悪口コレクション

退会したサイトで書いていた話です。45を最後に追加しました。

1.迷惑かんしょう
 公園で写生していると、
知らないおばさんが見に来て、
私の絵が間違っていると言った。
当時の私はまだ子供で、
母の干渉に応えるのと同じように
おばさんの言うことに従って絵を修正するしかなかった。
しかも、おばさんの言葉通りに修正するたび、
おばさんは「そうじゃない、違う」と言い続け、
絵がめちゃくちゃになってしまったところで、
おばさんは「最初のほうがよかったわ」と言って去って行った。

2.占い師
 昔から縁がなかった霊能者に
初めて会ったのは女の占い師だった。
しかし、その女は毒母そのものだった。
花を飾りなさいと説教したその女の生け花は
腐ったドライフラワーだった。
いっしょに会った知人も私も後で悪夢にうなされた。
しかも、占い師なら見抜けるだろう私の職業を
天地が違うほど見誤っていた。

3.自己責任
 なぜか大人になるほど
社会に適応できなくなってしまった原因が、
毒親の影響を幼い時から被り続けたことだったとしても、
成人したとたん自己責任の問題になる。
まともな人間に育つことなど不可能だった人に
「もういい歳の大人なんだから自己責任」とか
「立ち直れ」なんて無理な話だ。
大人になってからの一時的被害のほうがよほど
自己責任だけでは無理な部分を理解してもらえる。

4.カルト
 カルトとか新興宗教といわれる団体の会員つまり信者だった。
そういうものは人の心を傷つける。
その団体から脱するまでがまず大変で、
脱した後で真実がだんだん見えてくる。
私も間違いなく傷ついた。
それから回復するのに難儀した。
幻覚や金縛りよりはるかに苦しかった。
命に危険を感じても幻覚や金縛りなんか悩むに値しない。
それでも、毒親よりも害は弱かった。

5.機械に育てられた人
 どこかの男が女のことを「産むだけの機械」
みたいなことを言ったのを非難した人たちは、
自分がそういう女で図星だからか?
私はある意味で共感するとともに、
その男はそういう女しか知らない者か、
彼を産んだのもそういう女なのだろうし、
せいぜい産むだけしか能のない、
他に何の魅力もない母という女のことを、
こんな短い言葉で表現したのは上手いと思った。

6.親に会うことを勧めた知人
 私の親をまったく知らない知人が
私が自分の親に会うことを勧めたことがある。
私にとって父は良くても、
母に会うことは犯罪者に会わされるのと同じなので
気付かれない人違いみたいな迷惑な節介だった。
その知人は私とは違う親子関係の問題があって、
彼自身の親子関係の問題を
私の親子関係に勝手に重ねていたからだ。
 後日、私が関わりたくないのは母のことであり、
父には会いたいが母がそれを許さないという話をすると、
彼は私に親に会うのを二度と勧めなくなった。

7.毒親に苦しむ人の話
 私よりはるかに傷付いて大変な思いをして
いろんな苦難を乗り越えてきたように見える人の
生い立ちを読み始めると、その人の母親は
私の母とは次元の異なる過酷な苦労をしていて、
私とは根本的に違う気がした。
その人の父親も私の父とはまったく違う
有害ゴミみたいな者だ。
それでは母親もおかしくなるのが当然で、
心身ともに健康な私の父に愛されて
経済的にも支えられ大切にされているのに、
いったいどこから持ち込んだのか知れない
欲求不満を子にぶつける私の母みたいなのは、
ただのわがままにしては悪質すぎる。

8.テレビの専業主婦
 専業主婦だとされる人が一日中テレビを見て
飯だけしっかり食っているテレビ映像を見た。
その番組で「専業主婦だからそんな生活ができる」
みたいな言い方をしていた。
しかし、洗濯や掃除や買い物や雑用を普通にしてたら、
座る時間を確保するのも大変だ。
テレビに出ていたその人は専業主婦ではなく
無職の廃人だろうに。
一日中テレビ見て飯だけ食う人を「専業主婦」とは言わない。
それどころか、自称「引きこもり男」のほうが
はるかに家事や外出している。
テレビの映像って本当におかしなのが多い。
その番組でやっていた内容も役に立たなかった。

9.無意味な常識
 親が間違っていても、最初は親に従い
真似してしか生きられない。
親の生き方や考え方で常識や社会というものを
知った気になって、家庭の外で出会う人と話した時、
相手にとって「キチガイ」なことがある。
常識なんて周囲の狭い範囲の人たちが勝手に作った、
その場でしか通用しない変なルールみたいなものだ。
そういう狭い範囲の人たちに馴染んで慣れた者が
常識のわかる人として堂々としていられる。

10.オレオレ詐欺
 働かなくても食える者が多い。
屁理屈付けて「カネ払え」言えばすぐ払うやつが多いから、
真面目に働くのがバカバカしいのだろう。
子供の振りした詐欺に数百万も出す金持ち老人とかいるし。
苦労せずにカネを一度でも手にしたら、
その方法に執着するのは確実だ。

11.感情は否定できない
 わざとらしく大げさに表現してしまう自分の喜びや楽しみに
踊らされているような疲れや違和感を感じてきた。
悲しみや怒りなどの負の感情だけを否定するのも無理なことだ。
怒りや悲しみを否定され許されないならなら二度と笑いたくない。
 他人の話やブログでよくうんざりするのが、
負の感情だけを排除していることだ。表面的に
「負、マイナス、後ろ向き、ネガティブ」というだけで、
その正体を見ようとせず原因を探ろうとせず、
否定したり排除したがる。
例えば、怒り、不安、恐怖、悲しみ、憎しみ、さみしさなどの
負の感情をありのまま見つめず認めず否定したり、
排除して逃げるのは、
これから成熟しようとする子供とも違う、
いつまでも精神的自立したくない者のすることであり、
決して成熟した大人ではない。

12.O脚
 外を歩いている時よくO脚を見かける、
というより、O脚でない人を探すほうが難しい。
どこへ行くのも乗り物を使って歩かない生活で
脚の筋肉が衰えると曲がるらしいが、
私がよく歩いたのは大学の時と最近数年だけなのに
脚が曲がったことは一度もない。
しかも、脚に先天的奇形があって痛いことがある。
O脚には「絶対なりたくない」醜さがある。
程度に比例して容姿も醜い。
今日は特にひどいO脚を見かけた。
服もセンスどころか一瞬で気分が悪くなるほど醜い女だった。
あんな人になりたくない、母のような醜さを連想する。
でも、その脚は母と同じように仕方なくそうなったのであり
「そうであるしかなかった」なら、
DVや毒親やハラッサーも「そうであるしかなかった」のだろうか。

13.子供扱い
 子供扱いされることが子供の時から嫌だった。
子供らしく生きることを許されないまま
大人並に親の問題を自分の責任として負ってきたのに、
子供の時から落ち着いて大人しく冷静だとか、
体だけ子供の大人みたいだと
周囲に不気味がられたくらいなのに、
歳が幼いという物理的事実だけで子供扱いされては、
なめられバカにされているような気分だ。
大人になって久しい現在、今度は
精神が幼いという理由で子供扱いされてはたまらない。

 医師が脳の障害を持つ人に対して
普通に同じ大人として敬語で話しかけ、
その人も脳の障害とは思えない
しっかりした返事をしているのに、
幼児語で話しかける介護者を嫌っている様子を見た時、
そういう子供扱いはとても嫌だと思った。
大人を子供扱いする人たちは自分が子供なのだろう。

14.求めておいて排除する
 ある詩の会に求められて投稿していた人が、
「赤ちゃんの詩ばかり書いてないで、
ここにふさわしい内容にしなさい」
というようなことを言われた。
その人にとって赤ちゃんは最重要テーマで、
それを咎められるなら投稿をやめるらしい。
当たり前だ。
日本もまだその程度の表現の自由もない。
 私の場合は誘われたものの、
それは誰の強制でもなく私の責任だ。
こういうパターンは母との人間関係によくあって、
そういうやり方が正しいと私は信じていた。
しかし、世間一般それが通用するわけではなく、
「入らなければならない」と私が勝手に思い込んで
他の会員に強烈な詩で不快な思いをさせたわけだ。
私と似ていたらしい他の一人は最初、
ほめられたりちやほやされたりして、
その会に入らないとまずい状況を作られても知らん顔で、
次に直接的に求められても無視していたが、
その人のことを大人で普通に賢いと私は後で思った。

15.不幸自慢
 不思議な言葉がある。
たとえば「不幸自慢」とか、
誰かの不幸だった過去の打ち明け話に
「悲劇のヒロイン」と名付けて嘲る者がいた。
それを見たとき私は、
納豆というハンドルの人が書いた愉快な話に
なぜか「殺菌してやる」と返事した誰かの言葉に
「納豆を殺菌してどうする?」と苦笑したのと同様、
恥ずべきことを自慢するわけがない不幸を
自慢するのが前提になっているその言葉が
いったい何を意味するのか不可解だった。
DVとか毒親とかハラッサーなどの加害者にも
こういう不可解な言動パターンがある。
 それから何年経ったか、こんな解答を思いついた。
嘲った者は「悲劇のヒロイン」みたいに
自分も不幸を自慢してみたいけれども、
現実にそうする自由も勇気もないのだ。
自分の正直な気持ちを許して認めて
一度そうしてみればよかろうに。

 有害な母という女を捨てることができても次に
「心の中の親」という敵が残っている。
たとえば私が「回復するわけがない」とつぶやくと反論するが、
ごまかしたり混乱させたりする以外の意味はない。
必要なのはそもそも回復なんかじゃない、
今まであったのは自分の発育不良と親の排泄物だけ。
私にとってそもそも回復に意味がない。
今まで存在しなかった自分を作る必要があるからだ。
 次に「不幸自慢」とかいう言葉。
微細すぎてすぐ消え失せる幸福より、
確かにあるのは圧倒的多数の不幸。
ありもしない幸福をわざわざ捏造して表現するなんて虚しい芝居はしない。
 続いて「構ってもらいたいだけ」。
有害な醜い女の相手ではなく、私だって
魅力ある好きな人と知り合って付き合いたい。
 「自慢げにダークな話をしたいだけ?」というのもあった。
私も明るく健康的な話を義務的演技でなく
心から楽しめるようになりたい。
 「生産的でない?」
生産する前に親の排泄物を先に破壊して処分したい。

16.親不孝
 親の介護をするために大好きな仕事を辞め
退職する人がいることを知り、
それが子の義務みたいな話には驚いた。

 親は子にどんな暴力も迷惑もかけ放題なのに、
子に関して一つでも親が満足しないことがあるだけで、
どんな健康で優しく優秀な子でも親不孝だと決め付ける。
 
 親が子に際限のない暴力を振っておいて、
子は親に仕返しをしたわけではないのに、
「親を許さない、親に感謝しない」というだけで
子に「親不孝」というレッテルを張ったりする、
そんなものは親ではない。
親に限らず許しも感謝も孝行も
要求されてすることではないからだ。

