残響のなか


          *

 「それで、そっちは落ち着いたの」
 まぁ、まぁ、だな。
 電話口から聞こえる親友の声は、俺の心を落ち着かせてくれた。刑事になって十年。階級は巡査部長。三十過ぎでこの階級はなかなか頑張った方だろう。県警本部刑事部捜査一課第七係が俺の配属先だ。楽なことは一切ないが、これが俺の生き甲斐だ。
 「この前、お前テレビに映ってたよ。あの事件に関わっていたんだね」
 最近世間を騒がせていた事件があった。下校途中の高校生三人を襲い、二人を殺害した事件だ。犯人は逃走。俺の班が担当になっていた。その事件がつい昨日、解決したのだった。
 難しい事件だったよ。通り魔的犯行で、被害者と加害者に接点はなく、目撃情報も少なかった。短期間で犯人に辿り着いたのは奇跡に近いかもしれない。襲われて怪我を負わされた女子高生の一人が、犯人の特徴をよく覚えていたのと、靴跡が残っていたのが幸いした。
 どうして人は人を殺すのだろう。殺したいほど憎むのだろう。多くの殺人犯を見てきたが、その答えは分からない。
 「それが分かったらお前、殺人犯になれるよ」
 違う。いい警察官になるために、俺はその理由が知りたいんだ。
 親友は、俺の勤める県警のすぐ近くの県民会館に勤めている。ホール、ギャラリー、会議室などの会場を提供していたり、若い芸術家を応援する目的で、 いろいろなアドバイスをしてくれたり、情報を共有し合ったりできるサロンがあったりする。あいつにとっては天職だと俺は勝手に思っている。
職場が近いから、たまに時間が空いているときは、一緒に食事に行ったりしていた。喫茶「ラキート」のオムライスが親友の大好物だ。
 「で、本題は何なんなの。どうせ命日が近いから、墓参りに行こうって誘いでしょ」
 俺の妻が死んで、もうすぐ二年になる。妻と電話の向こうの彼は幼馴染で、俺たちは高校の同級生だ。どこへ行くにも、何をするのも一緒だった。俺と妻は県内の同じ大学へ進学したが、彼は就職した。詳しくは知らないが、家庭の事情ってやつらしい。
 大学に入学してしばらくして、俺の方から告白した。警察官になるまで俺のことをずっと支えてくれていた。警察官になれたのはいいが、家庭のことはおろそかになっていった。事件、事件に追われ、いつの間にか妻はいなくなっていた。歩道橋から身を投げたのは一ヶ月くらい経ってからだった。
 俺がプロポーズした場所のすぐ側にある、県のランドマーク「ベイタワー」の見える歩道橋だ。
 それまで期間、妻はどこにいて、何をしていたのか。俺には分からない。でも、苦しんでいたんだろうな。そんなときに、どうして俺は側にいてやれなかったのか。悔やんでも悔やみきれない。
 妻がいなくなってすぐに、親友に連絡した。電話越しに彼は俺を怒鳴りつけた。ここまで身に染みるお叱りは、上司からも受けたことがなかった。
 確かに、今日連絡したのは墓参りの日程を決めるためだ。一つの事件が終わった今のうちじゃないと、ゆっくり休むことは出来ない。
 「墓参りすらお前の予定に合わさなきゃいけないのー。反省してんの?」
 こうやって叱ってくれるのは、親友の彼だけだ・・・・。すまない。
 「謝る相手が違うよ」
 そうだな。謝って許してもらえることじゃないかもしれない。でも、謝り続けなきゃいけないんだ。
 「お前の忙しさは、高校のときから変わらないね」
 俺は高校時代、バスケットボール部に所属していた。うちの高校は全国クラスの強豪だった。一方の彼らは絵画研究部とかいう訳の分からない部活に入っていた。絵画研究とか言っときながら、石の像を見て喋ってたりする。いろいろな絵や画家、芸術家について語る彼らの話に入って行けず、寂しい思いをしたのを覚えている。美術館に連れて行かれることもあったが、俺からしたら理解できない世界だった。声を出すのも憚られるような空間で、壁に絵が飾られていて、それをただ見るだけだ。時々、二人が「この絵のこのタッチが・・・」とか、テーブルにコーヒーを溢したみたいな、染みのような絵を見ていろいろ議論する姿を見るが、俺には到底ついて行けない。ゴミを集めて遊んでるだけ、みたいな芸術家もいる。訳の分からないものを作れば芸術家なのか? 真面目な話をしているかと思えば、「あんたの服のセンスは芸術を考える人の服装には見えない」と妻が親友を見て言う。彼はいつも黒い服ばかりを好んで着ている。「黒はね、ものを際立たせるための重要な色なんだよ」と大真面目に言い返したりしている。俺は、お前にそんな価値はない、と冗談で言い返す。三人でいる時間は確かに楽しかった。でも真剣に芸術の話をしたいなら二人で行ってくればいいのに、わざわざ俺に予定を合わせて三人で出かけて行った。
 美術館にあるような有名な作品じゃないものもよく見ていた。今勤めている県警の周りは、すぐ側に三宮と呼ばれる大きな町があるせいで、町自体の賑わいはイマイチだ。大きな商店街があったりもするが、三宮から離れれば離れるほど、シャッターが閉まっているところが目立つ。
 その商店街よりも更にマイナーな高架道商店街によく行っていた。名前の通り、電車の高架下に作られた商店街だ。戦後、食料品や生活必需品を販売しだした、いわゆる「闇市」がルーツだそうだ。
 そんな話をしながら、お世辞にも綺麗とは言えない商店街をブラブラ歩いた。特にお気に入りの場所は美術品などを飾れるギャラリーと併設しているカフェだ。時々訪れると、無名の画家や建築家、美大の学生が作品展をやっていたりする。
 「こういう作品って、訳分かんないこともあるけど、奥深いんだよ」
 妻は俺にそんなふうに言った。でも、俺には全然分からなかった。例えば絵の場合、風景画や宗教画の方がまだ理解できた。『~の風景』とか、『~の聖母』など、タイトル通りの絵が描かれていて、ふむふむと眺めていられる。それ以上は考えれないが・・・。訳が分からないのは、近現代の作品だ。『呪い』というタイトルで、どうして真っ青な空の絵を描いたりするのだろう・・・。妻曰く、訳が分からないことは多いが、なぜなのかを考えるのが面白いらしい。よく分からない。
 「ボールを追い掛けてシュートすればいい、みたいな単純なことじゃないのよ」
 そう言われると、少し心外だった。一応、どのように敵からボールを奪い、瞬時に周りの状況を把握して、どのようにパスを出すか。いろいろ考えているんだ。
 逆に、俺の趣味につき合わせたときは、二人は途轍もなくつまらなさそうだった。というより、どう楽しんでいいのかわからない様子だった。
 バスケの試合を見に行ったときや、有名選手のユニフォームの展示会に行ったときなどだ。俺も部活の仲間と一緒に行けばいいのに、なぜか二人と行っていた。今考えると、どうしてだろう。
 付き合い始めてから、初めて二人で出かけたときは、正直どこに行けばいいかわからなかった。とりあえず、近くのショッピングセンターで買い物や、映画に行くことが多かった。でも、妻的には、美術館やあの高架下のギャラリーに行きたかったのかもしれない。
 映画の趣味も合わなかった。俺はアクション映画が好きだが、妻はマイナーな海外の映画など、静かな映画を好んだ。強情で口の悪い、偏屈で孤独な男がある出会いをきっかけに変わっていく・・・みたいな映画が好きだ。俺はよく眠ってしまっていた。
 趣味も考え方も、何もかも違っていたが、なぜか一緒にいた。勝手に安心していたのは俺だけだったのだろうか。妻は、何かを感じ、考えていたのだろうか。
大学を卒業し、俺は警察官になり、彼女は児童相談所に勤めだした。大学の専攻は人間福祉学だった。職に着いてから俺は妻がどうしてその学部に入ったのかが分かった。それまでは気にもしていなかった。俺は妻の何を分かっていたのだろう。今考えてみると、本当に分からない。俺は妻のどこが、好きだったのか。思考は堂々巡り。
 電話の向こうの親友なら、その答えが分かるだろうか。趣味も考え方も同じなのは彼の方だった。付き合いも長いし、お互いを信頼し合っているように見えた。
 「彼女は自分のことを誰にも相談しなかったよ。僕にもね」
 するとしたらそっちでしょ、とも言われた。残念ながら、そんなことはなかった。俺の方からはいろいろ相談することが多かった。だが、妻の方からは一度もなかった。そのときは何も考えていなかったが、今思えばどうしてだったのだろう。
 「お前に心配かけたくなかったんじゃないのかな。ただでさえお前は忙しかったんだから」
 確かにそうなのかもしれない。話をする隙を、俺が与えられていなかったのかもしれない。俺は大馬鹿者だ。家庭も守れずに、どうやって世の中を守れるんだ。
 「よく反省して、あいつについて考える時間を作ってあげなよ」
そんなことを言われても、俺にはどうすることも出来ない。働く以外に、俺は何をすればいいんだ。働いて、働いて、働き続けないと、俺は現実と向き合わなくちゃいけなくなる。そんなことをしていても、何も始まらないし、何も得られない。余計なことばかり考えて、イライラするだけだ。また、思考は堂々巡り。
ふと、今いる部屋を見回した。二人で暮らしていた筈の部屋には、もう俺一人しかいないのだ。俺が声を発しなければ、この空間は永遠に静まり返ったままだ。
 本棚の一角を仏壇の様にしていた。二人で写った写真を置いて、その周りに指輪や、思い出の品を並べてある。そして・・・本棚に置かれた一冊の大学ノート。ここには俺なりに調べた妻の行動が記録されている。妻が身を投げたあの日、どうやら俺との思い出の場所を巡っていたらしい。デートで何度も行った場所で、一人で佇む姿が目撃されている。
 彼女は一体何を考え、何を感じていたのだろう。一ヶ月もの間、どこで何をしていたのだろう。実家に帰っていなかったことは、妻の両親に連絡して分かっている。
 妻について考えても、分からないことと、自分の不甲斐なさが露呈するだけ。自分のことが嫌になるだけだ。
 電話の向こうの親友は、どんな顔で俺と話しているのだろう。彼自身も悲しかったはずだ。生き残った俺たちは、一体何をすべきなのだろう。妻について思いを巡らす。それだけで、許してもらえるのか?
 親友と話していると、どうしても妻のことを思い出してしまう。いや、親友との思い出の中には、妻といた思い出しかないのだ。忘れかけているのに忘れられない。きっとそれは、忘れてはいけないことだからだ。でも、このまま思い出し続けていると、俺は前みたいに、またおかしくなってしまうのではないか。
 墓参りは明後日行くことになった。
 「で、ちゃんとご飯食べてる? 不摂生してない?」
お袋みたいなことを言わないでもらいたい。それに妙に芝居がかった喋り方をしていた。
 「無理をしちゃ、駄目だよ」
 無理はしない。やることを、ただやるだけだ。


          〇

 県のランドマーク「ベイタワー」の見える歩道橋。メリケン波止場前歩道橋。妻は、ここから身を投げた。
 ここに立っているとき、妻は何を考え、何を感じていたのだろう。聞こえてくるのは、車が走る音ばかり。すぐそこに海が見えているのに、波の音は聞こえてこない。
 葬式も終わって一週間が過ぎた。でも、何も変わらない。変わったのは、妻がどこにもいないということだ。妻はどこにいる? どこへ行ってしまったのだ?
 海の方へ歩道橋を渡ると、みなと公園という小さな公園がある。この時期にはユキヤナギという白い小さな花が咲いている。このユキヤナギが咲く季節に、この公園で、俺は妻にプロポーズした。
 「なんでここなの。さっきまで海が間近な公園にいたのに」
 プロポーズしたのは、この先にあるメリケンパークをぐるりと一周し、駅へ帰る途中だった。メリケンパークはみなと公園と違い、広くて、海面を埋め立てて作られた公園である為、海が間近にある。女性としては、こちらの方がロマンチックだったのか。でも、妻が大好きな花の前で伝えたかったのだ。
 と、言いつつ実はメリケンパークでプロポーズする計画を立てていた。でも、そうしなかった。ここには「フィッシュダンス」という鉄網で出来た魚のオブジェや「オルタンシアの鐘」という震災後鐘がならなくなったものや、各国姉妹都市から送られた銅像が置いてあったりする。それらを興味深そうに見る妻を見て、少し落ち込んでいた。ここには他にも最新の船舶技術を使用して建造されたテクノスーパーライナーや世界で初めて超伝導を利用し、スクリュープロペラが存在しない世界初の実験船が展示保存されていたりする。俺はそれらに興味をそそられていた。見たいものも、感じていることも違う。こんな俺が、プロポーズしてもいいのか・・・。悩みに悩んで、帰る途中、ユキヤナギが目に入った。訳もなく勇気がみなぎり、気持ちを伝えた。
 承諾してくれたことに驚きすぎて泣いたのを覚えている。
 それなのに・・・・。
 妻はどこにいる? どこへ行ってしまったのだ?
一人でメリケンパークを歩く。スケボーをしている若者や、ベンチに座るカップル・・・そうか、世間は春休みなのか・・・犬の散歩をしている老人など、様々な人がここにいた。昼途中、真ん中が綺麗に長方形に切り取られた大岩を見つけた。その前には、川にありそうな綺麗な丸石が並べられている。説明書きは何もないが、明らかに人工物だ。これは一体何だろう。妻ならきっと、それなりの答えを出すだろうに、俺にはさっぱり分からない。ただ、切り取られた穴から海を眺めると、見ている世界が急に小さくなったような、不思議な感覚になった。
 妻について考える時間を作っても、分からないことは、分からないんだ。妻はどこにいる? どこへ行ってしまったのだ?

