*星空文庫

Cry for the moon.

楓羽 作

Cry for the moon.

 夕方に降った雨のお陰で空が澄んで夜空に浮ぶ月もとても綺麗に大きく見える。
 日中の蒸し蒸しした気温も今はなりを潜めて開け放した窓からは涼風が入って来ていた。
 時間は夜中を過ぎて、街の喧騒もそれほどなく落ち着きがこの辺一体には広がっていた。

 自宅に帰る前に先輩の家に寄って犬の散歩に付き合った。
 やはり、就寝前の運動はぐったりする。そんなに無理に運動しなくてもいいと、彼は言うものの、いつになっても入社当時の私の写真を大事に持っているのがとても悔しくて仕方ない。
「あの人、携帯潰したくせにデータのバックアップとかはしっかりしてるんだもの……」
 先日、ちょっとした出来心で置いてあった携帯を覗いたのが間違いだった。前々からたまに何か見て嬉しそうに笑ってるな、と思っていたのだがどうやらそれは自分の写真であるようで、まさか消去しないようにパスワードまで掛かっているとは思わなかった。
「……ふう」
 風呂から上がったばかりでまだ熱を持っている疲れた身体には夜風が気持ちいい。
 静かなこの空間を壊すのが惜しくて、足音が立てないようにそっと窓を離れる。ソファーに寝転ぶと、まだ乾かない髪から水分がソファーへ移るのが判ったが動くのが億劫でそのままぼんやりと宙を眺めた。
 開けっぱなしの窓からは外の月明かりが差し込んで窓枠のシルエットを浮かび上がらせていた。部屋には私の呼吸と電気製品の小さなモーター音だけ、見つめる天井は光の加減で真っ白だった。
「疲れた…」
 両腕で顔を覆うと、私に襲い掛かるのは小さな不安だった。
 急にテーブルに置いた携帯が静けさを破る。起き上がらず手を伸ばしてそれを取ると、液晶には「先輩」の文字が浮かび上がっていた。
「はい」
『志野?』
 さっき、別れた時と同じ声。――優しい声。
『もう寝てたか?』
「今、お風呂上がった所ですよ」
 同じだけ歩いたはずなのに少しも疲れを感じさせない彼の声に、少し対抗心が出てしまった。勢いよく起き上がってわざわざ声のトーンを上げる。
「どうかしたんですか?」
『ああ、明日も散歩付き合うって言ってただろ?』
「はい」
 正直、散歩なら、と思って付き合ったそれは以外に疲れるものだった。運動不足が身に染みて息を上がらせてへばる私に彼は苦笑いしていた。それが悔しくて明日も付き合うと言ったのだが、最後まで苦笑いで「無理するな」と言われてしまった。
『ちょっと、明日の夜に用事入って遅くなるから、悪いが中止にしてくれ』
「いいですよ。謝らないで下さいって、くっ付いて行ってるのは私なんですし」
『そうか……今度は日中に行こう。のんびりと』
 そんな話をしながら、しばらく他愛もない話をした。だが、私にはその''他愛無い話''すら何処か遠くから聞こえ、答えも差し支えの無い返事しか出来なかった。
 電話を終えて、また窓辺に立つ。そこから窺うように見上げた月は満月には少し足りていない…それと自分の心中が重なって見える。
「……っ、」
 その感覚は唐突に訪れる。そのままその場にしゃがみ込んで、壁に背を付けた。足を床に投げ出すと、部屋を冷たく照らす十三夜月の光がぼやけてくる。
 あの人の願い、私の嘘。決定的に足りない何か。
「なんでこんなに遠い、って感じるのは私のせい」
 私の自答に返事などあるわけがない。だが、勝手に想いが口から溢れ出て止められない。その訳を私は知っていた。
 いつも優しくて、私の事考えてくれてて。たまに今日のように少し無茶しても付き合ってくれて、それでいて甘やかす。
 どうして、この人は私の事を好きでいるんだろう。
 どちらかと言えば無愛想で口の悪い人間だと自分では思う。いくら愛想よくしてる時だって、先輩は私の悪い面を垣間見ている筈だ。
 長くもないが、短い付き合いでもない。なのに、あの優しさや思いやりは何処から来るのだろう。
 私は先輩に自身を全て見せようとはしないのに。
「理由なんていらないの。……ただ好きなだけなんだし」
 そう呟くが、それでは足りないと私は思う。
 優しくされる度、甘やかされる度に、そんな自分の状況を冷静に見ている自分が現れる。
「私は全部を曝け出す程、強い意思とか無いんですよ、先輩……」
 そう呟きながら、瞬きすれば床に透明な滴が三つ落ちた。音もなく落ちたその滴の縁に月の光が当って小さな輝きを作った。
 綺麗なのに、とても綺麗なのに。
「こんなに気持ちになるなんて、どうしたらいいんだろう」
 こんなの初めてだ。自分がどうするべきか、それが判らない。目を閉じて浮ぶのは先輩の姿。微笑みながら優しい声で、仕草で、私を呼ぶ。
 何気ないやり取りに、紡がれる言葉に安らぎを感じては、それがすぐ消えてしまうかもしれないという想いが不安を掻き立ててくる。
 再び目を開ければ、月明かりがその寂しさに拍車をかけるように冷たい光を相変わらず降り注いでいた。
「どうしよう……何時までこんな風にあの人をはぐらかせるの?」
 「好き」という言葉も、抱きしめてくるその腕も、全て私に向けられてる。
 何度も何度も言われる言葉、自分だけに向けられている言葉。先輩の本心。
 そんなことをぐるぐると考えながら、また少しだけ泣いた。
 思うのはただ一つの事。
 ……どうして、そんなに私の事好きなんですか?私、切なくて、怖い。
 呟きは月の光にゆっくり静かに溶け込んだ。
「ああ、荷物持ってくるの忘れちゃった……」