 夫は未成年のうちに親から独立して、
両親にあまり世話になっていないのに、
両親と他の兄弟の借金を代わりに払わされた。
それでもその親子は自分らの生活費まで
夫に払わせようと請求してくる。
私は母の夢や理想を叶えたのに、
些細なことで意見や感覚が母と違うだけで、
母は、私に要した子育て費用全額を返せと言う。

 盆や正月に用がない、というより
夫と私には帰省したい実家もない。
親の住んでいる家はあるが、
私たちが親の奴隷やロボットではない
人間として過ごせる場所ではない。
親の家に行ったら夫はカネを取られるだけで、
私は親の奴隷に戻る罠にかけられる。
私たちの親はなぜかどちらも、
ずっと昔から「歳だからもうすぐ死ぬ」
みたいな脅しをさんざん言って、
私たちに心配や迷惑をかけた割には、
「早く死んでほしい」とうんざりするほど
いつまでも長生きしている。

17.親の価値
 有害な親と決別や絶縁宣言する話があるが、
わざわざそんなことをする必要あるのは、
親に絶望しきれていないからではないか?
わざわざ決別や絶縁の宣言するのは、
そうすることで再びだらだらと
関わってしまわないようにするためではないか?
絶望したり二度と関わりたくない人に
わざわざ何をするのも時間がもったいない。
決別や絶縁どころか黙って今後一切無視がよい。

 「出ていけ」とか「うちの子じゃない」とか
さんざん言って何度も捨てた自分の子に、
精神的に長年おんぶにだっこしてもらった挙句の果てに、
たった一カ月連絡を中断されただけで
「子供に捨てられた」と周囲に大騒ぎする
「親」と名の付く大きな幼児。
本当に気持ち悪い、動物の親に劣る。
そんなのと対決する価値なんか最初から最後までない。
悩むどころか対処を考えるだけでも時間の無駄。
完全無視以外何をする価値もない。
そんなゴミ人間に対してすべきことがあるなら無視だけだ。

 親が死んだりしていなくなれば生きる意味の無い人間は、
親以外の人たちにとって要らない人間なのだ。
その親子は物理的に二人であっても精神的に一人でしかなく、
主体である親の方が消えれば、
その残骸だけのような子が生きている意味はない。
親の利益や存在価値のためだけに生きてきた子が
親を失った後に残るのはゴミのような物質だけだ。
大人になれば親がどうであろうと生きられる人は、
親が死のうと自分がゴミのように無価値になることない。
親とは別の存在だという当たり前のことでしかない。
親の存在を取り除けば何も無い子は、
親に乗っ取られて精神的に消えている。
親の価値をありがたく頂いて心や魂を売ってはいけない。
 それでも自分だけの価値を持てるよう頑張ったとしても、
親の言いなりに利用されてきた者は、
親以外の他人にも利用されやすい人間であり、
利用だけされて不要になれば真っ先に捨てられる。

18.有害な親を崇拝する奴隷制度
 犯罪者から逃げることは身を守る基本なのに、
犯罪者と同じことをする者が親なら逆に、
逃げる子のほうが「親を捨てる」という犯罪者みたいに言われる。
どうしても逃げられなければ
親という名の付く犯罪者に利用され続けながら、
それをどこまでも正当化し続けるしかない。
子は親から逃げないことばかり正しいとして説得されるが、
そんな要求に屈しては死んでも自立できないだろう。

 自分の子を殺した親は、
「子がどうしようもないわがままだった」とか
「殺す以外の選択肢がなかった」などと
無罪を主張するパターンがあるようだ。
それが逆つまり親子が逆だったらどうだ、
親に長年されてきた虐待は子の被害妄想だと決め付けられ、
子を殺した親よりはるかに重い罪を背負って反省する。
親が気に入らなかった子を、
その子の兄弟が殺したのもそうだ。
親は罪に問われることなく堂々と同じ仕事を続けていて、
失われたのは殺した子と殺された子の人生。
親は果たす気もない自分の責任以外何も失わない。

 他人の親が老後の世話をしてもらう時、
子の家に親が招かれるパターンを知った。
引っ越しは大きなストレスを伴うが、
世話になるのだから当然みたいな話だった。
 ただし、私の母や他人の有害な親なら、
子を親の家に住まわせるパターンになる。
それで子に引っ越しストレスを負わせ、
親は慣れた環境を手放さずに済み、
何の負担もなく子の世話になるのだ。
負担はすべて子にかかる。しかも、
親にとって不要な子の私物を極限まで減らしてから
引っ越して来るよう親は強いるだろう。
そう、子は親の奴隷だから。
ただし、子が別荘を用意する余裕を持っていたり、
客を泊める余裕のある家を持っている場合は、
親が子の家に住んで支配する場合もあるようだ。

 奴隷制度は人間にどうしても必要なのだろう。
親子の身分の差は絶望的に離れている。
親は崇拝されるが、子は親の奴隷として
蔑視され利用され酷使され粗末に扱われる。
しかし、親も子も同じ人間でしかない。
それでも、「親を信じなさい、最後まで頼れるのは親、
親は誰でも子を愛する、子の価値は親が与える」
などという信仰があって、
それに私は救いようのない違和感を覚える。
 本当に信じるに値するのは、
最後まで頼れるのは、親ではなく子のほうだ。
価値あるのは親かもしれないが、
子は「価値」などいうくだらないもので量れる存在ではない。
親は勝手な都合で子を捨てるが、
子は最後まで親を捨てたりしない。
親は子を愛しないことのほうが多いが、
子は誰でも親を愛する。
親は子をよく忘れるが、子は親を決して忘れない。
子は親の幸福を最優先してくれる存在だけど、
親が子を大切にせず尊重することを怠ったり、
親の私物化したり不当な利用するなど
悪質すぎる犯罪が当たり前のように続けられ、
そういう親の実態はプライバシーで隠されている。

19.異常者、変質者
 「モラルハラスメント」と「毒になる親」
という言葉が合わさった「モラ毒」という語が
ありそうだと思って検索したら存在した。
そういう加害者こそ本当の精神的変質者なのに、
彼らは自分が危害を加えている相手つまり被害者に
「精神障害者」とか「変質者」というレッテルを貼り、
加害者は被害者として正常なふりをするし、
頭の良くない周囲の人たちは正体を見抜けない。

 ウェブ上に異常な母親の話が書かれていた。
中学生か高校生の携帯メールの内容を
当然のように盗み読みする母親が
自分の子の発言内容を過激だとか、
このままでは将来が心配だというのだ。
大学生の時、ありふれたごく普通のものに
「過激」だと言って周囲に笑い物にされた私でさえ、
その内容はごく普通の学生にしか見えなかった。
過激だとすれば母親のほうであり、
その母親の将来こそ危ないだろう。
私の母もこんな感じだった。
しかも、そういう親のほうがおかしいと
思える人も少ないようだ。

20.理解を求める人たち
 家族がアスペルガーだと自称し始めて
借りてきた本を読まされて思ったのが、
正常な人が自然にできることを、
アスペルガーだと診断された人は非常な努力をして
初めて中途半端にできる程度になった
というような話があり、私はそれに対してこう思った。
「その程度の努力なんて誰でもしているレベルであり、
アスペルガーだからって特別なことでもなかろうに。
こういうのが無理解だと言われるのだろう。」

 アスペルガーだったか?
何度読んでも覚えられない障害を解説した本を読んだ。
その本に書かれている人の実例が悪かったせいか、
「障害者は自分の責任を周囲に負わせて
そのぶん楽に生きられる」などと思ってしまった。
しかも、そこに書かれている障害の問題や欠点は、
健常だと言われる私にも見事に当てはまっている。
だから、こんなの誰にでもある問題や悩みと同じだ。
自分のことを異常だと思って苦しんだ私がかつて
「誰でもそうだ」と言われたのと同じように。
今日、外を歩きながら思ったのは、
「ずるい人ほど長生きしたがる」だった。

 何か知らんが周囲にいろんな障害者が増えてきた。
あの人もこの人もいつの間にか
障害者になっていて私よりはるかに元気。
身近な人が障害者だということがわかっても
私は健常者であり、どんなに疲れていても
彼らの障害に関して勉強して
今まで以上に彼らの苦しみを想像したり
気遣ってあげなくてはならない。
母も彼らも自分の責任や苦しみを子や周囲のせいにしながら、
母は「産んで育ててやった恩」を振りかざし、
他の人たちは「障害」を「理解され
サポートされる権利」みたいに振りかざしてくる。
彼らに共通するのはこの世が大好きで
生きる気力満々だということだ。

21.善意の押し売り、笑顔の義務化
 余計な節介や大きな御世話に始まり、
それを仕方なく受け入れたり許していると
迷惑でしかない説教、介入、干渉するようになる人がいる。
自分の存在価値や意味に飢えていて、
それを満たすために利用できそうだと感じた人に
そういうことをする人には押し付けがましさがある。
自分の存在価値を押し売りするわけだから。

 「がんばれ」「がんばろう」「がんばる」が
地震後ますます多発するようになった。
被災した人たちの気持ちを無視するように
延々と繰り返される言葉は暴力的だ。
放射性物質のような言葉が挨拶になる時代。
だから、こんな言葉に被ばくしてしまったら
たとえばこう唱えて早く排出できないものか。
「死にたくないなら限界越えるな、充分休んで無理するな。」

 地震の影響か世の人たちの見え方が変わった。
人をだまして利益を得てきた時代遅れの者どもが
醜さ丸出しの笑えない芝居を演じるのは何時までだろう。
今回の地震で被災した人たちへの特別扱いも嫌だ。
他にもある様々な種類の被災や障害の特別扱いも多い中、
無知な者どもに知られない障害で苦しみ孤立していたり、
毎年自殺に追い込まれる人たちが何万人いても
各自の自己責任で片付けられることに変わりないが。

 「はい、笑って~」…幸せな子供じゃあるまいし。
子供みたいに笑顔を求める人には迷惑する。
私にとって笑顔ほど自分を偽るものはない。
ふだん私が死にたくなるほど落ち込んでいることなど
宇宙の果ての出来事であるかのように関係なく、
自分の楽しい感情を私と分かち合えると
当然のように信じる無神経、鈍感さ。
そういうのに激怒してしまうのは
正常な感情ではなく私の異常が原因だから、
私だけの問題であって私の責任なのだ。
私の激怒が罪悪ならどうすればよいのか。
怒りを直接表現するのが悪いのか。
そうなら、「私は死にたくなるほど落ち込んでいて、
それどころじゃないの。」とでも言えば
わかってもらえるのだろうか。
いや、冗談扱いされるとしか思えない。
痛んだ心を傷つける無神経な善意は迷惑。