          1

 電話に着信が入っていた。上司からの呼び出しだった。
 前の事件の報告書もまだまとめられていないのに、次の事件だ。現場は西宮市神垣町。被害者は五十代男性。無職。現場は西宮署管内。俺と妻、親友の三人が通っていた高校はこの管轄内にある。今から西宮署に向かい、状況を把握して来い、とのことだ。
 急いで三ノ宮駅からJRに乗り込み西宮駅で下車する。高校へは阪神の駅で降りてバスで通っていた。だから、JRの駅には馴染みがない。どうやらこの町はブラジル、中国、アメリカに姉妹友好都市、高知、鹿児島に友好都市があるらしい。改札を出てすぐの壁に、そんな貼り紙がしてある。全く知らなかった。警察署へ向かう反対側の出口には大きなショッピングセンターがあったりして賑わっているが、警察署側の出口は団地が広がる閑静な住宅街となっている。十分ほど歩いて、署に到着した。入り口の柱に筆で「西宮警察署」と書かれた看板がある。反対側の柱には最近行動が過激になっている暴力団の「取締総合対策本部」と書かれた看板もある。忙しそうだ。
 中に入ると、担当の強行班係の係長とその部下の人とが近付いて来た。係長は明らかに俺より年上だが、丁寧に挨拶してくれた。部下の方は、俺より少し年上のようだが、まだ巡査長だった。車に乗り、彼の運転で現場に向かった。
 車の中で現場の状況について詳しく聞いた。今朝アパートの一室で倒れているのを近隣住民が発見し、警察に通報した。凶器に使われたと思われるのは、刃渡り十二センチほどの果物ナイフ。背後から背中を数回刺されていた。発見の経緯は、昨晩、被害者は女性と言い争いをしていたらしい。大きな物音もしていた。事情を聞きに、近隣住民が被害者の家を訪ねたらしい。
 「マル害(被害者)は以前にも同様のトラブルで近隣住民と揉めています。今度やったら、アパートを出て行く約束だったそうです」西宮署の係長が手帳を見ながら言った。「ホシはこの女で間違いないでしょう」
 目撃者の証言によると、この女は三十代くらいの女性、被害者と近所の飲み屋に入る姿、または一緒に歩く姿を目撃されている。この女性の身元は分かっていない。近所のキャバクラ等の店に聞き込みを行い、該当する女性が働いていないか調べている最中だということだ。
 現場に到着した。パトカーが止まっており、捜査員何人かがウロウロしている。周りにある高級住宅に負けないくらい小綺麗なアパートだった。被害者の部屋は一階の一番奥だ。
 「臭いと足の踏み場に気を付けてください」
 注意を促され、部屋の中に案内された。外見はたいそう綺麗なのに、住んでいる人が悪いのか、ゴミが散乱し荒れ放題ではあるが。自分も今は一人暮らしだが、綺麗にすることに勤めている。
 リビングの真ん中であろうその場所に被害者が横たわっていた。ゴミに阻まれ、不格好に倒れている。この部屋がもともと荒れているせいで、抵抗して揉みあったのか、その辺りのことが判別できない。鑑識係員も、物を動かさないように部屋を動くのに必死のようだ。
 遅れて、捜査一課警部補、俺の班の主任がやって来た。眉間に皺を寄せながら、現場を確認する。俺は西宮署の係長から聞いたことを説明した。
「分かった・・・現場はだいたい見たな」鋭い目が俺を捉える。頷くと、主任は鑑識捜査員に死体を動かしても良い旨を伝え、俺に外に出るように言った。
 「で、お前の見立ては」主任がそんなことを聞いて来る。
 おそらく犯人は被害者とかなり親しかったんだと思います。あんな状態の家に通すくらいですし。それに背中を刺されていることから、かなり信頼していた相手なんじゃないでしょうか。
 ここまで言って、主任の失笑が返って来た。
 「夜働く女はどんな部屋であろうが、金をもらってたら入るんだよ。それに、部屋に入れた時点で背中を見せるような状況は誰であろうとある。よく覚えとけ」人差し指で自分の頭をトントンと叩いた。「今晩捜査会議だ。準備しておけ」
 そう言い残し、主任は帰っていった。
 入れ違いに、ここまで運転してくれた西宮署の巡査長が声を掛けてきた。
 「この事件、ご一緒させてもらうことになりました。よろしくお願いします」
 次の日の朝、捜査会議で割り当てられた担当で捜査が開始された。俺は現場周辺の聞き込みだ。怪しい人物の目撃情報、被害者の交友関係、分かる範囲のことは全て洗う。
 聞けば聞くほど、被害者の印象は悪い。朝早くから出掛けて、パチンコや競馬、競艇場に通い、夜は女性を伴って帰宅。毎日がそんな感じだったらしい。お金は何処から得ているのか。近隣住民の間では別居中の奥さんからもらっているらしい、ということだ。奥さんの貯金で生活しているようだ。夜の捜査会議で、被害者の身元を調べていた捜査官から同じような報告を受けた。これは事実のようだ。現場となったアパートの家賃も奥さんが支払っていた。家族構成は奥さんと娘が一人いるらしい。被害者の両親は二人とも去年他界している。娘は県外の美大に通っていて、画家志望だった。大学を卒業して一年は先生の元で修行していたが、今年から会社の事務職に就いている。家計を助ける為、という理由らしい。
 主任に言われて、娘が頻繁に通っていた県民会館や公館に話を聞きに行くことになった。県民会館は親友が勤めているところだ。捜査本部は家族を第一の容疑者としていく方針のようだ。
 県民会館と公館は県警本部のすぐ隣に位置している。その向かい側には県庁がある。県民会館にしばらく滞在していたが、親友の姿は見えなかった。今日は休みなのだろうか。
 いや・・・と記憶を巡らせる。今日は妻の墓参りに行く約束をしていた日だったはずだ。これは少しまずい。相棒の捜査員に詫びて、電話をするために外へ出た。すると着信が入っていた。親友のものではない。見たことがない番号だ。まずそちらに掛け直してみた。
 「娘が犯人だ。娘の行動を調べろ」
 いきなり電話口からは機械で変声された声が聞こえてきた。その声は同じく言葉を繰り返した。「娘が犯人だ。娘の行動を調べろ」
 何を言っている。あんたは一体誰なんだ。
 「調べれば分かる」
 電話の主はそう言って電話を切った。
 二日後、娘への逮捕状が出された。娘は犯行があった日、父親のアパートを訪れていた。母親と離婚し、今後一切関わらないで欲しい、という旨を伝えに行ったそうだ。自分たちは二人で支え合って生きて行くのだと。アパートの周りを歩き回りながら話したそうだ。父親は落ち着いて話を聞いていたそうだが、家に帰って少しすると突然逆上し始めた。離婚も、縁も切らないと言われ、暴力を振るわれた。台所にあった包丁を手に取って、後ろから刺したのだそうだ。
 早くから家族はマークされていた。遅かれ早かれ、妻と娘、二人のことは調べられていた。しかし、あの謎の電話を受けて、俺が娘の写真を持って周辺の聞き込みをしていなければ、ここまで早く解決しなかったかもしれない。
 「お前、どうして娘の方だと思ったんだ」捜査本部が解散してから主任に聞かれた。
 運が良かっただけで・・・。
 主任は鼻で笑った。「だが、得点を稼いだじゃないか。課長も係長も褒めてたぞ」痛いくらいに肩を叩かれた。
 あ、ありがとうございます・・・。
 「昇進試験を受けることを考えてもいいんじゃないか?」
 ・・・検討します。
「上司にもっと楽させてくれ」と笑いながら会議室を出て行った。


          *

「で、そっちは落ち着いたの」
 あぁ。約束をすっぽかしてしまって、申し訳なかった。
 「そういう仕事なんでしょ。もういいよ」
 次の日の朝に親友に電話を入れた。どうやら、一人で行ってくれたようだ。本当に、悪いことをした。ばちが当たるかな。
 それにしても、今回の事件は、俺にとって不完全燃焼だ。自分が解決した事件であると実感できない。あの電話の主は一体誰だったのか。本来なら、家族の身元調査は俺の担当ではなかった。担当者が直接話を聞いている間に、補佐的に周辺を洗うように指示されただけだった。県民会館で話を聞いた限り、娘さんに怪しいところはなかった。印象は父親よりもかなりいい。母親に大切に育てられたことが想像できた。あの電話がなければ、娘さんを怪しむこともなかっただろう。
 しかし・・・優しさの中にこそ、殺意が芽生えたりするのだろうか。今回の犯行動機は母親への愛がそうさせた。優しい人間だからこそ、犯してしまった犯罪なのではないだろうか。
 「昔も同じような事件があったよね。あれの犯人は愛人だったけど」
 そんな事件あったかな・・・
 「お前が、県警に行くきっかけになった事件だよ」
 あぁ、あれか。よく覚えてるな。
 「確か、夫と駆け落ちした愛人が家に押しかけて、結婚したいから離婚してくださいって言って、奥さん殺しちゃった事件だったよね」
 愛人は犯行を事故に見せかけて逃走した。俺が当時いた甲子園警察署の強行班は事故として処理しようとしていた。
 「でも、お前が事件の可能性を指摘して、結果、愛人を逮捕したんだったよね。実力を認められて、めでたく県警の捜査一課に配属されたわけだ。ろくでもない男は、いつまで経ってもいなくならないね」
 俺に言ってるのか? 残念ながら、笑えないぞ・・・。
確かに昔そんなこともあった。少なからず、それが俺の立ち直るきっかけになったはずだったのに。ど
うして忘れられるのか・・・。俺はバカだな。
 「落ち着いたんだったら、一人ででも会いにいってあげなよ」
 今は家から電話を掛けているが、午後には報告書を仕上げに県警本部に行かなければならない。そのうち・・・そのうちに行けるさ。
 怒られそうだったので、いつ行けるか分からないことは親友に伝えないことにした。言われなくても分かってる。行きたい気持ちは山々なんだ。

          〇

 妻はどこにいる? どこへ行ってしまったのだ?
 もう三時間は歩き続けている。どこへ行っても、どこを見ても、妻はいない。よく来た高架下商店街のギャラリー・・・美術館・・・ショッピングモール・・・妻はどこにいる? どこへ行ってしまったのだ?
 擦れ違う人たちはみんな笑っている。隣には誰かがいて・・・言葉を交わしている。
 俺は夢を見ているのか? それとも、妻がいたあの世界が、夢だったのだろうか。家に帰っても、妻の姿はない。どこにいる? どこへ行ってしまったのだ?
 そして俺はまた、ベイタワーが見える歩道橋の上にいる。西の空がオレンジ色だ。太陽の光が眩しい。今日も車の通りは多い。ここからどれかの車に乗り込もうとすれば、もしかしたら、妻のところに連れて行ってくれるだろうか。
 そんなこと、俺は結局できない。メリケンパークのベンチに一人で座って、目を閉じた・・・。
 大人、子供の笑い合う声、犬の鳴き声、スケートボードの音、船の音・・・海がこんなに近いのに、波の音はあまり聞こえない。
 妻の声は、聞こえなかった。ここにはいない。
 妻はどこにいる? どこへ行ってしまったのだ?
 別のところを探そう。だってここにはいないのだから。記憶を巡って、妻と訪れた場所を思い浮かべる。でも、思い出せなかった。そのことに愕然とする。俺は妻と・・・一体何をしてきたのだ? どこへ行って、一緒に何を感じていたのだ?
 聞こえるのは、違う人の笑い声。外の世界はこんなにも幸せなのに、俺は、たった独りだ。
 人が大勢いる繁華街。その真ん中にいても、俺はたった独りだ。妻の死の直後は、その姿を求めて町中を、妻が最後に訪れたであろう場所を探し回った。でも、どこにもいるはずはなかった。だって、妻は死んだんだから。
 なぁ・・・もし妻の自殺に関わっている奴がいたとしたら、お前、どうする・・・
 ある日、親友と電話をしているとき、ふとそんな事を口にしてみた。少し前から、頭の片隅で考えていたことだ。
 「何を言ってるんだ」
 妻が失踪してから遺体で発見されるまで一ヶ月もある。その間、一人でいたとは考えにくいんだ。誰かに助けを求めなかっただろうか。
 「僕のところには来てない」
 親友は早くこの話を終わらせたがっているようだった。しかし、考えずにはいられないんだ。
 もし、もしだ。妻の自殺に関わっている奴がいて、そいつを見つけられたら・・・
 「黙れよ」親友は語気を強めた。「彼女の話を聞いてやれなかった僕たちが悪いんだ。彼女について考える時間を作れとは言った。でも、誰かのせいにしろとは言わなかったはずだ」
 言い返そうとしたが、勢いは止まらない。
 「彼女が死んだ直後の自分を思い出してみてよ。意味もなく町を彷徨って・・・彼女の幻影に囚われて、現実が見れなくなってた。そうだろ。でも今は、いもしない第三者に囚われてる。そんなの、駄目だ」
 そう、だよな。悪かった・・・よくないよな。今の話はなかったことにしよう。警察ってこれだから嫌だよな。
 「警察のせいにするな。お前は彼女の夫だろ」
 こればかりは言い返せなかった。妻が行方不明になった直後のそうだった。親友の言うことはいつも正しい。正しく生きるためには、彼の言葉に従うべきなんだ。でないと、俺は俺を見失ってしまいそうだ。彼の言葉だけが、俺の進むべき道を照らしてくれるんだ。
 でも、そんな彼も苦しんだはずなんだ。俺よりも妻との付き合いが長かったんだから。その証拠に、最後に彼はこんなことを言った。
 「彼女は一人で苦しんだ。僕たちが苦しめば苦しむほど、彼女は救われるのかもしれない」
 こちらが心配になるほど、彼はか細い声を出した。言葉の真意が分からなくて、俺は言葉を出せなかった。
 「ごめん。またね」しばらくして親友から口を開いた。「体には、気を付けるんだよ」
力なく笑って、彼は電話を切った。

