集合体であるこの小杉町に、大きな被害を与えた。
 ちょうど数日前に、西日本で歴史的な巨大地震が発生していたため、町始まって以来の死者が出る大災害となったこの豪雨被害は、ほとんどニュースにはならなかった。町民たちは、まるで見捨てられたかのような孤立感を味わうことになったのだったが、幸い行政の動きは速かった。町役場の要請を受けて、県内外の各行政機関から、支援人員が次々と送り込まれて来たのだった。
 彼、館山主査も支援の為に派遣されてきた一人で、県庁の地域振興局所属の職員だった。約一箇月の滞在期間が予定されているという館山を、宿舎代わりに手配した温泉旅館に連れて行くことになったのが、小杉町役場企画総務課所属の小夜子だった。県庁の人を案内するということで緊張した彼女は、入庁式以来の白ブラウスに紺スーツという恰好で出勤していた。
「想像以上の状況でした。まさか、あんな大きな橋が落ちるなんて。驚きました」
 旅館まで続く川沿いの道を、彼女と一緒に歩きながら館山は言った。「川沿い」と言っても、川が流れているのはガードレールの向こうにある深い谷の底だ。身を乗り出してのぞき込まなければ、はるか下方で光る水面は見えない。陽はすでに、山の向こうに落ちていた。
「バスであんな長い時間、大変じゃなかったですか?」
 と小夜子は訊いた。大役を任された、という彼女の緊張は、すでにすっかり解れていた。柔らかい、優しい声で話しかけてくれる館山主査は、高校の時に仲が良かった先輩に良く似ていたのだった。関東の大学へ出て行ってしまったその先輩が帰って来てくれたような、そんな気持ちを彼女は感じていた。
「ええ、確かに少々疲れましたが、そんな贅沢を言っていられる状況でもないですからね」
 豪雨の影響で、平野部とこの町を結ぶ国道はあちこちで寸断されていた。中でも「大橋」と呼ばれる道路橋は、橋脚が流されて橋全体が谷底に崩落するという大きな被害を受け、この区間は完全に不通となってしまっていた。町へのバス路線は、鐘撞峠という難所を越える旧道へと迂回せざるを得なかったが、この旧道は平時ならバスが通るような道ではない。路肩からの転落を防ぐため、狭いカーブごとに係員が誘導してバスを通過させる必要があったから、運行には大変な時間がかかった。彼は六時間以上も一人でこのバスに乗って、町へとやって来たのだった。
「振興局さんの車で、送ってもらうことはできなかったのでしょうか?」
 と小夜子は訊ねる。一般車両は規制されていたが、公用車なら通行可能のはずである。
「後輩に頼んでみたのですが、帰りの運転に怖気づいたらしくて、にべもなく断られました」
 と彼は笑った。つい一昨日にも、国の出先機関からやって来た公用車が、崖の下に転落するという事故が発生したばかりだった。幸いにもその旧いクラウンは、斜面の樹木に守られて谷底まで転落せずにすみ、国の職員も命からがら脱出して事なきを得たのではあったが。
「どうせ、かかる時間は大して変わりないですからね。僕一人のために、わざわざ車一台危険を冒して往復させる必要もないわけです」
 生真面目な顔をして、彼は言った。メタルフレームが光る学者風の顔だちに、グレーの防災服が似合っているような、そぐわないような、不思議な感じがした。小柄な小夜子から見れば背も高くて、普通に会話していても顔を見上げるような感じになってしまう。荷物を詰め込んだ大きなバックパックも、軽々と背負っているようにしか見えなかった。
「今夜は温泉にでも入ってゆっくりされて下さい。ほんとは、川べりの露天風呂が名物なのですけれど……」
「流されたのですよね」
 ガードレールの向こうに、彼は目を遣る。谷沿いの斜面のあちこちに、えぐられたような土砂崩れの跡が残っていた。
 温泉地として特に有名なわけではないのだが、役場のある中心集落には温泉旅館が三軒あり、いずれも谷に面した崖の上に並んで建っていた。どの旅館も老舗で、長年の間には大雨も繰り返し経験してきただけに、建物そのものは今回も大した被害は受けていない。ただ、それぞれの旅館が谷底の川べりに作っていた露天風呂は、いずれも一箇月前の土石流にやられて跡形も残っていなかった。
「被災の支援に来て、温泉旅館に泊まれてしまうというのは申し訳ない気もしますね。以前によその町へ派遣されたときは、役場の会議室にごろ寝でしたから」
「すみません、こういう場所しかなくて」
「いやいや、もちろんありがたいのですよ。それだけの働きは、させてもらいます」
 彼は、笑いながらうなずいた。
 防災行政無線の屋外スピーカーから「赤とんぼ」の曲が流れる中、二人はしばらく歩き続けた。時折、警察や消防の緊急車両が狭い道を走り抜けて行く。隣県も含めて、町の外から応援に来てくれた車ばかりで、ボディーに書かれた自治体の名も様々だった。孤立した町民たちにとっては、それもまた救いになっていたのだった。
 やがて、件の温泉街が道の行く手に見えて来た。軒下に紅い提灯をずらりと下げた旅館たちは、特別に華やかな雰囲気をまとっているように見えた。静かな通りに、虫の声だけが響いていた。

 舘林主査がどのような仕事のためにこの町に来たのか、小夜子は何も知らされていなかった。しかし間もなく彼女は、否応なしに彼の役目を知ることになった。
 彼を温泉旅館へと送ったその明くる日、義捐金の集計作業をしていた彼女は、「上月君、ちょっと」と重田企画総務課長に突然手招きされた。
「はい」
 と答えて、彼女は慌てて課長のデスクへ向かった。さっき回したあの伺書、どこか間違っていただろうか。
「いや、違う違う。あれまだ見てないわ、ごめん、急ぐんだったよね」
 と銀髪が見事な重田課長は、「ごめん」のかけらも感じさせない、にこやかな表情で言った。
「それはそうと、ちょっとついて来て。町長がお呼びだから」
 そのまま彼女は課長に連れられて、町長室へと向かった。規模の小さなこの役場では町長と言っても雲の上の人、というほどの距離はないものの、まだ新人の彼女にとっては、かなりの緊張感がある。課長が理由を言わずにただにこにこしているのも不安だった。
「失礼いたします」
 と平気で入って行く課長の、広い背中の後ろにくっついて、じゅうたんがふかふかの町長室に彼女は足を踏み入れた。町長が応接ソファーに座っている。そしてその向かい側に座る、防災服を着た人の姿にも見覚えがあった。
「ああ、ご苦労さん」
 町長はにこやかに片手を上げた。見事に禿げ上がった頭がトレードマークのこの老人は、ちょうど町長職が三期目に入った直後に、あの豪雨への対処を迫られることになった。好々爺然とした見た目だが、かつては県庁の切れ者として知られた人物で、動きは素早かった。県内各所から支援の人材がすぐに送り込まれてきたのは、この町長の人脈の賜物なのである。受け入れ業務にただ追われていただけの小夜子は、その辺りの事情は何も知らない。
 続いて防災服姿の人が、ソファーから立ち上がってお辞儀をした。館山主査だった。
「初めまして。南部地域振興局広報支援・推進室の館山です」
 と課長に挨拶した彼は、
「昨日は、お世話になりました」
 と小夜子に微笑みかけてくれた。彼女はぎこちなく、頭を下げる。
「ええと、重田課長と、上月くん。まあ座ってください」
 と町長に言われて、小夜子は課長と並んで、町長の向かい側に腰掛けた。わあ、と彼女は思った。座り心地のいいソファー。いくらくらいするんだろう。後で備品台帳を調べてみようか。
 緊張のあまり現実逃避状態の小夜子に向かって、町長が何か言った。しかしその内容を、彼女はまともに理解することができなかった。
「は、はい」
 理解していないままに、小夜子はうなずく。
「じゃあ、決まりだ」
 重田課長が、テーブルの上に置かれた紙に、何やら書き付けた。
「そうか、やってくれるかい。じゃあよろしく頼むよ」
 町長が微笑む。
「じゃあ、アナウンサーは上月さんということで決定ですね」
 館山主査がうなずいた。
「私は早速、国への手続きと、あと機材の手配に入ります」
 アナウンサー? 何のことだろう。
「この規模の自治体で、災害時FM放送を立ち上げるというのは、なかなか前例が少ない。何と言っても、県の支援が頼みの綱だ。よろしくお願いします」
 町長が、館山に頭を下げた。
 そこまで来て、小夜子は町長の言葉をようやく理解した。
――実はだね、この度わが町では、臨時災害ラジオ局を開設することになったのだ。そのアナウンサーを、上月君、あなたにお願いしたいのだよ。どうだろうかね、引き受けてはもらえないだろうか?
「ええっ?」
 突然叫び声を上げた彼女を、三人は驚いたように見つめた。「町長」のプレートと並ぶようにデスクの上に乗っかった狸の焼き物も、目を剥いているようだった。