22.醜さを感じる訳
 とんでもない親の話を読んだり聞いたりする。
常識が通じない人たちと言われることが多いが、
彼らが常識を知らないケースはあまりない。
常識を無視しても直接は誰からも何も言われない、
好き勝手やりたい放題できる場でそういうことをするのだ。
 子を作って親になると図々しく無礼になり、
人に迷惑をかけたり優先されたり譲ってもらうのが
当然みたいな人間になる者がいる。
本性が出てくるだけかもしれない。
親子連れによく醜さを感じていたけど、
公共の場を私物のように占領する親子が目立つだけであり、
礼儀正しくマナーを守っている親子は
邪魔な所に来ないから気付かなかったのだ。

 親子連れに醜さを感じる訳がわかった。
醜さを感じない親子連れは目立たないのだ。
目立たないのは礼儀やマナーがちゃんとしているからだ。
醜い親子連れは目立つ。
目立つのは、図々しいからだ。
図々しいのは、礼儀やマナーが無いからだ。
礼儀やマナーを忘れないまともな親子は、
人の邪魔になる視界に入ってこない。
 彼らが醜くなってしまったのはこういうことだろうと思った。
周囲の大人たちは子のほうを優先してあげているのであって、
親に対して優先しているのではないのに、
親は子を持つとまず自分が優先されるものだと勘違いして、
それが当たり前になって自分一人でも
優先されるのが当然の感覚で、そういう人間は醜くなる。

23.騒音を出す人たち
 昼夜問わず上から毎日ドンドンと
子供が飛び跳ねるような騒音がする。
家鳴りよりましだが、始まったら長い。
逆に、うちの掃除機とか包丁の音なんかで
下の階の奥様が真下の天井をガンガン叩いていた。
それはさすがに家鳴りより激しかったから驚いたけど、
これがごく普通のどこにでもいる感じの女だし、
やっぱりDV加害者も女のほうが多いんじゃないの?
DV被害妄想も。
女にさんざん嫌なことされてきたけど
男に暴力ふるわれたこと一度もないとそう思う。

 近所で昼夜問わずドッカン、バシバシと
すごい音が聞こえていた。同じ棟のほとんどの住民が
引っ越して出て行ってしまい、まるで廃墟のようだ。
その音が鳴る部屋は昼間、
母親の怒声と子供の泣き声が聞こえる。
見に行くと息子の家庭内暴力らしいが、
自分の耳から感じる様子では、
親のほうが確実にエスカレートしていた。
深夜遅くまで酔っ払った父親の声もうるさい。
それに比べて子供たちの声は小さくて落ち着いた感じで、
親の方がよほどキチガイじみている。
通報するための情報を準備しているうちに、
その家族は引っ越して出て行ってしまった。

 息子の家庭内暴力だと言われた騒音や
酔った父親のだらしない声がうるさかった家から
騒音やキチガイじみた母親の声もしなくなったと思った時、
今度は幼い子の声がよく聞こえるようになった。
その声はポジティブなんだが、どうもわざとらしく、
かなり耳触りに違いない感じで、
両親が我慢しているなら子育ては大変だと思った。
それに、騒音や大声を出している家族のほうが、
感情を隠していないだけ実はマトモかもしれない。
周囲の他の多くの家のように、
在宅かどうかわからないほど静かにしていたり、
理想的や模範的な雰囲気だったり、
感情を押し殺すのがルールみたいに
なってしまっている家庭のほうがずっと危ないらしい。
親が本当に崩壊している子供は大声を出さないし暴れもしない。
精神的に死んでいるからだ。
問題が意識されるだけマシなのだ。
深刻な問題があるのに、毒親の得意技で
何もなかったことにするのが最悪だ。

24.女の謝罪、被害妄想
 夫が大切にしている物を無断で全部処分した女が、
処分した直後からおかしくなった夫の変化で
自分のしたことを後悔していた。
有害な親も同じことをする、親は後悔しないけど。
 私が見かける女というものは母に似て、
取り返しのつかないほど人を傷つけておいて
言葉で謝るだけで許してもらおうとする。

 本当のDV被害は女性のほうが実は珍しく、
男性のほうが多いという解説を読んだ。
女はずるくて嘘つきが多く、
多くの真面目な男性は我慢の限界で怒ったことを
女に悪用されるんだそうな。
なるほど、そのほうが偽りのない事実という感じ。
私の母もそうだったし、
母親のイメージって昔から今もずっと嫌な感じ。
女がなかなか思うように生きられないのは
女自身の悪さが原因では?

 家族内暴力で必ずあるのがDV夫の話。
DV夫の話が延々と並んでいるのを見ると、
女の被害妄想が入っているように見える。
母の被害妄想が、優しい父を非難するのと同じだ。
 買い物へ行く途中の住宅街を歩いていると、
女の激怒するような声が聞こえて、
「ドンッ!」という大きな音が鳴り響いた。
本や新聞や雑誌やウェブ上で読む他人の話は
男の暴力が圧倒的に多いのに、
自分の体験や自分の耳に直接聞こえてくるのは、
なぜか女の暴力ばかりだ。
「家庭内暴力」という言葉も子供の暴力のことだったが、
実際の暴力は親のほうが圧倒的に多い。

 ある女が「自分の小説が盗作されている」と騒いで、
集団で一個人の男性に謝罪を要求するとともに、
その男性を犯罪者呼ばわりする中傷を繰り返していた。
その男性はオリジナル作品を公開しているだけの個人で、
女集団の執拗な妄言を無視していたらしいが、
客観的には事件でも何でもないまま終わったらしい。
女集団側が「事件」と称する渦中、
通りすがりの人に指摘されたことで、
「盗作などと言う前に、著作権というものが、
ストーリーと人物の名前が一部似ているだけでは
侵害と言えない法的事実」を認め、
無関係な一個人を中傷したことを謝罪する文を公開しており、
それを私は偶然見てしまったが、
その謝罪文がこれまた幼稚というか、
自分を正当化したい言い訳が多すぎるというか、
たぶんいい歳の大人がこんなことをしているのだろう。
あの幼児的母親の作文と比べればマシだけど。

25.感謝の対象は自分の鏡
 「親がいるだけありがたいと思いなさい。」
「子がいるだけありがたいと思いなさい。」
良い親、良い子たちは素直に受け取るが、
有害な親を持つ母は板挟みになって苦しむ。
 「親に感謝しなさい」という言葉がある。
感謝に値しない親ほど子供に感謝を要求するのが現実だ。
子に感謝を強いる最低の親は子に
「だから私という親に感謝しなさい」と
直接表現しなくとも暗に期待し要求するが
「自分の子がいることを神に感謝しなさい」
という言葉がリラックスした頭に浮かんできた。
 私に子はいないが、母が嫌う宗教の影響から
来ているこんな言葉に救われる感じを覚えた。

 感謝する人を見ていると、その人自身が
感謝されるべきことをしている。
子をまともに育てて自立させるという
大人の責任を果たす親はなぜか子に感謝する。
有害な親ほど子に感謝を強いておいて
自分は子に感謝したことないのに、
逆に子のほうが感謝に値しない有害親に感謝する。
人間は自分にふさわしくない不適切なことが得意だ。
 肉体的に無傷だとか物理的に何もなかったなら、
被害妄想だという決め付けがよくある。
幸福な人にとっては肉体的物理的被害だけが
問題だから傷が治ればよいのだ。説明しても結局、
信じる世界が違うからお互いどこまでも通じない。
肉体的物理的暴力で被る害も実は
精神的心理的被害のほうが大きいと私は思う。
そういう面を重視する人が少なすぎるのが私は悲しい。
人間は肉体だけの物理的存在ではない、
心や精神や霊魂こそが本体だと考える人が
周囲にいないのは寒くて寂しい。

26.嘘のない気持ちをぶつける八つ当たり
 的外れな怒りをぶつけたり嫌がらせをする者がいる。
そういう攻撃する正当な理由は無い。
親がそういう者だと子は死ぬまで本当に苦労する。
ただし、親本人も自覚できない原因がある。
怒りをぶつけられたり嫌がらせされる側にとっては、
どうでもよい些細すぎることだったり、
まったくわけがわからないほど理解できない。
理解しようと根本的理由や原因を追求したところで
見えてくるのは、的外れな屁理屈や狂った反応だ。
ある時ふと気付いたのは、嫉妬というものだ。
この不可解な攻撃者の正体は、過去に暴力に屈して
無理な我慢や努力を強いられたみじめな人だ。
そんな我慢も努力する必要もない自由で幸福そうな人を見ると、
その人が自分と同じ痛い目に遭わないほうが理不尽なのだ、
自分の命より親や他人の幸福を優先するよう洗脳されたのだから。

 いじめの原因は親や、そういう親に似た者にある。
家庭で親に虐待されている子が学校でいじめに関わる。
被害者になるのもその親の子に対する態度などに、
被害を受け入れてしまう要因を作っている。
いじめの加害者はいじめる対象になる子を
最も憎んでいるわけではない。
欲求不満解消やストレス発散するだけの対象として
都合良く目の前に存在する子を選んだだけだ。
加害者が憎んだり嫌っているのは被害者だけではない。
誰がいちばん嫌いかたずねると
卑劣な自分自身であることを打ち明けることがあるが、
自分自身に対する嫌悪の根源は親なのだ。
被害者や自分自身に何度ぶつけても解消されない感情であり、
親にぶつけ返すことができて初めて解消する。
その感情はそもそも初めに親からぶつけられたものだからだ。
しかし、親はぶつけ返すことの最も難しい相手だ。
それができれば他人や自分を被害者にしなくて済む。
周囲の人間が皆加害者で自分はどこでも被害者になる人は、
ぶつけ返す相手が自分自身しかなく、
他に行き場のない感情が殺意となって自殺を招いたりする。
どうしても自殺できない者は、
ぶつけることが可能なだけの無関係な他者を殺したりする。

 「嘘のない気持ち」というものをぶつけてきた者がいた。
話の内容から、「嘘がない」というだけで
意味不明な憎悪を当然のように正当化していた。
私は当時それに不可解な醜さを感じた。
「嘘のない」というだけで、意味不明な憎悪を
無関係な一個人にぶつけることのできる神経。
その人は、醜い気持ちを表現することを
許されないどころか非難されたり
傷付けられた経験などしたことがないのだろうか、
「気持ちに嘘がなければ許される」という
優しさに満ちた人間関係しか知らないのだろうか。
もしそうだとしたらなんて恵まれた幸福だろう。
私にはそんな家庭も人間関係もない。
 しかしどうやら、嘘のない気持ちというものは
許されるのが普通の環境らしい。
ただし、誰にぶつけてもよいわけではないことは、
当時の私にはまだよくわかっていなかった。
関係ない人にぶつけるのは八つ当たりであり、
そんなものは迷惑なだけで本人にも良いことない。
 信じていないからわからないが嘘のない正直な?
気持ちをぶつけられたのはそれが初めてではない。
母から数限りなく長年ぶつけられていた。
母の場合も私に関係ない八つ当たりだ。
ただし、私の正直な気持ちを母にぶつけてはいけない。
母が私にぶつけるのは当然の権利でも、
私が同じことをするのは罪悪だという親のルール。
母の八つ当たりは正当化され、
私の正直な気持ちは罪悪なのだ。
しかも、母の気持ちは憎悪や嫉妬中心であり、
私の気持ちは「何かおかしい」という疑問だった。