          2

 あの事件から数日経って、また俺のところに電話が掛かって来た。相手は、あの変な声の奴だ。
 今、生田署管内で起こっている事件についてだった。今回、俺はこの捜査の担当ではない。しかし、奴の情報は興味深いものだった。
 「犯人は別にいる。今のままでは、誰も救われない」
 電話の主が与えてきた情報は、生田署管内で起こった弟嫁殺害事件、犯人は別、弟について調べろ、という三つだった。
 新聞、雑誌で該当する事件を調べてみた。特に雑誌の方は事件を誇張して書いていることがあるから、気を付けて読まなくてはならない。分かったことをまとめてみた。
 仲の良い兄弟がいた。兄弟は早くに父親を亡くし、兄が母親と一緒に家庭を支えた。父親が亡くなった当時、兄は受験を目前に控えた高校三年生、弟は中学二年生だった。兄はトップの成績で大学に合格。諸々の手続きを経て、授業料免除の権利を勝ち取った。高校を卒業してすぐ仕事をする考えも持っていたようだが、最終的に大学を出ていた方が後々の収入が良いだろう、ということで受験を決意したらしい。授業終わりにはアルバイトをしていた。
 一方で、弟は中学も高校も野球部に入り、エースとして学校生活を満喫していた。奥さんとは大学の時に知り合った。弟はスポーツ漬けの日々だったが、彼女は音楽漬けの日々を送っていた人だった。中学、高校では吹奏楽部に所属していたらしい。パートはクラリネットだ。話が合ったのは、彼女が野球好きだったからだ。吹奏楽部は球場で演奏していたりする。弟は彼女の高校を知っていた。対戦したこともあった。あの日同じ球場にいたんだ、といって話が盛り上がった。
 大学を卒業し、二人は結婚した。兄は、それが許せなかった。自分は結婚もせず、母親と弟との生活を守るために毎日働いているのに、楽しい思いをしているのはいつも弟だ。そして、兄は弟の奥さんを殺した。
 兄には充分過ぎる動機がある。それに、兄は犯行後すぐに自首したそうだ。疑う余地はないように思う。あの電話の主を信じるなら、犯人は別にいるんだ。兄は誰かを庇っているのか?
・・・・弟を調べろ
 兄は、弟に嫉妬した醜い兄ではなく、どこまでも弟想いの、優しい兄なのか・・・犯人は弟なのだろうか。
 ・・・・今のままでは、誰も救われない

 本気で再捜査をするなら、それなりの証拠を集めなくてはならない。電話が掛かって来たから、とは上司には報告出来ない。とりあえず、地道に調べていくしかない。知り合いの伝手を辿って、捜査資料を見ることは出来ないだろうか。
 「先輩・・・無理言わないで下さいよ・・・」
 案の定、無理なお願いをした後輩は困った顔をした。彼は今、甲子園署の窃盗犯にいるが、前は生田署の生活安全課だった。知り合いがいるに決まっている。
 「せっかく今津まで来たのに・・・署から距離があるの知ってますよね」
 俺はまぁ、まぁ、とグラスにビールを注ぐ。彼は勤務中なので決して飲もうとしない。だが、彼の前には既に三個のグラスが並んでいる。
 捜査資料を見せろとまでは言わない。それは「理想」であって「要求」ではない。強行班に知り合いがいれば、こそこそっと話を聞いて、俺にこそこそっと伝えてくれればいい。
 「それが難しいから困ってるんですよ・・・」
 まぁまぁ、と四個目のグラスを置く。
 「でも、何で調べる必要があるんですか。ホシに動機があったんですよね。それに、自首してきたわけだから、決まりでしょ」
 いや、俺は少し矛盾を感じている。
 俺は何も十割を後輩に任せるつもりで交渉しに来たわけではない。事前にホシの友人や弟夫婦の友人に話を聞いてきていた。結婚式に参加した友人たちだ。少なくとも、兄が二人の結婚を祝福していないようには見えなかったという。結婚式のスピーチでは情けないほどに泣いていた。そんな姿に引いてしまったのか、全く泣いていない母親がフォローに入り、会場は笑いに包まれたらしい。
 人の気持ちなんて、一瞬で変化するものだ。そのときは祝福していても、何らかのきっかけで、殺してしまうほどの憎悪に変わってしまうのかもしれない。だが、兄の証言では、結婚がコロシのきっかけだという。だとしたら、結婚式で泣くということが有り得るのか?
 「期待しないでくださいよ」
 納得している様子ではなかったが、そう言って後輩はビールを飲み干した。

 デスクでボーっとしていると、隣の班の捜査員が帰って来た。みんな、疲れた顔だ。
 どうやら、そっちのヤマ片付いたみたいだな。
 同期の仲間に声を掛けてみる。
 「そうなんだよ。でも、おっかない事件でさぁ・・・」
 あるキャバクラの店員が路地裏でめった刺しにされるという殺人事件が起きていた。客とのトラブルが原因だろう、と推察し被害者と店の客との交友関係を徹底的に洗ったが、これだという人物を特定できなかった。財界人、政治家といった客も多く、妻子持ちの客も多くいた。どの人物も胡散臭く、どんな些細なことでも動機となり得る気がした。
 しかし、捜査を進めて行くうちに、一人の人物が浮かび上がった。被害者の親友だ。その親友は女で、被害者とは幼稚園の頃からの付き合い、いわば幼馴染だ。何をするにも一緒で、高校まで同じ学校に通っている。親の都合で被害者は大学には行かなかったが、その親友は進学した。
 派手な印象があり、顔が整っている被害者とは対照的に、親友の女は地味な服装で、おっとりとした性格だった。性格も正反対のようだった。そんな親友は大学で付き合い始めた男性を紹介すると、どうやら被害者はその彼氏を横取りしてしまったらしい。でも、実際はお金や女関係にだらしない男性だったらしくすぐに別れた。周囲には「私が親友を助けた」と話していたらしい。
 その後も二人はいつものように接していたようだが、親友の女の中には小さな憎しみの種が植え付けられてしまったらしい。たまに出かけることがあっても、被害者の仕草一つ一つが目に付くようになり、一緒にいてイライラするようになった。結局は耐えられなくなり、殺してしまったらしい。
 「性格が正反対の者同士が付き合うのって、多分、お互いがお互いの悪い部分を補い合って、いい関係が築かれていくんだって思うんだよ。でも、後半ホシは、自分にないものを持ってるマル害のことが憎らしくなっていったみたいだ。どうして、自分はこうなんだって・・・」同期の仲間はため息をついた。
 「今回は精神をえぐられる事件だったよ」
 俺はなんとなく話を聞いていなかったが、途中から自分と妻の関係について考えるようになった。俺たちは、お互いの悪い部分を補い合っていたのだろうか・・・? そんな関係を築けていたのだろうか。
 やめよう。分からないことを考えても、思考は堂々巡りするだけだ。
 加害者の親友は、自分にないところを持っている相手のそういうところが好きだったはずだ。自分に出来ないことを相手にやってもらう。相手が出来ないところは自分がやる。そうやって一緒にいて安心していたんじゃないだろうか。そこが、どうして殺意に変わってしまうのだろう。
 「あぁ、俺も友人関係気を付けないとな・・・」そう言って報告書に取り掛かりだした。
 人はどうして、人を殺すのだろう。
 そんな疑問を親友にぶつけたことがあった。「それが分かれば犯罪者になれる」と彼は言った。俺たちは長い間一緒に過ごしてきたが、一瞬でも、俺のことを殺したいと思ったことはなかっただろうか。そんな極端なところまでいかなくても、俺を憎んだことはなかっただろうか。殴りたいと思ったことはなかっただろうか。
 友人関係を続けていく間に、相手が自分のことをどう思っているのか、気にしながら付き合うことがある。しかし、付き合いが長くなり、親友なんてものになってしまうと、そんなこと考えもしなくなる。お互いがお互いのことを信頼し、どちらかが嫌いだ、なんてことは考えなくなる。そんなことを考えなくていい関係が、親友・・・もしくは、夫婦という間柄なのだろうか。
 そんな事を考えていると、デスクに置いてあるパソコンにメールが届いた。開けてみると、後輩からのメールだった。事件のことが簡潔にまとめてある。
 犯行現場についての記述がある。被害者の女性の遺体が発見された場所は中央区熊内町の弟夫婦が暮らすマンションの一室。近くの交番に兄が出頭し、交番勤務の警察官が現場の確認をした後、所轄の強行班係が現場に急行した。
マンションは三宮に程近い場所にある。調べてみると、かなり立派なマンションだった。2LDKか・・・羨ましい。近くに生田川公園もあった。結婚後、妻と二人で訪れたことがある。高校時代、親友と三人で『生田川さくらまつり』によく来ていた。二人で行ったのはあの春が最初で最後だった。地元の吹奏楽部の演奏や、出店がずらりと並び、毎年賑わっていたな・・・。マンションのコンセプトは~豊富な自然と住宅街に寄り添い、生田川公園の解放感に癒される暮らし~だそうだ。
 被害者は腹を刺されて殺害されていた。死因は失血性ショック死だ。その場で兄は逮捕された。その後の供述内容は、今俺が知っていることと大差はない。想像以上に弟夫婦はいい暮らしをしている。これも兄が金銭を都合していたのか。弟が単に稼いでいたのか。この辺りで兄は一方的な嫉妬や憎悪といったものを抱いても不思議ではない。しかし、気になる箇所もあった。被害者の手首には切り傷があったらしい。被害者に自殺願望でもあったのだろうか。
 ここからどう考えればいいのだろう。今まで何人かの友人に話を聞いてきたが、この兄以外に殺害する動機がありそうな人物はいなかった。
 すると突然、携帯電話が鳴った。表示は非通知になっている。これは・・・。
 「名刑事もお手上げか」予想通り、機械で変声した声が聞こえてきた。「真犯人には辿り着けないか」
 こちらが反論する間も与えず、電話の主は喋り始めた。
 「弟は優しい人物だった。誰にでも優しかった。女性と付き合っても、フラれる理由はその優しさからいろいろな女性と仲良くしてしまうからだった。兄には『お人好しの浮気者』と言われていた。もちろん冗談だ。兄弟にはそれが分かっていた。笑い話のように喋っていた。他の人が聞いたら、どう思うかな。
――――裏切られた者の心の闇は深い。早くしないと、手遅れになるよ」
 そこで電話が切れた。ツー、ツーという機械音が響いた。
 次の日、弟の高校時代の友人に話を聞くことが出来た。電話での話の通り、弟は毎日様々な女子と一緒にいるところを目撃されている。もちろん、二人は深い関係ではない。女子の方にも話を聞いた。彼にはよく相談に乗ってもらっていた、と語った。しかし、他の男子からの印象は違った。同じクラスの男子はなんとなく事情を察していたが、他のクラスの男子からは『女たらし』と呼ばれていた。当時本当に付き合っていた彼女にも他クラスからの悪い噂が耳に入り、別れるに至っている。
 これと同じことが、現在も起きていたとしたら? その事実が奥さんの耳に入るか、見られるかしていたら? 極端な場合、自殺ということになるのではないだろうか。手首の傷がその証拠ではないだろうか。
 県警に戻り、主任に再捜査を依頼した。思った通り、渋い顔をされた。
 「所轄が処理したヤマだろ。わざわざ蒸し返すのは、お互いのためによくないんだぞ」
 こういう事例は少なくない。この場合、所轄の警察官からはいい顔をされないのだ。
 「でも、兄は無実の罪で捕まっているかもしれません。被害者は自殺で、兄は工作しただけかもしれません」
 「だが、罪にならない訳じゃない。お前の話が本当だったとしても、遺体を傷付けてるんだ。無罪放免という訳にはいかん」
 でも、殺してはいないのだから、執行猶予はつけられる。
 「お前、弁護士になったつもりか?」
 俺は根気強く頭を下げた。被疑者と話をさせて欲しい。お願いです。
 主任は頭を掻いた。かなり渋っているようだ。
 「マル被(被疑者)に会う前に、マル害の事件前の状態を調べろ。自殺しそうな状況にあったかを洗うんだ。それと、旦那にも話を聞いて来い。最近、嫁以外の女と会ったりしていたかどうか、聞いてこい」
 同じ班の捜査員にも手伝ってもらって、話を聞きに行くことにした。俺は被害者の夫がいるマンションに向かった。JR新神戸駅から徒歩二分。部屋は三階にある。インターフォンを押す。仕事場には車で通っていると聞いている。駐車場には車があることは確認済みだ。おそらく在宅している。それなのに、返事がなかった。
 嫌な胸騒ぎがした。電話のあいつの言葉が脳裏に蘇る。マンションを出て手分けして周辺を探すことにする。すると、生田川をはさんだ反対側の歩道にその姿を捉えた。名前を呼んでも、こちらに気付く様子はない。ゆっくりとした足取りで横断歩道に近付いていく。平日の夕方、車の通りは多い。嫌な予感は確実に嫌な現実を引き寄せた。生田川を横断する信号は青だ。急いで、彼の元へ駆けつけようとする。
 しかし、間に合わなかった。彼は一気に歩数を速め、何十台も車が行き来する車道へと飛び込んだ。

 改めて兄に事情聴取を行った。弟が自殺したことを伝えると、彼はしばらく放心したように動かなくなった。数時間待って、ようやく真実を語り始めた。
 事件当日、兄は弟の荷物を届けにマンションを訪れた。インターフォンを押しても返事はない。鍵を所有していたので、荷物だけ置いて帰ろうとした。入ってすぐ、何だか湿気が多い、と感じたらしい。見ると洗面所のドアが開いていた。もしかすると、奥さんはシャワーを浴びていて気付かなかったのかもしれない、と思った。覗くつもりはないが、奥さんの所在だけでも把握しようと思い、洗面所に入り、浴室の方を見た。すると、奥さんが片腕を浴槽の中に入れて倒れていた。浴槽の水は薄いピンク色をしていた。慌てて近付いて声を掛けた。まだ息があった。どうしてこんなことを、と問い詰めると、朦朧とする意識の中で奥さんは答えた。
 「ごめんなさい・・・やっぱり耐えられない・・・」
 数日前、兄は同じように荷物を持ってマンションを訪れていた。そのときも奥さんは在宅していて、一緒にコーヒーを飲んだ。その中で兄弟の学生時代の話になり、夫が『お人好しの浮気者』であることを聞いた。兄にとっては笑い話だったが、奥さんにはそうは聞こえなかったようだ。その後、奥さんは悩み続けていたそうだ。夫の帰りが少し遅くなったり、「友達の相談を聞いている」などという話しを聞く度に良からぬ想像をしてしまうようになった。夫が悪い人ではないことは分かりきっていることなのに、疑いの目を向けてしまう自分に耐えられなくなった。だから、死を選んだ、と。
 ごめんなさい、と奥さんはひたすら謝り続けていたそうだ。その間にも、手首からは多くの血が失われていった。
 兄は何度も抱き起して病院に連れて行こうとしたが、奥さんが頑なに拒んだ。このままでは自分が、夫を不幸にさせてしまう、と。だからこのまま死なせて欲しい、と。
 自分がやったことが正しかったのかどうか・・・。今日まで兄は悩んでいた。だが、弟が死んだ今となっては、間違った行動だったと確信している。
 息が止まった奥さんを浴室からリビングへ運び、台所にあった包丁で腹部を刺した。自分が殺したことにして、夫婦の愛が守られれば、と思ったのだそうだ。結局、弟も絶望させてしまい、最悪の結果になってしまった。さっきまで淡々と語っていたのに、急に取り乱して取り調べ机を叩きだした。
 そして・・・兄は声を出して泣き始めた。