「わっ……先輩?」
「ん?ああ、ここ使うのか」
 事務所の一室で寝転んでいたら、荷物を抱えた志野が入ってきた。
 両手いっぱいにダンボール箱を抱えて入り口に立っている志野はどうやら俺の寝ていた辺りに物を置こうとしていた所のようだった。
「悪い悪い」
「……何もソファー空いてるのに」
 ふあー、と欠伸をして立ち上がると身体を伸ばす。
「んー、そこのソファーだと頭が沈み過ぎてさ」
「だからって、床に寝るのはどうかと……」
呆れた様子で苦笑いの志野の頭をわしわしとなでて、箱の中身を覗き見た。
「もらい物?」
「……いえ、事務所で預かって貰ってた物です」
 無造作に詰められていたのは紙細工。未製作のセットや作成途中の中身が入っているらしく潰したくない為、引越しの際に潰さないように別にしておいたらしいのだが、このダンボール分だけ運送屋に頼み忘れてしまっていたらしい。
「持って帰らないのか?」
「これから出先に行って直帰予定なので、また今度にしようかと」
 結構な大きさのダンボールだ。これを持ち運ぶのは流石に邪魔だし、現場には勿論の事、電車でも迷惑だろう。かといって荷物自体は軽いので配達を頼むのも勿体無い。
「この辺なら置いていいっていうから」
「運んでおいてやろうか?」
「え?」
「家まで運んでやろうか、って」
 俺の申し出に目を丸くして驚く姿がやけに可愛く見えるものの、志野の口からは可愛くない言葉が紡がれる。
「いや、いいです。先輩、最近私の事甘やかしすぎです」
「へえ?言うようになったな」
 自分から「甘やかされている」のを認める発言をするとは考えてなかったので、嬉しくもある。だが、ちょっと拗ねたように見える志野の表情が気になった。
「別にこのくらい、甘やかしに入らないだろ」
「……いえ、私が帰ってくるまで私の家に居てついでとか言ってお風呂とご飯の準備までしてある、的な状況になるから。絶対」
「……まあ、そうかな?」
 それが甘やかしてるんだと、志野が顔を反らせながら言う。
 ……意地なのか、それとも距離を取りたがっているのか。両方か。とにかく俺にはどちらだとしても面白くないので、少し提案を変えてみた。
「じゃあ、俺ん家に取りに来くれば?ついでに犬の散歩に行ってくれると犬が凄く喜ぶんだが」
「……散歩?」
「運動したいって言ってただろ?結構運動になるぞ散歩」
 志野は少し迷ったような顔でじっと俺を見る。そして、じゃあそうさせて貰います、と呟いた。