 国や県との折衝は館山主査が、技術的なサポートはNHKの関連会社が請け負って、開局の準備は急ピッチで進んだ。小夜子はというと、役場近くでは一軒だけの書店で取り寄せてもらった「アナウンサー入門」を読んで、庁舎の屋上で発声練習をやってみたりしていた。アメンボって紅かったかしら、裏庭の池にいたはずだけど、などと思いながら彼女が発する声は、向かいの山肌に反射してわずかな残響を返した。山頂の鉄塔では、送信アンテナの設置作業が行われていた。
 可搬型送信機を中核とする各種機材は、山間部への入り口に当たる麓の町、下柳にある南部地域振興局に一旦持ち込まれて、そこからこの小杉へと搬入される段取りになっていた。いよいよそれらの機材が届くというその日、小夜子も館山主査たちのチームと一緒に、駅まで搬入作業の様子を見に行った。
 この町のメインストリート――ごくささやかな規模の商店街に過ぎないが――の外れにある駅は、ちょうど断崖に面したような場所に立っている。幸い、豪雨の被害は受けていなかった。
 駅舎の中を通り抜けて、崖の向こうに突き出たバルコニーのような積卸場に立つと、遥か向こうの山頂を目指して緩やかな弧を描くロープと、その下にまばらに吊り下げられたゴンドラが目に入ってくる。駅というのは、下柳町から小杉までの間を結ぶ、「架空索道」と呼ばれるロープウェイの乗り場なのだった。
 ロープウェイと言っても基本は貨物などの輸送用で、観光地の乗り物のような華やかさはまるでない。濃緑色の鉄板を螺子止めしただけの無愛想な箱、それがつまりゴンドラで、窓にはガラスの代わりに鉄格子がはめ込んであるだけだ。巨大な虫かご、もしくは空飛ぶ檻とでも言った感じの代物だ。
 今回の災害に当たっても、この架空索道は物資の搬送に活躍していた。橋が落ちた今、旧道経由のトラックだけでは、輸送力が完全に不足している。貨物だけではなく、人を乗せることもまれにあったのだが、所要時間はともかく、快適な旅とは言い難かった。ゴンドラ内に旅客向けの設備はほとんどなく、簡易な腰かけが設置されている程度だったし、ガラスのない窓は風通しが良すぎた。
 ぼんやりと霞んで見えた遠くのゴンドラが、ゆっくりと近づいてきては積卸場の上をぐるりとターンして行き、その間に係員によって荷物の積み下ろしが行われる。そして、遠ざかって再びシルエットになる。その繰り返しを見るのが、小夜子は子供の時から好きだった。物心がつく頃までは両親と、そして二人が居なくなってからは祖父母に連れられて、彼女はよく駅にやってきたものだった。
 ゴンドラが去っていく彼方がどんなところなのか、幼い彼女にはその行き先があまりにも遠く思えて、想像もできなかった。下柳まで時々買い物などに出かけるようになってからも、ゴンドラの行き先である謎の場所と現実の下柳の町は、彼女の中では別物であり続けた。山麓側の駅というものも、未だに見たことがない。
 放送機材類はオーディオプロセッサーやミキサー、電源装置などユニットごとにばらされ、厳重に梱包されて搬送されてきた。一つ一つの荷物はそれほど大きなものではなく、ゴンドラからの荷下ろしはスムーズに完了した。それらを軽ワゴンに乗せ換えて役場まで運び、技術担当の人たちが梱包を解く。中から出てきたのは、家庭用のオーディオ機器などと大差ない機械ばかりだった。スイッチ類の数の多さこそ物々しいものの、こんな簡単なもので放送局が作れるのかと、小夜子は拍子抜けした。
「そう、だからそんなに構えなくても大丈夫なのですよ。ラジオ局と言っても、その程度のものです。アナウンサーなどと言うから大げさですが、つまりは気軽にしゃべってもらえれば構いません」
 と館山主査はにこやかに言うのだった。
 ハード面の整備と並行して、番組の編成などのソフト面についても検討が進められた。小夜子が担当するのはメインとなる情報番組で、平日の夕方からの生放送が一時間と、その録音による再放送が三回。あとは町内に住む高校生たちによる番組や、全国のコミュニティFM局共同制作による音楽番組などが放送されることが決定した。
 気負わなくて良いと言われ、そうしようとも思うのだが、のしかかるプレッシャーはどうにもならなかった。毎日一時間もの放送。誰に向かって、どんなことをどのようにしゃべればいいのか。何もわからない、決められないまま、放送本番に突っ込んで行く。いくら臨時の、簡易な放送局だとは言っても、そんなことで良いのか。
 小夜子が繰り返す発声練習の声は次第に柔らかさを失い、緊迫感を増した。鳩やカラスが役場の周辺を避けて飛んでいるような、彼女にはそんな気さえした。超音波防鳥機じゃあるまいし、と溜め息をつきながら、すっかり暗くなった屋上から階段を下りてきた彼女は、廊下で館山主査とばったり出くわした。
「おや、お疲れさま。遅くまで頑張ってるね」
 そう言った彼は、なぜか泥だらけのジャージをはいていて、首に濡れタオルを巻いている。
「はい……いえ、でも」
 と彼女はうつむいた。
「そうだ。今から真田君、ほらNHKテクノサービスの、機材セッティングしてくれてる彼。彼と焼き鳥に行くんだけど。どうですか、一緒に。こんな汚い格好で、申し訳ないけど」
「焼き鳥……ですか?」
「旅館の並びにある、あの店に。鶏将軍だったかな、町内で唯一の焼き鳥屋さんだとか聞きましたが」
 と彼は言った。山あいの村にあるたった一軒の焼き鳥屋、というと何やら風情がありそうだが、実際にはチェーンの居酒屋で、なんでまたこんな場所に出店したのか、そこは謎だった。
「あんまり気が乗らないかな? まあ、僕らみたいなおっさんが集まる店だろうから、上月さんみたいな若い人は……」
「いえ、そんなことないです」
 彼女は慌てて手を振った。真田という人はよく知らないし、馴染みのない相手と一緒に食事をするのは苦手なのだったが、このまま一人の部屋に帰りたいような気分ではなかった。
 館山と小夜子、それに作業服姿の真田技師の三人は、いつもの谷川沿いの道を旅館街へと歩いた。
「いやあ、上月さんとこうしてお話しするのは初めてですね」
 と真田は嬉しそうだった。館山とは対照的に小柄な童顔で、親しみやすい雰囲気が小夜子をほっとさせた。
「きっと臨時局はうまく行きます。あなたは、なかなか声がいい。静かだが芯がある、森の緑に良く響きそうな、そんな声なんですよね。美人アナウンサーなのが、ラジオじゃ分からないのがいささか残念だけど」
「はい。いいえ、ありがとうございます」
「面白いでしょう、こいつは」
 館山は笑った。
 赤い看板と、黄色く光る提灯が派手な大手の焼き鳥屋は、集落内の他の場所であれば完全に浮き上がって見えただろう。この時間ともなると、例え商店街であっても、小さな白熱電球で照らされた看板とか、冷たい色をした電話ボックスの蛍光灯くらいしか灯りは見あたらないのである。しかし旅館街のそばにあるおかげで、安物のチェーンに過ぎない店も、通りの華やかさに花を添えているように見えた。
 外見とは裏腹に店内は薄暗く、案外腰を落ち着けてゆっくりできそうな雰囲気だった。満席にまではなっていないが、店員は注文を取るのに忙しそうだ。
 男二人と小夜子は向かい合うように、テーブル席に座った。頭上のスポット照明が、「きも」だの「かわ」だのと串の名前がずらりとならんだメニューを照らしている。
「あの、一つお聞きしてもいいですか?」
 店長おすすめレディース串盛りセットとかいうのを頼み、カシスソーダで乾杯した後、彼女はおすおずと切り出した。
「さっき、おじさんとかおっしゃっておられたのですけど、お二人ともそんな風にはあんまり見えなくて……」
「ああ、何歳かってことだよね。どうだったっけ、俺たち」
 真田技師が、館山主査の顔を見た。
「二十五だって言っておこうか、この際」
「さすがに厚かましいよ。十年もサバ読むのは」
 館山が苦笑した。
「昔からのお友達なんですか? お二人は」
 と小夜子は重ねて訊ねた。ずいぶん、仲が良さそうに見える。
「実は同じ大学で、サーフィン同好会だったんですよ、僕ら」
「サーフィン」
 彼女は驚いたように、そう言った真田技師を見つめた。
「ありゃ、やっぱりそんな風には見えないか、俺ら。まあ、俺なんかは浜辺でばしゃばしゃやってただけで、伝説のビッグウェーブ的なもんには縁がなかったけどね」
「いえ、そうじゃなくて」
 小夜子は慌てて言った。
「サーフィンていうものをやったことがある人が、現実にいるんだってことが想像つかなくて……こんな山の奥ですし」
「そうか、じゃあいつか見せてあげますよ。俺はともかく、こいつは一応ちゃんと波に乗れるから。なあ?」
「大して変わらないよ、お前と」
 と館山はまた苦笑いした。
「でも、真田の場合はサーフィン自体よりもむしろ、ペパーミントFM作った、あっちのほうが意味が大きかったな」
「ペパーミント?」
 小夜子は訊ね返す。
「地元の大学サークルが集まって、ミニFM局を作ったんですよ、ビーチに。結構話題になってね、全国ニュースにもなったよ」
 真田技師が嬉し気に言った。
「何でか知らないけど、技術担当やらされて。いくら工学部だからって、サーフィン同好会なのに、俺。アマチュア無線部にでもやらせりゃ良かったと思うんですけどね。でも結局、あれが高じてNHKテクノなんか入って、こういう仕事をやることになったわけだけど」
「サークルのOB会で集まったら、地域FM局開設のバックアップ業務をやってるっていうんで、やっぱりそういう方向か、ってみんな笑ってましたね。臨時災害局ってのも、その時教えてもらったんですよ」
 館山主査が説明した。
「じゃあ真田さんは、あちこちで臨時局の開局に関わって来られたんですか?」
「そう、これでもう十箇所くらいかな。でも、開局を自分で仕切るのは実は初めてなんだ。この小杉局は特に小規模だから、一度一人でやってみろって任されて。だから」
 真田は一息ついて、ビールを口にした。
「思い入れありますよ、やっぱり。うまく行って欲しいな」
 そう言われて、小夜子はうつむいてしまった。スポットライトに照らされたカシスソーダの泡が、ぶつぶつと弾けている。
「不思議だね」
 と館山主査が言った。
「真田が言うとおり、上月さんのアナウンス、悪くないと思うんだけど。でも、自信がない?」
「はい。緊張してしまって、緊張すると声が固まってしまう気がして、そんな落ち着かないアナウンスみんな嫌だろうって思ったら、また緊張して……」
「そうですか。緊張しなくていい、って言っても難しいのはよく分かるし。緊張しながら、ともかくやるしかないだろうね。ただ」
 館山は、何かまぶしいものを見るような眼をして、彼女を見つめた。
「僕は君の声、好きだけどな。君の言う、固まった声というのも。クリスタル・ガラスだって、あれは随分硬いけど、だから駄目だとかいう人いないわけだから。放送、僕は楽しみにしてます」
 隣の真田が手羽先と格闘しながら、うんうんとうなずく。ガラスの例えは、正直なところ何だか良く分からなかったが、それでも小夜子は気持ちが軽くなるのを感じていた。誰に向かって、何をどうしゃべればいいのか、その答えが出たような気がしたのだった。

