未定

私は死んだ。しかしなぜ死んだかはよく覚えていない。ふと気がつくとそこは”天国”と呼ばれる場所だった。しかし”天国”といっても、そこは生前思い描いていたような雲の上の世界というわけでもなかった。
 街には昭和の終わり頃のような小さな商店街があり、公園では中年の女性が世間話をしている。市役所もあるし郵便局もある。ここはいたって在り来たりな小さな町のようだった。
 
 ここに来たばかりのころは、とてもここが天国だとは信じられなかった。人々は会社に通い、帰りには同僚と居酒屋に行く。話をした町の人々はとても人間味のある人々であったし、飯を食わなければ腹も減る。まるで生きているときと何も変わらないのだ。
 
 天国では、盆に生きていた世界に帰るために働く。労働では賃金はもらえず、本来物と交換するはずの貨幣の類はなく、物は全てが無料。ただ帰るためだけに労働を行い、賃金の換わりになるポイントを一定までためることで帰省資格がもらえる。
 その例に漏れず、私も働いていた。私は生前さえないサラリーマンだった。しかしこの世界では郵便局で働いている。仕事はきついが、その分ポイントがたまるのが早いのだ。
 私が死んだ春先から盆までの期間を私は懸命に働いた。私にはどうしても元の世界にいかなければならない理由がある。

 私は妻と実家で暮らしていた。子供はまだいない。実家で生活をしており、私の父は未だ現役の教師である。私が死んでも生活に苦労をすることはないだろう。
 妻と出会ったのは大学生の頃だ。友人の仲介で出会った私と妻は、すぐに意気投合した。大学を卒業しても交際は続き、二十六歳で結婚。
 しかし私には一つだけ”後悔”のようなものがあった。ある日妻に”タバコをやめてくれ”と言われ、つい怒鳴ってしまったのだ。私が死んだのはその直後であるから、おそらくはそのことを妻にまだ詫びていない。ただその後悔だけが私が帰りたい理由であり、私を動かす原動力となっていた。

 
 そして私は元の世界へと返ってきた。労働点数が少なかったため、二日間のみの滞在しか出来なかったが時間としては十分だった。
 しかしうまくはいかないものだ。…いやうまくいかないというのは、私の状態のことではなく精神的な話であるが…。
 私はどうしようもないことに、滞在期間の一日を近所の公園で過ごしてしまった。自宅の近くまでは行ったのだが、直前になって引き返してしまった。自分でもどうしようもない人間だと呆れてしまう。
 
 近所の公園では子供が走り回っている。しかし今の私は言うところの”幽霊”であるので、こちらに気がつく人間はいない。
「どうしたものか…」
 どうでもいい独り言をつぶやくが、周囲に聞こえる事はないのでその点だけはありがたかった。この場で私が恥ずかしい独り言を言おうが、仮に全裸になろうが周囲には私は見えない。
「すまない…あの時は僕が悪かった…」
「怒鳴ってごめん」
「許してぴょん☆…馬鹿か僕は…」
 一人で妻への謝罪の言葉を口に出しつつ考える。しかし考えすぎて思考が迷子になってしまう。人に誠心誠意謝る事ほど難しいことはない。このときほどそのことに悩まされ他のは初めてだろう。
 私の人生に挫折などはなかったのだ。昔からそうだった。意図して他人に害をなすことはしなかったし、ミスをしないための努力も惜しまなかった。
 しかしそれがこのような形で私を苦しめているのだから、私の人生は案外そのものが失敗だったのかもしれない。


「若いの…隣いいかい?」
 私に声を掛けてきたのは一人の老人だった。老人はベンチを指し私に同意を求めている。それを断る理由もなく老人に少しばかりの空間を譲る。
 老人に席を開けると、再び私は妻への言葉を考える。それを口に出しては言葉の否定を続ける。
「お前さん…なにをぶつぶつ言ってるんだ」
 隣から老人が訝しげな顔で私に聞く。私は老人に謝ると、心の中でもう一度妻への言葉を考え始める。
「?」
 私の内心に一つだけ疑問が浮かぶ。今この老人は普通に私に話しかけなかっただろうか?私は幽霊あり、普通の人間には見えないはずだ。
「…はは…そんなわけないか…」
「何がじゃ?」
 老人は私の言葉に反応する。いかにも可愛そうなものを見るような目で私を見つめている。この老人には私が見えているのだろうか。
 いやそんなことはないはずである。生きている人間に私が見えるはずはない。内心で否定しつつも私は老人に確認する。
「あの…まさかとは思いますが…僕のこと見えてます?」
「何を言っておる…見えているに決まっているだろう」
 老人は不思議そうにこちらを見ている。会話が成り立つということはこの老人が見えていることは間違えがないらしい。
 私はしばらく老人の顔を見ながら考え、そして一つの結論にたどり着く。
「なるほど、あなた幽霊ですね」
「馬鹿もん!誰が幽霊だ!。わしはこの通り生きておる!」
 老人は私の頭に拳骨を入れると、そう否定する。”見える”上に”触れる”老人の存在は、私の思考が追いつかないほどに混乱させる。
 しかし目の前の老人は何者であるかなど死んで数ヶ月の私には分かるはずもなかった…