「ありがとうございます」
 志野は家に来た際にお礼だと飲料品を差し入れて来た。
 そんな志野に微笑みで返し、頭を撫でる。
「気を使うな」
「や、ちゃんとしないとですね」
「ふうん?」
 あやふやにしたまま、犬の散歩に出かける。
 飯は、と聞いたのだが予想通りに「食べてきました」との返事が返ってきた。
 志野にリードを預け、それを後ろから眺めるように付いてゆく形で近場の公園に向かう。
 今日は夕方に雨が降ったお陰で、蒸し暑さも少し消え夜の散歩も清々しかった。
 犬にいい様にされながら右往左往している志野を微笑ましく眺めながら夜空の月を見上げると、満月に近づいているのが判るその大きさが眩しかった。
「大丈夫かー?」
「わ、わわわ!まって…っ」
「きゃん!」
 志野は、わふわふと楽しそうに走ったり歩く犬に翻弄されて公園に着く頃には息を乱れさせていた。
「苦しそうだなー」
「……う、運動不足を、実感しました」
 休憩と言いながらふらふらとベンチの方へと寄って行くのを見送って、犬のリードを外す。途端に犬が志野を追いかけて行って、その足元にじゃれ付き、志野を休ませようとしない。
「わかった、わかったって!遊ぶから!!」
「わん!」
 広いところにじゃれ付かれながら移動した志野は、犬と鬼ごっこするように走り回る。犬の細かい動きに翻弄されても、どうにか追い付いて捕まえようとしては逃げられ、暫くそうやって動き回っていた。
「ギ、ギブ……もーだめ!」
「おつかれさん」
 どかっ、とベンチに腰掛けてぐったりしている志野の足元では、犬も満足そうにしていた。
 じゃれている間に買ってきた水を志野に渡して、犬にも水を与える。
「すばしっこくて……」
「元は猟犬だからな。でも、俺と遊ぶより楽しそうだったぞ」
「そうなんですか?」
「俺だとすぐ捕まえられるって思ってるから、窺うようにしてあんま動き回らないんだよ」
「にしても、すごく疲れた!」
 そうか、と微笑んで志野を見つめる。確かに肩で息をして疲労感が全身から出ているので、相当来たのだろう。
「まあ、筋肉痛にならないといいな」
「うわー。それは考えてなかった!」
 嫌そうな顔をしながら苦笑いする志野は少しだけ子供に戻ったように見えた。
 自分の体力を回復するだけに寝ている事が多くなった時期があった。寝れば肉体はそれなりに回復するのだから当たり前と言えば当たり前なのだが。
 だが、体力のある俺でもその体力だけじゃ乗り切れない事が多いのが実際のところである。
 気力、それも重要だと気がついたのは一人で暮らすようになってからだった。
 不意打ちで受ける精神的ダメージを回復するための気力、それが歳を重ねる度に重要になる……
 志野は、その辺の事に疎いように思う。
 これは俺個人が受けた印象であって、本人が言っているわけでも周りがそう評価しているわけでもない。
 人の生き方にケチをつける気も口出しして引っかき回す事もしたくないが、志野に対してはどうしても構ってしまう俺は、それを認めてからは、事あるごとに「甘やかす」と言われるような行動を取る。
 自分の意識では「甘やかす行為」ではなく、どちらかと言うと「ちょっかいを出す」行為に近いのだが、周りの評価は「志野に甘い」となってしまっていた。
「なんか、先輩機嫌良くないですか?」
「そうか?」
 志野にそう言われ、自分が嬉しそうに見えるのに気が付いた。確かに今の気分は良い気分で、それこそ志野を構い倒したい気分だった。
