ネイチャーコール

仁科 哲夫 作

 ひところはダサイ男の代名詞のように使われたが、その多くが鬼籍に入りつつあるので、
あまり聞かなくなった言葉に「昭和一けた」というのがある。わたしは昭和5「年生まれ、文字どおり昭和一けた世代に属する。

 北大阪の豊中市で育ったが、学齢期から思春期にかけての行動範囲は、北は歌劇場のある宝塚、南は大阪市内を通り過ぎて、堺の浜寺海水浴場、東は藤井寺球場から、そのころはまだ単線たった近鉄の生駒トンネルを抜けて奈良公園、西は神戸の三宮から元町、メリ
ケン波止場を過ぎ、海水浴場や水族館のある須磨公園あたりだったので、いちおう、都会育ちといえるだろう。

 当時は大きなビルでもないかぎり、駅や役場などの公共の便所は、ほとんどが汲み取り式で、汚く、臭かった。場末の映画館の裸電球のぶら下がる、薄暗い売店の奥からは、アンモニア臭がただよってくるものだった。

 男女の別があるのはほぼ半分か。共用の場合は、通路を挟んで片側に一段高い個室が並び、入り口から二つほどに「男」、その奥は「女」の木札が打ち付けてあった。反対側
が男の小便用である。男性用に一人一人の小便器があてがわれるようになったのは、昭和30年代もかなりたってからだと思う。それまでは手前にコンクリートブロックを二段重ねたほどの踏み台が奥まで通っている。その上に並び、前のコンクリートの壁か下の溝に向かって放尿することになる。混みあってくるとお互いの隙間が当然ながら狭まってくる。

 夏場の途切れた時などには、溝の黄蘗色(きはだいろ)によどむ尿滓の中を、便槽からは
い上がってきた蛆虫が前のコンクリート壁をよじ登っているのは、ごく普通の光景であ
った。男は筒先をもっているので、標的があればそれを狙う。ダダダダッと斉射して、全
機撃墜の戦果を挙げた時の爽快感は、なでしこジャパンといえども味あうことはできない。

 男はボタンをはずし(その頃のズボンにファスナーは付いていない)まさぐりと引き出しだけで用をたせるが、女性はバタン、カチャリからシャーに至るまでの間とそのアフターにいくつもの所作を必要とするので、少ない個室での滞留時間は長くなり、その分、男よりも混んでいる。

 この公衆便所が混みあってくると、共用はもちろん、男子専用のほうにも、個室だけで
はなく小便台にも女性が割り込んでくることがある。肘も触れ合わんばかりの男の列に混じっての立ションである。そんなバカなと思われるるだろうが、わたしは何度も目撃している。

 さすがに若い女性は見当たらなかった。ひっつめ髪に盲縞の着物姿で、伝統的下着愛用の、つまり腰巻のことである。穿くのではなく巻くのだから、下から見ればすっぽんぽん。話は少しそれるが、昭和7年12月16日に東京日本橋の老舗百貨店白木屋の4階から出火し、瞬く間に燃え広がった火災により死者14人、負傷者は5百人に及んだ。真偽のほどはわからないが、上層階で逃げ遅れた女店員たちは、下で待ち受けている救助ネットに飛び降りようとしたが、裾の乱れを気にしてためらっているうちに煙に巻かれてしまったと報じられた。このころは若い女性でも下穿き、つまりズロース、ブルマー、パンティの類は身に着けておらず、伝統的下着であったからだ。それ以後、だんだんと下穿きを着ける習慣が広がったといわれている。話は元に戻る、このはるか昔の乙女たちは、いくらか照れ笑いをうかべながらも、おくすることなく男の列に割り込み、びっくりして目を丸くしている隣のわたしに、慈母観音のように、どこか悲しげな憂いをただよわせながらも、慈愛に満ちた笑みをそそぎ、しかし、勢いよく放尿あそばされる。

 ただ、男と違い後ろ向きである。上体をすこし傾け、尻を突き出し加減にして足を少し開き、着物の裾をひざ上あたりまでたくし上げ、パンチラならぬ、紅い腰巻の端を少しのぞかせている。そのほとばしる様はまさに、「いばり」という語感がぴったりである。衣類辺縁系と射出角度の流体力学的相関は絶妙というほかはない。現代女性のよんどころない座りションにくらべれば、白いむっちりとしたお尻をさらけ出すこともなく、肝心なところはうまく隠して、しかも、足許や着物を濡らすこともなく、機能的に用が足せるのである。

 おなごの立ションは、おそらくずっと昔から昭和初期までの日本では、ごくありふれた光景ではなかったのだろうか。畏きあたりから、やんごとなき奥方や姫君ならいざ知らず、武士のご妻女、商家のご内儀、ご新造さん、長屋のおかみさんから番茶も出花の娘さん、出がらし婆さんにいたるまで、もよおしてきた時には、近くはつと物陰に寄り、遠くは臆することなく堂々と、かんたんに用を足していたのだと思う。

 世の男たちは
「ムム、やっとるな」
と見て見ぬふりをしながら自分たちも前をまくって、せっせと立ションにはげんでいたのだろう。

 自然の呼び声が聞こえてきた時には、男も女もおおらかに応えていた、のどかな時代であった。

ネイチャーコール

ネイチャーコール

あなたは女の立ションをご存じですか? わたしは何度も目撃しておりまます。 肘も触れ合わんばかりの、男の列に交じっての放尿です。 そんなバカなと思われる方は本文をどうぞ。 ・

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2012-08-03

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