「お前さんはさっきから何を悩んでいるんだ?」
 私の隣に座る老人は尋ねる。私が頭を抱える理由に老人のことが一割でもないわけではないが”あなたのことです”などとはいえるはずもない。故に私は妻のことだけに脳を使うことにした。
「いいえ…たいしたことではないのですよ」
「それにしては悩んでるな。言ってみろよ」
 私は見ず知らずの老人に妻との事を話す。もちろん私が幽霊であることを除いて。そうでもしなければ老人の追及は止まりそうになかったし、私自身一人で考えることに限界を迎えていた。

「そうか…。嫁さんと喧嘩ねぇ…」
「えぇ…お恥ずかしい話ですが…」
 老人は腕を組み考える。辺りはいつの間にか夕方になり、周囲で遊んでいた子供はもう帰り始めていた。
 私はポケットからタバコを取り出す。天国ではタバコは無料であった。その点だけは”天国”といっても差支えがない。
「俺もなぁ…昔ばぁさんとよく喧嘩したよ」
 老人は笑いながら話す。しみじみと昔を思い出す彼の顔はどこか生き生きとしていた。
「奥様とはどれくらいになるんですか?」
「50年は一緒にいたなぁ…。でもよ…去年ぽっくり逝っちまった」
「そうですか…すみません余計なことを聞きました…」
 私は老人に謝罪する。老人は故人のことを考えているのかどこか遠くを眺めている。私も空を眺める。その日の夕暮れは、流れる雲がとても美しく見えた。
「ばあさんはさ…死ぬときまで俺のことを心配してたんだぜ…。酒はやめろとか、飯はきちんと食べてるかとかさ…。自分はベットで死に掛けてるってのに俺のことばかり気にしてやがった…」
 老人は語る。老人とその妻の仲は悪いわけではなかったらしい。もし私がもっと長く生きていればそうなれたのだろうか?。私はなくなってしまった選択肢について考える。
「でもよ…。俺はばあさんの死に目に会えなかった。言ってやりたいこともあったんだ…。でも、もうそんなことは言ってやれねぇんだって気づいたのはばあさんが死んでからだった…。俺は気がつくのが遅かったんだよ」
 老人は空を見上げる。彼の目には少しだけ涙がたまっていた。
「要するによ…。”お前は俺みたいになるな”ってそれだけなんだよ…」
 老人は少しだけ微笑みながらそういう。私は一つ頷き立ち上がる。
「ありがとうございました。…行ってみます」
 笑顔でそういうと、老人は笑顔で返事をする。老人に頭を下げると、私は自宅へと足を進めた。