 館山たちの宿舎となっている旅館は、焼き鳥屋のすぐ二軒隣だったから、小夜子は一人で家まで帰るつもりでいた。しかし館山も真田も、そんなのとんでもないと彼女を家まで送ってくれることになった。小夜子にしてみれば、集落の中なんだから夜でも一人で平気なのにとも思うのだが、二人がそう言ってくれるのは嬉しかった。
 再び川沿いを歩いて集落の中心近くまで戻り、そこから山側へと上って行った斜面の途中に、小夜子の住む家はあった。元々は萱葺き、今は茶色いトタンで覆われた屋根を持つ入母屋造りの一軒家が、整然と積まれた石垣の上に載っている。通りから見上げると三角形の高い屋根が、背後の月明かりにシルエットとなって浮かび上がっていた。
「こりゃあ見事だ。文化財ですねえ」
 真田技師が感心した。
「中を、ご覧になりますか?」
 小夜子が言った。
「いや、こんな時間からじゃ、ご家族に悪いよ」
「いえ、私一人ですから」
「そうなの? このお家で?」
 真田が驚いた顔をした。
「ええ。生まれた時から、ずっとこの家なんです。今はもう、二部屋しか使っていないんですけど……」
「見学は、また今度にしておこう。女性の一人暮らしのお家に、いきなりお邪魔するのも失礼だからね」
 館山主査が、静かな声で言った。辺りには、虫の声が響いていた。
「うん、そりゃそうだ。また改めて、ということにしよう。それじゃ上月さん、僕らはこれで失礼させてもらうよ」
「はい、じゃあまた今度。今晩は楽しかったです。ごちそうさまでした」
 小夜子がお辞儀をすると、館山たちは「こちらこそ、楽しかったよ」「じゃあね」と手を振って帰って行った。満月に照らされながら、坂道を下っていく二人の姿が見えなくなるまで、彼女は石垣のそばに佇んでいた。彼方では家々の明かりが、夜景と呼ぶには少し寂しく、まばらに散らばって灯っていた。そんな中を、赤い回転灯の光がゆっくりと横切って行った。

