春雷

足元の若草がまるで川のように流れる。
まだ一粒の雨も落ちていないが、若葉の木々は脅かすようにざわざわと鳴った。
先ほどまでむせかえるように匂った山の花々、埃っぽい春の森の空気は、
じっとりと重く変わっていた。
リュウは山道を疾走していた。
おろしたてのシャツは頼りなく薄く、成長痛に悩まされる膝は、寒さで一層痛んだ。
追い風は強く、遠でごろごろと空が鳴り始めた。
雷だ。
天気が崩れるから遠くへ行ってはいけないよ、との言いつけを守らなかったのは
無邪気な反抗心からだった。
だから、この期に及んでも、リュウは雨から逃げ切るつもりでいた。
勝手知ったる山道だし、足には自信がある。
雨に当たる前に家につけば、お小言をもらわずに済むだろうか。

リュウはまるで羽でも生えたかのように、ぐんぐん進む。
目の端にとらえる大岩や古木はあっという間に彼方に去る。
山道を下るのか、転がるのか、それとも飛び越えるのか。
もはや膝の痛みは消え、寒さも感じず、耳元で鳴っていた風の音も聞こえなくなったので、
風さえも置き去りにしてしまったのではないかと思った。

人の身でありながら、こんなに速く走ってしまって大丈夫だろうか―
そんな見当違いの不安が頭をもたげ、少しだけ速度を緩めようとしたその時。
足元が大きく崩れた。

おちる。
縋るものなど何も無い。
手を伸ばそうにも、声を上げようにも
自分にはそんな暇すら残されていなかった。
(ああ、僕は自分の命すら追い越してしまったのか)

遠くで一つ、また雷が鳴った。



「それでどうなったんです?」
後輩が紙コップのコーヒーをすすりながら尋ねた。
新幹線の窓の外では、若葉で輪郭のぼんやりとした森が踊っている。
「このとおり、生きてる」
がけ崩れでもおきたかと思ったのは、ただ足を滑らせただけだったし、
落ちたといってもほんの1メートルほど斜面をころがっただけだ。
実際はたいして速く走っていたわけでもないのだろう。
子供の頃あれほど広く感じた世界は、拍子抜けするほどに狭いものだった。
窓に雨粒があたった。
「追いつかれたね」
新幹線の速さでも、雨雲から逃げ切ることはできないのだ。
出張の目的地は、偶然にも彼の故郷だった。
子供の頃は果てしなく遠く感じた街とも1時間と少しで行き来が出来てしまう。


新幹線のが走る音に紛れて、微かに雷が聞こえた。

春雷

春雷

とても短いお話です。春先のひどい雨と少年時代の記憶。

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-04-15

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