27.病気や障害の存在意義
 昨今流行りの精神障害の診断はまるで占いだ。
 誰かさんのプロフィールは精神障害の名称をずらりと並べて、
ブログの内容は飲んだ薬のオンパレード。

 「素人でもできる精神障害の見分け方」ってのがあった。
人に障害のレッテルを貼って「攻撃してもよい正義」
を得るのが目的だ。何も精神障害である必要はない。
「それがダメなやつなら叩いてよい」という前提があり、
叩くために「ダメなやつ」というレッテルを貼ることだ。
 母にも頭おかしいと言われていたから、
精神科に行ったら「軽い対人恐怖気味だけど
治すほどのものじゃない」という診断。
頭がおかしいのは私ではなく母のほうだったのは、
はるかに後で知った。

 十年ほど前、精神科に数回通院したことがある。
「やる気がない」という理由で精神科への通院を勧められ、
疑問も持たなかった私は素直に通院したのだ。
結局、私は治す必要のある異常がないと診断されたので、
おかしいのは私の周囲の人たちのほうだろう。
それでも、私は自分を正常だとは
昔から一度も思ったことがない。
 その精神科の待合室で忘れられないことがあった。
そこで私は確かに感じた。
精神科に通っている人たち自身はどこも悪くなくて、
狂っているのはその人たちの周囲のほうであると。
一見していかにも重度の患者が家族に連れられてやってきた時、
「この家族はこの患者をおぞましいやり方で虐待している」と私は感じた。
虐待の被害者が精神に異常をきたすのは当たり前であり、
加害者はそれが効果的ストレス発散になり、
異常な彼らの素性はプライバシーとして隠され
外面では正常でまともな人間どころか、
病人や障害者の世話をする優しく立派な人間のふりをしていられるのだ。
病人や障害者の介護をしているから偉いわけではない。
子育てしたから大人だとか一人前どころか、
子育てに苦労する親の顔をアピールするやつらほどろくなのがいない。
 精神障害は、親や加害者の問題や実態を、
被害者の故障だけを問題のすべてに見せかけ、
加害者たちを正当化する手段として利用される。

 社会で認められた名の付く障害を、
人を傷付ける習慣を正当化する理由にする者がいる。
子を虐待したり家族を加害者にして、
自分は被害者のふりをする自称「障害者」。
本当に障害なら家族に迷惑をかけるのは同じだ。
結局やっていることは同じでも、
自分を正当化するのとしない違いがある。
悪いのは正当化それだけなのだ。
自分を正当化する者は治る努力をしないが、
正当化しない人は治る努力をする。
問題は改善の努力するかしないかだ。
あるいは頑張るか頑張らないのか。
ただし、努力とか頑張ることを期待してよくても、
「努力しろ」「頑張れ」と要求するのも間違っている。
ある事実を間違ったことの正当化に利用するのが悪い。

 病気や障害を認められたい人もいれば、
病気や障害になりたくない人もいる。
前者は病気や障害を認められるほうが有利になるからであり、
後者は病気や障害を知られると不利になるからだ。
病人や障害者が大切にされたり助けられる
人間関係がある平和的環境なら前者になるが、
病人や障害者を排除したり攻撃してよい許可を
他人に与えるような劣悪な人間関係なら、後者になる。
その人の生きる世界によってどちらがよいか違うのだ。
 そういうわけで、崩壊した狭い家庭の中で、
こじつけられた病気や障害を理由に攻撃されても、
若かったこともあって健康を装っていられたが、
歳とともに病弱になっていく今の家庭では、
どんな不調も病気や障害だと認めてもらえなくて
無理なことを期待され求められ、
甘えや怠けとして非難される。
病気や障害にされたりされなかったりするのは、
本人を利用している支配者側の都合なのだ。

28.ACとかAS
 アダルトチルドレン(AC)はとっくの昔から古くて
新しい別の名称「AS」になっているらしいが。
ACの定義では、無自覚ならACではないのに、
他人からACでは?と指摘されたり、
「無自覚AC」などと言う人さえいる、
ほとんどの人たちが定義に反することをしている。
ACの定義自体に問題があって専門家でさえ
気付いていないという指摘を見かけた。
そんな定義に疑問が生じ、自分で勝手に考え始め、
「ACって要するに傷付きやすく
親から自立できない人たちのことではないか」などと。
「誰にどう言われようがACかどうかは本人が決めることだ」
という定義は自立にも必要だと思うが、
もしこの考え方の間違いを指摘して修正するなら、
そうやって余計な口出しすることで自立の邪魔になる。
 そして結局こう言う非難が登場する。
「誰だって生きるのは大変なんだから、ACだからって
生きづらいなんて甘ったれたこと言ってんじゃねーよ。」

 私はACのことを「子供時代から親に甘えることを許されず、
「大人になってからも人間らしい自由や権利を知らない」とか
「親に自立心を叩き潰されて大人に成長することが困難な人」
あるいは「子供らしく生きた時期がなく、
幼時からずっと無理して大人として生きてきた人」などと思っていた。
 昔から私は確かに自分がACだと思った。
しかし、世間の目には、いつまでも親に甘えようとするか、
いつまでも甘えさせてはくれない親を恨み続けるダメ人間だろう。
そんな無知で無神経な他人が言うほど私はダメではないが、
世間の常識が「ACと自称すること=
いつまでも親に甘えたくて親を恨むダメ人間」である以上、
誤解や勘違いに傷付くしかないと感じていた私は、
ACだと自称しないことにしていた。
そんな人はとても多そうだけど、それも誤解だった。
偽りのない自分を正直に表現しただけで叩かれる、
毒親が蔓延る世間の都合に合わせたまま死ぬのは悲しい。

29.ハラッサーの癖
 DV、毒親、ハラスメントによくある
「家族の大切な物を勝手に捨てる」とか
「好きな髪型や服を禁止する」とか
「アンタは頭がおかしい」とか
「一人じゃ何もできない癖に」
などという言葉を多く見かけて、
記憶力の弱い私でも覚えてしまった。
そして、その原因が、ハラッサーにとって
自分の存在価値がどうしても必要なのに
自信がないという不安だった。

 ハラッサーによくある癖を並べてみた。
1.人の心より形や秩序を死守する。
2.記憶力が弱く、精神的未熟さが幼児並み。
3.長年の暴力や嫌がらせで家族を精神障害者にする。
4.他人に自己責任を説くが、自分の問題は他人のせい。
5.傷付けた相手に対して平気で微笑み仲良くしようとする。
6.「もうすぐ死ぬから」などという余命宣告で人を動かそうとする。
7.自信満々な態度で嘘をつく。心から反省や謝罪する芝居が得意。
8.自分の都合が悪い事実を否定や改変や捏造、なかったことにする。
9.自分の言動を記録されるのを嫌う。公平な条件での話し合いを嫌う。
10.「してやった」と言う癖がある。自分は感謝されて当然という信念がある。
11.支離滅裂だったり意味不明な暴言は何も知らない他人にとってこっけい。
12.人が長い時間かけて積み上げてきたものや大切なものを壊したり捨てる。
13.自分に逆らわず反撃しない者に暴力をふるったり私物化して不当に利用する。
14.何かにつけて、ただの数値を根拠に不必要な優劣や評価や順位を付けたがる。
15.些細すぎることを理由に突然、爆発的発狂的激怒に始まり、長時間の説教を続ける。
16.あらゆる人について悪口や愚痴を言い、貶したり蔑むことによって自己評価を得ようとする。

 DVやらハラスメントの加害者に共通する特徴に、
規則や秩序や正しさが死ぬほど大切というのがある。
彼らにとって人の心や気持は都合が悪くて邪魔だから。

 つまらないことで人を心の中で比べて
劣っていると決め付けたほうを軽蔑することがある。
カネや持ち物で人を比べたり。
比べるものは他にもあって、
傷の深さや苦労や不幸や幸福の度合などで競ったり。
そのうち命の重さを比べたり。
挙句の果てに、あの世で魂をはかりにかけたり。

 親に限らず不当に人を支配して利用する者が、
「守るべき当然のマナーやルールであるかのように」要求することに
「自分以外の人たちと関わったり付き合ってはいけない」というのがある。
子供や被支配側が多くの友人や知人を持つほど
客観的考えを得たり自信を持ったりして、
そうなれば親や支配側に服従させることが難しくなるからだ。

 悪質な親は、決め付けやすい子一人だけを、
家庭の問題の原因と見なす悪癖もあるようだ。
「この子さえいなければ、あるいは親の思い通りであれば、
こんな問題もない」というようなことだ。
問題は親が原因であり親にこそ責任がある
という真実を親自身は絶対に認めない。
認めれば親の存在価値や親の資格がなくなり、
親としての地位や権力を保てなければ、
思い通りに家庭を支配できなくなるからだ。

30.不適切なことを強いられた
 ある店で夫が私に何度も強いることがあって、
夫が私の返事を一切無視するので私は
店員に余計なことを言わなければならなくなって、
誤解の元になって恥をかいてしまった。
それで夫に文句を言ったが、彼はそれも無視し、
落ち込んでいる私の様子に少しも気付かず、
我慢も限界に達した私はキレてしまった。
最近までそのような状況では必ず
私の頭がおかしくて私の心の問題だから
私が悪いことになっていたが、
考えてみると私だけが原因でも私だけの問題でもなく、
夫のほうにむしろ原因や問題がある、
話をろくに聞こうともしない夫のほうがおかしい。
それでしばらくの間、聴かせるのに苦労して
彼に「なぜ不適切なことを私に強制したのか」
質問だとわかるまで根気よく説明したら、彼は謝った。
そもそも話を聞かないので以前は謝りもしなかった。
そりゃそうだ、返事する必要ない嫌がらせだから。
しかし、謝罪は私の望みではないし何の解決にもならない。
やっと初めて話を聞いてくれたというだけだ。
しかも、それが彼の言うアスペルガーの障害らしい。
「障害だから我慢して許してほしい」というのだ。

その後、当時の記憶をたどっていた時、
私が家族の恥や罪を代わりに着せられていた事実を
初めて理解してもらった感じを覚えた。
私はあの時、夫の要求に耳を傾けていて、
最初、不適切な理由を説明して断っていたが、
フィードバックが通じないロボットのように
夫が同じことを執拗に要求するので、
仕方なく不適切なことをして恥をかいたが、
店員さんはその様子をずっと見ていて、
夫が私に恥をかかせた事実を知っていた。
だから、店員さんは私が悪いのではなく、
自分の欲求を自分で満たさず人を利用する
夫のほうが本当は恥ずかしい存在だった。
ただし、他の家族のように夫の恥は妻の非
というルールが私にも通用するなら、
誰かと同じように私も救われないだろう。