 豪雨から約二箇月後、小杉町臨時災害放送局は開局した。決して早いペースでの放送開始とは言えなかったが、母体となるコミュニティ放送局も持たない、山間の小規模自治体としては、これが精一杯だった。
「町民のみなさまの心に寄り添い、日々の支えになるような、そんなつながりの得られる局を目指します」という町長による開局の挨拶が、放送開始の第一声ということになっていたが、本当の第一声になったのは小夜子が読み上げるコールサインだった。
「JОYZ-9QPFM、こちらは小杉町臨時災害放送局、小杉さいがいエフエムです。周波数、77.4メガヘルツ、空中線電力10W、小杉町役場内のスタジオからお送りいたします」
 これだけの内容をゆっくりと、しかし一気に読み終えると、スタジオである会議室の中に集まったスタッフの間で拍手が起きた。と言っても、物音を立てるわけにはいかないから、あくまで拍手をする真似だけである。館山も笑顔でうなずいてくれて、小夜子にはそれが嬉しかった。彼に聞いてもらうようなつもりで、彼女はしゃべったのである。
 放送は、順調だった。技術的にも、運営上でも、大きなトラブルは一つも発生しなかった。立ち上げ段階での準備が、それだけしっかりしていたのである。館山主査も真田技師も、満足げだった。
 しかし、順調だということは、つまりは応援要員の撤収が可能だと言うことを意味する。当初の予定通り一箇月で、館山たちは町を引き揚げることになった。
 良かった、と小夜子は思った。自分たちがミスをして足を引っ張ったりして、二人を引き留めてしまうようなことにならなくて、本当に良かった。ちゃんとあの人たちに、心おきなく帰ってもらえる。これで、いいのだ。
 館山たちが小杉で過ごす最後の日曜日、小夜子は二人を自宅へと招待して、晩御飯をご馳走した。土間から板張り床の広間に上がると、その真ん中には囲炉裏が切られていて、真田技師は感激の面持ちだった。
「こういう夢を見たことがあるような気がするんだ。囲炉裏のある部屋で、若い娘さんがご馳走を振る舞ってくれる、そんな夢を」
 天井を見上げながら、彼は溜息をついた。自然木の形そのままにカーブした、太い梁に取り付けられた数本の蛍光灯が、彼らを照らしていた。囲炉裏の上には火棚という、簀の子状の大きな板が吊るされ、その下には鍋や薬缶などをぶら下げる自在鉤が伸びているが、そのさらに上方は暗くて良く分からない。天井などなくて、そのまま空につながっているようにも見える。
 床に置かれたちゃぶ台の前に館山たちが座ると、小夜子が揚げたての天ぷらを運んで来た。町内の山で採れるというキノコや山菜を使った天ぷらがたっぷり三人分、ちゃぶ台の上に並ぶ。
「うん、これはうまい。お店ができるよ、これなら」
 と言いながら真田は天ぷらの衣をバリバリと齧るが、何を揚げたものなのかは良く分かっていない様子である。
「ほんとだね」
 と館山もうなずきながら、マタタビの天ぷらに箸を伸ばした。小さな声で「ありがとうございます」と言って、小夜子は照れたような顔をしている。山盛りだった天ぷらは、たちまちに数を減らした。
「それにしても手入れというのか、こういう家を維持するのはなかなか大変そうだけど」
 館山が、黒ずんだ床板を撫でた。
「奥のお座敷までは手が回らないので、祖母が亡くなった時から使っていませんし、屋根の葺き替えは無理なのでトタンにしてしまいましたし……。年に一度、近所の皆さんが大掃除を手伝ってくれるので、何とかなってます」
 館山主査と真田技師は、揃って何か言いたげな顔をした。しかし二人とも黙って、天ぷらに箸を伸ばす。
 電話のベルが鳴った。文字通りベルをリンリンと鳴らしているのは、小振りの茶箪笥の上に置かれた、回転ダイヤル式の電話機だった。黒電話ではなくライトグリーンの、比較的新しめの機種ではあったが、プッシュホンが普及した昨今においては、こういう電話機を見かけることはまれだ。
「はい、上月です。ええ。いえ、そんな予定は。はい、ありません。申し訳ありませんけど。では」
 受話器を置いた時の、チンという微かなベルの音が、余韻となって部屋に残った。
「何かの勧誘電話?」
 と真田が訊ねた。
「ええ、プルトニウム先物ですって。こんな山奥にかけてきて、どうするのかしら。お年寄りを騙そう、とか思ってるのかもしれないけれど」
 彼女は、寂しげに笑った。
「もし、良かったら……」
 館山が、そう言って咳ばらいをした。
「上月さんの電話番号、教えておいてもらえないですか? 向こうに戻った後も、もちろん僕らはサポートを行うつもりですが……役所の公式ルートだけじゃなくて、上月さんからの直接の情報が欲しい時もあるかも知れないし……相談に乗ったりすることもできるかも知れないので。もし良かったら、だけどね、もちろん」
 小夜子は黙って立ち上がり、電話機の横に置かれたメモ用紙を一枚取ると、六桁の市外局番から始まる数字を書き付けた。
「あの、ありがとうございます。良かったら、館山主査のお電話番号も……」
 そう言いかけて、彼女は慌てて「いえ、お二人の電話番号も」と言い直した。
「お、俺のもか。いいとも、いいとも。可搬型送信機の調子が悪くなったらかけておいで。どういうリズムで叩いたら直るか、教えたげるから」
 真田技師は愉快そうに笑った。
 小夜子が二枚に増えたメモを館山たちに渡し、二人の電話番号を教えてもらうと、先ほどからちゃぶ台の上に漂っていた緊張感のようなものが、ほどけて消えた。そして同時に小夜子は、館山が去ってしまうということを、自分がどれだけ寂しく、不安に思っていたのかを初めてまともに受け止めることができた。手元に残ったランダムな数字の並びは、ただの数字ではなかった。

 午後のバス便で町を離れることになるその日、館山主査は朝からあちこちを挨拶して回った。まずは一箇月間お世話になった旅館の女将さんたち、アンテナの設置に協力してくれた電力会社の営業所、番組に出演してくれている高校生たちの学校。どこへ行っても彼は「もう帰ってしまうんですか」と残念そうな顔をされるのだった。
 商店の親父さんや、農家のおばあちゃんまでが、彼が去るのを惜しんでくれた。仕事の合間に彼は、浸水でめちゃくちゃになった店の倉庫を掃除したり、田んぼに流れ着いたがれきを片づけたりと言ったボランティア活動にも取り組んでいたのだった。真田技師には「スーパーマンかよ、いつ休んでるんだ?」と呆れられたが、「どうも性分だな、じっとしてられないんだ」と館山は笑うのだった。
 役場の中も一通り挨拶回りを済ませ、最後に訪れた町長室で「本当に世話になりました、ありがとう」と町長にがっちりと握手をされて、これで後は帰るばかりとなった。
 バスは、町役場のちょうど正面から出発する。役場の中にある職員食堂で昼食を済ませた彼は、そのままそこで発車時刻を待つことにした。真田技師は仕事の都合で明日の便に乗ることになっていたから、帰りも彼一人である。
 昼休みが終わると、役場の職員はみんな職場に戻って行った。がら空きになった食堂で、パイプ椅子に座った館山が甘くて薄いアイスコーヒーを飲んでいると、何かファイルを手にした小夜子が姿を現した。企画総務課でも挨拶はしたのだが、課員全員の前でしゃべっただけなので、特に小夜子と話す機会は無かった。「おや、どうしたの」と声を掛けながら、彼は自然に笑顔になる。
「出発間際に済みません。一昨日の出勤簿のハンコが漏れていたもので……」
「あ、そうか。ごめん」
 館山は慌ててポケットを探り、カバンを開くが、印鑑がない。昨日一足先に送った荷物に一緒に入れてしまったらしかった。
「申し訳ない、ハンコがないみたいだ」
「じゃあお手数ですけども、これお渡ししておきますので、ハンコを押して振興局さんの総務課に提出しておいていただけますか。倉林さんという方」
「ああ、倉林さん。分かりました」
 と彼は、庶務担当の怖いおばさんの顔を思い出す。明日からまた元の生活に戻るのだと、ようやくそんな実感が湧く。
「もうすぐ、バスの時間ですね」
「うん、もうすぐだね」
「でも遠いですね、下柳まで」
「下柳からこちらへ来る時は、六時間くらいかかったかな」
「六時間も大変ですよね」
「なかなか大変だけど、ほんとに」
 アイスコーヒーのグラスで、溶けた氷が音を立てた。
「じゃあ、そろそろ行くね。色々、ありがとう。天ぷら、おいしかったです」
「お見送りさせてもらって、いいですか?」
 表情のない顔で、小夜子が言った。
「嬉しいけど、仕事は大丈夫?」
「お帰りを最後まで見送るのも仕事だと思うので。重田課長にも、そう言われました」
「なるほど、じゃあお願いしようかな」
 館山主査は、カバンを手にした。
 町役場正面入り口のすぐ脇に古い木製ベンチが置かれていて、その目の前がバスの停留所だった。円形の標識板には「小杉役場前」とある。時刻表には、一時間に一本くらいの頻度でバスの発車時刻が表示されていたが、こちらは町内のコミュニティバス。「下柳」の欄に書かれた数字は三つだけで、こちらの便は朝・昼・夕の一本ずつしかなかった。昼便に乗り損なうと、夕方の便で下柳に着くのは深夜になってしまう。
 発車時刻まで間があったが、すでにバスが停まっていて、しかしまだ誰も乗ってはいなかった。エンジンもかかっていない。
 館山と小夜子は、ベンチに並んで腰かけた。秋晴れの空は頭上高くずっと青く、風がさらさらと二人を撫でた。沈黙しているバスのせいか、辺りは普段以上にしんとしているようだった。
「電話」
 と館山が言った。
「またかけますね。かけていいですよね」
「はい」
 小夜子がうなずく。
 庁舎の前を、猫がゆっくり横切って行く。彼らは決して、物音を立てない。庁舎に出入りする客もいない。その静寂を破るようにバスのエンジンがかかり、ブザーが鳴った。下柳行きのワンマンカーです、とテープのアナウンスが流れる。猫は驚いたように走り去った。
「じゃあ、行きます。またね」
「また、お元気で」
 館山が乗り込んで、結局誰も他の乗客は現れないまま、発車時刻となった。ブザーが鳴り、ドアが閉まる。埃で曇ったガラスの向こうで、小夜子が無表情に手を振った。彼もまた、手を振り返す。エンジン音が、高鳴る。
 排気ガスの匂いを残してバスが去るのと同時に、彼女の表情が崩れた。歪む視界の中に小さくなっていく、ミントグリーンと臙脂の車体を見ながら、どうにかこんな顔は見られずに済んだ、と彼女はほっとしていた。