          *

 「そうか・・・だから落ち着かないって?」
 救えたはずの命を救えなかった。あの弟は死ぬべきじゃなかった。お兄さんは、弟のためを想って行動していたはずなのに。それは間違った形で伝わってしまった。やりきれない。刑事なんていう仕事をしていて、こんな気持ちになったのは初めてだった。
 「自殺って・・・正しいことなのかな」
 電話の向こうの親友は唐突にそんなことを聞いてきた。
 ふいに、妻が死んだ直後のことが思い出される。俺は、妻の姿を探して町中を彷徨っていた。幻聴や幻覚に悩まされていたんだ。そんな状況から立ち直った後、俺は自分の存在について考えていた。深くは考えなかった。この世界にはいくつもの事件が起きていて、それどころではなくなっていたからだ。
 でも、俺は考えてしまったんだ。妻のいない世界で、生きる意味があるのだろうか、と。
 自殺が正しいことなのか、それは当人にしか分からないだろう。いや、当人も分かっていないかもしれない。
 でももし、俺が強烈な感染症に侵されて、生きているだけで他の何千もの人を死なせてしまうのだとしたら、俺は自殺するだろう。
 「それは正しい自殺なの? みんなから英雄扱いされる?」
 俺には世界中の人を敵にまわしてまで生きていける勇気がないから、自殺するんだ。
「人のために死ぬことは、おそらく自殺とは言わないよ。自分だけが抱いている理由のために、自ら死を選ぶこと。それが自殺だよ」
 永遠に続く苦しみより一時の苦しみを選ぶ。それだけのことじゃないのか。それはただ弱いだけじゃないのか。もっと強く生きていく意志さえあれば、死ななくてもいいだろうに。俺はただ、世界中の人を敵に回してまで生きる強さはないから、自殺するんだ。
 「・・・彼女は、弱かったのか」
 急に親友の言葉に棘が生えた。
 分からない。妻がなぜ死を選んだのか、俺には分からないよ。
 「分かろうとしないだけなんじゃないの」
 俺は言い返せなかった。確かにそうなのかもしれない。でも、どうすることも出来ないんだ。妻はもう死んでしまったのだから。
 「自殺は弱者の行為じゃない。死を決意した人には、僕たちが想像も出来ない大きな苦しみと悲しみがあったんだ。それは否定できるものじゃない。でも、当事者の決意がどうであれ、自殺は自殺として扱われてしまう。それがとても・・・悲しいよ」
 親友は、今も妻の死の真相を追い続けているのではないだろうか。だとしたら、俺みたいになったら駄目だぞ。辛うじて俺は戻って来られたが、失敗すると、一生帰って来られなくなってしまうんだ。
 「悲しくて、泣きすぎて、食器洗いが出来ちゃうよ」
 なぜ食器洗いなのか分からないが、彼なりに俺を笑わせようとしたんだろう。だが、残念ながら笑えなかった。
 俺たち二人とも、大切な人を失った悲しみは等しく持っているのだ。

          〇

 白い花に囲まれて、写真の中で妻が笑っている。棺の蓋は閉じられていて、妻の顔を見ることは出来なかった。あの中に、妻はいるのだろうか。いや、いない。妻はここにはいない。
 納骨も終わり、身内の集まり等々を終えたのは夜の八時前だったが、俺は一人抜け出して、ベイタワーが見える歩道橋に来ていた。妻がいた場所だ。タワーはライトアップされていて、とても綺麗に見えた。ここへは何度か来たことがあったが、夜はあまり来ていなかった。夜の港はこんなにも綺麗だったのか。
 妻はどこにいる? どこへ行ってしまったのだ?
 階段を駆け下りて、三宮の町中を進んだ。妻はどこにいる? どこへ行ってしまったのだ? 擦れ違う人たちの顔を見ても、どの人も、妻ではない。店の中を探しても、妻はいない。本屋だ。芸術書のコーナーで立ち読みをしているんだ。でも、そこにも、妻はいなかった。妻はどこにいる? どこへ行ってしまったのだ?
 ポケットの中で携帯電話が着信を告げていた。高校からの付き合いの親友からの電話だった。
 「何度も電話したんだよ。大丈夫?」
 ・・・妻が、妻がいないんだ。どこにも。いないんだ・・・
 「今どこ」
 電話を切って数分後、三宮のファミレスに親友は現れた。
 「彼女を探していたの」
 カフェで親友を待つ間、心を落ち着かせていた。コーヒーを頼み、ゆっくり時間を掛けて飲む。妻は死んだ。歩道橋から身を投げた。今日、無事に火葬も済んで、納骨したんだ。分かっている。そんなこと、分かっているんだ。
 「もう、落ち着いたの」
 何も言えずに黙っていると、親友も黙ったままコーヒーを飲んでいた。店が閉まるギリギリまで、俺たちは黙ったままだった。
 「帰れる?」親友が優しく話し掛けてきた。耐えられず俺は膝を付いて、親友の足にしがみ付いて泣いていた。傍から見たら、男同士の、そういう関係だと思われても仕方がない状態だったと思う。親友は何も言わず、突っ立ったままでいた。
 頼む・・・お願いだ・・・俺を一人にしないでくれ・・・どこにも行かないでくれ・・・俺を一人にしないでくれ・・・お願いだ・・・お願いだ・・・
 自分でも情けないくらいに泣いていた。親友はそれでも何も答えなかった。
 散々泣き終えて、俺はようやく立ち上がった。
 「気を付けて帰ってね」
俺はお礼を言うことも出来ず、その場から急いで立ち去った。
 次の日の朝、俺は配属先である甲子園警察署に向かった。
 上司にはまだ休んでいていいと言われたが、そうも言っていられない。所轄の仕事は大変なんだ。地域課の交番勤務を経て、ようやく強行班係に配属になったんだ。これからより一層頑張って行かなくてはならない。
 ・・・何のために?
 俺は何を疑問に思ったのだ。妻のためだ。妻との生活を守るために、俺は働いているんだ。
 溜まっていた書類を全て処理し、今日は珍しく定時に署を出た。数少ない、妻と一緒に夕食を食べられる機会だ。大切にしなければならない。今日は早く帰れることを電話で伝えておこう。でも、妻は電話に出なかった。電源が切られているらしい。どうしたんだろう。
 家に入ると、電機は消えていて、妻はいなかった。俺に黙って留守にするなんて有り得ない。どこへ行ったんだ。
 鍵を閉めることも忘れて、俺は外に出た。妻はどこにいる? どこへ行ってしまったのだ?
 近所のスーパー、コンビニ、本屋さん、どこにもいない。どこにいる? どこへ行ってしまったのだ? 反対の道に渡るために歩道橋を利用した。その瞬間、俺の脳裏に全てが蘇った。
 そうだ、妻は死んだのだ。
その場に膝を付く。自分は何をやっているんだ。誰もいない家に辿り着く。そうだ、これが俺の生活になったんだ。妻のいない、生活になるんだ。妻は死んだのだから。
 部屋の中は驚くほど静かだ。その静かさに耐えられなくなって、親友に電話を掛けた。彼はすぐに出てくれた。
 「どうした」
 今日、また妻を探したよ。
 「そうか。もう、いないでしょ」
 あぁ、どこを探しても、いなかった・・・。
 「彼女は本当に行方不明だったときは探しもしてなかったのに・・・今頃探しているの」
 あの頃は・・・実家に帰ってると思ってたし・・・そのうち帰って来ると思ってた。仕事ばかりしている俺に嫌気が差して、少し頭を冷やしているんだと、思ったんだ。
 「僕があんなに大きな声を出したのに」
 妻がいなくなったことを伝えたら、親友はとても怒った。どうしてそうなったんだ、と。お前は何をしていたんだ、と。
 いつも温厚な親友が俺へ抱いていた思いを吐き出した。結婚までしたくせに、俺たちの関係に疑問を持っていたらしい。夢ばかり追い掛けないで、もっと彼女のことを考えてあげるべきだったと。自分が苦しいときだけ頼って、夢が叶うまで付き合わせて、夢が叶ったら仕事に追われ、ほったらかし。最低だ、と。俺は言い返すことが出来なかった。変に消極的になってしまい、探すこともしなかった。
 「あのときに、今くらい必死に探していれば・・・」
 親友は黙った。おそらく、妻が「自殺せずに済んだかもしれない」と言おうとしたんだろう。でも、今そんなことを言っても何の意味もないことを俺たちは知っている。
 俺、これからやっていけるのだろうか・・・妻もいなくて、俺は・・・
 「そうだ、美味しいオムライスのお店を見つけたんだよ。今度行ってみる?」
 親友は明るい声でそんなことを言った。