31.なめられる加害者
 録画していたテレビ番組を夫が勝手に消していて、
何度か注意するよう頼んでも消されていたことが重なり、
長い間我慢していた怒りが爆発した。
家庭内で激怒する人はDVとかいう暴力の加害者だ。
怒るのは理由があるのに、その理由はなぜか
聞かれない、あるいは説明しても無視される。
しかも、私は昔から人になめられる。
私は怒って初めて一度だけ聞いてもらえる。
ただし、次の瞬間ほとんど忘れられている。
夫は私が怒らないとろくに聞きもしない。
昔から私はいつも必ず加害者だった。
子供の時は母を不幸にする加害者。
大人になればなったで家族を不幸にする加害者。
 消された番組の内容はどれも心を癒す内容だった。
一つだけ消されないで残っていたのがあった。
それを見ようとしているのに変なことをして邪魔されて、
消されないようにするだけで大変な説明をして、
ついに家族を部屋から追い出して、
入浴と睡眠時間を削ってやっとの思いで見ることができた時、
テレビ画面の風景は目に映っているだけで心に届かず
何も感じないので、どうでもよくなってしまった。

32.事実と理屈
 偽りの記憶とか、記憶を改変するという話がある。
耐えられない苦痛を伴う出来事の記憶は、
思い出すたびに耐えられる程度に改変したり、
耐えるために作り出すというのだ。
しかし、虐待だと訴えた子に親が、
「偽りの記憶」だとか
「記憶を改変したり捏造した」と言い返すような、
親の都合に悪い子の逃げ場を奪って追い詰めて
操作するために「正しい事実」を利用するのは正しくない。

 物理的事実を認めることは必要だけど、
事実だけを問題にするのは正しくない。
問題にすべきなのは、その事実に対してどう感じているか、
心や気持ちのほうであり、
どうあるべきかということでもない。
事実がどうであろうと、どう感じたのか、
心や気持ちを否定したり認めなかったり、
まるで存在しないかのように無視するのが最悪だ。
人を物扱いしてはいけない。人は機能ではない。
心や気持ちを無視せずに大事に思ってほしい。
そういうことを私は何度母に言っただろう。
母が必ずいつも無視した理由は、自分の娘が
心や気持ちを持たない道具や機械や、
ロボットみたいに扱える奴隷でもない
親の思い通りにならない人間だと認めたくないからだ。

 親が子を傷つけたとかいう事実を言うと、
「親も人間なんだから完璧ではない」という正当化。
無知で未熟なのはむしろ親なのに、ついでに無能だし。
親としての最低の責任も果たさない
悪すぎる親のことを言ってるのに、
「親」というだけで人間としても問題なしみたいな前提。
常識というねつ造事実と、真実を排除した理屈。
親という以前に人間として失格なのに。
そういう親はたいてい言うこともズレている。
いい歳なら子供を持つ大人は多いだろうが、
親の顔をアピールするやつほどろくなのがいない。
卑劣な者ほど親の顔をアピールしたがる。
狂った世間の常識では「親」というだけで圧倒的有利で、
自分勝手な都合やわがままを通せる。
子育てに限らず責任を本当に果たしているまともな大人は
「親」という図々しい顔を出さないものだ。

 彼らは絶対に留守番電話に声を残さない。
犯罪者や悪質な親など卑怯な者はよく
記録された事実を排除したり否定する。
自分たちの不正の証拠になるからだ。
彼らと関わる時に必ず録画や録音やメモなど記録したり、
客観的第三者に公開したり監視してもらう
などしたとたん彼らは逃げていく。
ただし、親の場合だけは逃げないことがある。
そういう親は嘘や偽りやだます自信満々であり、
子供とだけ密室にいる時とは別人のように良い人を演じる。
一部分だけの乏しい記録はほとんど役に立たないどころか
彼らの都合で歪めて悪用したりする。
彼らと関わる場面や物事すべてを
可能な限り詳細に記録する必要がある。
盗撮するなら親子だけの密室にしてほしい。
そんなことが大変すぎて無理なら、
徹底無視して関わらないことだ。

 子供への虐待をなくそうと頑張っている人たちのことを
批判を装った人格否定を伴う中傷している者がいる。
その理由は過去の調査で得られた統計を知らないことだ。
しかし、それだけで、
犯罪を防ぐために頑張っている人たちの
落ち度みたいに取り立てて言う必要性は何か。
「事実を知らない善意は有害」みたいなことを書いていたが、
人格否定を伴う「批判」には卑劣な魂胆があるもので、
実際、批判ではなく中傷だ。
くだらない非を大げさにあげつらって
人格否定するやつこそろくなのがいない。
 犯罪数が今より昔どれほど多かろうが、
現在の数少ない犯罪を非難してはいけない正当な理由はない。
彼の本当の目的あるいは望みは、
親から子への暴力を黙認してほしいのではないか。
自分が親であり、子に対して暴力を振っていることは
本人にとって生きるためにやめられない習慣だから。
「事実を知らないことが悪い」というのは、
親から子への暴力の実態を暴いて知ろうとしない世間へ
言いたいことではないか。

33.有害な親の実態
 「親のせいにするな」という言葉が
うんざりするほどはびこっている。
そのくせ、子の問題や不幸ではなく、
成功や解決や幸福になったとたん親のせいにすべきなのだ。
子の不幸は子自身の責任、
子の幸福は親のおかげというルールがある。
親は自分の責任から逃げ続ける。

 有害な親は長年かけて犯罪者を作る。
犯罪者の親は子にとっていつまでも神様だ。
そういう親は必ず共通して、
子は親の私物だと本気で信じている。
そのくせ、自分の子が罪を犯した責任を負わない。
そして、子が自分の思い通りになることが当然であり、
それが通用しない現実に満足しない。

 親になるには資格が要らない。親のあるべき姿とか、
親の義務とか責任を書いた本を読むと、
そんなことできる親を見たことないと思う。
親というものに資格が必要なら、
その資格ありそうなまともな人間は珍しい。
親の資格どころか人間とも呼べない動物未満が
親の権力をふりかざして子を食い物にするのが
現実的標準だからではないか。

 親が自分ができなかった、やりたかったことを、
それに興味ない子にやらせる話がある。
つまり、叶わなかった親の夢を子に叶えさせる。
親が誰かに「親自身が自分でやらない理由」を問われることもある。
その時親はこういう言い訳をする。
「自分はもう歳だから不可能」
「子育てが大変で時間もない」
「自分や家族の病気や障害で余裕がない」など。
そうやって親は自分で努力しない。
そういう親ができなかったことを代わりにしたり
親の夢を叶えるのは子の義務や役目なのだ。

 子を虐待する親のほうが普通ということがわかってきた。
だから子に対する犯罪に等しい虐待を、
親は堂々と「シツケ」と称するのだ。
「この程度のことはどこの家でもやっている」
というのが普通の親の感覚なのだ。
プライバシーに守られた家庭という聖域で
やりたい放題の虐待が親のストレス発散になり、
逮捕される犯罪者にならずに済んでいる。
それで、そういう親の影響を受けて成長した子が
親がしてきたのと同じように反撃する形になれば、
「家庭内暴力」だと大騒ぎするとともに、
そういう子に育ては覚えはない、悪いのは子供だと言い、
すべてを子供だけの責任にする。

 親はだれでも子で苦労すると言われる。
しかし、親で苦労している人のほうが本当に多い。
子で苦労する親の話は当然のように堂々と表現されるが、
親で苦労する子の話はなぜか秘密にされたり隠され、
勇気を出して表現しても無知で無理解で
無神経な者どもから被害妄想みたいに扱われ、
子の側の「単なるわがまま」だと決め付け片付けられる。
親で苦労している人の話を少し注意して聞いたり読めば、
命や魂を削るような深刻さがあるのに、
親が子のために命や魂を削るなんて「あり得ない」
と感じるほど滅多にない珍しいケースだし、
内容を少し注意して見つめると親こそ未熟であり、
まるで幼児や赤ん坊のような欲求不満を子にぶつけている。
親が自分の非を子のせいにしても誰も咎めないのに、
子が親のせいにしたとたん周囲から厳しい非難を浴びる。
しかも、子供らしい年齢相応の未熟さまでも非難対象だ。
親こそ本当に未熟なのが真実であり、
子のほうが成熟した大人であるよう求められる。
未熟な親は子におんぶにだっこしてもらい、
子が親を背負うイメージこそ真実を表す。

 親は「子を自立させたい」と言葉で表現しながら、
やっていることは子への依存だ。
本当の望みは自分の都合や利益のため
子を利用することであり、
そんな利用や依存をいつまでも続けるために、
子が本当に自立しては困るのだ。
親の言う「自立」とは、
子が親の奴隷に育つことであり本当の自立ではない。
 親に都合良く利益になる子は離したくない物であり、
親に都合悪くて利益にもならない子は
邪魔な荷物で捨てる物だ。
親が言葉に表さない本当の願いは、
いつまでも親の都合で子を利用できる依存であり、
子の望みは自分が親から自立することだ。
親が言葉に表す「自立」も「成熟」も「親孝行」も、
親の都合でいつまでも利用できる子の生き方であって、
本当の正しい自立でも成熟でも親孝行でもない。
親は子に自分の人生を代わりに歩かせたり
親の夢を代わりに叶えさせ、そうすることが人間として
当然の義務だとか常識だと言い聞かせる。
子の幼児返りは自立に必要なことであるし
短期間で終わってしまうが、
親の幼児返りは際限なく終わりもない。
どうしようもなく始末に負えないのは親のほうだ。

 これも有害な親の話だ。
そんな親のために子は、外で親が自慢できる
立派な人間になってあげると同時に、
そんな最低の親に劣って負けてあげなければならない。
そういう親が子に求める理想は、
親の奴隷や機械や人形に成り果てることだ。
そのため親は子に余計なことを一生懸命して
「子のためにこんなにたくさんいろいろしてあげている」と主張する。
こんな問題が親の責任として指摘されたとたん、
親は「理想を押し付けられた」という被害妄想になる。
親は子に無理な理想を求めておきながら、
最低必要な親の義務を「理想」と決め付け責任逃れ。
子が親に望むことは決して難しいことではなく、
「自立の邪魔をしない」という適切で正しいというより
人間として当然の必要最低限だ。
しかも、子の自立のため親がすべきことはほとんどなく、
あっても人間なら当然の簡単なことしかない。
 有害な親など存在しないほうがましだ。
そういう親に限って子に「要らない子」
「うちの子じゃない」「産まなきゃよかった」
「こうでなければうちの子だと認めない」と言う。
こんな最低のこともできない有害ゴミのような親が
理想なんか押し付けられることなどあり得ないのに、
奇怪な理想を子に要求するだけでは足りず、
子を思い通りに支配できない不満を募らせる。
そんなゴミ親にとって人間として最低必要で
簡単なことさえ不可能な理想なのだろう。