   *       *       *

 本来は、町内限定での放送となっているはずの臨時災害局だったが、実はその電波は平地の下柳にまで届いていた。地形の偶然で、送信塔と山麓の市街地とを結ぶ直線上に、電波を遮る山が一つもなかったのである。アンテナの上に立って目を凝らせば、三十キロ先に下柳の町が見えると言うことになる。
 開局に関わった彼にとっても、それは想定外のことだった。ある日の仕事帰り、カーラジオを試しに小杉さいがいFMに合わせてみて、彼は初めて放送が受信できることに気付いたのだった。チューナーの、オレンジ色に輝く数字が「77.4」になった途端に、ノイズの向こうから上月小夜子の声が聞こえてきたのである。市街地を外れると、声はさらにクリアになり、まるで彼女がすぐ間近でしゃべっているようだった。まっすぐ家へは帰らず、彼はしばらく郊外をドライブしながら、ラジオを聴いていた。
 その夜、彼はさっそく小夜子に電話して、下柳でも放送が聞こえるということを報告した。これが、彼女にかけた初めての電話だった。
「ほんとですか、嬉しいです」と彼女は言ったが、その喜びは実は「嬉しいです」どころではなかった。今も彼女はずっと、彼に聴いてもらっているようなつもりで放送を続けていたのだった。
 こうして、仕事帰りの車で上月小夜子の番組を聴くのが、彼にとっては何よりの楽しみになった。南へ向かう県道の行く手、月明かりの下に黒々と見えるあの山地から、電波はやってくる。彼女が、そこにいるのだ。

 明日も、明後日にも、同じ時間にこの放送を聴くことができるだろう。こうしてチューナーの数字を合わせさえすれば。彼はアクセルを踏み込む。道の両側に続く商店街の灯りが、後方へと流れ去って行く。車はまもなく、街から離れようとしていた。潮が退くように小さくなって行くノイズの向こうで、小夜子が笑っていた。

   *       *       *
 
 企画総務課に電話がかかってきたのは、夕方の放送を終えた小夜子が、コートを着て帰り支度を始めていた頃だった。暖房は定時で切られてしまっていて、執務室内はもうずいぶん冷え込んでいた。
「上月さん、電話。サナダさんっていう方から」
 と隣の係で残業していた職員に声を掛けられて、受話器を取った彼女は、誰からの電話だろうかと思った。サナダ……もしかして、あの真田さん? 赤く点滅している、保留ボタンを押す。
「もしもし。上月さんでしょうか?」
 という声が聞こえた。間違いない、真田技師だ。しかしなぜかその声は低く、暗い。
「以前そちらでお世話になった、NHKテクノロジーの真田です」
「はい、上月です。こんにちは、ご無沙汰してます」
「こんにちは。ごめんなさい、突然電話して」
 真田の声は、あくまで暗かった。
「あなたに、伝えておいたほうがいいかと思って。館山……のことなんですが」
 彼女の首筋を、冷たいものが走った。何か悪いことが起こったのだ。
「今日の午後だったようですが、事故……いや、事件と言うべきなんでしょうが、館山が巻き込まれました」
 地方振興局内に併設された保健福祉事務所で、トラブルが起きた。福祉制度の適用を巡って、納得が行かないと主張する初老の男が、カウンターで対応した新人職員に暴力を振るおうとしたのだ。持参したビール瓶で、殴ろうとしたらしい。そこにたまたま通りがかったのが、全く別の部署に所属する館山だった。彼は男を羽交い締めにしようとして、後方に転倒し、後頭部を強打した。男は取り押さえられ、逮捕されたが、そいつは元気でピンピンしている。館山は救急車で搬送され、今は集中治療室にいる。
「処置はうまく行ったようですが、意識が戻っていません。危険な状態を脱することができるか、今夜が山だと……」
 小夜子は、言葉を失った。今夜が山? そんなありきたりな表現が、あの人の生死の境目を意味しているというのか。
「行きます」
 と、彼女はそう口にしていた。そんな訳の分からない山を、独りで越えさせるなんて。
「今から、そちらに行きます。どちらの病院におられるのでしょうか、館山さんは」
「いや、しかし」
 真田技師は言葉を失った。
「こんな時間からじゃ……。病院は下柳の総合病院らしいですが、僕もまだ詳しくは。とにかく今から下柳に向かうところです」
「では、わたしもすぐに向かいます。後ほど、病院で。連絡ありがとうございました」
 いやちょっと待って、落ち着いてと繰り返す真田技師に、落ち着いています、大丈夫ですからと返事を返して、彼女は電話を切った。
 今から、下柳へ。もうバスはないから、車で行くしかない。仕事で時々運転することがある、公用車のミニカを借りられないか。
 課長席に目を遣る。幸い、重田課長がまだ残っていて、ワープロの小さなモノクロ画面をじっとにらんでいた。
「駄目だ」
 と、しかし課長は言い切った。
「気持ちは分かる。だが、危険すぎる。君まで事故に遭ったらどうするのだ。そもそも、鐘撞峠は夜間通行止めになっている。どうしようもない」
「でも……」
 涙があふれそうになって、しかし小夜子は我慢した。泣いている場合ではない。
 課長は、壁の出退表示器に目を遣った。
「町長、今日はまだおられるな。館山さんは、町長が県庁ルートで呼んでこられた人だから、何か分かるかも知れない。おいで」
 彼女にとっては、アナウンサーの仕事を依頼されたあの日以来の町長室。しかし町長の元には、まだ情報は何も入っていないようだった。
 下柳の振興局は電話がつながらず、町長は県庁の危機管理室にも電話を掛けてくれたが、こちらもまだ詳しい状況は把握していなかった。
「ともかく、明日の朝まで待つしかない。それまでは、彼の無事を我々も一緒に祈ろう」
 深刻な顔で、課長は言った。
「でも」
 と小夜子は再び、今度は町長に訴えかけた。
「どうしても、すぐに、わたしは行きたいのです。緊急の必要ということで県庁にお願いして、通行止めを解除してもらうわけには行かないでしょうか」
「いや、重田課長が言うとおり、あまりに危険だよ。それはできない。が……」
 町長はソファーから立ち上がり、壁にかけられた巨大な地図の前に立った。
「安全に降りる手段はある」
 指さした先には、直線の上にリボンが並んだような、地図記号が伸びていた。
「なるほど、架空索道ですか」
 課長がポケットから職員手帳を取り出し、ページを開く。
「あった、索道組合。頼んでみましょう」
「いや、私から頼もう。充て職とはいえ、一応は索道組合理事長だ。臨時で今晩だけ運行の延長を要請するくらいのことはできる。しかし」
 町長は、小夜子の目をのぞきこんだ。
「この季節だ。あれに、三時間というのは、言うほど簡単なことではないよ。私も夏場になら一度乗ったことがあるが……」
「ありがとうございます!」
 小夜子は深々と頭を下げた。
「すぐに、駅に行きます」
「迷いは、無いか」
 町長がつぶやく。

