*星空文庫

ウィスキー

北城 玲奈 作

 きょうは久しぶりに晴れた。台風と、秋雨とで、東京の空はながいこと隠れていたのである。私は良い天気のほうを好む。だいいちに、干したものがよく乾く。よく乾くので、よいにおいに仕上がる。

 においというのは重要である。私のような貧乏学生は、新書を買うお金がないので、よく古本屋に行く。大学の図書館にも行く。そこで選び選びして、何冊か部屋に持ち帰るのだが、開いたとたん、ぱたんと閉じてしまいたくなるようなにおいをもつ本というのがある。がまんして読んでも、あんまり鼻につくので、そのうち話の流れや言葉遣いまで、なんだか臭いような気がしてかなわなくなって、やっぱりぱたんと、閉じてしまう。どういうわけか、この種の本には、ロシア文学の訳本が多い。このせいで、チェーホフも、トルストイも、駄作ぞろいの小説家になってしまった。ツルゲーネフのはつ恋は、私にとって、粘膜にへばりついて離れぬ、かるくとげとげした臭を思い起こさせるしつこい小説である。

 逆に、甘くよいにおいのする本というのもある。そういう本は、得をする。いかにやけくそで、要領をえない話であっても、なんとなく人懐っこいような感じを与えるのである。本当は思うことも、伝えたいこともあるのに、わけあって適当にふるまえない作品と、その作者。せまく散らかった六畳一間に、寝癖もそのまま、片膝立てて原稿用紙をにらむ若者がいる。どうしても、思い浮かばない。ペンの尻で頭を掻こうとして、右手をふりあげる。途中で、机からコップのはみ出ているのに気づくがもう遅い。よれた袖口はコップの底をひといきに持ち上げ、その重みがまたコップ自身にゆだねられるのを感じると、するりと手放した。とん、と軽い音がし、次いでそろそろと、残っていたウィスキーが机上に広がっていく。液体がしだいに原稿用紙に到達していく様子を、右腕をあげたまま、若者はじっと眺めるのである。どうせ、考えたところで。机の淵から滴りそうになっているのを、ゆっくりすくって舐める。どうせ、考えたところで、コップは倒れる。また別の淵にもいよいよこぼれそうな液だまりを発見したが、少し手を伸ばさねばならなかったので、見送ることにした。

 「いや」と若者は小さくつぶやいた。いや、自分は、むしろ、考えたからコップを倒してしまったのではないか。事実、そうである。考えなければ、頭を掻こうとしなかったし、頭を掻こうとしなければ、袖口はコップにひっかからなかったのだ。ならば、考えないほうがよい。そうして若者は、またひとすくいして、寝っ転がった。

 この本のよいにおいは、そのときのウィスキーの香なのである。こんなようなことを、晴れた日には思う。

『ウィスキー』

『ウィスキー』 北城 玲奈 作

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2017-04-07
Copyrighted

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