 いい歳になってから親に初めて抗議すると、
その時まで抗議したことなかった事実を、
抗議の内容が不当である根拠にしたり、
抗議したという事実そのものだけを、
正しい親に逆らう子の落ち度にしたり、
結局ますます親の正当化に利用して終わる。
親が何しても子は傷付くと言う話がある。
実は子が何しても傷付く親の未熟さの鏡なのに、
親が子のことを心配すれば過干渉、
心配ないから放任すれば無関心という言葉で
子が親に傷付けられたと言うわがままは、
親の問題ではなく子の問題だというのだ。
そんな理屈が正しくても、子への愛はどこにもない。
しかし、愛というものを義務にすることはできない。
心配するのは「心配だから」と監視して
干渉した分だけ親に服従する子だからであり、
そうでなければ何かするだけ親にとって面倒で、
思い通りにならない子なら、「心配ないから」
という口実を作って無視や放置するのであって、
どちらにしても親の都合による。
子がどうなろうが親の都合や利益だけが
前提であり重要で大切なのだ。

34.毒親という隠れた犯罪者
 ヤクザのほうがましと非難された親の話を読んだ。
ところがその親はどこにでもいる普通の親だ。
有害な親の正体を知った人がヤクザのほうがましと感じただけのことだ。
 自分が作った子を育てる能も無いから
子を知人に預けていた親に別の知人が、
「お前の子を預かってる奴はヤクザだぞ」と教えたところ、
その親は子を返してもらおうとしたが
「お前よりヤクザに育てられたほうがまし」と言われたのだ。

 脳死で意思表示できない子供の臓器移植を
親が勝手に許可できるという。
他人の命を奪ってまで長生きしたい人を
救うという感覚を拭いきれない。
自分の命より愛しい人のためといって、
いい歳の大人が望んで殺されるのはまだ耐えられるが、
虐待されて被った傷害/障害で親にとって
使い物にならなくなった子が
最後の利用のため脳死に追い詰められて
殺される気がしてならない。

 交通事故でも病死でもないらしい死因を
厳重に隠された子の葬儀の話を耳にした時、
親が殺したような気がしてならなかった。
殺人は親が子を対象にしたのが実は
最も多いと考えるのに無理を感じない。
凶悪犯罪ほど近親者に多いだろうし。
ただし、逆に子が親を殺すのは
極めて珍しいのに隠されないどころか、
そういうのに限ってくだらない大人たちが大騒ぎして、
ありもしない尾ひれを付けて言いふらすのではないか。
何につけても圧倒的有利な親の犯罪は不気味なほど
完璧に隠される気がしてならない。

 有害な親たちは、家庭内の親の実態を隠すのに
都合良い世間の常識を作ってきた。
人として許されないことをして謝るどころか
子のせいにして謝罪を要求する。
甘えて依存するのは親のほう。
死んでまで子供にしがみつくのは親のほう。
子離れしない親の幼児返りに終わりはない。
自分のしてきた事実を認めて自分と向き合って
自分の人生を子供に歩かせずに自分で歩いたら?
そんな助言を聞く耳どころか能もない。
子の心を傷つけたり癒さない者は親ではない。
肉親なら家族を癒すものだ。

 家庭という密室に隠れた真実を暴くほど、
親は不当な権力を持つ圧倒的有利な立場にあり、
子をいつまでもどこまでも親の都合で利用する
プライバシーで隠された奴隷制度が明らかになる。
ごくたまに隠すのに失敗する親がいるがそれは、
エスカレートしすぎて子の命に危険が及んで、
家庭という密室から病院という外の世界へ
仕方なく子を出すことで外の人たちに気づかれたり、
子が外の他人に相談できるようになったりして
密室で親が子にしていることが発覚するからだ。
親が賢ければ子の命を多少の危険にさらしても、
家庭という密室の外から気づいた人が存在しても、
どこかの先進国みたいに犯罪を見抜かれて通報されても
「親だから」まず疑われない。もしかして日本特有?
何をしても子が死なないから安心して調子に乗りすぎて
ついに子が命を落としてしまっても、
死んだ子に親がしたことを話す口も聞いてくれる人もなく、
親自身が「子を大切に育ててきた」と言いさえすれば、
外側の人間が犯罪を疑うことすら難しい。
それでも犯罪が明るみに出た親というのは、
他人の目を気にせず好き勝手やりたい放題ということだ。

 関わったら油断できない、安心して話せない、
会っただけで疲れる、
物理的損失だけでなく精神的損失も大きい、
できる限り関わりたくない。
こういうのは詐欺、ヤクザ、悪質セールス、
カルトや宗教の迷惑勧誘とやることが似ている。
親の悪質さはもっと酷い話が多い。
「家族を癒さない、それだけでもう親族ではない」なら、
子が自立できないほど傷を負わせる親なんか、
親になりすました凶悪犯罪者みたいなものだ。
こういう親は自分の存在価値を押し売りするわけだが、
そのやり方はしつこい勧誘やセールスより悪質だ。
セールスを断る方法はできる人には簡単だし、
架空請求なんか無視だけで対処できたりするが、
親はそういうわけにはいかない。
親は断ることが極めて難しいし、
無視しようものなら抵抗もできない手段に出てくる。
抵抗できなくするため適切な言葉を使わせない。
親に限らず、親のような立場や権力で
人を利用する者も似たようなことをする。
そして、「犯罪者」と名付けられた者は
たった一度の過失でも許されないのに、
犯罪者以上に悪質なことをいつまで続けても、
「親」といわれる者は正当化され許される。

35.洗脳、マインドコントロール
 DVとか何たらハラスメントの加害者は単に発狂するだけであり、
わざわざ面倒くさいマインドコントロールしている自覚も意図も何もない。
マインドコントロールは被害者自身が作り出す妄想的被害。
誰が悪いとか何が原因かを明示するよりも、
必要なのはこの妄想的被害に陥らないことだ。
加害者をどんなに責めて謝らせて償わせても何も解決しない。

 親というだけで正義と称する権力を
小さな家庭の中で子供にふりかざして、
暴力や虐待という犯罪を正当化してやりたい放題。
そんなことが簡単にできる理由は巧妙な洗脳ではない。
親はそもそも必然的に子を洗脳するものであり、
洗脳する側は頭がよい必要はまったくない。
 有害な親がすることを
「子を混乱させたり、罪悪感を持たせたり、
事実を歪めて思い込ませる」などという話がある。
親の勝手な都合を通すのが目的なんだろうけど、
親はそんなこと自覚しているわけがない。
親は子を意識的に洗脳やコントロールしなくても、
子はそれを許すしか生きる道がない。
だから親は本当に無自覚か、
自覚していたとしても無自覚なふりを続けられる。
DVとかハラスメントの解説にあるような
洗脳の巧妙な手口なんて加害者に考える能ないし、
被害者が加害者を許してしまうのにも原因がある。
だから、加害者を許してはいけないのだ。

36.自立できない理由
 子が自立できないのは親が自立させないからに他ならない。
子の自立は親の責任。
こんな当たり前のことを「自己責任」
という言葉で無効にできる頭のおかしさ。
有害な親が子の責任を持つなんて無理なわけで
自立の妨げ、障害になるだけ。
責任を持てる親なら子は必ず自立する。
有害な親から離脱できれば、
親の支配圏外の環境で育ち直して
人間らしく生きていく人もいるだろうが、
有害な親の支配下で就職や結婚してしまうと、
その世界にいる人たち全員と絶縁するまで自立できない。

 甘えを否定する人たちは、
精神的成長や自立に必要だということも、
甘えが何であるかも知らない。
親や他人に「甘え」「甘やかされてきた」
などと批判されるのは本当の甘えではなく、
外見上「甘え」にしか見えない「強いられた依存」であり、
本当の意味で「私も甘えを許されたい」
という気持ちを表現すると、
「いつまで甘えたら気が済むんだ」
などという言葉を浴びてきた。
幼いころから大人になっても甘えを許されたことがなく、
本当の意味で甘えたことがなく、甘え方も知らないのに、
「いつまでも甘えるな」と言われる勘違いは寒い。
「強いられた依存」というのは、
親の存在価値を捏造するため、
口頭で「自立しなさい」と言われながら
実際は自立できないように依存させられることだ。

 経済的収入だけでは親から自立できない。
精神的自立できていなければ、
収入も親に横取りされたり後でむしり取られるから、
無収入で自立できないのと結局同じ。
精神的自立だけが本当の意味で有効だ。
もし、精神的自立できていれば
経済的依存はむしろ不可能だ。
親は精神的自立した子を利用したり依存できないから、
そんな子を親はさっさと捨てる。
勇気がなくて子を捨てられない親は子に「早く死ね」などと言う。
自立した存在を許せるのは「まともな大人」だが、
「まともな大人」である親など私は見たことがない。
 自立しないのは子ではなく親のほうだ。
子は誰でも自立を望むが、
子を自立させない親が多すぎる。
親が言葉で表現する「自立」は真の自立ではなく、
親の都合で子を利用したり子に依存することであり、
親の思い通りに子が動いてくれることに他ならない。
 子を自立させない親のほうが間違っているが、
家庭内の実態をあばかれない親は誰からも咎められないし、
ごくまれに自覚しても口で謝りさえすれば許される。
謝るふりだけでもすぐ許される親は、
安心していつも通りに戻って何度でも過ちを繰り返す。
治す必要あるのは原因になっている親のほうだろうに、
親に道具化、奴隷化、機械化、ロボット化された子のほうが
病気扱いされ矯正や治療対象になる。
昔から現在も将来も変わることを求められるのは決まって子のほう。
間違っている親は死んでも変わらない。

37.自立の第一歩
 有害な親から精神的に自立するためには
まず、親に関わる物を捨てる必要がある。
親からもらった物や親の支配下にある物、
自分で買ったとしても親のルールに従って得た物、
さらに、親の支配下にいる人物と関わりのある物、
親を連想するあらゆる物だ。
ただし、これは今も親から次々と
物を送られてくる人には無理だ。
「いかにもありがたそうで親の毒が詰まった」物を
容赦なく次々と捨てるのには労力と費用を要する。
私の場合そういう時期は過ぎたので、
捨てなければ減らないだけだ。
しかし、親から余計なものを
押し付けられなくなるまでに大変な苦労があった。
ストーカーの対処より大変かもしれない。
親のしつこい悪質さは迷惑セールスに勝る。
いかにもありがたそうに言うゴミや有害物を、
子の心や自由や人権というもので払わせようとする
最悪の押し売りなのだ。
「親からもらった物を捨てるなんて…」と思われるだろうが、
本当の意味で子を自立させる親からもらったなら
捨てずに大切にするに決まっている。
これは、そんな「まともな大人」とはかけ離れた親の話だ。
親の奴隷になるために与えられた物なんか有害なだけ。
それ以前に、本当に価値ある物をもらったことがない。
「あたかも親が与えてくれた物であるかのように
言われただけ」であり、
実は親の欲しい物を買っただけのことだから、
もらった物として自分で使おうとしたとたん、
突然激怒する親から激しい非難を被ってきた。
本当に親からもらったのは安物で質の悪いガラクタだけだ。
もし、誰かのように親に家を買ってもらっていたら
その家を手放すのが無理なら自立も無理な気がする。
私の母はドケチでよかったのだろうか、
安価な粗悪品を捨てるのは簡単なわけだから。
しかし、それだけ親の支配が弱いかもしれず、
親の家や土地に縛られている人より自立しやすいかもしれない。
ついでの話、親の支配下で結婚や就職してしまうと、
自立には離婚や退職の必要がある。
これができる人は存在するけど、
途方もない苦労があるのは確かだ。