 自宅についたころにはもう夜だった。自宅には妻が一人だけで、私の両親は不在だった。久しぶりの自宅。リビングの隣には小さな真新しい仏壇が設けられている。飾られている写真は私だ。
 妻は少しだけやせた気がする。最期のころをよく覚えていないからかも知れないが、私にはそう思えた。
「なんていうべきなんだろうな…」
 キッチンで洗い物をする妻を前に私は少しだけ決心が揺らぐ。彼女に賭ける気の利いた言葉がどうにも見つからない。まぁ相手には聞こえないのだが…。
 考えていると、妻はリビングに置かれた椅子に座る。ちょうど私がいる位置からは正面である。妻は何をするわけでもなく椅子に腰掛け何かを考えている。
 私は意を決する。残り時間はもう少ない、それならばいうのは今しかないだろう。
「なぁ聞いてく…」
「ねぇなんで死んじゃったの」
 私の言葉を妻が遮る。妻の視線はこちらを向いている。
「お前も…僕が見えるのか?」
 妻は立ち上がりこちらに歩いてくる。私は今日老人に見えていたそれならば妻にも私が見えるのではないか?。
 しかし私の考えも虚しく、妻は私の隣を通り過ぎる。行く先は私の遺影の置かれた仏壇だった。
「そうだよな…そんなに都合よくはいかないよな…」
 私は正直に落胆する。妻は私の仏壇の前に座ると、線香を一本上げる。
「あなたが死んで三ヶ月…私は寂しいけれど何とか生きてるよ…」
 妻は仏壇の前で独白する。
「喧嘩したままあなたが死んじゃって…結局言えずじまいだったね…」
「僕も君に謝れないままだったよ…本当にごめんな…」
 私は妻に頭を下げる。しかしこの言葉が妻に届くことはない。私はもうこの世の人間ではないのだから…。
「あなたに”タバコをやめてって”あの時私が注意したのが駄目だったのかなぁ…」
「僕が君の言うことを素直に受け入れていれば喧嘩別れなんてしなくて済んだのに…」
 妻の言葉に私は一人言葉を返す。この言葉が妻に伝わればどれほど良かっただろうか…。しかしその後悔すら今では虚しい。
「私ね…お腹にあなたの子供がいるの…」
 私は彼女の言葉に正直に驚く。私が生きていた四ヶ月前にはそんなことは一言も聞いていなかった。
「それでね…子供が生まれるから禁煙して欲しいと思ってあなたにあんなことを言ったの…。でも結局あなたを怒らせただけだったけれど…」
 私は彼女の真意に気がつく。同時に言いようのない後悔が私を襲う。
「僕はそんなことに腹を立てて…。君の気持ちも分かってやらずに…」
「あの時は私も悪かった…。びっくりさせようと思ってあなたに黙ってたから…。あそこで私がちゃんと話してれば、あなたが出て行って交通事故に会う事もなったかもしれないのに…」
 妻はそういうと小さく泣き声をあげる。私は思い出した。私の死因は交通事故だったのだ。あの日家から出て行った私は交差点で信号無視の車に引かれてそのまま死んでしまったのだ。
「あれは僕が悪い…君が気にすることじゃないよ…」
 私は妻に声をかける。しかし私の声はもう彼女には届かない。それだけが本当に悔しく思う。
 時計を確認する。私がぐずぐずしている間にもう残り時間は数分となっている。おそらく妻に言える言葉は後少しだろう。私は呼吸を整える

「もう最後みたいだ…。君に出会えて本当に良かった。君と過ごした日々は本当に楽しかったし幸せだった」
 私は自分の姿が少しずつ消えていることに気がつく。もう時間切れ間近なのだろう。妻に伝えたかったことは伝えることが出来た。妻に背を向ける。これ以上彼女の顔を見ると心残りが出来てしまいそうだった。
「愛してる…って言っても君には伝わらないんだよな…」
 私の体は腰から下が完全に透けてしまっている。残り数秒。
「僕の言葉が君に伝われば…良かったのに…」
「伝わっているよ…」
 声は私の妻からだった。私は胸から上だけになった体で妻のほうを振り返る。妻は薄く涙を流しながら私を見ている。先ほどのような見間違えではない。その瞳は確かに僕の目を見ていた。
「私も…あなたを愛してる…」
 すでに彼女の姿は見えない。私の体が消えていっているのもあるが、原因は私が流した涙のほうが大きいだろう。
 私の言葉は伝わっていた。それだけで虚しさしかなかった私の心は別の感情でいっぱいになった。
 消える間際僕は彼女に一言だけ言葉を叫ぶ。それは私が公園で考えたどんな言葉そりも優れていると自分では思えた。

「僕も…君を愛してる…」


エピローグ
 私は天国に戻ってきた。仕事の数は減らしたが、相変わらず郵便局に勤務している。日常の変化はあまりない。
 最近行きつけの煙草屋新しい店員が増えていた。もともとは老婆が一人で経営していたが、老婆の夫もこちらに来てしまったらしい。それが公園で出会った老人だということはいうまでもない。彼はいえなかった言葉を妻に言うことが出来たのだろうか?

 職場の郵便局には住所不定便が大量に積まれている。最近では残った家族に手紙を書く死人が増えたらしい。働いている私としては迷惑な話ではあるが、アイディア自体は面白いと思う。



暇になったら妻に手紙を書こう
住所などなくても大丈夫
きっと…私の言葉は妻に届くのだから…



FIN

未定

最初に書いた話。今見ているとかなり恥ずかしい。

未定

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-02-04

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