          3

 また西宮署管内でコロシだ。現場は西宮市青木町。七十代男性が橋の下に落ちているのを朝練をしに学校を訪れた近所の中学生が発見、警察に通報した。青木交番の巡査がすぐに現場に急行した。駆け付けた巡査の話では、被害者は発見直後まだ息があったらしい。近所の住人の力も借りて、橋の下からなんとか救出した頃にはもう遅く、被害者は死亡した。
 被害者が誤って転落したとされる東川に架かる青木橋は、目と鼻の先に小学校と中学校があり、人通りも多い。男性はスポーツが趣味で、近所のスポーツセンターが開校するスポーツ塾に通っていた。それ以外にも、近所のアミューズメント施設でボウリングをしたり、事件があった東川沿いを毎朝ランニングしたりと、近所では有名な運動好きであった。
 被害者の自宅は現場から少し離れた柳本町三丁目、廣田神社の参道沿いだ。
 ご協力ありがとうございました。頭を下げて家から離れる。今ので何軒目になるのか。朝から聞き込みを始めて、もうすぐ夕方五時になろうとしている。
 「そろそろ戻りますか」
 以前のアパートで起こった事件の際に、一緒に組んでくれた彼と再び組むことになった。改めて年齢を尋ねると、俺より四つ上だった。
被害者の家の近所から始め、今は廣田神社の近くにいる。署に戻るついでに、もう一度現場を見ることにした。廣田神社の側を流れる東川を下って行けば、自然と現場に辿り着く。
 「誘拐事件のことも気になりますね。何か関わりがあるんでしょうか」
 聞き込みで訪ねた家のほとんどで、まず「誘拐事件の捜査ですか?」と聞かれた。どうやらこの管轄内ではもう一つ事件が起こっているようだ。西宮の小学校三年の女子児童の行方が二日前から分からなくなっているらしい。県警の他の係も捜査しているが、難航しているとの噂を聞いた。無理矢理関係性を見出すとすれば、今回の事件の犯人が誘拐犯で、少女を連れているところを見られたから、殺したという線だ。しかし、誘拐事件から二日が過ぎている。どこかに監禁しているのなら、連れ出すのはかなりのリスクだ。犯人がそんなことをするだろうか。それに、少女の自宅と同じ管轄内に潜伏するのは現実的ではない。
 「ここももうすぐ桜が綺麗になりますね」相棒の刑事がぽつりと言った。
 どっちが正式名称か知らないが、この川は御手洗川とも呼ばれる。桜が綺麗な所でそこそこ有名らしい。俺も妻も、正直花見には興味がなかった。妻は桜よりも、ユキヤナギが好きだったからだ。ユキヤナギの先初めは桜より少し早いが、桜の咲く時期も咲いている。桜の木の側には必ずユキヤナギがあるといっても過言ではないくらい、両者は一緒に咲いている。でも、みんな背の高い桜の木ばかりを見上げ、腰くらいの高さでひっそりと咲いているユキヤナギを見ようとしない。あんなに綺麗で、可愛らしい花なのに、意外とその存在を知っている人は少ない。
 川沿いの道を下って行く。俺が通っていた高校のすぐ側だ。とても懐かしい風景だ。川の向こうの反対側の道に一軒のボロ屋が見えた。何年そのままなのか分からないくらい荒れ放題だった。葉や木に覆われている。汚くて読みづらいが、看板が出ている。喫茶店のようだ。こんなところにこんなものがあっただろうか? 当時からこの状態なのだろうか。 中央運動公園という大きな公園の横も通った。昔はよく来た。この辺りには高校時代、妻たちと過ごした日々の名残りがある。大通りを渡り、しばらく歩いて、現場となった青木橋に辿り着いた。横にある小学校から子供たちの声が聞こえる。少し行けば、青木公園というブランコと滑り台しかない小さな公園もある。こんな人通りの多いところで、犯人は犯行を行った。計画的な犯行なら、こんなところは選ばないはずだ。きっと、突発的な犯行だったに違いない。被害者に弱みを握られていたとか、脅されていたとか・・・他の見られたくない所を見られてしまったとか・・・。これ以上、憶測で考えるのは止めよう。この後の捜査会議でいろいろ材料を得られるだろう。
 このまま住宅街へ入って行けば、署への近道になるだろうが、もう少し川沿いに行くことにした。阪急電車の高架を潜り、森下町に入る。ここにも妻たちとよく来た公園がある。東川親水公園だ。水笠が増すと、歩ける部分が減っていく公園だ。思った通り、ユキヤナギが咲いていた。側に桜の木もある。いくつかの花が咲いていた。このようにして、ユキヤナギと桜が一緒に咲いているところはよくある。でも、妻は桜には一切目もくれないで、ユキヤナギばかり見ていた。
 しまった、仕事を忘れ、感傷に浸ってしまった。
 更に下って行くと、再び大通りに出た。ここを右に曲がれば署に着く。道路に面した八幡神社で掃除をしている人がいた。担当区域ではなかったが、話を聞いて帰ろう。
 署に戻り、捜査会議に参加した。俺は前から四列目の端の席だ。捜査本部長の捜査一課長が今回の捜査の報告を求めた。
 順番に今日の捜査成果を報告していく。特に目新しい情報はなかったが、強いて言えば被害者の死因だろう。意外なことに窒息死だった。被害者は足と肩、あばら骨を数本骨折している。溺れるほどの深さもない川だが、顔が水に浸かり、骨折のせいで身動きが取れなくなって、そのまま窒息してしまったのだ。転落してすぐに見つかっていれば、きっと命は助かっていただろう。
 「神社での話、報告しませんでしたね」
 捜査員が散り散りになった後、相棒の捜査員が声を掛けてきた。
 最後、八幡神社で聞いた話は少し興味があった。事件が起こる数日前から見慣れない男性が東川親水公園でよく物思いに耽っていたらしい。特に何をするでもなく、数時間ただ座っているだけらしい。事件後、全く姿を見せなくなったそうだ。今ここで報告しても、それがどうした、となるだけだ。この人物についてはこっちでもう少し調べてから報告することにする。
 次の日も引き続き聞き込みとなった。主任は俺に手柄を挙げさせようと、被害者の親戚関係に話を聞く仕事を回してくれようとしたが。断ることにした。主任には話せないが、公園にいた男を調べてみたい。
 散々ぼやかれた後、相棒の捜査員と共に署を出た。真っ直ぐ東川親水公園へ向かう。相変わらず、ユキヤナギが綺麗に咲いている。
 森下町側は団地になっている。相棒と手分けをして公園が見える側の部屋の住人に話を聞くことにした。見上げるほどのマンションだ。頑張って行こう。
 俺は上から、彼は下から順番に聞き込みを開始した。平日の昼前だから、対応してくれるのは奥さんらしき女性が主だった。
 仕事の関係上、団地に足を踏み入れる機会は多いが毎回懐かしい気持ちになる。高校時代、妻と親友が住んでいたマンションは団地の中の一棟だった。二人は同じ棟に住んでいた。この団地は見た目も創りも何もかも違う。けれど、団地が持っている空気とか、一体感とか、よく分からないけど、そんなところに共通点を感じているのかもしれない。休みの日などはどちらかの家によく遊びに行った。友達の家に行くといえば、ゲームやって、漫画を読んで、たまに外へ出て上手くもないサッカーをする。そんなことを想像していたが、あいつらとの遊びは全く違うものだった。美術館のパンフレットや芸術系の雑誌を持ち寄って、載っている作品について語り合ったり、二人はそれぞれよく分からない専門書を読んで、俺は一人で漫画を読む。何も話すでも、するでもない時間を過ごす。
 ご飯を食べるときだけは漫画やテレビの話など、どうでもいい話をすることもあった。その流れで親友に漫画を貸すこともあった。「漫画の読み方」が分からない、と訳の分からないことを言っていたな。
 順番に話を聞いていき、四階ほど降りてきた。ここはまだ十階だ。団地のマンションはエレベーターがないところも多い。あの二人のところがそうだった。ここはエレベーターがある。まぁ、今の歳だったらまだまだ平気な自信はある。
 インターフォンを押して、手短に用件を伝える。出てきたのは少し小太りのおばさんだった。
 「見た見た、見たことあるわ、そんな人」
 小太りのおばさんは下の階の住人と近くのスーパーで働いているらしい。帰り道、そんな人物を見かけたことがあるらしい。それも一回ではなく、何回か見たらしい。
 「そうそう、いつやったかな、小さな女の子が一緒やったんよ。手を繋いで、公園とこ歩いてた」
 女の子? その女の子のことも何度も見ましたか。
 「ん~、何回か。男の人一人のときもあったけど、女の子がいたときもあったかな」
 パート仲間の下の階の住民にも確認してみて、とのことだったので、お礼を言って別れた。一応、隣の住民にも話を聞いてみた。確かに、少女を連れた男の姿は何度か目撃されていた。
 「あ、もしかして今テレビでやってる誘拐事件? もしかしてあの人犯人なの?」
 まだ捜査中です。
 「もしかして、あの子誘拐されてた子だったの? 凄いの見ちゃったどうしよう」
 まだそうと決まったわけではないことを念押しして、その場から離れた。この仕事をしていて、こういうときが一番気を遣う。下手にある人物について調べてしまうと、世間からあらぬ疑いを掛けられてしまい、その後の生活に影響が出てしまうこともあるからだ。俺たちは慎重に行動していかなくてはならないんだ。
目撃されていた二人は手を繋いで歩いていたりしていたが、全く楽しそうな雰囲気じゃなかったらしい。二人とも寂しそうな顔をして、それでもにこやかに笑っていたらしい。男の方は細身の体型で上から下まで黒い服を着ていたらしい。女の子は可愛らしい格好で、見かける度に違う服装だったそうだ。
 一体どういう関係の二人なのだろうか。
 真ん中の階で、相棒の刑事と合流した。向こうも同じような目撃証言を集めていた。そして最近は全く見かけなくなっている。青木町での事件を境に・・・。あの二人と事件は、何か関わりがあるのか? 二人はどこへ行ってしまったのだ?
 「本当に誘拐事件の犯人なんですかね」親水公園の中、東川を見ながら相棒の刑事は言った。
 分からない。だが、調べてみる価値はある。誘拐された少女の家族の元を訪れ、話を聞いてみたかった。だが、自宅にはおそらくそっちの担当の捜査員が待機しているだろう。下手に話を聞きに行くことは出来ない。
 「本来なら、本部長に報告して、指示を仰ぐところです。別のヤマの案件ですからね」
 確かにそうだ。だが、男がこっちのホシじゃないと決まったわけでもない。もう少し、調べてみたい。
 「少女の自宅はここから少し離れたところにありました。遠くはないはずです。行ってみますか」
署に戻って調べてみると、少女の家は阪神西宮駅からバスで数分のところ、東町二丁目にあることが分かった。長居は出来ない。手っ取り早く調べよう。
 近所の住人から興味深い話を聞いた。少女は親に虐待されていた疑いがあるらしい。話をしてくれた住人の娘は誘拐された少女と仲が良く、家に遊びに来たことがあったそうだ。そのときに見てしまったらしい。腕に出来ていた痣を。
 そのときに聞いたそうだ。この痣はどうしたのか、と。そしたら少女は黙ってうつむいてしまったらしい。そのときはそうっとしていたが、次に遊びに来たときも別の痣を作っていたので、聞いてみると、ようやく話してくれたそうだ。お父さんにやられた、と。
 少女はピアノを習っていたらしい。家で練習していて少しでも失敗すると、とても怒られるのだ、と。
「実はこれ、この前話を聞きに来た刑事さんには言えなかったんです。私以外の人たちは、あの家族は理想の家族だと思っていましたから」
 どうして、我々には言おうと思ったんですか。
 「ニュースで見たんです。幸せな家族の時間を奪った犯人に復讐したいって、インタビューに答えているご両親の姿を。それは違うんじゃない?って思ったんです。もしかしたら・・・あの子逃げているのかもって・・・」
 誘拐ではなく、家出だと?
 「だって、犯人からの連絡は一切ないんですよね」
 それは充分に考えられることだった。娘さんはどこのピアノ教室に通っていたのだろう。
 「さぁ・・・そこまでは。三宮にある教室だとは言ってました。あ、あと・・・」

 電車に乗って俺たちは三宮に降り立った。行先は県警の隣にある県民会館だ。少女はここの書道教室に通っていたらしい。時刻は夕方五時になろうとしていた。急がないと、捜査会議に遅れてしまう。
 少女の父親の容姿と森下町で目撃された男の容姿は一致しなかった。だからあれは父親ではない。それに暴力を受けていたのなら、二人で一緒に出掛けようとはしないのではないか。無理矢理連れ出されたとしても、怯えていて、目撃証言にあったような雰囲気にはならないだろう。
 県民会館に到着した・・・あいつはいるだろうか。
 受付で用件を話した。捜査員が何回か訪れているらしく、見慣れない俺たちに少し怪訝そうな顔をした。
 変わったことや気が付いたことはありませんでしたか?
 このような質問は既にされていたのだろう。すらすらと言葉が出て来る。少しうんざりしているようにも感じられた。結果、少女はおとなしい子で、あまり元気な子供の印象はなかったそうだ。それでもこの会館で開校されている習字教室には熱心で、先生によく褒められていたらしい。次の教室は来週の月曜日だった。そのときにまたお邪魔するようにしよう。話を聞いている間も、いろいろな人が建物内を行き来していた。中には目を見張るような服装をしている人もいた。大きなキャンバスを持っていたり、楽器を持っていたり。いろいろな人がいるものだ。
お礼を言って帰ろうとすると「こんにちは」と声を掛けられた。以前、西宮の神垣町でも事件を捜査中、ここを訪れた際に話を聞いた女性だった。
 「また捜査ですか」
 そうなんです。
 「嫌になっちゃう。ここの会館、呪われてるんですかね」
 それは・・・どういうことだろう。
 「同僚と話してたんです。最近、ここの関係者が事件に関わる率が高いって」
 そういえばそうだ。神垣の事件では、犯人がここに通っていた。
 「で、この前義理のお兄さんに殺された事件があったでしょ。あれ、実は自殺だったんでしたっけ。その殺された奥さんもここに来ていたんです。クラリネット持って」
 それは・・・知らなかった。
 「吹奏楽時代のことが忘れられないみたいで、定期的に演奏活動をして行きないって、思ってたみたいですよ」
 そして、今回の誘拐事件か。確かに、ここの関係者の事件が続いているな。
 「捜査頑張ってください。お疲れ様です」
 会釈して女性は歩き去った。
 署に戻りながら、今までのことを整理していた。最近自分が関わった事件に県民会館で繋がっていることには驚いたが、それぞれ犯人は捕まり、事件は解決している。偶然が続いただけのことだろう。いや、もう一つこれらの事件には共通点がある。あの電話だ。三つの事件の間にもいくつもの事件はあった。俺がたまたま担当したのは、神垣と今回の青木町での事件だ。弟嫁殺しの事件に関しては担当ではなかった。電話が掛かって来たことにより、関わることにはなってしまったが・・・・。
 「私の妄想なんですが・・・」相棒の刑事が突然口を開いた。「聞いていただけませんか」
 彼の推理はこうだった。少女はある場所で誘拐犯と出会った。場所までは分からない。少女は誘拐犯と仲良くなり、自分が暴力を振るわれていることを告白する。それを聞いた誘拐犯は、一緒に家出をすることを計画する。そして、それを実行に移した。後は目撃されていた通り、二人で行動していた。ところがある日、何らかの理由で柳本町に住むマル害に誘拐犯だとバレてしまう。事情を説明しようとしたが、警察に通報されそうになった。故意か偶然かは分からないが、青木橋から突き落としてしまい、そのまま死なせてしまった。誘拐犯は少女を連れて、姿を消した・・・・。
 「どう思います?」
 確かにあり得そうな話だった。仮説としては、悪くないように思った。だが、確信に変えるためには情報が少なすぎる。森下町で目撃されていた少女と、誘拐された少女が同一人物であることを証明しなくてはならない。
 すると、ポケットの中で電話が振動した。主任からだ。
 「お前、何やってんだ」署に戻ると、捜査一課長からの説教が待っていた。「別のヤマの事件調べてるってな。どういうことだ」
 俺は今日調べたことを報告した。
 「確かに面白い考えだ。だが、証拠は何も得られていない。勝手なことやっといて、何も収穫なしか」
 これには黙るしかない。
 「今度勝手な行動を取ったら、捜査から外す。いいな」
 そう言って課長は出て行った。主任には、誘拐された少女について分かったことをまとめ、向こうの捜査本部に提出するように言われた。


          *

 「で、そっちは落ち着いたの」
 落ち着いたわけがない。まだ捜査中。今回はこっぴどく叱られて、参ってるんだよ。
 今までは捜査本部が設置されている西宮署に泊まったりしていたが、今日は一時帰宅した。というか、一時帰宅させられた。やっぱり電話口から聞こえて来る親友の声は、俺の心を落ち着かせてくれる。
 「そりゃ、怒られるよ。僕の職場を呪いの館呼ばわりしたんだ」
 それについては、上司に報告していない・・・。
 「でも、偶然が重なったね。県民会館の関係者が最近の事件に関わっているなんて」
 それらの事件は、俺が今まで経験したことがない事件ばかりだった。犯人がただ犯罪を行っただけじゃない。行動の理由には・・・愛があった気がする。警察官がこんなことを考えていていいのだろうか。
 「芸術を志す人たちは、何かに対して執拗に美学を求める。絵、音楽、ジャンルは様々。そんなことを考える人たちのことは、数字や体を動かすことしか考えていない人たちには、分からないよ」
 何が言いたいんだ。理数系やスポーツ選手に芸術は理解できないってか?
 「そこまでは言ってないよ」
 話は、自然と久し振りに訪れた高校周辺の話になった。卒業したのはついこの前だと思っていたけど、いろいろ変わってたな、あの辺。
 「認めたくないけど、年取ったんじゃないの」
 そうかもしれないな・・・。確かに、認めたくないけどな。今日はありがとう、明日も早いんだ。そろそろ切るよ。
 「突然電話してきたのはそっちだよ。それも夜中に」
 俺はこいつの遠回しな嫌味が好きだった。いや、遠回しではないか。直接的なのだが、サラッという感じとか・・・半分棒読みで本音を言うというか。柔らかい口調だが、嘘はつかない。ここまで長く付き合えてきたのはそういう性格が俺に合っていたからかもしれない。そういう点で、親友は妻に似ている。彼と妻は似た者同士だったんだ。