38.親を許して地獄に戻る
 納豆菌を殺菌してどうする?みたいに笑えない。

 頭がおかしいのは親のほうだった。
頭のおかしい親を持つ子は死ぬまで苦労する。
そういう親の理屈は、思い通りにならないことは
自分の子の頭がおかしいのが原因だ。
彼らにとって「子は親の持ち物」だから
他人なら明らかな犯罪になることを子にする。
そういう親を許す言い訳として、
「親も人間なんだから完璧ではない」とか
「不完全だから」というのがある。
完璧から遠すぎる、不完全すぎるのに、
そういう都合悪いことは通じない。

 子を責めて親を守る言葉が多すぎる。
親がどんなに迷惑、悪質、有害でも、
子は親を長年ずっと許してきたのに、
今さらなぜわざわざ「親を許しなさい」なのか。
親は昔から自分を正当化して自分自身を許し続け、
これからもずっとそうし続ける自由もあるのに、
わざわざ改めてこれからもさらに子に
許してもらう必要あるなんて。
こういう疑問には「自分自身のため」とか
「親を許すことが自分を救う」みたいな説教が来る。
今までずっと許してきたのに、
これからもずっと親を許し続けて本当に救われるか?
正しい答えはこうだ。
許しても許さなくても救われないのは同じ。
長年、親から被り続けてきた害とダメージは大きく深い。

 他人なら犯罪になることを子にしておいて、
「シツケ」だとかいう言葉で正当化してきた親に、
成長して抵抗や反撃できるようになった子に
家庭内暴力だと大騒ぎして子に謝罪を求める。
謝罪すべきは親のほうなのに、
親は自分を正当化するだけでは足りず、
親は許されることを欲求する。
 感謝と同様、謝罪も義務ではない。
いい歳になってそんなことも私はわからなかった。
キチガイ的支離滅裂な母の屁理屈を信じていた
過去の私にとって感謝も謝罪も義務だった。
感謝や謝罪が心からの本当の気持ちでなければ
無意味だというのは最近初めて学んだ。
 謝罪というのは罪を認める意味がある。
だから親は子に謝らせて自分の問題を子の罪にすり替える。
親は子を利用して自分の責任を逃れようとする。
子が親の心や気持ちを尊重するのが当然で義務でもあり、
そういう親は子の心や気持ちを無視する。

 悪質有害な親を許すなんてことは
世界の終りまでしなくてよい。
犯罪者を許さないのに、
それより悪質な親を許すためのあらゆる口実を探して
「許した」とわざわざ宣言する話をよく見かけるが、
愚かというより危険だ。
親が産んでやった子は、
親の勝手な都合で際限なく利用できるだけでなく、
親の価値をでっちあげてくれるありがたい存在だ。
子が無実の罪悪感を負ってどんなに謝ろうと
親は子を許さなかった長い過去と、
これからも許さない未来があるとしても、
一度は子に捨てられたような親でも、
子に一言「悪かった」と謝りさえすれば
子はいつでも喜んで親を許そうとするだろう。
親からされてきたことを今度は自分が家族にしてしまう。
そんな自分が許されて楽になりたいなら親を許せばよい。
親を許すなら親と同じ自分も正当化されるだろう。

 親が子をどんなに虐待していても、
必ずと言っていいほど「親を許しなさい」と子に指導する。
幼い時からそんな親をずっと許してきて、
せっかく許さなくても生きられる大人になって、
これ以上許すのをやめようとし始めたのに、
しかも、親のほうは子を許したことがなく未だに許していない。
子は親に一度も許されたこともなく今も許されていないのに、
これからもずっと親を許し続けなければならないなんて。
「いい歳してるのだからいいかげん親を許しなさい」
という言葉が心に突き刺さっている。
「いいかげん許しなさい」という言い方になるのは本来、
許し難いものがあったからだ。
本当は許してはいけない、
許されないことをした者を許すのは被害者が
自分だけの気持ちで決めることだ。
許せる親なら最初から許していたというより、
「許す」という考え自体が存在しない。
 どうしても許さなければならないなら
それは親ではなく自分自身だ。

 犯罪者を絶対に許さないのは当然なのに、
親が子にどんなに悪質なことをしても、
子は真っ先に親を許すことを勧められる。
親が子を今まで許したこともなく、
今後もずっと許すつもりもないのに。
親がしてきたことの責任は棚に上げておいて、
子がまず先に大人になって親を許さなければならず、
順序があべこべだ。
それでも、子が先に大人になって
親を許すことができたとしても、
その次の瞬間に言われるのは
「回りくどいことを省いて最初から許しなさい」だろう。
これから先もずっと親の都合や利益のため
子を踏み台にして好き勝手やりたい放題して
親が子を利用したいから。
しかも、子は最初から今までずっと何度も親を許してきた。
そうしなければ子に今まで生きる道はなかっただろう。
「親を許す」などさんざん繰り返してきたくだらないことは
今後二度と無いのがよい。

 やっぱり親がおかしい。頭のおかしな親が多い。
子の暴力はそういう親への反撃だ、
子の問題は親の責任、親は自業自得だ。
みんな親を許し過ぎ、親は許され過ぎ。
子が過去から将来もずっと許されないのに
親だけを真っ先に許そうとするのはおかしい。
親を許そうと考えて悪くないのは、
子が本当に許されたと実感してから後だ。
親の問題を子のせいにしたり
大人の責任を子に負わせる親は、
自分自身の責任とる能力もないから
当然、子の責任なんか負えない。
そんなのは親ではなく肉体だけ老いた糞餓鬼だ。
 親に否定され続けた自分の実感がいつも正しかった。
「絶対正しい」などと親が押し付けてくる常識は間違っている。
そんな親の支配下でまともな人間になれるわけがない。
親からの離脱は誰にでもできることではない。
そんな努力が無理なら、幸福なふりをして
親と同じ過ちを犯し狂った感覚で無理な生き方をするしかない。
「私はこうであるしかない、だからこれでよい」と
自分を許すことが先に必要だ。

 AC関係者の話を読んでうんざりすることがある。
「親を許す」とか「親に感謝する」とかいう話が
必ずあったり酷い時は最初から出てくる。
こんな当たり前のことをなぜわざわざ言う必要があるか。
おかしいと感じるのは、有害な親が対象の話であり、
まともな親のことではないからだ。
親という以前に人間として許されないことをしたり
感謝に値しないからこそ、わざわざ
「許す」とか「感謝する」と言わなければならないのだ。
どんな親でも遺伝的、法的に親というだけで
最初から許されているし、感謝されるものだ。
 許すべきなのは、感謝すべきなのは、
有害な親ではなく自分自身だ。
何がどうであろうがそれらは親のおかげではない、
自分自身の血と涙と努力と忍耐が…どれほどあるだろう。
有害な親の身代りに無実の罪を
今でも着せられ続けているだろう。
このままではこれからもずっとそうだろう。
親という以前に人間として救いようのない、
だから許せないし感謝できない相手を無理して
許して感謝したつもりになって何になる。
自分を今までずっと支えてきた
他の誰でもない自分自身に感謝して、
過去から現在そして未来の自分を許すのが先ではないか。

39.逆さにすると間違う
 自立している人は暖色が好きで、
そうでない人は寒色を好むという話があり、
自立したい人が自立するために
暖色を好きになろうとする話になってきた。
肝臓の悪い人はコーヒーを飲まないという統計を見て、
コーヒーが肝臓に悪いからと考えることはせず、
肝臓を良くするためにコーヒーを飲むようなものだ。
出会いと言うのもまず最初に出会いがあり、
目的のない出会いの後だからこそ得られるものなのに、
それと同じものを得る目的が先にあって、
次にその目的に叶う出会いを求めても
何も得られないことがわからないのだ。
私はどの色にもその色ならではの魅力を感じる。
自分がなりたい人の色の好みで
暖色だけを肯定して寒色を否定するのはおかしい。
寒色のおかげで暖色が引き立つのもあるし、
寒色の長所も暖色の短所もある。
自立した人が暖色を好むという理由で、
自立していない人が自立するために
わざわざ暖色を好きになろうとするなんて、
つまらんものに一々左右されてそれこそ自立できないだろう。
それどころか、寒色のほうが自立のイメージだ。
何が誰が何でどうであろうと、自分はどう感じて
どう思うかを基準にするのが自立ではないか。

40.あるべき自由、要らない義務
 母に限らず人をずっと信じてきた。
人を信じることの大切さを説く話を耳にすると、
「またか」とうんざりする。
人を信じられなくなったことを嘆く話も同様だ。
信じられないならそのまま信じないだけのことだ、
信じないことも疑うことも必要だから。
ただし、信じてあげることが
自分の損失にならないなら信じてやってもよい。

 「無視」を最強の暴力だと書いた人がいた。
無視を嫌がる人はけっこう多く、
返事や反応が煩わしい私にとって不可解だ。
彼らは私に不用品を押し売りして、
私はどうやって拒否するかさんざん悩んた後、
要らないものを押し付けてくるのを
拒否する必要もないと思った。
無視できないのは、私が母に絶対に
してはならないことだったから。
無視を非難する母の考えを
無理に受け入れようとしていたわけであり、
そんな考え方こそ要らないなら、
それでも無視すればいいだけの話。

 迷惑勧誘を断ったり拒否する理由を言う必要はないのに、
理由を説明する義務があると思ってしまう。
すぐに断れず無視するのも困難なのは、
拒否や無視を許さない有害な親の悪影響だと私は思う。
 混雑時とても邪魔な、道端で配っているチラシも、
避けて通るのに無理があって彼らの前しか通れなければ、
受け取らないまま通り過ぎるのは難しい。
荷物で手がふさがって物理的に無理でも
彼らはぎりぎりまで強引に押し付ける形になる。
 関係ないが自転車も似たようなところがある。
お互い不本意であったとしても、
歩行者側が譲って当たり前の形になる。
歩行者の目には自転車が強引に
突っ込んでくるようにしか見えないが、
自転車側は直前で止まるつもりなのだ。
 そういうものにはぶつかるのを覚悟するか、
邪魔な物として手で押し退けるしかあるまい。