「……なんか企んでいるとか?」
 胡散臭そうに見返されたが、気分は変らず良い。怪訝そうに少し志野が座りなおして距離を取る。
「企んでなんかないぞ?」
「どうだか……」
 ふと、雲が流れて見える範囲全てが月明かりに照らされる。
 刺すような鋭い月明かりだ、と思った。
 目に見える一面が銀色の薄布を被ったかのように見え、そこを涼しい風が掠めて流れて行く。
「今何時です?」
「ん、九時だな」
「そろそろ、帰ります。また、明日も付き合っていいですか?ホント運動不足実感した!」
「そうか、いつでも付き合ってくれていいけど。無理はするなよ。息もう平気か?」
 頷きながら立ち上がった志野は笑って平気だ、と笑っていた。
 そのまま、駅まで送ろうと再び犬にリードを繋いで今度はゆっくりと道路を歩く。
「なぁ、志野。登山家の有名な台詞知ってるか?」
「え?」
 俺の質問に一瞬戸惑ったようにして答える。
「そこに山があるから、とか?」
 ロマン的な発想だよな、と笑う。
「"Because it is there."ってジョージ・マロリー本人は面倒くさくて適当に答えてたっても言われてる。山ってのは日本語に訳した人間がそう訳したそうだ」
「へえ」
「でも、それが登山家の信念を表す名言になってるんだから凄いと思う」
 お前はどう思う?と、問いかけると志野の足が止まった。
「……山に対して?」
「物事に」
 少し考えて、下を向いたまま歩き出す志野の視線の先には犬がいた。
 並んで歩きながら、答えない志野を撫でて呟く。
「俺は、魂がそうしろと叫ぶからそうしようとするんだと思うんだ」
 俺を見た志野の表情は光の加減ではっきりしない。
「……何か強そう」
「心の底からしたいと思う事しねぇと後悔するぞ」
 返ってきた志野の声は落ち着いていてはっきり聞こえる。
「先輩は後悔してるんですか?」
 色々な事に。と、問われる。
「俺は、あんま後悔なんてしてないぞ」
「そうなんですか?」
「うん、お前と出合った事もぜんぶひっくるめて」
「うわ~口説いてますね?」
「口説かないでどうするよ?」
 駅に近づいて俺は悪戯な微笑を志野に向けた。そんな俺に志野は真剣な表情になりじっと見つめてくる。
「……考えてはみます」
 俺と目線を合わせたまま、静かにそう呟いた。
「……お前の事は、お前しか決められない」
「はい」
 間近でみる志野の瞳は澄んでいて、ひどく深い色をしていた。こんな風に近くで瞳を見つめる事はあまりない。もっとずっと見ていたいと勝手な願いが浮んでくる。
「……なんですか?」
 言い渋る俺を珍しくおもったのか、志野がにゆっくりと問いかけてくる。瞬きをして、柔らかい表情になればいいと一呼吸置いて俺が紡いだ言葉。
 それは……
「そこに、俺が居ても居なくても、それがお前だ」
 風が二人の間を吹きぬけていく。夏の気を含んだ風は何かを吹き飛ばす程の威力はないが、かき回すことは出来る筈だ。
 風が去って後に残ったのはじっと見つめあっている事実だけだった。
「本心だ」
「……」
 何も言えなくなってしまった志野の頭をぐしゃぐしゃと強く撫でる。
「いたいです」と声が漏れるが、志野は俺から離れようとへせず、そのままされるがままでいた。
「……先輩」
「ほら、電車くるぞ」
 志野の背中を押して促すと、たびたび振り向きながらも志野は駅のホームへと消えて行く。見送った後も俺は暫くの間そのまま、その場所に立っていた。


