邂逅


メンテナンス作業の最中に入り込んできた珍客は,ハサミを手にしたカニだった。元からあるはさみを器用に使って,ひと回り小さいものをチョキン,チョキンと動かしている。その姿をドーム型の入り口付近で見かけたので,一旦作業を中断し,高い位置から声をかける失礼を承知で,カニに声をかけた。「どうしました?何かご用ですか?」。声をかけられた側のカニは,しかし声の出どころにはすぐに気付かずに,平面の空間に向かってその目をぐるぐる,ぐるぐると動かした。上ですよ,上,と私が指示をしても「どこの上?」という感じで横に足を動かし,前へ進み,またぐるぐる。前へ進み,またぐるぐる。そのやり取りを数回繰り返し,やっとカニは私が見える位置までたどり着いたようで,ホッとひと安心したように,開きっぱなしだったハサミをチョキンと閉じた。その音は,近付いた分だけはっきりと聞こえた。サビひとつないことを簡潔明瞭に語っていた。私はそれに同意した。確かにそうだ。ここにあるものはどれも錆びてはいない。
カニの発する声も,ハサミに負けずによく届いた。私が理解できる言葉でもって,カニは私に「紙を持っていないか」ということを尋ねた。製図のためにノートを持ち込んでいた私は,「あるにはある」とカニに向かって答えた。中途半端なものになってしまったのは,カニがそのハサミで切るための紙を探していると思ったためであり,正確な枚数は数えていないが,残数が多くないノートを一枚でも切られると困ると思い,「無い」と言いたい躊躇いが表に現れたためであった。それを快く思わなかった私は,はっきりとカニに訊くことにした。
「切るのですか?そのハサミで。」
すると,カニはいやいや,と言い訳をするように元からあるハサミの両方を左右に振って,「違います,違います」と私に言い,それからこう続けた。
「書きたいんです。なので,すみません。書くものも,何か持っていませんか?」
製図のためにノートを持って来ていた私だから,もちろん書くものも持って来ていた。鉛筆に,赤の色鉛筆を一本ずつ。確かに,一枚足りともノートを無駄にしたくないと思っていた私だったが,切られるよりはマシという気持ちがあったのと,カニが書くものを見てみたいという好奇心が湧くのを感じた。だから私はカニに対して,「はい,持っていますよ」とすぐに答えた。ただ,私はその時,メンテナンスのために昇り,その一部蓋を開けて作業するために留まっていた位置から降りる訳にはいかなかったため,その旨をカニに伝え,申し訳ないが,もっと奥に行った所に置いてある,床の上のリュックの中から取り出してもらえないかとカニに言った。カニはチョキンとお礼を言い,すぐに横歩きを始めて私のリュックに向かって行った。高い所にいる分,余計に小さく見える歩みを数秒眺めて,カニが向かう先が正しくリュックに向かっているのを確認して,私は中断していた作業を再開した。蓋の中にある部品のうち,数個をそれぞれ取り出して分かったことは,原因は各々がワガママを言い,見せたいものを譲り合うことなく,投影した先に重なり合わせたためであることがハッキリとしていた。なので,私がすることはただ一つ,一つひとつの部品を手に取り,時間をかけて磨きながら話を聞き,二つ,三つと重ねていって,取り敢えずでも理解できる点を探すことである。だから私は,それをひとつずつ実行していった。時間はかかった。ドーム型の天井には出窓がないので正確な時間は計れなかったが,磨きながら目に入った腕時計の時刻は,確かに長針が一周回っていた。昼間は過ぎて,夜になっている。しかしながら,その分の努力は実りつつあった。手の中の数個の部品はお互いにコロコロしながら,映し出したいものを見つけつつあった。あと少し,と私が思い,もう少しだけ,と部品が私にお願いした。それに応じた私は,ここまでしてきたのと同じ様に,心を込めて一つひとつの部品を磨いた。明るいときから点灯し続けている光の下で,それぞれの部品は金属らしい反射を輝かせた。私の瞬きはおまけだった。
遂には作業が終了した。私は取り出した全ての部品を蓋の中に戻した。それから昇ってきた梯子を降りて行き,無事に着いた床の上で背伸びをし,首を回したところで,同じ床の上に持って来たハサミを置き,これまた器用に鉛筆を動かして,ノートを埋めているカニを思い出した。そうだった,すっかり忘れていた,と申し訳ない気持ちでいっぱいになった私は,小走りになってリュックの傍にいるカニの元へと向かった。途中,私はカニに声をかけてから,こう訊いた。
「すいません,作業に夢中になってしまって。どうですか。書けましたか?」
顔を上げるように,その目を私の方に向けたカニは私にこう言った。
「ええ,おかげでいま書き上がりました。いや,苦労しました。あなたも作業が終わったようですね。」
カニは鉛筆を持っていない方のハサミをチョキン,チョキンと動かしていた。私の背伸びと同じ動きに見えた。私はカニに答えた。
「ええ。おかげさまで。どうです,今から上手くいったか確認するので,一緒に見てみませんか?」
「是非とも。お願いします。」
私は所定の場所に行ってスイッチを入れた。それにより,ドーム型に天井で灯っていた明かりが全て消えた。本当の暗闇が辺りをしっかりと包んだ。それから大きく動く機械の音が主役を務め,なんの前触れもなく唐突に,ドーム型の天井の曲線に沿って,綺麗な構図の絵を映し出した。季節は各部品が話し合って選んだ。私もカニも,それをしっかりと認めた。羽を広げたような白鳥が我先にと飛んでいた。お見事です,とカニが私に言ってくれた。
続けてカニは,自身が書き上げた詩の一編を私に読んで欲しいと,ハサミで挟んだノートを私に差し出した。ついさっきよりは明るいとは言え,光量が足りないことを私がカニに伝えると,カニは「まあまあ」と言って引かないので,仕方なく私はカニからそのノートを受け取り,左右に開いて驚いた。カニの言う通り,この暗がりの中でも,その詩はきちんと読むことが出来た。蛍光ペンでも使っているかのようだった。もちろん,私の持参した筆記用具の中に蛍光ペンは入っていない。私は何故かとカニに尋ねた。カニは惚けて,ハサミを動かした。秘密は確かにそこで生まれた。私とカニはそれを見届けた。
最後に,私はカニに何座なのかを訊いてみた。さそり座であることが判明したところで,私とカニはクスクスと笑った。下手な冗談を聞かされたように,ノートが捲れて閉じていった。

邂逅

邂逅

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-04-05

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