 重田課長の運転する公用車で、着替えのために一度家へと帰り、それから駅へと向かった。夜間は閉ざされる駅舎の入り口が、今日は開いていた。放電灯の強い光に照らされた積卸場の上を、鉄板と鉄格子でできた虫かごのようなゴンドラが、濃い陰を落としながらゆっくりと横切って行く。町長の指示通りに、索道はちゃんと動いていた。
 駅の中では索道の駆動装置である巨大な原動機がうなりを上げて作動しており、ケーブルの巻き付いた巨大な車輪のような装置がゆっくりと回転していた。空から帰ってきたゴンドラは、その回転と歩調を合わせるように、積卸場の上で半円形のループを描いて進んで行き、そして再び出発していく。明るい駅を出て、暗闇に塗りつぶされた空中へと旅立った濃緑色のゴンドラは、たちまちのうちに見えなくなった。今から、この空を旅することになるのだと思うと、やはり小夜子も恐ろしいような気持ちになった。でも、行かなければ。
「あんたかね、今からこれに乗って下柳へ行こうというお嬢さんは」
 そう言って、彼女の背中から声を掛けたのは、索道組合のマークが入った作業服を着た男性だった。髪が真っ白で、かなりの年輩なようだ。
「おや、あんたは確か上月さんのところの……」
「お世話になります、徳川運転長」
 重田課長が、頭を下げた。小夜子も慌てて、お辞儀する。
「理事長の指示となれば、わしも嫌とは言えんのでな。事情も聞いとる。しかし、冷え込みは相当なものになるぞ。そこは、分かっておいでかな」
 老人はそう言うと、服装を点検するかのように、彼女の首元から足の先までをじろりと睨めつけた。小夜子としては、手持ちの服の中で一番暖かそうな、分厚いウールのコートを着込んで来てはいた。
「まあ、その服なら良かろう。あと、風が強くなるとゴンドラが停まることがあるが、心配ない。揺れるから、ひっくり返らんようにだけ気をつけるように」
「夜間でも、運行に危険は無いのですよね?」
 課長が訊いた。
「当たり前だ。問題ない。衝突も脱線も起こらない、こんな安全な乗り物は他に無い」
 運転長は不機嫌な顔になった。課長は恐縮したように、済みませんと首をすくめる。
「さあ嬢ちゃん、急ぐんだろう。乗った、乗った」
 ちょうど積卸場の上に入ってきたゴンドラのほうへと追いやるように、運転長は小夜子の背中を押した。
「あ、ちょっと待って」
 重田課長がポケットから、小さな四角い機械を取り出した。ケーブルがぐるぐると巻き付けてある。
「これ、持って行って。何かあったら、業務連絡を流すから」
「ありがとうございます、課長」
 受け取った、イヤホン付きの2バンド・ポケットラジオを、彼女は胸元にしっかりと抱いた。これがあれば、一人空を行く間でもみんなとつながっていられる、そんな安心を受け取ったような気がしていた。
「ほら、次のゴンドラが来る。早く」
 再度急かされて小夜子は、ゴンドラのそばへと近づいた。運転長が扉を開き、彼女は身を屈めながら、その狭い内部へと乗り込む。運転長が外側から手を伸ばして、天井に取り付けられたソケットのスイッチをひねり、照明を灯してくれた。ピンポン玉くらいの暗い裸電球でも、このゴンドラの中では唯一の温もりではあった。
 隅に作られた一人用の座席に、彼女は腰を降ろした。お尻が何とか乗せられるという程度の狭い座席で、いかにも応急用という感じだ。ビロード張りの座席にはクッションもろくに入っていないらしく、ゴンドラの振動がもろに体に伝わってくる。板張りの床も、鉄板剥き出しの壁もあちこち傷だらけになっており、塗装の上に錆が浮き出ていた。
「向こうに着くまで、私は役場にいる。到着したら連絡してくれ。気を付けて」
 ロックされた扉の鉄格子の向こうから、重田課長が手を振った。
「それじゃ、行ってらっしゃい」
 隣で運転長がうなずく。ゴトンという衝撃とともに速度が上がり、メインケーブルに乗ったゴンドラはそのまま積卸場の上を離れて、空中へと飛び出した。ゴウン、ゴウンというリズミカルな振動と共に、ゴンドラは高度をどんどん上げながら進んで行く。もはや、遥か下方の地面まで、足元には何もない。
 ただ一基、灯りの点いた彼女のゴンドラは夜の闇の中で良く目立ち、駅からもしばらくの間、遠ざかっていく星のように見えていた。小さな光点となって、いよいよ識別できなくなるまで、重田課長は黙ってその姿を見送った。そんな課長の隣で運転長は、夜空を流れる暗い雲と、頭上の吹き流しとを交互ににらみつけていた。
 二人の姿はまた、ゴンドラの小夜子からも、放電灯の強烈な光が積卸場に作り出すシルエットとして、人型に見えていた。集落がみるみる遠ざかっても、家々のまばらな灯りの中でシリウスのように青白く輝く駅を、彼女はじっと見つめていた。
 最初の峠に立てられた支柱の、ずらりと並んだローラーの上をゴトゴトと乗り越えて、ケーブルが降下を始めると、ついに町の灯は山の向こうに見えなくなった。さらに谷間へと向かって降下し続け、星空さえ見えない完全な闇の中へと沈んで行く。頭上に灯る電球の光に、彼女は心から感謝した。闇は少なくとも、このゴンドラの中にまでは侵入して来ない。ただ、入り込む冷気までは防ぐことができない。分厚いコートだけが頼りである。
 ケーブルから伝わる振動で、ゴンドラ内部は決して静かとは言えない。しかしそれでも、周囲にどこまでも広がる山地の静けさを、彼女は感じ取ることができた。普段の生活においても、すぐ間近に触れることのできる静寂ではあったが、その只中にこうして独り漕ぎ出すのは初めてのことだ。
 子供の頃、そして学生時代のことを、小夜子は思い出す。ついには独りで向かい合うことになった世界は、恐ろしいほどに広かった。村の中に守られていなければ、人生の過酷さに打ち負かされてしまっていたかも知れない。だけどもう、簡単に倒れたりはしない。こうして一人で、どこへだって行ける。今はあの人のところへ、きっと何かができるはずだから。
 谷筋をしばらく進んだ索道は、再び登りの勾配へと差し掛かった。急激に高度が上がって行き、窓の外に星明りに浮かび上がる稜線が見えて来た。そのすぐ下側の山腹に、たった一軒だけ民家の窓が光っている。各集落から外れた山中に住む人たちが、町内にはごく少数ながらいるのだということは、統計資料を作成したことのある小夜子も知ってはいた。こうして実際にその住まいの灯りを目にするのは、ワープロに打ち込んだ数字を読むのとは全く違う。こんな隔絶された場所に暮らす気持ちというものは、どのようなものなのだろう。ただ、その窓から漏れる光の色は、今の彼女にはとても暖かそうに見えた。
 ゴンドラはそのままさらにぐんぐんと上昇を続け、周囲を囲んでいた山々はみんな、視界の下方へと消えて行った。見晴らしを遮るものはなくなり、鉄格子に顔を近づけると、ただ一面の星空が広がっていた。もしも銀河鉄道というものに乗る機会があれば、その車窓はこんな感じに見えるだろう。
 架空索道は、全線の最高地点に当たる難所、鐘突峠を越えつつあった。足元では、旧道がぐるぐると山を取り巻きながら、この峠を越えようとしているはずだ。しかしゴンドラは、天に向かって突き出た岩山の上を、支柱に支えられたケーブルだけを使って軽々と越えていく。
 遮るものが何もないということは、風もまともに吹き付けるということでもあった。鉄格子の間を通り抜ける風で、気温がさらに下がるのを感じて、彼女はコートの襟深く首を埋めた。揺れも、何だか大きくなってきたようだ。大丈夫かな、と小夜子が天井の向こうにあるはずのケーブルを見上げたその時、索道は速度を落として停止した。
 宙ぶらりんのまま静まり返ったゴンドラの中は、さらに寒々しく感じられた。大きく揺れる度に、頭上のケーブルが軋む音が聞こえる。五分待ち、十分待ち、しかしそれでも索道が動き出す気配はなかった。どうなっているんだろう。何か大きな故障でも起きたのではないだろうか。こんなところで、時間を無駄にしている場合ではないのに。
 そうだ、と小夜子は思い出した。ポケットの中の小さな機械、角張ったポータブルラジオをコートの内側から取り出して、イヤホンを両耳に挿す。ボリュームを回すとスイッチが入り、ザアザアとノイズが聴こえてきた。チューニングの針を動かし、目盛り「7」と「8」の間で紅いLEDがふうっと点灯したところで、ノイズが止んだ。代わりに聞こえてきたのは、聴き覚えがあるようで、しかし知っているのとは違う声、小夜子自身の声だった。
 夕方の生放送を録音した、再放送。数時間後の自分が、夜空の真っ只中にいるなどとは想像もしていない。町とつながるはずのこのラジオだが、こうしてつながった先は自分であり、それならここで一人言をつぶやいているのと変わりないのではないか。しかも、お便りを送ってくれた町民を励ます自分自身の声に、今の自分が励まされているような気持ちまでしてきて、まるで時空が歪んでいるかのようだ。
「それでは、音楽をお送りします。朱里沢にお住いの天野さんのリクエスト、円広志さんで『夢想花』」
 ついさっき、会議室のスタジオで聞いたばかりの古い曲が、また流れる。そして飛んだり、回ったりの繰り返しが何度目かのループに入ったその時、チャイムが突然ピンポンパンと曲に割り込んできた。えへん、と咳払いしたのは、これは重田課長の声だ。
「ええと、架空索道をご利用中の方に、臨時の連絡です。現在、上空を通過中の雲の影響により、突風に見舞われる可能性があるため、運転を休止しています。ゴンドラが大きく揺れる可能性もあるので、どうか気を付けるように。なお、雲が遠ざかり次第、間もなく運行は再開される見込みです。以上、グッド・ラック」
 こんな状況だというのに、小夜子は笑い出してしまった。放送を聞いている他の人たちには、なぜ突然こんな臨時情報が流れたのか、何がグッド・ラックなのか、わけが分からないだろう。ほとんど、放送事故すれすれなのではないか。
 状況が判明したこと、それにこのラジオがちゃんと町とつながっているのだと分かったことで、彼女は落ち着きを取り戻した。重田課長が見守ってくれている。何か事態の急変があれば、すぐに知らせてくれるはずだ。
 とにかく、待つしかない。鉄板そのままで、分厚いコート越しでもひんやりと感じられるような壁にもたれて、彼女はイヤホンから流れてくる曲をじっと聴いていた。次の曲は何年か前にヒットしたロックンロールで、サビが最後の繰り返しに入ると、分厚い重低音が背後に重なり合って聞こえた。こんな小さなラジオ、簡単なイヤホンなのに、随分迫力のある音が出るものなのねと彼女が呑気に思ううちに、曲はフェードアウトで終わる。しかし、地鳴りのような低い音は、終わらない。それは、ゴンドラの外からやって来る音だった。風が鳴っているのだ。思わず彼女は、イヤホンを外した。
 獣のうなり声にも聞こえる禍々しい風の音は、獲物を追いつめようとしているかのように、高まっては抑えての波を繰り返した。その都度、ゴンドラは海上の小舟のように左右へと揺れる。突風に気をつけるように、という重田課長のアナウンスを思い出した彼女が身構えたその時、急に押し寄せてきた見えない何かが、キーンという金属的な音を彼女の耳の奥に送り込んだ。
 次の瞬間ゴンドラは、巨人の手のひらで思い切り叩かれたような、そんな一撃を受けた。圧縮されて硬質な空気の塊となったダウンバーストが、ゴンドラにまともにぶつかったのだった。ゴンドラは大きく斜めに傾き、小夜子は椅子から転げ落ちた。素通しの窓はいつの間にか足元近くにあり、格子の向こうには遥か下方の木々が黒々と見えた。このまま地面に打ち落とされてしまうのではないか、と彼女は思った。
