羨望

坂下康介は八畳一間のアパートに帰宅すると、すぐに湯を沸かし、履いていた靴下を洗濯籠に投げ入れた。近くのスーパーで売っていたうまかっちゃんラーメンを鍋に投入すると、急に人の声が恋しくなりテレビの電源を入れて部屋の静けさを緩和させる。
東京で小中高と育ち大学時代も都内の中堅大学で過ごした康介は、新卒で中小のサッシメーカーに入社した。元々口下手で特に理想もなかった康介は就職活動も振るうことなく、唯一内定をもらった現在の会社に入社することを決めたのだ。
小学生の男児が"しつけ"と称して山に置き去りにされ、行方不明になったというニュースをぼんやり見ていると、先ほど麺を投入した鍋の水が踊るように沸騰していた。康介は慌てて火を止め、この家に一皿しかない丼ぶりに鍋のお湯を注ぎ入れた。量が多すぎたせいか溢れたお湯で火傷をした。
初めの配属先として赴任してきたのがここ福岡で、初めこそ新生活にウキウキしたものだが、縁もゆかりもなく友人の一人もいない新天地での生活は、一、二か月もすれば単調でつまらない生活に変わっていった。
親が怪しいよなあとテレビ画面にぶつぶつと呟いても、聞こえてくるのは眉間に皺を寄せたニュースキャスターの渋い声だけだった。

康介は仕事が終わると、市街地の中心にある大画面モニター前に向かった。地元の人はここを待ち合わせ場所にして、それぞれの目的地に向かう。それは、配属された部署の新人歓迎会で5年目の先輩に教わった。
「すまん!待った?」
振り返るとそこには、大学時代バンドサークルで同期だった佐藤和義が立っていた。
「いや、おれも今着いたとこ。カッちゃん何か食べたいものある?」
「お前もすっかり社会人だなあ。美味しい博多料理食べさせてくれよ」
大学時代と変わらぬ無垢な笑顔で、カッちゃんはネクタイを緩めた。カッちゃんは大学卒業後、大手広告代理店に入社し1年目のこの時期から出張で全国を飛び回っていた。

「いやーもう既に辞めたいわー。仕事どんな感じ?」
「まだ上司に同行して挨拶回りしたり商品の勉強してるだけよ」
「まあそんな感じだよなー」
カッちゃんは既に一杯目の生ビールを飲み干し、メニューを眺めて次のドリンクを考えていた。
「二杯目はレモンサワーだろ?」
「さすが坂ちゃん。分かってるね」
カッちゃんはバンドサークルで代表を務め、新潟出身の酒豪として誰からも愛される酒飲みとして慕われていた。康介はそんなカッちゃんに憧れていた。
久々の再会ということもあってか、二人は煽られるように酒を飲み進めた。サークルの思い出話、仕事の愚痴、最近風俗で大ハズレを引いただの、くだらない話まで、話は尽きなかった。

「カッちゃんってさ、あの時本当はどう思ってたの?」
「お、なんだなんだ。もう酔いが回ってきたのか?」
康介は一度カッちゃんのことを裏切ったことがあった。大学二年生のとき、カッちゃんが可愛がっていた有希ちゃんという一年生の女の子と関係を持ち、挙げ句の果てに気まずくなった彼女は康介たちのサークルを辞めてしまった。康介はそのことをこの3年間ずっと悔いていた。
「俺は別に何とも思っちゃいないよ。本当に」
カッちゃんは間を埋める様に三杯目のレモンサワーを空け、日本酒のメニューを手に取り眺めていた。
「坂ちゃん、俺はね。思うんだけどさ、人って元来持ち合わせているポジティブだったりネガティヴだったりっていう性格があると思うんだよ。そういうのが、人生の中で起こるいろーんな出来事を通して少しずつ複雑になっていくと思うんだ」
康介は意味が分かるような分からないような顔をしながらカッちゃんの顔を見つめていた。
「カッちゃん。俺は謝りたい。俺はカッちゃんにも有希ちゃんにも本当に悪いことを」
「いや何が言いたいかというとね、お前はあたかも複雑で繊細なハートを持ってますっていう顔で俺の顔を見つめてるけどさ、それは違うんだよ。もっと認めろよ。もっと単純で面白くない頭の作りしてますよって。
いや違うのよ。俺だってそうだし。俺もあのとき悲劇のヒーロー気取ってさ。自分がこの出来事を通してより強い人間になってさ、あたかも自分が物語の主人公みたいな風に思ってた。この世の不幸を全部知ってますって具合に」
康介は黙って、最後の日本酒をカッちゃんに注いだ。最後まで分かるような分からないような顔でカッちゃんの話を聞いていた。
「だからさ、お前もそんなに何かを分かったような顔で話を聞くなよ。俺が話しづらくなるだろ」
カッちゃんは冗談めかして康介に笑いかけ、最後の日本酒を飲み干した。

朝起きると、昨晩カッちゃんから勧められた日本酒のせいで、頭の中でガンガン誰かが喚いているようだった。それを誤魔化すためにテレビを点けると、行方不明の男児が近くの山小屋で無事に発見されたというニュースが各局のワイドショーを賑わせていた。
その行方不明だった男児はなんと一週間もの間、水のみで空腹をしのいだという。画面の中のスタジオでは、この出来事がこの男児のトラウマとなって悪影響を及ぼすとか、逆に心を強くする良い経験になったとか、さも意味がありそうな用語や過去の例を用いて活発に議論を交わしていた。
中心のニュースキャスターは、やはり分かったような分からないような渋い顔で、頷くばかりだった。

羨望

羨望

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-04-08

CC BY-NC-ND
原著作者の表示・非営利・改変禁止の条件で、作品の利用を許可します。

CC BY-NC-ND