個性と孤独
ぬりつぶす、世界を、紅茶をのみながら、コドクをかむ。
かんで、味がなくなったら、紅茶といっしょにながしこむ、からだのなかへ。
パソコン、という機械は、べんりだ。
知らないことを、知ることができる。
すぐに、あっ、と言う間に、図書館に行かなくても、いい。
それが、なんだかいけないことのようにも、思う。
不正をしているわけではないにも、かかわらず、米粒ほどの罪悪感に苛まれるときが、ある。
それからインターネットで、なんだか、じぶんと似ている思考のひとが、じぶんよりちやほやされているのを、みたとき、こいつなんかより、ぼくのほうが、という感情が芽生えるとき、嫉妬、という炎に、焼かれて死ねばいい、とか、思うよ。
ぼく、というにんげんには、生きている価値などない、と感じる瞬間、ぜったいに人生に一度は、あるよ、誰にでも。
あの、あのさ、でも、べつに、ぼくはちゃんと、生きているんだよ。
なに不自由なく、ということはなく、誰にでも不自由なことはあって、それは大きいのから、小さいのから、大変なことから、そんなに大変ではないことまで、いろいろあるけれど、それって外側からは結局、判断することはできなくて、他人から見たら小さいことでも、そのひとにとっては大きいことかもしれないし、他人からしたら大したことではなくても、そのひとにしてみたら大事なのかもしれない、決めつけるのはよくないよ、ってこと。
才能があるひとのことを、うらやましく思うのって、当たり前のことよ、にんげんはみんな、じぶんにないものをほしがる、だってすでに持っているものは、いらないじゃない、と言ったのは、はんぶん動物のひとで、はんぶん動物のひとは、下半身が馬や牛のそれで、上半身がにんげんだった。
そう説明されたとき、でも、にんげんだって動物だし、つまりキミって、動物のひとだね、と言ったら、おこられた、それじゃああなたたちにんげんと、おんなじじゃない、って。
そういえば、ぼくが紅茶をのむようになったのは、はんぶん動物のひとが、紅茶をのむひとだったから、ぼくは、はんぶん動物のひとのことを、尊敬していた。
はんぶん動物のひとのように、なりたかった。
だから、はんぶん動物のひとが好きなものを、好きになろうと思った。
でも、どうだろう。
いまのぼくは、はんぶん動物のひとの、二番煎じみたいなものではないだろうか。
はんぶん動物のひとの、言葉は、いつも不特定多数のにんげんを、魅了した。
はんぶん動物のひとの言葉には、なにか魔力のようなものがあり、読んだものを圧倒し、まきこみ、焼きつけた。
あこがれた。
はんぶん動物のひとの言葉は、めちゃくちゃだった。
形式というものがなかった。
それがよかった。
感動させようとか、楽しませようとか、わくわくさせようとか、ほっこりさせようとか、そういう気がさらさらないのは、一目でわかるのだった。
はんぶん動物のひとはおそらく思いついた言葉を、そのまま書きつけているのだった、吐き出しているのだった。
それがはんぶん動物のひとの良さであり、その良さをわかるひとは、現代には少ないのだった。
まわりのにんげんとはちがう、個性的、少数派、という言葉が好きなにんげんだけが、陶酔した、はんぶん動物のひとのあたまのなか、世界。
ぼくは、ひととちがうことをしたい、けれどもニュースやワイドショーで取り上げられるような、まちがった目立ち方はしたくない。
じぶんが注目されるためにひとを傷つける、という選択肢は毛頭ない。
誰にも迷惑をかけず、誰もやっていないことをやって、ぼく、というにんげんが想像する世界を、空間を、一瞬を、発露する、描く、色をつける、音にする、言葉にする、文章にする、組み立てる、壊す。
紅茶をのむ、パソコンで日記を書く、それをインターネット上に公開する、紅茶をのむ。
あたまがおかしいひとだって、どうか読む前から、決めつけないでほしい。
個性と孤独