 帰ったであろう時間に、志野に電話を掛けた。
 駅からの戻り際に急な仕事の連絡がきて、どうも明日は散歩に行けなくなりそうだったからだ。
 始終、電話での志野は明るい声で元気ないつもの志野のようだったが、その内心はそうでもないのだろうと思う。
 今日はだいぶあいつの心を引っかき回した。俺の胸の中にあるのは志野への罪悪感ではなく、ただの愛情。
 酷く身勝手なその愛情に、きっともうすぐ答えが出る。

 人はなぜ眠るのか? 睡眠で疲れを取るため。
 人はなぜ悩むのか? 物事に納得できないから。
 ……だけれど、人の心は癒しきれない。なのに、人はどうして先を求めるのか?
 それは、きっと『本当の自分を偽れないから』。
 たぶん、一番難しい生き方を選んだとしても、自分自身に正直である生き方を選んだとしても『後悔』は訪れる日がくるのだろう。
 結局はどの生き方を選んでも同じ、本心では誰もがわかっているそれを隠すか隠さずいるか、ただ、それだけの違い。
 ――後悔するなら盛大に後悔した方がいい。
「そうだな、まだまだ先はある。全然先が見えないけど…」
 ふと、志野の声が聞こえた気がした。次に思い浮んだのはその姿で、泣いている姿だった。
「……ごめん、俺は我侭だな」
 とうに通話を終えた携帯に向かって俺は一言だけ呟いて目を閉じた。