          〇

 夜中に電話が鳴った。
 俺は眠れずにいた。リビングでただボーっと座っていたのだ。行方不明になった妻を探しに外に出ていて、今帰って来たのだ。本棚の上に、妻の写真が置いてあるのを見て、死んだことを思いだした。
 携帯電話を見ると、署からの連絡だった。おそらく、事件が起きたんだ。
 事件が起こったのは、上甲子園のとある一軒家。頭を打って亡くなっていたのは、この家に住む五十代の女性。第一発見者は夜中に帰宅した被害者の息子。帰ってくるなり玄関の鍵が開いているのを不思議に思った。いつもなら黙って二階の自分の部屋に行くが、一階のリビングを覗いた。明かりを点けてみると、母親が頭から血を流して倒れていた、とのことだ。
 この親子はいろいろ訳アリだった。数か月前に父親が愛人と駆け落ちし家を出ていた。専業主婦だった母親は働きに出て、息子は学業とアルバイトを両立して、生計を立てているようだ。
 現場のリビングはいたって普通のリビングだった。テーブルがあって、テレビが置いてあって、離れた所に台所がある。所々、奥さんの趣味なのか、ガラス細工の置物が飾られている。
 「よう、朝早くに悪いな」
 俺の上司、強行班係の班長は、定年間近のベテランだ。もうすぐ退職であることもあって、最近は働きに余念がない。いや、今まで下で働いていて、余念があったことは一度もないのだが・・・。それ以上に必死に働いているように見えた。「最高の仕事をする」それが上司の口癖だ。
 「ホトケさんはどうやら、棚の上にあるガラス細工を取ろうとして、足を滑らせて落下してしまったらしい。で、ここに頭を打ち付けた」
 上司はテーブルの角を指差した。血の跡がある。
 リビングの頭元にも棚が取り付けられていて、ガラス細工が並んでいた。そのうちの一つが床に落ちて割れている。
 「旦那が出て行く前の奥さんの趣味だったらしいぞ」
 なんと、これらは被害者の手作りらしい。凄く綺麗だ。
 事故で間違いないさそうですね・・・マル害の・・・
 息子は、と言おうとして、上司に鋭く睨まれた。
 俺の上司は、警察官が死んだ被害者に対して使う言葉「マル害」という言葉が嫌いだった。俺はこういう言葉を使った方が警察官っぽくてついつい使ってしまう。だが上司曰く、被害者は亡くなっても人なのだ、とモノのように扱っているように聞こえるこの言葉を使わないようにしている。
 息子さんに話は聞いたんですか。
 「それはこれからだ。一緒に行くぞ」
 俺は後に続いて、息子が待機していた外のパトカーに乗り込んだ。
 マル害・・・奥さんの遺体を発見したときの状況を詳しく聞いていく。息子は大学が終わってから夜遅くまでアルバイトをしている。いくつか掛け持ちしていて、毎日帰りは二時過ぎになる。遅いときは始発で帰って来るそうだ。
 終始落ち着いて話してくれたが、傷心していることは俺の目から見ても分かった。二人で何とか生きて行こうと決めた母親が亡くなったのだ。彼にとっては生き甲斐だったかもしれない。これからかれはどうしていくのだろう。
 息子さんと相談の末、今日は近くのホテルに泊まってもらうことにした。さすがに現場の家では休みたくないようだ。
 近所の住人から話を聞くのはちゃんと朝になってからになるだろうが、おそらく事故だ。それも、悲しい悲しい、事故だ。
 大切な人を失うのはどんな気持ちなのだろう。俺は妻が死んでしまうことなんて、考えることが出来ない。今日も、家に帰れば妻がいる。それはとても幸せなことなんだと思う。そんな幸せの中にいる俺には分かってあげられない悲しみだ。
 夜が明けて、近隣住民に聞き込みを始めた。主に親子関係のことだ。事故であることは間違いないだろうが、便宜上捜査はする。
 どうやら理想的な親子関係だったそうだ。母親は息子の為に、息子は母親にために働いて、父親が空けた穴を二人で埋めていたようだ。その仲の良さは周知の事実で、たまに贅沢して二人で行く映画のときはとても幸せそうだったらしい。
 母親と娘なら分かるが、息子とでもこのようなことがあるのだろうか。俺は母親と仲は悪くないが、二人で映画に行くことなんか考えられない。
 署で強行班のメンバーが集まり、会議となった。結論は事故以外に考えられない、ということだった。上司が進行役になり、最後に改めて事件発覚の経緯をおさらいする。これで新たな疑問が浮かばなければ事故として報告書を作成する。所轄にとって面倒でしかない特別捜査本部は設置されない。
 遺体発見は、午前二時二十五分頃。第一発見者は被害者の息子。二時二十九分に一一九番通報。救急車が到着した時点で死亡が確認された。その後警察に通報があり、午前三時十五分現場に最初の交番の地域課員が到着する。
 順番に確認していったが、気になるところはない。親子関係は良好で、息子が犯人であることを疑う余地はない。近隣住民の証言でも、怪しい人物は目撃されていない。父親の消息は不明だが、家に唯一残っていた一枚の写真を頼りに聞き込みを行ったが、事件前後、現場周辺で目撃されたという情報はない。事件に関わっている可能性はないように思われた。
 母親の死亡推定時刻は夜八時前後。以上のことを確認し、報告書を書く段取りを付けた。
 いや待てよ・・・死亡推定時刻は夜の八時?
 明らかに班のメンバーは疲れた顔で、会議は終了ムードだったが、俺は手を挙げた。
 死亡推定時刻に間違いはないんですか。
 「そう、報告を受けている」
 息子さんは、家に帰って明かりを点けて遺体を発見したと言っています。夜八時に明かりも点けずに棚を整理したりしますか。
 班のメンバーがざわついた。
「言われえみれば変だな」上司は眉間に皺を寄せた。
 「これを見てください」班のメンバーの一人が捜査資料を広げた。「明かりのスイッチに五人分の指紋が付いています。二つは母親と息子の分。一つは以前住んでいた父親の分だと仮定すると、二人分多いです」
「しかも、謎の指紋が最後についた指紋ときてる。よし、もう一度事件を洗い直す。ここ数週間、あの家を訪れた人物をリストアップしろ」
 上司の指示の元、俺たちは再び捜査を始めた。
 謎の二つの指紋のうち、一つは電気屋のものであることが分かった。リビングの明かりは何週間か前に調子が悪くなり、新しいものに変えられていた。最後の一つがまだ分からない。
 それから、息子から興味深い証言を得た。母親は平日休日問わず働きに出ていた。その為、一週間の自分の予定を事細かく決めていた。家の掃除の時間や洗濯の時間までだいたい決めていたらしい。そして、事故があった日は棚の掃除をする日ではなかったらしい。
 たまたま気になる汚れがあったのではないか、という問いに対して息子は、掃除の日は事故の前日でした、と答え、母親は予定を忠実に守っていたという。事故の日の夜八時は仕事から帰って来て、夜ご飯を食べている時間だったという。
 現場の台所に帰りに買って来たと思われる買い物袋が放置されていたが、調理はされていない。急遽予定を変える事情が出来た、と考えることは出来ないだろうか・・・たとえば、来客。
 県警に応援を要請し、正式に捜査することになった。まずは、駆け落ちした父親を重要参考人として手配し、捜索する。そして、最後の電気のスイッチに残された謎の指紋の捜索だ。
 署に特別捜査本部が設置された。先程から、県警捜査一課の捜査員がぞろぞろとやって来ている。捜査会議の直前、俺は上司に呼ばれた。行ってみると、そこには上司と五十歳くらいの男性がいた。
 「彼は私の後輩で捜査一課第七係の主任だ。以前は私と一緒に仕事をしていたんだ。今回、捜査本部に参加する」
 上司が俺に紹介する。どうやら俺は、今回のヤマでこの人とペアを組むらしい。捜査一課の主任とペアを組むなんて・・・なぜ上司が組まないのか。
 その理由は後から分かることになる。その後の捜査で父親と愛人の行方が発覚し、更に愛人が今回のコロシの犯人であることが分かった。父親の潜伏先を見つけ出したのは俺だった。地道な聞き込みの末ではあったが。
 そうして俺は一緒にペアを組んでいた主任に見込まれて、晴れて県警捜査一課へ異動になったのだ。
 「あの人から君のことを聞いていたんだ」特別捜査本部解散後、主任の誘いで二人で居酒屋にいた。「今回、これをコロシのヤマにしたのは君だったんだろ」
 「もともと、見込みのあるやつがいるって聞いていたんだ。機会があれば一課に引き上げて欲しいってな」
 そんなことをあの上司が?
 「最高の仕事をする。あの人の口癖だ。それは刑事としての仕事だけでなく、人間として、という意味も含まれるんだ」
 主任はあの上司からいろいろ教わったらしい。そのお蔭で今の自分があると言っても過言ではないらしい。
 「君も、あの人の意思をちゃんと受け継いでる。捜査中の目を見れば分かった。うちに来て、今まで以上に人のために働かないか」
 夢の様な話だった・・・いや、夢が叶った瞬間だった。
 「気に障るかもしれないが、君の奥さんことも聞いている。あの人は心配していたよ。奥さんが亡くなって以来、君は変わってしまったと。捜査に身が入らず、幻覚ばかり見ている、と。犯人を取り押さえる際に必要以上に殴った話も聞いた」
犯人を必要以上に殴って取り押さえたときのことは、よく覚えている。反省してもしきれない。自分を見失っていた。でも今回は違った。久し振りに事件と向き合い、刑事としての仕事が出来た気がした。
 「一課に来い」
 主任の力強い言葉に促され、俺はビールをグイッと飲んだ。
 そうして、県警勤務になって一か月が経った頃。朝の七時、俺と親友は県警のすぐ側の「ラキート」という喫茶店にいた。
 「勤務先が隣になったね。もしかして、ストーカーなのかな」
 朝食メニューの目玉焼き定食を食べながら、どこまで本気なのか分からないことを言う。事実、親友とこうして会えている時間は俺にとって幸せな時間だった。
 「顔つきも変わったね。仕事は楽しいの?」
 楽しいわけないか、と言って玉子トーストを頬張る。目玉焼き定食というメニューの目玉焼きと玉子トーストという組み合わせに疑問を感じるが、玉子の中には焼いたウインナーが入っていたりして、美味しい。
 楽しい仕事とは言えない気がする。死体を見る仕事だしな。
 「知ってる? 春はここから桜が見えるんだよ」親友は窓の外を指差した。「今は夏だから、当分先だね」
 親友はよくここに来るのか、メニューについても詳しかった。火、木、金曜日限定で『焼きオムカレー』なるものがあるらしい。オムライスの中が焼き飯で上からカレーがかかっている、という料理だ。
 「美味しいらしいよ。僕は食べたことないけど」そんなことをさらりと言う。
 実際に彼はここの通常のオムライスが好物のようだ。暇があったら今度は昼に来てみたい。
 それにしても夏だというのに、親友は相変わらず涼しげな格好だ。と言っても、上下ともに黒、という格好だ。
 「黒はね、あらゆるものを際立たせる重要な色なんだ」
 以前も聞いたことがある台詞が返って来て、俺は思わず笑ってしまった。あのときと同じように、お前にそんな価値ない、と返した。
 「久し振りに笑顔を見たよ」親友は微笑んだ。
 確かに久し振りに笑ったかもしれない。こういう時間を長らく忘れていたかもしれない。
 「今度はお昼に来ようよ。焼きオムカレーが美味しいかどうか、毒味してよ」
 俺はまた笑ってしまった。

          4

 青木町での事件の捜査は変わりなく継続されている。親水公園で目撃された男と少女の捜査を打ち切られてしまった以上、俺には何の手立てもない。与えられたエリアの与えられた仕事をこなすしかなかった。聞き込み捜査ではありきたりな、ただ歩き回るだけで何も収穫がない日が続いた。今日は親戚から話を聞くために大阪まで来ていた。今日の捜査会議には出席せず、直帰することになっている。
 目撃された男は何かを知っているかもしれない。重要参考人として、捜査することは一つの芽を潰すという意味でもやって間違いではないように思う。だが、あちらの身柄は誘拐事件のヤマに取られたようなものだ。こちらからはどうすることも出来ない・・・。
 「探しましょう」
 その言葉の意味を理解するのに少し時間が掛かる。今のは、俺の心の声なのか・・・?
 「男を探して、話を聞きましょう」
 言っているのは、相棒の刑事だった。帰りの電車の中、彼はニコリともせずに俺の顔を見ていた。
 探すったって、当てはあるんですか。親水公園周辺では事件後、一度も目撃されていないんですよ。
「まだ近くにいると思います。目撃されたときの雰囲気から、ただの誘拐ではないように思います。二
人で遠いところに行っていないのも何か理由があるように思われます」
警察の捜査を掻い潜るため、あえて事件現場のすぐ近くに身を隠す犯人の少なくない。野次馬に紛れて犯人が警察官の右往左往する現場に優々と現れていたりもする。そうでなくても、同じ地域にいたのには何か理由がありそうだ。だが、これは二人が誘拐事件の当事者である前提の考え方だ。
 「署の仲間に聞きました。誘拐された少女の顔写真を森下町の団地人たちに見せたら、この子に間違いない、との事だったそうです」
 そうか・・・同一人物であることが証明されたか。
「行方を捜索しているそうですが、見付かっていません。他の署にも協力を要請して、県内中を調べても成果なしです。話によると、森下町を含め、殺人現場周辺は捜索対象外でした」
 まだ森下町にいる?
 「森下町でなくても、その周辺にはいると思います」
 推測で全てを固めていくことが早計なのは分かっている。だが、手の付けどころがそこしかないのも事実だ。
 「あなたは、県警に来たいとは思ったことないんですか」
 所轄の警察官の中には、警視庁や県警の捜査一課を夢見て働いているものも少なくない。一応の確認だ。今回再び勝手な行動を取れば、上層部から目を付けられるのは間違いない。そうなれば、昇進の見込みは無くなってくる。
 「私は、最高の仕事が出来れば、部署はどこでもいいです」
 その答えを聞いて安心した。思う存分、捜査をしよう。

 西宮に帰って来たのは夜の九時過ぎだった。俺たちは現場である青木橋の上にいた。ここから被害者の行動範囲を辿ってみることにした。自宅、スポーツセンター、ランニングコースである東川沿い周辺。被害者の足跡を追って行けば、何か手掛かりが見つかるかもしれない。
 歩いている途中、現場付近の家で微笑ましいものを見つけた。コンクリートに小さな手形が付いていて、手の主のものであろう名前のイニシャルが彫られていた。真新しい家だったので、塗り替えの際に手形を付けたのだろう。大きさからして小学生くらいだろうか。
 「可愛いですね。家にこういうのがあるのはいいですね」
 うちの娘にもやらせたい、と相棒の刑事は笑った。娘さんは四歳だそうだ。
 「失礼ですが、お子さんは?」
 そうだな。子供がいたら、俺の生活はどうなっていただろう。何か大きな変化はあっただろうか。子供を持つ感覚なんて、全く想像できない。
 甲陽園駅の近くまで行き、東川沿いに現場の方へ戻っていく。俺が通った高校を横切り、現場近くまで戻って来た。
 「意外と人目につかなそうなところはたくさんありますね」
 標高が上がっていくため、林になっているところも多く見受けられた。だが、外で監禁することはないように思われた。相手は子供だし、ましてや本気の誘拐でないのだとすれば尚更だ。
現場に戻って来た。かなりの距離を歩いた気がする。時間は〇時近くなっている。すると、携帯電話が着信を告げた。こんな時間に誰だ。番号は出ていない。これは・・・。
 「さすがは名刑事。いいところまで来ているな」
 予想通り、機械で変声された声が聞こえてきた。
 「誘拐犯には確実に近付いている。その調子だ」
 お前の目的は何なんだ。俺に何をさせたいんだ。
 「もうすぐ分かるよ。そのうちにね」
 電話口から車の走り去るような音が聞こえた。相手は外で電話しているようだ。しばらくすると、前方から車が走って来た。
 「家族のためにも、少女は誘拐されたままの方が幸せなのかもしれない。子供が家にいなければ、親は子供について悩む必要もなくなるし、子供も余計な責任感を持たずに済む―――」
 謎の声の話は続いていたが、俺は川沿いに山側へと歩みを進めた。相棒の刑事も「どうしたんですか」と言いながら着いてくる。
 「今回は真相を突き止めたところで、いい結果にはならないかもしれ・・・」
 相手が言葉を切った。その理由は俺にも分かった。前方、川の向こう側、反対側の道に人影が見えた。こちらに気付き、踵を返して走り出した。
 あいつを追え! 叫んで二人一緒に走り出した。俺は途中で橋を渡り、東川を挟んで二手に分かれた。電話の主は間違いなくあいつだ。今、俺の前方にいる。橋があるところに差し掛かり、相手は橋を渡り、住宅街に入っていった。相棒がすぐさま反応し、後を追って道を曲がった。俺も橋を渡り、後に続く。