「無視」が最大の敵になるのは、
自立した人に依存する甘ったれたガキとか、
卑劣な手段で人を利用する者どもだ。
そう考えることができた時、
不可解な法則を解明したような気分になった。


41.被害の内容
 昔から長年、親に乗っ取られて操縦されてきて、
もう充分手遅れかもしれない最近になって初めて、
そんな資格のない親を自分の操縦席から
引きずりおろしたのまではよいが、
自分を操縦する資格のある私自身は、
親の都合でおぞましい構造に成り果てた自分を
適切にコントロールするには困難を極める。

 親が悪質有害だった場合にいちばん困るのは、
常識や礼儀やマナーを知らない、わからないことだ。
幼い時から親の悪質さが普通の感覚になっていて、
家庭の外でもその感覚で他人と接して、
とんでもない恥をかいたり人を傷つけてしまう。
そういうことをその場ですぐに
注意したり苦情を言う人はまずいない。
あるいは後で誰かを介して伝わってくる。
間接的に言われて自分のしたことを振り返って
初めてその悪質さを自覚した時には完全に手遅れだ。
少なくとも一通り親と同じ悪質有害なことを
誰かにしてしまってその結果に気付かなければ、
何が悪いか自覚できないのも困ったものだ。

 親に私物化され利用されていると
自己犠牲的ルールに縛られる。
「人(実は親だけ)」の勧誘や節介や干渉を受け入れ従うべきだ、
怒りや悲しみなど負の情を感じてはいけない、
言われる前に「人」の気持ちを察して期待に応えるべきだ、
「人」のためならどんな犠牲も払うべきだ、
何事も常に全力で頑張り続けるべきだ、
「人」を全面的に信じるべきで疑ってはならない、
言いだしたらきりがない。
親に反抗どころか絶対服従しなければ痛い目に遭うことを思い知り、
親のルールを世間一般に通じる礼儀やマナーだと信じるしかなかった。
親の監視や制限があるため、
親の支配の及ばない人たちと知り合うことも難しく、
有害な習慣に気付くチャンスもない。
親の支配を逃れるという最初の難関を脱することができても、
こういう問題に気付いて意識して修正できなければ、
親と同じような悪質な人間たちに弱みを握られ利用されやすい。
カルト宗教や押し売りや悪質商売も断れない。

42.自立に対する抵抗
 有害な親との関わりを絶たない限り、
子は自分の幸福を考える余裕もない。
自分の幸福を排除して親より不幸になって
親を慰めて親の問題を代わりに背負って
自分の人生を捨てる人が多いのにはあきれた。
社会問題はこういう親が元凶ではないか。
そんな親という名の餓鬼からまず逃げきって、
それでもつきまとってくるようなら容赦なく捨てて
自分の幸福を優先するほうがどれほど自分、
いや、世の中のためにもなるか。
それでも子の個人情報は親の名で調べられるし、
親は子にストーカーよりやりたい放題できる。
そういう親に情けをかけたり許せば
確実に人生や人権を侵害されるだろう。
自分で得た仕事も趣味も生活も財産も
精神的に大切なものも親にむしり取られる。
就職と結婚で物理的独立していながら精神的自立できないのは、
何が親の問題か判断して代わりに背負うのをやめない限り
自分の問題や責任も正しく自覚できないからだ。
とっくに大人になった子をいつまでも親の名で
支配して利用しようとするクズ人間が何をしても、
悪質商売やカルトと同じように対策くらいできて
初めて人間らしい最低の生活が可能だろう。
そんなこともせず相変わらず嘘だらけの親を信じて屈する限り、
あらゆることで後々非難されるだけでなく、
残された未来の時間まで親の欲求のために奉げることになる。

 昔の私は良い人だった。
昔の私が良い人だった原因は母の害毒だ。
母のために自分のすべてを犠牲にすることが、
母の周囲の他人にとっても都合良いことがあるからだ。
言い方を変えれば外面が良く周囲の大人によくほめられた。
そして、それだけ内面は真っ暗で恐ろしかった。
当時の私にとって外面というのは
自分だけの秘密の時空以外すべてなので、
内面を知る人は誰もいなかった。
 要するに、カルト団体や有害な親や宗教に支配されているほうが、
表面的人格とか性格が良くて問題が表面化しないから。
昔から周囲に良い子と言われた人が犯罪者になることがある。
自分以外の人のためだけに生きていると逃げ場を失い、
誰かを殺すしかないところまで追いつ詰められる。
暴力の支配から脱しようと頑張ると
「悪い意味で変わった」「わがままになった」
「昔は性格良かったのに」などと批判される。
周囲の人たちのためだけに自分を犠牲にするのをやめて、
周囲よりまず自分を大切にして自分のことを考えて生きるのだから。
それが自立、自分のために自分で生きることだ。

43.やっと初めてできた
 宅配を装う押し売りが来た。たまたま夫が在宅していて、
いとも簡単に断ってくれた。
私の母はこういう押し売りに似ている。
その商品は物ではなく母自身の存在価値だが。
 親がどんなに嫌な人間だからって
関わりたくないとか縁を切りたいと思っても、
親というものはどうしても関わらなければならないことがあったり
縁を切れないのが現実で、
だからこれからどうするかという話を読んだ。
親は子の弱みを利用して支配するのに慣れていて、
子のほうも支配され利用されることに馴染んでしまっていて、
なかなか適切な人間関係に持って行けない。
読んだ本では、自己防衛的にならない対応の仕方というのがあった。
それは、親の問題は親自身が責任を持つしかなくなる、
当然の適切な対等な関わり方が可能になる方法だ。
こんなことを意識したことがなかった。だから、
押し売りも簡単に断れなかったのだ。
相手と自分の間に譲れない境界線を自分で決めて
それを越えてくるものをしっかりはっきり断る、
ただそれだけのことなのだ。

 迷惑セールスや宗教の勧誘をいとも簡単に断ることができた。
夫がもともとそういうものを簡単に断ることができるので、
彼を見習うことで私にも可能になった。
しかし、誰かすぐにわからない電話や訪問に一度出てしまうと、
そういう相手はすぐに何かわからない変な話を始めたり、
宅配や知人を装ったりするし、
こちらが一言でも返事するとますますつけあがるので、
最初から無視するか、気付いた瞬間から無視するか
「二度と来るな」で終わらせたいものだ。
 それと、スーパーに入り込んで迷惑セールスをしているやつもいる。
無視するほうが悪いと思わせるような話し方をするので、
仕方なく話を聞いてやっても無視しても不快感は満点だ。
その押し売りに「要らないって言ってるだろ!」と
怒鳴らなければならなかった。
そういうものがいるスーパーには二度と行かないことにした。

 答える義務のないことを、初めて黙って無視できた。
わざわざ書くのも恥ずかしいほど些細なことだ。
 私が夫に何か話しかけた時、聞こえないことが多い。
聞こえないと本当に困る内容ではないのに、
聞いてもらえないのは悲しい、
それだけのことで私は激怒してしまうことがある。
怒ってしまうのは、一度や二度ではなく
何度言っても聞こえないことが続くからだ。
いったい何度言えば聞こえるのだろうと疲れてしまうので、
一度言って聞こえないなら、二度と言わなくてもよいなら
どんなに楽だろうと思っていた。
相手が聞こえないのは私のせいで、
相手が聞こうとしてくれているだけでも
ありがたいと感謝しなければならなかった。
私は母の奴隷であり夫の召使いなのだから。
そういうことも自分の心の問題として解決しようとしてきた。
そして今初めて、聞こえなくても本当に困るわけでもないことは、
一度言って聞こえないなら二度と言わなくてもよくなった。
夫なんかは聞こえないふりをしていたことも最近わかってきた。
最近何度か、二度同じことを言うよう求められた時、
面倒なので黙って無視していたら、
実は聞こえていたらしく夫からその言葉を確認してきた。
しかし、私が聞く場合は夫は二度と自分から言わないし、
私のほうから一々確認していた。
これからは私も夫と同じ態度をとるようにすると、
夫のほうから確認してくるようになるかもしれない。

44.余命一週間だから何?
 昔、ネットの掲示板やチャットで私のハンドル宛に
「友人になってやるから承認しろ」などいう無礼な
メッセージを送ってきたやつがいた。
ネット上だけの関わりだから顔を知らないのは当然だし、
チャットで挨拶もしたことない初対面に等しいやつのことなど
礼儀正しくても無視するのが普通だろうが、
毒親に虐げられてきたおかげで、まともな
人間関係の常識的ルールに無知だった私は、
わざわざ拒否の返信を送ってしまった。
すると今度は、そいつの友人だという別のやつから、
「あいつは余命一週間だから…」という文句が来た。
「だから何?」と思ったが私は返信せず、
着信拒否の設定にしたのは、今でも正解だ。
しかし、相手の言いたかったことは、
「余命あとわずかだから友達になってやって欲しい」
ということだったのだろうか。いや、
もしそうなら「あんたが友達になれば?」になるだろうし。
あのチャットにご丁寧に返信すれば、
くだらないことを延々とやりとりしている間に
やつの寿命が先に尽きただろう。
しかも、余命の日数が嘘なら私が先に死にそうだ。
「余命××だから…」という言葉の影に私は、
「どんな迷惑も許してほしい」という要求を感じる。
優しそうな私なら受け止めてくれると思ったのだろうか?
「さっさと死ね、バカ野郎」と今でも思う。

45.珍しく正しいことを学んだ。
 自立させる子育てする犬や猫や鳥の方が毒親より優れている。
産みっぱなしで育てるどころか虐待などするのは害虫より劣悪。
 親かどうか認めるのは子供の側の意思にある。
子供に真の愛情を注いで尊敬されてはじめて親になれる。
 毒親は産んだだけで親面する。いや、正しくは「神面」する。
「親」なんて偉くない一種の愚者であるという事実を
毒親は知らないか認めず、「親」という言葉だけでやたら偉そうにする。
本当に偉いのは「神」と「子」である。
意識できない心の奥底で毒親は自分の有害さを知っているが、
そういう認めたくない真実を否定しようと躍起になる結果、
わざわざ、まるで神様のように偉そうな態度として表れる。
 この考えを自分に当てはめると、父は私の親だが母は害虫未満。
毒親を「クズ」というには遠慮し過ぎた表現であり、
まさに害虫より劣悪だから駆除したほうがよいが、
「命は尊い」という信仰のおかげで駆除対象にならない。
こういう話になるのは、人や命に付ける「尊厳」の意味を
正しく理解していない証拠であるらしい。
 毒親のことをただ「毒」と表す人もいるが、
ただの毒は薬になり得るが、親の毒は有害でしかない。
今のところ「害」が自分には合う気がする。
Lucy

悪口コレクション

悪口コレクション

嫌な人の話です。

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 青年向け
更新日
登録日
2012-08-03

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted