背表紙と会話してた頃

本屋が好きだった。

端から順番に背表紙を読んでいく。
学校の帰りに寄れる本屋は1軒しかなく、毎日のように通っていると、だいたい覚えてしまう。
どの棚に、誰のなんという本が置かれているか。

だけど、めったに買うことはなく、手にとってめくってみることさえ、まれだった。
中学生のころ夢中で読んでいた少女小説が急につまらなく感じだして以来、何を読んだらいいのかまったくわからなくなっていた。
せっかく買った本が好みでなかったら、おこづかいがもったいない。失敗できない。
とはいうものの、なぜこんなに頑なに、2年もの間、読むことから遠ざかったのか。
本屋に週5ペースで通いながら。
もうこれ、ちょっとした呪いのようなものなんじゃないの、とすら思えた。

その本を見つけたのは、高校2年のおわりだった。
高いから絶対買わない、ハードカバーの棚だった。
まず題名に惹かれる。踊るような走るようなカタカナの文字。ひびきもかわいい。

カンガルー日和 村上春樹

そっと手に取る。まっしろな箱に、まぶしいような晴れた公園の絵が描かれている。
箱から出してみる。
薄紙に包まれた本は、つるつるのやまぶき色。
うすかみ。うすかみ、好き。なんか好き。

誰かが、大切な人のために、きれいに包んで用意したギフトのような本だった。

さてはこの本、わたしを待っていたのでは。
きっとそうよ。どきどきしながらそっとページをめくり、もくじを読む。

100パーセントの女の子、チーズケーキのような形をした貧乏、とんがり焼き、スパゲッティの年に

文字の連なりが、不思議な空気をまとっていて、わたしはふと異空間につれていかれそうになる。
言葉あそびのように、詩のように歌のように。からりと乾いた空気の中、言葉はふわふわと漂う。

本にこんなふうに出会ったのは初めてだった。
呪いは解けた。運命のようだ。



その本屋にある、村上春樹の本を全部読み終えた頃、新刊が発売された。

ノルウェーの森 上下巻である。

ハードカバー2冊は厳しかったが、どのようにやりくりしたんだか、とにかくすぐに買ってよんだ。

読み終えて、この頃には高3になっていた私は思った。
これは、ちょっとエロスがすぎるのではないかと。

数日後、クラスメイトの男子の机の上に、無造作に置かれているその本を見た。
話したい。
これはチャンスではないか。
帰宅部ではあるが、二重まぶたの愛らしいこの男の子と、親しくなるチャンスなのではないか。

ノルウェーの森、読んだんだ?
よかったよね。特に、あの、直子が、あのー、ミドリが、そのー
…あかん。

エロスがすぎるのだ。男の子と感想を述べ合うのはむつかしいと思った。

わたし、村上春樹が大好きなの。特にカンガルー日和っていう短編集が、もうほんとに大好きなの。
まだ読んでいないのなら、貸してあげる。読み終わったら、どの物語がいちばん好きか教えて。

こんなふうに、話しかければよかった。
だけど実際は、席に戻ってきた男の子が、本をカバンにしまい、教室を出て行くのを黙って見ていただけだった。
わたしたちは受験生で、本を読んでいる場合でも実はなく、卒業したらおそらく町を出て行くし、仲良くなったところで先はない、と思った。

ちがう。
エロスとか卒業とか言い訳だ。
わたしはただただ勇気がないだけだ。いつもだ。いつもわたしは言葉をのみ込んでしまう。なのに、言葉は次々うかぶ。わたしはほんとうはとてつもないおしゃべりなのかもしれない。
どうせ誰もきいてくれないもの。
届けることのない言葉はしばらくわたしを息苦しくさせ、やがて諦めたように消滅する。

その後、しばらく村上春樹の小説からは遠ざかった。

23才で結婚することになり、引越しのために多くの本を処分してしまった。
ノルウェーの森は、古本屋に、ひどい安値で引き取られた。
カンガルー日和だけは売らなかった。


何年かが経った。
ある日、中学3年生の息子のベッドの上に、カンガルー日和を見つけた。
3人兄弟の長男である彼は、三段ベッドの一番上が唯一のプライベートスペースで、お気に入りの本などを小さな棚に並べていた。

カンガルー日和、読んだんだ?
おもしろかった?

穏やかで、感情的になることのない息子は、無表情のまま、おもしろかったと答える。
ほんとに?もう少し反応して欲しくてたずねる。

気に入った?どの話が一番よかった?

「おれ、チーズケーキの形の土地に住んでる、貧乏の話が好き。主人公が猫を飼ってて。」
にこ。って。笑った。
「ほんと?お母さんもそれいちばん好き!」
「あと、100パーセントの女の子のとか」
「あーそうそう、おんなじ!大好き」

それからというもの長男は、普段の会話の中で、「やれやれ」なんてわざと言って、うふっと笑って見せたりする。
幸せな気持ちになりながら、きゅっとつぐんだ唇の奥で、あふれるように言葉を紡ぎ出しては、心の奥にしまいこんだ高校生のわたしを思い出す。
本屋の背表紙。その配置や、照明の明るさ。寒い冬の夕方。
うつむくと目に入るひだスカートのすそと、白いソックス。
あの頃、どうしてあんなに寂しかったのか。自分はひとりだと思いこんでいたのか。

今日のお昼はレタスとチーズの簡単なサンドウィッチにしよう。と私が言うと、長男が笑う。
うふふ。

ああ、ちょっと泣きそう。

背表紙と会話してた頃

背表紙と会話してた頃

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-04-11

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