          〇

 人混みの中を俺は走っている。暴行容疑の男が、話を聞いている間に走り出したのだ。公務執行妨害で現行犯逮捕する。
 スーパーで凄い剣幕で言い争いをしている男女がいる、という通報があり、最寄りの交番の警察官が現場に急行した。その時点で仲裁に入っていた近隣住民に暴行を加えており、警察官が止めに入ったが更に暴行を加えた。手に負えなくなり、強行班係にも応援要請がかかった。当時甲子園警察署に勤務していた俺も現場に急行した。
 事の発端は女性(結婚はしていない)と買い物に来ていて、ある食材を買う、買わないで口論になったそうだ。女性の顔や腕には痣があり、普段から暴行されていたことが窺える。話を聞いている間も、男は終始荒っぽい口調で話した。
 好きな相手に暴力を振るうなんて、俺には考えられない。二人は同棲しているようだが、お互いを大切に出来ないなら、一緒に暮らさない方がいいに決まっている。少なくとも、俺は妻を殴りたいとは、一度も思ったことがない。
 そんな事を考えていたら、俺の口調も勢いがついてきた。気が付けば、こうして相手を必死に追い掛けている。ようやく追いついて、その場に押さえつけた。向こうが殴ってきたので、こちらも思いっきり殴ってやった。馬乗りになって、何度も殴りつけてやった。一緒に来ていた強行班係の上司に止められるまで、俺は殴り続けていた。男は怯えきって、抵抗を一切しなくなっていたのに。
 署への連行は他の者に頼み、俺は上司に呼ばれた。喫茶店に入り、こっぴどく叱られた。
 「奥さんが死んでまだ間もない。まだ不安定なんじゃないのか」
 俺は何も答えられなかった。上司はひどく疲れている様子だった。それもそのはずだ。上司は今年定年を迎える。にも拘らず、二十代そこそこ男二人の小競り合いを止めに入ったのだ。
 「あの女性と、奥さんを重ねてしまったんじゃないのか」
 おそらく、その通りなんだと思う。気付かないうちに、あの男が許せないという感情で頭が一杯になっていた。
 「私はそろそろ退職する。若手がそんなんじゃ、安心して出て行けないじゃないか」
 この上司は俺のことを息子のように可愛がってくれていた。実際にはそれ以上年が離れているが・・・孫ほどではない。
 「本当に、休んでなくて大丈夫なのか」
 上司の心配そうな眼差しがそこにあった。でも、このままがいいんだ。働いていないと、俺はもっとおかしくなってしまうかもしれない。
 すみません。これからは気を付けます。
 痛いくらいに肩を叩かれて、俺たちは署に戻った。

 夜遅く家に帰った。部屋に明かりが点いていない。妻はいないのだろうか・・・?
 点いているはずがない、妻は、死んだのだから。

          5

 謎の人物まで後数メートル。少し前を走る相棒が大きく飛び上がった。地面に着地する直前、相手の足にしがみ付いた。相手も大きく転倒する。揉み合いが始まる。俺が追いつく直前、謎の人物が相棒の顔に蹴りを入れ、怯んだすきにまた逃走した。相棒は唇を切り出血していたが、「早く追って!」という声を聞き、素通りして後を追った。
 背後から見る男の特徴は、細身の体型で、上下ともに黒い服操だ・・・誘拐犯の容姿に一致する。新たに浮かんだ疑問を頭の隅に置いて、俺は後を追った。男の足は速く、なかなか距離が縮まらない。俺の背後からは相棒も追って来ている。
 男はこの辺りに土地勘があるのか、大通りの方へは行かず、路地裏へと入って行く。
 「現場付近でマル被らしき男を発見」後ろから声がした。振り返ると、相棒が電話をしていた。「そうです。今追ってます。応援をお願いします。場所は・・・」
 応援はすぐに駆けつけて来るだろう。それまであいつを見失わないようにしないと・・・男はまた道を曲がった。この辺りの道は入り組んでいる。下手をすると撒かれてしまう。そろそろ走っているのも限界に近かったが、それは向こうも同じのはず。後は体力の問題だ。道を何度も曲がり、俺たちを撒こうとする男に必死に食らいついた。すると、大通りに出た。目の前の信号が点滅している。男はそのまま渡る。
 ―――マズい!
 俺が横断歩道に辿り着くころには信号が赤になり、車が動き出した。
 「男は越水町東交差点を東に逃走、緊急配備お願いします」
 相棒が電話に向かって報告する。信号が青になった頃には、男の姿を再び見つけることは出来なかった。
 「状況をもう少し詳しく教えてくれないか」
 捜査本部の会議室で、課長と係長、主任を前に俺と相棒は説明を求められた。現場付近を捜査中に怪しい人物を発見し、声を掛けようとしたら逃げ出した。慌てて後を追いかけたが見失ってしまった。どうやらそれは誘拐犯の目撃情報にある容姿に疑似している、ということ。
 課長の眉間に深い皺が刻まれる。
 「こっちのヤマのマル被を追っているという話しだったが? お前ら、また別のヤマの追っかけてたのか」
 正直に報告したことを後悔した。課長と係長が難しい顔でコソコソと話し始めた。主任がこっそりとこちらに近付いて来る。
 「これは、マズいかもしれないぞ。残念ながら、守ってやれん。君も優秀なのに、残念だ」
 最後の言葉は相棒の刑事に向けられたものだった。
 課長と係長は今回の件を上に報告すると言った。再三の注意に従わず、別のヤマの捜査をしていた俺たちには、何らかの処分が下されるそうだ。
 俺と相棒の刑事はその夜、主任に呼ばれ居酒屋に連れて行かれた。
 「ま、送別会だな。二人とも達者で暮らせよ」
 そんな縁起でもないことを言わないで下さい・・・。
 「で、実際に誘拐のヤマについてどこまで掴んでいるんだ」
 俺は謎の電話のことを話してもいいものかどうか迷った。その相手が誘拐犯の可能性が高いこと、そして最近起こった事件にも何らかの関わりがあるかもしれないことをどのように説得力のある言葉で話せばいいのか分からない。
 「実のところ、以前報告した以上のことは分かっていません」俺が黙っていると相棒が話し始めた。「ただ、まだ二人はあの現場付近に潜伏していると考えています」
 「ほう。それはどうしてだ」
 「少女の家から目撃された場所もそう遠くありません。本当に誘拐が目的なら遠くへ身を隠すでしょうし、そもそも身代金を要求する連絡もありません。あの土地に何らかの思い入れがあるように考えられます」
 「なるほど。で、」主任が俺の方に視線を移す。「お前の見立ては」
 俺も彼と同意見です。犯人は少女を不幸な現実から解放する英雄を気取っているのかもしれません。
 主任は腕を組んで考え込んだ。
「実際にこっちのヤマも手詰まりだ。お前らの見立て通り、誘拐犯がこっちのヤマの犯人である可能性も視野に入れて捜査し、一つの可能性を潰す、という捜査方法を取ってもいいと思っている。だが、上にその方針はないらしい」
 俺は不意にポケットを探った。おかしい。携帯電話が見つからない。
 「どうした」
 マル被追跡の最中に携帯を落としてしまったみたいで・・・
 「それは大変だ。明日、捜査用の携帯を改めて支給しよう。で、ここからは内密の話だ」主任は声を潜めた。「お前らには引き続き、誘拐犯の線を洗ってもらいたい」
 俺と相棒は顔を見合わせた。
 「もし、謹慎処分が下ったとしてもだ。こっそり捜査を続けて、情報をこっちに流して欲しい。折りを見て、お前らが正しかったことを課長共に認めさせて、正式に本部に戻してもらうようにするから」
 心強い言葉だった。わずかながら希望が湧いてきた気がした。

 翌日、俺たちは捜査本部から外されることになった。俺に対する正式な処分は現段階では保留だそうだ。主任は予想していなかったのかもしれない。謹慎よりも悪い、どこかの所轄に飛ばされるパターンかもしれない。もちろん、携帯電話は受け取れず仕舞い。主任の指示通り、捜査は継続する。すぐにでも動き出したかったが、少しだけおとなしくすることにした。二日後、相棒と合流する。
 「あなたとペアで本当に良かった」別れ際、彼はそんなことを言った。「どうしてだ、なんて聞かないで下さい。自分がただそう思うんです。ありがとうございます」
 二日後、また会いましょう。そう言って俺たちは別れた。二日間、全く何もしない訳ではない。おとなしくしているフリをして別々に捜査するんだ。俺はとりあえず、最近起きた三つの事件の共通点である県民会館から調べてみようと思う。
 久し振りの我が家は何だか寂しく見えた。捜査中も定期的に帰って来て、明かりを灯してあげないといけないな。線香を立て、妻の写真に向かって合掌する。
 すると、家の電話が鳴りだした。一体誰だ?
 「昨日の夜は、大変な追いかけっこだったね」
 変声された声のあの謎の男だ。お前は何者だ。お前は誘拐犯か。どうして、家の番号を知っているんだ。聞きたいことは山ほどある。
「少女の監禁場所、教えてあげようか」
 知っているのか・・・お前が?
 「どうする? 知りたい? 知りたくないの?」
 お前が誘拐犯なのか。なぜ、少女を誘拐した。それより、どうして俺に電話してきている。事件の情報はどこで仕入れたんだ。お前は俺に何をやらせたいんだ。
 「最高の仕事だよ。警察官としてのね。でも、なかなか難しいでしょ」
 ちゃんと質問に答えろよ。
 「答えたよ。誘拐した理由については、彼女が不幸だったから。彼女を不幸な世界から救い出してあげたかったんだ。警察はそういう被害者を救うのが仕事でしょ。でも、被害者だけが辛いわけじゃない。それはお前がよく分かってるんじゃない? 最初の事件、加害者と被害者、辛かったのはどっち? 二回目の事件、辛かったのは誰? 誘拐事件、両親と娘、被害者はどっち? 今のお前に答えが出せるかな」
 何が言いたいんだ。
 「僕が言いたいことが分からない奴に、警察官をやる資格はないってこと。そもそも、警察なんて組織は必要ないんだ。罪を犯した人物を捕まえるだけの組織なんて、無意味だよ」
 この問答に何の意味があるのか、俺には分からなかった。
 「法律なんてものがあるから犯罪が起きるんだ。法律がなかったら犯罪は存在しないんだ。法律から外れているもの、それは問答無用で犯罪だから。それが誰かのためにしたことでも」
 法律がなくなれば、この世界は崩壊してしまうだろう。やっていいことと駄目なことの境界が見えなくなってしまう。
 「本当にそう思う? 法律がある現在も、その境界はしっかりと引かれているのかな」
 俺は言葉に詰まる。言い返す言葉が見つからなかった。
 「台所で持つ包丁は正しくて、コンビニで持つ包丁は間違い。そんな世界で僕たちは生きているんだよ」
 最後に電話の主は、少女の監禁場所だという住所を伝えて電話切った。

 次の日、阪急西宮北口駅の側にある県の自動車学校。ここに所轄時代の上司がいる。退職後試験を受けて合格し、今はここで教官をしている。どんだけ働くのが好きなのか・・・。でも元気でいてくれるのは嬉しいことだ。
「久し振りだな。どうだ、県警での仕事は」
 この時期の自動車学校は学生の姿が目立つ。みんなの顔が輝いて見えた。何の根拠もないが、若いって素晴らしいな。
 「そろそろ、仕事に逃げるのにも疲れたか」
 思わずため息が出る。この人には敵わない。全てを見透かされている。この人は、俺ですら気付いていないことにも気付いている。そう、俺は仕事に逃げていたのだ。妻のことを忘れてしまいたかったんだ。けれど、それで俺は救われたんだ。妻の幻影に囚われ、幻聴や幻覚に悩まされていた。県警に移動になり仕事に没頭するようになってから、そんなことは一切なくなった。嘘みたいに。
 でもやっぱり・・・それは許されないことだったのか。
 元上司に、不思議な電話の主と、誘拐事件について話した。今の上司の期待に応えるために尽力したいと思っている。この情報が正しければ、無事に少女を救えるかもしれない。俺は、今すぐにでも現場に急行したかった。
 元上司は優しくも、呆れにもとれる笑みを浮かべた。
 「警察官として、常に最高の仕事をしたかった。ホシを捕まえて、世の中を平和にする。これが自分の仕事だと思っていた。だが、私も歳を取って現場に出ることが少なくなった。退職の直前は生活安全課の課長をしていた」
 元上司は、自分が最後に担当した事案について話し始めた。ある加害者家族を保護したときの話だった。ある一家の長男が恋人と口論の末、殺害した。彼には父親と母親、そして弟がいた。残された家族は名字を母親の旧姓に変えられ、バラバラに暮らすことになった。生活安全課で子供の方を保護することになった。そのとき、どうやら妻の働く児童相談所と連携を組んでいたらしい・・・そんなの初耳だ。
 「君の奥さんは、加害者家族を保護する環境が日本ではまだ整っていないことに、とても憤りを感じていた。様々な状況はあるにしろ、加害者の家族は犯罪者ではない、と言っていた」
 状況は大きく違えど、家族を失ったという事実は、両者に変わりはない。犯罪者の家族だからと言って周りの関係ない人たちがその人たちの未来を奪う権利はあるのか、と。
 自業自得だ、という人も多い。こればかりは、警察官としての立場では適切な答えが言えない。
 元上司は静かに言った。
「人の死は、それだけ人々に大きな影響を与える。良いようにも、悪いようにも」
 妻がそのような信念を持って仕事をしていたことを、俺は知らなかった。犯人ばかり追い続ける俺を見て、妻は何を感じていたのだろう。被害者遺族と加害者家族。みんな望みもしないのに同じように苦しみを背負わされる。どこにもぶつけようもない怒りは、無意識のうちに対象を探し出す。加害者は牢屋の中だから何も出来ない。一番手の届く相手が、加害者家族だ。
 俺も、妻の死の責任として、居もしない誰かを作ろうとしていた。
 ・・・なんて、バカな。
 「今君は、死んだ人のためではなく、生きて、どこかで助けを求めているかもしれない相手のために行動しようとしている。それが、警察官として、最高の仕事だと、私は思う」
 〝空いてしまった穴は何かで埋めるしかない。記憶ではなく、今を積み重ねて新しい自分を形成していくしかない〟
 妻が読んでいた本に書いてあった気がする。自分を強く持たなきゃいけない。妻のことを忘れ去ってはけないけれど、ある程度忘れて行かないと、俺は前に進めないんじゃないのか。だから、俺は立ち直れたんだ。捜査一課にはいることで、妻の幻覚や幻聴は一切見なくなった。妻を少し忘れることで、立ち直ることが出来なんじゃないのか。夫として、これが正しいことなのか分からない。けれど、自分で選んだ道で生きて行かないと、それこそ間違った方向に進んで行ってしまうのではないのか。起きてしまったことで道を選んでいては、行きたい場所に辿り着くことは出来ない。
 俺は立ち上がった。自分の進むべき道が見えた気がした。俺がやりたいこと、俺が考えていたいこと。誰かのために何かをする。悲しませるためではなく「ありがとう」とその一言を聞きたいがために。
 ありがとうございます。吹っ切れた気がします。また飲みに行きましょう。生意気ですが、奢らせてください。
 「本当に生意気だな」と笑いながら言う元上司の声を背中で聞きながら、俺は走り出した。妻を探すためではなく、助けを求める人のために・・・。

          〇

 「相変わらず、ここの桜は綺麗だね~」
 「そうね~」
 二人はベンチに座り、足を大きく投げ出している。
 今日は始業式。珍しく部活は休みだが、大掃除なんかがあったせいで無駄に疲れた。ここは高校の裏手にある『新池北公園』だ。遊具も何もない、ベンチが一つポツンとあるだけの公園だ。しかし、大きな桜の木がいくつかあり、このベンチから見上げると、空一面桜色になってしまう。
 二人の家はここから歩いてすぐのマンションで、同じ棟にある。近所なのは羨ましい。俺は御影から通っている。バスで十五分揺られ、阪神西宮駅からも十分弱電車に乗らなければならない。
 俺たちも今日から三年生になった。受験生というやつだ。全く実感がわかない。俺に至っては、まだまだ部活に明け暮れている。こんなので大丈夫だろうか。
 「来年の今頃、あたしたちどうしてんだろ」彼女がポツリと言った。
 「大学、もう決めたの」
 「あたしは・・・まぁ、ね」
 俺もだいたい決めた。
 「何だよ、教えてよ」すると突然、親友は「あ!」と大きな声を上げた。「お前から借りてた漫画返すの忘れてた。取って来るから、待ってて」
 どうせ毎日会うのだから、今日じゃなくてもいいと言ったが、すぐ忘れるから、と言って親友は走って家に帰って行った。
 「桜、綺麗だね」でも・・・と彼女は続けた。「あたしね、ユキヤナギって花が好きなの。白くて小さな花。ここから少し歩いたらまた小さな公園があって、桜も一緒に咲いてるから綺麗なんだけどね」
 ユキヤナギなんて花、聞いたことがなかった。
 「大学、ほんとにどうするの? 夢は警察官って言ってたよね」
 そう、俺は警察官になりたいんだ。だから、大学では社会学部に入るつもりだ。
 彼女は興味があるのかないのか「へぇ~」と曖昧な相づちを打った。
 そっちは? どうするんだ。芸大とか、目指すのか。
 「芸術は趣味にしときたいかな。そんなに才能ないし。やってみたいことは他にあるしね」
 それは何か聞いたが、彼女は笑うだけで答えてくれなかった。少し寂しい気がしたが、あまり聞かないことにした。今の時点で言わないのは、それだけ真剣だという証拠ではないだろうか。ちゃんと道筋を見据え、軌道に乗り出した頃に話してくれるのではないだろうか。
すると、息を切らしながらこちらに向かってくる人影が見えた。手には紙袋を持っている。
「ごめん、ごめん!」そう言って漫画が十数冊入った紙袋をこちらに手渡してきた。今思い出したが、入学当初に貸したものではなかっただろうか。二年は貸していたことになる。随分と読むのが遅いな。
 「よし、これで貸し借りはなしだな」
 いや、この前コンビニで買ったチキンのお金をもらっていない。
 「あ、ごめん。いくらだっけ」
 彼は大慌てでポケットから財布を出した。
 こんなやり取りも、来年には出来なくなってしまうのだろうか。なんだか寂しい気がする。何をするにも、どこに行くにも、この三人だったからだ。
 彼は大学には行かない。それは春休み中に遊びに行ったときに言われたことだ。先生からは「高卒だったら、肉体労働の仕事しかないぞ」と言われている中、学芸員の資格を取るために勉強していたりしていた。しかし、大学を卒業していないと取れないことを知り、別の方法で芸術文化に関わる仕事につく為に勉強をしているらしい。彼は部活の流れで出会った学芸員の知り合いや財団法人に勤める人に話を聞いたりしているらしい。彼は彼なりに一生懸命やっている。応援してやりたい。
 毎回のことだが、俺たちは何の目的もなく一緒にいることもある。どうでもいい話を永遠に続けて、いつの間にか時間が経っている。公園に来た時には比較的高い位置にあった太陽も、今では周りのマンションよりも低くなり、オレンジ色の光が目を突いてくる。
ちょっと、寒くなってきたな。そろそろ解散かな。彼女もそれを察したのかベンチから立ち上がった。公園を出て坂道を下る。学校の門を横切って歩いていくと、池のある公園が見えてくる。この公園の周りにも桜の木が多く植えてある。この時間には少ないが、昼間だとお弁当を手に花見をしに来る人も多い。
 公園を抜けると東川に架かる橋があり、その先にバス停がある。
 タイミングよくバスがやって来た。
 「じゃぁ、また明日ね」
 二人に見送られて、俺はバスに乗り込んだ。

          ●

 高校時代、毎日乗ったバス。毎日通った道。遠い昔のこと過ぎて、それが本当に自分のことだったのか曖昧になっている。記憶なんてそんなものだ。でも、絶対に忘れてはいけない記憶がある。それは、妻との記憶だ。どんなに年月が過ぎようと、忘れてはいけない、忘れられない記憶だ。
 妻が死んだ理由は分からない。これから先も分からないかもしれない。でも、その原因はきっと俺にある。気付いてやれなかった俺に全ての責任がある。どうすれば償えるのか・・・どうすれば、死んだ妻に報いることが出来るのか。これからの人生、その答えを模索する日々になるだろう。俺に出来ることは、今生きている人たちのために、何が出来るのか。どれだけの人に「ありがとう」と言ってもらえるのか。
 人のために生きる。それが警察官だろ。それが、俺の選んだ道だ。そう、信じてる。
 相棒に連絡しようといたが、携帯電話を持っていないことに気が付いた。何らかの方法で連絡を取ることは出来ただろうが、俺は居てもたってもいられなかった。一刻も早く、少女を救ってあげたい。
 『廣田神社前』俺が毎日降り、妻と親友に見送られたバス停だ。目の前の桜はかなり色付き始めていた。そろそろ花見のシーズンだ。
 少女が監禁されているであろう場所は、男と少女が目撃されていた森下町のすぐ側だった。電話で聞いた住所の場所はここから川を下ってすぐのところにあった。本当にすぐ側だった。高校に通っていたとき、こんなところにこんな建物があることを知らなかった。今はボロボロの廃屋になった喫茶店のようだが、当時は営業していたのだろうか。
 背後は山のような・・・林になっていて、木々が建物を覆いこむように生えていた。壁面は蔦(つた)が張り付いている。
 入り口までは白いタイル状の階段が三段ほど付いていた。ドアは壊れていた。ノブも付いていない。これでは高校生の溜まり場になっているのではないかと、少し心配になる。
細心の注意を払って扉を開けた。というより、自分が通れる隙間が空くようにずらした。中は荒れ果てていた。一歩踏み出すごとに怖いくらい床の木が軋む。この家は何年間放置されていたのだろうか。誘拐されている少女の名前を呼ぶ。返事はなかった。日が暮れれば、ここは真っ暗になるだろう。早く見つけ出さなくてはならない。
階段を見つけた。どうやら二階もあるらしい。用心しながら段差に足を掛ける。大丈夫のようだ。一歩、二歩、三歩目を踏み出そうとしたときに足場が落ちた。
 インターフォンの音で目が覚めた。ソファーで眠ってしまっていたらしい。時計を見ると、夜の七時だった。いつから眠っていたのだろう。それ以前に、いつ帰って来たのだろう。
 またインターフォンが鳴った。はっきりしない頭を振るい、立ち上がった。一体、誰だろう。しばらくこの家にお客が来たことはない。
 「ごめん、鍵忘れちゃって。開けてくれますか」
 聞き間違いだろうか・・・。妻の声だ。どうして、ここに・・・・。
 「早くしてー」と急かす声が聞こえる。ドアも叩かれている。
 呆然としたまま玄関のドアを開けた。
 「ごめんね」買い物袋を手にした妻が当然のように部屋に上がって来る。「晩ご飯まだでしょ。オムライスでいい?」
 寝てたんでしょ、大丈夫? と言いながら足早に台所へ向かい準備を始める。俺は玄関に突っ立ったままだった。
 「何してるの、ちょっと手伝ってくれない?」
 呼ばれて、台所へ向かう。お互い早く帰って来れたときは、こうしてよく台所に並んで一緒に食事を作った。そうでないときは、早く帰って来た方が作っていた。と言っても、ほとんど妻に作ってもらっていた。
 オムライスに関しては、俺も妻もケチャップ派だ。デミグラスソースやホワイトソースでは絶対に食べない。中身もケチャップライスだ。そして、ふわとろ、とかいって上からかぶせているやつも駄目だ。包んでいないといけない。これらが揃っていないとオムライスだと認めない。一方、親友の彼はどれでもいける口だった。気分によって変えるらしい。理解が出来ない。
 趣味嗜好が一緒になることがほとんどない俺たちの唯一とも言える共通点。オムライスを一緒に作っているときが一番スムーズだ。最後の仕上げとしてケチャップでどのように、何を書くかで揉めたりする。とてもどうでもいいことを真剣に言い合う。
リビングのテーブルに向かい合って座る。案の定、ケチャップで何を書くか、の話になる。何の根拠も目的もなく太陽を書きたい、と思っていたら妻も「今日は太陽がいい」と言った。意見が一致したことに驚きながら、はみ出すくらいの大きな太陽をお互いがお互いのオムライスに描いた。
振り返ってみれば、高校からの長い日々、妻と過ごした日々は、楽しいことばかりで、つい笑みがこぼれてしまう。こんな幸せな日々があったことを俺は忘れていた。こんな夢のような、幸せすぎる毎日があ



ったのに・・・本当に・・・嘘みたいだ。
自分でも納得出来る太陽の絵を描けたのか、妻は満足そうに微笑んだ。自分の方が上手だ、と俺に見せびらかせてくる。
 こんな日々を終わらせた原因があるとすれば、それは俺だ。全部俺のせいだ。
 目の前の妻は笑っている。まるで一日ぶりに学校で会ったときのような、ありきたりな笑顔だ。夢のような、幸せな日々の・・・名残りの中・・・・。


 口の中がザラザラする。気持ち悪い。
どうやら俺はかなりの高さを落下したらしい。階段の下の床まで抜けてしまったらしい。腰を強く打ったみたいで、しばらく動けなかった。
ここは、どこだ。この家には地下室もあったのか。
辺りを見回す。まだ太陽は沈んでいないはずなのに、とてつもなく暗かった。見上げると、落ちてきた穴はかなりの高さのところにあり、ここからは登れそうになかった。他の出口を探さなくてはならない。視界の端で何かが揺れていた。灯りだ。背後にロウソクが灯っている。それは、本棚の上にあった。棚の上には写真立てが一つ、置かれていた。そして、一輪のユキヤナギ。
―――見たことがある。
今、視界の先に広がっている光景は見慣れたものだった。
―――俺の、部屋?
本棚の上に置かれた写真立ての中には・・・俺と妻の写真があった。二人とも楽しそうに笑っている。幸せな時間だ。本当に、幸せな・・・幸せな日々の・・・・。
 そのとき、大きな物音が頭上から響いて来た。見ると、落ちてきた穴が塞がれていた。今、この空間にある光はロウソクだけになった。
状況が呑み込めないうちに、どこからか電話のバイブレーションが聞こえてきた。写真が置いてある下の段で携帯が鳴っていた。恐る恐る、電話に出る。
「これが――――」
 いつも電話を掛けてきた、機械で加工した声が言った。その後、大きなノイズが鳴った。受話器を触っているらしい。

 「これが僕の復讐だ」

 加工された声にはなっていなかった・・・装置を外したのか・・・人間の声になった・・・電話から聞こえてきた声は、聞き慣れた、親友のものだった。なぜ、彼の声が聞こえているのか、なぜ、目の前に妻の写真があるのか・・・なぜ、俺はここにいるのか。
 「そっちは・・・落ち着いた?」
 何がどうなっている・・・こいつは何を言っている? 何のために・・・?
俺は狂ったように叫んだ。ここから出せ、ここから出せ、冗談はよせよ・・・こんな暗いところにいたくない、外に出してくれ。いつもの、どこまで本気か分からない、しょうもない冗談なんだろ。そうだろ? そうなんだろ? 答えろよ!
 電話口から車が走り去る音が聞こえた。それと同じ音が頭上から微かに聞こえる。下校中の高校生たちの明るい声も・・・。
 頼む・・・ここから出してくれ。
 電話は切れ、ツー、ツーという電子音が響く。充電はほぼゼロだった。ツー、ツーという音は電話口からではなく、この暗闇の至る所から鳴っているように聞こえた。
 妻の笑顔がこちらを向いている。
 頼む・・・お願いだ・・・ここから出してくれ・・・俺を一人に・・・しないで―――――

残響のなか

残響のなか

  • 小説
  • 中編
  • サスペンス
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-04-21

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