 しかしそれは、ほんの一瞬の間だけのことだった。隙間だらけのゴンドラを吹き抜けて、突風はすぐに去って行った。途端に、横倒しに近いくらいに傾いていたゴンドラは元の姿勢を取り戻し、その弾みで小夜子は再び床にひっくり返った。
 その一撃を置き土産に雲は去ったようで、ゴンドラは間もなく再び動き始めた。幸い、彼女に怪我はなかった。モコモコのコートが、二度の転倒から守ってくれたのだった。小型ラジオも、ポケットの中で無事だった。
 ケーブルを支えるローラーのゴトゴトという振動のあと、ゴンドラは再び下降に転じた。鐘衝峠の岩山にそびえ立つ支柱を、ついに越えたのだった。山地の最高地点。昼間なら、山々の続く雄大な風景が足下に広がるのが見えただろう。
 そこからしばらくは、急な下りが続いた。山の陰に隠れたこともあって、風はおさまったが、ラジオの電波も悪くなった。再放送の時間は終わり、イヤホンからは音楽ばかりが流れる。自分のしゃべる番組を聴いていても仕方ないようだが、音楽だけというのもまた淋しい。たまに流れる役場からのお知らせCM、イベントや補助金の申請期限などを伝える各部署の職員の声が、懐かしくさえ思えた。つい二時間前にあの企画総務課の執務室にいたなんて、信じられない。
 降下が続くうちに、窓から霧が入って来た。霧というよりも、雲の中に突っ込んだのかも知れない。乳白色の水蒸気が次々と窓から侵入して来て、電球の周りで輝きながら渦を巻いた。視界は白く覆われ、深呼吸の度に、湿気の匂いがする霧が胸を満たしていく。
 ラジオからは、ビーチ・ボーイズの古い歌が流れていて、これほど今の状況に場違いな曲があるだろうかと、彼女はおかしくなった。カリフォルニアの海から、今ここはあまりにも遠い。真田さんたちが作ったというビーチFM局で流すのなら、ぴったりだっただろうけど。
 真っ白な視界の向こうに、彼女は写真でしか知らない南国の海と、頭上から照りつける太陽とを思い浮かべた。海の色と同じペパーミント・グリーンのボートハウスが砂浜に面して建ち、壁には「80.3」というFMの周波数がネオン文字で大きく書かれている。砂浜には誰もいなくて、遙か向こうにたった一人、サーフボードを持った背の高い人影が見えた。きっと、館山さんだ。
 ほんの一滴あふれた涙が、頬を伝った。でも、これっておかしい。泣くことなんか何もない。館山さんは、ちゃんと無事なのだから。
 視界が晴れた。ゴンドラは雲の中から抜け出したようだった。澄んだ冷たい空気に再び満たされたゴンドラの室内で、裸電球の輝きがくっきりとした光と影を作り出していた。
 難所の峠を越えたゴンドラは、登り下りを繰り返しながら順調に進んだ。ラジオの音楽もそれに合わせて強弱の間を揺れ動いたが、完全に途絶えることはなかった。あれ以来課長の「業務連絡」も無く、緊急の事態も起きていないようだった。もうすぐ、館山さんの所へ着く。小夜子はひたすらそう思いながら、窓の向こうを見つめ続けた。
 小さな峠を一つ越したところで、すっかり見慣れていた下界の暗闇に異変が起きた。町の灯りが姿を現したのだ。無数の、というほどではないが、簡単に数えられるような数でもない、いくつもの白い光点の広がり。下柳町の夜景だった。思わず息を呑んで、小夜子は座席から腰を浮かせた。こんな眺めは見たことがない。
 ちょうどイヤホンからは、オーケストラ・バージョンの「ミスターロンリー」が流れていた。まさに夜間飛行で、人気の深夜ラジオ番組そのままのシチュエーションではあったが、そのしゃれたナレーションを小夜子は知らない。自分の局以外のFM放送というのを、まだ聞いたことがなかった。
 架空索道はそのまま下降コースを取って、市街地の中へと真っ直ぐに向かっていた。高度はどんどん低くなり、本物のジェット機ではあり得ない超低空飛行の状態で、ゴンドラは夜の町のすぐ上空を進んで行った。鉄格子の向こうに見える町の眺めは美しかった。街路灯が並ぶ商店街も、飲み屋横丁のバーの灯も、校庭に飾られたクリスマスツリーにも、この高さからなら手が届きそうだった。
 そう、クリスマスなんだと彼女は思った。イブまではまだ日があったが、街ではすでにクリスマスなのだ。罪、咎、憂いを取り去りたもう――父なるその方が、あの人を見捨てたりするはずがない。だってクリスマスなのだから。悲しいことばかりが続いたあの頃でも、この時期だけは特別だったのだ。滅多に食べられないケーキの甘い香りと、点滅するツリーの色とりどりのランプ、その光の向こうに見えた幸せとを彼女は思い出す。ひどいことが起こるわけなんかない。
 放電灯の強い光が不意に、真昼の太陽のように窓から差し込んだ。ゴトゴトと大きく振動しながらゴンドラは前進し、屋内へと収納される。鉄工所の内部のような、がらんと広くて殺風景な空間。何台ものゴンドラがずらりと並んで待機していて、その頭上ではいくつものローラーを組み合わせたような機械装置が、うなりを上げて作動していた。ここが空の彼方にある終着の場所、下柳駅だった。
 駅の奥、ゴンドラの通り道を囲む低い鉄柵の切れ目で、索道組合の職員が待機していた。ちょうどその前まで来たところでゴンドラは停止し、同時にすべての機械装置が動作をやめた。彼女一人を運ぶためだけに延長されていた架空索道の運行が、たった今終了したのだった。
 職員が留め金を外して、ドアを開いてくれる。小夜子は身を屈めてゴンドラを降り、職員に礼を言った。それから、思い切り背伸びをした。固まり切った体のあちこちが急にほぐれて、ぎしぎしと痛む。静まりかえった駅の構内に、その音が響きそうなくらいだった。床面のコンクリートに落ちた彼女の影もまた、一緒に伸びをしていた。
 駅事務所の電話を借りて、彼女は重田課長に到着の報告をした。
「臨時情報、ありがとうございました。心強かったです」
「ああ、ちゃんと聞いてくれてたか。とにかく、無事に着けて良かった……などと言うと、徳川さんに怒られそうだが。無事に決まっている、とね」
「あれから、館山さんのこと、何か分かりましたか?」
 小夜子はそう言って、正面の壁に目を遣る。ゴシック体の数字が円形に並ぶ、いかにも事務所的な掛け時計の針が、第一報からすでに四時間が経過していることを示していた。
「真田さんから連絡があった。振興局近くの県立病院におられるとのことだ。容体に大きな変化はないらしいが……あとは現地で聞いてもらったほうがいいだろう。もう近くにいるわけだから。場所は分かるか?」
「大丈夫、だと思います」
 電話が置かれたデスクの、透明なガラスマットの下にちょうど、色あせた市街地図が挟みこまれていた。県立病院までの道筋を、彼女は指先で追う。硬質で、ひんやりとした感触。そんなに遠くはない。
「そうか。では、気を付けて。また病院からの連絡を待っている」
「はい、ありがとうございます」
 と電話を切ると、索道組合の職員にお礼を言って、小夜子は病院へと向かった。
 市街地の上に索道を通す都合からか、下柳駅は地上五階の位置に作られていた。巨大なやぐら状に組み上げた鉄骨の上に載っかったトタン張りの建物が駅舎で、一般乗客を相手にした施設ではないから、駅の表示はどこにもない。外からのゴンドラの出入りが無ければ、索道の乗り場だとはまず分からないだろう。
 駅から出るためには、地上までのらせん階段をグルグルと降りなければならなかった。ぼんやりと光る蛍光灯の下、濃緑色の鉄板で作られた階段を彼女は駆け下りる。連打されるかん高い靴音が、彼女の苛立ちを伝えているようだった。
 階段を降り切って外へ出ると、広場の向こうに鉄道の駅舎が見えた。まだ列車があるらしく、改札口が明るい。広場から真っ直ぐに伸びた通りが駅前商店街で、県立病院はその先にあるはずだ。
 道端に立ち並んだスズラン燈の柱に施された電飾が、青や黄色の光を瞬かせていた。洋菓子店のショウ・ウインドウには小さなツリーが飾られていたし、オモチャ屋さんの店先ではサンタ人形がおどけたポーズを取っている。小さな音で、クリスマス・ソングも流れていた。だけど、ひと気は無い。そんな通りを小夜子は足早に歩いた。
 目指す病院は、探すまでもなく見つかった。商店街を見下ろして壁のようにそびえる、ひときわ大きな建物の屋上近くに、「県立病院」の文字が緑色に光っていたのだ。時間外受付の小さな窓口で事情を話すと、ちゃんと話が通っていたらしく、職員がすぐに中へと案内してくれた。くすんだクリーム色のリノリウムが張られた廊下は、役場に少し似ているが、所々にツリーやリースが飾られていて、やはりここもクリスマスなのだ。
 廊下の向こう、集中治療室の銀色に輝くドアの前に真田技師の姿を見つけた小夜子は、またしても泣き出しそうになった。しかし、我慢する。
「上月さん! こちらです」
 と彼女を見つけた真田技師は、大きく手を振ってくれた。隣には紺スーツを着た、ふくよかな体形の女性が立っている。館山主査のご家族だろうか。
「良く来たね。こんな時間に遠くから、大変だったでしょう」
「はい。いいえ、大丈夫です。館山主査は……」
「それが……」
 真田技師は隣の女性を見た。
「こんばんは、初めまして。お疲れ様でした」
 五十年配のその女性は、柔らかい声でそう言って、小夜子にお辞儀した。
「南部地域振興局、広報支援・推進室長の小熊です」
 館山主査の上司、ということのようだ。小夜子も、慌てて頭を下げた。
「こんばんは。いつもお世話になっております。小杉町役場の、上月です」
「ラジオと同じ声ね。当たり前でしょうけど」
 小熊室長は微笑んだ。
「お聞き、頂いたのでしょうか」
 と小夜子は恐る恐る訊ねる。
「ええ。館山さんに、こちらでも受信できるということを教えてもらいました。私たちとしても気になっていましたからね。臨時局の開局支援と言うのは、初めてのことでしたから。彼が頑張ってくれたのが、良くわかりました」
 室長は、銀色の扉に目を遣った。
「今回は、残念なことが起きてしまいました。私たちも、責任を感じています。こんなことは、二度とあってはなりません」
「じゃあ……」
 小夜子は瞳を閉じた。足元の床が、溶解していく。
「命に別条のない負傷だった、というのは不幸中の幸いでした」
 と、室長は続けた。小夜子は目を見開く。天井の蛍光灯から、エンジェル・ラダーよろしく光が降り注ぐのが、見える気がした。
「しかし、彼は目を覚まそうとしません。中等度以上の脳震盪を起こしてはいるのですが、先生のお話では、脳に大きなダメージはないということなのです。普通なら、すぐに意識は戻るはず。なのに、バイタル数値は低下する一方らしくて……」
 元の薄暗い廊下に、小夜子は立っていた。
「あの、館山さんのご家族は?」
「私たちも詳しい事情までは知らないのですが……」
 室長は、真田技師を見る。
「あいつには、家族がいないんです」
 つぶやくように、真田は言った。
「学生時代には、ご両親はもうすでに」
 空気が一瞬にして失われたかのようだった。わたしと、変わらない。あの人は、わたしと同じなのだ。
「疲れてしまったのかも知れない。正しい位置を保つ、ってことに。ずっとそれだけがあいつの支えになって来た、そんな気がするんですよ」
 そう続けて真田は、扉の向こうをじっと見つめる。
 静かすぎる夜、わたしと同じあの夜を、館山さんもまた独りで歩き続けてきたのだと小夜子は思った。なのに、わたしは頼るばかりで――いや、違う。わたしだって、ここまで来た。夜を越えてやって来たのだ。
「独りじゃない」
 ICUベッドの上で眠る館山さんに、伝えなければならない。磨かれた扉の銀色は、あらゆるものを跳ね返してしまいそうだ。それでも彼女は、口に出さずにはいられなかった。それが、事実なのだから。伝えなければ。
「わたしがいる、独りじゃない。帰ってきて」