 明かりも点けない部屋の中にただいた。
 ここに住んでいる、と言葉に出して言えば実感が少しはあるものの「ねぐら」にしていると言った方がしっくりとくるような忙しさがあった。
 引っ越したばかり、とはいえ一ヶ月も経つと、部屋はそれなりに埋まりはじめていた。
 生活感が無いわけでもないのに、不思議と人の気配のない部屋なのは夜しかここにいれないせいだろう。
 横に飲みかけの水と携帯電話が放り出してぼんやりとしていた。
 遠くに聞こえる木々のざわめきに外には風が吹いているのは知っているのに室内は蒸し暑いのに窓を開け放つ気はなく、エアコンもつける気にならない…
 それを今は夜中だからと言い訳づけた。時刻は午前二時を少し過ぎたところで、皆、寝静まっているから、と。
「満月……か」
 部屋に月明かりが差し込んで顔を上げた。……月を見ていると嫌な感覚を思い出す。
「もう、半月」
 最後に先輩とまともな会話をしてから、半月は経つ。
 現場や事務所で会えば挨拶はする。だが、会話は一切してない。
 一度メールを貰ったものの、返事を考えている内に返しそびれてしまった。
 先輩に半月前に言われた言葉、それに対しての答えをまだ見つけられないせいだ。と、言えば理由として正当化されるのだろうか?……それとも単なる逃げなのか。それすら判断できなかった。
「預けっぱなしなんだね、あれ」
 結果的に、先輩に預けたままになってしまっている紙細工入りの段ボール箱。
 何度も思い出しては取りに行かなければと思っても、行動に移せない。
 二人で会って、またあんな話になるのが怖かった。
 友人でも誰でも一緒に行けばそうそう妙な方へは行かないだろうと思ったが、私の周りにいる人間は素やわざとに関わらず、どうも変な風に空気を読む人間が多いのでそれも怖かった。
 しかし、このまま取りに行かない訳にもいかず………気がつけばその事と、先輩自身の事ばかり考えてしまうようになっていた。
 そして、ぐるぐる回り巡って煮詰まった。
「……頭の中から離れない」
 常に頭のどこかにその姿が存在して、目を閉じても瞼の裏にちらつく。挨拶しか出来ないくせに、同じ空間にいれば目で追っている。
 その目線に向こうはとっくに気が付いているようで、目線が会えばどんなに遠い位置にいても俺に向かって微笑む。
「……何してるんだ?」
 急に声が掛かる。ぼーっと、微笑んだ先輩の顔を思い出していた時に、その声を思わず聞いてついに幻聴まで聞こえるようになったのかと思った。
 だが、すぐ幻聴でないと判ったのは部屋の灯りが突然点けられたからだ。
 音も無く部屋に入ってきた人物は間違いなく先輩本人で、不思議そうな表情のままこちらを窺っていた。
「……あ、あれ?」
「インターフォン鳴らしても出ないし、玄関の鍵開いてたぞ。不用心だ、気をつけろよ?」
 先輩は見覚えのある段ボールを抱えて立っていた。
「それ……」
「預かり物。半月も忘れてたか?」
 床にそれを置いて、笑いながらネクタイを緩めた先輩はくるり、と方向を変えた。
「じゃ、お休み。戸締まりはしっかり……」
「――!」
 言葉より先に体が動いた。立ち上がるとすぐに向けられた背中に向かって手を伸ばすと、部屋を出かけた先輩の上着の裾をどうにか掴めた。
「……どうかしたか?」
「……」
先輩がため息をつく。夜中にスーツと言うことは仕事の帰りか合間なのかもしれない……足止めしてしまった事に罪悪感を感じて手を放そうとする。
「志野?」
「……て、手が開けな……い」
「うん?」
 ゆっくりと、私に向き直った先輩を傾きかけた月が照らす。
 月明かりに照らされた表情は穏やかで優しげで、その空間が少し暖かくなったように感じてしまった。
「ほら、落ち着け」
「は……はい」
「少し散歩しよう」
 私は頷いて先輩に促されるままに外へと出て行く。その間もずっと服の裾を掴ませていてくれていた。
 もう目に見えて皺になってしまったスーツの上着に、放さなければと思えば思うほど放せず手が硬くなってしまう。
「座れるか?」
 マンションの外に出てしばらく行くと小さな公園がある。気が付かないうちにそこまで来ていた事に少し驚いて、先に座った先輩の横に腰掛けた。
「大丈夫か?」
「はい」
 はい、と返事はしても行動は伴わない。視界がふらつくのは自分の目が泳いでいるからだと気が付いてしまえば、体が震え始めてしまった。
「……あの、平気です。大丈夫」
「じゃないだろ。どう見ても」
 なぜ、自分はこんなに動揺しているんだろうか。先輩はただ荷物を届けて帰ろうとしただけ。それだけなのに。
「顔上げろ」
「……」
 言われてゆっくり顔を上げると、困った顔をした先輩がいた。
 夜中にわざわざ届け物して帰り際にこんな風にされれば困るのは当たり前だ、と頭の中では思い浮かぶがどうも感情の方にそれが届いていかない。
 自分が今、ひどい顔してるんだという事に気が付けば、目の前の視界がみるみるうちに歪んでいく。
「……っ、あれ」
「泣いていいぞ?」
 ぎゅう、と腕の中に抱き込まれて力一杯抱きしめられた。
