ある宇宙の話

もうすべてを終わりにしたいと思う朝があれば、生きていてよかったと思える夜がある。カフェの甘い飲み物一つで幸福感を得ることができるときがあれば、好きな人と話しても満たされない時もある。自分が知るのはいつも最悪な自分だけだった。気まぐれで自分勝手なそんな自分。今までの人生でもう何人も頭の中で人を殺してきたし、決して実在しない人を愛したりした。激しい人生に憧れたりもした。同時に単調な生活にも。
 ある朝、私はトーストの香りで目覚める。トーストを焼くのは愛すべき私だけの宇宙人。彼はある日どこからともなくやってきて私を虜にする。私は、彼のことを何も知らない。年も、学歴も、職業も、今までどんな人生を過ごしてきたかも、なにもしらない。ただ彼はいつもきれいに微笑み、私の心をよむのがとてもうまいのだ。私はそれだけのことで彼を愛していたし、他に求めるものは何もなかった。私は起きてすぐに彼のいるリビングに向かう。私に気づくと彼は「おはよう」ときれいに微笑む。私もおはようと返事をして、テーブルに着く。すると彼は暖かいココアを入れて、私の分のパンをトースターにセットしバターとマーマレードをテーブルに置く。彼は再び私の前に座り、彼と私はトースターが焼けるまでで、ココアを飲みながら、窓の外の景色を見て何てことない空気みたいな会話をする。とても暖かく満ち足りた時間。
バンッ!!!!
すると突然大きな音がする。おそらくドアが蹴飛ばされた音だ。すると、数人の男がドタドタと大げさに音を立ててリビングに入ってきた。男たちは銃を持っていた。男たちは銃口を彼に向けて、真ん中の男が
「お前を連れていく、もし嫌だというならお前をここで撃ち殺す。」
男たちは彼の方をじっと睨みつけてそういった。彼のほうはいつもどうりの顔をしてボーっと男たちを眺めていた。しばし沈黙が続き、そのうち真ん中の男が合図をすると、端にいる男たちが彼を両側から拘束し持ち上げるように抱えて連れて行こうとした。彼は特に抵抗することもなく、されるがままだった。連れていかれているときもやっぱり彼は無表情に見えた。私は自分があまりにもその状況を理解できなくて、まるで自分がただの通りすがりの部外者のようで、もしくはいきなり始まった映画を訳も分からずに見せられているような、とにかく同じ時間と空間を共有している者同士であるという感覚を失いつつあり、ただただボーっとしていた。リビングを出ていこうとする彼は1度だけ私の方を振り返った。彼の表情が少しだけ悲しそうに見えてその瞬間、はじかれたように私は時間と空間、そして人間の心を取り戻した。勝手に口が動き出した。
「待って!彼を連れて行かないで!お願いだからせめて話をして!どうして彼を連れて行くの?」
「こいつは罪を犯したのだ。だから我々はこいつを捕まえなければならないのだ。」
「どんな罪?一体どんな罪を犯したっていうの?」
「それを知るのは我々の上司であって我々が知ることではない。我々の仕事はこいつを捕まえることだけである。」
 私は猛烈に腹が立った。
「くだらないわね。彼を捕まえろといったのは一体どこの誰なの?彼は罪人なんかじゃないわ。ただの善良な市民よ。ただ宇宙から来ただけ、人を幸せにする方法を知るだけなのよ。きっとあなたたちの上司はそれが知りたいだけ。彼が入れるココアの入れ方を、それを知って独り占めしたいのよ。彼は平和を脅かすようなことは何もしていない。なのにどうして?どうして連れて行こうとするのよ!人でなし!最低よ!彼を返してよ。ねぇお願いだから連れて行かないで!」
私は生まれて初めて人を説得するために叫んだ。どうしても彼を失いたくないのだ。私は彼についてほとんど何も知らなかったけど、私の幸福が彼の存在にあることは知っていた。
「大丈夫だよ。泣かないでほしい。僕はきっとすぐに戻る。」
彼がやっと言葉を発した。何の根拠もない言葉だ。そしてこの時初めて自分が泣いていることに気が付いた。
「嘘よ!どうしてそんなことが言えるの?もう二度と戻ってこられないわ。」
「戻ってくるよ。必ずね。約束だ。君との約束を守るためにきっと戻ろう。」
「私は?今あなたを守ることができないように、あなたのために何もしてあげられないの?」
「君はただ待っていればいいのだよ。僕が戻るのを。」
「話はすんだか?」
両側の男たちが彼を引っ張る。いよいよ時間だ。別れの時だ。
真ん中の男が言った。どうやら彼にも人の心があるらしい。銃を持っていてもやっぱり人は人なのだ。数秒後彼は黙ってうなずいた。
「私待っているわ。あなたが帰るまでずっと。」
「またね。」
彼はそういって優しく微笑んだ。本当に本当にきれいな笑顔だった。そうして彼はあっさりと連れていかれた。全く感動的な別れだった。
あれから彼は帰らない。何年たっただろうか。もうわからないし、考えたくもなかった。彼は今どうしているだろうか?私の知らない誰か偉い人に殺されたのかもしれない。それとも無事に釈放されて自分の星に帰ったのだろうか?私のことなどすっかり忘れて。どっちにしてもきっと彼は帰らないだろう。ここにいた彼が彼でありここにいた証拠など何も残されていないのだから。ここにはあまりにも彼に関する物がなさすぎた。私自身もう彼の顔を声をちゃんと思い出すことはできない。ここにあるのは私が彼を愛していたことと、彼の微笑みが美しすぎたということの記憶だけなのだから。
 私は突然思い立ってペンを走らせた。夢か現かわからないこの体験を忘れてしまいたくないと思った。私は彼のことをノートに書き綴ることにした。
私はもっと早くそうすべきだったのだろう。できれば彼がまだここにいいたあの頃に。彼が何者かに連れ去られたあの日に。どのみち後悔してももう遅い。今始めればいいのだ。何かを始めるのに遅すぎるなんてことはないのだから。私が今から書き綴ることをこれから先誰かに話すことはきっとないだろう。でもいつかこのノートを私が死んだ何年か後、いや何十年、何百年か後に誰かが見つけて読んでくれればいいと思う。私の知らない誰かが。
 彼の名前はT。MrT。MsT。・・・・・・
目が覚めたらなんてことない朝だった。何だか長い長い幸福な夢を見ていたような気がする。Tのことかもしれない。私はベッドに仰向けのまま天井を見つめて今から始まる今日1日のことを考えた。今日はいつもどうりバターとマーマレードをたっぷり塗った薄めのトーストを食べ、ココアを飲んで出かけよう。深海のような、宇宙の果てのような限りなく黒に近いブルーのワンピースを着て街に出かけよう。海を眺めて、かわいい雑貨を見て、夕飯の魚を買って、途中カフェでお茶なんかして、帰り道にまた海を見て帰ろう。Tのことをゆっくりと思い返すために。

ある宇宙の話

ある宇宙の話

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-04-16

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