   *     *      *

 カーラジオから、少し昔に流行ったクリスマス・ソングが流れていた。市街地からはすっかり離れていたから、ノイズは少ない。そのレゲエっぽい曲調は、コンビニや消費者金融の店舗くらいしか姿を現さない、県道沿いの殺風景な夜景に不思議と良く似合っていた。フットレストに載せた左足で、彼はリズムを取る。
「サーファー・ボーイさんのリクエストで、『クリスマス・タイム・イン・ブルー』でした」
 曲が終わり、再び彼女の声が聞こえてきた。住所も何も書かない本当の匿名でハガキを送ったのだが、「安易なペンネーム、誰のリクエストかすぐ分かりますよ」と笑われてしまった。洒落たペンネームなんて思いつかないよ、と答えたが、本当は誰がリクエストしたのかバレたほうがいい。ちゃんと聴いているよ、なんてわざわざ言うよりは、まだしもスマートじゃないだろうか。
 独りじゃない。自分がそんな風に思えるようになるのかどうか、彼には分からない。波の上は、いつだってあんなに静かなのに。ただ、少なくとも彼女の声はちゃんと届いたし、今もこうして届いている。このままもうしばらく、走っていよう。今夜は特に、電波もクリアなようだから。

 アクセルを踏み込んだ。沿道の街灯、ネオンと看板、信号機の青が渾然となって、後方へと飛び去って行く。
 「77.4」の数字が、ダッシュボードでオレンジ色に輝いていた。フロントガラスの向こう、空低くに浮かぶ月が、行く手に横たわる山地を黒々としたシルエットに見せている。目を凝らせば、山の上に立つあの送信塔が見えるようだ。もしかしたら彼女も今頃、この月を見上げているかも知れない。
 夜空に電波を遮るものはない。これからもずっと、チューナーをこの周波数にセットすれば、彼女の放送を聴くことができるだろう。毎日、この時間に。
(了)

夜を越える道

夜を越える道

豪雨によって被害を受けた山間地の役場に勤める上月小夜子は、災害臨時FM局のアナウンサーに起用された。その電波は山を越えて、FM局の開局に当たって力を尽くしてくれた県庁職員、館山主査が住む平地の町まで届くのだという。彼女は館山に話しかけているようなつもりで、毎日の放送を続けていた。しかしある日の深夜、その館山が仕事で大けがを負ったという知らせが届く。彼女は「架空索道」と呼ばれる貨物用ロープウェイに乗って、平地の町を目指す。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-04-22

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