 背中を撫でる手が温かい、と思った瞬間に私はすべてが飛んだかのように泣き出してしまった。
「ごめんな」
「……っく」
「ごめん」
柔らかい声色が一つの言葉だけを繰り返す。『誰かに見られるかもしれない』とか『自分は何で泣いてるんだ』とか、『また甘えしまっている』とか……考えは浮かんでも声には出せず縋るようにただ泣いていた。
「ん?」
「……ま、頭撫でてくだ、さい」
 しゃくり上げながら出た言葉は、それだけだった。いいよ、と囁くように安元さんが呟いて、頭をゆっくりと撫でてくれる。
 あんなに固まっていた手が気づいたら離れていたのに、今度は先輩の背中に腕を回してスーツの背を握りしめていた。
「……混乱させたな、悪かった」
「でも、あれが……」
 偽らない本心からの言葉。
 そうだよ、と真っ直ぐな返事が返ってくる。私にはその返事が迷いのないように聞こえてまた悲しくなった。
「私は迷ってばっかりで、答えなんて出せなくて」
「うん」
「優しくされたり、甘やかされてるって思う度……苦しくて」
「うん」
 好きなんです、でも切なくて辛い。
 だから私は、はぐらかして逃げた。先輩からも自分自身からも。自分の心の出入り口を閉めて流れを止めてしまえば、時間も止まって心も停止してくれるんじゃないか、と思った。
 あの日一緒に見た青白い月が怖かった。
 先輩の言葉が迷いの無く、凛とし、全てを貫くようなものに聞こえて辛くなった。
「反省してるんだ。……いくら自分が本心で思っててもあれは伝えるべきじゃなかった」
「……本心なのに?」
「あれは俺の我が侭でしかない」
 だから忘れて構わない、と先輩は呟く。
 やっぱりその言葉に揺らぎを感じたりする事がないのは、今も本心だからなのだろうか。
「本当の気持ちだからって、伝えた相手を傷つけていいわけじゃない」
「でも、……嬉しいと思ってるのは間違じゃないです」
「俺の気持ちを嬉しいと思っても、お前は傷ついただろう?自分では理解できない事をいきなり突きつけられても戸惑うだけだ」
 だから、ごめんと呟いてこめかみに口付けてくる。
 触れるだけのくすぐったい感触に、また一つ心が溶け出したかのように涙が溢れてくる。
「好きだ」
 それが、こんなにも心を締め付けられる言葉だったなんて知らなかった。
「俺が居ても居なくても、それがお前だ」
「……」
「だけど、お前の側に俺は居たいと思ってる。出来れば、この先ずっと」
「最初から、そう言ってください……」
 意地悪だと、背中を抓れば先輩がお返しにと、私の目元を舐めてくる。
 そのまましばらくじゃれ合うようにくっついていると、私の気分は落ち着いてきて自然と笑えるようになってきた。
「先輩」
「何だ?」
「答え、じゃないけど聞いてくれますか?」
「返事とか別に要らないんだぞ」
「返事でもないんです。ただ……今の気持ち」
 少し体を離して安元さんが頷いた。
「……どうして、そんなに私の事好きなのか教えて下さい」
「わかった」
 また、ぎゅっと抱き寄せられて、私の耳に先輩の唇が触れると囁くように言葉を紡がれる。
 私の名前を呼ぶ声は頭の中へと静かに響く。
 目を閉じて、囁かれたまじっとしていると先輩の心音が伝わってくるようで穏やかな気持ちが広がって行く。
「志野?」
「……ちゃんと、聞いてます」
 瞬きをすると涙は零れていくがそれに構わず、続けてくれと促す。
 聞きながら、やっぱり私には何かが足りていないと思った。
 それは届きそうで届かなくて、自分で取りに行かなければならいものなのだと、わかっただけ先に進んだのだろうか。
 先輩の肩に寄り掛かると、安堵感が増してまた次々と出てくる涙を優しく拭うその手のひらを掴んで胸に引き寄せた。
 過ぎて行く夜とに吹く風に流された事にしてしまえばいい、まだ、悪足掻きのように理屈を探し出すのをこの人は「意地っ張り」と笑ってくれるだろうか。
 でも今はこの気持ちを、誤魔化さない、はぐらかさないでおこう。
 ゆっくりと顔を上げて、まっすぐに見つめれば、先輩がどれだけ自分を好きなのかなんてすぐに判ってしまうような表情で私に微笑みかけてくる。
「意地っ張りな所とかも好きだ」
「そうなんだ」
 先輩は、私が欲しい言葉をくれる。嬉しくなる言葉も、辛い言葉も真っ直ぐに伝えてくれる。
 私は何を返せるのだろうか…………でもまずは、自分の気持ちに偽らない所から始めて行けばいい気がする。
 顔を見て言えないのは許して欲しいと思いながら、先輩に抱きついた。
「……この腕の中に居たい」
 私は小さな声でそう呟いた。

『Cry for the moon.』

『Cry for the moon.』 楓羽 作

  • 小説
  • 短編
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更新日
登録日 2017-04-21
Copyrighted

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