時よ、止まれ
なみだの海、だ、
きみが流した、なみだが、海になった、
夜、
二十三時、
アパートの一室、
六畳間、
泳げない、ぼく、
なみだの海におぼれる、
だなんて、詩のような表現が、あたまに浮かぶ、
よる、
にじゅうさんじ、
いっぷん、
ぼくのことを、かわいい子、と呼ぶ、きみの髪は、
バニラアイスクリーム、
ぼくがさわると、溶けるよ、
二十三時、二分、
きみが流した、なみだ、の海にあらわれた、魚、貝、それから、人魚、
ゆめを、みよう、
きみが言う、
ぼくは、うなずく、
ねむろう、
ぼくは思う、でも、水がある、
し、
しぬ、かも、しれない、ね、
ぼくは、ほほえむ、
きみの、からだのなかで生まれ、流れた、なみだのなかで、ねむったらおぼれて、しぬ、ことを、ぼくがこわい、と、微塵でも思っていることを、きみに知られたら、きみが傷つくと思ったから、ぼくは、ほほえんだ、
しなない、ことは、わかっているのだけれど、
ああ、うつくしい、な、
ぼくは言う、
きみが、たゆたっている、
きみが流して、できた、なみだの海のなかを、きみは、両手をひろげて、足をぴん、と、のばして、たゆたっている、
うつくしいひとが、好きだ、
異性でも、同性でも、
美醜の基準は、ぼくの好みである、
うつくしい、と、大多数がくちを揃えても、
ぼくには、みにくい、と感じるものがある、し、
あれはみにくい、と、誰かがささやいても、
ぼくにとっては、うつくしい、と感嘆するものが、あるよ、
部屋の底、畳だったはずのそこに、きらきらしたものが、しずんでいる、
石、か、
砂、か、
くだけた、きみの人差し指、か、
ぼくのことを、かわいそうだと、いわないで、
きみが言う、
そして、泣く、
泣かないでよ、おねがいだから、
ぼくがきみの手を、ひく、
きみのからだを、ひきよせる、
だきしめる、
部屋から水が、あふれちゃう、から、
もう、泣かないでよ、
うそ、
ほんとうは、もっと、泣いていいよ、
二十三時、四分、
人魚が優雅に、泳いでいる、
きみよりも軽やかに、
長く、うつくしい髪を、おしみなく、みだしながら、
水のなか、だということを、わすれてしまいそうになる、
カラフルな魚たちが、たわむれている、
無邪気だね、
ぼくの腕のなかで、きみが言う、
ふたりだけの世界だね、
ぼくが言う、
きみのからだは、胸が、はりさけそうなほどに、細い、
ふたりだけの世界は、あおく、あおく、
どこまでも、あおく、
あおのむこうに、部屋の壁にかけてあるカレンダーが、みえる、四月、
永遠に続けばいいね、この時が、
きみは言う、
ぼくが魔法使いだったら、時を止めてあげられるのに、
ぼくは言う、
人魚がくすくすと、笑っている、
魚たちが楽しそうに、踊っている、
心中未遂をした、という、うわさのせいで、学校をやめた、きみ、
冬の、学校のプールで同級生の、美術部の女の子とおぼれているところを、助けられた、きみ、
恋人同士と勘違いされた、きみと女の子、
女の子から、別れ話を持ちかけられたことに腹を立て、女の子を道連れに死のうと、きみがやったことではないのか、という疑いを、一部のおとなにかけられた、きみ、
もちろん、女の子を道連れにするどころか、女の子とは恋人同士でもなんでもない、ただの同級生でおなじ部活に所属している関係、でしかない、きみへの疑いはすぐに晴れたが、心身ともに傷つき、学校にいることを苦痛でしかないと感じるようになった、きみ、
ほかにも原因があったようだが、ぼくには話してくれない、きみ、
なみだで海を、つくれるようになった、きみ、
「水のなかの方が、おちつくんだ、魚たちはいたずら好きだけれど、やさしいし、水のなかでは、ひみつにしておきたいことをもらしても、誰にきかれる心配もない、魚たちはおしゃべりだけれど、すぐに忘れてしまうよ、もらしたひみつは、泡となって、いずれ消える」
アパートの一室、
六畳間の、水槽、
四月九日、
二十三時、五分、
だきしめる、きみを、
指の先から、ぽろ、ぽろ、と崩れ落ちてゆく、きみを、ぼくはただ、どうすることもできずに、だきしめる。
時よ、止まれ