R−15くらいのつもりで書いてます。苦手な方はお控え願います。

仄暗いどぶの中をずっと眺めるうちにどこからか自分の名を呼ぶ声が聞こえた。
「雪」
真っ赤な紅を引いた艶っぽい唇から零れるその甘い声は今も耳の底、頭の奥から響いてくる。


ちらほらと雪が舞い散り、道に点々とその跡を静かに残していた。
冬の寒さは骨の髄まで染み込み、人肌がないと耐えられそうにない。そのせいもあってか昨日は見世への客も多く、座敷や大部屋の方から男女の秘め事の一端が漏れ出していた。
昨夜の客はいい男で優しく抱かれた。胸や首には薄く赤い跡が浮かんでいる。普段の客なら、赤を通り越して紫になっているだろう。大門まで客を見送るとぼんやりあたりが明るくなっていた。
「主と別れるのは、つろうござんす。きっとまた来てくださいましね。」
ほんのり微笑を浮かべ、相手の着物の裾をそっと引っ張った。力加減は、相手が自然に立ち止まるように心持ち弱めにしかし確実に留まらせるように。慣れきった手管に誰かの手垢がついた安っぽい言葉。
男も微笑を浮かべ、まだ酔い醒めきらぬぼんやりした足取りで揚々と帰って行った。

日が昇ってしまうと客は上乗せで賃金を払わなければならない。それを避けるために客は夜が明ける前に帰っていく。

夜の終わり。澄んだ空気を胸一杯に吸い込み、上を見上げると鳶が一羽くるくると頭上を旋回するのが見えた。
すっと滑らかに飛ぶ。
自分付きの新造はいつも不満そうに空を眺めていた。ここが嫌いだと。いつも口癖ように言う。
白い吐息がちりじりになって他の空気の中に溶け込んでいった。下に視線を戻すと視界の隅に汚いどぶが見えた。おはぐろどぶに囲まれたここが、そんなに悪い所には思えなかった。おいしいおまんまを食べ、綺麗な着物を着て、女郎のたしなむべき習い事はさせてもらえる。幼い頃の食うか食わないかの生活に比べたら、天国に思えるのだった。

どぶの隅の方に禿か誰かが作った笹舟が引っかかっていた。七夕でもないのにどこから流れてきたんだろう。ここに笹が来るのは七夕の頃くらいで近くに自生などしていない。他の花は見世や座敷に置く飾りに頼まれて置くこともあるが、いかんせん笹は珍しい。皆七夕の趣旨であることを理解しているからだ。普段使わないことで七夕の頃に価値を高める。
近くにあった棒切れで周りの草をほぐすと、のろのろと笹舟が流れ出した。どうせ同じ所をくるくる回るのだろうけど。
普段は大門から見世までまっすぐ帰るのだが、今日は感傷的な気分でどぶの中なぞ見たのは、きっと姐さんの命日だからなのかもしれない。
「墨野姐さん」
姐さんが亡くなったのはもう5年も前なのに。今でも夢にでてきてはあのころのように外のどぶを眺めていた。いや・・・・もっと遠く・・・・・か。姐さんはどこを眺めていたんだろうか。

地方から見世に売られた私に、雪という名前を呼んでくれたのは墨野姐さんだった。小さい頃におっかさんが死に、おとっつあんも私を育てられずおっかさんの死からいく日かも経たずに売られた。女将は最初私につねという名をつけたのだが、私は全く反応しなかった。たたかれ、飯抜きにされても拒否した。雪という名前が好きだった。大好きなおっかさんが私に名付けてくれた名前。墨野姐さんは女将から聞いたのか私のことを雪と呼んだ。そのうち女将も折れて雪と呼ぶようになった。
そのうち墨野姐さん付きの禿としてそばにいるようになり、突き出しの時も素敵な打ち掛けを用意してくれた。薄青の地に金糸で牡丹の花と雄雉があしらわれた上等なものだった。
いよいよ客と寝る時、姐さんはそっと私の耳元でつぶやいた。
「辛くなったら目を閉じて。一番好いている人を想ってごらん。楽になる。」


どんなに客と情事を重ね、人肌で温められた夜をいくつ越えても、日常に塗り込められる思い出の量には限界がある。少しずつ漏れ出したそれは時折波風を立てて私の心を落ち着かなくさせる。普段は忘れようと努めていても、色を売る時想い浮かべるのは艶っぽい唇と、吸い付きそうな肌、いつも少し憂いを帯びたような大きな目。どうしようもなくあなたなのだから。


じんわりと日の光が這うように足元にまで伸びてきた。
「ああ・・・朝だ。」
思わず漏れたその声が妙に掠れていて、頼りなげに聞こえた。
涙が盛り上がる感覚を飲み込んで、鼻をすすった。
姐さん。今日は碧とまんに頼んで姐さんの好きなユリを買ってきてもらうよ。


姐さんはよくユリの葉で船を作って窓の縁に並べていた。
『姐さん、意外と子供ですねぇ。』
『なんとでもいいなせぇ。雪。』
そう笑った姐さん。姐さん。姐さん。あの船はどこに行こうとしてたの?
貴女をのせて、私を置いて。

肩をさすった。自分の存在を確かめるように。私はちゃんと己の足で立っているのだろうか。ときどき我に返って不安になるときがある。私そのものが不確定で、大きな暗い虚ろに飲み込まれるようなそんな言い知れぬ何かが這い上がってくる感覚にぞっとする。だから、客との情事で求められるとなんだか安心するのだ。ここにいる。私は。ここで生きている。そう実感すると一瞬ハイになっていっそう色が激しく鮮やかになるのだった。


少しずつ痩せていく姐さんは船を作り続けていた。ユリの葉の船。実際に川に浮かべたことはなかったけどきっと笹より滑らかに、早く走るんだろうな。

ほつれた髪を耳にかけて、上着をきつく引き寄せた。漏れた息が見世と同化していく。
「姐さん。雪野姐さん。」
前の方から名を呼ぶ声。私は今、雪野。新造、禿を抱えて、贔屓の客も何人か居て、お茶をひくような日はない。恵まれた人間。
「碧。」
「帰りが遅いんで心配しいしたよ。」
この間禿から新造になったばかりで、髪を島田に結って見栄を張っても、まだまだ幼さが言葉の端からうかがえる。
何も知らない。無垢な子。
「碧、ここは嫌いかい?。」
この子ならなんと答えるだろうか?
唐突な質問に一瞬碧の目に不安が走ったが、私が笑っているのを見ると安心したのか、少し声を抑えつつも堂々と言ってのけた。
「もちろん。男ばかりがいい目を見て、女が色を売ってこき使う。遣り手婆も威張るし、女将も嫌い。でも姐さんのことは好いていますよ。」


そう言ってにっこりと笑う顔。夜を知らない顔。
「姐さんもここは嫌いでしょう?。」
「私は・・・・・。」

どうだろうかここを好きか嫌いか、そんな単純なことで割り切れるほど純真無垢でいたっかた。とは思う。色事の話ではない。男女のことは外だろうと中だろうと同じことだ。複数か、一人かの違いでしかない。ただ、恋慕など知らなければよかったと思う。
こんなにも苦しくて、それでいて永遠に届くことはない。でも、
「私はここが好きだよ。」

『姐さんはここが嫌いなんですか?』
奇しくも私も同じ質問を墨野姐さんにしていたことを不意に思い出した。
『そうさねぇ・・・・。』
ぼんやりと答えた墨野姐さん。少し間を置いてから、
『雪がいるから、ここも悪くはないさ。』


あの日、卵と姐さんが好きな樫井屋の栗饅頭を持っていくと、姐さんはいなくて、葉っぱをむしられたユリだけが残っていた。大引け前に幇間が偶然見世を出る姐さんを見ていたというのだが、目はうつろで足取りも怪しく、足抜けという感じでなかったから声をかけずにいたという。あの日は、隣の大見世で久方ぶりの道中をしていて大変な賑わいだった。そのため誰も病気をもった娼妓なぞみていなかった。かくいう自分も座敷に呼ばれていたため、姐さんの様子を注視していなかった。見世中を探したけど見つからず、次の日の朝早くにお歯黒どぶの中で溺死しているのが見つかった。楼主も大事にはしたくなかったらしく、見世のものと手分けして内内に処理された。
綺麗だった姐さん。筵をかぶせられたのは誰だったのか。

日が昇る。夜の闇を綺麗に払い落とし、何も知らない朝が来る。日の光の眩しさに目を細めた。一瞬光の中に姐さんが見えた気がした。
姐さんは朝を見ていたのだろうか?
朝がもたらす白さを。穢れを知らず、高慢で、自分勝手に奔放に自由に高く昇る日を。憧憬をもって見つめていたのだろうか?私は、あの日を、葉の舟の意味を、あの答えの意味を、姐さんが追った何かを今でも考えているよ。



姐さんの言葉の一つ一つが、姐さんがいた日々が、姐さんの全てが、尊くて、愛おしくて、ああ、涙が出るよ。姐さん。昨年は来年泣くのは止めると言っていたのに結局また泣いてるよ。姐さん。私もダメだねぇ。
もう姐さんの歳に追いついちまいましたよ。来年はいよいよ年季が明けるよ。もし1年後無事大門を出られたなら、きっと会いにくよ。姐さん。

墨野姐さん。



あなたのいない朝が来る。

狂おしいほどに美しく、気丈であったであろう彼女たちに敬意をこめて。

夢と現実の狭間で名を呼ぶ声はいつだって美しく、愛おしい。

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  • 青年向け
更新日
登録日
2017-04-21

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